「……こちらが、年中行事に関わりますもので、こちらの分は使節の御接待など、外交
に関わるもの、…大礼に関わる記録は、また別にございます。いずれも、先の王の登極
から約三十年間のものでございます」
女官長の説明を、李斎は頷いて聞いている。
朝餉の後で、いつものように書見していた李斎のもとへ、かなり重そうな帙が二と、
幾つかの巻物が運ばれてきて、脇の小卓に載せられたところである。
ずっと法令集を読んできたのだが、これは、その天綱地綱に定められた事柄の、実際
の運用記録だった。驕王末期にはあらゆる行事が派手となり、法外な費用が使われてい
る。それで、和元年間よりずっと遡って、もっとも常識的でお手本となる時代を、女官
長は選んだらしい。
「それは…?」
李斎は、巻物の下のごく小さな帙に目を留めた。絹が張られているが、題字がない。
「先の后妃のおつけになっておられた覚書でございます」
李斎は手元に引き寄せた。おそらくは他の記録と同時代のもので、説明しなかったと
ころをみると、参考として持ってきたのだろう。
白瑪瑙の爪を外すと、薄青の表紙の冊子が五。一冊を下ろし、幾頁か見ていた李斎は、
女官長に聞いた。
「…これ、他にどのくらいありますか」
「同様の帙で、六ございます」
李斎がちょっと首を傾けた。女官長がそれに答えた。
「ほぼ毎日おつけであったようですが、私的な記録であるため、ご本人がお持ちになら
れるなどして、一部しか残ってはおりません。ただいま御文書庫に保管されております
のは、およそ、二十年分弱かと」
李斎は捲っていた一冊を閉じると、出しておいてくれるよう頼んだ。全てかと確かめ
た女官長に頷き、ちょっと笑った。李斎の方からこうしたことを頼んだのは、初めてで
ある。
「黒巻も、やっと、あと三巻で読み終えるから、行事記録と並行して読めば、無理には
ならないと思います」
女官長はわずかに目を開いた。
「……三巻、でございますか」
李斎は肩を竦め、苦笑した。
「思ったより時間がかかりました…。昔から、法令を読むのは遅くていけない」
頭を振り、先代王后の日記をもとどおり帙に収めると、李斎はまた、先ほどまでの続
きを、目で追い始めた。
「…」
背後の女官長は、珍しく少し瞬いてその姿を眺め直した。李斎は、宮中典令綜覧を、
読んでいる。
宮中典令綜覧というのは、膨大な量の法令集だ。略して綜典、別称を「黒巻(こっか
ん)」という。巻物が黒い亜麻布で装丁されているためだ。天綱に定められた、王宮に
かかわる数条を頂点として、その下に地綱、これに細則に附則がつき、各々の時代に加
えられる天官府規則、天官長令、次官通達(内宰令)…と、王宮諸事についての現行法
規の全てとなると、恐ろしい量に膨れ上がる。
李斎はこれを与えられ、端から学ばせられた。
いやしくも后妃たるもの、最低限、後宮に関わることだけでも、一通りは知っておか
なくてはならない。いま現在、運営されていない物理的な後宮の諸事が、学習から外さ
れたものの、李斎にはその分、正寝について学ぶ必要があり、どちらかと言えばそちら
方が厄介であった。
李斎は華燭から今日まで、日中の大半を、これらの学習に費やしている。
夕餉の後も、驍宗は大抵、なんらかの仕事と書見を、正寝でもする。ひとりで過ごす
その間、李斎はひたすら条文を読んでいた。
女官長は、胸の中で頷いた。
黒巻は、大学を出たばかりの官吏を泣かせる量だ。そもそも彼女の生徒は、机仕事が
苦手である。黒巻を積み上げられたときには明らかに、弱った、という様子さえ見せて
いた。
ただ、苦手だからと言って、この后妃は手を抜かない。一度始めれば没頭し、大変な
集中力を示す。
一刻ほど書見した頃に、いつもならば驍宗が一度戻ってくる。だが今日は、主上はお
留守である。女官長は頃合いを判断し、茶を淹れて休憩をすすめた。一息入れた後は、
李斎の希望で、字の練習を四半時ばかり、というのが大体のいつもの日程だった。
慶へ向かう途上で妖魔に襲われ、命を拾った代わりに利き腕を失って、一年半が経つ。
もともと運動能力の秀でている李斎は、日常生活の支障をかなり克服していたが、文字
となるとまだ、子供の域を出ていない。
実は過日、公式の祝詞とは別に、奏南国宗后妃から、李斎宛に便りが届いた。后妃明
嬉の直筆で、内容は、嫁いだばかりの李斎を気遣う、温かな、心こもったものであった。
本文を官に浄書させた上で自署をし、返書した李斎だったが、前にもまして、いずれ
は自筆の書簡をしたためられるようにならなくては、との思いが強くなっていた。
机上に、玻璃窓から冬の陽光が射し入る。火炉には花文様の鉄瓶がかけられたままで、
ちりんちりんと小さく鳴っていた。
墨を磨り始めた李斎に、傍らに控える女官長が言った。
「今日は、陽の照ります割に大層冷え込んでおります。午後から、暖房(かん)をお入
れ致しましょうか」
「そうして下さい。主上は、今日は下ですから、さぞ冷えて帰られるでしょう。上でさ
え朝は、霜柱がかなりあったくらいだから…」
「今朝はどちらまで」
李斎は毎朝、園林の奥の方まで歩いてくる。
「いつもの、北園(ほくえん)です。葉の落ちた枝の間から見ると、すっかり冬の空に
なっていますね…」
ゆったりと話す李斎に、女官長はさようでございますか、と答えて、再度、李斎の背
中を眺めた。しゃんと背を立て、墨を磨(す)っている姿には、非の打ち所がなく、ど
うやら彼女の基準を満たしている。
「――后妃におかれては、このところ、姿勢がよろしくおなりあそばされました」
女官長の言に、李斎は途端に嬉しそうに、ちょっと背を反らしてみせた。
「だいぶ筋の力がもどって、肩に肉もついたからか、真直ぐにしていて苦にならなくな
ったみたいです。やはり負荷をかけたのが、よかったようですね」
さらに強く両肩を引いてみせ、李斎は笑んだ。
右袖も左と対象にわずかに広がる。このところ日中、曲げた腕の形に重りを入れた布
製の義手を付けている李斎である。その仮の腕ごと袖を少し上げられるほどに、李斎の
右肩の周囲の肉は、戻りつつあった。
「それに、あの体操の効果でいらっしゃいましょう」
李斎の袖の動きが止まった。
「あ。いや。それは……ですね、その」
「湯殿でも、お湯におつかりの時間よりも、体操なさっておられる時間の方が長いご様
子でございますし、…ことによると朝なども園林の奥でなさっておいでなのではござい
ますまいか」
李斎の沈黙は、それが事実だと語っている。
李斎は紙を見つめ、女官長が暴露するであろうその続きを待った。実際、あらゆる人
目のない時間をとらえては、筋力をつけるための鍛錬をしていた。
「拝見いたしますに、」
――あれ。もうひとつはばれてないのか。李斎が心で首を傾けたとき、
「后妃のご健康とお体の姿勢には、運動は必要で、効果的であると存じ上げます」
「……そぅ?」
ちょっと吃驚した李斎に女官長は、耳を疑うようなことを、いつもの顔と声で言った、
「つきましては、今後、朝餉までのお時間は、後宮で運動あそばされてはいかがでござ
いましょう」
「……」
女官長はちらと一瞬后妃の顔に目を滑らせた。まともに目を見開き、女官長をぽかん
と椅子から見上げている。
「…。なんでございましょうか」
「本当に、いいの?」
聞き方がまるきり子供である。女官長は内心たじろいだが、表には出さなかった。
「そのように申し上げました。お住まいがどちらであろうと、あなた様は本来が後宮の
主、およそ二声宮以外の場所へのお立ち入に、差し支えはございません。東宮には馬場
がございますし、今日中に草を刈らせておきます。馬を数頭お入れしますので、ご自分
でお選びになられるとよろしいでしょう。それから小官は詳しく存じませんが、」
女官長は一層の無表情で付け加えた。
「鍛錬には、木でこしらえた剣や槍などがあるのだとか。あちらでならば、そういった
ものを、多少振り回したりなされようとも、誰の目にもふれることはないと存じます」
「ありがとう女官長。とても、嬉しい」
李斎は真直ぐに女官長を見、心からそう言うと、破顔した。
女官長はわずかに眉を動かした。
衒いのまったくない、この后妃のこういうところが、女官長は苦手である。李斎の言
動が心に触れ、どうかすると気持ちの遣り取りをしてしまいそうになるのを、非常に警
戒していた。それでもこうした不意打ちには、多少の動揺を禁じえない。
そのため、后妃というものは感情をあまり顔に出すものではないと、諭すべきところ
を、必要なことを手配したまでで謝意を表して頂く立場ではない、とせいぜい無表情で
言っただけになった。
公私の隔てに厳しく、教育係の天官たる職務上の立場を貫かんとする女官長は、苦手
な理由についてはそれ以上、考えないようにしていた。
だが、いくら考えずとも、彼女はこの出来の悪い生徒を、好いている。
「失礼いたします」
声に振り返ると、黒い官服を着けた正寝の官が、書状を手に、扉口で平伏していた。
正寝の官、といっても、この一角は事実上の後宮だから、必ず女性の官が来る。
女官長が立って行き、書状を受け取る。
「冬官府から使者が参っております。大司空琅燦殿、本日、ご機嫌伺いに罷り越したし
との口上と、お手紙でございます」
「琅燦殿が?」
型どおりの訪問伺いの短い書面だが、李斎の顔が輝く。琅燦とは、華燭の宴席以来、
もう一月以上会っていなかった。
李斎は早速、会う旨を伝えて使いを返した。
ひとりの昼食をすませてしばらくしたその午後に、正寝付の女官が扉口にあらわれ、
平伏の後立ち上がると、立礼したまま、独特の歌うような節回しで、来訪者を告げた。
「大司空が、参りました……」
に関わるもの、…大礼に関わる記録は、また別にございます。いずれも、先の王の登極
から約三十年間のものでございます」
女官長の説明を、李斎は頷いて聞いている。
朝餉の後で、いつものように書見していた李斎のもとへ、かなり重そうな帙が二と、
幾つかの巻物が運ばれてきて、脇の小卓に載せられたところである。
ずっと法令集を読んできたのだが、これは、その天綱地綱に定められた事柄の、実際
