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うろほろぞ
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ズルイ男  

「て、手当てしてくれて……ありがとお。アハハ」
「何をおっしゃいますの~お気になさらないで下さい~」
「あ、そそそそ、そお?」
「ええ、このくらい。行方も知れぬ誰かさんを探して砂漠を彷徨う苦労に比べたら全然~」
「……ご、ごめん……」
「さっきからそればかり。全く。鈍い所もお変わりなくて安心しますわ~っ」
 消毒液の染み込んだガーゼを盛大に傷に押し付けられ、ヴァッシュは悲鳴を上げた。
「も……も少し優しく!」
「あらあ、ゴメンアソバセ。おほほ」
 にっこり上品に微笑むメリルに、思わずヴァッシュは額の冷や汗を拭う。
 シップ内。担ぎ込まれて二回目の晩である。寝室代わりの病室で、メリルはヴァッシュの二の腕の包帯を取り替えていた。ジェシカが料理当番で五分前に泣く泣く出て行って、今は再会して以来、初の二人きりである。
 ベッドに腰掛けて床に足を下ろしたヴァッシュは、そっと溜息をついた。脇の丸椅子で、澄まし返って救急箱を覗き込むメリルをこっそりと見る。二人きりになった途端、先程のようなちくちく攻撃が延々と続いている。会話の糸口を探し笑顔で皮肉られおずおず謝ってぴしゃりと遮られ、の繰り返しである。遠まわしに嫌味をまぶし、ちらりとも「謝る隙」を見せず、目すらきちんと合わせてはくれず。ぴりぴりと、小さな体で冷たく雰囲気を尖らせているのである。
 これではヴァッシュの大きい図体も縮こまる、というものである。
(謝るいいチャンスだと思ったのになぁ……)
 彼女が怒るのは恐ろしいまでに当然である。だがしかし。
 救いを求める様に見た隣のベッドにウルフウッドの姿はない。お目付け役のジェシカが出て行った途端、「煙草喫うてくる~」と鼻歌混じりに出て行った背の高い後姿を思い出す。
(ウルフウッドの馬鹿~!)
「あ……あの、ミリィは?」
「経費請求書のまとめをやってます。ああ大変でしたわぁここまで来るの。請求書も山の様になりましたからね。あの子も苦労してるんですのよ~」
 またしても薮蛇である。ひきつった笑顔でヴァッシュは頭をかいた。そんな彼を満足そうに横目で見て、メリルは包帯の留め金を親の敵の様にぎゅうぎゅうと止めた。
「い、いてて……」
「はいできた。じゃあ次は太股」
「へ」
「ズボン、お脱ぎになって下さいな」
「ええっ!ちょ、ちょっと君」
 容赦なくジーンズのベルトに手をかけられ、反射的に華奢な右手を上から押さえた。
 途端、ぱちん、という乾いた派手な音が、静かな病室に響いた。
「……え」
「あ」
 事態が飲み込めずに目を丸くしたヴァッシュを見、メリルは酷く狼狽して俯いた。メリルの左手が、平手打ちの勢いで、ヴァッシュの右手を払いのけたのである。
「……」
「ご、ごめんなさい……つい」
 下りた静寂にぎこちなく笑うと、メリルは彼女らしくない慌てた仕草で腰掛けていた椅子を引いた。乱暴に道具を救急箱の中に押しこむ。
「あ……後はルイーダさんかジェシカさんにやって貰って下さい」
 蓋を閉じ、救急箱を掴んで立ち上がる。表情を見せない様に急いで背を向けて、
「私はちょっと、やらなければならない事を」
 その細い腰を、後ろからヴァッシュは乱暴に引き寄せた。
「きゃ……!?」
 苦もなく腕の中に抱き締めて、開いた太股の上に横抱きに座らせる。
「ちょ、何をなさるんですの!」
 必死で暴れる彼女の顎を強く掴んで上向かせ、薔薇色の唇を奪った。
「ん・・・!!!」
 貪る様に、深く、強引に、容赦なく。熱い舌で無茶苦茶に口腔を犯す。歯をぶつけ、獣の乱暴さで噛み付く様に。わざと下品な濡れた音を立てて唾液を吸ってやると、腕の中の細い体は大きく震えた。息継ぎを赦さない激しいキスは、昔、彼女が好んだそのままである。
 広い背中を精一杯叩いていた細い腕が弱々しく落ちるまで、思う存分に貪って、唇を離してやる。目を開けると、睫毛が触れる至近距離の真っ白な頬はもう上気していた。おずおずと開いた紫の瞳を覗き込み、ヴァッシュは笑った。
「さっきからさ。何だよ、その態度。誘ってるの?」
「な……!」
「そそるんだよな、冷たい君。でもさ」
「……」
「もうちょっと優しくしてよ。久しぶりに会ったってのに酷くない?」
「……酷いのは!」
「ん」
「酷いのはそっちですわ!」
 ついに激情を迸らせて、メリルは拳で目の前の厚い胸を叩いた。大きな目から涙を零し、眉を寄せて叫ぶ。
「置いて行った癖に!私の事なんてどうでもよかった癖に!生きてたならどうして……!」
 しゃくり上げてそれ以上は声にならなかった。胸が苦しくて息が上手く出来なくて、ただただびくともしない広い胸を両の拳で叩く。彼を失って二年間決して流さなかった熱い涙が、とめどなく溢れた。困った様に背中を撫でる大きな手に、感情がどうしようもなく渦巻く。
「忘れようと……したのに……!大嫌い!馬鹿!大好き!」
「これは……もしかしたら、男冥利に尽きる、ってやつかな……」
「うるさい!!」
 メリルは大きくしゃくり上げ、ずず、と鼻水をすする。湧き上がる嬉しさを苦笑で誤魔化し、ヴァッシュは涙でぐちゃぐちゃの可愛い顔をパーカーの袖でごしごし拭ってやった。真っ赤な目で見上げる額にそっと唇を落とし、壊れ物を扱う丁寧さで胸に抱き締めた。
「そうやって、最初から思い切り怒ってよ。謝れないじゃない。
  ……連絡しないでごめんね。会えて……嬉しいよ。本当に。
    嘘じゃない。二年間、思い出さない日はなかった」
「……絶対」
「?」
「こうやって、誤魔、化すから」
「だからあんな態度とってたの?」
 ヴァッシュの胸に顔を埋めたまま、こくりと頷く小さな頭に愛しさが募る。黒い髪に頬擦りをして、ヴァッシュは細い背中をぽんぽんと叩く。子供をあやすように。
「誤魔化すつもりなんてないさ。ごめん。俺が悪かった」
「……」
「でもさ、君ならきっと、他にもっと」
 小さな指に唇を塞がれて、ヴァッシュは言葉を止める。
「聞きたく、ありませんわ」
「……うん。ごめん」
 全力で抱いたら折れてしまいそうな細い体は、二年前抱いた時より少し軽くなっていた。柔らかな体を強く抱き締める。感触を確かめる様に。久しぶりの暖かな体温は、例え様もなく幸せで優しい匂いがした。微かに苦笑して、ヴァッシュは自分の胸にすがりつく小さな白い手を見下ろした。
(資格なんてないのにね。もう終わりにしなきゃいけないのにね)
 何も言えなくなってしまった。
 しゃくり上げる声が落ち着くまでそうしていてから、頃合を見計らって、ヴァッシュは小さな耳朶にちゅ、と唇を押し当てた。
「……あ」
 驚いた様に肩を竦め、体を離そうとする腰を、やんわりと掴む。
「でもさ。誤魔化されないようにがんばってた……って事は。すぐ誤魔化されちゃいそうだって事だよね?」
 答えずにもがき始めた小さな体を、乱暴にベッドの上に押し倒した。頭上で細い腕を一まとめに右手で戒めてやる。背けた顔に顔を寄せ、耳元でいやらしく囁く。
「可愛いねメリル。そんなに弱いんだ、俺に触られると。何も分からなくなっちゃって,何でも赦しちゃうんだ?」
「ほら見なさいー!それが誤魔化してるって言うんですわー!!男っていつも……あっ!」
 透き通るような喉元に開いた唇を熱っぽく押し付ける。久しぶりのその感触に、一瞬動きの止まった自分を恥じるように、メリルは一層激しく身を捩った。いなす必要もなくそれを無視し、ヴァッシュは右手を下に伸ばした。
「答えになってないよ、それ」
「きゃ……!」
 フレアスカートを持ち上げてするりと忍び込んだ手に、メリルは思わず悲鳴を上げる。
「二年間、他の男にここ、いじらせてないよね?」
 容赦なく下着に手を差し込んで、ヴァッシュはにっこり笑って見せる。可憐に震える熱いそこは潤んで淫らにヴァッシュを誘っていた。触れた途端、激しくメリルの体は跳ねた。
「あ……あん、は……!嫌……!」
「嘘ばっかり。凄いよこっち。ねっとり絡み付いてくる。久しぶりの俺の指、とっても美味しいって言ってるけど?」
「や・・・止めて、お願い……!あ、あっ!」
「お詫びに気絶するまでイかせてあげる。ぐちゃぐちゃになっちゃうまで二人で気持ちよくなろ。俺も君の体が欲しい。覚えてるよ、その胸も腰も……これも」
「ひゃ……っ!」
 深く探られて、頭の芯が痺れた。びくびくと体を震わせてメリルは喘ぐ。両手を押さえつける手は、あの時月に穴をあけたあの腕。それを知って尚この男にこうして抱かれている自分は……もう戻れないと、思った。愛しく見下ろす目を見上げ、薄く唇を開いて求めると、熱い唇が強く重ねられた。二年間、求めずには居られなかった、奪うような溶ける口付け。戒められた手首が解かれるのももどかしく、太い首にすがりついた。
「好き……好き、大好き……!ヴァッシュさん……!」
 熱に浮かされた様に、掠れた声でピアスの左耳に囁く。目尻を下げて笑い、ヴァッシュは優しく白い頬にキスする。
「ヴァッシュでいいって言ったの、忘れちゃった?」
 そのまま左手をブラウスのボタンにかけ、ヴァッシュはそっと

「ただいまぁ」
 大声と共に、自動でぎごちなく開いたドアをくぐる。ベッドの脇に立ち上がったメリルと、ベッドに横たわったヴァッシュがゆっくり振り返った。その視線に何となく気圧されて、ウルフウッドは思わず一歩下がった。
「……ん?何や」
「いいえ、何もありませんわ。それでは私はこれで。お二人ともお大事に」
 操り人形の様な動きでぎくしゃくと、メリルは救急箱を下げて出て行った。よろよろとドアの向こうに消える小さな背中を見送ってウルフウッドは立ったまま首を傾げた。
「何や、おかしな姉ちゃんやなあ?」
「……この部屋、ちょっと暑ない?」
「そんな事は全然ないと思うけど」
きっぱりと言い切るヴァッシュの髪の毛がぼさぼさな事に、ウルフウッドは気がつかない。
「ふうん。ならええねんけど」
首を捻りつつ、自分のベッドに歩み寄り、どさっと腰掛けて、にこにこと笑う。
「ああ煙草旨かった。やっぱアカンな、ヤニないと」
「へーそうー」
「ここは全禁煙やもんな~……って」
ふ、とヴァッシュのベッドを見て、ウルフウッドは目を見開いた。
「トンガリ」
「何ですか」
「……それ」
指差した先にあったのは。どうみても女性用の下着。続に言うぱんてぃー、である。
「……」
「……」
触れれば切れそうな恐ろしい三分間の静寂の後に、ヴァッシュは重々しくそれを取り上げて風の様に部屋を走り出て行った。ああ、と赤い顔で溜息をついて、ウルフウッドはがくりと頭を落とす。
(どうやって手渡すかが問題やなあ……)
この後間違いなく起きるであろう大騒動に、ウルフウッドは少々同情した。

<完>
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vp8

暗闇の向こうに


「あのう……すみません」
メリルは駅の北口で、突然見知らぬ中年女性に声をかけられた。妙におどおどした様子で、視線があちこち移動して落ち着きがない。
「はい、何か?」
その女はしばらくためらった後、ある駅名を口にした。
「眼鏡を忘れてしまって料金表が見えなくて……切符代はいくらになるんでしょうか」
「もしよろしければ、私が買ってきましょうか?」
券売機の数字を見るのも大変なのかも知れない。それに顔色が悪く、柱に手をついて身体を支えている。もし具合が悪いのなら動くのも辛い筈。
「……それじゃ、お言葉に甘えて……」
女が差し出した千円札を受け取ると、メリルは自分の鞄を柱の横に置いた。お金を持ってそのまま立ち去ることはしない、という意思表示のつもりだった。
「すぐ戻りますから、ここで待っていて下さいね」
微笑みながらそう言うと、メリルは軽やかな足取りで券売機に向かった。
ミリィとの待ち合わせまでに往復できるかしら。大丈夫そうなら、お節介かも知れませんけど同行を申し出てみましょうか……。そんなことを考えながら上を向いて言われた駅名を探していると、不意に誰かが横からぶつかってきた。相手の腕が身体に密着する。
「割り込みは……」
抗議しようとして、メリルは隣に立つ大学生風の男が自分に出刃包丁を突きつけているのに気づいた。コートの
上からでも充分刃が届く大きさ。
「騒ぐな。……一緒に来て貰おう」
「……切符を買ってからでもよろしいですか? あちらの柱のところにいらっしゃる女性の分です」
「その必要はない」
青年の横に女が並んだ。包丁を見ても何の反応も示さない。二人は共犯だったのだ。
「……お金、お返しします」
メリルはゆっくりと腕を動かし、持っていた札を女に差し出した。相手が受け取って財布に戻すのを確認し、肘を軽く曲げた青年の左腕に自分の腕を絡める。傍目には仲のいいカップルに見えるが、コートの下に隠した包丁でいつでもメリルの脇腹を刺せる体勢だ。
『無理は禁物ですわね』
常に冷静であれ。自分に言い聞かせながら、メリルは青年の歩調に合わせて歩き始めた。女は少し離れてついてきた。
三人は住宅街を抜け、坂道を登っていった。やがて常緑樹に覆われた山道に入る。
『ここは……』
知っている。四月に実際に走って、スペシャル外回りのコースに組み入れた道だ。この先に心臓破りと呼ばれている熊野宮神社への階段がある。
熊野宮神社はこの辺りの土地神様で、駅からそれほど遠くないのだが階段がきつく、年始や縁日の時を除いて訪れる人は少ない。人目を避けるには絶好の場所だ。
案の定青年は神社への階段を目で示した。昇れ、と。
「腕を外してもよろしいですか?」
「……妙なマネをしたら……判ってるな?」
山道に入ってからは誰にも行き合わせていない。隠す必要のなくなった出刃包丁を出すと、青年は軽く振ってみせた。木漏れ日に一瞬刃がきらめいた。
「ええ、判ってます」
メリルは小さく肯くと青年から離れた。言われる前に先頭を歩く。すぐ後ろを歩く青年の気配を感じながら。
階段をほぼ半分昇ったところで、メリルは足を止めずに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
それが自分に向けられていることに気づいて、肩で息をしていた女は思わず立ち止まった。昇り始めた時より二人との距離が開いている。メリルには見えなかったが、顔色は先刻よりも悪くなっていた。
「お前には関係ない!」
「……少しペースを落とします」
本当は手を貸したかったが、声を荒げた青年に許可を求めるのは危険だ。メリルは仕方なく歩く速度を落とすだけにとどめた。
神社には中年の男がいた。やはり手には包丁を持っている。
「妻はどうした?」
「まだ階段にいらっしゃいます。途中から遅れがちになられて」
「お前は黙ってろ!」
メリルは肩越しに振り返り、穏やかな表情で自分に包丁を突きつけている青年を見上げた。
「私は逃げたりしません。不安なら、どこかに縛りつけて下さって結構です。あの人に手を貸してあげていただけませんか?」
「何故お前がそんなことを気にする!?」
「……具合の悪い人を労るのは当然のことではありませんの?」
青年は目を見開いて、不安や動揺とは無縁の菫色の瞳を見返した。
「……階段に座れ。……おばさんを連れてきます。すぐに戻りますから、しばらくお願いします」
自分のズボンから外したベルトでメリルの両足首を縛ると、青年はメリルの真後ろに立った男に見張りを頼んで階段を降りていった。


ここで合流した男が、メリルをしげしげと眺めてから呟くように言った。
「あんた、トライガン学園の一年生だそうだな。…………俺の娘も高校生だった……」
「……アイリーンさん?」
ふと思いついて口にしたメリルの言葉に男の身体が硬直した。
「……そうだ。俺はアイリーンの父だ! お前の父親に殺されたアイリーンのな!」
メリルは僅かに俯くと静かに目を閉じた。新聞で死亡事故の記事を読み、後日父から聞いた葬儀での出来事を思い出す。
『ああ、それで私を……』
それきり会話は途絶えた。青年と女が到着してからも沈黙の時間が続いた。
一度男がその場を離れた。メリルは判らなかったが、男はメリルの自宅に電話をかけに行ったのだった。
日が暮れてから気温が急激に下がってきた。時折吹き抜ける冷たい北風がいっそう寒さを感じさせる。
「……これからどうするんですの?」
がたがた震えている女に目をやってから、メリルは男に質問した。声が震えたのは恐怖からではなく、寒さの為である。顔には出さなかったがメリルは困惑していた。
自分を餌に父を呼び出したいなら連絡をとった筈。病院からなら、二時間もあれば充分ここに来られ……
かぶりを振って脳裏に浮かんだ嫌な考えを打ち消し、違う可能性を模索する。
報復の為に自分を殺したいならとっくにそうしている筈。人影はなく、目撃される心配はない。凶器もある。
それなのに、何故?
「……ここに一晩中いたら凍死してしまうかも知れませんわ。せめて場所を移動しませんこと?」
「……命乞いのつもりか?」
青年の北風にも勝る冷たい言葉に動じることなく、メリルは言った。
「あの人の為ですわ」
メリルの視線を追い、青年は女に目を向けた。男もそれに倣う。
素人目にも様子がおかしいのはよく判る。紙のように白い顔色も身体の震えも、原因は寒さだけではないだろう。
「何か持病がおありですの?」
男は無言のまま首を横に振った。いつも明るく元気に家庭を切り盛りしていた妻は、一人娘と共に笑顔をなくしてしまった。あの交通事故以来、食事も睡眠もろくにとっていない。
「早く病院へ」
「そして妻まで俺から奪うのか?」
痛烈な一言。胸が潰されそうな感覚に耐え、メリルは更に言葉を紡いだ。
「信頼できるお医者様が一人くらいいらっしゃいますでしょう? ……悔しいですけど、医学は万能ではありません。病気の原因が判っても、それが遅ければ手の施しようがないことだってありますのよ?」
「俺の娘がそうだったって訳か」
この人は医者にも病院にも強い不信感を抱いている。おそらく何を言っても徒労に終わる。
暗い中、目を凝らして腕時計の文字盤を読み取る。この時間ならもう皆帰っていてあそこには誰もいない。メリルは交渉の内容を切り替えることにした。
「……では、せめて風が凌げるところへ行きませんか?」
メリルの説明を聞き終えてから、二人の男は顔を見合わせ、揃って女の方を見た。苦しそうに浅い呼吸をくり返している。
「……いいだろう」
男の答えに、青年はメリルの足首を縛っていたベルトを外し、包丁を握り締めてメリルの横に歩み寄った。男が妻に肩を貸し、身体を支える。
 四人はゆっくりと階段を降り始めた。
 部室の前で、メリルはコートのボタンを外し制服のポケットから鍵を取り出した。扉をそっと開け、誰もいないのを確認してから率先して中に入る。
「明かりはつけないで下さい。誰かに見られるといけませんから」
男が妻を椅子に座らせるのを見届けてから、メリルは再び口を開いた。
「暗くて判りにくいと思いますが、この部屋に出入りできるのは今通ったドアと反対にある窓だけです。心配でしたらその二ヶ所を見張れば大丈夫ですわ」
「……何故そんなことをわざわざ教える?」
「ほんの少しの間、この部屋の中を自由に動きたいからです」
言いながら女の様子を見る。神社にいた時よりも震えが酷くなっているように思えた。
「……妙なマネをしたらタダじゃおかないからな」
男がドアの前、青年が窓の横に立つのを待って、メリルはロッカーに近づいた。プライバシーの侵害を心の中で詫びながら順に開けていく。ユニフォームはほとんど入っていなかった。
『洗濯はどうなってますの!?』
密かに怒りつつ、見つけた三枚の上着を女に手渡す。女がそれを羽織ったり腹部に巻きつけるのを見届けてから、コートを脱ぎ女の肩にそっとかける。
「あ……」
「ないよりましだと思いますわ」
微笑みながら女の傍を離れると、メリルは部屋のほぼ真ん中にある椅子に腰掛けた。
再び沈黙の時間が過ぎていった。






