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紫煙



城の居室で暖炉の火がぱちぱちと音を立てていた。
戸が開かれ冷気と共に人の入ってくる気配がする。
同時に辺りに漂う甘い香り。

「ここは禁煙だぞ。」
ゆっくりとソファーから体を起こしながら、城の主は訪問者をたしなめた。
「まぁそう固いことを言うな、樊瑞。」
訪問者は城の主の言など気に留める様子もなく、紫煙をくぐらせている。

樊瑞は眉をひそめ、己の膝で寝息を立てている幼子に目を移した。
「アルベルト、お主が来るというので先ほどまで起きて待っていたのだが…。」
「任務では仕方あるまい。」
中年が二人、すやすや眠る幼子を見つめてため息をつく。
その姿は育児で悩む夫婦のようで、もし眩惑がこの場にいれば後々まで笑いの種にされたであろう。

アルベルトは一応すまないと思っているようで、手には土産を提げていた。
ごま卵というそれは、如何にも帰る直前駅で買いましたという代物で、
元貴族のアルベルトには似つかわしいものではない。
今回の任務はアルベルト単独のもの。
とするとこの土産はアルベルト自身が買ってきたものに違いなかった。
幼い娘サニーのために。

― 釣りはとっておけと言って店員を困惑させはせなんだか。
買い物をするアルベルトの様子を想像し、樊瑞はなんとも可笑しくなった。

「笑うな」
考えが顔に出ていたらしい。
「ところで最近十傑入りしたあの若造、あいつが持っている煙管、あれはお前が以前使っていたものではないのか。」
気に障ったらしく、台の上に土産を放り投げるとアルベルトは話題を変えた。
「ああ・・・あれは儂にはもう必要ないのでな。」
思わぬ問いに少し間を置き、やがて遠くを見やるようにして樊瑞は答えた。

― あれはどれくらい前の事だったか。



雨が、
激しい雨が降っていた。
戯れに降りた下界。

肉の焦げる臭い、うめき声、この世のものとは思われぬその光景。
世界は火に包まれ、次に雨が降った。憎しみと悲しみの雨。

絶望。

それ以上この状況にあう言葉が果たしてあるだろうか。
愕然と立ちつくす己に好々爺が手をさしのべてきた。
共に来るか、と。

連れて行かれた先はBFの御前。
戦慄いた。足が震え、全身から噴き出す汗。
なんという圧倒的存在。ひれ伏さずにはおられない。
深々と下げた頭はこの御方の前では二度とあげられはしないだろう。
― すべては我らのビッグファイアのために。
この御方ならあの炎に勝てるに違いない。
それは希望として胸に宿り、いまだ燃え続ける。

それからは任務に明け暮れる日々。
二仙山仕込みの仙術を使うことに躊躇いはなかった。
この力で世界を変えられる、いや変えてみせると、そう思っていたのだ。
若かった。
己の目的以外何も見えぬほどに。

好々爺は十傑集と呼ばれるBF団幹部のリーダーで、名をカワラザキといった。
そのカワラザキの爺様の推挙によって、十傑の末席に加わるのにそう時間はかからなかった。
まだ二十歳にも満たぬ身ゆえ、若造、若輩者と侮られぬよう煙管を持った。
煙草ははじめ不味いとしか思われなかったが、時期に慣れると意地を張った。
無理をするなとカワラザキの爺様には笑われた。
ほぼ同時期に十傑入りした者達にもやはり笑われた。
白い布を纏った胡散臭い男と、葉巻をくわえたいけ好かない男。

これが若き日のセルバンテスとアルベルトであるのだが、初めの印象はすこぶる悪い。
莫迦にされているような気がした。いきがっている仙道風情と。
いや、実際莫迦にしていたに違いない。そういう連中だ。
そういう質なのだとわかってからは、腹立たしくもなくなった。
今では笑い話と言えるかもしれない。

しかしこの第一印象の悪さが払拭されたのは、随分経ってからである。
きっかけはアルベルトが幼いサニーを自分に預けたことだった。
自分に初めて出来た守るべきもの。それから自然と肩の力が抜けていった。
目の前あるのは自分を必要とする小さな二つの赤い瞳。

煙管はもう必要なかった。

それからしばらく引き出しの奥にしまい込んでいた煙管。
それがこの間、異例の人事でいきなり十傑入りした若者を見た時、図らずも昔の自分を思い出した。
若者の、肩肘を張り、侮られまいとする態度は、まさに昔の自分そのものだった。
何やら懐かしく、肩入れしてやりたい気分になり、煙管を取り出し、祝いだと言って残月という若者に手渡した。
残月がマスクの下でどんな表情をしたのかはわからない。
困惑か、喜びか、はたまた―
だが、満更でもないらしく、煙管は残月によって磨かれ今も彼の手にあった。
奴は伸びる。直感だが、外れはしないだろう。
そう、志半ばで逝かぬ限りは。
残月の煙管があの時の煙管だと分かる者はもう十傑でも数名しかいない。
アルベルトはその中の一人だ。
それほどに年月は流れ、血もまた流れていた。



