「なぁんだ、つまんないわねぇ」
「お前も一応、年頃の牝馬なら、自分の事を考えやがれ。
そんなんじゃ、引退しても、秋華賞馬だってのに、どこの雄馬も相手にしてくんねぇぞ」
ドバイWC日本代表馬の中でも問題児筆頭に、偉そうに引退後のプライベートの事まで説教されたものだから、
年頃の乙女としては、多少、気を害さない筈がない。
「ニトロ。それ、どういう意味よ、あたしが、お嫁にいけないとでも言いたいの?」
「ハッ!じゃあ、お前みたいなじゃじゃ馬が、一丁前に恋愛出来るってのかよ」
「よく言うわよ。そっくり、お言葉返してあげるわ」
売り言葉に、買い言葉。
「あわわ、二人とも落ち着いて…っ」
段々、険悪な雰囲気になる二人に、マキバオーがおろおろと動揺していると、トゥカッターが唯一の年上らしく鷹揚に割って入る。
「まぁ、二人ともそこまでにしておけ。嬢ちゃん、ニトロはな?本当はこう言いてぇんだよ。
『俺がちゃんと嫁にもらって、種つけてやるから、安心しろ』ってなぁ」
「な…っ!?」
トゥカッターがさらりと投下した爆弾発言で、ニトロニクスの頬が、浅黒い毛色の上からも、みるみる内に上気していくのが解る。
その様子をマキバオーとアマゴワクチンが、珍物でも見るような目で、眺めている。
視線を察知したニトロニクスが、一際大声で怒鳴った。
「ふっ…ふざけんな!おっさん!俺はこんな可愛げないオンナなんざ、お断りだぜ!」
照れ隠しであるのは明白だが、女性に向けて発するにはあまりに失礼な台詞だ。
火種が更に燃えあがる展開を予想して、「あーぁー…」とアマゴワクチンが溜息をつく。
そして、予想は当たる。
「冗談じゃないわよ!こちらこそ、あんたみたいに優しくないの、お断りだわ!」
鼻息荒く、ニトロニクスを一瞥するように睨みつけると、ふいっと顔を反らし、言を次ぐ。
「第一、私には、ちゃんと好きな人はいるんだからっ」
えっ?と驚きと痛みを交えた表情で、ニトロニクスが一瞬硬直する。
思い当たったマキバオーとアマゴワクチンが、複雑な気持ちでその言葉を聞いていた。事情を知らないトゥカッターが、
声を潜めてアマゴワクチンに問うのを、横目で苦々しく捉え、胸に走る鋭い痛みと敗北感から生まれる屈辱に、
ニトロニクスの中で抑制出来ない感情が爆発した。
だから、その言葉は本当に、理性無き無意識の勢いのようなものであったのだろう。
「けっ!どうせあのネズミだろ!いつまでも、女々しく死んだヤツの事、引きずってんじゃ…」
「ニトロ!!言い過ぎ!」
意外にも、それ以上の言葉を遮ったのは、つい先程まで右往左往してるだけのマキバオーだった。
その声に、ニトロニクスも自戒の念と共に我に返った。
「あ……」
見れば、アンカルジアは頸をうなだれて、黙っている。長い前髪で隠れて、その表情は窺いしれない。
「お…おいっ」
いつもの強気な彼女と明らかに違う様子に焦るニトロニクスに、黙ったままくるりと背を向けた。
「ちょ…おい、待てよっ」
「…………ニトロの……」
「……え?」
「馬鹿っ!!!」
叫ぶような罵声と共に、地面を一蹴り。凶器と化した後ろ脚の蹄が弧を描いて、見事にニトロニクスの鼻面にヒットする。
天下の秋華賞馬の後ろ蹴りだ。見てる方も痛そうに眉を寄せた。
「て…てめぇっ、オンナのくせに後ろ蹴りって…」
顔にくっきりUの文字を刻んで、ニトロニクスが激昂しかける。
だが、次の刹那、去っていくアンカルジアの横顔に、涙の筋を認めると、一瞬で言葉を失った。
ただ茫然と、駆け去っていく後ろ姿を見つめていると、背後から一斉に声を揃えて非難が飛んできた。
「ニトロが悪い」
「な…なんだよ、お前ら…」
「あんな言い方は、ひどいのね!」
「ほら、早く追いかけて、謝っとけよ」
「冗談じゃねぇ、被害者は俺の方だろうがっ」
マキバオーとアマゴワクチンに責められながらも、素直になれない性格が邪魔して、余計に意地を張ってしまう。
「まぁまぁ、二頭ともよ、そうニトロを責めなさんな」
再び、トゥカッターが仲裁に入ってくる。
「惚れたオンナの心に、まだ他のオトコが住んでるのを知っちまったんだ。ニトロだって辛かろうよ?」
「べ…別に俺は…っ」
「だがなぁ…、勝負事はこちらの事情なんざ、汲み取ってくれねぇのよ」
「何の…話…だよ」
「いや、もしも、さっきのお前の言葉に深く傷ついて、ドバイにまでショック引きずったアンカルジアが走れなくなっちまったら、
誰の責任だと思ってなぁ…」
「………うっ…」
「しかも、そのせいで日本が惨敗し、罪悪感から帰国後も走れなくなり、とうとう競争馬引退…」
「なっ!?」
不吉な予想に、初めてニトロニクスの顔から、意地の仮面が外れる。その瞬間を見逃さない老獪さは、さすがに六歳馬だ。
「あまつさえ…後に待っていたのは『供養』という名の馬刺し行きなんて…」
「うわああん!アンカルジアが食べられるなんて、嫌なのねー!!」
母親が売られた関係で、散々聞かされたひげ牧場の黒い噂のせいか、マキバオーには、『供養』の一言はリアルな恐怖だった。
その恐慌ぶりが、更にニトロニクスの焦燥心を煽る。
「…っくそ」
とうとう意地が折れて、くるりとその巨躯を翻し、アンカルジアが走り去った道を、レースでも見せた事のない速さで走り出した。
その後ろ姿を見送りながら、「若いってのはいいねぇ」等とトゥカッターが呟いた。
「呑気な事言ってる場合かー!あああ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
ぐるぐると回りながら、パニック状態のマキバオーの尻尾をアマゴワクチンが口で掴む。
「落ち着け、マキバオー。カッターのデマカセだからよ」
「これが落ち着いてなんか……っ、へ?…デマカセ?」
パニックから我に返ったマキバオーに、トゥカッターがにやりと笑む。
「あの嬢ちゃんは、天下の秋華賞馬だぜ?繁殖馬にしねぇ訳がねぇだろ?」
それに…、と言を続け、
「こんな事で走れなくなるようなオンナじゃねぇ事は、付き合いが長いお前の方が知ってるんじゃねぇか?」
「……うん」
ようやく落ち着きを取り戻したマキバオーの尻尾を離して、アマゴワクチンが呆れと多少意地の悪い作戦に少しの
非難を込めて、トゥカッターを見る。
「策士だな…」
「褒めてんだろ?」
全く悪びれないトゥカッターの様子に、諦めの溜息をつく。
「…まぁ、ああでも言わねぇと、ニトロは意地張っちまうだろうからな」
「そういう事だな。後は若い二人に任せてだな…。その内、らぶらぶしながら戻って来るだろうよ」
そう言うと、三頭は連れ立って馬房に戻ろうとした。だが、それを呼び止めるドラ声が聞こえる。
「おい!お前らー!」
振り返れば、飯富代表調教師が焦燥した様子で、息咳き切って駆け寄って来る。
「んあ?虎先生、そんなに慌てて、どうしたの?」
「いや、お前ら、ニトロとアンカルジアの二頭を見てねぇか?」
「つい、さっきまで一緒だったが…どうかしたのか?」
いつも鷹揚に構えている飯富の珍しく青ざめた表情に、三頭が不審そうにする。
「いや、どこにも居ねぇんだよ。今、スタッフ総出で確認してんだけどよ。なんだか、門の外に二頭らしき蹄の跡を見つけてよ。
もしかしたら、外に出て行っちまったかもしれん」
「えっ!?」
三頭の驚きの声が、ぴたりと重なる。
マキバオーとアマゴワクチンが、策士トゥカッターを頼るように見た。
だが、次に出た言葉は、
「……こいつは計算外だぜ」
*
今度こそ 願っても
見つかったようで見つかんない…
くり返すせつなさに
不安募ってくけど
「…駄目ね、私。どうして、こうなのかな」
独り佇み、アンカルジアは呟いた。
そして、目の前で苔むす小さな墓石にうっすら積もった埃を鼻先で払う。
手作りの墓石に刻まれた名前を呼ぶ。
「…チュウ兵衛」
本多特別分場を飛び出して、悔しさと苛立ちそして悲しみが渾然となったまま、訳も分からず走っていたが、
何故かここに辿り着いた。一度、高坂里華に頼んで墓参りに連れてきてもらったので、
道は知っていたが、意識的に来たつもりはなかった。
だが、理由は解っている。
「…逃げてきたのね、私」
そう、今まで虚勢を張って目を背けていた現実から、ここに逃げ込んできたのだ。
───『そこまで解ってんなら、帰れ』
ふと聞こえた声に、アンカルジアは目を見開いた。
「チュウ兵衛!?」
思わず見える筈もない彼の姿探して、周囲を見回す。
もう聞く事が出来ないと諦めていた懐かしく愛しい声に、胸が高鳴る。
また弱気になった自分を叱って欲しくて、そして励まして欲しくて…。
だが、次に聞こえた声は、冷たく突き放すものだった。
───『お前には、がっかりだぜ。そんな程度のオンナだったのかよ』
「え…?」
期待とは裏腹に、記憶のどんな声よりも冷淡で、容赦のない言葉に戸惑う。
自分が求めていたのは、乱暴で少し意地悪な口調でも、誰よりも深い優しさが隠された彼だった。
「なんでそんな事言うのよ…!私だって、頑張ってる!走って走って、辛いけど
また走って…、少し位、逃げてもいいじゃないっ!」
悲鳴のような叫び。知らぬ間に、双眸から、誰にも見せまいとずっと耐えていた涙が溢れていた。
───『それで…逃げた先に何があるんだ?』
「あなたが…いる。また私を励ましてよ!傍にいてよ!…独りで走るのが怖いのっ!」
───『俺は、もういねぇんだよ』
誰よりも彼の声では、聞きたくなかった現実。
「……っ!?」
彼はもういない。見えずとも、ずっと傍にいてくれる筈だから…、消せない想いと共に自らに言い聞かせて、
決して認めなかった現実。
───『俺がいなけりゃ、走れないって言うんなら…。じゃあ…お前に走る事をやめれんのか?』
その問いにアンカルジアは、何も答える事が出来ない。是とも否とも。
「……それは」
シルバーコレクターと呼ばれ、負け続けた屈辱と、初めて先頭でゴールを切った瞬間の快感が
綯い交ぜに脳裏を交錯する。走るほどに味わう天国と地獄と…。
だが、身体が覚えている。あの震えるような一瞬の天国が、長い地獄さえも吹き飛ばしてくれる事を。
───『それに、お前は独りで走ってる訳じゃねぇだろ?』
「……え?」
「この…馬鹿オンナ!!」
重なったもう一つの声は、聞き慣れて、チュウ兵衛のそれよりも、もっと現実の質量を含んでいる。
驚いて振り返ると、まるで激しいレースを終えた直後のように、滝のような汗を流し、いつもきっちりと
整えたご自慢のリーゼントも振り乱して、ニトロニクスが仁王立ちしていた。
「なんで…ニトロ」
思いも寄らなかった相手の登場に、茫然としてると、怒りも露わに鼻息荒く近づいて来る。
「なんでじゃねぇ!こんなとこまで、のこのこ来やがって、この馬鹿っ」
荒い息そのままに、一気呵成に罵倒したが、何故か後悔混じりの苦虫を噛み潰したような表情で、「いや…」と続け、
「馬鹿は俺だな…」
そう呟くと、アンカルジアの横を神妙な顔ですり抜け、墓石に近づく。
「悪かったな…」
独白のような謝罪が、耳を掠めた。墓石を見つめたままのニトロニクスの顔は解らない。
一瞬、空耳かと疑ったが、今度は振り返り、蒼い瞳がしっかりとこちらを見た。
「悪かった…」
「な…、何よ…」
「忘れんなよ、コイツの事」
ふいっと、鼻先が墓石を指す。
「あんな事、言っちまったけどよ…解ってんだよ。今のアンカルジアがいるのも、コイツと出会った事が
在るからだって。お前の一部なんだって」
「ニトロ…」
まさか彼の口から、そんな言葉を聞くとは思わず、ただただ茫然としていた。
「ただ…それと、同じくらい忘れて欲しくねぇだけなんだよ。仲間の事。マキバオーとか
ワクチンとか、カッターのおっさんとか…………………俺…とかよ」
それは訥々として、決してスマートな物言いではなかったが、彼の持つ不器用な優しさに直に触れ、
素直に心に沁み入っていく。
不意に、心の中に巣くっていた灰色の靄のようなものが、潮が引くようにすうっと晴れていくのが解る。
どうして、自分は彼らを忘れてたのだろう。どうして彼らに、空元気の虚勢を張っていたのだろう。
時には、弱気な自分を晒したって、彼らが拒否する筈がない事を知っていたはずなのに。
自分の愚かさと、気づいた事実の喜びに小さく鼻で笑うと、ニトロニクスを改めて見据えた。
「ねぇ…悪い事したって思ってるなら、ちょっと目瞑ってよ」
「う…、お、お前、また蹴り入れるつもりか?」
未だに痛みが引かない顔を強ばらせて、ニトロニクスは一瞬怯んだが、
「いや、悪ぃのは俺だもんな…。いいぜ、重いの一発入れろや」
と、潔く覚悟を決め、固く目を閉じ、来るであろう激痛に身構えた。
だが、頬を掠めたのは痛みでは無く、温かく柔らかな感覚だった。
「ありがとう、ニトロニクス」
ぺろっと湿った水音に驚き、目を開けたが既にアンカルジアの姿はなく、軽やかな足音が背後に響いていた。
更に遠くから、聞き覚えのある足音が三つ、駆け足で近づいて来る。
「あー!いたいた!」
マキバオーを先頭に、アマゴワクチン、トゥカッターも駆け寄って来る。
「やだ、みんなどうしたの!?」
驚くアンカルジアを呆れ顔で、三頭が囲む。
「この家出娘、どうしたのときたもんだ」
「もう、若造さんに、二頭に似た馬を牧場で見かけたって、連絡もらった時は、びっくりしたのね!」
「俺たちも急いで向かったんだよ。まさか、ここで5000M特訓の成果が生かされるとは、思わなかったぜ…」
まぁ、無事に会えて良かったよと、安堵する様子を見て、アンカルジアがすまなそうに眉を下げる。
「ごめんなさいね?…でも、先生達はみんながここに来たの知ってるの?」
その問いに、三頭が顔をきょとんとして、見合わせる。
「お前が、先生に言ってあるんだろ?マキバオー」
「うんにゃ、ワクチンが言ってあるんじゃないの?」
「いや…、俺は慌てて…、てっきり、カッターが言ってあるんだと」
「……これって、無断外出ってヤツじゃねぇか?」
トゥカッターの一言に、再びマキバオーが奇声を発してパニックに陥る。
「いやあああ!えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。絶対、虎先生、怒ってるよ!ぶたれるー!」
その滑稽なまでの慌てぶりに、思わずアンカルジアが吹き出した。
「ぷ…っ!クスクス…。マキバオーは、ともかくワクチンとカッターまでやらかすなんてねぇ?」
面目無さそうにうなだれるアマゴワクチンの横で、さすがのトゥカッターも天を仰いだ。
「もう!誰のせいだと思ってるのね!アンカルジアも他人事じゃないよ!」
大きな鼻穴から荒く息を吐き出しながら憤慨するマキバオーに、アンカルジアは、茶目っ気たっぷりにウィンクして見せる。
「あら、その時は庇ってくれるでしょ?『仲間』なんだから」
しれっとした物言いに、トゥカッターが呆れを通り越して賞賛を送る。
「……大物だぜ、嬢ちゃん」
「ふふ、ありがとっ。さ、これ以上、先生を怒らせると何させられるやら解らないわ。帰りましょ?」
そう促すと、先ほどから石像のように、硬直したままのニトロニクスを呼ぶ。
「ほら、ニトロも!馬鹿みたいに、突っ立ってないで帰るわよ!」
その声に、まるで長い夢から覚めたように、はっと我に返った。
「え…?あ……。だ、誰が馬鹿だよ!」
「誰かしらねぇ~?」
こうなると、いつもの掛け合いだ。空とぼけながら、軽やかな足取りで走り出す。
そして、ちらりと後ろを振り返った。
(バイバイ、チュウ兵衛。私はあなたよりもっと先に行くわ。あなたは『そこ』で、
こんなにイイ女と離れた事、後悔してながら見てなさい?……ずっと見ていてね…)
少しの強がりと願いを心中で呟くと、しっかりと前を向き直った。走り出せば、頬を心地よく風が切る。
───『解ってんじゃねぇか。それでこそ、俺が惚れたオンナだぜ』
傲慢で口は悪いけれど、裏に優しさにを隠して、笑いを浮かべた声が、風に乗って聞こえる。
「……っ!?」
その声に、足を止め掛けたが、アンカルジアはもう振り返らなかった。
ただ小さく満足気な笑みを浮かべ、前へ走る。
涙に濡れていた頬は、いつのまにか風に払われるように乾いていた。
こぼれる涙いつの間に ほら
はじまりに変わってるはずよ
回り道でも歩いていけば
行き先はそう自由自在
こぼれた涙いつだって ほら
願いの数を映してるの
遠回りでもたどり着けるわ
行き先はもう自分次第
Don't you worry
いまone step for tomorrow
進んでいるから alright!
