春潮
生まれる前から聞き慣れた波濤を全身で感じながら、少年は夜の海に対峙した。
柔らかな月光が、不安定なリズムで揺れる波間にきらきらと弾かれている。
時折、大きくうねる波が投げ出した裸足の足に海水の粒を投げかけた。初めはつま先に当たる程度だった波が、やがて足首を浸し始める。
その冷たさを感じながら、吹き付ける潮風に含まれた塩で固まってしまったかのように、少年は海から目が離せない。
それは世界でもっとも巨大な存在だった。
少年の凛としたかんばせは、まるで死人のように酷く青白い。
しばらくして、少年はようように立ち上がった。しかしその足取りは悪い酒でも煽ったかのようにおぼつかない。
そのまま着衣をばさばさと脱ぎ置いて、黒に染め抜かれそうなまでに真っ暗に色づいた海に、倒れこむように身を投じた。
生き返る。と、切に感じながら。
陸酔い。というけったいな病が重度だと感じるようになったのは最近だ。
幼い頃から薄々感づいてはいたが、まさかここまでひどくなるとはお頭、兵庫第一協栄丸でさえ予期していなかった。
「おめぇは、海子だからなぁ」そう語る、苦虫を噛みつぶしたような複雑な表情は忘れられそうにない。
黒い影が蠢くような海の底を適当に潜っていると、だいぶ気分も落ち着いた。いったん海面へと顔を出す。
「ぷ、はっ!」
いくら海水や潮風に洗われようと、みどりにあやなす豊かな黒髪を無造作に掻き上げて、身体を波に任せながら欠けたとこのない月をしばし眺めやった。
「………………」
陸に上がり、動かぬ大地を歩むたびに感じる、頭痛と、嘔吐感。
一言で表すなら、これは拒絶だ。と、少年は何遍となく巡らせた思考をもう一度繰り返した。
だからといって、この強大な海に受け入れられている。などという大それた実感を持つことなど、彼には出来ない話だった。
知らずにため息が漏れた。
「一人で夜間水泳たぁ、元気だな、蜉蝣!!」
「!?」
その漠然とした思考を打ち砕いたのは、本人にとっては普通にしゃべっているつもりでも脅しつけるようにとられてしまう胴間声。
「……っ!!うるせーよ、てめぇこそ何しに来やがった!!疾風!!」
驚きに躊躇したのは一瞬のことで、すでに条件反射のように口から言葉が飛び出してきた。
浜に目を送れば、先ほど自分が座り込んでいた辺りで仁王立ちでいる、同い年の相棒の姿。
その表情はよく分からなかったが、何となく「笑ってはないだろうな」と、蜉蝣には判断がついた。なんだかだ言っても、すでにそれなりの長いの付き合いである。
浅瀬に近づいてみると、疾風の手に持つものに気がついた。半身が出る程度の場所で立ち足になる。
「俺の服を返せ。こんのビビリ野郎」
「誰がビビリだ!けっ、褌一丁で水軍館まで帰りやがれ」
「何怒ってんだ、おめぇは。さては、幽霊にでも会ったか?」
「……んなわけねぇだろ!気味の悪ィぬれおなごならここにいるけどよ」
「それは俺のことか?あぁ!?」
ざぶざぶと波に押され押し返されそうになりつつも、疾風のもとに蜉蝣は近づいていく。
その間も二人の口げんかは止まらない。
「他に誰もいねぇだろうが。かー、綺麗なねぇちゃんなら、いくらバケモンでも目の保養にはなるんだがよぉ」
「抜かせ。その前にちびって、腰抜かすだろ」
「ああん!?もいっぺん言ってみろ!」
「何度でも言ってやらぁ。てゆうか、服返しやがれ!」
「さーて、どうしてやるかな?」
疾風ならともかく。と、他の兄役達から見れば驚くほどのの、蜉蝣の罵詈雑言の数々である。
このガラの悪い同僚の前では、礼儀も愛想も遙か彼方に吹っ飛ぶのである。蜉蝣も地はこちらである。言い合ってすっきりする。
海水が膝丈あたりまでになって、疾風の表情もやっと分かるようになった。
いつもと同じに笑っている。
「…………………」
何となく違和感にも似た苛立ちがある。それは蜉蝣自身気づかない程、小さなものだったが。
不意に、ピンっと常にない悪巧みが蜉蝣の脳裏に頭をもたげた。
失敗したところで別にたいしたこともない他愛ないものであるが、何となく仕掛けてみたくなった。
ざっと、距離やら何やらを目算する。
「--返さねぇなら、力ずくでってか?いいぜ。最近、暴れたりねぇみたいだしな」
足を止め、ガラの悪い笑みを深めて蜉蝣がそう言い放った。
いつになく好戦的な相棒の姿にやや驚きつつも、疾風も同じく笑う。
基本は、殴られたら殴り返す。そんな関係でここまで来たふたりであった。
蜉蝣が一歩足を踏み出す。ゆっくりと右の方へ。
そうすれば、疾風は一直線上に向かい合うために左に歩を進める。
読み通りだった。
このままいけば、あと3歩、2歩。
年相応のくだらないともいえるような喜びが、心を躍らせる。
そして、もう一歩。
ぐちゃ
「……あ?」
右足の踏み抜いた、海水とも、砂とも、泥とも言えない感触に疾風は眉をひそめた。
その瞬間。蜉蝣が爆笑した。
「ひっかかりやがったな、疾風!悪いが、さっきそこで吐いたんだよ、阿呆!!」
「なっ!!??」
それはつまり。
踏んだものの正体を理解した疾風の背を、寒気と痒みが混合したものが這い回り、全身が粟だった。
これは夜だったのが、幸なのか、不幸なのか。
「て、てめぇ、このオレにゲロ踏ませやがったのか!!」
ぶっ殺す!!と、顔を茹で蛸よろしく真っ赤にした疾風は、名の如しのスピードで蜉蝣に向かって駆けだした。
「はっはっは」
もちろん、蜉蝣とて名に恥じぬ動きでくるりと向きを変えると、魚のようにと形容するにはまだまだ未熟な泳ぎで水中へと逃げを打った。
その後を追って、疾風も海に。
「あ、てめ、服は置いとけよ!」
「うるせえ!」
邪魔になる蜉蝣の服を海面に投げ捨て、まだ発達途中の薄く筋肉の付いた細長い四肢を、精一杯伸ばして水中で追い掛け合う。
追う側たる疾風が服を着たままなので圧倒的不利ではあるが、蜉蝣も服が流されてしまうのはたまったものではない。
流されていた服を何とかすべてひっ掴み、本気で疾風がぶち切れる前に捕まってやることにした。
疾風に後ろから抱え込まれて、ごぽりと空気を吐き出す。そのまま、不安げに薄ら光る波間に浮上していく泡沫を、追うようにふたりで浮上した。
『っは!』
ごんっ!!