+++++++++++





暗闇の向こうに


ⅩⅠ
ヴァッシュとウルフウッドは、トライガン学園の決して低くはない正門を身軽に乗り越えた。どの窓にも明かりはついていない。それでも二人は塀伝いにクラブハウスに近づいた。
ドアに耳を押し当てる。……何も聞こえない。
不意にがたん、という大きな音がした。
「大丈夫ですか!?」
続いて聞こえたメリルの声に二人はそっと目配せした。
女の上体が大きく揺らいだ。メリルは椅子を蹴倒して駆け寄りその身体を支えた。
「大丈夫ですか!?」
「……ええ……大丈夫。……ありがとう」
掠れた声。歯がかちかちと音を立てそうなくらい震えている身体。額に手をやると火のように熱かった。
「熱が……! お願いです、早くこの人を病院へ!」
「駄目だ。医者は信用できん」
「ではせめてちゃんと休める暖かい場所へ!」
男は黙ったまま首を横に振る。
「手後れになってからでは遅いんですのよ!?」
「そうなるとは限らない」
「なってからでは遅いんです!!」
メリルの剣幕に男はたじろいだ。女を抱きしめる腕に力を込めて、メリルは苦渋に満ちた声で続けた。
「……医学は……万能ではないんです。……病気も怪我も、治せないことがあるんです……」
ふ、と小さく息を吐く。
「……私の父は、小さい頃から野球をしていたそうです。……」
ポジションはピッチャー。高校では野球部に所属し、甲子園を目指して厳しい練習を重ねてきた。
「でも……高二の時、練習中にアキレス腱を切ってしまって……」
野球はもとより、真剣に運動することを断念せざるを得なくなった。気落ちしていた時期が長く続いた。
そして見つけた新しい夢。
「父は、自分のように怪我の為に夢を諦めなければならなくなる人を一人でも減らしたくて、スポーツ指導もできる外科医になろうと決心したんです」
幼い頃、父と遊んだ記憶――その大半はキャッチボールだった。夏、父が休みの時は膝に座り、独自の解説を聞きながら高校野球を見た。そんな時、父はとても楽しそうな顔をしていた。
そして顔を伏せると、悲しそうな声でこう言った。
「お前が男だったらよかったのに。父だけでなく、母にも親戚にもずっとそう言われてきました。小さい頃からずっと……」
不意に四ヶ月ほど前の記憶が蘇った。二つの鞄を手に、野球部の合宿に出かけたあの日のことが。
「……夏休みに野球部の合宿があったんです。集合場所まで父が車で送ってくれました。……荷物が重かったからだと……父の思いやりだと思ってましたの。でも……」
あの人と言葉を交わした時の、あの人を見る父の優しい眼差し。
「違うんです。父は……あの人に会いたかっただけ。自分の果たせなかった夢を叶えようとしているあの人に……」
目を閉じて、心の中だけで呟く。もし男に生まれていたら、あの人のようになりたかった。
 ……どうして男に生まれなかったんだろう。物心ついてから数え切れないほどくり返した、答えのない疑問。
 ゆっくり目を開けると、メリルは再び口を開いた。
「……ですから、私を殺しても両親や親戚はダメージを受けないと思います。私がいなくなったら……たぶん養子をとるでしょう。父は野球の得意な男の子を、母は頭が良くて親の言うことに逆らわない従順な男の子を望むでしょうね」
『メリル……それは違う!』
キミのお父さんは本当にキミのことを心配していた! お母さんだってきっと!
今すぐ部室に飛び込んでそう言いたかった。ウルフウッドに掴まれている腕の痛みが、かろうじて短絡的な行動に走ろうとする自分を押さえていた。
それまでのどこか哀しげな声とは打って変わった、穏やかなメリルの声が聞えてきた。
「……ひとつお願いがありますの。……私を刺すのなら、場所を変えて下さいませんか?」
ここは大切な場所なんです。私の血で汚したくありません。だから……
ウルフウッドはヴァッシュの腕を掴んだまま、足音を忍ばせて部室の前から離れた。

ⅩⅡ
「何するんだよ!」
声を潜めての抗議を無視し、ウルフウッドは冷静に状況を分析した。
「犯人は二人、男と女や。ナイフか何か刃物を持っとる。声の感じからして男はドアのすぐ近く、女は少し離れたところにおって具合が悪いらしい」
「だから何!?」
 もしこうしてる間に彼女に万一のことがあったら、俺は……!!
「誘拐されたんは間違いない。けど、警察呼んで気づかれて、立て篭もられたり逆上されたら元も子もないやろ。ええか、……」
ウルフウッドは計画を説明した。
ドアの前でわざと音を立てる。様子を見に男が顔を出したところを一人が取り押さえ、その隙にもう一人が部室に入る。体調を崩している女の動きを封じるのは造作もないだろう。
「どないする? 危ない橋渡るか?」
「当然だ!!」
短い押し問答の末、男を取り押さえるのはウルフウッドの役目になった。より危険な方を敢えて引き受けたのだ。
『やっぱりキミは彼女のこと……』
ヴァッシュはほんの数秒目をきつく閉じて胸の痛みを押し殺した。コートのボタンを外し、ジーパンのポケットから自宅の鍵を取り出す。キーホルダーに鈴がついているのだ。
ウルフウッドがドアに寄り添うようにして立った。ドアノブを掴み小さく肯いたのを見て、ヴァッシュが鍵を放り投げる。
 涼やかな音が辺りに響いた。
「!?」
部室の四人は一斉に息を呑み、ドアへと視線を向けた。男が細めに扉を開け、隙間から外の様子を窺う。
ウルフウッドは勢いよくノブを引いた。男がつられて外に出たところで包丁を叩き落とし、背中を押す。間髪入れずうつ伏せに倒れた男の腕を取ってねじ上げた。
ヴァッシュは男と入れ違いに室内に飛び込んだ。椅子に腰掛けている人とそれを支える人。窓の傍にもう一人いる。
『!』
一言も発していなかった為、窓辺の人物には気がつかなかった。大きな刃物のシルエットが見えたがヴァッシュは構わず突進した。
「駄目!」
メリルは女から離れると出刃包丁を持つ青年の右腕にしがみついた。足はヴァッシュの方が速いのだが、距離が長い分僅かに後れをとった。
「逃げて下さい!」
振りほどかれまいと必死に腕に力を込めながら悲鳴に近い声で懇願する。ヴァッシュも男の腕を掴んだ。
「キミこそ逃げて! 早く!」
「ヴァ……駄目です! 危険ですから」
「だから逃げてって言ってるんだってば!」
「嫌です! あなたこそ早く離れて下さい!」
「嫌だ!」
「あなたまで巻き込まれることはありませんわ!」
不意に青年の身体から力が抜けた。
「……大切……なんだな」
「え?」
短く問い返す声は見事な二重唱になった。
「……俺も……俺も大切だった。……やっと気持ちを伝えて……これからだったのに……どうして…………アイリーン!」
出刃包丁が床に落ち、重い音を立てた。青年は床にうずくまり声を上げて泣いた。
ドアの向こうからウルフウッドの声が聞こえてきた。
「……なあ、アンタかてこれが八つ当たりやて判っとるんやろ? ホンマに悪いんはあの嬢ちゃんでも医者でもない、ひき逃げ犯やて。……中で具合悪そうにしとるのアンタの家族なんか? ……ほうか、大事にしたり。これ以上のうなってしもたら……今よりもっと辛いで」
男の鳴咽が僅かに聞こえる。
「……中の二人連れて早よ帰りいな」
ウルフウッドに付き添われるようにして男が部室に入ってきた。青年の肩に手を置いて言葉少なに励まし、落ち着いたところで妻に歩み寄る。椅子にメリルのコートやユニフォームを置くと、三人はドアのところで一礼して立ち去った。



+++++++++++++++++




暗闇の向こうに


ⅩⅢ
部室にようやく静けさが戻ってきた。が、それもごく短い間のことだった。
「怪我はない!?」
セーラー服の肩を掴んで力任せに揺さぶる。窓から差し込む薄雲に覆われた月の光だけでは目を凝らしてもよく見えない。
「あ……はい、私は何とも……」
ほっとしたのも束の間、ヴァッシュはメリルが小刻みに震えているのに気がついた。指先でそっと触れた手は酷く冷たい。
「身体、冷え切ってるじゃないか!」
上着も着ないで、いつから暖房のない部室にいたのか。急いでコートを脱ごうとして、ヴァッシュはメリルに一喝された。
「駄目です! 肩を冷やさないで下さい!」
驚きに見開かれたブルーグリーンの目が自分を見つめていることにも気づかず、メリルは更に語気を強めた。
「だいたいあなたがあんな危険なことをする必要はなかったんですのよ!? どうして自分からトラブルに首を突っ込むような」
「あ、あは……あはははは」
突然ヴァッシュが笑い出した。メリルはしばらく呆然とした後、先刻以上に声を荒げて詰め寄った。
「聞いてるんですの!? 私は本気で怒ってますのよ!?」
ああ、いつものメリルだ。
ヴァッシュは笑いながらコートの前を開くと、それでメリルを包み込むようにして抱きしめた。小柄な身体は頭のてっぺんから膝の辺りまですっぽりとコートの中に隠れてしまう。
「これならいいでしょ?」
「ヴァ……ヴァッシュさん!?」
くぐもった声が胸元から聞こえてくる。じたばたともがいているのは判ったが、ヴァッシュは腕の力を緩めなかった。
真っ暗で狭くて暖かい空間の中、メリルは顔を真っ赤にして抗議した。身体が密着し、体温が直に伝わってくる。
逃れようにもしっかり抱きすくめられていて身動きが取れない。
「ははは……は……は……っ……」
笑い声が途切れがちになり、嗚咽の声が混じり始めた。腕に更に力を込める。
「……よかった……キミが無事で…………本当によかった……」
頬を伝う涙はコートの襟に吸い込まれ、メリルを濡らすことはなかった。
メリルはもがくのをやめ、頭をそっとヴァッシュの胸にもたれかけさせた。少し早い鼓動が耳に、心に響く。
『母体回帰願望、でしたかしら……』
泣いている乳児に母親の心音を聞かせると落ち着くという。それは、母親の体内というこの世で最も安全で心安らぐ場所に戻ったと錯覚するからだ。
目を閉じる。深呼吸のようにゆっくりと呼吸する。――怒りも戸惑いも、全て薄れて消えてゆく。
 メリルが生きている。それだけで、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
あなたのぬくもりは、どうしてこんなに心地いいんでしょう。
想いは言葉にせず、二人はただ静かに寄り添っていた。メリルの震えがおさまってもヴァッシュは動かなかった。
突然部屋の照明がついてヴァッシュは目をしばたいた。明るさに慣れず、視界が白くハレーションを起こしている。
それでもドアの近くにウルフウッドが立っているのは見えた。
「……もうええか?」
「え……あ! いや、これはその……」
耳まで真っ赤にしてしどろもどろに弁明しながら、ヴァッシュは腕を緩めコートの前を開いた。こちらも顔を赤くしたメリルが静かに一歩退く。
名残惜しいと感じていたのが自分だけではないことを、二人は知る由もなかった。
ウルフウッドは部室に足を踏み入れた。植え込みの傍に置いておいたメリルの鞄を持っている。
「ちっと公衆電話まで行ってきた。アンタを見つけた、無事や、とだけ言っといたから、早よ声聞かせて安心さしたり」
「そうだ! ミリィがキミの家に来てる。お父さんもうちにいる。出張中のお母さんには知らせてないって。二人ともすごく
心配してたから、早く電話電話!」
ヴァッシュに急かされ、メリルは自分の携帯で自宅に電話をかけた。ミリィの泣き声は傍にいる二人にも聞こえた。
三人はタクシーでストライフ家まで移動した。ヴァッシュは自転車を学校の近くに置いてきた。
しがみついて泣きじゃくるミリィをなだめた後、メリルは所在不明・音信不通になった理由を『訳の判らない宗教団体にしつこく勧誘されていた』と説明し、家出でも誘拐でもないと強調した。もっとも翌日、病院に謝罪に訪れたアイリーンの父と恋人の話から嘘だとばれてしまうのだが。
娘の話を聞き終えると、メリルの父は応接間のソファに深く座り直した。背中をこころもち丸め、両手で顔を覆う。
「……まったく……どれだけ心配したと……」
呟く語尾と肩が震える。メリルは蚊の鳴くような声で詫び、深々と頭を下げた。
そしてメリルは周囲に心配と迷惑をかけた罰として、明日から二週間私用の外出を禁じられた。
「……と、部活をどうするか、だな……」
メリルの父は、娘が野球部に入部するのに賛成した数少ない一人であり、試験一週間前から試験が終わるまでを除いて原則的に毎日練習が行なわれることを知っていた。
「学校の一環、ちうことで公用扱いしたって下さい。この人間台風が送り迎えしますよって、心配無用です」
意外な発言に、ヴァッシュとメリルはまじまじとウルフウッドの顔を見た。
「……スタンピード君、お願いできますか」
「はい勿論、喜んで! じゃなくて、責任を持って!」
思わず本音が出てしまったのを慌てて言い繕い、ヴァッシュは元気よく請け負った。
「明日は九時集合だから、少し早めに八時頃迎えに来るね」
「あ……はい、判りました」
話の流れにのせられたメリルはヴァッシュの言葉に肯いた。
ミリィはメリルの父が車で送ることになった。ヴァッシュとウルフウッドも同乗を勧められたが、方向が違うということで二人とも辞退した。
「キミ……どういうつもり?」
不信の念を顕わにしたメリル専属の送迎係に睨まれても、ウルフウッドはいつもと変わらぬ口調で短く答えただけだった。
「明日になったら判る」

ⅩⅣ
翌朝、部室の前でヴァッシュとメリルは意外な人物にばったり出くわした。
「ウルフウッド!?」
「おはようさん。ちょうどええ、ワイ、アンタに言わなあかんことがあるんや。……すまんかったな」
いきなり謝られ、メリルは目を丸くして黒い瞳を見上げた。自分を見る時にはいつも宿っていた冷たい光が消えている。
「……ワイ、赤ん坊の時に親に捨てられて施設で育ったんや。今の両親に引き取られたんが七つの時やった。……優しい人達でな、ワイとおんなじような境遇の子を他にも四人育てとる。お陰で暮らしはカツカツなんやけどな」
中学を卒業したら働く。そう固く決心していたウルフウッドを説得したのはその両親だった。中卒で社会に出ても世間は厳しい、せめて高校まで出て欲しい、と。
「で、高校に入ったんやけど……」
九月のある日、両親を偽善者呼ばわりされたウルフウッドは部活の先輩をぼこぼこにした。
 彼にとって不運だったのは、その先輩の親が学校の理事だったことである。
 退学者を出せば学校の名に傷がつく、厄介者は転校させてしまえばいい。喧嘩の原因を知った校長は、そう言って退学を主張する親をなだめた。そして、自分と繋がりのある学校の中からトライガン学園を選び、去年までの野球部の成績を見せて説得した。
「ここなら彼も実力を発揮しようがない、まともな野球ができなくなることが彼に対する最大の罰です、ってな。あの校長、とんだ食わせ者やで」
こき下ろすような口調とは裏腹に、ウルフウッドは笑っている。
「……もしかして、キミがぼこぼこにした先輩って……」
「野球部や」
野球は嫌いじゃないけど野球部には近づかない、その理由はこれだったのか。それこそ八つ当たりで、あの人に説教なんかできる筋合いはないじゃないか……。ヴァッシュはがっくりと肩を落とした。
仕事の都合上家族全員で引っ越すのは不可能だったので、ウルフウッドは一人暮らしをすることになった。せめて自分の生活費くらいは自分で稼ぎたくて、体験入部をくり返すことを思いついた。
「そのこととさっきの謝罪と、どう結びつくんですの?」
「……ワイ、アンタのことが疎ましかったんや。嫉妬しとったのかも知れん」
両親が医者ということは、家は裕福とみて間違いない。金持ちの家に生まれ、勉強は学年トップ、スポーツも得意、おまけに器量良し。自分達のような子供がいる反面、どうしてこんなに恵まれた子供が存在するのか。
「才色兼備の上に親は金持ち……ムカついたわ。けどな、ワイはアンタの上っ面だけ見て、アンタのことを嫌な奴やと決めつけとったっちうことに気がついたんや。アンタ自身を見てへんかったことにな」
プロフィールを全部取り除いてみる。両親の愛情を感じられずに育った女の子が、辛い状況でも周囲の人を思いやる強さの持ち主がそこにいた。
「辛く当たって、ホンマ悪かった思っとる。堪忍な。…………で、先入観を取っ払ってから、あん時アンタが提案したことをもいっぺん考えてみた。『阿呆らし』思うけど、このどーしようもないお人好しがおるんやったらできそうな気がしてきてな、のせられることにしたわ」
ウルフウッドはポケットから封筒を取り出した。メリルが顧問に提出した退部届。
「さっき入部届を出してきた。コイツと引き換えにな」
「それじゃ……」
二人の目の前で封筒を破ると、ウルフウッドはそれをメリルに渡した。
「これ、ほかしといてんか、マネージャー」
「……ほかし……?」
「あ、と……捨てといてっちうことや。ついでに鍵開けてくれ」
「……はい!」
満面の笑顔で答えると、メリルは部室の鍵を出し扉を開けた。
部室で、ヴァッシュは少し離れたところで前の学校のユニフォームに着替えているウルフウッドに尋ねた。
「あのさ……メリルはキミに何て提案したの?」
「何や、全部聞いとったんやなかったんか」
 七年近くかけて大学まで出て一流企業に就職しても、お給料なんてたかが知れてます。二十歳前後の若者が億万長者になる方法は三つ、宝くじやギャンブルで幸運を掴む、犯罪に手を染める、そしてプロのスポーツ選手になって契約金をたくさん貰う。……あなたの最大の武器はその強肩ですわ。今日本で一番契約金や年俸が高いのはプロ野球ですし、あなたの長所を最大限に生かせます。プロへの足がかりとして、トライガン学園野球部で甲子園を目指しませんこと?
「……題して『五年で年収一億円突破するぞ計画』やて。阿呆らしいやろ? オドレの投球見てへんかったら脳みそ疑ったわ」
『告白じゃなかったんだ……』
ヴァッシュは腹を抱えて爆笑した。メリルの突拍子もない話と、自分の間抜けなカン違いに。
「ま、億万長者になる方法はもう一つある、思うけどな」
「何、何?」
「逆玉の輿」
ぴたりと笑いが止まった。
「ホストっちう手もあんねんけど、ワイに女のご機嫌取りなんてできそうにあらへんし……」
ウルフウッドの自己分析はヴァッシュの耳には届かなかった。新たな疑問が首をもたげる。
『まさか……でも、さっきはメリルのこと誉めてたし、メリルの家ってお金持ちみたいだし……』
キミはメリルのことをどう思ってる?
訊きたくて、訊けない。心に芽生えた疑問を否定することもできない。ヴァッシュは顔を曇らせると小さく吐息した。
かわりに違う質問をしてみる。
「どうしてキミはあの時ドアを引く方を引き受けたの?」
計画の時点では一番危険なのはウルフウッドだった。結果的にはヴァッシュやメリルの方が危なかったが。
「ワイはスポーツ全般得意やけど……一番得意なんは喧嘩なんや。履歴書には書けへんけどな」
小さい頃から、自分や両親をコケにした奴と弟妹を苛めた奴を誰彼構わず叩きのめしてきた結果である。
「オドレが怪我したら、例の計画が頓挫してまうかも知れへんやろ?」
「……つまり、キミ自身の為だった訳ね……」
再びため息をついたヴァッシュに、ウルフウッドは無言のまま不敵な笑みを返した。



