保健屋稼業(TRIGUN)
ゴォフ……
巨人の欠伸に似た音を上げてタービンが回転する。
まだ空けやらぬ空に数度汽笛が鳴り響き、砂蒸気の出航を知らせた。
不規則な回転でゆっくりと回りだした車輪は徐々に滑らかに、砂の海を滑るように動き出す。
狭い二等客室の丸窓に切り取られたのは、そんな光景だった。
それも、僅かな視界で直ぐに砂埃の中に消え去る。
壁を埋める錆びた配管に凭れて、メリルは徐々に遠ざかるヴォルドールの街並を思い返していた。 雨音じみた絶え間ない銃声が消えた町の最後の夜、転々と灯った光は酷く暖かかった。
小さな手荷物一つを引き寄せて、メリルは溜息をつきながら目を瞑る。
視界が闇に閉ざされたと同時、後輩が彼女を呼ぶ声が響いた。
「先輩!仕事決まったっス!」
「……」
「先輩~!」
数秒ぎゅっと目を閉じてからメリルは目を開いた。
「メリル、ファイト!」
財布を全開にしたミリィとメリルが血の気の引いた顔を見合わせたのは、つい一日前のことである。
「足りない」
「足りませんわ」
チャリーン、と¢¢コインが小さな財布の中で揺れた。
合わせても$$札数枚とコイン数十枚。砂蒸気の2名分乗料にはとても足りるものではない。
二人の口から吐息とも喘ぎともつかない空気が洩れた。
「やっぱり昨日の夜食べ過ぎたのが…」
「数日前に買ったバッグ…」
「今年の春先服…」
心なしか、町を出たときより膨らんだ鞄。
後悔先に立たず、の格言が二人の胸に圧し掛かった。
「逢えばドーニカなると思ってましたからね…」
「誤算でしたわ…」
溜息を挟んで、メリルは顔を上げた。
太陽は中天。丁度良い具合に雲ひとつない晴れ上がった空だ。
「さ、行きましょうか」
「え?何処に」
「これだけ大きな砂蒸気ですもの、船長に頼めば何とかなりますわよ」
通りがかった船員を捕まえて船長の居所を聞きこみ、二人は足音も高く酒場に乗り込んだ。二人が―――すったもんだの末―――短期アルバイトとしての契約をもぎとったのはそれから一時間後の事である。
『かわりに、しっかり働いてもらうからな!』
こうして、現在二人の上で髭面を太い笑みに歪ませた船長の、ドスの効いた声が響いているわけなのである。多人数を収容する砂蒸気の内側は見かけとは裏腹にかなり狭い。
一等客室ならこんな事もないのだろうが、文無しの為贅沢も言っては居られない。より下層の三等客室等はベッドすらないのを考えれば待遇はかなりマシな物と言えた。
二人が連れて行かれたのは厨房だ。フォークと皿のぶつかる音や談笑の間を抜け、従業員用の扉を潜るとむわっとした熱気が二人を襲った。まさに戦場。動けばぶつかる程の隙間を縫って忙しく調理師が立ち動きウェイトレスが間断なく皿を取りに訪れる。料理の指示に混じり、時折叱責の声が飛び交う様に、二人は目を奪われた。
「う~わ~。さすがにこの規模になると違いますねえ」
「お前らはこっちだ」
「あ、はい」
出迎えたのは、山のような皿の塔だった。流しの横を埋め尽くす山には後から後から追加が重ねられていく。
絶望、の二文字がデカデカと二人の背後に並んだ。
「ちょっとコレハ……」
「大丈夫、先輩。湿布薬多めに持ってます」
「ここの売店ドリンク剤売ってたかしら」
「結構量はあるみたいですけど、やっぱり種類が……」
ボソボソ小声で呟きあう二人の足を大声が急かす。
「無駄口叩いてねえで、さっさと働きな!放り出すぞ」
「ハイ!(×2)」
「それが終わったら次は売店だ。しっかり売って来い」
荒っぽい足音と共に出て行く船長の背中を暫く眺め、
「は~い……」
ポツーン、と小さな返事が響いた。
早速盥に溜め込まれた水の中で皿を洗いはじめると、直ぐに汗が滲んでくる。
予想以上に重労働だ。
「こき…使われてますね、私達……」
「言わないで、ミリィ」
虚しく返答しながら、メリルは皿洗いに一層力を込めた。
昼時を過ぎると、人はまばらになり二人は売店へと回された。
同じ場所に移動させてくれたのは、船長なりの厚意かもしれない。
「肩イターイ」
「アタタ……足がむくんで…」
言いながら、立ち去っていく客の姿に二人は視線を移した。
