Ⅹ
『は…離して下さい!』
メリルの声が聞こえた瞬間、ヴァッシュは窓から飛び出そうとした。だが何故かウルフウッドに足を引っぱられ、窓枠に顎をぶつけそうになるのを両手をついて回避する。
何すんだ、と怒鳴る前にごつい右手で口を塞がれ呻くことしかできない。
「オドレが出たかてこじれるだけや。アイツが自主的に消えれば一番ええやろ?」
不敵な笑みを浮かべたキャッチャーに、頭に血が上っていたピッチャーも落ち着きを取り戻した。
「…どうするのさ」
「とりあえずマネージャーに顔見せて安心さしたり」
言われるまま、ヴァッシュは窓から顔を覗かせメリルにウインクしてみせた。
『…お話を伺いますわ』
一人じゃないと判ってくれたようだ。そう言ったメリルの声は冷静だった。
「滝に打たれる荒行でもさせたいとこやけど、滝なんてあらへんしな。かわりに水ぶっかけたろ。これだけ寒いんや、すぐ帰るやろ」
「…楽しそうだね、キミ」
「ワイが上に行くさかい、マネージャーに時間稼ぐよう伝えてや」
ヴァッシュの返事を待たずウルフウッドは教室を走り出た。
「伝えてやって言われても…」
声を出せばキールに気づかれてしまう。以心伝心などできっこない。
せわしなく辺りを見回す。自分の鞄が目に飛び込んできた。この件が片づいたら部室に直行できるよう持ってきていたのだ。
大学ノートとサインペンを取り出すと、ヴァッシュは次々と大きく字を書き込んでいった。
窓から上半身を出し、ノートを繰ってみせる。
『…それであなたはその提案を受け入れたんですの?』
話を長引かせる為にマネージャーが質問した。本当は口をきくのも不愉快だろうと思うと申し訳ない気持ちで一杯になる。
『ウルフウッド…早くしてくれ…』
一秒が一分にも感じられる。ヴァッシュは度々顔を出し、状況を確認した。
ようやくウルフウッドが屋上から顔を見せた。笑顔で右手のビニール袋を軽く振り、左手の親指と人差し指で輪を作る。OKのサインだ。
ヴァッシュは再びノートでメッセージを伝えた後、上を指差した。メリルがウルフウッドに気づく。これで準備は万端。
『程度低すぎですわ』
怒りを秘めたメリルの声を聞きながら、ヴァッシュはノートを足元に放り出し背中を窓枠で支えて上体を外に出した。それぞれの手を二人に向ける。
カウントダウン開始。メリルがその場にキールを留めるべく細工をするのを見守りながら、指を一本ずつ順に折っていく。
両手を握り締めた直後に身体を引っ込めたヴァッシュは、残念なことにビニール袋がキールに命中する瞬間を見られなかった。――
「…あの水、緑色でしたわね。絵の具でも混ぜたんですの?」
「え、ただの水じゃなかったの?」
二人の視線が黒髪の男に集中する。
「ビニール袋はごみ箱から拾ったんやけど、水入れて運ぶんはちと重いやろ。カラッポのまんま屋上まで持ってってそこで汲んだんや。プールの水をな」
「プールの…」
「…あの緑色は藻の色でしたのね…」
「あんなけったくそ悪い奴に水道水なんぞ上等すぎるわ」
吐き捨てるような口調にヴァッシュは僅かに眉根を寄せた。どうしてウルフウッドはこんなに怒ってるんだろう…。
以前彼が言った『億万長者になるもう一つの方法』が脳裏をよぎる。
「背景が判っただけでも御の字ですのに、お二人のお陰で胸がすっとしましたわ。ありがとうございます」
ウルフウッドとは対照的なメリルの明るい声。再び頭が下げられ艶やかな黒髪が揺れるのを、返事をするでもなくただぼんやりと眺める。
身体を起こしたメリルがにっこり笑った。
「それじゃ部活に行きましょうか」
バッテリーはきょとんとした表情で同時に瞬きすると、首を巡らせ互いの顔を凝視した。
「…遅刻――!!」
あっという間に二人の姿が教室から消えた。窓の外にメリルを残して。
「…前もって断ってきた訳ではなかったんですのね」
苦笑混じりの小さな呟きは、当然のことながら廊下を必死に走る二人の耳には届かなかった。
ⅩⅠ
顧問の説教を正座で拝聴することとスペシャル外回り三周。無断で遅刻したバッテリーへの罰である。
「オドレの…言葉に…のせられた…ワイが…阿呆やった…」
「何…言ってんの…俺より…熱心に…動いてた…クセに…」
