中呉に見せかけてかぎりなく花黄
赤提灯ばれんたいん
1
2月14日、キャンセルの電話が入ったのは、約束の3時間前だった。
『……と言う訳で、どうしても約束には間に合いそうもありません』
「そうか。仕方がないだろうな」
『申し訳ありません。私のミスで……』
「いや君が謝ることはない。そっちを優先したまえ」
『いえ、それでも折角お誘いして下さったのに……』
「急に言い出したことだ。気にしないでくれ」
『すみません……』
何度も謝罪するその声に、中条は電話の向こうにいる呉の姿を想像した。
研究室で受話器を片手に謝りながらも、周辺を右往左往する研究員達には的確に指示を
出している。本来はこうして自分を相手にしている暇もないのかもしれない。
小さな破裂音と数人のどよめきが洩れ聞こえる。
「忙しいようだね。私のことはいいから頑張りたまえ。それとあまり無理はしないように」
『はい……』
切る間際にも呉が謝罪する声が聞こえる。相変わらず几帳面な呉らしいと思いつつ、い
つもと違う微妙な声音も中条は察している。
ミスだと言いつつその声は嬉しさが滲み出ていた。その実験に純粋に科学者としての気
持ちが疼いているようだ。今の呉の心は自分との約束よりも目の前の研究のことで占めら
れている。けして自分と会話に心が篭もっていないわけではないのだが、いつもより上滑
りな様子が感じ取れた。普段だったらそんな心情を隠そうとする呉から、だ。これはよっ
ぽどのことだろう。と中条は思う。
実験に負けたと寂しく思いつつ、中条はもう1度電話を取った。今度は違う研究室へ。
相手は直ぐに出た。
『はい』
「私だ」
『長官? 何か用事でも?』
困惑げな声。それもそうだろう。中条がそこに電話を掛けるのはこれが初めてだ。
「あぁ。今夜行われるコンサートのペアチケットが無駄になったのでね。折角だから君に
進呈しようと思う」
『は?』
「その後の夕食は国際ホテルのレストランに行きたまえ、予約は取ってある」
『あ、あの……』
「場所は会場から北京空港へ行く途中の……」
最初は困惑していたが、中条が強引に話し終える頃には相手も何かを察したらしい。肝
心な部分には触れずに演目や指揮者を問われて答えれば、彼には珍しく大きな感嘆を洩ら
した。クラシックを好む彼でも良く知る名だが、生演奏は初めてに違いない。
『それは……まだアイツには十年早いな』
青年らしいセリフだと思う。だからこそ余計に少年は焦って頑張ってしまうということ
に、気付いているのだろうか?
「偶には少しくらい彼を大人扱いをしてやりたまえ」
『本人が気付かん時もあるのだがな……。まぁ、あの指揮者の演目は私も聴きたかった。
ありがたく頂こう』
「では誰かにチケットを持っていかせる。楽しんできたまえ」
『あぁ。貴方の分までな』
その一言を残して、中条の恋人の性癖を良く知る黒髪の青年は電話を切った。
やはり見ぬかれたかと苦笑しつつ、中条は受話器を戻す。
しかし彼もこれからどう少年を誘うのか悩むところだろう。なにせ相手は直情型の少年
で、騒がしい保護者が二人もついている。どんな風に誘おうともひと悶着起こるのは日を
見るより明らかだった。
保護者を巻き込んでの大騒動になった上、支部を壊さなければいいが。
そんなことを危惧しつつ、消えかけたパイプに葉を詰め直そうとした中条に、卓上のイ
ンターホンが来客を告げた。
「誰が来たのかね?」
今日は来訪の予定はなかったはずだがと訊ねた中条に、対応した受付嬢も困惑気味だ。
『はぁ。それが……』
答えようとした受付嬢の声を遮った新たな声は中条にも聞き覚えのある声だった。
『俺だよ俺。鎮三山の花栄~。休暇だから遊びに来たんだけどさ、長官殿は今暇かい?』
2
3時間後、中条と花栄が居たのは北京では珍しい日本風の居酒屋だった。お世辞にも綺
麗とは言えない店の外には赤い提灯がぶら下り、お世辞にも広いとは言えない店内は5・
6人しか座れないカウンターのみ。さらに店を切り盛りするのはカウンター越しに鋭い視
