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うろほろぞ
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暗闇の向こうに


「あのう……すみません」
メリルは駅の北口で、突然見知らぬ中年女性に声をかけられた。妙におどおどした様子で、視線があちこち移動して落ち着きがない。
「はい、何か?」
その女はしばらくためらった後、ある駅名を口にした。
「眼鏡を忘れてしまって料金表が見えなくて……切符代はいくらになるんでしょうか」
「もしよろしければ、私が買ってきましょうか?」
券売機の数字を見るのも大変なのかも知れない。それに顔色が悪く、柱に手をついて身体を支えている。もし具合が悪いのなら動くのも辛い筈。
「……それじゃ、お言葉に甘えて……」
女が差し出した千円札を受け取ると、メリルは自分の鞄を柱の横に置いた。お金を持ってそのまま立ち去ることはしない、という意思表示のつもりだった。
「すぐ戻りますから、ここで待っていて下さいね」
微笑みながらそう言うと、メリルは軽やかな足取りで券売機に向かった。
ミリィとの待ち合わせまでに往復できるかしら。大丈夫そうなら、お節介かも知れませんけど同行を申し出てみましょうか……。そんなことを考えながら上を向いて言われた駅名を探していると、不意に誰かが横からぶつかってきた。相手の腕が身体に密着する。
「割り込みは……」
抗議しようとして、メリルは隣に立つ大学生風の男が自分に出刃包丁を突きつけているのに気づいた。コートの
上からでも充分刃が届く大きさ。
「騒ぐな。……一緒に来て貰おう」
「……切符を買ってからでもよろしいですか? あちらの柱のところにいらっしゃる女性の分です」
「その必要はない」
青年の横に女が並んだ。包丁を見ても何の反応も示さない。二人は共犯だったのだ。
「……お金、お返しします」
メリルはゆっくりと腕を動かし、持っていた札を女に差し出した。相手が受け取って財布に戻すのを確認し、肘を軽く曲げた青年の左腕に自分の腕を絡める。傍目には仲のいいカップルに見えるが、コートの下に隠した包丁でいつでもメリルの脇腹を刺せる体勢だ。
『無理は禁物ですわね』
常に冷静であれ。自分に言い聞かせながら、メリルは青年の歩調に合わせて歩き始めた。女は少し離れてついてきた。
三人は住宅街を抜け、坂道を登っていった。やがて常緑樹に覆われた山道に入る。
『ここは……』
知っている。四月に実際に走って、スペシャル外回りのコースに組み入れた道だ。この先に心臓破りと呼ばれている熊野宮神社への階段がある。
熊野宮神社はこの辺りの土地神様で、駅からそれほど遠くないのだが階段がきつく、年始や縁日の時を除いて訪れる人は少ない。人目を避けるには絶好の場所だ。
案の定青年は神社への階段を目で示した。昇れ、と。
「腕を外してもよろしいですか?」
「……妙なマネをしたら……判ってるな?」
山道に入ってからは誰にも行き合わせていない。隠す必要のなくなった出刃包丁を出すと、青年は軽く振ってみせた。木漏れ日に一瞬刃がきらめいた。
「ええ、判ってます」
メリルは小さく肯くと青年から離れた。言われる前に先頭を歩く。すぐ後ろを歩く青年の気配を感じながら。
階段をほぼ半分昇ったところで、メリルは足を止めずに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
それが自分に向けられていることに気づいて、肩で息をしていた女は思わず立ち止まった。昇り始めた時より二人との距離が開いている。メリルには見えなかったが、顔色は先刻よりも悪くなっていた。
「お前には関係ない!」
「……少しペースを落とします」
本当は手を貸したかったが、声を荒げた青年に許可を求めるのは危険だ。メリルは仕方なく歩く速度を落とすだけにとどめた。
神社には中年の男がいた。やはり手には包丁を持っている。
「妻はどうした?」
「まだ階段にいらっしゃいます。途中から遅れがちになられて」
「お前は黙ってろ!」
メリルは肩越しに振り返り、穏やかな表情で自分に包丁を突きつけている青年を見上げた。
「私は逃げたりしません。不安なら、どこかに縛りつけて下さって結構です。あの人に手を貸してあげていただけませんか?」
「何故お前がそんなことを気にする!?」
「……具合の悪い人を労るのは当然のことではありませんの?」
青年は目を見開いて、不安や動揺とは無縁の菫色の瞳を見返した。
「……階段に座れ。……おばさんを連れてきます。すぐに戻りますから、しばらくお願いします」
自分のズボンから外したベルトでメリルの両足首を縛ると、青年はメリルの真後ろに立った男に見張りを頼んで階段を降りていった。


ここで合流した男が、メリルをしげしげと眺めてから呟くように言った。
「あんた、トライガン学園の一年生だそうだな。…………俺の娘も高校生だった……」
「……アイリーンさん?」
ふと思いついて口にしたメリルの言葉に男の身体が硬直した。
「……そうだ。俺はアイリーンの父だ! お前の父親に殺されたアイリーンのな!」
メリルは僅かに俯くと静かに目を閉じた。新聞で死亡事故の記事を読み、後日父から聞いた葬儀での出来事を思い出す。
『ああ、それで私を……』
それきり会話は途絶えた。青年と女が到着してからも沈黙の時間が続いた。
一度男がその場を離れた。メリルは判らなかったが、男はメリルの自宅に電話をかけに行ったのだった。
日が暮れてから気温が急激に下がってきた。時折吹き抜ける冷たい北風がいっそう寒さを感じさせる。
「……これからどうするんですの?」
がたがた震えている女に目をやってから、メリルは男に質問した。声が震えたのは恐怖からではなく、寒さの為である。顔には出さなかったがメリルは困惑していた。
自分を餌に父を呼び出したいなら連絡をとった筈。病院からなら、二時間もあれば充分ここに来られ……
かぶりを振って脳裏に浮かんだ嫌な考えを打ち消し、違う可能性を模索する。
報復の為に自分を殺したいならとっくにそうしている筈。人影はなく、目撃される心配はない。凶器もある。
それなのに、何故?
