Ⅹ
口々に理由を問う声を、メリルは苦笑しながら両手を上げて制した。
「お料理が冷めてしまいますから、まずは召し上がって下さい。事情は食事の後でお話ししますわ」
主将を除く十一人の部員は、狐につままれたような表情でとにかく席についた。
普段よりかなり速いペースで食べ終えると、ヴァッシュ達は顧問や主将、メリルに視線を走らせた。三人が顔を見合わせる。結局メリルが三人を代表するように口を開いた。
「部内の雰囲気がおかしくなっていたのは皆さん感じてらっしゃったと思います」
一同首を縦に振る。
「そこで、やる気のない方にやめていただくために一計を案じましたの」
それがメリルの退部劇だった。
「本当に野球が好きなら、誰がやめようと部に残るでしょうから。…まさか半減するとは考えてませんでしたけど」
「その役俺がやるって言ったんだが、マネージャーが聞かなくてね」
嘆息交じりにギリアムが呟く。
「主将がやめるとなったら、皆さん酷く動揺されたと思いますわ。私でちょうどよかったんです」
「そうでもないぜ? 午前中の練習なんて皆沈んじまって、まるでお通夜みたいだった」
特にピッチャーは。ギリアムは声を出さずに苦笑した。
「…で、でも先生は『退部届を受け取った』って…」
「ええ、提出しましたわ」
まだ混乱の収まらないヴァッシュの質問に、メリルはにっこり笑って答えた。そのまま視線を顧問に向ける。
広げたレポート用紙がテーブルの真ん中に置かれた。今朝読み上げられた文章が書いてある。古株の部員は、その字がメリルのものだとすぐに判った。
「署名してませんから、これは無効ですわね」
「…何もそこまで小道具に凝らなくても…」
副主将のぼやきももっともだ。
「退部届の書き方が判らない方がいらっしゃるかも知れませんでしょ? 一例を先生に音読していただいたんですの」
「はぁ…」
そこまで考えての行動とは…もはやため息しか出ない。そんな中、口を開いたのはまたもヴァッシュだった。
「朝食の準備をした後、キミはどこにいたの?」
「軽トラックの荷台ですわ。荷物も一緒に」
ナスティを駅で降ろした後で助手席に移り、買い物をして戻ったのだ。課題の送受信もきちんと済ませた。
「…それじゃ、キミは退部しないんだね?」
「ええ勿論。…退部して欲しいんですの?」
「とんでもない!!」
キミにいて欲しい。いてくれないと困る。
ようやく表情が明るくなった部員を見回し、メリルは笑顔で言った。
「この人数なら、もう少し手の込んだものも作れると思いますわ。お夕飯、期待して下さいね」
「ほんと!? ドーナツは!?」
期待に胸を膨らませ、拳を固めて立ち上がる。
「作りません」
あっさりと否定され、ヴァッシュはそのままの姿勢で後ろに倒れた。咄嗟に身体を捻ってバランスをとろうとしたが失敗し、椅子ごとひっくり返ってしまう。派手な音が食堂に響いた。
「てててててててて」
「何してるんですのっ、怪我はありません!?」
「ごめんなさいっ、大丈夫です!」
怒りと心配半々のメリルの声。それに条件反射で敬語で答えるヴァッシュ。合宿中もそれ以前にも幾度となく見られた光景に大きな笑い声が上がった。――たった一人、笑わなかった者がいた。
ⅩⅠ
その後、野球部は怪我人が出ることもなく、順調に残りのスケジュールを消化していった。
練習に関しては問題は全くなかったが。
「メリルさん!」
ここ数日、メリルはキールの姿を見たり声を聞いたりする度に目眩を覚えるようになっていた。
「僕は君を誤解していた! 勉強だけが取り柄の嫌な女だと思っていたが、それは僕の勘違いだった!」
平手打ちで打ち所が悪い、なんてことがあるのかしら…。メリルは何度も半ば本気で考えた。
「権利を主張する前に己の義務を果たす…素晴らしい! 何かして貰うことばかり考える女性が大半を占める中、君は貴重な存在だ! 現代女性の手本だ!!」
うんざりするほどくり返し聞かされた台詞。続く言葉も判っている。