線を投げかける無愛想な親父が一人きり、と中年日本男性には心底懐かしさを感じさせる
店だった。
ちなみに中条を飲みに誘い、この店に連れて来た花栄はこの店では常連らしい。
甲冑を身に付けていないとはいえ、いかにも武将といった恰好の花栄とスーツの中条と
いう組合せに店の主は全く動じずに接客している。
「おやっさーん。大根とがんもね、あと日本酒お代り」
と慣れた口調で注文する花栄の姿は全く違和感がない。むしろ馴染んでいる。これで服
装が中条と同様にスーツだったら完全に、『東京の仕事帰りのサラリーマン二人組』と思
われることは間違いなかった。
「私も大根をもらおう」
店に入った瞬間、まさか異国でこんな店に連れて来られるとは……、と顔には出さず感
動した中条だったが、おでんの味に更に感動した。正に懐かしき東京の味がする。
直ぐにさっと目の前に出された大根を口に入れる。ほどよく出汁の染みた大根の味に、
思わず声が洩れた。
「美味い」
「だっろ~。ぜってぇアンタにも教えようと思ってたんだ」
中条の勤務時間が終り酒も入ったことで、花栄の口調も砕けてきた。
「それにしても中条長官も今日ドタキャンされたとはねぇ~」
「あぁ見事振られてしまったよ」
「折角のバレンタインデーだってのにねぇ。アンタの事だからちゃんと準備までしたんだ
ろ?」
「まぁ仕方がないさ」
日本酒を片手に苦笑を返した中条に、花栄は『やっぱ長官アンタはは絵になるねぇ』と
溜息にも似た言葉を吐いた。
「きっとあの呉先生のことだから、今日がバレンタインデーだってこと事態忘れてるんだ
ろうぜ」
「あぁ。私もそう思う。実験相手では私も分が悪くてね。全敗中だよ。」
それでも、思い出して謝りの電話を入れるくらいになったのだから進歩したものだと思
う。最初の頃はすっかり忘れられた挙句、後で泣きながら謝られてしまうことが何度もあ
り、その度に慰めたり周りに勘繰られたりと散々な目にあったものだった。
そう言うと、花栄は唸った。
「順調そうに見えて長官も結構苦労してんだな。でも昔はかなりモテただろアンタ。
確か長官の出身の日本だと、バレンタインデーは女の子からチョコレート貰って告白さ
れるんだよな。放課後に校舎裏に呼び出されて、セーラー服の女の子に『好きです』とか
言われちゃうんだろ? いいなぁ、こっちはそんな風習ないからさ、うらやましーなぁ。
あと下駄箱いっぱいのラブレターとかあるんだろ……」
「……やけにくわしいな」
どこから得たのか偏った花栄の知識に幾らか引き気味の中条は、直ぐにその答えを知っ
た。
「あ、この間村雨に聞いたんだよ。あってるんだろ。これ」
「……まぁ、そういうシュチエーションも無きにしもあらずだが。ついでに言うなら日本
にはホワイトデーというのもあるがね」
「あ、それも聞いたぜ。確かチョコレート貰った相手に何十倍も高い値段のもので返さな
きゃいけないんだろ? で、あくどい女はそれ目当てにバレンタインデーにチョコレート
配りまくるんだって?」
それは嫌だな。どうせならチョコレートだけ貰いたいぜ俺と呟く花栄に、頭痛を覚えた
中条は話題を変える事にした。
「………そう言えば、君も急にキャンセルされたって?」
「そうそう! そーなんだよ」
途端食いついた花栄。
その相手は中条も良く知る人物で、とても堅物で有名である。こんな恋人同士のイベン
トに参加するとは思えないが、かといって土壇場で断わるような男でもない。中条には二
重の意味で信じがたかった。
「それは……矢張り黄信君なのか?」
「え~。アイツ以外に誰がいるっていうんだよ、長官!」
「……それはすまない」
花栄の想い人は小李広の黄信というれっきとした男だ。花栄が幼馴染の黄信にベタぼれ
と言うのは、国警の中でも有名な話で、それに気付いていないのは想われている本人だけ
である。正に親友以上恋人未満な関係と言える。
これからの話に勢いを付けるためか、花栄はコップに入った酒を一気に煽った。