+++++++++++




暗闇の向こうに


ⅩⅤ
 ヴァッシュは毎朝メリルを自宅まで迎えに行き、夕方自宅まで送り届けた。自転車の後ろに小柄な彼女を乗せペダルを踏む。走行速度を厳守し、安全運転を心がける。実は同級生との二人乗り自体違法行為なのだが。
「ごめんなさい、重いでしょう」
「全然!」
トライガン学園は小高い山の中腹に建っている。行きは上り坂になるので少々きついが、帰りはその分楽だ。
ある日の朝、上り坂にさしかかる少し手前でメリルはヴァッシュを呼んだ。
「何?」
「昨日の夕刊はご覧になりまして?」
「ううん。どうして?」
「……ひき逃げ犯がつかまったそうですわ」
その後学校に着くまでの間、二人は黙ったままアイリーンの冥福と、残された両親と恋人の悲しみが少しでも癒されることを祈った。
別の日の帰り道。
「キミの話し方って独特だよね。キミのお父さんとも違うし、もしかしてお母さんの影響?」
「いえ、これは祖母の影響ですわ」
女児誕生。その一報はストライフ家と親戚に、喜びとそれ以上に大きい落胆をもたらした。五体満足で無事生まれたものの、男児ではなかったからである。メリルは小さい頃から、親戚と顔を合わせる度に『お前が男だったらよかったのに』と言われ続けた。
彼女が生まれて間もなく、メリルの母は仕事を再開した。男児を産めなかった後ろめたさからか、出産前より熱心に仕事をこなし、病院拡大に着手した。当然子供の面倒などみる時間はない。
「ですから、私は小学校に入学するまで祖父母に育てられましたの」
「それじゃ信心深いのもおばあさんの影響なのかな?」
「え?」
「七月に熊野宮神社にお参りしてたでしょ」
「み……見てらしたんですの!?」
「ちらっとね。偶然通りがかっただけ」
これは半分嘘。
 ある日の夕方自主練でスペシャル外回りを走っていて、ヴァッシュは長い階段を降りてくる足音に咄嗟に身を隠した。このコースは何度も走っているが、参拝客に行き合わせたことはこれまで一度もない。この春、熊野宮神社に到る山道に『痴漢注意』の看板が立てられていたことを思い出して、念の為用心したのだ。
木の陰から様子を窺う。息を切らして駆け降りてきたのはセーラー服姿のメリルだった。ヴァッシュに気づくこともなく後ろ姿が小さくなってゆく。
足音が聞こえなくなっても、ヴァッシュはその場にとどまった。運動ならそれに相応しい格好をする筈。ただの参拝なら走る必要はない。額の汗は気温のせいだけとは思えない量だった。案の定、メリルは再び階段を駆け登ってきた。
ヴァッシュは木陰に腰を下ろして目を閉じた。耳に意識を集中する。もしメリルに何かあったらすぐに判るように、すぐに駆けつけられるように。
階段を八往復した後、メリルは立ち去った。姿を見られないよう距離をとってついていき、駅まで無事到着したのを見届けた。ほっと安堵のため息をついた時には食事会の約束の時刻はとっくにすぎていた。
メリルが毎日朝練の前にお参りしていることにヴァッシュは気がついた。夕方のお参りは時間に余裕がある時だけのようだ。
「ありがとう……。俺、頑張るから」
地区予選の前に奉納したらしい絵馬に額を当て、ヴァッシュは小さな声で呟いた。――
ある日ふと思いついて、ヴァッシュはなかなか行動を起こさないウルフウッドを何故あそこまで信頼できたのか尋ねてみた。
「私が退部届を出してから部活休止期間までの間、あの人はどの部にも入らなかったんです。試験前の最後の稼ぎ時だった筈なのに……。時間はかかるかも知れませんが、あの人は必ず約束を守ってくれると思いました」
ヴァッシュが気づかなかったことをメリルはちゃんと見ていたのだ。
「なるほどねぇ……」
本当にそれだけ? 心にわだかまる疑問は言葉にはできない。
「でも、自分が野球部に戻れるなんて思ってもみませんでしたわ」
嬉しそうなメリルの声が今はヴァッシュの心に重く響いた。
「どうしてウルフウッドはキミに二週間の猶予をくれたんだろう」
ある日、ヴァッシュはかねてから抱いていた疑問を口にした。嫌がらせなら即答を迫るだろうと思ったのだ。
メリルがウルフウッドに交渉する時間を貰う代償は、学食の一番高い食券十枚だった。
「……昼食を学校で摂るのは月曜から金曜まで、食券十枚で二週間分の昼食を確保できたことになりますわ。全部使い切るまでは待ってやる、そういう意味だったんじゃないでしょうか」
「はあ……何ていうか、律義だね」
その他、冬の合宿で食べたいもののリクエストを訊かれ『ドーナツ』と答えて却下されたり、簡単でおいしい料理のレシピをメリルに教えて貰ったり……
いろいろな話をしながら、二人を乗せた自転車は走っていく。
八日目の朝のことである。
「メリル」
名前を呼ばれただけなのに、メリルは心底驚いた。理由は二つ。一つは、名前を呼んだのが自分のことをずっと『マネージャー』と呼んでいたヴァッシュだったから。もう一つは、彼の声がいつになく真面目だったから。
「……あの時、中の様子を探る為とはいえ、俺……キミの話を盗み聞きしちゃったんだよね」
父親のことはともかく、自分の心情は聞かれたくなかった筈。
「……だから……お詫びって訳じゃないんだけど、俺の話……聞いてくれるかな」
メリルは一度深呼吸をしてから、短く了承の意を示した。
「俺の父さんが再婚したって話は伯母さんから聞いたよね。……」
それからヴァッシュは、毎日少しずつ自分のことをメリルに話した。

エピローグ
ヴァッシュの父は仕事熱心で、あまり家にいない人だった。出張も多く、何日も帰らないことが度々あったのだが。
彼が五年生に進級したばかりの四月のある日を境に、ヴァッシュの父は全く家に帰って来なくなった。心なしか母親の表情が暗い。
「一ヶ月くらい経って『これは変だぞ』って思い始めた時に、母さんから聞かされたんだ。……父さんが家を出ていったって……」
別居する理由については何も説明がなかった。初めて見る母の泣き顔に、『どうして?』とは訊けなかった。
「……ちょうどその頃、俺、ちょっと問題を起こしてね……」
その時自分が何をやったのか、実はよく覚えていない。恐怖と嫌悪の入り交じった複数の目が自分を見つめていたことだけが鮮明に記憶に残っている。
いろいろな噂が飛び交い、友達が何人も自分から離れていった。それはとても悲しいことだったけれど。
「その時ふと思ったんだ。もしかしたら、父さんが俺を叱りに戻って来てくれるんじゃないかって。……」
淡い期待は裏切られた。母が連絡したにもかかわらず、父はヴァッシュに電話すらよこさなかった。
「……父さんは俺のことが嫌いなんだ、俺がいるから出ていったんだ……そう思った」
拒絶されたことが辛くて痛くて、でもそれを表に出すことはできなくて、ヴァッシュは熱を出して寝込んだ。
体調が回復すると、ヴァッシュは勉強も運動もそれまで以上に頑張るようになった。自分がいい子になれば父親が戻って来てくれる気がして。
「……俺には双子の兄がいるんだ。名前は多分キミも知ってると思う」
ミリオンズ・ナイブズ。GUNG―HO―GUNS大付属高校の一年生ピッチャー。勿論メリルもその名は知っていた。
 夏の甲子園で、優勝旗を受け取る時でさえ無表情だった男の顔が脳裏に浮かぶ。顔立ちだけを比べてみれば、二人は確かに酷似している。
 小学六年の時、GUNG―HO―GUNS大付属中学校へ特待生として入学させたい、という話が二人のところにきた。特待生専用の寮に入り、学費は勿論生活費も全て学校が負担するという破格の待遇だった。
 ナイブズは快諾し、ヴァッシュは断った。自分達の前では笑い夜密かに泣いている母親を一人にしたくなかった。
二人が小学校を卒業するのを待って両親が離婚した。卒業式に父の姿はなく、式が終わるとナイブズはそのまま中学校の寮に移った。二年前まで四人家族だった家に、今は二人しかいない。
父に続いて兄にも見放された。そう思ったヴァッシュは再び高熱を出して床に臥した。
「……俺達も、最初に野球を教わったのは父さんからなんだ。だから、父さんやナイブズと離れ離れになっても野球をやめるつもりは毛頭なかった」
それが唯一の絆のように思えて。
地元の中学校に入学したヴァッシュは野球部に入り、ピッチャーとしてめざましい活躍をした。しかし、リトルリーグでバッテリーを組んでいた兄はいない。ナイブズと肩を並べる実力の持ち主は野球部にはいなかった。誰にも言わなかったが、彼は全力で投げてはいなかった。
中学三年の夏、父が再婚した。
「別居した理由って、たぶんその女の人だったんだろうね」
 これで両親がやり直す可能性はほぼゼロになった。ヴァッシュはまたも高熱にうなされた。
 ヴァッシュの母は九年間住んだ家を手放し、自分が生まれ育った土地に戻ることを決めた。
再びヴァッシュにGUNG―HO―GUNS大付属高校の特待生入学の話が持ちかけられた。三年前と同様の待遇を提示されたが、ヴァッシュは断った。
「……俺、野球やめるつもりだったんだ。どうして野球をやってるのか判らなくなっちゃって……」
予想だにしなかった言葉に、メリルは思わず息を呑んだ。その気配を察したのだろう、ヴァッシュは笑いながらつけ加えた。
「だってそうでしょ? 本気で野球をやろう、甲子園を目指そうって奴は、間違ってもトライガン学園を志望校にはしないと思うよ」
冗談を言っているような明るい声が哀しくて、メリルはヴァッシュを抱きしめるように彼のウエストのあたりに回した腕に力を込めた。
入試も無事突破し、ヴァッシュはトライガン学園に入学した。
今まで野球部以外の部に所属するなんて考えたこともなかった。運動部だけでなく文化部も見学したのだが、どうしても野球部に目が行ってしまう。
「……で、ようやく気がついたんだ。父さんから教わったからとか、ナイブズがやっているからとかじゃなく、俺は野球そのものが好きなんだって」
ヴァッシュは二年と三年を合わせても八人しかいない野球部に入部した。――
メリルの私用外出禁止最後の日に、ヴァッシュの長い話は終わった。
「……ありがとう、話を聞いてくれて」
メリルの家の前で、ヴァッシュは門の前に立つマネージャーに礼を言った。
「……実はさ、キミがトライガン学園に入学したいきさつを、前にミリィから聞いてたんだ。……あ、あの子を怒らないでやってね! 俺が無理矢理聞き出したんだから!」
「大丈夫ですわ。私、怒ってませんから」
本気でうろたえているクラスメイトに、メリルは苦笑しながら答えた。その言葉と表情にヴァッシュがほっと息を吐く。
「……お互いいろんなことがあって今に到る訳だけど……楽しいことばっかりじゃなかったけど……俺は、ここに来られてよかったって思ってる」
キミに会えて。声には出せず、心の中でそっとつけ足す。
「ええ。……私も、そう思います」
台詞の後半は呟くような小さな声。でもヴァッシュはそれを聞き逃さなかった。
目を細めて優しく微笑む男の視線に気づいて、メリルは頬を染めると俯いた。
「今日でお役御免かぁ」
ため息交じりの明るい声にそっと顔を上げる。星空を眺めている横顔が見えた。
「ごめんなさい、二週間も遠まわりさせてしまって……」
「ご、ごめん! そんなつもりで言ったんじゃないんだ! ウルフウッドにのせられた形なのはちょっと癪だけど、いろいろ話ができて……嬉しかった」
メリルの柔らかな表情に、今度はヴァッシュが赤面した。慌てて自転車にまたがる。
「あ、さ、寒いのにこんなところで立ち話なんかしちゃってごめん。早くあったかくしてね。それじゃ!」
早口でまくしたてるように言い手を挙げて挨拶すると、ヴァッシュは思いっきりペダルを踏んだ。後ろ姿がみるみるうちに小さくなっていく。
姿が見えなくなっても、メリルは微笑みながらヴァッシュが走り去った方向を見つめていた。
vp7


暗闇の向こうに

プロローグ


部室でユニフォームに着替えたヴァッシュは、心とは裏腹に軽い足取りで校庭に向かった。ようやく通常どおりの練習をこなせるまで体調が回復したのだ。
自分を気遣う声に笑顔で答え、ウォーミングアップをしながらそれとなく辺りを見回す。
「……あれ?」
いつもなら校庭のどこかにいる筈のマネージャーの姿がない。
『先生と話でもしてるのかな』
顧問との打ち合わせや、部員全員が着替えを済ませた後で部室の掃除をしていて、メリルが遅れてくることはこれまでにも度々あった。
 別に珍しいことじゃない。もうじき来るだろう。その時ヴァッシュは事態を深刻に捉えてはいなかった。
部活が終わった後、ヴァッシュは主将に一緒に顧問のところへ行くよう言われた。着替えを済ませ、二人で職員室に向かう。
廊下を歩きながらヴァッシュは小声でギリアムに尋ねた。
「何かあったんですか?」
「俺も知らないんだ。だが、楽しいことじゃなさそうだぞ」
部活が終わったらスタンピードと一緒に職員室に来い。そう言った時の顧問の表情を思い起こし、ギリアムは眉を顰めた。
「……来たか」
二人を迎えた顧問の顔は暗かった。ヴァッシュ達は固唾を飲んで次の言葉を待った。
「まずはこれを見てくれ」
顧問は広げた便箋と封筒を二人の前に掲げた。
「退部届……」
「マネージャーが!?」
間違いなくメリルの字だった。合宿の時と同じく、用件が簡潔に綴られている。異なるのは日付と、署名があること。
「理由を訊いたんだが、答えなかった」
遅まきながらヴァッシュは気がついた。自分が倒れてから二週間が経過したことを。ウルフウッドが指定した期限が今日だったことを。
「FDと部室の鍵も渡された。FDには新しい練習メニューなんかが入っていた」
便箋を封筒に戻すと、顧問はそれをひらひらと振った。
「こいつは『一応預かる』とだけ言っておいた。鍵はその場で返して、今もマネージャーが持ってる。皆には『家の都合でしばらく部活を休む』と説明しようと思う。幸いもうすぐ部活そのものが休止になるしな」
定期考査の一週間前から終了まで、原則として部活は全て行なわれなくなる。試合を控えた運動部の生徒が僅かに例外として認められる程度だ。
「鍵を受け取ったってことは、野球部そのものが嫌になった訳じゃないんだろうが……。何か心当たりはないか?」
「半月くらい前から元気がないなとは思ってましたが、訊いてもいつもはぐらかされてしまって……。ヴァッシュ、クラスでもあんな感じなのか?」
主将の声はヴァッシュの耳には届いていなかった。肩を揺さぶられて我に返る。
「あ……す、すみません」
ギリアムはもう一度質問をくり返した。
「……クラスの誰かと喧嘩したとか、もめているようなことは……ないと思います……」
「すると家のことか。あの条件をクリアできなかったのかも知れんな」
「でも、それならはっきりと理由を説明するんじゃないでしょうか。鍵を受け取ったっていうのも不自然ですし……」
二人の憶測が的外れだと判っていたが、ヴァッシュは自分が見聞きしたことを話す気にはなれなかった。




+++++++++++



暗闇の向こうに


期末試験一週間前に突入した木曜日。さすがにスカウト合戦も行なわれず、ウルフウッドは久しぶりに静かな学校生活を送ることができた。何かと引っ掻き回してくれる人間台風も、ここ数日は声をかけてこない。
後に彼は、心を乱すものは学校以外にも存在し得る、という事実を思い起こすことになる。
帰宅途中、突然自分のものではない英和辞典が足元に落ちてきて、ウルフウッドは思わず立ち止まった。首を巡らせ、すぐ傍の歩道橋の階段に目をやる。教科書・ノート・ペンケース等々、学生の持ち物が散乱していた。
更に視線を上げる。手すりをしっかりと掴んだ少女の背中が見えた。振り向いた水色の瞳がウルフウッドを見つめる。
「すす、すみませ~ん!」
頭のてっぺんから出ているような高い声にいきなり謝られ、ウルフウッドは僅かに眉を顰めた。辞典は当たらなかった。少々驚きはしたが、詫びて貰うほどのことでもない。
「手伝って下さ~い!」
先刻の発言は謝罪ではなく、実は依頼の枕詞だったのだ。
ウルフウッドは吐息した。トンガリ頭のお人好しの親切ごっこに付き合わされた記憶が蘇る。
『歩道橋は鬼門なんやろか……』
内心ぼやいたもののそのまま立ち去ることもできず、重い足取りで階段を昇る。少女の隣まで行って、ウルフウッドはようやく事態を理解した。
仰向けに倒れそうな不安定な姿勢で、少女は左手で手すりを握り締め、右腕で小柄な老婦人の身体を抱きかかえていた。階段で転倒した老婦人を咄嗟に受け止めたまではよかったが、身動きが取れなくなってしまったのだろう。バランスが崩れれば二人とも階段の下まで転げ落ちてしまう。
ウルフウッドは意外に大柄な少女の背中に左腕を回した。二人分の体重をものともせずそのままぐいと押し上げ、仰向けの体勢を前のめりに近い形までもっていく。老婦人は階段に腰掛け、少女はその傍らに右腕をついて膝立ちになった。
「はあ~」
少女が大きく安堵のため息をついた。と、次の瞬間には立ち上がり、直立不動の姿勢をとる。
「ありがとうございました!」
勢いよく頭が下げられ、ワンテンポ遅れて金髪が揺れた。頭突きにならなかったのは、ウルフウッドが己の反射神経を存分に生かして身を引いたからである。
「あのぅ……」
遠慮がちな声に、少女は今度は勢いよく振り返った。
「ああっ、おばあさん大丈夫ですか!? 怪我はないですか!?」
「は、はい」
少女の剣幕に押され、老婦人は小さく肯いた。少女が嬉しそうに微笑む。
「よかったあ……。あ、気をつけて下さいね。けっこう急ですから」
言いながら、少女は老婦人の手を取り一緒に階段を降りていった。歩道で手を振りながら、遠ざかる後ろ姿を見送る。
ウルフウッドは教科書などを拾いながら階段を降りた。慌てた様子で鞄に次々と荷物を放り込んでいる少女に差し出す。
少女は重ねられた教科書やノートを受け取ると、にっこり笑って礼を言った。
「ありがとうございます!」
『……!』
その表情にウルフウッドの目は釘付けになった。屈託のない、まるで赤ん坊のような笑顔。
「ああっ、もうこんな時間! すみません、あたし急いでるんで失礼します!」
受け取ったものを鞄に入れる時に腕時計が見えたのだろう。少女は周囲の迷惑を省みず大声で叫ぶと、深々と一礼して猛然と走り出した。後ろ姿はすぐに人込みに紛れて見えなくなった。
「……何ちうか……パワフルな子やな……」
率直な感想を我知らず呟いたウルフウッドは、ふと視界の隅に光る物があるのに気づいてそれに近づいた。
屈み込んで拾い上げる。大きな銀色の鈴をつけた鍵だった。
『さっきの子の落としもんやろな……』
腕時計で時刻を確認し、しばらく思案する。すっくと立ちあがると、ウルフウッドは歩道橋のすぐ傍のガードレールにもたれかかった。
『三十分だけや』