ハイペースで熊野宮神社の階段を駆け上りながら、二人はこうなった責任をなすりつけあっていた。
百メートル走でテープを切るような勢いのまま鳥居をくぐる。
急にヴァッシュが立ち止まった。視界の隅をよぎった白い紙に飾られた木に目を向ける。
半月程前、彼女はあの木におみくじを結んだ。見慣れない和服姿。本当に綺麗で…
あでやかな幻は後頭部への一撃で雲散霧消した。
「いっ…たいな! 口より先に手ェ出すのやめてくんない!?」
「何ボケっとしとんねん。はよ走らんと日が暮れてまうわ」
「…ウルフウッド」
いつになく真摯な自分の声に黒髪の男が真顔になった。重い沈黙。
「…いや、やっぱりいい」
訊きたい。だけど訊けない。もし肯定されたら、俺と同じ想いを抱いてるとしたら、俺は――
ヴァッシュが辛そうに顔を曇らせる。が、そんなことはお構いなしに、ウルフウッドは容赦ない関節技をかけた。
「いてて、いててて」
「言いかけてやめんなボケ! 気色悪いやんか!」
情けない声をきっぱり無視し、しばらくの間きっちり締め上げてから解放する。
「で? 言いたいことがあるんやったらハッキリ言えや」
「…べっつに」
なげやりな自分の言葉に、ウルフウッドの血管が切れた音が聞こえた気がした。こめかみから噴き出す鮮血も見えたような気がする。
「殺スッ…ブッ殺し尽くす!!」
「あいてててててててて」
先刻よりも更にきつい技をかけられ、ヴァッシュの顔から徐々に血の気が引いていく。
「言わんとずううううううっとこのままやで!?」
「わ…判った、言います! 言うから離して!」
ようやく自由を取り戻し、大きく息をついてからヴァッシュは重い口を開いた。
「…どうしてキミは…その…協力してくれたの?」
「…あ?」
「今日のこと」
ウルフウッドは怪訝そうに目を細め、冴えない表情で立ち尽くす男を見やった。
「問答無用で巻き込んだ張本人が何ゆうとんねん」
「人間台風デスカラ」
軽口で応じてはいるが、ブルーグリーンの瞳は更に問いかけている。理由はそれだけか、と。
「…前から虫が好かん奴やった、いうのもあるけどな」
言えるか。あの子と約束したから、なんて。
ウルフウッドは直接誓った訳ではない。しかし、メリルが辛い思いをしたら間違いなくミリィは怒り悲しむ。あの子の泣き顔を見たくない――その気持ちは今も変わっていなかった。
ヴァッシュは僅かに俯き目を伏せた。虫が好かない理由は何なのかの説明は一切ない。が、目の前にいるのは答えたくないことは決して口にしない男だ。これ以上質問を重ねても適当にはぐらかされるのがオチだ。
「…判った。…ありがとう。しんどい思いをさせて、済まない」
踵を返すと、ヴァッシュは一人で足早に階段を下り始めた。
「行こう。ほんとに日が暮れちゃうよ」
ウルフウッドが隣を走ろうとすると、ヴァッシュは決まってペースを上げ横に並ばれるのを拒んだ。今は…校庭に戻るまでは顔を見たくなかった。見られたくなかった。
仕方なくピッチャーの斜め後ろを走りながら、ウルフウッドはこれまでに起きた出来事を次々と思い起こした。
心から笑う、怒る、泣く、凄む、危険なことに自ら首を突っ込む――カラッポの笑顔を絶やさない人間台風は、マネージャーが絡んだ時だけ自分の感情をむき出しにする。刃物を持つ相手に素手で掴みかかるほど自分の命に無頓着になる。
野球部やクラスの連中はどうだか知らないが、ヴァッシュの気持ちなどとうにお見通しだ。当然今の心理状態も手に取るように判っている。
だからといって、こちらにその気がないことを説明するつもりはこれっぽっちもない。納得させるには理由をきちんと話さなければならない。自分の想いを他人に知られるのはご免だ。
「冗談やない」
吐き捨てるような呟きにヴァッシュが一瞬振り返ったが何も言わなかった。
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ⅩⅡ
「今日は家までマネージャー送ったり」
練習を終え部室に着替えに向かう途中、ウルフウッドはヴァッシュの横に並ぶと、聞き取るのに苦労するほど小さな声で囁いた。
「…どうして?」
問い返す声も同じくらい小さい。
