難しい顔をして、彼はパソコンの画面を睨み付けていた。
私は遅めの朝食を用意しながら、掃除をする。
部屋にはどこかで聴いた曲が流れていた。
私には彼が今している仕事の細かい内容はわからない。
けれど彼は彼女に私を「相棒」だと告げた。
人間には適材適所というものが在るのだという。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
最後にみんなで飲んだあの日、彼は新しく仕事を始めようと思うと言った。
本当のところ私はほんの少しだけ複雑な心境だったけれど、これから忙しくなると彼がこれまでにない表情をするのは素直に嬉しかった。
これからやっと、何にも縛られずに新しくやっていく気になったということなのだから。
私達4人は笑顔で祝杯を挙げた。
酔い潰れたマーヤは始末に負えない。
普段の更に3割増しで陽気に騒いだかと思えば、突然糸が切れた様にどこででも眠り込んでしまうのだ。
周防さんも強いわけではないようで、マーヤの無茶なペースに付き合わされた挙句仲良くふたり、肩を寄せ合って寝息を立てている。
私は酔うこともなく、黙って盃を重ねた。
隣には彼がいる。
同じ灰皿を使うほど、こんなにも近い位置にいるのは初めてかもしれない。
そんなささやかなことが私に幸せをくれる。
今感じているこの気持ちは、多分正しく伝えられはしないだろうけれど。
気詰まりでない沈黙はどれだけ続いたのか、ふと彼が口を開いた。
「…お前はこの先どうすんだ?」
「会社…はもうクビかなぁ。大分休んじゃったしね」
「そうか…」
取材名目で外に出られていたマーヤ、謹慎中だった周防さん、学生の達哉くん、自由業の彼。
普通に勤めていた私には生活に支障が有ったけれど、後悔していなかった。
もともと明確な目的もなく就いた仕事だ。
それなりにきたけれど、もう充分に自分はやり遂げたと思う。
「次は自分のホントにしたいことしよっかなってね」
「もう、決めたのか?」
「なにするか、とかはまだわかんないけど、さ」
何杯目になるか判らないグラスを一息に空けて隣に笑いかける。
と、彼は思いのほか真剣な顔をしていた。
「な…なによぅ」
空気に気圧される。
彼は前を向いていた。
きっと、会話をしている間中ずっと、私のことなど見ずに。
なんだか感傷的な気分になった。
言葉を探そうとして、止める。
俯きかけて、代わりに彼と同じ方向を見つめた。
届かなくても解らなくても、届きたいし解りたいと思う。
彼の目に、私が映っていなくても。
それから閉店時間になるまでなんとなく言葉を交わさずに、私達はその場を後にした。
「ほらマーヤ起きて!…悪いけどパオ、周防さん頼むね」
「仕方ねぇな…こんなんで刑事が勤まんのかぁ?」
文句を言いながらも完全に潰れてしまった周防さんに肩を貸して、後ろ手を振り彼はそのまま去って行こうとする。
「あ…ちょっとぉ!」
気付くと呼び止めていた。
2、3歩進んだところで怪訝そうに彼が振り返る。
なんでもないとは流せずに、口を開いた。
「あのさ、…また、会えるよね…?」
もう日々を共にする理由はない。
側にいたいのは自分の我が侭で。
これまで、幸せになることばかり考えてきた。
相手がどんな人間だからかじゃなくて、外見や収入やステータスに恋をしていた。
今抱えているこの気持ちがなんなのかはっきりとは言葉にできないけれど、誰より彼を大切に想う。
彼の与えてくれる物はなんでも大事だし、彼がなにか望むならば喜んで叶えたい。
私がなにを感じるかより彼の意思を尊重したいと、そう思う。
「ヒマになったらさ、またみんなして遊ぼうよ?」
邪魔はしたくないから、がんばって笑う。
「芹沢…?」
不意になぜか、彼が近づいた。
「なに?」
「お前、…目から水垂れてるぜ」
頬に触れる手に、覚えず落としていた滴を知らされる。
街灯をサングラスが反射して、彼の表情は見えない。
「きっと、酔ってるからよ」
「…そう、かもな」
気を抜いたら縋ってしまいそうな身体を、必死に心で押し留める。
「そうよ。…アンタ、私に触んの初めてね」
どうやっても止められない涙を拭って、そっと掌を外した。
今度こそ本当に離れる時間だと、自分に言い聞かせる。
側を通る車のクラクションを合図に背を向けた。
彼のしたように後ろ手を揺らして、半分眠ってしまっているマーヤを引っ張りながらゆっくりと離れる。
見送る視線をなんとなく感じたけれど、振り返らなかった。
家に帰り着いたのは明け方になってからだった。
大通りでなんとか拾った車に乗った途端起きだしたマーヤが気分が悪いと騒ぎ出し、歩いて帰る羽目になったのだ。
都合が、よかったかもしれない。
引っ張るためにつないだマーヤの手は温かくて、自分はひとりじゃないと思わせてくれた。
夜の冷気にだんだんと酔いが覚めて、それとともに涙も少しずつ収まっていった。
なんとかマーヤをベッドに運んで軽くシャワーを浴びた頃には気持ちの整理も付き始めていた。
結局私は好きなのだ。
他の誰でもなく、彼のことが。
「馬鹿ねぇ、うらら…」
呟いて、自分の部屋のベッドで膝を抱える。
ふと視界に入ったカレンダーの書き込みに、そういえば明日はまたお見合いパーティだったと思い出した。
あんな事件に巻き込まれて、彼に出会って。
たった2週間ほどしか経っていないのに、なにもかもが変わった。
先払いした料金のことを思うと癪に障るけれど、予約したパーティももう行く気がしない。
自分にはもう、必要のない物だから。
いろいろ考え出すとまた意思とは関係なく涙腺が緩んでしまいそうで、とりあえず毛布をかぶった。
目を閉じて、暗闇に身体を委ねる。
―――――と、携帯が鳴り始めた。
せっかく、眠ろうとしていたのに。
頭に来て、誰からかも確認せずに留守録に切りかえる。
一拍置いて、赤い光が小さく明滅した。
どうやらちゃんとメッセージを吹き込んでいるらしい。
悪戯電話の類ではないようで、録音されているまま電話に耳をつけた。
『…もし、良けりゃだがな』
電話越しに声を聴くのは初めてで、瞬間、判らなかった。
さっき、別れたばかりの声。
『やりたい事が見つかるまでの間…手伝いに来られるなら来い』
偉そうで、飾り気も素っ気もない口調。
でも本当は誰より優しい事を、知っていた。
こんな、風に。
急に目の前で泣き出した私を見かねて、かもしれない。
私の気持ちに、気付いているからかもしれない。
同情でも構わない。
出る間もなくきっちり30秒で切れた録音を何度も何度も聴き返しながら、私は声を上げて泣いた。
ひとしきり身体中の水分を搾り出した後最初にしたのは服を選ぶことだった。