何をするでもなくウルフウッドはじっと待った。再び会える保証など何もない。それなのに何故待つ気になったのか、彼自身にも判らなかった。
四十分ほど経過した頃、人込みの中にあの顔を見つけてウルフウッドは足早に近づいた。約十分の誤差はこの際黙殺することにして。
「よう」
「ひゃあっ!」
悲鳴に通りすがりの人々が思わず振り返った。こちらに向けられる視線が痛い。
少女と目が合う。途端に少女はウルフウッドに微笑みかけた。
「あ、さっきの関節な人」
カンセツ……? ウルフウッドは内心戸惑った。さっぱり意味が判らない。
「さっきは助けて下さってありがとうございました!」
また頭を下げようとするのをウルフウッドは手で制した。カンセツの意味を考えるのをとりあえず中断する。
「ええて。そんななんべんも礼言わんでも。それよりこれ、アンタのとちゃう?」
拾った鈴付きの鍵を差し出す。
「はいっそうです、あたしのです!」
自分の手ごと鍵を握り締められ、ウルフウッドは小さく呻いた。手のひらに鍵の尖った部分が刺さり、手全体を力一杯圧迫されている。どちらも痛い。
「あの時落としたの、拾ってくれたんですよね? ……もしかして、ずっとここで待っててくれたんですか?」
答えはなかったが、ミリィは嬉しそうに笑った。
ぶんぶんと腕を振り回されたが、ウルフウッドは手の痛みを忘れていた。自分に向けられている笑顔の為に。
「ほんとにほんとにありがとうございますっ!」
ようやく呪縛から解放され、自分より少しだけ小さい手に鍵を載せる。赤くなった手を見られないよう、さりげなくポケットに突っ込んだ。
「……何でそないににこにこ笑えるんや……?」
落としもん拾っただけやんか。
少女は目を丸くしてウルフウッドを見つめたが、やがてにぱっと笑って説明した。
「嬉しいからです! 誰かに優しくしてもらったら嬉しいですよね!」
誰かに『ありがとう』って言ってもらうのも嬉しいですけど。続いた台詞はウルフウッドの耳を素通りした。
この笑顔が見たかったんやな……。ウルフウッドはようやく自分の行動の理由を悟った。つられるように自然と口元に笑みが浮かぶ。
「その制服、トライガン学園のですよね?」
「ああ、せやけど……」
少女がまた嬉しそうににっこり笑った。見ているだけで心が暖かくなる。
「トライガン学園って優しい人がいっぱいいるんですねぇ。これなら先輩ものーぷろぐらむ、毎日楽しく学校に通えます!」
「先輩?」
「はいっ、あたしの大っ好きな先輩がトライガン学園に通ってるんです!」
ウルフウッドはみぞおちの辺りが急に重くなったのを自覚した。先刻まで感じていた暖かさも消えてしまった。
「あ、あたし、ドレイクちゃんを迎えに行かなきゃならないんです! 失礼します! ほんとにありがとうございました!」
再び深くお辞儀をすると少女は駆け出した。あっという間に姿が見えなくなる。
「……名前、訊きそびれてしもた……」
訊いてどないすんねん。心の中で自分にツッコミを入れつつ、ウルフウッドは釈然としない気持ちのまま自宅目指して歩き始めた。







++++++++




暗闇の向こうに


「もーいーくつ寝ーるーとー、きーまーつーしーけ~~ん♪」
能天気に笑えない替え歌を歌ったクラスメイトが、悪友に容赦ない関節技を食らって悲鳴を上げる。が、いつもなら乱入して騒ぎを大きくするヴァッシュが、今は机に突っ伏したまま起き上がろうともしない。腑抜けた顔でぼんやりと眺めているだけだ。
「ヴァッシュ~、どうしたんだよ。まあだ調子悪いのか?」
いつの間にかじゃれあっていた筈の二人が自分の席の前に立っていて、ヴァッシュは慌てて飛び起きた。声をかけられるまで気がつかなかった。
「え……ううん、もう大丈夫! アイムファインセンキュウ!」
両腕を上げてまずはガッツポーズ、続けてボディビルダーのようなポーズを次々ととる。しかし二人の怪訝そうな表情は変わらなかった。
「……お前……いつからマッスル愛好家になったんだ?」
「いや~、僕はマッスルより野球でハッスルするほうが好きだな~」
「で、古文と漢文に膝を屈するんだよな」
「上手い、座布団一枚!」
「笑点やってるんじゃないんだから……」
「事実だろ?」
鋭い指摘に頬を膨らませたものの、ヴァッシュは反論できなかった。にわかトリオの漫才に周囲から笑いが起こる。
ヴァッシュは教卓に近いメリルの席に視線を走らせた。椅子に腰掛けた後ろ姿しか見えない。この騒ぎが聞こえない筈はないのに振り向きもしない。
隣に視線を移す。我関せず、といった雰囲気でウルフウッドは教科書を開いている。一夜漬けなのかも知れない。
期末試験は明日木曜日から始まる。土曜日までの三日間は灰色の生活だが、それが終われば試験休みに冬休み。クリスマスとお正月も控えている。これで成績表と宿題がなければ幸せなのだろうが。
マネージャーが退部届を出してから一週間余りが経過した。表情は相変わらず暗く、口数もめっきり減っている。ヴァッシュもギリアムも何度か話をしようとしたのだが、それを察したメリルが席を立ったり他の誰かに話しかけたりしてしまうので、二人ともずっときっかけを掴めずにいた。
ウルフウッドのほうにも動きはない。野球部には近づかないし、ヴァッシュの見る限りメリルと親しくなったようにも思えない。お互い顔を見ようともしないのだ、むしろ今まで以上に疎遠になったような気さえする。
『どういうつもりなんだ……』
自分の疑問と苛立ちが全てウルフウッドに向けられていることをヴァッシュは自覚していた。その臨界点が近いということも。
その日の放課後、ヴァッシュはウルフウッドに『話がある』と声をかけた。いつになく固い表情にウルフウッドは軽く眉を上げ、無言のまま肯いた。
二人が向かったのは野球部の部室だった。部員で鍵を持っているのは主将とマネージャーだけなので、ヴァッシュはドアの前で足を止めた。ここなら人が来ることはまずない。
「何や、こないなところに連れて来て」
口の端を僅かに上げてウルフウッドが問いかける。ふてぶてしく見える笑みにヴァッシュの神経は逆なでされた。
「キミ……どういうつもりなんだよ……」
普段より低い声。それが怒りを押さえているからだと目の前の男は判っているだろうか。
「どうって……何がや」
「……マネージャーは結論を出した。退部届を出したんだ! それなのにキミは……!」
「……話、聞いとったんか。立ち聞きとはずいぶん悪趣味なことするんやな」
揶揄するような口調。ヴァッシュの頭に血が上った。
「平気で約束を破る奴に言われたくない!」
「……ワイは『考えてもええ』て言うたんや。約束した覚えはあらへん」
次の瞬間、鈍い音と同時にウルフウッドの身体は大きく揺らいだ。


いい奴だと思ってた。子供に優しくて、親を大切にしていて。それなのに……
「ウルフウウーッド!! …………おまえッ……!」
それ以上は言葉にならなかった。固く握り締めた拳を震わせながら、ヴァッシュはその場に立ち尽くした。
左の頬を腫らしたウルフウッドがゆっくりと姿勢を戻し、ヴァッシュを睨みつける。嵐の前の静けさを思わせる沈黙の時間。
「やめて下さい!」
緊迫した雰囲気は悲鳴のような声に破られた。
ヴァッシュはいきなり後ろから抱きすくめられた。みぞおちの辺りに回された華奢な腕。それが誰のものなのか、目で確認するまでもなかった。
「マネージャー……」
呟くような声で呼んでみる。が、左腕の横から覗いている顔がヴァッシュに向けられることはなかった。
「ウルフウッドさん、行って下さい! 早く!」
私ではこの人を止められない。だから早く。
小さく肯くとウルフウッドは踵を返した。そのまま早足に去ってゆく。
「ま……待てッ!」
「駄目!」
本当は、腕を振りほどくこともそのままの体勢で後を追うこともできた。しかしヴァッシュは必死に自分にしがみつくメリルの姿に怒りが急速にしぼんでいくのを感じた。ため息と共に全身の力が抜けていく。
「……どうして……」
あんな奴を庇うんだ。やっぱりキミはアイツのことを……
メリルはそっと腕を緩めるとヴァッシュから離れた。ウルフウッドの姿はもう見えなくなっている。
「ごめんなさい、後を尾けたりして。……あなたが……とても恐い顔をしてたから……」
顔を背けたままメリルは謝った。辛そうな横顔がヴァッシュの胸を締め付ける。
いつも相手の目をまっすぐに見て話をしていた彼女。それが今はこちらを見ようともしない。
「……キミとも話がしたかったんだ。……どうして」
「ごめんなさい! 私、帰らないと」
逃げるように走り出したメリルの肩を掴むと、ヴァッシュは強引に自分のほうを向かせた。俯いてしまったメリルの表情は見えない。
「キミが野球部をやめることはない! さっきので判っただろ!? アイツは約束を守るつもりなんてないんだ!!」
「……あの時……聞いてらしたんですの?」
動揺したヴァッシュの隙を突いて、メリルは逞しい腕を振り払いヴァッシュから離れた。
「……最後の……ところだけ」
「……誰かに約束を守って欲しいなら、まず自分が約束を守らなければいけませんわ」
相手が自分の思うとおりに行動しないからといって、こちらから約束を破棄するようなことはできない。それでは相手の信頼は永遠に得られない。
メリルの口元が微妙に歪んだ。微笑むように、自嘲するように。
「詰めが甘かったのは失敗でしたけど……私はまだ諦めていませんの」
自分が退部届を出した後のウルフウッドの言動を思い起こす。ともすると見逃してしまいそうなほどささやかな、それまでとは異なる対応。あれは……
「……マネージャー……」
「元、ですわ」
メリルはようやく顔を上げ、ヴァッシュを見つめた。
「……お願いですから喧嘩なんてしないで下さい。怪我でもしたらどうするんですか。……それに、この世はラブ&ピース、なのでしょう?」
微笑んでいるのに哀しそうに見える表情。僅かに語尾が震えた。
「私……もう帰ります。……さよなら」
走り去るメリルをヴァッシュは追うことができなかった。最後のたった四文字の言葉が心に重くのしかかった。



暗闇の向こうに


苦行に近い三日間が終わった。最後のテストの終了を告げるチャイムが鳴った時、誰もが心の中で歓喜の叫びを上げたことだろう。
部活も今日から解禁になる。放課後、校庭や体育館に久しぶりに生徒達の声が戻ってきた。
「なあヴァッシュ、マネージャーどうかしたのか?」
顧問からの簡単な説明では納得できないのだろう。ウォーミングアップをしながら、ヴァッシュは先輩同輩関係なくかわるがわる同じことを訊かれた。一年生の部員は他にもいるが、メリルと同じクラスなのは彼だけだった。
「僕も知りたいんですよ……」
誰に尋ねられても曖昧な笑顔で同じ台詞を返す。
「主将も知らないって言うしなあ……」
首をかしげながらも、部員達はヴァッシュから離れていった。
練習再開初日ということもあり、その日は比較的軽いメニューで早めに終了した。西の空にはまだ赤みが残っている。
「お疲れ様でしたー!」
全員で挨拶して部室に向かう。着替えながらヴァッシュは小さくため息をついた。
自宅に戻ると、ヴァッシュはいつものようにバスルームに向かった。制服を脱ぎ、全身を泡だらけにして汗を流す。
セーターにジーンズというラフな格好に着替え、タオルで濡れた髪をごしごし拭う。何か飲もうと冷蔵庫に行きかけて、留守電のランプが点滅しているのに気づく。
件数表示を見てぎょっとする。七件。
スタンピード家に電話がかかってくることはあまりない。大抵は母宛の仕事の話で、ヴァッシュ宛には母から『帰りが遅くなる』旨の連絡がたまにあるくらいだ。
朝家を出る時には留守録は一件もなかった。ヴァッシュは慌てて留守録を解除した。
『ヴァッシュさん、先輩が来ないんです』
『携帯に電話しても連絡が取れなくて』
『先輩、急用ができたとか言ってませんでしたか?』
メッセージは全てミリィからだった。状況がよく判らないまま、ヴァッシュはミリィの自宅に電話をかけた。
『はい、トンプソンです』
「もしもし」
『ヴァッシュさん! 先輩がどこにいるか知りませんか?』
挨拶そっちのけでミリィは話し始めた。
今日の放課後、ミリィはメリルと買い物に行く約束をしていた。しかし、几帳面な先輩が待ち合わせの時刻を過ぎても来ない。不思議に思い自宅の留守電をチェックしたがメッセージはなく、携帯に電話しても応答はなかった。
ミリィは仕方なく自宅に戻った。携帯やPHSは持っていないので、連絡があるとすれば自宅だからだ。その後も携帯に電話をしたがやはり出ない。メリルの自宅にも電話をかけ家政婦の中年女性に尋ねたが連絡はないという。
「……何も言ってなかったけど……」
会話そのものがないのだから、メリルのスケジュールなど知りようもない。今日二人で買い物に行くことさえ初耳だった。
『そうですか……』
ヴァッシュに訊けば判ると思っていただけに、ミリィの落胆は大きかった。
「そんな暗い声を出さないで。僕が心当たりを探してみるから」
『それじゃあたしも』
「彼女から連絡があるかも知れないだろ? キミは家にいて。何か判ったらすぐ電話するから」
落ち込むミリィを何とかなだめると、ヴァッシュはコートに袖を通し自転車の鍵を掴んで家を飛び出した。


ここに引っ越してから訪ねてきたのはアパートの大家と新聞の勧誘員くらいだ。だからドアを激しくノックされた時、ウルフウッドはしつこい勧誘が来たのだろう、としか考えなかった。
「新聞ならお断りやで」
言いながらドアを開ける。が、予想に反してそこにいたのは顔を強張らせたヴァッシュだった。
「……またオドレか」
不愉快そうな態度に臆することなく、ヴァッシュは厳しい声で問いかけた。
「マネージャーは来てないのか?」
「あ? マネージャーって、メリルっちう小っさい嬢ちゃんのことかいな」
「来てないのか!?」
ウルフウッドは眉を上げるとドアを目一杯開けた。玄関に女物の靴はない。六畳一間のがらんとした室内がヴァッシュの位置からもよく見えた。
「……何なら家捜ししてみるか?」
険しい表情で無言のまま睨み合う。互いの視線がまともにぶつかり、見えない火花を散らした。
先に目をそらせたのはヴァッシュだった。大きく息を吐き、同時にいきり立っていた肩の力を抜く。
「……悪かった。突然押しかけて、妙なことを訊いたりして」
再び交渉の機会を得たメリルがウルフウッドと会っていると思ったのだが、どうやら違うらしい。しかし、彼女が後輩との約束を無断で破るとしたらそれくらいしか考えられなかった。
「今日の放課後、マネージャーとは会わなかったか?」
「野球部の元マネージャーやったら、クラスで見かけただけや。話もしてへん」
「……邪魔したな」
わざわざ元をつけた言い方が癪に障ったが、ヴァッシュはそれだけ言うと踵を返した。背後でドアの閉まる音がし、足音がそれに続いた。
「……何でついて来るの」
「ワイのせいで何かあった思われるんは心外やからな」
「キミには関係ないでしょ」
冷たく一瞥しても無駄だった。帰る気はこれっぽっちもないらしい。
ヴァッシュが電話ボックスに入ると、ウルフウッドはガラスに寄りかかるようにして立った。こちらの応対を聞かれてしまうのが気になったが、注意したところで従う筈はない。ヴァッシュは仕方なくそのままミリィの家へ電話した。
『はい……』
三回のコールの後、風邪でも引いているかのような声で返事があった。かけ間違えたか、とヴァッシュは一瞬ひやりとしたが、その声はだいぶ変わっているもののミリィのものだった。
「もしもし?」
『ヴァ……シュさ……。……せん……先輩……が……』
そのまま泣き崩れたらしい気配。尋常でない雰囲気を感じて、ヴァッシュは必死に呼びかけた。
「どうしたんだ!? 何があった!?」
『……さ……さっき……先輩……の家……に……電話が……あったって……』
「……ごめん、怒鳴ったりして。……落ち着いて。大丈夫、何も恐いことはないから」
思わず声を荒げてしまったことを後悔しつつ、ヴァッシュは泣きじゃくるミリィをなだめた。
「電話って? 本人がかけてきたの?」
『……殺してやるって……』
「殺してやるって……ちょっと待った、何の話だ」
ミリィはただ泣くばかりで、とても口がきける状態ではない。
「……とにかく僕はメリルの家に行ってみるから! キミはそこにいるんだ。いいね!?」
これでは埒があかない。ヴァッシュはそれだけ言うとミリィの返事を待たずに電話を切った。







++++++++




暗闇の向こうに


メリルの家を目指してヴァッシュは必死にペダルをこいだ。後ろにはウルフウッドが乗っている。
「何でキミまで……来なくていいってば」
「さっきも言ったやろ。ワイのせいで何かあった思われるんは心外なんや」
「思ってないよ。もう誤解は解けたんだから」
どれだけ言葉を費やしてもウルフウッドは納得しない。押し問答している時間が惜しくて、ヴァッシュはしぶしぶ同行に同意したのだった。
呼び鈴を鳴らす。玄関から飛び出してきた目を充血させたミリィの姿にウルフウッドは目を丸くした。
「ア、アンタあの時の」
「どうしてキミがここに……」
「ヴァ……ュ……さん…………ふ……ふええええええええええええ」
ぽろぽろと零れる涙を服の袖で拭う。二人は慌ててミリィを連れて玄関に駆け込んだ。
玄関で三人を出迎えたのはメリルの父だった。血の気が引いて青白く見える顔に、焦燥の色がはっきりと見てとれる。
「スタンピード君……」
「何があったんですか!?」
「……とにかく中へ」
三人はメリルの父に応接間に案内された。ヴァッシュはウルフウッドを『クラスメイトです』と紹介した。家政婦から電話があった時のことを聞く。
「最初に旦那様はいるか、と訊かれたんです。こちらからお名前をお尋ねしても答えませんでしたし、いたずらかと思ったんですが、声が真剣なのに気づいて……。旦那様に伝えるよう言われました。『俺の娘は殺された、だからお前の娘を殺してやる』と……」
ハンカチで口元を覆いながらそう言うと、家政婦は顔を伏せて泣き出した。
「……判った。度々すまなかったね」
家政婦の肩に手を置き、メリルの父は穏やかな声で言った。背広のポケットから白い錠剤の入った小さな瓶を取り出す。
「鎮静剤だ。これを飲んで、向こうの和室で少し休みなさい」
噛んで含めるように言い聞かせ、ドアのところまで付き添う。静かにドアを閉めて応接間のソファに戻ると、男は大きなため息をついた。
「このことは、出張中の妻には知らせていません」
「何か心当たりはありませんか?」
「……あります」
一週間ほど前、ひき逃げされたアイリーンという名の女子高生が急患として運び込まれた。その時にはもう呼吸も心臓も停止していて、手を尽くしたが蘇生できなかった。
「葬式に行ったんですが、父親には塩を撒かれ、恋人と思しき青年には殴られそうになりました。『俺の娘は』と言ったのなら、電話をかけたのは父親のほうでしょう」
「……その人の住所を教えて下さい。僕が行ってみます」
「私の娘のことです。私が」
気持ちは判るが、メリルの父はいつ倒れても不思議ではないくらい消耗している。ヴァッシュは失礼を承知の上で話を遮った。
「もしその人がお嬢さんを連れ去ったのなら、あなたを見て逆上してしまうかも知れません。あなたが行くのは危険です」
ヴァッシュの言うことにも一理ある。メリルの父は苦悩の表情で肯いた。
ミリィは『一緒に行く』と言い張ったが、ヴァッシュは承諾しなかった。
「まだ誘拐だと決まった訳じゃない。その電話だってイタズラか只の嫌がらせかも知れないし」
「でも……」
何か判ったらすぐに電話をすると約束しても納得しないミリィに、ヴァッシュは真摯な声で言った。
「約束したろ? 『キミの大切な先輩を必ず守ってみせる』って。……僕を……信じてくれないか」
もしメリルが危険な目に遭っているのなら、絶対キミを巻き込みたくないって考える。だから、キミはここにいて欲しい。
「安心し。アンタの分はワイが働いたる」
ミリィはウルフウッドの顔をまじまじと見た後、『あ、あの時の』と小さく呟いた。
「トンガリとワイ、二人だけじゃ足りんか?」
「……わかりました、おとなしく待ってます。だから……先輩を……」
ヴァッシュは再び泣き出したミリィの頭をそっと撫で、ウルフウッドは励ますように彼女の肩を軽く叩いた。
二人がストライフ家を出た時には西の空もすっかり暗くなっていた。空の大半が薄い雲で覆われていて星はほとんど見えない。
「僕はアイリーンの家に行ってみる。キミは……」
「ワイは本人の足取りを追う。行動が掴めなくなったとこで何ぞあったんやろ。それが判れば手がかりが見つかるかも知れん」
真の動機を隠す為に犯人がわざとあんな電話をかけてきた可能性もある。娘を交通事故で亡くした父親が無関係だったとしたら、そこでヴァッシュにできることはなくなってしまう。
「……写真を借りたのはその為だったんだ」
「そういうことや。オドレも一枚持っとけ」
ウルフウッドは写真をヴァッシュに押しつけ踵を返した。メリルの父に書いて貰った、ストライフ家の電話番号を書き添えた駅までの簡単な地図に目をやり、そのまま駅に向かって歩き出す。
 ヴァッシュは写真に視線を落とした。場所がどこなのかは判らないが私服のメリルが微笑んでいる。
『メリル……無事でいてくれ!』
祈るような気持ちで声には出さずに叫ぶ。写真をコートのポケットにしまい、代わりに地図を取り出して目的地を確認する。
ヴァッシュは自転車にまたがると、ペダルにかけた足に力を込め一気に加速した。


