「おじ様、いらっしゃいますか?」
こんこん、という軽いノックの音に、樊瑞は眼を覚ました。うっかりと机に突っ伏して寝入ってしまったらしい、腕の下で書類がくしゃくしゃになってしまっているのに、樊瑞は『拙い』と肩を竦める。こんな書類を提出すればあの潔癖症の策士がどんな顔をするか――。
書き直すか。そう潔く思い直すと、目を覚まさせてくれた相手に『うむ。居るぞ』と云ってぐしぐしと顎の辺りを擦った。
よだれや紙の痕など――残っていなければ良いのだが。
机の上をざっと片付け、序でに先月のままになっていた卓上カレンダーをべりっと捲る。
いかにも『周囲の状況を省みる間も無い程忙しいです』という格好では――彼女に気を使わせてしまうかもしれない。
『失礼します』と云いながら入って来た、一服の清涼剤のような存在に樊瑞は双眸を眇めた。
サニー・ザ・マジシャン。自らが後見人を務める少女。年若く(実際自分にこれくらいの娘がいても可笑しくない)愛らしい彼女はちょこん、と可愛らしく膝を折って足音を立てずにそっと自分の前に立った。
疲れが癒されるような笑顔だ、と思う。久し振りに見るとその想いも強い。
昨日まで遠方へ出張に出ていて、朝方に帰って来、そのまま報告書を作成していた身には――本当ならば雑談等はちょっと辛いものがあるのだが。
サニーならば。樊瑞もにこりと努めて柔らかく笑うと少女を出迎えた。
「お帰りなさいませ、おじ様。出張お疲れ様でした」
「うむ。長きの留守の間変わった事は無かったか?」
「ええ」
にこにこり。少女が笑っている。釣られて樊瑞も笑うのだが――さて、一体どうした事か。
何か用があってのおとないだろうに、一向にサニーは用件を切り出そうとはしない。
かと云って自分から促すのもまるで『早く帰れ』と云っているようで気が悪い。うーむ、と考え込んでいると『うふふ』とサニーが可愛らしく笑って、つ…と机を回り込み、樊瑞の真横に立つ。
「おじ様」
「な、何だ?」
「私――」
じっと見つめられて、何故か狼狽してしまう自分が情けない、とは思うものの、この純真その物の瞳で凝視されれば、大多数の人間が自分と同じ反応を示すだろう。あう、と根を上げながらサニーの言葉の続きを待つ――と。
「私、おじ様の事、大ッ嫌いですわ」
「――は?」
にっこり。笑顔の果てに落とされた言葉に、樊瑞は咄嗟に反応する事が出来なかった。
『大嫌い』…『大嫌い』って――とっても『嫌い』という意味の『大嫌い』なのか?
ぐるぐる、と頭の中で回る言葉に翻弄されていると、サニーが
「では、失礼致しますわね」
と云って軽やかに部屋を出て行く。
その背中を見送りながら何も云えず、樊瑞はただ呆然と立ち竦んでいた。
頭の中でひっきりなしに『何故?』を繰り返しながら。
◇◆◇
しかしいつまでも放心状態のままではいられない。
涙で霞む視界を拭いながら必死に報告書を仕上げ、樊瑞は執務室を出た。
この報告書を孔明に提出したら、ゆっくり寝よう。そしてもう一度サニーと話をしよう。
自分が気付かぬ間に何か仕出かして彼女を傷付けていたのなら――謝らねばならない。
笑顔にて『大嫌い』と云うなんて、彼女はどれ程の怒りを抱えていたのだろう。自分のショックはさて置き、サニーの心中を勝手に思いやれば申し訳なく思う気持ちが溢れてくる。
「サニー…」
未練がましくもぽつり、呟いてコンコンと孔明の執務室の扉を叩いた。
「はい」
中からの返事はいつもの如く不機嫌そうに――いや、いつもとは様子が違い、何故か妙に機嫌良く聞こえて、一瞬背筋をふるりと震わせながら中に入る。
と、其処には先客が来ていた。しかも、此処で顔を合わせるのは一番避けたい人物が。
「おお、じっ様もお出ででしたか」
「うむ。孔明に作戦概要を貰いに、な」
カワラザキが手にした書類をヒラヒラさせながらにこり、笑っていた。
『笑う』――?
あのカワラザキが孔明の部屋で笑っている、そのそぐわなさがますます樊瑞を怯えさせる。
一体此処で何が起こっているのだろう、と。
「ああ、樊瑞殿。報告書ですか。いつもながら手早い処理、本当に有難う御座います。1ヶ月間、お疲れ様に御座いました」
孔明もにこり、と笑って――笑って!――自分に手を差し伸べた。何か悪い物を食べたのだろうか。本心で心配しながら樊瑞は、それでも鉄壁の精神力で何とか平静を装い、彼に書類を手渡した。
「う、うむ…す、すまんな。少々紙がよれておる上に、若干悪筆なのだが――」
ぱらりと目の前で孔明が書類を捲るのに合わせ、樊瑞は自己申告をしておく。いつもならば書き直して持ってくるのだが、サニーショックにより今日ばかりはその気力もなかったので。
再提出かな、そう覚悟をしていると
「いえいえ、とんでもありません、樊瑞殿。実に完璧な報告書です。これくらいの事、大した事ではありませんよ。どうぞお気になさいますな」
再びの笑顔に、今度こそ樊瑞の背筋が凍りついた。
怖い、なんてもんじゃない。天変地異の前触れかもしれない。一体自分を放って、世界はどうなってしまったんだろう――ガタプルと震えていると、更に目の前で恐ろしい光景が繰り広げられる。
「ではカワラザキ殿、こちらをお持ち下さい。本来ならば私が足を運ばねばならぬところ、わざわざお出で頂きまして申し訳御座いません」
「いやいや、何を云うか孔明。お主は日頃より何かと忙しない身。このような事で時間を取らせるのも申し訳無いでな。気にするな」
「本当にカワラザキ殿はお心の深い――この孔明、感じいって言葉も御座いませんよ」
「なぁに、お主には敵わぬよ」
うふふ。ははは。笑い声が孔明とカワラザキの間で起こっている。労わり合う二人なんて構図は、とんでもない破壊力だった。
樊瑞は『関わりたく無い!』と心を決めると、挨拶も早々にその場を立ち去る。あの二人の間にどんな思惑があるのかは知らないが、狐と狸のバカし合いに付き合って、寿命を縮めるのはゴメンだと思いながら。
しかし、孔明の執務室を出たところで悪夢が覚める訳ではなかった。ちらりと寄ったラウンジでは、寄ると触ると小競り合いばかりのレッドとヒィッツカラルドがにこやかに談笑し(しかも美辞麗句を連ねているのではなく、本心から互いを称え合っているように聞こえた)、その光景に恐れをなして立ち去れば今度は廊下でイワンとローザが腕を組み、楽しげに歩いているのを発見してしまう。
