君の右手を離さない
長い長い出張のあと、ミリイ・トンプソンはベルナルデリ保険協会を退社した。いわゆる『コトブキ退社』――その意味もどうしてそう呼ばれるのかも誰も知らず、かの惑星の一島国の風習だと言われている――というヤツだ。
理由はともかく、生来の性格からして、人の生死が遣り取りされる様を目の当たりにするようなあの仕事は、もともと彼女には向いていなかったのだろうとメリルの周囲の人間は口々に言う。
――実際は言われるほど不向きには見えなかったんですけれどね。
心の中でいちいち訂正をしつつ、メリルは同僚達の声に愛想よく相槌を打っていた。
「ま、何はともあれ、仕事中にダンナさん見つけてくるなんて、大したもんだわあの子」
「カレン……」
かつてオンナノシアワセについてメリルに忠告した友人は、とんでもないダークホースの出現に少々焦っているようだった。暗に「あなたはどうなの? 先越されて悔しくないの?」といわれているような気がして、メリルにはその物言いがかえって気に障った。
「カレン、『見つけた』というのは正しくないわ。『出逢った』のよ」
運命論者のつもりはないのだが、その一部始終を見ていた彼女だからわかる。あの二人は出逢うべくして出逢い、結ばれるべくして結ばれたのだ。ただしそこまでこぎつけたのはひとえにウルフウッドの熱意によるところが大きいと言うことは確かだ。
いくら子供好きのミリイでも、何人もの養い子を一度に引き受けるようになることについてはいろいろと葛藤があり、メリルもそんな彼女の姿をずっと見てきている。
ウルフウッドが最終的にメリルのアドバイスどおりに『真っ向勝負』を挑んだのが効を奏したのは紛れもない事実で、そのおかげで彼はメリルに頭が上がらない。
「なーに思い出し笑いしているの?」
いつのまにか物思いに浸っていたらしい。カレンに頭をこづかれ、メリルは我に返った。そして、結婚相手の話から更に現在の労働条件にまで延々と発展する彼女の愚痴を聞かされる羽目になろうとしていたその時、上司に呼ばれたのだった。
部長に呼ばれたメリルを待っていたのは、新たな派遣調査の辞令だった。が、
「そんなの信じられません! その件についてはついこの前に終了したはずですわ」
「いや、君の報告はもちろん読んだとも。それを疑っているわけじゃあない。だが、こういった届け出がある以上、我々としては事態を放っておくわけにもいかんだろう」
その届け出の内容は、ヴァッシュ・ザ・スタンピードを名乗る者とその一味の犯罪に関するものだった。人間災害相手では被害届は受理もされず、下りる保険金も犯罪と災害では比べようもない。
ヴァッシュを担当するベルナルデリ保険協会としては事の真偽を確かめなければならないのだ。
だが、メリルは知っている。その男は偽者だということを。
本物のヴァッシュ・ザ・スタンピードは今ごろ孤児院の子供達と呑気に昼寝をしているかも知れない。しかしそんな事実が知られれば彼は再び監視される生活に逆戻りだ。彼の名においての犯罪がいまだに起こる以上、それは避けられない。
結局、わざわざその現場まで行ってその偽者の化けの皮を剥がさないことには、メリルをはじめ関係者には迷惑な事態になる、という事だ。
――まったく、頭の痛いこと……。
いつまでたっても他人に迷惑をかけることには彼の右に出るものがいないようだ。
「……それでだね、ミリイ・トンプソンの後任なんだが……」
話はまだ続いていたらしい。メリルも気になっていたことなのでいつのまにかこめかみを押さえていた指を慌てて下げる。
「我が社も人手不足の上、なかなかふさわしい人間がいなくてねえ。外部から臨時で採用することにした」
メリルは驚いた。
「そんな不用意なことして……簡単に考えすぎですわ!」
きわめて特殊な人物の存在がかかる問題だ。ことは社外秘問題だけにはとどまらない。いわゆる一般大衆の持つ、人間災害に対する反発はいまだに根強いのだ。キール・バルドウの前例もあるし、他人には任せられない。この際自分ひとりでも、と考えるメリルに上司は意外なことを言い出した。
「いや、この件に関しては心当たりがあると言ってくれた人がいてね。ミリイのご夫君なんだが」
「ではウルフウッドさんが?」
彼なら心強い。事情も知っているし、何よりも気心が知れている。
「ああ。彼の紹介でね」
「……え?」
新たに人事考察をする手間が省けたためか、彼の声はやけに弾んでいた。
「あちらの孤児院の職員で腕の立つのがいるそうだ。身元は保証してくれているし、君ともいささか面識があるそうじゃないか?」
「……………ええっ?」
その後どういう話をしたのかメリルは上の空だった。事務的な連絡事項も機械的にこなし、気がついたら廊下に立っていた。
とっさに叫んだりしなくて、本当に良かった。これも日頃のセルフ・コントロールの賜物だと感謝する。
「なんで、そーゆー話になるんですの」
ほかに誰もいないのを(つい性格上)確認して呟いてみる。口にしたらなおさら憤りが倍増した。『虎の威を借る狐』とかいう慣用句があるが、その狐狩りに当の虎と行くなんて、世の中間違っている。
部長も部長だ。推薦者が牧師様というだけでその肩書きにすっかり騙されてしまった。彼は明らかにただの聖職者とは程遠いというのに、あっさり信じ込んでしまった。
「これだから、世間知らずは……」
少しばかり世間の辛酸をなめただけではあるが、自分の上司の人の良さを恨むメリルだった。その臨時社員の履歴書は手元に渡されているが、見る気も起きない。何を書いてあろうと、名前など全て捏造したものに決まっている。あそこにいる人間であの牧師に腕が立つといわせる人物なんてただ一人しかいないではないか。
「――はめられましたわ」
人気のない廊下で握り拳を震わせて呟く。書類さえ持っていなければ両手でファイティング・ポーズでも決めていただろう。
「私に厄介払いさせる気ですのね、ニコラス・D・ウルフウッド!」
それから出発までの数日が慌ただしく過ぎていった。
メリルは雑事に終われて事の次第をミリイやヴァッシュに確認することもできず、肝心の顔合わせ兼打ち合わせにさえ代理人として紹介者が出席する始末だ。
「すんません、ヤツちょっとハラこわしてしもて、ええもう、必ず治してゆかせますんで」
揉み手までして気持ち悪いくらい愛想の良い男に眉間のしわは深くなる一方だったが、さすがに社内で事を荒立てるわけには行かないのでメリルはおとなしくしていた。男もそんな彼女の姿にあえて目を向けないようにしていた。何も知らない部長だけが、上機嫌で話を進めている。
しかし一見友好的な室内も、上司が席をはずした途端に二人ともそれまでの表情を一変させた。
「ああぁらお久しぶりですことニコラス・D・ウルフウッドさん本日はどなたかの代理人だそうで」
一息に言い放つ言葉声顔つきいちいちとげがある。よそよそしいまでの挨拶の裏には、今までどこに逃げ隠れていたのという非難が含まれているのは言うまでもない。
一方男のほうは、一応おとなしくしてはいるが、どこか余裕のある顔だ。
「まあまあ、あいつをここに来させるわけにはゆかんて。仮にも敵地やで」
終わりのほうはこっそりと声を潜めている。この男がこのように芝居がかったことをするときはいつでもろくなことがない。いつのまにか相手のペースにはまってしまうのだ。
「敵地ねえ」
今まで散々尻拭いをさせてきた相手を敵呼ばわりとは。ほおぉと目を眇めると、ウルフウッドは「仮にや、仮」と言い足した。
「どうしてヴァッシュさんを推薦したりしたんですの。いきなり言われた私がどれだけ混乱したか、あなたわかりまして?」
「せやかて、仕事の内容はあんたの護衛やろ? これ以上ない適役やないか」
「どうせミリイとの新婚気分を邪魔されたくないんでしょうけれど。でもいざとなったとき私一人であの人を抑えるなんてできっこありませんわ。第一二人きりで…」
言いながらはたと気がつく。気心が知れているとはいえ、男性との二人旅……。この重大さがわからないなんて、周囲のデリカシーのなさにあきれ返るばかりだ。
「や、それはない思うてる」
「はい?」
すかさず背中に手が伸びる。
「いや、その銃しまえや。てか、なんで社内で銃背負ってんねん?」
「もちろん、あなた対策ですわ」
「うわ、ひど。って、そうやのうて。かえってあんたがいてくれた方がヤツも責任感じるやろ。それに、何かと用事を作ってやらんと。……あそこはヒマすぎるんや」
