「料理はできた方が絶対に良い」
そう言ったのはカワラザキ。
包丁を持てるようになった年齢になったので早い花嫁修業というわけでもないがたしなみの一つとしてサニーに料理のイロハを教えるよう樊瑞に勧めたのであった。当然樊瑞は料理などできない、そこでカワラザキが「あの男に任せればいい」とイワンを推挙したので彼に任せることにした。
そのためサニーは最近イワンと一緒にアルベルトの屋敷の厨房に立つようになった。
ちなみに、実の親であるアルベルトは「好きにしろ」の一言で済ませ、縁を切った娘が我が屋敷に出入りするようになったことに対して、それ以上何も言わなかった。
---話はそれる
イワンはアルベルトの部下であるB級エージェント。
部下といっても部下の領分を超えてアルベルト個人の身辺サポートも兼ねている。
本来BF団では「個人の私兵」は固く禁じている。派閥による内紛や反乱、また一枚岩でなければならない組織内の二次勢力形成を恐れたからである。そのためこのイワンの扱いは問題視されるかと思われた・・・が。
しかし彼は私兵というわけでもなく、またアルベルト自身イワンを「私兵」という意味で扱っているわけでもない。そもそも彼は「私兵」などを必要とする男でもなかったからだ。そんなアルベルトの性格を誰もがよく知っているからこそ、特に問題になるわけもなくBF団でも暗黙の了解のうちに「衝撃お気に入りのB級」という形になっていた。
このイワン、なかなか器用な男で本来の複雑な機械・機器類を容易く扱う優れた能力でB級の座であるのだが、ピアノは弾けるしどこで覚えたのかバーテンダーよろしくシェイカーも振れるらしい。そして料理はプロ級、いやそのままホテルのシェフとなってもおかしくない腕前。貴族の出である舌の肥えたアルベルトを満足させる男でもある。さらに
「私ごときB級が十傑集であられますアルベルト様のお側で使っていただけるだけでも・・・」
と、本来の性格なのか目上に対して非常に腰が低い。そして自分を良くわきまえ誠実に、忠実に主人に尽くす。いわばアルベルトという男にとって最も最適な部下とも言える。
---本題。
B級からすれば雲の上の存在でもある大幹部の十傑集、しかもそのリーダーたる男からの直接の頼みでイワンは当初は困惑していた。アルベルトの娘に料理指導ということだが、あくまでもB級エージェントである自分よりもBF団内の料理番に・・・と恐る恐る言ってみたが十傑集リーダーに「任務の合間だけでいい、頼む」と頭を下げられてしまった。
サニーは野菜の単純なカットならできるようになった。
味付けを教わってシンプルなスープも作れるようになる。
それをたまに私邸へと戻ってくるアルベルトの食卓に出してみた・・・
「サニー様が作られたスープです」
アルベルトは何も言わず黙々とスープを口にする。
特に感想は述べない。
「アルベルト様はご不満がある時だけその旨を仰られます、きっとお口に合うのですよ」
イワンは何も言わないアルベルトに不安げな顔になったサニーに苦笑まじりに言った。
そうして数週間後。
「イワン、わたしオムレツを作りたいの、作り方教えて欲しい・・・」
そう言いだしたのは卵を綺麗に割れるようになってからだった。
「オムレツは簡単そうに見えますが、とても難しいのですよ?」
「・・・でも作れるようになりたいの」
イワンは卵料理が、とくにシンプルなオムレツがアルベルトの好物であることを思い出す。サニーは以前、セルバンテスからそのことを聞いて(『食事の風景』参照)知っていたのだった。
「わかりました・・・でも本当に難しいのですよ?頑張れますか?サニー様」
「うん・・・じゃなかった、はい、がんばるわ。ありがとうイワン」
その日からサニーの猛特訓が始まった。
積み重なる卵の殻。
味付けはイワンに教えてもらったとおり。
難関はオムレツの「焼き」だった。
焦げ付いたり、硬すぎたり、ボロボロに崩れたり。
サニーはイワンの言う「とても難しい」の意味がよくわかった。
簡単そうに思えたのに、作れば作るほどその難しさを実感していく。
それでも何とか「それなりのカタチのオムレツ」を作ってみた。
「うーん・・・たぶんアルベルト様はお口になされないでしょう」
「・・・・・・・」
カタチはそれなりでもいびつで色にムラがあり、そしてへたれていた。
サニーは俯いていたが再び卵に手を伸ばした。
1ヶ月が経った頃、ようやくイワンからお墨付きをもらえるオムレツを作れるようになった。
「ここまでよく上手にオムレツを作れるようになりましたね、ご立派です」
イワンはサニーが作ったオムレツを食べ強く頷く。
ふっくらとした卵のボリューム、バターとの滑らかな舌触り。
100点満点とは言わなくても、それはアルベルトのいる食卓に出せるくらいには十分な出来ばえだった。
「今夜はセルバンテス様もご一緒になるそうです、サニー様のオムレツをお2人に食べていただきましょう」
サニーは俄然やる気が湧いてきたのか満面笑顔になってエプロンを腰に結んだ。そして手馴れた手つきで自分とイワンの分も含め4つのオムレツを作り出す。それは今まで何度も何度も何度も練習したおかげで、4つとも同じ綺麗な形の黄金色のオムレツだった。
「いやーサニーちゃんの手料理を食べられる日が来るなんてねぇ、ついこの前までこんなに小さかったのにサニーちゃんも大きくなったということかな、はははは」
セルバンテスはニコニコしながら食前酒のワインを口にする。
囲まれる食卓に並べられ行くサニーの自信作のオムレツ。
「おお!これサニーちゃんが作ったのかね?凄いよオムレツはとっても難しいって聞いたけど随分と練習したんじゃないのかい?レストランでもこんなに綺麗なオムレツは出ないよ?とっても美味しそうだ」
嬉しい感想を口にしてくれるセルバンテス、サニーは少し得意な気持ちになる。
しかしアルベルトの表情を覗うが変わらずいつもの仏頂面があり、ワインを飲むばかりで先ほどからずっと無言のまま。
「いただきまーす!」
真っ先にセルバンテスはオムレツにパクついて「美味しい」を連呼。
セルバンテスの皿はあっという間に綺麗になった。
そしてアルベルトはというと・・・黙々とオムレツを口に運んでいる。
サニーはドキドキしながら父親が何か言ってくれるのではないかと期待してみていたが・・・彼は半分ほど食べてフォークとナイフを置いてしまった。
「・・・・・塩が足りん、ひとつまみほどだ」
そう言って半分残したまま席を立ち奥の書斎へ引っ込んでしまった。
サニーの瞳からボロボロと涙がこぼれる。
「サ、サニー様・・・」
「ひっどいやつだなアルベルトは、サニーちゃんが一生懸命作ったのに・・・」
声をあげて泣くサニーに2人はオロオロするばかりだった。
少し落ち着いてサニーは2人に囲まれて厨房にいる。
「しかし、おかしいですね、味付けはいつも私が作るものと同じのはず。アルベルト様にご不満は無いはずなのですが・・・」
「私も結構グルメなんだけど、サニーちゃんのオムレツはとてもおいしかったけどねぇ、彼は歳で味覚がおかしくなっちゃったんじゃないのかね」
同い年であるはずのセルバンテスがカラカラと笑う。
「・・・そ、それはわかりかねますが味だけお言葉があるということは『焼き』自体に問題はないはずですし・・・サニー様?」
サニーは再び卵を手に取っていた。
「わたし、言われたとおりもう一度作る」
父親譲りの意志の強さが発揮されたのかサニーはへこたれてはいなかった。
一回大きく深呼吸してから手慣れた手つきで卵を割る。そしてイワン直伝の味付けに・・・アルベルトの注文どおり塩をひとつまみ。慎重にバターが溶けたフライパンに流し込み、大きなフライパンをヨイショとひっくり返す。
2人が目を見開く前で新たに作り直されたオムレツは、見た目にはさっきのと何ら変わりは無い。まさしく黄金色の輝くオムレツ。
「お父様の所へ持っていくわ」
心配そうに見送るしかできない2人だった。
一度大きく深呼吸。
オムレツを落さないように慎重に左手でアルベルトのいる書斎の扉をノックする。
「入れ」と一言聞こえ、恐る恐る中に入るとアルベルトは机に向っていた。
「言われたとおり・・・塩をひとつまみ加えました・・・その・・・」
鋭い目つきを前におずおずと作り直したオムレツを差し出す。
アルベルトは何も言わずそれを受け取りフォークだけで口にした。
「・・・・・・・」
サニーはダメ出しが出れば再び作り直す気でここにいる。
何度でも作り直す気でここにいる。
しかし、結局何も言われないまま皿は綺麗になった。
「あ・・・・」
サニーは父親の顔を思わず見る。
アルベルトは真っ直ぐサニーの目を見て
「いいか、この味をよく覚えておけ」
そう言ったきり机に向きなおした。