またtwo steps for tomorrow
近づいてるから alright
lyric by Crystal Kay『なみだの先に』
「お前も一応、年頃の牝馬なら、自分の事を考えやがれ。
そんなんじゃ、引退しても、秋華賞馬だってのに、どこの雄馬も相手にしてくんねぇぞ」
ドバイWC日本代表馬の中でも問題児筆頭に、偉そうに引退後のプライベートの事まで説教されたものだから、
年頃の乙女としては、多少、気を害さない筈がない。
「ニトロ。それ、どういう意味よ、あたしが、お嫁にいけないとでも言いたいの?」
「ハッ!じゃあ、お前みたいなじゃじゃ馬が、一丁前に恋愛出来るってのかよ」
「よく言うわよ。そっくり、お言葉返してあげるわ」
売り言葉に、買い言葉。
「あわわ、二人とも落ち着いて…っ」
段々、険悪な雰囲気になる二人に、マキバオーがおろおろと動揺していると、トゥカッターが唯一の年上らしく鷹揚に割って入る。
「まぁ、二人ともそこまでにしておけ。嬢ちゃん、ニトロはな?本当はこう言いてぇんだよ。
『俺がちゃんと嫁にもらって、種つけてやるから、安心しろ』ってなぁ」
「な…っ!?」
トゥカッターがさらりと投下した爆弾発言で、ニトロニクスの頬が、浅黒い毛色の上からも、みるみる内に上気していくのが解る。
その様子をマキバオーとアマゴワクチンが、珍物でも見るような目で、眺めている。
視線を察知したニトロニクスが、一際大声で怒鳴った。
「ふっ…ふざけんな!おっさん!俺はこんな可愛げないオンナなんざ、お断りだぜ!」
照れ隠しであるのは明白だが、女性に向けて発するにはあまりに失礼な台詞だ。
火種が更に燃えあがる展開を予想して、「あーぁー…」とアマゴワクチンが溜息をつく。
そして、予想は当たる。
「冗談じゃないわよ!こちらこそ、あんたみたいに優しくないの、お断りだわ!」
鼻息荒く、ニトロニクスを一瞥するように睨みつけると、ふいっと顔を反らし、言を次ぐ。
「第一、私には、ちゃんと好きな人はいるんだからっ」
えっ?と驚きと痛みを交えた表情で、ニトロニクスが一瞬硬直する。
思い当たったマキバオーとアマゴワクチンが、複雑な気持ちでその言葉を聞いていた。事情を知らないトゥカッターが、
声を潜めてアマゴワクチンに問うのを、横目で苦々しく捉え、胸に走る鋭い痛みと敗北感から生まれる屈辱に、
ニトロニクスの中で抑制出来ない感情が爆発した。
だから、その言葉は本当に、理性無き無意識の勢いのようなものであったのだろう。
「けっ!どうせあのネズミだろ!いつまでも、女々しく死んだヤツの事、引きずってんじゃ…」
「ニトロ!!言い過ぎ!」
意外にも、それ以上の言葉を遮ったのは、つい先程まで右往左往してるだけのマキバオーだった。
その声に、ニトロニクスも自戒の念と共に我に返った。
「あ……」
見れば、アンカルジアは頸をうなだれて、黙っている。長い前髪で隠れて、その表情は窺いしれない。
「お…おいっ」
いつもの強気な彼女と明らかに違う様子に焦るニトロニクスに、黙ったままくるりと背を向けた。
「ちょ…おい、待てよっ」
「…………ニトロの……」
「……え?」
「馬鹿っ!!!」
叫ぶような罵声と共に、地面を一蹴り。凶器と化した後ろ脚の蹄が弧を描いて、見事にニトロニクスの鼻面にヒットする。
天下の秋華賞馬の後ろ蹴りだ。見てる方も痛そうに眉を寄せた。
「て…てめぇっ、オンナのくせに後ろ蹴りって…」
顔にくっきりUの文字を刻んで、ニトロニクスが激昂しかける。
だが、次の刹那、去っていくアンカルジアの横顔に、涙の筋を認めると、一瞬で言葉を失った。
ただ茫然と、駆け去っていく後ろ姿を見つめていると、背後から一斉に声を揃えて非難が飛んできた。
「ニトロが悪い」
「な…なんだよ、お前ら…」
「あんな言い方は、ひどいのね!」
「ほら、早く追いかけて、謝っとけよ」
「冗談じゃねぇ、被害者は俺の方だろうがっ」
マキバオーとアマゴワクチンに責められながらも、素直になれない性格が邪魔して、余計に意地を張ってしまう。
「まぁまぁ、二頭ともよ、そうニトロを責めなさんな」
再び、トゥカッターが仲裁に入ってくる。
「惚れたオンナの心に、まだ他のオトコが住んでるのを知っちまったんだ。ニトロだって辛かろうよ?」
「べ…別に俺は…っ」
「だがなぁ…、勝負事はこちらの事情なんざ、汲み取ってくれねぇのよ」
「何の…話…だよ」
「いや、もしも、さっきのお前の言葉に深く傷ついて、ドバイにまでショック引きずったアンカルジアが走れなくなっちまったら、
誰の責任だと思ってなぁ…」
「………うっ…」
「しかも、そのせいで日本が惨敗し、罪悪感から帰国後も走れなくなり、とうとう競争馬引退…」
「なっ!?」
不吉な予想に、初めてニトロニクスの顔から、意地の仮面が外れる。その瞬間を見逃さない老獪さは、さすがに六歳馬だ。
「あまつさえ…後に待っていたのは『供養』という名の馬刺し行きなんて…」
「うわああん!アンカルジアが食べられるなんて、嫌なのねー!!」
母親が売られた関係で、散々聞かされたひげ牧場の黒い噂のせいか、マキバオーには、『供養』の一言はリアルな恐怖だった。
その恐慌ぶりが、更にニトロニクスの焦燥心を煽る。
「…っくそ」
とうとう意地が折れて、くるりとその巨躯を翻し、アンカルジアが走り去った道を、レースでも見せた事のない速さで走り出した。
その後ろ姿を見送りながら、「若いってのはいいねぇ」等とトゥカッターが呟いた。
「呑気な事言ってる場合かー!あああ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
ぐるぐると回りながら、パニック状態のマキバオーの尻尾をアマゴワクチンが口で掴む。
「落ち着け、マキバオー。カッターのデマカセだからよ」
「これが落ち着いてなんか……っ、へ?…デマカセ?」
パニックから我に返ったマキバオーに、トゥカッターがにやりと笑む。
「あの嬢ちゃんは、天下の秋華賞馬だぜ?繁殖馬にしねぇ訳がねぇだろ?」
それに…、と言を続け、
「こんな事で走れなくなるようなオンナじゃねぇ事は、付き合いが長いお前の方が知ってるんじゃねぇか?」
「……うん」
ようやく落ち着きを取り戻したマキバオーの尻尾を離して、アマゴワクチンが呆れと多少意地の悪い作戦に少しの
非難を込めて、トゥカッターを見る。
「策士だな…」
「褒めてんだろ?」
全く悪びれないトゥカッターの様子に、諦めの溜息をつく。
「…まぁ、ああでも言わねぇと、ニトロは意地張っちまうだろうからな」
「そういう事だな。後は若い二人に任せてだな…。その内、らぶらぶしながら戻って来るだろうよ」
そう言うと、三頭は連れ立って馬房に戻ろうとした。だが、それを呼び止めるドラ声が聞こえる。
「おい!お前らー!」
振り返れば、飯富代表調教師が焦燥した様子で、息咳き切って駆け寄って来る。
「んあ?虎先生、そんなに慌てて、どうしたの?」
「いや、お前ら、ニトロとアンカルジアの二頭を見てねぇか?」
「つい、さっきまで一緒だったが…どうかしたのか?」
いつも鷹揚に構えている飯富の珍しく青ざめた表情に、三頭が不審そうにする。
「いや、どこにも居ねぇんだよ。今、スタッフ総出で確認してんだけどよ。なんだか、門の外に二頭らしき蹄の跡を見つけてよ。
もしかしたら、外に出て行っちまったかもしれん」
「えっ!?」
三頭の驚きの声が、ぴたりと重なる。
マキバオーとアマゴワクチンが、策士トゥカッターを頼るように見た。
だが、次に出た言葉は、
「……こいつは計算外だぜ」
*
今度こそ 願っても
見つかったようで見つかんない…
くり返すせつなさに
不安募ってくけど
「…駄目ね、私。どうして、こうなのかな」
独り佇み、アンカルジアは呟いた。
そして、目の前で苔むす小さな墓石にうっすら積もった埃を鼻先で払う。
手作りの墓石に刻まれた名前を呼ぶ。
「…チュウ兵衛」
本多特別分場を飛び出して、悔しさと苛立ちそして悲しみが渾然となったまま、訳も分からず走っていたが、
何故かここに辿り着いた。一度、高坂里華に頼んで墓参りに連れてきてもらったので、
道は知っていたが、意識的に来たつもりはなかった。
だが、理由は解っている。
「…逃げてきたのね、私」
そう、今まで虚勢を張って目を背けていた現実から、ここに逃げ込んできたのだ。
───『そこまで解ってんなら、帰れ』
ふと聞こえた声に、アンカルジアは目を見開いた。
「チュウ兵衛!?」
思わず見える筈もない彼の姿探して、周囲を見回す。
もう聞く事が出来ないと諦めていた懐かしく愛しい声に、胸が高鳴る。
また弱気になった自分を叱って欲しくて、そして励まして欲しくて…。
だが、次に聞こえた声は、冷たく突き放すものだった。
───『お前には、がっかりだぜ。そんな程度のオンナだったのかよ』
「え…?」
期待とは裏腹に、記憶のどんな声よりも冷淡で、容赦のない言葉に戸惑う。
自分が求めていたのは、乱暴で少し意地悪な口調でも、誰よりも深い優しさが隠された彼だった。
「なんでそんな事言うのよ…!私だって、頑張ってる!走って走って、辛いけど
また走って…、少し位、逃げてもいいじゃないっ!」
悲鳴のような叫び。知らぬ間に、双眸から、誰にも見せまいとずっと耐えていた涙が溢れていた。
───『それで…逃げた先に何があるんだ?』
「あなたが…いる。また私を励ましてよ!傍にいてよ!…独りで走るのが怖いのっ!」
───『俺は、もういねぇんだよ』
誰よりも彼の声では、聞きたくなかった現実。
「……っ!?」
彼はもういない。見えずとも、ずっと傍にいてくれる筈だから…、消せない想いと共に自らに言い聞かせて、
決して認めなかった現実。
───『俺がいなけりゃ、走れないって言うんなら…。じゃあ…お前に走る事をやめれんのか?』
その問いにアンカルジアは、何も答える事が出来ない。是とも否とも。
「……それは」
シルバーコレクターと呼ばれ、負け続けた屈辱と、初めて先頭でゴールを切った瞬間の快感が
綯い交ぜに脳裏を交錯する。走るほどに味わう天国と地獄と…。
だが、身体が覚えている。あの震えるような一瞬の天国が、長い地獄さえも吹き飛ばしてくれる事を。
───『それに、お前は独りで走ってる訳じゃねぇだろ?』
「……え?」
「この…馬鹿オンナ!!」
重なったもう一つの声は、聞き慣れて、チュウ兵衛のそれよりも、もっと現実の質量を含んでいる。
驚いて振り返ると、まるで激しいレースを終えた直後のように、滝のような汗を流し、いつもきっちりと
整えたご自慢のリーゼントも振り乱して、ニトロニクスが仁王立ちしていた。
「なんで…ニトロ」
思いも寄らなかった相手の登場に、茫然としてると、怒りも露わに鼻息荒く近づいて来る。
「なんでじゃねぇ!こんなとこまで、のこのこ来やがって、この馬鹿っ」
荒い息そのままに、一気呵成に罵倒したが、何故か後悔混じりの苦虫を噛み潰したような表情で、「いや…」と続け、
「馬鹿は俺だな…」
そう呟くと、アンカルジアの横を神妙な顔ですり抜け、墓石に近づく。
「悪かったな…」
独白のような謝罪が、耳を掠めた。墓石を見つめたままのニトロニクスの顔は解らない。
一瞬、空耳かと疑ったが、今度は振り返り、蒼い瞳がしっかりとこちらを見た。
「悪かった…」
「な…、何よ…」
「忘れんなよ、コイツの事」
ふいっと、鼻先が墓石を指す。
「あんな事、言っちまったけどよ…解ってんだよ。今のアンカルジアがいるのも、コイツと出会った事が
在るからだって。お前の一部なんだって」
「ニトロ…」
まさか彼の口から、そんな言葉を聞くとは思わず、ただただ茫然としていた。
「ただ…それと、同じくらい忘れて欲しくねぇだけなんだよ。仲間の事。マキバオーとか
ワクチンとか、カッターのおっさんとか…………………俺…とかよ」
それは訥々として、決してスマートな物言いではなかったが、彼の持つ不器用な優しさに直に触れ、
素直に心に沁み入っていく。
不意に、心の中に巣くっていた灰色の靄のようなものが、潮が引くようにすうっと晴れていくのが解る。
どうして、自分は彼らを忘れてたのだろう。どうして彼らに、空元気の虚勢を張っていたのだろう。
時には、弱気な自分を晒したって、彼らが拒否する筈がない事を知っていたはずなのに。
自分の愚かさと、気づいた事実の喜びに小さく鼻で笑うと、ニトロニクスを改めて見据えた。
「ねぇ…悪い事したって思ってるなら、ちょっと目瞑ってよ」
「う…、お、お前、また蹴り入れるつもりか?」
未だに痛みが引かない顔を強ばらせて、ニトロニクスは一瞬怯んだが、
「いや、悪ぃのは俺だもんな…。いいぜ、重いの一発入れろや」
と、潔く覚悟を決め、固く目を閉じ、来るであろう激痛に身構えた。
だが、頬を掠めたのは痛みでは無く、温かく柔らかな感覚だった。
「ありがとう、ニトロニクス」
ぺろっと湿った水音に驚き、目を開けたが既にアンカルジアの姿はなく、軽やかな足音が背後に響いていた。
更に遠くから、聞き覚えのある足音が三つ、駆け足で近づいて来る。
「あー!いたいた!」
マキバオーを先頭に、アマゴワクチン、トゥカッターも駆け寄って来る。
「やだ、みんなどうしたの!?」
驚くアンカルジアを呆れ顔で、三頭が囲む。
「この家出娘、どうしたのときたもんだ」
「もう、若造さんに、二頭に似た馬を牧場で見かけたって、連絡もらった時は、びっくりしたのね!」
「俺たちも急いで向かったんだよ。まさか、ここで5000M特訓の成果が生かされるとは、思わなかったぜ…」
まぁ、無事に会えて良かったよと、安堵する様子を見て、アンカルジアがすまなそうに眉を下げる。
「ごめんなさいね?…でも、先生達はみんながここに来たの知ってるの?」
その問いに、三頭が顔をきょとんとして、見合わせる。
「お前が、先生に言ってあるんだろ?マキバオー」
「うんにゃ、ワクチンが言ってあるんじゃないの?」
「いや…、俺は慌てて…、てっきり、カッターが言ってあるんだと」
「……これって、無断外出ってヤツじゃねぇか?」