アイリーンの自宅は、周辺の家に明かりが灯っているのとは対称的に真っ暗だった。家の周りを何回か走ったが、しんと静まりかえっていて人の気配がない。呼び鈴を押しても電話帳で番号を調べて電話しても、反応は全くなかった。
『留守なのか?』
あるいは家の中でじっと息を潜めているのか。メリルも一緒に。
考えても答えが出る筈もない。ヴァッシュは中間報告の為ストライフ家に電話を入れた。待ちかねていたようなミリィの声が耳に飛び込んできた。
『あ、ヴァッシュさんよかった! ウルフウッドさんから連絡があったんです!』
ミリィはトライガン学園の最寄り駅の名を挙げた。
『手がかりが見つかったみたいです! 北口の改札で待ってるって』
「判った! これからすぐに向かう!」
息を切らして駆けつけたヴァッシュに気づいたウルフウッドは、手を軽く振った後少し離れたところにある誰もいないベンチを指差した。自転車をベンチの横に停め、二人並んで腰掛ける。
「何か判ったのか!?」
その答えは言葉ではなく現物で示された。ウルフウッドが持っている、彼のものではない鞄。
「それ、メリルの……! どこに!?」
「そこの柱んとこに置いてあったそうや」
忘れ物として届けられていたのを、『同じクラスだから』とわざわざ自宅から取ってきた生徒手帳を提示し、更に一筆書いて、本人の代理としてウルフウッドが受け取ったのだ。
震える手で鞄を受け取り、いろいろな方向から注意深く見る。壊れたり汚れたりしているところはない。誰かに連れ去られたのだとしても、手荒に扱われた訳ではなさそうだ。ヴァッシュは小さく安堵のため息をついた。
「……悪いとは思ったんやけど、中身を調べさして貰った。オドレも見てみい」
後ろめたい気持ちを押さえ、ヴァッシュはそっと鞄を開けるとベンチに中身を並べていった。
教科書やノート、筆記用具。ハンカチなどの小物。生徒手帳。スケジュール帳。携帯電話。
『あの子がいくらかけても駄目だった訳だ』
定期入れ。財布。
「金が抜かれた様子はなかった。物盗りやあらへんことは確かやな」
「財布の中まで見たの!?」
非難がましい声を上げた刹那目の前に小さな紙を数枚突き出され、喉まで出かかった山のような文句はどこかへ消えた。
街灯の明かりでよく見ると、それらは全てレシートだった。本屋やコンビニ、合宿の帰りに三人で入った喫茶店のものもある。
『……!』
あることに気がついてヴァッシュは愕然とした。
日付はどれも先週の月曜日から水曜日――彼女が退部届を出してから部活休止期間前まで、時刻は野球部が練習をしていた間だ。普段なら校庭にいる時間、メリルは家に帰らず時間を潰していたのだ。自分が退部したことを家の人には話していない……いや、話せなかったのだろう。
「今日付のレシートは一枚もあらへん。学校出てまっすぐ駅まで来て、ここで何かあった……」
ウルフウッドは周囲を見回した。寒い中、家路を急ぐOLやサラリーマンの姿が目に入る。
「こっち北口にはバス停にタクシー乗り場、コンビニもある。騒ぎがあったんなら誰かしら気がつきそうなもんやけど、駅員もコンビニの店員も知らん、ゆうとった」
これだけ人の目があるところで、相手に騒がれず誰にも気づかれずに女子高生を誘拐するのは難しいだろう。しかし、別の場所でメリルを攫った犯人がわざと鞄を駅前に置いたというのも不自然だ。自分の意志で行動しているのなら鞄を置いていった理由が判らない。いくら何でも財布は持っていく筈だ。
「そっちのほう、どうやった?」
「誰もいなかったよ。呼び鈴や電話にも無反応だった」
荷物を鞄に戻しながらヴァッシュは答えた。
あらかた作業を終えた時、ある疑問がヴァッシュの頭を掠めた。もう一度荷物を全部出し、小さなポケットの中まで確認する。
「……ない」
ウルフウッドは怪訝そうな表情で隣に座る男を見やった。
「部室の鍵がない!」
 いつも必ず持ってたのに。いつも制服のポケット……
 ヴァッシュの頭の中で、ひとつの仮説が組み上がった。
 もし電話をかけたのが本当にアイリーンの父親なら。もしその人がメリルを連れ去ろうとして彼女に声をかけたのだとしたら。
娘を失った悲しみに自暴自棄になっているアイリーンの父親を犯罪者にしない為に、メリルは説得を試みるのではないか。事件を表沙汰にしない為に、この場では大声を出したり抵抗したりせず相手の指示に従ったのではないか。
 どこでもできる話じゃない。第三者のいないところ、誰にも邪魔されない静かなところ……部活が終わった野球部の部室はうってつけの場所だ。
ヴァッシュは手短に自分の考えをウルフウッドに説明した。
「ホンマにおるんか……?」
ウルフウッドは否定的だった。メリルがアイリーンの父親に誘拐されたという証拠はない。百歩譲ってそうだったとしても、何故説得しようとするのか、何故その場が野球部の部室なのか。第一、退部届を出した元マネージャーが何故今でも部室の鍵を持っているのか。
「メリルが退部届を出した時、先生が受け取らなかったんだよ」
「その後返したんとちゃうか?」
確かにそう考える方が妥当だ。でも。
「万が一ってことがあるじゃない。ここから学校まではそんなに時間もかからないし、念の為確認してから次の行動を考えてもいいでしょ?」
ヴァッシュは既に自転車にまたがっている。
「僕は一人でも行くよ。行くの? 行かないの?」
「……判った」
再びウルフウッドは自転車の後ろに乗った。



++++++++++++++


vp5


暗雲

プロローグ
夏休みの余韻も消えた九月中旬のある日曜日の夕刻、ヴァッシュは母親とセイブレム家を訪問した。月に一度、レムとその両親と共に一緒に食事をすることになっているのだ。
ヴァッシュは母親と二人暮らしをしている。母親は生命保険の外交員で日頃から忙しく、ヴァッシュ一人で夕食を摂ることも珍しくない。そんな親子に対する三人の心遣いだった。
ヴァッシュは七月の約束を何の連絡もしないまますっぽかした。後でさんざん理由を問いつめられたが、ひたすら謝るだけで一切言い訳をしなかった。お陰でレムに保健室で寿命の縮む思いをさせられたのだが。
セイブレム家のダイニングに五人が顔を揃えた。
「いっただっきまーす!」
元気よく宣言すると、ヴァッシュは自分の茶碗と箸を取り上げた。普段はあまり口にすることのない手の込んだ料理に舌鼓を打つ。
「合宿はどうだったの?」
八月は合宿前に食事会をしたため、野球部の部員が七月に急増し合宿後に激減した理由はレムも知らない。
「…いろいろあったよ。…あの退部劇は…やられたって感じ…」
「食べるか話すかどちらかになさい」
母親にたしなめられ、ヴァッシュは大きな身体を小さくした。話は後でもできるので、目の前の料理を平らげることに暫し専念する。
「あ~おいしかった。ご馳走様でした!」
食事を終え出された日本茶を一口啜って、ヴァッシュはにっこり笑った。伯母が上手いのは料理だけではない。
時折お茶で喉を潤しながら、ヴァッシュは合宿前後のことを身振り手振りを交えて語った。
「…あの時は本当にびっくりした。後で主将に文句言ったら『そういうことは発案者のマネージャーに言え』だって。言える訳ないよ」
がっくり肩を落としてうなだれる姿に四人は大いに笑った。
「ヴァッシュはマネージャーに頭が上がらないのよね。いっつも怒られてるから」
「そんなことないよ。第一、そういう言い方するとマネージャーが四六時中怒ってるみたいに聞こえるじゃないか」
「あら違うの?」
食事の度にメリルに叱られた話をしたのは他ならぬヴァッシュである。本人に会ったことがないレム以外の三人は、さぞかし勝ち気で短気な女子高生だと思ったことだろう。
「母さんまで…違うってば! そりゃ『肩を冷やさないで下さい』とか口うるさく言われるけど、合宿の時には練習が終わると必ず『お疲れ様でした』って笑顔で迎えてくれたんだから! 努力家だし、よく気がつくし、後輩思いで優しいし、それに」
料理だって上手で、と言いかけて、ヴァッシュは自分に向けられるレムの意味深な視線に気づいて口をつぐんだ。自分の名誉回復よりもメリルの汚名を返上しようと躍起になっていたことを思い起こす。
わざとらしく咳払いをする従兄弟に、レムは苦笑いを浮かべながら助け船を出した。
「今野球部は部員が九人しかいないんでしょ?」
「うん。…でも減ってよかったって思ってる。今残ってるのは本当に野球がやりたい奴だけだから」
脳裏に浮かんだ写真部の四人とキールの顔をひとまとめにし、何度か踏んづけてから意識の外に放り出す。それでも不快感は完全には消せず、ヴァッシュの口元が微妙に歪んだ。
「どうしたの?」
「いや…キャッチャーがいないのが辛いな、って思っただけ」
「見込みはないの?」
「このところ見学者もないしね」
「そう言えば見なくなったわね。セーラー服の差し入れ軍団」
「合宿以降は全然。でもその方が助かるよ。正直、動物園の檻の中にいる気分だった…」
小さくため息をつくと、ヴァッシュは勢いよく立ち上がった。
「いつもの?」
「うん」
いつもの、とは素振りのことである。朝晩の素振りは彼の日課で、ヴァッシュは伯母夫婦の家を訪ねる時にもバットを持参していた。
じゃあ、と軽く手を振って部屋を出ていくのを見送った後、四人は顔を見合わせた。
「…あの子の口から野球以外の話がこれほど出るようになるとはな…」
「ええ、ほんとに。それも女の子の話ですもの、最初は驚いたわ。心臓が止まるかと思ったくらい」
両親に自分の気持ちを代弁され、レムは僅かに苦笑した。
「レム…そのマネージャーの子、あなたから見てどんな感じ?」
「思いやりのあるいい子ですよ。人の心にずかずかと踏み入るようなことは絶対にしません」
レムの答えを聞いても、ヴァッシュの母の表情は暗いままだった。
「…これをきっかけに変われるかしら、あの子…」
我が子を案じる母の声に誰も答えられなかった。


衣更えが終わって三日後、ヴァッシュ達のクラスの人数が一人増えた。
「ニコラス・D・ウルフウッド君だ」
担任の声に合わせるように、黒髪の長身の男はぺこりと頭を下げた。長めの前髪が揺れ、黒い瞳を一瞬覆い隠す。
「席は…」
「は~い先生、僕の隣が空いてま~す」
ヴァッシュは両手を振りながら担任に呼びかけた。クラスで二番目に背が高い彼の席は一番後ろだが、転校生の身長もヴァッシュと同じくらい。下手な場所に座ると間違いなく後ろからクレームがくる。
ウルフウッドの視力を確認してから、担任はヴァッシュの隣に座るよう指示した。
「僕、ヴァッシュ。ヴァッシュ・ザ・スタンピード。よろしくね」
「話は聞いたで、人間台風。…ウルフウッドや、よろしゅう」
ヴァッシュは目を丸くした。甲子園大会の予選が行なわれていたのは七月、今は十月だ。その名を口にする人がまだいるのだろうか…。
半ば呆然としたまま、差し出された右手を反射的に握り返す。ぶんぶんと音を立てそうなくらい勢いよく何度も振られて、ヴァッシュのこめかみを汗が一筋伝った。
それからしばらくの間、ウルフウッドは休憩時間になるとクラスメイトに囲まれ質問責めを受けた。独特の口調で時々さりげなくはぐらかしながらにこやかに答える。
席が近い故に半ば巻き添えを食ってクラスメイトに包囲されたヴァッシュは、そんなウルフウッドをぼんやりと眺めていた。
『何でだろう…』
彼に、自分と同じ空気を感じる。
外見はまったく似てない。強いて言えば背が高いことぐらいだ。人当たりがいいとかそういうことではなく、もっと別の…
 考えれば考えるほど判らなくなる。
どこがどう似てるのか、と訊かれても答えられないのに、何故かその思いはヴァッシュの心に根強く残った。
体育の授業は二クラス合同で、男子と女子に分かれて行なわれる。その日、ヴァッシュ達のクラスは男子はハンドボール、女子はバスケットボールをやっていた。人数の関係で男女とも二つのグループに分かれ、片方が試合をしている時はもう片方はそれを見学する。
校庭の隅に座って見学していたヴァッシュは、ハンドボールコートの横でバスケットをしている女子の中にメリルを見つけ、何となくその姿を目で追った。
体格だけで判断するなら彼女は圧倒的に不利だ。メリルはゲームの組み立てに専念し、指示を出しながらどんどんパスを回していった。かと思うと自ら切り込んだり、スリーポイントシュートを放ったりする。ディフェンスをかいくぐってシュートを決めた時には爽快感さえ覚えた。
「スタンピード、どこを見てる!」
教師に一喝され、ヴァッシュは慌てて視線をハンドボールコートに戻した。
パスを受けたウルフウッドがドリブルでゴールに迫る。足はかなり早く、ディフェンスが追いつけないほどだ。
キーパーとの一騎打ち。ジャンプしながら放たれたボールは惜しくもゴールポストを直撃し…ゴールが倒れた。
 鈍い音と地響きに、校庭にいた全員が動きを止めた。ただ一人を除いて。
「いやー、すまんすまん。やってもうたわ」
ウルフウッドは苦笑しながら倒れたゴールに歩み寄ると、苦労する様子もなくたった一人でゴールを起こした。
「!?」
驚愕再び。誰もが言葉を失った。
ようやく気を取り直した教師の指示で試合は続けられた。キーパーはウルフウッドのシュートはことごとく逃げた。あの威力を目の前で見せつけられては無理もない。
その話は瞬く間に校内に広がり、ウルフウッドは運動部のスカウト合戦の標的にされた。


朝と昼休みと放課後。ウルフウッドの周りがもっとも賑やかになる時間帯である。
大勢の先輩に囲まれながら、ウルフウッドはいつもの飄々とした態度を崩さない。
「ワイ、まだどの部に入るか決めとらんのです」
どの部に勧誘されても彼の答えは同じだった。
その後、ウルフウッドは『体験入部』と称して様々な運動部に入部してはすぐに退部した。在籍期間はたいてい数日。
どんなスポーツもそつなくこなす彼に、スカウト合戦は激しくなる一方だった。
「…どうしてキミは一つの部にとどまらないの?」
予鈴の為にようやく先輩達から解放されたウルフウッドを横目で見ながらヴァッシュは尋ねた。自分のすぐ横で毎日くり広げられる大騒ぎに少々辟易していた。
「なーんか違う、思てな。飽きっぽいだけかも知れへんけど」
「の割にはハンドボール部には二回入部したでしょ」
「よう知っとんな」
当たり前だ、チェックしているのだから。
 ウルフウッドほどの運動神経の持ち主なら野球部だって欲しい。ヴァッシュもメリルもギリアムから『何とかならないか』と頼まれており、二人ともそれとなく話を持っていくのだが、いつものらりくらりと躱されていた。彼は何故か野球部には近づこうとしなかった。
もう一つ判らないことがある。人当たりのいい筈の彼が、メリルにだけはつっけんどんなのだ。初めからではなく、中間テストが終わってしばらく経ってからそうなったのである。
十月も残り少なくなった頃、ヴァッシュは奇妙な符合に気づいた。ウルフウッドが在籍していた時期、その部は十中八九対外試合をしている。そして彼は必ず選手として出場しているのだ。
かつてウルフウッドが入部したことがある部に所属しているクラスメイトにそれとなく話を聞く。ウルフウッドが試合で活躍した話になると、皆例外なく口が重くなった。そしてそそくさと立ち去ってしまう。
「あいつの実力は認めるけど…大変なんだよ」
舌打ち交じりにそう呟いたのはハンドボール部のクラスメイトだった。ヴァッシュは訝しげに眉を上げた。
「大変って…何が?」
「部費とは別に…いや、何でもない」
まずいことを言った、と顔に書いてある。ヴァッシュは更に話を聞こうとしたが、クラスメイトはわざとらしく別の部員に声をかけヴァッシュの傍を離れてしまった。
実験の為科学室へ移動する際、ヴァッシュはウルフウッドの横に並んだ。周囲に人がいないのを確認し、歩きながら小声で尋ねる。
「体験入部をお願いする場合、どのくらい必要なのかな?」
「入部で五千、部活一日につき五千、一試合一万、勝ったら別途スペシャルボーナス」
ヴァッシュは思わず足を止めた。予想はしていたが、本当に金をとって助っ人をしていたとは…。
そのまま数歩進んでからヴァッシュが立ち尽くしているのに気づき、ウルフウッドは引き返した。肩がぶつかる寸前で立ち止まり、ぼそりと呟く。
「ただし、野球部やったら倍貰うで」
「な…!」
ヴァッシュの睨みつけるような視線を意に介さず、ウルフウッドはにやりと笑った。
「何しとんねん、遅れるで」
明るい声で言いヴァッシュの肩を軽く叩くと、ウルフウッドは何事もなかったかのように再び歩き始めた。


