暗雲
プロローグ
夏休みの余韻も消えた九月中旬のある日曜日の夕刻、ヴァッシュは母親とセイブレム家を訪問した。月に一度、レムとその両親と共に一緒に食事をすることになっているのだ。
ヴァッシュは母親と二人暮らしをしている。母親は生命保険の外交員で日頃から忙しく、ヴァッシュ一人で夕食を摂ることも珍しくない。そんな親子に対する三人の心遣いだった。
ヴァッシュは七月の約束を何の連絡もしないまますっぽかした。後でさんざん理由を問いつめられたが、ひたすら謝るだけで一切言い訳をしなかった。お陰でレムに保健室で寿命の縮む思いをさせられたのだが。
セイブレム家のダイニングに五人が顔を揃えた。
「いっただっきまーす!」
元気よく宣言すると、ヴァッシュは自分の茶碗と箸を取り上げた。普段はあまり口にすることのない手の込んだ料理に舌鼓を打つ。
「合宿はどうだったの?」
八月は合宿前に食事会をしたため、野球部の部員が七月に急増し合宿後に激減した理由はレムも知らない。
「…いろいろあったよ。…あの退部劇は…やられたって感じ…」
「食べるか話すかどちらかになさい」
母親にたしなめられ、ヴァッシュは大きな身体を小さくした。話は後でもできるので、目の前の料理を平らげることに暫し専念する。
「あ~おいしかった。ご馳走様でした!」
食事を終え出された日本茶を一口啜って、ヴァッシュはにっこり笑った。伯母が上手いのは料理だけではない。
時折お茶で喉を潤しながら、ヴァッシュは合宿前後のことを身振り手振りを交えて語った。
「…あの時は本当にびっくりした。後で主将に文句言ったら『そういうことは発案者のマネージャーに言え』だって。言える訳ないよ」
がっくり肩を落としてうなだれる姿に四人は大いに笑った。
「ヴァッシュはマネージャーに頭が上がらないのよね。いっつも怒られてるから」
「そんなことないよ。第一、そういう言い方するとマネージャーが四六時中怒ってるみたいに聞こえるじゃないか」
「あら違うの?」
食事の度にメリルに叱られた話をしたのは他ならぬヴァッシュである。本人に会ったことがないレム以外の三人は、さぞかし勝ち気で短気な女子高生だと思ったことだろう。
「母さんまで…違うってば! そりゃ『肩を冷やさないで下さい』とか口うるさく言われるけど、合宿の時には練習が終わると必ず『お疲れ様でした』って笑顔で迎えてくれたんだから! 努力家だし、よく気がつくし、後輩思いで優しいし、それに」
料理だって上手で、と言いかけて、ヴァッシュは自分に向けられるレムの意味深な視線に気づいて口をつぐんだ。自分の名誉回復よりもメリルの汚名を返上しようと躍起になっていたことを思い起こす。
わざとらしく咳払いをする従兄弟に、レムは苦笑いを浮かべながら助け船を出した。
「今野球部は部員が九人しかいないんでしょ?」
「うん。…でも減ってよかったって思ってる。今残ってるのは本当に野球がやりたい奴だけだから」
脳裏に浮かんだ写真部の四人とキールの顔をひとまとめにし、何度か踏んづけてから意識の外に放り出す。それでも不快感は完全には消せず、ヴァッシュの口元が微妙に歪んだ。
「どうしたの?」
「いや…キャッチャーがいないのが辛いな、って思っただけ」
「見込みはないの?」
「このところ見学者もないしね」
「そう言えば見なくなったわね。セーラー服の差し入れ軍団」
「合宿以降は全然。でもその方が助かるよ。正直、動物園の檻の中にいる気分だった…」
小さくため息をつくと、ヴァッシュは勢いよく立ち上がった。
「いつもの?」
「うん」
いつもの、とは素振りのことである。朝晩の素振りは彼の日課で、ヴァッシュは伯母夫婦の家を訪ねる時にもバットを持参していた。
じゃあ、と軽く手を振って部屋を出ていくのを見送った後、四人は顔を見合わせた。
「…あの子の口から野球以外の話がこれほど出るようになるとはな…」
「ええ、ほんとに。それも女の子の話ですもの、最初は驚いたわ。心臓が止まるかと思ったくらい」
両親に自分の気持ちを代弁され、レムは僅かに苦笑した。
「レム…そのマネージャーの子、あなたから見てどんな感じ?」
「思いやりのあるいい子ですよ。人の心にずかずかと踏み入るようなことは絶対にしません」
レムの答えを聞いても、ヴァッシュの母の表情は暗いままだった。
「…これをきっかけに変われるかしら、あの子…」
我が子を案じる母の声に誰も答えられなかった。
Ⅰ
衣更えが終わって三日後、ヴァッシュ達のクラスの人数が一人増えた。
「ニコラス・D・ウルフウッド君だ」
担任の声に合わせるように、黒髪の長身の男はぺこりと頭を下げた。長めの前髪が揺れ、黒い瞳を一瞬覆い隠す。
「席は…」
「は~い先生、僕の隣が空いてま~す」
ヴァッシュは両手を振りながら担任に呼びかけた。クラスで二番目に背が高い彼の席は一番後ろだが、転校生の身長もヴァッシュと同じくらい。下手な場所に座ると間違いなく後ろからクレームがくる。
ウルフウッドの視力を確認してから、担任はヴァッシュの隣に座るよう指示した。
「僕、ヴァッシュ。ヴァッシュ・ザ・スタンピード。よろしくね」
「話は聞いたで、人間台風。…ウルフウッドや、よろしゅう」
ヴァッシュは目を丸くした。甲子園大会の予選が行なわれていたのは七月、今は十月だ。その名を口にする人がまだいるのだろうか…。
半ば呆然としたまま、差し出された右手を反射的に握り返す。ぶんぶんと音を立てそうなくらい勢いよく何度も振られて、ヴァッシュのこめかみを汗が一筋伝った。
それからしばらくの間、ウルフウッドは休憩時間になるとクラスメイトに囲まれ質問責めを受けた。独特の口調で時々さりげなくはぐらかしながらにこやかに答える。
席が近い故に半ば巻き添えを食ってクラスメイトに包囲されたヴァッシュは、そんなウルフウッドをぼんやりと眺めていた。