の運用記録だった。驕王末期にはあらゆる行事が派手となり、法外な費用が使われてい
る。それで、和元年間よりずっと遡って、もっとも常識的でお手本となる時代を、女官
長は選んだらしい。
「それは…?」
李斎は、巻物の下のごく小さな帙に目を留めた。絹が張られているが、題字がない。
「先の后妃のおつけになっておられた覚書でございます」
李斎は手元に引き寄せた。おそらくは他の記録と同時代のもので、説明しなかったと
ころをみると、参考として持ってきたのだろう。
白瑪瑙の爪を外すと、薄青の表紙の冊子が五。一冊を下ろし、幾頁か見ていた李斎は、
女官長に聞いた。
「…これ、他にどのくらいありますか」
「同様の帙で、六ございます」
李斎がちょっと首を傾けた。女官長がそれに答えた。
「ほぼ毎日おつけであったようですが、私的な記録であるため、ご本人がお持ちになら
れるなどして、一部しか残ってはおりません。ただいま御文書庫に保管されております
のは、およそ、二十年分弱かと」
李斎は捲っていた一冊を閉じると、出しておいてくれるよう頼んだ。全てかと確かめ
た女官長に頷き、ちょっと笑った。李斎の方からこうしたことを頼んだのは、初めてで
ある。
「黒巻も、やっと、あと三巻で読み終えるから、行事記録と並行して読めば、無理には
ならないと思います」
女官長はわずかに目を開いた。
「……三巻、でございますか」
李斎は肩を竦め、苦笑した。
「思ったより時間がかかりました…。昔から、法令を読むのは遅くていけない」
頭を振り、先代王后の日記をもとどおり帙に収めると、李斎はまた、先ほどまでの続
きを、目で追い始めた。
「…」
背後の女官長は、珍しく少し瞬いてその姿を眺め直した。李斎は、宮中典令綜覧を、
読んでいる。
宮中典令綜覧というのは、膨大な量の法令集だ。略して綜典、別称を「黒巻(こっか
ん)」という。巻物が黒い亜麻布で装丁されているためだ。天綱に定められた、王宮に
かかわる数条を頂点として、その下に地綱、これに細則に附則がつき、各々の時代に加
えられる天官府規則、天官長令、次官通達(内宰令)…と、王宮諸事についての現行法
規の全てとなると、恐ろしい量に膨れ上がる。
李斎はこれを与えられ、端から学ばせられた。
いやしくも后妃たるもの、最低限、後宮に関わることだけでも、一通りは知っておか
なくてはならない。いま現在、運営されていない物理的な後宮の諸事が、学習から外さ
れたものの、李斎にはその分、正寝について学ぶ必要があり、どちらかと言えばそちら
方が厄介であった。
李斎は華燭から今日まで、日中の大半を、これらの学習に費やしている。
夕餉の後も、驍宗は大抵、なんらかの仕事と書見を、正寝でもする。ひとりで過ごす
その間、李斎はひたすら条文を読んでいた。
女官長は、胸の中で頷いた。
黒巻は、大学を出たばかりの官吏を泣かせる量だ。そもそも彼女の生徒は、机仕事が
苦手である。黒巻を積み上げられたときには明らかに、弱った、という様子さえ見せて
いた。
ただ、苦手だからと言って、この后妃は手を抜かない。一度始めれば没頭し、大変な
集中力を示す。
一刻ほど書見した頃に、いつもならば驍宗が一度戻ってくる。だが今日は、主上はお
留守である。女官長は頃合いを判断し、茶を淹れて休憩をすすめた。一息入れた後は、
李斎の希望で、字の練習を四半時ばかり、というのが大体のいつもの日程だった。
慶へ向かう途上で妖魔に襲われ、命を拾った代わりに利き腕を失って、一年半が経つ。
もともと運動能力の秀でている李斎は、日常生活の支障をかなり克服していたが、文字
となるとまだ、子供の域を出ていない。
実は過日、公式の祝詞とは別に、奏南国宗后妃から、李斎宛に便りが届いた。后妃明
嬉の直筆で、内容は、嫁いだばかりの李斎を気遣う、温かな、心こもったものであった。
本文を官に浄書させた上で自署をし、返書した李斎だったが、前にもまして、いずれ
は自筆の書簡をしたためられるようにならなくては、との思いが強くなっていた。
机上に、玻璃窓から冬の陽光が射し入る。火炉には花文様の鉄瓶がかけられたままで、
ちりんちりんと小さく鳴っていた。
墨を磨り始めた李斎に、傍らに控える女官長が言った。
「今日は、陽の照ります割に大層冷え込んでおります。午後から、暖房(かん)をお入
れ致しましょうか」
「そうして下さい。主上は、今日は下ですから、さぞ冷えて帰られるでしょう。上でさ
え朝は、霜柱がかなりあったくらいだから…」
「今朝はどちらまで」
李斎は毎朝、園林の奥の方まで歩いてくる。
「いつもの、北園(ほくえん)です。葉の落ちた枝の間から見ると、すっかり冬の空に
なっていますね…」
ゆったりと話す李斎に、女官長はさようでございますか、と答えて、再度、李斎の背
中を眺めた。しゃんと背を立て、墨を磨(す)っている姿には、非の打ち所がなく、ど
うやら彼女の基準を満たしている。
「――后妃におかれては、このところ、姿勢がよろしくおなりあそばされました」
女官長の言に、李斎は途端に嬉しそうに、ちょっと背を反らしてみせた。
「だいぶ筋の力がもどって、肩に肉もついたからか、真直ぐにしていて苦にならなくな
ったみたいです。やはり負荷をかけたのが、よかったようですね」
さらに強く両肩を引いてみせ、李斎は笑んだ。
右袖も左と対象にわずかに広がる。このところ日中、曲げた腕の形に重りを入れた布
製の義手を付けている李斎である。その仮の腕ごと袖を少し上げられるほどに、李斎の
右肩の周囲の肉は、戻りつつあった。
「それに、あの体操の効果でいらっしゃいましょう」
李斎の袖の動きが止まった。
「あ。いや。それは……ですね、その」
「湯殿でも、お湯におつかりの時間よりも、体操なさっておられる時間の方が長いご様
子でございますし、…ことによると朝なども園林の奥でなさっておいでなのではござい
ますまいか」
李斎の沈黙は、それが事実だと語っている。
李斎は紙を見つめ、女官長が暴露するであろうその続きを待った。実際、あらゆる人
目のない時間をとらえては、筋力をつけるための鍛錬をしていた。
「拝見いたしますに、」
――あれ。もうひとつはばれてないのか。李斎が心で首を傾けたとき、
「后妃のご健康とお体の姿勢には、運動は必要で、効果的であると存じ上げます」
「……そぅ?」
ちょっと吃驚した李斎に女官長は、耳を疑うようなことを、いつもの顔と声で言った、
「つきましては、今後、朝餉までのお時間は、後宮で運動あそばされてはいかがでござ
いましょう」
「……」
女官長はちらと一瞬后妃の顔に目を滑らせた。まともに目を見開き、女官長をぽかん
と椅子から見上げている。
「…。なんでございましょうか」
「本当に、いいの?」
聞き方がまるきり子供である。女官長は内心たじろいだが、表には出さなかった。
「そのように申し上げました。お住まいがどちらであろうと、あなた様は本来が後宮の
主、およそ二声宮以外の場所へのお立ち入に、差し支えはございません。東宮には馬場
がございますし、今日中に草を刈らせておきます。馬を数頭お入れしますので、ご自分
でお選びになられるとよろしいでしょう。それから小官は詳しく存じませんが、」
女官長は一層の無表情で付け加えた。
「鍛錬には、木でこしらえた剣や槍などがあるのだとか。あちらでならば、そういった
ものを、多少振り回したりなされようとも、誰の目にもふれることはないと存じます」
「ありがとう女官長。とても、嬉しい」
李斎は真直ぐに女官長を見、心からそう言うと、破顔した。
女官長はわずかに眉を動かした。
衒いのまったくない、この后妃のこういうところが、女官長は苦手である。李斎の言
動が心に触れ、どうかすると気持ちの遣り取りをしてしまいそうになるのを、非常に警
戒していた。それでもこうした不意打ちには、多少の動揺を禁じえない。
そのため、后妃というものは感情をあまり顔に出すものではないと、諭すべきところ
を、必要なことを手配したまでで謝意を表して頂く立場ではない、とせいぜい無表情で
言っただけになった。
公私の隔てに厳しく、教育係の天官たる職務上の立場を貫かんとする女官長は、苦手
な理由についてはそれ以上、考えないようにしていた。
だが、いくら考えずとも、彼女はこの出来の悪い生徒を、好いている。
「失礼いたします」
声に振り返ると、黒い官服を着けた正寝の官が、書状を手に、扉口で平伏していた。
正寝の官、といっても、この一角は事実上の後宮だから、必ず女性の官が来る。
女官長が立って行き、書状を受け取る。
「冬官府から使者が参っております。大司空琅燦殿、本日、ご機嫌伺いに罷り越したし
との口上と、お手紙でございます」
「琅燦殿が?」
型どおりの訪問伺いの短い書面だが、李斎の顔が輝く。琅燦とは、華燭の宴席以来、
もう一月以上会っていなかった。
李斎は早速、会う旨を伝えて使いを返した。
ひとりの昼食をすませてしばらくしたその午後に、正寝付の女官が扉口にあらわれ、
平伏の後立ち上がると、立礼したまま、独特の歌うような節回しで、来訪者を告げた。
「大司空が、参りました……」
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朝食を終えた驍宗が、布で口を拭いながら、忘れぬうちにと前置いて、言った。
「今日は、昼餉に戻られぬ。そのつもりで」
李斎は首を傾けた。李斎が王宮に上がってから、どんなに多忙な日も外殿から内殿へ
移る前に、最低一度は正寝に戻った驍宗である。特に大事が起きたとは、聞いていない。
「どちらかに、おでましになられるのでございますか」
うむ、と驍宗は答える。
「地官、夏官の主立ったものたちと、鴻基の街と近郊の数県を、見てくる。雪の前に、
一度この目で見ておきたい」
李斎は頷いた。
この年のわずかな量の収穫も終わり、冬が本格化する直前であった。飛燕に会うとき
に禁門から眺めれば、遠くの峰はもう白く、穏やかな雲海にかこまれた白圭宮にも、連
日霜が降りて、明け方など既にかなりの寒さだ。雪が降るのはもう時間の問題だった。