「……ここに一晩中いたら凍死してしまうかも知れませんわ。せめて場所を移動しませんこと?」
「……命乞いのつもりか?」
青年の北風にも勝る冷たい言葉に動じることなく、メリルは言った。
「あの人の為ですわ」
メリルの視線を追い、青年は女に目を向けた。男もそれに倣う。
素人目にも様子がおかしいのはよく判る。紙のように白い顔色も身体の震えも、原因は寒さだけではないだろう。
「何か持病がおありですの?」
男は無言のまま首を横に振った。いつも明るく元気に家庭を切り盛りしていた妻は、一人娘と共に笑顔をなくしてしまった。あの交通事故以来、食事も睡眠もろくにとっていない。
「早く病院へ」
「そして妻まで俺から奪うのか?」
痛烈な一言。胸が潰されそうな感覚に耐え、メリルは更に言葉を紡いだ。
「信頼できるお医者様が一人くらいいらっしゃいますでしょう? ……悔しいですけど、医学は万能ではありません。病気の原因が判っても、それが遅ければ手の施しようがないことだってありますのよ?」
「俺の娘がそうだったって訳か」
この人は医者にも病院にも強い不信感を抱いている。おそらく何を言っても徒労に終わる。
暗い中、目を凝らして腕時計の文字盤を読み取る。この時間ならもう皆帰っていてあそこには誰もいない。メリルは交渉の内容を切り替えることにした。
「……では、せめて風が凌げるところへ行きませんか?」
メリルの説明を聞き終えてから、二人の男は顔を見合わせ、揃って女の方を見た。苦しそうに浅い呼吸をくり返している。
「……いいだろう」
男の答えに、青年はメリルの足首を縛っていたベルトを外し、包丁を握り締めてメリルの横に歩み寄った。男が妻に肩を貸し、身体を支える。
 四人はゆっくりと階段を降り始めた。
 部室の前で、メリルはコートのボタンを外し制服のポケットから鍵を取り出した。扉をそっと開け、誰もいないのを確認してから率先して中に入る。
「明かりはつけないで下さい。誰かに見られるといけませんから」
男が妻を椅子に座らせるのを見届けてから、メリルは再び口を開いた。
「暗くて判りにくいと思いますが、この部屋に出入りできるのは今通ったドアと反対にある窓だけです。心配でしたらその二ヶ所を見張れば大丈夫ですわ」
「……何故そんなことをわざわざ教える?」
「ほんの少しの間、この部屋の中を自由に動きたいからです」
言いながら女の様子を見る。神社にいた時よりも震えが酷くなっているように思えた。
「……妙なマネをしたらタダじゃおかないからな」
男がドアの前、青年が窓の横に立つのを待って、メリルはロッカーに近づいた。プライバシーの侵害を心の中で詫びながら順に開けていく。ユニフォームはほとんど入っていなかった。
『洗濯はどうなってますの!?』
密かに怒りつつ、見つけた三枚の上着を女に手渡す。女がそれを羽織ったり腹部に巻きつけるのを見届けてから、コートを脱ぎ女の肩にそっとかける。
「あ……」
「ないよりましだと思いますわ」
微笑みながら女の傍を離れると、メリルは部屋のほぼ真ん中にある椅子に腰掛けた。
再び沈黙の時間が過ぎていった。






+++++++++++





暗闇の向こうに


ⅩⅠ
ヴァッシュとウルフウッドは、トライガン学園の決して低くはない正門を身軽に乗り越えた。どの窓にも明かりはついていない。それでも二人は塀伝いにクラブハウスに近づいた。
ドアに耳を押し当てる。……何も聞こえない。
不意にがたん、という大きな音がした。
「大丈夫ですか!?」
続いて聞こえたメリルの声に二人はそっと目配せした。
女の上体が大きく揺らいだ。メリルは椅子を蹴倒して駆け寄りその身体を支えた。
「大丈夫ですか!?」
「……ええ……大丈夫。……ありがとう」
掠れた声。歯がかちかちと音を立てそうなくらい震えている身体。額に手をやると火のように熱かった。
「熱が……! お願いです、早くこの人を病院へ!」
「駄目だ。医者は信用できん」
「ではせめてちゃんと休める暖かい場所へ!」
男は黙ったまま首を横に振る。
「手後れになってからでは遅いんですのよ!?」
「そうなるとは限らない」
「なってからでは遅いんです!!」
メリルの剣幕に男はたじろいだ。女を抱きしめる腕に力を込めて、メリルは苦渋に満ちた声で続けた。
「……医学は……万能ではないんです。……病気も怪我も、治せないことがあるんです……」
ふ、と小さく息を吐く。
「……私の父は、小さい頃から野球をしていたそうです。……」
ポジションはピッチャー。高校では野球部に所属し、甲子園を目指して厳しい練習を重ねてきた。
「でも……高二の時、練習中にアキレス腱を切ってしまって……」
野球はもとより、真剣に運動することを断念せざるを得なくなった。気落ちしていた時期が長く続いた。
そして見つけた新しい夢。
「父は、自分のように怪我の為に夢を諦めなければならなくなる人を一人でも減らしたくて、スポーツ指導もできる外科医になろうと決心したんです」