厨房で待っていた2人に笑顔で綺麗になった皿を見せる。
「いやーサニーちゃん、やったじゃないか」
「サニー様、安心いたしました!」
2人から頭を撫でられながら綺麗になった皿を見てサニーは最高の気分だった。
「しかしいつもの味であるのに、何の不満があったんだろうねアルベルトは」
「さあ・・・サニー様をお試しになられたのでは?」
「そうかね~そんなことする男じゃないと思うよ?」
「それでは・・・」
「うーん・・・サニーちゃん申し訳無いのだけどもう一度作ってもらえないかな」
サニーは頷いてオムレツをつくる、塩をひとつまみ加えた味のオムレツを。
それを半分づつイワンとセルバンテスはフォークで食べた。
味を噛み締めるように、そして確かめるように。
イワンは首をかしげる。
セルバンテスも首をかしげる。
しかしどこかで食べた事のある味だった、それもすいぶん昔のような気がする。
セルバンテスは目を閉じオムレツの味の記憶をたどる。
「ああ、なるほどね」
目を開けセルバンテスは笑う。
「これ、サニーちゃんのお母さんの味だよ」
END
そう言ったのはカワラザキ。
包丁を持てるようになった年齢になったので早い花嫁修業というわけでもないがたしなみの一つとしてサニーに料理のイロハを教えるよう樊瑞に勧めたのであった。当然樊瑞は料理などできない、そこでカワラザキが「あの男に任せればいい」とイワンを推挙したので彼に任せることにした。
そのためサニーは最近イワンと一緒にアルベルトの屋敷の厨房に立つようになった。
ちなみに、実の親であるアルベルトは「好きにしろ」の一言で済ませ、縁を切った娘が我が屋敷に出入りするようになったことに対して、それ以上何も言わなかった。
---話はそれる
イワンはアルベルトの部下であるB級エージェント。
部下といっても部下の領分を超えてアルベルト個人の身辺サポートも兼ねている。
本来BF団では「個人の私兵」は固く禁じている。派閥による内紛や反乱、また一枚岩でなければならない組織内の二次勢力形成を恐れたからである。そのためこのイワンの扱いは問題視されるかと思われた・・・が。
しかし彼は私兵というわけでもなく、またアルベルト自身イワンを「私兵」という意味で扱っているわけでもない。そもそも彼は「私兵」などを必要とする男でもなかったからだ。そんなアルベルトの性格を誰もがよく知っているからこそ、特に問題になるわけもなくBF団でも暗黙の了解のうちに「衝撃お気に入りのB級」という形になっていた。
このイワン、なかなか器用な男で本来の複雑な機械・機器類を容易く扱う優れた能力でB級の座であるのだが、ピアノは弾けるしどこで覚えたのかバーテンダーよろしくシェイカーも振れるらしい。そして料理はプロ級、いやそのままホテルのシェフとなってもおかしくない腕前。貴族の出である舌の肥えたアルベルトを満足させる男でもある。さらに
「私ごときB級が十傑集であられますアルベルト様のお側で使っていただけるだけでも・・・」
と、本来の性格なのか目上に対して非常に腰が低い。そして自分を良くわきまえ誠実に、忠実に主人に尽くす。いわばアルベルトという男にとって最も最適な部下とも言える。
---本題。
B級からすれば雲の上の存在でもある大幹部の十傑集、しかもそのリーダーたる男からの直接の頼みでイワンは当初は困惑していた。アルベルトの娘に料理指導ということだが、あくまでもB級エージェントである自分よりもBF団内の料理番に・・・と恐る恐る言ってみたが十傑集リーダーに「任務の合間だけでいい、頼む」と頭を下げられてしまった。
サニーは野菜の単純なカットならできるようになった。
味付けを教わってシンプルなスープも作れるようになる。
それをたまに私邸へと戻ってくるアルベルトの食卓に出してみた・・・
「サニー様が作られたスープです」
アルベルトは何も言わず黙々とスープを口にする。
特に感想は述べない。
「アルベルト様はご不満がある時だけその旨を仰られます、きっとお口に合うのですよ」
イワンは何も言わないアルベルトに不安げな顔になったサニーに苦笑まじりに言った。
そうして数週間後。
「イワン、わたしオムレツを作りたいの、作り方教えて欲しい・・・」
そう言いだしたのは卵を綺麗に割れるようになってからだった。
「オムレツは簡単そうに見えますが、とても難しいのですよ?」
「・・・でも作れるようになりたいの」
イワンは卵料理が、とくにシンプルなオムレツがアルベルトの好物であることを思い出す。サニーは以前、セルバンテスからそのことを聞いて(『食事の風景』参照)知っていたのだった。
「わかりました・・・でも本当に難しいのですよ?頑張れますか?サニー様」
「うん・・・じゃなかった、はい、がんばるわ。ありがとうイワン」
その日からサニーの猛特訓が始まった。
積み重なる卵の殻。
味付けはイワンに教えてもらったとおり。
難関はオムレツの「焼き」だった。
焦げ付いたり、硬すぎたり、ボロボロに崩れたり。
サニーはイワンの言う「とても難しい」の意味がよくわかった。
簡単そうに思えたのに、作れば作るほどその難しさを実感していく。
それでも何とか「それなりのカタチのオムレツ」を作ってみた。
「うーん・・・たぶんアルベルト様はお口になされないでしょう」
「・・・・・・・」
カタチはそれなりでもいびつで色にムラがあり、そしてへたれていた。
サニーは俯いていたが再び卵に手を伸ばした。
1ヶ月が経った頃、ようやくイワンからお墨付きをもらえるオムレツを作れるようになった。
「ここまでよく上手にオムレツを作れるようになりましたね、ご立派です」
イワンはサニーが作ったオムレツを食べ強く頷く。
ふっくらとした卵のボリューム、バターとの滑らかな舌触り。
100点満点とは言わなくても、それはアルベルトのいる食卓に出せるくらいには十分な出来ばえだった。
「今夜はセルバンテス様もご一緒になるそうです、サニー様のオムレツをお2人に食べていただきましょう」
サニーは俄然やる気が湧いてきたのか満面笑顔になってエプロンを腰に結んだ。そして手馴れた手つきで自分とイワンの分も含め4つのオムレツを作り出す。それは今まで何度も何度も何度も練習したおかげで、4つとも同じ綺麗な形の黄金色のオムレツだった。
「いやーサニーちゃんの手料理を食べられる日が来るなんてねぇ、ついこの前までこんなに小さかったのにサニーちゃんも大きくなったということかな、はははは」
セルバンテスはニコニコしながら食前酒のワインを口にする。
囲まれる食卓に並べられ行くサニーの自信作のオムレツ。
「おお!これサニーちゃんが作ったのかね?凄いよオムレツはとっても難しいって聞いたけど随分と練習したんじゃないのかい?レストランでもこんなに綺麗なオムレツは出ないよ?とっても美味しそうだ」
嬉しい感想を口にしてくれるセルバンテス、サニーは少し得意な気持ちになる。
しかしアルベルトの表情を覗うが変わらずいつもの仏頂面があり、ワインを飲むばかりで先ほどからずっと無言のまま。
「いただきまーす!」
真っ先にセルバンテスはオムレツにパクついて「美味しい」を連呼。
セルバンテスの皿はあっという間に綺麗になった。
そしてアルベルトはというと・・・黙々とオムレツを口に運んでいる。
サニーはドキドキしながら父親が何か言ってくれるのではないかと期待してみていたが・・・彼は半分ほど食べてフォークとナイフを置いてしまった。
「・・・・・塩が足りん、ひとつまみほどだ」
そう言って半分残したまま席を立ち奥の書斎へ引っ込んでしまった。
サニーの瞳からボロボロと涙がこぼれる。
「サ、サニー様・・・」
「ひっどいやつだなアルベルトは、サニーちゃんが一生懸命作ったのに・・・」
声をあげて泣くサニーに2人はオロオロするばかりだった。
少し落ち着いてサニーは2人に囲まれて厨房にいる。
「しかし、おかしいですね、味付けはいつも私が作るものと同じのはず。アルベルト様にご不満は無いはずなのですが・・・」
「私も結構グルメなんだけど、サニーちゃんのオムレツはとてもおいしかったけどねぇ、彼は歳で味覚がおかしくなっちゃったんじゃないのかね」
同い年であるはずのセルバンテスがカラカラと笑う。
「・・・そ、それはわかりかねますが味だけお言葉があるということは『焼き』自体に問題はないはずですし・・・サニー様?」
サニーは再び卵を手に取っていた。
「わたし、言われたとおりもう一度作る」
父親譲りの意志の強さが発揮されたのかサニーはへこたれてはいなかった。
一回大きく深呼吸してから手慣れた手つきで卵を割る。そしてイワン直伝の味付けに・・・アルベルトの注文どおり塩をひとつまみ。慎重にバターが溶けたフライパンに流し込み、大きなフライパンをヨイショとひっくり返す。