そして、瑞州の内でさえ、まだ妖魔は出ると聞く…。
「お気をつけて、おでかけ下さいませ」
思わず案じた声になった李斎に言ってやる、
「大丈夫だ。瑞州師が警護につく。新しい中将軍も同道させるゆえ」
「はい」
笑んで頷いた李斎に、驍宗は問うた。
「後任がどのようにやっておるか、聞かぬのか」
「いいえ」
李斎は笑んだまま、きっぱりと答えた。
「わたくしが気にかける筋ではございません」
「そなたに手伝わせておるらしいぞ」
意外な言に、李斎は目を見開き、首を傾けた。
「それは、どういう…」
「たまたま朝議の席で話題になったゆえ、私も今日、初めて知った。初の閲兵で将軍が
した訓示が、全兵士の心をとらえたということだ。いわく、――われわれは劉軍である、
と」
初めての閲兵式で、若い指揮官は、台上で叫んだ。
――赤誠の心で、主上台輔にお仕えせん。我等、劉軍なり。
その一言に、彼自身の前任者に抱く尊敬、そして目の前の全兵が抱く李斎への思慕の、
全てがあった。兵の顔は輝き、軍吏は涙を押さえながら、拳を空に突き上げて鬨声をあ
げたという。
「…あの者が、ですか」
李斎は思わず、胸を押さえていた。
「顔は知っていたか」
李斎は頷く、
「話したことは一度もありませんでしたが。…大人しくて寡黙すぎるが、戦場では勇猛
果敢、人物がよいから、運があれば指揮官になれるだろう、などと、昔、演習のおりに、
師帥たちが評価していたひとです」
驍宗は笑った。
「確かに、そういう男であるようだな。よもや私の耳に入るとは思っていなかったらし
い。話が出されると、首まで赤くして、下を向いたままであった」
驍宗は笑みながら、白湯を一口飲んだ後、真顔になった。
「そなたの後任は、誰がなっても難しい。あの若い将軍が、どうやって切り抜けるかと
思っていたのだが、見事にやったようだ。これで、安心して任せられる」
驍宗の言葉に、李斎も心が熱くなる思いであった。
王師の将軍としての勤務が非常に短い期間であったにもかかわらず、李斎は兵に愛さ
れていた。李斎の軍であったということで、阿選は最後まで、瑞州師中軍を信じなかっ
た。それゆえ、中軍が『国賊軍』の汚名とともに、承州から鴻基に戻されたあの暗い春
からこの夏までの六年半余、国のどこで内乱が起きても、ついに一度も鴻基から出さず
に、飼い殺したのだ。
中軍がいまの規模で残存したのには、そうした理由があった。
『大逆の将の軍』は、師帥にいたるまでがすべての冬器の返還を命じられ、全兵卒も
通常は丸腰で、剣さえ持たせられなかった。空行師からは、騎獣が奪われた。組織立っ
た逃亡や反逆ができぬよう、常に武装した禁軍右軍を監視につけられ、ただ土木作業の
ためだけに、生かされていた。それは徒刑に等しかった。兵営は牢だった。
体の維持という名目で、木刀、木槍で訓練はするものの、武人としての誇りは踏みに
じられ、自分たちを貶める偽王に「食わされている」というやりきれなさは、農民上が
りの一兵卒の心さえも、痛めつけた。
その頃には、どう情報が操作されようと、阿選が真の謀反人であること、無実の罪を
着せられた李斎が生きて、各地で反阿選の兵を挙げ奔走していることを、誰もが知って
いた。その乱が鎮められるたび、彼らは絶望と戦い、李斎がまだ生きていることが伝わ
ると、感謝の祈りを捧げて、再びひそかに希望を燃やした。
劉軍、とは、その頃、誰からともなく自らをそう呼び始めたものであった。
阿選への怨念と李斎への思慕で生き続けた彼らは、蓬莱へ流されて帰れるはずのなか
った台輔を取り戻して帰国したのが、他ならぬ自分たちの将であると知り、狂喜した。
鴻基の内側からの火の手は、彼らによって上がったのである。鴻基を守る禁軍は、武
装はしていても、もはや彼らの半分以下で、しかも、驍宗帰還の報に浮き足立っていた。
市民は、この六年半、生活を守る工事はしても、自分たちに刃を向けることのなかった
兵士たちを、覚えていた。千を越す首都の民が、呼びかけに応じた。工具、木杖を手に
した中軍は、市民と共に、怒涛の勢いで禁軍に迫り、これを説得し、開城させたのであ
る。
その後、驍宗軍に合流して武器を与えられた彼らの働きは、恐ろしいほどであったと
いう。
李斎は鴻基入城後に、心を込めて彼女の最後の閲兵を行い、兵を労った。
隻腕でよいからとどまってほしい、というのが、兵士たちの本音であったが、彼女は
辞職した。驍宗の后妃として白圭宮に入ることになったのは、李斎には予想もしなかっ
た成り行きだったが、兵らにすれば、王后におなりだと聞かされたからこそ、どうにか
受け容れられた辞職であった。それだけに、後任への思いは複雑であり、新任者の苦労
を誰もが案じたのだった。
いつまでも自分が未練のように、中軍を気にかけては、新将軍の妨げとなると思い、
様子を尋ねることさえしなかった李斎だが、いま、一軍の結束を聞かされると、たまら
なく嬉しかった。
妻の押さえきれぬ笑顔に、微笑んでいた驍宗は、ゆっくりしすぎたことに気づくと、
さて、と白湯の椀を置いた。
「そろそろ着替えた方がよいな。それにしても、騎乗するのも久しぶりだ」
驍宗が立ち上がり、李斎も席を立った。驍宗が考えるような口ぶりで、振り返る。
「…帰りが、はっきりせぬ。常の夕餉の時刻には間に合わぬかも知れぬゆえ、そなたは」
「あ、はい。お待ちしております」
驍宗は一瞬黙った。
「待っていてくれるか」
「はい」
李斎が素直に答えて、驍宗はちょっと複雑な面持ちになった。
「うむ」
瞬き、わずかに口元を歪めた。
「では、行って参る」
嬉しかった驍宗は、難しい顔で告げた。そのとき、李斎はたいそう元気良く、出て行
く夫に、声をかけた、
「お早くお戻りあそばされませっ」
驍宗の歩みが、止まった。
部屋に居た女官全員が、息を飲み、女官長の顔もかすかにだが、一瞬強ばった。
驍宗が驚いた顔で振り返る。
だがどうやら、一番驚いたのが、その言葉を発した当人だったようだ。
「…、」
李斎は口を閉じるのも忘れていた。王師の話で高揚したとはいえ、いまの声は、王后
が王を見送るには少し大きすぎた。そして内容は、宮中にあっては庶民的にすぎていた。
驍宗が今日一日、宮殿を空けると知って、大変な昔、父が少し遠出する日に、母が言っ
て送り出していた「早く帰ってくださいね」が、転がり出てこようなどとは、思いもよ
らなかった。
沈黙の中、驍宗が突如、声を上げて笑った。
女官たちが驚いて主上の方を見た。驍宗は笑いやめると、先ほどの李斎よりも大きな
声で、こう言った。
「あい分かった。できるだけ早く帰る」
そして、また笑いながら、出かけてしまった。
「今日は、昼餉に戻られぬ。そのつもりで」
李斎は首を傾けた。李斎が王宮に上がってから、どんなに多忙な日も外殿から内殿へ
移る前に、最低一度は正寝に戻った驍宗である。特に大事が起きたとは、聞いていない。
「どちらかに、おでましになられるのでございますか」
うむ、と驍宗は答える。
「地官、夏官の主立ったものたちと、鴻基の街と近郊の数県を、見てくる。雪の前に、
一度この目で見ておきたい」
李斎は頷いた。
この年のわずかな量の収穫も終わり、冬が本格化する直前であった。飛燕に会うとき
に禁門から眺めれば、遠くの峰はもう白く、穏やかな雲海にかこまれた白圭宮にも、連
日霜が降りて、明け方など既にかなりの寒さだ。雪が降るのはもう時間の問題だった。
そして、瑞州の内でさえ、まだ妖魔は出ると聞く…。
「お気をつけて、おでかけ下さいませ」
思わず案じた声になった李斎に言ってやる、
「大丈夫だ。瑞州師が警護につく。新しい中将軍も同道させるゆえ」
「はい」
笑んで頷いた李斎に、驍宗は問うた。
「後任がどのようにやっておるか、聞かぬのか」
「いいえ」
李斎は笑んだまま、きっぱりと答えた。
「わたくしが気にかける筋ではございません」
「そなたに手伝わせておるらしいぞ」
意外な言に、李斎は目を見開き、首を傾けた。
「それは、どういう…」
「たまたま朝議の席で話題になったゆえ、私も今日、初めて知った。初の閲兵で将軍が
した訓示が、全兵士の心をとらえたということだ。いわく、――われわれは劉軍である、
と」
初めての閲兵式で、若い指揮官は、台上で叫んだ。
――赤誠の心で、主上台輔にお仕えせん。我等、劉軍なり。
その一言に、彼自身の前任者に抱く尊敬、そして目の前の全兵が抱く李斎への思慕の、
全てがあった。兵の顔は輝き、軍吏は涙を押さえながら、拳を空に突き上げて鬨声をあ
げたという。
「…あの者が、ですか」
李斎は思わず、胸を押さえていた。
「顔は知っていたか」
李斎は頷く、
「話したことは一度もありませんでしたが。…大人しくて寡黙すぎるが、戦場では勇猛
果敢、人物がよいから、運があれば指揮官になれるだろう、などと、昔、演習のおりに、
師帥たちが評価していたひとです」
驍宗は笑った。
「確かに、そういう男であるようだな。よもや私の耳に入るとは思っていなかったらし
い。話が出されると、首まで赤くして、下を向いたままであった」
驍宗は笑みながら、白湯を一口飲んだ後、真顔になった。
「そなたの後任は、誰がなっても難しい。あの若い将軍が、どうやって切り抜けるかと
思っていたのだが、見事にやったようだ。これで、安心して任せられる」
驍宗の言葉に、李斎も心が熱くなる思いであった。
王師の将軍としての勤務が非常に短い期間であったにもかかわらず、李斎は兵に愛さ
れていた。李斎の軍であったということで、阿選は最後まで、瑞州師中軍を信じなかっ
た。それゆえ、中軍が『国賊軍』の汚名とともに、承州から鴻基に戻されたあの暗い春
からこの夏までの六年半余、国のどこで内乱が起きても、ついに一度も鴻基から出さず
に、飼い殺したのだ。
中軍がいまの規模で残存したのには、そうした理由があった。
『大逆の将の軍』は、師帥にいたるまでがすべての冬器の返還を命じられ、全兵卒も
通常は丸腰で、剣さえ持たせられなかった。空行師からは、騎獣が奪われた。組織立っ
た逃亡や反逆ができぬよう、常に武装した禁軍右軍を監視につけられ、ただ土木作業の