「僕は君が好きだ! 僕と付き合って欲しい!!」
「お断りします」
くり返し口にした返事。それでもキールは懲りずにやってくる。粘り強いというか、諦めが悪いというか。
「おいヴァッシュ、あの二人に何があったのか知ってるか?」
「いえ…」
メリルと約束したのだ。あの晩のことは言わないと。誰に訊かれてもヴァッシュはとぼけた。
逃げる女、追う男。まるで喜劇のような二人に最初は笑っていた部員達も、あからさまなキールの言動に次第に苛立ちを感じるようになった。野球部内では部員とマネージャー。部活中は立場をわきまえてもらわなければ困る。
何より、メリルが迷惑そうなのは誰の目にも明らかだ。ギリアムが何度も注意したが、キールはやめようとしなかった。
合宿最終日。朝食の席で無断で隣に座られた挙げ句食事もそこそこにしつこく話しかけられ、とうとうメリルの堪忍袋の尾が切れた。
「野球部は、野球が好きで野球をやりたい人が来るところです! 女性を口説く場だと思っているような人は軽蔑しますわ!!」
入部した当初の目的はメリルの勉強法を探ることだった。野球は好きでも何でもない。メリルの為にこれから真剣に取り組もうにも、他の部員との溝は修復不能なほど深くなっていた。
このまま居座っても自分だけが浮いてしまう。想う相手の近くにいられるのは嬉しいが、嫌われては元も子もない。
キールは退部届を提出した。
だが、彼は諦めた訳ではなかった。
合宿の疲れが出たのだろう。行きの電車でははしゃいでいた部員達も、帰りの電車では大半が舟をこいでいた。
二人がけの席が向き合う車内で、ヴァッシュの斜め前に座っているメリルも例外ではなかった。
窓にもたれかかるようにして眠っているメリルの姿に、ヴァッシュの口元に我知らず笑みが浮かんだ。
自分のすべきことをきちんとこなし、時には周囲の度肝を抜くようなことをやってのけ、時には自分より大柄な男を怒鳴りつける彼女も、寝顔はこんなにも穏やかであどけない。――
不意に肩を叩かれ、首を巡らせる。いつになく真面目な表情のギリアムが立っていた。
「ちょっといいか?」
二人は電車の連結部まで移動した。
「ヴァッシュ、お前はマネージャーとは同じクラスだったな」
「はい…それが何か?」
ギリアムは、写真部と兼部していた四人がメリルを隠し撮りしていたことをヴァッシュに打ち明けた。
「おかみさんが気づいてくれたんだ。風呂場の近くをうろついていたこともある。連中が持ってたフィルムは民宿のご主人とおかみさんに頼んで、あの退部届のゴタゴタがあった朝食の時に全部抜いて貰って焼却した」
あんまり誉められるやり方じゃなかったけどな。半ば自嘲するように呟き肩を竦める。
メリルが退部届を出したことにしたのは正解だったと今は思う。そのお陰で、彼女目当てで入部してきた連中を一掃できたのだから。
「…四人とも退部したが、またやろうとするかも知れない。気をつけてやってくれ」
「主将、その話、マネージャーにはしたんですか?」
「してない。折を見て、それとなく注意するつもりではいる。…キールのこともあるし、これ以上マネージャーの心労を増やしたくないんだが」
ヴァッシュは緊張した面持ちで肯首した。
「判りました。気をつけます」
「頼む」
ⅩⅡ
最後は個別解散になった。自宅の最寄り駅に着いた者から順次抜けていく。ヴァッシュはメリルと同じ駅で電車を降りた。
「…な――んであなたまでついて来るんですの」
自宅の住所からすると、ヴァッシュが降りる駅は四つほど先の筈。
「あ…いえいえおかまいなく!!」
主将からあんな話を聞かされた後では、とても彼女を一人で返すことはできない。かと言って事情を説明できる訳もなく、ヴァッシュはいつもの笑顔で誤魔化しつつメリルに続いて改札を抜けた。
「せんぱ~い!」
その声にメリルは辺りを見回した。ヴァッシュとあまり変わらない身長の少女に目を留める。
「ミリィ!」