のんびりとした日常は、平和主義の男には似つかわしい。しかし時間だけが有り余っていると、人は要らないことまで考えるようになってしまうものだ。そして彼の過去はいくらでも心の隙間に入ってこられるほど、複雑で濃密なのだ。
しんみりとしたウルフウッドの言葉を聞き、メリルは深くため息をつく。自分はなんでこうこの男どもに甘いのだろう。
「わかりました。つまり……」
きっとこの甘さにはヴァッシュに対する自分の情が関係しているのだ。
しかし今はそういった内なる事情もひっくるめて目を瞑り、簡潔なひとことで結論づける。
「コキ使ってやれ、と言うことですわね」
「……そういうコトや」
数分前までのことはなかったかのように、二人は共犯者の笑みを交わしていた。
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君の右手を離さない(2)
そして牧師の被害者はもう一人いた。
「あれー、なぁんで君がいるの?」
久しぶりに再開して第一声からこれでは力も抜ける。やはり一度でも事前に本人と話をつけておくべきだったと彼女は少し後悔した。
「なんだ、護衛って、保険屋さんのことだったんだ。ウルフウッドったら『簡単な仕事』としか言わないからさあ、一体どんな相手かと思っちゃったよ」
今は下りている明るい色の前髪をかき上げながらあははーと笑う男の背後で、あさっての方向を見ている黒衣の男が見える。一瞬びくりと身を竦ませたのは、こちらの殺気が届いたからだろう。
――ミリイ、あなたダンナ様はきちんと教育しておかないとだめですわよ
――もちろんこれからきっちりとやります、センパイ
逃げを打とうとするその腕をがっちりとホールドする後輩と目で会話をしている様子に、ヴァッシュは困ったように笑った。
「な? 子供達の前でも仲いいんだあの夫婦。あんなにぴったり体くっつけて腕組んじゃってさ」
「……はあ、そうですか……」
気のない返事をして、メリルは改めて目の前の男に視線を移した。どうやら彼には友人にはめられたという自覚がないらしい。自分にも彼にも、貧乏くじはいつまでつきまとうのだろうか。そう考えると情けなさすら覚えてくる。
しかし前金も支払ってある今になって後戻りができるはずもなく、メリルはあえて事務的に事態を進展させることにした。
すなわち。
「ベルナルデリ保険協会のメリル・ストライフです。今回はよろしくお願い致します」
名刺を差し出したのである。
牧師夫妻に見送られて定期長距離バスに乗り込んだ二人は、そこではじめて今回の仕事の打ち合わせをする羽目になった。代理人だった肝心のウルフウッドが、仔細をヴァッシュに何も伝えていなかったからである。
「まったく、あの人ときたら職務怠慢もいいところですわ」
口で文句を言いながらも書類をめくる手は止まらない。そんなメリルを男がどこか懐かしそうに見ていることなど、すっかり仕事モードに入っている彼女は気がつかなかった。
「行き先も聞かされずに、あなたもこんないい加減さでよくこの仕事をお受けになりましたわね」
問いかけるメリルの方は見ずに、男の目は宙を泳いでいた。人差し指がぽりぽりと頬をかく。
「……あ、話したくなければ、別に無理にとは……」
気まずさにその場をとりつくろおうとするメリルだったが、間もなく彼は口を開いた。
「んー、なんかねー。……オレってほら、居候じゃない?」
逡巡しながら言葉を選んで少しずつ話し出す。微妙に歯切れが悪いのは、あの場所での自分の立場を物語っているかのように彼女には思えた。
「仮にも新婚家庭だしさあ、いくら子供達の相手にって言ったって、このまんまじゃ只のごくつぶしだしさ」
唇の端だけを上げる、諦めに似た笑みを浮かべる。かつて、幾度となく目にしてきた表情。
「ヴァッシュさん……」
「それでね、ウルフウッドに仕事を探してもらったんだけどさ。ヤツ、護衛の仕事を見つけたって言うんだよ。そんなに素性とかうるさく聞かれない仕事でややこしくないからって言われてOKしたんだけど、それがまさか君の手伝いで偽ヴァッシュ・ザ・スタンピード退治とはね」
今度はどことなく楽しそうな、からかいの混じる笑顔でメリルのほうを向いた。いきなり向けられた笑顔に思わず視線をはずしてしまい、それを隠すかのように憎まれ口をきいてしまう。
「何言ってるの、充分ややこしいですわよ……その退治がお嫌なら別に構いませんのよ、この話降りてくださっても。私一人でもできるような仕事でしょうから」
「イエ、そーゆー訳にはいきません。ちゃんと働かせていただきます」
だってもう前金もらっちゃってるしね。などと言いながらも実はかなりうきうきしているようだった。この分だと彼にとっていい気分転換になるだろうとメリルは安堵した。
しかしそれでも例の服も腹も黒い男への怒りは収まらずに八つ当たりしてみたりする。
「よろしい。そうと決まればビシバシこき使いますからね」
「ええっ? それはちょっと……」
「えーじゃありません。あなたの雇い主は?」
「……ベルナルデリ保険協会のメリル・ストライフさんです……」
こういった言葉の応酬もそういえば久しぶりだ。社内にいるときとは別人のような自分に少々驚く。
回りの期待を裏切らないいわゆる品行方正な自分と、ヴァッシュやウルフウッドに対して口うるさく強気な自分と。どちらが本当の自分なのだろう。
できれば前者でありたいと、内心願うメリルである。
「あ、そうそう。宿なんだけどさ」
「はい?」
そういった条件面で、ヴァッシュから言ってくるのは結構珍しい。しかもそれはメリルが内心気にしていた話題で、実はいつ切り出そうかと気になっていた。
「オレ、椅子とかでも寝れるから、無理してシングルふたつ取らなくていいからね」
「……はい?」
まるで食事のメニューを決めるときのような口調である。一瞬あっけにとられ、直後に茹で上がった。
「どっ、どういうつもりですか?」
「へーきへーき、オレそーゆー方面はめっきり淡白だから安心してよ」
右手を顔の横に上げて「誓います」と言う姿は本気なんだかふざけているんだか、混乱している彼女にその真意が読み取れるはずもなく。
「どの方面の話ですか! 軽軽しくそういうことは口にしないで下さい!」
「あ、やっぱ怒るか」
あっさり引き下がる、その引き際も悔しいほどに手馴れている。不完全燃焼の怒りの持って行き場を失って、メリルは恨みがましい声をあげた。
「……簡単にそんなことは言わないで下さい。もちろん経費節約は大事ですが、それとこれとは話が違います」
「簡単ってねえ……。それじゃ、複雑な話をしてあげようか」
意味深に微笑う、その口元につい目が吸い寄せられた。
「え……?」
「うん、あとでね」
この後新たな会話のきっかけもないまま、バスは夕刻に次の町に停車した。
プラントに頼っていなくても、こういう長距離バスが停車するだけのことはある。そこは比較的大きな町だった。宿屋も数件あり、メリルたちが取った部屋は狭いながらも居間とシングルのベッドルームの二間続きのスイートだった。
もちろんヴァッシュに言われるまでもなく、シングルルームふたつなどと言う贅沢は許されるはずがない。宣言通りソファで寝ることになったヴァッシュはベッドルームをメリルに譲り、夕食後は早速ラフな格好に着替えた。
「いや、それにしてもあのオヤジ……」
階下で買い込んだ酒を手に、彼はチェック・インのときのやり取りを思い出してくすくす笑っていた。
主人が余計な気を利かせて、最上階の新婚用デラックス・スイートに案内してしまったのだ。フリルでいっぱいの甘いパステル・ピンクに統一されたダブルベッドを目にするなり、メリルは猫のように毛を逆立ててフロントに怒鳴り込んだ。
幸い部屋はすぐに替われたのだが、その中年男はヴァッシュにとても気の毒そうな目線をよこして来た。しまいには娼館のチラシまでこっそり差し入れてくれたのだった。
――そんなにオレ、不自由しているように見えるのかなぁ……?
うーん、と唸ってみる。一応これでも満ち足りてるんだけどなあ……。
そりゃあ、ゆったりと流れる時間もいいけれど、何か物足りないとは思っていた。でも、そう思ってしまうことを申し訳ないとも考えていた。
そこを出てきたしばらくぶりの旅は、彼には少し新鮮だった。きっと、連れが今までとは違うからかもしれない。
これまでいろんな旅をしてきたけれど、さすがに女性との二人旅は初めてだ。……女性?
――そうだよ、女性なんじゃないか!