新しい仕事の雇い主である彼に、会いに行くための。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「パオ、ご飯!」
強く言わないとパソコンの前から離れようとしない彼は、仕事熱心というよりゲームに集中する子供のようだ。
「…なに、笑ってんだ?」
「なんでも~」
「……阿呆」
憮然とした顔が更におかしい。
笑い続けていると、彼は先にテーブルへ行ってしまった。
あれから、一月が経つ。
仕事も少しずつ軌道にのってきて、毎日が充実していた。
危なっかしいという理由で大したことはさせてもらえていないけれど、「相棒」としてはいつか目にモノ見せてやろうと考えていたりもする。
そしてひとつ、解った事がある。
「ねぇパオ、あの日ホントは最初っから、アタシのことスカウトする気だったんでしょ?」
炊き立てのご飯を手渡しながら言うと彼は一瞬詰まって、けれどいつも通りシニカルな笑みを浮かべた。
「んなわけあるかい。どっかのガキがぴゃあぴゃあうるせぇから拾ってやったんだよ」
「…ったく素直じゃないんだから」
負けずに言い返す。
しばらく戯れに睨み合って、同時に笑い出した。
人間には適材適所というものが在るのだという。
本当の居場所や成すべき事はまだ判らなくて、それでも祈っていることがある。
どうか私にとって彼の側が本当の居場所で、彼と共に過ごすことが私の成すべき事でありますように。
「今日って仕事早く終わりそう?」
「多分、な」
「そしたらさ、久しぶりにみんなで飲みに行こうよ」
「…阿呆が酔っ払って絡まなきゃなぁ?」
「またそんなこと言う!」
今、自分があの日言った「本当にやりたいこと」をできていると思えるから、どうかこのなによりも幸せななんでもない日常が、永遠に続きますように。
祈りは通じると私は、信じる。
私は遅めの朝食を用意しながら、掃除をする。
部屋にはどこかで聴いた曲が流れていた。
私には彼が今している仕事の細かい内容はわからない。
けれど彼は彼女に私を「相棒」だと告げた。
人間には適材適所というものが在るのだという。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
最後にみんなで飲んだあの日、彼は新しく仕事を始めようと思うと言った。
本当のところ私はほんの少しだけ複雑な心境だったけれど、これから忙しくなると彼がこれまでにない表情をするのは素直に嬉しかった。
これからやっと、何にも縛られずに新しくやっていく気になったということなのだから。
私達4人は笑顔で祝杯を挙げた。
酔い潰れたマーヤは始末に負えない。
普段の更に3割増しで陽気に騒いだかと思えば、突然糸が切れた様にどこででも眠り込んでしまうのだ。
周防さんも強いわけではないようで、マーヤの無茶なペースに付き合わされた挙句仲良くふたり、肩を寄せ合って寝息を立てている。
私は酔うこともなく、黙って盃を重ねた。
隣には彼がいる。
同じ灰皿を使うほど、こんなにも近い位置にいるのは初めてかもしれない。
そんなささやかなことが私に幸せをくれる。
今感じているこの気持ちは、多分正しく伝えられはしないだろうけれど。
気詰まりでない沈黙はどれだけ続いたのか、ふと彼が口を開いた。
「…お前はこの先どうすんだ?」
「会社…はもうクビかなぁ。大分休んじゃったしね」
「そうか…」
取材名目で外に出られていたマーヤ、謹慎中だった周防さん、学生の達哉くん、自由業の彼。
普通に勤めていた私には生活に支障が有ったけれど、後悔していなかった。
もともと明確な目的もなく就いた仕事だ。
それなりにきたけれど、もう充分に自分はやり遂げたと思う。
「次は自分のホントにしたいことしよっかなってね」
「もう、決めたのか?」
「なにするか、とかはまだわかんないけど、さ」
何杯目になるか判らないグラスを一息に空けて隣に笑いかける。
と、彼は思いのほか真剣な顔をしていた。
「な…なによぅ」
空気に気圧される。
彼は前を向いていた。
きっと、会話をしている間中ずっと、私のことなど見ずに。
なんだか感傷的な気分になった。
言葉を探そうとして、止める。
俯きかけて、代わりに彼と同じ方向を見つめた。
届かなくても解らなくても、届きたいし解りたいと思う。
彼の目に、私が映っていなくても。
それから閉店時間になるまでなんとなく言葉を交わさずに、私達はその場を後にした。
「ほらマーヤ起きて!…悪いけどパオ、周防さん頼むね」
「仕方ねぇな…こんなんで刑事が勤まんのかぁ?」
文句を言いながらも完全に潰れてしまった周防さんに肩を貸して、後ろ手を振り彼はそのまま去って行こうとする。
「あ…ちょっとぉ!」
気付くと呼び止めていた。
2、3歩進んだところで怪訝そうに彼が振り返る。
なんでもないとは流せずに、口を開いた。
「あのさ、…また、会えるよね…?」
もう日々を共にする理由はない。
側にいたいのは自分の我が侭で。
これまで、幸せになることばかり考えてきた。
相手がどんな人間だからかじゃなくて、外見や収入やステータスに恋をしていた。
今抱えているこの気持ちがなんなのかはっきりとは言葉にできないけれど、誰より彼を大切に想う。
彼の与えてくれる物はなんでも大事だし、彼がなにか望むならば喜んで叶えたい。
私がなにを感じるかより彼の意思を尊重したいと、そう思う。
「ヒマになったらさ、またみんなして遊ぼうよ?」
邪魔はしたくないから、がんばって笑う。
「芹沢…?」
不意になぜか、彼が近づいた。
「なに?」
「お前、…目から水垂れてるぜ」
頬に触れる手に、覚えず落としていた滴を知らされる。
街灯をサングラスが反射して、彼の表情は見えない。
「きっと、酔ってるからよ」
「…そう、かもな」
気を抜いたら縋ってしまいそうな身体を、必死に心で押し留める。
「そうよ。…アンタ、私に触んの初めてね」
どうやっても止められない涙を拭って、そっと掌を外した。
今度こそ本当に離れる時間だと、自分に言い聞かせる。
側を通る車のクラクションを合図に背を向けた。
彼のしたように後ろ手を揺らして、半分眠ってしまっているマーヤを引っ張りながらゆっくりと離れる。
見送る視線をなんとなく感じたけれど、振り返らなかった。
家に帰り着いたのは明け方になってからだった。
大通りでなんとか拾った車に乗った途端起きだしたマーヤが気分が悪いと騒ぎ出し、歩いて帰る羽目になったのだ。
都合が、よかったかもしれない。
引っ張るためにつないだマーヤの手は温かくて、自分はひとりじゃないと思わせてくれた。