メリルが呼びかけると、少女は金髪を揺らしながら元気よく駆け寄った。
「お帰りなさい、先輩!」
「ただいまミリィ。出迎えてくれたのは嬉しいんですけど、今回は野球部の合宿ですからお土産はありませんのよ」
「ハイ、それは判ってます。そうじゃなくて…その、チケットをお願いしたいんです」
ミリィは俯き加減で言いにくそうに言った。声がだんだん小さくなっていき、語尾はよく聞き取れないほどだった。
ヴァッシュは首をかしげた。この夏休みの間に彼女についていろいろ知ることができたけど、何かのチケット取りが得意だとは知らなかった。病院のコネなのだろうか…。
などと考えつつ隣を見ると、言われた本人が僅かに首を傾け悩んでいた。
「ミリィ…もしかして、助っ人ですの?」
「はいそうです! …あり? あたし、また何かチガウことゆいました?」
暑いからではない汗が額に浮かぶ。妙に強張ったミリィの笑顔に、ヴァッシュとメリルは同時に吹き出した。
「あ、ヴァッシュさん、紹介しますわ。こちらはミリィ・トンプソン。私の中学時代の後輩ですの。ミリィ、こちらが」
「ヴァッシュ・ザ・スタンピードさんですよね! 人間国宝の!」
にこやかに間違われ、ヴァッシュは派手にずっこけた。
「…そんな偉い人じゃないよ。人間台風って呼ばれたことはあるけどね」
姿勢を正し、やんわりと訂正する。ミリィは顔を赤くして縮こまった。
「あ、あの…ごめんなさいっ」
「この子、よく言い間違えるんですの。悪気はありませんから大目に見てやって下さいな。それに、予選の時には応援に来てくれてたんですのよ」
「そうなんだ。どうもありがとう。…それじゃあらためて。ヴァッシュ・ザ・スタンピードです。よろしく」
「ミリィ・トンプソンです」
二人はしっかり握手した。
「で、助っ人って何のですの?」
「実は~…夏休みの宿題が~…」
「教科は何ですの?」
「…英語と数学…」
メリルは腕時計に視線を走らせた。家庭教師が来るまであと二時間もない。
「ここに持って来てますのね? …今日は一時間ほどしか余裕がありませんの。あそこの喫茶店で見せて下さい。ヒントを書きますから」
三人は駅前の喫茶店に入った。
メリルはアイスティーの氷が溶けるのも構わず、三割ほどが手つかずの問題集に目を通した。英訳のキーになる単語や当てはめる公式を余白に書き込んでゆく。作業の邪魔をしないよう、手持ち無沙汰の二人はお茶を飲みつつ小声で話をした。
「…できましたわ。まずは自分でやってみて、どうしても判らなかったら電話して。…頑張ってね」
「はい、がんばります!」
急いでアイスティを飲み干し、メリルは席を立った。
「それじゃ、私は失礼しますわ。ゆっくりできなくてごめんなさい」
「待って。家まで送るよ」
ヴァッシュの言葉にメリルは目を丸くした。
「…まだ昼間ですのよ。送っていただくような時間では」
「荷物持ち。大変でしょ?」
「でも」
「電車ではよく寝てたし、疲れてる時くらいいいじゃない」
「は~い、あたしも荷物持ちやりま~す!」
ヒントのお礼です、とニコニコ笑う後輩の顔がどことなくヴァッシュに似ていることに気づいて、メリルは僅かに苦笑した。
善意の申し出を無下に断るのは悪いような気がするし、押し問答している時間はない。
「…ありがとうございます。お願いしますわね」
ヴァッシュが旅行鞄を、ミリィがアタッシュケースを持った。大柄な二人に挟まれ、メリルは手ぶらで足を進めた。
閑静な住宅街にメリルの家はあった。白い外壁の建物を手入れの行き届いた庭が包み込んでいる。駅から十分もかからなかった。
「本当にありがとうございました。助かりましたわ」
「どういたしまして」
答える声が見事に重なり、三人は顔を見合わせて笑った。
「それじゃ私はこれで。ヴァッシュさん、明日学校で。ミリィ、受験生なんですから体調には気をつけて」
「うん、またね」
「先輩もダボハゼに気をつけて下さいね!」
