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うろほろぞ
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「おじさん、本当にいいの?」
遥が、少し心配そうに自分を見上げていた。携帯電話の機種変更と新規契約。変更は桐生のもの。新規は遥のもの。カウンターに並んで座り、奥で契約のために動いている店員を前に、桐生は遥の髪を撫でた。
「ああ。遥も携帯があった方が便利だろう?」
「そうだけど、本当にいいの?」
「持っててくれ。その方が俺が安心できるからな」
そういえば遥は、うん、と頷いた。その笑顔に、桐生は内心ため息をついた。

それは、昨晩の事だった。週末、仕事を終えて戻ってきた桐生が一服していたところに、大阪から電話がかかってきた。ディスプレイに出る番号に、桐生は嫌なものを覚えたが、通話ボタンを押した。
「龍司か?」
台所にいる遥に聞こえないように小さく言えば、電話の向こうの相手は陽気に
『そうや。オッサン、元気かあ?』
能天気さに思わずため息をついて、桐生は低く問う。
「用件は何だ?」
『ちょっと、遥と代わってくれや』
「断る」
殆ど脊髄反射で桐生は答えた。自分でも何故そう言ったのかわからなかった。だが、電話の向こうでは
『そう言わんと。なあ、遥と代わってえな』
「用件を言え」
『オッサンがウチの妹と遊んでる間に、ワシが遥を守ってやるさかい、話くらいさせてくれてもええやろ?』
そういわれると、前回預けた手前、無碍に断れない。桐生は龍司に聞こえるくらい大きくため息をつき、
「わかった。待ってろ」
携帯を保留にすると、台所に立つ遥を呼んだ。
「おじさん、なに?」
可愛らしいブルーのエプロンをつけた遥は、手を拭きながら居間に来た。桐生はムッとしたまま携帯電話を差し出し、
「龍司からだ。話がしたいそうだ」
「え、お兄ちゃんから?」
ぱあっと笑顔になる遥に、桐生はますますムッとした。恐らく表情を隠しきれていないだろう。しかし、遥はそんな事に気付かないのか、嬉しそうに電話に出た。
「あ、お兄ちゃん?遥です」
そういいながら、頬を紅く染めつつ遥が台所に移動する。
「うん・・・ホント?・・・楽しそうだね!」
桐生が聞き耳を立てるなか、遥の嬉しそうな声が響く。
「うん・・・私が?うーん。やっぱり、富士急ハイランドかな・・・フジヤマ乗れないの?じゃあやめようかな・・・」
その声を聞きつつ、桐生はだんだんイライラしてきた。タバコに火をつけて落ち着こうと思うが、どうしても引き戸の向こうの遥の会話が気になって、すぐに消してビールを飲む。
「お兄ちゃんは?・・・私、それでもいいよ?一回しか行ったことないから・・・うん。じゃあ、約束ね。おやすみなさい」
ようやっと話し終えた遥が居間に帰ってきた。桐生に携帯を差し出して
「お兄ちゃんがお話ししたいって」
桐生は無言で受け取った。
「まだ何かあるのか?」
強烈な刺のある言い方になってしまったが、電話の向こうの龍司は飄々と
『オッサン、そんなツンケンすんなや。遥が大事なのはわかるけどな』
「何だと?」
『ワシなら、遥の事、大切にするで?』
「・・・そういう問題じゃねえだろう」
呆れたように桐生が言うと、電話の向こうの声は一つ笑い、
『そんじゃ、オヤスミ、お・と・う・さ・ん』
プチっと音がして電話が切れた。瞬間、桐生は携帯電話を壁に叩きつけた。ガシャンと金属の壊れる音がして、携帯電話は真っ二つに折れ、床に転がった。
「おじさん!」
驚いた遥が叫ぶ。その声に、桐生はハッと我に返った。
「あ・・・」
視線の先で、遥が壊れた携帯電話を拾っている。
「おじさん、どうしたの?お兄ちゃんに何か言われたの?」
「・・・龍司にからかわれただけだ。驚かせてすまなかったな」
桐生は、安心させようと笑顔を見せたつもりだった。だが、それはうまくいかなかった。遥が心配そうな顔で見つめてくる。その視線から逃れるように桐生はタバコに火をつけて
「遥にも、携帯が必要だな。明日買いに行くか」
「え、でも・・・」
遥が口ごもる。だが、桐生はもう龍司からの電話を取りたくなかった。その度にあんな事を言われてはたまらない。
「俺が持たせたいんだ。携帯も買いなおさなきゃいけないしな」
「・・・うん」
遥は小さく頷いた。

携帯の入った箱をを手にして、遥は嬉しそうに道を歩く。
「ふふふ。携帯買ったの、みんなに教えなくちゃ」
輝くような笑顔に桐生はホッとする。だが、次に遥から出た言葉にビクッとなった。
「ひなちゃんと、けいちゃんと、あとりゅうちゃんにも」
「・・・リュウチャン?」
瞬間的に、不敵に笑う龍司を思い出し眉間に皺を寄せる。
「うん。クラスの劉ちゃん。この間写真見せたジャン」
「あ、ああ。その子か」
桐生は思わず苦笑した。龍司からの電話を直通するために買い与えたのに、龍司から電話がかかってきたら嫌だと思う自分は矛盾している。『遥に彼氏が出来たら、酔っ払って暴れるだろう』との龍司の予測は、以外と外れていないのかもしれない。
しかし、と桐生は考え直した。自分は、遥を真っ当に育てていかねばならない。遥には、普通に学校を出て、普通に就職して、普通に結婚して、普通の幸せを掴んでもらわなければ、由美や、錦や、風間の親っさんに申し開きできないではないか。だから、龍司のような極道者がウロウロしているのは良くないのだ。ピリピリして当然だ。
「おじさん。もしかして、お兄ちゃんにヤキモチ焼いてる?」
小首を傾げ、ニコッと笑って言う遥の言葉に、桐生は息を飲んだ。次の言葉が上手く出てこなかった。
「おじさん、大丈夫だよ。龍司お兄ちゃんに番号教えなければいいんでしょ?おじさん、お兄ちゃんから電話かかってくると怒るもんね」
クスクスと笑う表情は、まだまだ子供のもの。
「違うな。心配しているだけだ」
タバコに火をつけて、桐生は答えた。たぶん、本当は遥の言う事が正解だろう。
「私、ずっとおじさんの側にいるからね」
繋ぐ手が、小さく細い。黒く輝く大きな瞳に桐生は微笑み
「ああ。そうしてくれ」
ひとこと、答えた。