ためだけに、生かされていた。それは徒刑に等しかった。兵営は牢だった。
体の維持という名目で、木刀、木槍で訓練はするものの、武人としての誇りは踏みに
じられ、自分たちを貶める偽王に「食わされている」というやりきれなさは、農民上が
りの一兵卒の心さえも、痛めつけた。
その頃には、どう情報が操作されようと、阿選が真の謀反人であること、無実の罪を
着せられた李斎が生きて、各地で反阿選の兵を挙げ奔走していることを、誰もが知って
いた。その乱が鎮められるたび、彼らは絶望と戦い、李斎がまだ生きていることが伝わ
ると、感謝の祈りを捧げて、再びひそかに希望を燃やした。
劉軍、とは、その頃、誰からともなく自らをそう呼び始めたものであった。
阿選への怨念と李斎への思慕で生き続けた彼らは、蓬莱へ流されて帰れるはずのなか
った台輔を取り戻して帰国したのが、他ならぬ自分たちの将であると知り、狂喜した。
鴻基の内側からの火の手は、彼らによって上がったのである。鴻基を守る禁軍は、武
装はしていても、もはや彼らの半分以下で、しかも、驍宗帰還の報に浮き足立っていた。
市民は、この六年半、生活を守る工事はしても、自分たちに刃を向けることのなかった
兵士たちを、覚えていた。千を越す首都の民が、呼びかけに応じた。工具、木杖を手に
した中軍は、市民と共に、怒涛の勢いで禁軍に迫り、これを説得し、開城させたのであ
る。
その後、驍宗軍に合流して武器を与えられた彼らの働きは、恐ろしいほどであったと
いう。
李斎は鴻基入城後に、心を込めて彼女の最後の閲兵を行い、兵を労った。
隻腕でよいからとどまってほしい、というのが、兵士たちの本音であったが、彼女は
辞職した。驍宗の后妃として白圭宮に入ることになったのは、李斎には予想もしなかっ
た成り行きだったが、兵らにすれば、王后におなりだと聞かされたからこそ、どうにか
受け容れられた辞職であった。それだけに、後任への思いは複雑であり、新任者の苦労
を誰もが案じたのだった。
いつまでも自分が未練のように、中軍を気にかけては、新将軍の妨げとなると思い、
様子を尋ねることさえしなかった李斎だが、いま、一軍の結束を聞かされると、たまら
なく嬉しかった。
妻の押さえきれぬ笑顔に、微笑んでいた驍宗は、ゆっくりしすぎたことに気づくと、
さて、と白湯の椀を置いた。
「そろそろ着替えた方がよいな。それにしても、騎乗するのも久しぶりだ」
驍宗が立ち上がり、李斎も席を立った。驍宗が考えるような口ぶりで、振り返る。
「…帰りが、はっきりせぬ。常の夕餉の時刻には間に合わぬかも知れぬゆえ、そなたは」
「あ、はい。お待ちしております」
驍宗は一瞬黙った。
「待っていてくれるか」
「はい」
李斎が素直に答えて、驍宗はちょっと複雑な面持ちになった。
「うむ」
瞬き、わずかに口元を歪めた。
「では、行って参る」
嬉しかった驍宗は、難しい顔で告げた。そのとき、李斎はたいそう元気良く、出て行
く夫に、声をかけた、
「お早くお戻りあそばされませっ」
驍宗の歩みが、止まった。
部屋に居た女官全員が、息を飲み、女官長の顔もかすかにだが、一瞬強ばった。
驍宗が驚いた顔で振り返る。
だがどうやら、一番驚いたのが、その言葉を発した当人だったようだ。
「…、」
李斎は口を閉じるのも忘れていた。王師の話で高揚したとはいえ、いまの声は、王后
が王を見送るには少し大きすぎた。そして内容は、宮中にあっては庶民的にすぎていた。
驍宗が今日一日、宮殿を空けると知って、大変な昔、父が少し遠出する日に、母が言っ
て送り出していた「早く帰ってくださいね」が、転がり出てこようなどとは、思いもよ
らなかった。
沈黙の中、驍宗が突如、声を上げて笑った。
女官たちが驚いて主上の方を見た。驍宗は笑いやめると、先ほどの李斎よりも大きな
声で、こう言った。
「あい分かった。できるだけ早く帰る」
そして、また笑いながら、出かけてしまった。
日出から一刻、ようやく気温が少し上がり始めた頃、朝議を終えた驍宗が、外殿の議
堂から戻ってきて、朝の食卓につく。
主食は大麦の黒いパンで、よもぎが入っている。いまどきの戴としては、牛の乳が椀
に注がれて毎朝出されているのが、唯一、王の朝餉らしいといえるかもしれない。
驍宗は、健啖である。硬い黒パンをちぎっては、うまそうに口へ運び、よくかみ締め
てしっかり食べる。李斎も食欲旺盛な方である。起きて既に一刻半、双方お腹は空いて
いる。
二人はいつものように楽しげに話しながら、嬉しそうに食べた。彼らはこの食卓を乏
しいとも質素だとも思ってはいない。
以前は、外殿もしくは内殿のどこかで、たいていは執務の合間に朝昼すませ、夜もど
うかすると仕事をしながら摂ることさえあった驍宗が、李斎を迎えて以来、毎日三度、
ほぼ同じ時刻に、正寝に戻って食事をしている。
主上の膳は現在、正寝の厨房一箇所で作られている。驍宗が、兵営で出される以上の
食材を入れさせないので、献立は全体に、王の膳と呼ぶには簡素であった。
独身時代から驍宗は、朝議の後に朝食を摂っていた。起きて、外殿に出るために着替
える折、そこに湯冷ましを一杯と兵士の携行食である氷砂糖を一二個用意させ、それだ
けで朝食まで仕事をした。いまはそれを知った李斎が、かわりになにかしらの甘味のも
のを用意させるようになっている。大抵は、彼女自身がこしらえたものである。
王殿には、菓子の類がほとんどなかった。もっとも数週前の立后の折は、祝いに献上
されたり、他国から返書に添えて届いたりして、かなり上等の菓子がいくつもあった。
いまの戴で立派な菓子などは手に入りにくいから、その後もときどき献上がある。が、
驍宗はどれも礼議上一度食すと、懐紙に包んで、臣に与えるのだった。とりわけ妻のあ
る者にはいつも、奥方と食べるよう言い添え、二人分渡した。
一度の茶うけで消えるものだが、皆これをとても喜んだ。重責と激務の見返りとして
本来、国官が享受するはずの富裕な生活もなく、それどころか主にならって家内をきり
つめ辛抱している臣下へのねぎらいとして、主の心も菓子の甘さも、両方が嬉しかった。
そんなふうに高価な菓子はひとにやってしまうので、主上の分はいつもないが、当人
は、それでかまわぬと言う。だから、正寝の誰もが、主上は甘いものがお好きではない
のだと、思い込んでいた。李斎も、当初は気づかなかった。
驍宗が甘いものをむしろ好むのだ、とは、蓬山で干杏が好物だという話から知ったは
ずだったが、李斎はそのことを、もうすっかり忘れていた。
后妃の部屋には、来客にそなえ、粗末でない程度の菓子が少しは準備されることにな
っていた。だが、李斎が正寝に上がって以来、日中驍宗がたびたび茶を飲みに来るので、
すぐに用意などはなくなってしまい、困っている女官に、思いつきで、官邸から持参し
たものを出してよいかと、尋ねたのだった。
「それが、桃の砂糖漬けであったな」
驍宗が思い出し、笑んで言う。
「さようでございます。延台輔の桃でございました」
李斎もパンをちぎりながら、思い出して、微笑んだ。
夏に、延王の援軍が到着したおり、血を避けねばならぬ泰麒を守って、李斎ははるか
後方にいた。そこに、見事な桃が一籠、届けられてきた。
戴の気候では桃は作物として成り立つほどは出来ない。丹精すれば生らぬでもないが、
実はごく小さく、味も大して良くはない。大きな桃は一目で異国の産と分かる。籠は、
雁国の麒麟からであった。
延王が直接、驍宗に手渡したのだという。雁国精鋭の空行師の先頭に、堂々の長身に
見事な皮甲をつけ、翠緑の黒髪をなびかせた永遠の青年王は立ち、片腕に提げた桃の籠
を持ち上げた。そして、軽く鼻を鳴らした。
――せっかくの再会の光景が、間の抜けた図になるから嫌だ、と言ったのだがな。
目を見張った驍宗に、延は愉快そうに笑った。
――うちのガキが、どうあっても持っていけときかぬのでな。貴公の、あの見事な女将
軍にだ。お渡し願いたい。
驍宗は驚いて延を見つめたのち、わずか眼を伏せて笑み、籠を受け取った。
――ありがたく、存ずる。
夏場のこととて、果実の足は速い。恐縮してこれを頂戴した李斎は、可能な限り泰麒
に食べさせると、隣国の麒麟の心遣いを無駄にせぬよう、残りを丁寧に加工して、保存
した。
それが、秋に、食べ頃のまま封をした壺に入って、李斎と一緒に宮中に上がったわけ
である。
「あれは旨かった。もうないのだろう」
とっくに自分が食べてしまっておきながら、分かっていて驍宗はまた聞くから、李斎
は可笑しがる。
「桃は無理でございますが…、なにか果実が手に入りましたときは、お砂糖煮でもお作
りしますか」
「うむ。頼む」
本来ならば、いくらでも上等なものを召し上がってよいお立場なのに、と、驍宗の喜
色に李斎は少しばかり気が引ける。どんな高級な外国の菓子よりも、妻が煮てくれるか
らよほど嬉しく、楽しみなのだとは、分かっていない李斎である。
堂から戻ってきて、朝の食卓につく。
主食は大麦の黒いパンで、よもぎが入っている。いまどきの戴としては、牛の乳が椀
に注がれて毎朝出されているのが、唯一、王の朝餉らしいといえるかもしれない。
驍宗は、健啖である。硬い黒パンをちぎっては、うまそうに口へ運び、よくかみ締め
てしっかり食べる。李斎も食欲旺盛な方である。起きて既に一刻半、双方お腹は空いて
いる。
二人はいつものように楽しげに話しながら、嬉しそうに食べた。彼らはこの食卓を乏
しいとも質素だとも思ってはいない。
以前は、外殿もしくは内殿のどこかで、たいていは執務の合間に朝昼すませ、夜もど
うかすると仕事をしながら摂ることさえあった驍宗が、李斎を迎えて以来、毎日三度、
ほぼ同じ時刻に、正寝に戻って食事をしている。
主上の膳は現在、正寝の厨房一箇所で作られている。驍宗が、兵営で出される以上の
食材を入れさせないので、献立は全体に、王の膳と呼ぶには簡素であった。
独身時代から驍宗は、朝議の後に朝食を摂っていた。起きて、外殿に出るために着替
える折、そこに湯冷ましを一杯と兵士の携行食である氷砂糖を一二個用意させ、それだ
