セルバンテスに言葉巧みに乗せられたような感はあるが、数日後、二人は彼が紹介してくれた店を訪れることにした。
「まるでおじさまとデートしているみたいですわね」
少々語弊があるが、嬉しそうな彼女を訂正するにも忍びない。
「いらっしゃいませ。セルバンテスさまからお話は伺っております」
待ち構えていた女性店員が、彼らを店舗内へと案内する。
「目移りしてしまいそうです……」
並べられた色とりどりの洋服を見回すサニーに、女性の店員が笑いかけた。
「お嬢さま。どうぞ好きなだけ試着なさってください」
サニーはとっかえひっかえ服をその身に当て、時折何事かを考え込む。それを幾度か繰り返し、その中である一点を手に取った彼女は顔を輝かせた。
「これがいいですわ。お願いできますか?」
「では、こちらへ」
サニーは店員に連れられ、ドアの向こうに消えた。一方、樊瑞は別室で彼女が着替えるのを待つ。
ソファに座ると、それを見計らったように別の店員が茶器を彼の前に置いた。
あぁ、いい茶葉を使った中国茶だ。
彼はそんなことを思いながら喉を潤す。
「まぁ、お嬢さま。とても愛らしい」
隣の部屋からそんな店員の賛辞が聞こえてきた。
「こちらでしたら、靴はロングブーツを合わせるといっそう可愛らしいですよ。持ってまいりますね」
そして、ドアの開く音がし、
「どうでしょうか、おじさまっ」
華やいだ声に彼は視線を向ける。
至極嬉しそうなサニーとは対照的に、樊瑞は啜っていた茶を噴出しかけた。
確かにとても愛らしい。その点に関して異論はない。
だが、問題はそのスカートの短さだ。
「サ、サニーっ! はしたないっ! もう少し裾の長い服を……っ」
「でも、おじさま。セルバンテスおじさまは絶対領域は必須だと」
それに、短いほうが絶対かわいい、と仰っていて。
サニーの台詞に、彼は訝って眉を寄せる。
「……なんだ、それは」
「さぁ……よくわかりませんが、ここのことだそうですけど……」
彼女も首を傾げながら、スカートとロングブーツの狭間を指でさししめした。
同僚に殺意を抱くことは滅多にない。頻繁にあっても困るが、しかし、このときほど殺意が湧いたことはない。
覚えていろ、セルバンテス。
樊瑞は胸のうちで呪詛を呟く。
「でも、おじさまっ。私、これが気に入りました」
これがいいですわ。
笑みを浮かべた少女は樊瑞の目の前でくるくると回る。そのたびにスカートの裾が揺れ、なかなか危うい。
サニーはまだ子供だ……うむ。まだ幼い。
動き回るには長い裾は邪魔になるだろう。
樊瑞は無理矢理己に言い聞かせる。
わしがいるときは、マントで覆い隠してやればいいからな。だが、成長したら、絶対にもう少し慎みのある服を着せる。誰がなんと言おうと……特にセルバンテスがなんと言おうが着せてやる。
彼は心中で密かに握りこぶしを固めた。
しかし……樊瑞の決意も虚しく、絶対領域は彼女のトレードマークとなる。
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まったく揺るぎを感じない、固い大地
今までずっと、生き物のように揺らめく波の上の船で生活していた少年にとって、それは未知の感覚だった。
体内の臓器だけが、波間を漂うようにゆらゆらするような錯覚。
静止している足元、支えられている体にとってそれは耐えられない吐き気を呼ぶ。
「うっ…おぇえっ」
「ギャーきったねー!!」
「ばっちー!鬼蜘蛛丸が吐いたー!」
思わず砂浜に手をつき嘔吐しだした少年を、周囲にいた同じ年頃の子供たちはひやかしながら避けるようにして離れる。
本当に苦しいのに、なんで誰も助けてくれないんだろう。
少年は次から次へとせりあがってくる胃の中のものを出し続ける。
けれど、一向に楽にはならかった。
泣きそうになっていたその時、視界にフッと影がさし、あたたかい手が背中に触れた。
「おいお前、大丈夫か?」
鋭い目とぶっきらぼうな声から伝わってきた気遣わしげな色。
唯一救いを差し延べた彼に、少年は恋をしてしまった。
少年の名は鬼蜘蛛丸、そして恋をした相手の名は疾風。
鬼蜘蛛丸13歳、疾風18歳の時の初めての出会いであった。
****
疾風兄やんとの年齢差は嘘っぱちです
今までずっと、生き物のように揺らめく波の上の船で生活していた少年にとって、それは未知の感覚だった。
体内の臓器だけが、波間を漂うようにゆらゆらするような錯覚。
静止している足元、支えられている体にとってそれは耐えられない吐き気を呼ぶ。
「うっ…おぇえっ」
「ギャーきったねー!!」
「ばっちー!鬼蜘蛛丸が吐いたー!」
思わず砂浜に手をつき嘔吐しだした少年を、周囲にいた同じ年頃の子供たちはひやかしながら避けるようにして離れる。
本当に苦しいのに、なんで誰も助けてくれないんだろう。
少年は次から次へとせりあがってくる胃の中のものを出し続ける。
けれど、一向に楽にはならかった。
泣きそうになっていたその時、視界にフッと影がさし、あたたかい手が背中に触れた。
「おいお前、大丈夫か?」
鋭い目とぶっきらぼうな声から伝わってきた気遣わしげな色。
唯一救いを差し延べた彼に、少年は恋をしてしまった。
少年の名は鬼蜘蛛丸、そして恋をした相手の名は疾風。
鬼蜘蛛丸13歳、疾風18歳の時の初めての出会いであった。
****
疾風兄やんとの年齢差は嘘っぱちです
怪談
「……急に魚が一匹も掛からなくなり、錨まで上がらない。おかしいと思った漁師の一人が海に潜ると……そう、海の中だぞ」
ぐっと、鬼蜘蛛丸が身を乗り出した。微かに、凄みをきかせた笑みをたたえて。
小さな灯台の明かりが、彫りの深い鬼蜘蛛丸の顔に強い陰影を付ける。
それが、さらなる迫力をかけた。
「錨の上に、誰かが、座っている」
ごくりと誰かが喉を鳴らす。
この場に座す何人かは、後悔とともにこう思っているだろう。
鬼蜘蛛丸がこんなに怪談話がうまいなんて予想外だったと。
「……やせ細った老婆」
ささやく低い声。
「そこには海中だといのに、真っ白な髪を逆立たせた老婆がいた……」
絶妙な間。そして、口調が一変する。
「老婆は赤い目をカッ!と見開きこう言った!」
「わーーー!!」
叫んだのは重だった。隣の東南風に必死でしがみつく。
「もう、やだ。勘弁」
えぐえぐと涙目で訴えられて、続けられる鬼蜘蛛丸ではない。
一瞬にして、苦笑と安堵に場が白けた。
「……時間も遅いし、もういいっす。お話ありがとうございました」
そそくさと、間切が一抜けを表明した。
「おお、そうだな。明日も仕事だ。部屋に帰りな」
その言葉に蜘蛛の子を散らすようにして、若手達は鬼蜘蛛丸の部屋を後にする。
ぎゃあぎゃあと怪談話の余韻に騒ぐ声が、ゆっくりと遠ざかっていく。
盛り上がる怪談話にびびる若手を、横手でにやにやと観察していた男が、灯台の火を吹き消した鬼蜘蛛丸に声をかけた。
「お疲れさん」
義丸である。自室に戻らず、ひとり鬼蜘蛛丸の部屋に居残っていた。
「はは。たまには、こんな気晴らしだっていいもんだな」
明かりが消え、闇の中から声が返ってきた。
幹部に昇格しても、若手との付き合いに遊び心を無くしてはいない。
鬼蜘蛛丸は、怪談話に貴重な灯台の明かりと部屋を提供し、真夜中まで話にふけっていたのである。
「あんたがシメなきゃみんな明日は寝坊してたかもしれませんね」
「それは困るからな、とっておきの話だ」
珍しく、悪戯な声で鬼蜘蛛丸は笑う。義丸も笑い返し、ふと、その笑いを止めた。
「しっかし、巧いもんだ。お頭の受け売りっすか?」
「いや、蜉蝣の兄さんだ」
さらりと受け流すには、その人物はあまりに予想外だった。
「……………………」
意外。という雰囲気をまとう義丸に、鬼蜘蛛丸は懐かしそうに笑った。
「俺は、怪談話の類が案外好きなんだよ」
**********
「そこで、振り向いた先の船縁に、今まさに海に飛び込もうといわんばかりに腰掛けた背中がずらっと……」
「だあぁぁ!!やめろ!蜘蛛が怖がってるじゃねぇか!!」
耳元でがなりたてられて、鬼蜘蛛丸は含み笑いに苦みを上乗せした。
軽く10年以上は昔の話である。
蜉蝣と疾風と鬼蜘蛛丸。
この3人で水軍館の一室を共有していた時期があった。