二人揃って大きく息を吸った直後、疾風が蜉蝣の背後を片手で捉えたまま、残る手で拳を落とした。
「汚ねーもん踏ませやがって!こん野郎!!」
「くっくっく」
「笑いすぎだ!!」
「はっはっ、悪っ……」
殴られた痛みなんかより、何だか非常におかしい。
憮然とした表情の疾風と対照的に、蜉蝣はなかなか笑いが収まらない。いつものふたりとは逆の構図である。
笑いすぎ故の涙が目尻にうっすらと浮かんでは、打ち寄せる海水に同化していく。
「……っ……は」
ようやく収まった笑いの発作の後に残ったのは海のように巨大で重い沈黙。
沈黙を厭う少年が、何かを言いたげに口を開くが、言いたい言葉はこの海水のようにするりと心の手をすり抜けていってしまう。
言葉を引っかけられずに、疾風は波にゆらゆらと揺られながら、知らず蜉蝣の後ろから回した腕に力を込めた。
「……………………」
背中に額をを押しつけられた感触があって、蜉蝣は僅かに振り返る。だが、俯いた疾風の表情は見えない。
「…………疾風?」
「るせぇ……陸酔い野郎」
背に張り付いた髪の毛に顔を埋め、もごもごと呟かれた言葉に蜉蝣は苦笑した。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……海で、生まれた子は陸酔いがひでぇんだとよ」
「?」
「この前、俺が15になった時、お頭が教えてくれたんだ」
「何をだよ」
「……俺の父は臨月の母を連れて、密航しようとしたらしい」
「…………!!」
ばっと、疾風は顔を上げる。すでに蜉蝣は正面を向いて、表情を見せてはくれなかった。
兵庫水軍内ではどれだけ近しい間柄であろうとも、過去を詮索することを良しとしない風潮がある。
それはふたりにとっても同じことで。
だから、初耳、だった。
話は静かに続いていった。
「俺が生まれて、ばれちまった。そのまま……」
ふっと、遠くを見るように、痛ましいように目を細める。
波濤の音に混じって、聞こえてくる赤ん坊の鉄火の泣き声。
「死んだか、いや殺されたか……」
あの、お頭の表情を見れば何となく予想が付いた。
女性を船に乗せるは禁忌。しかもお産には穢れが付きまとう。
「俺は流石に殺すに忍びなかったのか、船霊様が女性の神様だから赤ん坊を殺すのは縁起が悪かったのかもしれねぇが……生かされて、お頭に拾われた」
生粋の水軍育ち。そう、自負はある。
だがそれは決して誇らしいものではなかったのだ。
「………………」
背後で絶句する疾風に、蜉蝣はもう一度苦笑した。
「辛気くさい話だけどよ、いきなりだろ?それに、親の記憶がないと……悲しむに悲しめねぇとこもあるな……。もう、海が親みたいなものになっちまってるからよ」
だが、海はあまりにでかいから。と、蜉蝣は心中で続ける。
俺だけを愛するわけにも、怒るわけにも、許すわけにもいかない。
二度目の沈黙。
伸びかけの髪がべったりと皮膚に張り付いた感触、海水をたらふく吸った服の重さ、深夜の海の冷たさ、頬を撫でる微かな風。不安定な海の律動。
普段なら気にとめないことが、何故だか異様に確たる感覚でもって責めてくる。
「って」
突然、ぐいと、髪をひっぱられて眉をひそめる。蜉蝣が振り返ると、そこにはいつもと違う真面目な表情をした相棒がいた。
「………………蜉蝣」
「何だよ……っと」
引き寄せられて、今度は肩口に顔を埋められ面食らった。そんな蜉蝣に対して、唇を悔しそうに歪めて、疾風は言葉を絞り出す。
「…………ひとりで、勝手にいつもいつも、よぉ………この阿呆が」
その響きに、胸が痛くなるのを感じて、蜉蝣も僅かに俯いた。
「……すまねぇな……」
「オレのことなんてどうでもいいのかよ?」
「そんなわけないだろ!」
だが、あまりの的はずれの言葉に、ばっと体の向きを変えて蜉蝣は疾風を正面から見据えた。
その両の目は、いつもながらの海のような深さに、秘めた炎をまとっていて。疾風は思わずほっとした。
この目が好きだ、と思う。
常に自己完結をする嫌いのある相棒が、気分が悪くなったらここに来ることは知っていた。だが、声を掛けたことはなかった。
だが今日はいつもとは何かが違った。
不意に姿を消した相棒を追ってきたこの浜辺で、相棒はまるで魔物に魅入られたように海を見つめていた。
その姿がひどく危うくて、思わず声を掛けてしまったのだが。
オレは普段みたいに、うまく笑えていただろうか。
海の他に何も目に入らない、あの目は嫌でたまらねぇ。
頭が良くて冷静なのは蜉蝣。勘が良くて行動力があるのは疾風。いい組合せじゃないか。
だが、名前通りに生き急ぐ必要はねぇんだぞ、お前達は。
第一協栄丸の言葉が不意に思い出された。
勝ち喧嘩の最中に頬にでかい傷を作ったことを自慢したら、ぶん殴られた後に何でか蜉蝣と一緒に説教された。
その最後の締めの言葉である。
そのすで時に、ふたりの関係は決定されていたような気がした。
ごろつきどもの掃き溜めみてぇなとこで、明日をも知れぬ生活をしていた自分を拾ってくれたのはお頭で、こんな短気で喧嘩っ早い自分を諫めたのも、時折便乗したのも、この同い年の相棒。
たいそう扱いにくい馬鹿な餓鬼だったろうに。そんな自分の傍にずっといてくれたのだ。
頭はいいけど、どこか不器用な生き方をしている相棒の弱さをもっと知ってやりたい。
自分を救ってくれたように、出来ることなら救ってやりたい。とも、思う。
そしてなにより、ずっと一緒にいたい。いるだけでも、いい。
最後まで。
自分でも知らずに引き寄せるように抱きしめてしまった。蜉蝣が驚いたように、息を詰める。
だが、ぐっと回された腕に力が込められたのを感じて、困ったような顔はそのまま、微かに笑うようにふうと息を吐き出した。
服を持っていないほうの片手を回された腕に添えて、どこか切なげに蜉蝣は声を掛ける。
「……疾風……」
顔は上げずに、疾風は応えた。
「どこにも行くなよ」
「ん」
「…………一緒に、海でいきてぇなぁ…………」
「生く」とも「逝く」ともとれるその言葉。。
「ああ……一緒に、な」
たとえどちらでもあれ、コイツとならいいか。蜉蝣はそう思う。
生身の相手なら怖い者知らず。だが、実はすこぶる怪談話の類が苦手で、ひとりで夜の海に近づくのは出来る限り遠慮している相棒がここにいることで、充分ではないか。
親代わりの海はあまりにでかくて、自分ひとりに関わってはいられない。
だから。
愛されたいのよ、ただひとりに。
怒って欲しいんだ、ただひとりに。
こんな愚かな自分を許して欲しい。
ただ、ひとりに。
3度目の沈黙は、とても心地よいもので。
不安定な波の音でさえ、柔らかな子守歌に聞こえてくる。