十月最後の土曜のことである。四時限目を終え教科書などを片づけている時、ヴァッシュはメリルに声をかけられた。
「食事の前にちょっとよろしいですか?」
メリルは何故か食後に向かう筈の部室を目指した。鍵を開けて中に入り、ヴァッシュのグラブとボール、予備のキャッチャーミットを取り出す。
「マネージャー?」
「ヴァッシュさん」
メリルはいつになく厳しい表情でヴァッシュにグラブを差し出した。
「もうすぐウルフウッドさんがここに来ます。…入部テストをしていただけませんか?」
ヴァッシュは目を見開いてメリルを見つめた。
「五球受けて貰うよう話をつけました」
「…どうして」
理由を問う声は不機嫌そうな声に遮られた。
「早よしてんか? ワイ、腹減っとんのや」
「すみません、すぐに。…ミットはこれを使って下さい」
差し出されたミットを奪い取るように乱暴に手にすると、ウルフウッドは校庭へ移動した。二人も慌ててそれを追う。
「あの、お二人ともそのままの服でよろしいんですの?」
ヴァッシュもウルフウッドも学ラン姿だ。
「かまへん。…どうせ遊びや」
ミットをはめたウルフウッドが答えながらしゃがみ込む。構えられては『着替えるから待ってくれ』とは言えない。
「大丈夫だよ。五球だけでしょ?」
メリルを安心させるように微笑みかける。マウンドまでの距離だけ離れると、ヴァッシュはセットポジションに入った。
『まずは小手調べだ』
本気ではないが、それでも速い球が空を切った。ウルフウッドはこともなげに受けるとボールを返した。
次の二球は地区予選で見せた速くて重い球を投げた。小気味よい音を立ててボールがキャッチャーミットに収まる。
四球目は七月にモネヴに対して投げた豪速球。それさえ平然と受け止めたウルフウッドにヴァッシュは内心舌を巻いた。
『なら…!』
小学校を卒業してから一度もやったことはなかったが、ヴァッシュは全力で投げた。
尻餅をついたものの、ウルフウッドは見事に受け止めてみせた。
『!?』
ヴァッシュは驚愕した。ウォーミングアップはしていない。服は学ランだし、靴もスパイクではなく只のスニーカーだ。それでも今の球をキャッチできる奴がアイツ以外にいるなんて。
驚いたのはメリルも同じだった。ウルフウッドのキャッチャーとしての資質は予想を遥かに上回るものだったが、それ以上に今まで見たことのないヴァッシュの球に衝撃を受けた。
ウルフウッドはミットを地面に置くと立ち上がった。土で汚れた制服を手ではたき、踵を返す。
「これで終いやな。ワイは帰らして貰うわ」
黒一色の後ろ姿が見えなくなってから、ヴァッシュはキャッチャーミットを拾いメリルに歩み寄った。
「マネージャー…」
「……」
二人がショックから抜け出せずにいる頃、ウルフウッドは歩きながら左手を握ったり開いたりしていた。思うように動かせず、小さく舌打ちする。
「あのトンガリ頭…何ちゅう球投げるんや」


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ウルフウッドが報酬なしで自分の球を受けるとは思えない。その日部活を終えた後、ヴァッシュはメリルを呼び止め訊いてみた。
「ええ、交換条件がありましたわ」
「何?」
返ってきた答えにヴァッシュは目を丸くした。一球につき学食の一番高い食券一枚。
メリルは必ず弁当を持参しているが、ヴァッシュは時々学食を利用していた。何故か真っ赤なうどんをすするウルフウッドを見かけたことが何度かある。うどんが赤いのは七味唐辛子をこれでもかと振りかける為だと程なく知った。
ウルフウッドが弁当を持参したことは一度もない。その為か、先輩から『昼食をおごる』と言われているのも毎日のように見ているが、ウルフウッドはきっぱり断っていた。借りは作らない主義らしい。もっとも、下心見え見えの食事が旨い筈はない。彼でなくても断っただろう。
月曜日メリルは早速約束を果たし、その週ウルフウッドの昼食は珍しく豪勢になった。
金にこだわる反面、かなりの倹約家。ヴァッシュのウルフウッドに対する考察である。しかしその理由は判らない。
頭の片隅にひっかかるものを感じているのだが、ヴァッシュはそれを掴みあぐねていた。
相変わらず野球部からの勧誘に色よい返事はない。メリルに対しては冷淡とも思える態度で接している。
「キミ、野球嫌いなの?」
授業の合間の僅かな休憩時間にヴァッシュはため息交じりに尋ねた。
「…別に」
短い沈黙の後の返答。てっきり『嫌いだ』と即答されるものだと思っていたヴァッシュは思わず隣の席に目をやった。余計なことを言った、とでもいうようないまいましげな表情が見えたのは一瞬で、その後何度話しかけても黒髪に覆われた後頭部は振り返らなかった。
十一月最初の朝練を終え自分のクラスに入ったヴァッシュは、クラスメイトがまだ登校していないのを確認してメリルのすぐ前の席に陣取った。先日交わした短い会話を説明する。
「野球が嫌いじゃないんならどうして…」
椅子に前後逆に座り、背もたれを抱きかかえるようにして小さく息を吐く。
「…嫌いなのは…私なのかも知れませんわね」
「そんなことないよ! だって、その…」
何とか否定しようとするヴァッシュに、メリルは困ったような微笑みを向けた。
「ヴァッシュさんも気づいてらっしゃいますでしょう?」
「…うん」
確かにメリルに対してだけ態度が違う。あからさまに嫌な顔はしないが、いつもの人当たりのよさは消えてしまう。
でも…ヴァッシュは首をかしげた。ウルフウッドがメリルを嫌う理由が全く思いつかない。
ヴァッシュは知らなかったが、自分の評価が好意的なものばかりでないことをメリルは知っていた。『才色兼備』『高嶺の花』と言われる一方で、かつてのキールのように『勉強だけが取り得』だと煙たがられていたり『かわい気がない』と思われていることを。
『生意気』『女のくせに』――就学してから、耳にたこができるほど聞いた言葉。理不尽な理由で敬遠された経験は何度もある。
「おはようヴァッシュ、朝から何の密談だ?」
「密談はひどいなぁ。世界にあまねくラブ&ピースの精神を広めるにはどうしたらいいのか、アツク意見を交わしてたところなのにぃ」
拗ねたような口調のとんでもない答えにメリルは思わず吹き出した。くすくす笑っているマネージャーを眺めつつ、ヴァッシュは本来その席に座るべきクラスメイトの為に立ち上がった。
『よかった…』
彼女を包んでいた翳りが消えて。
「なーに馬鹿なこと言ってんだよ」
「わっ、それだけは勘弁して! セットするの大変なんだから!」
髪を引っ掻き回されそうになり慌てて飛びのく。焦る様が面白いのか、クラスメイトは怪しい笑みを浮かべながら追いかけてくる。
二人の鬼ごっこは、ヴァッシュの奇妙な叫び声をBGMに授業が始まる寸前まで続いた。


「おはようウルフウッド」
「…何でオドレがここにおんねん」
ウルフウッドが顔を顰めたのも無理はない。トライガン学園に程近い自宅のアパートの門を出たところで、自転車にもたれかかるように立つヴァッシュにいきなり挨拶されたのだから。スカウト合戦は今でも過熱気味だが、自宅まで押しかけられたことはこれまで一度もなかった。
「まあまあ、一緒に学校行こう」
「…小学生やあるまいし」
横目で睨んでも、ヴァッシュは動じる様子もなくいつもの笑顔を浮かべている。
 走って逃げたところで人間台風を捲くのは困難だろう。目的地が同じでヴァッシュに先に行く意志がないのだからどうしようもない。ウルフウッドは仕方なく自転車を押しながら歩くヴァッシュの横を歩いた。
「朝練はどないした。泣く子も黙る人間台風様がサボリか」
腹いせに嫌みの一つも言ってみる。
「済ませて来た。少し早く上がらせて貰ったけどね。…野球部が朝練してるって知ってたんだ」
「…汗臭いのが毎朝隣に座るんや。気づいて当然やろ」
いまいましそうな口調がヴァッシュには負け惜しみのように聞こえた。それきりウルフウッドは口をへの字に曲げたままヴァッシュの呼びかけにも答えない。
突然ヴァッシュがその場に自転車を倒して走り出した。
「ウルフウッド、ちょっと!」
訝しげに視線を向けると、歩道橋の階段の下で中腰になっているのが見えた。まるで犬でも呼んでいるようにひらひらと手を振っている。
「…何やねん」
声だけでなく顔にも不快感を顕わにして、それでもウルフウッドはヴァッシュに歩み寄った。学ランの肩越しに覗き込む。車椅子の少女が救いを求めるようにこちらを見上げていた。
「この子、反対側に渡りたいんだって。でもこの辺って歩道橋しかないだろ? 信号のある交差点はだいぶ先だし」
振り返った金髪男にぽんと肩を叩かれ、ウルフウッドの口元が引きつった。嫌な予感が彼の心に沸き上がった。
「僕らで運ぼう!」
…予感的中。ウルフウッドはがっくりと肩を落とした。
「ほら早く、そっち持って」
何でワイが。口まで出かかった文句をすんでのところで飲み込む。その子には聞かせたない。
車椅子の左右につき、そっと持ち上げる。男二人と車椅子が並ぶと階段の幅いっぱいになってしまったが、全員道を譲ってくれた。
歩道橋の上ではヴァッシュが車椅子を押した。反対側に到着し再び二人で持ち上げて階段を降りる。
少女は何度も礼を言った。時折振り返る笑顔にヴァッシュは手を振って答えた。
「ごめんね…。ホントは目的地まで送ってあげたいんだけど…」
少し先の角を曲がったのを見届けてから、ヴァッシュは小さく呟いた。
「…オドレのいい人ごっこに付き合わされるんは金輪際ごめんやで」
憮然とした声にヴァッシュは軽く目をみはり、何故か明るい笑顔を向けた。
「僕はキミはいい奴だと思うよ」
「!?」
「名前を呼ばれようが手招きされようが、無視して一人で行くことだってできた筈だろ? 僕がほっぽりだした自転車に乗ってっちゃえば邪魔者を捲けたよね」
「この次はそうしたる」
子供に甘い自分を自覚しながらおくびにも出さず、ウルフウッドは毒づいた。
「へえ…。また朝押しかけて、キミの目の前で困ってる人に声をかけてもいいんだ」
「…来んな!」
背中を蹴られ、学ランにくっきりと靴跡をつけられてもヴァッシュは笑っていた。歩道橋を引き返し自転車を起こす。
「後ろに乗んない?」
「いらんお世話や」
「遅刻するよ?」
慌てて腕時計に視線を走らせる。予鈴が鳴るまでの時間を計算し、血の気が引いた。スカウト合戦への対応を最小限にする為にわざと遅めに登校していたのが仇になった。
「さっき手伝ってくれたお礼だよ。貸しになんかしないから」
甚だ不本意ながら、ウルフウッドはヴァッシュの自転車の後ろに乗った。二人乗りとは思えないスピードで自転車が走る。警察官に見られたら強制停止の上お説教されること間違いなしだ。
必死にペダルをこぎながら、ヴァッシュは風の音にまぎれてしまいそうな小さな声で問いかけた。
「…何でキミはそんなにお金が必要なの?」
「親のすねをかじりたない」
独り言のようなかすかな呟きをヴァッシュは聞き逃さなかった。


遅刻をしなかったというのに、ウルフウッドの機嫌は最悪だった。傍目にもそれは明らかで、いつものように勧誘活動にいそしもうとやって来た先輩達が回れ右をしたほどだ。
『アイツとおると調子狂うで…』
余計なこと言ってまうし、いらんことしてしまう。笑い方がカラッポの奴にいいように振り回されとる。
ウルフウッドは八つ当たりをするように床を蹴った。
その横で、苛立ちの原因は頬杖をつき物思いにふけっていた。今朝の短いやり取りで、ずっとひっかかっていたものがようやく判ったような気がした。何故彼に自分と同じ空気を感じたのかも。
転入してからしばらくの間クラスメイトの質問責めにあったウルフウッド。彼がさりげなく答えをはぐらかしたのは、転校した理由と家族に関する質問だった。
 後者は身に覚えがある。入学したての頃に何度も訊かれ、曖昧に笑ったり話題を変えたりして誤魔化した。
『親と不仲なのかな…』
頭に浮かんだ仮説を即座に否定する。あの時の口振りに負の感情はなかった。むしろ逆、大切だからこそ甘えたくない――そんな印象を受けた。
必要であろう生活費と学費を大まかに計算してみる。高校生が普通にバイトをして稼げる額では足りなさそうだ。
『だから体験入部をくり返すのか』
彼の特技を最大限に生かし、短時間で稼ぐには確かに最適な方法ではある。
放課後、部活を終えたヴァッシュはメリルに声をかけた。部室で今朝の出来事を話す。
「…どう思う?」
「親のすねをかじりたくない…そうおっしゃったんですのね」
「うん。…借りを作るのは嫌いみたいだけど、そういう意味で言ったんじゃないと思うんだ」
彼のアパートを思い出す。かなり古そうな建物だった。郵便受けには彼の名前しかなかったから、おそらく一人暮らしなのだろう。学食でのメニューの選び方から質素な暮らしぶりが想像される。
推測だけど、と前置きして、ヴァッシュはそのこともメリルに言った。
「ご家族のことは何も?」
ヴァッシュは無言のまま肯首し、メリルは小さくため息をついた。
「…親御さんに経済的な負担をかけたくない、ということなら…」
メリルが僅かに眉根を寄せ目を細める。それが彼女が考え込む時の癖だとヴァッシュは知っていた。思考の邪魔をしないよう沈黙を守る。
ようやく考えがまとまったのだろう。メリルはまっすぐにヴァッシュを見つめると口を開いた。
「…ヴァッシュさん、私、ウルフウッドさんに交渉してみますわ」
「え? でも…」
理詰めの説得なら自分よりメリルのほうが適任だと思う。しかしウルフウッドが素直に彼女の話を聞くだろうか。
「大丈夫です。任せて貰えませんか? やってみて駄目でしたら、その時あらためて次の手を考えましょう」
「…判った」
微笑みながら肯くと、ヴァッシュは鞄を手にドアへと歩み寄った。扉を開けた途端吹き込んできた冷たい風に思わず首を竦める。
「さむっ! …ごめん、すっかり暗くなっちゃったね。家まで送るよ」
「子供じゃありませんのよ。一人で帰れますわ」
メリルが電車に乗るのは僅か一駅である。自宅まで三十分もかからない。
「まあまあ、たまにはいいじゃない。ウルフウッドを乗せて遅刻しなかったんだよ? 電車よりずっと早いって」
ギリアムとミリィの顔が脳裏に浮かぶ。自分のせいで帰りが遅くなったのだ、メリルが無事帰宅するところをちゃんと見届けなければ。
しばらく水かけ論が続いた。が、時間が勿体無いと思ったのだろう、メリルは嘆息するとようやく首を縦に振った。
「…安全運転でお願いしますわね」
万が一にも転倒して、怪我なんてしないで下さいね。
「了解!」


それから十日ほど経過した月曜日の放課後、ヴァッシュはメリルに部活に遅れる旨主将に伝えて欲しいと頼まれた。
ウルフウッドと話をするんだ。理由は聞かなかったが、ヴァッシュはそう確信した。
 着替えてウォーミングアップを始めたものの、気になってつい身体が止まってしまう。キャッチボールの緩い球を度々受け損ね、何度も転がる白球を追いかけた。
「どうしたヴァッシュ、具合でも悪いのか?」
 主将に怪訝そうな表情で尋ねられ、ヴァッシュは渡りに船とばかりに答えた。
「はい! あの、ちょっと保健室に行ってきてもいいですか?」
身を乗り出したヴァッシュの勢いに押され、ギリアムは肯いた。
「すみません、失礼します!」
グラブを投げ出して一礼し、全力で走り出した後輩の姿がみるみる小さくなっていく。見送る主将の口元に苦笑が浮かんだ。
「…ずいぶん元気な病人だな」
ヴァッシュの目的地はもちろん保健室ではなかった。上履きに履き替え、音を立てないよう自分のクラスに向かう。
静かにドアに身を寄せる。メリルの声が聞こえてきた。
「…いかがですか?」
ドアにはめられたガラス窓からそっと中を窺う。マネージャーの横顔が見えた。
「…阿呆らし」
答えるウルフウッドは眉を顰めている。そっけない口調に不快感が滲んでいた。
メリルがウルフウッドに近づいた。二人の距離が一気に縮まる。
「あなたでなければ…駄目なんです…」
声は震えていた。せっぱ詰まったような表情。菫色の瞳が僅かに潤んでいる。
メリルの小さな手のひらが逞しい肩に置かれた。滑るようにゆっくりと二の腕を辿る。
唐突にウルフウッドが一歩引き、細い腕は宙に残された。
「…アンタが野球部やめるんやったら考えてもええ」
ドアを挟んで二人が息を呑んだ。メリルの目が大きく見開かれる。
「どうや? ワイの為にやめられるか?」
 紅唇がわなないているのが見えている筈なのに、見下ろす漆黒の双眸には何の変化もない。
メリルは腕を下ろすと、目を閉じて大きく深呼吸した。ややあって再びウルフウッドを見上げた瞳には苦悩の色がありありと浮かんでいた。
「…少し…考えさせていただけませんか?」
「…二週間や」
ウルフウッドは俯いてしまったメリルの横を通り過ぎ、自分の机に歩み寄った。ヴァッシュは咄嗟に隣のクラスに飛び込んだ。誰もいなかったことに密かに安堵する。
 鞄を手にウルフウッドが教室を出た時には、廊下に人影はなかった。
気配と足音が完全に消えるのを待って、ヴァッシュは再び自分のクラスを覗いた。
メリルは窓辺に立っていた。こちらに背を向けている。野球部の練習を見ているのだろう。
華奢な肩が小刻みに震えているのに気づいて、ヴァッシュは両の拳を固く握り締めた。
キャッチャーはどうしても必要だ。あの球を受け止めたウルフウッドが相手なら、全力で投げられそうな気がする。
でも、メリルのいない野球部なんてとても考えられない。
部にとってもメリルにとってもあまりにも非情な交換条件。どんな風に交渉したのかは判らないが――
肝心の交渉の部分は聞いていないことを思い出して、ヴァッシュの胸にある疑問が湧き上がった。
『マネージャーは、本当に入部の交渉をしたのか…?』
 あなたでなければ…駄目なんです…。
メリルの声が辛そうな表情と共に蘇る。縋るように、求めるように、ウルフウッドに触れた両手。あれは交渉というよりむしろ…
 ワイの為にやめられるか?
冷たいウルフウッドの答え。到底承諾できない条件。あれは、メリルの告白を断る口実ではないのか。…いや、もしかしたら。
子供の頃、一つ年下の幼なじみの少年が同じ保育園に通っていた女の子をよく苛めていた。見かける度に止めに入り、それが原因で喧嘩になったこともある。
どうしてそんなことするんだよ。頬を膨らませて問いつめた自分に、少年は顔を背けて意外な言葉を口にした。
 ジェシカちゃんがすきだ、なかせたくなんかないのにどうしてもいじめちゃうんだ。
不器用な愛情表現だったのだと今は思う。
もしウルフウッドもそうなら…メリルにだけつっけんどんなのは特別な好意の裏返し。あの発言は、野球部よりも自分を優先して欲しいから。
そしてメリルは即答を避けた。大好きだと言った野球とウルフウッドを天秤にかけ、その場でどちらかを選べなかった。
だとしたら、二人は相思相…
ヴァッシュは左手で口元を押さえた。こみ上げる吐き気。目眩がする。
「部活…戻らなきゃ…」
呻くように呟いて、もつれる足で必死に歩く。上体が揺れ、咄嗟に壁に手をついて身体を支えた。
 息が苦しい。吐き気も目眩もどんどん酷くなっていく。
昇降口の手前でヴァッシュは崩れるように倒れた。