と、膝で寝ていたサニーが急にむずがり出した。
「それ見たことか。お主が葉巻など吸うからだ。」
そう言うが早いか、樊瑞はサニーを抱きかかえ、煙の充満した部屋から出ていった。
寝室へ寝かせに行ったらしい。
「まったくマメなことだ。」
これ見よがしに紫煙を吐きながらアルベルトはあたりを見回した。



― 住まいはその者を映し出す鏡とはよく言ったもの。
部屋には暖かみというようなものが漂い、城全体を覆っていた。
自分の凍るような居城とはひどく印象が違う。

扈三娘に死なれてサニーをどうするかと考えた時、なぜか樊瑞の顔が浮かんだ。
樊瑞の第一印象はくそまじめでお堅い仙道だった。
肌が合うとは思われず敬遠していたのだが、いざという時浮かんだのは盟友の顔ではなく、
この仙道の顔だった。
さして興味があったわけではない。
ただこの男は信頼がおける、そういう確信めいたものがあった。
娘を預けた関係上話すようになりうち解けた格好だ。
面白そうだと盟友も加わって、最近は三人で酒を飲む事もある程で。
子どもが好きな樊瑞はサニーを自分に娘のように可愛がり、サニーは素直でまっすぐな娘に育っている。
その性格がBF団の任務に向くかどうかは別の話であるが、子育てとしてみれば成功ではないだろうか。
サニーは年々扈三娘に似てくる。自らと繋がるものは赤い瞳くらいのもの。
しかし強力な力は幼いながら明白だった。
その力をあの狸が放って置くはずがない。狼の牙さえも利用する喰えぬ狸の謀。
化かし化かされ気づけばいつも藪の中。

言わばここはつかの間の夢の城。
そしてどうやら夢の終わりは近いらしい。操り人形とともに事はすでに動き出した。
だが今は、あの幼子の小さな夢が少しでも長く続く事を祈っておこう。
幸い、外は一面白銀世界。
狼も狸も春になるまでは、ねぐらで大人しくしていよう。



「待たせたな。」
そう言い帰ってきた樊瑞の手には酒とつまみ。
久しぶりに一杯やろうというのだ。幸い二人とも明日は一日空いていた。

―雪を見ながら酒に興じるのも悪くはない
―が、
「たまにはお前も一本どうだ。」
そう言ってアルベルトは葉巻を差し出した。
サニーの大好きな「おじ様」も近頃はいろいろストレスが溜まるらしく、
「サニーには秘密だぞ。」
と念を押し、ありがたく葉巻を受け取った。
「今日くらいはよかろう、どうせもうこの部屋ではお前が吸おうと吸うまいと大して変わらん。」
天井を見れば、確かにアルベルトの言うことはもっともで、樊瑞はうまそうに紫煙をくぐらせた。

翌日、目を覚ましたサニーがまず始めにしたことは換気であったそうである。
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魔女の城




― 戦い始めてからもうどれくらいになるのか。
相手が倒れない。
それはひどく珍しいことだった。
この衝撃波に耐えられるのは国警では九大天王くらいのものかと思っていた。
相手の能力とこちらの能力、その相性もあるかもしれない。
放った衝撃波を太刀で打ち消され、思わず眉をひそめる。
ここで殺らなければ、こちらが殺られる。
相手が傷の痛みでバランスを崩す、その一瞬。
横腹めがけ衝撃波を叩き込む。

と、それをも剣で凌ぎきられた。

― 殺すには惜しい腕だ。
だが、容赦はしない。もう一度は防げまい。これで終わる。

その瞬間肩に当たる飛礫。
― 銭
邪魔が入った。
マントをはためかせ佇む人影。次期リーダー殿のお出ましか。


アルベルトの様子を見に来てみれば、そこには自身の見知った顔。
今は敵同士だが、昔弟弟子と共に、懇意であったその人物。
樊瑞は、この人物の気高さが好きであった。
― どんな経緯で国警にいるかは知らないが、元は相当な名家の子女のはず。
縁を切っていたとしても、圧力くらいにはなるだろう。それは我々の利となること。
そう考えアルベルトに、人質としてBF団支部につれて帰るよう説く。


アルベルトはそんな樊瑞を愚かと思いつつ、一丈青扈三娘に目を移す。
― これだけの猛者、なかなか出会えんな。それがしかも女とは。
珍しく自分以外に興味を持った。
その強さと気高さに。
ただ、それだけの事。



BF団支部の一室に入れられた扈三娘は、「殺せ」という言葉以外口にしなくなった。
今回の戦いでBF側も痛手を被った。死んだ者も少なくない。
国警への負の感情。それがここにいる扈三娘に注がれている。
一触即発。
樊瑞はその中で奔走していた。
国警との交渉と、BF団の感情緩和。扈三娘の説得。
傍から見れば何の事はない。
なんとかしてこの人物を助けたいのだとよくわかる。
しかし当の本人は気づいていない。
ただBFの利を思い奔走している。
鈍い男だった。自身の秘めた気持ちにすら気づけない。
だからこそ簡単に揺らぐ事もない。
主に対する絶対的な、盲目的とも言える信頼と信仰。それが樊瑞という男にはあった。
これがカワラザキが樊瑞を次期リーダーに推す理由であった。

そんな樊瑞の様子を離れた場所から見ている人影が二つ。

「さすが、次期リーダー殿よ。」

可笑しそうに笑うセルバンテス。
なぁ、と話をふられた相手、アルベルトは浮かぬ顔で、
それを見とめたセルバンテスはさらに笑う。
「何が可笑しい。」
気に障ったらしい。

― 何が だって?