幼い頃、父と遊んだ記憶――その大半はキャッチボールだった。夏、父が休みの時は膝に座り、独自の解説を聞きながら高校野球を見た。そんな時、父はとても楽しそうな顔をしていた。
そして顔を伏せると、悲しそうな声でこう言った。
「お前が男だったらよかったのに。父だけでなく、母にも親戚にもずっとそう言われてきました。小さい頃からずっと……」
不意に四ヶ月ほど前の記憶が蘇った。二つの鞄を手に、野球部の合宿に出かけたあの日のことが。
「……夏休みに野球部の合宿があったんです。集合場所まで父が車で送ってくれました。……荷物が重かったからだと……父の思いやりだと思ってましたの。でも……」
あの人と言葉を交わした時の、あの人を見る父の優しい眼差し。
「違うんです。父は……あの人に会いたかっただけ。自分の果たせなかった夢を叶えようとしているあの人に……」
目を閉じて、心の中だけで呟く。もし男に生まれていたら、あの人のようになりたかった。
 ……どうして男に生まれなかったんだろう。物心ついてから数え切れないほどくり返した、答えのない疑問。
 ゆっくり目を開けると、メリルは再び口を開いた。
「……ですから、私を殺しても両親や親戚はダメージを受けないと思います。私がいなくなったら……たぶん養子をとるでしょう。父は野球の得意な男の子を、母は頭が良くて親の言うことに逆らわない従順な男の子を望むでしょうね」
『メリル……それは違う!』
キミのお父さんは本当にキミのことを心配していた! お母さんだってきっと!
今すぐ部室に飛び込んでそう言いたかった。ウルフウッドに掴まれている腕の痛みが、かろうじて短絡的な行動に走ろうとする自分を押さえていた。
それまでのどこか哀しげな声とは打って変わった、穏やかなメリルの声が聞えてきた。
「……ひとつお願いがありますの。……私を刺すのなら、場所を変えて下さいませんか?」
ここは大切な場所なんです。私の血で汚したくありません。だから……
ウルフウッドはヴァッシュの腕を掴んだまま、足音を忍ばせて部室の前から離れた。

ⅩⅡ
「何するんだよ!」
声を潜めての抗議を無視し、ウルフウッドは冷静に状況を分析した。
「犯人は二人、男と女や。ナイフか何か刃物を持っとる。声の感じからして男はドアのすぐ近く、女は少し離れたところにおって具合が悪いらしい」
「だから何!?」
 もしこうしてる間に彼女に万一のことがあったら、俺は……!!
「誘拐されたんは間違いない。けど、警察呼んで気づかれて、立て篭もられたり逆上されたら元も子もないやろ。ええか、……」
ウルフウッドは計画を説明した。
ドアの前でわざと音を立てる。様子を見に男が顔を出したところを一人が取り押さえ、その隙にもう一人が部室に入る。体調を崩している女の動きを封じるのは造作もないだろう。
「どないする? 危ない橋渡るか?」
「当然だ!!」
短い押し問答の末、男を取り押さえるのはウルフウッドの役目になった。より危険な方を敢えて引き受けたのだ。
『やっぱりキミは彼女のこと……』
ヴァッシュはほんの数秒目をきつく閉じて胸の痛みを押し殺した。コートのボタンを外し、ジーパンのポケットから自宅の鍵を取り出す。キーホルダーに鈴がついているのだ。
ウルフウッドがドアに寄り添うようにして立った。ドアノブを掴み小さく肯いたのを見て、ヴァッシュが鍵を放り投げる。
 涼やかな音が辺りに響いた。
「!?」
部室の四人は一斉に息を呑み、ドアへと視線を向けた。男が細めに扉を開け、隙間から外の様子を窺う。
ウルフウッドは勢いよくノブを引いた。男がつられて外に出たところで包丁を叩き落とし、背中を押す。間髪入れずうつ伏せに倒れた男の腕を取ってねじ上げた。
ヴァッシュは男と入れ違いに室内に飛び込んだ。椅子に腰掛けている人とそれを支える人。窓の傍にもう一人いる。
『!』
一言も発していなかった為、窓辺の人物には気がつかなかった。大きな刃物のシルエットが見えたがヴァッシュは構わず突進した。
「駄目!」
メリルは女から離れると出刃包丁を持つ青年の右腕にしがみついた。足はヴァッシュの方が速いのだが、距離が長い分僅かに後れをとった。
「逃げて下さい!」
振りほどかれまいと必死に腕に力を込めながら悲鳴に近い声で懇願する。ヴァッシュも男の腕を掴んだ。
「キミこそ逃げて! 早く!」
「ヴァ……駄目です! 危険ですから」
「だから逃げてって言ってるんだってば!」
「嫌です! あなたこそ早く離れて下さい!」
「嫌だ!」
「あなたまで巻き込まれることはありませんわ!」
不意に青年の身体から力が抜けた。
「……大切……なんだな」
「え?」
短く問い返す声は見事な二重唱になった。
「……俺も……俺も大切だった。……やっと気持ちを伝えて……これからだったのに……どうして…………アイリーン!」