今更ながらその事実を突きつけられ、彼はたじろいだ。
「……バカか、俺は」
過去のこともあって、仲間と言う意識のほうが強すぎたらしい。また自分がそういったことにもともと無頓着だったせいもある。バスの中では何も考えずに言ってしまったが、あれではメリルが機嫌を悪くするのも無理はない。
「うーん、どうやって謝ろう……。やっぱ、あのこと全部話すべきなんだよなぁ……」
ベッドルームからのノックの音を聞きながら、ヴァッシュは頭を抱えた。
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君の右手を離さない(3)
自分の目の前にいる男が実は人間とは違う生き物だということは頭では理解していたし、それを裏付ける事実もいくらでも数え上げられる。だが、その身体的な違いなど、一見しただけで判別できるものではない。ましてや、生理的な本能など……。
「……つまりね、子孫を残そうっていう考えが欠けているわけ。身体のつくりからして、遺伝子を残すように造られていない。そのための機能がないんだ。ほら、ほかの兄弟たちは一人でも勝手にいろいろ産んじゃうしさ、俺らの立場ないってゆーか、しょせん突然変異だし?」
「はあ……」
「まあ、簡単に言うと、タマるってことがないと……ぐッ、なんでぶつの?」
「下品な言い方しないでください!」
いろいろと言葉を変えてはいるが、結局のところプラントでありながら男性形という特殊な彼の身体はいわゆる『利己的遺伝子』の働きがほとんど見られないらしい。
人類をはじめとする生物のオスがほぼ一生精子を作り続けて子孫を残そうとするのに反して、カモフラージュのためか皆無とは言わないまでも、彼の身体機能では明らかに生成量が少ないのだという。従って、性欲と言う面でも非常に淡白な方だと言える。
しかし、そういった自己申告も信用されにくい場合がある。
「でも、あなたあちこちでずいぶんと美人に言い寄られていませんでした? しかもまんざらでもなさそうで」
とメリルが追求するのだが、男は
「そりゃー、俺だって気持ちいいことは好きだもん」
いともあっさりと肯定した。
「誰だってそうでしょ? で、どうせそーゆーことになるんなら、相手はきれーな顔でやーらかい体のほうがいいじゃない」
当然のことのように話すが、そのあたりがメリルには理解できない。気持ちいいことイコールセックスという考えは男性特有のものだと思っている。彼女自身、そちらの方面は淡白だった。
考え込んでいる彼女を見て、ヴァッシュは何か誤解をしたらしい。
「あ、いや、別に君が美人じゃないって言ってるんじゃないから。……それともひょっとして、俺がもてるんで妬いて………ゴフッ」
強烈なストレートパンチを炸裂させて、メリルはベッドルームに駆け込んだ。鍵のかかる金属的な音が狭い部屋にやけに響く。
「まいったなぁ……」
殴られた勢いで椅子ごと倒れてしまった男はゆっくりと身を起こして顎をさする。
身長の差もあって、彼女のパンチはいつも視界の外から不意に入ってくるのだ。今まで何度か同じ目に遭っていたというのに、久しぶりのことで油断した。
威力やスピードなどはたいしたことない。むしろヴァッシュにとっては子供同然だが、予測不可能な入り方をするので派手なリアクションになってしまう。今だって慌ててしまってよけそこねたのだ。
誰も見ていないのに、つい照れ隠しに笑ってしまう。
「まったく、相変わらずだねぇ」
しかしそんな事柄ひとつをとっても、ヴァッシュはメリルの「変わらなさ」に安心していた。ここに来るまでの間だけでも、仕事の話をしているところ、バスのほかの乗客とのやり取りなど、彼女のしぐさ一つ一つを懐かしい想いで見ていた。
――懐かしいって言ったって、大して前のことじゃないのにねえ、俺にとっちゃ。
そう自嘲する彼がメリルを見つめるときにどんな表情をしていたのかなど、見られていたメリルは勿論、ましてや当のヴァッシュも気付いてはいない。
「まったく! あのひとときたら!」
あんなに下品な人だったかしら、と彼女は頭から湯気を吹きそうな勢いでベッドに飛び込んだ。効きの悪いスプリングが小さく抗議の音をたてる。
しばらくそのまま怒りが収まるまで枕を抱えていたが、収まり始めた感情は激しい後悔となってメリルに襲い掛かってきた。
――だからといって、手を出すことではなかったわ……。
つい、あの頃のようにかっとなってしまった。まったく進歩していない自分に嫌気がさす。
ヴァッシュは悪くない。大事な話――身体の秘密――を打ち明けてくれたのだから。あのふざけた物言いも、トップシークレットである重い話題を考えてのことだったに違いない。それなのに……
「私、真面目に聞いていなかったかもしれないわ。あんな意地悪も言ってしまったし」
散々自分を責めぬいた挙句にやはり謝らなくてはと決心したときには、すでに夜も更けていた。しかし隣はまだ起きていたようで、ノックをすると返事がある。
男は飲みかけだったグラスを置いてドアへ歩み寄った。しかし「開けなくて良い」と言う。
「なあに? 忘れ物じゃないの?」
「い、いえ、……あの、さっきはごめんなさい。まだ痛みますか?」
この心細そうな声の主が板一枚隔てた向こうでどんな表情でいるのか、ヴァッシュには容易に想像ができた。またいつものように弾みでやってしまったことを自分で責めていたのだろう。
そういったところも変わっていない。ヴァッシュは微笑した。
「うん大丈夫。君のパンチっくらい大したことないって。えっと、次はあさってだっけ?」
「ええ。乗り換えたバスで現地入りですわ」
「そうだったね。それじゃ、明日はゆっくりできるってわけだ」
「この町で足りないものを買い足せば良いと思います。この先にもここみたいに大きい町があるとも限りませんし」
「てことはやっぱり、荷物持ち?」
「よろしくお願いしますね」
「…は~い」
会話を進めるうちに二人の間のギクシャクした空気が和む。一瞬、もう一度彼女を部屋に招き入れて一杯誘おうかという思いがよぎる。が……、
「ええと、それじゃ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
そのドアは開かれることなく、二人はそれぞれ寝床についたのだった。
「ここ……ですわよねえ…?」
「そのようだねぇ……」
小さなジオ・プラントの恵みを受けた町。それを背に数十分歩いてきた二人の目の前にあるのは、小高い『森』だった。
背後の町にあったプラントを積んでいたらしい『船』の残骸に、どういった訳か植物が付着してそのまま根をおろしたらしい。多い茂る葉や伸び放題の枝茎の間からわずかに見える無機質な合金部分が、太陽の光を反射して不規則に光る。砂漠の真ん中に忽然とあるその姿は、風が葉を揺らす爽やかな音と木陰と光る外壁の違和感も相まって、酷く現実味に欠けていた。
砂地に自生する植物はわずかだがメリルも見たことがある。しかしこのように地面以外に生息するものは生まれて初めてだ。
「これって、突然変異、なんでしょうか……。ねえ、ヴァッシュさん?」
ヴァッシュもこのような現象は初めて見るようで、しばらく呆然と眺めていたが、
「すごいや……」
だんだんその眼が輝いていくのを隣でメリルはじっと見つめていた。
「ねえ、すごいよこれ。自然ってすごいなぁ。ちゃんと自分で生き延びる道を見つけていけるんだ」
しきりにすごいを連発する。よほど嬉しかったのか、しまいには目元を指で拭っている。
「これはほかの場所にも移せるかな。この金属と気候が関係しているのかな。みんなに教えてあげなきゃ。ね?」
宝物を見つけて子供のようにはしゃいでいる彼を眺めながら、メリルは自分が母親のような心持ちになっているのを自覚した。
彼にしてみれば、この砂漠だらけの星で新たな進化を遂げた植物は人間が生き延びる道を示すきっかけのひとつになるかもしれないのだ。しかし、今の彼女にはそのような大それた理想よりも、今ここに自分達が来たその理由のほうが優先順位である。
それでも彼を怒る気になれなかった。再会してから今までの彼の表情をずっと見てきたから、心から嬉しそうに語る今の彼の顔を見ていたかった。その笑顔を目にして初めて再会の実感が湧いてきたのは、なんとも不思議だった。
しかしどれだけヴァッシュが感動しても、ここが例の偽ヴァッシュ・ザ・スタンピード一味の根城だということは間違いない。この場所の特異性を利用して旅人などを誘い込んでは、殺害して金品を奪うという手口だそうだ。
そもそも、相手は名ばかりが先に立って、実態はまったく掴めていない。今までに調査に入った誰一人としてその任務をまっとうできず、死体或いは廃人となって戻ってきた。
付近の町の住人は直接の被害はないものの、いつその矛先が自分達に向くのかと戦々恐々としている。
――そんな厄介な仕事、回さないで欲しいものですわ。
しかしメリルはそれほど悲観してはいなかった。何しろこちらには本物がいる。
「それじゃ、よろしくお願いいたしますわ」
男の背中をぽんと叩く。「ええーっ?」という彼の声はあえて無視する。
なんだかんだいっても、ヴァッシュのことを信頼しているメリルだった。
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君の右手を離さない(4)
二人して薄暗い内部に入ったが、予想された銃撃はなかった。かえって外気の熱が遮断されて、とても快適だ。
かつて通路だった場所をゆっくりと進む。ここにも植物の一部が入り込んでいる。メリルもかつて移民船の中を見てはいるが、そのときの記憶などまるで通用しない。
メリルより詳しいはずのヴァッシュでさえも、構造がわからないと言う。墜落の衝撃で全体がひしゃげた上にこの植物だ。「オレだってこんなの初めてだよ」と、まったくのお手上げ状態だ。
「……来ませんわね」
「たぶん、ここの造りを利用して待ち伏せているね。それともどこかに誘い込もうとしているのかな……?」
「どこかって、ずっと一本道ですわよ?」
「それがイヤなんだよねー。『いかにも』じゃない?」
そして。
通る人間の警戒心が薄れるほど歩きつづけ、数えるのも嫌になった幾つめかの角を曲がると。
唐突に隔壁が下りていた。
「行き止まり?」
「しまった!」
とっさに二人が踵を返した瞬間。
足元の床が消えた。
落下の衝撃は、ここにも生えていた根や蔓で緩和された。しかし、
「……ってー、あまり高いところじゃなくてよかった。どこか痛めた?」
即座にメリルをかばったのはいいが、受身は万全でなかったらしい。
腕の中で身を丸めて目を瞑り、それでも気丈に「平気です」と応える彼女は、ヴァッシュを少しだけ安心させた。
敵はまだ何も動きを示さない。獲物をここまで追い込んだというのに。それともまだ先に何かあるのか。
「それじゃ、ちょっとここにいてね。様子見てくるから」
ヴァッシュはそう言い置いて、走り出した。
腕の中の、守るべき存在をそこに残して。
「ここにいてね」
そう言った後、駆けて行く足音がした。なにやら暗くてそんなに広くはなさそうな室内なのに、音の反響がやけに悪い。
――葉のせいかしら……?
メリルは手近な茎につかまって立ち上がり、そして。
改めて周囲の状況を知った。
暗い。自分が本当に目を開けているのが信じられない。顔の前にかざした自分の手指すら見分けられない真っ暗闇だ。無駄だとわかっているのに目を一杯に見開いて、両手を伸ばして、そんな自分の努力をあざ笑うかのように身体ごと闇が包み込む。
自分の輪郭が曖昧になってゆく。
表皮から溶け込み、体内に侵入される。
黒く、犯される―――
「………いや」
つぶやいた筈の口から声は出ない。
足に力が入らない。ぺたりとその場に座り込む。しかし、床は本当に「そこ」に在るのか。
上下左右そして時間の感覚すらも闇に呑まれ、彼女はそれだけが現実と信じて、自分の身体を抱きしめた。
私は一体、どこにいるの――?
