ティーポットにお湯を注いで、砂時計の砂が落ちるのを眺めているうちに、何もなかっ
た筈の茶几の上に何時の間か、季節の花を挿した花瓶、ふんだんに盛り付けられ茶請けの
菓子や果物が並べられていている事に、小さな女の子はいつも驚いたものだった。
茶器や食器にテーブルクロスのみならず、茶几や椅子といった一切の調度品に至るまで、
すべてが母の見立てであり、それも季節や気候のみならず、茶の種類や茶請けによって容
易く替わった。特に招く客によって著しく違っていて、少女も入れ替わる茶器の模様から、
今日はどんな客が来るのか見当がつくようになった頃には、母を手伝って花を活けたり、
一生懸命に背伸びして棚から食器を取ろうとしたりした。
そんな娘を母は優しく微笑みながら見守りながら、多忙の合間を縫って一緒に御菓子を
作ったり、絵本を読んだり、母の生まれ故郷に伝わるという古い歌を教えてくれたりもし
た。父は母以上に忙しく、一家団欒等は有り得様筈もない家庭環境ではあったが、別段寂
しくもなかった。少女にとって家族とは両親だけでなく、血が繋がっておらずとも可愛がっ
てくれる大人達が大勢いたからだ。
「今日もセルバンテスの小父さまがいらっしゃいますのね」
選ばれた茶器から少女は容易く客を言い当てた。
「ええ、小父さまは今日は何を持って来て下さるかしら」
「何でもいいわ。小父さまはいつだって素敵な物を下さいますもの」
殊に父の盟友は、父以上にお茶会の常連で、少女への土産を欠かした事は一度としてな
かった。
「やあ、ラ・プティット・ビジュー(小さな宝石)、今日もパパは不在みたいだね」
「いらっしゃいませ、小父さま!」
サニーは駆けて行ってクフィーヤの男を出迎えた。
「ほら、お土産だよ。今日は可愛い君に似合うと思って、これを選んで来たよ」
「まあ、綺麗なお花!」
「髪飾りだよ。下を向いて御覧、付けてあげるよ」
そう言ってアラブ人の男は膝を落として少女の柔らかな茶色い髪に土産の髪飾りをつけ
た。そして娘に遅れて現れた盟友の妻を見上げた。
「ほら、どうだい、扈夫人」
「ええ、とても似合っているわ」
「ありがとうございます、小父さま」
しゃがんだままの男の頬に、サニーはいつものようにお礼のキスをした。
「いえいえ、どういたしまして」
小さな唇の触れた頬を撫でながら、セルバンテスはにやにやしながら立ち上がり、席に
着いた。
「小父さま、今日はサニーがお茶を御淹れしますわ」
子供用の脚の高い椅子に立って、サニーは自分用の小さなティーポットを両手で持ち上
げた。
「おや、ありがとう」
丁寧に注がれたお茶をセルバンテスは恭しく受け取った。
「パパに会ったのは、いつかな? ラ・プティット・ビジュー」
「ええっと…、二ヶ月前ですわ、小父さま」
指折り数えて思い出すサニーに、セルバンテスは愉快そうに笑った。そしてチェリーパ
イを切り分ける扈三娘を見た。
「君も大変だね、あんな偏屈者の亭主を持って」
「あら、あれでも可愛いところもあるのよ。こうして貴方がお茶に来たと聞く度、苦い顔
をするんだから」
くすくすと笑う賢婦に、オイルダラーは受け取ったチェリータルトを行儀悪くフォーク
で突付きながら言った。
「そろそろ下があってもいいんじゃないか」
「それは私一人ではどうにならないわ」
セルバンテスは斜め右側の席に座る少女に笑みを向けた。
「ねえ、ラ・プティット・ビジュー、君は弟か妹が欲しいかな」
「いいえ、小父さま、サニーは弟や妹はいりませんわ」
「おや、いらないのかい?」
「ええ、お父様がいらないって仰ってたんですもの。だったらサニーもいりませんわ」
セルバンテスは目を丸くしてみせた。
「アルベルトが? 本当にそう言ったのかい?」
「あら、そんなに騒ぐ事かしら」
扈夫人が不思議そうに言った。