『何でだろう…』
彼に、自分と同じ空気を感じる。
外見はまったく似てない。強いて言えば背が高いことぐらいだ。人当たりがいいとかそういうことではなく、もっと別の…
考えれば考えるほど判らなくなる。
どこがどう似てるのか、と訊かれても答えられないのに、何故かその思いはヴァッシュの心に根強く残った。
体育の授業は二クラス合同で、男子と女子に分かれて行なわれる。その日、ヴァッシュ達のクラスは男子はハンドボール、女子はバスケットボールをやっていた。人数の関係で男女とも二つのグループに分かれ、片方が試合をしている時はもう片方はそれを見学する。
校庭の隅に座って見学していたヴァッシュは、ハンドボールコートの横でバスケットをしている女子の中にメリルを見つけ、何となくその姿を目で追った。
体格だけで判断するなら彼女は圧倒的に不利だ。メリルはゲームの組み立てに専念し、指示を出しながらどんどんパスを回していった。かと思うと自ら切り込んだり、スリーポイントシュートを放ったりする。ディフェンスをかいくぐってシュートを決めた時には爽快感さえ覚えた。
「スタンピード、どこを見てる!」
教師に一喝され、ヴァッシュは慌てて視線をハンドボールコートに戻した。
パスを受けたウルフウッドがドリブルでゴールに迫る。足はかなり早く、ディフェンスが追いつけないほどだ。
キーパーとの一騎打ち。ジャンプしながら放たれたボールは惜しくもゴールポストを直撃し…ゴールが倒れた。
鈍い音と地響きに、校庭にいた全員が動きを止めた。ただ一人を除いて。
「いやー、すまんすまん。やってもうたわ」
ウルフウッドは苦笑しながら倒れたゴールに歩み寄ると、苦労する様子もなくたった一人でゴールを起こした。
「!?」
驚愕再び。誰もが言葉を失った。
ようやく気を取り直した教師の指示で試合は続けられた。キーパーはウルフウッドのシュートはことごとく逃げた。あの威力を目の前で見せつけられては無理もない。
その話は瞬く間に校内に広がり、ウルフウッドは運動部のスカウト合戦の標的にされた。
Ⅱ
朝と昼休みと放課後。ウルフウッドの周りがもっとも賑やかになる時間帯である。
大勢の先輩に囲まれながら、ウルフウッドはいつもの飄々とした態度を崩さない。
「ワイ、まだどの部に入るか決めとらんのです」
どの部に勧誘されても彼の答えは同じだった。
その後、ウルフウッドは『体験入部』と称して様々な運動部に入部してはすぐに退部した。在籍期間はたいてい数日。
どんなスポーツもそつなくこなす彼に、スカウト合戦は激しくなる一方だった。
「…どうしてキミは一つの部にとどまらないの?」
予鈴の為にようやく先輩達から解放されたウルフウッドを横目で見ながらヴァッシュは尋ねた。自分のすぐ横で毎日くり広げられる大騒ぎに少々辟易していた。
「なーんか違う、思てな。飽きっぽいだけかも知れへんけど」
「の割にはハンドボール部には二回入部したでしょ」
「よう知っとんな」
当たり前だ、チェックしているのだから。
ウルフウッドほどの運動神経の持ち主なら野球部だって欲しい。ヴァッシュもメリルもギリアムから『何とかならないか』と頼まれており、二人ともそれとなく話を持っていくのだが、いつものらりくらりと躱されていた。彼は何故か野球部には近づこうとしなかった。
もう一つ判らないことがある。人当たりのいい筈の彼が、メリルにだけはつっけんどんなのだ。初めからではなく、中間テストが終わってしばらく経ってからそうなったのである。
十月も残り少なくなった頃、ヴァッシュは奇妙な符合に気づいた。ウルフウッドが在籍していた時期、その部は十中八九対外試合をしている。そして彼は必ず選手として出場しているのだ。
かつてウルフウッドが入部したことがある部に所属しているクラスメイトにそれとなく話を聞く。ウルフウッドが試合で活躍した話になると、皆例外なく口が重くなった。そしてそそくさと立ち去ってしまう。
「あいつの実力は認めるけど…大変なんだよ」
舌打ち交じりにそう呟いたのはハンドボール部のクラスメイトだった。ヴァッシュは訝しげに眉を上げた。
「大変って…何が?」
「部費とは別に…いや、何でもない」
まずいことを言った、と顔に書いてある。ヴァッシュは更に話を聞こうとしたが、クラスメイトはわざとらしく別の部員に声をかけヴァッシュの傍を離れてしまった。
実験の為科学室へ移動する際、ヴァッシュはウルフウッドの横に並んだ。周囲に人がいないのを確認し、歩きながら小声で尋ねる。
「体験入部をお願いする場合、どのくらい必要なのかな?」
「入部で五千、部活一日につき五千、一試合一万、勝ったら別途スペシャルボーナス」
ヴァッシュは思わず足を止めた。予想はしていたが、本当に金をとって助っ人をしていたとは…。
そのまま数歩進んでからヴァッシュが立ち尽くしているのに気づき、ウルフウッドは引き返した。肩がぶつかる寸前で立ち止まり、ぼそりと呟く。
「ただし、野球部やったら倍貰うで」
「な…!」
ヴァッシュの睨みつけるような視線を意に介さず、ウルフウッドはにやりと笑った。
「何しとんねん、遅れるで」
明るい声で言いヴァッシュの肩を軽く叩くと、ウルフウッドは何事もなかったかのように再び歩き始めた。
Ⅲ
十月最後の土曜のことである。四時限目を終え教科書などを片づけている時、ヴァッシュはメリルに声をかけられた。
「食事の前にちょっとよろしいですか?」
メリルは何故か食後に向かう筈の部室を目指した。鍵を開けて中に入り、ヴァッシュのグラブとボール、予備のキャッチャーミットを取り出す。
「マネージャー?」
「ヴァッシュさん」
メリルはいつになく厳しい表情でヴァッシュにグラブを差し出した。
「もうすぐウルフウッドさんがここに来ます。…入部テストをしていただけませんか?」