地の利と大掛かりな仕掛けに頼りきっていたせいか、勝負は意外なほどあっさりとついた。
もっとも、偽者に倒されるようでは本物の価値はない。
「……あのねぇ、ニセモノ騙るにしても、もうちょっと名前選んでよね」
そういう本物のヴァッシュの周囲で肩や手足を撃ち抜かれてうずくまっているのは、主犯格の金髪と赤いコートの男と、それから黒スーツの男たち。その一味を見ながら独りごちる。
「あーあ、ウルフウッド怒るだろーなー」
そりゃあ、一緒くたにされたら怒るか。
「このことは黙っててもらおう、うん」
ひとりうなずき、男たちの止血および捕縛をしていった。最後に赤コートの自称ヴァッシュに近づく。
腕を撃たれた痛みにうめいている男の傍らにしゃがみこむと、食いしばった歯の間から吐き捨てられた。
「さすがに、化け物、だな!」
「……うーん、久しぶりだねぇそう呼ばれるの。でも、そーゆーのの真似をしているキミもどうかと思うよ」
そう言いながらも手は止めない。
「――なんでッ、テメエは平気なんだ! あの部屋から正気で出てきた奴なんていねぇのに……」
「なん、だって?」
そういえばさっき落ちた部屋はやけに暗かったような……
「――そうか!」
メリルが独り残されている。
暗闇の中で。
ヴァッシュは駆け出した。
こわい こわい こわい
いいえ 怖くなんかないわ
――センパイ、さすがです すごいです
ありがとう これからも頑張りましょうね
――たよりにしているよ
――おねがいね
――たすかるよ
――メリルなら大丈夫だね
私は大丈夫 だからみっともなく泣いたり そんな弱々しいことはしないの
――メリルはしっかりしているから
私がしっかりしなくてどうするの みんなのためにしっかりしなくてはいけないわ
でも、 …………ここはどこ?
どのくらいここにいるの?
私はちゃんと立っているかしら? 両足の下に地面はあるのかしら? なんかふらふらして頼りないわ
たよりないメリルは メリルじゃない
じゃあ、 ここにいる私は、 だれ?
何もない 何もない なにもない
――君はひとりでも平気なんだね
ここには だれも ひとりもいない
私もここには いない
こんなわたしは メリル じゃないから
ここにいるわたしは ただのわたし
目をつぶって耳をふさいで 自分の心臓の音 ほら ちゃあんと動いている
もっとよく聞こえるように小さくなって
小さく 小さく ちいさくなって
ここに メリルはいない
ここに いる の は ただ の わ た し
「メリル!」
起伏のある床を何の躊躇もせずに走り抜ける。
常人よりも自分がよく「視える」ということを失念していた。これは自分の落ち度だ。
この星は明るい。太陽と月あわせて七つの天体が昼夜絶え間なく地上を照らす。新月の晩もここでは年に一度あるかないかだが、そのときは星々が代わりに夜空を飾るのだ。
だからこそここで生まれ育った人間たちは、本能的に暗闇を恐れる。文明が発達しにくいこの環境では人工的に作られた闇ほど人々の恐怖をあおるものはない。
「メリル!」
返事がない。気を失ってしまっているのだろうか。それならまだいい。心までが闇に捕りこまれてしまったとき、果たして自分は彼女を救えるのだろうか。彼女の、心を――
「返事をしてくれ、メリル!」
激しい焦りの衝動に突き動かされ、みたび声をあげる。
はるか昔に失った優しい笑顔がいくつも脳裏に浮かび、そして次々に過ぎ去っていった。
あのときのような喪失感は、もう要らない。
きっと今の自分は泣きそうな表情をしていると自覚しはじめたころ、その眼が彼女を捉えた。
闇の彼方、ひざを抱えて丸くなっている。
白い服をまとったそれは、卵か繭の中でじっと眠っている小さな生き物のようだ。
名を呼びながら駆け寄ると、怯えるように更にその身を縮ませた。手をとられるのを嫌い、何も聞きたくないとばかりに耳をふさぎ、いやいやと首を振る。
普段の彼女からは想像もつかないほどに緩慢な動きに胸が痛む。
しかし五感が失われているわけではない。彼女が拒んでいるのは自分を取り巻くもの。その中心にはまだ彼女が生き残っている。
いつも自分の足でしっかりと大地を踏みしめていた、誇り高い彼女が。
周囲の闇に溶かされまいとしているその姿を見て、ヴァッシュは決心した。
これ以上闇の世界には行かせない。
++++++++++
君の右手を離さない(5)
「 」
何か音がする。
そんなはずはない。何も聞こえないのだから。
「 」 ―――リル
ひどく間があいて、人の声のような気がした。
――ここにはだれもいない きこえるはずがない
「 」 ――メリル
――いや さわらないで
闇の中からのびてくるものを振り払う。しかししつこくまとわりつく『それ』は、彼女の手足を順に触ってゆく。
だが不思議と不快感はなかった。
その感覚の正体に考えが至る間もなく、強い力で拘束された。
――はなして
「………ね」
必死に突っぱねようとするが自分は弱くもがくばかりで、身体にかかるその力は衰えない。
「ごめんね……」
抱きしめる『腕』がやけにあたたかく感じられて、彼女は初めて自分の身体が冷え切っていることを知った。
「独りぼっちにさせて、ごめん」
――この声………?
あとになって内容が追いついてくる。この『腕』は何を謝っているのだろう。
「もう、ひとりにさせないから」
どこから聞こえるのだろう。
「俺が、いるから」
――おれ……?
この声は憶えている。「メリル」はこの声に何度も助けられた。
今のわたしも、助けてくれるのかしら―――
「ここに、いるから」
――ここ……?
再び腕の力が強まった。頭が温かい、固いものに押しつけられる。しかしそれは充分な弾力があり、彼女はそこから直接声を聞くことができた。
もっとそれを感じたくて意識をそこへ向けてみる。声に混じって自分のものとは違う鼓動が聞こえた。
―――――ここ に、 いる………!
彼女――メリル――はようやく自分を抱きしめる男の胸に身を任せることができた。
こわばりの解けた小さな身体を見おろし、男も緊張を解いた。どうやら一時的な閉塞状態は脱したようだ。あまり強引なこともできずに心配していたが、うまくいって良かった。これで戻らなかったらと考えると、背筋が凍る。
「……えっと、落ち着いた?」
恐る恐る声をかけると、小さい返事とうなずく気配があった。
「こえが、でな……」
長い緊張のせいで咽喉が嗄れてしまったのだろう。
「いいよ、喋らないで。とりあえずよかったよ、たいした怪我がなくて」
身体のほうは――と内心つけ足す。
「ごめんね、来るの遅くなって。こんなところに独りで怖かったでしょ」
すると、憮然とした声が返ってきた。
「そんなこと、ありませんでしたわ」
予想していたとおりの強気な反応にヴァッシュは嬉しくなった。凛とした彼女にまた会えるとわかっただけで涙が出そうになった。
「そっか。でもよかった。本当に、良かった」
普段どおりの君にまた会えて。
男があまりにも繰り返すので、その「良かった」がメリルにも伝染ってしまったようだ。
やっと自分を取り戻せたという実感が彼女を包んでいた。
まだ身体は少し震えているけれど、まだ目を開けるのにはためらいがあるけれど、ここにはこの人もいる。
確かに言ったのだ。ここにいる、と。
しかし、その声がいつの間にか湿り気を帯びているのには驚いた。この男の涙もろさを忘れていた。
それまで伝染してしまっては困る。手探りで顔を拭くものを探し始めたところで、くぐもった声がした。
「こんな暗いところで、ずっと独りで、」
その先は聞きたくない。言葉に呼ばれるように胸の奥から何かが湧き出す。
「よく、頑張ったね。我慢したね」
――だから、聞きたくなかったのに………!
表面張力ぎりぎりまで充満したそれは、あっという間に溢れ出した。
一瞬の呆然ののち、ヴァッシュはそっと苦笑した。声を殺して本人は隠しているつもりのようだが、こんなに身体を密着させていればいやでもわかる。
「泣いてたの、オレの方だったのに……」
逃げる身体を両腕で包みこむ。
「…やっ、見ないで……」
「大丈夫、誰も見やしない。こんなに暗くちゃ、見えないって」
相変わらずのつよがりに微笑がもれる。困ったことに自分はこの小柄な女性の抱え込んでいる矜持にすっかり、とことん、参ってしまっているらしい。
「ごめんね。オレもひどい男だよね」
女を待たせて、つらい思いをさせて、挙句の果てに泣かせて。
「許してくれなんて、言えないね」
だから代わりに。
決して顔を上げたがらない彼女の髪や背中をゆっくりなでてあげよう。
きっと泣くのには慣れていないから、その分思いきり泣かせてあげよう。
――そして、ひっそり願う。
その涙は俺が拭ってあげられるといいのだけれど。
メリルは悔しさと情けなさでいたたまれない思いで一杯だった。
あの闇の中では、全身が震えこそしたが泣くようなことなど何もなかったというのに、今の自分のこの弱さはどうだろう。
――ひどいひと……
この男のせいだ。この人があんなことを言うから……
――よくがんばったね……
それで自分はおかしくなったのだ。
悟られたくはないけれど、きっと自分のこの変化には気付いているのだろう。まるで子供をあやすかのように手が身体をなでている。
訳もなく悔しくて、拳で男の胸板をたたく。びくともしないからだが「痛いなぁ」と笑った。その反応がやけに嬉しかった。
そして、叩いたのと同じ手で彼の胸にすがり、メリルは初めて泣き声を漏らしたのだった。
この事件の事後処理には、当初の予想よりもはるかに日にちがかかってしまった。何しろ事情聴取よりも先に犯人達の治療が行われたのだ。
さすがにヴァッシュが彼らの命を奪うことはなかったのだが、一味のうち数人が出血多量のために重症となってしまった。
「あんた達ねえ、解決したんならしたって、早く言ってくんなきゃ。まったく、何ぐずぐずやってたの?」
要請を受けてやってきた初老の保安官は、肝心の参考人聴取よりも長い時間をかけて二人に小言を垂れた。
――何って、ねぇ……
事実からすればはぐれた仲間の捜索をしていただけなのだが、言葉を濁し困ったように視線を交わす男女の組み合わせに、その目は明らかに疑っていた。
「……ま、程々にな」
――ホドホドって何をだ……ッ!?