今の客が買ったのは牛乳1パックとほしぶどう1パック。船の中で少しつまむには最適の量だ。
それに比べて―――
「……本当に妙な話ですよね」
「何が?」
「ヴァッシュさんの事です。あんなに買うなんて変だと思いませんか」
眉間に皺を寄せて、ミリィは呟いた。
メリルも、先ほど店先に現れた男の事を思い出す。
出逢った当初から不思議な人だとは思ったが、更に謎が増えたような気分だ。
「ベーコンレタストマトドッグ3、牛乳2、プレッツェル4、ほしぶどう1……」
繰り返しながらメリルは改めてその多さに首を傾げた。
「……実はもの凄く大喰らい?」
「ソレ違イマス!」
さりげなく突っ込んで、ミリィは思いついたように手を打った。
「あ、もしかして…!」
「もしかして?」
「―――動物飼ってるのかもしれませんよ!!」
一瞬、メリルの頭の中で黒猫様がニャ~ンと鳴いた。
「まさか」
馬鹿な想像を追い払うように首を振り、メリルは言を重ねた。
「そんな人が在れば調査の間に気がついてますわ」
「あ、そうですね……じゃあ―――隠し子トカ!」
「子!」
雷のような衝撃がメリルを貫いた。
そういえばあのバッグは大きすぎる。
しかし、長旅をするなら物はあってもあっても兎角困るのも現実。
「う~ん…」
「絶対ソウっすよ!間違いありませんね」
「そうかしら」
「そうですよ、これで決まりですね!」
ふうっ、と肩の力を抜いてメリルは腕を揉み解した。
「それにして……も」
二人は同時に溜息をついた。
「……結構大変な旅になりそうですね」
「……結構大変な旅になりそうですわ」
いつのまにか、重い振動に身を震わせる砂蒸気の丸窓から見える小さな空は石炭を落としたような色合いになっていた。廊下の壁を支えに憔悴した面持ちで部屋の扉を空けた二人は、備え付けの狭い寝台にもぐりこむや否や夢の世界へ旅立った。
―――熟睡していた二人の耳に爆音が響いたのは、僅かその五分後の事である。
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いつからだろう。
なんのてらいもなく、ミリィがウルフウッドさんと同じ部屋に泊まるようになったのは。
必然的に私とヴァッシュさんは一人部屋を取る事になり、4人で3部屋という不経済極まりない状況に置かれることになった。
「……とうとう来ましたわね」
本社のロゴが入った事務用封筒の封を切り、その連絡内容を見た私は、宿の質素な一人部屋のデスクに腰掛けたままひとしきり頭を抱えた後で、気の重いため息を吐いた。
自室を出て、ミリィとウルフウッドさんが陣取っている隣室のドアの前に立つ。夕方特有のの斜めの日差しが、廊下の窓から容赦なく入ってきて、私の背中に照りつける。幾分かの躊躇いが反映したためだろう控えめなノックに、のっそりとドアを開けたのはウルフウッドさんだった。
「おう、どうしたん嬢ちゃん?」
ノージャケット姿のウルフウッドさんはとてもくつろいでいる様に見える。そんな単純な事に戸惑いと違和感を覚え、同時に心のどこかにチクリと刺すような痛みを感じた。その痛みの正体が分からなくて、なんとなく不安になる。
「ミリィに用があるんですけれど……それと貴方にも。お邪魔してもよろしいかしら」
背の高いウルフウッドさんと視線を合わせるのは結構辛い。それに、これから話さなければいけない内容の気まずさも、彼の目を見る事への一握の罪悪感を抱かせる。そんな私の表情を読んだのか、ウルフウッドさんの瞳の色が少しだけ翳るのが分かった。
「エエ話やなさそうやな。……まあ入り」
ドアを大きく開け放し私を招き入れる。新婚家庭の寝室に踏み込むような躊躇いがあったが、意を決して最初の一歩を進める。
「あれ、先輩。どうしたんですか?」
コートもネクタイも取り去ったミリィが私を出迎えた。あっけらかんとした笑顔もシャツの襟元のボタンを外したリラックスした姿も、普段から見慣れているはずなのに、どうしていつもと違うように見えるのだろう。そのリラックスした姿を、私以外の誰かに―あからさまに言ってしまえばウルフウッドさんに―見せている事に気付いてしまっただけで、何故か鼓動が早くなる。ノージャケットのウルフウッドさんの姿を見たときに感じた胸の痛み。不安で、悲しくて、苛立たしい胸の痛みがまた襲ってくる感じ。そんな思いに捕らわれる理由が自分自身で分からないから、余計に不安が募る。