「…夏風邪と夏バテには注意しますわ」
苦笑混じりの笑顔を残して、小さな背中がドアの向こうに消えた。
ⅩⅢ
今来た道を引き返しながら、ヴァッシュはミリィに合宿でのエピソードを面白おかしく語った。
「…でもさ、いきなり退部届を出すなんて、ずいぶん思い切ったことするよね。あの時は本当にビックリしたよ」
「あははは、先輩らしいですぅ」
笑いを収めたミリィがふと目を伏せる。
「…よかった、先輩楽しそうで」
独り言のような呟きに翳りを感じて、ヴァッシュは顔を横に向けた。
「…もしかして、マネージャーはトライガン学園に来たくなかったのかな?」
「え?」
「さっきのキミの発言と表情からすると、ね。それに、同じ学年の奴が『マネージャーが高校受験に失敗した』って言ったのを聞いたことがあるんだ」
ミリィは押し黙ったままだった。駅はもう目の前だ。
「僕は高校からこっちに来たから、皆の中学時代のこととか全然知らなくて。…あ、興味本位とか野次馬根性で知りたい訳じゃないんだ! その…何ていうか…」
「…先輩は何も言わないんですか?」
「うん。…でも駄目だよね。マネージャーが話したがらないことを後輩のキミから聞こうなんて…。ごめん、忘れて!」
拝むように顔の前で両手を合わせるヴァッシュに、ミリィはにっこり笑いかけた。
「ヴァッシュさん、時間あります?」
「僕は大丈夫だけど」
「もう一回お茶しましょう!」
二人は先刻までいた喫茶店に入った。店の奥、壁際で周りに誰もいない席に腰掛ける。
注文を済ませると、ミリィは俯き小さくため息をついた。
「言い訳しないなんて…ほんと、先輩らしいです…」
ややあって顔を上げると、ミリィはある有名進学校の名前を挙げた。
「先輩の第一志望ってそこだったんです。『合格確実、絶対間違いなし』って言われてたんですよ。でも…」
試験当日、会場に向かうメリルの目の前で年配の主婦がバッグを引ったくられた。メリルはすぐに警察に通報し、主婦を病院へ搬送させると共に犯人の特徴や乗っていたバイクのナンバー等を事細かに証言した。正確な情報と緊急手配によって犯人はすぐに逮捕され、バッグは無事持ち主の手に戻ったのだが。
「…先輩、そのせいで遅刻して、一科目試験が受けられなかったんです」
主婦や警察が追試を嘆願したのだが、学校側の判断は『遅刻の理由は個人的なもので、追試は認められない』
だった。主婦の投書がきっかけで、個人名や学校名は出さない形で一部の新聞に取り上げられたりもしたが、とうとう判断は変わらなかった。
「それで…先輩、落ちちゃったんです…」
メリルがトライガン学園を受験したのは、学校が自宅に近く本命の学校より試験の日が早かったからで、単に試験慣れをする為だった。滑り止めにするつもりなど毛頭なかった。
「親戚の間でもずいぶんいろいろ言われたみたいです。『一族の恥さらし』とか…。一年浪人するか、大検受けて大学受験するか、いっそ留学させよう、なんて話も出たって聞きました。…あ、大姉ちゃん…あたしの姉が看護婦で、先輩んとこの病院で働いてるからいろいろ知ってるだけで、先輩が言った訳じゃないですよ!」
医者になるのに最短コースを走らなければならない理由はない。メリルの祖父の意見で、彼女はトライガン学園に入学することになった。
卒業式の日、メリルの顔を見たら涙が溢れた。いいことをしたのに、意に染まない進学をしなければならなくなった先輩の気持ちを思うと止まらなかった。
しがみついて泣きじゃくる後輩を抱きしめ、大きな背中を撫でながらメリルは言った。
「泣かないでミリィ…私なら大丈夫だから、心配しないで」
もし時間が巻き戻せてあの日に戻れたとして、同じ場面に遭遇したとしたら、やっぱり私は同じことをしますわ。
それに、高校は人生の通過点。夢には少し遠回りになるかも知れませんけど、道がなくなった訳ではありませんのよ。
だから、私は大丈夫。お願いだからそんなに泣かないで。