トゥカッターの一言に、再びマキバオーが奇声を発してパニックに陥る。
「いやあああ!えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。絶対、虎先生、怒ってるよ!ぶたれるー!」
その滑稽なまでの慌てぶりに、思わずアンカルジアが吹き出した。
「ぷ…っ!クスクス…。マキバオーは、ともかくワクチンとカッターまでやらかすなんてねぇ?」
面目無さそうにうなだれるアマゴワクチンの横で、さすがのトゥカッターも天を仰いだ。
「もう!誰のせいだと思ってるのね!アンカルジアも他人事じゃないよ!」
大きな鼻穴から荒く息を吐き出しながら憤慨するマキバオーに、アンカルジアは、茶目っ気たっぷりにウィンクして見せる。
「あら、その時は庇ってくれるでしょ?『仲間』なんだから」
しれっとした物言いに、トゥカッターが呆れを通り越して賞賛を送る。
「……大物だぜ、嬢ちゃん」
「ふふ、ありがとっ。さ、これ以上、先生を怒らせると何させられるやら解らないわ。帰りましょ?」
そう促すと、先ほどから石像のように、硬直したままのニトロニクスを呼ぶ。
「ほら、ニトロも!馬鹿みたいに、突っ立ってないで帰るわよ!」
その声に、まるで長い夢から覚めたように、はっと我に返った。
「え…?あ……。だ、誰が馬鹿だよ!」
「誰かしらねぇ~?」
こうなると、いつもの掛け合いだ。空とぼけながら、軽やかな足取りで走り出す。
そして、ちらりと後ろを振り返った。
(バイバイ、チュウ兵衛。私はあなたよりもっと先に行くわ。あなたは『そこ』で、
こんなにイイ女と離れた事、後悔してながら見てなさい?……ずっと見ていてね…)
少しの強がりと願いを心中で呟くと、しっかりと前を向き直った。走り出せば、頬を心地よく風が切る。
───『解ってんじゃねぇか。それでこそ、俺が惚れたオンナだぜ』
傲慢で口は悪いけれど、裏に優しさにを隠して、笑いを浮かべた声が、風に乗って聞こえる。
「……っ!?」
その声に、足を止め掛けたが、アンカルジアはもう振り返らなかった。
ただ小さく満足気な笑みを浮かべ、前へ走る。
涙に濡れていた頬は、いつのまにか風に払われるように乾いていた。
こぼれる涙いつの間に ほら
はじまりに変わってるはずよ
回り道でも歩いていけば
行き先はそう自由自在
こぼれた涙いつだって ほら
願いの数を映してるの
遠回りでもたどり着けるわ
行き先はもう自分次第
Don't you worry
いまone step for tomorrow
進んでいるから alright!
またtwo steps for tomorrow
近づいてるから alright
lyric by Crystal Kay『なみだの先に』
PR
「……外から見るのと面積違ってない?」
「気にするな」
気にするなと言われても、人間一度気になったものはどうしようもない。
「だって、部屋の端が見えないよ、ここ。屋敷の構造から考えても、おかしいって」
そもそも、先程まで歩いてきた廊下の長さより、遥かに長い距離を書棚が埋め尽くしている。十分に間を取って並べられているにも関わらず、その数は数えることすら嫌になる位の量があり、ここに収められている書籍を今から分類しなおすのかと思うと、安易に手伝いを了承した事を、セルバンテスは早くも後悔した。
その様子を横で見ていた樊瑞が、ため息を吐く。
「だから、言っただろう「書庫の整理を甘く見すぎている」と。それに、お主はここに立ち入ったのが始めてだろうから知らんが……まあ、いい直に分る」
「そうだねえ、正直甘く見てたと今になっては思うよ。で、分るって何がだい?大変そうなのはもう、心の底から理解したけど」
どう考えたって、こんなの一日じゃ処理しきれない量だものねえ、と呟くセルバンテスに、実に微妙な表情を浮かべ、樊瑞は再度、『直に分る』と返答した。
× × ×
そもそもの始まりは、セルバンテスがアルベルトの屋敷を数日前に訪問――と言うか、強引に押しかけた――所から始まる。
まあ、それ自体は珍しくも無いどころか、年中行事と貸しており、最早屋敷の主であるアルベルト自身も余り咎め立てをすることは無くなっていた。言っても無駄だからであるが、それでも全く文句を言わない訳ではないところがアルベルトのアルベルトたる所だろう。
尤も、其れを全く意に介さず押しかけるセルバンテスもセルバンテスだが。
そんな事情はさて置き、休暇が取れたので遊びに行きたい、南の海なんてどうかな、それとも山の方がいいかな、等と相手の返事を聞かずに次々に計画を口にする友人の姿に、それ程暇では無いと、アルベルトが口にした所が事の始まりだ。
「何で!私は無い暇を無理やり作り出して、こうやって君の事を誘いに来ていると言うのに、そんな連れない返事をするんだい!大体、ちゃんと何のミッションもこの週末は入っていないのは確認済みだよ?50回くらい策士殿に確認して嫌がられて来たんだから、間違いは無いし、さしあたって作戦以外の用事が何も無いことはイワンにもさっき確認した!それほどまでに、私と一緒に休暇を過ごすのが嫌なのかい。何と友達甲斐の無い人間なんだ君は。ああ、実は君は私の事なんて友人と思ってなんて居ないんだ!そんな風に思われて居たなんて、もうこの場で息絶えてしまいたいくらいだよ!」
立て板に水とばかりに捲くし立て、大げさにテーブルに突っ伏して見せる。
別に心底そう思っているわけではない、駄々を捏ねて押しきろうというだけの事だ。事実、その喧しさに閉口したアルベルトが折れることにより、10回に1回くらいは成功する。勝率一割、実に確率は低いが、やらないよりはやった方が何事もマシという例だろう。
そんな友人の姿に嫌そうに眉を顰めると、アルベルトは手にしていたカップをソーサーの上に乗せ、ため息を吐いた。その顔には『どうしてこうも喧しい男なのだ』とくっきり判で押したかのように書かれている。馴れていても、煩いと思わなくなるものでもないらしい。
放置していては、更に大騒ぎをするのは経験上知っている。きちんと説明をするのが一番早く黙らせることが出来るとばかりに、アルベルトは今回は珍しく正当な理由があった断りの訳をこめかみを押さえつつ、口にする。
「この週末は書庫の整理をするつもりだ。随分長い間放置していたからな。何時までも先延ばしにして居っては、後が大変なことになる」
その返答に、セルバンテスは顔を上げるが、不満げな表情は変わらない。
「えー、そんなの使用人に任せて仕舞い給えよ。大体、そんな労働君がやるべきことじゃないじゃないか。そもそも、書斎はきちんと片付いている様に見えるよ。それに君はよっぽど気に入ったの以外は読み捨てにしてるじゃないか、そんなに大切にしているとは思えないね」
「書斎ではない、書庫の方だ。そもそも、集めたのは儂では無く、何代か前の人間だ。それにモノの性質上、あれは使用人に任せるのは色々と問題がある」
その言葉に、やっと興味を持ったのか文句を言うのをやめ、代わりに今度は話に食いついてくる。
「成る程、君の家が何代も掛けて集めてきたとなると、かなりの年代モノになるね。稀覯書とかも多そうだし、そうなると誰にでも任せられるって物じゃなくなるね。貴重な物が見れそうだなあ。ちょっと私にも覗かせてくれると嬉しいんだけど」
「確かに珍しい物が多くあるが、お前の想像するような物ではないとは言っておく。興味があるなら、どうせ休暇なのだろう、手伝えば食事くらいは出してやる」
アルベルトからの申し出に、セルバンテスが目を輝かせて同意する。どうせ、誘いは断わられたのだ。それならば、手伝いを口実に居座った方が幾らかマシだ。あわよくば、そのまま泊り込んでしまおうと、一瞬にして脳が計算を終える。
「やる。あとついでに要らない物でそれなりの値がつきそうな古書とかが貰えると嬉しいなあ。取引の時とかに、そういうのが好きそうな相手に対して話とか出すと、有利になりそうだからね」
「欲しければくれてやるが、扱いに困ったところで儂は引き取らんぞ。後の処分は責任を持って自分でやるのなら、むしろ金を出してでも引き取ってもらいたい位だ」
後になって、セルバンテスはその言葉の意味を痛感するのだが、この時点では未だ場所塞ぎなのだろう、程度にしか考えていない。
「大丈夫。ああ、そうと決まったら週末が楽しみだなあ。そうだ、予定が変わらないように、もう一度念を押しておこう。じゃあ、私はそろそろお暇するよ、玄関までお見送りよろしく」
「……自分から見送りを要求するな」
約束を取り付け、意気揚々と本部に戻ると、通路で樊瑞に鉢合わせした。早速捕まえて、予定の変更が無いように念を押す――というのは口実で、ただ単に惚気たいだけである。捕まる方は災難だ。
「でね、さっきも言ったんだけど週末なんだけどね。もうこっち予定入れちゃったからミッションとか入れないで欲しいんだ。いや、予定が無いのは分っているんだけど、一応念のためにね? 折角久々に、休暇をアルベルトと過ごせる機会なんだ。何かあっても、動くつもりは無いから、そのつもりで居て欲しいと思って」
「……理解したから、同じ内容を言葉を変えて5回も言ってくれるな。夢に出てきそうだ」
「酷いなあ。だって、珍しくもアルベルトからの御誘いだよ? これですっぽかすなんて、絶対にしたくないからね。まあ、書庫の整理って言うのが色気がないけど」
「ちょっと待て、男同士でどう色気を出すつもりだ。いや、そうではなく、今書庫の整理と言ったか?」
なおも語り続けようとする、セルバンテスを遮り樊瑞が問いかける。
「言ったけど、それが何か問題でもあるのかい?」
「当然、その書庫と言うのはアルベルトの屋敷の書庫だな?」
「さっき、アルベルトの屋敷で週末は過ごすって3回言ったよ、私」
「回数はこの際、どうでも良い。聞くが、『あの書庫』に入ったことが一度でもあるか? その様子を見ると確実に無いのだろうがな」
眉間に皺を寄せ、樊瑞が更に問う。
「無いよ。それより今度はこっちが聞きたいんだけどね、その反応だとそっちは入ったことがありそうなんだけど、どういうこと。私だって入ったこと無いのに!」
途端に機嫌が悪そうな顔になり、セルバンテスが叫ぶ。自分はそんなものがあることすら、始めて聞いたというのに、樊瑞が知っている、尚且つ入ったことがあると言うのが気にいらないらしい。
「以前に、こちらで探していたものが、書庫にあると聞いてな。借り出しに行ったのだが……あれは相当な物だぞ。よっぽど理由でもない限り……いや、あれは実際に体験してみんことには分るまい」
深刻な顔をして呟く樊瑞に、セルバンテスも様子のおかしさを感じる。相当何だと言うのか、気にはなるが、逆に余り知りたい内容では無さそうだ。
「そんなに大変なのかい? まあ、考えてみれば、自分から手伝えなんて言い出すくらいだからなあ。相当量があるってのは覚悟してるつもりなんだけどね」
「問題は量だけではないぞ。……分った、儂も手伝いに行こう。3人いれば、何とか被害は食い止められるだろう」
「え、来なくていいよ。むしろ来て欲しく無いんだけど」
二人で過ごすつもりだったのに、と不平を漏らすセルバンテスは、このとき重要な言葉を聞き漏らしている。そもそも、十傑集が三人で『何とか』『食い止められる』被害とは一体どれ程の災害なのか、考えるだに恐ろしい。
「今は不満に思うだろうが我慢しろ。確実に、後で感謝することになる。先に言っておく、お主はあの屋敷の書庫の整理を甘く見すぎている」
× × ×
そんなやり取りがあって、現在に至っているわけだが、早くもやる気が殺がれる光景が視界に広がっている。着替えを持ってくるようにと、前夜連絡があったのだが、なるほど、この量の書籍を分類すれば汗だくにもなろうし、着替えも必要だろう。そうでなくとも、本というものは毎日叩きを掛けていても、案外汚いものである。
「大体、何を基準にして分類しておるのだ。言語だの、年代だの分ける方法は幾らでもあるだろうに」
「言語で分類すると、同じ内容の他言語版と配置が離れ過ぎる。年代だと、全体の流れは掴みやすいが、書名や分類が分けづらくて敵わん。まあ、似た様内容での分類にして、そこから何とか扱うのが関の山だ」
樊瑞の言葉が示すとおり、書棚を眺めると其処に納められている背表紙の整合性の無さが目に止まる。Fの隣にDが、その反対側の隣には何語かすら分らない文字で書名が書かれた書籍が並んでいるといった有様だ。並べた本人には意図があっての事なのだろうが、第三者が見ると必要なものを探し出すのは至難の業だろう。並べた本人も把握しているかどうかは謎だが。
セルバンテスが手近にあった書物に手を伸ばすと、アルベルトから警告が発される。
「先に言っておく。封がされているものは開こうと思うなよ。此処に納められている物の大半はまともな物ではないからな。封がされていないものでも、油断はするな。碌なことにならん」
「一つ聞かせてくれるかな、此処は危険物保管庫か何かかい?」
「果てしなく、それに近いな」
「一般的な危険物保管庫の方がまだ安全だ。文字通り何が出てくるか分らんのだぞ」
アルベルトが肯定し、樊瑞が補足を入れる。そんな補足は、願わくば聞きたくはなかったが。
「大体、禁書室がここまで充実しているのは一体何事だ。此処から押し付けられる物だけでも、本部の地下の禁書室が拡張工事が必要になりそうな勢いではないか」
「組織の本部ともあろう場所が、一私人の書庫より貧弱な方がどうかしているだろう。いっそ、全てそちらに寄付してやるから遠慮なく持って行け。礼には及ばん」
二人のやり取りに、セルバンテスは内心、聞きたくなかったなあ、と意識を遠くに飛ばす。地下の書庫といえば、毎年そこに配置になった構成員が行方不明になることで有名だ。しかも、ダース単位で。生きて配置換えの幸運に預かった者も多くを語らない。黙して忘れ去ろうと願うばかりだと、ちょっとした怪談の舞台であるのだ。
「でも、まあ一応十傑集が三人も居るわけだからねえ」