とはいえ、蜉蝣は10代の半ばから陸酔いのお陰で船で寝ることのが多かったし、それは鬼蜘蛛丸も同じ事。
さらに疾風ときたら館をひょいと抜け出しては朝帰りという常習犯でもあった。
これには時たま蜉蝣も便乗した。
つまり、3人揃って眠ることはあまりないとも言っていいかもしれない。
そして珍しく3人揃ってみれば、何故だか始まるのが蜉蝣の怪談話である。
これがまた、巧いのだ。
蜉蝣自身は決して口がうまいわけではないのだが、その低い声が僅かな抑揚をもって語る様は、様々な意味で格別だった。
しかもいったい何処で覚えてくるのか、話に限りがない。
記憶力のいい鬼蜘蛛丸が覚えている限りでも、同じ話を聞いたことが一度も、ない。
そして疾風は怪談話の類が大の苦手である。無論、そのことを「臆病だ」として本人は決して認めようとはしない。
だからこそ、蜉蝣の絶好のからかいのネタにされているのだ。
普段はどちらかというと破天荒な疾風に振り回され気味の蜉蝣。
怪談話は彼の確実な逆襲の道具であった。
ぎゅっと背中に回された腕に力が籠もる。
微かに荒い呼吸の感触が布越しに伝わってきた。
怪談話が始まれば、鬼蜘蛛丸は疾風に人形よろしく抱きかかえられる羽目になる。
「怖がってんのは、おめぇだろ」
蜉蝣のからかいの言葉に、疾風が噛みつく。
「……違う!なぁ、蜘蛛、怪談話なんざ嫌だろ?」
常の自信満々の声を気取ろうとした中に、まごうことなき嘆願の響きを感じ取って、鬼蜘蛛丸はこくりと頷いた。
本当は、近くでここまで怖がっている人がいると、なんだかそこまで怖いとは思えないのだが。
でも、この空間が心地よいので、鬼蜘蛛丸は疾風の意に従った。
そのまま、大好きな兄役にぎゅっと抱きつく。
我が意を得たりといわんばかりに、可愛い弟分の頭を撫でて、疾風は勝ち誇ったように蜉蝣を見た。
「な、怖がってんだから、やめとけ」
「……怪談ってのは、怖がらせてなんぼってもんだ。じゃあ、次行くか」
「ふざけんな、このむっつり野郎!てめ、このくそ寒ぃ時期に何だって怪談話なんだよ!!俺はもう、寝るぞ!」
ぴしゃりと言い切って、疾風は掛け布団を肩まで引き上げた。
とはいえ、鬼蜘蛛丸を抱いた腕は緩めない。
にこにこと鬼蜘蛛丸は疾風の胸に頬を寄せる。
暖かさと、微かに鼻をつく海の香り。
それは陸酔いの鬼蜘蛛丸にとっては、何よりも安心できるものだった。
「ん?」
不意に疾風らの寝る布団の間に隙間が空き、冷たい夜気が身を刺した。
「て、め、蜉蝣、なんでお前まで、こっちに来んだよ」
のそのそと疾風と鬼蜘蛛丸のくるまっている布団に入ってきたのは、蜉蝣である。
当たり前だが、布団の許容範囲は軽く超えた。
「怖がってんじゃねぇかと思って。あと、お前だけあったけぇもん持ってるからな」
そう言って、湯たんぽ代わりにもなっている、鬼蜘蛛丸を見る。
「……だから、怖がってねえ……」
いい加減否定するのに疲れたか、眠気が先立ったか、大きなあくびをひとつして、疾風はごそごそと蜉蝣に向かって手を伸ばした。
蜉蝣の顔を隣をすり抜けた腕がつかんだのは相棒の掛け布団。
それを自分のところの掛け布団と重ねるように引き寄せた。
つまり、許容の合図である。
蜉蝣が、微かに笑って、その大きな手の平で、疾風の頬を撫でた。
むっと疾風は眉根を寄せるが、もう突き離すのも面倒なのか、その吹く風にも似た愛撫にそのまま身をゆだねる。
次いで、鬼蜘蛛丸の額に手が置かれ、優しく髪を梳かれた。
ああ、嬉しいな。いいな。
体温の高い子供を真ん中に添えて、3人はそのまま眠りに落ちた。
***********
「……ヨシ。お前の部屋はここじゃないと思うんだが……」
布団に潜り込んだ矢先、隣に人の体温と染みついた海の匂いを感じ取って、鬼蜘蛛丸は呟いた。
「いやー。鬼蜘蛛丸の怪談話がホントに怖くって、怖くって。ひとりじゃ寝れませんから、一緒に寝ましょうよ」
笑いを含んだ声が耳元でささやかれる。
ふわふわした赤髪が肌を滑って、くすぐったい上この上ない。
ひとつの布団に大の男が二人。
鬼蜘蛛丸は大きく息をついた。
「ま、好きにしな」
「え?」
実は蹴り出されることを覚悟していた義丸は、思わず本気で?と目を丸くした。
鬼蜘蛛丸は頷き、くすりと笑いながら言った。
「ただし、陸酔いが出たら船の方に行くからな」
たまには、温かくて懐かしい思い出とだぶる現状に、そのままゆだねてしまってもいいだろう。
きっと、今夜は陸酔いはでない。
「……急に魚が一匹も掛からなくなり、錨まで上がらない。おかしいと思った漁師の一人が海に潜ると……そう、海の中だぞ」
ぐっと、鬼蜘蛛丸が身を乗り出した。微かに、凄みをきかせた笑みをたたえて。
小さな灯台の明かりが、彫りの深い鬼蜘蛛丸の顔に強い陰影を付ける。
それが、さらなる迫力をかけた。
「錨の上に、誰かが、座っている」
ごくりと誰かが喉を鳴らす。
この場に座す何人かは、後悔とともにこう思っているだろう。
鬼蜘蛛丸がこんなに怪談話がうまいなんて予想外だったと。
「……やせ細った老婆」
ささやく低い声。
「そこには海中だといのに、真っ白な髪を逆立たせた老婆がいた……」
絶妙な間。そして、口調が一変する。
「老婆は赤い目をカッ!と見開きこう言った!」
「わーーー!!」
叫んだのは重だった。隣の東南風に必死でしがみつく。
「もう、やだ。勘弁」
えぐえぐと涙目で訴えられて、続けられる鬼蜘蛛丸ではない。
一瞬にして、苦笑と安堵に場が白けた。
「……時間も遅いし、もういいっす。お話ありがとうございました」
そそくさと、間切が一抜けを表明した。
「おお、そうだな。明日も仕事だ。部屋に帰りな」
その言葉に蜘蛛の子を散らすようにして、若手達は鬼蜘蛛丸の部屋を後にする。
ぎゃあぎゃあと怪談話の余韻に騒ぐ声が、ゆっくりと遠ざかっていく。
盛り上がる怪談話にびびる若手を、横手でにやにやと観察していた男が、灯台の火を吹き消した鬼蜘蛛丸に声をかけた。
「お疲れさん」
義丸である。自室に戻らず、ひとり鬼蜘蛛丸の部屋に居残っていた。
「はは。たまには、こんな気晴らしだっていいもんだな」
明かりが消え、闇の中から声が返ってきた。
幹部に昇格しても、若手との付き合いに遊び心を無くしてはいない。
鬼蜘蛛丸は、怪談話に貴重な灯台の明かりと部屋を提供し、真夜中まで話にふけっていたのである。
「あんたがシメなきゃみんな明日は寝坊してたかもしれませんね」
「それは困るからな、とっておきの話だ」
珍しく、悪戯な声で鬼蜘蛛丸は笑う。義丸も笑い返し、ふと、その笑いを止めた。
「しっかし、巧いもんだ。お頭の受け売りっすか?」
「いや、蜉蝣の兄さんだ」
さらりと受け流すには、その人物はあまりに予想外だった。
「……………………」
意外。という雰囲気をまとう義丸に、鬼蜘蛛丸は懐かしそうに笑った。
「俺は、怪談話の類が案外好きなんだよ」
**********
「そこで、振り向いた先の船縁に、今まさに海に飛び込もうといわんばかりに腰掛けた背中がずらっと……」
「だあぁぁ!!やめろ!蜘蛛が怖がってるじゃねぇか!!」
耳元でがなりたてられて、鬼蜘蛛丸は含み笑いに苦みを上乗せした。
軽く10年以上は昔の話である。
蜉蝣と疾風と鬼蜘蛛丸。
この3人で水軍館の一室を共有していた時期があった。
とはいえ、蜉蝣は10代の半ばから陸酔いのお陰で船で寝ることのが多かったし、それは鬼蜘蛛丸も同じ事。
さらに疾風ときたら館をひょいと抜け出しては朝帰りという常習犯でもあった。
これには時たま蜉蝣も便乗した。
つまり、3人揃って眠ることはあまりないとも言っていいかもしれない。
そして珍しく3人揃ってみれば、何故だか始まるのが蜉蝣の怪談話である。
これがまた、巧いのだ。
蜉蝣自身は決して口がうまいわけではないのだが、その低い声が僅かな抑揚をもって語る様は、様々な意味で格別だった。
しかもいったい何処で覚えてくるのか、話に限りがない。
記憶力のいい鬼蜘蛛丸が覚えている限りでも、同じ話を聞いたことが一度も、ない。
そして疾風は怪談話の類が大の苦手である。無論、そのことを「臆病だ」として本人は決して認めようとはしない。
だからこそ、蜉蝣の絶好のからかいのネタにされているのだ。