夜の冷気にだんだんと酔いが覚めて、それとともに涙も少しずつ収まっていった。
なんとかマーヤをベッドに運んで軽くシャワーを浴びた頃には気持ちの整理も付き始めていた。
結局私は好きなのだ。
他の誰でもなく、彼のことが。
「馬鹿ねぇ、うらら…」
呟いて、自分の部屋のベッドで膝を抱える。
ふと視界に入ったカレンダーの書き込みに、そういえば明日はまたお見合いパーティだったと思い出した。
あんな事件に巻き込まれて、彼に出会って。
たった2週間ほどしか経っていないのに、なにもかもが変わった。
先払いした料金のことを思うと癪に障るけれど、予約したパーティももう行く気がしない。
自分にはもう、必要のない物だから。
いろいろ考え出すとまた意思とは関係なく涙腺が緩んでしまいそうで、とりあえず毛布をかぶった。
目を閉じて、暗闇に身体を委ねる。
―――――と、携帯が鳴り始めた。
せっかく、眠ろうとしていたのに。
頭に来て、誰からかも確認せずに留守録に切りかえる。
一拍置いて、赤い光が小さく明滅した。
どうやらちゃんとメッセージを吹き込んでいるらしい。
悪戯電話の類ではないようで、録音されているまま電話に耳をつけた。
『…もし、良けりゃだがな』
電話越しに声を聴くのは初めてで、瞬間、判らなかった。
さっき、別れたばかりの声。
『やりたい事が見つかるまでの間…手伝いに来られるなら来い』
偉そうで、飾り気も素っ気もない口調。
でも本当は誰より優しい事を、知っていた。
こんな、風に。
急に目の前で泣き出した私を見かねて、かもしれない。
私の気持ちに、気付いているからかもしれない。
同情でも構わない。
出る間もなくきっちり30秒で切れた録音を何度も何度も聴き返しながら、私は声を上げて泣いた。
ひとしきり身体中の水分を搾り出した後最初にしたのは服を選ぶことだった。
新しい仕事の雇い主である彼に、会いに行くための。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「パオ、ご飯!」
強く言わないとパソコンの前から離れようとしない彼は、仕事熱心というよりゲームに集中する子供のようだ。
「…なに、笑ってんだ?」
「なんでも~」
「……阿呆」
憮然とした顔が更におかしい。
笑い続けていると、彼は先にテーブルへ行ってしまった。
あれから、一月が経つ。
仕事も少しずつ軌道にのってきて、毎日が充実していた。
危なっかしいという理由で大したことはさせてもらえていないけれど、「相棒」としてはいつか目にモノ見せてやろうと考えていたりもする。
そしてひとつ、解った事がある。
「ねぇパオ、あの日ホントは最初っから、アタシのことスカウトする気だったんでしょ?」
炊き立てのご飯を手渡しながら言うと彼は一瞬詰まって、けれどいつも通りシニカルな笑みを浮かべた。
「んなわけあるかい。どっかのガキがぴゃあぴゃあうるせぇから拾ってやったんだよ」
「…ったく素直じゃないんだから」
負けずに言い返す。
しばらく戯れに睨み合って、同時に笑い出した。
人間には適材適所というものが在るのだという。
本当の居場所や成すべき事はまだ判らなくて、それでも祈っていることがある。
どうか私にとって彼の側が本当の居場所で、彼と共に過ごすことが私の成すべき事でありますように。
「今日って仕事早く終わりそう?」
「多分、な」
「そしたらさ、久しぶりにみんなで飲みに行こうよ」
「…阿呆が酔っ払って絡まなきゃなぁ?」
「またそんなこと言う!」
今、自分があの日言った「本当にやりたいこと」をできていると思えるから、どうかこのなによりも幸せななんでもない日常が、永遠に続きますように。
祈りは通じると私は、信じる。
PR
土曜昼12時。
食事の支度をしようと冷蔵庫の中身をチェックする、と。
足元を灰色の物体が走り抜けていった。
一瞬のことすぎて悲鳴は出なかったけれど、その代わり堪忍袋の尾が切れる。
「なんでこの事務所、こんなにボロいの!?」
叫んで、丸めたエプロンをパソコンデスクへ投げ付ける。
「なんだぁ?」
「鼠よ!ネ・ズ・ミ!ここんとこ毎日見るのよぅ!!」
偉そうに椅子に座るパオは目線すら上げない。
「見るだけならいいじゃねぇか」
「だけならね?でもどこでなに食べて来んだか知らないけどそこら中フンは撒き散らすし・・・
だいたい不衛生じゃない!」
前の日どんなに掃除をしても、次の朝には嘲笑うかのように点々と黒く小さなものが落ちている。
お風呂場、流し、炊飯器の横からこの間はパソコンの上にまであった。
「もう、嫌…それにねぇ」
「それに?」
パオは器用に片眉をあげた。
でもまだ画面と仲良しのまま私へは向かない。
余計に腹が立った。
「5万歩譲ってネズミ1匹なら我慢の範囲かもだけど仲良く親子連れ。
ゴキブリホイホイは連日大盛況!おまけにそこの鉢植えはナメクジまみれ!!
一体ここはなに、動物園?多摩?上野!?」
言うだけ言ったら息が切れた。
肩で呼吸しながら睨み付けるとようやくパオは顔を上げる。
「ここは珠閒瑠市だ。鼠なんだから子供ぐらい産む。
ちゃんと掃除しねぇからフンは散らかるしゴキブリも出んだろ?この部屋の古さとは関係ねぇ」
「じゃあの鉢はなんだってのよ?」
「花の名前も知らねぇのか?ありゃ蘭だ。あいつが…美樹が好きだった花だよ」
その時自分のこめかみから確かに、血管の千切れる音が聞こえた気がした。
「ホントに、プチっていうのね・・・」
「あぁ?」
できるだけ冷静になろうと深く空気を吸い込む。
それでも押さえ込めなくて横の壁を一発殴った。
コンクリートにひびが入る。
その傷に自分の感情を知った。
私は、こんなに、怒ってるんだ。
「…アタシ、出てく」
「おい、」
「あとで働いた分の給料は請求するから。じゃね」
あまりに興奮しすぎたからか頭が冴えていくのに合わせて、どうしようもなく力が抜けていく。
何も考えないように最大限努力しながら事務所を出た。
呆気なく背後で扉は閉まって、パオは追いかけて来なかった。
アラヤ神社の石段に座って溜め息をつく。
財布さえ持って来なかったから、缶ジュースすら買えない。
だからといってまさか手水場の水を飲むわけにもいかないから、喉は渇いていたけれど我慢して膝を抱える。
スーパーでもコンビニでもない場所を一人で歩くのは久し振りだった。
ウインドーショッピングをする暇はないし、依頼人との約束はふたりで行く。
仕事に昼夜がないことを理由に、事務所兼パオの部屋へ押し掛けてからは家までの往復もなくなって、必然的に食料買い出し以外で個別行動をしなくなっていた。
「一人のがせいせいするわ」
部屋を飛び出してしばらくは楽しかった。
