「延王が、近々また、お相手をして下さるそうだ」
驍宗がそう言ったのは、正寝でいつものように夕餉をとっているときだった。戴国の
王朝はようやく落ち着き、国は確実に年毎に富んでいく。民の顔が皆、明るくなった頃
のことである。
「雁に、お出かけになるのですか」
李斎は訊いた。相手は五百年の大王朝、国王同士、武人の誼で打ち合いをするとなれ
ば、新王朝の泰王が訪ねるのが筋というものだろう。
うむ、と驍宗は頷いた。
「そう長くは国を空けられぬが、あまり短くても失礼に過ぎよう、まぁ行き帰りを入れ
て八日ほどになるかな…行くか」
「わたくしが、ですか」
李斎はすこし驚いて目を見開いた。
「留守は宰輔がしっかりしているから心配はない」
「でも…」
てっきりその宰輔、泰麒を同行すると思ったのだ。驍宗は少し意地の悪い顔をしてみ
せた。
「暴君の夫に、他国への旅行にまで付き合わされるのは嫌かな」
「そのようなことを」
言って、李斎も軽く、王を睨んだ。
驍宗が鴻基を離れるたび、いまだに悪夢が襲う。大丈夫ですよ、そう言って幼い麒麟
の肩を抱き、文州鎮圧に赴く王を見送り、そしてそれきり見失った長い歳月…。それは
その数倍の時間が過ぎたいまでも、まだ李斎の中で、遠い過去の幻影ではない。ひとり
白圭宮に残されるたび、夜の閨室(けいしつ)は冷たく、心は寒寒とし、帰りを待ち侘
びる。そして、驍宗はそのことを誰よりよく知っている。
「延王には、治世五百十有余年、いまだに王后をお持ちではない」
唐突な言葉に、李斎が首を傾けると、驍宗は涼しい顔で言った。
「だから、后を同行してみせびらかしてやる」
李斎は呆気にとられ、それから苦笑した。
「お忘れですか。私は延王とは面識があります。それも、一番病み衰えたおりにお会い
しているのですよ。今更私などお連れになっても、なんだ、というお顔をなさいますよ。
到底、みせびらかすなどということには、なりませんでしょう」
驍宗はいっかな意に介さぬ風であった。
「いや。妻を持つことがどんなによいものか、見せつけてやるのだ」
この方は…と、李斎は心底呆れた。どうしてときどき、これほどまでに、子供じみて
いらっしゃるのだろう。
名君である。賢帝である。他国にまで聞こえる並びなき武人である。そしてかつて、
日々思い知らされた人間の器というものの決定的な違い…。
だが、伴侶になってみれば、見えない欠点も見えてくる。本当に、時折呆れるほどに
驍宗は李斎に対しては、子供に見えるところを隠さない。近頃ではむしろ泰麒の方が、
余程分別くさくて大人らしい、と思うことさえあるくらいだ。
李斎は、ひとつ溜息をついて答えた。
「謹んでお供いたします」
「そうか」
驍宗は満足そうに、杯を上げた。
一端言い出したら、後に引く夫ではない。それももう、とっくに分かっている。
玄英宮の前庭に、勝負の席が設けられた。貴賓席には、李斎と、延麒六太が見守る。
尚隆が、まず一本とった。彼は得たりと笑みを浮かべた。
ところが二本目は、造作もなく驍宗がとってのけた。
油断した、そう尚隆が思ったのは確かである。驍宗は肩で息をしていたが、顔には明
らかに余裕があった。
「もう一本!」
「望むところ」
「参る!」
気迫の声が上がり、剣が打ち込まれる。火花が散り、刃が薙ぎ払われ、再び合う。
すさまじい打ち合いになった。
いささかの休みもなく刃が交わされる。一方が詰めるかと思えば、他方が詰め寄り返
す。果てしがなかった。
長い長い時間が経過した。二人とも目は血走り、息は聞こえるほどに上がっているが、
それでも足元は揺るがない。
「やあぁぁあつ!」
気合を込めて尚隆が剣を振り下ろした。
がっきとその刃がとめられる。