「君が素直じゃないからさ。」
そう言って笑うと、
もうこれ以上話す事はないという風に、葉巻を口に銜え顔を逸らしてしまった。
「しかし、まぁめずらしい事もあったもんだ。」
なおも話を続けようとするセルバンテスを残し、アルベルトは歩き出す。
―やれやれ嫌われたかな?
セルバンテスも後を追い、香だけをそこに残し、闇に消えた。



「馬鹿な・・・っ」
樊瑞は慌てた。
一丈青扈三娘の姿がない。
争った跡もない。
そもそも自分が目を離したのはほんの一瞬の事で。
しかし次の瞬間、そこにあるべき姿は消えていた。
逃げ出せるわけはない。
では、誰かが連れ出したのか。
自分と警備の目を盗み侵入し、且つ人一人を連れ出す事が出来る人間。
つまりは―

「十傑集か。」
樊瑞の背中を嫌な汗が伝う。

「そっとしといてやんなよ。今頃二人でお楽しみさ」
ふいに背後から気配が現われる。漂う独特の甘い香り。
「貴様か眩惑・・・」
「私は捕らわれの姫を逃がしただけ。おとぎの国の魔法使いというわけさ。」
くすくすと、さも可笑しそうに笑いながら、

― 姫が君を選ばなくて残念だったねぇ。

そう耳元で囁くと、眩惑使いは闇に溶けた。
明かりの中には混世魔王ただ一人。



一丈青扈三娘がBF団側についた。
十傑集衝撃のアルベルトの妻に収まり、二人には子もいるらしい。

そんな噂がBF団で囁かれるようになった頃、樊瑞は正式に十傑集のリーダーとなっていた。
国警からは、扈三娘の事で再三非難を受けたが、
どうにもならない。
またどうにかする気もない。
あるのは扈三娘が自分の元を去った、その事実のみ。

噂では、アルベルトは生まれた子供と縁を切ったという。
その裏にどんな理由があろうとも、自分には到底出来ぬ事。
自分の子ならば、抱き上げ、頬を摺り寄せ、手元に置いておきたい。
そう思うのが親というものではないのか。
アルベルトと自分では違いすぎる。
そして扈三娘は、そんなアルベルトを選んだ。

彼女は と、ふと思う。

彼女は縁を切った事をどう思っているのだろう。

聞いてみたい気がした。
聞いてどうにかなるわけでもないのに。
声だけでも聞きたいというのは、やはり未練だろうか。
耳に残っているのは「殺せ」と迫る彼女の叫び。

「酷いものだ。」
皮肉な笑みが漏れる。
― 失って初めて気づくとはよく言ったもの。



と、突然部屋の扉が開かれ、我に返る。
珍しい客だった。
そこ立っていたのはアルベルトで、その腕には幼子が抱かれている。
彼が任務の報告以外で樊瑞の城を訪れたことは終ぞない。
その彼が今目の前に立っている。
突然の訪問の理由が任務の報告のわけはなく、抱えているのは噂の子供らしかった。

訪問者の意図を図りかねていると、向こうからこう切り出した。
「扈三娘が死んだ。」
それはまるでいつもの挨拶か何かのようだった。
訃報というものは、なぜいつもこう突然なのか。

「そうか。」
― 死んだ、と。
その言葉に、現実が伴わない。そこにあるのはただ虚無のみ。
そんな樊瑞の様子に気を止める事なく、アルベルトはさらに言葉を継ぐ。
「こいつの面倒をお前に見て欲しい。」
アルベルトは幼子を示し、そして言った。

「っつ・・・何を・・・」

― この男は、一体何を言っている。
目の前がくらりと回る。
この子は、扈三娘の子で、自分の子ではないか。
気まぐれに奪った者が、その形見はいらぬとでも言うのか。
しかもその形見を奪われたこの自分に託すなど。
正気の沙汰とは、思えない。

アルベルトは続ける。
「死に際、扈三娘にこいつの事を頼まれた。だが、わしは子供が苦手でな。」
言いながら、抱えていた幼子をそっと床に下ろし、自分から離れるよう促す。

この男は不器用だ。
それは短からぬ付き合いで知っている。
この男の感情の表現はいつも激しい。
それが生まれ持った性か作り上げられたものかはわからない。
その凶暴な感情は衝撃の二つ名そのままに、研ぎ澄まされた刃のように人の心や体を容易に切り裂いてしまう。
愛情の表現の仕方なぞ知る由もない。
そんな自分には、子を育てる資格も価値もありはしないと思っているのだろう。