けで朝食まで仕事をした。いまはそれを知った李斎が、かわりになにかしらの甘味のも
のを用意させるようになっている。大抵は、彼女自身がこしらえたものである。
王殿には、菓子の類がほとんどなかった。もっとも数週前の立后の折は、祝いに献上
されたり、他国から返書に添えて届いたりして、かなり上等の菓子がいくつもあった。
いまの戴で立派な菓子などは手に入りにくいから、その後もときどき献上がある。が、
驍宗はどれも礼議上一度食すと、懐紙に包んで、臣に与えるのだった。とりわけ妻のあ
る者にはいつも、奥方と食べるよう言い添え、二人分渡した。
一度の茶うけで消えるものだが、皆これをとても喜んだ。重責と激務の見返りとして
本来、国官が享受するはずの富裕な生活もなく、それどころか主にならって家内をきり
つめ辛抱している臣下へのねぎらいとして、主の心も菓子の甘さも、両方が嬉しかった。
そんなふうに高価な菓子はひとにやってしまうので、主上の分はいつもないが、当人
は、それでかまわぬと言う。だから、正寝の誰もが、主上は甘いものがお好きではない
のだと、思い込んでいた。李斎も、当初は気づかなかった。
驍宗が甘いものをむしろ好むのだ、とは、蓬山で干杏が好物だという話から知ったは
ずだったが、李斎はそのことを、もうすっかり忘れていた。
后妃の部屋には、来客にそなえ、粗末でない程度の菓子が少しは準備されることにな
っていた。だが、李斎が正寝に上がって以来、日中驍宗がたびたび茶を飲みに来るので、
すぐに用意などはなくなってしまい、困っている女官に、思いつきで、官邸から持参し
たものを出してよいかと、尋ねたのだった。
「それが、桃の砂糖漬けであったな」
驍宗が思い出し、笑んで言う。
「さようでございます。延台輔の桃でございました」
李斎もパンをちぎりながら、思い出して、微笑んだ。
夏に、延王の援軍が到着したおり、血を避けねばならぬ泰麒を守って、李斎ははるか
後方にいた。そこに、見事な桃が一籠、届けられてきた。
戴の気候では桃は作物として成り立つほどは出来ない。丹精すれば生らぬでもないが、
実はごく小さく、味も大して良くはない。大きな桃は一目で異国の産と分かる。籠は、
雁国の麒麟からであった。
延王が直接、驍宗に手渡したのだという。雁国精鋭の空行師の先頭に、堂々の長身に
見事な皮甲をつけ、翠緑の黒髪をなびかせた永遠の青年王は立ち、片腕に提げた桃の籠
を持ち上げた。そして、軽く鼻を鳴らした。
――せっかくの再会の光景が、間の抜けた図になるから嫌だ、と言ったのだがな。
目を見張った驍宗に、延は愉快そうに笑った。
――うちのガキが、どうあっても持っていけときかぬのでな。貴公の、あの見事な女将
軍にだ。お渡し願いたい。
驍宗は驚いて延を見つめたのち、わずか眼を伏せて笑み、籠を受け取った。
――ありがたく、存ずる。
夏場のこととて、果実の足は速い。恐縮してこれを頂戴した李斎は、可能な限り泰麒
に食べさせると、隣国の麒麟の心遣いを無駄にせぬよう、残りを丁寧に加工して、保存
した。
それが、秋に、食べ頃のまま封をした壺に入って、李斎と一緒に宮中に上がったわけ
である。
「あれは旨かった。もうないのだろう」
とっくに自分が食べてしまっておきながら、分かっていて驍宗はまた聞くから、李斎
は可笑しがる。
「桃は無理でございますが…、なにか果実が手に入りましたときは、お砂糖煮でもお作
りしますか」
「うむ。頼む」
本来ならば、いくらでも上等なものを召し上がってよいお立場なのに、と、驍宗の喜
色に李斎は少しばかり気が引ける。どんな高級な外国の菓子よりも、妻が煮てくれるか
らよほど嬉しく、楽しみなのだとは、分かっていない李斎である。
牀榻の広い天井と太い柱は、はっきり言ってしまえば、寝室の意匠としては重苦しい
ほどの彫刻で埋め尽くされている。特に、真上に配された四神(しじん)などは、慣れ
るまで目が合うたびにぎょっとするほどの、精巧な出来である。
いま、天井に彫られた、見事な芙蓉の花を挟んで互いに向き合う東西神の輪郭は、帳
の中で、薄く白んだかすかな朝の光線に、ぼんやりと浮かび上がっている。
ほんの少し前に、それらがいまだ闇に沈んだままであることを確かめて、安心して息
をつき、瞼をまた閉じたばかり――の、つもり――であった李斎は、青龍と白虎の姿が
目に入ると、途端に顔を引きつらせて息をのみ、弾かれたように跳ね起きた。
そのまま気色ばんで振り返り、隣の枕を確かめる。
そこには、可笑しそうにした良人(おっと)の顔が、あった。
聞こうとした李斎に、先に言う、
「…大丈夫だ。まだ早い」
ちょっと落ち着いた李斎だが、すぐまた不安げに外をうかがった。
確かに薄暗く、人の立ち働く気配も感じないが……。
「たったいま一番鶏が鳴いたところだ。官たちも、やっと起き出した時分だろう」
のんびりと枕に頭をつけたまま、驍宗が言う。
ようやく、李斎はほっと息をついた。
朝議は、夜明けに始まる。とはいえ、北東の極国は日出がたいへんに早い。そのうえ、
極寒の冬がある。いわゆる「一番鶏で参集、日の出前開始」を遵守しては、官の眠る時
間などはなくなるし、冬は、最も冷え込む時間帯にあたるので、暖房がまだ効いていな
い広い議堂では、報告にも質問にも、しゃべるだけで苦労する事になる。
先代の王は、それでもその時刻に固執して官を集めていたが、早い時間から入れられ
る暖房の燃料は毎冬、莫大なものについたし、それも温まるまで質疑はしばしばおざな
りになった。
能率を尊び、臣として前王の朝議にも長年出席した驍宗は、登極してすぐに、朝議の
開始時間を、いまの時刻に改めさせていた。
夏場は夜明けに始めたが、冬は官の集合を、夜が明けてから、とした。これによって
官の負担は軽減して、朝議自体の時間も短くなった。暖房費は以前よりも削られたが、
睡眠が十分な上、簡単な朝餉をとって参内するもの、軽い運動で温まってから来るもの
などが増え、ために、議事の進行はいつも円滑であった。
驍宗は枕の上で可笑しそうに笑う。
「毎日、大層な勢いの寝覚めだな」
李斎は顔を赤らめた。
「申し訳ございません。お起こししましたか…?」
驍宗はいや、と首を小さく振った。
「先に鶏一声で目が覚めた。そなたもそれで起きたのだろう。ああ鳴いたかと思ったら、
跳び上がったからな」
驍宗はまた思い出し、くっくっと笑いを漏らした。
李斎は、笑えない。
確かに滑稽なほどの慌てぶりだったかもしれないが、それには、十分な理由があるの
だ。
この一週間ばかり前の朝、二人は揃って、見事に寝過ごした。
華燭から、かれこれ四週間がすぎ、新たな生活にもようやく少し慣れてきたところで
あった。さしものこの二人にも、気の緩みが出たのだろう、としか言いようがない。
もっとも李斎は当初、驍宗も寝過ごしたとは、知らずにいた。
日がすっかり顔を出し、明るくなった牀榻の中で目を覚ました李斎は、交代直前の夜
番の女官たちから、主上がもうだいぶ前にお出ましになったことをきいた。彼女らは驍
宗に『お疲れゆえ、かまえてお起し申し上げぬよう』命じられ、李斎を起さなかったの
だ。女官たちはそれ以外、なにも耳に入れなかったし、李斎も、聞かなかった。
だから、その日まもなく日勤で参内してきた、この国の新しい形態の後宮――あえて
この名称を使うならば、ここは正寝の中の後宮、ということになる――の主席監理官た
る、かの女官長も、その朝は后妃がいつもよりは遅くお起きになられたのだ、としか知
っていなかった。
女官長が、――そして李斎が――知ったのは、二日過ぎてからだった。
「気にするな。私はもう忘れた。日常のささいな失敗などいちいち覚えていては、身が
もたぬ」
「はぁ」
驍宗は、気持ちの切り替えが素晴らしく早い。武人としての優れた気質であろう。李
斎だって、立ち直りは早い。これも素質と長年培った有能な武将としての素養だった。
――けれど。
口をつぐんだ李斎の顔を、驍宗は柔らかな表情でのぞきこむ。
「女官長あたりが、厳しい事を言ったのだろうが、それがあれの仕事だ。あまり神経質
にならず、迷惑をかけてやってよいのだから」
「はい」
「うん…」
微笑んで驍宗は、慰めるように妻の髪を撫でた。
李斎は、発覚後に女官長から諄々と説かれた后妃の心得と責務を、心の中にちらと浮
かべ、夫君の思いやりをありがたく受け取ると同時に、この場合、王としては確かにさ
さいなしくじりであったが、后妃には大事であったのだ、という言葉を後ろにうまく引
っ込めた。そして、撫でている腕が楽になるように、そっと驍宗のすぐ傍らに、寄り添
うようにまた横になった。
驍宗は嬉しそうに笑んだ。
肩についた妻の頭に頬をよせ、なおも軽く撫でつけながら、巨大な牀榻の内をひとわ
たり眺めて、満足げに、こう言った。
「――李斎と寝むと、朝が暖かいな」
李斎は変な顔をし、それから、ちょっと瞬いた。自分も広い天井を見上げ、帳を見回
し、そして、
「……さようでございますね」
と、答える。
――だって、二人なんだから。
同じ牀榻を使うと、夜中二人分の体温で温められ、部屋がしんと冷えても牀榻の中は
ほっこりと温もっている。いくら牀榻が、規格外に大きいとはいえ、帳の内で二人で寝
めば、暖かくて当然なのだが…。
昨日の朝も、驍宗は同じ言葉を口にした。
主上のことだから、なにか意味があって仰っているのだろうか…。
首を傾けたところへ、固い頬がぞり、とこすり付けられ、我に返った。
「そろそろ参る」
間近に薄目で言うその顔の睫毛は、光る白色をしている。それを見ながら、
「はい」
と答えた。
驍宗の髭は、見た目より濃い。白いから目立たぬだけなのだと、嫁いでから知った。
こうして朝の頬を寄せられて、そのことを認めるたび、李斎はつい笑いをかみしめる。
頬ずりの痛さに亡父を連想した自分を思い出しては可笑しくなるし、夫の髭を、触れる
まで失念していたこと自体も可笑しくて、なにか面映い。
驍宗が、背を起こした。
ううんむ、とうなるように声を発しながら伸びをして、腕を巡らせ、ついでに、力い