2人が目を見開く前で新たに作り直されたオムレツは、見た目にはさっきのと何ら変わりは無い。まさしく黄金色の輝くオムレツ。
「お父様の所へ持っていくわ」
心配そうに見送るしかできない2人だった。
一度大きく深呼吸。
オムレツを落さないように慎重に左手でアルベルトのいる書斎の扉をノックする。
「入れ」と一言聞こえ、恐る恐る中に入るとアルベルトは机に向っていた。
「言われたとおり・・・塩をひとつまみ加えました・・・その・・・」
鋭い目つきを前におずおずと作り直したオムレツを差し出す。
アルベルトは何も言わずそれを受け取りフォークだけで口にした。
「・・・・・・・」
サニーはダメ出しが出れば再び作り直す気でここにいる。
何度でも作り直す気でここにいる。
しかし、結局何も言われないまま皿は綺麗になった。
「あ・・・・」
サニーは父親の顔を思わず見る。
アルベルトは真っ直ぐサニーの目を見て
「いいか、この味をよく覚えておけ」
そう言ったきり机に向きなおした。
厨房で待っていた2人に笑顔で綺麗になった皿を見せる。
「いやーサニーちゃん、やったじゃないか」
「サニー様、安心いたしました!」
2人から頭を撫でられながら綺麗になった皿を見てサニーは最高の気分だった。
「しかしいつもの味であるのに、何の不満があったんだろうねアルベルトは」
「さあ・・・サニー様をお試しになられたのでは?」
「そうかね~そんなことする男じゃないと思うよ?」
「それでは・・・」
「うーん・・・サニーちゃん申し訳無いのだけどもう一度作ってもらえないかな」
サニーは頷いてオムレツをつくる、塩をひとつまみ加えた味のオムレツを。
それを半分づつイワンとセルバンテスはフォークで食べた。
味を噛み締めるように、そして確かめるように。
イワンは首をかしげる。
セルバンテスも首をかしげる。
しかしどこかで食べた事のある味だった、それもすいぶん昔のような気がする。
セルバンテスは目を閉じオムレツの味の記憶をたどる。
「ああ、なるほどね」
目を開けセルバンテスは笑う。
「これ、サニーちゃんのお母さんの味だよ」
END
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花冠
茶番だと、両陣営の人間が感じていた。
エキスパートと十傑衆の婚姻など―茶番以外の何ものでもあるまい。
それでも祝福しようという態度を見せた国警側はともかく、BF団側の不満は全て花嫁の後見人である樊端に集まった。
十傑衆の中には面白がって無責任に煽る者(当然、某仮面の忍者)もあったが、策士をはじめとした大抵の者はこの婚姻に対し否定的、更に云えばぶち壊そうという動きも少なくなかった。結局それがなされなかったのは、他ならぬBF様が妙にこの婚姻に乗り気であったからだ。多分、ほとんど睡眠装置の中で過ごす身には貴重な娯楽なのだろう。
ほとんどの十傑衆はこの件に関し口を閉ざしていたが、懐疑的であることに違いはなかった。
花嫁は...サニー・ザ・マジシャンは沈黙を守っていた。
そして―
樊端は。
安堵、していた。
いや、花婿が国警の人間であることについではない。けしてない。そうとも、サニー直々の願いでなければどうして許そうか、国警は敵ではないか。
サニーが結婚する、そのことについてである。
樊端は知っていた。
おのが娘ほどの年齢でしかないこの少女が、いつからか何より掛け替えのない存在となっていたことを。
それが―その愛しいという感情が、しかしサニーを一人の女性と見てのものであったことを。
そうして。
おそらくは、サニーもまた、同じだけの熱量で自分に好意を抱いているだろうことを。
それは。
それは駄目だと思ったのだ。
大体、自分は老い先短く、少女にはまだまだ広い未来がある。
だから。サニーが結婚すると云い出した時、何を思うよりまず安堵したのだ。
まさか、相手があの草間大作とは思ってもみなかったが。
だが、草間大作の父親は元々BF団で働いていた人物、あの当時同じ年頃の子供が周囲にいなかったサニーにとっては格好の遊び相手だったであろうことは想像に難くない。それなら旧知の仲というのも頷ける。そして。
考えてみればサニーの母親は元々国警側の人間である。親子二代に渡って因果なことだと残月が云った。
それでもいい。
サニーが幸せであるなら。
けれど。
「誓えません」
きっぱりと、草間大作は云ってのけた。
「な...ッ!?」
思わず席を立つ。困惑と怒りとがない交ぜとなった樊端に、しかし草間大作は微笑んだ。
「誓えません。忘れられないひとがいるから」
何を、今更、国警側からもBF団側からも声があがる。野次が飛ぶ。中にはだから止すべきだったんだなんて声もある。孔明が横目に睨んでくる。樊端は針のむしろを体感した。
BF様だけが、全て分かっているように笑んでいた。サニーと草間大作と、全く同質の笑みだった。
そう、これは。
確信犯の笑みだ。
「でも、それは同じことなんです」
とにかく何か云ってやろうと口を開きかけた樊端に向かって、草間大作はなおも続ける。
「同じ?」
ひたり、と見据えられて居心地が悪いことこの上ない。
「はい。同じです。―僕たちは、契約したんです」
ふいに、場違いな言葉が飛び出した。
けいやく したんです
契約。何を。おそらく自分の予想は当たっているのだろうなと樊端は思った。それから、当たっていてほしくないとも思った。
「でも、駄目だった。それだけのことです」
さあ行って、と草間大作が微笑う。
「駄目だよ、サニーちゃん。君は、まだ遅くないんだから、ね?」
その一瞬、酷くかなしげな顔で。僕は今更だったからと笑うから、むかしに大切なものを失くしたのだと知れた。
ありがとう、ごめんなさいとサニーが涙を零す。
その背を草間大作がそっと押す。
そうして―
サニーと。
樊端の。
視線が交わる。
「おじさま」
あぁ。
いけない。
いけないと、思ったから。縁談を持ち込むつもりで、そうしてサニーに先手を取られたのだった。
そう。
樊端は多分、自分の手で縁談を進めずに済んだことにも安堵したのである。
サニーが歩を進める。
樊端は動けない。少女が目の前に立ち見上げてきてなお動けないままだった。
「おじさま」
ふいに。
いたずら気に微笑んだサニーが。
いきなり手をひいて駆け出したので。
樊端はもつれる足で転びそうになりながら、慌てて後を追った。
まったく不器用な男だとため息を吐いたのは誰だったか。
ようやく息を継いだのはちょっとした土手。この辺りの地理が全く分からないが、帰りはどうすればいいのだろう。...否。帰れるのだろうか、あんな騒ぎを起こしておいて(実質的には騒ぎを起こしたのは草間大作なのだが)。
少なくとも孔明にちくちくちくちく厭味を云われることは決定したと云っていい。樊端はため息を吐いた。気が重い。
「これで全部おじゃんですわね」
何処か楽しげにさえ少女が云う。はっとした。そうだ。サニーは。
「サニー」
「なんですか?」
いたずらっぽく微笑む少女に、
「戻りなさい」
云った。
今なら、後戻りもできるから。
戻れるなんて、自分は思ってもいないのに。
云った。
本気で、云った。
「嫌です」
「しかしだな、サニー。儂はお前の...」
なおも云い募ろうとした樊端は、しかし。
「ほんとうに、わたくしのためを思うのでしたら、おじさま」
あまりにも真摯な眼差しに、一瞬、言葉をなくした。その手を、とって。
「手を、放さないでくださいまし」
微笑んだ、姿が。
いっそ、神々しいほどで。
思わず抱き寄せた体は羽根みたいに軽く、どこへなりと飛んでいってしまいそうで、素直に愛おしいと思った。
「ああ」
そうか。
自分からその手を放すことなど出来なかったのだと―否。その手を放したくなどなかったのだと、樊端は気付いてしまった。
「そうだな」
抱きしめる腕に少しだけ力をこめた。
どうしてか。
こんなにも愛おしいと、思うのだろう。
最初で最後の恋なのだと、多分、はじめから知っていた。
「ベールを。落としてきてしまったな」
「あら本当。でもおじさま、それならいいことがありますわ」
云うが早いか、真っ白なドレスで土手に座り込んで。
借り物が汚れると青くなる樊端には構わず、シロツメクサを摘み始めた。
「ああ...花冠か」
なつかしい。
いつかは自分が作ってやった。
白い冠を花嫁のベールになぞらえて、ままごとをした。
あの春の庭から、一体どこまで来てしまったのだろう。いくら後悔してもしたりない。
それでも。
ほかの何より、後悔するというなら、つないだ手を放してしまった未来だから。
シロツメクサを摘んで指輪を作った。
金より銀より、宝石よりも。大切なものは。