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あれから七年の歳月が流れた。大阪の、郷田龍司の自宅には、一人の少女が訪ねてきていた。
夏の終わりの暑い季節。彼女は縁側に座って、紅く燃える空を見つめ、冷たい麦茶を一口飲んだ。
「今日で、大学見学も終わりよ」
見事な東京の言葉。それもそのはず、彼女は生まれも育ちも東京だ。名前を、澤村遥という。
「そうか」
隣では、近江連合六代目会長の郷田龍司が、同じように麦茶を一口飲んだ。
「で、遥は、こっちの大学を受験するんか?」
低い声で聞かれて、彼女はニコッと微笑んだ。
「うん。そのつもり」
「桐生のオッサン、がっかりするで?」
龍司は正面を見つめたまま言う。トンボが、すっと庭を横切った。
「うん。でも、これ以上おじさんと一緒にいたくないから」
手の中で、ガラスのコップを揺らしながら彼女は言った。
「一緒に居ったらええやん」
「ううん。もう駄目なの」
遥が俯き、龍司は初めて遥を見た。長く伸びた髪が頬にかかる。まだ若いはずの横顔に憂いが走る。
「お兄ちゃん。私、もう駄目なの」
「何でや?」
「・・・もう、おじさんと一緒にいるのが辛いの」
小さな肩が小刻みに震える。
「お兄ちゃん。私、もう駄目なの。おじさんが好きなの。どうしても、おじさんが好き。もう、どうしていいか解らないの」
上げた顔は微笑もうとしていたが、黒い瞳には涙が溢れる。
「だから、おじさんと離れるの。苦しくて苦しくて、仕方がないから」
「そうか」
龍司の太い腕が、彼女の体を引き寄せる。胸の中に仕舞い込む様に、大きく強く抱きしめた。
「遥。そんなに辛いんやったら、ワシの側に居ればええ」
小さな体を包み込み、龍司は長い髪に触れる。腕の中で、彼女は震えながら涙を堪えていた。
「人の子の世は、儘ならんモンや」
本当に欲しいものは、何時だって手に入らない。龍司はそう思う。今こうして彼女を抱きしめていても、この輝く宝石は、決して自分を振り返ってはくれないのだから。
「今日は、思いっきり泣けばええ。オッサンの前では笑ってられるようにな」
小さく言えば、彼女が頷く。もう一度宝物を抱きしめて、龍司は沈む夕日を眺めた。




桐生が薫との遠距離恋愛を行う上で、最も問題になるのが遥の事だった。刑事の薫は休みが不規則で、たまに桐生と休みが重なった時くらいしか会う事ができない。今回、東京で会う予定なのだが、遥をどうするかで悩む事になった。
薫は薫で
「遥ちゃんも連れてくればいいじゃない」
と言い、遥は遥で
「ヒマワリに行くから、おじさんは薫さんとデートしてきなよ」
と言い出す始末だ。
そんな事で遥をヒマワリに送り出すのは嫌だし、かといって遥を連れてとなると、色々問題もある。板挟みの桐生は、自分で結論を出す事ができず、悶々と考え込む事になるのだった。

いつまでも結論が出ず、日付だけが進む。遂に薫が切れて、喧嘩になりかけたその日の夜、桐生の携帯に見慣れぬ番号の着信が来た。番号の最初が『06』から始まっているから、大阪からの固定電話であることは間違いない。不審に思いながら通話ボタンを押す。
「桐生だ」
低く言えば、
『ワシや。郷田龍司や』
更に低く、陽気な声が戻ってきた。現在も郷龍会会長として、そして近江連合六代目就任予定の男として、関西極道界に君臨する彼に、桐生は携帯番号を教えた覚えは無かった。
「お前、何でこの番号を知っている?」
眉間に皺を寄せて、脅すような声で問う。だが、電話の相手は
『薫の携帯から、ちょっとな。まあ、妹の携帯くらいイジってもええやろ』
相変わらずの調子に、桐生はため息をついた。まさか、薫から龍司にこの番号が伝わるとは思わなかった。恐らく、この事は薫自身も知らないはずだ。
「で、何か用か?」
呆れる思いを隠して聞いてみる。
『あのな、今度、薫と東京で会うんやろ?』
「まあな」
『そん時、遥はどないすんねん』
「まだ決めていない」
『そんなら、ワシに預けてくれや』
「何だと?」
『ワシが入院してる間、世話になった礼も兼ねて、遊びに連れてってやるわ。その間、オッサンは薫と遊べるやろ』
喜々とした龍司の声に、桐生は黙り込んだ。その様子に、遥が心配そうな顔をして見上げている。この時、桐生は疲れていて、判断を誤った。携帯を保留にして、遥に聞いたのだ。
「遥、龍司が入院中に世話になったから礼がしたいそうだ。会ってみるか?」
すると、遥の表情がぱあっと明るくなった。
「ホント?私、お兄ちゃんに会いたい!」
しっかりと頷く様に、桐生は保留ボタンを解除して、龍司に言った。
「遥が会うと言ってるからな。お前の話に乗ろう」
『よっしゃ。薫が新幹線で行くより前に、そっちに行くようにするわ。それと、遥にディズニーランドに行くからって言っといてな』
「ああ。わかったよ」
『そんじゃ、またな』
呑気な大阪からの電話が切れ、桐生はまたため息をついた。その向こうでは、遥が嬉しそうな顔で台所に立っていた。よくよく考えてみれば、龍司の下が一番安全かもしれない。まさか郷龍会会長の手元から、遥を誘拐できるほどの人間はいないだろう。そう考えると悪い選択肢ではないはずだ。桐生は、そう思うことにした。