っぱい大きな欠伸をする。
李斎ははっとして、驍宗が伸びをし始める前に、それとなく視線を逸らした。
驍宗だとて、当然、牀榻の内では伸びもするし盛大な欠伸もするのだ。もっと言えば、
尻のあたりもわき腹も痒ければ掻くし、結う前の髪の中を必ず一度、ごしごしと片手で
やってから、着替えに向かう癖がある。
あって当然なのであるが、ただし、驍宗はそれを、牀榻を一歩出たが最後、絶対にし
なかった。彼のわずかなりとだらしなく緊張を解いている様子というものは、寝室の外
では、けっして見られることがないのだった。
かくて李斎は、彼女だけが目撃することになったこの稀少な光景に、毎朝、するまい
と思っても、異常緊張するのであった。
ゆうゆうと欠伸をおさめると、例によって、こめかみの上辺りの髪の中を無造作に掻
いた後、驍宗は笑顔で振り返り、首を伸ばして、愛妻に最後の挨拶のために顔を近づけ
た。
「行って参る」
軽く頬を寄せて言うと、牀から降り、夜着に一枚衣を引き掛ける。李斎も、大きな枕
机の前の床に降りると、その屈むに十分な広さで足台を避けて礼をとり、帳の外へ主を
送り出した。
「行っていらっしゃいませ」
初日は間違えて、牀榻を出てお見送りしてしまった李斎だが、夫人は王を、牀榻の外
まで送ってはいけないのだった。化粧し衣服を整える前の姿を、牀榻の外の光で夫君に
見せるのは、つつしみに欠け無礼というものだと、後刻、官からやんわりと、叱られた。
(一)
「主上はどちら?」
麒麟は、溌刺とした美声に、これを尋ねた。
範の王宮の正寝正殿、滑らかに光る石の廊下に、透ける領巾をさばいて、顔なじみの
女官が伏礼する。この王宮では女官たちは、ひとりとして同じ服をつけることがない。
「さきほどまでは、西の書院においでであったと存じ上げますが」
「たったいまお伺いしてみたのだけれど、いらっしゃらなかったんだもの」
「さようですの…」
「ね、心当たりないかしら」
この台輔も、あまり麒麟らしい服装ではない。服装以前に、後ろに手を組んで顎を上
げ、首を傾げているしぐさは、見た目の歳よりもさらに稚い。はるか昔には、口やかま
しい官も一人ならずいたものだが、このはしこい麒麟の良く回る頭と舌、そして無敵の
愛敬に全面降伏して、もうかなり久しい。
「お急ぎでいらっしゃいますの、台輔?」
女官の口さえ、どこかうちとけて気張らないのも、この国流である。
「さっき、六太から手紙がきたの。戴の方たちのことが書いてあって、早く主上にお聞
かせしたいのよ」
相手はうなずいた。畏れ多くも当代二番目の大国の宰輔の字が、目下の少年のように
気安げに登場しようとも、いちいち驚く女官は、ここにはいない。
「では、お庭を探してごらんなさいまし。昨日やっと、お気に入りの灯篭が修繕されて
ございますから、おいでかもしれませんよ」
「まぁそうなの。ありがと!それじゃ、またね」
友達にするようにひらひら手をふって駆け出した後ろ姿に、女官は再び、しとやかな
身振りで一礼した。
「眠っていらっしゃる…?」
「いいや」
主は石案に頭をのせたまま、目だけをうっすら開き、のぞきこんでいる可愛い顔を見
ると、微笑んだ。
氾麟は、案(つくえ)の様子を見た。
「書き物をしてらっしゃいましたの?」
「うん…」
書院から、墨斗と紙だけをもって、そぞろ歩きに庭園に下りたらしい。主は、秋の立
ち初めた庭で、金紗の刺繍の上衣を着流して、座っている。小さな四阿で石の案によっ
ているその姿は、絵のように見える、と、氾麟は感嘆と満足の吐息をもらした。
「うん?」
「まだ、お疲れがとれてらっしゃらないのだから、あまり御無理なさらないでね」
「していないよ。心配をおしでない」
「それ。お仕事ではないの?」
「ああ、これかえ…」
のぞきかけて、やめた麒麟に、氾は愛情深く微笑んだ。
「別に読んでもかまやしない。思い出したことを、ただの手すさびに書いてみただけ。
昔のことをね…」
「昔…」
「そう。金波宮でお前と李斎と、戴の話をしただろう。庭を眺めていたら、ふとそんな
気になったのだよ」
氾麟は、はたと体を起こした。
「――李斎。彼女、戴へ帰ったの!」
戴へ…と、王は口の中でつぶやき、整えられた眉をわずかに寄せた。
延麒から届いた手紙によれば、その数日前、角を失った若い麒麟にともなわれ、隻腕
の女将軍は慶を発ち、帰国の途についたのだ。氾麟はそこまでを、急いで彼に告げた。
「そうかえ。帰ったか…」
「ええ、そうよ。ほんとに二人っきりで帰ったのよ。二人で今帰ってどうなるの。あん
まりだと思うわ。どうして、引き止められなかったのかしら、六太たちってば」
半泣き声で、早口になる麒麟に、主はそっと筆筒に筆を戻すと静かに言った。
「興奮おしでないよ。誰にも、彼らを止めることなどは出来ないのだから」
「無事でいてほしいの…」
幼顔の麒麟は、口をとがらせ、拗ねるように俯いた。
「そうかえ…」
とだけ、氾は言った。
帰国するとき、あの二人がいまだ弱小の慶国にあまり長く逗留するのは、両国にとっ
て望ましくないだろうとは、想像がついた。延が、慶との利害と景王へのお節介と、幾
分か義侠心とやらを起こして、二人を早い時期に雁国に連れてくれればよいが、と考え
た。早晩、そうなるだろうと踏んで、慶国を後にした。
だが、その一方で、そうはならぬかもしれないと、どこかで思っていた。
あの悲惨の国に、あまりに非力な今の彼らを返したくはない。十分すぎるほど傷つき
弱った一国の柱の半分たる麒麟、そして国と王と麒麟と民とを、一介の将の身に背負っ
て奮闘し、これも十分傷を負った、雄雄しい婦人。どちらも、なんとしても無事でいて
ほしい。
主が同じ思いなのを、短い声の色に感じて、麒麟は面をあげ、主を見た。主の静かな
視線は、石案の上にあった。
「――書いてはみたけれど…、」
王は、つと紙を引き寄せて、指ではじいた。
「あまりに固過ぎるねぇ、これは。なんだか私らしくなくて、いけない」
麒麟は気をとりなおして、座りながら自分ものぞきこんだ。
「あら。――どう、主上らしくなくていらっしゃるの?」
氾は目にひそかな愛敬を含ませて、微笑んでみせた、
「だって…私が真面目な人間だっていうのは、今じゃあ、あまり知られていないことだ
からねぇ」
氾麟は目をくるりとさせると、しかつめらしく頷いた。
「わたくしは知っているわ。だって、わたくしの主上ですもの」
「そうかえ。それじゃあこれは、嬌娘だけに聞かせるとしよう」
氾は静かに読んだ。麒麟も、静かに聞いた。
秋はひそやかに庭園に下りていて、黄葉をまつ葉ずれはどこかものさびしく、枝を漏
れ来る陽射しが、二人のいる四阿に注いでいた。
(二)
その極国を最後に訪れたのは、秋の終りであった。しんと澄んで冴え渡る空気は、ま
なしにこの国に到来する、厳しい冬の匂いがした。雪はまだだったが、雲海の上にも始
終、刺すような風が吹いていたものである。
あてがわれた客舎は、掌客殿の北東の外れにあり、それまでに五回以上はあった過去
の逗留で、一度も案内されたことのない場所だった。
外観の、濃紺と純白の対比の清冽な美しさとは異なり、内部は全体に装飾重く、華美
に過ぎるこの王宮の中にあって、そこは、珍しいほど飾りのない庭園であった。
ひしめく奇岩も玉の柱もなにもなく、ただ植えられた数本の樹木が、黄色に染まった
葉をどっさり落としているだけの、静かな庭を囲んで、広い客殿があった。しかも、寝
室として案内されたのはその客殿の建物ではなく、院子に建つ離れのような小さな書院
だった。
そこに二日半、滞在した。賓客の中では、私がもっとも遠来であった。
部屋には鉄製の、足つき煖爐が置かれていた。聞けば戴ではごく一般的な、庶民にな
じみの道具であるらしい。だがそれも、初めて目にする客にとっては、その膨みのある
胴から煙突がのび、壁の穴から外へと突き出ている様も珍しく、大いに野趣あるしつら
えだった。
暖房はその薪煖爐だけだった。客の世話は二名の、空気のように静かな女官が受け持
っていた。彼女たちはこのひっそりした客舎そっくりで、まるで邪魔にならず、それで
いて申し分なく働くのだった。
食事は毎回、かん [註※温突(オンドル)]の通った客殿の堂室に用意されたが、庭園
の落ち葉を眺めながら、暖かい汁物や菜をいただくと、どこかひなびた宿館にでも滞在
しているような心もちになった。食器が平凡であったので、余計そうした気分に浸れた
ものかもしれない。どの膳もじつにうまかった。必ず一品、乳酪がついた。さほど好き
ではないのだが、これが美味で、珍しく全部食べてしまった。
戻ると薪箱がいっぱいにしてあり、空気が入れ換えられているのが、分かった。小さ
な室は、目の積んだ北国独特の分厚く硬い毛織布を、何枚も壁の下貼りにし、外気を遮
断してあった。そのため昼間の時間であれば、一斉に窓を開けて換気しても、件の薪煖
爐ひとつですぐに部屋は暖まるのだった。
この室は、よい匂いがした。最初は薪を燃やす匂いをそう感じるのかと思った。
香は焚かれていなかった。部屋にある香といえば、窓の近くの黒檀の卓に、文房四宝
(筆と硯と墨と紙)――これらばかりは世に二つとないだろう逸品だった――がのって
いたが、その脇の、豆のような黄色い玉製の香立てに、伽羅のごくごく細い線香が一本
置いてあるきりであった。これは、手紙を書くとき、嗅いで楽しむくらいで、最後まで
燻らさずにおいた。
部屋へ戻るたび、私の感じたそのよい匂いが、何の匂いか、とうとう出立まで、はっ
きりとは分からなかった。女官にきいても、分からぬという。敷布を山いちはつの根で
煮ているので、その匂いではないのだろうか、との答えだった。なるほど寝台に使う布
からは、どこの高級舎館と王宮でもお定まりの、あのしつこく焚きしめた白檀のかわり
に、うっすらと甘い柔らかな香りがしていた。
牀榻はなかった。そもそも書院自体がまるごと牀榻のようなものだから、道具も少な
かった。例の卓の前に、やはり黒檀の椅子があり、あとは衝立と弊風がひとつ、足台が