サトミタダシクローンズはやっぱり同じ顔だったし、しらいしのおばちゃんからは相変わらず嘘か本当か判らない昔話をたっぷり聞かされた。
ビキニラインでは無闇な歓迎を受けたし、葛葉では営業癖が出てつい商売仲間の顔で挨拶をしてしまった。
あいつの昔のアジトは今瓦礫の下で近づいても場所が判らなかったから、少し周りを歩いただけで戻って来た。
あの人のお墓に行ってこようかとも考えたけれど、なんだか自分が余計惨めになるようで止めた。
最後に訪れたこの神社の境内には、来る度会ったあのおばあさんもいない。
今、何時になるのだろう。
もう陽は沈みかけている。
気温も少しずつ下がり始めた。
マフラーくらい、持ってくればよかった。
薄暗い人気のない場所に独りで蹲っているせいで、どんどん思考が滅入ってくる。
寒いと寂しいが似ているかどうかだなんてどうだっていいことなのに。
「レッツポジティブシンキング、か…」
何度目かの溜め息のついでに何年も一緒に暮らした親友の口癖を、ふと思い出した。
そういえば港南区にはまだ行っていなかった。
マーヤはどうしているだろう。
お互いに忙しくてしばらく会っていない。
「…様子でも見に行ってやるかな」
携帯を忘れたから、連絡できない。
突然行ったら迷惑かもしれない。
第一、家にいるとは限らない。
同居している間にもたまに取材が長引いて午前様になるのを見てきたし、周防さんとデートの可能性だってないとは言えない。
どんどん弱気に飲み込まれてしまいそうになるのを頭を振って払う。
立ち上がって軽く服を叩いた。
ここにこうしてずっといるより、確実じゃなくてもまだ行き場があるのなら。
「レッツらゴー、ってね」
マーヤの口癖をもうひとつ呟きながら、おなかが空いたなとぼんやり思った。
ルナパレス港南703号室、ちょっと前までは私も住んでいた場所。
8回目のインターホンを押しながら、さすがに半分以上諦めていた。
マーヤのことだから寝ていて気付かなかったということも有り得ないではないけれど、それなら一層始末に悪い。
TVのオンタイマーを目覚し代わりにセットして、その最大音量でもびくともせずに眠り続けた記録がある。
電話のベルと食べ物の匂いにだけは素早い反応をするところは記者であり、マーヤらしいのだけれど。
ともかくどうしよう。
鍵は財布の中に入ったまま、手元にはない。
港南署は近いし周防さんなら喜んでマーヤに連絡を取ってくれそうでも、わざわざ仕事場に私用で訪ねていくのは気が引ける。
だいたい刑事さんを訪ねに警察へ、なんて悪いことをしたわけじゃなくてもぞっとしない。
いつまでいても事態が好転するわけでもなくて、マンションを出てすぐの外壁に寄りかかる。
これで今度こそ本当に向かうあてがなくなってしまった。
どうしたらいいのか考え付かなくてただ目の前の海を見る。
今日1日、行ける範囲は全部歩いたけれど、どこにも落ち着けはしなかった。
皆で立ち寄った時にはあんなに緊迫した状況の中、それでも楽しかった所ばかりなのに、今日はどこにも居たたまれなくて。
そういえばあの事件に巻き込まれる前も似たように感じていた。
どこにも自分のいられる隙間がない、と。
あの頃はただ空っぽでこの感覚の名前も知らなかった。
でも今は解る。
「寂しい…」
ひとりでいるのは、寂しい。
誰でもいいわけじゃない、誰かの側にいたい。
相手が認めてくれるなら、その隣が自分の居場所になる。
そのことを言葉でなく教えてくれた人がいるから。
「パオ…」
そして、パオがあたしの居場所なら、あたしはパオの居場所だと信じる。
ひどい言い方かもしれないけれど、権利を瓦礫や墓石には譲りたくない。
「帰ん、なくちゃ」
辺りは完全に真っ暗だった。
普段なら夕食もとっくに済ませているような時間になっていそうで、急いで通りへ向かう。
タクシーでも拾えばすぐに着く。
食事をしながら謝ろう。
いちばん近い街道へ出て思いきり手を振った。
ほどなくして一台が目の前へ止まる。
なぜかやけに見慣れたその車は、ドアの代わりに窓を開いた。
運転手まで涙が出そうになるほど見覚えの有る、顔。
「こんな所で運動会の応援練習か?」
「…んなわけないでしょ。まだ…準備体操よ」
「そりゃ随分とまぁ気合いの入ったこって」
「まぁ、ね」
皮肉げな笑みには、ない胸を反らして返す。
睨むために目を合わせたら、感づかれてしまいそうだった。
ここへ探して迎えに来てくれたことを、私が、どう思ったのか。
「で、パオはなにしにこんなとこまできたわけ?」
「住んでる街ん中で迷える全く有能な食事係を拾いに、だよ」
「…アンタの辞書に皮肉以外の言葉はないの?」
「見たことねぇな。…いいから早く乗れ」
「…うん」
助手席側のドアを開けて、自分の居場所へ座る。
パオは責めないし、私も言わない。
だからそっと心の中で囁いておく。
数え切れない程の謝罪と感謝。
ゴメンナサイと、ありがとう。
「…ここあったかい」
「そりゃま外よりは、な」
車が走り出してふと呟くと、信号待ちの合間、不意にパオが指先を掴んだ。
「冷てぇな」
「なら、あっためてよ」
「部屋へ帰ったら…な」
「手だけじゃなくて、ね」
薄く笑って返事をしないまま青に変わってパオの手は離されたけれど、一瞬の体温で心が十分に満たされた気がしていた。
そして部屋に着く寸前、ようやく思い出したことがあった。
そういえば先週も先々週もそのまた前も、全く同じ理由で全く同じ1日を過ごしたような気がするな、と。
食事の支度をしようと冷蔵庫の中身をチェックする、と。
足元を灰色の物体が走り抜けていった。
一瞬のことすぎて悲鳴は出なかったけれど、その代わり堪忍袋の尾が切れる。
「なんでこの事務所、こんなにボロいの!?」
叫んで、丸めたエプロンをパソコンデスクへ投げ付ける。
「なんだぁ?」
「鼠よ!ネ・ズ・ミ!ここんとこ毎日見るのよぅ!!」
偉そうに椅子に座るパオは目線すら上げない。
「見るだけならいいじゃねぇか」
「だけならね?でもどこでなに食べて来んだか知らないけどそこら中フンは撒き散らすし・・・
だいたい不衛生じゃない!」
前の日どんなに掃除をしても、次の朝には嘲笑うかのように点々と黒く小さなものが落ちている。
お風呂場、流し、炊飯器の横からこの間はパソコンの上にまであった。
「もう、嫌…それにねぇ」
「それに?」
パオは器用に片眉をあげた。
でもまだ画面と仲良しのまま私へは向かない。
余計に腹が立った。
「5万歩譲ってネズミ1匹なら我慢の範囲かもだけど仲良く親子連れ。
ゴキブリホイホイは連日大盛況!おまけにそこの鉢植えはナメクジまみれ!!