「私達の子は、この子一人で充分だと思うけれど。特にあの人にしてみれば、ね…」
「そりゃ、たしかにアルベルトらしいといえば、そうなんだが…」
得心行かぬセルバンテスに、サニーが聞いた。
「小父さま、どういう事ですの?」
「んん、それはね、――とても素晴らしい事なんだよ。特にラ・プティット・ビジュー、
君は一番、この世で最高に素晴らしい存在なんだ」
「でも、お父様はいつも御自分こそ一番だって思っていらっしゃいますわ」
「あれは偏屈なだけだよ。君はいつでも素直で可愛らしいから、お父様より素晴らしいん
だよ。ましてや君はお母様の娘なんだから」
「素直で可愛らしいと、お父様より素晴らしいの?」
「そうだよ! 君のお父様はいつでも素直じゃないからね」
アルベルトが同席していればとんでもない事になるような発言をするセルバンテスに、
扈三娘はくすくすと笑うだけだ。
「――私の娘…ね…、たしかに素晴らしいわね」
「お母様?」
「いらっしゃい、サニー」
招かれるままに、サニーは母の膝に抱かれた。優しく髪を撫でる袖口から、焚き染めら
れた薫香が零れてきて、幼子は心地好く瞼を落とした。
「――扈夫人、そろそろ療養の申請でもしたらどうだい?」
「そうね…、でも、あともう少しだけ此処にいたいの」
「アルベルトが帰って来なくても、かい?」
「あの人は関係無いわ。むしろ、待っているのは向こうよ」
海棠の花とも称される麗姿でありながら、甲冑に身を包み、鞍に跨れば日月両刀を自在
に操る豪傑なこの女人の、一体何があの男を選ばせたのだろうか。
「私も叶う事なら、君のような御婦人に出会いたかったよ」
セルバンテスは跪き、艶やかな裳裾を手にとり、恭しく口付けた。扈三娘は応えなかっ
た。けれども静かに囁くように言った。まるで、娘の眠りを邪魔してしまわないようにと
気遣うように。
「あの人をお願いね。多分、…御互いに見届ける事はできないでしょうけれど」
「大丈夫さ。この子がいる」
セルバンテスは躊躇せずに返した。
「そう、君の娘がいるじゃないか」
「そうね…、この子が…」
幼子の寝顔を見詰める黒真珠の双眸には哀憫が溢れていた。
だからこそ、あの男は帰りたがらないのだ。
この光景を、セルバンテスは一生涯忘れる事はないだろうと思った。
「――お茶が冷めてしまったわね。淹れ直してきましょうか」
「――扈夫人が終に…か……、淋しくなるな」
葬儀らしい葬儀もなく、二度と微笑む事のない女が永遠に眠る廟所の前で、セルバンテ
スは独り呟いた。廟所の壮麗さに、見上げながらついつい笑ってしまった。今も平然と職
務に励んでいるのだろうが、これがあの男の直情なのだ。
当人の扈三娘も、見ればきっと笑ってしまうだろう。笑いながら、こう言うに違いない、
『あの人ったら、タージ・マハールでも気取るつもりなのかしら。あんなに莫迦にしてた
のに』と。そしてそこがまた可愛いのだと。あの男を可愛いと言って笑える人間は、自分
が最初で最後だと海棠の花は知っていたのに、何故散ってしまったのか。
ふと聞こえて来たのは、静かな雨音だった。
――泣いているのかしら、似合わないわね
そんな優しい声が聞こえた気がして、セルバンテスはふっと微笑んだ。
「小父さま…」
廟内から、静かな足音で現れた少女は、母の国の古い仕来り通り、白い服を着ていた。
「――ああ、これは失礼したね。まだ服喪中だったね」
「いいえ、構いませんの。小父さまがいらっしゃったとなれば、母も喜びますわ」
「ありがとう」
セルバンテスは案内されるままに、故人がよく焚き染めていた香が漂う最奥の堂に踏み
入った。控え目ながらも華やかさを含んだ上品な薫香に満ちた堂内で、位牌の前に並べら
れた夥しい供物は真新しい物ばかりだった。
「なんだか具合が悪いけれど、これでいいかな」