どうなっているのだ。ほんの少しの転寝の間に、自分は異世界へと――普段と全く逆の感情で構成されている世界へと迷い込んでしまったのだろうか。
ほうほうの体で執務室へとこけつまろびつしつつ帰ると――そこには
「ざっ…残月っ…!」
表情の読めない彼を、これほど有り難く思った事があろうか。半ば縋り付くように樊瑞は残月に泣きついた。
「一体何が起こっておるのだっ!頼む、お主が誠に残月ならば――儂が誠に『儂』であるとするならば、状況を説明してくれ!!」
耐え切れない――確かにカワラザキ翁と孔明の仲の悪さ(勿論自分と孔明の場合も含める)、レッドとヒィッツカラルドの小競り合い、イワンとローザの確執、そういったものに自分は普段から心を痛めてきた。
けれど慣れとは恐ろしいもので、いざ願い通りに上手く纏まってしまうと――怖いのだ。
良い、今までのままで良い。だから平穏を返して欲しい。
ひーん、と泣き付くと、ふとマスクの美丈夫が空気を震わせた。
――笑っている、らしい。
「ざ…残月?」
「樊瑞…そう云えばお前はここ一月程留守にしていたのだったな」
くっくっ…と肩を揺らしながらぽむ、と宥めるように頭を撫でられ、樊瑞は戸惑いながらもやや安堵した。これは、間違いなく残月だ。様子に変わったところも見られない。
尤も、サニーもカワラザキも、最初は『変わっている』ようには見えなかったのだが。
「まぁ落ち着け、樊瑞。ゆっくりと深呼吸をしてから、今日が一体いつなのか思い出してみろ」
云われるままに樊瑞は深い呼吸を繰り返して――そして残月の『ヒント』通り、今日の日付を思い出す。先程カレンダーを捲ったばかりだから記憶に新しい。
今日は――4月の1日、だ。
――4月1日?
「……え…?」
「お前が作戦に出ている間にな、毎度の事ながらビッグファイア様からの下知が飛んだんだ。――あのクリスマスやヴァレンタインの大騒動の時と同じ様に、な」
「……何…?」
曰く、4月1日は全世界的に『嘘をつく日』に認定されている。我々BF団も、何れは世界征服をする身なれば、このような行事は進んで取り入れるべきだ――。あの主の云いように、誰が反対出来るだろうか。
BF団は、策士をも含め皆ペテンの集団と化し、お陰で樊瑞は、異世界に迷い込んだかのような混乱を来たしたのである。先程見た光景は、何もかもが嘘偽りだったのだ。
「万愚節…か……?」
「その通りだ」
これは『嘘』じゃないからな、と笑った残月に、安堵と脱力でへなへなと樊瑞は膝を折った。
良かった、嘘で。
十傑集のリーダーとしての矜持を保とう、と意識していなければ、きっと泣き崩れてしまったに違いない。両膝をぺたんと床につくという、今でも十分に情けない格好でほぅ…と息をついて樊瑞は、はっとある事に気付く。
サニーが自分に向かって『大嫌い』と云ったのは万愚節の一環だとすれば、彼女の気持ちは――。
「ざ、残月」
「何だ?」
「すまん、用件は後回しにしてくれ!儂は行かねばならん!!」
云うや否や、彼の用件も、序でに返事も聞かずに部屋を飛び出す。向かうはサニーの居室。
彼女の言葉が『嘘』だとすれば、彼女がその言葉に乗せて云いたかった感情は。
そして――自分は。
「サニー!!」
ばたんっ!とドアを蹴破らん勢いで開けると、樊瑞はずかずかと部屋に入っていった。
目当ての人物は窓際のロッキングチェアで本を読んでいる――。
「お…おじ様?どうなさいましたの?慌てて…」
「サニー!」
「きゃあっ!」
わしっ!と肩を掴んでぐいと彼女を引き寄せると、樊瑞は彼女の顔を無理矢理自分の胸に預けさせ、そして――云った。
「儂も…お前が『大嫌い』だぞ、サニー…」
「お…じ様…」
きゅう、と背中にサニーの腕が廻される。温もりがゆっくりと伝染してくる。
嘘で、本当に良かった。この幸せこそが『嘘』でなくて良かった。
何よりも自分を幸せにしてくれる存在が、自分を否定しているのでなくて、本当に良かった。
こんな少女に自分を委ねているという事実は少し情けなくもあるけれど。
でも情けなくて良い。感情を左右する程の大きな存在。それがすぐ傍らにあるという事。
その存在が自分と同じ気持ちでいてくれるという事。
矜持も、自尊心も、何もかもどうでも良くなる。
「…ふふっ…」
「……ははは…」
顔を起こし、眼と眼を見交わして――擽ったく眼を細めて二人は抱き合ったまま笑った。
少女の部屋の掛け時計が、軽やかなワルツを奏でながら正午を告げる。
おりしも窓の外ではほろほろと櫻のはなびらが、廻りながら散っていた。
まるで――二人と――世界と一緒にダンスをしているように。
◇◆◇
甚だしく余談ではあるのだが。
「…残月、これは?」
「孔明が持ってきた。一両日中に手直しして持ってこなかったら、必ずひどい目に合わせる、と云っていたぞ」
誤解が解け、機嫌良く執務室に戻った樊瑞を出迎えたのが、残月と――先刻『万愚節』中に孔明に提出した筈の、大量の報告書であった事は、云うまでも無い。
『万愚節』の期限は午前中だったな――そんな事を思い出しながら樊瑞は、書類のリライトに勤しむのであった。
■おわり■
2000HIT代替リクは相方さんから。樊サニでした。ちゃんと樊サニになっているかは謎です。
個人的ににこにこ策士様が書けて幸せだった一品。阿呆です…すみません。
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「昨夜、どんな夢を見ました?」
そんな楽しげな子供の声が聞こえて、ふと孔明は足を止めた。
年が明けた翌日、この時期にしては珍しくあたたかな陽射しが柔らかく射し込む午後の中庭、幼いと形容してもまだ足りないような、少年と少女が芝生に腰を掛けて語らっていた。
目出度い空気に包まれている本部に相応しいような、微笑ましい光景である。
「ええー?夢なんて覚えてませんわ。大作君は?」
「うーんと、実は僕も覚えてないんです。何か見たような気はするんですけど…」
かしかし、と頭を掻きながら少年の方、草間大作はぽよぽよとした眉を悲しげに寄せた。
「夢が、そんなに大事でしたの?」
少女、サニー・ザ・マジシャンが、何処かわくわくしたような顔つきになって、大作少年に問うている。