― だが
― それでも
「お前は父親だろう。」

そう言うが早いか、
樊瑞は、アルベルトの顔めがけ、思い切り拳を叩き込んだ。
鈍い音が部屋に響いて、そして消えた。

夕闇迫る中、訪れる沈黙。
日暮の音だけが部屋に響く。
鎮魂歌に相応しい、もの悲しくも優しい音色。

ふと、視線を感じ目をやれば、自分を見つめる瞳が二つ。
その瞳の主は、ただじっと殴られた父と殴った自分を見つめていた。
父親譲りの赤い瞳で、泣きもせず、怯えもせず、
ただじっと。


― それでも
切れた唇を拭いながらアルベルトが口を開く。
「それでも、頼む。」
搾り出すような声。

そこにあるのは、強く深い赤の瞳。
その瞳はまっすぐ樊瑞だけ見ている。
瞳の中で行き交い暴れる様々な感情の渦。
樊瑞はその中に一瞬悲しみの色を垣間見た。
― この男、悲しくないわけではないらしい。
その事に少し安堵する。
しかし愛していたとはこの男、口が裂けても言いはすまい。
普段ならこんな姿すらも、決して人には見せぬ男だ。
その男が真剣に頼んでいた。小さな瞳も健気にそれに倣っている。
そこまで思いをめぐらせて、

― 頷くしかないではないか。

樊瑞は結論を出した。
「後見人、そんな立場でいいなら引き受けよう。」
そう言った。
父親なんぞになれはしない。
この幼子の父親は一人きり。
二人を結ぶ赤い瞳。

「礼を言う。」
そう言い、アルベルトは幼子を置き、立ち去った。
部屋には樊瑞と幼子が残される。



「主、名はなんと言う?」
「サニー」
赤い瞳の幼子は、静かに、しかしはっきり自分の名を言った。
赤い瞳に決意を込めて。

「おいで、サニー」
名を呼び、その胸に抱きしめる。
あたたかい幼子の体。
そのぬくもりは、なれぬせいかむず痒い。
この感覚に戸惑うあの不器用な男を想像し、樊瑞はくくっと笑う。
その様子を赤い瞳が不思議そうに見上げてくる。

扈三娘、この子は強いな。
さすが、君らの子だよ。
今日からは、儂がこの子を守る城になろう。

そう決意して、樊瑞は赤い瞳の幼子をもう一度優しく抱きしめた。


この日、赤い瞳の幼い姫は、自分の城を手に入れた。
難攻不落のその城は姫のため、一層守りを堅くする。

その影に潜むは、姫を手放した騎士の姿。

人知れず、夕闇の中微笑む魔法使い。




おとぎ話をしてあげようか?
それとも魔法をかけようか?

― でも決して末永く幸せになんて祈ってはいけないよ?
食べられてしまうから。
まぼろしは君が堕ちてくるのを、口をあけて待っている。
 カタリ。
 グラスの中の氷が静かに揺れて音を立てた。その音を愉しむように一口、口に含む。
「ふむ…」
 満足げに目を閉じる。店内には静かにピアノが流れている。
 ADIEU。クセのない、控えめの演奏はこの狭い店に良く似合っていた。
「My love... for you...」
 つい口ずさんでしまい、はっとマスターを見上げると、マスターはニッコリと微笑んだ。店内には自分とマスター、それにこちらからは見えないピアニストの3人しかいない。
「マスター」
「はい」
「ここは良い店だな」
「ありがとうございます」
 マスターは軽く頭を下げて見せた。

 チリリン。ドアのベルが静かな室内に響いた。
「ナイス紳士。遅くなったかな」
 ピンクのマントをマスターに預けながら、ナンバー2がナンバー4に声をかけた。ナンバー4は軽くグラスを上げてみせた。
「ナイス紳士。いや、そうでもない」
「今日は私とお主だけのようだな」
「そうらしい」
 SPACE LION。演奏はややアップテンポ気味だが、あくまでも控えめ。この店をわかっていると、好感が持てる。
「今日は生演奏か」
「良い演奏者が見つかりましたので」
「そのようだな。私はマスターの演奏も好きだったが」
「ありがとうございます」
「では、いつものを頼む」
「かしこまりました」
 ナンバー2は、そこでナンバー4のグラスをのぞき込む。
「また芋焼酎か」
「ふん、この万夜の夢は特別なのだ。そういう貴様こそ…この松本零士かぶれが」
 マスターが差し出したグラスには、無論「あの酒」が注がれている。ナンバー2はナンバー4の憎まれ口に気を悪くした風でもなく、うまそうにその日本酒を口に含んだ。

 ピアノの曲が途切れた。
「マスター、鉄腕GinReiを見たよ。ハーモニカができるのかね」
「お恥ずかしい。多少ですが、かじったことはございます」
「今日は聞かせてもらえんかね」
「かしこまりました」
 カウンターの奥から、マスターは小さなケースを取り出してきた。ケースにはHOHNERの文字。正真正銘の「ブルースハープ」だ。
 ピアノの脇に立ち、軽く一礼してマスターはハープを口にあてがった。
 一曲演奏し終えて、紳士達は拍手でマスターを迎えた。
「お耳汚しでした」
「素晴らしかったぞ、マスター」
「うむ。マスターは本当に多彩だな」
「恐れ入ります」
「さて…今夜も楽しませてもらった。ありがとう」
「おやすみ、マスター」
「失礼いたします」