「あの場には自分とマネージャーしかおらんかった、キールはそう思っとる筈や。無差別なイタズラでないとしたら、犯人として考えられるんはケビンかマネージャーやけど、アイツは『ケビンは自分の言いなりになる』っちう確信しとるやろ。となると犯人はマネージャーってことになってまう。…報復にどっかで待ち伏せとるかも知れんやろ」
メリルの腕を掴んで離さなかったキールの姿がヴァッシュの脳裏に浮かぶ。
「…何で俺にやらせる訳?」
「…ワイがやってもええんか?」
「駄目」
間髪入れない即答に、ウルフウッドは僅かに口の端を吊り上げた。
遠回りさせては申し訳ないから、と固辞するメリルを二人がかりで説得し、ヴァッシュはかつてのように二人乗りでメリルの家に向かった。
門の前に誰か立っている。ヴァッシュは一瞬緊張したが、体格はキールよりもずっと小柄で少々太目だ。
別人なのは間違いないが、念の為警戒しながらペダルを踏む。二人を乗せた自転車はゆっくりと近づいていった。
「お嬢様!」
聞き覚えのある声。門灯に照らし出された顔。そこにいたのはストライフ家の家政婦だった。
「ジョアンナさん! どうしましたの、こんな所で…」
メリルは怪訝そうに尋ねた。嬉しそうな表情から、悪い知らせではないことは判るのだが…
「おめでとうございます!」
「…え?」
この寒い中わざわざ屋外で待っていた原因は自分にあるらしい。しかし、お祝いの言葉で迎えられる心当たりは全くない。
「これです!」
ジョアンナは手にしていた紙を二人の前に広げて見せた。
「クラスメイトのケビン様からいただいたファックスです! お嬢様を生徒会の副会長に推薦したと!」
ヴァッシュとメリルは顔を見合わせた後、むさぼるようにその紙に目を通した。ワープロかパソコンで作成したのだろう、明朝体の文字が整然と並んでいる。最後のサインさえ直筆ではなかった。発信元は消されていた。
「小学校低学年の頃は学校になじめなかったお嬢様が、クラスメイトの方から生徒会の役員に推薦されるほどの信頼を得るまでになっていたなんて…! ジョアンナは嬉しゅうございます!」
せっかくの喜びに水を差すのは忍びない。二人は目だけで会話した。
『アイツだね』
『ええ、間違いありませんわ』
キール・バルドウ。
ジョアンナに判らないよう呼吸に紛らわせて小さくため息をつくと、メリルは恐る恐る質問した。
「ジョアンナさん…このことはお父様やお母様には」
「お知らせしました! 奥様は事の他お喜びです!」
「まだ当選した訳ではありませんのよ」
メリルの苦笑に翳りが混じった。
彼女には判っていた。母が喜んだ理由がジョアンナとは異なることを。
「あ…そ、そうですね。私ったら気が早くて…。でも当選なさったら張り切ってお赤飯を炊かせていただきますから!」
「それは…楽しみですわね。…ヴァッシュさん、わざわざ送って下さってありがとうございました。早く帰って暖かくして下さいね。風邪など引かないように」
「うん、ありがとう。それじゃ。ジョアンナさん、失礼します」
祝いの席のメニューをあれこれ並べ立てていたジョアンナは、慌てて頭を下げてヴァッシュを見送った。
ⅩⅢ
「ほうか、そう来たか…」
朝練の後、教室でメリルからファックスの話を聞いたウルフウッドは、それだけ言うと不快そうに口元を歪めた。
「…私、体調不良を口実に保健室に行くか早退するかして、選挙には出席しないつもりでしたの」
大切な日に体調を崩すような自己管理ができない人に、生徒会役員の激務がこなせる筈がない。そう考えて貰う為の策だった。
おそらくキールも同じことを考えたのだろう。ケビンの名前でファックスを送りつけたのは、今日が大事な選挙の日だと家人に知らせる為。仮病で学校を休ませない為。
「…で、どうするの?」
「選挙に出ます」
「!?」
「落選すれば小言は間違いないでしょうけど、不戦敗よりはましですわ」
失敗は許されない。敗北は恥。そう考える身内は多い。ましてやこれは内申書をよくするチャンスなのだ。
落選後の、母親を初めとする親戚一同の怒りの形相が目に浮かぶ。
『二度もストライフの名に泥を塗るとは何事ですか!』
詰問する台詞まで想像がついて、メリルは思わず吐息した。