そんな不安に負けたくなくて、少し強めの声でミリィに話しかけた。
「つい先ほど、部長から警告の手紙が来ましたわよ、ミリィ」
「部長から?」
「宿の部屋の取り方についてのお小言ですわ」
視界の隅でウルフウッドさんがびくりと肩を震わせたのがぼんやりと見えた。
「やむを得ない場合を除いては二人部屋を取るようにしろとの警告が、経費の報告をチェックした監査部の方から回ってきたそうです」
「えー!?いいじゃないですか、これくらいー!」
余計なお世話だと、私自身も思うけれど。アウターを駆け回っている社員に対して、それくらいの贅沢は見逃してくれてもいいじゃありませんの……と文句の一つも言いたくなるけれど。
「明日からはまた以前のように私と二人で寝起きしてもらいますわよ」
「……分かりました」
絶対に分かっていない。納得なんて出来ないだろう、自分に素直な子だから。それでも頷いたのは、社会人としての良識が働いたから。私はあなたの先輩ですわよ、そんな事くらいこの言葉を口にする前から分かってましたわ。
でも。
そんな寂しそうな目をしないで下さいな。まるで私が恋路の邪魔をしている張本人みたいじゃないですの。悪いのは監査部ですわよ、間違えないで下さい。
「しゃあないやろハニー。自分はお仕事で来てるんやから、会社の言うことはキチンと聞き」
ウルフウッドさんがミリィを宥める。その背中にはやっぱり『落胆』の2文字が見えているけれど、私もウルフウッドさん自身も、その事に気付かない振りをした。
寄り添うでもなくただ並んで立っている2人の間に流れる空気が、私にはとても羨ましく見えた。
「今日の分はもう前払いで部屋を取ってしまいましたから、取り敢えず今夜はこのままで構いませんわ」
しかたないという風を装ってかける言葉。本当はすぐにでも部屋を変えることは出来るのだけれど、これは私に出来る精一杯の譲歩。ぱっと輝いたミリィの笑顔と、振り返ったウルフウッドさんの怪しげなウインクを見た私は、心の中で十字を切って密かな覚悟を決めた。
きっと今夜は、より一層の安眠妨害をされることだろう……と。
やっぱりあの譲歩では不服だったようですわね。夕食時のミリィのしょんぼりとしたフォーク運びがそれを如実に物語っていましたわ。
「どしたの、大きい保険屋さん?元気ないね」
不作法にも、カレーライスを口に運んだスプーンを加えたまま、ヴァッシュさんがミリィに声をかけた。
「へ?あ、いいえ、なんでもないんです」
「なんでもないって……フォークでスープを飲もうとしている人が言う台詞じゃないよね、それ」
ぼんやりしてスープボールをフォークでかき回していたミリィは、ヴァッシュさんに指を指された自分の手元を見つめて、それから慌ててフォークとスプーンを持ち替えた。でも流石に自分の口からは言い出しにくいのだろう。『ウルフウッドさんと別の部屋に移らなくてはいけないから落ち込んでいるんです』なんて。
その胸の内を汲んだウルフウッドさんが、自然な感じで口を開いた。
「そや、トンガリ。明日からまたオンドレと相部屋させてもらうわ。部屋はワイが取っとくから」
ヴァッシュさんは、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしてウルフウッドさんを穴が開くほど見つめた。それからミリィに視線を移し、また同じようにじーっとミリィの沈んだ表情を見つめる。そんな行動を、律儀にも2度繰り返した。
「……ふうん、分かった」
あら、妙にあっさりとOKしましたこと。……きっと妙な勘違いして納得してますわね、ヴァッシュさん。ミリィとウルフウッドさんが喧嘩でもしたか何かと思っているに違いありませんわ。
「会社からの命令で、経費削減の為にまた私とミリィが一緒の部屋に泊まらなくてはいけなくなってしまったんですの」