出刃包丁が床に落ち、重い音を立てた。青年は床にうずくまり声を上げて泣いた。
ドアの向こうからウルフウッドの声が聞こえてきた。
「……なあ、アンタかてこれが八つ当たりやて判っとるんやろ? ホンマに悪いんはあの嬢ちゃんでも医者でもない、ひき逃げ犯やて。……中で具合悪そうにしとるのアンタの家族なんか? ……ほうか、大事にしたり。これ以上のうなってしもたら……今よりもっと辛いで」
男の鳴咽が僅かに聞こえる。
「……中の二人連れて早よ帰りいな」
ウルフウッドに付き添われるようにして男が部室に入ってきた。青年の肩に手を置いて言葉少なに励まし、落ち着いたところで妻に歩み寄る。椅子にメリルのコートやユニフォームを置くと、三人はドアのところで一礼して立ち去った。



+++++++++++++++++




暗闇の向こうに


ⅩⅢ
部室にようやく静けさが戻ってきた。が、それもごく短い間のことだった。
「怪我はない!?」
セーラー服の肩を掴んで力任せに揺さぶる。窓から差し込む薄雲に覆われた月の光だけでは目を凝らしてもよく見えない。
「あ……はい、私は何とも……」
ほっとしたのも束の間、ヴァッシュはメリルが小刻みに震えているのに気がついた。指先でそっと触れた手は酷く冷たい。
「身体、冷え切ってるじゃないか!」
上着も着ないで、いつから暖房のない部室にいたのか。急いでコートを脱ごうとして、ヴァッシュはメリルに一喝された。
「駄目です! 肩を冷やさないで下さい!」
驚きに見開かれたブルーグリーンの目が自分を見つめていることにも気づかず、メリルは更に語気を強めた。
「だいたいあなたがあんな危険なことをする必要はなかったんですのよ!? どうして自分からトラブルに首を突っ込むような」
「あ、あは……あはははは」
突然ヴァッシュが笑い出した。メリルはしばらく呆然とした後、先刻以上に声を荒げて詰め寄った。
「聞いてるんですの!? 私は本気で怒ってますのよ!?」
ああ、いつものメリルだ。
ヴァッシュは笑いながらコートの前を開くと、それでメリルを包み込むようにして抱きしめた。小柄な身体は頭のてっぺんから膝の辺りまですっぽりとコートの中に隠れてしまう。
「これならいいでしょ?」
「ヴァ……ヴァッシュさん!?」
くぐもった声が胸元から聞こえてくる。じたばたともがいているのは判ったが、ヴァッシュは腕の力を緩めなかった。
真っ暗で狭くて暖かい空間の中、メリルは顔を真っ赤にして抗議した。身体が密着し、体温が直に伝わってくる。
逃れようにもしっかり抱きすくめられていて身動きが取れない。
「ははは……は……は……っ……」
笑い声が途切れがちになり、嗚咽の声が混じり始めた。腕に更に力を込める。
「……よかった……キミが無事で…………本当によかった……」
頬を伝う涙はコートの襟に吸い込まれ、メリルを濡らすことはなかった。
メリルはもがくのをやめ、頭をそっとヴァッシュの胸にもたれかけさせた。少し早い鼓動が耳に、心に響く。
『母体回帰願望、でしたかしら……』
泣いている乳児に母親の心音を聞かせると落ち着くという。それは、母親の体内というこの世で最も安全で心安らぐ場所に戻ったと錯覚するからだ。
目を閉じる。深呼吸のようにゆっくりと呼吸する。――怒りも戸惑いも、全て薄れて消えてゆく。
 メリルが生きている。それだけで、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
あなたのぬくもりは、どうしてこんなに心地いいんでしょう。
想いは言葉にせず、二人はただ静かに寄り添っていた。メリルの震えがおさまってもヴァッシュは動かなかった。
突然部屋の照明がついてヴァッシュは目をしばたいた。明るさに慣れず、視界が白くハレーションを起こしている。
それでもドアの近くにウルフウッドが立っているのは見えた。
「……もうええか?」
「え……あ! いや、これはその……」
耳まで真っ赤にしてしどろもどろに弁明しながら、ヴァッシュは腕を緩めコートの前を開いた。こちらも顔を赤くしたメリルが静かに一歩退く。
名残惜しいと感じていたのが自分だけではないことを、二人は知る由もなかった。
ウルフウッドは部室に足を踏み入れた。植え込みの傍に置いておいたメリルの鞄を持っている。
「ちっと公衆電話まで行ってきた。アンタを見つけた、無事や、とだけ言っといたから、早よ声聞かせて安心さしたり」
「そうだ! ミリィがキミの家に来てる。お父さんもうちにいる。出張中のお母さんには知らせてないって。二人ともすごく
心配してたから、早く電話電話!」
ヴァッシュに急かされ、メリルは自分の携帯で自宅に電話をかけた。ミリィの泣き声は傍にいる二人にも聞こえた。
三人はタクシーでストライフ家まで移動した。ヴァッシュは自転車を学校の近くに置いてきた。