ヴァッシュは目を見開いてメリルを見つめた。
「五球受けて貰うよう話をつけました」
「…どうして」
理由を問う声は不機嫌そうな声に遮られた。
「早よしてんか? ワイ、腹減っとんのや」
「すみません、すぐに。…ミットはこれを使って下さい」
差し出されたミットを奪い取るように乱暴に手にすると、ウルフウッドは校庭へ移動した。二人も慌ててそれを追う。
「あの、お二人ともそのままの服でよろしいんですの?」
ヴァッシュもウルフウッドも学ラン姿だ。
「かまへん。…どうせ遊びや」
ミットをはめたウルフウッドが答えながらしゃがみ込む。構えられては『着替えるから待ってくれ』とは言えない。
「大丈夫だよ。五球だけでしょ?」
メリルを安心させるように微笑みかける。マウンドまでの距離だけ離れると、ヴァッシュはセットポジションに入った。
『まずは小手調べだ』
本気ではないが、それでも速い球が空を切った。ウルフウッドはこともなげに受けるとボールを返した。
次の二球は地区予選で見せた速くて重い球を投げた。小気味よい音を立ててボールがキャッチャーミットに収まる。
四球目は七月にモネヴに対して投げた豪速球。それさえ平然と受け止めたウルフウッドにヴァッシュは内心舌を巻いた。
『なら…!』
小学校を卒業してから一度もやったことはなかったが、ヴァッシュは全力で投げた。
尻餅をついたものの、ウルフウッドは見事に受け止めてみせた。
『!?』
ヴァッシュは驚愕した。ウォーミングアップはしていない。服は学ランだし、靴もスパイクではなく只のスニーカーだ。それでも今の球をキャッチできる奴がアイツ以外にいるなんて。
驚いたのはメリルも同じだった。ウルフウッドのキャッチャーとしての資質は予想を遥かに上回るものだったが、それ以上に今まで見たことのないヴァッシュの球に衝撃を受けた。
ウルフウッドはミットを地面に置くと立ち上がった。土で汚れた制服を手ではたき、踵を返す。
「これで終いやな。ワイは帰らして貰うわ」
黒一色の後ろ姿が見えなくなってから、ヴァッシュはキャッチャーミットを拾いメリルに歩み寄った。
「マネージャー…」
「……」
二人がショックから抜け出せずにいる頃、ウルフウッドは歩きながら左手を握ったり開いたりしていた。思うように動かせず、小さく舌打ちする。
「あのトンガリ頭…何ちゅう球投げるんや」
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Ⅳ
ウルフウッドが報酬なしで自分の球を受けるとは思えない。その日部活を終えた後、ヴァッシュはメリルを呼び止め訊いてみた。
「ええ、交換条件がありましたわ」
「何?」
返ってきた答えにヴァッシュは目を丸くした。一球につき学食の一番高い食券一枚。
メリルは必ず弁当を持参しているが、ヴァッシュは時々学食を利用していた。何故か真っ赤なうどんをすするウルフウッドを見かけたことが何度かある。うどんが赤いのは七味唐辛子をこれでもかと振りかける為だと程なく知った。
ウルフウッドが弁当を持参したことは一度もない。その為か、先輩から『昼食をおごる』と言われているのも毎日のように見ているが、ウルフウッドはきっぱり断っていた。借りは作らない主義らしい。もっとも、下心見え見えの食事が旨い筈はない。彼でなくても断っただろう。
月曜日メリルは早速約束を果たし、その週ウルフウッドの昼食は珍しく豪勢になった。
金にこだわる反面、かなりの倹約家。ヴァッシュのウルフウッドに対する考察である。しかしその理由は判らない。
頭の片隅にひっかかるものを感じているのだが、ヴァッシュはそれを掴みあぐねていた。
相変わらず野球部からの勧誘に色よい返事はない。メリルに対しては冷淡とも思える態度で接している。
「キミ、野球嫌いなの?」
授業の合間の僅かな休憩時間にヴァッシュはため息交じりに尋ねた。
「…別に」
短い沈黙の後の返答。てっきり『嫌いだ』と即答されるものだと思っていたヴァッシュは思わず隣の席に目をやった。余計なことを言った、とでもいうようないまいましげな表情が見えたのは一瞬で、その後何度話しかけても黒髪に覆われた後頭部は振り返らなかった。
十一月最初の朝練を終え自分のクラスに入ったヴァッシュは、クラスメイトがまだ登校していないのを確認してメリルのすぐ前の席に陣取った。先日交わした短い会話を説明する。
「野球が嫌いじゃないんならどうして…」
椅子に前後逆に座り、背もたれを抱きかかえるようにして小さく息を吐く。
「…嫌いなのは…私なのかも知れませんわね」
「そんなことないよ! だって、その…」
何とか否定しようとするヴァッシュに、メリルは困ったような微笑みを向けた。
「ヴァッシュさんも気づいてらっしゃいますでしょう?」
「…うん」
確かにメリルに対してだけ態度が違う。あからさまに嫌な顔はしないが、いつもの人当たりのよさは消えてしまう。
でも…ヴァッシュは首をかしげた。ウルフウッドがメリルを嫌う理由が全く思いつかない。
ヴァッシュは知らなかったが、自分の評価が好意的なものばかりでないことをメリルは知っていた。『才色兼備』『高嶺の花』と言われる一方で、かつてのキールのように『勉強だけが取り得』だと煙たがられていたり『かわい気がない』と思われていることを。
『生意気』『女のくせに』――就学してから、耳にたこができるほど聞いた言葉。理不尽な理由で敬遠された経験は何度もある。
「おはようヴァッシュ、朝から何の密談だ?」
「密談はひどいなぁ。世界にあまねくラブ&ピースの精神を広めるにはどうしたらいいのか、アツク意見を交わしてたところなのにぃ」
拗ねたような口調のとんでもない答えにメリルは思わず吹き出した。くすくす笑っているマネージャーを眺めつつ、ヴァッシュは本来その席に座るべきクラスメイトの為に立ち上がった。