普段はどちらかというと破天荒な疾風に振り回され気味の蜉蝣。
怪談話は彼の確実な逆襲の道具であった。
ぎゅっと背中に回された腕に力が籠もる。
微かに荒い呼吸の感触が布越しに伝わってきた。
怪談話が始まれば、鬼蜘蛛丸は疾風に人形よろしく抱きかかえられる羽目になる。
「怖がってんのは、おめぇだろ」
蜉蝣のからかいの言葉に、疾風が噛みつく。
「……違う!なぁ、蜘蛛、怪談話なんざ嫌だろ?」
常の自信満々の声を気取ろうとした中に、まごうことなき嘆願の響きを感じ取って、鬼蜘蛛丸はこくりと頷いた。
本当は、近くでここまで怖がっている人がいると、なんだかそこまで怖いとは思えないのだが。
でも、この空間が心地よいので、鬼蜘蛛丸は疾風の意に従った。
そのまま、大好きな兄役にぎゅっと抱きつく。
我が意を得たりといわんばかりに、可愛い弟分の頭を撫でて、疾風は勝ち誇ったように蜉蝣を見た。
「な、怖がってんだから、やめとけ」
「……怪談ってのは、怖がらせてなんぼってもんだ。じゃあ、次行くか」
「ふざけんな、このむっつり野郎!てめ、このくそ寒ぃ時期に何だって怪談話なんだよ!!俺はもう、寝るぞ!」
ぴしゃりと言い切って、疾風は掛け布団を肩まで引き上げた。
とはいえ、鬼蜘蛛丸を抱いた腕は緩めない。
にこにこと鬼蜘蛛丸は疾風の胸に頬を寄せる。
暖かさと、微かに鼻をつく海の香り。
それは陸酔いの鬼蜘蛛丸にとっては、何よりも安心できるものだった。
「ん?」
不意に疾風らの寝る布団の間に隙間が空き、冷たい夜気が身を刺した。
「て、め、蜉蝣、なんでお前まで、こっちに来んだよ」
のそのそと疾風と鬼蜘蛛丸のくるまっている布団に入ってきたのは、蜉蝣である。
当たり前だが、布団の許容範囲は軽く超えた。
「怖がってんじゃねぇかと思って。あと、お前だけあったけぇもん持ってるからな」
そう言って、湯たんぽ代わりにもなっている、鬼蜘蛛丸を見る。
「……だから、怖がってねえ……」
いい加減否定するのに疲れたか、眠気が先立ったか、大きなあくびをひとつして、疾風はごそごそと蜉蝣に向かって手を伸ばした。
蜉蝣の顔を隣をすり抜けた腕がつかんだのは相棒の掛け布団。
それを自分のところの掛け布団と重ねるように引き寄せた。
つまり、許容の合図である。
蜉蝣が、微かに笑って、その大きな手の平で、疾風の頬を撫でた。
むっと疾風は眉根を寄せるが、もう突き離すのも面倒なのか、その吹く風にも似た愛撫にそのまま身をゆだねる。
次いで、鬼蜘蛛丸の額に手が置かれ、優しく髪を梳かれた。
ああ、嬉しいな。いいな。
体温の高い子供を真ん中に添えて、3人はそのまま眠りに落ちた。
***********
「……ヨシ。お前の部屋はここじゃないと思うんだが……」
布団に潜り込んだ矢先、隣に人の体温と染みついた海の匂いを感じ取って、鬼蜘蛛丸は呟いた。
「いやー。鬼蜘蛛丸の怪談話がホントに怖くって、怖くって。ひとりじゃ寝れませんから、一緒に寝ましょうよ」
笑いを含んだ声が耳元でささやかれる。
ふわふわした赤髪が肌を滑って、くすぐったい上この上ない。
ひとつの布団に大の男が二人。
鬼蜘蛛丸は大きく息をついた。
「ま、好きにしな」
「え?」
実は蹴り出されることを覚悟していた義丸は、思わず本気で?と目を丸くした。
鬼蜘蛛丸は頷き、くすりと笑いながら言った。
「ただし、陸酔いが出たら船の方に行くからな」
たまには、温かくて懐かしい思い出とだぶる現状に、そのままゆだねてしまってもいいだろう。
きっと、今夜は陸酔いはでない。
満天の星の下で。陸酔いをする蜉蝣は船の甲板で、疾風と共に酒を飲んでいた。あっという間に大量に持ち込んだ酒瓶は空になり、中身が入っているのは一瓶だけになっていた。
「蜉蝣。」
「何だよ。」
疾風が呼ぶので返事をするが、当の本人は何も言わずにじっと、蜉蝣の眼帯を見詰めている。
「・・・おい?」
反応がないのを訝しく思い、声をかけるが返事はない。やがて疾風は膝立ちになり、蜉蝣の正面に移動してきた。
「・・疾風?」
疾風が何をしたいのか分からず名前を呼ぶが、それに対して返事がない。蜉蝣が如何した物かと考えていると急に疾風は蜉蝣の眼帯を剥ぎ取った。
「何がしてぇんだ、お前は・・・。」
酔っ払いの考える事はわからない。蜉蝣が胸の内でそう思うのと同時に、疾風は眼帯の下に隠している蜉蝣の瞼で閉じられた眼窩に口付けた。
「・・おい。」
ぽっかりと。空ろな穴が口を開いているだけの醜いそこに、疾風が何故口付けるのかが蜉蝣には分からない。
戦で左目に矢が刺さった時、どんなに大きく皮膚が裂け、血があふれるのを見ても左程顔色を変えない連中が顔を顰めたのを蜉蝣は覚えている。あと一寸深く刺さっていたら死んでいただろうと、戦で味方した城の医者は言った。運が良かったのだとは思う。片目を失うだけで済んだのだから。けれど、残った傷の醜さと、そこにもう目がないのだと鏡を見るたびに思うことが嫌で、蜉蝣は眼帯をして隠す事にした。そんな事をしても如何にもならないことぐらい分かっているが、それでも、蜉蝣は隠した。
「いいじゃねぇかよ、此処に何もなくてもよぉ。」
ぽつりと、疾風は呟いた。
「何で、お前が眼帯してんのかなンて、知ってるけどよぉ、こんな傷晒してたんじゃあ世の中渡っていけねぇんだなンて、想像つくけどよ、けど、隠さなくてもいいじゃねぇか。」
「お前、言ってる事矛盾してるぞ。」
「俺は、この傷なンか怖くねぇよ。それより、お前がいなくなるかも知れなかったことの方が怖ぇ。だから、この傷なんて怖くねぇよ。お前が生きてる証じゃねぇか。」
疾風はぽつぽつと言い続ける。
「だから、怖くなんかねぇから、俺といる時くらい、これは外せよ。俺は、気にしねぇから。ありのままでいろよ。」
それだけ言うと疾風はまた、蜉蝣のその左目のあった場所に口付け始めた。
一つ。
また一つ。疾風は唇を落としていく。ゆっくりと、何度も繰り返す疾風を、そっと蜉蝣は抱きしめた。
今の言葉は、疾風がずっと思っていたことなのだろうと、蜉蝣は思う。けれど意地っ張りで素直じゃない疾風が素直に言う筈が、言える筈がなくて、ずっと胸の内で燻っていたのだろうとも。それが酔った勢いで出てきたのだろうことも長い付き合いで分かるから、蜉蝣は嬉しかった。多分、こんな風に酔うことがなかったら、きっと一生疾風は言わなかっただろう。疾風が、自分に対して持っていた思いを知る事が出来て蜉蝣はよかったと思う。
いつの間にか眠り込んでしまった疾風を船で自分が寝起きしている部屋に運ぼうと、蜉蝣はその体を担ぎ上げた。穏やかな寝顔にそっと唇を寄せて蜉蝣は思う、今度からは望み通り二人でいる時は眼帯を外そう、と。
「蜉蝣。」
「何だよ。」
疾風が呼ぶので返事をするが、当の本人は何も言わずにじっと、蜉蝣の眼帯を見詰めている。
「・・・おい?」
反応がないのを訝しく思い、声をかけるが返事はない。やがて疾風は膝立ちになり、蜉蝣の正面に移動してきた。
「・・疾風?」
疾風が何をしたいのか分からず名前を呼ぶが、それに対して返事がない。蜉蝣が如何した物かと考えていると急に疾風は蜉蝣の眼帯を剥ぎ取った。
「何がしてぇんだ、お前は・・・。」
酔っ払いの考える事はわからない。蜉蝣が胸の内でそう思うのと同時に、疾風は眼帯の下に隠している蜉蝣の瞼で閉じられた眼窩に口付けた。
「・・おい。」
ぽっかりと。空ろな穴が口を開いているだけの醜いそこに、疾風が何故口付けるのかが蜉蝣には分からない。
戦で左目に矢が刺さった時、どんなに大きく皮膚が裂け、血があふれるのを見ても左程顔色を変えない連中が顔を顰めたのを蜉蝣は覚えている。あと一寸深く刺さっていたら死んでいただろうと、戦で味方した城の医者は言った。運が良かったのだとは思う。片目を失うだけで済んだのだから。けれど、残った傷の醜さと、そこにもう目がないのだと鏡を見るたびに思うことが嫌で、蜉蝣は眼帯をして隠す事にした。そんな事をしても如何にもならないことぐらい分かっているが、それでも、蜉蝣は隠した。
「いいじゃねぇかよ、此処に何もなくてもよぉ。」
ぽつりと、疾風は呟いた。
「何で、お前が眼帯してんのかなンて、知ってるけどよぉ、こんな傷晒してたんじゃあ世の中渡っていけねぇんだなンて、想像つくけどよ、けど、隠さなくてもいいじゃねぇか。」