しがみついて泣きじゃくるミリィをなだめた後、メリルは所在不明・音信不通になった理由を『訳の判らない宗教団体にしつこく勧誘されていた』と説明し、家出でも誘拐でもないと強調した。もっとも翌日、病院に謝罪に訪れたアイリーンの父と恋人の話から嘘だとばれてしまうのだが。
娘の話を聞き終えると、メリルの父は応接間のソファに深く座り直した。背中をこころもち丸め、両手で顔を覆う。
「……まったく……どれだけ心配したと……」
呟く語尾と肩が震える。メリルは蚊の鳴くような声で詫び、深々と頭を下げた。
そしてメリルは周囲に心配と迷惑をかけた罰として、明日から二週間私用の外出を禁じられた。
「……と、部活をどうするか、だな……」
メリルの父は、娘が野球部に入部するのに賛成した数少ない一人であり、試験一週間前から試験が終わるまでを除いて原則的に毎日練習が行なわれることを知っていた。
「学校の一環、ちうことで公用扱いしたって下さい。この人間台風が送り迎えしますよって、心配無用です」
意外な発言に、ヴァッシュとメリルはまじまじとウルフウッドの顔を見た。
「……スタンピード君、お願いできますか」
「はい勿論、喜んで! じゃなくて、責任を持って!」
思わず本音が出てしまったのを慌てて言い繕い、ヴァッシュは元気よく請け負った。
「明日は九時集合だから、少し早めに八時頃迎えに来るね」
「あ……はい、判りました」
話の流れにのせられたメリルはヴァッシュの言葉に肯いた。
ミリィはメリルの父が車で送ることになった。ヴァッシュとウルフウッドも同乗を勧められたが、方向が違うということで二人とも辞退した。
「キミ……どういうつもり?」
不信の念を顕わにしたメリル専属の送迎係に睨まれても、ウルフウッドはいつもと変わらぬ口調で短く答えただけだった。
「明日になったら判る」

ⅩⅣ
翌朝、部室の前でヴァッシュとメリルは意外な人物にばったり出くわした。
「ウルフウッド!?」
「おはようさん。ちょうどええ、ワイ、アンタに言わなあかんことがあるんや。……すまんかったな」
いきなり謝られ、メリルは目を丸くして黒い瞳を見上げた。自分を見る時にはいつも宿っていた冷たい光が消えている。
「……ワイ、赤ん坊の時に親に捨てられて施設で育ったんや。今の両親に引き取られたんが七つの時やった。……優しい人達でな、ワイとおんなじような境遇の子を他にも四人育てとる。お陰で暮らしはカツカツなんやけどな」
中学を卒業したら働く。そう固く決心していたウルフウッドを説得したのはその両親だった。中卒で社会に出ても世間は厳しい、せめて高校まで出て欲しい、と。
「で、高校に入ったんやけど……」
九月のある日、両親を偽善者呼ばわりされたウルフウッドは部活の先輩をぼこぼこにした。
 彼にとって不運だったのは、その先輩の親が学校の理事だったことである。
 退学者を出せば学校の名に傷がつく、厄介者は転校させてしまえばいい。喧嘩の原因を知った校長は、そう言って退学を主張する親をなだめた。そして、自分と繋がりのある学校の中からトライガン学園を選び、去年までの野球部の成績を見せて説得した。
「ここなら彼も実力を発揮しようがない、まともな野球ができなくなることが彼に対する最大の罰です、ってな。あの校長、とんだ食わせ者やで」
こき下ろすような口調とは裏腹に、ウルフウッドは笑っている。
「……もしかして、キミがぼこぼこにした先輩って……」
「野球部や」
野球は嫌いじゃないけど野球部には近づかない、その理由はこれだったのか。それこそ八つ当たりで、あの人に説教なんかできる筋合いはないじゃないか……。ヴァッシュはがっくりと肩を落とした。
仕事の都合上家族全員で引っ越すのは不可能だったので、ウルフウッドは一人暮らしをすることになった。せめて自分の生活費くらいは自分で稼ぎたくて、体験入部をくり返すことを思いついた。
「そのこととさっきの謝罪と、どう結びつくんですの?」
「……ワイ、アンタのことが疎ましかったんや。嫉妬しとったのかも知れん」
両親が医者ということは、家は裕福とみて間違いない。金持ちの家に生まれ、勉強は学年トップ、スポーツも得意、おまけに器量良し。自分達のような子供がいる反面、どうしてこんなに恵まれた子供が存在するのか。
「才色兼備の上に親は金持ち……ムカついたわ。けどな、ワイはアンタの上っ面だけ見て、アンタのことを嫌な奴やと決めつけとったっちうことに気がついたんや。アンタ自身を見てへんかったことにな」
プロフィールを全部取り除いてみる。両親の愛情を感じられずに育った女の子が、辛い状況でも周囲の人を思いやる強さの持ち主がそこにいた。
「辛く当たって、ホンマ悪かった思っとる。堪忍な。…………で、先入観を取っ払ってから、あん時アンタが提案したことをもいっぺん考えてみた。『阿呆らし』思うけど、このどーしようもないお人好しがおるんやったらできそうな気がしてきてな、のせられることにしたわ」