「はい、昨日見た夢は『初夢』って云って、日本ではその一年の吉凶を占う大事な夢だったんです」
年の割には古臭い事を知っている。
「あら…大変。どうしましょう、そんな大事な夢を忘れてしまったんですのね、私達」
見るからにしょげた風体で云って、サニーが泣き出しそうな顔つきになった。
夢の一つや二つでそれほど大騒ぎする事もあるまいに。
そもそも占いなど信用するにも値しないのに。
尤もその無邪気さが、子供が子供たる所以なのだろうが。
孔明はぷっ、と吹き出しそうになりながら、二人を見守っていた渡り廊下から足を踏み出した。
わざわざそんな事をしてやる必要など全く無かったのだが――それでも子供が悲しんでいるのを見過ごすのは何処か気分が悪い。
さく、と芝生を踏みしめると幼い瞳がくるん、と振り返って自分を見、にこっと細められたのを見ると、孔明も優雅に微笑み返した。
「ごきげんよう、お二方。仲良く日向ぼっこですかな?」
「ごきげんよう、孔明様」
「こんにちは、孔明さん」
二者二様の返答にもう一度軽く会釈をして、孔明はちょうど三角形の頂点に位置する場所にしゃがみ込む。
「盗み聞きをするつもりはなかったのですが…今大作君は『初夢』の話をなさっておいででは?」
「はい、そうです。あれ?孔明さん、初夢の事御存知なんですか?」
さも意外そうに大作が大きな瞳をくりくりとさせる。
それもそうだろう。
『初夢信仰』という概念は、日本に古くから伝わってはいるが他国ではそれ程浸透している訳ではない。
すぐ近くに在るとは云え、孔明の出身である香港は特に、遠い昔は英国に支配されていた土地柄、考え方も西洋的になりがちなところが多く、そのような習慣は確かになかった。
だが、本来の『本国』である中国には夢に関する習慣や信仰なら山のようにある。
尤も大作の発言はそれらの事を鑑みての物ではないだろうが。
「ええ、遠い昔に大学の先輩に伺った事があります」
にこりと微笑めば、子供達は素直に「へー」と感心した眼差しを送ってくれる。
「まぁ何故私がそれを知っているかはともかく。私が伺った『初夢』とは、元旦の夜…1日から2日の夜、という事ですが、つまり、今夜見る夢を初夢と称すのだと伺いましたが?」
その人は、他にも色々説があると教えてくれたのだが――少なくとも大作少年が認識していた『晦日の夜』から『元旦の朝』にかけて見る夢だ、という説は無かった筈だ。
そう告げると、みるみる子供達の表情が明るくなっていった。
「本当ですか?孔明さん!」
「本当ですわよね、孔明様。孔明様が嘘を仰る筈、ありませんもの」
いえいえ、サニー。嘘は山のように吐きますよ。
その言葉を飲み込んで、孔明は曖昧に微笑む。
自分が吐く嘘は、自分にとって得になったり有利に動く為の嘘で。
いたいけな子供を騙し、傷付ける為につく嘘は、何処にもない。
これが――相手が子供達ではなく、某混世魔王だったりすると話は別なのだが。
にこり、と再度念押しの為に微笑むと、子供たちは互いの顔を見合わせあって、とても嬉しそうに笑いあった。
こんな――素直な感情を、自分は子供だった時に晒しただろうか。
否、なかった。
自分が生きてきた世界は、欺瞞と懐疑心に満ちていて。
こんな風に明るく笑う事などなかった。
だから、だろうか。
他意なくその微笑を、存在を護ってやりたいと思えるのは。
「『宝船』を――知っておられるかな?大作君」
ふと、遠い昔のことを思い出したついでに、通りすがりの記憶が頭を過って、孔明はそう問うた。
「宝船、ですか?いいえ、知りません」
「彼の国では初夢を見る際に、宝船を描いて枕の下にいれておくと良い初夢を運ぶのだとか。初夢の話を聞いた折に、そのように申してらっしゃったのを今、思い出しました」
云って、孔明は内ポケットから矢立とスケジュール帖を取り出し、ぴっ!と白紙を一枚裂くとそこにさらさらと思い出した文言を書きつける。
『なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな』
「うわー、孔明さんて日本語もお上手ですねっ」
殆ど触れた事が無いだろう母国語の書付に、大作が瞳を輝かせた。
「これが『日本語』なんですの?どんな意味なんですか?孔明様」
「言葉遊びの一種ですよ。大作君にはお分かりでしょうが、これは上から読んでも下から読んでもまるっきり同じ文章になるのです。『回文』と呼ばれるのですが、何やら遠い昔に『長寿』に繋がると云われ、大層縁起のよいものだとされてきたそうですよ」
その書付を大作に渡してやると、少年は瞳を瞬かせ、懸命に何度か黙読していたようだったが、やがて意味を理解したのか『ああ!』と嬉しげに声をあげるとにっこり笑った。
「宝船の絵の横にその文言を書きつけておくと良い、とも、寝る前にその言葉を3度唱えると良い、とも云われているそうです」
片膝を突いた態勢からすっくと立ち上がると、孔明は子供達に向かって再度、にっこりと微笑んだ。
「良い夢が、見られると良いですね」
「っ!有難う御座いますっ!僕、お父さんに『宝船』描いてもらえるか聞いてみますっ!行こう、サニー」
「ええ。有難う御座いました、孔明様」
手と手を取りながら、子供達が元気に駆けてゆく。
転びはしないかと少し心配になったが、二人はよろけもせずにみるみる小さくなっていった。
それを見送って――
「本当に…無邪気で良いですねぇ、子供は」
クス、とそれこそ孔明の方が子供のような――邪気のない微笑を一つ、落とした。
◇◆◇
「やあ、孔明。夜分遅くに失礼するよ」
その夜。
そろそろ床につこうかと支度を整えた孔明の元に、大作少年の父、草間博士が不意に訪れた。
「…相も変わらず常識知らずな方ですねぇ、普通この時間なら誰か伺い立てに寄越しませんか?」
云いながらも、断わる事無くそのまま私室に招き入れる。
「お茶は出しませんよ」
「良いよ、期待してなかったからさ。それにしても君…良くあんな古い話を覚えていたね」
愉しげに隻眼が眇められた。
何の事は無い。
先刻大作に云って聞かせた話は、凡てこの草間博士からの知識で。
同じ大学に在籍し、分野は全く違えども『優秀』というカテゴリで括られて阻害されがちだった二人は、自然と交友関係を深めていったのである。