「聞いてくれよぉ。本当はさ、アイツとふたりでここに呑みに来る予定だったんだ」
最初は(中条の想像通り)そんな軟弱なイベントなんぞにかぶれおってと相手にされな
かったが、友人同士でも祝うらしい(と限りなく曖昧に言ってみたり)とか丁度御互い休
暇だとか色んな理由を付けてどうにか約束にまで漕ぎつけたらしい。
「で、それが昨日さ、急に当日夜勤の奴と交代するって言うんだよ、ひっでぇだろ~」
詳しく聞いたら、それは妻子がいる男だった。なんでも単身赴任中でなかなか会えない
父親に物心付いた娘から、覚えたばかりのたどたどしい文字で『チョコを渡すから帰って
来て』と書かれた手紙が来たらしい。
「それは……黄信君らしいな」
「確かにそうだけどさぁ。偶には俺の約束くらい優先して欲しいもんだぜ」
口ではそう言いつつも、花栄の瞳は優しい。
黄信は数年前にBF団との戦いで妻子を失った。その所為か、妻子持ちのエキスパート
にはどうしても自分の出来る範囲で優遇してしまうらしい。
妻子が殺されたことに自責の念に駆られ自分を追い詰めていた黄信の姿に、今まで親友
としての愛情だと思っていた気持ちが恋愛感情だと気付いた花栄にとっては、そういった
黄信の姿が告白に踏み切れない理由のひとつになっている。
「そういうところも好きなんだろう?」
中条の問いに、花栄は大きく頷いた。
「そりゃぁね。あー俺、やっぱアイツのこと好きなんだなぁって改めて思ったね。だから
このままの関係でもいいと思う時もある」
君らしいな……と言いかけて中条は声を噤んだ。花栄の表情がやや暗くなったが一瞬の
事で直ぐにいつもの明るい表情に戻る。
「でも、俺って奴は自分で思った以上に欲張りだったらしくてね。
その時同時に、アイツにもしも新しく女が出来そうになったらどうなるか分からないなぁ
と思いましたよ。俺も案外暗いもんだ」
そう言って花栄は笑った。
3
「あー呑んだ呑んだ」
と上機嫌の花栄と、いつも通りパイプを吹かす中条は北京の屋台通りを歩いていた。赤
提灯の店を出て2軒目を梯子するかとブラブラしているところだ。
バレンタインデーとあって、こんな通りでもいつもよりは若干カップルの姿が目立つ。
「本当は、長官殿に口説きのコツでも聞いた後、長官呉先生のいちゃつきっぷりでも拝ん
で帰ろうかと思ってたんだけどなー」
あっはっはと笑う花栄。
「拝んで? なんだいそれは?」
「あれ? あー知らないよな。今梁山泊で、誰が始めたんだか北京の方を拝めば恋愛成就
するっちゅうお呪いが流行りなんだよ。なにせ最強カップルが2組もいるから」
最強と言われて、敵味方のタブーを乗り越えた一組は直ぐに思いついたものの、自分達
が最強と言われる所以が分からない。と呟いた中条に、
「ま、知っても直しようがないからなぁ。アンタ達は」
と答えて笑い続ける花栄だった。
そんな中、突如まだ人通りの絶えない屋台通りに馬の嘶きが響いた。ん? と花栄は聞
き覚えのあるその声に背後を振り返る。
「あれは……赤兎馬か?」
「そのようだな」
市街を歩くには……と支部に置いてきた筈の愛馬の姿が人込みの奥に見えた。
人の波が割れて音と共に近付いてくる特徴的な赤毛の馬に驚いた花栄は、その背に乗っ
た人物更に驚く事になる。
「って、黄信! こんな所でどうしたんだお前」
「探したぞ、花栄」
赤兎馬からひらりと降り立った黄信はいつもと変わらない甲冑姿だった。
「なにかあったのか?」
「違う」
「じゃ、なんで? お前今日夜勤だろ」
「どっかの誰かが散々ごねたから、部下が気を効かせてくれてな。今日は休みになった」
で探してみれば、赤兎馬で北京に向った後だったそうだ。
全く良い年の男が……と不機嫌な顔をしつつも、わざわざ探しにやってくるのが黄信ら
しい。
「こ、黄信~」
瞳を潤ませた花栄に、照れ臭いのか眼をそらす。
「さぁ、呑みに行くならさっさと行くぞ」
「おう」
さっさと歩き出す黄信に嬉しそうに合いの手を入れた花栄は、上機嫌で蚊帳の外だった
中条を振り返った。