土曜日、桐生がアパートのベランダでタバコをふかしていると、建物の前の細い通りに、バカでかい、真っ白なリムジンが曲がってくるのが見えた。しかも、一度で曲がりきれず、切り返しをしている。
「遥。龍司が来たぞ」
振り返って声をかければ、カーゴスカートにボーダーシャツ、上からスカジャンを羽織った遥は、ニッコリ笑顔で靴を履き
「おじさん、薫さんと喧嘩しないでね。いってきます!」
靴音も高らかに飛び出していった。

アパートの鉄の階段を駆け下りて、遥は停まっているリムジンへ近づいた。長さだけなら、薫が運転しているワンボックスより大きいだろう。アパートの門から出ると、運転手役らしい、如何にも若い筋モノの男が、後部座席のドアを開けてくれた。
「よう。元気やったか?」
中には、龍司がドンと座っていた。スーツではなく、ラフなジーンズ姿で、髪も手ぐしでかき上げているだけのようだ。これならパッと見た感じ、ディズニーランドでも悪目立ちしないだろう。
遥は、よいしょと掛け声をかけて車に乗り、龍司の隣に座った。それから精一杯の笑顔で
「うん。お兄ちゃんも元気だった?」
「ま、ワシは丈夫がとりえやからな」
龍司がニコッとすると、子供っぽい表情になった。そして、車が静かに動き出した。遥が振り返れば、ベランダで桐生が見送っていた。それが今生の別れのように思えて、遥は俯いた。寂しさが足元から湧き上がり、グッと奥歯を噛み締めたとき、龍司の大きな手が遥を引き寄せた。
「遥。今日は一日遊ぼうや」
見上げれば、龍司は優しそうに笑ってくれた。
「うん」
小さく頷いて、遥は寂しいと思う自分を追い払おうとした。今日は龍司が側にいるのだ。寂しいとか考えては申し訳ない。
「お兄ちゃんは、ディズニーランドに行った事あるの?」
素朴な疑問をぶつけてみる。遥は『ヒマワリ』の遠足で来た事があるし、桐生とも一度だけ来た事がある。
「ワシはそうやな。一応行った事はあるで。でもあんま詳しくはないな」
「そうなんだ」
「せやから、遥に案内してもらわんとな」
肩を抱いたまま、顔を覗き込んで龍司は言う。遥は頷き
「任せておいてよ!」
と、カラ元気でそういった。

冬のディズニーランドは、寒空の下でもやはり混んでいた。その中を、龍司と遥は並んで歩く。そして、遥は龍司も悪目立ちすることを痛感した。背が高すぎるのだ。遥の知る限り、桐生より背が高い人は、龍司ぐらいしかいない。
遥が乗り物に乗りたいといえば、龍司はそこへ連れて行けと言ってくれた。
パーク内を歩いていると、赤い車が停まっていて、甘い匂いが漂ってくる。
「あ、お兄ちゃん!あれ、美味しいんだよ!」
遥は龍司の手を引いて、そのワゴンへ駆け寄った。
「お兄ちゃんも食べる?」
見上げれば、龍司は
「勿論や。ワシの分も買うてや」
すぐに千円札を手渡してくれた。
「いいの?」
それを持って遥は小首を傾げて問いかける。
「それで買うてや。頼んだで」
「うん」
遥はワゴンの中のお姉さんから二つ貰うと、龍司が待つ所へ戻った。シナモンのたっぷりかかったチュロスを手渡して、自分の分にかぶりつく。
「美味しい~」
小さく言えば、龍司もかぶりつき
「結構うまいのう」
ニパッと笑う。桐生は甘い物が嫌いだから、こういう所でも絶対に食べない。
「お兄ちゃんは、甘い物は平気なの?」
遥はそっと聞いてみる。もし、自分に合わせてくれていたなら申し訳ないと思うからだ。だが、龍司は
「ワシか?ワシは甘いモンも好きやで」
別に何でもないかのように言った。
「そうなんだ。あわせてもらってるのかと思っちゃった」
ぺロッと舌をだして言えば、龍司は目を細め
「そないな事あるかい。ワシが食べたいから食べるんや」
と言ってくれた。

お昼はパークでピザを食べ、キラキラ光るパレードを見て、それからアトラクションに乗る。どんどん日が西に傾いても、遥は元気に龍司を連れまわした。だが、日が落ちればさすがに疲れてくる。
「お兄ちゃん。疲れてない?」
手をつないでいる龍司を振り返り、遥は聞く。
「遥は、疲れたか?」
逆に聞かれて、遥は首を左右に振った。
「ううん。疲れてない」
「嘘つけ。本当はクタクタなんやろ」
ニシシッと笑って龍司は言う。それから、遥の顔を覗き込み
「ワシ、今日は舞浜のホテル取ってるんや。そこで休もう」
「うん」
遥が頷くと、龍司はその手を引いて、出口へ歩き始めた。

