Athos-Ⅰ
「記憶操作?」
厚い雲が空を覆い始めた昼下がり、暇を持て余して雑談をする銃士の中の一人が
"面白い話を聞いた"と話題を提供したのが事の始まりだった。
「その御婦人には忘れられない男性が居たらしく、
それをどうしても許せなかった婚約者がある占い師に頼んだらしい。
最初は自分の行く末を占ってもらうだけのつもりだったらしいがな」
「それで、どうなったんだ?」
「御婦人は昔の男のことなぞ、すっかりと忘れてしまったとさ」
「まさか」
「いや、それがまるで覚えていないそうだ。その男との記憶だけすっぽりと抜けているとか」
「そんな馬鹿な」
「今では二人はそれは仲睦まじい夫婦となったようだぞ」
「へ~、そんなことができるなら俺も忘れさせて欲しい女がいるんだけどな~」
「お前の場合は騙されただけだろう」
「俺なりに真剣だったんだぞ!」
俺も俺も、と皆が騒ぎ始めるのを横目に一人の黒髪の銃士はぼんやりと
窓の外で馬の世話をしている金髪の銃士に目をやった。
まだ幼さが残る顔は、張り詰めた絹糸を思わせる。
ふ、と蒼の目がこちらを振り返り、しばし怪訝な顔を造るとまたこちらに背を向けて、
じゃれつく馬を鎮めるようその背を撫でる。
斜め見えた笑顔にアトスは小さくため息をついた。
*****
「おい、アトス。雨が降り出しそうだぞ」
「・・・ああ、そろそろ行くか」
「何だよ、ぼんやりして」
「・・・」
「何を考えてる?」
「・・・いや」
「・・・・・俺は思ったよ。その占い師を探し出してアラミスを突き出してやりたいってね」
「・・・ポルトス?」
「まぁ俺は友人として、だけどな」
「・・・」
「アラミスの奴、不安定で見てられないよな。自分を痛めつけるようなことばかりして」
そう言うと大きな体を屈め、相変わらず馬の世話に没頭している小さな銃士に目線をやった。
「何が、・・・誰があいつを追い詰めているんだろうなぁ。
そいつの記憶がアラミスの中から消えれば、あいつ楽になれるんじゃないかって・・・思ったんだろ?」
この友人にはお見通しか・・・とアトスは小さく苦笑するとぽつりと言葉を紡いだ。
「そうだな。・・・だがそれが正しいことなんだろうか?」
「さぁ。どうだろうな」
「・・・」
「・・・アトス、お前は物事を難しく考えすぎだよ」
「・・・そうかもな」
「好きなら自分のものにしたいと思うのは当然だろう?」
「当然、か。だが強引に手に入れてもいつか相手を傷つけることになるんじゃないかってね」
「・・・お前、まだ」
続く言葉を制するように首が降られるのを見て、
ポルトスは何とも言えない顔で頭を掻いた。
「悪い」
「いや、君の想像通りだよ。我ながら女々しいとは思うがね」
自嘲気味に言うと、帽子を被り足早に部屋を後にする。
その姿と窓の外に見えるアラミスの姿を交互に見て、巨躯の銃士は大きく肩を竦めてため息をついた。
*****
その日の夜は嵐だった。
窓に打ち付ける風を見やりながらアトスはある貴族の屋敷に身を潜めていた。
傍には冴え冴えとした顔をした金髪の銃士が瞳にゆらゆらと炎を湛え、じっと息を殺している。
最近パリを荒らし廻っている盗賊団が、次はこの屋敷に出るとの情報が入ってからしばらく、
此処に泊り込みをする日々が続いていた。
「アラミス、少し眠ったらどうだ?」
「・・・僕はいい。起きてるからアトスこそ寝なよ」