なんで私が説明していますの?どうして私が罪悪感を感じているんですの?なんだか理不尽ですわ。チキンソテーを切り分けるナイフに、我知らず力がこもった。
「なんで嬢ちゃんが不機嫌になってんの?」
ウルフウッドさんが不思議そうに私に尋ねる。
「私が?私は別に不機嫌になんかなっていませんわ!」
いけない、思わず語尾が強くなってしまった。これでは『自分は不機嫌です』と認めているようなものだ。しかたがない、事実不機嫌なのだから。
その原因はわからなくとも。
気まずくなった雰囲気から逃げ出すように、ウルフウッドさんが黒ビールを口に運ぶ。ミリィはおろおろとウルフウッドさんと私の間で顔を往復させた。
「……だっていい気持ちはしませんわよ、二人の仲を裂くなんて無粋なことをしなければいけないんですから。あ、断っておきますが、私は嫁入り前の娘が男性と同室するという状況に諸手をあげて賛成している訳ではありませんわよ。その点は間違えないで下さいませね」
だから、どうして私が弁解していますの?私が二人の仲に割って入った訳でありませんのに。
「なるほど。それはしかたないよねぇ」
ヴァッシュさんは私の顔を見つめて、主語のはっきりしない相づちを漏らした。それからウルフウッドさんに向かってそっと耳打ちした。何を言ったのかは全く聞き取れなかったけれど。多分、先ほどの私と同じ様な事を考えたに違いないでしょう。だって、それを聞いたウルフウッドさんがぴくりと眉を上げて、『余計なお世話や、お節介男』と忌々しそうに呟いたのだから。
なんのてらいもなく、ミリィがウルフウッドさんと同じ部屋に泊まるようになったのは。
必然的に私とヴァッシュさんは一人部屋を取る事になり、4人で3部屋という不経済極まりない状況に置かれることになった。
「……とうとう来ましたわね」
本社のロゴが入った事務用封筒の封を切り、その連絡内容を見た私は、宿の質素な一人部屋のデスクに腰掛けたままひとしきり頭を抱えた後で、気の重いため息を吐いた。
自室を出て、ミリィとウルフウッドさんが陣取っている隣室のドアの前に立つ。夕方特有のの斜めの日差しが、廊下の窓から容赦なく入ってきて、私の背中に照りつける。幾分かの躊躇いが反映したためだろう控えめなノックに、のっそりとドアを開けたのはウルフウッドさんだった。
「おう、どうしたん嬢ちゃん?」
ノージャケット姿のウルフウッドさんはとてもくつろいでいる様に見える。そんな単純な事に戸惑いと違和感を覚え、同時に心のどこかにチクリと刺すような痛みを感じた。その痛みの正体が分からなくて、なんとなく不安になる。
「ミリィに用があるんですけれど……それと貴方にも。お邪魔してもよろしいかしら」
背の高いウルフウッドさんと視線を合わせるのは結構辛い。それに、これから話さなければいけない内容の気まずさも、彼の目を見る事への一握の罪悪感を抱かせる。そんな私の表情を読んだのか、ウルフウッドさんの瞳の色が少しだけ翳るのが分かった。
「エエ話やなさそうやな。……まあ入り」
ドアを大きく開け放し私を招き入れる。新婚家庭の寝室に踏み込むような躊躇いがあったが、意を決して最初の一歩を進める。
「あれ、先輩。どうしたんですか?」
コートもネクタイも取り去ったミリィが私を出迎えた。あっけらかんとした笑顔もシャツの襟元のボタンを外したリラックスした姿も、普段から見慣れているはずなのに、どうしていつもと違うように見えるのだろう。そのリラックスした姿を、私以外の誰かに―あからさまに言ってしまえばウルフウッドさんに―見せている事に気付いてしまっただけで、何故か鼓動が早くなる。ノージャケットのウルフウッドさんの姿を見たときに感じた胸の痛み。不安で、悲しくて、苛立たしい胸の痛みがまた襲ってくる感じ。そんな思いに捕らわれる理由が自分自身で分からないから、余計に不安が募る。
そんな不安に負けたくなくて、少し強めの声でミリィに話しかけた。
「つい先ほど、部長から警告の手紙が来ましたわよ、ミリィ」
「部長から?」
「宿の部屋の取り方についてのお小言ですわ」