ウルフウッドはポケットから封筒を取り出した。メリルが顧問に提出した退部届。
「さっき入部届を出してきた。コイツと引き換えにな」
「それじゃ……」
二人の目の前で封筒を破ると、ウルフウッドはそれをメリルに渡した。
「これ、ほかしといてんか、マネージャー」
「……ほかし……?」
「あ、と……捨てといてっちうことや。ついでに鍵開けてくれ」
「……はい!」
満面の笑顔で答えると、メリルは部室の鍵を出し扉を開けた。
部室で、ヴァッシュは少し離れたところで前の学校のユニフォームに着替えているウルフウッドに尋ねた。
「あのさ……メリルはキミに何て提案したの?」
「何や、全部聞いとったんやなかったんか」
 七年近くかけて大学まで出て一流企業に就職しても、お給料なんてたかが知れてます。二十歳前後の若者が億万長者になる方法は三つ、宝くじやギャンブルで幸運を掴む、犯罪に手を染める、そしてプロのスポーツ選手になって契約金をたくさん貰う。……あなたの最大の武器はその強肩ですわ。今日本で一番契約金や年俸が高いのはプロ野球ですし、あなたの長所を最大限に生かせます。プロへの足がかりとして、トライガン学園野球部で甲子園を目指しませんこと?
「……題して『五年で年収一億円突破するぞ計画』やて。阿呆らしいやろ? オドレの投球見てへんかったら脳みそ疑ったわ」
『告白じゃなかったんだ……』
ヴァッシュは腹を抱えて爆笑した。メリルの突拍子もない話と、自分の間抜けなカン違いに。
「ま、億万長者になる方法はもう一つある、思うけどな」
「何、何?」
「逆玉の輿」
ぴたりと笑いが止まった。
「ホストっちう手もあんねんけど、ワイに女のご機嫌取りなんてできそうにあらへんし……」
ウルフウッドの自己分析はヴァッシュの耳には届かなかった。新たな疑問が首をもたげる。
『まさか……でも、さっきはメリルのこと誉めてたし、メリルの家ってお金持ちみたいだし……』
キミはメリルのことをどう思ってる?
訊きたくて、訊けない。心に芽生えた疑問を否定することもできない。ヴァッシュは顔を曇らせると小さく吐息した。
かわりに違う質問をしてみる。
「どうしてキミはあの時ドアを引く方を引き受けたの?」
計画の時点では一番危険なのはウルフウッドだった。結果的にはヴァッシュやメリルの方が危なかったが。
「ワイはスポーツ全般得意やけど……一番得意なんは喧嘩なんや。履歴書には書けへんけどな」
小さい頃から、自分や両親をコケにした奴と弟妹を苛めた奴を誰彼構わず叩きのめしてきた結果である。
「オドレが怪我したら、例の計画が頓挫してまうかも知れへんやろ?」
「……つまり、キミ自身の為だった訳ね……」
再びため息をついたヴァッシュに、ウルフウッドは無言のまま不敵な笑みを返した。



+++++++++++




暗闇の向こうに


ⅩⅤ
 ヴァッシュは毎朝メリルを自宅まで迎えに行き、夕方自宅まで送り届けた。自転車の後ろに小柄な彼女を乗せペダルを踏む。走行速度を厳守し、安全運転を心がける。実は同級生との二人乗り自体違法行為なのだが。
「ごめんなさい、重いでしょう」
「全然!」
トライガン学園は小高い山の中腹に建っている。行きは上り坂になるので少々きついが、帰りはその分楽だ。
ある日の朝、上り坂にさしかかる少し手前でメリルはヴァッシュを呼んだ。
「何?」
「昨日の夕刊はご覧になりまして?」
「ううん。どうして?」
「……ひき逃げ犯がつかまったそうですわ」
その後学校に着くまでの間、二人は黙ったままアイリーンの冥福と、残された両親と恋人の悲しみが少しでも癒されることを祈った。
別の日の帰り道。
「キミの話し方って独特だよね。キミのお父さんとも違うし、もしかしてお母さんの影響?」
「いえ、これは祖母の影響ですわ」
女児誕生。その一報はストライフ家と親戚に、喜びとそれ以上に大きい落胆をもたらした。五体満足で無事生まれたものの、男児ではなかったからである。メリルは小さい頃から、親戚と顔を合わせる度に『お前が男だったらよかったのに』と言われ続けた。
彼女が生まれて間もなく、メリルの母は仕事を再開した。男児を産めなかった後ろめたさからか、出産前より熱心に仕事をこなし、病院拡大に着手した。当然子供の面倒などみる時間はない。
「ですから、私は小学校に入学するまで祖父母に育てられましたの」
「それじゃ信心深いのもおばあさんの影響なのかな?」
「え?」
「七月に熊野宮神社にお参りしてたでしょ」
「み……見てらしたんですの!?」
「ちらっとね。偶然通りがかっただけ」
これは半分嘘。
 ある日の夕方自主練でスペシャル外回りを走っていて、ヴァッシュは長い階段を降りてくる足音に咄嗟に身を隠した。このコースは何度も走っているが、参拝客に行き合わせたことはこれまで一度もない。この春、熊野宮神社に到る山道に『痴漢注意』の看板が立てられていたことを思い出して、念の為用心したのだ。