セルバンテスは持ってきた花を手向けた。豪勢な、色取り取りの巨大な花束だった。墓
前に相応しいといえる花達ではなかったが、脇を飾る役には丁度いい。
「全部、違う花ですのね」
「君の母上は美しい、聡明な女性だったよ。淑徳豪傑にして賢夫人、このすべての花がそ
れぞれに持つ美徳を体現しているような、素晴らしい女性だったんだ…」
セルバンテスのなかで走馬灯が駆け巡っていた。浮かぶ思い出は、どれも決して失いた
くはないものばかりだった。けれども、二度と帰る事はないのだ。
「ねえ、小父様」
不意に母親を失った少女は微笑んだ。
「母は幸せでしたわ」
「ああ、この世の誰より、ね」
二人の声は確信に満ちていた。
この豪奢な廟に独りで久遠の眠りにつく事を、それでも幸福といえるのか。セルバンテ
スは考えたくなかった。放っておいても人間は死ぬ。自分も、アルベルトも、何れは消え
る。だが、それまでに果たすべき事がある。それは、この少女も同じだ。
――La Petite Bijou
この小さな宝石を愛しんだ白い手は、もう蘇らないのだ。
セルバンテスは瞼を閉じた。濃厚な薫香のなかから、降り頻る雨音に交ざって無音の慟
哭達が聴こえてくる。
「これからは君が私をお茶会に招いてくれるかい? サニー」
「ええ、勿論ですわ」
肯きながら、サニーは解っていた。自分が『ラ・プティット・ビジュー』と呼ばれる事
は決してないだろうという事を。そして、傍らの男と母について語り合う事も決してない
だろうという事も。
「テーブルにも椅子にもティーカップにも、全部に花をたくさん飾ってね、あの庭園のだ
けでは足りないくらいに」
「ええ。――でも、あの花の季節までは、待って下さいますわね」
「勿論だよ、サニー」
セルバンテスは位牌を見詰めながら言った。雨音が聞こえる。失うという事は、矢張り
残酷だ。
「でも、待たなくても、君のお母様は笑ってくれるよ」
終
た筈の茶几の上に何時の間か、季節の花を挿した花瓶、ふんだんに盛り付けられ茶請けの
菓子や果物が並べられていている事に、小さな女の子はいつも驚いたものだった。
茶器や食器にテーブルクロスのみならず、茶几や椅子といった一切の調度品に至るまで、
すべてが母の見立てであり、それも季節や気候のみならず、茶の種類や茶請けによって容
易く替わった。特に招く客によって著しく違っていて、少女も入れ替わる茶器の模様から、
今日はどんな客が来るのか見当がつくようになった頃には、母を手伝って花を活けたり、
一生懸命に背伸びして棚から食器を取ろうとしたりした。
そんな娘を母は優しく微笑みながら見守りながら、多忙の合間を縫って一緒に御菓子を
作ったり、絵本を読んだり、母の生まれ故郷に伝わるという古い歌を教えてくれたりもし
た。父は母以上に忙しく、一家団欒等は有り得様筈もない家庭環境ではあったが、別段寂
しくもなかった。少女にとって家族とは両親だけでなく、血が繋がっておらずとも可愛がっ
てくれる大人達が大勢いたからだ。
「今日もセルバンテスの小父さまがいらっしゃいますのね」
選ばれた茶器から少女は容易く客を言い当てた。
「ええ、小父さまは今日は何を持って来て下さるかしら」
「何でもいいわ。小父さまはいつだって素敵な物を下さいますもの」
殊に父の盟友は、父以上にお茶会の常連で、少女への土産を欠かした事は一度としてな
かった。
「やあ、ラ・プティット・ビジュー(小さな宝石)、今日もパパは不在みたいだね」
「いらっしゃいませ、小父さま!」
サニーは駆けて行ってクフィーヤの男を出迎えた。
「ほら、お土産だよ。今日は可愛い君に似合うと思って、これを選んで来たよ」
「まあ、綺麗なお花!」
「髪飾りだよ。下を向いて御覧、付けてあげるよ」
そう言ってアラブ人の男は膝を落として少女の柔らかな茶色い髪に土産の髪飾りをつけ