「そう言って、昨日もほとんど眠ってないだろう?」
「そんなことないよ」
「・・・体がもたないぞ?」
「平気だよ」
「アラミス・・・」
今日こそは無理にでも眠らせようとアトスがその細い肩に手を掛けようとした、その時だった。
遠くで何かが割れる音が響くと、はじかれるようにアラミスは飛び出していった。
掛けようとした手が空を切り遅れを取ったアトスは急ぎ後を追おうとするが、その途中に倒れていた館の主人に
足を取られ手間取っていると、別の部屋で待機していたポルトスが駆けつけてきた。
「アトスっ!」
「ポルトスっ、主人を頼む!」
「あ、おいっ!アトス!」
上がる息を押さえつけ、アラミスの後を追う。
嫌な予感が胸に走り始めると同時に鼻につく血の匂いが漂い始めていた。
「アラミスっ!」
闇に浮かぶ金が目に入り、声を掛けた先に居た銃士は体中にたっぷりと血を滴らせ、佇んでいた。
足元にはごろごろと、もう二度と動かぬ人間だったモノ、が転がっている。
それをじっ、と見下ろしたまま、やがて自分に声を掛けた相手に振り向くと何も映さない瞳であたりを見渡した。
「これでいいかな?」
「・・・?」
「これで、私の復讐は終り?」
「・・・」
「・・・違うわ」
「・・・」
「あの人を殺したのは誰なのか、私は知らないでしょう?」
「・・・」
「この世の中の"盗賊"を全員殺せば、いいのかな?」
「・・・」
「そうね、そうすればいいんだわ。盗賊と呼ばれる人間を全員殺せば、間違いないもの・・・」
そこまで言うと、アラミスは崩れるように倒れた。
アトスは慌てて血で塗れたその体を受け止めた。
「アトスっ」
遅れて入ってきたポルトスが見たのは、無残にも転がる死体の中で血塗れで気を失っているアラミスを
抱き締めたまま、呆然と動かないアトスだった。
「・・・ア、アトス?これは?」
「アラミスが殺った」
「全員か・・・」
「ああ・・」
「ひどいな、ここまで・・・」
「・・・ポルトス」
「何だ?」
「あの占い師、どこに居るかわかるか?」
「・・・アトス?」
「頼む、調べてくれ。探し出してくれ。頼む」
「アトス・・・」
「・・・もう、限界だ」
「・・・わかった」
Athos-Ⅱ
---忘れてしまえれば、どんなに楽だろうと思った。
けれど、決して失いたくない幸福な記憶だった---
その日は抜けるような青空だった。
薄く差しこむ朝日の眩しさで目を覚ますと、妙に頭がすっきりしてる。
身を起こすと足取りも軽く、朝の支度にかかる。
顔を洗い、髪を整え、着慣れた服を身に付けようと胸の膨らみを抑える布を手に取った。
だが、ふと気が付く。
なぜ自分はこの布を使っているのだろうか?
自分が銃士であることは間違いない。
だからこの服を着ること、羽帽子を被ること、何もおかしい事ではないはずだ。
けれど、なぜ?
女である自分がなぜ銃士隊に出勤しようとしているのだろう?
どこかぽっかりとした空虚感を感じる心と対話していると、戸を叩く音がした。
急ぎ服を身に付け出迎えた相手は、黒髪の銃士だった。
「おはよう、アラミス」
「・・・アトス?おはよう、どうしたの?」
「いや、昨日ずいぶん呑み過ぎた様だったから、起きれるか心配で迎えに来た」
ばつの悪そうな顔で視線を泳がせるアトスを、無垢な蒼でアラミスは見上げる。
呑みすぎ・・・?