呟く己の声が、セルバンテス自身説得力に欠けていると感じるが、気付かなかったことにする。色々考えると、開始する前に心が折れそうだった。
それでも、開始して数分。何事も起こらないと、人間忠告を忘れがちになる。
頁の一部が剥離しているのか、何かが挟まっているのか、中途半端にはみ出していた紙に気付いたセルバンテスが、中に戻そうと手にした書籍を開いた瞬間、後ろから力任せに襟首を引っ張られた。開いた場所から一瞬遅れで出てきた巨大な顎が、先程までセルバンテスの頭があった空間で、がちんと音を立てて閉じられる。悔しげに、唸り声を挙げるそれを、樊瑞が床に落ちた書籍の中に押し戻す光景を見ながら、ああこうやって事故が起きるのだなあと、行方不明のエージェントの行き先に思いを寄せる。
きっと、今頃骨さえ残っていない。
「だから、油断すると碌な事にならんと言っただろう」
「そうだね、今身を持って体験した所だよ。ところで、書庫で煙草は良くないんじゃないのかなあ」
襟首を背後から掴まれた状態のまま、返事をする。どうやら、開く直前に気付いたアルベルトが、助けてくれた様だ。首は今でも絞まったままだが、頭が半分齧られるよりは余程良い。何と言っても、頭はもう一度生えてきたりしない。
「良い事を教えてやる。暴れようが叫ぼうが、大半の本は所詮燃える」
言い様、床に落ちた本そのものに手にした葉巻を近づけると、樊瑞と格闘し続けていた怪生物(かどうかすら分らないが)が、慌てて本の中に戻り、独りでに頁が閉じられた。降参、と云う事らしい。
「……なるほど、でもどうせなら一番最初に教えて欲しかったなあ」
「かと言って、どれでも効く訳ではないからな。苦し紛れに、毒を吐く奴だの、余計に暴れる奴だのも居るので、一概にこの方法を薦めるわけにもいかん」
「そもそも、燃え広がったらどうするつもりだ。あっと言う間に火の海になるぞ」
先程の書を書棚に戻していた樊瑞が呆れた様に、会話に参加する。当然、この顔ぶれが万が一にも逃げ損ねることは無いだろうが、悪ければ屋敷は炎上するだろう。実に真っ当な指摘だ。
「どうせ、本宅ではない。周囲に民家があるわけでなし、燃えたところで被害はこの屋敷だけだ」
問題はそこではない。
「被害がないなら、いっそ屋敷ごと燃やしちゃった方が手っ取り早い気がしてきたよ」
そこではないと理解していても、その呟きに提案に賛同したくなるのも、無理からぬことだろう。
その後も、順調に(?)怪異は起こり続け、時折中断しつつも整頓は続いた。
手にした書の表紙から妖艶な美女が現れ、しなだれかかってくる。どうやら、接待をしてくれようとしているらしいが、丁重に断わりをいれると大人しく表装の中に戻っていく。
思わず、「お相手してもらったら、やっぱり中の頁がぱりぱりになってくっついたりするのかねえ?」と呟いたセルバンテスの言葉に妙な沈黙が落ちた。
どうやら、耳にした二人とも想像してしまったらしい。
アルベルトが移し替えようと手に取った書が、悲鳴を挙げるも「煩い」の一言で、所定の場所に納められ、くぐもった声を暫く挙げていたが、暫くして諦めたのか沈黙する。
何故か、樊瑞は怪奇現象に遭遇する率が低いが、これは道術を使えるため、書物の方が余計な手出しを控えている気配がある。恐らくこの面子の中で、一番の適任者といえるだろう。逆に怪現象に遭遇する率が一番高いのはセルバンテスだ。
「De Vermis Mysteriisっと……えーっと。え、何だい? ああ、これかありがとう」
探していた書物を渡され、礼を言いつつ振り向いたセルバンテスの背後に誰も居ない。屋敷の主に問うと、「書棚の中のモノの仕業だろう」との言葉が帰って来た。
「ちょっと待って、中の人って誰だい」
「中のモノは、中のモノだ」
「……中の人がいるんだ」
気にしたら、負けらしい。
「間違っておらんなら、気にするな。取り様によっては便利ではないか」
何処か遠くを見ながらの樊瑞の言葉に、欺瞞という単語の意味を脳内で検索しつつ、深く考えることは止めにすることにした。どうやら『中のモノ』とやらは善意の第三者らしいので、感謝しこそすれ、追及するのは良くないと無理矢理結論付ける。
実際、馴れてさえ仕舞えば大変ありがたい。
一時間もする頃には、中のモノと連携して作業を進めることさえ出来るようになっていた。因みに、セルバンテスの作業効率が格段に上がった事を追記しておこう。
「ウチの会社にも、何人か欲しいねえ。ああ、いや気にしなくていいよ、君には君の仕事がここであるんだろうしね」
「……あれは、心臓に毛が生えておるな」
「鱗の間違いだろう」
何となく、コミュニケーションさえ取れているセルバンテスに、アルベルトと樊瑞が呆れた表情をしているが、当の本人は全く意に介していない。この二人は、手伝いは借りていないが、書庫の整理そのものが始めてではないので、元々作業効率が良く、別段手伝いの必要が無いのも、また事実なのだが。
そんなあれこれがありつつも、流石に三人もいると、予定していたよりも随分作業は進む。そもそもの動きが、常人を越えた速度だ。この調子なら、夕刻には半分くらいまでの整理は終わるだろうとの判断をする。最初から、全部を整理する予定は無い。蔵書の量から考えて不可能だからだ。
一旦休憩を入れる意味を含めて昼食にする。イワンが、入り口まで持ってきたサンドイッチだ。書庫の中には入らない、懸命な判断だ。
「流石に、彼はここの整理は荷が重そうだからなあ」
「油断すると、途端だからな。言っている側から、つまみ食いをされておるぞ」
「え? あ、私の分が減っている!」
「本の分際で食事をするなどとは生意気な。儂が許可をする、燃やしても構わんぞ」
――何しろ食事時ですら、油断できないのであった。
サニーが現れたのは、それから3時間ほど経った時だった。
「お父様、おじさま達、お茶になさいませんか? 差し入れを持ってまいりました」
大きなバスケットを抱え、小走りに現れる姿は可憐だが、この書庫に平然と入り込む辺りは、流石に十傑集候補。見た目と違い、侮れない。
衝撃のアルベルトの娘にして、混世魔王 樊瑞の養い子だというのは伊達ではないと言えるだろう。
「お疲れでしょう。サニーがクッキーを焼いてまいりました。疲れた時には、甘いものが体に良いといいますから、召し上がってくださいな。暖かいお茶も用意して参りましたので、休憩にいたしましょう」
床にシートを広げ、てきぱきとお茶の用意を進める。その姿に、大げさな身振りでセルバンテスが感謝の言葉を口にする。
「ありがとう、流石はサニーちゃんだ! 何と気が利く良い子なのだろうね。まるで地上に女神が舞い降りたかのようだよ」
「ふふ。褒めて頂けるのは嬉しいですけれども、何も出ませんよ?」
「いやいや、サニーちゃんの笑顔だけで、疲れが癒されるというものだよ。ねえ、二人とも。さ、お茶にしようじゃないか!」
セルバンテスの言葉が終わらないうちに、いそいそと樊瑞もやってきてシートの上に座り込む。何気に、サニーの横を確保する辺りが見事なのか、呆れるべきところなのかはわからない。
複雑な顔で、その斜め向かいにアルベルトも座り、場違いなお茶会が始まる。
「お片づけは、順調に進んでおられますか?」
「うむ、流石に三人居ると中々進みが早くてな」
「ま、埃だらけになっちゃったけどね。レディに対して失礼な格好で申し訳ないけど、許してもらえるかな?」
我先にと、樊瑞とセルバンテスがサニーに大して話しかけるが、父親であるところのアルベルトは、黙って茶を飲むだけである。と、言っても普段から余り父娘としての会話などないのだが、かといって別段仲が険悪というわけではない。
付かず離れずの距離を保っているだけだ。世間はどうあれ、この父娘の関係としては、これが普通であり、このくらいの距離感が丁度良いのだろう。
和やかに、お茶会は進み差し入れがなくなった頃、再び作業に戻るべく、三人が立ち上がる。そこに、サニーからの質問が飛んだ。
「あの、あとどれ位お仕事は残っていますか?」
「うーん、夕方には半分まで整理が終わるかなあ」
「そうだな、この調子ならもう少し早く進むかもしれんな」
その返答に、サニーが更に言葉を継ぐ。
「あの、私もお手伝い致します」
「え? サニーちゃんがかい? 嬉しいけど、気持ちだけで十分だよ。差し入れをしてもらった上に、お手伝いまでさせちゃ申し訳ないからね」
「うむ、そうだぞ。サニーは上で寛いでおるがいい。そうだ、折角こちらに来たのだ、今夜はこちらで泊まると良い。なあ、アルベルト別に良かろう?」
話を振られたアルベルトが、余計な事をとでも言うように、顔を顰める。別に泊まるのが不満という訳ではなく、普段父親らしいことをしていないので、一晩屋敷に居られるとどう対応をして良いのかわからなくなるのが困るだけだろう。それを証明するかのように、「ならばイワンに今夜はこちらで過ごす事を言っておけ」とだけ返事を返す。
「なら、尚更お手伝いしないわけには参りません。お父様、サニーもお手伝いをさせていただいてよろしいですね?」
「……好きにしろ」
その言葉に、満面の笑みを浮かべサニーが言葉を口を開く。
「はい! ありがとうございます! 『あるべきものよ、あるべき場所へと戻れ』」
次の瞬間、先程まで散乱していた書籍が全て分類され、美しく書棚に納まる。
その光景に、半日作業を続けていた三人の男たちは言葉を失った。今日一日の労働は、一体何だったのだろうか。
「あ……その、いけませんでしたか?」
安易に魔法を使ったことに対して、咎められると思ったのだろう。気まずそうにサニーが俯いて問いかける。
「いや、大いに助かったよ。サニーちゃんは、書庫の整理の天才だね」
フォローをするセルバンテスの言葉も、どこか力ないものとなったことは、この際誰も責められないだろう。
× × ×
夕刻、玄関に灯りが灯り帰り支度を終えたセルバンテスと樊瑞が現れ、その後ろからアルベルトとサニー父娘、そしてイワンがそのあとに続く。
「おじ様たち、本当にお帰りになられるんですか。残念です」
「いや、シャワーも使わせてもらったし、今日はお暇するよ。折角の親子水入らずなんだ、邪魔をするのは紳士のするべきことじゃないしね」
でも、と引きとめようとするサニーに、樊瑞がサニーの顔の高さに合わせて座り込み、優しく声を掛ける。
「明日、迎えに来るのでそれまでゆっくりしているといい。それでは、また明日」
また明日、と元気良く返事をするサニーに手を振り、二人は車に乗り込む。背後が見えなくなった頃を見計らい、樊瑞がセルバンテスに問いかけた。
「それにしても、帰ると言い出すとはな。てっきり、泊り込むつもりだとばかり思っておったぞ」
「え? ああ、さっきも言っただろう? 折角の親子水入らずなんだ、邪魔はしたくないよ」
それに、十分に労働の対価は頂いたからね、と告げセルバンテスはバッグから一冊の凝った表装の書物を取り出した。促され、樊瑞が良く見てみると、古い写真帳らしい。
「くすねて来たのか」
「言葉が悪いなあ、労働の報酬として頂いてきただけだよ。あの書庫の中にあるもので、きちんと管理できるなら幾らでも持って帰って良いって言質は取ってあるからね」
「で、それがどうした」
「ん、中を見てご覧よ。中々興味深い写真が見れるよ?」
その言葉に促され、頁を捲った樊瑞が唸る。
「これは……」
「こうやって見てみると流石に父と娘だねえ。良く似てるじゃないか」
「うむ……まあ、確かに。しかしこんなもの、どうやって見つけた」
ああ、それはね、といとも簡単にセルバンテスが説明する。
書庫から出ようとしたとき、服の裾を引っ張られ振り向いたら、手の中に落ちてきたのだという。
「本棚の中の人なりの、労働に対するお礼じゃない? 後、半分はアルベルトに対しての嫌がらせじゃないかなあ。彼、あんまり本の扱いとか良くないし、嫌われてるのかもね」
「何故、こんなものまで禁書庫に保管しておったのだろうな」
「隠してたんじゃないかな。で、そのまま忘れちゃってたんだろう。じゃなきゃ、私達が来る前に別の場所に移動するなり燃やすなりしてただろうからね」
「……隠したくなる気持ちもわからんではないがな」
「おや、別に隠すほどの事じゃないだろう。洋の東西を問わず、男の子は育ちにくいから、無事に大きくなるようにとの親心からの風習だ。特に、身分の高い家では珍しい話じゃない。それにしても、愛らしいね。今の姿からは想像もつかないじゃないか」
そう言って、写真を指差す。
そこには、少々古びた写真が挟まれており、中には黒髪を背中まで垂らし、ドレスと同布で出来た赤いリボンを結んだ10歳前後と思われる少女姿が写っている。その顔立ちは、セルバンテスが言ったとおり、サニーと良く似通っている。
「ああ、でもこれを持って帰ったのは内緒にしておいてくれたまえね? でないと、後が怖いから」
「言われんでも、黙っておる。……共犯にする為に見せたのだろうが。しかし、なんともこれは、俄かには信じられんな」
「ちょっと姿形が変わっただけじゃないか。それにしても、随分貴重な物を手に入れちゃったな。これは、本棚の中の人に感謝だね。アルベルトの子供の頃の写真なんて」
その言葉どおり、写真の横に書かれた短い文章には、美しい字で「アルベルト、6月別荘にて」の言葉が踊っている。
後に、この写真の事が当人にバレ、大騒ぎになることになるのだが、それはまた別の話である。
「気にするな」
気にするなと言われても、人間一度気になったものはどうしようもない。
「だって、部屋の端が見えないよ、ここ。屋敷の構造から考えても、おかしいって」
そもそも、先程まで歩いてきた廊下の長さより、遥かに長い距離を書棚が埋め尽くしている。十分に間を取って並べられているにも関わらず、その数は数えることすら嫌になる位の量があり、ここに収められている書籍を今から分類しなおすのかと思うと、安易に手伝いを了承した事を、セルバンテスは早くも後悔した。
その様子を横で見ていた樊瑞が、ため息を吐く。