唸るような声を発しながら、二人が刃を合わせたまま睨み合う。
「ちょっと、やばくねぇか」
六太が、つぶやいた。
二人とも完全に頭に血が上っているのが、距離があってもはっきり分かる。
実力は明らかに拮抗していた。
す、と六太の隣りの李斎が立った。六太は不思議そうに李斎を見上げた。
日頃から兵の訓練試合に使われているこの前庭には、幾種類もの武器が置いてある。
李斎は席を立つと、側の壁にあった、一振りの剣の柄を握った。
そのまま真っ直ぐ二人に歩み寄る。
「おい!危ねえよっ」
六太や小官たちの止める間もあらばこそ、李斎は二人に駆け寄った。そして、四五間
手前で立ち止まると、右腕の残肢にその鞘を払うや、何の躊躇もなく、それを、二人め
がけて投げつけたのだ。
ひっ、と周囲の叫びが上がった。
剣は打ち合う両王の足元、二人のちょうど真中に突き立った。
とっさに、刃を合わせていた両名が、一歩同時に飛び退(すさ)る。
「いい加減になさいませ!」
李斎は声高に言い放ち、二人をねめつけた。
全身汗みずく、息を切らした両王は、やっと正気に戻って李斎を見た。
「李斎…」
かすれた声に呟いたのは驍宗、口をぽかんと開けて見やったのは尚隆。
「お二人とも、ご自身を何とお心得か。真剣にて、ご勝負なされるは、ご勝手。なれど、
共に国には並びなき御身、民にとってかけがえのない君主であらせられることをお忘れ
ですか!これ以上の打ち合いにて、お怪我でもなされて何とされます。この勝負、引き
分けということで、わたくしにお預けくださいませ!」
李斎を見つめていた二人は、互いを見た。
「まいったな…」
苦笑いに、剣を引いたのは尚隆である。それを見て驍宗も笑みを浮かべ、剣を鞘にお
さめると頭を下げた。
「いささか、夢中になりすぎました。ご無礼を」
「なんの、お互い様だ。奥方が止めてくれなければ、血をみるまでやっていた」
そして、李斎に向かい朗らかな声で笑いながら言った。
「お礼申し上げる!見事な裁きだった」
李斎は頭を垂れ、跪いた。
「出すぎたことを致しました。どうかご容赦下さりませ」
尚隆はまた笑い声を立て、驍宗を見やった。
「この続きは、酒で決めぬか。それならば奥方もお許し下さろう」
驍宗は笑んで頷いた、
「望むところでございます」
黙って尚隆を追い越し、跪いている李斎が立つ手助けをしてやり、何の言葉を交わす
でもなく、一緒に幕屋の方に去って行く二人を見ながら、尚隆は首を振った。
「ああいう細君なら、俺も欲しいものだな」
「ま、尚隆には無理だね」
と、いつのまに側に来ていたものか、六太が言った。
「なんでだ」
「だって尚隆、女に甲斐性ねぇもん」
「こいつ」
「いてっ」
延麒の頭をひとつ張って、再び、驍宗と李斎に目をやった尚隆は、ひとりごちた。
「しかし、いい女だな」
なぜこんなに寒いのだろう…。
北東の極国、戴国はけっして気候に恵まれた国ではない。冬には全土が氷雪に閉ざさ
れる。だが今は、その戴の短い夏であった。比較的天候に恵まれた首都鴻基の、しかも
雲海によって下界と隔てられた、ここ白圭宮が、それほど寒いはずはないのだった。
李斎は起き上がって、薄物を纏うと、広い部屋の中を見渡した。そこは正寝と呼ばれ
る王の私室に使われる建物のひとつにあり、慣例どおりに後宮を使うことを、断固拒否
した王が、李斎を迎える際、官の反対を押し切って用意させた部屋々々のひとつだった。
泰王が日頃住まう建物と同棟で、しかも近接しており、そのため互いの生活を人を介
さなくても把握できる。そのことは、通常の夫婦と余り変りのない、つましくも安らか
な暮らしを二人に与えていた。
その夫が出かけて半月になる。
――なんなら花影のところにでも、泊りに行くといい。
