とたとたと可愛らしい足音が走馬廊に響き渡っていた。静かな昼下がり、久方ぶりの休暇は約束があった。
「こんにちは」
扉が静かに開いて、愛らしい顔を覗かせたのは戴極国の幼い麒麟。気兼ねなく接してくる、尊い麒麟だということを一瞬忘れてしまうほどだった。
「待っておりました、どうぞ」
笑顔で泰麒を迎えたのは、官邸の主である李斎だった。大卓の上には茶器一式と熟した桃の果実が小高く置かれている、備え付けられた椅子に腰掛ける泰麒。
「ごめんなさい突然で」
「気になさることはありませんよ」
「一応用事があるのだけど」
「用事ですか?」
「忘れないうちに渡しておくね」
懐を探って泰麒は一枚の書状を手渡した、丁寧に御璽まで押されている――主上からのものだ。
「これは……」
「一人の時に開けてほしいと驍宗様は言っていたから……」
「それでは後で開けましょうか」
書状の文面が気になるところだが、折角遊びに来てくれた泰麒との時間を割くのも惜しい。李斎自ら茶の用意を始め、ささやかな茶会が催されたのだった。
そして夕餉を取り終えて、臥室で書面を広げた。内密の命令が来ることは珍しいことではない、暗躍している書面がある。
内容は重要なもので、台輔に持参させるのはどうかと首を傾げてしまう、がある意味台輔であれば確実に手渡してくれるという信頼があるのだろう。読み終え暗記し、焼いて証拠を消さなければならない。
一枚目を読み終えて二枚目に目を通し、読み終えてその内容にしばし呆然とする。ようやく我に返ってぽつりと呟いた。
「……一枚目は表向きなのだろうか……?」
丁寧に折りたたみながら、疑問符を脳裏に浮かばせる李斎だった。
そして三日後。
真夜中、きいと窓の開く音が臥室に響いた。
「……主上」
「本当に開けておいてくれたとはな」
忍び込んできたのは泰王である驍宗だった。簡素な着物に身を包んでいるが、目立つ容貌をどうやって隠してやってきたのか。
「無茶はお止めください、しかも堂々と……」
「嵩里に託せば確実かと思ってな」
「ですが台輔は……」
「そこまで怒るな」
臥牀の上に腰掛けた李斎を抱きしめる、それを振りほどくことができず成すがまま身を驍宗に委ねる。
「しかしなかなか気恥ずかしいものがあるな」
「私も……恥ずかしさもありましたが、呆気にとられたというほうが強いですね」
互いに武将であって、恋に重きを置いていたわけではない。
「慣れぬことはすべきではないな、恋文など」
「ですが」
「ん?」
「嫌ではございませんでした、やはり私は」
一介の将であり女でもあるのだ、と思わせるのには十分だった。
「文の内容は嘘偽りはございませんか?」
「あるものか」
曇りなき眼で訊ねられ、驍宗もまた真摯な心でそれに答える。
「永遠に支えてくれ」
「――はい」
銀糸のような髪が頬に降り注ぎ、それは触れ合った唇を隠すかのようだった。
文に想いを込めるのは慣れるものでもなかった、それに何よりも。
触れられる距離に相手がいるのだから、文よりも己の口で、行動で――女を抱きしめるほうが良い――。
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不謹慎のようにさえ思えた。
しかし慕う心は欺くことはできない。
考えを巡らせつづけ、眠ることが出来なかった。
――泰麒が救出されてからだ。
五体満足とは言えないが、それでも希望が一つ生まれた。
けれどなぜ。
どうしても不謹慎と感じずにはいられない。
「……李斎、まだ起きていたのか?」
「景王……」
極力足音をたてず真夜中に訪れた金波宮の主に驚く。何とか上半身を起き上がらせて李斎は視線を景王陽子へと向けた。
「どうなさいましたか?」
「ようやく落ち着いたんだ、少しだけ会おうかと」
「真夜中に、でございますか?」
「訊ねたいことがあって」
牀榻の傍らに置かれた椅子に腰掛けて息を吐く。
「李斎は……泰王を慕っているのではないか?」
「それは主上であり……」
「そうではないんだ」
李斎が泰麒のことを話す表情は柔らかく優しげなものだった。
泰王も同様で、だがそれ以上の想いを感じ取られた。
「女として」
「私は将でございます」
「想いを欺くか?」
わずかに語気を強める、覇気に李斎は身を竦ませた。
どう返答をすればよいのだろう。
無言の空気が流れ、そしてようやく口を開いた。
「想いは時満ちれば開花する……それだけです」
答えに陽子は微笑し立ち上がる。
「わかった……すまない、変な質問をして」
「いえ」
立ち去る後姿、消えようとしなその時李斎から疑問を投げかけた。
「なぜそのように思われたのですか?」