ようやく顔を上げたミリィに、メリルは優しく微笑みかけた。
話を聞き終えても、ヴァッシュは何も言えなかった。途中から俯いてずっとテーブルに目を向けていた。
「ヴァッシュさん」
短い沈黙の後名前を呼ばれ、顔を上げる。ミリィが真剣な表情で自分を見つめていた。
「ヴァッシュさんは、先輩のこと好きですか?」
「え!?」
突然の質問に目を白黒させるヴァッシュに構わず、ミリィは身を乗り出した。
「あたしは先輩のこと大好きです。真面目で、どんなことにも一生懸命取り組んで、言い方きつい時があるから誤解
されちゃうこともあるけど…でも、すっごく優しい人なんです!」
「うん…そうだね」
知ってる。いつも気丈で、頑張り屋で、甘えるのが下手で、たまに一人で突っ走る。そして、さりげなく相手を思いやれる人だって。
「ヴァッシュさんは先輩のこと…どう思ってるんですか?」
「…好きだよ」
想いを言葉にするのがこんなに気恥ずかしいことだとは思わなかった。言った後で顔が赤くなったのが自分でも判る。
「あ、と、友達として!!」
ピコピコしながらそう付け足したヴァッシュに、ミリィはとびきりの笑顔を向けた。まっすぐに自分を見て答えてくれたことが嬉しかった。
「…よかった。先輩のそばにヴァッシュさんみたいな人がいてくれて。…もし、誰かが先輩のこと苛めたり困らせようとしたら、ヴァッシュさん、先輩を守って下さいね。お願いします!」
深々と頭を下げ、目の前にあった空のクリームソーダのグラスに額をぶつける。
「だ、大丈夫!?」
「大丈夫ですぅ。あたしドジだからよくやるんです、こういうの」
倒れそうになったグラスを咄嗟に手で支えたのは、反射神経がいいからというより単に慣れているかららしい。
苦笑いを浮かべるミリィにつられるようにヴァッシュも微笑んだ。
「…約束するよ。僕は、キミの大切な先輩を…必ず守ってみせる」
静かな声の中に強い意志を感じて、ミリィはにぱっと笑った。
エピローグ
夏休み最後の日も酷く暑い一日になった。
合宿前はマネージャーを除いて二十三人いた部員も、今は九人になっていた。合宿の後、陸上部と剣道部から転部してきた二人が相次いで退部届を出したのだ。試合を見て感動し熱に浮かされるように入部したものの、個人競技と団体競技の差もあって馴染めなかったのだろう。二人とも元の部に戻っていった。
野球部としての体裁は何とか整ったが、大きな問題が残されていた。キャッチャーがいないのだ。
ヴァッシュの投げ込みの相手はいつも学校の塀だった。跳ね返って転がるボールを拾うのはマネージャーの仕事である。
いつまでも、この状態でいてはいけない。
「もう一度…探してみようかしら…」
「駄目」
独り言のつもりだった小さな呟きを厳しい声に却下され、メリルは驚いて顔を上げた。いつの間にかヴァッシュが横に立っていた。
「人探しはマネージャーの仕事じゃない」
試験休み中のようなことは二度とあってはならない。絶対に。
なおも言い募ろうとするメリルにヴァッシュは微笑みかけた。
「大丈夫、心配しないで。もうすぐ会えるような気がするんだ」
勿論でまかせである。確証など何もない。
「…どうしてそんなことが言えるんですの?」
一瞬の沈黙の後、ヴァッシュは短く答えた。
「男の勘」
「…何ですの、それ」
くすくす笑うメリルにヴァッシュの口元も自然とほころんだ。
陽射しが柔らかくなり、風がほんの少し涼しくなってきた頃、部活は終わった。
「明日は昼食後部室に集合すること。解散!」
「お疲れ様でしたー!」
いつもの挨拶をした後部員がクラブハウス目指して走り出す。ヴァッシュもそれに続きながら、木陰で顧問と立ち話をしているマネージャーに視線を走らせた。今、彼は差し迫った問題を抱えていた。
『駄目、かな…駄目だろうな…』
途方に暮れる、ってこういう状況を言うんだろうな。汗の始末をしてのろのろと着替えながら、ヴァッシュは小さくため息をついた。
「どうしたヴァッシュ、疲れたか?」