木の陰から様子を窺う。息を切らして駆け降りてきたのはセーラー服姿のメリルだった。ヴァッシュに気づくこともなく後ろ姿が小さくなってゆく。
足音が聞こえなくなっても、ヴァッシュはその場にとどまった。運動ならそれに相応しい格好をする筈。ただの参拝なら走る必要はない。額の汗は気温のせいだけとは思えない量だった。案の定、メリルは再び階段を駆け登ってきた。
ヴァッシュは木陰に腰を下ろして目を閉じた。耳に意識を集中する。もしメリルに何かあったらすぐに判るように、すぐに駆けつけられるように。
階段を八往復した後、メリルは立ち去った。姿を見られないよう距離をとってついていき、駅まで無事到着したのを見届けた。ほっと安堵のため息をついた時には食事会の約束の時刻はとっくにすぎていた。
メリルが毎日朝練の前にお参りしていることにヴァッシュは気がついた。夕方のお参りは時間に余裕がある時だけのようだ。
「ありがとう……。俺、頑張るから」
地区予選の前に奉納したらしい絵馬に額を当て、ヴァッシュは小さな声で呟いた。――
ある日ふと思いついて、ヴァッシュはなかなか行動を起こさないウルフウッドを何故あそこまで信頼できたのか尋ねてみた。
「私が退部届を出してから部活休止期間までの間、あの人はどの部にも入らなかったんです。試験前の最後の稼ぎ時だった筈なのに……。時間はかかるかも知れませんが、あの人は必ず約束を守ってくれると思いました」
ヴァッシュが気づかなかったことをメリルはちゃんと見ていたのだ。
「なるほどねぇ……」
本当にそれだけ? 心にわだかまる疑問は言葉にはできない。
「でも、自分が野球部に戻れるなんて思ってもみませんでしたわ」
嬉しそうなメリルの声が今はヴァッシュの心に重く響いた。
「どうしてウルフウッドはキミに二週間の猶予をくれたんだろう」
ある日、ヴァッシュはかねてから抱いていた疑問を口にした。嫌がらせなら即答を迫るだろうと思ったのだ。
メリルがウルフウッドに交渉する時間を貰う代償は、学食の一番高い食券十枚だった。
「……昼食を学校で摂るのは月曜から金曜まで、食券十枚で二週間分の昼食を確保できたことになりますわ。全部使い切るまでは待ってやる、そういう意味だったんじゃないでしょうか」
「はあ……何ていうか、律義だね」
その他、冬の合宿で食べたいもののリクエストを訊かれ『ドーナツ』と答えて却下されたり、簡単でおいしい料理のレシピをメリルに教えて貰ったり……
いろいろな話をしながら、二人を乗せた自転車は走っていく。
八日目の朝のことである。
「メリル」
名前を呼ばれただけなのに、メリルは心底驚いた。理由は二つ。一つは、名前を呼んだのが自分のことをずっと『マネージャー』と呼んでいたヴァッシュだったから。もう一つは、彼の声がいつになく真面目だったから。
「……あの時、中の様子を探る為とはいえ、俺……キミの話を盗み聞きしちゃったんだよね」
父親のことはともかく、自分の心情は聞かれたくなかった筈。
「……だから……お詫びって訳じゃないんだけど、俺の話……聞いてくれるかな」
メリルは一度深呼吸をしてから、短く了承の意を示した。
「俺の父さんが再婚したって話は伯母さんから聞いたよね。……」
それからヴァッシュは、毎日少しずつ自分のことをメリルに話した。

エピローグ
ヴァッシュの父は仕事熱心で、あまり家にいない人だった。出張も多く、何日も帰らないことが度々あったのだが。
彼が五年生に進級したばかりの四月のある日を境に、ヴァッシュの父は全く家に帰って来なくなった。心なしか母親の表情が暗い。
「一ヶ月くらい経って『これは変だぞ』って思い始めた時に、母さんから聞かされたんだ。……父さんが家を出ていったって……」
別居する理由については何も説明がなかった。初めて見る母の泣き顔に、『どうして?』とは訊けなかった。
「……ちょうどその頃、俺、ちょっと問題を起こしてね……」
その時自分が何をやったのか、実はよく覚えていない。恐怖と嫌悪の入り交じった複数の目が自分を見つめていたことだけが鮮明に記憶に残っている。
いろいろな噂が飛び交い、友達が何人も自分から離れていった。それはとても悲しいことだったけれど。
「その時ふと思ったんだ。もしかしたら、父さんが俺を叱りに戻って来てくれるんじゃないかって。……」
淡い期待は裏切られた。母が連絡したにもかかわらず、父はヴァッシュに電話すらよこさなかった。
「……父さんは俺のことが嫌いなんだ、俺がいるから出ていったんだ……そう思った」
拒絶されたことが辛くて痛くて、でもそれを表に出すことはできなくて、ヴァッシュは熱を出して寝込んだ。
体調が回復すると、ヴァッシュは勉強も運動もそれまで以上に頑張るようになった。自分がいい子になれば父親が戻って来てくれる気がして。
「……俺には双子の兄がいるんだ。名前は多分キミも知ってると思う」