視界の隅でウルフウッドさんがびくりと肩を震わせたのがぼんやりと見えた。
「やむを得ない場合を除いては二人部屋を取るようにしろとの警告が、経費の報告をチェックした監査部の方から回ってきたそうです」
「えー!?いいじゃないですか、これくらいー!」
余計なお世話だと、私自身も思うけれど。アウターを駆け回っている社員に対して、それくらいの贅沢は見逃してくれてもいいじゃありませんの……と文句の一つも言いたくなるけれど。
「明日からはまた以前のように私と二人で寝起きしてもらいますわよ」
「……分かりました」
絶対に分かっていない。納得なんて出来ないだろう、自分に素直な子だから。それでも頷いたのは、社会人としての良識が働いたから。私はあなたの先輩ですわよ、そんな事くらいこの言葉を口にする前から分かってましたわ。
でも。
そんな寂しそうな目をしないで下さいな。まるで私が恋路の邪魔をしている張本人みたいじゃないですの。悪いのは監査部ですわよ、間違えないで下さい。
「しゃあないやろハニー。自分はお仕事で来てるんやから、会社の言うことはキチンと聞き」
ウルフウッドさんがミリィを宥める。その背中にはやっぱり『落胆』の2文字が見えているけれど、私もウルフウッドさん自身も、その事に気付かない振りをした。
寄り添うでもなくただ並んで立っている2人の間に流れる空気が、私にはとても羨ましく見えた。
「今日の分はもう前払いで部屋を取ってしまいましたから、取り敢えず今夜はこのままで構いませんわ」
しかたないという風を装ってかける言葉。本当はすぐにでも部屋を変えることは出来るのだけれど、これは私に出来る精一杯の譲歩。ぱっと輝いたミリィの笑顔と、振り返ったウルフウッドさんの怪しげなウインクを見た私は、心の中で十字を切って密かな覚悟を決めた。
きっと今夜は、より一層の安眠妨害をされることだろう……と。
やっぱりあの譲歩では不服だったようですわね。夕食時のミリィのしょんぼりとしたフォーク運びがそれを如実に物語っていましたわ。
「どしたの、大きい保険屋さん?元気ないね」
不作法にも、カレーライスを口に運んだスプーンを加えたまま、ヴァッシュさんがミリィに声をかけた。
「へ?あ、いいえ、なんでもないんです」
「なんでもないって……フォークでスープを飲もうとしている人が言う台詞じゃないよね、それ」
ぼんやりしてスープボールをフォークでかき回していたミリィは、ヴァッシュさんに指を指された自分の手元を見つめて、それから慌ててフォークとスプーンを持ち替えた。でも流石に自分の口からは言い出しにくいのだろう。『ウルフウッドさんと別の部屋に移らなくてはいけないから落ち込んでいるんです』なんて。
その胸の内を汲んだウルフウッドさんが、自然な感じで口を開いた。
「そや、トンガリ。明日からまたオンドレと相部屋させてもらうわ。部屋はワイが取っとくから」
ヴァッシュさんは、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしてウルフウッドさんを穴が開くほど見つめた。それからミリィに視線を移し、また同じようにじーっとミリィの沈んだ表情を見つめる。そんな行動を、律儀にも2度繰り返した。
「……ふうん、分かった」
あら、妙にあっさりとOKしましたこと。……きっと妙な勘違いして納得してますわね、ヴァッシュさん。ミリィとウルフウッドさんが喧嘩でもしたか何かと思っているに違いありませんわ。
「会社からの命令で、経費削減の為にまた私とミリィが一緒の部屋に泊まらなくてはいけなくなってしまったんですの」
なんで私が説明していますの?どうして私が罪悪感を感じているんですの?なんだか理不尽ですわ。チキンソテーを切り分けるナイフに、我知らず力がこもった。
「なんで嬢ちゃんが不機嫌になってんの?」
ウルフウッドさんが不思議そうに私に尋ねる。
「私が?私は別に不機嫌になんかなっていませんわ!」
いけない、思わず語尾が強くなってしまった。これでは『自分は不機嫌です』と認めているようなものだ。しかたがない、事実不機嫌なのだから。
その原因はわからなくとも。