「だから、言っただろう「書庫の整理を甘く見すぎている」と。それに、お主はここに立ち入ったのが始めてだろうから知らんが……まあ、いい直に分る」
「そうだねえ、正直甘く見てたと今になっては思うよ。で、分るって何がだい?大変そうなのはもう、心の底から理解したけど」
どう考えたって、こんなの一日じゃ処理しきれない量だものねえ、と呟くセルバンテスに、実に微妙な表情を浮かべ、樊瑞は再度、『直に分る』と返答した。
× × ×
そもそもの始まりは、セルバンテスがアルベルトの屋敷を数日前に訪問――と言うか、強引に押しかけた――所から始まる。
まあ、それ自体は珍しくも無いどころか、年中行事と貸しており、最早屋敷の主であるアルベルト自身も余り咎め立てをすることは無くなっていた。言っても無駄だからであるが、それでも全く文句を言わない訳ではないところがアルベルトのアルベルトたる所だろう。
尤も、其れを全く意に介さず押しかけるセルバンテスもセルバンテスだが。
そんな事情はさて置き、休暇が取れたので遊びに行きたい、南の海なんてどうかな、それとも山の方がいいかな、等と相手の返事を聞かずに次々に計画を口にする友人の姿に、それ程暇では無いと、アルベルトが口にした所が事の始まりだ。
「何で!私は無い暇を無理やり作り出して、こうやって君の事を誘いに来ていると言うのに、そんな連れない返事をするんだい!大体、ちゃんと何のミッションもこの週末は入っていないのは確認済みだよ?50回くらい策士殿に確認して嫌がられて来たんだから、間違いは無いし、さしあたって作戦以外の用事が何も無いことはイワンにもさっき確認した!それほどまでに、私と一緒に休暇を過ごすのが嫌なのかい。何と友達甲斐の無い人間なんだ君は。ああ、実は君は私の事なんて友人と思ってなんて居ないんだ!そんな風に思われて居たなんて、もうこの場で息絶えてしまいたいくらいだよ!」
立て板に水とばかりに捲くし立て、大げさにテーブルに突っ伏して見せる。
別に心底そう思っているわけではない、駄々を捏ねて押しきろうというだけの事だ。事実、その喧しさに閉口したアルベルトが折れることにより、10回に1回くらいは成功する。勝率一割、実に確率は低いが、やらないよりはやった方が何事もマシという例だろう。
そんな友人の姿に嫌そうに眉を顰めると、アルベルトは手にしていたカップをソーサーの上に乗せ、ため息を吐いた。その顔には『どうしてこうも喧しい男なのだ』とくっきり判で押したかのように書かれている。馴れていても、煩いと思わなくなるものでもないらしい。
放置していては、更に大騒ぎをするのは経験上知っている。きちんと説明をするのが一番早く黙らせることが出来るとばかりに、アルベルトは今回は珍しく正当な理由があった断りの訳をこめかみを押さえつつ、口にする。
「この週末は書庫の整理をするつもりだ。随分長い間放置していたからな。何時までも先延ばしにして居っては、後が大変なことになる」
その返答に、セルバンテスは顔を上げるが、不満げな表情は変わらない。
「えー、そんなの使用人に任せて仕舞い給えよ。大体、そんな労働君がやるべきことじゃないじゃないか。そもそも、書斎はきちんと片付いている様に見えるよ。それに君はよっぽど気に入ったの以外は読み捨てにしてるじゃないか、そんなに大切にしているとは思えないね」
「書斎ではない、書庫の方だ。そもそも、集めたのは儂では無く、何代か前の人間だ。それにモノの性質上、あれは使用人に任せるのは色々と問題がある」
その言葉に、やっと興味を持ったのか文句を言うのをやめ、代わりに今度は話に食いついてくる。
「成る程、君の家が何代も掛けて集めてきたとなると、かなりの年代モノになるね。稀覯書とかも多そうだし、そうなると誰にでも任せられるって物じゃなくなるね。貴重な物が見れそうだなあ。ちょっと私にも覗かせてくれると嬉しいんだけど」
「確かに珍しい物が多くあるが、お前の想像するような物ではないとは言っておく。興味があるなら、どうせ休暇なのだろう、手伝えば食事くらいは出してやる」
アルベルトからの申し出に、セルバンテスが目を輝かせて同意する。どうせ、誘いは断わられたのだ。それならば、手伝いを口実に居座った方が幾らかマシだ。あわよくば、そのまま泊り込んでしまおうと、一瞬にして脳が計算を終える。
「やる。あとついでに要らない物でそれなりの値がつきそうな古書とかが貰えると嬉しいなあ。取引の時とかに、そういうのが好きそうな相手に対して話とか出すと、有利になりそうだからね」
「欲しければくれてやるが、扱いに困ったところで儂は引き取らんぞ。後の処分は責任を持って自分でやるのなら、むしろ金を出してでも引き取ってもらいたい位だ」
後になって、セルバンテスはその言葉の意味を痛感するのだが、この時点では未だ場所塞ぎなのだろう、程度にしか考えていない。
「大丈夫。ああ、そうと決まったら週末が楽しみだなあ。そうだ、予定が変わらないように、もう一度念を押しておこう。じゃあ、私はそろそろお暇するよ、玄関までお見送りよろしく」
「……自分から見送りを要求するな」
約束を取り付け、意気揚々と本部に戻ると、通路で樊瑞に鉢合わせした。早速捕まえて、予定の変更が無いように念を押す――というのは口実で、ただ単に惚気たいだけである。捕まる方は災難だ。
「でね、さっきも言ったんだけど週末なんだけどね。もうこっち予定入れちゃったからミッションとか入れないで欲しいんだ。いや、予定が無いのは分っているんだけど、一応念のためにね? 折角久々に、休暇をアルベルトと過ごせる機会なんだ。何かあっても、動くつもりは無いから、そのつもりで居て欲しいと思って」
「……理解したから、同じ内容を言葉を変えて5回も言ってくれるな。夢に出てきそうだ」
「酷いなあ。だって、珍しくもアルベルトからの御誘いだよ? これですっぽかすなんて、絶対にしたくないからね。まあ、書庫の整理って言うのが色気がないけど」
「ちょっと待て、男同士でどう色気を出すつもりだ。いや、そうではなく、今書庫の整理と言ったか?」
なおも語り続けようとする、セルバンテスを遮り樊瑞が問いかける。
「言ったけど、それが何か問題でもあるのかい?」
「当然、その書庫と言うのはアルベルトの屋敷の書庫だな?」
「さっき、アルベルトの屋敷で週末は過ごすって3回言ったよ、私」
「回数はこの際、どうでも良い。聞くが、『あの書庫』に入ったことが一度でもあるか? その様子を見ると確実に無いのだろうがな」
眉間に皺を寄せ、樊瑞が更に問う。
「無いよ。それより今度はこっちが聞きたいんだけどね、その反応だとそっちは入ったことがありそうなんだけど、どういうこと。私だって入ったこと無いのに!」
途端に機嫌が悪そうな顔になり、セルバンテスが叫ぶ。自分はそんなものがあることすら、始めて聞いたというのに、樊瑞が知っている、尚且つ入ったことがあると言うのが気にいらないらしい。
「以前に、こちらで探していたものが、書庫にあると聞いてな。借り出しに行ったのだが……あれは相当な物だぞ。よっぽど理由でもない限り……いや、あれは実際に体験してみんことには分るまい」
深刻な顔をして呟く樊瑞に、セルバンテスも様子のおかしさを感じる。相当何だと言うのか、気にはなるが、逆に余り知りたい内容では無さそうだ。
「そんなに大変なのかい? まあ、考えてみれば、自分から手伝えなんて言い出すくらいだからなあ。相当量があるってのは覚悟してるつもりなんだけどね」
「問題は量だけではないぞ。……分った、儂も手伝いに行こう。3人いれば、何とか被害は食い止められるだろう」
「え、来なくていいよ。むしろ来て欲しく無いんだけど」
二人で過ごすつもりだったのに、と不平を漏らすセルバンテスは、このとき重要な言葉を聞き漏らしている。そもそも、十傑集が三人で『何とか』『食い止められる』被害とは一体どれ程の災害なのか、考えるだに恐ろしい。
「今は不満に思うだろうが我慢しろ。確実に、後で感謝することになる。先に言っておく、お主はあの屋敷の書庫の整理を甘く見すぎている」
× × ×
そんなやり取りがあって、現在に至っているわけだが、早くもやる気が殺がれる光景が視界に広がっている。着替えを持ってくるようにと、前夜連絡があったのだが、なるほど、この量の書籍を分類すれば汗だくにもなろうし、着替えも必要だろう。そうでなくとも、本というものは毎日叩きを掛けていても、案外汚いものである。
「大体、何を基準にして分類しておるのだ。言語だの、年代だの分ける方法は幾らでもあるだろうに」
「言語で分類すると、同じ内容の他言語版と配置が離れ過ぎる。年代だと、全体の流れは掴みやすいが、書名や分類が分けづらくて敵わん。まあ、似た様内容での分類にして、そこから何とか扱うのが関の山だ」
樊瑞の言葉が示すとおり、書棚を眺めると其処に納められている背表紙の整合性の無さが目に止まる。Fの隣にDが、その反対側の隣には何語かすら分らない文字で書名が書かれた書籍が並んでいるといった有様だ。並べた本人には意図があっての事なのだろうが、第三者が見ると必要なものを探し出すのは至難の業だろう。並べた本人も把握しているかどうかは謎だが。
セルバンテスが手近にあった書物に手を伸ばすと、アルベルトから警告が発される。
「先に言っておく。封がされているものは開こうと思うなよ。此処に納められている物の大半はまともな物ではないからな。封がされていないものでも、油断はするな。碌なことにならん」
「一つ聞かせてくれるかな、此処は危険物保管庫か何かかい?」
「果てしなく、それに近いな」
「一般的な危険物保管庫の方がまだ安全だ。文字通り何が出てくるか分らんのだぞ」
アルベルトが肯定し、樊瑞が補足を入れる。そんな補足は、願わくば聞きたくはなかったが。
「大体、禁書室がここまで充実しているのは一体何事だ。此処から押し付けられる物だけでも、本部の地下の禁書室が拡張工事が必要になりそうな勢いではないか」
「組織の本部ともあろう場所が、一私人の書庫より貧弱な方がどうかしているだろう。いっそ、全てそちらに寄付してやるから遠慮なく持って行け。礼には及ばん」
二人のやり取りに、セルバンテスは内心、聞きたくなかったなあ、と意識を遠くに飛ばす。地下の書庫といえば、毎年そこに配置になった構成員が行方不明になることで有名だ。しかも、ダース単位で。生きて配置換えの幸運に預かった者も多くを語らない。黙して忘れ去ろうと願うばかりだと、ちょっとした怪談の舞台であるのだ。
「でも、まあ一応十傑集が三人も居るわけだからねえ」
呟く己の声が、セルバンテス自身説得力に欠けていると感じるが、気付かなかったことにする。色々考えると、開始する前に心が折れそうだった。
それでも、開始して数分。何事も起こらないと、人間忠告を忘れがちになる。
頁の一部が剥離しているのか、何かが挟まっているのか、中途半端にはみ出していた紙に気付いたセルバンテスが、中に戻そうと手にした書籍を開いた瞬間、後ろから力任せに襟首を引っ張られた。開いた場所から一瞬遅れで出てきた巨大な顎が、先程までセルバンテスの頭があった空間で、がちんと音を立てて閉じられる。悔しげに、唸り声を挙げるそれを、樊瑞が床に落ちた書籍の中に押し戻す光景を見ながら、ああこうやって事故が起きるのだなあと、行方不明のエージェントの行き先に思いを寄せる。
きっと、今頃骨さえ残っていない。
「だから、油断すると碌な事にならんと言っただろう」
「そうだね、今身を持って体験した所だよ。ところで、書庫で煙草は良くないんじゃないのかなあ」
襟首を背後から掴まれた状態のまま、返事をする。どうやら、開く直前に気付いたアルベルトが、助けてくれた様だ。首は今でも絞まったままだが、頭が半分齧られるよりは余程良い。何と言っても、頭はもう一度生えてきたりしない。
「良い事を教えてやる。暴れようが叫ぼうが、大半の本は所詮燃える」
言い様、床に落ちた本そのものに手にした葉巻を近づけると、樊瑞と格闘し続けていた怪生物(かどうかすら分らないが)が、慌てて本の中に戻り、独りでに頁が閉じられた。降参、と云う事らしい。
「……なるほど、でもどうせなら一番最初に教えて欲しかったなあ」
「かと言って、どれでも効く訳ではないからな。苦し紛れに、毒を吐く奴だの、余計に暴れる奴だのも居るので、一概にこの方法を薦めるわけにもいかん」
「そもそも、燃え広がったらどうするつもりだ。あっと言う間に火の海になるぞ」
先程の書を書棚に戻していた樊瑞が呆れた様に、会話に参加する。当然、この顔ぶれが万が一にも逃げ損ねることは無いだろうが、悪ければ屋敷は炎上するだろう。実に真っ当な指摘だ。
「どうせ、本宅ではない。周囲に民家があるわけでなし、燃えたところで被害はこの屋敷だけだ」
問題はそこではない。
「被害がないなら、いっそ屋敷ごと燃やしちゃった方が手っ取り早い気がしてきたよ」
そこではないと理解していても、その呟きに提案に賛同したくなるのも、無理からぬことだろう。
その後も、順調に(?)怪異は起こり続け、時折中断しつつも整頓は続いた。
手にした書の表紙から妖艶な美女が現れ、しなだれかかってくる。どうやら、接待をしてくれようとしているらしいが、丁重に断わりをいれると大人しく表装の中に戻っていく。
思わず、「お相手してもらったら、やっぱり中の頁がぱりぱりになってくっついたりするのかねえ?」と呟いたセルバンテスの言葉に妙な沈黙が落ちた。
どうやら、耳にした二人とも想像してしまったらしい。
アルベルトが移し替えようと手に取った書が、悲鳴を挙げるも「煩い」の一言で、所定の場所に納められ、くぐもった声を暫く挙げていたが、暫くして諦めたのか沈黙する。
何故か、樊瑞は怪奇現象に遭遇する率が低いが、これは道術を使えるため、書物の方が余計な手出しを控えている気配がある。恐らくこの面子の中で、一番の適任者といえるだろう。逆に怪現象に遭遇する率が一番高いのはセルバンテスだ。
「De Vermis Mysteriisっと……えーっと。え、何だい? ああ、これかありがとう」