「という訳で今から三人で飲もうぜ長官。今なら俺が全部奢るぞ」
先ほどまで居酒屋でくだを巻いていたのが嘘のようだ。
「いや、私はここで退散しよう」
「そうかい」
その残念そうな声音に中条は苦笑を返した。花栄は元々大勢で呑むのが好きな方だ。黄
信と二人きりで呑むと言うことが今は頭の外らしい。
「あぁ。ついでに赤兎馬も支部で預かっておこう。明日にでも取りに来たまえ」
「確かにそうしてもらえるとありがたいな。頼んだ」
頷いた黄信から赤兎馬の綱を預かり、慣れた手付きでその背に跨った中条に、黄信が思
い出したように声を掛けた。
「あぁそうだ、中条長官。呉学人が青い顔をして探しておったぞ」
なにがあったか知らんが、帰ったら話を聞いてやれ。周りの人間が迷惑だと、少々立腹
気味の黄信の言葉に、中条は表情をどう作れば良いのか困った。
ようやく今日がなんの日か思い出したということだろう。探していたということは、今
度は研究が手に付いていないのだろうか?
取り合えずは分かったと答えておいて、中条は花栄と黄信に手を振ってその場を離れた。
屋台通りを歩いている時は気付かなかったが、寒空の上星と共に満月が青白く輝いてい
る。吐く息が白い。
市街から抜け出た途端文字通り風のように駆け始めた馬の上で、中条は今頃慌てている
であろう恋人を思い、一人微笑んだ。
買って置いたチョコレートはどうやら無駄にならずに済んだらしい。
実験好きの恋人に無下にされない日も近いのかもしれない。
赤提灯ばれんたいん
1
2月14日、キャンセルの電話が入ったのは、約束の3時間前だった。
『……と言う訳で、どうしても約束には間に合いそうもありません』
「そうか。仕方がないだろうな」
『申し訳ありません。私のミスで……』
「いや君が謝ることはない。そっちを優先したまえ」
『いえ、それでも折角お誘いして下さったのに……』
「急に言い出したことだ。気にしないでくれ」
『すみません……』
何度も謝罪するその声に、中条は電話の向こうにいる呉の姿を想像した。
研究室で受話器を片手に謝りながらも、周辺を右往左往する研究員達には的確に指示を
出している。本来はこうして自分を相手にしている暇もないのかもしれない。
小さな破裂音と数人のどよめきが洩れ聞こえる。
「忙しいようだね。私のことはいいから頑張りたまえ。それとあまり無理はしないように」
『はい……』
切る間際にも呉が謝罪する声が聞こえる。相変わらず几帳面な呉らしいと思いつつ、い
つもと違う微妙な声音も中条は察している。
ミスだと言いつつその声は嬉しさが滲み出ていた。その実験に純粋に科学者としての気
持ちが疼いているようだ。今の呉の心は自分との約束よりも目の前の研究のことで占めら
れている。けして自分と会話に心が篭もっていないわけではないのだが、いつもより上滑
りな様子が感じ取れた。普段だったらそんな心情を隠そうとする呉から、だ。これはよっ
ぽどのことだろう。と中条は思う。
実験に負けたと寂しく思いつつ、中条はもう1度電話を取った。今度は違う研究室へ。
相手は直ぐに出た。
『はい』
「私だ」
『長官? 何か用事でも?』
困惑げな声。それもそうだろう。中条がそこに電話を掛けるのはこれが初めてだ。
「あぁ。今夜行われるコンサートのペアチケットが無駄になったのでね。折角だから君に
進呈しようと思う」
『は?』
「その後の夕食は国際ホテルのレストランに行きたまえ、予約は取ってある」
『あ、あの……』
「場所は会場から北京空港へ行く途中の……」
最初は困惑していたが、中条が強引に話し終える頃には相手も何かを察したらしい。肝
心な部分には触れずに演目や指揮者を問われて答えれば、彼には珍しく大きな感嘆を洩ら
した。クラシックを好む彼でも良く知る名だが、生演奏は初めてに違いない。
『それは……まだアイツには十年早いな』
青年らしいセリフだと思う。だからこそ余計に少年は焦って頑張ってしまうということ
に、気付いているのだろうか?