一体ここはなに、動物園?多摩?上野!?」
言うだけ言ったら息が切れた。
肩で呼吸しながら睨み付けるとようやくパオは顔を上げる。
「ここは珠閒瑠市だ。鼠なんだから子供ぐらい産む。
ちゃんと掃除しねぇからフンは散らかるしゴキブリも出んだろ?この部屋の古さとは関係ねぇ」
「じゃあの鉢はなんだってのよ?」
「花の名前も知らねぇのか?ありゃ蘭だ。あいつが…美樹が好きだった花だよ」
その時自分のこめかみから確かに、血管の千切れる音が聞こえた気がした。
「ホントに、プチっていうのね・・・」
「あぁ?」
できるだけ冷静になろうと深く空気を吸い込む。
それでも押さえ込めなくて横の壁を一発殴った。
コンクリートにひびが入る。
その傷に自分の感情を知った。
私は、こんなに、怒ってるんだ。
「…アタシ、出てく」
「おい、」
「あとで働いた分の給料は請求するから。じゃね」
あまりに興奮しすぎたからか頭が冴えていくのに合わせて、どうしようもなく力が抜けていく。
何も考えないように最大限努力しながら事務所を出た。
呆気なく背後で扉は閉まって、パオは追いかけて来なかった。
アラヤ神社の石段に座って溜め息をつく。
財布さえ持って来なかったから、缶ジュースすら買えない。
だからといってまさか手水場の水を飲むわけにもいかないから、喉は渇いていたけれど我慢して膝を抱える。
スーパーでもコンビニでもない場所を一人で歩くのは久し振りだった。
ウインドーショッピングをする暇はないし、依頼人との約束はふたりで行く。
仕事に昼夜がないことを理由に、事務所兼パオの部屋へ押し掛けてからは家までの往復もなくなって、必然的に食料買い出し以外で個別行動をしなくなっていた。
「一人のがせいせいするわ」
部屋を飛び出してしばらくは楽しかった。
サトミタダシクローンズはやっぱり同じ顔だったし、しらいしのおばちゃんからは相変わらず嘘か本当か判らない昔話をたっぷり聞かされた。
ビキニラインでは無闇な歓迎を受けたし、葛葉では営業癖が出てつい商売仲間の顔で挨拶をしてしまった。
あいつの昔のアジトは今瓦礫の下で近づいても場所が判らなかったから、少し周りを歩いただけで戻って来た。
あの人のお墓に行ってこようかとも考えたけれど、なんだか自分が余計惨めになるようで止めた。
最後に訪れたこの神社の境内には、来る度会ったあのおばあさんもいない。
今、何時になるのだろう。
もう陽は沈みかけている。
気温も少しずつ下がり始めた。
マフラーくらい、持ってくればよかった。
薄暗い人気のない場所に独りで蹲っているせいで、どんどん思考が滅入ってくる。
寒いと寂しいが似ているかどうかだなんてどうだっていいことなのに。
「レッツポジティブシンキング、か…」
何度目かの溜め息のついでに何年も一緒に暮らした親友の口癖を、ふと思い出した。
そういえば港南区にはまだ行っていなかった。
マーヤはどうしているだろう。
お互いに忙しくてしばらく会っていない。
「…様子でも見に行ってやるかな」
携帯を忘れたから、連絡できない。
突然行ったら迷惑かもしれない。
第一、家にいるとは限らない。
同居している間にもたまに取材が長引いて午前様になるのを見てきたし、周防さんとデートの可能性だってないとは言えない。
どんどん弱気に飲み込まれてしまいそうになるのを頭を振って払う。
立ち上がって軽く服を叩いた。
ここにこうしてずっといるより、確実じゃなくてもまだ行き場があるのなら。
「レッツらゴー、ってね」
マーヤの口癖をもうひとつ呟きながら、おなかが空いたなとぼんやり思った。
ルナパレス港南703号室、ちょっと前までは私も住んでいた場所。
8回目のインターホンを押しながら、さすがに半分以上諦めていた。
マーヤのことだから寝ていて気付かなかったということも有り得ないではないけれど、それなら一層始末に悪い。
TVのオンタイマーを目覚し代わりにセットして、その最大音量でもびくともせずに眠り続けた記録がある。
電話のベルと食べ物の匂いにだけは素早い反応をするところは記者であり、マーヤらしいのだけれど。
ともかくどうしよう。
鍵は財布の中に入ったまま、手元にはない。
港南署は近いし周防さんなら喜んでマーヤに連絡を取ってくれそうでも、わざわざ仕事場に私用で訪ねていくのは気が引ける。
だいたい刑事さんを訪ねに警察へ、なんて悪いことをしたわけじゃなくてもぞっとしない。
いつまでいても事態が好転するわけでもなくて、マンションを出てすぐの外壁に寄りかかる。
これで今度こそ本当に向かうあてがなくなってしまった。
どうしたらいいのか考え付かなくてただ目の前の海を見る。
今日1日、行ける範囲は全部歩いたけれど、どこにも落ち着けはしなかった。
皆で立ち寄った時にはあんなに緊迫した状況の中、それでも楽しかった所ばかりなのに、今日はどこにも居たたまれなくて。
そういえばあの事件に巻き込まれる前も似たように感じていた。
どこにも自分のいられる隙間がない、と。
あの頃はただ空っぽでこの感覚の名前も知らなかった。
でも今は解る。
「寂しい…」
ひとりでいるのは、寂しい。
誰でもいいわけじゃない、誰かの側にいたい。
相手が認めてくれるなら、その隣が自分の居場所になる。
そのことを言葉でなく教えてくれた人がいるから。
「パオ…」
そして、パオがあたしの居場所なら、あたしはパオの居場所だと信じる。
ひどい言い方かもしれないけれど、権利を瓦礫や墓石には譲りたくない。
「帰ん、なくちゃ」
辺りは完全に真っ暗だった。
普段なら夕食もとっくに済ませているような時間になっていそうで、急いで通りへ向かう。
タクシーでも拾えばすぐに着く。
食事をしながら謝ろう。
いちばん近い街道へ出て思いきり手を振った。
ほどなくして一台が目の前へ止まる。
なぜかやけに見慣れたその車は、ドアの代わりに窓を開いた。
運転手まで涙が出そうになるほど見覚えの有る、顔。
「こんな所で運動会の応援練習か?」
「…んなわけないでしょ。まだ…準備体操よ」
「そりゃ随分とまぁ気合いの入ったこって」
「まぁ、ね」
皮肉げな笑みには、ない胸を反らして返す。
睨むために目を合わせたら、感づかれてしまいそうだった。
ここへ探して迎えに来てくれたことを、私が、どう思ったのか。
「で、パオはなにしにこんなとこまできたわけ?」
「住んでる街ん中で迷える全く有能な食事係を拾いに、だよ」
「…アンタの辞書に皮肉以外の言葉はないの?」
「見たことねぇな。…いいから早く乗れ」
「…うん」
助手席側のドアを開けて、自分の居場所へ座る。
パオは責めないし、私も言わない。
だからそっと心の中で囁いておく。
数え切れない程の謝罪と感謝。
ゴメンナサイと、ありがとう。
「…ここあったかい」
「そりゃま外よりは、な」
車が走り出してふと呟くと、信号待ちの合間、不意にパオが指先を掴んだ。
「冷てぇな」
「なら、あっためてよ」
「部屋へ帰ったら…な」
「手だけじゃなくて、ね」
薄く笑って返事をしないまま青に変わってパオの手は離されたけれど、一瞬の体温で心が十分に満たされた気がしていた。
そして部屋に着く寸前、ようやく思い出したことがあった。
そういえば先週も先々週もそのまた前も、全く同じ理由で全く同じ1日を過ごしたような気がするな、と。
*FOR ME LOVER*
最近おかしい。
自分の心の中を占める栄吉の割合が日に日に増してくるような気がする・・・
何でだろう、何なんだろうこの切なさは・・・
・・・・・・つーかどうして私が栄吉の事なんかで悩まなきゃなんないの!
第一私には達哉っていうステキな情人が・・・
「情人かあ」
ついさっき仲間達と解散したリサは、ひとりで夢崎区のピースダイナーに来ていた。
家へ帰るにはまだ少し早かったし、だからといって友達と遊び歩く気にもなれない。
むしろずいぶん前の事になるが、MUSESの件であさっちとみーぽを失ったリサには、心を許せる友人が誰もいなかった。
「私の本当の情人って誰なんだろう・・・」
「情人がどうかしたのかい?」
突然油断している所に背後から声をかけられたリサは、普段からの癖か振り返りざまに思わず身がまえた。
「リッリサ、僕だって」
聞き覚えのある声に反応しよく見てみると、そこにはすっかり逃げ腰の淳がいる。
「淳!?」
ほんの数十分前に別れたはずの、思いがけない人物の登場にリサは驚いた。
「ふう、殴られるのかと思ったよ、あっ、隣いい?」
「いいけどねえ、急に声かけないでいるんならいるっていいなさいよ!」
「ご、ごめん、だってリサってば真っ赤な顔しながら考え込んでるみたいで声かけにくくて・・・」
(真っ赤な顔!?私が!?
達哉の事考えてたんなら分かるけど、今私が考えてたのは・・・栄吉?)