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ぼんやりと目を開けると心配そうな伯母の顔が見えた。何度か瞬きして、ようやくそこがレムの家だと理解する。
ヴァッシュは客間として使われている和室に敷いた布団に寝かされていた。額には固く絞ったタオル。
「よかった、気がついたのね」
頭がはっきりしない。身体が熱い。気持ちが悪くて吐きそうだ。
『どうして…』
こんなことになったのか。何故自分はここにいるのか。尋ねようと唇を動かしたが声にならなかった。
「学校で倒れたのよ。レムがうちに連れて来てくれたの。…お医者様に往診して貰ったわ。身体は何ともないそうよ」
ヴァッシュの表情を読み取り説明する。その声も、ヴァッシュにはずいぶん遠くに聞こえた。
「何か食べる?」
ゆっくりと首を横に振る。食欲はまるでない。
「食べないとよくならないわよ」
「…いらない」
短く答えた声は自分のものとは思えないほど掠れていた。そのまま目を閉じ、顔を背ける。それだけのことが酷く億劫だった。
 放っておいて欲しい。一人になりたい。
しばらくして気配が遠ざかった。襖を開け閉めする音を聞いたような気がした。
月曜日の夕方倒れてから、ヴァッシュはずっとセイブレム家にいた。一人では身動きできない状態で、昼間は誰もいなくなる自宅にはおいておけなかったのだ。
木曜になっても四十度近い熱は一向に下がらなかった。食事もほとんど喉を通らず、食べても吐いてしまうことが多い。うなされていることもしばしばで、時折ほとんど意味不明のうわごとを言う。唯一聞き取れたのはマネージャーの名前。
ヴァッシュの母と姉夫婦、レムの四人が深刻そうな表情でリビングに集まった。ヴァッシュは睡眠薬を飲んで今はどうにか眠っている。
 彼は辛いことや自分の悩みを決して言わない。顔ではにこにこと笑って、人知れず心の奥底に抱え込んでしまう。
 大抵は折り合いをつけられるのだが、うまくいかない時がごく稀にある。そして許容量を超えた時、心因性発熱という形で表に現れるのだ。
「去年の夏以来ね…」
眉根を寄せレムの母が呟いた。あの時甥が呼んだのは父親だった。
「…レム、心当たりはないのか?」
「ええ…マネージャーに訊いてみようと思ったんだけど、彼女の表情も暗いの」
声をかけようとしてためらってしまったほど。
「明日何とか話をしてみるわ」
不意に聞こえたかすかな嗚咽に、三人は首を巡らせた。ヴァッシュの母が声を殺して泣いている。
「…私達のせいで…あの子に…こんなに辛い思いをさせて…」
レムの母は普段は弱音など吐かない妹に寄り添うと、その手をしっかりと握った。
「大丈夫よ。あの子は強い子だもの。あなたがそんな情けない顔をしてどうするの」
「そうですよ。…それに、私はこれが必ずしも悪いことだとは思ってないんです」
意外な発言にレムの両親はまじまじと娘の顔を見た。ヴァッシュの母も涙に濡れた顔を上げ、姪を食い入るように見つめる。
「小学生の時に二回、中三の時に一回…発熱の原因は全部家族でしたよね。…今回の発熱は、あの子が初めて 家族以外で家族と同じくらい大切だと思える人ができた証拠じゃないでしょうか」
友達は大勢いるのに深く寄せつけない。誰にとっても近くて遠い存在、それがヴァッシュだ。
「…ヴァッシュが、そのマネージャーの子を…」
「ええ、間違いないと思います。本人は自覚してなかったようですけど…」
言われてみれば思い当たる節はある。メリルの話をする時は、それが叱られたことであっても嬉しそうな顔をしていた。いつもとは違う心からの笑顔。
「これをきっかけに変われるかも知れない…そんな風におっしゃったのは叔母様ですよ? 学校では私ができるだけフォローします。今は苦しい時ですけど、あの子なら必ず乗り越えられます」
根拠はない。それに、担任でも野球部の顧問でもない自分が学校でできることなどたかが知れている。それでもレムは力強く肯いてみせた。


夕べはああ言ったものの、どうやって話を聞こうか…。保健室で机に向かいながら、レムは小さくため息をついた。
 養護教諭である以上、用もないのに勝手に保健室を離れる訳にはいかない。何より、第三者のいるところでできる話ではなかった。
いいアイディアが浮かばないまま昼休みになった。体調を崩したり怪我をした生徒もなく、珍しくゆっくり食事ができた。
口紅を手早く直した時、控えめにドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼します」
聞こえた声に、レムは勢いよく振り返った。
入室してきたのはメリルだった。普段は宗教や信仰心とは無縁の癖に今だけ調子よく神に感謝しながら、レムは何食わぬ顔でメリルを迎えた。
「どうしたの? 頭痛? 腹痛?」
明るく声をかけながらそれとなく様子を窺う。あまり眠っていないらしく、目の下にうっすらとクマができている。
 表情は相変わらず暗く、快活さが感じられない。
「いえ…私は何ともありません。…その…」
「ヴァッシュのこと?」
「…はい」
思い切って自宅に電話をしたのだが、留守番電話が応答するだけだった。休んでいるところを起こしてしまうかも知れないのが申し訳なくて、メッセージも残さず早々に電話を切った。
レムは自分の席に一番近い椅子をメリルに勧めた。
「月曜日の放課後、ウォーミングアップの最中に具合が悪くなって保健室に向かう途中で倒れたと聞きました。…あの、ヴァッシュさんの容態は…」
「熱が高くてね。今朝からようやく下がり始めたところ。昼間一人じゃ不安だから、今はうちにいるわ」
あの人のご両親も共働きなのかしら。メリルは疑問に思ったが質問はしなかった。
「お医者様の診断だと、身体には異常はないってことなの。とすると心因性の発熱ってことになるんだけど…原因の心当たり、ない?」
「私に…ですか?」
レムは無言のまま肯首し、思案を巡らせるメリルをじっと見つめた。
「…やはりキャッチャーのことではないでしょうか。…あの日の放課後、私、キャッチャー候補の方に入部の交渉をしたんです。でも、その結果はヴァッシュさんにはお話ししてません」
嘘を言っているようには見えない。第一、事実を隠して彼女が何か得をするとも思えない。
「その候補の人…何ていう名前?」
「ニコラス・D・ウルフウッドさんです。十月に転入してきた人です」
心の中でその名を復唱する。うわごとにそれらしい言葉はなかった。
 原因はメリル以外には考えられないのだが、倒れる直前に会っていなかったとすると…
答えが見つからず、レムは僅かに目を細めた。
軽やかなチャイムが鳴る。五時限目の予鈴だ。慌てて立ち上がったメリルをレムは咄嗟に呼び止めた。
「交渉の結果はどうだったの? 思わしくなかったの?」
「いえ…そういう訳では…」
曖昧に答えながら、メリルは目をそらせた。
更に尋ねようとしたレムより早く、メリルは失礼します、と一礼して保健室を出ていった。
翌日もメリルは保健室を訪れた。昨日と違うのはセーラー服ではなくジャージ姿だという点である。
「土曜日も部活じゃマネージャーも大変ね」
「いえ…」
短い返答はやはり歯切れが悪い。微笑みに混じる翳り。
「お手数をおかけしてしまうのは申し訳ないんですが…これをヴァッシュさんに渡していただけないでしょうか」
レムは受け取った真新しい大学ノートをぱらぱらとめくった。五日分の授業の内容が几帳面な字で綺麗に書いてある。
だが、何故かレムはそのノートをメリルに返した。
「ごめんなさい、これは預かれないわ。…ヴァッシュ、今日自宅に戻った筈なの」
もう大丈夫だからうちに帰るね。出勤前に様子を見にいったレムに、布団に身を起こしたヴァッシュはかすかに微笑みながらそう言った。無理をしているのがひしひしと感じられる笑顔。
体調も精神面もとても大丈夫には見えないが、頑固な従兄弟は一度言い出したらきかない。小さく吐息すると、レムは『絶対無理はしないでね』とだけ言い部屋を出た。
メリルに嫌われたのが発熱の原因ではないかと考えていたのだが、いくらクラスメイトでマネージャーでも嫌いな人の容態をわざわざ訊きに来たり余分にノートを取ったりするとは考えにくい。
「時間があるなら家まで届けて貰えないかしら」
暫し思案した後、レムはそう提案した。
今ヴァッシュをメリルに会わせるのは賭けだ。吉と出るか凶と出るか皆目見当がつかないが、彼女なら従兄弟を苦しめるようなことはしないだろう。
「え、でも…」
具合が悪くて休んでらっしゃるところへお邪魔するのは、などと固辞するメリルをレムは説得した。
「…あなたがお見舞いに来てくれたら、あの子きっと喜ぶわ」
「そうでしょうか…。口うるさいのがやってきた、なんて言われそうな気がします」
「そんなことないわよ!」
レムの熱意に押し切られ、メリルはとうとう肯いた。


主将に許可を貰い早目に部活を抜けたメリルは、住所を頼りにヴァッシュの自宅へと向かった。こじんまりした印象のマンションに彼の住まいはあった。
玄関の前で何度か深呼吸し、心を落ち着けてから呼び鈴を押す。ややあってインターホンから女の声で返事があった。
『はい』
「あの、私ヴァッシュさんのクラスメイトでメリル・ストライフと申します」
ヴァッシュさんのお母様かしら。そんなことを考えながら、メリルは無意識に普段よりいくぶん早口で話した。
『メリルさん…少々お待ち下さい』
用件を言う前にインターホンは切れた。しばらくして静かにドアが開き、黒髪の中年女性が顔を出した。
「あの、ヴァッシュさんのお母様でいらっしゃいますか?」
「いえ、私はあの子の伯母です」
「それじゃセイブレム先生の…」
言われてみれば顔立ちが似ている。
ヴァッシュと従兄弟だという話は学校ではしていない、と娘から聞いている。この子を全面的に信頼している証拠だと伯母は思った。
「こんなところで立ち話も何ですから、どうぞ」
「いえ私は」
言いかけたメリルに背を向け、先に立って歩いていってしまう。メリルは仕方なく靴を脱ぎ、お邪魔します、と挨拶してから部屋に入った。
玄関を入ってすぐキッチンがあった。ガス台やシンク、冷蔵庫などが並び、反対側に正方形の小さなテーブルと椅子が四脚。
 ドアがいくつかある。他の部屋に続いているのだろう。
メリルに椅子を勧めてから、伯母はすぐ横のドアを指し示し声を潜めて言った。
「この部屋にヴァッシュがいますけど…お会いになります?」
「いえ…体調が悪くて休んでらっしゃるのを邪魔したくありませんから…」
自分以上に小さな声で答えられ、伯母の口元がほころんだ。すぐに失礼しますからどうぞお構いなく、という声を聞き流し、お茶の準備をする。
紅茶を満たしたカップが二つテーブルに置かれた。ヴァッシュの伯母が椅子に座るのを待ってメリルは口を開いた。
「ヴァッシュさんの具合はいかがですか?」
「熱はだいたい下がりました。来週から登校できると思います。あまり食べられないのが気がかりですけど」
「そうですか…」
メリルは俯いた。安堵と不安が入り交じった表情。菫色の双眸が僅かに揺れる。
この子は本当にヴァッシュのことを心配してくれている…。これまでいろいろと話を聞き、今こうして直接会ってみて、伯母はメリルが二人の言うとおりの子だと確信した。
「大丈夫ですよ。たまにあるんです。去年の夏に父親が再婚したと聞いた時にも寝込んでしまいましたから」
「えっ?」
メリルははじかれたように顔を上げた。再婚した、ということは、それ以前に離婚しているということになる。初めて聞くヴァッシュの両親に関する話はメリルにとってショッキングなものだった。
 彼女の表情を見て、伯母は自分の失言に気がついた。甥がそういった話までしていると思っていたのだ。
気まずい沈黙を破ったのは年長者だった。
「…ごめんなさい、急に変な話をして。てっきりヴァッシュから聞いてると…」
メリルはヴァッシュについて知っていることを思い起こし、その少なさに愕然とした。本人の口から直接聞いたのは、就学以前にこちらに住んでいたことと中学卒業と同時に戻ることになったのでトライガン学園を受験したことくらいだ。
理解していると思っていたのは勘違いだったのか。鮮明だった彼の姿が突然ぼやけた――そんな気がした。
出された紅茶を二口ほど飲んで、気持ちを無理矢理切り替える。味わう余裕はなかった。
「私、これを届けに来たんです」
メリルは大学ノートを差し出した。
「…ヴァッシュさんに『どうぞお大事に』とお伝え下さい。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げるとメリルは立ち上がった。
「もうお帰り?」
「はい、失礼します。もともとノートを届けるだけのつもりでしたから…」
玄関で『紅茶、ご馳走様でした』と一礼するメリルに、伯母は真摯な声で呼びかけた。
「ヴァッシュのこと…助けてやって下さいね」
「…私に…できることでしたら」
相手の目をまっすぐ見つめて答えると、メリルは会釈して静かにドアを開け外に出た。音を立てないようそっとドアを閉める。
『今の私にできること…』
思いつくのは一つだけ。そしてそれは自分にしかできないことでもある。
駅に向かって歩くメリルの表情が厳しいものに変わった。

エピローグ
ヴァッシュは月曜日から登校したが、部活に復帰するまで更に三日を要した。それでも本調子には程遠く、練習の一部にだけ参加している。
ピッチャーの表情が冴えないのは病み上がりだからだとして、どうしてマネージャーまであんな暗い顔をしているのか。――顧問及び主将以下計九人の率直な感想である。ギリアムがメリルに何度か尋ねたがはぐらかされてしまった。
表面的には何事もなく、時は穏やかに過ぎてゆく。
ヴァッシュが倒れてから二週間後、帰ろうとしていたウルフウッドは昇降口でメリルに呼び止められた。差し出された白い封筒の表書きを一瞥し、視線を強張った顔に向ける。
「あなたのお望みのものですわ。これから顧問の先生に渡しに行きます」
「…ほうか」
呟くように言うと、ウルフウッドはメリルに背を向け歩き出した。いつもと変わらぬ足取りからは、彼の心情は窺い知れなかった。
職員室のドアをノックし、一礼して室内に入る。顧問が自分の席にいたのはメリルにとって幸いなのか不幸なのか。
「先生…」
「ん? どうした、何か用か?」
事情を説明しようと思うのだが声が出ない。メリルは無言のまま部室の鍵とFD、そして白い封筒を顧問に手渡した。
FDには、この十日ほどの間に作成した練習メニューやゲームの組み立て案などのデータを収めておいた。封筒には表書きどおり退部届が入っている。
顧問は封筒の端を手で裂き、中身を取り出して黙読した。文面は合宿の時と同じ、違うのは日付と、きちんと署名がしてあることだ。
軽く眉を上げ、俯くマネージャーを見つめる。
「…理由を教えては貰えんのかな?」
「…訊かないで下さい」
やっとの思いでそれだけ言う。声が震えているのが自分でも判った。
メリルの手を取り鍵をしっかり握らせてから、顧問は机に置いた退部届を目で示した。
「とりあえずこれは預かっておこう。部員には、マネージャーは家の都合でしばらく部活を休むとだけ言っておく」
「…はい」
深くお辞儀をして踵を返す。メリルは逃げるように職員室を後にした。
「…これが…今の私にできること…」
廊下を歩きながら、メリルは自分に言い聞かせるように何度も小声で呟いた。教室に行き、自分の鞄を持つ。
昇降口で靴を履き替える。いつものように校庭へ向かおうとして、途中で気づきぎくりとする。
「もう…行っちゃ…駄目なの……」
野球部に自分の居場所は…ない。
方向転換して校門に向かう。後ろ髪を引かれる思いを押し殺しながら。
喉が痛い。目が熱い。それほど寒くないのに身体が震える。
見慣れた門が酷くぼけて、幾重にも重なって見えた。

―FIN―
vp4




口々に理由を問う声を、メリルは苦笑しながら両手を上げて制した。
「お料理が冷めてしまいますから、まずは召し上がって下さい。事情は食事の後でお話ししますわ」
主将を除く十一人の部員は、狐につままれたような表情でとにかく席についた。
普段よりかなり速いペースで食べ終えると、ヴァッシュ達は顧問や主将、メリルに視線を走らせた。三人が顔を見合わせる。結局メリルが三人を代表するように口を開いた。
「部内の雰囲気がおかしくなっていたのは皆さん感じてらっしゃったと思います」
一同首を縦に振る。
「そこで、やる気のない方にやめていただくために一計を案じましたの」
それがメリルの退部劇だった。
「本当に野球が好きなら、誰がやめようと部に残るでしょうから。…まさか半減するとは考えてませんでしたけど」
「その役俺がやるって言ったんだが、マネージャーが聞かなくてね」
嘆息交じりにギリアムが呟く。
「主将がやめるとなったら、皆さん酷く動揺されたと思いますわ。私でちょうどよかったんです」
「そうでもないぜ? 午前中の練習なんて皆沈んじまって、まるでお通夜みたいだった」
特にピッチャーは。ギリアムは声を出さずに苦笑した。
「…で、でも先生は『退部届を受け取った』って…」
「ええ、提出しましたわ」
まだ混乱の収まらないヴァッシュの質問に、メリルはにっこり笑って答えた。そのまま視線を顧問に向ける。
広げたレポート用紙がテーブルの真ん中に置かれた。今朝読み上げられた文章が書いてある。古株の部員は、その字がメリルのものだとすぐに判った。
「署名してませんから、これは無効ですわね」
「…何もそこまで小道具に凝らなくても…」
副主将のぼやきももっともだ。
「退部届の書き方が判らない方がいらっしゃるかも知れませんでしょ? 一例を先生に音読していただいたんですの」
「はぁ…」
そこまで考えての行動とは…もはやため息しか出ない。そんな中、口を開いたのはまたもヴァッシュだった。
「朝食の準備をした後、キミはどこにいたの?」
「軽トラックの荷台ですわ。荷物も一緒に」
ナスティを駅で降ろした後で助手席に移り、買い物をして戻ったのだ。課題の送受信もきちんと済ませた。
「…それじゃ、キミは退部しないんだね?」
「ええ勿論。…退部して欲しいんですの?」
「とんでもない!!」
キミにいて欲しい。いてくれないと困る。
ようやく表情が明るくなった部員を見回し、メリルは笑顔で言った。
「この人数なら、もう少し手の込んだものも作れると思いますわ。お夕飯、期待して下さいね」
「ほんと!? ドーナツは!?」
期待に胸を膨らませ、拳を固めて立ち上がる。
「作りません」
あっさりと否定され、ヴァッシュはそのままの姿勢で後ろに倒れた。咄嗟に身体を捻ってバランスをとろうとしたが失敗し、椅子ごとひっくり返ってしまう。派手な音が食堂に響いた。
「てててててててて」
「何してるんですのっ、怪我はありません!?」
「ごめんなさいっ、大丈夫です!」
怒りと心配半々のメリルの声。それに条件反射で敬語で答えるヴァッシュ。合宿中もそれ以前にも幾度となく見られた光景に大きな笑い声が上がった。――たった一人、笑わなかった者がいた。