「興味深かったものですから」
「お陰で大変だったよ。大作とサニーちゃんに『宝船』を描け、って纏わりつかれてね」
「描いて差し上げたんですか?」
「とんでもない。こう見えても全く絵心が無いんだ。知ってるくせに意地悪だな、君は」
何故かえいっ!と胸を張りながら草間が、ふっくらとしたソファに腰掛ける。
その斜向かいに同じく腰を下ろして、孔明は『確かに』と心中で呟いた。
設計図様の物なら右に出る者はいない程ひどく正確に、また美麗に仕上げるのに。
普通に絵を描かせると、抽象画よりも理解に苦しむ物を描いてのけるのだ、この天才博士は。
「では残念がったでしょう」
逆に可哀想な事をしただろうか、そう思えば『いやいや』と手が振られた。
「カワラザキ殿が水墨画に長けてらっしゃるって聞いたからね。二人がお願いしに行ったら返事二つで引き受けてくれたそうだよ」
「それは良かった」
「うん、それでね」
はい、と手渡された筒を、促されるままに開けて逆さまにすれば。
「…これ、は…」
すとんと手の中に落ちてきたのは、綺麗に丸められた、紙。
「開いてご覧」
見事、としか云い様の無い『宝船』の図が、そこにはあった。
「大作達がね、折角だから君にも良い夢を見て欲しいって云ったんだよ」
いじらしいだろ?可愛いだろう!と親バカぶりを大発揮する草間をそっちのけで、孔明は図画に見惚れていた。
翁自体は反目し合う仲だが――中々どうして、この絵は素晴らしい。
まるで波を蹴立てて走る舟の、櫂の音まで聞こえてきそうな程だった。
純粋に図画としても秀でている。
それ以前に暖かな心根がとても心地よく――たまらなく嬉しく感じる。
こんな風に感じる『気持ち』が自分の中にまだ、あったなんて。
「…お気持ち、有り難く頂戴しますとお伝え下さいますか?博士」
「勿論」
大きく頷いて草間が立ち上がる。
「じゃあ、孔明。そろそろ失礼するよ。――良い夢を」
「ええ、お休みなさい。博士」
「それから」
「?」
「…今年も、親子ともども宜しく」
全く以って今更な挨拶を口にして、破顔した彼に
「……こちらこそ、宜しくお願い致します」
孔明も挨拶を返す。
ふふ、とお互いの笑みが重なり合って、そして解けた。
あたたかなものがゆっくりと心に降り積もる。
こんな風に優しくされたり、優しくしたりするのは自分らしくないと知りながら。
今宵、凡ての人に降りる夢が、良いものであるようにと祈りたくなってしまう。
『なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな』
どうか、今年が皆にとって良い年でありますように。
■おわり■
草間博士の場合、みたいになってしまいました。マイ設定炸裂な博士と孔明さん。
適当な事を教えて、それを信じる孔明を見て楽しんでそうなうちの草間父。
皆仲良しが一番だと思います。夢を見すぎていてすみません…。
少女は独り、華を摘む。
広い広い野原にただ独り、唱を口ずさみながら、華を摘む。
「あーかいはーなつーんーで、あーのひとーにーあ・げ・よ」
唱に擬えるかの如く、手にされていくのは赫い華。
まるで血の様に赫い華が、少女の細く白い腕の中に囲われてゆく。
「あーのひとーのーかーみーに、このはなさしてあ・げ・よ」
時折風がどう!と鳴り、少女の髪を揺らしてゆく。
それ以外は――少女を妨げるものは何も、ない。
少女は独り、華を摘む。
ただ一心に、華を摘む。
まるで、祈りを捧げるかのような所作で。
と
「やあ、サニー。ご機嫌だね」
何処からとも無く現れた男の影が、少女の上に差した。
少女は億劫そうに視線を上げ、そして形ばかりの微笑を口元に浮かべて見せる。
「ごきげんよう、セルバンテスおじ様」
はたはたと男の被る被衣(ゴトラ)が風に翻り、少女を包み込もうとするように膨らんだ。
それを手で抑え、男の口唇が人好きのする笑みを模る。
「きついけれど――心地の良い風だね」
強烈に鮮烈な印象を与えるのに――何処か存在が希薄な男を、少女は見上げた。
「ここに座っても?」
云って、男が少女の隣をすいと指し示す。
何処か芝居がかって見える仕草だが、妙に彼には似合っていた。
「ええ、どうぞ。野原は誰の物でもありませんもの」
無感動――その形容が正しいのかも知れない。
少女は眉一つ動かす事無くそう呟き、また手元に視線を落とす。
歳に似合わぬ大人びた口ぶりに、男は苦笑めいた笑いを零して腰を下ろした。
少女は、黙ったまま華を摘んでいる。
男は、それをただ、黙って見ている。
さわさわと、風だけが二人の間を通り抜けた。
「ねぇ、サニー」
沈黙が――どれ程続いただろうか。
不意に男が口を開いた。
一瞬少女はぴくん、と動きを止めるが、またすぐに華を摘む作業に戻る。
「何ですの?」
無視しているのではない、というポーズだけの為に、少女は問い掛けた。
風が、軋る。
少女の子供らしいすんなりとした脛を芝生が擽り、土埃が男の被衣の奥に隠れた瞳を眇めさせた。
「君は――怒って、いるのかな」
質問なのか、確認なのか良く解らない語尾の処理に、少女は漸く手を止め、男を振り返る。
「――いいえ?」
栗色の髪が風にたなびいて、少女の秀でた額に乱雑に振りかかった。
それをそっと手櫛で整えてくれながら、男が『良かった』と笑う。
「心配、だったんだ。君が彼をずっと――あの時から赦していなかったとしたら。この結末を迎えた今尚そうなのだとしたら、それはとても不幸な事だからね」
「――何が不幸で何が幸せなのかは、人それぞれの価値観に拠るものだと思いますわ。でも――有難う御座います」
少し捻くれたような調子で、少女が礼を云う。
まだ人生の酸いも甘いも噛み締めていないような子供の言葉とは思えない程達観した響きは、男の苦笑を誘った。
「心配はご無用ですわ、私はあの人に何の期待も抱いてはいませんでしたから」
少女の瞳が、精巧な硝子細工のように煌く。
そこに潤みを感じる自分は、言葉程割り切ってはいないのだろうかと、少女は不覚に思った。
或いは――言葉以上に達観しているから、絶望を感じているのだろうか、とも。
「私も自由、あの人も自由。ただ、己の心が求める侭に自由に、居るんです。だから――あの人が何を思って、どう行動しようとそれを私が怒る謂れなど――何処にも、無い」