首を傾げながら記憶を辿るが、勤務後にアトスとポルトスに呑みにと誘われ向かった先でふつ、と切れていた。
随分と酒が進んでしまったんだな、と心の中で苦笑すると同時にそれを止められなかった事に
責任を感じているのか年上の友人の探るような視線が可笑しくて、軽く反論する。
「何だよ、それ。子ども扱いして」
「いや、お前が遅刻したら俺が隊長に怒られるからな」
「あはは、そうだね」
笑ってアトスの腕を軽く叩くと、優しい藤色の瞳が笑い返してきた。
自分の心臓がびくと鼓を打ち、頬に熱が浮かぶのを感じたアラミスは
思わず目をそらす。
「どうした?」
「え、な・・何でもないよ。待ってね、今出るから」
踵を返しながら、自分の頬の熱が治めるようにと頭を振る。
手に取ると、ふわふわと揺れる羽帽子が鼻をくすぐった。
その羽のように揺れる自分の心に困惑し、アラミスはしばらくその場から動けないでいた。
*****
その日アラミスは一日中落ち着けずにいた。
大好きな馬の世話をしていてもそわそわと、通り過ぎる仲間の銃士達の中に黒髪を探してしまう。
「変だよね、僕・・・」
馬相手に呟くと、その首に抱きつきため息をついた。
やがて通り過ぎる銃士の中で屈託のない笑顔を浮かべる大男と目が合う。
彼は馬達の間にある小さな銃士の存在に気が付くとひらひらと手を振りながら近づいてきた。
「よう、アラミス。相変わらす馬の相手が好きだなぁ」
「ポルトスはもう少し自分の馬に気を使ったほうがいいんじゃない?」
「そうか。こいつは本当によく頑張ってくれてるからな」
「そうだよ。もうちょっと可愛がってやりなよ」
ポルトスはじゃれ付いてくる自分の馬を軽くいなしながら、まるで澄んだ泉のような笑顔を浮かべて
自分と談笑する友人の姿に、こっそりと、しかし大きく安堵していた。
その笑顔がふ、と紅潮する。
ためらいがちに、柔らかな唇がゆっくりとその名を紡いだ。
「あ...アトスは、まだルーブル?」
「ああ、少し野暮用ができてな。残して先に戻ってきた」
「・・・そう」
ポルトスは自分の眼下で小さくふてくされた表情を見取り、
その意味に気が付くと目端に静かに微笑みを浮かべた。
*****
いつの間にかすっかりと日は沈み、明るい光を湛えた月が空に浮かんでいた。
控え室で一人ぼんやりと耽っていたアラミスがふと視線を感じて振り返ると、
自分の物思いの原因がそこにあり、思わず声がうわずる。
「あっ、アトス」
「何をしてるんだ?」
「えっと・・・あの・・・アトスこそ遅かったね」
「ああ、ちょっとな。帰らないのか?」
「うん・・・かえる・・・」
何とも間抜けな応え方をしてしまった自分が恥ずかしくてアラミスは目を伏せたまま立ち上がった。
ぱたぱたとアトスの後を追う。
門をくぐり、通い慣れた路を抜け、セーヌ沿いに出る。
よく知っている景色であるはずなのにアラミスにはまるで見知らぬ街のように見え、
所々に灯る柔らかな明かりがまるで夢の中にいるような気持ちにさせる。
やがて会話が途切れた時、ふと思い出し疑問のままだった事を口にした。
「ねぇアトス、僕が銃士隊に入った理由って知ってる?」
「・・・いや」
「そう。あのさ・・・変なんだけど、わからないんだ」
「・・・」
「どうして僕、銃士隊に居るのかがわからなくって」
「そうか・・・」
アトスにどこか悦びと怯えが混じった表情が浮かんだ。
だが、それには気が付かず、アラミスは自分の記憶を辿るように言葉を続けた。
「僕がパリに出てきたのは16?あれ17の時?えっと、それまでは・・・」
その先の言葉を止めて、アトスを振り返る。この人は自分のことを知っているのだろうか?
故郷で幸せな貴族の娘として在ったことを。つまり、自分が女であることを。
アトスと共にした時間を手繰り、思案したまま黙ったアラミスに視線を落とすと
唐突な言葉をアトスは発した。
「銃士隊、辞めるのか?」
「え?・・・何?」
「いや、どうして銃士隊に居るのかわからなくなったんだろう?