探していた書物を渡され、礼を言いつつ振り向いたセルバンテスの背後に誰も居ない。屋敷の主に問うと、「書棚の中のモノの仕業だろう」との言葉が帰って来た。
「ちょっと待って、中の人って誰だい」
「中のモノは、中のモノだ」
「……中の人がいるんだ」
気にしたら、負けらしい。
「間違っておらんなら、気にするな。取り様によっては便利ではないか」
何処か遠くを見ながらの樊瑞の言葉に、欺瞞という単語の意味を脳内で検索しつつ、深く考えることは止めにすることにした。どうやら『中のモノ』とやらは善意の第三者らしいので、感謝しこそすれ、追及するのは良くないと無理矢理結論付ける。
実際、馴れてさえ仕舞えば大変ありがたい。
一時間もする頃には、中のモノと連携して作業を進めることさえ出来るようになっていた。因みに、セルバンテスの作業効率が格段に上がった事を追記しておこう。
「ウチの会社にも、何人か欲しいねえ。ああ、いや気にしなくていいよ、君には君の仕事がここであるんだろうしね」
「……あれは、心臓に毛が生えておるな」
「鱗の間違いだろう」
何となく、コミュニケーションさえ取れているセルバンテスに、アルベルトと樊瑞が呆れた表情をしているが、当の本人は全く意に介していない。この二人は、手伝いは借りていないが、書庫の整理そのものが始めてではないので、元々作業効率が良く、別段手伝いの必要が無いのも、また事実なのだが。
そんなあれこれがありつつも、流石に三人もいると、予定していたよりも随分作業は進む。そもそもの動きが、常人を越えた速度だ。この調子なら、夕刻には半分くらいまでの整理は終わるだろうとの判断をする。最初から、全部を整理する予定は無い。蔵書の量から考えて不可能だからだ。
一旦休憩を入れる意味を含めて昼食にする。イワンが、入り口まで持ってきたサンドイッチだ。書庫の中には入らない、懸命な判断だ。
「流石に、彼はここの整理は荷が重そうだからなあ」
「油断すると、途端だからな。言っている側から、つまみ食いをされておるぞ」
「え? あ、私の分が減っている!」
「本の分際で食事をするなどとは生意気な。儂が許可をする、燃やしても構わんぞ」
――何しろ食事時ですら、油断できないのであった。
サニーが現れたのは、それから3時間ほど経った時だった。
「お父様、おじさま達、お茶になさいませんか? 差し入れを持ってまいりました」
大きなバスケットを抱え、小走りに現れる姿は可憐だが、この書庫に平然と入り込む辺りは、流石に十傑集候補。見た目と違い、侮れない。
衝撃のアルベルトの娘にして、混世魔王 樊瑞の養い子だというのは伊達ではないと言えるだろう。
「お疲れでしょう。サニーがクッキーを焼いてまいりました。疲れた時には、甘いものが体に良いといいますから、召し上がってくださいな。暖かいお茶も用意して参りましたので、休憩にいたしましょう」
床にシートを広げ、てきぱきとお茶の用意を進める。その姿に、大げさな身振りでセルバンテスが感謝の言葉を口にする。
「ありがとう、流石はサニーちゃんだ! 何と気が利く良い子なのだろうね。まるで地上に女神が舞い降りたかのようだよ」
「ふふ。褒めて頂けるのは嬉しいですけれども、何も出ませんよ?」
「いやいや、サニーちゃんの笑顔だけで、疲れが癒されるというものだよ。ねえ、二人とも。さ、お茶にしようじゃないか!」
セルバンテスの言葉が終わらないうちに、いそいそと樊瑞もやってきてシートの上に座り込む。何気に、サニーの横を確保する辺りが見事なのか、呆れるべきところなのかはわからない。
複雑な顔で、その斜め向かいにアルベルトも座り、場違いなお茶会が始まる。
「お片づけは、順調に進んでおられますか?」
「うむ、流石に三人居ると中々進みが早くてな」
「ま、埃だらけになっちゃったけどね。レディに対して失礼な格好で申し訳ないけど、許してもらえるかな?」
我先にと、樊瑞とセルバンテスがサニーに大して話しかけるが、父親であるところのアルベルトは、黙って茶を飲むだけである。と、言っても普段から余り父娘としての会話などないのだが、かといって別段仲が険悪というわけではない。
付かず離れずの距離を保っているだけだ。世間はどうあれ、この父娘の関係としては、これが普通であり、このくらいの距離感が丁度良いのだろう。
和やかに、お茶会は進み差し入れがなくなった頃、再び作業に戻るべく、三人が立ち上がる。そこに、サニーからの質問が飛んだ。
「あの、あとどれ位お仕事は残っていますか?」
「うーん、夕方には半分まで整理が終わるかなあ」
「そうだな、この調子ならもう少し早く進むかもしれんな」
その返答に、サニーが更に言葉を継ぐ。
「あの、私もお手伝い致します」
「え? サニーちゃんがかい? 嬉しいけど、気持ちだけで十分だよ。差し入れをしてもらった上に、お手伝いまでさせちゃ申し訳ないからね」
「うむ、そうだぞ。サニーは上で寛いでおるがいい。そうだ、折角こちらに来たのだ、今夜はこちらで泊まると良い。なあ、アルベルト別に良かろう?」
話を振られたアルベルトが、余計な事をとでも言うように、顔を顰める。別に泊まるのが不満という訳ではなく、普段父親らしいことをしていないので、一晩屋敷に居られるとどう対応をして良いのかわからなくなるのが困るだけだろう。それを証明するかのように、「ならばイワンに今夜はこちらで過ごす事を言っておけ」とだけ返事を返す。
「なら、尚更お手伝いしないわけには参りません。お父様、サニーもお手伝いをさせていただいてよろしいですね?」
「……好きにしろ」
その言葉に、満面の笑みを浮かべサニーが言葉を口を開く。
「はい! ありがとうございます! 『あるべきものよ、あるべき場所へと戻れ』」
次の瞬間、先程まで散乱していた書籍が全て分類され、美しく書棚に納まる。
その光景に、半日作業を続けていた三人の男たちは言葉を失った。今日一日の労働は、一体何だったのだろうか。
「あ……その、いけませんでしたか?」
安易に魔法を使ったことに対して、咎められると思ったのだろう。気まずそうにサニーが俯いて問いかける。
「いや、大いに助かったよ。サニーちゃんは、書庫の整理の天才だね」
フォローをするセルバンテスの言葉も、どこか力ないものとなったことは、この際誰も責められないだろう。
× × ×
夕刻、玄関に灯りが灯り帰り支度を終えたセルバンテスと樊瑞が現れ、その後ろからアルベルトとサニー父娘、そしてイワンがそのあとに続く。
「おじ様たち、本当にお帰りになられるんですか。残念です」
「いや、シャワーも使わせてもらったし、今日はお暇するよ。折角の親子水入らずなんだ、邪魔をするのは紳士のするべきことじゃないしね」
でも、と引きとめようとするサニーに、樊瑞がサニーの顔の高さに合わせて座り込み、優しく声を掛ける。
「明日、迎えに来るのでそれまでゆっくりしているといい。それでは、また明日」
また明日、と元気良く返事をするサニーに手を振り、二人は車に乗り込む。背後が見えなくなった頃を見計らい、樊瑞がセルバンテスに問いかけた。
「それにしても、帰ると言い出すとはな。てっきり、泊り込むつもりだとばかり思っておったぞ」
「え? ああ、さっきも言っただろう? 折角の親子水入らずなんだ、邪魔はしたくないよ」
それに、十分に労働の対価は頂いたからね、と告げセルバンテスはバッグから一冊の凝った表装の書物を取り出した。促され、樊瑞が良く見てみると、古い写真帳らしい。
「くすねて来たのか」
「言葉が悪いなあ、労働の報酬として頂いてきただけだよ。あの書庫の中にあるもので、きちんと管理できるなら幾らでも持って帰って良いって言質は取ってあるからね」
「で、それがどうした」
「ん、中を見てご覧よ。中々興味深い写真が見れるよ?」
その言葉に促され、頁を捲った樊瑞が唸る。
「これは……」
「こうやって見てみると流石に父と娘だねえ。良く似てるじゃないか」
「うむ……まあ、確かに。しかしこんなもの、どうやって見つけた」
ああ、それはね、といとも簡単にセルバンテスが説明する。
書庫から出ようとしたとき、服の裾を引っ張られ振り向いたら、手の中に落ちてきたのだという。
「本棚の中の人なりの、労働に対するお礼じゃない? 後、半分はアルベルトに対しての嫌がらせじゃないかなあ。彼、あんまり本の扱いとか良くないし、嫌われてるのかもね」
「何故、こんなものまで禁書庫に保管しておったのだろうな」
「隠してたんじゃないかな。で、そのまま忘れちゃってたんだろう。じゃなきゃ、私達が来る前に別の場所に移動するなり燃やすなりしてただろうからね」
「……隠したくなる気持ちもわからんではないがな」
「おや、別に隠すほどの事じゃないだろう。洋の東西を問わず、男の子は育ちにくいから、無事に大きくなるようにとの親心からの風習だ。特に、身分の高い家では珍しい話じゃない。それにしても、愛らしいね。今の姿からは想像もつかないじゃないか」
そう言って、写真を指差す。
そこには、少々古びた写真が挟まれており、中には黒髪を背中まで垂らし、ドレスと同布で出来た赤いリボンを結んだ10歳前後と思われる少女姿が写っている。その顔立ちは、セルバンテスが言ったとおり、サニーと良く似通っている。
「ああ、でもこれを持って帰ったのは内緒にしておいてくれたまえね? でないと、後が怖いから」
「言われんでも、黙っておる。……共犯にする為に見せたのだろうが。しかし、なんともこれは、俄かには信じられんな」
「ちょっと姿形が変わっただけじゃないか。それにしても、随分貴重な物を手に入れちゃったな。これは、本棚の中の人に感謝だね。アルベルトの子供の頃の写真なんて」
その言葉どおり、写真の横に書かれた短い文章には、美しい字で「アルベルト、6月別荘にて」の言葉が踊っている。
後に、この写真の事が当人にバレ、大騒ぎになることになるのだが、それはまた別の話である。
並ぶ山々。雪は積もり、ありとあらゆる物を白く白く染めていた。
ただ雪は降り積もり、家々を圧壊しそれでも降った。
「ああ、寒い。」
馴鹿裘の若い男が二人。ちなみに、狐白裘は高級等と言っていられるのはもっと南の国だ。戴で狐白裘などと言っていたら凍えてしまう。
「言わないでよ。いくら地下は暖かいって言っても寒いんだから。」
二人で震える。
この男たち、一人を臥信といい一人を英章といった。
「ああ、ここからは当分出れないみたいだね。」
外はすざまじい積雪。出ようにも出られない。
「さっき雪洞掘っておいたけど。でもやはり私達も潜伏しなければならないからね。」
二人の声だけが坑道に空しく響く。
「やっぱり、全然歯が立たないね。」
「なにせ六回失敗だもんなあ。」
溜息が漏れる。
この五年、毎年のように兵を集めては挙兵して来た。しかし、毎回のように瓦解する。その理由は全くわからなかった。
そして同じように、失踪した驍宗の姿を探し回った。この近くにいるはずだ。そうは思ってみてもいないものはいない。
とにかく、できることはすべてやった。それでも全く状況は変わらなかった。
「まあ、阿選殿だからなあ。あの人には絶対敵わなかったし。」
臥信の言葉も闇の中に吸い込まれた。
暫く続く沈黙。
「もうだめかな。」
その嫌な沈黙を破ったのは英章の小さな一言だった。
「英章……」
「なんだか、そんな風に思えて。あんな阿選に勝てるわけないよ。」
そう笑う英章の表情は、あまりに暗い。
それを見た臥信は笑いを堪え切れなかった。
「臥信、お前、」
「ごめん、いつも自信満々の英章がそんな事言うから。」
涙を流して笑う臥信の頭の上に巨大な鉄針が飛び、砂塵を舞い上げた。臥信の笑いが止まる。
「うわぁ、私を殺す気か。」
「笑い事じゃない。人が真剣に考えているのに。」
そう言った英章からも笑みが漏れる。
「お前はそう思わないの?勝てる方策でもあるのか。」
「え、ないよ。」
こんな状況なのにさわやかに笑う臥信に、英章は嘆息した。
「よく笑ってられるな。こんなふうに希望も何もない状態なのに。」
「そうかなあ。そんなに悲観しなくてもいいと思うけど。」
と、その時であった。
気配がする。
灯火は吹き消される。
「ついにばれたかな。」
「みたいだね。よくこんな雪なのに来るね。ほんとにやる気あるね、尊敬しちゃう。」
臥信は楽しそうに口を開く。英章は、もう付いていけないと思った。
「どうする。望みがないんでしょ。」
「莫伽言え。こんなところで捕まって、首刎ねられたくはないね。」
「で、どこ逃げる?」
一本、火矢が舞い込む。
二人の顔が照らし出される。
「この脇道から外の雪洞に繋がってる。」
脇道から雪洞に入ってすぐ、さっきいた坑道で皮甲が擦れる音が聞こえた。
とりあえず、内側から入口を隠しておく。
「どうする?」
「とりあえずは外に逃げるしかない。」
雪洞は水を掛けて固め、倒壊を防いでいた。だから氷柱等の突起がそこらじゅうにあり、またそれが鋭く、擦ると手が切れた。
しかも床は滑る。進むのは大変だった。
呼び笛の音が響く。
「ばれたみたいだね。」
「さすがにばれたね。あれじゃあ、ちょっと見れば焚火の跡がわかるからね。」
雪洞から出る。ここはかろうじてさっきの坑道からは死角だ。
「とにかくこっちに逃げよう。」
少し雪も強くなり、裘越しに肌に刺すようだった。
「臥信、逃げる宛はあるのか?」
「ないけど。あるわけないと思うよ。」
英章は気抜けた。率先して進んでいくからてっきり……。
「それじゃあ、どうする。」
「とにかく穴を探そうと思うけど。」
「適当だなあ。私は凍死なんてかっこわるい死に方したくないからね。」
臥信に事の重大さがわかっているのか、英章は不安だ。しかしこうなったら、この超楽天家に付いていくしかなさそうだ。
臥信と話していると、どんどん希望が薄れそうなので英章は臥信を無視して、黙々と歩く。
雪は少しずつ強くなっていく。日もとっくに落ち、視界が薄れていく。
「臥信!」
「なに?」
「前になにかない?」