 アルベルトと樊瑞を見送って、イワンは店の奥に声をかけた。
「サニー様。今日は夜遅くまで、ありがとうございました」
「いいえ、イワン。わがままを言ったのは私の方ですから」
 そう言ってピアノの影からひょっこり顔をのぞかせたのは、なんとアルベルトの娘サニー。
「イワンこそ、いつも父たちのわがままに付き合ってくださって、どうもありがとうございます。すみません、本当に子供みたいな人で…」
 サニーは本気で赤面している。
 今日はサニーたっての希望で、彼らの活動をのぞきに来たのだった。
「いいえ、私も楽しませて頂いておりますから。お気になさらないで下さい、サニー様。まあ、でも…」
 グラスを片付ける手を止めて、イワン。
「あのお2人はいつもアレをお召し上がりになるのが…せっかくお店を作って頂いたのに勿体のうございますね」
「本当に。では、私に何か作っていただけますかしら?」
「サニー様…それはさすがに」
「あら、私ではまだ一人前のレディとして認めていただけませんか?」
「そ、そういうわけではございませんが」
 それを聞いてニッコリ。この笑顔に勝てるはずがない。
「…では、お父上には秘密にして下さいね」
「はい」
 イワンが作ったカクテルはかなりアルコールが控えめになっていたが、とても美味しかった。
「イワンは本当に何でもお出来になるんですね」
「いえ、そんな。お恥ずかしい。サニー様のほうこそ、ピアノがお上手で…私も愉しませて頂きましたよ」
「今日は久しぶりにピアノを弾けて楽しかったですわ。母が亡くなってからは、父が寂しそうにするのであまり弾かなかったんです」
「そうでしたか…」
「でも、今日私のピアノを聞いていらしたお父様はほんとうに楽しそうでしたわ。たまにはこうしてピアノを弾かせていただいてもよろしいでしょうか?」
「喜んで。歓迎いたしますよ…ひょっとすると、あなたのお父上も」
「え?」
 きょとんとするサニーにイワンはにっこり微笑んで、
「サニー様。私にも1曲、よろしいですかね」
 先ほどのハープを取り出してみせる。
「勿論。何がよろしいですか?」
「では、Hamducheを」

 ほんの少しのアルコールで、しっかりほろ酔い気分になって帰宅したサニーは、アルベルトに「こんな時間まで外をフラフラして」とこってり絞られ(って今時言うのかねえ・笑)、自室謹慎を申しつけられた。
「もう…イワンたら。お父様はそこまで物わかりのよろしい方ではありませんのに」
 苦笑しつつ、ああいうしっかりした人物が父の補佐に付いている事を頼もしくも思うサニー。まさかあんなことまでさせているとは驚きだったが、楽しそうにしていたのでむしろ喜ばしかった。
「樊瑞おじさままで…」
 蝶ネクタイで。次に樊瑞と顔を合わせた時、笑ってしまいそうだ。
 と、ドアがノックされた。
「サニー、起きているか」
「はい」
 ドアを開けると、アルベルトが立っている。
「何でしょう、お父様」
「サニー、ピアノを弾いてくれないか」
 ビックリして目を丸くするサニー。不機嫌そうな表情の父親を見上げて、おずおずと訊ねた。
「曲は、何になさいますか」
「ん…。ADIEUだ」
 それを聞いて、サニーは家に帰ってから初めて笑顔を見せた。
誰もサニーにそれを告げなかった。
サニーも何ひとつ尋ねなかった。
その時を見ていた訳ではない。それでも分かったのだ―――


日の光が眩しくて、サニーは俯いた。
足元の草原に咲く花もどこかで歌う小鳥の声にも、何も感じない。
晴れ渡る空を吹く穏やかな風も―――全てが遠いもののように感じられるのだった。
覚束ない足取りで木陰に辿り着き、ぼんやりと佇む。
どれぐらいそうしていたのか分からない。
「サニー」
深くて静かな声がした。
「おじ様」
振り返ったサニーは樊瑞の表情を見て、上手く笑うのに失敗したと悟る。
「…泣いていたのか」
「いいえ」
サニーは顔を上げた。
「泣いてはおりませんわ、おじ様」
だからそんな傷ましいものを見る目でみられるのは辛い、とサニーは思う。
「そうか…」
「はい」
悲しいのだろうか。悲しむべきなのだろうかとサニーは躊躇う。
―――父は笑っていたのに?
「サニー」
「何でしょう、おじ様」
サニーには自分が今どんな顔をしているのかが分からない。
「…良いのだぞ」
樊瑞は見詰めるサニーの前で片膝をついた。
「儂の前では―――泣いても良いのだぞ」
大きくて温かい手が頬に触れ、その余りの変わりなさにサニーは思わず微笑んでいた。
「サニー」
ゆっくりと抱き締められて、サニーは目を見開いた。少し息苦しい程の力。拒むでもなく、応えるでもなく、立ち尽くしながら肩越しの空を見詰める。綺麗だと思った―――他人事のように。
「…泣きません」
声は震えなかった。
「…そうか」
「はい」
この人は優しい。この広い胸は温かくて、まるで―――
思いがけない唐突さで、サニーの視界が滲んだ。
ああ、と樊瑞は溜息をつく。
「悲しい…空だな」
サニーは答えなかった。
晴れ渡る空に吹く穏やかな風。それのどこが悲しいのだろうか。
そう思うのに涙が零れるのがなぜなのか、それだけが分からなかった。
中呉に見せかけてかぎりなく花黄