そう、言われていた。言われたときは、内心、その言葉に反発したものだ。それほど
心弱い自分だとは思わなかった。留守を守れないほど気弱だと思われるのは、いまだに
武人としての矜持の消えぬ李斎には不本意だった。
だが今になって、李斎は、自分の心を持て余していた。驍宗に心根を看破されていた
ことを認めないわけにいかなくなった。
本当に、花影の官邸にでも行けばよかった。今日は特にそう思う。賢くもの柔らかな
年上の親友。彼女と語り合い、笑い合っていれば、少しはこの寒々しい心が紛れたろう
か。
――主上は、大丈夫ですよ。
驍宗を見送る李斎にそう言ったのは、泰麒だった。すらりと背の伸びた麒麟はやはり、
李斎の心を見透かしたかのように、言ったものだ。
李斎は思い出して苦笑した。同じ言葉をかつての泰麒にかけたのは、自分であったの
に。
それに、と、李斎は思う。今回驍宗は何も、内乱鎮圧に赴いたわけではない。たかが、
地方の視察に出ただけだ。それも青鳥は昨日、あと五日もすれば戻ると知らせてきたで
はないか。
分かってはいても、心が冷えるのを止められない。自分はこんなにも驍宗を見失うこ
とに恐れを感じるのだと、今更の様に、あの悪夢の六年余りが甦るのだった。
ふと、李斎は身体を硬くした。
絹張りの牀の下に左腕をもぐり込ませ剣を取り出す。右脇に鞘を挟み、静かに払う。
払った鞘は音を立てぬよう、臥牀の上に置いた。
王后の部屋とはいえ、警護は薄い。永らく阿選の恣にされていた宮中には、まだそれ
ほどに信の置ける者が少ないのだ。李斎につけられているのは、わずかに二人の小臣。
いずれも腕は立ったが、信が優先するので、如何せん、左腕を鍛えた李斎とさほどの差
はない。
いま屏風(へいふう)の影に立った侵入者の腕次第では、彼らに一声も洩らさせず、
討ち取っていないとは断言できなかった。
「…誰かっ?」
剣を構え、誰何の声を上げると、意に反し、屏風はゆっくりとたたまれた。
月明かりに逆光の影は、両手を上げた。
目を細めてその人影を見た李斎は、次に耳を疑う声を聞いた。
「勇ましい出迎え、いたみいる」
李斎は呆然と剣を落とした。それは、あと五日経たねば聞かれぬはずの声ではなかっ
たか。
「だが、いま少し大僕たちを信じてやれ。私がいないので、一層緊張して警護をしてい
たぞ」
「主上…」
李斎の声がかすれた。これは夢だろうか。
「…お戻りなさいませ」
ようやく李斎は言った。うむ、と驍宗は答える。
「台輔の使令を借りて、五日の道程を駆け戻ってきた。供は置いてきた。ゆるゆる帰っ
て来いと言い置いてな。――半月は長い!用が済んだら、もう待てなくなった」
驍宗は朗らかな笑い声を立てた。
「どうした、李斎。そなたの顔見たさに戻ったのだ。明かりをつけてよく顔を見せてく
れ」
「…かしこまりまして」
李斎は震え声に言うと背を向け、明かりの用意をした。
深夜の正寝の一隅に、幸福で暖かな明かりがそっと灯った。
「かわりはないか」
驍宗は李斎の頬に手を当ててきいた。
「…はい」
驍宗は、その赤褐色の髪を手で梳いた。
「心配をかけたか」
「…」
李斎は言葉にならなかった。ただ広い胸に顔を俯けた。驍宗は大きな手でその背を抱
いた。
「会いたかったぞ」
「…はい」
李斎は顔を上げた。涙がこぼれた。
「李斎は泣き虫になったな」
李斎は泣き笑いにそれを認めた。
「…はい」
驍宗は再び李斎を抱きしめた。
「すまぬ」
李斎は無言でかぶりを振った。どれほど心配で不安だったか、それを他ならぬ驍宗が
分かってくれている。それで、十分であった。
驍宗は、この半月の出来事を事細かに話してきかせた。李斎は嬉しく耳を傾けた。
正寝に灯された明かりは、この夜、中々消えなかった。