『よかった…』
彼女を包んでいた翳りが消えて。
「なーに馬鹿なこと言ってんだよ」
「わっ、それだけは勘弁して! セットするの大変なんだから!」
髪を引っ掻き回されそうになり慌てて飛びのく。焦る様が面白いのか、クラスメイトは怪しい笑みを浮かべながら追いかけてくる。
二人の鬼ごっこは、ヴァッシュの奇妙な叫び声をBGMに授業が始まる寸前まで続いた。
Ⅴ
「おはようウルフウッド」
「…何でオドレがここにおんねん」
ウルフウッドが顔を顰めたのも無理はない。トライガン学園に程近い自宅のアパートの門を出たところで、自転車にもたれかかるように立つヴァッシュにいきなり挨拶されたのだから。スカウト合戦は今でも過熱気味だが、自宅まで押しかけられたことはこれまで一度もなかった。
「まあまあ、一緒に学校行こう」
「…小学生やあるまいし」
横目で睨んでも、ヴァッシュは動じる様子もなくいつもの笑顔を浮かべている。
走って逃げたところで人間台風を捲くのは困難だろう。目的地が同じでヴァッシュに先に行く意志がないのだからどうしようもない。ウルフウッドは仕方なく自転車を押しながら歩くヴァッシュの横を歩いた。
「朝練はどないした。泣く子も黙る人間台風様がサボリか」
腹いせに嫌みの一つも言ってみる。
「済ませて来た。少し早く上がらせて貰ったけどね。…野球部が朝練してるって知ってたんだ」
「…汗臭いのが毎朝隣に座るんや。気づいて当然やろ」
いまいましそうな口調がヴァッシュには負け惜しみのように聞こえた。それきりウルフウッドは口をへの字に曲げたままヴァッシュの呼びかけにも答えない。
突然ヴァッシュがその場に自転車を倒して走り出した。
「ウルフウッド、ちょっと!」
訝しげに視線を向けると、歩道橋の階段の下で中腰になっているのが見えた。まるで犬でも呼んでいるようにひらひらと手を振っている。
「…何やねん」
声だけでなく顔にも不快感を顕わにして、それでもウルフウッドはヴァッシュに歩み寄った。学ランの肩越しに覗き込む。車椅子の少女が救いを求めるようにこちらを見上げていた。
「この子、反対側に渡りたいんだって。でもこの辺って歩道橋しかないだろ? 信号のある交差点はだいぶ先だし」
振り返った金髪男にぽんと肩を叩かれ、ウルフウッドの口元が引きつった。嫌な予感が彼の心に沸き上がった。
「僕らで運ぼう!」
…予感的中。ウルフウッドはがっくりと肩を落とした。
「ほら早く、そっち持って」
何でワイが。口まで出かかった文句をすんでのところで飲み込む。その子には聞かせたない。
車椅子の左右につき、そっと持ち上げる。男二人と車椅子が並ぶと階段の幅いっぱいになってしまったが、全員道を譲ってくれた。
歩道橋の上ではヴァッシュが車椅子を押した。反対側に到着し再び二人で持ち上げて階段を降りる。
少女は何度も礼を言った。時折振り返る笑顔にヴァッシュは手を振って答えた。
「ごめんね…。ホントは目的地まで送ってあげたいんだけど…」
少し先の角を曲がったのを見届けてから、ヴァッシュは小さく呟いた。
「…オドレのいい人ごっこに付き合わされるんは金輪際ごめんやで」
憮然とした声にヴァッシュは軽く目をみはり、何故か明るい笑顔を向けた。
「僕はキミはいい奴だと思うよ」
「!?」
「名前を呼ばれようが手招きされようが、無視して一人で行くことだってできた筈だろ? 僕がほっぽりだした自転車に乗ってっちゃえば邪魔者を捲けたよね」
「この次はそうしたる」
子供に甘い自分を自覚しながらおくびにも出さず、ウルフウッドは毒づいた。
「へえ…。また朝押しかけて、キミの目の前で困ってる人に声をかけてもいいんだ」
「…来んな!」
背中を蹴られ、学ランにくっきりと靴跡をつけられてもヴァッシュは笑っていた。歩道橋を引き返し自転車を起こす。
「後ろに乗んない?」
「いらんお世話や」
「遅刻するよ?」
慌てて腕時計に視線を走らせる。予鈴が鳴るまでの時間を計算し、血の気が引いた。スカウト合戦への対応を最小限にする為にわざと遅めに登校していたのが仇になった。
「さっき手伝ってくれたお礼だよ。貸しになんかしないから」
甚だ不本意ながら、ウルフウッドはヴァッシュの自転車の後ろに乗った。二人乗りとは思えないスピードで自転車が走る。警察官に見られたら強制停止の上お説教されること間違いなしだ。
必死にペダルをこぎながら、ヴァッシュは風の音にまぎれてしまいそうな小さな声で問いかけた。
「…何でキミはそんなにお金が必要なの?」
「親のすねをかじりたない」
独り言のようなかすかな呟きをヴァッシュは聞き逃さなかった。
Ⅵ
遅刻をしなかったというのに、ウルフウッドの機嫌は最悪だった。傍目にもそれは明らかで、いつものように勧誘活動にいそしもうとやって来た先輩達が回れ右をしたほどだ。
『アイツとおると調子狂うで…』
余計なこと言ってまうし、いらんことしてしまう。笑い方がカラッポの奴にいいように振り回されとる。
ウルフウッドは八つ当たりをするように床を蹴った。
その横で、苛立ちの原因は頬杖をつき物思いにふけっていた。今朝の短いやり取りで、ずっとひっかかっていたものがようやく判ったような気がした。何故彼に自分と同じ空気を感じたのかも。
転入してからしばらくの間クラスメイトの質問責めにあったウルフウッド。彼がさりげなく答えをはぐらかしたのは、転校した理由と家族に関する質問だった。
後者は身に覚えがある。入学したての頃に何度も訊かれ、曖昧に笑ったり話題を変えたりして誤魔化した。
『親と不仲なのかな…』
頭に浮かんだ仮説を即座に否定する。あの時の口振りに負の感情はなかった。むしろ逆、大切だからこそ甘えたくない――そんな印象を受けた。
必要であろう生活費と学費を大まかに計算してみる。高校生が普通にバイトをして稼げる額では足りなさそうだ。