「お前、言ってる事矛盾してるぞ。」
「俺は、この傷なンか怖くねぇよ。それより、お前がいなくなるかも知れなかったことの方が怖ぇ。だから、この傷なんて怖くねぇよ。お前が生きてる証じゃねぇか。」
疾風はぽつぽつと言い続ける。
「だから、怖くなんかねぇから、俺といる時くらい、これは外せよ。俺は、気にしねぇから。ありのままでいろよ。」
それだけ言うと疾風はまた、蜉蝣のその左目のあった場所に口付け始めた。
一つ。
また一つ。疾風は唇を落としていく。ゆっくりと、何度も繰り返す疾風を、そっと蜉蝣は抱きしめた。
今の言葉は、疾風がずっと思っていたことなのだろうと、蜉蝣は思う。けれど意地っ張りで素直じゃない疾風が素直に言う筈が、言える筈がなくて、ずっと胸の内で燻っていたのだろうとも。それが酔った勢いで出てきたのだろうことも長い付き合いで分かるから、蜉蝣は嬉しかった。多分、こんな風に酔うことがなかったら、きっと一生疾風は言わなかっただろう。疾風が、自分に対して持っていた思いを知る事が出来て蜉蝣はよかったと思う。
いつの間にか眠り込んでしまった疾風を船で自分が寝起きしている部屋に運ぼうと、蜉蝣はその体を担ぎ上げた。穏やかな寝顔にそっと唇を寄せて蜉蝣は思う、今度からは望み通り二人でいる時は眼帯を外そう、と。
重が血相を変えて若手の作業場に飛び込んで来たのは、そろそろ昼食の準備に取りかかろうかという時間だった。
「遅い!報告に行くだけに、どんだけ時間がかかってるんだ……って、おい、どうした変な顔して?」
叱ってはみたものの、尋常ではない重の動揺っぷりに流石の舳丸も不審がる。
「顔真っ赤だけど、大丈夫か?」
東南風と一緒に、縁側で網の繕いをしていた航が、心配そうに声を掛けた。
「う、う、う、ん」
そのあきらかなどもりっぷりに、あきれ果てたように庭で薪を割る手を止めた間切が呟く。
「いや、大丈夫じゃないだろ?」
「赤くなっちゃって、どうしたの?」
続いて網問が興味津々でそう問う。彼は庭で干物の準備をしていた。
昼中にこのメンバー全員が揃っていることは珍しい。
重は一端口ごもる。
しかし、この秘め事は一人で抱えるには荷が重かった。
「あのさ、鬼蜘蛛丸の兄ィのことなんだけど……」
その言葉に、間切がぴくりと反応を返す。
「鬼蜘蛛丸の兄貴がどうしたんだ?」
近しい兄役に関してのこととは思わず、少し緊張気味に舳丸が先を促した。
意を決して、重はズバリ言った。
「疾風の兄ィとできてるかもしれない」
瞬間。周りの空気が凍りついた。
「…………………………えーっと、できてるってあれだよね。なんか、意外」
「…………………………うん」
とりあえず、一番初めに復活した網問と航がそう言葉を交わして、また沈黙する。
不憫そうに舳丸と東南風が間切を見た。
「……似たようなタイプなんだがな」
「年の功か……」
「ああ、間切にはまだあの渋さが足りないからな」
ぼそぼそと沈痛な面持ちで、語り合う。
いや、まだ真実と決まったわけではないのだけれども。
「…………重、その情報、どこからだ?」
背に黒雲を背負った間切がうめくように尋ねた。
「……おれが聞いちゃったんだけど……」
重の話を聞くところによるとこうである。
舳丸とともに行った水中の探索の報告に行くために鬼蜘蛛丸の部屋へと出かけた。
特に異常は見当たらなかったので報告自体は簡素に済んだ。そして退室する重と入れ替わるようにやってきたのが件の疾風である。
さて舳丸のところに戻ろうとしたのは良かったのだが、些細なことの確認をし忘れていたことを思い出し、念のためにもう一度鬼蜘蛛丸の部屋の前まできびすを返した。
そこで、声が聞こえたのだ。
「今晩、いいか?」
「今夜ですか……ええ、かまいませんよ。いつものトコでいいんですか?」
「おう」
そこまで言って、重は沈黙する。
話を聞く5人もやはり沈黙した。
「……それだけじゃあ、わかんねぇだろ?」
認めたくない間切がそう異を唱える。
「それだけじゃない」と、重が口を尖らせた。
「ぜったいばれないようにに出てこいよ。特に蜉蝣の兄ィにはって、言ってたし。それに……」
何を思い出したのか、かぁっと一気に顔に朱が走る。
航と網問が思わず身を乗り出した。
「それに?」
つられて頬を染めた網問が促す。
「……今夜こそ俺のもんにしてやるからな。って、疾風兄ィが鬼蜘蛛丸の兄ィに……」
『……………………』
ダイレクト。決定打。
網問と航も耳まで真っ赤に染まる。
「……で、鬼蜘蛛丸の兄貴の反応は?」
魂の抜けかけている間切の代わりに舳丸が聞いた。
「期待してますよって、笑ってた」
重は頭をかく。それはまあ、まんざらじゃないということなんだろう。
そして、「う……ちょっと海に出てきます」といつもの陸酔いが出たために話は終わったようだった。
慌てて重は逃げ出した。
「ど、どうしようか?」
と、話を終えた重が言う。
「どうにもこうにも仕様はないだろ」
対して、きっぱりと舳丸が決断した。
「いや、だってさ、あのふたりが」視線を泳がす重と、うんうんとうなずく網問と航に、舳丸はため息をついた。
「個人の自由だ、これは」
「うん……そうだよね」
「それは分かってるんだけど」
「なんか……」
ふんぎりがつかない3人に、東南風が口を開いた。
「間違っても二人を追おうなんて思うな。そんなことしてばれたら揃って罰を受ける」
『分かってるよ』
年少組3人揃って、そうは言ったものの、納得はいかない顔であった。
だが、いろんな意味で確かめるのは怖くて、そんなことは出来ない3人でもあった。
「しかし」と、舳丸が眉根を寄せて考え込んだそぶりを見せる。
「相瀬を重ねるってわりには風が強い日だが……声が風に飛ばされたり、コトに夢中になって流されたらどうするんだろうな?」
あくまで真面目な顔で呟かれた内容に、重は真っ赤になってずっこけた。
「……舳丸って実は……むご」
東南風に口を押さえられ、最後まで言えずに航は沈黙する。
間切の魂が音を立てて抜けてしまったように、網問には思えた。
しかし。兄役等の本当の関係を唯一知る東南風は思う。
鬼蜘蛛丸は義丸と。
疾風は蜉蝣と。
……できてるはずなんだが。
**********
夜半。不意にぱちりと目がさえてしまった義丸は、途切れた眠気にはあと息をついた。
「今夜、どうです?」と誘って、ものの見事に鬼蜘蛛丸に振られたのがこの重い気分に拍車をかけていることは間違いない。
カタカタと鳴る風の音さえも耳障りで恨めしい。
まぁ、この音にまぎれてと、不埒なことを考えたのは認めるが。
にしいても、最近の鬼蜘蛛丸はどこか様子がおかしい。
何やら疲れ気味な気もするし、隈も少し酷くなっている。それでいて、決して機嫌が悪かったりするわけではない。
むしろみんなに内緒で飴をもらえた子供みたいな、少し楽しそうな雰囲気すら持つのだ。
それってまるで。いやいやまさか。だって俺がいるでしょう。
そんな虚しい問答を頭の中で繰り返しても埒があかない。
「……鬼蜘蛛丸」
思い切って、隣室の問題の人に小さく声を掛けてみる。当たり前だが返事はない。
そして気配も。
「?」
小用にでも立ったのかと、しばらく待ってみるが物音一つしない。
「……??」
ごそごそと布団から這いだし自室を出て、音を立てないようにゆっくりと隣の部屋の障子を開ける。
「鬼蜘蛛丸?」
どこか呆然と、義丸は呟く。
部屋はもぬけの空だった。冷え切った布団がぽつんと敷かれている。
もしかして陸酔いがひどくなって海に出たのだろうか。よくある話ではある。
妙な胸騒ぎを抱えて、義丸は空のたらいをひっつかんで水軍館から外に出た。
月はすでに中天から傾きかけている。
海へ向かう道を月明かりが皎々と照らし出す。ただでさえ、量の多い髪が風に遊ばれてうざったく絡みつく。
しばらく道なりに進むと、向かいから耳に慣れた探し人の声が聞こえてきた。
「鬼蜘蛛丸」と呼ぼうとした声を、義丸はあわてて引っ込めた。誰かと話している。
向かってくるのは、鬼蜘蛛丸だけではない。
特にやましいことをしているわけではないのだが、瞬間的に義丸は道の横手の木の後ろに身を隠した。
疾風の兄貴と鬼蜘蛛丸?
