『壊れ始めた箍(タガ)』
「よおっ、傷の具合はどうだ」
立ち昇る湯気の向こうから男の声が聞こえる。
「結構いい感じね。湯治場なんて初めてだけど、凄く気に入っちゃった」
白い肌をホンノリと桜色に染め、少女は背中越しに声の主へと返事を返した。
そのよくとおる声を響かせて。
「ったく、あんだけ寄り道に反対していたくせに」
「う…それは……だって無料(ただ)とは思わなかったし」
男の指摘に少女は湯へと沈み込みながら、小さな声で自分を擁護する。
「まあ確かに下諏訪の宿場の方なら、それなりの宿代も取られていただろうけどな」
――下諏訪。
其処は甲州道の終点にして、中山道中の宿場町として多くの旅人で賑わう湯治場であった。
そして諏訪湖のほとりで漸く再会を果たした卍と凛の二人は、
紆余曲折な話し合い(?)を経た結果、その下諏訪からは少しばかり奥まった所にある
この秘湯へと足を運んでいたのだ。
閑話休題。
「でしょう!少ない旅賃の遣り繰りを思うと、ほんとっ頭痛いわ……って卍さん」
「んあ?」
凛の小言が始まるのを察知してか、気の無い返事をする卍。
「ちゃ~んと見張ってくれてるんでしょうね……『一応』用心棒なんだし」
「おめえの色気のねえ身体じゃ、そこらに居る猿も振り向かねえよ」
「それってどういう意味よっ!」
バシャリと勢いよく湯を跳ねさせ、凛はその場で仁王立ちになった。そして、
「こ…これでも近頃は……こう、胸とか腰とか――え、猿?」
濡れた自分を見下ろしながら胸元や腰に手を廻してみるが、何かにふと気付いたらしく、
その動かし続けていた手を休め、ゆっくりと後方へと振り返る。
「何だ、間の抜けた顔して」
白いモヤの中に浮かび上がったシルエットが、
瞳と口とを大きく開けたまま静止する彼女に声をかけた。
すると、
「コレは空いた口が塞がらないって状態で…えっと…それより卍さん?」
徐々に思考を取り戻し始めた唇が、静かに男へと問い返したかと思うと、
次の瞬間――
「何て格好で突っ立ってんのっっっ!馬鹿、変態、助平」
盛大な罵声を発し、そのまま豪快な水音を鳴らししゃがみ込んでしまった。
共に湯浴みに興じていた猿達は言うまでも無く、
近くの森で寛いでいた他の動物達までもが一斉に逃げだす。
「煩せえな……お前こそ馬鹿か?服着て入れる訳ねえだろうが」
フンドシ姿のまま、卍はウンザリ顔で右耳を指で抑える仕草を見せた。
「そういう事を言ってんじゃない!」
的外れな男の言葉に、危く逃げ込んだ湯から又も立ち上がりそうになるのを堪え、
代わりに凛は精一杯声だけを張り上げる。
「ああコレも脱げって事だな」
「だめ!それだけは絶対取っちゃ駄目っ!」
男が腰に手を伸ばすと、凛は慌てて目を閉じその行為を止めにかかった。
「ってことは、この侭ならいい訳だ」
「へっ?」
彼女が薄く目を開けると、無精ヒゲの顔がニヤリとした笑みを浮かべ、
「よっと……」
悪びれる風も無く、ゆったりとした動作で湯へと浸かり始めた。
「ふ~……確かにおめえの言うとおり、コイツは中々効く。…なあ、凛」
「‥‥‥‥‥‥」
卍の言葉に反応もせず背を向けたままの姿で凛は、岩場の陰にそっと身を隠し寄せる。
その態度に溜息を溢した卍は、
「怒ってんのか?……ったく仕方ねえだろう、ほれっ」
岩の向こうから手を伸ばし、晒された彼女の項に触れた。
「ひゃっ!」
温もる肌を突然ヒンヤリとした感覚が襲い、凛は小さな悲鳴を上げ
固くなだったその身を震わせる。
「結構冷えてんだろう?……それに見張りなら此処でも十分果たせるから、そう心配しなさんなや」
岩に肩肘を突き、彼は指先で瑞々しい少女の感触を堪能しながら暢気に話し掛けた。