白い、小さな手。
「サニー、手を出しなさい」
はい、と差し出されたその細い指に、急ごしらえの指輪をはめる。
「その、なんだ。今はこんなものしかないのだが」
いいえ、サニーが首をふる。
「いいえ、十分すぎるほどですわ」
きれいな、なみだ が。つと少女の頬を流れた。
腹でも痛いのかと慌てれば、おじさまは本当におじさまですわねと意味不明の返事。何となくなくむすっとする。
流れた涙はそのままに、少女がころころと笑う。
「拗ねないでくださいまし、それが悪いと云っているのではありませんわ」
ええ、むしろ、そんなあなただからこそわたくしは、と微笑むから、ああ勝てるわけなどないのだこの少女には。
「ほらおじさま、花冠ができましたわ」
頭上に掲げられた白い花冠。
あの日のベールが、今ここにある。
「おじさま。ままごとをいたしましょう?」
考えることは同じ、か。
同じ。それだけの長さを、共有してきたのだから。
誰が何と云おうと、共にいた時間が長すぎた。離れることなど、今更できるわけがない。
だから。
「そうだな」
祝福などなくていい。
誰の理解がなくてもいい。
ただ。
生涯をただ一人の上に縛り付けるためのままごとを。
命つきるまでこの者を愛することを、
「誓います」
了
ぶっきらぼうで照れ屋な愛すべき盟友の
その美しい妻の間に女の子が生まれたと聞いたのは
図らずもGR計画も軌道に乗り始め、春の日差しがふんわりと温かな風を運んでくる
そんな、私にとってはなんとも絵に描いたように麗らかな午後だった。
その知らせを受けたときの事は今でも良く覚えている。
盟友殿とはかなりの古い仲になるが
女性関係において面と向かってちゃんと紹介されたのは後に妻になった彼女だけで
その名を聞いたとき中東育ちの私の耳にはなんとも聴き馴染みの無い音だったが
はじめて対峙した時、まず彼女のとても整った容貌に細身の身体、
ただそこに在るだけで花が綻ぶ様な風雅さを兼ね備えたその存在自体に興味を引かれた。
次に意志の強そうな目。
白い肌に黒曜石のように煌めく髪がなんとも女らしく、なよやかであるのに
ちっとも女らしい弱々しさを感じないのは、おそらく彼女の黒い瞳に強固な意志の力と、
なんとも言えない抜け目のなさというか思慮深さを感じたからに他ならないだろう。
「どうぞよろしく」
「お初にお目にかかりますお噂はかねがね…」
どちらからとも無く所見の挨拶を交わし
どちらからとも無く握手を交わすために手を差し伸べた
私は彼女の手を取り握手をして
外見どおり彼女の手は小さくて白く、その指は細い。
低めの体温がなんとも手に心地よかった
「貴女の手にキスをしても?」
彼女は品良く小声で笑ってから
「ええ、かまいませんよ」
と私に手を差し出し
本人の承諾を得たので、その後ろで盟友があまり良い顔はしていないようだったが
あえて無視して口付けた。
この瞬間、突如私は彼女を手に入れた盟友の事がとても羨ましくなったのを覚えている。
たった女一人の事で長年付き合ってきた盟友と争ったりするほど私は無粋な人間ではないけれど
このとき確実に私はひと目で彼女に恋をしていたのだろう。
私が先に彼女に出会っていればという言葉が一瞬脳裏を掠めた事は言うべくもない。
いくら私が他の人間より多少惚れっぽいからといってそうそう一目ぼれという
体験をしたためしがないが、これは確実に出会った瞬間に好意を持てた女性であった。
見目が良い女だけなら飽きるほど出会ったが単に美しいだけの女ではなかったのだ盟友の妻は。
それから彼らは結婚し、春に子も出来たと言う。
そのとき彼らに対して心の底からおめでとうと思える自分に少しほっとしたが
同時にあの美しい女性がもう母かという感慨深さもあった。
さておき、我が盟友殿に子が出来たからには
それは念を入れてプレゼントを選ばねばならないだろう。
私は子供が大好きなのだが私には子がない。
だがその分、その子にありとあらゆる贈り物を用意してやろうと思い
選定して気に入りそうな品物を買い求めて。
産後の調子は順調と言う便りを聞きつけしばらく経ってから挨拶にいった。
なんと懐かしい思い出だろう。
ほんの十数年前の事なのに、前世の記憶のようにひどく懐かしい。
ふと、紅茶の香りで目が覚めた。
いつの間にか長椅子に上半身だけ身体を寝せただらしない状態で肘を突いてうたた寝していたのだ。
のそりと身を起こすとテーブルに入れたばかりの紅茶があり
その向こうにティーポットからもう一つの器に紅茶を注ぐ少女が座って居て
私が起き上がると驚くでもなく静かに声を掛けた。
「お目覚めになりましたか?」
「うん、良い匂いだねぇ。」
「こんなところで寝ては風邪を引いてしまいますわ。」
ソーサーの部分を掴んだ白い指が私に紅茶を差し出すのでお礼を言いながらそれを受け取る。
一口含むとなんとも言えず良い香りが口の中に広がって良い気分だった。
「美味しい。そういえば君のお母さんもお茶を入れるのが上手かったなぁ」
「わたしは母に入れ方を教わりましたから」
そう言と小さく微笑んだ生まれた時から知っている目の前の少女は、
知らない間にいろんなことを教わって成長している。
なるほど。
生まれたときには赤ん坊だった彼女も今や『少女』で
もう少しすれば『女性』になってしまうのだろう。
ソーサーからカップを持ち上げる仕草がなんとも上品で様になっている。
カーテンから漏れる午後の日の光が茶器を照らしたその風景はまるで絵の様な繊細さだ。
私は思わず少女のソーサーに添えられた形の良い指ををそっと手に取ると
彼女の指は小さくて白く、少し低めの体温が触れたところから心地よくて
なんとも言えないデジャヴュを覚えた。
「…もう少し…」
不意に
「え?」
「もう少し大人になったら私のところにお嫁においで。」
不意に思いが先走って口を付いて出た。
「…」
「大事にしてあげるよ」
「叔父さま…そんなことを言っていただいてはわたしが父にしかられてしまいます。」
私の手を振りほどくような事はせず、少し困ったように笑っていた。
こうしてみるとどう考えても今の私より彼女のほうが大人びているようだ。
彼女の複雑な生い立ちがそうさせたのか元々がこういう気質なのかはわからないが、
同年代の少女達と比べると明らかに物静かで、とても落ち着いている。
何より邪気が無く、なんとも安心できる。
「あの親父殿は私が説得しよう、そしたら考えてくれるかね?」
「それは…考えておきますわ。」
今度はクスクスと笑ってくれた。
人形のように完璧に美しい彼女の母親とは打って変わった
鈴の鳴るようなかわいらしい声と仕草で。
彼女は彼女の母親とは決定的にどこか違う。
でも、だからこそこんなにも愛しく、
だからこそ一生涯を掛けてでも彼女の側に居たいと思った。
「では誓いの印に…手にキスをしても?」
彼女は小さく小声で笑ってから
「ええ、かまいませんよ」
言葉はあの時とまるきり一緒だったが
口付ける手はあの時の小さい手よりもっと小さく
女性と言うには無邪気な彼女と私のあまりにも稚拙な誓いではあったが
この穏やかな感情から生まれる愛情もある。
今はまだ小さな手の指先に口付けるだけで
私にとっては充分であるのでそれで満足
…と言う事にしておこう。
私たちのこれからのことを考えると
我知らず口元が緩んだ。
その美しい妻の間に女の子が生まれたと聞いたのは
図らずもGR計画も軌道に乗り始め、春の日差しがふんわりと温かな風を運んでくる
そんな、私にとってはなんとも絵に描いたように麗らかな午後だった。
その知らせを受けたときの事は今でも良く覚えている。
盟友殿とはかなりの古い仲になるが
女性関係において面と向かってちゃんと紹介されたのは後に妻になった彼女だけで
その名を聞いたとき中東育ちの私の耳にはなんとも聴き馴染みの無い音だったが
はじめて対峙した時、まず彼女のとても整った容貌に細身の身体、
ただそこに在るだけで花が綻ぶ様な風雅さを兼ね備えたその存在自体に興味を引かれた。
次に意志の強そうな目。
白い肌に黒曜石のように煌めく髪がなんとも女らしく、なよやかであるのに
ちっとも女らしい弱々しさを感じないのは、おそらく彼女の黒い瞳に強固な意志の力と、
なんとも言えない抜け目のなさというか思慮深さを感じたからに他ならないだろう。
「どうぞよろしく」
「お初にお目にかかりますお噂はかねがね…」
どちらからとも無く所見の挨拶を交わし
どちらからとも無く握手を交わすために手を差し伸べた
私は彼女の手を取り握手をして
外見どおり彼女の手は小さくて白く、その指は細い。
低めの体温がなんとも手に心地よかった
「貴女の手にキスをしても?」
彼女は品良く小声で笑ってから