現れた二人を目の端で確認して、ごくりとつばを飲みこんだ。
「疾風の兄さんは飛ばしすぎなんですよ、つき合わされるこっちの身にもなってください」
「あー、悪ぃ悪ぃ。ちょっと無理させたか?」
な、何の話だ……?と、義丸は木陰で耳をそばだてる。
「でもよ、やっと俺のモノになったと思うと嬉しくて飛ばしたくもなる気持ちも分かってくれるだろ?なあ、蜘蛛」
その言葉を聞いた瞬間、義丸は思わず吹き出して、目を見開いた。
え、まさか、このふたりが出来てんの?
蜉蝣の兄貴はどうした?嘘だろ?と、ひきつった笑いが浮かんだ。
「……確かに、俺も嬉しいですけど。蜉蝣の兄さん役をやるのは大変ですよ」
しかも、鬼蜘蛛丸が上!?嘘だろ!!
義丸としては、走って逃げ出したい気持ちで一杯である。しかし足は動かない。
耳だけはきっちりと言葉を聞き取っていた。疾風の笑い声が響く。
「昔から慣れ親しんだ奴もそりゃあ愛着があるし、もう分かり切ったところもあって安心できるがよ、やっぱ新しい奴って新鮮でいいな」
そう言って、疾風が鬼蜘蛛丸の首に手を回す。
「この駆け引きがたまんねぇ」
かなり上機嫌だ。鬼蜘蛛丸とてそこまで感情を露わにしているわけではないが、嬉しそうなのは伝わってくる。
古いのって、新しいのって。ぐるぐると義丸の頭と世界が不安定に回りだす。
「……兄さん、ここまで来れたんですから、そろそろ隠し通すのもやめませんか?」
誰に聞こえていると意識しているわけでもないが、鬼蜘蛛丸の声のトーンが少し下がった。
「うーん……だよなぁ。蜉蝣の奴にも、もう感づかれても仕方ねぇ頃合いだよな」
だとしたらまずいな。と、疾風も顎をなでる。
「俺もヨシに悪いことしちまったし……」
流石に少し落ち込んだ様子のその言葉。
「……明日」
そう言って、疾風は空を見上げてすうっと目を細めた。やがて、小さく息をついてうなずく。
「言うか」
「はい」
この時点で、完全に義丸の顔からは血の気が失せている。
ふたりの気配や声が完全に消え去った後も、しばし呆然と立ち尽くす。
やがて、長い長い息をついて力ない足取りで水軍館へと足を向けた。
「!?」
人影に気が付いて、ぎょっと目を剥いた。
「か、蜉蝣の兄貴。何してんですか?」
ほんのすぐ近くの木の裏。そこには腕を組んだ蜉蝣が立っていた。
まっすぐの長い髪が風に煽られ乱れている。青白い厳しい顔と相まって、さながら幽鬼のごとき様相を醸し出している。
ゆっくりと義丸は蜉蝣に近づき、声をかけた。
「陸酔いですか?」
「……………………」
返事はない。
「はぁ……よければたらいありますよ」
「……………………」
普段から気難しい顔をしている蜉蝣ではあったが、今日は格別だ。すごすごと差し出したたらいを手元に戻す。
何だかんだいって疾風の兄貴のこと気にしてる人だから、やっぱり追いかけて来たんだろうな。
思えば思うほど哀しい。
どちらが口火を切ろうか逡巡し、やはりおずおずと口を開いたのは義丸であった。
普段の余裕の態度は完全に消えうせた、力ない物言いである。
「……あの、やっぱ聞いてました?」
そんな義丸を独眼で一睨みして、蜉蝣は一言だけ言った。
「…………何も……言うな……」
「………………はい………………」
潮風がやけに目に染みる夜だった。
次の日。
「なあ、ちょっと話があるんだけどよ。時間いいか?」
やましさのかけらもなく、笑って話しかけてきた相棒。
ついに来たか。と、蜉蝣はぐっと眉根を寄せて拳を握る。
どれだけ昨夜、問い詰めようかと思ったことか。しかし、陸酔いのひどさと相まって結局日が昇り、戻ってみれば疾風の姿は早々に見えず。
昼を過ぎた今やっと、対面したのであった。
「……何だ?」
「まあ、とりあえず来てくれねぇか?」
歯切れの悪い答えに、頭の血管が一本くらい破裂しそうな予感を感じつつ蜉蝣は答えた。
「いいだろう」
「そうか。あとヨシ、お前も来い」
「へい」
こちらも昨晩結局問い詰めることができずに夜を明かしてしまった義丸である。
「蜘蛛の野郎も待ってるぜ。感謝しろよ、お前らが初なんだぜ、これを打ち明かすのは」
からからと笑う疾風に二人は無言になる。
『…………………』
なんで、こんなに嬉しそうなんだ!?
「しかも体験できるんだからよ」
「は?体験?」
予想外の単語に義丸が首を傾げた。
同じように疑問符を貼り付けた蜉蝣と顔を見合わせる。
「来いよ」と、疾風が悪戯を仕掛けた子どものように口角を上げた。
「あ、鬼蜘蛛丸の兄ィだ」
そういって水軍館の一室から重が指差す先には、岸に寄せられた小早に鎮座する鬼蜘蛛丸の姿が見えた。
昨日の風がまだ残る、晴天の日。
「向こうから来るのは疾風兄ィと……蜉蝣兄ィと義兄ィだ」
わずかに上ずったその声。
現在若手の中で渦中の人たる組み合わせとその相棒が同じ船に乗り込んだ。
舳丸でさえ思わず仕事の手を止めて、4人の動向を見守ってしまう。
「あれ?お頭と由良さん?」
だが予想外の人物の登場に、重が頓狂な声をあげる。
見れば確かに、少し高台に位置する場所から船を見守るようにして立つ総大将と船頭。
疾風が彼らに向かって大きく、手を振った。
それに対して笑顔で第三協栄丸も手を振り返す。
「ど、どうなってるの?」
「俺に聞くなよ」
水練ふたりは身を乗り出すように窓から様子をうかがう。
すると水軍館のほうに、くるっとお頭が振り向いた。
ふたりそろって息を呑む。
「おーい!!残ってる者がいたらちょっとこっちに来い。おもしろいもんが見れるぞ!!」
その号令に、舳丸と重は顔を見合わせた。
「で、話はなんだ?」
男4人も乗れば狭い小船の上。苛立ちを隠そうともせずに蜉蝣が疾風に言った。
「えらく機嫌悪ぃんだな、蜉蝣?」
「何でもねぇよ」
蜉蝣は苦虫を噛み潰したような表情になる。原因は目の前にいるそらっとぼけた相棒である。
しかし、どうにも先の読めない展開になっているのは間違いない。
何故だか船に乗せられて、4人揃って櫓を漕いで、広い海原に出る。
しかもお頭に船頭まで巻き込んでいるらしい。
そして現在、岸を望めば、お頭の周りにはすでに人だかりができている。
一体、このふたりは何をやらかすつもりなんだ。
「んー?まあ、見てりゃわかるさ」
にいっとガラのあまりよろしくない笑顔を浮かべて、疾風は慣れた手つきで帆を降ろした。
「行くぜ!!」
気合一発。
ぱんっと、大量の風を孕んだ帆が大きく膨らんだ。
『!!??』
ぐんと、今までに感じたことのないほどの急激な加速に、蜉蝣と義丸は声を失った。
「いい風だ!飛ばすぞ!蜘蛛、案内頼む」
「はい!」
鬼蜘蛛丸が舵を握った。
普段なら、蜉蝣の役。
あ、と義丸は自分の迂闊さに目を点にした。
*********
「あれが、木綿帆の威力か」
「木綿帆……ですか?」
凄い速さで水を切って進む小船から視線は離さず、由良の言った言葉を東南風が反芻した。
集まった他の面子も時折感嘆の声を上げては、船の様子を見守っている。
「そうだ」と、第三協栄丸が胸を張った。
「鬼蜘蛛丸が得た知識なんだがな。ムシロ帆と違って風が抜けないからよ。ああやって、帆走力が高くなるわけだ。
しっかし、風があるとはいえたいした速さだ」
ほおうと、改めて感心したように第三協栄丸が嬉しそうに感嘆の声をあげる。
ちなみにムシロ帆というのは草やワラで編んだ帆のことである。
「なんといっても、帆と風のことなら任せとけ!な兵庫水軍きっての手引き、疾風兄ィが扱ってるし」
「海のことなら任せとけ!な山立の鬼蜘蛛丸の兄さんがついてたら、安心して荒い海でも走らせれる」
そう言って、網問と航がくすくす笑う。
「ものにするのは。帆の扱いかよ!」叫んで、どっと力が抜けたというように、間切は地面にへたりこんだ。
その背をぽんと舳丸が叩く。
「でも、なんでわざわざ秘密に練習させてたんですか?」
「知ってたのか?」
ただでさえ丸い瞳をさらに丸めて、由良が声を上げた重を見返した。
「あ……」と、口を押さえるが後の祭りだ。
バカ。と、舳丸が重の失言に頭を抱えた。