沈黙を破って、最初に口を開いたのは蜉蝣であった。
「……そろそろ戻るか……」
「だいぶ、流されたしなぁ……」
にっと、疾風が先ほどまでの重い空気を吹き飛ばすように笑った。
「競争しねぇか。勝った方がこの服の洗濯だ」
言うが早いか、笑い声をひとつ残してざぶんと水中に消える。
「いよしっ!!」
蜉蝣も笑って、手に持つ服を適当に身体に巻き付け、今度は追う側となって疾風の後に続く。
15の春であった。
生まれる前から聞き慣れた波濤を全身で感じながら、少年は夜の海に対峙した。
柔らかな月光が、不安定なリズムで揺れる波間にきらきらと弾かれている。
時折、大きくうねる波が投げ出した裸足の足に海水の粒を投げかけた。初めはつま先に当たる程度だった波が、やがて足首を浸し始める。
その冷たさを感じながら、吹き付ける潮風に含まれた塩で固まってしまったかのように、少年は海から目が離せない。
それは世界でもっとも巨大な存在だった。
少年の凛としたかんばせは、まるで死人のように酷く青白い。
しばらくして、少年はようように立ち上がった。しかしその足取りは悪い酒でも煽ったかのようにおぼつかない。
そのまま着衣をばさばさと脱ぎ置いて、黒に染め抜かれそうなまでに真っ暗に色づいた海に、倒れこむように身を投じた。
生き返る。と、切に感じながら。
陸酔い。というけったいな病が重度だと感じるようになったのは最近だ。
幼い頃から薄々感づいてはいたが、まさかここまでひどくなるとはお頭、兵庫第一協栄丸でさえ予期していなかった。
「おめぇは、海子だからなぁ」そう語る、苦虫を噛みつぶしたような複雑な表情は忘れられそうにない。
黒い影が蠢くような海の底を適当に潜っていると、だいぶ気分も落ち着いた。いったん海面へと顔を出す。
「ぷ、はっ!」
いくら海水や潮風に洗われようと、みどりにあやなす豊かな黒髪を無造作に掻き上げて、身体を波に任せながら欠けたとこのない月をしばし眺めやった。
「………………」
陸に上がり、動かぬ大地を歩むたびに感じる、頭痛と、嘔吐感。
一言で表すなら、これは拒絶だ。と、少年は何遍となく巡らせた思考をもう一度繰り返した。
だからといって、この強大な海に受け入れられている。などという大それた実感を持つことなど、彼には出来ない話だった。
知らずにため息が漏れた。
「一人で夜間水泳たぁ、元気だな、蜉蝣!!」
「!?」
その漠然とした思考を打ち砕いたのは、本人にとっては普通にしゃべっているつもりでも脅しつけるようにとられてしまう胴間声。
「……っ!!うるせーよ、てめぇこそ何しに来やがった!!疾風!!」
驚きに躊躇したのは一瞬のことで、すでに条件反射のように口から言葉が飛び出してきた。
浜に目を送れば、先ほど自分が座り込んでいた辺りで仁王立ちでいる、同い年の相棒の姿。
その表情はよく分からなかったが、何となく「笑ってはないだろうな」と、蜉蝣には判断がついた。なんだかだ言っても、すでにそれなりの長いの付き合いである。
浅瀬に近づいてみると、疾風の手に持つものに気がついた。半身が出る程度の場所で立ち足になる。
「俺の服を返せ。こんのビビリ野郎」
「誰がビビリだ!けっ、褌一丁で水軍館まで帰りやがれ」
「何怒ってんだ、おめぇは。さては、幽霊にでも会ったか?」
「……んなわけねぇだろ!気味の悪ィぬれおなごならここにいるけどよ」
「それは俺のことか?あぁ!?」
ざぶざぶと波に押され押し返されそうになりつつも、疾風のもとに蜉蝣は近づいていく。
その間も二人の口げんかは止まらない。
「他に誰もいねぇだろうが。かー、綺麗なねぇちゃんなら、いくらバケモンでも目の保養にはなるんだがよぉ」
「抜かせ。その前にちびって、腰抜かすだろ」
「ああん!?もいっぺん言ってみろ!」
「何度でも言ってやらぁ。てゆうか、服返しやがれ!」
「さーて、どうしてやるかな?」
疾風ならともかく。と、他の兄役達から見れば驚くほどのの、蜉蝣の罵詈雑言の数々である。
このガラの悪い同僚の前では、礼儀も愛想も遙か彼方に吹っ飛ぶのである。蜉蝣も地はこちらである。言い合ってすっきりする。
海水が膝丈あたりまでになって、疾風の表情もやっと分かるようになった。
いつもと同じに笑っている。
「…………………」
何となく違和感にも似た苛立ちがある。それは蜉蝣自身気づかない程、小さなものだったが。
不意に、ピンっと常にない悪巧みが蜉蝣の脳裏に頭をもたげた。
失敗したところで別にたいしたこともない他愛ないものであるが、何となく仕掛けてみたくなった。
ざっと、距離やら何やらを目算する。
「--返さねぇなら、力ずくでってか?いいぜ。最近、暴れたりねぇみたいだしな」
足を止め、ガラの悪い笑みを深めて蜉蝣がそう言い放った。
いつになく好戦的な相棒の姿にやや驚きつつも、疾風も同じく笑う。
基本は、殴られたら殴り返す。そんな関係でここまで来たふたりであった。
蜉蝣が一歩足を踏み出す。ゆっくりと右の方へ。
そうすれば、疾風は一直線上に向かい合うために左に歩を進める。
読み通りだった。
このままいけば、あと3歩、2歩。
年相応のくだらないともいえるような喜びが、心を躍らせる。
そして、もう一歩。
ぐちゃ
「……あ?」
右足の踏み抜いた、海水とも、砂とも、泥とも言えない感触に疾風は眉をひそめた。
その瞬間。蜉蝣が爆笑した。
「ひっかかりやがったな、疾風!悪いが、さっきそこで吐いたんだよ、阿呆!!」
「なっ!!??」
それはつまり。
踏んだものの正体を理解した疾風の背を、寒気と痒みが混合したものが這い回り、全身が粟だった。
これは夜だったのが、幸なのか、不幸なのか。
「て、てめぇ、このオレにゲロ踏ませやがったのか!!」
ぶっ殺す!!と、顔を茹で蛸よろしく真っ赤にした疾風は、名の如しのスピードで蜉蝣に向かって駆けだした。
「はっはっは」
もちろん、蜉蝣とて名に恥じぬ動きでくるりと向きを変えると、魚のようにと形容するにはまだまだ未熟な泳ぎで水中へと逃げを打った。
その後を追って、疾風も海に。
「あ、てめ、服は置いとけよ!」
「うるせえ!」
邪魔になる蜉蝣の服を海面に投げ捨て、まだ発達途中の薄く筋肉の付いた細長い四肢を、精一杯伸ばして水中で追い掛け合う。
追う側たる疾風が服を着たままなので圧倒的不利ではあるが、蜉蝣も服が流されてしまうのはたまったものではない。
流されていた服を何とかすべてひっ掴み、本気で疾風がぶち切れる前に捕まってやることにした。
疾風に後ろから抱え込まれて、ごぽりと空気を吐き出す。そのまま、不安げに薄ら光る波間に浮上していく泡沫を、追うようにふたりで浮上した。
『っは!』
ごんっ!!