『だから体験入部をくり返すのか』
彼の特技を最大限に生かし、短時間で稼ぐには確かに最適な方法ではある。
放課後、部活を終えたヴァッシュはメリルに声をかけた。部室で今朝の出来事を話す。
「…どう思う?」
「親のすねをかじりたくない…そうおっしゃったんですのね」
「うん。…借りを作るのは嫌いみたいだけど、そういう意味で言ったんじゃないと思うんだ」
彼のアパートを思い出す。かなり古そうな建物だった。郵便受けには彼の名前しかなかったから、おそらく一人暮らしなのだろう。学食でのメニューの選び方から質素な暮らしぶりが想像される。
推測だけど、と前置きして、ヴァッシュはそのこともメリルに言った。
「ご家族のことは何も?」
ヴァッシュは無言のまま肯首し、メリルは小さくため息をついた。
「…親御さんに経済的な負担をかけたくない、ということなら…」
メリルが僅かに眉根を寄せ目を細める。それが彼女が考え込む時の癖だとヴァッシュは知っていた。思考の邪魔をしないよう沈黙を守る。
ようやく考えがまとまったのだろう。メリルはまっすぐにヴァッシュを見つめると口を開いた。
「…ヴァッシュさん、私、ウルフウッドさんに交渉してみますわ」
「え? でも…」
理詰めの説得なら自分よりメリルのほうが適任だと思う。しかしウルフウッドが素直に彼女の話を聞くだろうか。
「大丈夫です。任せて貰えませんか? やってみて駄目でしたら、その時あらためて次の手を考えましょう」
「…判った」
微笑みながら肯くと、ヴァッシュは鞄を手にドアへと歩み寄った。扉を開けた途端吹き込んできた冷たい風に思わず首を竦める。
「さむっ! …ごめん、すっかり暗くなっちゃったね。家まで送るよ」
「子供じゃありませんのよ。一人で帰れますわ」
メリルが電車に乗るのは僅か一駅である。自宅まで三十分もかからない。
「まあまあ、たまにはいいじゃない。ウルフウッドを乗せて遅刻しなかったんだよ? 電車よりずっと早いって」
ギリアムとミリィの顔が脳裏に浮かぶ。自分のせいで帰りが遅くなったのだ、メリルが無事帰宅するところをちゃんと見届けなければ。
しばらく水かけ論が続いた。が、時間が勿体無いと思ったのだろう、メリルは嘆息するとようやく首を縦に振った。
「…安全運転でお願いしますわね」
万が一にも転倒して、怪我なんてしないで下さいね。
「了解!」
Ⅶ
それから十日ほど経過した月曜日の放課後、ヴァッシュはメリルに部活に遅れる旨主将に伝えて欲しいと頼まれた。
ウルフウッドと話をするんだ。理由は聞かなかったが、ヴァッシュはそう確信した。
着替えてウォーミングアップを始めたものの、気になってつい身体が止まってしまう。キャッチボールの緩い球を度々受け損ね、何度も転がる白球を追いかけた。
「どうしたヴァッシュ、具合でも悪いのか?」
主将に怪訝そうな表情で尋ねられ、ヴァッシュは渡りに船とばかりに答えた。
「はい! あの、ちょっと保健室に行ってきてもいいですか?」
身を乗り出したヴァッシュの勢いに押され、ギリアムは肯いた。
「すみません、失礼します!」
グラブを投げ出して一礼し、全力で走り出した後輩の姿がみるみる小さくなっていく。見送る主将の口元に苦笑が浮かんだ。
「…ずいぶん元気な病人だな」
ヴァッシュの目的地はもちろん保健室ではなかった。上履きに履き替え、音を立てないよう自分のクラスに向かう。
静かにドアに身を寄せる。メリルの声が聞こえてきた。
「…いかがですか?」
ドアにはめられたガラス窓からそっと中を窺う。マネージャーの横顔が見えた。
「…阿呆らし」
答えるウルフウッドは眉を顰めている。そっけない口調に不快感が滲んでいた。
メリルがウルフウッドに近づいた。二人の距離が一気に縮まる。
「あなたでなければ…駄目なんです…」
声は震えていた。せっぱ詰まったような表情。菫色の瞳が僅かに潤んでいる。
メリルの小さな手のひらが逞しい肩に置かれた。滑るようにゆっくりと二の腕を辿る。
唐突にウルフウッドが一歩引き、細い腕は宙に残された。
「…アンタが野球部やめるんやったら考えてもええ」
ドアを挟んで二人が息を呑んだ。メリルの目が大きく見開かれる。
「どうや? ワイの為にやめられるか?」
紅唇がわなないているのが見えている筈なのに、見下ろす漆黒の双眸には何の変化もない。
メリルは腕を下ろすと、目を閉じて大きく深呼吸した。ややあって再びウルフウッドを見上げた瞳には苦悩の色がありありと浮かんでいた。
「…少し…考えさせていただけませんか?」
「…二週間や」
ウルフウッドは俯いてしまったメリルの横を通り過ぎ、自分の机に歩み寄った。ヴァッシュは咄嗟に隣のクラスに飛び込んだ。誰もいなかったことに密かに安堵する。
鞄を手にウルフウッドが教室を出た時には、廊下に人影はなかった。
気配と足音が完全に消えるのを待って、ヴァッシュは再び自分のクラスを覗いた。
メリルは窓辺に立っていた。こちらに背を向けている。野球部の練習を見ているのだろう。
華奢な肩が小刻みに震えているのに気づいて、ヴァッシュは両の拳を固く握り締めた。
キャッチャーはどうしても必要だ。あの球を受け止めたウルフウッドが相手なら、全力で投げられそうな気がする。
でも、メリルのいない野球部なんてとても考えられない。
部にとってもメリルにとってもあまりにも非情な交換条件。どんな風に交渉したのかは判らないが――
肝心の交渉の部分は聞いていないことを思い出して、ヴァッシュの胸にある疑問が湧き上がった。
『マネージャーは、本当に入部の交渉をしたのか…?』
あなたでなければ…駄目なんです…。
メリルの声が辛そうな表情と共に蘇る。縋るように、求めるように、ウルフウッドに触れた両手。あれは交渉というよりむしろ…
ワイの為にやめられるか?