「ええ、かまいませんよ」
と私に手を差し出し
本人の承諾を得たので、その後ろで盟友があまり良い顔はしていないようだったが
あえて無視して口付けた。
この瞬間、突如私は彼女を手に入れた盟友の事がとても羨ましくなったのを覚えている。
たった女一人の事で長年付き合ってきた盟友と争ったりするほど私は無粋な人間ではないけれど
このとき確実に私はひと目で彼女に恋をしていたのだろう。
私が先に彼女に出会っていればという言葉が一瞬脳裏を掠めた事は言うべくもない。
いくら私が他の人間より多少惚れっぽいからといってそうそう一目ぼれという
体験をしたためしがないが、これは確実に出会った瞬間に好意を持てた女性であった。
見目が良い女だけなら飽きるほど出会ったが単に美しいだけの女ではなかったのだ盟友の妻は。
それから彼らは結婚し、春に子も出来たと言う。
そのとき彼らに対して心の底からおめでとうと思える自分に少しほっとしたが
同時にあの美しい女性がもう母かという感慨深さもあった。
さておき、我が盟友殿に子が出来たからには
それは念を入れてプレゼントを選ばねばならないだろう。
私は子供が大好きなのだが私には子がない。
だがその分、その子にありとあらゆる贈り物を用意してやろうと思い
選定して気に入りそうな品物を買い求めて。
産後の調子は順調と言う便りを聞きつけしばらく経ってから挨拶にいった。
なんと懐かしい思い出だろう。
ほんの十数年前の事なのに、前世の記憶のようにひどく懐かしい。
ふと、紅茶の香りで目が覚めた。
いつの間にか長椅子に上半身だけ身体を寝せただらしない状態で肘を突いてうたた寝していたのだ。
のそりと身を起こすとテーブルに入れたばかりの紅茶があり
その向こうにティーポットからもう一つの器に紅茶を注ぐ少女が座って居て
私が起き上がると驚くでもなく静かに声を掛けた。
「お目覚めになりましたか?」
「うん、良い匂いだねぇ。」
「こんなところで寝ては風邪を引いてしまいますわ。」
ソーサーの部分を掴んだ白い指が私に紅茶を差し出すのでお礼を言いながらそれを受け取る。
一口含むとなんとも言えず良い香りが口の中に広がって良い気分だった。
「美味しい。そういえば君のお母さんもお茶を入れるのが上手かったなぁ」
「わたしは母に入れ方を教わりましたから」
そう言と小さく微笑んだ生まれた時から知っている目の前の少女は、
知らない間にいろんなことを教わって成長している。
なるほど。
生まれたときには赤ん坊だった彼女も今や『少女』で
もう少しすれば『女性』になってしまうのだろう。
ソーサーからカップを持ち上げる仕草がなんとも上品で様になっている。
カーテンから漏れる午後の日の光が茶器を照らしたその風景はまるで絵の様な繊細さだ。
私は思わず少女のソーサーに添えられた形の良い指ををそっと手に取ると
彼女の指は小さくて白く、少し低めの体温が触れたところから心地よくて
なんとも言えないデジャヴュを覚えた。
「…もう少し…」
不意に
「え?」
「もう少し大人になったら私のところにお嫁においで。」
不意に思いが先走って口を付いて出た。
「…」
「大事にしてあげるよ」
「叔父さま…そんなことを言っていただいてはわたしが父にしかられてしまいます。」
私の手を振りほどくような事はせず、少し困ったように笑っていた。
こうしてみるとどう考えても今の私より彼女のほうが大人びているようだ。
彼女の複雑な生い立ちがそうさせたのか元々がこういう気質なのかはわからないが、
同年代の少女達と比べると明らかに物静かで、とても落ち着いている。
何より邪気が無く、なんとも安心できる。
「あの親父殿は私が説得しよう、そしたら考えてくれるかね?」
「それは…考えておきますわ。」
今度はクスクスと笑ってくれた。
人形のように完璧に美しい彼女の母親とは打って変わった
鈴の鳴るようなかわいらしい声と仕草で。
彼女は彼女の母親とは決定的にどこか違う。
でも、だからこそこんなにも愛しく、
だからこそ一生涯を掛けてでも彼女の側に居たいと思った。
「では誓いの印に…手にキスをしても?」
彼女は小さく小声で笑ってから
「ええ、かまいませんよ」
言葉はあの時とまるきり一緒だったが
口付ける手はあの時の小さい手よりもっと小さく
女性と言うには無邪気な彼女と私のあまりにも稚拙な誓いではあったが
この穏やかな感情から生まれる愛情もある。
今はまだ小さな手の指先に口付けるだけで
私にとっては充分であるのでそれで満足
…と言う事にしておこう。
私たちのこれからのことを考えると
我知らず口元が緩んだ。
なんだかぼんやりしてしまう。
先程給仕係に持ってこさせた紅茶は香りばかり強くてあまりいただけなかった。
ぼんやりして頭の中の思考が冴えない。
窓を開け放っているのでその香りは疎か適度に調節されていたであろうティーポットの温度すら
今は冷えてしまってきっともうおいしくないだろう。
頭の中がぼんやりすると
心臓と肺の間くらいからムクムクと
なんだか訳のわからない嫌な感情がもやもやとわき出てきて不快だ。
だから何か考えようとする。
アンティークガラスのカップをつまみ上げて口に運ぼうとすると、
その紅茶の冷たさときつめの香りが鼻についた。
とにかく喉を潤すためにカップ傾けたとたんに唇に付いた
冷たいガラスの感触がなんだか不快で
結局口をつけずにカップをソーサーにもどした。
季節は移ろい、涼しげな風が柔らかくほほを撫ぜて行く。
円形のルーフテラスに植えられた美しい花々と愛らしい少女を愛でながら、
ガラス張りの扉を全開にして明るい日差しにゆったりと手触りの良いお気に入りのカウチに腰掛けて
『ああ、この地上に今の私ほど幸せな気分な人間がどれくらいるだろうか?』
…などと悦に浸っているだろう普段なら。
元々私はそう不幸な人間でもないのだ、今特にこれと言ったせっぱ詰まった悩みはないし、
現在置かれている立場上そうそう不快な気分になることも無い。
こう言い切れるのも自分自身が楽しむときは腹の底から楽しみ、悲しむときは勢いよく悲しんで
翌日にはさっぱりするタイプの人間であるのも起因していると思う。
普段なら腹の底から笑いが止まらないほど楽しい時間をすごしている。
なのに・・・・・
・・・おもしろくない。
これほどまでにおもしろくない気分を味わうのは久々の感覚で
何ともおもしろくない気分を十二分に味わっていた。
触り心地の良いカウチにだらしなく肩肘を預け頬杖をついてぼんやりしている。
良い色に馴染んださわさわしたベルベットの感触が手の平に触れるがそれすらもなんだか今は煩わしい。
気ぜわしく足を組み替えたり紅茶のカップをかちゃかちゃといじってみたりする。
そうそう、この際何でこんな気分になるのかは自分でも何となくわかっているのだけれども
ここは敢えてそのことは考えない事にする。
楽しくないことを考えるのはきっと体にも頭にもよくない。
楽しいことを考えよう。
自分の今の状況を払拭できるような打開策もしくはこの気持ちの改善策だ。
目を瞑り考え出すと知らずに眉間に皺が寄ってしまう。
・・・・・・・・・。
そもそもどうして私はこんなに不満な気持ちになったのか?
ちらりと目を開けると楽しそうに笑いながら花束を作る少女と
その傍ら、正確には自分がいるべきスポットになぜか、どうしてこうなったのか
不器用な笑みを浮かべる髭面にピンクのマントを羽織った長身の男…
「あ、これだ」
なぁ~んだそうだったんだ、考えてみれば簡単なことだった。
揺れる暗雲を太陽の光が白い剣となって切り裂くように、
さっと視界が開けてなんだか頭がクリアになった。
絡まった糸が解けてしまえば後は簡単だ。
自分が好きなように、思うように、気の済むように結び直せばいい。
ぐぃと勢いよく手触りの良いカウチから身を起こすと
子供のように駆けていった、愛しい少女の元へ。
花びらを舞い散らしながらダダダッと少女の元へ駆けてくるや否や
そのスピードを落とさないまま走りより、不意を突いて魔王を勢いよく肘で突き飛ばし花の海へ沈める、
セルバンテスは満足げににっこりとした笑顔のままサニーの傍らに座って言った。
「ねぇねぇ、私にも花の冠を作ってくれないかな?」
花の海に沈んで全身花びらと花粉まみれになりながら
セルバンテスを見る目が半眼の魔王がむくりと起き上がる。
「いったいなんだ、不機嫌そうにしていたかと思ったら見境無くはしゃぎだしたり・・・」
少女を奪われたせいで、手持ちぶさたの両腕を組みしかめっ面でもっともな不満を述べる。
「君の意見はいつも正論だと思うよ。」
でも何でせっかくの休日にサニーちゃんを誘ったら君まで付いてくるのかがわからない。
今日家の扉を開けた時の私の絶望感と言ったら!