「偶には少しくらい彼を大人扱いをしてやりたまえ」
『本人が気付かん時もあるのだがな……。まぁ、あの指揮者の演目は私も聴きたかった。
ありがたく頂こう』
「では誰かにチケットを持っていかせる。楽しんできたまえ」
『あぁ。貴方の分までな』
その一言を残して、中条の恋人の性癖を良く知る黒髪の青年は電話を切った。
やはり見ぬかれたかと苦笑しつつ、中条は受話器を戻す。
しかし彼もこれからどう少年を誘うのか悩むところだろう。なにせ相手は直情型の少年
で、騒がしい保護者が二人もついている。どんな風に誘おうともひと悶着起こるのは日を
見るより明らかだった。
保護者を巻き込んでの大騒動になった上、支部を壊さなければいいが。
そんなことを危惧しつつ、消えかけたパイプに葉を詰め直そうとした中条に、卓上のイ
ンターホンが来客を告げた。
「誰が来たのかね?」
今日は来訪の予定はなかったはずだがと訊ねた中条に、対応した受付嬢も困惑気味だ。
『はぁ。それが……』
答えようとした受付嬢の声を遮った新たな声は中条にも聞き覚えのある声だった。
『俺だよ俺。鎮三山の花栄~。休暇だから遊びに来たんだけどさ、長官殿は今暇かい?』
2
3時間後、中条と花栄が居たのは北京では珍しい日本風の居酒屋だった。お世辞にも綺
麗とは言えない店の外には赤い提灯がぶら下り、お世辞にも広いとは言えない店内は5・
6人しか座れないカウンターのみ。さらに店を切り盛りするのはカウンター越しに鋭い視
線を投げかける無愛想な親父が一人きり、と中年日本男性には心底懐かしさを感じさせる
店だった。
ちなみに中条を飲みに誘い、この店に連れて来た花栄はこの店では常連らしい。
甲冑を身に付けていないとはいえ、いかにも武将といった恰好の花栄とスーツの中条と
いう組合せに店の主は全く動じずに接客している。
「おやっさーん。大根とがんもね、あと日本酒お代り」
と慣れた口調で注文する花栄の姿は全く違和感がない。むしろ馴染んでいる。これで服
装が中条と同様にスーツだったら完全に、『東京の仕事帰りのサラリーマン二人組』と思
われることは間違いなかった。
「私も大根をもらおう」
店に入った瞬間、まさか異国でこんな店に連れて来られるとは……、と顔には出さず感
動した中条だったが、おでんの味に更に感動した。正に懐かしき東京の味がする。
直ぐにさっと目の前に出された大根を口に入れる。ほどよく出汁の染みた大根の味に、
思わず声が洩れた。
「美味い」
「だっろ~。ぜってぇアンタにも教えようと思ってたんだ」
中条の勤務時間が終り酒も入ったことで、花栄の口調も砕けてきた。
「それにしても中条長官も今日ドタキャンされたとはねぇ~」
「あぁ見事振られてしまったよ」
「折角のバレンタインデーだってのにねぇ。アンタの事だからちゃんと準備までしたんだ
ろ?」
「まぁ仕方がないさ」
日本酒を片手に苦笑を返した中条に、花栄は『やっぱ長官アンタはは絵になるねぇ』と
溜息にも似た言葉を吐いた。
「きっとあの呉先生のことだから、今日がバレンタインデーだってこと事態忘れてるんだ
ろうぜ」
「あぁ。私もそう思う。実験相手では私も分が悪くてね。全敗中だよ。」
それでも、思い出して謝りの電話を入れるくらいになったのだから進歩したものだと思
う。最初の頃はすっかり忘れられた挙句、後で泣きながら謝られてしまうことが何度もあ
り、その度に慰めたり周りに勘繰られたりと散々な目にあったものだった。
そう言うと、花栄は唸った。
「順調そうに見えて長官も結構苦労してんだな。でも昔はかなりモテただろアンタ。
確か長官の出身の日本だと、バレンタインデーは女の子からチョコレート貰って告白さ
