胡蝶の夢 ―遥―
――どこだろう、ここ。
遥は辺りを見回した。自分の周囲はまるで深い霧に覆われているように白く、ほんの少し先さえも窺い知ることはできない。
置かれている状況がわからないと、まず自分の方に関心が向くものだ。遥は今自分がどんな姿でいるのか視線を動かした。
こんなに深い霧の中にいるのに、自分の姿は目の届く範囲でしっかりと確認できる。しかし、彼女は何か違和感を感じた。
「私の手、こんなに大きかったっけ……」
目の前に自分の手をかざす。それはいつも見ている自分の手ではない。最後に見た自分の手よりも幾分肉付きも落ち、指はすんなりと
長い。まるでかつて見た母の手のようだと思った。
そこから遥は手から腕、そして体に視線を向ける。おかしい、確かに自分は同級生の中でも背が高い方ではあったが、こんなに腕や
足が長かったわけではない。そして、視界。自分のつま先はこんなに自分の目から遠かっただろうか。
その瞬間、彼女の周囲の霧が晴れる。見渡すと、そこは彼女にとって見慣れた景色だ。
「神室町?」
足を踏み出す。相変わらず、雑然とした町並み。人々はそれぞれに行き交い、彼女の横を通り過ぎた。
そのまま目的もないまま歩を進める。というより、何故か頭の中で歩かなければと思ったのだ。やがて彼女はセレナのあるビルの
前まで来た。どうしたらいいか分からないのなら、知ってる人を探さなければ。遥はセレナへと向かった。
「あら、『由美』。早いのね」
店に入るなり、麗奈が遥を出迎えた。しかし『由美』?遥は首をかしげた。
「麗奈さん、違います。私は遥、遥だよ」
麗奈は驚いたように彼女を見つめ、小さく笑って肩を竦めた。
「どうしちゃったの?ははあ、あんまり早起きしたから寝ぼけてるのね。そんなことじゃ、二人に笑われるわよ」
「二人?」
遥は訳が分からないという風に問い返す。麗奈は心配そうに覗き込んだ。
「ちょっと、しっかりしてよ。あなたたち、親友なんでしょ?忘れたなんて言ったら、二人とも怒るわよ~」
その時、エレベーターの止まる音がした。ほら、噂をしたら……麗奈はそう言って笑った。
――二人、二人って誰の事だろう。由美って、お母さんのこと?なんで?私は遥なのに、どうして気づいてくれないの?
困ったように遥が立ち尽くしていると、店の扉から男が二人入ってきた。彼らを遥はよく知っていた。
二人のうち1人は、遥にとっては何よりも大切で、かけがえのない男だ。彼の顔をみた安堵からか、遥は思わず駆け寄った。
「桐生のおじさん!」
「……『由美』?」
その男はまぎれもない桐生なのに、彼は驚いたように遥を見つめた。横にいた錦山は苦笑を浮かべる。
「どうしたんだよ『由美』急に桐生をオヤジ呼ばわりか?」
桐生もまいったな、と小さく笑い、肩を竦めた。
「これでも若いつもりなんだがなあ、結構傷つくぞ、『由美』」
「ち、違うよ。何言ってるの?おじさん、私だよ。遥だよ!」
その様子を見ていた麗奈は困ったように笑った。
「さっきからその調子なの。自分は遥だって。この子、源氏名でもつけるつもりなのかしらねえ」
「まあ、悪い名前じゃないけどな」
錦山は遥に微笑んでみせる。彼女は首を振った。
「違う、違うよ!私は遥なんだから!由美は私のお母さんなんだから!なんでわかってくれないの?おじさん、ずっと一緒にいたでしょ?
私のことを忘れちゃったの?!」
「『由美』、どうしたんだ。少し落ち着け」
桐生は遥の両肩を掴む。遥はそこで初めて気付いた。なんで、桐生の顔がこんなにも近いのだろう。
「私……」
遥は視線を動かす。壁にかけられた絵のカバーガラスに、自分の顔が映った。その顔は、どこかで見たことがある。
「お母さん?」
まだ顔も変えていない頃の、写真で見た由美がそこにいた。私は、遥?それとも、由美――?
「おい『由美』、一体どうし……」
「嫌!」
遥は思わず桐生の手を振り払う。驚愕に満ちた彼を残し、遥は店を飛び出した。
――おじさん、おじさんは私のことがわからないの?なんでお母さんの名前で呼ぶの?でも、あの顔はお母さんだった。
それじゃあ、私は一体誰?誰なの?
気がつくと、周囲は神室町とは違っていた。真直ぐに伸びる石畳。白い砂。その奥に佇む巨大な建築物。そこも、彼女には見慣れた
場所、東城会本部だった。
ふらふらと、遥は建物の中に入っていく。人気のないホールの両脇には階段。ふと、そこから降りてくる男性がいる。彼のことも遥は
よく知っている。すがるような思いで、遥は彼に駆け寄った。
「柏木のおじさん!」
柏木はふと顔を上げたが、いつもの笑みもなく遥を訝しげに見つめた。
「……君は?ああ、そういえばセレナで見たな。確か――『由美』さんだったかな?」
遥は言葉を失う。また、『由美』?立ち尽くす彼女に、柏木は苦笑を浮かべた。
「ここは君の来るところではないよ。神室町に帰った方がいい」
「私は……私は『由美』じゃない!」
叫び、遥は夢中で走った。自分が自分であると言う証明ができない。誰も『遥』を知らない。
もしかして、私は本当は由美で、遥は自分で作り上げた子供ではないだろうか?にわかに背筋が冷たくなる。それでは、自分が
自分を『遥』だと思っている意識も妄想?今まであった全ての事も、全部由美の想像だったら?