この積雪を歩く、それに二人は相当の体力を奪われていた。
「こんな山奥だからなあ、あ!」
突然臥信が止まったので英章は臥信にぶつかった。
「臥信、どうしたの?」
「明かりが見える。ほら。」
「お、たしかに」
そこには、小さなあかりが、しかししっかりと確認できた。
二人は奇跡かと思った。どうしてこんな山奥に小屋等があると考えるだろうか。
さっそく、英章が戸を敲く。
「はい。」
戸が開くと、若いを少し過ぎた程度の男が立っていた。
服が少し違う。小屋も見たことのない構造。
二人は、この男が海客だと直感した。
「私は臥信という者です。隣の英章と道に迷ってしまったので、どこでもよいんで宿をお貸し下さい。」
「こんな山奥に。この雪じゃあ大変だっでしょう。どうぞお入り下さい。」
二人は快く向かい入れてもらえた。
そこの広さはだいたい王宮の一堂室とおなじぐらい。そこに竃と板間がある。
中に入る。もうしばらくぶりの屋内。暖かい。
「山奥なのでこんなものしかないのですが、よろしければどうぞ。」
彼が二人に出したのは粗末な粥だった。羚と山菜。でも毎冬を草の根などで過ごした英章にはご馳走に見えた。
そしてなにより、人心荒んだ戴でこんな好意のもと馳走になるなどいつからぶりである。英章はこれほどおいしいものを食べたことがないと思った。この好意を感じれは感じるほどこれまでの苦労が思いだされ好意の有り難さに涙が出そうだった。
他人、特に臥信に見せるわけにはいかない英章は袖で一拭いすると、臥信を見遣った。臥信は俯き、表情を隠して黙々と食べていた。ただそんな臥信の顔から、光る物が落ちたのを英章は見逃さなかった。
そう、彼は彼で悩んでいたのだ。いつも闊達なのは自分の為か英章のためか。ただ、英章がこの時ほど臥信に感謝したことはなかったのも事実である。
英章は、もう一度袖で顔を擦ると、言った。とてもおいしいです、と。
そうして、粥を掻き込み再び椀に粥をついだ。
二人は結局、この男の好意でここに泊まることとなった。布団で寝るのも何年ぶりか。二人が気がついたのはもう朝であった。
「おはようございます。」
彼はもう起きている。一人で火を焚いていた。
薪が爆ぜ、よい音を立てていた。
まだ朝早い。昨日と同じく粥を啜っていた。
「そういえば、まだ名前を聞いていませんでしたね。」
臥信が口を開く。
「私ですか、私は名もなき山人です。名乗るほどの者ではありません。」
彼はそう素っ気なく答える。しかし……。
「そんなことありませんよ。あなたは仙ですから。」
臥信が続けた。確かに英章も気付いていた。ここの家の武具が冬器であること。彼が包丁で怪我しないこと。
「はあ、確かに仙ですが隠遁の身です。私のような隠居とあなた方では身分が違いますので。」
彼はそう告げた。
その雰囲気が、さらに聞く雰囲気ではなかったので、場は沈黙に包まれた。
粥を啜る音、薪が爆ぜる音、屋根から雪が落ちる音、深々と降る雪の音。
その中にわずかな異音を感じたのは、英章だった。
来る、と英章が呟く。二人もそれに反応した。
「こちらに地下室があります。さあ。」
彼は二人を追い立て、半地下の倉庫にしまうと、框に座り、構えた。
しだいに大きくなる足音。
「私は文州師の者だ。戸を空けよ。」
框の所が、葦張りになっていて、暗い中から外は覗けた。
「はい、なんでしょうか。」
戸の向こうに五人。一人は半身を既に入れている。無理にでも捜索するつもりらしい。
「反乱分子がこの辺りで潜伏しているという情報を得た。見覚えは?」
そう言って兵は二人の似顔絵を差し出す。
「さあ、全く知りませぬ。次を当たってくださいませ。」
「ところがそうはいかないな。中を見せな。」
そう冷笑ったのは別の兵。
「いくら兵隊さんとは言え人のうちに勝手に入り込んでよいのでしょうか。」
「無礼な!貴様文州師に逆らうつもりか!」
無理に踏み込もうとしたその刹那、槍が兵達のまえに突き刺さった。
「無礼なのはそっちであろう。この槍より奥に進めば命はないものと思え!」
「このぅ、構わん、殺せぇ!」
兵達の戈や戟や鉾が突き出された、その間。
地に刺さっていた槍は確実に隊長格の喉元を捕らえ、さらに次の兵の脇を突き刺していた。
二人は瞠目するしかない。
続いて戈を叩き落として一人、鉾の裏から一人、背に回った一人を石突で倒した。
そしとその一人の首を落とした。
鮮やかである。彼は血振りすると言う。
「さあ、早く逃げる用意を。」
二人は、感心することひたすらだった。
「それでは、私はここで。」
「あれ?村に行かないんですか?」
「はい。私はまたどこかに小屋作って暮らします。」
そう言った彼はなにか思い出したようである。
「あなた方が主、驍宗様が見つかることをお祈りしています。」
「ありがとうございました。それではいつまでもお達者で。」
彼は少し苦笑いすると、言う。
「わかった。また会えたらな。」
またいつか、どこかで会えることを信じて、二人と一人は別れた。
後ろ髪を引かれるようだったが、二人は前を向く。
「これからどうなるかな。」
「まだ身を挺して私たちを守ってくれる人がいた。しかもあの状況で会うなんて天が守ってくれてるんだよ。だから驍宗様もすぐ見つかるんじゃない。」
こいつ、やたら楽天家だな。いったいどこからこんな考えが出てくるのか。そう英章は思う。
でも、臥信は臥信なりに自分と臥信自身を元気付けてるのだと英章は気付く。
「ありがとう。」
「え?」
「私も楽天家になることにしたよ。それのほうが楽そうだからね。」
「やめてくれ、それじゃあみんながとっても困るよ。」
「おい!」
まだ当分、臥信と英章の立場はひっくり返ったままのようだ。
空は珍しく青い。天はひたすらに高かった。
「みんなどうしてるかなあ。」
臥信の独り言。
「どうだろう、李斎なんかはまじめだからぼろぼろになるまで走り回ってるんだろうな。」
「言えるな~。逆に琅燦とかさ、阿選の下でうまくやりながら機会狙ってそうだよね。」
「それもそうだな。でも、案外阿選の後ろで阿選操ってるのはどう?」
「うわ、ありそう。」
――鬼の居ぬ間に洗濯という言葉がありますが、二人ともどうなっても知りませんよ。
「みんな、どうしたかな。」
「生きてるよ。殺しても死なないようなのばっかりだもん。」
二人で顔を合わせて笑った。
そう、前向きにならなければ生き抜けない。こんなときこそ笑って前を向いて。そうすれば幸せは向こうからやってくる。
英章は、ただ笑った。
上に広がる空は、広かった。
――戴が崩壊してはや五年。滅亡の唄があちこちで聞こえていた。
希望は、何処に。
完
ただ雪は降り積もり、家々を圧壊しそれでも降った。
「ああ、寒い。」
馴鹿裘の若い男が二人。ちなみに、狐白裘は高級等と言っていられるのはもっと南の国だ。戴で狐白裘などと言っていたら凍えてしまう。
「言わないでよ。いくら地下は暖かいって言っても寒いんだから。」
二人で震える。
この男たち、一人を臥信といい一人を英章といった。
「ああ、ここからは当分出れないみたいだね。」
外はすざまじい積雪。出ようにも出られない。
「さっき雪洞掘っておいたけど。でもやはり私達も潜伏しなければならないからね。」
二人の声だけが坑道に空しく響く。
「やっぱり、全然歯が立たないね。」
「なにせ六回失敗だもんなあ。」
溜息が漏れる。
この五年、毎年のように兵を集めては挙兵して来た。しかし、毎回のように瓦解する。その理由は全くわからなかった。
そして同じように、失踪した驍宗の姿を探し回った。この近くにいるはずだ。そうは思ってみてもいないものはいない。
とにかく、できることはすべてやった。それでも全く状況は変わらなかった。
「まあ、阿選殿だからなあ。あの人には絶対敵わなかったし。」
臥信の言葉も闇の中に吸い込まれた。
暫く続く沈黙。
「もうだめかな。」
その嫌な沈黙を破ったのは英章の小さな一言だった。
「英章……」
「なんだか、そんな風に思えて。あんな阿選に勝てるわけないよ。」
そう笑う英章の表情は、あまりに暗い。
それを見た臥信は笑いを堪え切れなかった。
「臥信、お前、」
「ごめん、いつも自信満々の英章がそんな事言うから。」
涙を流して笑う臥信の頭の上に巨大な鉄針が飛び、砂塵を舞い上げた。臥信の笑いが止まる。
「うわぁ、私を殺す気か。」
「笑い事じゃない。人が真剣に考えているのに。」
そう言った英章からも笑みが漏れる。
「お前はそう思わないの?勝てる方策でもあるのか。」
「え、ないよ。」
こんな状況なのにさわやかに笑う臥信に、英章は嘆息した。
「よく笑ってられるな。こんなふうに希望も何もない状態なのに。」
「そうかなあ。そんなに悲観しなくてもいいと思うけど。」
と、その時であった。
気配がする。
灯火は吹き消される。
「ついにばれたかな。」
「みたいだね。よくこんな雪なのに来るね。ほんとにやる気あるね、尊敬しちゃう。」
臥信は楽しそうに口を開く。英章は、もう付いていけないと思った。
「どうする。望みがないんでしょ。」
「莫伽言え。こんなところで捕まって、首刎ねられたくはないね。」
「で、どこ逃げる?」
一本、火矢が舞い込む。
二人の顔が照らし出される。
「この脇道から外の雪洞に繋がってる。」
脇道から雪洞に入ってすぐ、さっきいた坑道で皮甲が擦れる音が聞こえた。
とりあえず、内側から入口を隠しておく。
「どうする?」
「とりあえずは外に逃げるしかない。」
雪洞は水を掛けて固め、倒壊を防いでいた。だから氷柱等の突起がそこらじゅうにあり、またそれが鋭く、擦ると手が切れた。
しかも床は滑る。進むのは大変だった。
呼び笛の音が響く。
「ばれたみたいだね。」
「さすがにばれたね。あれじゃあ、ちょっと見れば焚火の跡がわかるからね。」
雪洞から出る。ここはかろうじてさっきの坑道からは死角だ。
「とにかくこっちに逃げよう。」
少し雪も強くなり、裘越しに肌に刺すようだった。
「臥信、逃げる宛はあるのか?」
「ないけど。あるわけないと思うよ。」
英章は気抜けた。率先して進んでいくからてっきり……。
「それじゃあ、どうする。」
「とにかく穴を探そうと思うけど。」
「適当だなあ。私は凍死なんてかっこわるい死に方したくないからね。」
臥信に事の重大さがわかっているのか、英章は不安だ。しかしこうなったら、この超楽天家に付いていくしかなさそうだ。
臥信と話していると、どんどん希望が薄れそうなので英章は臥信を無視して、黙々と歩く。
雪は少しずつ強くなっていく。日もとっくに落ち、視界が薄れていく。
「臥信!」
「なに?」
「前になにかない?」
この積雪を歩く、それに二人は相当の体力を奪われていた。
「こんな山奥だからなあ、あ!」
突然臥信が止まったので英章は臥信にぶつかった。
「臥信、どうしたの?」
「明かりが見える。ほら。」
「お、たしかに」
そこには、小さなあかりが、しかししっかりと確認できた。
二人は奇跡かと思った。どうしてこんな山奥に小屋等があると考えるだろうか。
さっそく、英章が戸を敲く。
「はい。」
戸が開くと、若いを少し過ぎた程度の男が立っていた。
服が少し違う。小屋も見たことのない構造。
二人は、この男が海客だと直感した。
「私は臥信という者です。隣の英章と道に迷ってしまったので、どこでもよいんで宿をお貸し下さい。」
「こんな山奥に。この雪じゃあ大変だっでしょう。どうぞお入り下さい。」
二人は快く向かい入れてもらえた。
そこの広さはだいたい王宮の一堂室とおなじぐらい。そこに竃と板間がある。
中に入る。もうしばらくぶりの屋内。暖かい。
「山奥なのでこんなものしかないのですが、よろしければどうぞ。」
彼が二人に出したのは粗末な粥だった。羚と山菜。でも毎冬を草の根などで過ごした英章にはご馳走に見えた。
そしてなにより、人心荒んだ戴でこんな好意のもと馳走になるなどいつからぶりである。英章はこれほどおいしいものを食べたことがないと思った。この好意を感じれは感じるほどこれまでの苦労が思いだされ好意の有り難さに涙が出そうだった。
他人、特に臥信に見せるわけにはいかない英章は袖で一拭いすると、臥信を見遣った。臥信は俯き、表情を隠して黙々と食べていた。ただそんな臥信の顔から、光る物が落ちたのを英章は見逃さなかった。
そう、彼は彼で悩んでいたのだ。いつも闊達なのは自分の為か英章のためか。ただ、英章がこの時ほど臥信に感謝したことはなかったのも事実である。
英章は、もう一度袖で顔を擦ると、言った。とてもおいしいです、と。
そうして、粥を掻き込み再び椀に粥をついだ。
二人は結局、この男の好意でここに泊まることとなった。布団で寝るのも何年ぶりか。二人が気がついたのはもう朝であった。
「おはようございます。」
彼はもう起きている。一人で火を焚いていた。
薪が爆ぜ、よい音を立てていた。
まだ朝早い。昨日と同じく粥を啜っていた。
「そういえば、まだ名前を聞いていませんでしたね。」
臥信が口を開く。
「私ですか、私は名もなき山人です。名乗るほどの者ではありません。」
彼はそう素っ気なく答える。しかし……。
「そんなことありませんよ。あなたは仙ですから。」
臥信が続けた。確かに英章も気付いていた。ここの家の武具が冬器であること。彼が包丁で怪我しないこと。
「はあ、確かに仙ですが隠遁の身です。私のような隠居とあなた方では身分が違いますので。」
彼はそう告げた。
その雰囲気が、さらに聞く雰囲気ではなかったので、場は沈黙に包まれた。
粥を啜る音、薪が爆ぜる音、屋根から雪が落ちる音、深々と降る雪の音。
その中にわずかな異音を感じたのは、英章だった。
来る、と英章が呟く。二人もそれに反応した。
「こちらに地下室があります。さあ。」
彼は二人を追い立て、半地下の倉庫にしまうと、框に座り、構えた。
しだいに大きくなる足音。
「私は文州師の者だ。戸を空けよ。」
框の所が、葦張りになっていて、暗い中から外は覗けた。
「はい、なんでしょうか。」
戸の向こうに五人。一人は半身を既に入れている。無理にでも捜索するつもりらしい。