仄暗い光が、一瞬少女の瞳に射し込む。
だが、それもほんの束の間。
「尤も――私ではなくてお母様が怒っていらっしゃるかも知れませんわね。最期まで不実な夫に対して」
「アハ。それはそうかもね」
漸くまろび出た悪戯っぽい少女の言葉に、男の口が一瞬強張り、そしてふざける様に同意した。
恐らくは、云おうと用意した言葉を飲み込んだに違いないけれど。
彼が敢えて口にしなかったように、少女も敢えて追及する事無く、気付かないフリをした。
何とは無しに張り詰めていた空気が、するりと解ける。
「少なくとも、彼を嫌ってはいないという事、だよね?」
「嫌う程知らない、と云うのが正しいのかも知れませんけれど」
「知り合わない方が、嫌い合うよりも良いよ。ずっと、良い」
良い。そんな事は解っている。
本質を知らなかったから、夢を抱く事だって、出来た。
紛いものを見つめて、自分を慰めて。
普通の子供であったなら、それでも良かっただろう。だが、自分は。
「ええ、でも――」
幼子のように現実から目を逸らしている様で、嫌だった。
其処に何が隠れていたのか。
目を覆いたくなる程の醜いものであったとしても、自分は。
「本当は、私――」
知りたい。
逡巡の後、ぽつり、少女の声が揺れた。
男の、予測していたかのような鷹揚な笑みを、ちりちりと旋毛の辺りに感じる。
ひゅう、と息を吸えば、気管支が過剰に震えた。
感情が高ぶっているのか、そう気づいた時。
少女は、行儀良く膝の上に置いていた自分の手の甲に、雨が落ちているのに気付く。
雨――違う。
空は、とても綺麗に晴れている。
ならば、これは。
一粒、また一粒。
落ちるのは、涙。
頬を伝い落ちて、しとどに拳を濡らしてゆく。
堪えきれない、感情の発露。
一度転がり出れば、後は坂を滑るように落ちるだけ。
「私が…私が悪いんです」
膝に置いた手をキツく、爪が食い込む程に強く握り込んで拳をつくる。
少女は自分のついた嘘に気が付いた。
怒って、いるのだ。
この乱れる感情は決して悲しみなどではない。或いはそれが『悲しみ』と同義であるかも知れないが。
目も眩むような怒りに――囚われている。
怒りの行き先は、多分男の問うた『対象』では無いだろうけれど。
「歩み寄らない人だと知っていながら、自分だけが努力するのが嫌で。愛されていないのが解っていたから――だから、逃げた。ずっと、逃げているの」
こうしている事で、どれだけ自分が矮小な存在に見えるかを正しく知っている少女は、俯いて、それだけでは足りぬと云う様にぎゅうと固く目を閉じて、世界を遮断する。
ずっと、そうして生きてきたように。
「君だけが、いけない訳じゃない。サニー、君だけが悪いんじゃない」
男の手がそっと少女を引き寄せようとするかの如く伸ばされ――大仰に少女は震える。
憐憫を誘いたいのでは、無い。
けれど接触の寸前で、その手は潰え、降ろされた。
「知って――います」
触れられない事に安堵――或いは失望――し、少女はゆっくりと顔を上げた。
涙は既に乾いて、濡れた感触は何処にも感じられない。
代わりに浮かんでいるのは、鏡の中に見慣れた色だろう。
其が色の名は、理解と云い、また諦めとも云う。
「けれどもう、あの人を責めても――何にもなりませんもの」
「…そうだね。ほんの少しばかり遅すぎた」
「いいえ、『今』だからこそ、私もこの考えに至ったんですわ。きっと――そうでなければ気付かないままだったと思います」
ふふ、と小さく声を漏らして笑った少女に、男もつられる様にして笑った。
「君は…悲しい程に聡明な娘だね」
良く通る声は、言葉程悲壮感に満ちてはいなかった。
だから少女も微笑む。
『有難う御座います』と賛辞への謝辞を口にしながら。
少女を取り巻く大人達は、皆口を揃えて云ったものだ。
『本当ならばまだ、庇護も、愛情も、一身に受けている筈の年頃だ』
『世界中の凡ての慶事が自分に向けて降り注がれていると盲信して良い筈なのに』
『運命――と云うには余りにも、切ない』、と。
この、目の前の男のように『誉めて』くれた事など、一度も無かった。
その事に対して憎しみを憶えた事は無いが、失望に似た感情を持ってはいたので。
惜しい。
心の底からそう想う。
何故、今になってこの男の本質を知るのだろう、と。
もっと近くにいる時ならば良かったのに。
あの時はまだ自分は幼すぎたし、理解出来る今となってはもう手が届かない。
皮肉なものだ。
いつだって、人生とはそういうものなのだろうけれど。
「ねぇ、サニー」
「はい?」
「君が『話』を受けるのは――彼を知る為かい?」
たわんだ被衣の裾をちょん、と直して、男が問うてくる。
少女は答えを躊躇うかのように、僅かに小首を傾げて
「それも、あります」
そして、頷いた。
「まだ『自分』の道は見えないのです。だから暫くは――ええ、そうして行こうかと」
「そう…」
男が納得した様に頷いて立ち上がるのを、頬に貼り付いた後れ毛を耳に掛けながら、見た。
白の被衣が、猛禽類の羽のように見える。
自由の象徴にも見え、
また強さの象徴にも見える。
凛と立つ彼のその姿は、とても、綺麗だと思った。
「道が見えたら其処で引き返すかも知れないし、それでも歩み続けるかも知れない。先の事は何一つ解りませんし、ひょっとしておじ様方の期待には沿えないかも知れません」
「それで良いんだよ。君の人生は誰の為のものでもない、君だけの為にあるんだから」
少女は容認の言葉に、上げかけていた腰を再び下ろして、男を見上げた。
男は――笑っていた。
少女が覚えている限り、いつだってそうしていたように。
何を考えているのか解らないと専ら評判だった笑みをただ――浮かべていた。
「回り道だとは思われませんの?おじ様は」
「人生に無駄な事なんて、何一つないよ、サニー。何もかもが君を構成する大事な要素だ」
男が縋らせるかのように手を差し伸べるが、少女は首を振ってそれを断わると、すっくと立ち上がって衣服に付着している草きれ達を払い落とす。
赫い華を大事に抱えたまま。
ふと、それに目をやって、思い至ったかのように男が呟いた。
「ああ――そうか、それは手向けの華なんだね。『君』への」
「…ええ」