長い長い出張のあと、ミリイ・トンプソンはベルナルデリ保険協会を退社した。いわゆる『コトブキ退社』――その意味もどうしてそう呼ばれるのかも誰も知らず、かの惑星の一島国の風習だと言われている――というヤツだ。
理由はともかく、生来の性格からして、人の生死が遣り取りされる様を目の当たりにするようなあの仕事は、もともと彼女には向いていなかったのだろうとメリルの周囲の人間は口々に言う。
――実際は言われるほど不向きには見えなかったんですけれどね。
心の中でいちいち訂正をしつつ、メリルは同僚達の声に愛想よく相槌を打っていた。
「ま、何はともあれ、仕事中にダンナさん見つけてくるなんて、大したもんだわあの子」
「カレン……」
かつてオンナノシアワセについてメリルに忠告した友人は、とんでもないダークホースの出現に少々焦っているようだった。暗に「あなたはどうなの? 先越されて悔しくないの?」といわれているような気がして、メリルにはその物言いがかえって気に障った。
「カレン、『見つけた』というのは正しくないわ。『出逢った』のよ」
運命論者のつもりはないのだが、その一部始終を見ていた彼女だからわかる。あの二人は出逢うべくして出逢い、結ばれるべくして結ばれたのだ。ただしそこまでこぎつけたのはひとえにウルフウッドの熱意によるところが大きいと言うことは確かだ。
いくら子供好きのミリイでも、何人もの養い子を一度に引き受けるようになることについてはいろいろと葛藤があり、メリルもそんな彼女の姿をずっと見てきている。
ウルフウッドが最終的にメリルのアドバイスどおりに『真っ向勝負』を挑んだのが効を奏したのは紛れもない事実で、そのおかげで彼はメリルに頭が上がらない。
「なーに思い出し笑いしているの?」
いつのまにか物思いに浸っていたらしい。カレンに頭をこづかれ、メリルは我に返った。そして、結婚相手の話から更に現在の労働条件にまで延々と発展する彼女の愚痴を聞かされる羽目になろうとしていたその時、上司に呼ばれたのだった。
部長に呼ばれたメリルを待っていたのは、新たな派遣調査の辞令だった。が、
「そんなの信じられません! その件についてはついこの前に終了したはずですわ」
「いや、君の報告はもちろん読んだとも。それを疑っているわけじゃあない。だが、こういった届け出がある以上、我々としては事態を放っておくわけにもいかんだろう」
その届け出の内容は、ヴァッシュ・ザ・スタンピードを名乗る者とその一味の犯罪に関するものだった。人間災害相手では被害届は受理もされず、下りる保険金も犯罪と災害では比べようもない。
ヴァッシュを担当するベルナルデリ保険協会としては事の真偽を確かめなければならないのだ。
だが、メリルは知っている。その男は偽者だということを。
本物のヴァッシュ・ザ・スタンピードは今ごろ孤児院の子供達と呑気に昼寝をしているかも知れない。しかしそんな事実が知られれば彼は再び監視される生活に逆戻りだ。彼の名においての犯罪がいまだに起こる以上、それは避けられない。
結局、わざわざその現場まで行ってその偽者の化けの皮を剥がさないことには、メリルをはじめ関係者には迷惑な事態になる、という事だ。
――まったく、頭の痛いこと……。
いつまでたっても他人に迷惑をかけることには彼の右に出るものがいないようだ。
「……それでだね、ミリイ・トンプソンの後任なんだが……」
話はまだ続いていたらしい。メリルも気になっていたことなのでいつのまにかこめかみを押さえていた指を慌てて下げる。
「我が社も人手不足の上、なかなかふさわしい人間がいなくてねえ。外部から臨時で採用することにした」
メリルは驚いた。
「そんな不用意なことして……簡単に考えすぎですわ!」
きわめて特殊な人物の存在がかかる問題だ。ことは社外秘問題だけにはとどまらない。いわゆる一般大衆の持つ、人間災害に対する反発はいまだに根強いのだ。キール・バルドウの前例もあるし、他人には任せられない。この際自分ひとりでも、と考えるメリルに上司は意外なことを言い出した。
「いや、この件に関しては心当たりがあると言ってくれた人がいてね。ミリイのご夫君なんだが」
「ではウルフウッドさんが?」
彼なら心強い。事情も知っているし、何よりも気心が知れている。
「ああ。彼の紹介でね」
「……え?」
新たに人事考察をする手間が省けたためか、彼の声はやけに弾んでいた。
「あちらの孤児院の職員で腕の立つのがいるそうだ。身元は保証してくれているし、君ともいささか面識があるそうじゃないか?」
「……………ええっ?」
その後どういう話をしたのかメリルは上の空だった。事務的な連絡事項も機械的にこなし、気がついたら廊下に立っていた。
とっさに叫んだりしなくて、本当に良かった。これも日頃のセルフ・コントロールの賜物だと感謝する。
「なんで、そーゆー話になるんですの」
ほかに誰もいないのを(つい性格上)確認して呟いてみる。口にしたらなおさら憤りが倍増した。『虎の威を借る狐』とかいう慣用句があるが、その狐狩りに当の虎と行くなんて、世の中間違っている。
部長も部長だ。推薦者が牧師様というだけでその肩書きにすっかり騙されてしまった。彼は明らかにただの聖職者とは程遠いというのに、あっさり信じ込んでしまった。
「これだから、世間知らずは……」
少しばかり世間の辛酸をなめただけではあるが、自分の上司の人の良さを恨むメリルだった。その臨時社員の履歴書は手元に渡されているが、見る気も起きない。何を書いてあろうと、名前など全て捏造したものに決まっている。あそこにいる人間であの牧師に腕が立つといわせる人物なんてただ一人しかいないではないか。
「――はめられましたわ」
人気のない廊下で握り拳を震わせて呟く。書類さえ持っていなければ両手でファイティング・ポーズでも決めていただろう。
「私に厄介払いさせる気ですのね、ニコラス・D・ウルフウッド!」
それから出発までの数日が慌ただしく過ぎていった。
メリルは雑事に終われて事の次第をミリイやヴァッシュに確認することもできず、肝心の顔合わせ兼打ち合わせにさえ代理人として紹介者が出席する始末だ。
「すんません、ヤツちょっとハラこわしてしもて、ええもう、必ず治してゆかせますんで」
揉み手までして気持ち悪いくらい愛想の良い男に眉間のしわは深くなる一方だったが、さすがに社内で事を荒立てるわけには行かないのでメリルはおとなしくしていた。男もそんな彼女の姿にあえて目を向けないようにしていた。何も知らない部長だけが、上機嫌で話を進めている。
しかし一見友好的な室内も、上司が席をはずした途端に二人ともそれまでの表情を一変させた。
「ああぁらお久しぶりですことニコラス・D・ウルフウッドさん本日はどなたかの代理人だそうで」
一息に言い放つ言葉声顔つきいちいちとげがある。よそよそしいまでの挨拶の裏には、今までどこに逃げ隠れていたのという非難が含まれているのは言うまでもない。
一方男のほうは、一応おとなしくしてはいるが、どこか余裕のある顔だ。
「まあまあ、あいつをここに来させるわけにはゆかんて。仮にも敵地やで」
終わりのほうはこっそりと声を潜めている。この男がこのように芝居がかったことをするときはいつでもろくなことがない。いつのまにか相手のペースにはまってしまうのだ。
「敵地ねえ」
今まで散々尻拭いをさせてきた相手を敵呼ばわりとは。ほおぉと目を眇めると、ウルフウッドは「仮にや、仮」と言い足した。
「どうしてヴァッシュさんを推薦したりしたんですの。いきなり言われた私がどれだけ混乱したか、あなたわかりまして?」
「せやかて、仕事の内容はあんたの護衛やろ? これ以上ない適役やないか」
「どうせミリイとの新婚気分を邪魔されたくないんでしょうけれど。でもいざとなったとき私一人であの人を抑えるなんてできっこありませんわ。第一二人きりで…」
言いながらはたと気がつく。気心が知れているとはいえ、男性との二人旅……。この重大さがわからないなんて、周囲のデリカシーのなさにあきれ返るばかりだ。
「や、それはない思うてる」
「はい?」
すかさず背中に手が伸びる。
「いや、その銃しまえや。てか、なんで社内で銃背負ってんねん?」
「もちろん、あなた対策ですわ」
「うわ、ひど。って、そうやのうて。かえってあんたがいてくれた方がヤツも責任感じるやろ。それに、何かと用事を作ってやらんと。……あそこはヒマすぎるんや」