ミリオンズ・ナイブズ。GUNG―HO―GUNS大付属高校の一年生ピッチャー。勿論メリルもその名は知っていた。
 夏の甲子園で、優勝旗を受け取る時でさえ無表情だった男の顔が脳裏に浮かぶ。顔立ちだけを比べてみれば、二人は確かに酷似している。
 小学六年の時、GUNG―HO―GUNS大付属中学校へ特待生として入学させたい、という話が二人のところにきた。特待生専用の寮に入り、学費は勿論生活費も全て学校が負担するという破格の待遇だった。
 ナイブズは快諾し、ヴァッシュは断った。自分達の前では笑い夜密かに泣いている母親を一人にしたくなかった。
二人が小学校を卒業するのを待って両親が離婚した。卒業式に父の姿はなく、式が終わるとナイブズはそのまま中学校の寮に移った。二年前まで四人家族だった家に、今は二人しかいない。
父に続いて兄にも見放された。そう思ったヴァッシュは再び高熱を出して床に臥した。
「……俺達も、最初に野球を教わったのは父さんからなんだ。だから、父さんやナイブズと離れ離れになっても野球をやめるつもりは毛頭なかった」
それが唯一の絆のように思えて。
地元の中学校に入学したヴァッシュは野球部に入り、ピッチャーとしてめざましい活躍をした。しかし、リトルリーグでバッテリーを組んでいた兄はいない。ナイブズと肩を並べる実力の持ち主は野球部にはいなかった。誰にも言わなかったが、彼は全力で投げてはいなかった。
中学三年の夏、父が再婚した。
「別居した理由って、たぶんその女の人だったんだろうね」
 これで両親がやり直す可能性はほぼゼロになった。ヴァッシュはまたも高熱にうなされた。
 ヴァッシュの母は九年間住んだ家を手放し、自分が生まれ育った土地に戻ることを決めた。
再びヴァッシュにGUNG―HO―GUNS大付属高校の特待生入学の話が持ちかけられた。三年前と同様の待遇を提示されたが、ヴァッシュは断った。
「……俺、野球やめるつもりだったんだ。どうして野球をやってるのか判らなくなっちゃって……」
予想だにしなかった言葉に、メリルは思わず息を呑んだ。その気配を察したのだろう、ヴァッシュは笑いながらつけ加えた。
「だってそうでしょ? 本気で野球をやろう、甲子園を目指そうって奴は、間違ってもトライガン学園を志望校にはしないと思うよ」
冗談を言っているような明るい声が哀しくて、メリルはヴァッシュを抱きしめるように彼のウエストのあたりに回した腕に力を込めた。
入試も無事突破し、ヴァッシュはトライガン学園に入学した。
今まで野球部以外の部に所属するなんて考えたこともなかった。運動部だけでなく文化部も見学したのだが、どうしても野球部に目が行ってしまう。
「……で、ようやく気がついたんだ。父さんから教わったからとか、ナイブズがやっているからとかじゃなく、俺は野球そのものが好きなんだって」
ヴァッシュは二年と三年を合わせても八人しかいない野球部に入部した。――
メリルの私用外出禁止最後の日に、ヴァッシュの長い話は終わった。
「……ありがとう、話を聞いてくれて」
メリルの家の前で、ヴァッシュは門の前に立つマネージャーに礼を言った。
「……実はさ、キミがトライガン学園に入学したいきさつを、前にミリィから聞いてたんだ。……あ、あの子を怒らないでやってね! 俺が無理矢理聞き出したんだから!」
「大丈夫ですわ。私、怒ってませんから」
本気でうろたえているクラスメイトに、メリルは苦笑しながら答えた。その言葉と表情にヴァッシュがほっと息を吐く。
「……お互いいろんなことがあって今に到る訳だけど……楽しいことばっかりじゃなかったけど……俺は、ここに来られてよかったって思ってる」
キミに会えて。声には出せず、心の中でそっとつけ足す。
「ええ。……私も、そう思います」
台詞の後半は呟くような小さな声。でもヴァッシュはそれを聞き逃さなかった。
目を細めて優しく微笑む男の視線に気づいて、メリルは頬を染めると俯いた。
「今日でお役御免かぁ」
ため息交じりの明るい声にそっと顔を上げる。星空を眺めている横顔が見えた。
「ごめんなさい、二週間も遠まわりさせてしまって……」
「ご、ごめん! そんなつもりで言ったんじゃないんだ! ウルフウッドにのせられた形なのはちょっと癪だけど、いろいろ話ができて……嬉しかった」
メリルの柔らかな表情に、今度はヴァッシュが赤面した。慌てて自転車にまたがる。
「あ、さ、寒いのにこんなところで立ち話なんかしちゃってごめん。早くあったかくしてね。それじゃ!」
早口でまくしたてるように言い手を挙げて挨拶すると、ヴァッシュは思いっきりペダルを踏んだ。後ろ姿がみるみるうちに小さくなっていく。
姿が見えなくなっても、メリルは微笑みながらヴァッシュが走り去った方向を見つめていた。
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