「リサ?」
「え、あ、うん、大丈夫、そっそれよりもさぁ、淳は何でこんなとこに来たの? 寄り道なんてめずらしいじゃん」
自分の顔が再び赤く染まり始めるのを感じたリサは、カンのいい淳に気付かれる前に話をうまくそらした。
(末期症状なのかな・・・あいつの事思い出しただけで顔が赤くなるなんて・・・)
「あっ、そうだ!実は舞耶姉さんからの伝言を伝えるためにリサを探してたんだよ
『今すぐ青葉公園に集合!!』だって」
「今すぐ!?あっ、でも・・・それってさぁ、もしかして達哉と栄吉も来るの?」
「うん、来ると思うよ、何でもけっこう大切な用事らしいからね」
(やっぱり自分の気持ちを確かめたい、でもそのためには今日じゃなきゃダメな気がする・・・
きっと、あいつに会えばすべてが分かる)
「分かった!じゃあ淳、急いで公園に行こ!」
「そうだね、みんなもう待ってるかもしれないし」
午後5時、リサはそろそろ暗くなり始める街へ、不安と期待を抱きながら飛び出した。
「よーし、みんな集まったわね~。
わざわざこんなに遅くなってから集まってもらったのにはちゃんとワケがあるのよ。
ユッキー達からの連絡でね、近頃夜になるとこの公園でラストバタリオンに襲われる人が急激に増えてるらしいの。
そ・こ・で!今から私達が見回り係と連絡係に分かれてユッキー達のお手伝いをしたいと思いま~す!」
「ハイ!舞耶ちゃん、しつもーん!」
「何、リサ?」
「それってぇ、何人ずつに分かれてやるの?」
「そうねえ・・・、見回り係は二人組を二組、連絡係は一人で十分でしょ」
(二人組か、達哉はやっぱり・・・やっぱり舞耶ちゃんの方見てる
でもそうだよね、達哉はきっと舞耶ちゃんの事が好き。
こんな光景、今まで何回見たんだろう・・・。なのに、今日は不思議とそんなにつらくない)
「舞耶姉、俺と・・・」
「え?達哉クンはリサと一緒じゃなくていいの?」
「えっ、あっ、いいのいいの!舞耶ちゃんは達哉と行ってきなよ。
わ、私は・・・うん、栄吉と行くからさあ。ほ、ほら、行くよ、栄吉!」
「は!?お、おい待てよ、おいっ!」
リサは答えも聞かないうちに、栄吉の腕をつかんで全速力で公園の奥へと走り出した。
あの状況の中で、自分が達哉にとって邪魔者なのは明らかであったし、これ以上舞耶に変な気を使われる事に耐えられなかったからだ。
「はあ、はあ、はあ、・・・おまえさぁ、急に走り出して何があったか知らねえけど、あれで良かったのかよ?」
「はあ、はあ、はあ、達哉と舞耶ちゃんの事?」
「お、おう、やっぱりさ、何て言ったらいいのかわかんねえけど・・・
あのタッちゃんの態度は良くないよな、ギンコがいるってのにあんなにストレートに言わなくても・・・
あ、別にタッちゃんは舞耶ネェが好きなんじゃないかとかそういう事を言ってるんじゃなくて、あの、その・・・」
「いいよ、別に、いくら私でももう分かってるから」
「わりぃ・・・」
二人の間にしばらく沈黙が流れた。栄吉の顔もずっと曇ったままでうつむいていた。
「バーカ、何であんたが悲しそうな顔してんのよ! 私は全然大丈夫なんだからね、ほらこの通り!」
リサは無理に最高の笑顔をつくってみせた。もうこの話題から離れたかったからだ。
こうすれば栄吉もいつもの栄吉に戻る・・・
そう思ったのに、返ってきた言葉はあまりにも予想外のものであった。
「つらかったら泣けばいいじゃん、少なくともオレの前では素直になっとけよ。
オレならすべて受け入れてやるから・・・」
その言葉を聞いたとたん、リサはまるで時がとまったような感覚におそわれた。
今まで自分を閉じ込めていたオリが解き放たれたかのように、涙が瞳からとめどなく溢れてくる。
そして頭で考えるより先に体が動き、次の瞬間には栄吉の胸に飛び込んでいた。
(どうしよう、私本気で栄吉の事が好きなんだ・・・
この涙だってつらかったからながれたんじゃない、栄吉の言葉うれしくてうれしくてどうしようもなくて溢れてきたんだ・・・)
初めはリサの突然の行動に驚きを隠せなかった栄吉も、次第に自分の胸で泣きじゃくる弱々しい天使を守り、包み込むかのように優しく背中に手をそえた。
「も、もう落ち着いたのかよ?」
「う、うん・・・」
ベンチに並んで座った二人は、ついさっきまできつく抱き合っていた恥ずかしさからか、お互いの顔も見れずにうつむいていた。
「なあ!」「ねえ!」
「・・・栄吉からどうぞ」
「ギンコから言えよ」
(やっぱり言おう、自分の気持ちがやっとはっきりしたんだから、私は栄吉が好き、それだけ分かれば十分じゃん)
リサは高鳴る鼓動をおさえるように深く息をすると、栄吉の目をまっすぐにみつめた。
「私ね、私・・・、実は達哉の事けっこうあきらめついてきてるんだ」
「え、マ、ジで・・・?」」
「うん、いつもいつもつらくて、みじめで、落ち込んでばっかりだった
達哉に嫌われないようにって本当の私をずっと隠して、自分にウソついて・・・
その上、舞耶ちゃんにやきもちやいたりしてホントに私って最低だなあって
でもね、でも・・・」
「でも?」
「そんなふうに暗くなってる私をいつも優しくはげましてくれたり、気使ってくれたり
私には気付かれてないつもりなんだろうけど実はバレバレで・・
そんなバカな奴を最近好きになっちゃた!」
「え、誰だよ、そいつって?」
「はあ・・・もう!まだ分かんないの?そんなバカな奴なんてあんたしかいないでしょ!」
「!!!!!」
突然すぎるリサの告白に、白く化粧した顔が桜色に見えるほど栄吉の顔は紅潮した。
そして大きく深呼吸したあとに、決意をしたような面持ちで前に乗り出すと、
リサの肩をしっかりとつかみ、そのまま額に唇を軽くおとした。
「栄吉・・・」
「そ、そのよお・・・実はオレから言うつもりだったんだけど先こされちゃったみたいだから・・・。
でも、あ、あ、改めて言わせてもらいます。
オレ、三科栄吉は、ギンコことリサ=シルバーマンにマジで惚れてしまいました。
付き合ってください!!」
リサの瞳から再び大粒の涙がながれはじめた。
生まれて初めて大好きな人と心から思い合えた事に感激しての涙だった。
「情人、だーいすき!!」
リサと栄吉は時間を忘れて、いつまでもお互いを確認するかのように抱き合っていた・・・。
FIN
最近おかしい。
自分の心の中を占める栄吉の割合が日に日に増してくるような気がする・・・
何でだろう、何なんだろうこの切なさは・・・
・・・・・・つーかどうして私が栄吉の事なんかで悩まなきゃなんないの!