のんびりとした日常は、平和主義の男には似つかわしい。しかし時間だけが有り余っていると、人は要らないことまで考えるようになってしまうものだ。そして彼の過去はいくらでも心の隙間に入ってこられるほど、複雑で濃密なのだ。
しんみりとしたウルフウッドの言葉を聞き、メリルは深くため息をつく。自分はなんでこうこの男どもに甘いのだろう。
「わかりました。つまり……」
きっとこの甘さにはヴァッシュに対する自分の情が関係しているのだ。
しかし今はそういった内なる事情もひっくるめて目を瞑り、簡潔なひとことで結論づける。
「コキ使ってやれ、と言うことですわね」
「……そういうコトや」
数分前までのことはなかったかのように、二人は共犯者の笑みを交わしていた。
+++++++++++
君の右手を離さない(2)
そして牧師の被害者はもう一人いた。
「あれー、なぁんで君がいるの?」
久しぶりに再開して第一声からこれでは力も抜ける。やはり一度でも事前に本人と話をつけておくべきだったと彼女は少し後悔した。
「なんだ、護衛って、保険屋さんのことだったんだ。ウルフウッドったら『簡単な仕事』としか言わないからさあ、一体どんな相手かと思っちゃったよ」
今は下りている明るい色の前髪をかき上げながらあははーと笑う男の背後で、あさっての方向を見ている黒衣の男が見える。一瞬びくりと身を竦ませたのは、こちらの殺気が届いたからだろう。
――ミリイ、あなたダンナ様はきちんと教育しておかないとだめですわよ
――もちろんこれからきっちりとやります、センパイ
逃げを打とうとするその腕をがっちりとホールドする後輩と目で会話をしている様子に、ヴァッシュは困ったように笑った。
「な? 子供達の前でも仲いいんだあの夫婦。あんなにぴったり体くっつけて腕組んじゃってさ」
「……はあ、そうですか……」
気のない返事をして、メリルは改めて目の前の男に視線を移した。どうやら彼には友人にはめられたという自覚がないらしい。自分にも彼にも、貧乏くじはいつまでつきまとうのだろうか。そう考えると情けなさすら覚えてくる。
しかし前金も支払ってある今になって後戻りができるはずもなく、メリルはあえて事務的に事態を進展させることにした。
すなわち。
「ベルナルデリ保険協会のメリル・ストライフです。今回はよろしくお願い致します」
名刺を差し出したのである。
牧師夫妻に見送られて定期長距離バスに乗り込んだ二人は、そこではじめて今回の仕事の打ち合わせをする羽目になった。代理人だった肝心のウルフウッドが、仔細をヴァッシュに何も伝えていなかったからである。
「まったく、あの人ときたら職務怠慢もいいところですわ」
口で文句を言いながらも書類をめくる手は止まらない。そんなメリルを男がどこか懐かしそうに見ていることなど、すっかり仕事モードに入っている彼女は気がつかなかった。
「行き先も聞かされずに、あなたもこんないい加減さでよくこの仕事をお受けになりましたわね」
問いかけるメリルの方は見ずに、男の目は宙を泳いでいた。人差し指がぽりぽりと頬をかく。
「……あ、話したくなければ、別に無理にとは……」
気まずさにその場をとりつくろおうとするメリルだったが、間もなく彼は口を開いた。
「んー、なんかねー。……オレってほら、居候じゃない?」
逡巡しながら言葉を選んで少しずつ話し出す。微妙に歯切れが悪いのは、あの場所での自分の立場を物語っているかのように彼女には思えた。
「仮にも新婚家庭だしさあ、いくら子供達の相手にって言ったって、このまんまじゃ只のごくつぶしだしさ」
唇の端だけを上げる、諦めに似た笑みを浮かべる。かつて、幾度となく目にしてきた表情。
「ヴァッシュさん……」
「それでね、ウルフウッドに仕事を探してもらったんだけどさ。ヤツ、護衛の仕事を見つけたって言うんだよ。そんなに素性とかうるさく聞かれない仕事でややこしくないからって言われてOKしたんだけど、それがまさか君の手伝いで偽ヴァッシュ・ザ・スタンピード退治とはね」
今度はどことなく楽しそうな、からかいの混じる笑顔でメリルのほうを向いた。いきなり向けられた笑顔に思わず視線をはずしてしまい、それを隠すかのように憎まれ口をきいてしまう。
「何言ってるの、充分ややこしいですわよ……その退治がお嫌なら別に構いませんのよ、この話降りてくださっても。私一人でもできるような仕事でしょうから」
「イエ、そーゆー訳にはいきません。ちゃんと働かせていただきます」
だってもう前金もらっちゃってるしね。などと言いながらも実はかなりうきうきしているようだった。この分だと彼にとっていい気分転換になるだろうとメリルは安堵した。
しかしそれでも例の服も腹も黒い男への怒りは収まらずに八つ当たりしてみたりする。
「よろしい。そうと決まればビシバシこき使いますからね」
「ええっ? それはちょっと……」
「えーじゃありません。あなたの雇い主は?」
「……ベルナルデリ保険協会のメリル・ストライフさんです……」
こういった言葉の応酬もそういえば久しぶりだ。社内にいるときとは別人のような自分に少々驚く。
回りの期待を裏切らないいわゆる品行方正な自分と、ヴァッシュやウルフウッドに対して口うるさく強気な自分と。どちらが本当の自分なのだろう。
できれば前者でありたいと、内心願うメリルである。
「あ、そうそう。宿なんだけどさ」
「はい?」
そういった条件面で、ヴァッシュから言ってくるのは結構珍しい。しかもそれはメリルが内心気にしていた話題で、実はいつ切り出そうかと気になっていた。
「オレ、椅子とかでも寝れるから、無理してシングルふたつ取らなくていいからね」
「……はい?」
まるで食事のメニューを決めるときのような口調である。一瞬あっけにとられ、直後に茹で上がった。
「どっ、どういうつもりですか?」
「へーきへーき、オレそーゆー方面はめっきり淡白だから安心してよ」
右手を顔の横に上げて「誓います」と言う姿は本気なんだかふざけているんだか、混乱している彼女にその真意が読み取れるはずもなく。
「どの方面の話ですか! 軽軽しくそういうことは口にしないで下さい!」
「あ、やっぱ怒るか」
あっさり引き下がる、その引き際も悔しいほどに手馴れている。不完全燃焼の怒りの持って行き場を失って、メリルは恨みがましい声をあげた。
「……簡単にそんなことは言わないで下さい。もちろん経費節約は大事ですが、それとこれとは話が違います」
「簡単ってねえ……。それじゃ、複雑な話をしてあげようか」
意味深に微笑う、その口元につい目が吸い寄せられた。
「え……?」
「うん、あとでね」
この後新たな会話のきっかけもないまま、バスは夕刻に次の町に停車した。
プラントに頼っていなくても、こういう長距離バスが停車するだけのことはある。そこは比較的大きな町だった。宿屋も数件あり、メリルたちが取った部屋は狭いながらも居間とシングルのベッドルームの二間続きのスイートだった。
もちろんヴァッシュに言われるまでもなく、シングルルームふたつなどと言う贅沢は許されるはずがない。宣言通りソファで寝ることになったヴァッシュはベッドルームをメリルに譲り、夕食後は早速ラフな格好に着替えた。
「いや、それにしてもあのオヤジ……」
階下で買い込んだ酒を手に、彼はチェック・インのときのやり取りを思い出してくすくす笑っていた。
主人が余計な気を利かせて、最上階の新婚用デラックス・スイートに案内してしまったのだ。フリルでいっぱいの甘いパステル・ピンクに統一されたダブルベッドを目にするなり、メリルは猫のように毛を逆立ててフロントに怒鳴り込んだ。
幸い部屋はすぐに替われたのだが、その中年男はヴァッシュにとても気の毒そうな目線をよこして来た。しまいには娼館のチラシまでこっそり差し入れてくれたのだった。
――そんなにオレ、不自由しているように見えるのかなぁ……?
うーん、と唸ってみる。一応これでも満ち足りてるんだけどなあ……。
そりゃあ、ゆったりと流れる時間もいいけれど、何か物足りないとは思っていた。でも、そう思ってしまうことを申し訳ないとも考えていた。
そこを出てきたしばらくぶりの旅は、彼には少し新鮮だった。きっと、連れが今までとは違うからかもしれない。
これまでいろんな旅をしてきたけれど、さすがに女性との二人旅は初めてだ。……女性?
――そうだよ、女性なんじゃないか!