駐車場でリムジンに乗り込むと、すぐにホテルに着いた。正面入り口にリムジンが停まると、明らかにホテルの従業員が目を見張っていた。係の人にドアを開けられ、遥は自分が何処かのお姫様になったような気分だった。しかし、龍司は慣れているのか、別段何でも無いように歩いていく。遥は慌てて後についていった。

ロビーの高い天井。ピカピカの床。チェックイン中の龍司の側で、遥は口を開けたままぐるりと見渡しため息をつく。
「遥、行くで」
声をかけられて、遥は急いで龍司について行く。大きなエレベーターに乗り、見事なドアのある部屋の前についた。今まで、ホテルに泊まった経験が無い遥は、どうしてもキョロキョロしてしまう。薄暗い廊下に敷かれた絨毯は柔らかいし、扉は重厚は雰囲気だ。
そして、部屋に入った遥は、本当に唖然とさせられた。
入った正面に、ガラスのテーブルと豪華なソファ。その向こうには、大きなテーブルと白い椅子。これでもかと飾られた、大きな花瓶と溢れんばかりの花。
「お兄ちゃん・・・なんか、すごいんだけど」
立ち尽くす遥の前で、龍司は足を投げ出すようにソファに座り
「そうか?これくらい当たり前や」
そういわれても、遥には返す言葉が無い。
「ちょっと、部屋の見学でもさせてもらえばええ」
龍司が顎で促してくる。遥はキョロキョロしながら、部屋の奥へ進んだ。木の扉が開いていて、その奥にはかなり大きなベッドが二つ並んで置かれていた。
「お兄ちゃん、何かすごいよ、ここ。ウチより広いかもしれないよ」
慌てて龍司の所に帰ると、彼はテーブルの上に置かれたフルーツバスケットから蜜柑をとって食べていた。遥が隣に座ると、蜜柑を一つ手渡してから、例のニパッと笑う顔で
「ワシ、狭い所はアカンのや。こんなナリやさかい、ベッドがでかくないと足がはみ出るんや」
「・・・そうなの?」
蜜柑をむきながら遥は首を傾げる。
「そうなんや。ベッドが狭いと落ちるしな。せやから、ホテル取るときは、でかいベッドがあるところにしてるんや」
そんなものだろうか?と遥は思った。

夕飯はレストランで、くだらない話をしながら中華料理を食べた。遥の学校の事、桐生との生活の事などを話せば、龍司は笑って聞いてくれた。たったそれだけの事だったが、遥はとても嬉しかった。
部屋に戻って、今度はお風呂の前で遥は固まった。一人で入るには広い湯船だった。たぶん、家の風呂の倍はあるだろう。だが、龍司は笑って
「よくアメリカのテレビにある、泡風呂に出来るんやで」
と、やり方を教えてくれた。
真っ白な泡が広がる風呂に浸かって、遥は本当にお姫様のようだと思った。こんな経験は初めてだ。大きな車、綺麗なホテル、泡のお風呂。思わずクスクスと笑ってしまう。そして、こんなお風呂におじさんを入れたらどうなるだろうと、一人思った。
風呂から上がれば、龍司は電話で誰かと話をしていた。深刻なのか、眉間に皺を寄せ、窓の外を睨みつけている。邪魔をしてはいけないと、ベッドルームに戻って、大きなベッドに転がると、ふんわりと包まれるようで心地いい。今日一日歩き疲れた体は急激に眠りの世界へ引き込んでいく。
「遥。寝るんやったら、布団に入れ」
龍司の声が聞こえて、遥はもぞもぞと毛布の下に潜り込み、目を閉じた。