二人揃って大きく息を吸った直後、疾風が蜉蝣の背後を片手で捉えたまま、残る手で拳を落とした。
「汚ねーもん踏ませやがって!こん野郎!!」
「くっくっく」
「笑いすぎだ!!」
「はっはっ、悪っ……」
殴られた痛みなんかより、何だか非常におかしい。
憮然とした表情の疾風と対照的に、蜉蝣はなかなか笑いが収まらない。いつものふたりとは逆の構図である。
笑いすぎ故の涙が目尻にうっすらと浮かんでは、打ち寄せる海水に同化していく。
「……っ……は」
ようやく収まった笑いの発作の後に残ったのは海のように巨大で重い沈黙。
沈黙を厭う少年が、何かを言いたげに口を開くが、言いたい言葉はこの海水のようにするりと心の手をすり抜けていってしまう。
言葉を引っかけられずに、疾風は波にゆらゆらと揺られながら、知らず蜉蝣の後ろから回した腕に力を込めた。
「……………………」
背中に額をを押しつけられた感触があって、蜉蝣は僅かに振り返る。だが、俯いた疾風の表情は見えない。
「…………疾風?」
「るせぇ……陸酔い野郎」
背に張り付いた髪の毛に顔を埋め、もごもごと呟かれた言葉に蜉蝣は苦笑した。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……海で、生まれた子は陸酔いがひでぇんだとよ」
「?」
「この前、俺が15になった時、お頭が教えてくれたんだ」
「何をだよ」
「……俺の父は臨月の母を連れて、密航しようとしたらしい」
「…………!!」
ばっと、疾風は顔を上げる。すでに蜉蝣は正面を向いて、表情を見せてはくれなかった。
兵庫水軍内ではどれだけ近しい間柄であろうとも、過去を詮索することを良しとしない風潮がある。
それはふたりにとっても同じことで。
だから、初耳、だった。
話は静かに続いていった。
「俺が生まれて、ばれちまった。そのまま……」
ふっと、遠くを見るように、痛ましいように目を細める。
波濤の音に混じって、聞こえてくる赤ん坊の鉄火の泣き声。
「死んだか、いや殺されたか……」
あの、お頭の表情を見れば何となく予想が付いた。
女性を船に乗せるは禁忌。しかもお産には穢れが付きまとう。
「俺は流石に殺すに忍びなかったのか、船霊様が女性の神様だから赤ん坊を殺すのは縁起が悪かったのかもしれねぇが……生かされて、お頭に拾われた」
生粋の水軍育ち。そう、自負はある。
だがそれは決して誇らしいものではなかったのだ。
「………………」
背後で絶句する疾風に、蜉蝣はもう一度苦笑した。
「辛気くさい話だけどよ、いきなりだろ?それに、親の記憶がないと……悲しむに悲しめねぇとこもあるな……。もう、海が親みたいなものになっちまってるからよ」
だが、海はあまりにでかいから。と、蜉蝣は心中で続ける。
俺だけを愛するわけにも、怒るわけにも、許すわけにもいかない。
二度目の沈黙。
伸びかけの髪がべったりと皮膚に張り付いた感触、海水をたらふく吸った服の重さ、深夜の海の冷たさ、頬を撫でる微かな風。不安定な海の律動。
普段なら気にとめないことが、何故だか異様に確たる感覚でもって責めてくる。
「って」
突然、ぐいと、髪をひっぱられて眉をひそめる。蜉蝣が振り返ると、そこにはいつもと違う真面目な表情をした相棒がいた。
「………………蜉蝣」
「何だよ……っと」
引き寄せられて、今度は肩口に顔を埋められ面食らった。そんな蜉蝣に対して、唇を悔しそうに歪めて、疾風は言葉を絞り出す。
「…………ひとりで、勝手にいつもいつも、よぉ………この阿呆が」
その響きに、胸が痛くなるのを感じて、蜉蝣も僅かに俯いた。
「……すまねぇな……」
「オレのことなんてどうでもいいのかよ?」
「そんなわけないだろ!」
だが、あまりの的はずれの言葉に、ばっと体の向きを変えて蜉蝣は疾風を正面から見据えた。
その両の目は、いつもながらの海のような深さに、秘めた炎をまとっていて。疾風は思わずほっとした。
この目が好きだ、と思う。
常に自己完結をする嫌いのある相棒が、気分が悪くなったらここに来ることは知っていた。だが、声を掛けたことはなかった。
だが今日はいつもとは何かが違った。
不意に姿を消した相棒を追ってきたこの浜辺で、相棒はまるで魔物に魅入られたように海を見つめていた。
その姿がひどく危うくて、思わず声を掛けてしまったのだが。
オレは普段みたいに、うまく笑えていただろうか。
海の他に何も目に入らない、あの目は嫌でたまらねぇ。
頭が良くて冷静なのは蜉蝣。勘が良くて行動力があるのは疾風。いい組合せじゃないか。
だが、名前通りに生き急ぐ必要はねぇんだぞ、お前達は。
第一協栄丸の言葉が不意に思い出された。
勝ち喧嘩の最中に頬にでかい傷を作ったことを自慢したら、ぶん殴られた後に何でか蜉蝣と一緒に説教された。
その最後の締めの言葉である。
そのすで時に、ふたりの関係は決定されていたような気がした。
ごろつきどもの掃き溜めみてぇなとこで、明日をも知れぬ生活をしていた自分を拾ってくれたのはお頭で、こんな短気で喧嘩っ早い自分を諫めたのも、時折便乗したのも、この同い年の相棒。
たいそう扱いにくい馬鹿な餓鬼だったろうに。そんな自分の傍にずっといてくれたのだ。
頭はいいけど、どこか不器用な生き方をしている相棒の弱さをもっと知ってやりたい。
自分を救ってくれたように、出来ることなら救ってやりたい。とも、思う。