驍宗がそう言ったのは、正寝でいつものように夕餉をとっているときだった。戴国の
王朝はようやく落ち着き、国は確実に年毎に富んでいく。民の顔が皆、明るくなった頃
のことである。
「雁に、お出かけになるのですか」
李斎は訊いた。相手は五百年の大王朝、国王同士、武人の誼で打ち合いをするとなれ
ば、新王朝の泰王が訪ねるのが筋というものだろう。
うむ、と驍宗は頷いた。
「そう長くは国を空けられぬが、あまり短くても失礼に過ぎよう、まぁ行き帰りを入れ
て八日ほどになるかな…行くか」
「わたくしが、ですか」
李斎はすこし驚いて目を見開いた。
「留守は宰輔がしっかりしているから心配はない」
「でも…」
てっきりその宰輔、泰麒を同行すると思ったのだ。驍宗は少し意地の悪い顔をしてみ
せた。
「暴君の夫に、他国への旅行にまで付き合わされるのは嫌かな」
「そのようなことを」
言って、李斎も軽く、王を睨んだ。
驍宗が鴻基を離れるたび、いまだに悪夢が襲う。大丈夫ですよ、そう言って幼い麒麟
の肩を抱き、文州鎮圧に赴く王を見送り、そしてそれきり見失った長い歳月…。それは
その数倍の時間が過ぎたいまでも、まだ李斎の中で、遠い過去の幻影ではない。ひとり
白圭宮に残されるたび、夜の閨室(けいしつ)は冷たく、心は寒寒とし、帰りを待ち侘
びる。そして、驍宗はそのことを誰よりよく知っている。
「延王には、治世五百十有余年、いまだに王后をお持ちではない」
唐突な言葉に、李斎が首を傾けると、驍宗は涼しい顔で言った。
「だから、后を同行してみせびらかしてやる」
李斎は呆気にとられ、それから苦笑した。
「お忘れですか。私は延王とは面識があります。それも、一番病み衰えたおりにお会い
しているのですよ。今更私などお連れになっても、なんだ、というお顔をなさいますよ。
到底、みせびらかすなどということには、なりませんでしょう」
驍宗はいっかな意に介さぬ風であった。
「いや。妻を持つことがどんなによいものか、見せつけてやるのだ」
この方は…と、李斎は心底呆れた。どうしてときどき、これほどまでに、子供じみて
いらっしゃるのだろう。
名君である。賢帝である。他国にまで聞こえる並びなき武人である。そしてかつて、
日々思い知らされた人間の器というものの決定的な違い…。
だが、伴侶になってみれば、見えない欠点も見えてくる。本当に、時折呆れるほどに
驍宗は李斎に対しては、子供に見えるところを隠さない。近頃ではむしろ泰麒の方が、
余程分別くさくて大人らしい、と思うことさえあるくらいだ。
李斎は、ひとつ溜息をついて答えた。
「謹んでお供いたします」
「そうか」
驍宗は満足そうに、杯を上げた。
一端言い出したら、後に引く夫ではない。それももう、とっくに分かっている。
玄英宮の前庭に、勝負の席が設けられた。貴賓席には、李斎と、延麒六太が見守る。
尚隆が、まず一本とった。彼は得たりと笑みを浮かべた。
ところが二本目は、造作もなく驍宗がとってのけた。
油断した、そう尚隆が思ったのは確かである。驍宗は肩で息をしていたが、顔には明
らかに余裕があった。
「もう一本!」
「望むところ」
「参る!」
気迫の声が上がり、剣が打ち込まれる。火花が散り、刃が薙ぎ払われ、再び合う。
すさまじい打ち合いになった。
いささかの休みもなく刃が交わされる。一方が詰めるかと思えば、他方が詰め寄り返
す。果てしがなかった。
長い長い時間が経過した。二人とも目は血走り、息は聞こえるほどに上がっているが、
それでも足元は揺るがない。
「やあぁぁあつ!」
気合を込めて尚隆が剣を振り下ろした。
がっきとその刃がとめられる。
唸るような声を発しながら、二人が刃を合わせたまま睨み合う。
「ちょっと、やばくねぇか」
六太が、つぶやいた。