真っ白な世界が広がっていた。乳白色の霧の中、遥はぽつんと立っていた。どこだろうとキョロキョロしていると、桐生の姿が見えた。慌てて駆け寄ると、目の前の桐生は無表情に遥を見つめていた。
その瞳は、恐ろしいほど冷たかった。
立ち尽くす遥の前で、桐生が踵を返し、歩き出した。ついて行こうと、桐生の手を掴もうとした時、別の手が桐生の手を引いていた。
(誰なの?)
見上げれば、それは薫だった。優しい笑顔で桐生を見つめ、どんどん連れて行ってしまう。
(おじさん、待ってよ)
必死で走っているのに、もう少しで桐生の服に手が届きそうなのに、どうしても掴む事が出来ない。
もう一歩、もう一歩でと思った瞬間、白いドアが閉じて、遥は立ち止まった。
それは、新幹線のドアだった。見れば、東京駅の新幹線ホームで、遥は東海道新幹線を見上げていた。もう閉ざされたドアの向こうで、桐生が寂しそうに微笑み、薫の身体を抱き寄せた。
(おじさん、置いていくの?やっぱり、私の事、置いて行っちゃうの?)
列車の発車ベルが鳴り響く。桐生を乗せた列車が動き出す。
(お願い!おじさん、置いていかないで!)
叫びたいのに、喉が押しつぶされたように声が出ない。涙はどんどん溢れてくるのに、どうしても言う事が出来ない。走り去る列車が遠ざかり、遥は大きく息を吸い込んだ。
「嫌!」
瞬間、ばっと目が覚めた。見えたのは暗い天井だった。涙が耳に入ってくすぐったい。混乱する頭で、夢だったのかと思った時、ベッドサイドのランプが灯った。
「どないしたん?」
声をかけられ、遥は隣のベッドを見た。龍司が、ベッドの中から自分を見つめていた。
「何でもないの」
無理に笑顔を作れば、龍司の眉間に皺がよる。
「泣いとるくせに、なんでもない訳ないやろ」
「本当に、何でもないの。夢、見ただけだから」
涙を拭いて、一生懸命取り繕う。すると、龍司は笑って、自分の毛布をまくり上げ
「怖い夢でも見たんやろ。こっち来るか?」
白いTシャツが目に入り、遥は慌てて目を逸らす。
「こっち来いや」
低い声が飛ぶ。
「平気だもん」
遥が拒むと、龍司はクククと喉を鳴らし
「遥が来んのやったら、ワシがそっち行くわ」
「え?」
見れば龍司はにやあっと笑っている。仕方なく、遥はベッドを降りて、龍司の胸の中に転がり込んだ。少し甘い、洋酒の匂いがした。
「お兄ちゃん、お酒飲んだの?」
遥が見上げれば、龍司は上からそっと毛布をかけて
「そうや。ま、睡眠薬代わりやな」
静かな声が響く。温かい毛布の中で、遥はもう一度涙を拭いた。それから
「お兄ちゃん。おじさん達、今頃どうしてるかな?」
「もう寝とるやろうなぁ」
「そっか。そうだよね」
自分で言いながら、夢を思い出して涙が溢れる。
「お兄ちゃん。もし、薫さんとおじさんが結婚したら、私、やっぱり『ヒマワリ』に帰るのかな」
「何でそう思うんや?」
「だって、私、邪魔しちゃうし。きっと、おじさんだってそう思ってるよ。私、また置いていかれちゃうのかな」
グズグズと泣き出すと、龍司はティッシュを取ってくれた。
「ワシは、そないな事ないと思うで。今日かて、ワシが遥を誘わなければ、オッサンは遥を連れて薫と会っとったやろな」
大きな手が、遥の髪を撫でていく。
「オッサン、遥が大切やから、絶対『ヒマワリ』に行かせたくないはずや。それに、『ヒマワリ』かて、安全やないしな。せやから、遥をワシに預けたんや」
「どうして?」
涙に濡れる瞳で見れば、龍司はニコッと笑い
「ワシに、やないな。近江連合の六代目会長に預けたんや。ワシん所なら、遥を守りきれると思うたんやろ」
「守る?」
「そうや。これはワシらの世界の一般論や。ワシの意見やないけどな」
龍司はそう前置きをして、大きく息を吐いた。
「オッサンは、ワシらの世界じゃ生きる伝説や。せやから、跳ね返りどもが、一旗上げようとする時は、オッサンを狙うやろ。そん時、オッサンを焚きつける餌には、遥が一番なんや」
「私を、餌に・・・」
「ワシかて、東城会と戦争する時はその事を考えた。『ヒマワリ』の間取りからなにから調べさせたしな。実際、千石は遥を誘拐して、餌にした」
遥は息を飲んだ。あの日、遥はヒマワリの庭で、下の子達と遊んでいた。その時、突然黒い車から男達が飛び出してきて、遥を横抱きにすると車に押し込んだのだ。
「オッサンは、遥に危害が加えられることを一番恐れとる。せやから、ワシの申し出を受けて、遥を預けてくれたんや」
龍司の大きな手が、遥の涙をふき取った。
「オッサンは、遥を放すことはないやろ。それでも、オッサンの側に居るんが辛いときは、ワシを頼ってな」
大きな腕の中に閉じ込められて、遥は小さく頷くと目を閉じた。温かい世界で、今度は夢を見ないで済みそうだった。

明るい太陽の光が眩しくて、遥はゆっくり目を覚ました。真っ白な天井を見上げ、それからがばっと起き上がった。隣に寝ていたはずの龍司はもういない。ベッドから滑り降りて、隣の部屋へ行くと、既に着替えた龍司がのんびりテレビを見ていた。
「おはよう」
遥が声をかけると龍司は振り返り
「おはようさん。朝飯、届けてもらうさかい、顔洗っておいで」
「うん」
遥は顔を洗い、服を着替えて龍司の所へ戻った。テレビが天気予報を伝えていて、それによると今日も東京は晴天らしい。
「遥、目が痛くないか?」
龍司が心配そうに聞いてくる。昨日の夜、泣きながら寝てしまった事に、遥はちょっと恥ずかしいと思いつつ
「平気。もう大丈夫だよ」
にこっと笑えば、龍司は頷き
「まあ、あまり無理せんと、ワシには頼ってな」
その時、部屋の呼び鈴が鳴り、龍司がドアを開けた。

テーブルの上は、貴族の朝食だった。トースト、ワッフル、サラダにオムレツ。ガラスの器のオレンジジュース。
「食べよか」
促されてテーブルについた遥にはため息しか出ない。だが、これも龍司には当たり前のようだった。
「何や、食わんのか?」
「ううん。食べる。けど、何か驚いちゃった」
「驚く?」
トーストにバターを厚く塗りながら龍司が聞いてくる。
「何だか、お姫様になったみたい。お部屋もすごいし、お風呂もすごいし、ご飯だってすごいんだもん」
「そっか。まあ、これがワシ流のおもてなしやと、思ってな」
「うん」
遥は頷き、小さく笑った。