そしてなにより、ずっと一緒にいたい。いるだけでも、いい。
最後まで。
自分でも知らずに引き寄せるように抱きしめてしまった。蜉蝣が驚いたように、息を詰める。
だが、ぐっと回された腕に力が込められたのを感じて、困ったような顔はそのまま、微かに笑うようにふうと息を吐き出した。
服を持っていないほうの片手を回された腕に添えて、どこか切なげに蜉蝣は声を掛ける。
「……疾風……」
顔は上げずに、疾風は応えた。
「どこにも行くなよ」
「ん」
「…………一緒に、海でいきてぇなぁ…………」
「生く」とも「逝く」ともとれるその言葉。。
「ああ……一緒に、な」
たとえどちらでもあれ、コイツとならいいか。蜉蝣はそう思う。
生身の相手なら怖い者知らず。だが、実はすこぶる怪談話の類が苦手で、ひとりで夜の海に近づくのは出来る限り遠慮している相棒がここにいることで、充分ではないか。
親代わりの海はあまりにでかくて、自分ひとりに関わってはいられない。
だから。
愛されたいのよ、ただひとりに。
怒って欲しいんだ、ただひとりに。
こんな愚かな自分を許して欲しい。
ただ、ひとりに。
3度目の沈黙は、とても心地よいもので。
不安定な波の音でさえ、柔らかな子守歌に聞こえてくる。
沈黙を破って、最初に口を開いたのは蜉蝣であった。
「……そろそろ戻るか……」
「だいぶ、流されたしなぁ……」
にっと、疾風が先ほどまでの重い空気を吹き飛ばすように笑った。
「競争しねぇか。勝った方がこの服の洗濯だ」
言うが早いか、笑い声をひとつ残してざぶんと水中に消える。
「いよしっ!!」
蜉蝣も笑って、手に持つ服を適当に身体に巻き付け、今度は追う側となって疾風の後に続く。
15の春であった。
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冗談
夜の波浪が静かに打ち寄せる浜辺に、その館は鎮座している。
昼の喧噪はどこへやら、ひっそりと佇むそこには、潮の香る海の猛者たちが暫しの休息とばかりに体を休めていた。
そんな水軍館の一角に、今なお薄明かりが灯っている。月明かりとはまた別に、炎が緩くちろちろと揺れる。
年若い水夫らが雑魚寝するその部屋には、太い蝋燭が立てられ、男たちが取り囲むように車座になって座っていた。
一様に興奮した顔を向ける先には、年長の義丸がいる。秀麗な面差しに薄い笑みを浮かべ語るは、猥談。
昼間出会った廓の女たち。
遊女、芸娼。
襞が、肉芽が、花びらがと、次々と紡ぎ出される薄い唇に、ごくりと唾を飲み込んだのは誰だったか。
頬を赤く染め、乾いた唇を一舐めしたのは誰だったか。
蝋燭の下でなお赤い髪を掻き上げる。
殊更声をひそめ、コトの内容に差し掛かろうとした時。
義丸の頭に硬い枕が投げつけられた。
「アペケシオカナー!!」
突如入った邪魔に、幾つかの溜息が重なった。
「……なんだよ、網問」
お子さまは寝てろよ、と茶化す義丸を、網問は睨み付ける。
「寝れないよ!!」
赤い顔で憤然と怒鳴る。「五月蝿くて寝れない!!」
「寝てるヤツ、いるぞ」
間切が顎をしゃくるその先には、喧噪の中寝こける東南風の姿がある。
「東南風は特別なの!一旦寝たら起きないんだから!!」
確かに、一度「う」だか「む」だか分からない唸り声をあげたものの、一向に目を覚ます気配はない。
目を潤ませながら地団駄を踏む網問に、周囲から笑いが漏れる。
「他の部屋に行きゃあいいじゃねぇか」
意地悪そうに、義丸が唇を持ち上げる。
「オレの部屋はここなの!義兄の部屋はここじゃないだろ!!」
体の横で握った拳を振るわせながら、網問が大声を出す。
確かに義丸の部屋は別であるが、そもそもが陸にいるときに、館に寝泊まりするような男ではない。
水軍の厳しい掟をかいくぐり、今日はこっち明日はあっちと紅と白粉の香を振りまきながら泊まり歩くのが常なのだ。
今日は珍しく館にいる。
理由はと言えば、その赤髪に隠れた頬に紅葉跡を見たという水夫の証言から、大体の見当はつく。
周囲では、今夜はお開きと悟ったのか水夫たちが布団に潜り始めた。
「ったく五月蝿ぇなー」
癖の強い髪を掻き上げる義丸の口調に、反省の色は全く見られない。
「……んーっも、いいよっ!!」
捨て台詞を吐き、網問が部屋を出ていく。どすどすと、足音が廊下を遠ざかる。
「ありゃ」
ホントに出ていきやがった、と義丸が呟く。
「ガキだな」
真顔で言い放った重に、「お前もだろ」と隣から的確なツッコミが入る。
舳丸に突っかかる重を横目にしつつ、間切が義丸に顔を寄せた。
「いいんスか、兄貴」
「何がだ?」
皿の底に残った肴を口に入れながら、義丸が応じる。
「アイツ、網問の奴、最近チクる事覚えたんスよ」
はぁ?と顔をしかめる。
「チクるって、誰に」
「もう、遅いみたいッス」
間切が、入り口に目を向ける。つられて振り向いた義丸の耳にも、明らかに一人でない足音が聞こえる。
「おいおいおい。誰だよ」
「……機嫌、悪かったッスよ。陸酔いが酷くて、酒呑めなかったみたいッスから」
ご愁傷様です、と真面目に言い放つと、間切は布団を端に寄せそそくさと潜り込んだ。
同時に、障子が乱暴に開けられた。
そちらを向かなくてもひしひしと伝わってくる不機嫌オーラに、
舳丸に覆い被さってじゃれていた重が恐る恐る振り向く。
「げ」
その場に居合わせた全員を代表し、端的にだが的確に感想を漏らした。