た。そして娘に遅れて現れた盟友の妻を見上げた。
「ほら、どうだい、扈夫人」
「ええ、とても似合っているわ」
「ありがとうございます、小父さま」
しゃがんだままの男の頬に、サニーはいつものようにお礼のキスをした。
「いえいえ、どういたしまして」
小さな唇の触れた頬を撫でながら、セルバンテスはにやにやしながら立ち上がり、席に
着いた。
「小父さま、今日はサニーがお茶を御淹れしますわ」
子供用の脚の高い椅子に立って、サニーは自分用の小さなティーポットを両手で持ち上
げた。
「おや、ありがとう」
丁寧に注がれたお茶をセルバンテスは恭しく受け取った。
「パパに会ったのは、いつかな? ラ・プティット・ビジュー」
「ええっと…、二ヶ月前ですわ、小父さま」
指折り数えて思い出すサニーに、セルバンテスは愉快そうに笑った。そしてチェリーパ
イを切り分ける扈三娘を見た。
「君も大変だね、あんな偏屈者の亭主を持って」
「あら、あれでも可愛いところもあるのよ。こうして貴方がお茶に来たと聞く度、苦い顔
をするんだから」
くすくすと笑う賢婦に、オイルダラーは受け取ったチェリータルトを行儀悪くフォーク
で突付きながら言った。
「そろそろ下があってもいいんじゃないか」
「それは私一人ではどうにならないわ」
セルバンテスは斜め右側の席に座る少女に笑みを向けた。
「ねえ、ラ・プティット・ビジュー、君は弟か妹が欲しいかな」
「いいえ、小父さま、サニーは弟や妹はいりませんわ」
「おや、いらないのかい?」
「ええ、お父様がいらないって仰ってたんですもの。だったらサニーもいりませんわ」
セルバンテスは目を丸くしてみせた。
「アルベルトが? 本当にそう言ったのかい?」
「あら、そんなに騒ぐ事かしら」
扈夫人が不思議そうに言った。
「私達の子は、この子一人で充分だと思うけれど。特にあの人にしてみれば、ね…」
「そりゃ、たしかにアルベルトらしいといえば、そうなんだが…」
得心行かぬセルバンテスに、サニーが聞いた。
「小父さま、どういう事ですの?」
「んん、それはね、――とても素晴らしい事なんだよ。特にラ・プティット・ビジュー、
君は一番、この世で最高に素晴らしい存在なんだ」
「でも、お父様はいつも御自分こそ一番だって思っていらっしゃいますわ」
「あれは偏屈なだけだよ。君はいつでも素直で可愛らしいから、お父様より素晴らしいん
だよ。ましてや君はお母様の娘なんだから」
「素直で可愛らしいと、お父様より素晴らしいの?」
「そうだよ! 君のお父様はいつでも素直じゃないからね」
アルベルトが同席していればとんでもない事になるような発言をするセルバンテスに、
扈三娘はくすくすと笑うだけだ。
「――私の娘…ね…、たしかに素晴らしいわね」
「お母様?」
「いらっしゃい、サニー」
招かれるままに、サニーは母の膝に抱かれた。優しく髪を撫でる袖口から、焚き染めら
れた薫香が零れてきて、幼子は心地好く瞼を落とした。
「――扈夫人、そろそろ療養の申請でもしたらどうだい?」
「そうね…、でも、あともう少しだけ此処にいたいの」
「アルベルトが帰って来なくても、かい?」
「あの人は関係無いわ。むしろ、待っているのは向こうよ」
海棠の花とも称される麗姿でありながら、甲冑に身を包み、鞍に跨れば日月両刀を自在
に操る豪傑なこの女人の、一体何があの男を選ばせたのだろうか。
「私も叶う事なら、君のような御婦人に出会いたかったよ」
セルバンテスは跪き、艶やかな裳裾を手にとり、恭しく口付けた。扈三娘は応えなかっ
た。けれども静かに囁くように言った。まるで、娘の眠りを邪魔してしまわないようにと
気遣うように。
「あの人をお願いね。多分、…御互いに見届ける事はできないでしょうけれど」
「大丈夫さ。この子がいる」
セルバンテスは躊躇せずに返した。