悪戯が見つかった子供のような顔をした少女は――最早少女と形容するには相応しくない笑みを浮かべて肩を竦める。
「そう…。綺麗だ」
何処かしらほ、とした空気が漂う。
若緑の匂い。
微かに残る、少女の乳臭さ。
男の被衣に焚き染められた、ムスクの香り。
風が、凡てをない交ぜにして、一瞬後には遠くへと運び去っていく。
ここに確かに残るものは何一つ無い、と云うかの如く。
「頑張って」
柔らかな男の声に、少女は曖昧な笑みを浮かべた。
何を対象に云われているのか理解出来なかったのだ。
「誰の為に生きて、何の為に死ぬのか。その答えが解るまで、君は其処にいるんだよ?サニー。君は――君の答えを見つけてから、おいで」
男が腰を屈めて、少女を真正面から見つめる。
その瞳の色。
男の出自に相応しく、砂の色をしている瞳に、不意に少女の胸が熱くなった。
「おじ様は…」
どんなに頑張っても、もう二度と手の届かない人達。
「おじ様やお父様は…見つけられたのですか?『それ』を」
「――ああ、見つけた、よ」
だから、君も。
決して後悔だけはしないように。
口唇だけが動いて、そう告げ、言葉にし難い笑みが自分に向けられる。
それを受けて少女は――華が綻むように泣き笑いのような笑みを浮かべ、抱えていた華を一本、ぺしりと弁ぎりぎりで折ると、男の被衣にそっと添えようと手を伸ばす。
「約束だよ、サニー」
けれど――。
「あ……」
華が、ほとりと芝の上に落ちた。
一瞬前まで確かに目の前に居た男の姿は、もう掻き消えたようにして何処にも無い。
行って、しまったのだ。
さよならさえも云わずに。
「………・…っ…!」
涙が、重力に従順にぱたぱたと地面に落ちる。
腕から、風に乗って華が飛ばされた。
散る、涙。散る、華。散る、自分。
堪えきれず少女はしゃがみ込んで、膝を抱え、泣いた。
解ったような口をきいても、達観したように見せても。
所詮は子供でしかない、と己の至らなさを嘲笑する気持ちがあるが、止められない。
どうしようもない。
どう説明して良いのかも解らないのだ、この感情を。
「あ……あぁあっ……――!」
自分は――彼等に届くのだろうか。
いつかあんな風に微笑んで逝く事が出来るのだろうか。
彼等から投げかけられた問いの答えを手にする事は出来るのだろうか。
まだ、余りにも遠い――遠過ぎて最果てを想像する事すら出来ぬ道程に、少女は独り、泣いた。
枯れてゆく自分を潤すかのように、末期の涙を溢れさせていた――。
かさり、と男に手向けた華が風に揺れて、少女の足に纏わりつく。
弔いの鐘が高らかに鳴り響く。
葬られたのは、自分。
看取ったのも、自分。
けれどそれは死ぬ為ではなく、これから生きる為の法要。
目の前に伸びていた整えられた道を、自分の意思で歩いていこうと決めたが故の弔いなのだから。
少女は独り、華を摘む。
ただ一心に、華を摘む。
まるで、祈りを捧げるかのような所作で。
憐憫。
喪失感。
不安。
懼れ。
焦燥。
種々の想いを紡ぎながら、少女は独り、華を摘む。
広い広い野原にただ独り、唱を口ずさみながら、華を摘む。
『十傑集”サニー・ザ・マジシャン”』の名を抱きながら。
自分の子供時代に手向ける、散華の為の華々を――。
■おわり■
静止作戦後の十傑集昇進確定サニーさん(捏造)。ベティとは決して直接対話出来ないだろうとセルを召還しました。しかし個人的には親馬鹿ベティさんの方が好きです。この親子に必要以上に夢を見ているようです。すみません。
甲冑
その日黄信は外で昼食をとった。いつもなら、国際警察機構内で配給された食事を、黙々と食べる。仕事と仕事の合間なので仕方ないが、我知らずくつろいだ昼間になった。
安食堂に雑多な声がする。自分と同じように、仕事から仕事へ移る一時を過ごす人、いつまでもお茶をすすっていそうな人もいる。黄信は注文した料理が出てくる間、ある家族に目が行った。席は離れているので、家族と目は合う心配はない。高い子供の声がするので、食堂のなかでも目立っていた一行だが、それだけで黄信の目は引かなかった。まるで一家の団らんがそのまま食堂にやって来たようなにぎわいを見せる。黄信は子供が、箸で遊んでいるのを見ている。
「これがお父さんの箸。これがお母さん、これが僕。ほら、お前のだよ。」
少年は箸立てから4膳取り、父や母、妹の前に並べ満足そうにしていた。
他愛ない光景だが、黄信は長いこと見ていた。自分がお父さんと呼ばれていた頃が懐かしいのか、は黄信も判断つかない。
家族の話題は、菖蒲の節句のことらしい。鯉のぼり、柏餅、親戚のだれかれが家に見える・・そんな話が続く。黄信は頬杖をついて、ハタハタとなびく鯉やら餅の餡を想像した。だがある所で彼の平穏は破れた。お父さんは、息子に鎧兜を買ってやり、子供はそれを着るのを楽しみにしているらしい。どこかの国の平凡な習慣だが、黄信はなぜかゾッとした。
「ハーン。子供にそんなもん持たせるなか?」
「そう簡単に言うな。」
飯も済ませ、午後も花栄と働き出した。
「嫌な感じがする。子供にその兜を身につけて、何をしろと言うのだ。兜をつけてすることなど、ひとつしかあるまい。」
黄信は甚だ真面目だが、花栄はこういった。昔は家名を保ったり、仕官するには戦うのが手っ取り早かった。家を思うなら、この兜をつけて功名を上げよという古風な習慣である。まさか親がそんな残酷なことを現代になっていうだろうか、と。
「そうだ。それならいい。」
「なら構うことあるまい。」
「忘れたのか、我等には身に過ぎた最強兵器・ジャイアントロボがある。あれは、親父の草間博士が子供の大作に継がせた物だそうだ。」
自分がお父さんと呼ばれていた頃、僕もお父さんみたいになるんだ、と父の刀の鞘で遊んでいた我が子が黄信の胸をよぎった。
「草間博士はあくまで研究職であったと言う。我等のような現業ではないだろう。」
黄信はここから先は、花栄に話すというより気持ちの整理のため言う。
「昼間見た親子のように、行事としての甲冑でもない。自分の子供が昔言ってくれた、実際父が振るっていた剣と甲冑への憧れでもない。あの草間大作は。天から降って来たような、怪物だ。あのロボットは・・・。何もかもいきなり。戴宗もうまい事を言う。」