途端に、独眼に射竦められる。
「…か、蜉蝣兄ぃ……?」
薄笑いを顔に貼り付け、義丸が声をかけた。
眉間に皺を寄せ、こめかみを引きつらせた蜉蝣は、どうみても機嫌が悪かった。
への字に曲げられた口元が小刻みに震えている。
握られた両の拳は青筋が浮き出、ぎり、と今にも音がしそうである。
彼の後ろからは網問が顔を出し、にやりと笑う。
「………五月蝿ぇんだよ」
蜉蝣がぼそり、と呟く。
射竦められたまま固まっていた重を、航と舳丸がそっと壁際に引きずった。
「……たまにしかねぇ休みなのによぉ、気持ち悪ぃわ酒は飲めねぇわ、さっさと寝ちまおうとすりゃあ寝れねぇわ、
ようやく寝れそうになった途端に大声で目が覚めて、喧しい足音が聞こえたと思ったら網問が入ってきて、
きゃんきゃん喚く。吐き気はするし、頭は痛ぇ。はっきり言って、俺は今すこぶる機嫌が悪いんだ………
………吐くぞこらあ!!!!」
「うわっ!!兄貴!それだけは勘弁!!」
義丸が頭を抱える。
陸酔いと興奮で、蜉蝣の顔色は酷いものになっている。ゆらり、と義丸に近づく。
「……誰が、原因なんだ?」
「義兄ぃ!義兄ぃ!!」
蜉蝣の後ろから、網問が指をさす。
「喚くなっ!!頭に響く!!!」
途端に怒鳴られ、「ひゃっ」と悲鳴をあげた網問が壁際に避難する。
自分の声が響いたのか、頭を抱えた蜉蝣が指の間からぎろりと義丸を睨み付けた。
「や、やだなぁ兄貴……冗談ですってば」
ひく、と顔を引きつらせながら義丸が後じさる。とん、と背中が壁に当たった。
「………冗談、だと?」
蜉蝣が血走った片目を向けた。
「冗談じゃねぇっ!!!!!」
ばきっ!!!!!
頭のど真ん中、その赤髪の頂点に拳がめり込んだ。
「うぐぇ」
蛙が潰れたような悲惨な呻き声を漏らしたのは、予想に反して蜉蝣本人だった。
両手で口元を覆うと、じりじりと後じさる。
真っ青な顔から脂汗が滴り落ちた。
凄まじい形相のまま部屋を出ると、途端に「おうぇぇぇぇぇ」と世にも恐ろしい声が聞こえた。
「相討ち」
ぼそ、と間切が呟く。
「って言うのか?」
舳丸が冷静にツッコんでいる横で、義丸はというと頭を抱えてうずくまっていた。
日夜鍛え上げられているその拳で、その腕の限りで殴られた衝撃により、視界が定まらず、
足が立たない状態である。
「大丈夫ですか」
「………てぇ」
航の問いかけに、微かに義丸が応えた。
「痛ぇ」とも「酷ぇ」とも取れる呟きに、笑い声が返った。
「疾風兄ぃ」
「災難だったな、ヨシ」
廊下から顔を覗かせたのは疾風である。
台詞とは裏腹に、その視線は明らかに楽しんでいる。
にやにやと部屋を見回すと、網問に視線を向けた。
「網問」
と呼ぶ。
「はい?」
「片づけとけよ、廊下のドバァー」
「え?えええええーーー!!!」
途端にあがる不満の声に、苦笑する。
「お前も関わってんだろ?そのぐらいしろ」
「………ちぇー。……………ミヨー」
着物を網問に握られ、舳丸は溜息を吐いた。
諦めたようにはいはい、と頷く。
「………分かったよ。後で手伝ってやるから」
「ホント甘いよなーミヨ」
口を尖らせる重のわきを、疾風がすり抜ける。
寝間着の裾を豪快に開き、座り込んだ。
「口が滑ったな、ヨシ」
「え?」
義丸が充血した瞳を上げる。
疾風が、ざり、と髭を撫でた。
「アイツな、冗談が大ッ嫌ぇなんだ」
「蜉蝣兄ぃが、ですか?」
航が尋ねる。
それに無言で頷くと、疾風は口を開いた。
「俺も前に怒鳴られた。『そういう冗談は二度と聞きたくねぇ』ってな」
「何言ったんスか?」
いつの間にか、間切がにじり寄って来る。
考え込むように黙った疾風に、視線が集まる。
「アイツに、告白した時だ」
一瞬にして、部屋が沈黙に満ちた。東南風の寝息だけがやけに大きく聞こえた。
「こ………」
思いも寄らぬ言葉に、さすがの義丸も口を開いたまま絶句する。
「告白って、あの、告白っスよね」
意外にも、一番先に言葉を発したのは間切だった。
「あの、ってどの告白だよ」
疾風が顎を撫で苦笑する。
「『好きだ』とか、『愛してる』とか」
真顔で疾風に応じる彼の横で、重が「うげ」と声を漏らす。
「…んな事言うわけねぇだろ」
疾風はにやりと笑う。周囲から、ほ、と溜息が零れた。
「『抱かせろ』っつっただけだ」
「だ……抱かせ…」
疾風に集まった瞳が、一斉に見開かれた。
「……想像出来ない」
ぼそ、と間切が呟く。
途端に双方向から「想像させんなっ!!」と噛みつかれる。
おそらく全員の頭の中にはモザイクをかけずにはいられないモノが溢れかえっていることだろう。
「想像出来ない?じゃあ俺が抱かれるのかもしれん」
「「「そういう問題じゃありませんっ!!!」」」
とうとう涙目で頭を抱えた重を、舳丸が連れ出す。
「俺たちあっちで寝ますんで」
舳丸が網問を手招きする。
当然一緒に行くと思ったが、網問はきょとんと目をしばたいた。
「オレここにいるよ」
楽しーもん、と笑う網問は意外や意外、頭の中のモザイクにまったく動じていないようだ。
うむうむ、と頷いた間切が、頭を撫でる。
「ね、疾風兄ぃ」
目を輝かせつつ、網問が口を開いた。
「なんだ?」
「蜉蝣兄ぃは、疾風兄ぃが嫌いなの?」
思わぬ質問に、顎を撫でている手が止まる。
「……んな事ぁねぇと思うけどよ」
「じゃあ、何でフラれたの?」
「……あいつは冗談が嫌ぇで、俺が『抱かせろ』っつったのも冗談だと思って、だからか?