「そう、君の娘がいるじゃないか」
「そうね…、この子が…」
幼子の寝顔を見詰める黒真珠の双眸には哀憫が溢れていた。
だからこそ、あの男は帰りたがらないのだ。
この光景を、セルバンテスは一生涯忘れる事はないだろうと思った。
「――お茶が冷めてしまったわね。淹れ直してきましょうか」
「――扈夫人が終に…か……、淋しくなるな」
葬儀らしい葬儀もなく、二度と微笑む事のない女が永遠に眠る廟所の前で、セルバンテ
スは独り呟いた。廟所の壮麗さに、見上げながらついつい笑ってしまった。今も平然と職
務に励んでいるのだろうが、これがあの男の直情なのだ。
当人の扈三娘も、見ればきっと笑ってしまうだろう。笑いながら、こう言うに違いない、
『あの人ったら、タージ・マハールでも気取るつもりなのかしら。あんなに莫迦にしてた
のに』と。そしてそこがまた可愛いのだと。あの男を可愛いと言って笑える人間は、自分
が最初で最後だと海棠の花は知っていたのに、何故散ってしまったのか。
ふと聞こえて来たのは、静かな雨音だった。
――泣いているのかしら、似合わないわね
そんな優しい声が聞こえた気がして、セルバンテスはふっと微笑んだ。
「小父さま…」
廟内から、静かな足音で現れた少女は、母の国の古い仕来り通り、白い服を着ていた。
「――ああ、これは失礼したね。まだ服喪中だったね」
「いいえ、構いませんの。小父さまがいらっしゃったとなれば、母も喜びますわ」
「ありがとう」
セルバンテスは案内されるままに、故人がよく焚き染めていた香が漂う最奥の堂に踏み
入った。控え目ながらも華やかさを含んだ上品な薫香に満ちた堂内で、位牌の前に並べら
れた夥しい供物は真新しい物ばかりだった。
「なんだか具合が悪いけれど、これでいいかな」
セルバンテスは持ってきた花を手向けた。豪勢な、色取り取りの巨大な花束だった。墓
前に相応しいといえる花達ではなかったが、脇を飾る役には丁度いい。
「全部、違う花ですのね」
「君の母上は美しい、聡明な女性だったよ。淑徳豪傑にして賢夫人、このすべての花がそ
れぞれに持つ美徳を体現しているような、素晴らしい女性だったんだ…」
セルバンテスのなかで走馬灯が駆け巡っていた。浮かぶ思い出は、どれも決して失いた
くはないものばかりだった。けれども、二度と帰る事はないのだ。
「ねえ、小父様」
不意に母親を失った少女は微笑んだ。
「母は幸せでしたわ」
「ああ、この世の誰より、ね」
二人の声は確信に満ちていた。
この豪奢な廟に独りで久遠の眠りにつく事を、それでも幸福といえるのか。セルバンテ
スは考えたくなかった。放っておいても人間は死ぬ。自分も、アルベルトも、何れは消え
る。だが、それまでに果たすべき事がある。それは、この少女も同じだ。
――La Petite Bijou
この小さな宝石を愛しんだ白い手は、もう蘇らないのだ。
セルバンテスは瞼を閉じた。濃厚な薫香のなかから、降り頻る雨音に交ざって無音の慟
哭達が聴こえてくる。
「これからは君が私をお茶会に招いてくれるかい? サニー」
「ええ、勿論ですわ」
肯きながら、サニーは解っていた。自分が『ラ・プティット・ビジュー』と呼ばれる事
は決してないだろうという事を。そして、傍らの男と母について語り合う事も決してない
だろうという事も。
「テーブルにも椅子にもティーカップにも、全部に花をたくさん飾ってね、あの庭園のだ
けでは足りないくらいに」
「ええ。――でも、あの花の季節までは、待って下さいますわね」
「勿論だよ、サニー」
セルバンテスは位牌を見詰めながら言った。雨音が聞こえる。失うという事は、矢張り
残酷だ。
「でも、待たなくても、君のお母様は笑ってくれるよ」
終
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