白いリムジンは、昨日と同じ時間に同じ場所へ戻ってきた。桐生のアパートの前の細い道。今日は道行く人がリムジンをまじまじと見つめているが、龍司にはそんなことは関係ないようだ。
昨日と同じように運転手にドアを開けてもらい、遥は車を降りた。ドアが閉まると、龍司は窓を開けて
「遥。また兄ちゃんと遊んでくれるか?」
「うん。またね」
手をふれば、龍司は一瞬寂しそうに眼を細め、それから笑顔で手を振ってくれた。
白い車が走り出し、遥はそれが見えなくなるまで見送った。昨日と、今日の楽しい思い出を、早く桐生に伝えたい。遥は足取りも軽く階段を駆け上った。

遥にとって、楽しいディズニーランドデートから数日が過ぎた。
桐生が仕事から戻り、一服しているときだった。テーブルの上の携帯が鳴りだし、大阪の番号を知らせてくる。一瞬、嫌だと思ったが、桐生は通話ボタンを押した。
「桐生だ」
『ワシや』
陽気な声は、郷田龍司のモノ。
『こないだは、遥を借りてすまんかったのう』
「お前、遥をどこに連れて行ったんだ?」
怪訝な声で聞けば、電話の向こうの声は太く笑い
『ディズニーランドや』
「その後だ」
『ホテルのスイートに泊まったわ。喜んどったやろ?』
「・・・それでか」
桐生は深くため息をついた。遥は桐生にホテルに泊まった事を一生懸命話した。泡の風呂、大きなベッド、朝食のルームサービス。掻い摘んで聞かされた桐生は、いったい龍司と遥はどこに泊まったのだろうと疑問に思っていたのだ。
「で、用件は何だ」
『次、薫と会うのはいつや?』
「何故、そんな事を聞く?」
『ワシがちょくちょく薫に会うと、薫がクビになりかねんからのう。オッサンに聞いたほうが早いと思うたんや』
「・・・まだ、決めてない」
『そうかぁ。なら決まったら教えてや。それから』
「まだ何かあるのか?」
『オッサン、あと八年したら、ナンボや?』
「46だ」
『ワシは、今のオッサンと同じくらいやで』
電話の声が弾み、桐生は眉間に皺を寄せる。
「何が言いたい」
『その頃、遥は別嬪さんになってるやろな。そん時はワシが遥を貰ってもええか?』
「・・・てめぇ、何言ってるのか、わかってるのか?」
思わず凄みのある低いで言ってしまい、遥が心配そうに台所から顔を出した。慌てて桐生は背を向ける。電話の向こうの声は相変わらず飄々と
『わかっとるで。せやから考えといてな。それと』
「まだ何かあるのか」
『遥に、次どこに行きたいか聞いといてな。ほな』
一方的な電話が切れて、桐生は大きくため息をつく。ただ事ではない気配を感じた遥が駆け寄ってきた。
「おじさん、どうしたの?」
「龍司だ。次にどこに行きたいか聞いてきた」
「ホント?じゃあ、富士急ハイランド!」
遥が嬉しそうに笑う。桐生はこめかみがズキズキと痛む思いだった。
「おじさん、お兄ちゃんにそう言ってくれる?」
屈託の無い笑顔。桐生としては、遥には堅気のままでいて欲しいのに、よりによって相手はいまや日本最大の極道組織のトップだ。
「遥、それでいいのか?」
眉間を押さえて聞けば、遥はキョトンとして
「何で?私、まだ富士急ハイランド行った事ないんだモン。行ってみたいな」
「俺が連れて行こうか?」
桐生が言えば遥は首を左右に振り
「ううん。ウチにそんなお金ないでしょ?だからお兄ちゃんに連れて行ってもらうの」
ニッコリ笑顔はちゃっかり者の顔だ。これなら、龍司に引っ張られる心配は無いかもしれない。だが、何時取られてしまうかと思うと、不安もある。
「富士急ハイランド、楽しみ!」
元気な遥に、桐生は少し微笑み
「そうか、なら龍司に言っておこう」
桐生はとりあえず、遥が幸せならそれでいい、と思うことにした。




冬の日は、低く南の空に浮かんでいた。東京の冬は、いつも晴天が続く。パリパリに乾燥した空気の中、遥はお気に入りのリップクリームを唇に塗ってから、桐生の病室に入った。
「おじさん。調子はどう?」
いつものように声をかければ、桐生は優しく微笑んだ。