花栄はいつもの黄信の述懐癖が始まったと、ちゃんと聞いてはいるが返答が求められていないのにも気がついていた。
「村雨も言い当てて妙だった。草間博士がロボを息子に継がせる所を、村雨は見たんだそうだ。それがどういうことなのか、わかっているのですかと聞いたが、博士はさっさと継がせてしまったそうだ。草間博士の行為を責めたくもないが・・・・・なんて厄介な息子とロボットを置いて死んだのだろう。それがどういうことなのか、は自分にもはっきりは言えない。いや、はっきり言えば国際警察機構から、ロボを摘み出してしまうかもしれん。自分は立場上できん。」
花栄は、たまに家族連れに遭遇した黄信が感傷に浸りたいのかと最初思ったが、そうでもないと見た。大作には、昼間の一家のような慣習にまみれた甲冑も、戦う父の背をみて憧れた甲冑もない。身に余る兵器、もてあますだろうと黄信は言う。みすみすBF団に返してしまうのも惜しいからいるだけの。
が、黄信は草間大作を見放すこともしない。ジャイアントロボを何故か対等の仲間とした。そう思わなければ大作の生きる場所すら奪ってしまうからである。平和そのものの家庭など、大作にも黄信にも過去のものである。なら、ここで生きてみないかと黄信は自分でも気がつかないくらい深いところで誓っていた。
「まあ何かロボと草間大作にあったら、我々が守ってやろう。な?」
黄信は、花栄にそうだなと言った。考えていても仕方ない、仲間たる少年と強いロボットは大事にしてやることであろう。
その日黄信は外で昼食をとった。いつもなら、国際警察機構内で配給された食事を、黙々と食べる。仕事と仕事の合間なので仕方ないが、我知らずくつろいだ昼間になった。
安食堂に雑多な声がする。自分と同じように、仕事から仕事へ移る一時を過ごす人、いつまでもお茶をすすっていそうな人もいる。黄信は注文した料理が出てくる間、ある家族に目が行った。席は離れているので、家族と目は合う心配はない。高い子供の声がするので、食堂のなかでも目立っていた一行だが、それだけで黄信の目は引かなかった。まるで一家の団らんがそのまま食堂にやって来たようなにぎわいを見せる。黄信は子供が、箸で遊んでいるのを見ている。
「これがお父さんの箸。これがお母さん、これが僕。ほら、お前のだよ。」
少年は箸立てから4膳取り、父や母、妹の前に並べ満足そうにしていた。
他愛ない光景だが、黄信は長いこと見ていた。自分がお父さんと呼ばれていた頃が懐かしいのか、は黄信も判断つかない。
家族の話題は、菖蒲の節句のことらしい。鯉のぼり、柏餅、親戚のだれかれが家に見える・・そんな話が続く。黄信は頬杖をついて、ハタハタとなびく鯉やら餅の餡を想像した。だがある所で彼の平穏は破れた。お父さんは、息子に鎧兜を買ってやり、子供はそれを着るのを楽しみにしているらしい。どこかの国の平凡な習慣だが、黄信はなぜかゾッとした。
「ハーン。子供にそんなもん持たせるなか?」
「そう簡単に言うな。」
飯も済ませ、午後も花栄と働き出した。
「嫌な感じがする。子供にその兜を身につけて、何をしろと言うのだ。兜をつけてすることなど、ひとつしかあるまい。」
黄信は甚だ真面目だが、花栄はこういった。昔は家名を保ったり、仕官するには戦うのが手っ取り早かった。家を思うなら、この兜をつけて功名を上げよという古風な習慣である。まさか親がそんな残酷なことを現代になっていうだろうか、と。
「そうだ。それならいい。」
「なら構うことあるまい。」
「忘れたのか、我等には身に過ぎた最強兵器・ジャイアントロボがある。あれは、親父の草間博士が子供の大作に継がせた物だそうだ。」
自分がお父さんと呼ばれていた頃、僕もお父さんみたいになるんだ、と父の刀の鞘で遊んでいた我が子が黄信の胸をよぎった。
「草間博士はあくまで研究職であったと言う。我等のような現業ではないだろう。」
黄信はここから先は、花栄に話すというより気持ちの整理のため言う。
「昼間見た親子のように、行事としての甲冑でもない。自分の子供が昔言ってくれた、実際父が振るっていた剣と甲冑への憧れでもない。あの草間大作は。天から降って来たような、怪物だ。あのロボットは・・・。何もかもいきなり。戴宗もうまい事を言う。」
花栄はいつもの黄信の述懐癖が始まったと、ちゃんと聞いてはいるが返答が求められていないのにも気がついていた。
「村雨も言い当てて妙だった。草間博士がロボを息子に継がせる所を、村雨は見たんだそうだ。それがどういうことなのか、わかっているのですかと聞いたが、博士はさっさと継がせてしまったそうだ。草間博士の行為を責めたくもないが・・・・・なんて厄介な息子とロボットを置いて死んだのだろう。それがどういうことなのか、は自分にもはっきりは言えない。いや、はっきり言えば国際警察機構から、ロボを摘み出してしまうかもしれん。自分は立場上できん。」
花栄は、たまに家族連れに遭遇した黄信が感傷に浸りたいのかと最初思ったが、そうでもないと見た。大作には、昼間の一家のような慣習にまみれた甲冑も、戦う父の背をみて憧れた甲冑もない。身に余る兵器、もてあますだろうと黄信は言う。みすみすBF団に返してしまうのも惜しいからいるだけの。
が、黄信は草間大作を見放すこともしない。ジャイアントロボを何故か対等の仲間とした。そう思わなければ大作の生きる場所すら奪ってしまうからである。平和そのものの家庭など、大作にも黄信にも過去のものである。なら、ここで生きてみないかと黄信は自分でも気がつかないくらい深いところで誓っていた。
「まあ何かロボと草間大作にあったら、我々が守ってやろう。な?」
黄信は、花栄にそうだなと言った。考えていても仕方ない、仲間たる少年と強いロボットは大事にしてやることであろう。
見るだけでうっとりするようなベンジャロン焼の茶器は、タイに出張してきたセルバン
テスからの土産だ。お礼に、早速、金縁の絢爛な茶器で紅茶を淹れると、男は満足そうに
茶を啜った。
「やっぱり、サニーが淹れてくるお茶が一番美味しいよ」
「ありがとうございます。でも、おじ様のお土産のお陰ですわ。こんなに素敵な器、見た
ことありませんもの」
「嬉しい事を言ってくれるね、サニーは」
セルバンテスは心底から嬉しそうに笑った。
「でも、君と二人きりでいるなんて知ったら、アルベルトに怒られるかな。あいつ、今頃