第一私には達哉っていうステキな情人が・・・
「情人かあ」
ついさっき仲間達と解散したリサは、ひとりで夢崎区のピースダイナーに来ていた。
家へ帰るにはまだ少し早かったし、だからといって友達と遊び歩く気にもなれない。
むしろずいぶん前の事になるが、MUSESの件であさっちとみーぽを失ったリサには、心を許せる友人が誰もいなかった。
「私の本当の情人って誰なんだろう・・・」
「情人がどうかしたのかい?」
突然油断している所に背後から声をかけられたリサは、普段からの癖か振り返りざまに思わず身がまえた。
「リッリサ、僕だって」
聞き覚えのある声に反応しよく見てみると、そこにはすっかり逃げ腰の淳がいる。
「淳!?」
ほんの数十分前に別れたはずの、思いがけない人物の登場にリサは驚いた。
「ふう、殴られるのかと思ったよ、あっ、隣いい?」
「いいけどねえ、急に声かけないでいるんならいるっていいなさいよ!」
「ご、ごめん、だってリサってば真っ赤な顔しながら考え込んでるみたいで声かけにくくて・・・」
(真っ赤な顔!?私が!?
達哉の事考えてたんなら分かるけど、今私が考えてたのは・・・栄吉?)
「リサ?」
「え、あ、うん、大丈夫、そっそれよりもさぁ、淳は何でこんなとこに来たの? 寄り道なんてめずらしいじゃん」
自分の顔が再び赤く染まり始めるのを感じたリサは、カンのいい淳に気付かれる前に話をうまくそらした。
(末期症状なのかな・・・あいつの事思い出しただけで顔が赤くなるなんて・・・)
「あっ、そうだ!実は舞耶姉さんからの伝言を伝えるためにリサを探してたんだよ
『今すぐ青葉公園に集合!!』だって」
「今すぐ!?あっ、でも・・・それってさぁ、もしかして達哉と栄吉も来るの?」
「うん、来ると思うよ、何でもけっこう大切な用事らしいからね」
(やっぱり自分の気持ちを確かめたい、でもそのためには今日じゃなきゃダメな気がする・・・
きっと、あいつに会えばすべてが分かる)
「分かった!じゃあ淳、急いで公園に行こ!」
「そうだね、みんなもう待ってるかもしれないし」
午後5時、リサはそろそろ暗くなり始める街へ、不安と期待を抱きながら飛び出した。
「よーし、みんな集まったわね~。
わざわざこんなに遅くなってから集まってもらったのにはちゃんとワケがあるのよ。
ユッキー達からの連絡でね、近頃夜になるとこの公園でラストバタリオンに襲われる人が急激に増えてるらしいの。
そ・こ・で!今から私達が見回り係と連絡係に分かれてユッキー達のお手伝いをしたいと思いま~す!」
「ハイ!舞耶ちゃん、しつもーん!」
「何、リサ?」
「それってぇ、何人ずつに分かれてやるの?」
「そうねえ・・・、見回り係は二人組を二組、連絡係は一人で十分でしょ」
(二人組か、達哉はやっぱり・・・やっぱり舞耶ちゃんの方見てる
でもそうだよね、達哉はきっと舞耶ちゃんの事が好き。
こんな光景、今まで何回見たんだろう・・・。なのに、今日は不思議とそんなにつらくない)
「舞耶姉、俺と・・・」
「え?達哉クンはリサと一緒じゃなくていいの?」
「えっ、あっ、いいのいいの!舞耶ちゃんは達哉と行ってきなよ。
わ、私は・・・うん、栄吉と行くからさあ。ほ、ほら、行くよ、栄吉!」
「は!?お、おい待てよ、おいっ!」
リサは答えも聞かないうちに、栄吉の腕をつかんで全速力で公園の奥へと走り出した。
あの状況の中で、自分が達哉にとって邪魔者なのは明らかであったし、これ以上舞耶に変な気を使われる事に耐えられなかったからだ。
「はあ、はあ、はあ、・・・おまえさぁ、急に走り出して何があったか知らねえけど、あれで良かったのかよ?」
「はあ、はあ、はあ、達哉と舞耶ちゃんの事?」
「お、おう、やっぱりさ、何て言ったらいいのかわかんねえけど・・・
あのタッちゃんの態度は良くないよな、ギンコがいるってのにあんなにストレートに言わなくても・・・
あ、別にタッちゃんは舞耶ネェが好きなんじゃないかとかそういう事を言ってるんじゃなくて、あの、その・・・」
「いいよ、別に、いくら私でももう分かってるから」
「わりぃ・・・」
二人の間にしばらく沈黙が流れた。栄吉の顔もずっと曇ったままでうつむいていた。
「バーカ、何であんたが悲しそうな顔してんのよ! 私は全然大丈夫なんだからね、ほらこの通り!」
リサは無理に最高の笑顔をつくってみせた。もうこの話題から離れたかったからだ。
こうすれば栄吉もいつもの栄吉に戻る・・・
そう思ったのに、返ってきた言葉はあまりにも予想外のものであった。
「つらかったら泣けばいいじゃん、少なくともオレの前では素直になっとけよ。
オレならすべて受け入れてやるから・・・」
その言葉を聞いたとたん、リサはまるで時がとまったような感覚におそわれた。
今まで自分を閉じ込めていたオリが解き放たれたかのように、涙が瞳からとめどなく溢れてくる。
そして頭で考えるより先に体が動き、次の瞬間には栄吉の胸に飛び込んでいた。
(どうしよう、私本気で栄吉の事が好きなんだ・・・
この涙だってつらかったからながれたんじゃない、栄吉の言葉うれしくてうれしくてどうしようもなくて溢れてきたんだ・・・)
初めはリサの突然の行動に驚きを隠せなかった栄吉も、次第に自分の胸で泣きじゃくる弱々しい天使を守り、包み込むかのように優しく背中に手をそえた。
「も、もう落ち着いたのかよ?」
「う、うん・・・」
ベンチに並んで座った二人は、ついさっきまできつく抱き合っていた恥ずかしさからか、お互いの顔も見れずにうつむいていた。
「なあ!」「ねえ!」
「・・・栄吉からどうぞ」
「ギンコから言えよ」
(やっぱり言おう、自分の気持ちがやっとはっきりしたんだから、私は栄吉が好き、それだけ分かれば十分じゃん)
リサは高鳴る鼓動をおさえるように深く息をすると、栄吉の目をまっすぐにみつめた。
「私ね、私・・・、実は達哉の事けっこうあきらめついてきてるんだ」
「え、マ、ジで・・・?」」
「うん、いつもいつもつらくて、みじめで、落ち込んでばっかりだった
達哉に嫌われないようにって本当の私をずっと隠して、自分にウソついて・・・
その上、舞耶ちゃんにやきもちやいたりしてホントに私って最低だなあって
でもね、でも・・・」
「でも?」
「そんなふうに暗くなってる私をいつも優しくはげましてくれたり、気使ってくれたり
私には気付かれてないつもりなんだろうけど実はバレバレで・・
そんなバカな奴を最近好きになっちゃた!」
「え、誰だよ、そいつって?」
「はあ・・・もう!まだ分かんないの?そんなバカな奴なんてあんたしかいないでしょ!」
「!!!!!」
突然すぎるリサの告白に、白く化粧した顔が桜色に見えるほど栄吉の顔は紅潮した。
そして大きく深呼吸したあとに、決意をしたような面持ちで前に乗り出すと、
リサの肩をしっかりとつかみ、そのまま額に唇を軽くおとした。
「栄吉・・・」
「そ、そのよお・・・実はオレから言うつもりだったんだけど先こされちゃったみたいだから・・・。
でも、あ、あ、改めて言わせてもらいます。