二人とも完全に頭に血が上っているのが、距離があってもはっきり分かる。
実力は明らかに拮抗していた。
す、と六太の隣りの李斎が立った。六太は不思議そうに李斎を見上げた。
日頃から兵の訓練試合に使われているこの前庭には、幾種類もの武器が置いてある。
李斎は席を立つと、側の壁にあった、一振りの剣の柄を握った。
そのまま真っ直ぐ二人に歩み寄る。
「おい!危ねえよっ」
六太や小官たちの止める間もあらばこそ、李斎は二人に駆け寄った。そして、四五間
手前で立ち止まると、右腕の残肢にその鞘を払うや、何の躊躇もなく、それを、二人め
がけて投げつけたのだ。
ひっ、と周囲の叫びが上がった。
剣は打ち合う両王の足元、二人のちょうど真中に突き立った。
とっさに、刃を合わせていた両名が、一歩同時に飛び退(すさ)る。
「いい加減になさいませ!」
李斎は声高に言い放ち、二人をねめつけた。
全身汗みずく、息を切らした両王は、やっと正気に戻って李斎を見た。
「李斎…」
かすれた声に呟いたのは驍宗、口をぽかんと開けて見やったのは尚隆。
「お二人とも、ご自身を何とお心得か。真剣にて、ご勝負なされるは、ご勝手。なれど、
共に国には並びなき御身、民にとってかけがえのない君主であらせられることをお忘れ
ですか!これ以上の打ち合いにて、お怪我でもなされて何とされます。この勝負、引き
分けということで、わたくしにお預けくださいませ!」
李斎を見つめていた二人は、互いを見た。
「まいったな…」
苦笑いに、剣を引いたのは尚隆である。それを見て驍宗も笑みを浮かべ、剣を鞘にお
さめると頭を下げた。
「いささか、夢中になりすぎました。ご無礼を」
「なんの、お互い様だ。奥方が止めてくれなければ、血をみるまでやっていた」
そして、李斎に向かい朗らかな声で笑いながら言った。
「お礼申し上げる!見事な裁きだった」
李斎は頭を垂れ、跪いた。
「出すぎたことを致しました。どうかご容赦下さりませ」
尚隆はまた笑い声を立て、驍宗を見やった。
「この続きは、酒で決めぬか。それならば奥方もお許し下さろう」
驍宗は笑んで頷いた、
「望むところでございます」
黙って尚隆を追い越し、跪いている李斎が立つ手助けをしてやり、何の言葉を交わす
でもなく、一緒に幕屋の方に去って行く二人を見ながら、尚隆は首を振った。
「ああいう細君なら、俺も欲しいものだな」
「ま、尚隆には無理だね」
と、いつのまに側に来ていたものか、六太が言った。
「なんでだ」
「だって尚隆、女に甲斐性ねぇもん」
「こいつ」
「いてっ」
延麒の頭をひとつ張って、再び、驍宗と李斎に目をやった尚隆は、ひとりごちた。
「しかし、いい女だな」
なぜこんなに寒いのだろう…。
北東の極国、戴国はけっして気候に恵まれた国ではない。冬には全土が氷雪に閉ざさ
れる。だが今は、その戴の短い夏であった。比較的天候に恵まれた首都鴻基の、しかも
雲海によって下界と隔てられた、ここ白圭宮が、それほど寒いはずはないのだった。
李斎は起き上がって、薄物を纏うと、広い部屋の中を見渡した。そこは正寝と呼ばれ
る王の私室に使われる建物のひとつにあり、慣例どおりに後宮を使うことを、断固拒否
した王が、李斎を迎える際、官の反対を押し切って用意させた部屋々々のひとつだった。
泰王が日頃住まう建物と同棟で、しかも近接しており、そのため互いの生活を人を介
さなくても把握できる。そのことは、通常の夫婦と余り変りのない、つましくも安らか
な暮らしを二人に与えていた。
その夫が出かけて半月になる。
――なんなら花影のところにでも、泊りに行くといい。
そう、言われていた。言われたときは、内心、その言葉に反発したものだ。それほど