はよりによってデスクワーク中だもんなあ」
「仕方ありませんわ。孔明様の邪魔をなさるから」
「あの策士に唯々諾々と従う奴もいないよ。あんな単純な嫌がらせ、黙ってやり過ごせば
いいのに、わざわざ真に受けて……、まあ、そこがアルベルトらしいんだけどね」
「父はおじ様の大のお気に入りですものね」
「でも、私のものじゃないよ。君と扈三娘のものだよ」
「いいえ、母のものですわ、父は」
少女の断言に、セルバンテスはくすりと笑った。
あの頃、盟友はたしかに恋をしていた。そして並み居る先祖の廟の中に、更にどでかい
墓を造ったのだ。セルバンテスも一度花を捧げに行った事があるが、豪勢な廟所の前で思
わずあんぐりと口を開けてしまった程だ。昔、タージマハールを悪趣味だと唾を吐いたよ
うな男が、である。最愛の王后を失ったシャージャハーン帝の気持ちもこんなものだった
のだろうと、セルバンテスも思わず納得してしまった。だが、暫くして取り壊したという。
何かを悟ったのだろうか。今では小さな廟に花を捧げには行く事はない。
「じゃあ、君は? サニーは誰のものなんだい?」
セルバンテスは詠うように言った。
「さあ…? でも、私はおじ様たちのものですわ。とても可愛がっていただいてますもの」
「本当にそう思うのかい?」
ちらり、と紅玉のような瞳に光が走った。少女は紅茶に砂糖を入れようか考えるような
仕草で、クフィーヤの男を見上げた。
「そうですわね…、私は私のものですわね、きっと」
「きっと、かい。あやふやだなあ」
セルバンテスは水煙草(シーシャ)吸って、椅子の背凭れに身体の重みを預けた。
「あら、おじ様ほどではありませんわ」
「私が? あやふや? そうかな、こんなにはっきりしている人間は他にはいないと思う
けどね」
「ふふっ、おじ様ったら、そうやって私も惑わしますの?」
「大丈夫、君には私の力なんて通じないよ。だって、通じていたら、私の隣にきてくれる
筈だからね」
サニーは立ち上がって、セルバンテスの隣に行った。
「こうやって?」
「そう、こうやって…」
褐色の手が伸びて、少女の白い頬を包み、もう片方の頬に口付けた。腕の中でサニーは
思わず身をよじった。
「――おじ様の口、くすぐったい」
「あれ、髭もじゃって訳じゃないけどなあ」
笑って顎を撫で、セルバンテスは少女を解放した。
「…貴様、何をやっている!?」
突然、地の底から響くような声音に振り返ると、仁王立ちした盟友が立っていた。背後
から黒いオーラが出ている。
「お父様…」
「あれ、アルベルト? 仕事は終わったのかい?」
「このロリコンがーーー!!!」
「わー、誤解だってば!」
「うるさい!!」
次の瞬間、衝撃派が炸裂し、セルバンテスと一緒に円卓が木っ端微塵に吹っ飛んだ。
しかし、ベンジャロン焼の茶器だけは何故か無事であったという。
終
テスからの土産だ。お礼に、早速、金縁の絢爛な茶器で紅茶を淹れると、男は満足そうに
茶を啜った。
「やっぱり、サニーが淹れてくるお茶が一番美味しいよ」
「ありがとうございます。でも、おじ様のお土産のお陰ですわ。こんなに素敵な器、見た
ことありませんもの」
「嬉しい事を言ってくれるね、サニーは」
セルバンテスは心底から嬉しそうに笑った。
「でも、君と二人きりでいるなんて知ったら、アルベルトに怒られるかな。あいつ、今頃
はよりによってデスクワーク中だもんなあ」
「仕方ありませんわ。孔明様の邪魔をなさるから」
「あの策士に唯々諾々と従う奴もいないよ。あんな単純な嫌がらせ、黙ってやり過ごせば
いいのに、わざわざ真に受けて……、まあ、そこがアルベルトらしいんだけどね」
「父はおじ様の大のお気に入りですものね」
「でも、私のものじゃないよ。君と扈三娘のものだよ」
「いいえ、母のものですわ、父は」
少女の断言に、セルバンテスはくすりと笑った。
あの頃、盟友はたしかに恋をしていた。そして並み居る先祖の廟の中に、更にどでかい
墓を造ったのだ。セルバンテスも一度花を捧げに行った事があるが、豪勢な廟所の前で思
わずあんぐりと口を開けてしまった程だ。昔、タージマハールを悪趣味だと唾を吐いたよ
うな男が、である。最愛の王后を失ったシャージャハーン帝の気持ちもこんなものだった
のだろうと、セルバンテスも思わず納得してしまった。だが、暫くして取り壊したという。
何かを悟ったのだろうか。今では小さな廟に花を捧げには行く事はない。
「じゃあ、君は? サニーは誰のものなんだい?」
セルバンテスは詠うように言った。
「さあ…? でも、私はおじ様たちのものですわ。とても可愛がっていただいてますもの」
「本当にそう思うのかい?」
ちらり、と紅玉のような瞳に光が走った。少女は紅茶に砂糖を入れようか考えるような
仕草で、クフィーヤの男を見上げた。
「そうですわね…、私は私のものですわね、きっと」
「きっと、かい。あやふやだなあ」
セルバンテスは水煙草(シーシャ)吸って、椅子の背凭れに身体の重みを預けた。
「あら、おじ様ほどではありませんわ」
「私が? あやふや? そうかな、こんなにはっきりしている人間は他にはいないと思う
けどね」
「ふふっ、おじ様ったら、そうやって私も惑わしますの?」
「大丈夫、君には私の力なんて通じないよ。だって、通じていたら、私の隣にきてくれる
筈だからね」
サニーは立ち上がって、セルバンテスの隣に行った。
「こうやって?」
「そう、こうやって…」
褐色の手が伸びて、少女の白い頬を包み、もう片方の頬に口付けた。腕の中でサニーは
思わず身をよじった。
「――おじ様の口、くすぐったい」
「あれ、髭もじゃって訳じゃないけどなあ」
笑って顎を撫で、セルバンテスは少女を解放した。
「…貴様、何をやっている!?」
突然、地の底から響くような声音に振り返ると、仁王立ちした盟友が立っていた。背後
から黒いオーラが出ている。
「お父様…」
「あれ、アルベルト? 仕事は終わったのかい?」
「このロリコンがーーー!!!」
「わー、誤解だってば!」
「うるさい!!」
次の瞬間、衝撃派が炸裂し、セルバンテスと一緒に円卓が木っ端微塵に吹っ飛んだ。
しかし、ベンジャロン焼の茶器だけは何故か無事であったという。
終