魔王ににらまれても動じないセルバンテスは心の中でそうつぶやいた。
サニーの花輪の作成を手伝う彼の表情は先程と打って変わって朗らかで
いささか恐ろしい表現ではあるが今にも歌でも歌いそうなくらいだ。
「そんなことはどうでも良いんだよ。私はサニーちゃんと遊びたいだけなんだから。」
「君には用はないの」
わけがわからん等とブツブツ言いながら魔王は手早く花びらを取り払うと
不機嫌そのものの顔でテラスの奥に引っ込んでいった。
サニーちゃんは面倒見の良い「後見人」が不機嫌そうにテラスを出て行ったことで
不安そうに私の顔とピンクのマントの背中を交互に見ていたけれど。
少しの我慢もできない大人げない大人でごめんねサニーちゃん
でも、これだけは、いつか君にわかってもらえると良いなぁ。
どれだけ私が君のことを思っているのか。
一緒に暮らしているわけでもない私と君の少ない逢瀬を
私がどれくらい、どれくらい楽しみにしているのか。
そして、この気持ちを解ってくれるのはいつの日になるだろうか
私の廃れた心に巡る紅い炎の様なこの…
先程給仕係に持ってこさせた紅茶は香りばかり強くてあまりいただけなかった。
ぼんやりして頭の中の思考が冴えない。
窓を開け放っているのでその香りは疎か適度に調節されていたであろうティーポットの温度すら
今は冷えてしまってきっともうおいしくないだろう。
頭の中がぼんやりすると
心臓と肺の間くらいからムクムクと
なんだか訳のわからない嫌な感情がもやもやとわき出てきて不快だ。
だから何か考えようとする。
アンティークガラスのカップをつまみ上げて口に運ぼうとすると、
その紅茶の冷たさときつめの香りが鼻についた。
とにかく喉を潤すためにカップ傾けたとたんに唇に付いた
冷たいガラスの感触がなんだか不快で
結局口をつけずにカップをソーサーにもどした。
季節は移ろい、涼しげな風が柔らかくほほを撫ぜて行く。
円形のルーフテラスに植えられた美しい花々と愛らしい少女を愛でながら、
ガラス張りの扉を全開にして明るい日差しにゆったりと手触りの良いお気に入りのカウチに腰掛けて
『ああ、この地上に今の私ほど幸せな気分な人間がどれくらいるだろうか?』
…などと悦に浸っているだろう普段なら。
元々私はそう不幸な人間でもないのだ、今特にこれと言ったせっぱ詰まった悩みはないし、
現在置かれている立場上そうそう不快な気分になることも無い。
こう言い切れるのも自分自身が楽しむときは腹の底から楽しみ、悲しむときは勢いよく悲しんで
翌日にはさっぱりするタイプの人間であるのも起因していると思う。
普段なら腹の底から笑いが止まらないほど楽しい時間をすごしている。
なのに・・・・・
・・・おもしろくない。
これほどまでにおもしろくない気分を味わうのは久々の感覚で
何ともおもしろくない気分を十二分に味わっていた。
触り心地の良いカウチにだらしなく肩肘を預け頬杖をついてぼんやりしている。
良い色に馴染んださわさわしたベルベットの感触が手の平に触れるがそれすらもなんだか今は煩わしい。
気ぜわしく足を組み替えたり紅茶のカップをかちゃかちゃといじってみたりする。
そうそう、この際何でこんな気分になるのかは自分でも何となくわかっているのだけれども
ここは敢えてそのことは考えない事にする。
楽しくないことを考えるのはきっと体にも頭にもよくない。
楽しいことを考えよう。
自分の今の状況を払拭できるような打開策もしくはこの気持ちの改善策だ。
目を瞑り考え出すと知らずに眉間に皺が寄ってしまう。
・・・・・・・・・。
そもそもどうして私はこんなに不満な気持ちになったのか?
ちらりと目を開けると楽しそうに笑いながら花束を作る少女と
その傍ら、正確には自分がいるべきスポットになぜか、どうしてこうなったのか
不器用な笑みを浮かべる髭面にピンクのマントを羽織った長身の男…
「あ、これだ」
なぁ~んだそうだったんだ、考えてみれば簡単なことだった。
揺れる暗雲を太陽の光が白い剣となって切り裂くように、
さっと視界が開けてなんだか頭がクリアになった。
絡まった糸が解けてしまえば後は簡単だ。
自分が好きなように、思うように、気の済むように結び直せばいい。
ぐぃと勢いよく手触りの良いカウチから身を起こすと
子供のように駆けていった、愛しい少女の元へ。
花びらを舞い散らしながらダダダッと少女の元へ駆けてくるや否や
そのスピードを落とさないまま走りより、不意を突いて魔王を勢いよく肘で突き飛ばし花の海へ沈める、
セルバンテスは満足げににっこりとした笑顔のままサニーの傍らに座って言った。
「ねぇねぇ、私にも花の冠を作ってくれないかな?」
花の海に沈んで全身花びらと花粉まみれになりながら
セルバンテスを見る目が半眼の魔王がむくりと起き上がる。
「いったいなんだ、不機嫌そうにしていたかと思ったら見境無くはしゃぎだしたり・・・」
少女を奪われたせいで、手持ちぶさたの両腕を組みしかめっ面でもっともな不満を述べる。
「君の意見はいつも正論だと思うよ。」
でも何でせっかくの休日にサニーちゃんを誘ったら君まで付いてくるのかがわからない。
今日家の扉を開けた時の私の絶望感と言ったら!
魔王ににらまれても動じないセルバンテスは心の中でそうつぶやいた。
サニーの花輪の作成を手伝う彼の表情は先程と打って変わって朗らかで
いささか恐ろしい表現ではあるが今にも歌でも歌いそうなくらいだ。
「そんなことはどうでも良いんだよ。私はサニーちゃんと遊びたいだけなんだから。」
「君には用はないの」
わけがわからん等とブツブツ言いながら魔王は手早く花びらを取り払うと
不機嫌そのものの顔でテラスの奥に引っ込んでいった。
サニーちゃんは面倒見の良い「後見人」が不機嫌そうにテラスを出て行ったことで
不安そうに私の顔とピンクのマントの背中を交互に見ていたけれど。
少しの我慢もできない大人げない大人でごめんねサニーちゃん
でも、これだけは、いつか君にわかってもらえると良いなぁ。
どれだけ私が君のことを思っているのか。
一緒に暮らしているわけでもない私と君の少ない逢瀬を
私がどれくらい、どれくらい楽しみにしているのか。
そして、この気持ちを解ってくれるのはいつの日になるだろうか
私の廃れた心に巡る紅い炎の様なこの…
ティーポットにお湯を注いで、砂時計の砂が落ちるのを眺めているうちに、何もなかっ
た筈の茶几の上に何時の間か、季節の花を挿した花瓶、ふんだんに盛り付けられ茶請けの
菓子や果物が並べられていている事に、小さな女の子はいつも驚いたものだった。
茶器や食器にテーブルクロスのみならず、茶几や椅子といった一切の調度品に至るまで、
すべてが母の見立てであり、それも季節や気候のみならず、茶の種類や茶請けによって容
易く替わった。特に招く客によって著しく違っていて、少女も入れ替わる茶器の模様から、
今日はどんな客が来るのか見当がつくようになった頃には、母を手伝って花を活けたり、
一生懸命に背伸びして棚から食器を取ろうとしたりした。
そんな娘を母は優しく微笑みながら見守りながら、多忙の合間を縫って一緒に御菓子を
作ったり、絵本を読んだり、母の生まれ故郷に伝わるという古い歌を教えてくれたりもし
た。父は母以上に忙しく、一家団欒等は有り得様筈もない家庭環境ではあったが、別段寂
しくもなかった。少女にとって家族とは両親だけでなく、血が繋がっておらずとも可愛がっ
てくれる大人達が大勢いたからだ。
「今日もセルバンテスの小父さまがいらっしゃいますのね」
選ばれた茶器から少女は容易く客を言い当てた。
「ええ、小父さまは今日は何を持って来て下さるかしら」
「何でもいいわ。小父さまはいつだって素敵な物を下さいますもの」
殊に父の盟友は、父以上にお茶会の常連で、少女への土産を欠かした事は一度としてな
かった。
「やあ、ラ・プティット・ビジュー(小さな宝石)、今日もパパは不在みたいだね」
「いらっしゃいませ、小父さま!」
サニーは駆けて行ってクフィーヤの男を出迎えた。
「ほら、お土産だよ。今日は可愛い君に似合うと思って、これを選んで来たよ」
「まあ、綺麗なお花!」
「髪飾りだよ。下を向いて御覧、付けてあげるよ」
そう言ってアラブ人の男は膝を落として少女の柔らかな茶色い髪に土産の髪飾りをつけ
た。そして娘に遅れて現れた盟友の妻を見上げた。
「ほら、どうだい、扈夫人」
「ええ、とても似合っているわ」