ようやく制服を着たヴァッシュにギリアムが声をかけてきた。慌てて辺りを見回せば、部室にはいつの間にか二人しか残っていない。
「いえ、何でもないです」
「そうか…今日はしっかり休めよ。お先に」
「失礼します」
笑顔で主将を見送った後、ヴァッシュは僅かに苦笑した。
「…休んでる場合じゃないんだよね…」
気を取り直して荷物をまとめ、部室を出る。クラブハウスの壁にもたれかかるようにして、セーラー服姿のメリルが立っていた。足元に彼女がいつも使っている鞄と紙袋が置いてある。
「あ、えと、マネージャー…ごめん遅くなって。鍵かけに来たんでしょ? 僕で最後だから」
「それもありますけど…」
メリルは壁から身を離し、ヴァッシュの前に歩み寄った。
「…漢文と古文かしら?」
ヴァッシュはぽかんと口を開けた。目が真ん丸になる。
「ななな、何で判ったの!?」
裏返った声に、メリルは悪いと思いながらつい笑ってしまった。
「ヴァッシュさん、その二つは本当に苦手ですものね」
彼の苦手科目は国語だ。現国はまだいいのだが、漢文と古文が足を引っ張っている。特に漢文は、日頃から『画数の多い漢字を見ると頭痛がする』と言っているだけあって、天敵と呼んでも差し支えないくらいだ。
その二つだけ夏休みの宿題が残っている。提出期限は始業式の日、つまり明日。レムに教えて貰おうとしたのだが、あっさり断られてしまった。
メリルは紙袋の中から問題集を二冊取り出し、ヴァッシュに差し出した。
「…今回だけですわよ。明日、忘れずに持って来て下さいね」
「うん、ありがとう!」
頼んでも絶対に見せて貰えないと思ってた。ヴァッシュは内心首をかしげながらもありがたくそれを押し頂いた。
「 お礼ですわ」
ミリィがお世話になった。
え? 何か言った?」
口の中で呟いただけの声はヴァッシュには聞き取れなかった。メリルは無言のまま首を横に振り、曖昧に微笑んで誤魔化した。
昨日、メリルはミリィから無事宿題が終わったと電話を貰った。
『先輩とヴァッシュさんのお陰です!』
ミリィは、メリルを送った帰りにもう一度ヴァッシュとお茶したことと、その時ヴァッシュが自宅の住所と電話番号を教えてくれたことを話した。ヴァッシュとは毎日部活で顔を合わせているのに、メリルにとって初耳のことだった。
『マネージャーはいろいろと忙しいみたいだから…数学と英語なら僕得意だし、教えられると思うんだ。昼間は部活でいないけど、夜はたいていいるから遠慮なく電話して。…あ、漢文と古文はナシにしてね』
ヴァッシュは照れくさそうな表情でそう言ったのだという。
そしてミリィは度々ヴァッシュに電話をし、メリルに頼ることなく何とか全ての解答欄を埋めた。
『先輩、ヴァッシュさんて、ほんっとーに優しい人ですね!』
しきりにヴァッシュを誉めた後電話は切れた。受話器を戻しながら、メリルは心が温かくなっているのを感じた。
「本当、優しすぎるくらいですわ…」
自分に負い目を感じさせないよう、こっそりやるところがいかにも彼らしい。
くすりと笑って、ふとメリルは疑問を感じた。
『あの人のほうはどうなっているのかしら』
ここ数日、自分に向けられる何か言いたげな視線を思い出し、ある答えを導き出す. そしてメリルは今日、夏休みの課題を全て持って登校したのだった。――
ヴァッシュは何も言わずにメリルの紙袋を手に取った。ずっしりとした重さに即座に状況を理解する。
「…ごめんね」
小さく詫び、そのまますたすたと歩き出す。
「ちょっ…どこ行くんですの?」
「校舎。ロッカーにしまっとけば、明日また持ってこなくても済むでしょ? 早くおいでよ」
「ちょっとヴァッシュさん、待って下さい!」
メリルは急いで部室の戸締まりを確認し施錠すると、少し離れたところで自分を待つヴァッシュを追いかけた。
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