れるんだよな。放課後に校舎裏に呼び出されて、セーラー服の女の子に『好きです』とか
言われちゃうんだろ? いいなぁ、こっちはそんな風習ないからさ、うらやましーなぁ。
あと下駄箱いっぱいのラブレターとかあるんだろ……」
「……やけにくわしいな」
どこから得たのか偏った花栄の知識に幾らか引き気味の中条は、直ぐにその答えを知っ
た。
「あ、この間村雨に聞いたんだよ。あってるんだろ。これ」
「……まぁ、そういうシュチエーションも無きにしもあらずだが。ついでに言うなら日本
にはホワイトデーというのもあるがね」
「あ、それも聞いたぜ。確かチョコレート貰った相手に何十倍も高い値段のもので返さな
きゃいけないんだろ? で、あくどい女はそれ目当てにバレンタインデーにチョコレート
配りまくるんだって?」
それは嫌だな。どうせならチョコレートだけ貰いたいぜ俺と呟く花栄に、頭痛を覚えた
中条は話題を変える事にした。
「………そう言えば、君も急にキャンセルされたって?」
「そうそう! そーなんだよ」
途端食いついた花栄。
その相手は中条も良く知る人物で、とても堅物で有名である。こんな恋人同士のイベン
トに参加するとは思えないが、かといって土壇場で断わるような男でもない。中条には二
重の意味で信じがたかった。
「それは……矢張り黄信君なのか?」
「え~。アイツ以外に誰がいるっていうんだよ、長官!」
「……それはすまない」
花栄の想い人は小李広の黄信というれっきとした男だ。花栄が幼馴染の黄信にベタぼれ
と言うのは、国警の中でも有名な話で、それに気付いていないのは想われている本人だけ
である。正に親友以上恋人未満な関係と言える。
これからの話に勢いを付けるためか、花栄はコップに入った酒を一気に煽った。
「聞いてくれよぉ。本当はさ、アイツとふたりでここに呑みに来る予定だったんだ」
最初は(中条の想像通り)そんな軟弱なイベントなんぞにかぶれおってと相手にされな
かったが、友人同士でも祝うらしい(と限りなく曖昧に言ってみたり)とか丁度御互い休
暇だとか色んな理由を付けてどうにか約束にまで漕ぎつけたらしい。
「で、それが昨日さ、急に当日夜勤の奴と交代するって言うんだよ、ひっでぇだろ~」
詳しく聞いたら、それは妻子がいる男だった。なんでも単身赴任中でなかなか会えない
父親に物心付いた娘から、覚えたばかりのたどたどしい文字で『チョコを渡すから帰って
来て』と書かれた手紙が来たらしい。
「それは……黄信君らしいな」
「確かにそうだけどさぁ。偶には俺の約束くらい優先して欲しいもんだぜ」
口ではそう言いつつも、花栄の瞳は優しい。
黄信は数年前にBF団との戦いで妻子を失った。その所為か、妻子持ちのエキスパート
にはどうしても自分の出来る範囲で優遇してしまうらしい。
妻子が殺されたことに自責の念に駆られ自分を追い詰めていた黄信の姿に、今まで親友
としての愛情だと思っていた気持ちが恋愛感情だと気付いた花栄にとっては、そういった
黄信の姿が告白に踏み切れない理由のひとつになっている。
「そういうところも好きなんだろう?」
中条の問いに、花栄は大きく頷いた。
「そりゃぁね。あー俺、やっぱアイツのこと好きなんだなぁって改めて思ったね。だから
このままの関係でもいいと思う時もある」
君らしいな……と言いかけて中条は声を噤んだ。花栄の表情がやや暗くなったが一瞬の
事で直ぐにいつもの明るい表情に戻る。
「でも、俺って奴は自分で思った以上に欲張りだったらしくてね。
その時同時に、アイツにもしも新しく女が出来そうになったらどうなるか分からないなぁ
と思いましたよ。俺も案外暗いもんだ」
そう言って花栄は笑った。
3
「あー呑んだ呑んだ」