「け、決して、夜に抜け出したりしたわけじゃないんです!!ただ、鬼蜘蛛丸の兄ィと疾風兄ィがこそこそ話してるのを聞いて不思議に思ったもんで」
「疾風の兄貴達もこのことは何も言いませんでした。ただ、今晩どうかという約束事を取り付けていた話を漏れ聞いたんです。つい、昨日」
重がパニックに陥れば自分は冷静になるように刷り込まれている舳丸が言葉を引き継いだ。
苦笑して、由良が溜息をつく。
「安心しろ。咎めはしない。水軍内で秘密を作ったこちらも悪いんだからな」
「じゃあ、何でですか?」
重がもう一度問う。
「木綿といのは、この国では生産されていないからどうしても輸入に頼るしかなくなる。
だがもし軍船1つ分の帆を木綿に変えるとしたらどれくらいの高い買い物になるか……」
『…………………』
唐渡りの輸入品。給金の安い水夫連中は、その値段を考えて無言になった。
「本当に使えるかどうかはどうしても自分達の所で実践しておきたかった」
その結果が今まさに海を切り走る小船である。
結果は上々。
お頭が船を見つめて続きを言う。
「いくら上乗りや警護で、商人達との結びつきは強いわれわれだが、彼らはあくまで商売相手だ。
もしこちらが大量に木綿を買い占めると知れて、値段を吊り上げられたりされたら困る」
「確かに」と、全員がうなずく。
「それに何より、他の海賊衆が俺達の動向を知って、先に買い占められて2番手に甘んじるのはもっと嫌だ」
その矜持の高さに、他の者が一斉にふっと笑う。その通りだ。
「善は急げ。買いにいきましょうか?」
由良が笑って、堺の町の方へと踵を返した。
今一度、小さな帆船に視線を送って第三協栄丸もうなずく。
「そうだな。じゃあ、疾風たちをねぎらってやっといてくれ」
『へい!!』
頼もしい大きな返事に支えられて、総大将と船頭、頭たるふたりは街へと向かう。
「ここは、もっともっと、強くなるんだね」
航が東南風の隣で意気込んだ。
「ああ……そうだな」
「おれらも、それに見合うようにがんばらないと!」
誇らしげな航の笑顔を受けて、東南風がくしゃりとその頭を撫でた。
横では間切がほーっと安堵の息をついている。
「…………………」
真実は、まだ閉まっておこう。東南風は無言で決意した。
**********
鬼蜘蛛丸からこの帆走力の理由と、隠していたわけを聞かされて蜉蝣と義丸は思わず脱力した。
帆を扱う手綱の感触にひとり悦に入りながら、疾風が隣に座る蜉蝣に言った。
「そうゆうわけで、俺これからどんどん忙しくなりそうだから、よろしく頼むぜ蜉蝣」
「何をだ?」
そりゃあ、と、にやりと笑って疾風は耳打ちする。
「あんまし、夜の相手できねぇぞ」
「バカヤロウ」
「あでっ」
蜉蝣が疾風を小突いた。
「?」
じつは未だ、兄役ふたりの関係を知らない鬼蜘蛛丸が、聞き取れずに首をかしげた。
「鬼蜘蛛丸は聞かなくていい」
何となく予想の付く義丸が言う。そして、ふてくされて愚痴ってしまった。
「しっかしまぁ、ふたりそろってコソコソこんなことしてたとは、驚きだ」
「ヨシ、すまねぇな。他言無用ってお達しがあってよ」
「上からの命令じゃ仕方ないとは分かっちゃいますがね」
ああ、この勘違いに顔から火が出そうだ。
この瀬戸内で夜の海で帆船を走らせようなんて思えば、この水軍内で疾風と鬼蜘蛛丸以上の適任者はいない。
「それにしたって鈎役の自分はともかく、舵取りの兄貴くらいには伝えといてもいいんじゃないか?」
義丸は毒づいた。それを聞いた鬼蜘蛛丸がちらと兄役ふたりを見て、義丸のほうに顔を寄せた。
「な、なんすか?鬼蜘蛛丸」
「疾風の兄さんは蜉蝣の兄さんには言いたくなかったんだ」
苦笑して、前で言い合う二人に聞こえないように小声で義丸に耳打ちした。
「何で?」
「甘えるのが嫌だってのと、驚かせてやりたいのが大半の理由みたいだけど、怪談話とかの嫌がらせをされるのが嫌だからって言ってた」
俺はさすがにそんなことしないと思うんだけど。と、鬼蜘蛛丸は笑うが、義丸はやりかねないと思った。
いくら仕事とはいえ、夜半自分以外とふたりっきりになることが分かれば怪談くらいの嫌がらせはしかねないだろう。
長い付き合いのせいもあるのか、時折子供っぽい兄役ふたりのことを思って、義丸は息をついた。
しかしそれは、今まで秘密にしてきたことで何倍にもなって帰ってきそうである。
ウミボウズ、ウミカブロ、ウミグモ、ウミザトウ、ウミアマ、オキユウレイ、ウシオニ、カイナンホウシ、カゲワニ、ナミコゾウ、ヌレオナゴ、フナユウレイ、フナモウレン、マヨイブネ、モウレイセン、ボーシン等々。
今日からしばらく思いつく限りの海の幽霊話を泣いて謝るまで聞かせてやろうかと、蜉蝣は半ば本気で考えていた。
しかし。
誇りと喜色がない混じった表情で手綱を引き、帆を扱う疾風の顔が、ひとまわりどころか、ふたまわりも若く輝いて見えたもので。
すべて、それで帳消しにしてやるかという気分になったのであった。
「蜘蛛、舵は俺が取る」
「はい!」
蜉蝣が定位置に収まる。それに全員がどこかほっとしたような雰囲気が流れる。
やはりこうでないと。
この面子なら、怖いモノなんてなくどこまでも走っていけそうだった。
「遅い!報告に行くだけに、どんだけ時間がかかってるんだ……って、おい、どうした変な顔して?」
叱ってはみたものの、尋常ではない重の動揺っぷりに流石の舳丸も不審がる。
「顔真っ赤だけど、大丈夫か?」
東南風と一緒に、縁側で網の繕いをしていた航が、心配そうに声を掛けた。
「う、う、う、ん」
そのあきらかなどもりっぷりに、あきれ果てたように庭で薪を割る手を止めた間切が呟く。
「いや、大丈夫じゃないだろ?」
「赤くなっちゃって、どうしたの?」
続いて網問が興味津々でそう問う。彼は庭で干物の準備をしていた。
昼中にこのメンバー全員が揃っていることは珍しい。
重は一端口ごもる。
しかし、この秘め事は一人で抱えるには荷が重かった。
「あのさ、鬼蜘蛛丸の兄ィのことなんだけど……」
その言葉に、間切がぴくりと反応を返す。
「鬼蜘蛛丸の兄貴がどうしたんだ?」
近しい兄役に関してのこととは思わず、少し緊張気味に舳丸が先を促した。
意を決して、重はズバリ言った。
「疾風の兄ィとできてるかもしれない」
瞬間。周りの空気が凍りついた。
「…………………………えーっと、できてるってあれだよね。なんか、意外」
「…………………………うん」
とりあえず、一番初めに復活した網問と航がそう言葉を交わして、また沈黙する。
不憫そうに舳丸と東南風が間切を見た。
「……似たようなタイプなんだがな」
「年の功か……」
「ああ、間切にはまだあの渋さが足りないからな」
ぼそぼそと沈痛な面持ちで、語り合う。
いや、まだ真実と決まったわけではないのだけれども。
「…………重、その情報、どこからだ?」
背に黒雲を背負った間切がうめくように尋ねた。
「……おれが聞いちゃったんだけど……」
重の話を聞くところによるとこうである。
舳丸とともに行った水中の探索の報告に行くために鬼蜘蛛丸の部屋へと出かけた。
特に異常は見当たらなかったので報告自体は簡素に済んだ。そして退室する重と入れ替わるようにやってきたのが件の疾風である。
さて舳丸のところに戻ろうとしたのは良かったのだが、些細なことの確認をし忘れていたことを思い出し、念のためにもう一度鬼蜘蛛丸の部屋の前まできびすを返した。
そこで、声が聞こえたのだ。
「今晩、いいか?」
「今夜ですか……ええ、かまいませんよ。いつものトコでいいんですか?」
「おう」
そこまで言って、重は沈黙する。
話を聞く5人もやはり沈黙した。
「……それだけじゃあ、わかんねぇだろ?」
認めたくない間切がそう異を唱える。
「それだけじゃない」と、重が口を尖らせた。
「ぜったいばれないようにに出てこいよ。特に蜉蝣の兄ィにはって、言ってたし。それに……」
何を思い出したのか、かぁっと一気に顔に朱が走る。
航と網問が思わず身を乗り出した。
「それに?」
つられて頬を染めた網問が促す。
「……今夜こそ俺のもんにしてやるからな。って、疾風兄ィが鬼蜘蛛丸の兄ィに……」