心弱い自分だとは思わなかった。留守を守れないほど気弱だと思われるのは、いまだに
武人としての矜持の消えぬ李斎には不本意だった。
だが今になって、李斎は、自分の心を持て余していた。驍宗に心根を看破されていた
ことを認めないわけにいかなくなった。
本当に、花影の官邸にでも行けばよかった。今日は特にそう思う。賢くもの柔らかな
年上の親友。彼女と語り合い、笑い合っていれば、少しはこの寒々しい心が紛れたろう
か。
――主上は、大丈夫ですよ。
驍宗を見送る李斎にそう言ったのは、泰麒だった。すらりと背の伸びた麒麟はやはり、
李斎の心を見透かしたかのように、言ったものだ。
李斎は思い出して苦笑した。同じ言葉をかつての泰麒にかけたのは、自分であったの
に。
それに、と、李斎は思う。今回驍宗は何も、内乱鎮圧に赴いたわけではない。たかが、
地方の視察に出ただけだ。それも青鳥は昨日、あと五日もすれば戻ると知らせてきたで
はないか。
分かってはいても、心が冷えるのを止められない。自分はこんなにも驍宗を見失うこ
とに恐れを感じるのだと、今更の様に、あの悪夢の六年余りが甦るのだった。
ふと、李斎は身体を硬くした。
絹張りの牀の下に左腕をもぐり込ませ剣を取り出す。右脇に鞘を挟み、静かに払う。
払った鞘は音を立てぬよう、臥牀の上に置いた。
王后の部屋とはいえ、警護は薄い。永らく阿選の恣にされていた宮中には、まだそれ
ほどに信の置ける者が少ないのだ。李斎につけられているのは、わずかに二人の小臣。
いずれも腕は立ったが、信が優先するので、如何せん、左腕を鍛えた李斎とさほどの差
はない。
いま屏風(へいふう)の影に立った侵入者の腕次第では、彼らに一声も洩らさせず、
討ち取っていないとは断言できなかった。
「…誰かっ?」
剣を構え、誰何の声を上げると、意に反し、屏風はゆっくりとたたまれた。
月明かりに逆光の影は、両手を上げた。
目を細めてその人影を見た李斎は、次に耳を疑う声を聞いた。
「勇ましい出迎え、いたみいる」
李斎は呆然と剣を落とした。それは、あと五日経たねば聞かれぬはずの声ではなかっ
たか。
「だが、いま少し大僕たちを信じてやれ。私がいないので、一層緊張して警護をしてい
たぞ」
「主上…」
李斎の声がかすれた。これは夢だろうか。
「…お戻りなさいませ」
ようやく李斎は言った。うむ、と驍宗は答える。
「台輔の使令を借りて、五日の道程を駆け戻ってきた。供は置いてきた。ゆるゆる帰っ
て来いと言い置いてな。――半月は長い!用が済んだら、もう待てなくなった」
驍宗は朗らかな笑い声を立てた。
「どうした、李斎。そなたの顔見たさに戻ったのだ。明かりをつけてよく顔を見せてく
れ」
「…かしこまりまして」
李斎は震え声に言うと背を向け、明かりの用意をした。
深夜の正寝の一隅に、幸福で暖かな明かりがそっと灯った。
「かわりはないか」
驍宗は李斎の頬に手を当ててきいた。
「…はい」
驍宗は、その赤褐色の髪を手で梳いた。
「心配をかけたか」
「…」
李斎は言葉にならなかった。ただ広い胸に顔を俯けた。驍宗は大きな手でその背を抱
いた。
「会いたかったぞ」
「…はい」
李斎は顔を上げた。涙がこぼれた。
「李斎は泣き虫になったな」
李斎は泣き笑いにそれを認めた。
「…はい」
驍宗は再び李斎を抱きしめた。
「すまぬ」
李斎は無言でかぶりを振った。どれほど心配で不安だったか、それを他ならぬ驍宗が
分かってくれている。それで、十分であった。
驍宗は、この半月の出来事を事細かに話してきかせた。李斎は嬉しく耳を傾けた。
正寝に灯された明かりは、この夜、中々消えなかった。
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