冷たいウルフウッドの答え。到底承諾できない条件。あれは、メリルの告白を断る口実ではないのか。…いや、もしかしたら。
子供の頃、一つ年下の幼なじみの少年が同じ保育園に通っていた女の子をよく苛めていた。見かける度に止めに入り、それが原因で喧嘩になったこともある。
どうしてそんなことするんだよ。頬を膨らませて問いつめた自分に、少年は顔を背けて意外な言葉を口にした。
ジェシカちゃんがすきだ、なかせたくなんかないのにどうしてもいじめちゃうんだ。
不器用な愛情表現だったのだと今は思う。
もしウルフウッドもそうなら…メリルにだけつっけんどんなのは特別な好意の裏返し。あの発言は、野球部よりも自分を優先して欲しいから。
そしてメリルは即答を避けた。大好きだと言った野球とウルフウッドを天秤にかけ、その場でどちらかを選べなかった。
だとしたら、二人は相思相…
ヴァッシュは左手で口元を押さえた。こみ上げる吐き気。目眩がする。
「部活…戻らなきゃ…」
呻くように呟いて、もつれる足で必死に歩く。上体が揺れ、咄嗟に壁に手をついて身体を支えた。
息が苦しい。吐き気も目眩もどんどん酷くなっていく。
昇降口の手前でヴァッシュは崩れるように倒れた。
------------
Ⅷ
ぼんやりと目を開けると心配そうな伯母の顔が見えた。何度か瞬きして、ようやくそこがレムの家だと理解する。
ヴァッシュは客間として使われている和室に敷いた布団に寝かされていた。額には固く絞ったタオル。
「よかった、気がついたのね」
頭がはっきりしない。身体が熱い。気持ちが悪くて吐きそうだ。
『どうして…』
こんなことになったのか。何故自分はここにいるのか。尋ねようと唇を動かしたが声にならなかった。
「学校で倒れたのよ。レムがうちに連れて来てくれたの。…お医者様に往診して貰ったわ。身体は何ともないそうよ」
ヴァッシュの表情を読み取り説明する。その声も、ヴァッシュにはずいぶん遠くに聞こえた。
「何か食べる?」
ゆっくりと首を横に振る。食欲はまるでない。
「食べないとよくならないわよ」
「…いらない」
短く答えた声は自分のものとは思えないほど掠れていた。そのまま目を閉じ、顔を背ける。それだけのことが酷く億劫だった。
放っておいて欲しい。一人になりたい。
しばらくして気配が遠ざかった。襖を開け閉めする音を聞いたような気がした。
月曜日の夕方倒れてから、ヴァッシュはずっとセイブレム家にいた。一人では身動きできない状態で、昼間は誰もいなくなる自宅にはおいておけなかったのだ。
木曜になっても四十度近い熱は一向に下がらなかった。食事もほとんど喉を通らず、食べても吐いてしまうことが多い。うなされていることもしばしばで、時折ほとんど意味不明のうわごとを言う。唯一聞き取れたのはマネージャーの名前。
ヴァッシュの母と姉夫婦、レムの四人が深刻そうな表情でリビングに集まった。ヴァッシュは睡眠薬を飲んで今はどうにか眠っている。
彼は辛いことや自分の悩みを決して言わない。顔ではにこにこと笑って、人知れず心の奥底に抱え込んでしまう。
大抵は折り合いをつけられるのだが、うまくいかない時がごく稀にある。そして許容量を超えた時、心因性発熱という形で表に現れるのだ。
「去年の夏以来ね…」
眉根を寄せレムの母が呟いた。あの時甥が呼んだのは父親だった。
「…レム、心当たりはないのか?」
「ええ…マネージャーに訊いてみようと思ったんだけど、彼女の表情も暗いの」
声をかけようとしてためらってしまったほど。
「明日何とか話をしてみるわ」
不意に聞こえたかすかな嗚咽に、三人は首を巡らせた。ヴァッシュの母が声を殺して泣いている。
「…私達のせいで…あの子に…こんなに辛い思いをさせて…」
レムの母は普段は弱音など吐かない妹に寄り添うと、その手をしっかりと握った。
「大丈夫よ。あの子は強い子だもの。あなたがそんな情けない顔をしてどうするの」
「そうですよ。…それに、私はこれが必ずしも悪いことだとは思ってないんです」
意外な発言にレムの両親はまじまじと娘の顔を見た。ヴァッシュの母も涙に濡れた顔を上げ、姪を食い入るように見つめる。
「小学生の時に二回、中三の時に一回…発熱の原因は全部家族でしたよね。…今回の発熱は、あの子が初めて 家族以外で家族と同じくらい大切だと思える人ができた証拠じゃないでしょうか」
友達は大勢いるのに深く寄せつけない。誰にとっても近くて遠い存在、それがヴァッシュだ。
「…ヴァッシュが、そのマネージャーの子を…」
「ええ、間違いないと思います。本人は自覚してなかったようですけど…」
言われてみれば思い当たる節はある。メリルの話をする時は、それが叱られたことであっても嬉しそうな顔をしていた。いつもとは違う心からの笑顔。
「これをきっかけに変われるかも知れない…そんな風におっしゃったのは叔母様ですよ? 学校では私ができるだけフォローします。今は苦しい時ですけど、あの子なら必ず乗り越えられます」
根拠はない。それに、担任でも野球部の顧問でもない自分が学校でできることなどたかが知れている。それでもレムは力強く肯いてみせた。
Ⅸ
夕べはああ言ったものの、どうやって話を聞こうか…。保健室で机に向かいながら、レムは小さくため息をついた。
養護教諭である以上、用もないのに勝手に保健室を離れる訳にはいかない。何より、第三者のいるところでできる話ではなかった。
いいアイディアが浮かばないまま昼休みになった。体調を崩したり怪我をした生徒もなく、珍しくゆっくり食事ができた。
口紅を手早く直した時、控えめにドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼します」