今更ながらその事実を突きつけられ、彼はたじろいだ。
「……バカか、俺は」
過去のこともあって、仲間と言う意識のほうが強すぎたらしい。また自分がそういったことにもともと無頓着だったせいもある。バスの中では何も考えずに言ってしまったが、あれではメリルが機嫌を悪くするのも無理はない。
「うーん、どうやって謝ろう……。やっぱ、あのこと全部話すべきなんだよなぁ……」
ベッドルームからのノックの音を聞きながら、ヴァッシュは頭を抱えた。
+++++++++++++
君の右手を離さない(3)
自分の目の前にいる男が実は人間とは違う生き物だということは頭では理解していたし、それを裏付ける事実もいくらでも数え上げられる。だが、その身体的な違いなど、一見しただけで判別できるものではない。ましてや、生理的な本能など……。
「……つまりね、子孫を残そうっていう考えが欠けているわけ。身体のつくりからして、遺伝子を残すように造られていない。そのための機能がないんだ。ほら、ほかの兄弟たちは一人でも勝手にいろいろ産んじゃうしさ、俺らの立場ないってゆーか、しょせん突然変異だし?」
「はあ……」
「まあ、簡単に言うと、タマるってことがないと……ぐッ、なんでぶつの?」
「下品な言い方しないでください!」
いろいろと言葉を変えてはいるが、結局のところプラントでありながら男性形という特殊な彼の身体はいわゆる『利己的遺伝子』の働きがほとんど見られないらしい。
人類をはじめとする生物のオスがほぼ一生精子を作り続けて子孫を残そうとするのに反して、カモフラージュのためか皆無とは言わないまでも、彼の身体機能では明らかに生成量が少ないのだという。従って、性欲と言う面でも非常に淡白な方だと言える。
しかし、そういった自己申告も信用されにくい場合がある。
「でも、あなたあちこちでずいぶんと美人に言い寄られていませんでした? しかもまんざらでもなさそうで」
とメリルが追求するのだが、男は
「そりゃー、俺だって気持ちいいことは好きだもん」
いともあっさりと肯定した。
「誰だってそうでしょ? で、どうせそーゆーことになるんなら、相手はきれーな顔でやーらかい体のほうがいいじゃない」
当然のことのように話すが、そのあたりがメリルには理解できない。気持ちいいことイコールセックスという考えは男性特有のものだと思っている。彼女自身、そちらの方面は淡白だった。
考え込んでいる彼女を見て、ヴァッシュは何か誤解をしたらしい。
「あ、いや、別に君が美人じゃないって言ってるんじゃないから。……それともひょっとして、俺がもてるんで妬いて………ゴフッ」
強烈なストレートパンチを炸裂させて、メリルはベッドルームに駆け込んだ。鍵のかかる金属的な音が狭い部屋にやけに響く。
「まいったなぁ……」
殴られた勢いで椅子ごと倒れてしまった男はゆっくりと身を起こして顎をさする。
身長の差もあって、彼女のパンチはいつも視界の外から不意に入ってくるのだ。今まで何度か同じ目に遭っていたというのに、久しぶりのことで油断した。
威力やスピードなどはたいしたことない。むしろヴァッシュにとっては子供同然だが、予測不可能な入り方をするので派手なリアクションになってしまう。今だって慌ててしまってよけそこねたのだ。
誰も見ていないのに、つい照れ隠しに笑ってしまう。
「まったく、相変わらずだねぇ」
しかしそんな事柄ひとつをとっても、ヴァッシュはメリルの「変わらなさ」に安心していた。ここに来るまでの間だけでも、仕事の話をしているところ、バスのほかの乗客とのやり取りなど、彼女のしぐさ一つ一つを懐かしい想いで見ていた。
――懐かしいって言ったって、大して前のことじゃないのにねえ、俺にとっちゃ。
そう自嘲する彼がメリルを見つめるときにどんな表情をしていたのかなど、見られていたメリルは勿論、ましてや当のヴァッシュも気付いてはいない。
「まったく! あのひとときたら!」
あんなに下品な人だったかしら、と彼女は頭から湯気を吹きそうな勢いでベッドに飛び込んだ。効きの悪いスプリングが小さく抗議の音をたてる。
しばらくそのまま怒りが収まるまで枕を抱えていたが、収まり始めた感情は激しい後悔となってメリルに襲い掛かってきた。
――だからといって、手を出すことではなかったわ……。
つい、あの頃のようにかっとなってしまった。まったく進歩していない自分に嫌気がさす。
ヴァッシュは悪くない。大事な話――身体の秘密――を打ち明けてくれたのだから。あのふざけた物言いも、トップシークレットである重い話題を考えてのことだったに違いない。それなのに……
「私、真面目に聞いていなかったかもしれないわ。あんな意地悪も言ってしまったし」
散々自分を責めぬいた挙句にやはり謝らなくてはと決心したときには、すでに夜も更けていた。しかし隣はまだ起きていたようで、ノックをすると返事がある。
男は飲みかけだったグラスを置いてドアへ歩み寄った。しかし「開けなくて良い」と言う。
「なあに? 忘れ物じゃないの?」
「い、いえ、……あの、さっきはごめんなさい。まだ痛みますか?」
この心細そうな声の主が板一枚隔てた向こうでどんな表情でいるのか、ヴァッシュには容易に想像ができた。またいつものように弾みでやってしまったことを自分で責めていたのだろう。
そういったところも変わっていない。ヴァッシュは微笑した。
「うん大丈夫。君のパンチっくらい大したことないって。えっと、次はあさってだっけ?」
「ええ。乗り換えたバスで現地入りですわ」
「そうだったね。それじゃ、明日はゆっくりできるってわけだ」
「この町で足りないものを買い足せば良いと思います。この先にもここみたいに大きい町があるとも限りませんし」
「てことはやっぱり、荷物持ち?」
「よろしくお願いしますね」
「…は~い」
会話を進めるうちに二人の間のギクシャクした空気が和む。一瞬、もう一度彼女を部屋に招き入れて一杯誘おうかという思いがよぎる。が……、
「ええと、それじゃ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
そのドアは開かれることなく、二人はそれぞれ寝床についたのだった。
「ここ……ですわよねえ…?」
「そのようだねぇ……」
小さなジオ・プラントの恵みを受けた町。それを背に数十分歩いてきた二人の目の前にあるのは、小高い『森』だった。
背後の町にあったプラントを積んでいたらしい『船』の残骸に、どういった訳か植物が付着してそのまま根をおろしたらしい。多い茂る葉や伸び放題の枝茎の間からわずかに見える無機質な合金部分が、太陽の光を反射して不規則に光る。砂漠の真ん中に忽然とあるその姿は、風が葉を揺らす爽やかな音と木陰と光る外壁の違和感も相まって、酷く現実味に欠けていた。
砂地に自生する植物はわずかだがメリルも見たことがある。しかしこのように地面以外に生息するものは生まれて初めてだ。
「これって、突然変異、なんでしょうか……。ねえ、ヴァッシュさん?」
ヴァッシュもこのような現象は初めて見るようで、しばらく呆然と眺めていたが、
「すごいや……」
だんだんその眼が輝いていくのを隣でメリルはじっと見つめていた。
「ねえ、すごいよこれ。自然ってすごいなぁ。ちゃんと自分で生き延びる道を見つけていけるんだ」
しきりにすごいを連発する。よほど嬉しかったのか、しまいには目元を指で拭っている。
「これはほかの場所にも移せるかな。この金属と気候が関係しているのかな。みんなに教えてあげなきゃ。ね?」
宝物を見つけて子供のようにはしゃいでいる彼を眺めながら、メリルは自分が母親のような心持ちになっているのを自覚した。
彼にしてみれば、この砂漠だらけの星で新たな進化を遂げた植物は人間が生き延びる道を示すきっかけのひとつになるかもしれないのだ。しかし、今の彼女にはそのような大それた理想よりも、今ここに自分達が来たその理由のほうが優先順位である。
それでも彼を怒る気になれなかった。再会してから今までの彼の表情をずっと見てきたから、心から嬉しそうに語る今の彼の顔を見ていたかった。その笑顔を目にして初めて再会の実感が湧いてきたのは、なんとも不思議だった。
しかしどれだけヴァッシュが感動しても、ここが例の偽ヴァッシュ・ザ・スタンピード一味の根城だということは間違いない。この場所の特異性を利用して旅人などを誘い込んでは、殺害して金品を奪うという手口だそうだ。
そもそも、相手は名ばかりが先に立って、実態はまったく掴めていない。今までに調査に入った誰一人としてその任務をまっとうできず、死体或いは廃人となって戻ってきた。
付近の町の住人は直接の被害はないものの、いつその矛先が自分達に向くのかと戦々恐々としている。
――そんな厄介な仕事、回さないで欲しいものですわ。
しかしメリルはそれほど悲観してはいなかった。何しろこちらには本物がいる。
「それじゃ、よろしくお願いいたしますわ」
男の背中をぽんと叩く。「ええーっ?」という彼の声はあえて無視する。
なんだかんだいっても、ヴァッシュのことを信頼しているメリルだった。
++++++++++++
君の右手を離さない(4)
二人して薄暗い内部に入ったが、予想された銃撃はなかった。かえって外気の熱が遮断されて、とても快適だ。
かつて通路だった場所をゆっくりと進む。ここにも植物の一部が入り込んでいる。メリルもかつて移民船の中を見てはいるが、そのときの記憶などまるで通用しない。
メリルより詳しいはずのヴァッシュでさえも、構造がわからないと言う。墜落の衝撃で全体がひしゃげた上にこの植物だ。「オレだってこんなの初めてだよ」と、まったくのお手上げ状態だ。
「……来ませんわね」
「たぶん、ここの造りを利用して待ち伏せているね。それともどこかに誘い込もうとしているのかな……?」
「どこかって、ずっと一本道ですわよ?」
「それがイヤなんだよねー。『いかにも』じゃない?」
そして。
通る人間の警戒心が薄れるほど歩きつづけ、数えるのも嫌になった幾つめかの角を曲がると。
唐突に隔壁が下りていた。
「行き止まり?」
「しまった!」
とっさに二人が踵を返した瞬間。
足元の床が消えた。
落下の衝撃は、ここにも生えていた根や蔓で緩和された。しかし、
「……ってー、あまり高いところじゃなくてよかった。どこか痛めた?」
即座にメリルをかばったのはいいが、受身は万全でなかったらしい。
腕の中で身を丸めて目を瞑り、それでも気丈に「平気です」と応える彼女は、ヴァッシュを少しだけ安心させた。
敵はまだ何も動きを示さない。獲物をここまで追い込んだというのに。それともまだ先に何かあるのか。
「それじゃ、ちょっとここにいてね。様子見てくるから」
ヴァッシュはそう言い置いて、走り出した。
腕の中の、守るべき存在をそこに残して。
「ここにいてね」
そう言った後、駆けて行く足音がした。なにやら暗くてそんなに広くはなさそうな室内なのに、音の反響がやけに悪い。
――葉のせいかしら……?
メリルは手近な茎につかまって立ち上がり、そして。
改めて周囲の状況を知った。
暗い。自分が本当に目を開けているのが信じられない。顔の前にかざした自分の手指すら見分けられない真っ暗闇だ。無駄だとわかっているのに目を一杯に見開いて、両手を伸ばして、そんな自分の努力をあざ笑うかのように身体ごと闇が包み込む。
自分の輪郭が曖昧になってゆく。
表皮から溶け込み、体内に侵入される。
黒く、犯される―――
「………いや」
つぶやいた筈の口から声は出ない。
足に力が入らない。ぺたりとその場に座り込む。しかし、床は本当に「そこ」に在るのか。
上下左右そして時間の感覚すらも闇に呑まれ、彼女はそれだけが現実と信じて、自分の身体を抱きしめた。
私は一体、どこにいるの――?