赤提灯ばれんたいん




 2月14日、キャンセルの電話が入ったのは、約束の3時間前だった。

『……と言う訳で、どうしても約束には間に合いそうもありません』
「そうか。仕方がないだろうな」
『申し訳ありません。私のミスで……』
「いや君が謝ることはない。そっちを優先したまえ」
『いえ、それでも折角お誘いして下さったのに……』
「急に言い出したことだ。気にしないでくれ」
『すみません……』

 何度も謝罪するその声に、中条は電話の向こうにいる呉の姿を想像した。
 研究室で受話器を片手に謝りながらも、周辺を右往左往する研究員達には的確に指示を
出している。本来はこうして自分を相手にしている暇もないのかもしれない。
 小さな破裂音と数人のどよめきが洩れ聞こえる。

「忙しいようだね。私のことはいいから頑張りたまえ。それとあまり無理はしないように」
『はい……』

 切る間際にも呉が謝罪する声が聞こえる。相変わらず几帳面な呉らしいと思いつつ、い
つもと違う微妙な声音も中条は察している。
 ミスだと言いつつその声は嬉しさが滲み出ていた。その実験に純粋に科学者としての気
持ちが疼いているようだ。今の呉の心は自分との約束よりも目の前の研究のことで占めら
れている。けして自分と会話に心が篭もっていないわけではないのだが、いつもより上滑
りな様子が感じ取れた。普段だったらそんな心情を隠そうとする呉から、だ。これはよっ
ぽどのことだろう。と中条は思う。
 実験に負けたと寂しく思いつつ、中条はもう1度電話を取った。今度は違う研究室へ。
 相手は直ぐに出た。

『はい』
「私だ」
『長官? 何か用事でも?』

 困惑げな声。それもそうだろう。中条がそこに電話を掛けるのはこれが初めてだ。

「あぁ。今夜行われるコンサートのペアチケットが無駄になったのでね。折角だから君に
進呈しようと思う」
『は?』
「その後の夕食は国際ホテルのレストランに行きたまえ、予約は取ってある」
『あ、あの……』
「場所は会場から北京空港へ行く途中の……」

 最初は困惑していたが、中条が強引に話し終える頃には相手も何かを察したらしい。肝
心な部分には触れずに演目や指揮者を問われて答えれば、彼には珍しく大きな感嘆を洩ら
した。クラシックを好む彼でも良く知る名だが、生演奏は初めてに違いない。

『それは……まだアイツには十年早いな』

 青年らしいセリフだと思う。だからこそ余計に少年は焦って頑張ってしまうということ
に、気付いているのだろうか?

「偶には少しくらい彼を大人扱いをしてやりたまえ」
『本人が気付かん時もあるのだがな……。まぁ、あの指揮者の演目は私も聴きたかった。
ありがたく頂こう』
「では誰かにチケットを持っていかせる。楽しんできたまえ」
『あぁ。貴方の分までな』

 その一言を残して、中条の恋人の性癖を良く知る黒髪の青年は電話を切った。
 やはり見ぬかれたかと苦笑しつつ、中条は受話器を戻す。

 しかし彼もこれからどう少年を誘うのか悩むところだろう。なにせ相手は直情型の少年
で、騒がしい保護者が二人もついている。どんな風に誘おうともひと悶着起こるのは日を
見るより明らかだった。

 保護者を巻き込んでの大騒動になった上、支部を壊さなければいいが。
 そんなことを危惧しつつ、消えかけたパイプに葉を詰め直そうとした中条に、卓上のイ
ンターホンが来客を告げた。

「誰が来たのかね?」

 今日は来訪の予定はなかったはずだがと訊ねた中条に、対応した受付嬢も困惑気味だ。

『はぁ。それが……』

 答えようとした受付嬢の声を遮った新たな声は中条にも聞き覚えのある声だった。

『俺だよ俺。鎮三山の花栄~。休暇だから遊びに来たんだけどさ、長官殿は今暇かい?』






 3時間後、中条と花栄が居たのは北京では珍しい日本風の居酒屋だった。お世辞にも綺
麗とは言えない店の外には赤い提灯がぶら下り、お世辞にも広いとは言えない店内は5・
6人しか座れないカウンターのみ。さらに店を切り盛りするのはカウンター越しに鋭い視
線を投げかける無愛想な親父が一人きり、と中年日本男性には心底懐かしさを感じさせる
店だった。
 ちなみに中条を飲みに誘い、この店に連れて来た花栄はこの店では常連らしい。
 甲冑を身に付けていないとはいえ、いかにも武将といった恰好の花栄とスーツの中条と
いう組合せに店の主は全く動じずに接客している。