聞こえた声に、レムは勢いよく振り返った。
入室してきたのはメリルだった。普段は宗教や信仰心とは無縁の癖に今だけ調子よく神に感謝しながら、レムは何食わぬ顔でメリルを迎えた。
「どうしたの? 頭痛? 腹痛?」
明るく声をかけながらそれとなく様子を窺う。あまり眠っていないらしく、目の下にうっすらとクマができている。
表情は相変わらず暗く、快活さが感じられない。
「いえ…私は何ともありません。…その…」
「ヴァッシュのこと?」
「…はい」
思い切って自宅に電話をしたのだが、留守番電話が応答するだけだった。休んでいるところを起こしてしまうかも知れないのが申し訳なくて、メッセージも残さず早々に電話を切った。
レムは自分の席に一番近い椅子をメリルに勧めた。
「月曜日の放課後、ウォーミングアップの最中に具合が悪くなって保健室に向かう途中で倒れたと聞きました。…あの、ヴァッシュさんの容態は…」
「熱が高くてね。今朝からようやく下がり始めたところ。昼間一人じゃ不安だから、今はうちにいるわ」
あの人のご両親も共働きなのかしら。メリルは疑問に思ったが質問はしなかった。
「お医者様の診断だと、身体には異常はないってことなの。とすると心因性の発熱ってことになるんだけど…原因の心当たり、ない?」
「私に…ですか?」
レムは無言のまま肯首し、思案を巡らせるメリルをじっと見つめた。
「…やはりキャッチャーのことではないでしょうか。…あの日の放課後、私、キャッチャー候補の方に入部の交渉をしたんです。でも、その結果はヴァッシュさんにはお話ししてません」
嘘を言っているようには見えない。第一、事実を隠して彼女が何か得をするとも思えない。
「その候補の人…何ていう名前?」
「ニコラス・D・ウルフウッドさんです。十月に転入してきた人です」
心の中でその名を復唱する。うわごとにそれらしい言葉はなかった。
原因はメリル以外には考えられないのだが、倒れる直前に会っていなかったとすると…
答えが見つからず、レムは僅かに目を細めた。
軽やかなチャイムが鳴る。五時限目の予鈴だ。慌てて立ち上がったメリルをレムは咄嗟に呼び止めた。
「交渉の結果はどうだったの? 思わしくなかったの?」
「いえ…そういう訳では…」
曖昧に答えながら、メリルは目をそらせた。
更に尋ねようとしたレムより早く、メリルは失礼します、と一礼して保健室を出ていった。
翌日もメリルは保健室を訪れた。昨日と違うのはセーラー服ではなくジャージ姿だという点である。
「土曜日も部活じゃマネージャーも大変ね」
「いえ…」
短い返答はやはり歯切れが悪い。微笑みに混じる翳り。
「お手数をおかけしてしまうのは申し訳ないんですが…これをヴァッシュさんに渡していただけないでしょうか」
レムは受け取った真新しい大学ノートをぱらぱらとめくった。五日分の授業の内容が几帳面な字で綺麗に書いてある。
だが、何故かレムはそのノートをメリルに返した。
「ごめんなさい、これは預かれないわ。…ヴァッシュ、今日自宅に戻った筈なの」
もう大丈夫だからうちに帰るね。出勤前に様子を見にいったレムに、布団に身を起こしたヴァッシュはかすかに微笑みながらそう言った。無理をしているのがひしひしと感じられる笑顔。
体調も精神面もとても大丈夫には見えないが、頑固な従兄弟は一度言い出したらきかない。小さく吐息すると、レムは『絶対無理はしないでね』とだけ言い部屋を出た。
メリルに嫌われたのが発熱の原因ではないかと考えていたのだが、いくらクラスメイトでマネージャーでも嫌いな人の容態をわざわざ訊きに来たり余分にノートを取ったりするとは考えにくい。
「時間があるなら家まで届けて貰えないかしら」
暫し思案した後、レムはそう提案した。
今ヴァッシュをメリルに会わせるのは賭けだ。吉と出るか凶と出るか皆目見当がつかないが、彼女なら従兄弟を苦しめるようなことはしないだろう。
「え、でも…」
具合が悪くて休んでらっしゃるところへお邪魔するのは、などと固辞するメリルをレムは説得した。
「…あなたがお見舞いに来てくれたら、あの子きっと喜ぶわ」
「そうでしょうか…。口うるさいのがやってきた、なんて言われそうな気がします」
「そんなことないわよ!」
レムの熱意に押し切られ、メリルはとうとう肯いた。
Ⅹ
主将に許可を貰い早目に部活を抜けたメリルは、住所を頼りにヴァッシュの自宅へと向かった。こじんまりした印象のマンションに彼の住まいはあった。
玄関の前で何度か深呼吸し、心を落ち着けてから呼び鈴を押す。ややあってインターホンから女の声で返事があった。
『はい』
「あの、私ヴァッシュさんのクラスメイトでメリル・ストライフと申します」
ヴァッシュさんのお母様かしら。そんなことを考えながら、メリルは無意識に普段よりいくぶん早口で話した。
『メリルさん…少々お待ち下さい』
用件を言う前にインターホンは切れた。しばらくして静かにドアが開き、黒髪の中年女性が顔を出した。
「あの、ヴァッシュさんのお母様でいらっしゃいますか?」
「いえ、私はあの子の伯母です」
「それじゃセイブレム先生の…」
言われてみれば顔立ちが似ている。
ヴァッシュと従兄弟だという話は学校ではしていない、と娘から聞いている。この子を全面的に信頼している証拠だと伯母は思った。
「こんなところで立ち話も何ですから、どうぞ」
「いえ私は」
言いかけたメリルに背を向け、先に立って歩いていってしまう。メリルは仕方なく靴を脱ぎ、お邪魔します、と挨拶してから部屋に入った。
玄関を入ってすぐキッチンがあった。ガス台やシンク、冷蔵庫などが並び、反対側に正方形の小さなテーブルと椅子が四脚。
ドアがいくつかある。他の部屋に続いているのだろう。