『……………………』
ダイレクト。決定打。
網問と航も耳まで真っ赤に染まる。
「……で、鬼蜘蛛丸の兄貴の反応は?」
魂の抜けかけている間切の代わりに舳丸が聞いた。
「期待してますよって、笑ってた」
重は頭をかく。それはまあ、まんざらじゃないということなんだろう。
そして、「う……ちょっと海に出てきます」といつもの陸酔いが出たために話は終わったようだった。
慌てて重は逃げ出した。
「ど、どうしようか?」
と、話を終えた重が言う。
「どうにもこうにも仕様はないだろ」
対して、きっぱりと舳丸が決断した。
「いや、だってさ、あのふたりが」視線を泳がす重と、うんうんとうなずく網問と航に、舳丸はため息をついた。
「個人の自由だ、これは」
「うん……そうだよね」
「それは分かってるんだけど」
「なんか……」
ふんぎりがつかない3人に、東南風が口を開いた。
「間違っても二人を追おうなんて思うな。そんなことしてばれたら揃って罰を受ける」
『分かってるよ』
年少組3人揃って、そうは言ったものの、納得はいかない顔であった。
だが、いろんな意味で確かめるのは怖くて、そんなことは出来ない3人でもあった。
「しかし」と、舳丸が眉根を寄せて考え込んだそぶりを見せる。
「相瀬を重ねるってわりには風が強い日だが……声が風に飛ばされたり、コトに夢中になって流されたらどうするんだろうな?」
あくまで真面目な顔で呟かれた内容に、重は真っ赤になってずっこけた。
「……舳丸って実は……むご」
東南風に口を押さえられ、最後まで言えずに航は沈黙する。
間切の魂が音を立てて抜けてしまったように、網問には思えた。
しかし。兄役等の本当の関係を唯一知る東南風は思う。
鬼蜘蛛丸は義丸と。
疾風は蜉蝣と。
……できてるはずなんだが。
**********
夜半。不意にぱちりと目がさえてしまった義丸は、途切れた眠気にはあと息をついた。
「今夜、どうです?」と誘って、ものの見事に鬼蜘蛛丸に振られたのがこの重い気分に拍車をかけていることは間違いない。
カタカタと鳴る風の音さえも耳障りで恨めしい。
まぁ、この音にまぎれてと、不埒なことを考えたのは認めるが。
にしいても、最近の鬼蜘蛛丸はどこか様子がおかしい。
何やら疲れ気味な気もするし、隈も少し酷くなっている。それでいて、決して機嫌が悪かったりするわけではない。
むしろみんなに内緒で飴をもらえた子供みたいな、少し楽しそうな雰囲気すら持つのだ。
それってまるで。いやいやまさか。だって俺がいるでしょう。
そんな虚しい問答を頭の中で繰り返しても埒があかない。
「……鬼蜘蛛丸」
思い切って、隣室の問題の人に小さく声を掛けてみる。当たり前だが返事はない。
そして気配も。
「?」
小用にでも立ったのかと、しばらく待ってみるが物音一つしない。
「……??」
ごそごそと布団から這いだし自室を出て、音を立てないようにゆっくりと隣の部屋の障子を開ける。
「鬼蜘蛛丸?」
どこか呆然と、義丸は呟く。
部屋はもぬけの空だった。冷え切った布団がぽつんと敷かれている。
もしかして陸酔いがひどくなって海に出たのだろうか。よくある話ではある。
妙な胸騒ぎを抱えて、義丸は空のたらいをひっつかんで水軍館から外に出た。
月はすでに中天から傾きかけている。
海へ向かう道を月明かりが皎々と照らし出す。ただでさえ、量の多い髪が風に遊ばれてうざったく絡みつく。
しばらく道なりに進むと、向かいから耳に慣れた探し人の声が聞こえてきた。
「鬼蜘蛛丸」と呼ぼうとした声を、義丸はあわてて引っ込めた。誰かと話している。
向かってくるのは、鬼蜘蛛丸だけではない。
特にやましいことをしているわけではないのだが、瞬間的に義丸は道の横手の木の後ろに身を隠した。
疾風の兄貴と鬼蜘蛛丸?
現れた二人を目の端で確認して、ごくりとつばを飲みこんだ。
「疾風の兄さんは飛ばしすぎなんですよ、つき合わされるこっちの身にもなってください」
「あー、悪ぃ悪ぃ。ちょっと無理させたか?」
な、何の話だ……?と、義丸は木陰で耳をそばだてる。
「でもよ、やっと俺のモノになったと思うと嬉しくて飛ばしたくもなる気持ちも分かってくれるだろ?なあ、蜘蛛」
その言葉を聞いた瞬間、義丸は思わず吹き出して、目を見開いた。
え、まさか、このふたりが出来てんの?
蜉蝣の兄貴はどうした?嘘だろ?と、ひきつった笑いが浮かんだ。
「……確かに、俺も嬉しいですけど。蜉蝣の兄さん役をやるのは大変ですよ」
しかも、鬼蜘蛛丸が上!?嘘だろ!!
義丸としては、走って逃げ出したい気持ちで一杯である。しかし足は動かない。
耳だけはきっちりと言葉を聞き取っていた。疾風の笑い声が響く。
「昔から慣れ親しんだ奴もそりゃあ愛着があるし、もう分かり切ったところもあって安心できるがよ、やっぱ新しい奴って新鮮でいいな」
そう言って、疾風が鬼蜘蛛丸の首に手を回す。
「この駆け引きがたまんねぇ」
かなり上機嫌だ。鬼蜘蛛丸とてそこまで感情を露わにしているわけではないが、嬉しそうなのは伝わってくる。
古いのって、新しいのって。ぐるぐると義丸の頭と世界が不安定に回りだす。
「……兄さん、ここまで来れたんですから、そろそろ隠し通すのもやめませんか?」
誰に聞こえていると意識しているわけでもないが、鬼蜘蛛丸の声のトーンが少し下がった。
「うーん……だよなぁ。蜉蝣の奴にも、もう感づかれても仕方ねぇ頃合いだよな」
だとしたらまずいな。と、疾風も顎をなでる。
「俺もヨシに悪いことしちまったし……」
流石に少し落ち込んだ様子のその言葉。
「……明日」
そう言って、疾風は空を見上げてすうっと目を細めた。やがて、小さく息をついてうなずく。
「言うか」
「はい」
この時点で、完全に義丸の顔からは血の気が失せている。
ふたりの気配や声が完全に消え去った後も、しばし呆然と立ち尽くす。
やがて、長い長い息をついて力ない足取りで水軍館へと足を向けた。
「!?」
人影に気が付いて、ぎょっと目を剥いた。
「か、蜉蝣の兄貴。何してんですか?」
ほんのすぐ近くの木の裏。そこには腕を組んだ蜉蝣が立っていた。
まっすぐの長い髪が風に煽られ乱れている。青白い厳しい顔と相まって、さながら幽鬼のごとき様相を醸し出している。
ゆっくりと義丸は蜉蝣に近づき、声をかけた。
「陸酔いですか?」
「……………………」
返事はない。
「はぁ……よければたらいありますよ」
「……………………」
普段から気難しい顔をしている蜉蝣ではあったが、今日は格別だ。すごすごと差し出したたらいを手元に戻す。
何だかんだいって疾風の兄貴のこと気にしてる人だから、やっぱり追いかけて来たんだろうな。
思えば思うほど哀しい。
どちらが口火を切ろうか逡巡し、やはりおずおずと口を開いたのは義丸であった。
普段の余裕の態度は完全に消えうせた、力ない物言いである。
「……あの、やっぱ聞いてました?」
そんな義丸を独眼で一睨みして、蜉蝣は一言だけ言った。
「…………何も……言うな……」
「………………はい………………」
潮風がやけに目に染みる夜だった。
次の日。
「なあ、ちょっと話があるんだけどよ。時間いいか?」
やましさのかけらもなく、笑って話しかけてきた相棒。
ついに来たか。と、蜉蝣はぐっと眉根を寄せて拳を握る。
どれだけ昨夜、問い詰めようかと思ったことか。しかし、陸酔いのひどさと相まって結局日が昇り、戻ってみれば疾風の姿は早々に見えず。
昼を過ぎた今やっと、対面したのであった。
「……何だ?」
「まあ、とりあえず来てくれねぇか?」
歯切れの悪い答えに、頭の血管が一本くらい破裂しそうな予感を感じつつ蜉蝣は答えた。
「いいだろう」
「そうか。あとヨシ、お前も来い」
「へい」
こちらも昨晩結局問い詰めることができずに夜を明かしてしまった義丸である。
「蜘蛛の野郎も待ってるぜ。感謝しろよ、お前らが初なんだぜ、これを打ち明かすのは」
からからと笑う疾風に二人は無言になる。
『…………………』
なんで、こんなに嬉しそうなんだ!?