……次第に赤味を増す肌の変化を目で楽しみながら。
「なあ?凛」
名を呼び、項から背筋へと緩やかに一筋描く。
「も…もうわかったから……んっ、手…退けて。く…くすぐったい」
――ビクンッ
と、一際大きく身を慄かせた凛は、震える声で男の動きを止めさせる。
「ああ」
その言葉に従った卍は少女から手を離し、
固い岩に背を預ける格好で大人しく湯に入り直した。
そして何事も無かった様に、湯煙の向こうにある景色を眺める。
――山の秋は、江戸のそれよりも鮮やかに移ろっていく。
「もう怒ってないから……けど、その代わり」
漸く解放され息を整え終えた彼女は、仕切りなおす様に口を開いた。
「其処から動かない事。いい?」
「へいへい」
「それから、モチロン……」
「‥‥‥‥‥‥」
「どうした、それとも俺に反応して欲しいのか?お前」
喉を鳴らす独特の笑いを浮べ、卍は岩の向こうに居る相手をからかった。
「違います。……もういい、私先に出るから」
「凛」
アッサリとした彼女の様子に拍子抜けし、卍は思わず振り返る。
「どうぞごゆっくり」
「待てって…おい凛」
んな急に動くと滑るぞ――そう彼が言い掛けたその時である、
「きゃっ!」
滑る底面に足を取られた凛は、平衡感覚を失いギュっと目を閉じた。
だが、
「相変わらずだな、おめえは」
彼女の全身を包み込んでいたのはお湯では無く、男のガッシリとした両腕であった。
凛はおそるおそる瞼を上げ、肌に感じる体温をその目で確認する。
「卍さん?」
「大丈夫…か」
ふと見上げた先で見つけた呆れ顔があまりに近く、彼女は直ぐに俯いてしまった。
そうして漸く自分が今、この男に後ろから抱きしめられている事に思い至り、
お湯の熱さとは全く異なる熱に、全身を一気に火照らす。
男の厚い胸と、肌に食い込む節くれだった指の感触……そして吐息の微かな震えもが直に伝わってきた。
「う…うん、ありがとう。……でも、嘘つき」
「なにがだ?」
ワザとなのだろうか――卍は真っ赤に染まる凛の形良い耳に唇を寄せ問いかけた。
「こ…こっち来ちゃ駄目だっ……て言った」
「仕方ねえだろう」
くすぐったさに身じろぎしながら懸命に話す彼女を、彼は楽しそうに眺める。
「それに――」
そこで一旦言葉を切った凛は暫しの逡巡を経て、廻された男の固い二の腕に爪を食い込ませながら、
「反応してる」
柔らかな双丘に押し当たる異物の存在を口にした。
「……ば~か、そりゃあ俺じゃなく脇差しだ。期待させて悪いがな」
「!!!!」
「痛っ!」
いきなり何の前触れも無く卍の腕を鋭い痛みが襲いかかり、思わず力を緩めてしまう。
そして次の瞬間、勢いよく浴びせかけられた湯に視界を奪われ、
「このっ大馬鹿っ!」
「がはっ……」
少女の怒鳴り声を耳にしながら、思い切りその横っ面を叩かれ吹き飛ばされてしまった。
「お先に、卍さん」
完全に男が浮上してこれない状態なのを確認し、凛はその場を後にしていく。
……もちろん今度は慎重に。
そうして1分後。
「…………んん……ぷはっ……へへへっ」
危く失いかけた意識を取り戻し、何とか溺死だけは回避した卍は身体を起こし
額に張り付く前髪を掬い上げながら苦笑を浮かべた。
「そろそろヤバそうだな、俺も」
そうぼやいて、先程噛み付かれた傷を探して視線を腕へと辿らす。
だが確かにあった筈の歯型は既に跡形も無く綺麗に消え、卍にはそれが妙に残念に感じられた。
「確かにお前の言うとおり、嘘つき…だな。けど、今頃は気付いてっかな?」
岩の上に置かれた『打刀』を見遣り、ボリボリと頭を掻く。
そして身体に篭る熱が鎮まるまでの暫し間、独りボンヤリと暮れ行く秋空を眺め続けた。
「よおっ、傷の具合はどうだ」