地の利と大掛かりな仕掛けに頼りきっていたせいか、勝負は意外なほどあっさりとついた。
もっとも、偽者に倒されるようでは本物の価値はない。
「……あのねぇ、ニセモノ騙るにしても、もうちょっと名前選んでよね」
そういう本物のヴァッシュの周囲で肩や手足を撃ち抜かれてうずくまっているのは、主犯格の金髪と赤いコートの男と、それから黒スーツの男たち。その一味を見ながら独りごちる。
「あーあ、ウルフウッド怒るだろーなー」
そりゃあ、一緒くたにされたら怒るか。
「このことは黙っててもらおう、うん」
ひとりうなずき、男たちの止血および捕縛をしていった。最後に赤コートの自称ヴァッシュに近づく。
腕を撃たれた痛みにうめいている男の傍らにしゃがみこむと、食いしばった歯の間から吐き捨てられた。
「さすがに、化け物、だな!」
「……うーん、久しぶりだねぇそう呼ばれるの。でも、そーゆーのの真似をしているキミもどうかと思うよ」
そう言いながらも手は止めない。
「――なんでッ、テメエは平気なんだ! あの部屋から正気で出てきた奴なんていねぇのに……」
「なん、だって?」
そういえばさっき落ちた部屋はやけに暗かったような……
「――そうか!」
メリルが独り残されている。
暗闇の中で。
ヴァッシュは駆け出した。
こわい こわい こわい
いいえ 怖くなんかないわ
――センパイ、さすがです すごいです
ありがとう これからも頑張りましょうね
――たよりにしているよ
――おねがいね
――たすかるよ
――メリルなら大丈夫だね
私は大丈夫 だからみっともなく泣いたり そんな弱々しいことはしないの
――メリルはしっかりしているから
私がしっかりしなくてどうするの みんなのためにしっかりしなくてはいけないわ
でも、 …………ここはどこ?
どのくらいここにいるの?
私はちゃんと立っているかしら? 両足の下に地面はあるのかしら? なんかふらふらして頼りないわ
たよりないメリルは メリルじゃない
じゃあ、 ここにいる私は、 だれ?
何もない 何もない なにもない
――君はひとりでも平気なんだね
ここには だれも ひとりもいない
私もここには いない
こんなわたしは メリル じゃないから
ここにいるわたしは ただのわたし
目をつぶって耳をふさいで 自分の心臓の音 ほら ちゃあんと動いている
もっとよく聞こえるように小さくなって
小さく 小さく ちいさくなって
ここに メリルはいない
ここに いる の は ただ の わ た し
「メリル!」
起伏のある床を何の躊躇もせずに走り抜ける。
常人よりも自分がよく「視える」ということを失念していた。これは自分の落ち度だ。
この星は明るい。太陽と月あわせて七つの天体が昼夜絶え間なく地上を照らす。新月の晩もここでは年に一度あるかないかだが、そのときは星々が代わりに夜空を飾るのだ。
だからこそここで生まれ育った人間たちは、本能的に暗闇を恐れる。文明が発達しにくいこの環境では人工的に作られた闇ほど人々の恐怖をあおるものはない。
「メリル!」
返事がない。気を失ってしまっているのだろうか。それならまだいい。心までが闇に捕りこまれてしまったとき、果たして自分は彼女を救えるのだろうか。彼女の、心を――
「返事をしてくれ、メリル!」
激しい焦りの衝動に突き動かされ、みたび声をあげる。
はるか昔に失った優しい笑顔がいくつも脳裏に浮かび、そして次々に過ぎ去っていった。
あのときのような喪失感は、もう要らない。
きっと今の自分は泣きそうな表情をしていると自覚しはじめたころ、その眼が彼女を捉えた。
闇の彼方、ひざを抱えて丸くなっている。
白い服をまとったそれは、卵か繭の中でじっと眠っている小さな生き物のようだ。
名を呼びながら駆け寄ると、怯えるように更にその身を縮ませた。手をとられるのを嫌い、何も聞きたくないとばかりに耳をふさぎ、いやいやと首を振る。
普段の彼女からは想像もつかないほどに緩慢な動きに胸が痛む。
しかし五感が失われているわけではない。彼女が拒んでいるのは自分を取り巻くもの。その中心にはまだ彼女が生き残っている。
いつも自分の足でしっかりと大地を踏みしめていた、誇り高い彼女が。
周囲の闇に溶かされまいとしているその姿を見て、ヴァッシュは決心した。
これ以上闇の世界には行かせない。
++++++++++
君の右手を離さない(5)
「 」
何か音がする。
そんなはずはない。何も聞こえないのだから。
「 」 ―――リル
ひどく間があいて、人の声のような気がした。
――ここにはだれもいない きこえるはずがない
「 」 ――メリル
――いや さわらないで
闇の中からのびてくるものを振り払う。しかししつこくまとわりつく『それ』は、彼女の手足を順に触ってゆく。
だが不思議と不快感はなかった。
その感覚の正体に考えが至る間もなく、強い力で拘束された。
――はなして
「………ね」
必死に突っぱねようとするが自分は弱くもがくばかりで、身体にかかるその力は衰えない。
「ごめんね……」
抱きしめる『腕』がやけにあたたかく感じられて、彼女は初めて自分の身体が冷え切っていることを知った。
「独りぼっちにさせて、ごめん」
――この声………?
あとになって内容が追いついてくる。この『腕』は何を謝っているのだろう。
「もう、ひとりにさせないから」
どこから聞こえるのだろう。
「俺が、いるから」
――おれ……?
この声は憶えている。「メリル」はこの声に何度も助けられた。
今のわたしも、助けてくれるのかしら―――
「ここに、いるから」
――ここ……?
再び腕の力が強まった。頭が温かい、固いものに押しつけられる。しかしそれは充分な弾力があり、彼女はそこから直接声を聞くことができた。
もっとそれを感じたくて意識をそこへ向けてみる。声に混じって自分のものとは違う鼓動が聞こえた。
―――――ここ に、 いる………!
彼女――メリル――はようやく自分を抱きしめる男の胸に身を任せることができた。
こわばりの解けた小さな身体を見おろし、男も緊張を解いた。どうやら一時的な閉塞状態は脱したようだ。あまり強引なこともできずに心配していたが、うまくいって良かった。これで戻らなかったらと考えると、背筋が凍る。
「……えっと、落ち着いた?」
恐る恐る声をかけると、小さい返事とうなずく気配があった。
「こえが、でな……」
長い緊張のせいで咽喉が嗄れてしまったのだろう。
「いいよ、喋らないで。とりあえずよかったよ、たいした怪我がなくて」
身体のほうは――と内心つけ足す。
「ごめんね、来るの遅くなって。こんなところに独りで怖かったでしょ」
すると、憮然とした声が返ってきた。
「そんなこと、ありませんでしたわ」
予想していたとおりの強気な反応にヴァッシュは嬉しくなった。凛とした彼女にまた会えるとわかっただけで涙が出そうになった。
「そっか。でもよかった。本当に、良かった」
普段どおりの君にまた会えて。
男があまりにも繰り返すので、その「良かった」がメリルにも伝染ってしまったようだ。
やっと自分を取り戻せたという実感が彼女を包んでいた。
まだ身体は少し震えているけれど、まだ目を開けるのにはためらいがあるけれど、ここにはこの人もいる。
確かに言ったのだ。ここにいる、と。
しかし、その声がいつの間にか湿り気を帯びているのには驚いた。この男の涙もろさを忘れていた。
それまで伝染してしまっては困る。手探りで顔を拭くものを探し始めたところで、くぐもった声がした。
「こんな暗いところで、ずっと独りで、」
その先は聞きたくない。言葉に呼ばれるように胸の奥から何かが湧き出す。
「よく、頑張ったね。我慢したね」
――だから、聞きたくなかったのに………!
表面張力ぎりぎりまで充満したそれは、あっという間に溢れ出した。
一瞬の呆然ののち、ヴァッシュはそっと苦笑した。声を殺して本人は隠しているつもりのようだが、こんなに身体を密着させていればいやでもわかる。
「泣いてたの、オレの方だったのに……」
逃げる身体を両腕で包みこむ。
「…やっ、見ないで……」
「大丈夫、誰も見やしない。こんなに暗くちゃ、見えないって」
相変わらずのつよがりに微笑がもれる。困ったことに自分はこの小柄な女性の抱え込んでいる矜持にすっかり、とことん、参ってしまっているらしい。
「ごめんね。オレもひどい男だよね」
女を待たせて、つらい思いをさせて、挙句の果てに泣かせて。
「許してくれなんて、言えないね」
だから代わりに。
決して顔を上げたがらない彼女の髪や背中をゆっくりなでてあげよう。
きっと泣くのには慣れていないから、その分思いきり泣かせてあげよう。
――そして、ひっそり願う。
その涙は俺が拭ってあげられるといいのだけれど。
メリルは悔しさと情けなさでいたたまれない思いで一杯だった。
あの闇の中では、全身が震えこそしたが泣くようなことなど何もなかったというのに、今の自分のこの弱さはどうだろう。
――ひどいひと……
この男のせいだ。この人があんなことを言うから……
――よくがんばったね……
それで自分はおかしくなったのだ。
悟られたくはないけれど、きっと自分のこの変化には気付いているのだろう。まるで子供をあやすかのように手が身体をなでている。
訳もなく悔しくて、拳で男の胸板をたたく。びくともしないからだが「痛いなぁ」と笑った。その反応がやけに嬉しかった。
そして、叩いたのと同じ手で彼の胸にすがり、メリルは初めて泣き声を漏らしたのだった。
この事件の事後処理には、当初の予想よりもはるかに日にちがかかってしまった。何しろ事情聴取よりも先に犯人達の治療が行われたのだ。
さすがにヴァッシュが彼らの命を奪うことはなかったのだが、一味のうち数人が出血多量のために重症となってしまった。
「あんた達ねえ、解決したんならしたって、早く言ってくんなきゃ。まったく、何ぐずぐずやってたの?」
要請を受けてやってきた初老の保安官は、肝心の参考人聴取よりも長い時間をかけて二人に小言を垂れた。
――何って、ねぇ……
事実からすればはぐれた仲間の捜索をしていただけなのだが、言葉を濁し困ったように視線を交わす男女の組み合わせに、その目は明らかに疑っていた。
「……ま、程々にな」
――ホドホドって何をだ……ッ!?
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