「あんなに喜んでいたジョアンナさんには悪いですけど…」
祖父母の家で乳母として自分の世話をし、小学校入学と共に今の家に移り家政婦としてずっと尽くしてくれている。そんな彼女を悲しませることだけが心苦しかった。
昼休み終了を告げるチャイムの後、一・二年生は選挙の為全員体育館に移動した。
現生徒会長の挨拶が済むと、早速候補者の演説が始まった。まずは応援演説、続いて本人の演説の順で、次々と生徒が壇上に立つ。
会長候補が終わり、副会長候補の演説に移った。くじ引きの結果、メリルは三番目に演説することになった。
他の候補者のスピーチが終わり、ケビンを呼ぶアナウンスが流れた。強張った顔のケビンが中央の演説台を目指して進む。極度に緊張していることは右手と右足が同時に出ていることが証明している。
「あ…あの…メ、メリル・ストライフさんを推薦した、じゃなかった、推薦しました…」
暫しの沈黙の後どうにか話し始めたものの、声は上ずり、無意味な言葉が多数混じる。簡潔明瞭には程遠く、お世辞にも上手いとは言えない。
「メリルさんは…ご、ご存知の方も多いと思いますけど…学年トップの成績で、頭がよくて…あれ? そ、そう! スポーツも 万能です。野球部で活躍していて…いや、あの、マネージャーとして…」
しどろもどろの応援演説は、時間切れの為に中途半端のまま終わった。
「では続いてメリル・ストライフさんの演説です」
よろめきながら舞台の袖に戻るケビンとは対照的に、メリルはしっかりとした足取りで演説台へと進んだ。
「副会長に推薦されました、一年のメリル・ストライフと申します」
短く自己紹介すると、メリルは一人一人の顔を確認するようにゆっくりと視線を巡らせた。長すぎる中断に生徒達がざわめき始める。
「…何故自分がここにいるのか、私にはその理由が判りません」
判ってますけどね、と心の中だけでつけ足す。
推薦制度が既に本来の意味を失っていることは生徒の大半が知っている。意外な言葉にざわめきがひときわ大きくなった。
「…私には重責を果たす決意も公約もありません。また、副会長の激務をこなす実力があるとも思っておりません」
いったん言葉を切る。大きく息を吸ってから、メリルは再び言葉を紡いだ。
「私はトライガン学園が好きです。それは皆さんも同じだと思います」
館内が水を打ったように静まり返った。誰もがメリルの声に耳を傾けていた。
「ですから…来年生徒会を運営するに相応しい人を選んで下さい。誰かに言われたから、というようなことではなく、よく考えて、自分の意志で投票して下さい。…以上です。ご静聴ありがとうございました」
メリルは深々と一礼し、ゆっくりと舞台の袖に引っ込んだ。選挙管理委員が慌てて駆け寄り耳打ちする。
「あ、あの、時間はまだたっぷり残ってますけど」
「いいんです。お話ししたいことは全て申し上げましたから」
微笑みながら会釈し候補者控室に向かうメリルに、それ以上話しかける人はいなかった。
ⅩⅣ
書記・会計・会計監査と演説は続き、投票用紙を記入する為の時間がとられた。その後、生徒達はクラス毎に退場しながら出入り口に設置された投票箱に用紙を入れていった。
程なく投票は終了し、即刻開票作業が始められた。
放課後、部室に向かうマネージャーの後ろ姿に気づいたヴァッシュは、さながら飼い主を見つけた大型犬のように駆け寄った。
「お疲れさま」
並んで歩きながら言葉少なにねぎらう。自分を見上げる顔に微笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます。…公約を一切言わない選挙演説は前代未聞でしょうね」
「確かに。でもカッコよかったよ。感動した。キミが『よく考えて、自分の意志で』って言った時、背中が震えたもん」
言いながらぶるぶると身体を震わせてみせる。
「もう、大袈裟ですわね。…ちゃんと伝わってるといいんですけど」
「うん」
キールは私欲の為に生徒会を利用しようとしている。二人は彼の落選を願わずにはいられなかった。
翌朝、掲示板の前には再び人だかりができた。選挙の結果が発表になったのだ。
朝練を終えたヴァッシュ達三人は、二日前と同じようにその傍を通りかかった。