立ち昇る湯気の向こうから男の声が聞こえる。
「結構いい感じね。湯治場なんて初めてだけど、凄く気に入っちゃった」
白い肌をホンノリと桜色に染め、少女は背中越しに声の主へと返事を返した。
そのよくとおる声を響かせて。
「ったく、あんだけ寄り道に反対していたくせに」
「う…それは……だって無料(ただ)とは思わなかったし」
男の指摘に少女は湯へと沈み込みながら、小さな声で自分を擁護する。
「まあ確かに下諏訪の宿場の方なら、それなりの宿代も取られていただろうけどな」
――下諏訪。
其処は甲州道の終点にして、中山道中の宿場町として多くの旅人で賑わう湯治場であった。
そして諏訪湖のほとりで漸く再会を果たした卍と凛の二人は、
紆余曲折な話し合い(?)を経た結果、その下諏訪からは少しばかり奥まった所にある
この秘湯へと足を運んでいたのだ。
閑話休題。
「でしょう!少ない旅賃の遣り繰りを思うと、ほんとっ頭痛いわ……って卍さん」
「んあ?」
凛の小言が始まるのを察知してか、気の無い返事をする卍。
「ちゃ~んと見張ってくれてるんでしょうね……『一応』用心棒なんだし」
「おめえの色気のねえ身体じゃ、そこらに居る猿も振り向かねえよ」
「それってどういう意味よっ!」
バシャリと勢いよく湯を跳ねさせ、凛はその場で仁王立ちになった。そして、
「こ…これでも近頃は……こう、胸とか腰とか――え、猿?」
濡れた自分を見下ろしながら胸元や腰に手を廻してみるが、何かにふと気付いたらしく、
その動かし続けていた手を休め、ゆっくりと後方へと振り返る。
「何だ、間の抜けた顔して」
白いモヤの中に浮かび上がったシルエットが、
瞳と口とを大きく開けたまま静止する彼女に声をかけた。
すると、
「コレは空いた口が塞がらないって状態で…えっと…それより卍さん?」
徐々に思考を取り戻し始めた唇が、静かに男へと問い返したかと思うと、
次の瞬間――
「何て格好で突っ立ってんのっっっ!馬鹿、変態、助平」
盛大な罵声を発し、そのまま豪快な水音を鳴らししゃがみ込んでしまった。
共に湯浴みに興じていた猿達は言うまでも無く、
近くの森で寛いでいた他の動物達までもが一斉に逃げだす。
「煩せえな……お前こそ馬鹿か?服着て入れる訳ねえだろうが」
フンドシ姿のまま、卍はウンザリ顔で右耳を指で抑える仕草を見せた。
「そういう事を言ってんじゃない!」
的外れな男の言葉に、危く逃げ込んだ湯から又も立ち上がりそうになるのを堪え、
代わりに凛は精一杯声だけを張り上げる。
「ああコレも脱げって事だな」
「だめ!それだけは絶対取っちゃ駄目っ!」
男が腰に手を伸ばすと、凛は慌てて目を閉じその行為を止めにかかった。
「ってことは、この侭ならいい訳だ」
「へっ?」
彼女が薄く目を開けると、無精ヒゲの顔がニヤリとした笑みを浮かべ、
「よっと……」
悪びれる風も無く、ゆったりとした動作で湯へと浸かり始めた。
「ふ~……確かにおめえの言うとおり、コイツは中々効く。…なあ、凛」
「‥‥‥‥‥‥」
卍の言葉に反応もせず背を向けたままの姿で凛は、岩場の陰にそっと身を隠し寄せる。
その態度に溜息を溢した卍は、
「怒ってんのか?……ったく仕方ねえだろう、ほれっ」
岩の向こうから手を伸ばし、晒された彼女の項に触れた。
「ひゃっ!」
温もる肌を突然ヒンヤリとした感覚が襲い、凛は小さな悲鳴を上げ
固くなだったその身を震わせる。
「結構冷えてんだろう?……それに見張りなら此処でも十分果たせるから、そう心配しなさんなや」
岩に肩肘を突き、彼は指先で瑞々しい少女の感触を堪能しながら暢気に話し掛けた。
……次第に赤味を増す肌の変化を目で楽しみながら。
「なあ?凛」