いやそもそも俺がそういうことを言う事自体があいつにとっては冗談みてぇなもんで……」
「じゃあ、じゃあさ!」
網問がしかめ面をする。
「疾風兄ぃは冗談で言ったの!?」
「俺は……」
疾風は虚空を睨んだ。
「本気だ」
に、と網問が笑った。
「じゃあ、そう言えばいいんだよ!!」
しん、とする部屋の中で、疾風は瞬きをゆっくり三回した。
「……それもそうか」
何度か頷くと、すっくと立ち上がる。
思案するような表情のまま、部屋を出ていく。
「行ってらっしゃーい!!」
嬉しげにぶんぶん手を振る網問の後ろで、すっかり固まっていた航らが顔を見合わせた。
「そんな単純なことだったのか?」
「なかなかやるな、網問」
「………面白くなってきたな」
三者三様な感想を聞き、舳丸は足元を見た。
話の内容が処理できる限度を超えたのか、頭の中がすっかりパンクした重がぐったりと潰れている。
溜息を吐いた。
「……なんだかなー」
一番まともと言える意見を呟いたものの、賛同のかわりに聞こえたのは、東南風の
「ぶふ」
といううなり声だけであった。
冗談(裏)
「蜉蝣」
入るぞ、という声と共に障子が開けられる。
蜉蝣は、げんなりとした顔を向けた。
ひどい陸酔いに悩まされている彼は、だが先程吐いたことで少し楽になったのか、意外と良い顔色をしていた。
「何の用だ」
ゆっくりと床から身体を起こすと、蜉蝣は髪の毛を掻き上げた。
顔に似合わないさらりとした髪が、指の隙間から零れた。
「疾風」
何も言わない相棒を、蜉蝣は独眼で見つめる。
首を傾げたと同時に頭痛がしたのか、一瞬眉をひそめた。
「……なあ、蜉」
酒の席でしか口にしない呼び名を呟き、疾風が蜉蝣の前に膝をついた。
いつも髭の下に貼り付けている、にやりとした笑みが消えている。
間近で見るその顔に、どうした、と問いかけた蜉蝣の台詞が途切れた。
唇に触れる温かい感覚と、何よりも目の前にある良く焼けた肌が、混乱した頭に飛び込んできた。
それは髭と髭が触れる程度の軽い接吻だった。
「抱かせてくれ、蜉」
目を見開いたまま固まった蜉蝣に、疾風が口を開いた。
乾ききった舌で唇を一舐めすると、塩辛い味がする。
「お前を、抱かせ…」
「それ以上言うな!!!」
疾風の台詞を遮り、蜉蝣が怒鳴った。
胸ぐらを掴むと、壁に叩きつける。
「そういう冗談は……!」
「冗談じゃねぇ!!」
噛みつくように怒鳴ると、蜉蝣がたじろいだ。
力が弱まった一瞬の隙に、疾風は逆に蜉蝣を壁に押しつけた。
「俺は……」
目の前を睨め付ける。
ぎり、と蜉蝣の肩を握りしめた。
息を吸った。
「本気だ」
蜉蝣の顔が、見られなかった。
はは、と乾いた笑いを漏らすと、疾風は蜉蝣から手を離した。
腰が抜けたように、ずる、と座り込む。
「言っちまった」
自嘲の笑みが零れる。
何かしゃべっていなければ潰されてしまうような沈黙に囲まれる。
「悪かった」
静寂を破る声に、疾風が顔をあげた。
蜉蝣が、少し照れたように頬を掻いている。
「冗談とか言って、悪かった」
「お…おう。分かればいいんだ…」
「本気なら、俺も本気で考えるべきか」
「あ…ああ。そうしてくれると助かる…」
頭の中に、網問の脳天気な笑いが浮かんだ。
何だよ、何なんだよ。
「別に、お前の事は嫌いじゃねぇ」
「そ…そうか。それは、良かった…」
網問の笑みが一段と大きくなった気がした。
「て事は好きなのか」
「そ…そうなんじゃねぇの」
おい、ちょっと待て。
「好きなら別に、接吻くらいするか」
本当に
「一緒に寝ても構わねぇよな」
こんなに、簡単に。
「けどよ。抱かれるってのは頂けねぇ」
「………は」
頭の中を占領していた網問の笑みが、ぱちんと弾けた。
「俺が抱けばいいんじゃねぇか」
耳に入ってきた蜉蝣の言葉を、理解するのにずいぶんと時間がかかったような気がした。
「俺が………だ、抱、抱かれ……!!!?」
酸欠の魚のように、口を開け閉めする疾風に、蜉蝣がずいと近寄る。
首を抱くと、そのまま唇を押しつけた。
「……っん……!!」
疾風の視界がぐるっと回った。天井が目に入り、自分が床に寝ころんでいると分かる。
否、押し倒されたと。
「…蜉っ……」
抗議の声は、蜉蝣の唇で塞がれた。
唇が擦れ合う。
髭を食(は)むようにくわえられる。弄ぶように何度か引っ張られた後、ぺろりと舐められた。
髭を、頬を、顎を、そして唇を。
「舌、出せ」
は、と疑問符の浮かんだ疾風に、蜉蝣は舌を突き出す。
「こうしろ」
つられて舌を出すと、蜉蝣が顔を重ねた。
舌と舌がふれあう。身体に電気が走った。
蜉蝣に舌を吸われ、疾風は堅く目を閉じた。
次第に荒くなる呼吸に、蜉蝣の熱い息が混じる。
首筋に吐息を感じ、疾風は蜉蝣の頭を抱えた。
首筋を、蜉蝣の唇が撫でる。
愛おしむように何度か上下すると、熱い舌が這う。
「………ん…ふ」
疾風の口から、絞り出すような声が漏れる。
蜉蝣は、首筋に口付けたまま、手を這わせた。
寝間着の帯を引っ張ると、それは頼りなく解ける。
隆々とした腹筋に指を沿わせると、波打つように反応する。
下帯に手をかけると、慌てたように疾風が抵抗した。
「ちょ…と待て……っ」
「待たん」
ちゅ、と音をたてて首を吸い上げる。疾風の手が力を失う。
蜉蝣は下帯の隙間から、手を差し入れた。
身体の、下へと。
「…か・蜉っ!」
同時に、足の間に腰を割り込ませる。