「あ、貼ってあるみたいだよ」
ヴァッシュの声にそこにいた生徒達が一斉に振り向いた。視線が横へ移動し、隣に立つメリルで止まる。人垣が割れるように左右に動いた。
「…?」
譲って貰ったことを訝しく思いながらも、三人は軽く会釈して感謝の意を表わしてから掲示板に歩み寄った。
結果――
生徒会長、キール・バルドウ。無効票がもう一人の候補に投票されていれば当落は逆転していたという、まさに辛勝であった。
副会長、メリル・ストライフ。こちらは全体の九割近くを得た圧勝である。
書記・会計・会計監査は、必要な人数と候補者が同数だった為信任投票となった。全員が過半数を充分上回る票を獲得し当選を果たした。
「…どうしてこうなるんですの…」
自分の席でメリルは頭を抱えた。蓋を開けてみれば最悪の事態に陥っていたのだ。
「やる気も公約もないと申し上げましたのに…」
「だからかも知れんな」
ただ誉めちぎるだけの応援演説、声高に決意を表明し公約を並べ立てる候補者。その中にあって、淡々と自分の意見を述べたメリルは異彩を放っていた。
「守られるかどうかも判らん公約をやかましいほど主張した奴より、一言『トライガン学園が好きです』言った奴のほうがよっぽど信用できる、愛校心がある奴やったら仕事の手ェは抜かん、そう思われたっちうこっちゃ」
何よりもメリルの率直さと、不本意な推薦をされたのに真摯な態度で選挙に臨んだことが、多くの生徒達の心をしっかりと掴んだ。
「言い方が悪かった、ということですのね…」
「キミは誰に入れたの?」
ウルフウッドが挙げた副会長候補の名はメリルではなかった。
「え!? マネージャーじゃないの!?」
「オドレはマネージャーに入れたんかい」
肯いたヴァッシュの顔にウルフウッドの左手が押しつけられた。
「ドアホ。只でさえ忙しいマネージャーこれ以上忙しくしてどないすんねん」
「…!」
勉強と部活を両立するだけでも大変だ。ましてやメリルは、部活を続ける為に厳しい条件をクリアし続けなければならない。この上副会長の激務が加わったら…
「ご、ごめん! 俺考えなしで、その…」
「気にしないで下さい。一票減っても結果は変わりませんもの」
申し訳なさそうに大きな身体を縮こまらせたヴァッシュにメリルは笑顔で答えた。
「あ…あの…」
ためらいがちな声に三人が振り返る。俯き加減のケビンが背中を丸めて立っていた。
「何ぞ用か?」
三人を代表し、ウルフウッドがぶっきらぼうに答えた。小柄な肩がびくりと震える。それでもケビンは勇気を振り絞って口を開いた。
「メ…メリルさんに…話が…」
「…判りました。でももう予鈴が鳴りますから。そうですわね…お昼休みに一昨日と同じ場所で。いかがですか?」
音を立てて唾を飲み込むと、ケビンは大きく肯いて答え、そのまま自分の席へと走っていった。
ヴァッシュとウルフウッドも自分の席に着いた。それを待っていたかのように予鈴が鳴り始める。
「…またアイツの差し金かな…」
「ワイは行かへんで」
短い会話はチャイムの音にまぎれ、周囲のクラスメイトには聞こえなかった。
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エピローグ
「ヴァッシュ、一緒に昼飯食わないか?」
「ごめん、今日は学食なんだ」
ヴァッシュは顔の前で両手を合わせ、いつも弁当を持参しているクラスメイトの誘いを断った。
そう言った手前、教室で弁当は食べられない。ヴァッシュは鞄を持って教室を走り出た。昇降口で急いで靴を履き替える。
校舎の陰で待つこと暫し。まずメリルが、次いでケビンがやって来た。
「お話って何ですの?」
「…あ…あの……ごめんなさいっ!」
言うと同時にケビンは勢いよく頭を下げた。身体が直角以上に曲がっている。
「ケビンさん?」
「僕が…メリルさんを推薦したりしなければ…こんなことには…」
「…」
「僕が弱いから…キールの言葉に逆らえなかったから…だから…」
「ケビンさん困ります。やめて下さい」
メリルの困惑した声に、ケビンはお辞儀をしたまま首を横に振った。
「お願いですから…顔を上げて下さい」
困り果てている、といった雰囲気を察して、ケビンは恐る恐る身体を起こした。メリルは――穏やかに微笑んでいた。