だったら居る意味は無くなったのではないか?」
その言葉を放った本人は、精一杯遠まわしに銃士など辞めて幸せに暮らすことを促していた。
だが、受けた当人にとってはそれはどこか冷たく響き、返す言葉を失い、呆然をしたまま
足止まったアラミスの表情からアトスは自分の言葉の含んだ意味に気が付き、狼狽した。
「いや、そういう意味ではない。私にとって君と一緒に銃士隊の仲間として
過ごせることは有意義なことだ。だが、君にとって・・・」
「僕にとって・・・何?」
自分の感情を理解できないまま、ただそれは高く波打ち、みるみるうちに蒼の瞳が潤う。
アラミスは必死にそれをこらえ、震える唇を引き結んで目を伏せた。
「ご、ごめん。僕、何だか変なんだ」
「アラミス・・・」
「僕・・・アトスのこと・・・」
その先の言葉は続けられず、ただ目元を赤く染め揺らめく瞳と、鼻腔をくすぐる香りに
たまらずアトスは両腕を伸ばして細い体を抱き締めた。
驚き身じろいだが、抗うことはなくアラミスはそのまま身を預ける。
空の月は真実を隠すように霞み、どこかゆらゆらと幻のような光が二人を包んでいた。
「記憶操作?」
厚い雲が空を覆い始めた昼下がり、暇を持て余して雑談をする銃士の中の一人が
"面白い話を聞いた"と話題を提供したのが事の始まりだった。
「その御婦人には忘れられない男性が居たらしく、
それをどうしても許せなかった婚約者がある占い師に頼んだらしい。
最初は自分の行く末を占ってもらうだけのつもりだったらしいがな」
「それで、どうなったんだ?」
「御婦人は昔の男のことなぞ、すっかりと忘れてしまったとさ」
「まさか」
「いや、それがまるで覚えていないそうだ。その男との記憶だけすっぽりと抜けているとか」
「そんな馬鹿な」
「今では二人はそれは仲睦まじい夫婦となったようだぞ」
「へ~、そんなことができるなら俺も忘れさせて欲しい女がいるんだけどな~」
「お前の場合は騙されただけだろう」
「俺なりに真剣だったんだぞ!」
俺も俺も、と皆が騒ぎ始めるのを横目に一人の黒髪の銃士はぼんやりと
窓の外で馬の世話をしている金髪の銃士に目をやった。
まだ幼さが残る顔は、張り詰めた絹糸を思わせる。
ふ、と蒼の目がこちらを振り返り、しばし怪訝な顔を造るとまたこちらに背を向けて、
じゃれつく馬を鎮めるようその背を撫でる。
斜め見えた笑顔にアトスは小さくため息をついた。
*****
「おい、アトス。雨が降り出しそうだぞ」
「・・・ああ、そろそろ行くか」
「何だよ、ぼんやりして」
「・・・」
「何を考えてる?」
「・・・いや」
「・・・・・俺は思ったよ。その占い師を探し出してアラミスを突き出してやりたいってね」
「・・・ポルトス?」
「まぁ俺は友人として、だけどな」
「・・・」
「アラミスの奴、不安定で見てられないよな。自分を痛めつけるようなことばかりして」
そう言うと大きな体を屈め、相変わらず馬の世話に没頭している小さな銃士に目線をやった。
「何が、・・・誰があいつを追い詰めているんだろうなぁ。
そいつの記憶がアラミスの中から消えれば、あいつ楽になれるんじゃないかって・・・思ったんだろ?」
この友人にはお見通しか・・・とアトスは小さく苦笑するとぽつりと言葉を紡いだ。
「そうだな。・・・だがそれが正しいことなんだろうか?」
「さぁ。どうだろうな」
「・・・」
「・・・アトス、お前は物事を難しく考えすぎだよ」
「・・・そうかもな」
「好きなら自分のものにしたいと思うのは当然だろう?」
「当然、か。だが強引に手に入れてもいつか相手を傷つけることになるんじゃないかってね」
「・・・お前、まだ」
続く言葉を制するように首が降られるのを見て、
ポルトスは何とも言えない顔で頭を掻いた。
「悪い」
「いや、君の想像通りだよ。我ながら女々しいとは思うがね」
自嘲気味に言うと、帽子を被り足早に部屋を後にする。