浮いた尻の方へ、指を一本潜り込ませた。
「やめ…そこは無理だぁっ!!」
疾風が抗議するその場所を探り当てる。
堅く閉じたその場所に、指をあてがう。
「無理だっ!!」
撫でさするような動きに、疾風が呻く。
周囲を優しく揉みほぐす。
「……気持ち悪ぃ…!」
刺激を受け、その場所が律動し始める。
蜉蝣の指を、飲み込もうとするかのような動き。
生理的なその動きに合わせ、蜉蝣が指を挿し進めた。
つ、と先端が潜る。
「うあ……っ」
異物感に、疾風が仰け反る。
だが、一旦侵入を許すと、奥へ奥へと誘導するかのような顫動が指を誘う。
「も……やめろっ!」
疾風が息を吐いた瞬間、蜉蝣の動きがピタ、と止まった。
首筋から、顔が離れる。
「……蜉…?」
「………すまん」
呻くようにそういうと、指を引き抜き猛然と廊下へ走り出した。
「おうえぇぇぇぇぇぇ」
聞き慣れたその声に、疾風が顔を引きつらせた。
「陸酔い、かよ」
ふらふらと部屋に戻って来るなり、蜉蝣は布団に倒れ込んだ。相変わらず青い顔をしている。
「蜉」
「…………すまん」
「いつものこった」
「…………情けねぇ」
布団に顔を埋めた蜉蝣の頭を、疾風がぽん、と叩く。
「ホント、情けねぇな」
「…………畜生」
心底悔しそうな蜉蝣の声に、疾風は笑いを噛み殺した。
ほっとしてはいるが、少しだけ残念な気もする。
「仕方ねぇな」
蜉蝣の隣に寝ころぶ。
耳元に顔を寄せた。
「再戦は、舟の上だな」
蜉蝣が、隈の浮かんだ目を向けた。
「………いいのか」
にやり、と疾風が笑う。
「ただし、俺が上でな」
「……どうかな」
ふん、と笑う蜉蝣の横で、疾風は目を瞑った。
甲板で嗅ぐ潮の匂いと、同じ香りに包まれながら。
塩辛い、唇に口付けられて。
<了>
いいわけ(とゆーかなんとゆーかfor柚月サマ)
……お腹いっぱい。
どどど・どうでしょう……(滝汗)
蜉疾になってますかねー;;;
ごめんなさい蜉蝣ヘタレで。
ヘタレ攻めバンザーイ(え)
そしてリバ有りな終わり方ですみません(汗)
リバ有りバンザーイ(afo)
何やら馬鹿っぽい蜉蝣さんでしたが、蜉蝣さんは馬鹿ではありません(当たり前だっ)
素直なだけなんですvv
初めてのリクエスト小説でした。
本当に遅くなって申し訳ないです…。
これに懲りずに、蜉疾もしくは疾蜉を広めて行きましょうっ!!!ねっ!!!!!(勝手にがしっ)
すいませんすいませんごめんなさい。
.風邪(アルベルトとサニーちゃん)
クシュン、と小さなくしゃみが聞こえた。
隣を見れば、幼い娘は鼻の頭を赤くしている。
今日はもう屋敷に戻るか、と問えば、
その小さな手で儂の服の裾を掴み、いやいやと首を振る。
普段聞き分けの良い娘に我儘を言わせるものは何なのか。
春になったらまた連れて来てやろう、と頭に手を置くと、
今度はうれしそうに服の裾に頬を寄せる。
少々歩きづらいのでその身体を抱き上げてやると、
頬まで赤くなったサニーの笑顔があった。
クシュン、と小さなくしゃみが聞こえた。
隣を見れば、幼い娘は鼻の頭を赤くしている。
今日はもう屋敷に戻るか、と問えば、
その小さな手で儂の服の裾を掴み、いやいやと首を振る。
普段聞き分けの良い娘に我儘を言わせるものは何なのか。
春になったらまた連れて来てやろう、と頭に手を置くと、
今度はうれしそうに服の裾に頬を寄せる。
少々歩きづらいのでその身体を抱き上げてやると、
頬まで赤くなったサニーの笑顔があった。
2日目 まじない(盟友とサニーちゃん)
小さな手が顔を押さえつけたと思ったら、コツン、と額を儂の額に当てた。
何事かと思っていると、小さく何かを呟く声。
やっと顔を離した娘に何の真似かと尋ねれば、
「おまじない。」と一言答えた。
そうか、と返すと、嬉しそうに微笑む。
あ、いいなーアルベルト。
そう言ったセルバンテスが「私にはー?」と顔を寄せたので、
お前にはこれで充分だ、と、額を指で弾いてやった。
小さな手が顔を押さえつけたと思ったら、コツン、と額を儂の額に当てた。
何事かと思っていると、小さく何かを呟く声。
やっと顔を離した娘に何の真似かと尋ねれば、
「おまじない。」と一言答えた。
そうか、と返すと、嬉しそうに微笑む。
あ、いいなーアルベルト。
そう言ったセルバンテスが「私にはー?」と顔を寄せたので、
お前にはこれで充分だ、と、額を指で弾いてやった。
20日目 十年後(サニーちゃんとヒィッツ)
十年先が楽しみだねぇ、と、セルバンテスおじ様は笑った。
十年経ったらさぞ美しくなるだろう、と、樊瑞おじ様は微笑んだ。
十年先なぞ解らぬわ、と、お父様は顔を顰めた。
鏡を覗き込むと、いつもと変わらない私がいる。
いつもと変わらないのに、少しだけ暗い顔の私がいる。
十年後には、お嬢ちゃんは今よりもっと素敵なレディーだな。
そう言って、ヒィッツ様は小指にキスをくれた。
いつもと変わらないのに、ほんの少しうれしかった。
十年先が楽しみだねぇ、と、セルバンテスおじ様は笑った。
十年経ったらさぞ美しくなるだろう、と、樊瑞おじ様は微笑んだ。
十年先なぞ解らぬわ、と、お父様は顔を顰めた。
鏡を覗き込むと、いつもと変わらない私がいる。
いつもと変わらないのに、少しだけ暗い顔の私がいる。
十年後には、お嬢ちゃんは今よりもっと素敵なレディーだな。
そう言って、ヒィッツ様は小指にキスをくれた。
いつもと変わらないのに、ほんの少しうれしかった。