気まずくなった雰囲気から逃げ出すように、ウルフウッドさんが黒ビールを口に運ぶ。ミリィはおろおろとウルフウッドさんと私の間で顔を往復させた。
「……だっていい気持ちはしませんわよ、二人の仲を裂くなんて無粋なことをしなければいけないんですから。あ、断っておきますが、私は嫁入り前の娘が男性と同室するという状況に諸手をあげて賛成している訳ではありませんわよ。その点は間違えないで下さいませね」
だから、どうして私が弁解していますの?私が二人の仲に割って入った訳でありませんのに。
「なるほど。それはしかたないよねぇ」
ヴァッシュさんは私の顔を見つめて、主語のはっきりしない相づちを漏らした。それからウルフウッドさんに向かってそっと耳打ちした。何を言ったのかは全く聞き取れなかったけれど。多分、先ほどの私と同じ様な事を考えたに違いないでしょう。だって、それを聞いたウルフウッドさんがぴくりと眉を上げて、『余計なお世話や、お節介男』と忌々しそうに呟いたのだから。
手をつなごう。
口づけを交わそう。
互いに腕を伸ばし、飽きることなく抱き合おう。
僕がさらけ出すことも出来ずにいる傷を、君は知っている。
知っているのに、決して触れようとはしない。
けれど、僕には分かる。
これから先も君は無理に傷を癒そうとはしないだろう。
そうすることで更に傷が深くなることを知っているから。
だから君は、これ以上傷が広がらないように、優しく穏やかに僕を包むだけ。
消えない傷がある……と言うことを、言葉ではない直感で気付いている。
その無惨な傷を隠していることまでも含めて、僕の全てを愛してくれている。
僕だって分かっている。
いつまでもこの暖かさに酔うわけにはいかないことぐらい。
今までにしてきたこと。
これからやらなければいけないこと。
決して忘れる訳にはいかない。
でも。
この一時だけは。
君を僕の腕の中に感じていたい。
君の胸に額を預けさせて欲しい。
誰にと言うわけではないけれど、誰かにそう許しを乞うてしまう僕がいる。
黄砂の吹き荒れる窓の外に目をやれば、そこに古ぼけた黄金の月がかすかに光る。
そしてふと僕は我に返る。
今、あそこに見える月は紛い物だ。
あれは美しい黄金に輝く月などではない。
荒れ狂う黄色い砂の紗幕が、不吉な伝説の穿たれた赤い月の色を変えているだけだ。
許されるはずがない。永遠に。
でも祈らずにはいられない。たとえ聞き届けられなくとも。
どうか一瞬でも長く。
この穏やかな空気に包まれていられるように。
僕が二度と純粋を手に入れられなくても。
口づけを交わそう。
互いに腕を伸ばし、飽きることなく抱き合おう。
僕がさらけ出すことも出来ずにいる傷を、君は知っている。
知っているのに、決して触れようとはしない。
けれど、僕には分かる。
これから先も君は無理に傷を癒そうとはしないだろう。
そうすることで更に傷が深くなることを知っているから。
だから君は、これ以上傷が広がらないように、優しく穏やかに僕を包むだけ。
消えない傷がある……と言うことを、言葉ではない直感で気付いている。
その無惨な傷を隠していることまでも含めて、僕の全てを愛してくれている。
僕だって分かっている。
いつまでもこの暖かさに酔うわけにはいかないことぐらい。
今までにしてきたこと。
これからやらなければいけないこと。
決して忘れる訳にはいかない。
でも。
この一時だけは。
君を僕の腕の中に感じていたい。
君の胸に額を預けさせて欲しい。
誰にと言うわけではないけれど、誰かにそう許しを乞うてしまう僕がいる。
黄砂の吹き荒れる窓の外に目をやれば、そこに古ぼけた黄金の月がかすかに光る。
そしてふと僕は我に返る。
今、あそこに見える月は紛い物だ。
あれは美しい黄金に輝く月などではない。
荒れ狂う黄色い砂の紗幕が、不吉な伝説の穿たれた赤い月の色を変えているだけだ。
許されるはずがない。永遠に。
でも祈らずにはいられない。たとえ聞き届けられなくとも。
どうか一瞬でも長く。
この穏やかな空気に包まれていられるように。
僕が二度と純粋を手に入れられなくても。