その姿と窓の外に見えるアラミスの姿を交互に見て、巨躯の銃士は大きく肩を竦めてため息をついた。
*****
その日の夜は嵐だった。
窓に打ち付ける風を見やりながらアトスはある貴族の屋敷に身を潜めていた。
傍には冴え冴えとした顔をした金髪の銃士が瞳にゆらゆらと炎を湛え、じっと息を殺している。
最近パリを荒らし廻っている盗賊団が、次はこの屋敷に出るとの情報が入ってからしばらく、
此処に泊り込みをする日々が続いていた。
「アラミス、少し眠ったらどうだ?」
「・・・僕はいい。起きてるからアトスこそ寝なよ」
「そう言って、昨日もほとんど眠ってないだろう?」
「そんなことないよ」
「・・・体がもたないぞ?」
「平気だよ」
「アラミス・・・」
今日こそは無理にでも眠らせようとアトスがその細い肩に手を掛けようとした、その時だった。
遠くで何かが割れる音が響くと、はじかれるようにアラミスは飛び出していった。
掛けようとした手が空を切り遅れを取ったアトスは急ぎ後を追おうとするが、その途中に倒れていた館の主人に
足を取られ手間取っていると、別の部屋で待機していたポルトスが駆けつけてきた。
「アトスっ!」
「ポルトスっ、主人を頼む!」
「あ、おいっ!アトス!」
上がる息を押さえつけ、アラミスの後を追う。
嫌な予感が胸に走り始めると同時に鼻につく血の匂いが漂い始めていた。
「アラミスっ!」
闇に浮かぶ金が目に入り、声を掛けた先に居た銃士は体中にたっぷりと血を滴らせ、佇んでいた。
足元にはごろごろと、もう二度と動かぬ人間だったモノ、が転がっている。
それをじっ、と見下ろしたまま、やがて自分に声を掛けた相手に振り向くと何も映さない瞳であたりを見渡した。
「これでいいかな?」
「・・・?」
「これで、私の復讐は終り?」
「・・・」
「・・・違うわ」
「・・・」
「あの人を殺したのは誰なのか、私は知らないでしょう?」
「・・・」
「この世の中の"盗賊"を全員殺せば、いいのかな?」
「・・・」
「そうね、そうすればいいんだわ。盗賊と呼ばれる人間を全員殺せば、間違いないもの・・・」
そこまで言うと、アラミスは崩れるように倒れた。
アトスは慌てて血で塗れたその体を受け止めた。
「アトスっ」
遅れて入ってきたポルトスが見たのは、無残にも転がる死体の中で血塗れで気を失っているアラミスを
抱き締めたまま、呆然と動かないアトスだった。
「・・・ア、アトス?これは?」
「アラミスが殺った」
「全員か・・・」
「ああ・・」
「ひどいな、ここまで・・・」
「・・・ポルトス」
「何だ?」
「あの占い師、どこに居るかわかるか?」
「・・・アトス?」
「頼む、調べてくれ。探し出してくれ。頼む」
「アトス・・・」
「・・・もう、限界だ」
「・・・わかった」
Athos-Ⅱ
---忘れてしまえれば、どんなに楽だろうと思った。
けれど、決して失いたくない幸福な記憶だった---
その日は抜けるような青空だった。
薄く差しこむ朝日の眩しさで目を覚ますと、妙に頭がすっきりしてる。
身を起こすと足取りも軽く、朝の支度にかかる。
顔を洗い、髪を整え、着慣れた服を身に付けようと胸の膨らみを抑える布を手に取った。
だが、ふと気が付く。
なぜ自分はこの布を使っているのだろうか?
自分が銃士であることは間違いない。
だからこの服を着ること、羽帽子を被ること、何もおかしい事ではないはずだ。
けれど、なぜ?
女である自分がなぜ銃士隊に出勤しようとしているのだろう?
どこかぽっかりとした空虚感を感じる心と対話していると、戸を叩く音がした。
急ぎ服を身に付け出迎えた相手は、黒髪の銃士だった。
「おはよう、アラミス」
「・・・アトス?おはよう、どうしたの?」
「いや、昨日ずいぶん呑み過ぎた様だったから、起きれるか心配で迎えに来た」
ばつの悪そうな顔で視線を泳がせるアトスを、無垢な蒼でアラミスは見上げる。
呑みすぎ・・・?