と上機嫌の花栄と、いつも通りパイプを吹かす中条は北京の屋台通りを歩いていた。赤
提灯の店を出て2軒目を梯子するかとブラブラしているところだ。
バレンタインデーとあって、こんな通りでもいつもよりは若干カップルの姿が目立つ。
「本当は、長官殿に口説きのコツでも聞いた後、長官呉先生のいちゃつきっぷりでも拝ん
で帰ろうかと思ってたんだけどなー」
あっはっはと笑う花栄。
「拝んで? なんだいそれは?」
「あれ? あー知らないよな。今梁山泊で、誰が始めたんだか北京の方を拝めば恋愛成就
するっちゅうお呪いが流行りなんだよ。なにせ最強カップルが2組もいるから」
最強と言われて、敵味方のタブーを乗り越えた一組は直ぐに思いついたものの、自分達
が最強と言われる所以が分からない。と呟いた中条に、
「ま、知っても直しようがないからなぁ。アンタ達は」
と答えて笑い続ける花栄だった。
そんな中、突如まだ人通りの絶えない屋台通りに馬の嘶きが響いた。ん? と花栄は聞
き覚えのあるその声に背後を振り返る。
「あれは……赤兎馬か?」
「そのようだな」
市街を歩くには……と支部に置いてきた筈の愛馬の姿が人込みの奥に見えた。
人の波が割れて音と共に近付いてくる特徴的な赤毛の馬に驚いた花栄は、その背に乗っ
た人物更に驚く事になる。
「って、黄信! こんな所でどうしたんだお前」
「探したぞ、花栄」
赤兎馬からひらりと降り立った黄信はいつもと変わらない甲冑姿だった。
「なにかあったのか?」
「違う」
「じゃ、なんで? お前今日夜勤だろ」
「どっかの誰かが散々ごねたから、部下が気を効かせてくれてな。今日は休みになった」
で探してみれば、赤兎馬で北京に向った後だったそうだ。
全く良い年の男が……と不機嫌な顔をしつつも、わざわざ探しにやってくるのが黄信ら
しい。
「こ、黄信~」
瞳を潤ませた花栄に、照れ臭いのか眼をそらす。
「さぁ、呑みに行くならさっさと行くぞ」
「おう」
さっさと歩き出す黄信に嬉しそうに合いの手を入れた花栄は、上機嫌で蚊帳の外だった
中条を振り返った。
「という訳で今から三人で飲もうぜ長官。今なら俺が全部奢るぞ」
先ほどまで居酒屋でくだを巻いていたのが嘘のようだ。
「いや、私はここで退散しよう」
「そうかい」
その残念そうな声音に中条は苦笑を返した。花栄は元々大勢で呑むのが好きな方だ。黄
信と二人きりで呑むと言うことが今は頭の外らしい。
「あぁ。ついでに赤兎馬も支部で預かっておこう。明日にでも取りに来たまえ」
「確かにそうしてもらえるとありがたいな。頼んだ」
頷いた黄信から赤兎馬の綱を預かり、慣れた手付きでその背に跨った中条に、黄信が思
い出したように声を掛けた。
「あぁそうだ、中条長官。呉学人が青い顔をして探しておったぞ」
なにがあったか知らんが、帰ったら話を聞いてやれ。周りの人間が迷惑だと、少々立腹
気味の黄信の言葉に、中条は表情をどう作れば良いのか困った。
ようやく今日がなんの日か思い出したということだろう。探していたということは、今
度は研究が手に付いていないのだろうか?
取り合えずは分かったと答えておいて、中条は花栄と黄信に手を振ってその場を離れた。
屋台通りを歩いている時は気付かなかったが、寒空の上星と共に満月が青白く輝いてい
る。吐く息が白い。
市街から抜け出た途端文字通り風のように駆け始めた馬の上で、中条は今頃慌てている
であろう恋人を思い、一人微笑んだ。
買って置いたチョコレートはどうやら無駄にならずに済んだらしい。
実験好きの恋人に無下にされない日も近いのかもしれない。
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