遥は、あれから毎日桐生のもとへ見舞いに来ていた。桐生はまだベッドから立ち上がることを許されていない。
そして、遥は知っていた。この病室より二つ向こうの部屋に、あの郷田龍司が入院している事を。その事を桐生に言うべきかどうか、遥は考えていた。できれば、龍司に助けてもらったお礼を言いたいが、桐生が許さないかもしれない。
その日、遥は桐生の病室を出て、龍司の病室の前を通った。全開の扉の向こうに、白いカーテンがゆれていた。気になって、ドアの縁に手をかけて、そっと中を覗き込んだ瞬間だった。
「誰や」
低い声が飛んだ。ビクッとして、思わず立ち尽くす。喉が引き攣れたように声が出ないでいると、もう一度声が飛んだ。
「そこにいるのは誰や」
更に低く響く声。殺気が足元まで届き、遥は一歩踏み込んだ。後は引き寄せられるように、カーテンの向こうへ回りこむ。
龍司は、ベッドの上に上半身を起こしていた。青い院内着に点滴の管。かき上げただけの金色の髪と、喰い殺されそうな輝きを持つ、琥珀色の瞳。その瞳が真っ直ぐに遥を捕らえていた。
どうしようと、立ち尽くす遥の前で、その瞳がふっと緩んだ。
「なんや、嬢ちゃんかい」
「こ、こんにちは・・・」
とりあえず頭を下げて、遥はどうしようかと考えた。猛獣の檻の中に入ったような感覚に、ここから逃げ出したいと思うが、ここで逃げ出したら唯のおかしな子だと思われるかもしれない。ぐるぐると思考が回り始めた時、頭上から声がした。
「嬢ちゃんがここに居るっちゅうことは、桐生のオッサンもここに入院してるっちゅう訳やな」
太い笑いを含んだ声に、遥は龍司を見上げた。鋭い獣のような殺気は消えて、穏やかな表情になった龍司が遥を手招きした。
「まあ、座れや」
言われて、遥は吸い込まれるようにベッドに近づくと、脇に置かれた椅子に座った。色素の薄い瞳は、染めた髪と相まって、外国人のように見える。
「嬢ちゃんは、何しに来たんや?」
テレビぐらいでしか聞いた事の無い大阪弁で龍司は問う。別に怒っているようでは無いので、遥は小さく声を出す。
「あの・・・大阪で助けてもらったんで、お礼を言いたくて・・・」
「助けた?」
龍司の眉間にぐっと皺がよる。遥が緊張する前で、龍司の視線が天井を泳ぎ
「ああ、千石のあれか。あん時は、怖い思いさせてすまんかったなあ」
真っ直ぐに遥を見る眼は、秋の森を思い出させる色だった。微笑だけで、温かい感じになる。
「ううん。おじさんが助けてくれなかったら・・・」
「ちょい待ち!」
遥が言いかけた言葉に、龍司の声が被る。
「嬢ちゃん。オジサンはやめてや。ワシは、桐生のオッサンよりうんと年下なんやで」
「え?」
きょとんとする遥に、龍司はニカッと歯を見せて
「オッサンやない。お兄ちゃんや」
「お、お兄ちゃん?」
小さく言えば、龍司は点滴の無い右手で自分の胸を叩き
「そうや、お兄ちゃんや」
胸を張って言う姿がコミカルで、遥は思わず吹き出した。
「何や。おかしいか?」
途端に不満げな表情になる龍司に、一生懸命首を左右に振って
「ううん。違うの。お兄ちゃんなんて呼ぶの初めてだから、面白いなって思ったの」
「そうか。初めてか」
「うん」
頷けば、龍司は満足そうに
「ずっと、兄ちゃんて呼ぶんやで」
「うん」
力強く言って、遥はつられる様に笑顔になった。それに龍司が頷き
「嬢ちゃんは・・・」
「私の事は、遥でいいよ」
今度は遥が言い返す。大きな刃物傷のある唇が嬉しそうに笑い
「そっか。じゃ、遥。今日は桐生のオッサンの見舞いで来てるんやな?」
「うん」
「オッサン、調子どうや?」
「まだベッドから起きちゃいけないって言われてるの」
「そうか。ワシと同じやな」
感慨深そうに言って頷く様が、遥にはテレビの中のタレントの様に見える。いちいち動きが大げさで、何となく笑ってしまう。
「お兄ちゃんも、駄目なの?」
「そうや。ワシはタバコやらんからええけど、オッサンはタバコ吸えんから大変やな」
心配する所がそこなんだと、遥は笑う。龍司は少しも目をそらさず問いかけた。
「遥は、毎日見舞いに来てるのか?」
「うん」
「じゃあ、ついでにワシんトコにも遊びに寄ってや。ワシ、暇で暇で死にそうなんや。まあ、来週には大阪に帰るけど、それまで宜しゅう頼むわ」
桐生とはまた違う、優しい笑顔で龍司は言った。それから片目を閉じてウインクし
「この事は、桐生のオッサンには秘密やで。オッサンああ見えて過保護やからな。ワシがちょっかい出したーって乗り込んでくる可能性がある」
ウシシっと悪戯な子供のように笑う。
「そんな事、無いと思うけど」
「いや、絶対なる。大阪の城でのオッサンは唯事や無かった。ワシ、グーでぶたれる位ですめばええけど、東京湾に沈められるかもしれんと思っとるで」
龍司は目を閉じてうんうんと一人頷く。
「そんな事ないよー」
遥が口を尖らせる。
「絶対そうやって。遥が誰か男子と付き合う事があったら、オッサン自棄酒飲んで、その男の家に押しかけるで、きっと」
うひゃうひゃ笑いながら龍司が言う。遥はそうかなあと思う。桐生がそこまでするとは思えない。だが、龍司はすっとまじめな顔になり
「遥。せやから、この事は兄ちゃんと二人だけの秘密や」
「うん。わかった」
遥もまじめな顔で頷いた。龍司はにぱっと笑い
「約束やで」
右手の小指を出してくる。
「うん。約束」
遥は、大きな節くれ立った指に、小さな自分の指を絡めた。龍司がそれを大きく振って、指を切る。
「オッサンには内緒や。頼んだで。待ってるさかい、必ず来てや」
「うん。必ず来るから」
遥が椅子から立つ。龍司が眩しいものを見るように目を細めた。
「お兄ちゃん。またね」
「おう」
右手を上げて手をふる『兄』に、遥も片手を上げて答えて、病室を後にした。

その後、二人の秘密はすぐに桐生の知るところとなり、龍司がしっかり文句を言われたのは言うまでも無い。




神室町に平和が戻った。まだ建設途中の神室町ヒルズから、無事生還した桐生は、自分がどうやって戻ってきたのかは覚えていない。
それもそのはず、あの爆弾のカウントダウンが終わった直後、爆発しなかった事に安堵した桐生は気を失ってしまったのだから。
そのまま病院へ直行となり、桐生はクリスマスをベッドの上で過ごす事になった。