二つで全てという簡素さだった。部屋の真中に、四隅に細い柱の立った黒檀の、さほど
広くない寝台があった。
この寝台は昼間、寝椅子のかわりになった。夜は寝台の四隅の柱に刺し子の天蓋をか
けて、牀榻の入り口のように白布を垂らすのだった。この牀にも一番下には毛織が敷か
れ、その上に薄い絹蒲団が何枚も重ねられ、すっかり敷布で覆ってあった。上掛けは水
鳥の羽毛を入れた白の緞子が二枚で、同色の糸で一面に手の込んだ刺繍がしてあったが、
これはとにかく暖かかった。
これらの贅沢な蒲団の上、寝台の幅の足元四半分ばかりに、毛糸で織った無骨な布が、
無造作に広げられてあった。布は黄土色と黒と白の、単調な太い縞模様に織られたもの
で、冬官の織工が手がけたものなどでないことは、織を見れば明白だった。だが、私は、
一目で気に入った。
狭いため、花台や壷など余計なものは一切なく、寝台の両脇の壁に、画と書の軸が一
幅ずつ掛かっているのを除いて、装飾のない部屋だった。
書は詩であったが、誰の作か覚えていない。悪くない書風であったように思う。画は
蘭竹図。これも外させるほど目に障りはしなかった。
ここに私を招いた主は、名だたる将軍を経て登極した男である。今回、私はその即位
式に臨むために、はるばる参じた。しかし一見して、武人の趣味を感じさせるものは、
この部屋には何一つなかった。もし新王の君主としての人となりを、いくらかでも表し
ていたとすれば、部屋の片隅にあった小さな書架の中身であったろう。
二日と少しの滞在で、大行人に即位礼の式次第と当日の予定を伝えられたほか、先方
からの使いは、一回きり――滞在一日目の夕刻、内殿の官が、主君である新王の口上を
添えて国宝とおぼしき笛を届けにきた、そのときだけであった。
私は、大礼を前にした王宮の狂騒から切り離されて、この晩秋の庭の風情をたんのう
しながら、かなりの時間を書見に費やした。
帰る間際、短い歓談をもった折、私は客舎のよろしかったことに、礼を述べた。今回
のもてなしの一切は、この男が自ら指図したものに違いなかった。この私を満足させた
ことに、いくらかでも得意の色をするかと思ったが、戴の新しい王は、無表情のまま、
それはよろしゅうござった、とだけ応じた。
彼はその後、何もおかまい出来なかったと詫び、更に、部屋内でお気に召したものが
あれば、なんなりと差し上げたく存ずるが、と申し出たので、私はそれには及ばないと
丁重に断った。
あの見事な文房具は、そのために用意されたものだったろうが、私はすでに名笛を贈
られていたし、これは一国として十分に、慶賀の品の返礼に足るものだった。
ただ私は、又の滞在にはあの部屋を希望したい、と申し添えた。真実私は、あの書院
を好んでおり、正直なところいささか別れ難い思いだったのだ。
彼は初めて微笑し、では、そのままにお残ししよう、と言うと少し目を和ませた。
質素すぎるほどの礼服と簡素な式は、この男の堂々の風格をかえって引き立たせ、稀
に見る、よい即位の式典であった。即位したばかりの新王は、客の前でも率直すぎるほ
ど率直であった。土産をお渡ししたいのだが、範の方がお喜び下さるようなものが、今
の戴国にあるだろうか、と彼は問うた。
固辞するつもりだったが、その率直さが気に入ったので、私は土産を望む気になった。
あの書院にあったと同じ書物が御入手かなうなら、うち数冊を御用意頂ければ、有り
難く、と。
泰王は、その場で書名を聞くと頷き、今度はこちらの顔を見て、太く、はっきりと笑
んだ。彼と我との友情のはじまりは、おそらくあのときであったと思う。
帰国から半月もせぬうち、書物は届けられた。彼は、私が頼んだものだけを、全て二
冊ずつ揃えて送って寄越した。いずれも初刷りである。
書名を以下に控える。『戴国鉱業技術史』全巻。『承州酪農の技術と発展』。『乳酪
の保存と輸送に関する研究』。このうち鉱業技術史の上数巻と、承州酪農は、すでに半
分以上を滞在中に読んでいた。もとより戴は玉の産地としてわが国とのかかわりが深い
のだが、ごく小規模ながらすぐれた酪農製品の生産を行っていることが、この度の訪問
で判った。これらは手元に置きたく、また、彼の炯眼の通り、うちの冬官ないし地官に
読ませんがために所望した。
他は、絵草子が三。子供向けの戴の民話などで、挿画が実に見事なものであった。氾
麟に与え、彼女はやがてそれらを州府の文庫に贈ることに決めた。うち一編は数年後、
小学で使う読本に採られている。
頼んだ本だけが入っていた包みで、思いがけず私を喜ばせたのが、二重に油紙にくる
んだ書籍を、さらに包んでいた一枚の布であった。無論、私が一番気に入っていたこと
など、彼が知っていたはずはない。あの部屋にあったものよりも、それは幅広く、正方
形であった。
黄土色と黒と白が太い縦縞に織出されたその無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓
辺の小さな寝椅子の上に、半分に折って置かれている。
(三)
「さ、おしまい」
氾は、立ち上がり、麒麟の小さな手をとった。
「やれやれ。冷えてしまったね。戻ってお茶にするとしようよ」
氾麟は頷いて、立ち上がった。石の四阿に静寂が戻った。
たったいま読まれなかった最後の一行は、彼女の主の心だった。あえてそれを読まな
かった彼を、彼女は誰より理解せねばならない。だから、少女の姿をした賢く愛らしい
麒麟は、敷石の上を飛び跳ねながら、流れるような歩調の主の後ろについて、正殿へと
戻って行った。
『――その無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓辺の小さな寝椅子の上に、半分に折
って置かれている。
布を送った男の生死は、いまだ分からない。』
(了)
「主上はどちら?」
麒麟は、溌刺とした美声に、これを尋ねた。
範の王宮の正寝正殿、滑らかに光る石の廊下に、透ける領巾をさばいて、顔なじみの
女官が伏礼する。この王宮では女官たちは、ひとりとして同じ服をつけることがない。
「さきほどまでは、西の書院においでであったと存じ上げますが」
「たったいまお伺いしてみたのだけれど、いらっしゃらなかったんだもの」
「さようですの…」
「ね、心当たりないかしら」
この台輔も、あまり麒麟らしい服装ではない。服装以前に、後ろに手を組んで顎を上
げ、首を傾げているしぐさは、見た目の歳よりもさらに稚い。はるか昔には、口やかま
しい官も一人ならずいたものだが、このはしこい麒麟の良く回る頭と舌、そして無敵の
愛敬に全面降伏して、もうかなり久しい。
「お急ぎでいらっしゃいますの、台輔?」
女官の口さえ、どこかうちとけて気張らないのも、この国流である。
「さっき、六太から手紙がきたの。戴の方たちのことが書いてあって、早く主上にお聞
かせしたいのよ」
相手はうなずいた。畏れ多くも当代二番目の大国の宰輔の字が、目下の少年のように
気安げに登場しようとも、いちいち驚く女官は、ここにはいない。
「では、お庭を探してごらんなさいまし。昨日やっと、お気に入りの灯篭が修繕されて
ございますから、おいでかもしれませんよ」
「まぁそうなの。ありがと!それじゃ、またね」
友達にするようにひらひら手をふって駆け出した後ろ姿に、女官は再び、しとやかな
身振りで一礼した。
「眠っていらっしゃる…?」
「いいや」
主は石案に頭をのせたまま、目だけをうっすら開き、のぞきこんでいる可愛い顔を見
ると、微笑んだ。
氾麟は、案(つくえ)の様子を見た。
「書き物をしてらっしゃいましたの?」
「うん…」
書院から、墨斗と紙だけをもって、そぞろ歩きに庭園に下りたらしい。主は、秋の立
ち初めた庭で、金紗の刺繍の上衣を着流して、座っている。小さな四阿で石の案によっ
ているその姿は、絵のように見える、と、氾麟は感嘆と満足の吐息をもらした。
「うん?」
「まだ、お疲れがとれてらっしゃらないのだから、あまり御無理なさらないでね」
「していないよ。心配をおしでない」
「それ。お仕事ではないの?」
「ああ、これかえ…」
のぞきかけて、やめた麒麟に、氾は愛情深く微笑んだ。
「別に読んでもかまやしない。思い出したことを、ただの手すさびに書いてみただけ。
昔のことをね…」
「昔…」
「そう。金波宮でお前と李斎と、戴の話をしただろう。庭を眺めていたら、ふとそんな
気になったのだよ」
氾麟は、はたと体を起こした。
「――李斎。彼女、戴へ帰ったの!」
戴へ…と、王は口の中でつぶやき、整えられた眉をわずかに寄せた。
延麒から届いた手紙によれば、その数日前、角を失った若い麒麟にともなわれ、隻腕
の女将軍は慶を発ち、帰国の途についたのだ。氾麟はそこまでを、急いで彼に告げた。
「そうかえ。帰ったか…」
「ええ、そうよ。ほんとに二人っきりで帰ったのよ。二人で今帰ってどうなるの。あん
まりだと思うわ。どうして、引き止められなかったのかしら、六太たちってば」
半泣き声で、早口になる麒麟に、主はそっと筆筒に筆を戻すと静かに言った。
「興奮おしでないよ。誰にも、彼らを止めることなどは出来ないのだから」
「無事でいてほしいの…」
幼顔の麒麟は、口をとがらせ、拗ねるように俯いた。
「そうかえ…」
とだけ、氾は言った。
帰国するとき、あの二人がいまだ弱小の慶国にあまり長く逗留するのは、両国にとっ
て望ましくないだろうとは、想像がついた。延が、慶との利害と景王へのお節介と、幾
分か義侠心とやらを起こして、二人を早い時期に雁国に連れてくれればよいが、と考え
た。早晩、そうなるだろうと踏んで、慶国を後にした。
だが、その一方で、そうはならぬかもしれないと、どこかで思っていた。
あの悲惨の国に、あまりに非力な今の彼らを返したくはない。十分すぎるほど傷つき
弱った一国の柱の半分たる麒麟、そして国と王と麒麟と民とを、一介の将の身に背負っ
て奮闘し、これも十分傷を負った、雄雄しい婦人。どちらも、なんとしても無事でいて
ほしい。
主が同じ思いなのを、短い声の色に感じて、麒麟は面をあげ、主を見た。主の静かな
視線は、石案の上にあった。