「誰か、助けて……」
搾り出すような声で呟き、遥は目の前の扉を開いた。目の前には、見慣れた背中の男。彼は物音に気付いたのか、ゆっくりと振り返った。
「お前……?」
怪訝な顔をするのは、大吾。彼はそれきり何も言わず、彼女を見つめている。もしかして、また由美と呼ばれるのだろうか。遥は
怯えたように立ち尽くした。
長い沈黙が彼女を追い詰める。今ここで遥だと主張したとしても、今の自分は母の顔をしている大人の女だ。これが遥だとわかる
人間がいるはずがない。一番近くにいた桐生さえ自分に気付いてくれなかったのだ。大吾だって同じだろう。絶望的な状況に、遥は
思い詰めたように視線を落とす。その時、大吾は戸惑いがちに声を上げた。
「遥……か?」
思わず遥は顔を上げる。大吾は突然現れた彼女を目の前にして、困惑の表情を浮かべている。遥は震える声で告げた。
「大吾お兄ちゃん――わかるの?」
その返答で、本人だと確信したのだろう。大吾は苦笑を浮かべた。
「まんまだろ。これで気付かねえ奴がいるのか?」
彼の言葉が終わるのを待たず、遥は大吾にむかって走り出す。そして、彼の首に腕を回して抱きついた。
「お、おい。遥!」
「そうだよ、遥だよ。お母さんじゃない……遥だよ……」
大吾はしばらく両手を上げて困っている様子だったが、やがて彼女の背にぎこちなく腕を回した。
「ああ、遥だ」
彼女は少し身を離し、大吾を見上げる。その顔は、いつもよりもずっと近い。彼女は少し照れたように笑った。
「なんか、急に大きくなっちゃった」
「成長期も真っ青だな」
苦笑を浮かべ、彼は肩を竦める。遥はそんな彼を覗き込んだ。
「ね、私、大きくなったよ。どう思う?」
「はあ?」
ひどく驚いたように大吾は声をあげ、彼女を見つめる。彼は長い沈黙の後、そっと笑みを浮かべた。
「――――だ」
「え?なに?」
言葉が聞き取れず、遥は聞き返す。しかし、急に周囲の景色があやふやになったかと思うと、突然遠くからアラーム音が聞こえてきた。
「……あれ……」
目を覚ますと、そこはベッドの上だった。その部屋の様子から、そういえば堂島家に世話になっているのだと気付く。相変わらず
耳元に置いた携帯が、目覚まし代わりにアラームを鳴らしている。遥はそれを止め、辺りを見回した。
「夢……?でも、どんな夢だったっけ……」
夢の中の出来事は、起きてしまえばすぐに消えてしまう。それを何とか思い出そうとしながら遥は身支度を整え、部屋を出た。
洗面を済ませ、朝食の準備をしていると珍しく大吾が起きてくる。遥は驚いたように振り返った。
「あ、大吾お兄ちゃん。おはよー!」
遥の声に、大吾は異常なほど驚いてわずかに後ずさった。
「遥!あ、ああ……おはよ」
「……どうしたの?」
怪訝な顔で歩み寄る遥に、大吾は首を振った。
「い、いや、何でもない。何でも!あ、そうだ。俺、先に顔洗ってくる!」
足早に出て行く大吾を見送り、遥は首を傾げる。そういえば、夢には大吾がいたような……?改めて思い出そうとしても夢の内容は
さっぱりわからない。そのうち目の前で魚がわずかに焦げる。遥は小さく悲鳴をあげ、慌てて魚をひっくり返した。
「おはよう、遥ちゃん。いつも早いねえ」
やがて支度も済んだ頃、弥生がやってきて遥に微笑む。遥は頭を下げた。
「おはようございます。あ、ごはんできてますよ。どうぞ」
「それじゃ、お茶は入れてあげるから遥ちゃんもいらっしゃい。もうすぐあれも来るでしょ」
あれとは大吾のことだろう。遥はエプロンを外し、頷いた。朝食の席に着くと、ふと弥生が溜息をついた。
「さっき大吾に会ったんだけどねえ、なんかおかしいんだよ。ぼんやりしてるって言うか、落ち込んでるって言うか……」
「私と会った時も、なんかおかしかったですよ、お兄ちゃん」
遥が頷くのを見て、やっぱり?と弥生は呆れた、
「なんか、夢見でも悪かったのかね。おかしな子だよ、まったく……」
夢。遥はそれで思い出したように思考をめぐらせる。しばらくして大吾が浮かない表情でやってきた。朝食の席につく彼を見て
遥はぽつりと呟いた。
「私、大きくなったよ……」
ふと頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出してしまった。それを聞いた瞬間、目の前に座ろうとした大吾は、思わず固まる。
「……俺、もう本部行く」
そのまま立ち上がると、彼は部屋を後にしようとする。弥生は驚いたように声をかけた。
「大吾?あんた朝食は?!」
「い、いい!いらねえ!」
逃げるように去っていく大吾を見送り、二人は顔を見合わせ首をかしげた。そのうち、遠くで彼の怒声のようなものも聞こえてくる。
何がなんだかわからぬ遥は、心配そうに口を開いた。
「やっぱり、大吾お兄ちゃんおかしいです……」
「もう、あんな馬鹿放っておきなさいな」
遥は頷くと、夢の事を思い出すのをやめた。あやふやな夢より、現実の方が彼女にしてみれば大事だ。今日もいい天気で、やることも
いっぱいある。忙しい一日なりそう、遥は再び食事を始めた。
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