「ありがとうございます、小父さま」
しゃがんだままの男の頬に、サニーはいつものようにお礼のキスをした。
「いえいえ、どういたしまして」
小さな唇の触れた頬を撫でながら、セルバンテスはにやにやしながら立ち上がり、席に
着いた。
「小父さま、今日はサニーがお茶を御淹れしますわ」
子供用の脚の高い椅子に立って、サニーは自分用の小さなティーポットを両手で持ち上
げた。
「おや、ありがとう」
丁寧に注がれたお茶をセルバンテスは恭しく受け取った。
「パパに会ったのは、いつかな? ラ・プティット・ビジュー」
「ええっと…、二ヶ月前ですわ、小父さま」
指折り数えて思い出すサニーに、セルバンテスは愉快そうに笑った。そしてチェリーパ
イを切り分ける扈三娘を見た。
「君も大変だね、あんな偏屈者の亭主を持って」
「あら、あれでも可愛いところもあるのよ。こうして貴方がお茶に来たと聞く度、苦い顔
をするんだから」
くすくすと笑う賢婦に、オイルダラーは受け取ったチェリータルトを行儀悪くフォーク
で突付きながら言った。
「そろそろ下があってもいいんじゃないか」
「それは私一人ではどうにならないわ」
セルバンテスは斜め右側の席に座る少女に笑みを向けた。
「ねえ、ラ・プティット・ビジュー、君は弟か妹が欲しいかな」
「いいえ、小父さま、サニーは弟や妹はいりませんわ」
「おや、いらないのかい?」
「ええ、お父様がいらないって仰ってたんですもの。だったらサニーもいりませんわ」
セルバンテスは目を丸くしてみせた。
「アルベルトが? 本当にそう言ったのかい?」
「あら、そんなに騒ぐ事かしら」
扈夫人が不思議そうに言った。
「私達の子は、この子一人で充分だと思うけれど。特にあの人にしてみれば、ね…」
「そりゃ、たしかにアルベルトらしいといえば、そうなんだが…」
得心行かぬセルバンテスに、サニーが聞いた。
「小父さま、どういう事ですの?」
「んん、それはね、――とても素晴らしい事なんだよ。特にラ・プティット・ビジュー、
君は一番、この世で最高に素晴らしい存在なんだ」
「でも、お父様はいつも御自分こそ一番だって思っていらっしゃいますわ」
「あれは偏屈なだけだよ。君はいつでも素直で可愛らしいから、お父様より素晴らしいん
だよ。ましてや君はお母様の娘なんだから」
「素直で可愛らしいと、お父様より素晴らしいの?」
「そうだよ! 君のお父様はいつでも素直じゃないからね」
アルベルトが同席していればとんでもない事になるような発言をするセルバンテスに、
扈三娘はくすくすと笑うだけだ。
「――私の娘…ね…、たしかに素晴らしいわね」
「お母様?」
「いらっしゃい、サニー」
招かれるままに、サニーは母の膝に抱かれた。優しく髪を撫でる袖口から、焚き染めら
れた薫香が零れてきて、幼子は心地好く瞼を落とした。
「――扈夫人、そろそろ療養の申請でもしたらどうだい?」
「そうね…、でも、あともう少しだけ此処にいたいの」
「アルベルトが帰って来なくても、かい?」
「あの人は関係無いわ。むしろ、待っているのは向こうよ」
海棠の花とも称される麗姿でありながら、甲冑に身を包み、鞍に跨れば日月両刀を自在
に操る豪傑なこの女人の、一体何があの男を選ばせたのだろうか。
「私も叶う事なら、君のような御婦人に出会いたかったよ」
セルバンテスは跪き、艶やかな裳裾を手にとり、恭しく口付けた。扈三娘は応えなかっ
た。けれども静かに囁くように言った。まるで、娘の眠りを邪魔してしまわないようにと
気遣うように。
「あの人をお願いね。多分、…御互いに見届ける事はできないでしょうけれど」
「大丈夫さ。この子がいる」
セルバンテスは躊躇せずに返した。
「そう、君の娘がいるじゃないか」
「そうね…、この子が…」
幼子の寝顔を見詰める黒真珠の双眸には哀憫が溢れていた。
だからこそ、あの男は帰りたがらないのだ。
この光景を、セルバンテスは一生涯忘れる事はないだろうと思った。
「――お茶が冷めてしまったわね。淹れ直してきましょうか」
「――扈夫人が終に…か……、淋しくなるな」
葬儀らしい葬儀もなく、二度と微笑む事のない女が永遠に眠る廟所の前で、セルバンテ
スは独り呟いた。廟所の壮麗さに、見上げながらついつい笑ってしまった。今も平然と職
務に励んでいるのだろうが、これがあの男の直情なのだ。
当人の扈三娘も、見ればきっと笑ってしまうだろう。笑いながら、こう言うに違いない、
『あの人ったら、タージ・マハールでも気取るつもりなのかしら。あんなに莫迦にしてた
のに』と。そしてそこがまた可愛いのだと。あの男を可愛いと言って笑える人間は、自分
が最初で最後だと海棠の花は知っていたのに、何故散ってしまったのか。
ふと聞こえて来たのは、静かな雨音だった。
――泣いているのかしら、似合わないわね
そんな優しい声が聞こえた気がして、セルバンテスはふっと微笑んだ。
「小父さま…」
廟内から、静かな足音で現れた少女は、母の国の古い仕来り通り、白い服を着ていた。
「――ああ、これは失礼したね。まだ服喪中だったね」
「いいえ、構いませんの。小父さまがいらっしゃったとなれば、母も喜びますわ」
「ありがとう」
セルバンテスは案内されるままに、故人がよく焚き染めていた香が漂う最奥の堂に踏み
入った。控え目ながらも華やかさを含んだ上品な薫香に満ちた堂内で、位牌の前に並べら
れた夥しい供物は真新しい物ばかりだった。
「なんだか具合が悪いけれど、これでいいかな」
セルバンテスは持ってきた花を手向けた。豪勢な、色取り取りの巨大な花束だった。墓
前に相応しいといえる花達ではなかったが、脇を飾る役には丁度いい。
「全部、違う花ですのね」
「君の母上は美しい、聡明な女性だったよ。淑徳豪傑にして賢夫人、このすべての花がそ
れぞれに持つ美徳を体現しているような、素晴らしい女性だったんだ…」
セルバンテスのなかで走馬灯が駆け巡っていた。浮かぶ思い出は、どれも決して失いた
くはないものばかりだった。けれども、二度と帰る事はないのだ。
「ねえ、小父様」
不意に母親を失った少女は微笑んだ。
「母は幸せでしたわ」
「ああ、この世の誰より、ね」
二人の声は確信に満ちていた。
この豪奢な廟に独りで久遠の眠りにつく事を、それでも幸福といえるのか。セルバンテ
スは考えたくなかった。放っておいても人間は死ぬ。自分も、アルベルトも、何れは消え
る。だが、それまでに果たすべき事がある。それは、この少女も同じだ。
――La Petite Bijou
この小さな宝石を愛しんだ白い手は、もう蘇らないのだ。
セルバンテスは瞼を閉じた。濃厚な薫香のなかから、降り頻る雨音に交ざって無音の慟
哭達が聴こえてくる。
「これからは君が私をお茶会に招いてくれるかい? サニー」
「ええ、勿論ですわ」
肯きながら、サニーは解っていた。自分が『ラ・プティット・ビジュー』と呼ばれる事
は決してないだろうという事を。そして、傍らの男と母について語り合う事も決してない
だろうという事も。
「テーブルにも椅子にもティーカップにも、全部に花をたくさん飾ってね、あの庭園のだ
けでは足りないくらいに」
「ええ。――でも、あの花の季節までは、待って下さいますわね」
「勿論だよ、サニー」
セルバンテスは位牌を見詰めながら言った。雨音が聞こえる。失うという事は、矢張り
残酷だ。
「でも、待たなくても、君のお母様は笑ってくれるよ」
終
た筈の茶几の上に何時の間か、季節の花を挿した花瓶、ふんだんに盛り付けられ茶請けの
菓子や果物が並べられていている事に、小さな女の子はいつも驚いたものだった。
茶器や食器にテーブルクロスのみならず、茶几や椅子といった一切の調度品に至るまで、
すべてが母の見立てであり、それも季節や気候のみならず、茶の種類や茶請けによって容
易く替わった。特に招く客によって著しく違っていて、少女も入れ替わる茶器の模様から、
今日はどんな客が来るのか見当がつくようになった頃には、母を手伝って花を活けたり、
一生懸命に背伸びして棚から食器を取ろうとしたりした。
そんな娘を母は優しく微笑みながら見守りながら、多忙の合間を縫って一緒に御菓子を
作ったり、絵本を読んだり、母の生まれ故郷に伝わるという古い歌を教えてくれたりもし
た。父は母以上に忙しく、一家団欒等は有り得様筈もない家庭環境ではあったが、別段寂
しくもなかった。少女にとって家族とは両親だけでなく、血が繋がっておらずとも可愛がっ