「――書いてはみたけれど…、」
王は、つと紙を引き寄せて、指ではじいた。
「あまりに固過ぎるねぇ、これは。なんだか私らしくなくて、いけない」
麒麟は気をとりなおして、座りながら自分ものぞきこんだ。
「あら。――どう、主上らしくなくていらっしゃるの?」
氾は目にひそかな愛敬を含ませて、微笑んでみせた、
「だって…私が真面目な人間だっていうのは、今じゃあ、あまり知られていないことだ
からねぇ」
氾麟は目をくるりとさせると、しかつめらしく頷いた。
「わたくしは知っているわ。だって、わたくしの主上ですもの」
「そうかえ。それじゃあこれは、嬌娘だけに聞かせるとしよう」
氾は静かに読んだ。麒麟も、静かに聞いた。
秋はひそやかに庭園に下りていて、黄葉をまつ葉ずれはどこかものさびしく、枝を漏
れ来る陽射しが、二人のいる四阿に注いでいた。
(二)
その極国を最後に訪れたのは、秋の終りであった。しんと澄んで冴え渡る空気は、ま
なしにこの国に到来する、厳しい冬の匂いがした。雪はまだだったが、雲海の上にも始
終、刺すような風が吹いていたものである。
あてがわれた客舎は、掌客殿の北東の外れにあり、それまでに五回以上はあった過去
の逗留で、一度も案内されたことのない場所だった。
外観の、濃紺と純白の対比の清冽な美しさとは異なり、内部は全体に装飾重く、華美
に過ぎるこの王宮の中にあって、そこは、珍しいほど飾りのない庭園であった。
ひしめく奇岩も玉の柱もなにもなく、ただ植えられた数本の樹木が、黄色に染まった
葉をどっさり落としているだけの、静かな庭を囲んで、広い客殿があった。しかも、寝
室として案内されたのはその客殿の建物ではなく、院子に建つ離れのような小さな書院
だった。
そこに二日半、滞在した。賓客の中では、私がもっとも遠来であった。
部屋には鉄製の、足つき煖爐が置かれていた。聞けば戴ではごく一般的な、庶民にな
じみの道具であるらしい。だがそれも、初めて目にする客にとっては、その膨みのある
胴から煙突がのび、壁の穴から外へと突き出ている様も珍しく、大いに野趣あるしつら
えだった。
暖房はその薪煖爐だけだった。客の世話は二名の、空気のように静かな女官が受け持
っていた。彼女たちはこのひっそりした客舎そっくりで、まるで邪魔にならず、それで
いて申し分なく働くのだった。
食事は毎回、かん [註※温突(オンドル)]の通った客殿の堂室に用意されたが、庭園
の落ち葉を眺めながら、暖かい汁物や菜をいただくと、どこかひなびた宿館にでも滞在
しているような心もちになった。食器が平凡であったので、余計そうした気分に浸れた
ものかもしれない。どの膳もじつにうまかった。必ず一品、乳酪がついた。さほど好き
ではないのだが、これが美味で、珍しく全部食べてしまった。
戻ると薪箱がいっぱいにしてあり、空気が入れ換えられているのが、分かった。小さ
な室は、目の積んだ北国独特の分厚く硬い毛織布を、何枚も壁の下貼りにし、外気を遮
断してあった。そのため昼間の時間であれば、一斉に窓を開けて換気しても、件の薪煖
爐ひとつですぐに部屋は暖まるのだった。
この室は、よい匂いがした。最初は薪を燃やす匂いをそう感じるのかと思った。
香は焚かれていなかった。部屋にある香といえば、窓の近くの黒檀の卓に、文房四宝
(筆と硯と墨と紙)――これらばかりは世に二つとないだろう逸品だった――がのって
いたが、その脇の、豆のような黄色い玉製の香立てに、伽羅のごくごく細い線香が一本
置いてあるきりであった。これは、手紙を書くとき、嗅いで楽しむくらいで、最後まで
燻らさずにおいた。
部屋へ戻るたび、私の感じたそのよい匂いが、何の匂いか、とうとう出立まで、はっ
きりとは分からなかった。女官にきいても、分からぬという。敷布を山いちはつの根で
煮ているので、その匂いではないのだろうか、との答えだった。なるほど寝台に使う布
からは、どこの高級舎館と王宮でもお定まりの、あのしつこく焚きしめた白檀のかわり
に、うっすらと甘い柔らかな香りがしていた。
牀榻はなかった。そもそも書院自体がまるごと牀榻のようなものだから、道具も少な
かった。例の卓の前に、やはり黒檀の椅子があり、あとは衝立と弊風がひとつ、足台が
二つで全てという簡素さだった。部屋の真中に、四隅に細い柱の立った黒檀の、さほど
広くない寝台があった。
この寝台は昼間、寝椅子のかわりになった。夜は寝台の四隅の柱に刺し子の天蓋をか
けて、牀榻の入り口のように白布を垂らすのだった。この牀にも一番下には毛織が敷か
れ、その上に薄い絹蒲団が何枚も重ねられ、すっかり敷布で覆ってあった。上掛けは水
鳥の羽毛を入れた白の緞子が二枚で、同色の糸で一面に手の込んだ刺繍がしてあったが、
これはとにかく暖かかった。
これらの贅沢な蒲団の上、寝台の幅の足元四半分ばかりに、毛糸で織った無骨な布が、
無造作に広げられてあった。布は黄土色と黒と白の、単調な太い縞模様に織られたもの
で、冬官の織工が手がけたものなどでないことは、織を見れば明白だった。だが、私は、
一目で気に入った。
狭いため、花台や壷など余計なものは一切なく、寝台の両脇の壁に、画と書の軸が一
幅ずつ掛かっているのを除いて、装飾のない部屋だった。
書は詩であったが、誰の作か覚えていない。悪くない書風であったように思う。画は
蘭竹図。これも外させるほど目に障りはしなかった。
ここに私を招いた主は、名だたる将軍を経て登極した男である。今回、私はその即位
式に臨むために、はるばる参じた。しかし一見して、武人の趣味を感じさせるものは、
この部屋には何一つなかった。もし新王の君主としての人となりを、いくらかでも表し
ていたとすれば、部屋の片隅にあった小さな書架の中身であったろう。
二日と少しの滞在で、大行人に即位礼の式次第と当日の予定を伝えられたほか、先方
からの使いは、一回きり――滞在一日目の夕刻、内殿の官が、主君である新王の口上を
添えて国宝とおぼしき笛を届けにきた、そのときだけであった。
私は、大礼を前にした王宮の狂騒から切り離されて、この晩秋の庭の風情をたんのう
しながら、かなりの時間を書見に費やした。
帰る間際、短い歓談をもった折、私は客舎のよろしかったことに、礼を述べた。今回
のもてなしの一切は、この男が自ら指図したものに違いなかった。この私を満足させた
ことに、いくらかでも得意の色をするかと思ったが、戴の新しい王は、無表情のまま、
それはよろしゅうござった、とだけ応じた。
彼はその後、何もおかまい出来なかったと詫び、更に、部屋内でお気に召したものが
あれば、なんなりと差し上げたく存ずるが、と申し出たので、私はそれには及ばないと
丁重に断った。
あの見事な文房具は、そのために用意されたものだったろうが、私はすでに名笛を贈
られていたし、これは一国として十分に、慶賀の品の返礼に足るものだった。
ただ私は、又の滞在にはあの部屋を希望したい、と申し添えた。真実私は、あの書院
を好んでおり、正直なところいささか別れ難い思いだったのだ。
彼は初めて微笑し、では、そのままにお残ししよう、と言うと少し目を和ませた。
質素すぎるほどの礼服と簡素な式は、この男の堂々の風格をかえって引き立たせ、稀
に見る、よい即位の式典であった。即位したばかりの新王は、客の前でも率直すぎるほ
ど率直であった。土産をお渡ししたいのだが、範の方がお喜び下さるようなものが、今
の戴国にあるだろうか、と彼は問うた。
固辞するつもりだったが、その率直さが気に入ったので、私は土産を望む気になった。
あの書院にあったと同じ書物が御入手かなうなら、うち数冊を御用意頂ければ、有り
難く、と。
泰王は、その場で書名を聞くと頷き、今度はこちらの顔を見て、太く、はっきりと笑
んだ。彼と我との友情のはじまりは、おそらくあのときであったと思う。
帰国から半月もせぬうち、書物は届けられた。彼は、私が頼んだものだけを、全て二
冊ずつ揃えて送って寄越した。いずれも初刷りである。
書名を以下に控える。『戴国鉱業技術史』全巻。『承州酪農の技術と発展』。『乳酪
の保存と輸送に関する研究』。このうち鉱業技術史の上数巻と、承州酪農は、すでに半
分以上を滞在中に読んでいた。もとより戴は玉の産地としてわが国とのかかわりが深い
のだが、ごく小規模ながらすぐれた酪農製品の生産を行っていることが、この度の訪問
で判った。これらは手元に置きたく、また、彼の炯眼の通り、うちの冬官ないし地官に
読ませんがために所望した。
他は、絵草子が三。子供向けの戴の民話などで、挿画が実に見事なものであった。氾
麟に与え、彼女はやがてそれらを州府の文庫に贈ることに決めた。うち一編は数年後、
小学で使う読本に採られている。
頼んだ本だけが入っていた包みで、思いがけず私を喜ばせたのが、二重に油紙にくる
んだ書籍を、さらに包んでいた一枚の布であった。無論、私が一番気に入っていたこと
など、彼が知っていたはずはない。あの部屋にあったものよりも、それは幅広く、正方
形であった。
黄土色と黒と白が太い縦縞に織出されたその無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓
辺の小さな寝椅子の上に、半分に折って置かれている。
(三)
「さ、おしまい」
氾は、立ち上がり、麒麟の小さな手をとった。
「やれやれ。冷えてしまったね。戻ってお茶にするとしようよ」
氾麟は頷いて、立ち上がった。石の四阿に静寂が戻った。
たったいま読まれなかった最後の一行は、彼女の主の心だった。あえてそれを読まな
かった彼を、彼女は誰より理解せねばならない。だから、少女の姿をした賢く愛らしい
麒麟は、敷石の上を飛び跳ねながら、流れるような歩調の主の後ろについて、正殿へと
戻って行った。
『――その無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓辺の小さな寝椅子の上に、半分に折
って置かれている。
布を送った男の生死は、いまだ分からない。』
(了)