メリルに椅子を勧めてから、伯母はすぐ横のドアを指し示し声を潜めて言った。
「この部屋にヴァッシュがいますけど…お会いになります?」
「いえ…体調が悪くて休んでらっしゃるのを邪魔したくありませんから…」
自分以上に小さな声で答えられ、伯母の口元がほころんだ。すぐに失礼しますからどうぞお構いなく、という声を聞き流し、お茶の準備をする。
紅茶を満たしたカップが二つテーブルに置かれた。ヴァッシュの伯母が椅子に座るのを待ってメリルは口を開いた。
「ヴァッシュさんの具合はいかがですか?」
「熱はだいたい下がりました。来週から登校できると思います。あまり食べられないのが気がかりですけど」
「そうですか…」
メリルは俯いた。安堵と不安が入り交じった表情。菫色の双眸が僅かに揺れる。
この子は本当にヴァッシュのことを心配してくれている…。これまでいろいろと話を聞き、今こうして直接会ってみて、伯母はメリルが二人の言うとおりの子だと確信した。
「大丈夫ですよ。たまにあるんです。去年の夏に父親が再婚したと聞いた時にも寝込んでしまいましたから」
「えっ?」
メリルははじかれたように顔を上げた。再婚した、ということは、それ以前に離婚しているということになる。初めて聞くヴァッシュの両親に関する話はメリルにとってショッキングなものだった。
彼女の表情を見て、伯母は自分の失言に気がついた。甥がそういった話までしていると思っていたのだ。
気まずい沈黙を破ったのは年長者だった。
「…ごめんなさい、急に変な話をして。てっきりヴァッシュから聞いてると…」
メリルはヴァッシュについて知っていることを思い起こし、その少なさに愕然とした。本人の口から直接聞いたのは、就学以前にこちらに住んでいたことと中学卒業と同時に戻ることになったのでトライガン学園を受験したことくらいだ。
理解していると思っていたのは勘違いだったのか。鮮明だった彼の姿が突然ぼやけた――そんな気がした。
出された紅茶を二口ほど飲んで、気持ちを無理矢理切り替える。味わう余裕はなかった。
「私、これを届けに来たんです」
メリルは大学ノートを差し出した。
「…ヴァッシュさんに『どうぞお大事に』とお伝え下さい。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げるとメリルは立ち上がった。
「もうお帰り?」
「はい、失礼します。もともとノートを届けるだけのつもりでしたから…」
玄関で『紅茶、ご馳走様でした』と一礼するメリルに、伯母は真摯な声で呼びかけた。
「ヴァッシュのこと…助けてやって下さいね」
「…私に…できることでしたら」
相手の目をまっすぐ見つめて答えると、メリルは会釈して静かにドアを開け外に出た。音を立てないようそっとドアを閉める。
『今の私にできること…』
思いつくのは一つだけ。そしてそれは自分にしかできないことでもある。
駅に向かって歩くメリルの表情が厳しいものに変わった。
エピローグ
ヴァッシュは月曜日から登校したが、部活に復帰するまで更に三日を要した。それでも本調子には程遠く、練習の一部にだけ参加している。
ピッチャーの表情が冴えないのは病み上がりだからだとして、どうしてマネージャーまであんな暗い顔をしているのか。――顧問及び主将以下計九人の率直な感想である。ギリアムがメリルに何度か尋ねたがはぐらかされてしまった。
表面的には何事もなく、時は穏やかに過ぎてゆく。
ヴァッシュが倒れてから二週間後、帰ろうとしていたウルフウッドは昇降口でメリルに呼び止められた。差し出された白い封筒の表書きを一瞥し、視線を強張った顔に向ける。
「あなたのお望みのものですわ。これから顧問の先生に渡しに行きます」
「…ほうか」
呟くように言うと、ウルフウッドはメリルに背を向け歩き出した。いつもと変わらぬ足取りからは、彼の心情は窺い知れなかった。
職員室のドアをノックし、一礼して室内に入る。顧問が自分の席にいたのはメリルにとって幸いなのか不幸なのか。
「先生…」
「ん? どうした、何か用か?」
事情を説明しようと思うのだが声が出ない。メリルは無言のまま部室の鍵とFD、そして白い封筒を顧問に手渡した。
FDには、この十日ほどの間に作成した練習メニューやゲームの組み立て案などのデータを収めておいた。封筒には表書きどおり退部届が入っている。
顧問は封筒の端を手で裂き、中身を取り出して黙読した。文面は合宿の時と同じ、違うのは日付と、きちんと署名がしてあることだ。
軽く眉を上げ、俯くマネージャーを見つめる。
「…理由を教えては貰えんのかな?」
「…訊かないで下さい」
やっとの思いでそれだけ言う。声が震えているのが自分でも判った。
メリルの手を取り鍵をしっかり握らせてから、顧問は机に置いた退部届を目で示した。
「とりあえずこれは預かっておこう。部員には、マネージャーは家の都合でしばらく部活を休むとだけ言っておく」
「…はい」
深くお辞儀をして踵を返す。メリルは逃げるように職員室を後にした。
「…これが…今の私にできること…」
廊下を歩きながら、メリルは自分に言い聞かせるように何度も小声で呟いた。教室に行き、自分の鞄を持つ。
昇降口で靴を履き替える。いつものように校庭へ向かおうとして、途中で気づきぎくりとする。
「もう…行っちゃ…駄目なの……」
野球部に自分の居場所は…ない。
方向転換して校門に向かう。後ろ髪を引かれる思いを押し殺しながら。
喉が痛い。目が熱い。それほど寒くないのに身体が震える。
見慣れた門が酷くぼけて、幾重にも重なって見えた。
―FIN―
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