てくれる大人達が大勢いたからだ。
「今日もセルバンテスの小父さまがいらっしゃいますのね」
選ばれた茶器から少女は容易く客を言い当てた。
「ええ、小父さまは今日は何を持って来て下さるかしら」
「何でもいいわ。小父さまはいつだって素敵な物を下さいますもの」
殊に父の盟友は、父以上にお茶会の常連で、少女への土産を欠かした事は一度としてな
かった。
「やあ、ラ・プティット・ビジュー(小さな宝石)、今日もパパは不在みたいだね」
「いらっしゃいませ、小父さま!」
サニーは駆けて行ってクフィーヤの男を出迎えた。
「ほら、お土産だよ。今日は可愛い君に似合うと思って、これを選んで来たよ」
「まあ、綺麗なお花!」
「髪飾りだよ。下を向いて御覧、付けてあげるよ」
そう言ってアラブ人の男は膝を落として少女の柔らかな茶色い髪に土産の髪飾りをつけ
た。そして娘に遅れて現れた盟友の妻を見上げた。
「ほら、どうだい、扈夫人」
「ええ、とても似合っているわ」
「ありがとうございます、小父さま」
しゃがんだままの男の頬に、サニーはいつものようにお礼のキスをした。
「いえいえ、どういたしまして」
小さな唇の触れた頬を撫でながら、セルバンテスはにやにやしながら立ち上がり、席に
着いた。
「小父さま、今日はサニーがお茶を御淹れしますわ」
子供用の脚の高い椅子に立って、サニーは自分用の小さなティーポットを両手で持ち上
げた。
「おや、ありがとう」
丁寧に注がれたお茶をセルバンテスは恭しく受け取った。
「パパに会ったのは、いつかな? ラ・プティット・ビジュー」
「ええっと…、二ヶ月前ですわ、小父さま」
指折り数えて思い出すサニーに、セルバンテスは愉快そうに笑った。そしてチェリーパ
イを切り分ける扈三娘を見た。
「君も大変だね、あんな偏屈者の亭主を持って」
「あら、あれでも可愛いところもあるのよ。こうして貴方がお茶に来たと聞く度、苦い顔
をするんだから」
くすくすと笑う賢婦に、オイルダラーは受け取ったチェリータルトを行儀悪くフォーク
で突付きながら言った。
「そろそろ下があってもいいんじゃないか」
「それは私一人ではどうにならないわ」
セルバンテスは斜め右側の席に座る少女に笑みを向けた。
「ねえ、ラ・プティット・ビジュー、君は弟か妹が欲しいかな」
「いいえ、小父さま、サニーは弟や妹はいりませんわ」
「おや、いらないのかい?」
「ええ、お父様がいらないって仰ってたんですもの。だったらサニーもいりませんわ」
セルバンテスは目を丸くしてみせた。
「アルベルトが? 本当にそう言ったのかい?」
「あら、そんなに騒ぐ事かしら」
扈夫人が不思議そうに言った。
「私達の子は、この子一人で充分だと思うけれど。特にあの人にしてみれば、ね…」
「そりゃ、たしかにアルベルトらしいといえば、そうなんだが…」
得心行かぬセルバンテスに、サニーが聞いた。
「小父さま、どういう事ですの?」
「んん、それはね、――とても素晴らしい事なんだよ。特にラ・プティット・ビジュー、
君は一番、この世で最高に素晴らしい存在なんだ」
「でも、お父様はいつも御自分こそ一番だって思っていらっしゃいますわ」
「あれは偏屈なだけだよ。君はいつでも素直で可愛らしいから、お父様より素晴らしいん
だよ。ましてや君はお母様の娘なんだから」
「素直で可愛らしいと、お父様より素晴らしいの?」
「そうだよ! 君のお父様はいつでも素直じゃないからね」
アルベルトが同席していればとんでもない事になるような発言をするセルバンテスに、
扈三娘はくすくすと笑うだけだ。
「――私の娘…ね…、たしかに素晴らしいわね」
「お母様?」
「いらっしゃい、サニー」
招かれるままに、サニーは母の膝に抱かれた。優しく髪を撫でる袖口から、焚き染めら
れた薫香が零れてきて、幼子は心地好く瞼を落とした。
「――扈夫人、そろそろ療養の申請でもしたらどうだい?」
「そうね…、でも、あともう少しだけ此処にいたいの」
「アルベルトが帰って来なくても、かい?」
「あの人は関係無いわ。むしろ、待っているのは向こうよ」
海棠の花とも称される麗姿でありながら、甲冑に身を包み、鞍に跨れば日月両刀を自在
に操る豪傑なこの女人の、一体何があの男を選ばせたのだろうか。
「私も叶う事なら、君のような御婦人に出会いたかったよ」
セルバンテスは跪き、艶やかな裳裾を手にとり、恭しく口付けた。扈三娘は応えなかっ
た。けれども静かに囁くように言った。まるで、娘の眠りを邪魔してしまわないようにと
気遣うように。
「あの人をお願いね。多分、…御互いに見届ける事はできないでしょうけれど」
「大丈夫さ。この子がいる」
セルバンテスは躊躇せずに返した。
「そう、君の娘がいるじゃないか」
「そうね…、この子が…」
幼子の寝顔を見詰める黒真珠の双眸には哀憫が溢れていた。
だからこそ、あの男は帰りたがらないのだ。
この光景を、セルバンテスは一生涯忘れる事はないだろうと思った。
「――お茶が冷めてしまったわね。淹れ直してきましょうか」
「――扈夫人が終に…か……、淋しくなるな」
葬儀らしい葬儀もなく、二度と微笑む事のない女が永遠に眠る廟所の前で、セルバンテ
スは独り呟いた。廟所の壮麗さに、見上げながらついつい笑ってしまった。今も平然と職
務に励んでいるのだろうが、これがあの男の直情なのだ。
当人の扈三娘も、見ればきっと笑ってしまうだろう。笑いながら、こう言うに違いない、
『あの人ったら、タージ・マハールでも気取るつもりなのかしら。あんなに莫迦にしてた
のに』と。そしてそこがまた可愛いのだと。あの男を可愛いと言って笑える人間は、自分
が最初で最後だと海棠の花は知っていたのに、何故散ってしまったのか。
ふと聞こえて来たのは、静かな雨音だった。
――泣いているのかしら、似合わないわね
そんな優しい声が聞こえた気がして、セルバンテスはふっと微笑んだ。
「小父さま…」
廟内から、静かな足音で現れた少女は、母の国の古い仕来り通り、白い服を着ていた。
「――ああ、これは失礼したね。まだ服喪中だったね」
「いいえ、構いませんの。小父さまがいらっしゃったとなれば、母も喜びますわ」
「ありがとう」
セルバンテスは案内されるままに、故人がよく焚き染めていた香が漂う最奥の堂に踏み
入った。控え目ながらも華やかさを含んだ上品な薫香に満ちた堂内で、位牌の前に並べら
れた夥しい供物は真新しい物ばかりだった。
「なんだか具合が悪いけれど、これでいいかな」
セルバンテスは持ってきた花を手向けた。豪勢な、色取り取りの巨大な花束だった。墓
前に相応しいといえる花達ではなかったが、脇を飾る役には丁度いい。
「全部、違う花ですのね」
「君の母上は美しい、聡明な女性だったよ。淑徳豪傑にして賢夫人、このすべての花がそ
れぞれに持つ美徳を体現しているような、素晴らしい女性だったんだ…」
セルバンテスのなかで走馬灯が駆け巡っていた。浮かぶ思い出は、どれも決して失いた
くはないものばかりだった。けれども、二度と帰る事はないのだ。
「ねえ、小父様」
不意に母親を失った少女は微笑んだ。
「母は幸せでしたわ」
「ああ、この世の誰より、ね」
二人の声は確信に満ちていた。
この豪奢な廟に独りで久遠の眠りにつく事を、それでも幸福といえるのか。セルバンテ
スは考えたくなかった。放っておいても人間は死ぬ。自分も、アルベルトも、何れは消え
る。だが、それまでに果たすべき事がある。それは、この少女も同じだ。
――La Petite Bijou
この小さな宝石を愛しんだ白い手は、もう蘇らないのだ。
セルバンテスは瞼を閉じた。濃厚な薫香のなかから、降り頻る雨音に交ざって無音の慟
哭達が聴こえてくる。
「これからは君が私をお茶会に招いてくれるかい? サニー」
「ええ、勿論ですわ」
肯きながら、サニーは解っていた。自分が『ラ・プティット・ビジュー』と呼ばれる事
は決してないだろうという事を。そして、傍らの男と母について語り合う事も決してない
だろうという事も。
「テーブルにも椅子にもティーカップにも、全部に花をたくさん飾ってね、あの庭園のだ
けでは足りないくらいに」
「ええ。――でも、あの花の季節までは、待って下さいますわね」
「勿論だよ、サニー」
セルバンテスは位牌を見詰めながら言った。雨音が聞こえる。失うという事は、矢張り
残酷だ。
「でも、待たなくても、君のお母様は笑ってくれるよ」
終