オレ、三科栄吉は、ギンコことリサ=シルバーマンにマジで惚れてしまいました。
付き合ってください!!」
リサの瞳から再び大粒の涙がながれはじめた。
生まれて初めて大好きな人と心から思い合えた事に感激しての涙だった。
「情人、だーいすき!!」
リサと栄吉は時間を忘れて、いつまでもお互いを確認するかのように抱き合っていた・・・。
FIN
何度も何度も書き直しても
それでも、もう
ニ度と描くことはできない…
ク
レ
ヨ
ン
何もかもがひどく虚ろで。
何もかもが薄らいでいってしまうだけで。
だから、私はゆっくりと、瞼を閉じる。
暗闇の中に、ふんわりと浮かび上がる、笑顔。
あの声を。あの姿を。あの手を。
あの人の表情を忘れたくなくて。
崩れそうな記憶というキャンバスに、あの日々あの憧憬を一枚一枚塗りかさねていく。
あ お 。
それはあの人の好んでいたシャツ。その柔らかな色彩。
あ か 。
それはあの人の好きだった煙草の銘柄。そのパッケージ。
く ろ 。
それはあの人がよく読んでいた全書。その厚みを覆う表紙。
ぎ ん 。
それはあの人が愛していた世界。その真っ直ぐな心、正義。
こ は く 。
それはあの人が好んで飲んでいたお酒。その透き通った美しさ。
…透明な、し ず く 。
それは私の涙。そして、弱さ。
途端、記憶の糸が撓む。
瞼を開いたら、世界がぐるりと滲んだ。
眠りに落ちても、後姿だけが遠ざかり
辺りを見渡しても、息遣いすら感じられない。
通り過ぎていくものは、あまりにも曖昧で不確かな、けれど確固たる形を持った感情だけ。
あの人を描くには、記憶だけが鮮明で、現実にそれを著す事はできない。
なぜなら、もう既に失ってしまったものだから。
記憶を彩っていたクレヨンが、ぽきりと折れる。
あの日々は、もうニ度と、描く事は出来ない。
…もうニ度と、還っては来ない。
あの人は 還って 来ない
それでも、もう
ニ度と描くことはできない…
ク
レ
ヨ
ン
何もかもがひどく虚ろで。
何もかもが薄らいでいってしまうだけで。
だから、私はゆっくりと、瞼を閉じる。
暗闇の中に、ふんわりと浮かび上がる、笑顔。
あの声を。あの姿を。あの手を。
あの人の表情を忘れたくなくて。
崩れそうな記憶というキャンバスに、あの日々あの憧憬を一枚一枚塗りかさねていく。
あ お 。
それはあの人の好んでいたシャツ。その柔らかな色彩。
あ か 。
それはあの人の好きだった煙草の銘柄。そのパッケージ。
く ろ 。
それはあの人がよく読んでいた全書。その厚みを覆う表紙。
ぎ ん 。
それはあの人が愛していた世界。その真っ直ぐな心、正義。
こ は く 。
それはあの人が好んで飲んでいたお酒。その透き通った美しさ。
…透明な、し ず く 。
それは私の涙。そして、弱さ。
途端、記憶の糸が撓む。
瞼を開いたら、世界がぐるりと滲んだ。
眠りに落ちても、後姿だけが遠ざかり
辺りを見渡しても、息遣いすら感じられない。
通り過ぎていくものは、あまりにも曖昧で不確かな、けれど確固たる形を持った感情だけ。
あの人を描くには、記憶だけが鮮明で、現実にそれを著す事はできない。
なぜなら、もう既に失ってしまったものだから。
記憶を彩っていたクレヨンが、ぽきりと折れる。
あの日々は、もうニ度と、描く事は出来ない。
…もうニ度と、還っては来ない。
あの人は 還って 来ない
所在無く揺らめいているひとつの影
重たい重たい不安の中でまどろんでいる
それが何か、あたしはよく知っている
遥か遠くに見慣れた光を見つけた
声を掛けようとして
でも できなくて
あたしはくるりと身を翻して
まるで逃げるようにその場から走り去った
小さな世界は、オーガンディのような柔らかな膜で包み込まれている
まだ、破らないで…
困ったように揺らいだひとつの灯火
それは、目を覆うガラスに跳ね返った一筋の耀き
それが何か、あたしはよく知っている
立ち止まり俯いたまま微動だにしない
赤い炎を捕まえようとして
でも 怖くなって
思わず伸ばしそうになった手を
あたしは引っ込め、胸で組み、そしてうな垂れた
小さな世界は、砕けたエメラルドのようなラメ緑に淡く耀いている
まだ、瞬いている…
暗闇に放りだされた赤いパッケージ
それは遠ざかった過去の思い出
それが何か、あたしはよく知っている
薄紫のため息を零す唇
輪郭に指を滑らそうとして
でも 姿は消えて
あたしは息を飲み込み、膝を付き、ただすすり泣いた
小さな世界は記憶の世界
優しくて残酷なこの世界はあたしの時を止める
この夢の中で死ぬ事が出来たらば
あたしはどんなにか幸せだろう
女々しいと思う
所在無く揺らめいているのはあたしだから
馬鹿馬鹿しいとも、思う
重たい重たい不安の中でまどろんでいるのはあたしだから
それでも、このままでいたい
煙と共に消えたのはあの人だから
けど
ゆらりゆらりとこの世界に流されて
このままあたしはどこへ辿り着くのだろう?
ふと、炎の燃える音で目覚めた
薄暗いダンジョンの片隅で揺れるその光に
あたしの中の小さな世界が薄らいでいったのは
彼の吸っていた銘柄が
あの人と同じ、それだけではないと
そう信じたがっている自分を見いだした
きっと
彼はまだ、気付いてない
重たい重たい不安の中でまどろんでいる
それが何か、あたしはよく知っている
遥か遠くに見慣れた光を見つけた
声を掛けようとして
でも できなくて
あたしはくるりと身を翻して
まるで逃げるようにその場から走り去った
小さな世界は、オーガンディのような柔らかな膜で包み込まれている
まだ、破らないで…
困ったように揺らいだひとつの灯火
それは、目を覆うガラスに跳ね返った一筋の耀き
それが何か、あたしはよく知っている
立ち止まり俯いたまま微動だにしない
赤い炎を捕まえようとして
でも 怖くなって
思わず伸ばしそうになった手を
あたしは引っ込め、胸で組み、そしてうな垂れた
小さな世界は、砕けたエメラルドのようなラメ緑に淡く耀いている
まだ、瞬いている…
暗闇に放りだされた赤いパッケージ
それは遠ざかった過去の思い出
それが何か、あたしはよく知っている
薄紫のため息を零す唇
輪郭に指を滑らそうとして
でも 姿は消えて
あたしは息を飲み込み、膝を付き、ただすすり泣いた
小さな世界は記憶の世界
優しくて残酷なこの世界はあたしの時を止める
この夢の中で死ぬ事が出来たらば
あたしはどんなにか幸せだろう
女々しいと思う
所在無く揺らめいているのはあたしだから
馬鹿馬鹿しいとも、思う
重たい重たい不安の中でまどろんでいるのはあたしだから
それでも、このままでいたい
煙と共に消えたのはあの人だから
けど
ゆらりゆらりとこの世界に流されて
このままあたしはどこへ辿り着くのだろう?
ふと、炎の燃える音で目覚めた
薄暗いダンジョンの片隅で揺れるその光に
あたしの中の小さな世界が薄らいでいったのは
彼の吸っていた銘柄が
あの人と同じ、それだけではないと
そう信じたがっている自分を見いだした
きっと
彼はまだ、気付いてない