冬の日は落ちるのが早い。冬至を過ぎたばかりの街は、どんどん暗くなっていく。
そんな中を、遥は一人歩いていた。周りは華やかなクリスマスカラーに彩られ、イルミネーションが休み無く輝いている。待ち行く人たちは皆、とても幸せそうに見えた。
(あーあ。クリスマスは無しか)
手をつないで歩いていく恋人たちを見て、遥は心でため息を吐く。去年のクリスマスは、それどころではなかった。だから、今年はと思っていた。大好きな桐生と過ごすクリスマスを、楽しみにしていたのに。
意識こそ回復したが、桐生はまだ安静を求められている。今の遥に出来る事は、毎日ヒマワリから見舞いに行く事だけだった。

病院は、面会の人で混んでいた。休憩室の小さなツリーが可愛らしい。
面会者名簿に名前を書いて、いつものようにナースルームから二つ隣の病室へ行く。
個室の、常に全開になっているドアを軽くノックして、遥は顔を覗かせた。
「おじさん」
小さく声をかけてから、衝立の向こうに回りこむ。桐生は、ベッドを起こして、雑誌を読んでいた。
「おじさん、具合はどう?」
遥は丸椅子を引き寄せて、ベッドの側に座る。桐生は雑誌を脇において
「ああ。もう大丈夫だ。それより、ヒマワリには馴染めたか?」
桐生が心配するのは、常に遥のことだけだ。心配をさせてはいけないと笑顔で
「うん。たった一年だもん。みんな知ってるしね」
「そうか」
息の多い、静かな声に安堵が含まれていた。毎回、桐生は遥の安否ばかり口にする。そんなに心配しなくても、とも思うが、くすぐったいような嬉しさもあった。
だが、今日は違う。12月23日の今日を、本当ならあの家で、あの部屋で過ごしたかったという思いがどうしても首を持ち上げてしまう。
「おじさん。今日、クリスマスイブイブなんだよ」
そんな言い方をすれば、桐生は目を細め
「そうだな。もう、そんな時期か」
ため息の入る言葉に、遥は思わず口を尖らせた。
「今年は、おじさんと二人で過ごすクリスマスだったのにな」
そんな事を言っても仕方ないのに、と分かっていても、口に上ってしまう言葉。こぼれた瞬間、桐生は目を閉じ、項垂れて
「すまない」
小さく言われて、遥はしまったと思った。こんな事を言うつもりじゃなかったのに、もう取り返しがつかない。
「そんなつもりで言ったんじゃないの。おじさん、ゴメンね」
「遥・・・」
見つめてくる深い色の瞳に、遥は精一杯の笑顔を浮かべた。
「プレゼント、もらえるかな?って思ってたから。ヒマワリだとプレゼント無いでしょ?だから期待してたの」
えへっと、子供っぽく舌を出す。桐生の目が優しくなった。
「遥は、プレゼント、何が欲しかったんだ?」
「え?」
遥は言葉が止まった。そもそも、欲しいプレゼントなんて無い。モノじゃなく、桐生の時間が欲しかった。遥はしばらく考えて、あることを思い出した。確かにこれならお金はかからない。でも、頼むのは怖い。
「言ってみろ」
桐生が顎で促してくる。遥は一瞬視線を外し、それからもう一度桐生を見た。
「じゃあ、おじさん。私にキスして」
「え?」
今度は、桐生が聞き返す。驚きのために見開かれた目に、遥は硬く手を握り、勇気を出して言葉を紡いだ。
「私ね、神室町ヒルズの上におじさんがいた時、ヘリコプターに伊達のおじさんと乗ってたの。その時見ちゃった。おじさんが薫さんとキスしてるの」
「なっ!」
桐生が息を飲む。一瞬にして顔色が真っ青になり、次に耳まで真っ赤になった。
「見てたのか?」
「うん。見ちゃった」
あの時、桐生は寂しげにヘリを見上げていた。そして両腕に抱いていた狭山薫と、キスをしたのだ。
でも、と遥は思う。薫より、自分の方がずっと桐生を好きだと。自分の方がもっと近くにいて、もっと大切に想っていると。だから、自分にもキスして欲しい。
「ねえ、おじさん。別にお金がかからないから、いいでしょ?」
自分の気持ちを、冗談で誤魔化そうと遥は言う。
「遥。そういう問題じゃないだろう?」
眉間に皺をよせて、桐生が答えた。
「でも、薫さんとキスしたんでしょ?」
遥は更に問い詰める。
「いや、まあ・・・んん・・・」
口ごもる桐生は、俯いてしまった。こういう時は、もう一押しだと遥は経験からわかっていた。だから
「おじさん。私にも、キスして」
ね?と最後に言葉をつけて微笑むと、桐生は大きくため息を吐いて
「わかった。じゃあ、目を閉じろ」
低く甘く響く声に言われて、遥は姿勢を正すと目を閉じた。両肩に、桐生の熱い大きな手が添えられて、遥は心臓が早鐘を打つのを聞いた。こめかみが痛いほどドキドキして、膝の上に置いた手で、膝を強く掴む。ゆっくりと近づくタバコの香りと体温に、身を硬くする。
「!」
感じたのは、右の頬だった。一瞬、柔らかいものが触れて、すぐに離れていく。
「おじさん」
遥は目を開けて、桐生を見た。桐生は少しだけ笑って
「そういうのは、もっと大人になってから、本当に大切な人とするんだ」
「・・・うん」
遥は静かに頷いた。それから笑顔で
「もっと大人になったらね」
今はこれだけだけど、もっと大人になったら、本当に大切な、大好きなおじさんにキスしてもらおうと、心に誓った。




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