「しかも体験できるんだからよ」
「は?体験?」
予想外の単語に義丸が首を傾げた。
同じように疑問符を貼り付けた蜉蝣と顔を見合わせる。
「来いよ」と、疾風が悪戯を仕掛けた子どものように口角を上げた。
「あ、鬼蜘蛛丸の兄ィだ」
そういって水軍館の一室から重が指差す先には、岸に寄せられた小早に鎮座する鬼蜘蛛丸の姿が見えた。
昨日の風がまだ残る、晴天の日。
「向こうから来るのは疾風兄ィと……蜉蝣兄ィと義兄ィだ」
わずかに上ずったその声。
現在若手の中で渦中の人たる組み合わせとその相棒が同じ船に乗り込んだ。
舳丸でさえ思わず仕事の手を止めて、4人の動向を見守ってしまう。
「あれ?お頭と由良さん?」
だが予想外の人物の登場に、重が頓狂な声をあげる。
見れば確かに、少し高台に位置する場所から船を見守るようにして立つ総大将と船頭。
疾風が彼らに向かって大きく、手を振った。
それに対して笑顔で第三協栄丸も手を振り返す。
「ど、どうなってるの?」
「俺に聞くなよ」
水練ふたりは身を乗り出すように窓から様子をうかがう。
すると水軍館のほうに、くるっとお頭が振り向いた。
ふたりそろって息を呑む。
「おーい!!残ってる者がいたらちょっとこっちに来い。おもしろいもんが見れるぞ!!」
その号令に、舳丸と重は顔を見合わせた。
「で、話はなんだ?」
男4人も乗れば狭い小船の上。苛立ちを隠そうともせずに蜉蝣が疾風に言った。
「えらく機嫌悪ぃんだな、蜉蝣?」
「何でもねぇよ」
蜉蝣は苦虫を噛み潰したような表情になる。原因は目の前にいるそらっとぼけた相棒である。
しかし、どうにも先の読めない展開になっているのは間違いない。
何故だか船に乗せられて、4人揃って櫓を漕いで、広い海原に出る。
しかもお頭に船頭まで巻き込んでいるらしい。
そして現在、岸を望めば、お頭の周りにはすでに人だかりができている。
一体、このふたりは何をやらかすつもりなんだ。
「んー?まあ、見てりゃわかるさ」
にいっとガラのあまりよろしくない笑顔を浮かべて、疾風は慣れた手つきで帆を降ろした。
「行くぜ!!」
気合一発。
ぱんっと、大量の風を孕んだ帆が大きく膨らんだ。
『!!??』
ぐんと、今までに感じたことのないほどの急激な加速に、蜉蝣と義丸は声を失った。
「いい風だ!飛ばすぞ!蜘蛛、案内頼む」
「はい!」
鬼蜘蛛丸が舵を握った。
普段なら、蜉蝣の役。
あ、と義丸は自分の迂闊さに目を点にした。
*********
「あれが、木綿帆の威力か」
「木綿帆……ですか?」
凄い速さで水を切って進む小船から視線は離さず、由良の言った言葉を東南風が反芻した。
集まった他の面子も時折感嘆の声を上げては、船の様子を見守っている。
「そうだ」と、第三協栄丸が胸を張った。
「鬼蜘蛛丸が得た知識なんだがな。ムシロ帆と違って風が抜けないからよ。ああやって、帆走力が高くなるわけだ。
しっかし、風があるとはいえたいした速さだ」
ほおうと、改めて感心したように第三協栄丸が嬉しそうに感嘆の声をあげる。
ちなみにムシロ帆というのは草やワラで編んだ帆のことである。
「なんといっても、帆と風のことなら任せとけ!な兵庫水軍きっての手引き、疾風兄ィが扱ってるし」
「海のことなら任せとけ!な山立の鬼蜘蛛丸の兄さんがついてたら、安心して荒い海でも走らせれる」
そう言って、網問と航がくすくす笑う。
「ものにするのは。帆の扱いかよ!」叫んで、どっと力が抜けたというように、間切は地面にへたりこんだ。
その背をぽんと舳丸が叩く。
「でも、なんでわざわざ秘密に練習させてたんですか?」
「知ってたのか?」
ただでさえ丸い瞳をさらに丸めて、由良が声を上げた重を見返した。
「あ……」と、口を押さえるが後の祭りだ。
バカ。と、舳丸が重の失言に頭を抱えた。
「け、決して、夜に抜け出したりしたわけじゃないんです!!ただ、鬼蜘蛛丸の兄ィと疾風兄ィがこそこそ話してるのを聞いて不思議に思ったもんで」
「疾風の兄貴達もこのことは何も言いませんでした。ただ、今晩どうかという約束事を取り付けていた話を漏れ聞いたんです。つい、昨日」
重がパニックに陥れば自分は冷静になるように刷り込まれている舳丸が言葉を引き継いだ。
苦笑して、由良が溜息をつく。
「安心しろ。咎めはしない。水軍内で秘密を作ったこちらも悪いんだからな」
「じゃあ、何でですか?」
重がもう一度問う。
「木綿といのは、この国では生産されていないからどうしても輸入に頼るしかなくなる。
だがもし軍船1つ分の帆を木綿に変えるとしたらどれくらいの高い買い物になるか……」
『…………………』
唐渡りの輸入品。給金の安い水夫連中は、その値段を考えて無言になった。
「本当に使えるかどうかはどうしても自分達の所で実践しておきたかった」
その結果が今まさに海を切り走る小船である。
結果は上々。
お頭が船を見つめて続きを言う。
「いくら上乗りや警護で、商人達との結びつきは強いわれわれだが、彼らはあくまで商売相手だ。
もしこちらが大量に木綿を買い占めると知れて、値段を吊り上げられたりされたら困る」
「確かに」と、全員がうなずく。
「それに何より、他の海賊衆が俺達の動向を知って、先に買い占められて2番手に甘んじるのはもっと嫌だ」
その矜持の高さに、他の者が一斉にふっと笑う。その通りだ。
「善は急げ。買いにいきましょうか?」
由良が笑って、堺の町の方へと踵を返した。
今一度、小さな帆船に視線を送って第三協栄丸もうなずく。
「そうだな。じゃあ、疾風たちをねぎらってやっといてくれ」
『へい!!』
頼もしい大きな返事に支えられて、総大将と船頭、頭たるふたりは街へと向かう。
「ここは、もっともっと、強くなるんだね」
航が東南風の隣で意気込んだ。
「ああ……そうだな」
「おれらも、それに見合うようにがんばらないと!」
誇らしげな航の笑顔を受けて、東南風がくしゃりとその頭を撫でた。
横では間切がほーっと安堵の息をついている。
「…………………」
真実は、まだ閉まっておこう。東南風は無言で決意した。
**********
鬼蜘蛛丸からこの帆走力の理由と、隠していたわけを聞かされて蜉蝣と義丸は思わず脱力した。
帆を扱う手綱の感触にひとり悦に入りながら、疾風が隣に座る蜉蝣に言った。
「そうゆうわけで、俺これからどんどん忙しくなりそうだから、よろしく頼むぜ蜉蝣」
「何をだ?」
そりゃあ、と、にやりと笑って疾風は耳打ちする。
「あんまし、夜の相手できねぇぞ」
「バカヤロウ」
「あでっ」
蜉蝣が疾風を小突いた。
「?」
じつは未だ、兄役ふたりの関係を知らない鬼蜘蛛丸が、聞き取れずに首をかしげた。
「鬼蜘蛛丸は聞かなくていい」
何となく予想の付く義丸が言う。そして、ふてくされて愚痴ってしまった。
「しっかしまぁ、ふたりそろってコソコソこんなことしてたとは、驚きだ」
「ヨシ、すまねぇな。他言無用ってお達しがあってよ」
「上からの命令じゃ仕方ないとは分かっちゃいますがね」
ああ、この勘違いに顔から火が出そうだ。
この瀬戸内で夜の海で帆船を走らせようなんて思えば、この水軍内で疾風と鬼蜘蛛丸以上の適任者はいない。
「それにしたって鈎役の自分はともかく、舵取りの兄貴くらいには伝えといてもいいんじゃないか?」
義丸は毒づいた。それを聞いた鬼蜘蛛丸がちらと兄役ふたりを見て、義丸のほうに顔を寄せた。
「な、なんすか?鬼蜘蛛丸」
「疾風の兄さんは蜉蝣の兄さんには言いたくなかったんだ」
苦笑して、前で言い合う二人に聞こえないように小声で義丸に耳打ちした。
「何で?」
「甘えるのが嫌だってのと、驚かせてやりたいのが大半の理由みたいだけど、怪談話とかの嫌がらせをされるのが嫌だからって言ってた」
俺はさすがにそんなことしないと思うんだけど。と、鬼蜘蛛丸は笑うが、義丸はやりかねないと思った。
いくら仕事とはいえ、夜半自分以外とふたりっきりになることが分かれば怪談くらいの嫌がらせはしかねないだろう。
長い付き合いのせいもあるのか、時折子供っぽい兄役ふたりのことを思って、義丸は息をついた。
しかしそれは、今まで秘密にしてきたことで何倍にもなって帰ってきそうである。
ウミボウズ、ウミカブロ、ウミグモ、ウミザトウ、ウミアマ、オキユウレイ、ウシオニ、カイナンホウシ、カゲワニ、ナミコゾウ、ヌレオナゴ、フナユウレイ、フナモウレン、マヨイブネ、モウレイセン、ボーシン等々。
今日からしばらく思いつく限りの海の幽霊話を泣いて謝るまで聞かせてやろうかと、蜉蝣は半ば本気で考えていた。
しかし。
誇りと喜色がない混じった表情で手綱を引き、帆を扱う疾風の顔が、ひとまわりどころか、ふたまわりも若く輝いて見えたもので。
すべて、それで帳消しにしてやるかという気分になったのであった。
「蜘蛛、舵は俺が取る」
「はい!」
蜉蝣が定位置に収まる。それに全員がどこかほっとしたような雰囲気が流れる。
やはりこうでないと。
この面子なら、怖いモノなんてなくどこまでも走っていけそうだった。