ⅩⅠ
その後、野球部は怪我人が出ることもなく、順調に残りのスケジュールを消化していった。
練習に関しては問題は全くなかったが。
「メリルさん!」
ここ数日、メリルはキールの姿を見たり声を聞いたりする度に目眩を覚えるようになっていた。
「僕は君を誤解していた! 勉強だけが取り柄の嫌な女だと思っていたが、それは僕の勘違いだった!」
平手打ちで打ち所が悪い、なんてことがあるのかしら…。メリルは何度も半ば本気で考えた。
「権利を主張する前に己の義務を果たす…素晴らしい! 何かして貰うことばかり考える女性が大半を占める中、君は貴重な存在だ! 現代女性の手本だ!!」
うんざりするほどくり返し聞かされた台詞。続く言葉も判っている。
「僕は君が好きだ! 僕と付き合って欲しい!!」
「お断りします」
くり返し口にした返事。それでもキールは懲りずにやってくる。粘り強いというか、諦めが悪いというか。
「おいヴァッシュ、あの二人に何があったのか知ってるか?」
「いえ…」
メリルと約束したのだ。あの晩のことは言わないと。誰に訊かれてもヴァッシュはとぼけた。
逃げる女、追う男。まるで喜劇のような二人に最初は笑っていた部員達も、あからさまなキールの言動に次第に苛立ちを感じるようになった。野球部内では部員とマネージャー。部活中は立場をわきまえてもらわなければ困る。
何より、メリルが迷惑そうなのは誰の目にも明らかだ。ギリアムが何度も注意したが、キールはやめようとしなかった。
合宿最終日。朝食の席で無断で隣に座られた挙げ句食事もそこそこにしつこく話しかけられ、とうとうメリルの堪忍袋の尾が切れた。
「野球部は、野球が好きで野球をやりたい人が来るところです! 女性を口説く場だと思っているような人は軽蔑しますわ!!」
入部した当初の目的はメリルの勉強法を探ることだった。野球は好きでも何でもない。メリルの為にこれから真剣に取り組もうにも、他の部員との溝は修復不能なほど深くなっていた。
 このまま居座っても自分だけが浮いてしまう。想う相手の近くにいられるのは嬉しいが、嫌われては元も子もない。
キールは退部届を提出した。
だが、彼は諦めた訳ではなかった。
合宿の疲れが出たのだろう。行きの電車でははしゃいでいた部員達も、帰りの電車では大半が舟をこいでいた。
二人がけの席が向き合う車内で、ヴァッシュの斜め前に座っているメリルも例外ではなかった。
窓にもたれかかるようにして眠っているメリルの姿に、ヴァッシュの口元に我知らず笑みが浮かんだ。
自分のすべきことをきちんとこなし、時には周囲の度肝を抜くようなことをやってのけ、時には自分より大柄な男を怒鳴りつける彼女も、寝顔はこんなにも穏やかであどけない。――
不意に肩を叩かれ、首を巡らせる。いつになく真面目な表情のギリアムが立っていた。
「ちょっといいか?」
二人は電車の連結部まで移動した。
「ヴァッシュ、お前はマネージャーとは同じクラスだったな」
「はい…それが何か?」
ギリアムは、写真部と兼部していた四人がメリルを隠し撮りしていたことをヴァッシュに打ち明けた。
「おかみさんが気づいてくれたんだ。風呂場の近くをうろついていたこともある。連中が持ってたフィルムは民宿のご主人とおかみさんに頼んで、あの退部届のゴタゴタがあった朝食の時に全部抜いて貰って焼却した」
あんまり誉められるやり方じゃなかったけどな。半ば自嘲するように呟き肩を竦める。
メリルが退部届を出したことにしたのは正解だったと今は思う。そのお陰で、彼女目当てで入部してきた連中を一掃できたのだから。
「…四人とも退部したが、またやろうとするかも知れない。気をつけてやってくれ」
「主将、その話、マネージャーにはしたんですか?」
「してない。折を見て、それとなく注意するつもりではいる。…キールのこともあるし、これ以上マネージャーの心労を増やしたくないんだが」
ヴァッシュは緊張した面持ちで肯首した。
「判りました。気をつけます」
「頼む」

ⅩⅡ
最後は個別解散になった。自宅の最寄り駅に着いた者から順次抜けていく。ヴァッシュはメリルと同じ駅で電車を降りた。
「…な――んであなたまでついて来るんですの」
自宅の住所からすると、ヴァッシュが降りる駅は四つほど先の筈。
「あ…いえいえおかまいなく!!」
主将からあんな話を聞かされた後では、とても彼女を一人で返すことはできない。かと言って事情を説明できる訳もなく、ヴァッシュはいつもの笑顔で誤魔化しつつメリルに続いて改札を抜けた。
「せんぱ~い!」
その声にメリルは辺りを見回した。ヴァッシュとあまり変わらない身長の少女に目を留める。
「ミリィ!」
メリルが呼びかけると、少女は金髪を揺らしながら元気よく駆け寄った。
「お帰りなさい、先輩!」
「ただいまミリィ。出迎えてくれたのは嬉しいんですけど、今回は野球部の合宿ですからお土産はありませんのよ」
「ハイ、それは判ってます。そうじゃなくて…その、チケットをお願いしたいんです」
ミリィは俯き加減で言いにくそうに言った。声がだんだん小さくなっていき、語尾はよく聞き取れないほどだった。
ヴァッシュは首をかしげた。この夏休みの間に彼女についていろいろ知ることができたけど、何かのチケット取りが得意だとは知らなかった。病院のコネなのだろうか…。
などと考えつつ隣を見ると、言われた本人が僅かに首を傾け悩んでいた。
「ミリィ…もしかして、助っ人ですの?」
「はいそうです! …あり? あたし、また何かチガウことゆいました?」
暑いからではない汗が額に浮かぶ。妙に強張ったミリィの笑顔に、ヴァッシュとメリルは同時に吹き出した。
「あ、ヴァッシュさん、紹介しますわ。こちらはミリィ・トンプソン。私の中学時代の後輩ですの。ミリィ、こちらが」
「ヴァッシュ・ザ・スタンピードさんですよね! 人間国宝の!」
にこやかに間違われ、ヴァッシュは派手にずっこけた。
「…そんな偉い人じゃないよ。人間台風って呼ばれたことはあるけどね」
姿勢を正し、やんわりと訂正する。ミリィは顔を赤くして縮こまった。
「あ、あの…ごめんなさいっ」
「この子、よく言い間違えるんですの。悪気はありませんから大目に見てやって下さいな。それに、予選の時には応援に来てくれてたんですのよ」
「そうなんだ。どうもありがとう。…それじゃあらためて。ヴァッシュ・ザ・スタンピードです。よろしく」
「ミリィ・トンプソンです」
二人はしっかり握手した。
「で、助っ人って何のですの?」
「実は~…夏休みの宿題が~…」
「教科は何ですの?」
「…英語と数学…」
メリルは腕時計に視線を走らせた。家庭教師が来るまであと二時間もない。
「ここに持って来てますのね? …今日は一時間ほどしか余裕がありませんの。あそこの喫茶店で見せて下さい。ヒントを書きますから」
三人は駅前の喫茶店に入った。
メリルはアイスティーの氷が溶けるのも構わず、三割ほどが手つかずの問題集に目を通した。英訳のキーになる単語や当てはめる公式を余白に書き込んでゆく。作業の邪魔をしないよう、手持ち無沙汰の二人はお茶を飲みつつ小声で話をした。
「…できましたわ。まずは自分でやってみて、どうしても判らなかったら電話して。…頑張ってね」
「はい、がんばります!」
急いでアイスティを飲み干し、メリルは席を立った。
「それじゃ、私は失礼しますわ。ゆっくりできなくてごめんなさい」
「待って。家まで送るよ」
ヴァッシュの言葉にメリルは目を丸くした。
「…まだ昼間ですのよ。送っていただくような時間では」
「荷物持ち。大変でしょ?」
「でも」
「電車ではよく寝てたし、疲れてる時くらいいいじゃない」
「は~い、あたしも荷物持ちやりま~す!」
ヒントのお礼です、とニコニコ笑う後輩の顔がどことなくヴァッシュに似ていることに気づいて、メリルは僅かに苦笑した。
善意の申し出を無下に断るのは悪いような気がするし、押し問答している時間はない。
「…ありがとうございます。お願いしますわね」
ヴァッシュが旅行鞄を、ミリィがアタッシュケースを持った。大柄な二人に挟まれ、メリルは手ぶらで足を進めた。
閑静な住宅街にメリルの家はあった。白い外壁の建物を手入れの行き届いた庭が包み込んでいる。駅から十分もかからなかった。
「本当にありがとうございました。助かりましたわ」
「どういたしまして」
答える声が見事に重なり、三人は顔を見合わせて笑った。
「それじゃ私はこれで。ヴァッシュさん、明日学校で。ミリィ、受験生なんですから体調には気をつけて」
「うん、またね」
「先輩もダボハゼに気をつけて下さいね!」
「…夏風邪と夏バテには注意しますわ」
苦笑混じりの笑顔を残して、小さな背中がドアの向こうに消えた。

ⅩⅢ
 今来た道を引き返しながら、ヴァッシュはミリィに合宿でのエピソードを面白おかしく語った。
「…でもさ、いきなり退部届を出すなんて、ずいぶん思い切ったことするよね。あの時は本当にビックリしたよ」
「あははは、先輩らしいですぅ」
笑いを収めたミリィがふと目を伏せる。
「…よかった、先輩楽しそうで」
独り言のような呟きに翳りを感じて、ヴァッシュは顔を横に向けた。
「…もしかして、マネージャーはトライガン学園に来たくなかったのかな?」
「え?」
「さっきのキミの発言と表情からすると、ね。それに、同じ学年の奴が『マネージャーが高校受験に失敗した』って言ったのを聞いたことがあるんだ」
ミリィは押し黙ったままだった。駅はもう目の前だ。
「僕は高校からこっちに来たから、皆の中学時代のこととか全然知らなくて。…あ、興味本位とか野次馬根性で知りたい訳じゃないんだ! その…何ていうか…」
「…先輩は何も言わないんですか?」
「うん。…でも駄目だよね。マネージャーが話したがらないことを後輩のキミから聞こうなんて…。ごめん、忘れて!」
拝むように顔の前で両手を合わせるヴァッシュに、ミリィはにっこり笑いかけた。
「ヴァッシュさん、時間あります?」
「僕は大丈夫だけど」
「もう一回お茶しましょう!」
二人は先刻までいた喫茶店に入った。店の奥、壁際で周りに誰もいない席に腰掛ける。
注文を済ませると、ミリィは俯き小さくため息をついた。
「言い訳しないなんて…ほんと、先輩らしいです…」
ややあって顔を上げると、ミリィはある有名進学校の名前を挙げた。
「先輩の第一志望ってそこだったんです。『合格確実、絶対間違いなし』って言われてたんですよ。でも…」
試験当日、会場に向かうメリルの目の前で年配の主婦がバッグを引ったくられた。メリルはすぐに警察に通報し、主婦を病院へ搬送させると共に犯人の特徴や乗っていたバイクのナンバー等を事細かに証言した。正確な情報と緊急手配によって犯人はすぐに逮捕され、バッグは無事持ち主の手に戻ったのだが。
「…先輩、そのせいで遅刻して、一科目試験が受けられなかったんです」
主婦や警察が追試を嘆願したのだが、学校側の判断は『遅刻の理由は個人的なもので、追試は認められない』
だった。主婦の投書がきっかけで、個人名や学校名は出さない形で一部の新聞に取り上げられたりもしたが、とうとう判断は変わらなかった。
「それで…先輩、落ちちゃったんです…」
メリルがトライガン学園を受験したのは、学校が自宅に近く本命の学校より試験の日が早かったからで、単に試験慣れをする為だった。滑り止めにするつもりなど毛頭なかった。
「親戚の間でもずいぶんいろいろ言われたみたいです。『一族の恥さらし』とか…。一年浪人するか、大検受けて大学受験するか、いっそ留学させよう、なんて話も出たって聞きました。…あ、大姉ちゃん…あたしの姉が看護婦で、先輩んとこの病院で働いてるからいろいろ知ってるだけで、先輩が言った訳じゃないですよ!」
医者になるのに最短コースを走らなければならない理由はない。メリルの祖父の意見で、彼女はトライガン学園に入学することになった。
卒業式の日、メリルの顔を見たら涙が溢れた。いいことをしたのに、意に染まない進学をしなければならなくなった先輩の気持ちを思うと止まらなかった。
しがみついて泣きじゃくる後輩を抱きしめ、大きな背中を撫でながらメリルは言った。
「泣かないでミリィ…私なら大丈夫だから、心配しないで」
もし時間が巻き戻せてあの日に戻れたとして、同じ場面に遭遇したとしたら、やっぱり私は同じことをしますわ。
 それに、高校は人生の通過点。夢には少し遠回りになるかも知れませんけど、道がなくなった訳ではありませんのよ。
だから、私は大丈夫。お願いだからそんなに泣かないで。
ようやく顔を上げたミリィに、メリルは優しく微笑みかけた。
話を聞き終えても、ヴァッシュは何も言えなかった。途中から俯いてずっとテーブルに目を向けていた。
「ヴァッシュさん」
短い沈黙の後名前を呼ばれ、顔を上げる。ミリィが真剣な表情で自分を見つめていた。
「ヴァッシュさんは、先輩のこと好きですか?」
「え!?」
突然の質問に目を白黒させるヴァッシュに構わず、ミリィは身を乗り出した。
「あたしは先輩のこと大好きです。真面目で、どんなことにも一生懸命取り組んで、言い方きつい時があるから誤解
されちゃうこともあるけど…でも、すっごく優しい人なんです!」
「うん…そうだね」
知ってる。いつも気丈で、頑張り屋で、甘えるのが下手で、たまに一人で突っ走る。そして、さりげなく相手を思いやれる人だって。
「ヴァッシュさんは先輩のこと…どう思ってるんですか?」
「…好きだよ」
想いを言葉にするのがこんなに気恥ずかしいことだとは思わなかった。言った後で顔が赤くなったのが自分でも判る。
「あ、と、友達として!!」
ピコピコしながらそう付け足したヴァッシュに、ミリィはとびきりの笑顔を向けた。まっすぐに自分を見て答えてくれたことが嬉しかった。
「…よかった。先輩のそばにヴァッシュさんみたいな人がいてくれて。…もし、誰かが先輩のこと苛めたり困らせようとしたら、ヴァッシュさん、先輩を守って下さいね。お願いします!」
深々と頭を下げ、目の前にあった空のクリームソーダのグラスに額をぶつける。
「だ、大丈夫!?」
「大丈夫ですぅ。あたしドジだからよくやるんです、こういうの」
 倒れそうになったグラスを咄嗟に手で支えたのは、反射神経がいいからというより単に慣れているかららしい。
苦笑いを浮かべるミリィにつられるようにヴァッシュも微笑んだ。
「…約束するよ。僕は、キミの大切な先輩を…必ず守ってみせる」
静かな声の中に強い意志を感じて、ミリィはにぱっと笑った。

エピローグ
 夏休み最後の日も酷く暑い一日になった。
合宿前はマネージャーを除いて二十三人いた部員も、今は九人になっていた。合宿の後、陸上部と剣道部から転部してきた二人が相次いで退部届を出したのだ。試合を見て感動し熱に浮かされるように入部したものの、個人競技と団体競技の差もあって馴染めなかったのだろう。二人とも元の部に戻っていった。
野球部としての体裁は何とか整ったが、大きな問題が残されていた。キャッチャーがいないのだ。
ヴァッシュの投げ込みの相手はいつも学校の塀だった。跳ね返って転がるボールを拾うのはマネージャーの仕事である。
いつまでも、この状態でいてはいけない。
「もう一度…探してみようかしら…」
「駄目」
独り言のつもりだった小さな呟きを厳しい声に却下され、メリルは驚いて顔を上げた。いつの間にかヴァッシュが横に立っていた。
「人探しはマネージャーの仕事じゃない」
試験休み中のようなことは二度とあってはならない。絶対に。
なおも言い募ろうとするメリルにヴァッシュは微笑みかけた。
「大丈夫、心配しないで。もうすぐ会えるような気がするんだ」
勿論でまかせである。確証など何もない。
「…どうしてそんなことが言えるんですの?」
一瞬の沈黙の後、ヴァッシュは短く答えた。
「男の勘」
「…何ですの、それ」
くすくす笑うメリルにヴァッシュの口元も自然とほころんだ。
陽射しが柔らかくなり、風がほんの少し涼しくなってきた頃、部活は終わった。
「明日は昼食後部室に集合すること。解散!」
「お疲れ様でしたー!」
いつもの挨拶をした後部員がクラブハウス目指して走り出す。ヴァッシュもそれに続きながら、木陰で顧問と立ち話をしているマネージャーに視線を走らせた。今、彼は差し迫った問題を抱えていた。
『駄目、かな…駄目だろうな…』
途方に暮れる、ってこういう状況を言うんだろうな。汗の始末をしてのろのろと着替えながら、ヴァッシュは小さくため息をついた。
「どうしたヴァッシュ、疲れたか?」
ようやく制服を着たヴァッシュにギリアムが声をかけてきた。慌てて辺りを見回せば、部室にはいつの間にか二人しか残っていない。
「いえ、何でもないです」
「そうか…今日はしっかり休めよ。お先に」
「失礼します」
笑顔で主将を見送った後、ヴァッシュは僅かに苦笑した。
「…休んでる場合じゃないんだよね…」
気を取り直して荷物をまとめ、部室を出る。クラブハウスの壁にもたれかかるようにして、セーラー服姿のメリルが立っていた。足元に彼女がいつも使っている鞄と紙袋が置いてある。
「あ、えと、マネージャー…ごめん遅くなって。鍵かけに来たんでしょ? 僕で最後だから」
「それもありますけど…」
メリルは壁から身を離し、ヴァッシュの前に歩み寄った。
「…漢文と古文かしら?」
ヴァッシュはぽかんと口を開けた。目が真ん丸になる。
「ななな、何で判ったの!?」
裏返った声に、メリルは悪いと思いながらつい笑ってしまった。
「ヴァッシュさん、その二つは本当に苦手ですものね」
彼の苦手科目は国語だ。現国はまだいいのだが、漢文と古文が足を引っ張っている。特に漢文は、日頃から『画数の多い漢字を見ると頭痛がする』と言っているだけあって、天敵と呼んでも差し支えないくらいだ。
その二つだけ夏休みの宿題が残っている。提出期限は始業式の日、つまり明日。レムに教えて貰おうとしたのだが、あっさり断られてしまった。
メリルは紙袋の中から問題集を二冊取り出し、ヴァッシュに差し出した。
「…今回だけですわよ。明日、忘れずに持って来て下さいね」
「うん、ありがとう!」
頼んでも絶対に見せて貰えないと思ってた。ヴァッシュは内心首をかしげながらもありがたくそれを押し頂いた。
「 お礼ですわ」
ミリィがお世話になった。
え? 何か言った?」
口の中で呟いただけの声はヴァッシュには聞き取れなかった。メリルは無言のまま首を横に振り、曖昧に微笑んで誤魔化した。
昨日、メリルはミリィから無事宿題が終わったと電話を貰った。
『先輩とヴァッシュさんのお陰です!』
ミリィは、メリルを送った帰りにもう一度ヴァッシュとお茶したことと、その時ヴァッシュが自宅の住所と電話番号を教えてくれたことを話した。ヴァッシュとは毎日部活で顔を合わせているのに、メリルにとって初耳のことだった。
『マネージャーはいろいろと忙しいみたいだから…数学と英語なら僕得意だし、教えられると思うんだ。昼間は部活でいないけど、夜はたいていいるから遠慮なく電話して。…あ、漢文と古文はナシにしてね』
ヴァッシュは照れくさそうな表情でそう言ったのだという。
そしてミリィは度々ヴァッシュに電話をし、メリルに頼ることなく何とか全ての解答欄を埋めた。
『先輩、ヴァッシュさんて、ほんっとーに優しい人ですね!』
しきりにヴァッシュを誉めた後電話は切れた。受話器を戻しながら、メリルは心が温かくなっているのを感じた。
「本当、優しすぎるくらいですわ…」
自分に負い目を感じさせないよう、こっそりやるところがいかにも彼らしい。
くすりと笑って、ふとメリルは疑問を感じた。
『あの人のほうはどうなっているのかしら』
ここ数日、自分に向けられる何か言いたげな視線を思い出し、ある答えを導き出す. そしてメリルは今日、夏休みの課題を全て持って登校したのだった。――
ヴァッシュは何も言わずにメリルの紙袋を手に取った。ずっしりとした重さに即座に状況を理解する。
「…ごめんね」
小さく詫び、そのまますたすたと歩き出す。
「ちょっ…どこ行くんですの?」
「校舎。ロッカーにしまっとけば、明日また持ってこなくても済むでしょ? 早くおいでよ」
「ちょっとヴァッシュさん、待って下さい!」
メリルは急いで部室の戸締まりを確認し施錠すると、少し離れたところで自分を待つヴァッシュを追いかけた。
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