「…あなたのせいではありませんわ。…あなたが断っても、あの人は別の誰かにやらせた筈ですもの。ですから
どうか今回のことは気にしないで下さい」
「でも…」
「いいんです。…私には生まれた時からお世話になっている女性がいるんです。その人が、私が副会長に推薦されたことをとても喜んでくれましたの。当選したと知ったら…嬉し泣きしてしまうかも知れませんわ」
有り得る。一昨日見たジョアンナの浮かれようを思い出して、ヴァッシュは大きく肯首した。
「その人の喜ぶ顔が二回も見られるなんて、嬉しいですわ。ありがとうございます」
「い、いや…そんな…でも…」
謝った相手に逆に感謝され、ケビンはしどろもどろになった。童顔の頬が紅潮する。
「…僕のこと…怒って…ない…?」
「ええ」
メリルは笑顔で請け負った。憤りを感じる相手はキールただ一人。
「ごめんなさい…ありがとう…」
「お話ってこのことでしたの?」
「うん。…食事前に時間を取らせちゃってごめんなさい。それじゃ!」
ケビンは脱兎の如く走り出した。自分に対する情けなさとメリルへの感謝の気持ちが入り交じり、涙が溢れそうになったからだ。泣き顔は見られたくなかった。
ケビンの後ろ姿が見えなくなってから、メリルはおもむろに口を開いた。
「ヴァッシュさん」
突然名前を呼ばれてヴァッシュは飛び上がった。息を殺して様子を窺う。
「そこにいるのは判ってるんですのよ」
気づかれていたのなら仕方がない。『覗き見なんて悪趣味ですわ!』と怒られるのを覚悟しつつ、ヴァッシュは校舎の陰から移動した。その気配を感じたのだろう、何故かあさっての方を向いていたメリルが振り返った。
「あら、そちらにいらしたんですのね」
「…山勘だった訳!?」
「いらしてるだろうとは思ってましたの。でもどこにいるかまでは判りませんでしたわ。…お一人ですの?」
「あ…うん」
笑顔で質問され、つい答えてしまった。先刻までの動揺と覚悟は綺麗に消えた。
「…お二人には…特にヴァッシュさんには心配やご迷惑をかけてばかりですわね」
顔を曇らせたメリルを見てヴァッシュは慌てた。
「そんなことない! 俺が勝手にやってるんだから!」
主将やミリィに頼まれたからじゃない。俺は自分の意志で行動してる。
「それとも…嫌だった? ずっとつきまとわれてるみたいで、キミの後輩の言葉じゃないけど、ストーカーみたいだって」
「そんなことありませんわ!」
視線がまともにぶつかった。硬直したように動けないまま二人は見つめ合い…同時に赤面して俯いた。酷くむきになっていた自分を思い起こしたのだ。
「…あ、あの、ヴァッシュさんもお昼はまだですよね。どうなさいます?」
「弁当は持ってきてるけど、教室ではちょっと食べられないな」
自分の鞄に目を落とす。レムのところにでも行こうか…。
「…部室に行きませんか?」
「え?」
「私もここに持ってきましたの。ケビンさんとは顔を合わせづらいですし…外で食べるには少し寒すぎますでしょう?」
マネージャーの職権乱用かも知れませんけど。そうつけ加えて笑ったメリルに、ヴァッシュは微笑みを返した。
「…いいね。それじゃ急がないと。昼休みが終わっちゃう」
「そうですわね」
踵を返し、急ぎ足で歩き出した華奢な後ろ姿を眺めながら考える。
顔を会わせづらいのはケビンのほうだ。罪悪感が消えるまでその状態は続くだろう。でも。
『メリルは普段と変わらない態度で挨拶するんだろうな…』
気を遣わせない為に。クラスメイトに何かあったのかと勘繰られないように。
今回のことも迷惑でない筈がない。それでも決してケビンを責めず、逆に相手の苦しみが少しでも和らぐよう語りかけた強さと優しさ。
「ヴァッシュさん? どうかなさいました?」
声をかけられて我に返る。メリルはすいぶん先まで進んでいた。
「ごめん、今行く!」
駆け出して思う。やっぱり誰にも渡したくない、と。
走りながら自分に誓う。彼女を必ず守り通すことを。
追いついて祈る。こんな時ばかりでなく隣を歩ける日が来るように。
―FIN―
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