首を傾げながら記憶を辿るが、勤務後にアトスとポルトスに呑みにと誘われ向かった先でふつ、と切れていた。
随分と酒が進んでしまったんだな、と心の中で苦笑すると同時にそれを止められなかった事に
責任を感じているのか年上の友人の探るような視線が可笑しくて、軽く反論する。
「何だよ、それ。子ども扱いして」
「いや、お前が遅刻したら俺が隊長に怒られるからな」
「あはは、そうだね」
笑ってアトスの腕を軽く叩くと、優しい藤色の瞳が笑い返してきた。
自分の心臓がびくと鼓を打ち、頬に熱が浮かぶのを感じたアラミスは
思わず目をそらす。
「どうした?」
「え、な・・何でもないよ。待ってね、今出るから」
踵を返しながら、自分の頬の熱が治めるようにと頭を振る。
手に取ると、ふわふわと揺れる羽帽子が鼻をくすぐった。
その羽のように揺れる自分の心に困惑し、アラミスはしばらくその場から動けないでいた。
*****
その日アラミスは一日中落ち着けずにいた。
大好きな馬の世話をしていてもそわそわと、通り過ぎる仲間の銃士達の中に黒髪を探してしまう。
「変だよね、僕・・・」
馬相手に呟くと、その首に抱きつきため息をついた。
やがて通り過ぎる銃士の中で屈託のない笑顔を浮かべる大男と目が合う。
彼は馬達の間にある小さな銃士の存在に気が付くとひらひらと手を振りながら近づいてきた。
「よう、アラミス。相変わらす馬の相手が好きだなぁ」
「ポルトスはもう少し自分の馬に気を使ったほうがいいんじゃない?」
「そうか。こいつは本当によく頑張ってくれてるからな」
「そうだよ。もうちょっと可愛がってやりなよ」
ポルトスはじゃれ付いてくる自分の馬を軽くいなしながら、まるで澄んだ泉のような笑顔を浮かべて
自分と談笑する友人の姿に、こっそりと、しかし大きく安堵していた。
その笑顔がふ、と紅潮する。
ためらいがちに、柔らかな唇がゆっくりとその名を紡いだ。
「あ...アトスは、まだルーブル?」
「ああ、少し野暮用ができてな。残して先に戻ってきた」
「・・・そう」
ポルトスは自分の眼下で小さくふてくされた表情を見取り、
その意味に気が付くと目端に静かに微笑みを浮かべた。
*****
いつの間にかすっかりと日は沈み、明るい光を湛えた月が空に浮かんでいた。
控え室で一人ぼんやりと耽っていたアラミスがふと視線を感じて振り返ると、
自分の物思いの原因がそこにあり、思わず声がうわずる。
「あっ、アトス」
「何をしてるんだ?」
「えっと・・・あの・・・アトスこそ遅かったね」
「ああ、ちょっとな。帰らないのか?」
「うん・・・かえる・・・」
何とも間抜けな応え方をしてしまった自分が恥ずかしくてアラミスは目を伏せたまま立ち上がった。
ぱたぱたとアトスの後を追う。
門をくぐり、通い慣れた路を抜け、セーヌ沿いに出る。
よく知っている景色であるはずなのにアラミスにはまるで見知らぬ街のように見え、
所々に灯る柔らかな明かりがまるで夢の中にいるような気持ちにさせる。
やがて会話が途切れた時、ふと思い出し疑問のままだった事を口にした。
「ねぇアトス、僕が銃士隊に入った理由って知ってる?」
「・・・いや」
「そう。あのさ・・・変なんだけど、わからないんだ」
「・・・」
「どうして僕、銃士隊に居るのかがわからなくって」
「そうか・・・」
アトスにどこか悦びと怯えが混じった表情が浮かんだ。
だが、それには気が付かず、アラミスは自分の記憶を辿るように言葉を続けた。
「僕がパリに出てきたのは16?あれ17の時?えっと、それまでは・・・」
その先の言葉を止めて、アトスを振り返る。この人は自分のことを知っているのだろうか?
故郷で幸せな貴族の娘として在ったことを。つまり、自分が女であることを。
アトスと共にした時間を手繰り、思案したまま黙ったアラミスに視線を落とすと
唐突な言葉をアトスは発した。
「銃士隊、辞めるのか?」
「え?・・・何?」
「いや、どうして銃士隊に居るのかわからなくなったんだろう?
だったら居る意味は無くなったのではないか?」
その言葉を放った本人は、精一杯遠まわしに銃士など辞めて幸せに暮らすことを促していた。
だが、受けた当人にとってはそれはどこか冷たく響き、返す言葉を失い、呆然をしたまま
足止まったアラミスの表情からアトスは自分の言葉の含んだ意味に気が付き、狼狽した。
「いや、そういう意味ではない。私にとって君と一緒に銃士隊の仲間として
過ごせることは有意義なことだ。だが、君にとって・・・」
「僕にとって・・・何?」
自分の感情を理解できないまま、ただそれは高く波打ち、みるみるうちに蒼の瞳が潤う。
アラミスは必死にそれをこらえ、震える唇を引き結んで目を伏せた。
「ご、ごめん。僕、何だか変なんだ」
「アラミス・・・」
「僕・・・アトスのこと・・・」
その先の言葉は続けられず、ただ目元を赤く染め揺らめく瞳と、鼻腔をくすぐる香りに
たまらずアトスは両腕を伸ばして細い体を抱き締めた。
驚き身じろいだが、抗うことはなくアラミスはそのまま身を預ける。
空の月は真実を隠すように霞み、どこかゆらゆらと幻のような光が二人を包んでいた。
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