名を呼び、項から背筋へと緩やかに一筋描く。
「も…もうわかったから……んっ、手…退けて。く…くすぐったい」
――ビクンッ
と、一際大きく身を慄かせた凛は、震える声で男の動きを止めさせる。
「ああ」
その言葉に従った卍は少女から手を離し、
固い岩に背を預ける格好で大人しく湯に入り直した。
そして何事も無かった様に、湯煙の向こうにある景色を眺める。
――山の秋は、江戸のそれよりも鮮やかに移ろっていく。
「もう怒ってないから……けど、その代わり」
漸く解放され息を整え終えた彼女は、仕切りなおす様に口を開いた。
「其処から動かない事。いい?」
「へいへい」
「それから、モチロン……」
「‥‥‥‥‥‥」
「どうした、それとも俺に反応して欲しいのか?お前」
喉を鳴らす独特の笑いを浮べ、卍は岩の向こうに居る相手をからかった。
「違います。……もういい、私先に出るから」
「凛」
アッサリとした彼女の様子に拍子抜けし、卍は思わず振り返る。
「どうぞごゆっくり」
「待てって…おい凛」
んな急に動くと滑るぞ――そう彼が言い掛けたその時である、
「きゃっ!」
滑る底面に足を取られた凛は、平衡感覚を失いギュっと目を閉じた。
だが、
「相変わらずだな、おめえは」
彼女の全身を包み込んでいたのはお湯では無く、男のガッシリとした両腕であった。
凛はおそるおそる瞼を上げ、肌に感じる体温をその目で確認する。
「卍さん?」
「大丈夫…か」
ふと見上げた先で見つけた呆れ顔があまりに近く、彼女は直ぐに俯いてしまった。
そうして漸く自分が今、この男に後ろから抱きしめられている事に思い至り、
お湯の熱さとは全く異なる熱に、全身を一気に火照らす。
男の厚い胸と、肌に食い込む節くれだった指の感触……そして吐息の微かな震えもが直に伝わってきた。
「う…うん、ありがとう。……でも、嘘つき」
「なにがだ?」
ワザとなのだろうか――卍は真っ赤に染まる凛の形良い耳に唇を寄せ問いかけた。
「こ…こっち来ちゃ駄目だっ……て言った」
「仕方ねえだろう」
くすぐったさに身じろぎしながら懸命に話す彼女を、彼は楽しそうに眺める。
「それに――」
そこで一旦言葉を切った凛は暫しの逡巡を経て、廻された男の固い二の腕に爪を食い込ませながら、
「反応してる」
柔らかな双丘に押し当たる異物の存在を口にした。
「……ば~か、そりゃあ俺じゃなく脇差しだ。期待させて悪いがな」
「!!!!」
「痛っ!」
いきなり何の前触れも無く卍の腕を鋭い痛みが襲いかかり、思わず力を緩めてしまう。
そして次の瞬間、勢いよく浴びせかけられた湯に視界を奪われ、
「このっ大馬鹿っ!」
「がはっ……」
少女の怒鳴り声を耳にしながら、思い切りその横っ面を叩かれ吹き飛ばされてしまった。
「お先に、卍さん」
完全に男が浮上してこれない状態なのを確認し、凛はその場を後にしていく。
……もちろん今度は慎重に。
そうして1分後。
「…………んん……ぷはっ……へへへっ」
危く失いかけた意識を取り戻し、何とか溺死だけは回避した卍は身体を起こし
額に張り付く前髪を掬い上げながら苦笑を浮かべた。
「そろそろヤバそうだな、俺も」
そうぼやいて、先程噛み付かれた傷を探して視線を腕へと辿らす。
だが確かにあった筈の歯型は既に跡形も無く綺麗に消え、卍にはそれが妙に残念に感じられた。
「確かにお前の言うとおり、嘘つき…だな。けど、今頃は気付いてっかな?」
岩の上に置かれた『打刀』を見遣り、ボリボリと頭を掻く。
そして身体に篭る熱が鎮まるまでの暫し間、独りボンヤリと暮れ行く秋空を眺め続けた。
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