「おやっさーん。大根とがんもね、あと日本酒お代り」

 と慣れた口調で注文する花栄の姿は全く違和感がない。むしろ馴染んでいる。これで服
装が中条と同様にスーツだったら完全に、『東京の仕事帰りのサラリーマン二人組』と思
われることは間違いなかった。

「私も大根をもらおう」

 店に入った瞬間、まさか異国でこんな店に連れて来られるとは……、と顔には出さず感
動した中条だったが、おでんの味に更に感動した。正に懐かしき東京の味がする。
 直ぐにさっと目の前に出された大根を口に入れる。ほどよく出汁の染みた大根の味に、
思わず声が洩れた。

「美味い」
「だっろ~。ぜってぇアンタにも教えようと思ってたんだ」

 中条の勤務時間が終り酒も入ったことで、花栄の口調も砕けてきた。

「それにしても中条長官も今日ドタキャンされたとはねぇ~」
「あぁ見事振られてしまったよ」
「折角のバレンタインデーだってのにねぇ。アンタの事だからちゃんと準備までしたんだ
ろ?」
「まぁ仕方がないさ」

 日本酒を片手に苦笑を返した中条に、花栄は『やっぱ長官アンタはは絵になるねぇ』と
溜息にも似た言葉を吐いた。

「きっとあの呉先生のことだから、今日がバレンタインデーだってこと事態忘れてるんだ
ろうぜ」
「あぁ。私もそう思う。実験相手では私も分が悪くてね。全敗中だよ。」

 それでも、思い出して謝りの電話を入れるくらいになったのだから進歩したものだと思
う。最初の頃はすっかり忘れられた挙句、後で泣きながら謝られてしまうことが何度もあ
り、その度に慰めたり周りに勘繰られたりと散々な目にあったものだった。
 そう言うと、花栄は唸った。

「順調そうに見えて長官も結構苦労してんだな。でも昔はかなりモテただろアンタ。
 確か長官の出身の日本だと、バレンタインデーは女の子からチョコレート貰って告白さ
れるんだよな。放課後に校舎裏に呼び出されて、セーラー服の女の子に『好きです』とか
言われちゃうんだろ? いいなぁ、こっちはそんな風習ないからさ、うらやましーなぁ。
あと下駄箱いっぱいのラブレターとかあるんだろ……」
「……やけにくわしいな」

 どこから得たのか偏った花栄の知識に幾らか引き気味の中条は、直ぐにその答えを知っ
た。

「あ、この間村雨に聞いたんだよ。あってるんだろ。これ」
「……まぁ、そういうシュチエーションも無きにしもあらずだが。ついでに言うなら日本
にはホワイトデーというのもあるがね」
「あ、それも聞いたぜ。確かチョコレート貰った相手に何十倍も高い値段のもので返さな
きゃいけないんだろ? で、あくどい女はそれ目当てにバレンタインデーにチョコレート
配りまくるんだって?」

 それは嫌だな。どうせならチョコレートだけ貰いたいぜ俺と呟く花栄に、頭痛を覚えた
中条は話題を変える事にした。

「………そう言えば、君も急にキャンセルされたって?」
「そうそう! そーなんだよ」

 途端食いついた花栄。
 その相手は中条も良く知る人物で、とても堅物で有名である。こんな恋人同士のイベン
トに参加するとは思えないが、かといって土壇場で断わるような男でもない。中条には二
重の意味で信じがたかった。

「それは……矢張り黄信君なのか?」
「え~。アイツ以外に誰がいるっていうんだよ、長官!」
「……それはすまない」

 花栄の想い人は小李広の黄信というれっきとした男だ。花栄が幼馴染の黄信にベタぼれ
と言うのは、国警の中でも有名な話で、それに気付いていないのは想われている本人だけ
である。正に親友以上恋人未満な関係と言える。
 これからの話に勢いを付けるためか、花栄はコップに入った酒を一気に煽った。

「聞いてくれよぉ。本当はさ、アイツとふたりでここに呑みに来る予定だったんだ」

 最初は(中条の想像通り)そんな軟弱なイベントなんぞにかぶれおってと相手にされな
かったが、友人同士でも祝うらしい(と限りなく曖昧に言ってみたり)とか丁度御互い休
暇だとか色んな理由を付けてどうにか約束にまで漕ぎつけたらしい。

「で、それが昨日さ、急に当日夜勤の奴と交代するって言うんだよ、ひっでぇだろ~」

 詳しく聞いたら、それは妻子がいる男だった。なんでも単身赴任中でなかなか会えない
父親に物心付いた娘から、覚えたばかりのたどたどしい文字で『チョコを渡すから帰って
来て』と書かれた手紙が来たらしい。

「それは……黄信君らしいな」
「確かにそうだけどさぁ。偶には俺の約束くらい優先して欲しいもんだぜ」

 口ではそう言いつつも、花栄の瞳は優しい。
 黄信は数年前にBF団との戦いで妻子を失った。その所為か、妻子持ちのエキスパート
にはどうしても自分の出来る範囲で優遇してしまうらしい。
 妻子が殺されたことに自責の念に駆られ自分を追い詰めていた黄信の姿に、今まで親友
としての愛情だと思っていた気持ちが恋愛感情だと気付いた花栄にとっては、そういった
黄信の姿が告白に踏み切れない理由のひとつになっている。