「反乱分子がこの辺りで潜伏しているという情報を得た。見覚えは?」
そう言って兵は二人の似顔絵を差し出す。
「さあ、全く知りませぬ。次を当たってくださいませ。」
「ところがそうはいかないな。中を見せな。」
そう冷笑ったのは別の兵。
「いくら兵隊さんとは言え人のうちに勝手に入り込んでよいのでしょうか。」
「無礼な!貴様文州師に逆らうつもりか!」
無理に踏み込もうとしたその刹那、槍が兵達のまえに突き刺さった。
「無礼なのはそっちであろう。この槍より奥に進めば命はないものと思え!」
「このぅ、構わん、殺せぇ!」
兵達の戈や戟や鉾が突き出された、その間。
地に刺さっていた槍は確実に隊長格の喉元を捕らえ、さらに次の兵の脇を突き刺していた。
二人は瞠目するしかない。
続いて戈を叩き落として一人、鉾の裏から一人、背に回った一人を石突で倒した。
そしとその一人の首を落とした。
鮮やかである。彼は血振りすると言う。
「さあ、早く逃げる用意を。」
二人は、感心することひたすらだった。
「それでは、私はここで。」
「あれ?村に行かないんですか?」
「はい。私はまたどこかに小屋作って暮らします。」
そう言った彼はなにか思い出したようである。
「あなた方が主、驍宗様が見つかることをお祈りしています。」
「ありがとうございました。それではいつまでもお達者で。」
彼は少し苦笑いすると、言う。
「わかった。また会えたらな。」
またいつか、どこかで会えることを信じて、二人と一人は別れた。
後ろ髪を引かれるようだったが、二人は前を向く。
「これからどうなるかな。」
「まだ身を挺して私たちを守ってくれる人がいた。しかもあの状況で会うなんて天が守ってくれてるんだよ。だから驍宗様もすぐ見つかるんじゃない。」
こいつ、やたら楽天家だな。いったいどこからこんな考えが出てくるのか。そう英章は思う。
でも、臥信は臥信なりに自分と臥信自身を元気付けてるのだと英章は気付く。
「ありがとう。」
「え?」
「私も楽天家になることにしたよ。それのほうが楽そうだからね。」
「やめてくれ、それじゃあみんながとっても困るよ。」
「おい!」
まだ当分、臥信と英章の立場はひっくり返ったままのようだ。
空は珍しく青い。天はひたすらに高かった。
「みんなどうしてるかなあ。」
臥信の独り言。
「どうだろう、李斎なんかはまじめだからぼろぼろになるまで走り回ってるんだろうな。」
「言えるな~。逆に琅燦とかさ、阿選の下でうまくやりながら機会狙ってそうだよね。」
「それもそうだな。でも、案外阿選の後ろで阿選操ってるのはどう?」
「うわ、ありそう。」
――鬼の居ぬ間に洗濯という言葉がありますが、二人ともどうなっても知りませんよ。
「みんな、どうしたかな。」
「生きてるよ。殺しても死なないようなのばっかりだもん。」
二人で顔を合わせて笑った。
そう、前向きにならなければ生き抜けない。こんなときこそ笑って前を向いて。そうすれば幸せは向こうからやってくる。
英章は、ただ笑った。
上に広がる空は、広かった。
――戴が崩壊してはや五年。滅亡の唄があちこちで聞こえていた。
希望は、何処に。
完
09 麦畑の真ん中で
もう何度、彼女の姿を見ただろう。
白銀の甲皮を身に纏い腰には紅玉の石が光る剣を携え、しっかりとした足取りで歩く。
その表情の凛としたこと。
ああ、そうだ。
私はこれを手に入れたかった。
やがて近付いてきた女が私の前で傅いた。
皮甲の擦れる音が小さく響く。
彼女は深く叩頭したまま、膝を付いたまま動こうとしない。
地に垂れた髪が泥に濡れるから顔を上げるようにと促しても、一向にその気配を見せなかった。
何度言っても頭を垂れたまま。
随分長い時間そうしているものだからぬかるんだ地面から吸い上げられた汚水が彼女の朝焼けに似た赤の髪に染みこんでいった。
みるみるうちに泥褐色に滲むその異様な光景に私は目を見張った。
妙な胸騒ぎがして女の肩を強く掴んで無理矢理抱えあげた。
女は泣いていた。
声も出さずにただ静かに泣いていた。
噛み締められた唇に赤いものが染みていた。
乾いた唇から発せられる嗚咽にも似たその叫びを私は聞くことが出来ない。
酷く震えた顔立ちに最早彼女の面影は無く、その異形は咽びながら両の手で私の腕を掴んだ。
間髪付かずに突き出された上腕が着物を切り裂き、肉に食い込む。
左肩に激痛が走った。
尋常ではないその痛みに気を取られた一瞬、狂った足元は掴み合った我等を奈落に突き落とす。
新月よりも深い暗闇の中で己の左肩に喰い込む彼女の右腕を見た。
次に顔を上げた時には異形も女も姿は無く、その残骸だけを残して音も無く消えた。
「………上、…主上、いかがされました?」
額に溢れた汗を拭う、その左手。
日々の剣の鍛錬で培われてきたのだろう、小さな傷を幾つも残したいつもと変わらない彼女の手。
「……―――――」
常に無く戦慄いた顔で息を切らす男に女は驚いている様だった。
それを誤魔化すように忙しなく汗を拭う彼女の指から伝わる体温に安堵して男は大きく息を吐いた。
「お加減はよろしいですか?…酷く、うなされていた様ですが…」
上下した息が一しきり落ち着いてようやく男は身を起こした。
彼以上に真っ青な顔をして男の背を擦る女の顔に涙はない。
「…いや、…何でもない…」
女を胸に抱えて、無くなった肩を撫でた。
縋るように抱えて、もう一度息を吐いた。
(06.11.28.update)
(↓補足:反転して下さい)
このお題、ちょっと難しかったんですが、
"麦→麦の穂(スピカ)→デーメーテールの神話(乙女座のモデル)→冬→驍李における冬→
やっぱり阿選の恐怖政治時代だろう"
…ということでこんな風になりました。
麦は春・秋麦と二種類あるらしく、春麦は秋に種を撒いて厳しい冬を越え、春に実りをつけるそうです。
『黄昏』後の戴の発展とラブい驍李に期待を込めて。
もう何度、彼女の姿を見ただろう。
白銀の甲皮を身に纏い腰には紅玉の石が光る剣を携え、しっかりとした足取りで歩く。
その表情の凛としたこと。
ああ、そうだ。
私はこれを手に入れたかった。
やがて近付いてきた女が私の前で傅いた。
皮甲の擦れる音が小さく響く。
彼女は深く叩頭したまま、膝を付いたまま動こうとしない。
地に垂れた髪が泥に濡れるから顔を上げるようにと促しても、一向にその気配を見せなかった。
何度言っても頭を垂れたまま。
随分長い時間そうしているものだからぬかるんだ地面から吸い上げられた汚水が彼女の朝焼けに似た赤の髪に染みこんでいった。
みるみるうちに泥褐色に滲むその異様な光景に私は目を見張った。
妙な胸騒ぎがして女の肩を強く掴んで無理矢理抱えあげた。
女は泣いていた。
声も出さずにただ静かに泣いていた。
噛み締められた唇に赤いものが染みていた。
乾いた唇から発せられる嗚咽にも似たその叫びを私は聞くことが出来ない。
酷く震えた顔立ちに最早彼女の面影は無く、その異形は咽びながら両の手で私の腕を掴んだ。
間髪付かずに突き出された上腕が着物を切り裂き、肉に食い込む。
左肩に激痛が走った。
尋常ではないその痛みに気を取られた一瞬、狂った足元は掴み合った我等を奈落に突き落とす。
新月よりも深い暗闇の中で己の左肩に喰い込む彼女の右腕を見た。
次に顔を上げた時には異形も女も姿は無く、その残骸だけを残して音も無く消えた。
「………上、…主上、いかがされました?」
額に溢れた汗を拭う、その左手。
日々の剣の鍛錬で培われてきたのだろう、小さな傷を幾つも残したいつもと変わらない彼女の手。
「……―――――」
常に無く戦慄いた顔で息を切らす男に女は驚いている様だった。
それを誤魔化すように忙しなく汗を拭う彼女の指から伝わる体温に安堵して男は大きく息を吐いた。
「お加減はよろしいですか?…酷く、うなされていた様ですが…」
上下した息が一しきり落ち着いてようやく男は身を起こした。
彼以上に真っ青な顔をして男の背を擦る女の顔に涙はない。
「…いや、…何でもない…」
女を胸に抱えて、無くなった肩を撫でた。
縋るように抱えて、もう一度息を吐いた。
(06.11.28.update)
(↓補足:反転して下さい)
このお題、ちょっと難しかったんですが、
"麦→麦の穂(スピカ)→デーメーテールの神話(乙女座のモデル)→冬→驍李における冬→
やっぱり阿選の恐怖政治時代だろう"
…ということでこんな風になりました。
麦は春・秋麦と二種類あるらしく、春麦は秋に種を撒いて厳しい冬を越え、春に実りをつけるそうです。
『黄昏』後の戴の発展とラブい驍李に期待を込めて。
06 ほのかに香る
一人になった寝台の上に仰向けに転がり、ぼうっと彼方を見上げていた。
投げ出された身体は自分で思うよりも疲れているのだろう、寝返りを打つことすらたまらなく億劫で、女はそのままの姿勢でただ瞼を閉じたり開いたりを繰り返していた。
何も纏わない肌に包まった絹の冷やかな感触が心地良い。
伸ばした指が彼女の筋の取れた肢体に触れて静かに落ちた。
まだ熱が残っている。
思い出した途端じわじわと熱くなる頬を誤魔化す為に女は再び衾の中に潜り込んだ。
じっと、産まれたばかりの獣のように身を小さく埋めながら、重い瞼を閉じ内奥から幽かに響くその音に耳を傾けていた。
―――とうとうこの一線を越えてしまった。
それは彼女が最も恐れていたことだった。
過度の寵愛を受けることは朝の中で要らぬ荒波を立てる要因になりかねない。
それが分かっているから、どんなに苦しくても己の築いた壁を超えないようにと思っていたのに。
女は後悔していた。
あの男の甘美な言葉にまんまと酔わされて痴態を晒したことが愚かしいのか。
決して知られてはならないと堅く誓った本心などとうに知れていたことが悔しいのか。
それでも目を閉じると思い出すのはあの男の声だった。
それも、常とは―――聡明で威風堂々と座す、全臣民から崇拝される彼の本来の姿とは違う、色を孕んだ甘い囁き。
女は包まった衾の中で己の喉元を強く抑えた。
心音と似た速度で迫る奇妙な足音は、彼女自身も気付かない内に彼女の心を捕らえていた。
臣下として相応以上にあの男に近付くことは玉座を汚すことにはならないのか。
(だから周りの中傷や根拠のない噂を恐れるのだろうか)
この背徳者、と指をさされることが怖いのか。
(それはあの男を貶めることにはならないのだろうか)
――――でも、私が本当に恐れていることは……?
女は目を閉じてゆっくり息を吐いた。
次第に苦しくなる呼吸は間隔の狭まる動悸を伴って彼女を暗沌とした恐怖へ叩き落とす。
もはやどんなに留めようともがいても、溢れてくる考え達を抑えきれなかった。
私が恐れていることは。
あの男の戯れに現を抜かして、ようやく手にした王師将軍の椅子を失うこと?
ろくに職務を果たせなくなって、あの男を失望させること?
一時の戯事に飽いたあの男が、私ではない誰かを抱いてしまうこと?
私が恐れていることは。
私が恐れていることは。
私が恐れていることは、どうしてあの男のことで溢れているのだろう。
弾ける泡の様に導き出された答えは驚くほど単純で、女は声を失った。
「本当に…」
自分でも呆れるほどに、気が付けば彼のことを想っている。
女は苦く笑って、少しだけ泣いた。
(06.11.16.update)
一人になった寝台の上に仰向けに転がり、ぼうっと彼方を見上げていた。
投げ出された身体は自分で思うよりも疲れているのだろう、寝返りを打つことすらたまらなく億劫で、女はそのままの姿勢でただ瞼を閉じたり開いたりを繰り返していた。
何も纏わない肌に包まった絹の冷やかな感触が心地良い。
伸ばした指が彼女の筋の取れた肢体に触れて静かに落ちた。
まだ熱が残っている。
思い出した途端じわじわと熱くなる頬を誤魔化す為に女は再び衾の中に潜り込んだ。
じっと、産まれたばかりの獣のように身を小さく埋めながら、重い瞼を閉じ内奥から幽かに響くその音に耳を傾けていた。
―――とうとうこの一線を越えてしまった。
それは彼女が最も恐れていたことだった。
過度の寵愛を受けることは朝の中で要らぬ荒波を立てる要因になりかねない。
それが分かっているから、どんなに苦しくても己の築いた壁を超えないようにと思っていたのに。
女は後悔していた。
あの男の甘美な言葉にまんまと酔わされて痴態を晒したことが愚かしいのか。
決して知られてはならないと堅く誓った本心などとうに知れていたことが悔しいのか。
それでも目を閉じると思い出すのはあの男の声だった。
それも、常とは―――聡明で威風堂々と座す、全臣民から崇拝される彼の本来の姿とは違う、色を孕んだ甘い囁き。
女は包まった衾の中で己の喉元を強く抑えた。
心音と似た速度で迫る奇妙な足音は、彼女自身も気付かない内に彼女の心を捕らえていた。
臣下として相応以上にあの男に近付くことは玉座を汚すことにはならないのか。
(だから周りの中傷や根拠のない噂を恐れるのだろうか)
この背徳者、と指をさされることが怖いのか。
(それはあの男を貶めることにはならないのだろうか)
――――でも、私が本当に恐れていることは……?
女は目を閉じてゆっくり息を吐いた。
次第に苦しくなる呼吸は間隔の狭まる動悸を伴って彼女を暗沌とした恐怖へ叩き落とす。
もはやどんなに留めようともがいても、溢れてくる考え達を抑えきれなかった。
私が恐れていることは。
あの男の戯れに現を抜かして、ようやく手にした王師将軍の椅子を失うこと?
ろくに職務を果たせなくなって、あの男を失望させること?
一時の戯事に飽いたあの男が、私ではない誰かを抱いてしまうこと?
私が恐れていることは。
私が恐れていることは。
私が恐れていることは、どうしてあの男のことで溢れているのだろう。
弾ける泡の様に導き出された答えは驚くほど単純で、女は声を失った。
「本当に…」
自分でも呆れるほどに、気が付けば彼のことを想っている。
女は苦く笑って、少しだけ泣いた。
(06.11.16.update)