「そういうところも好きなんだろう?」

 中条の問いに、花栄は大きく頷いた。

「そりゃぁね。あー俺、やっぱアイツのこと好きなんだなぁって改めて思ったね。だから
このままの関係でもいいと思う時もある」

 君らしいな……と言いかけて中条は声を噤んだ。花栄の表情がやや暗くなったが一瞬の
事で直ぐにいつもの明るい表情に戻る。

「でも、俺って奴は自分で思った以上に欲張りだったらしくてね。
 その時同時に、アイツにもしも新しく女が出来そうになったらどうなるか分からないなぁ
と思いましたよ。俺も案外暗いもんだ」

 そう言って花栄は笑った。






「あー呑んだ呑んだ」

 と上機嫌の花栄と、いつも通りパイプを吹かす中条は北京の屋台通りを歩いていた。赤
提灯の店を出て2軒目を梯子するかとブラブラしているところだ。
 バレンタインデーとあって、こんな通りでもいつもよりは若干カップルの姿が目立つ。

「本当は、長官殿に口説きのコツでも聞いた後、長官呉先生のいちゃつきっぷりでも拝ん
で帰ろうかと思ってたんだけどなー」

 あっはっはと笑う花栄。

「拝んで? なんだいそれは?」
「あれ? あー知らないよな。今梁山泊で、誰が始めたんだか北京の方を拝めば恋愛成就
するっちゅうお呪いが流行りなんだよ。なにせ最強カップルが2組もいるから」

 最強と言われて、敵味方のタブーを乗り越えた一組は直ぐに思いついたものの、自分達
が最強と言われる所以が分からない。と呟いた中条に、

「ま、知っても直しようがないからなぁ。アンタ達は」

 と答えて笑い続ける花栄だった。
 そんな中、突如まだ人通りの絶えない屋台通りに馬の嘶きが響いた。ん? と花栄は聞
き覚えのあるその声に背後を振り返る。

「あれは……赤兎馬か?」
「そのようだな」

 市街を歩くには……と支部に置いてきた筈の愛馬の姿が人込みの奥に見えた。
 人の波が割れて音と共に近付いてくる特徴的な赤毛の馬に驚いた花栄は、その背に乗っ
た人物更に驚く事になる。

「って、黄信! こんな所でどうしたんだお前」
「探したぞ、花栄」

 赤兎馬からひらりと降り立った黄信はいつもと変わらない甲冑姿だった。

「なにかあったのか?」
「違う」
「じゃ、なんで? お前今日夜勤だろ」
「どっかの誰かが散々ごねたから、部下が気を効かせてくれてな。今日は休みになった」

 で探してみれば、赤兎馬で北京に向った後だったそうだ。
 全く良い年の男が……と不機嫌な顔をしつつも、わざわざ探しにやってくるのが黄信ら
しい。

「こ、黄信~」

 瞳を潤ませた花栄に、照れ臭いのか眼をそらす。

「さぁ、呑みに行くならさっさと行くぞ」
「おう」

 さっさと歩き出す黄信に嬉しそうに合いの手を入れた花栄は、上機嫌で蚊帳の外だった
中条を振り返った。

「という訳で今から三人で飲もうぜ長官。今なら俺が全部奢るぞ」

 先ほどまで居酒屋でくだを巻いていたのが嘘のようだ。

「いや、私はここで退散しよう」
「そうかい」

 その残念そうな声音に中条は苦笑を返した。花栄は元々大勢で呑むのが好きな方だ。黄
信と二人きりで呑むと言うことが今は頭の外らしい。

「あぁ。ついでに赤兎馬も支部で預かっておこう。明日にでも取りに来たまえ」
「確かにそうしてもらえるとありがたいな。頼んだ」

 頷いた黄信から赤兎馬の綱を預かり、慣れた手付きでその背に跨った中条に、黄信が思
い出したように声を掛けた。

「あぁそうだ、中条長官。呉学人が青い顔をして探しておったぞ」

 なにがあったか知らんが、帰ったら話を聞いてやれ。周りの人間が迷惑だと、少々立腹
気味の黄信の言葉に、中条は表情をどう作れば良いのか困った。
 ようやく今日がなんの日か思い出したということだろう。探していたということは、今
度は研究が手に付いていないのだろうか?
 取り合えずは分かったと答えておいて、中条は花栄と黄信に手を振ってその場を離れた。


 屋台通りを歩いている時は気付かなかったが、寒空の上星と共に満月が青白く輝いてい
る。吐く息が白い。
 市街から抜け出た途端文字通り風のように駆け始めた馬の上で、中条は今頃慌てている
であろう恋人を思い、一人微笑んだ。



 買って置いたチョコレートはどうやら無駄にならずに済んだらしい。
 実験好きの恋人に無下にされない日も近いのかもしれない。
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