「私も慕う人物がいるからかもしれない……友がその人物を話す時の私は、本当に幸せそうな表情を浮かべると言った。李斎から泰王の話を聞いた時、幸せそうで……だからそうだと思ったんだ」
その言葉に問いかけようとしたが、許されず陽子は去っていった。
そうなのだろうか、己にはわからない、他者に感じ取れる雰囲気。
泰王――驍宗を慕っている、全てにおいて慕っている、愛されもした。
だが今は己の想いを封じる。
戴を救う、ただそれだけを考えたい。
時が満ちれば開花する。
すなわち戴が救われた時こそ、己の想いを放つ開花の時なのだ――と。
疲労すれば自然と眠りは襲ってくるものだ。だが今は眠るわけにはいかない。
与えられた官邸、椅子に腰掛けおとなしく李斎は待ちわびていた。部下に指南を終えて、帰宅すれば幼い台輔が待っていた。笑顔で待っていて、と言われ待つこと一刻。疲れた体に眠りは容赦なく襲ってくる。
「……台輔は何をなされるのか」
愛らしい、身分に深く頓着しない台輔――泰麒は心穏やかに導いてくれる。故国では身分差は多少あるものの、ここまで差があるわけでもないようだった。
「駄目だ」
己に言い聞かせる。
しかし瞼は重く――。
扉の開ける音がした、同時に声が響き渡る。
「李斎……あれ?」
卓の上に突っ伏して眠る李斎の横顔を覗き込んだ。硬く閉じた瞳、規則正しい寝息、熟睡しているようだった。
「そんなに長く待たせたかしら?」
「疲れているのだろう」
片割れの後にやってきたのは、その主である驍宗だった。やんわりと微笑み、羽織っていた衣を李斎の背にかけた。
「先程まで指南をしていたようだからな」
「そうなんですね……ふあ……」
眠気に誘われたのか、泰麒は欠伸を漏らした。
「李斎を臥牀に寝かせよう、嵩里も眠るか?」
「でも……驚かないですか?」
「驚くかもしれんがな」
李斎を抱き上げて、臥室へと向かう。行き慣れているのはなぜなのか、と普通ならば気にするところなのだが、泰麒は気にも留めていないようだった。衾褥を捲り上げ、李斎を横たわらせた。
暖かい感触がする。どのくらい前に感じた温もりだろうか。身を全て預けて眠ってしまいたい。心地よい眠りが約束されているのだろうから。
――眠る……いや、私は!
夢から目覚めて瞳を見開き、そして凍りついた。
確か椅子に座り、台輔を待っていたはずだった。
だが今は臥牀の上に横たわり、目の前には泰麒が、頭の下には枕ではなく腕が入り込んでいた。
「主上――!」
「静かにしていろ」
耳元で囁く。吐息がかかって身じろいだ。
「よく眠っている」
「ですが、あの、その」
「動揺するな」
それは無茶な注文というものだろう。あろうことに主の腕を枕にして眠っていたのだ。焦るのは当然だ。
「慣れたものだ」
「いえ、ですが」
「――――静かに」
慌てる李斎を諌めるように囁く。
「余程疲れていたようだな」
「仙でありましても、無尽蔵ではございません」
「確かにな……」
「とにかく静かに動きます、台輔はよく眠られておりま……ぅ」
首を沿ったまま強引に口づけられる。身じろげば動いて泰麒が起きかねない。かといって、この状態が長続きするとは思えない。首も痛むが、何より理性が押さえつけられないような気がする。
「――っあ、おやめくだ……」
静かに眠る泰麒のためなのか、ただ口づけたいのか定かではない。
けれどまだ女怪の添い寝を恋しく思う泰麒に、李斎の胸の中は同様に感じられることだろう。
その時を崩さぬように。
そして偶然にも崩さぬように、口に栓をするために深い口づけを施す。
泰麒が目覚めるまでし続けよう。
瞳が開いたその時こそ、二人の甘い時も終わりを告げるのだから。
「驍宗様、どうなされたのですか?」
「それは私の言葉だな、どうしたその花束は?」
小柄な戴の麒麟、泰麒。その主である泰王驍宗は彼を嵩里と呼んだ。故国での名だ。
「これは李斎にもらったんです、今官邸に仮住まいしていて、お話に言ったんです」
「その庭の花か」
「はい」
小さな腕をいっぱいに広げて抱える、黄金色の花。慌てて花瓶を持ってやってきた女官が花を受け取った。
「ぎ……主上のお部屋にも置きますね」
「いや、いい」
「……そうですか」
しゅんと悲しくうな垂れる泰麒、そうではないと頭を撫でた。
「会う用事があるのでな。私は私の分をもらいに行こう。それに実際見渡したほうが綺麗だろう?」
「……はいっ!」
ぱあっと笑う姿が愛らしく、自然と驍宗の表情も崩れるのだった。
突然の来訪に驚いて、李斎は立ち上がった。珍しいことではないが、風呂上りのこの髪は、いくらなんでも失礼だろう。
「少し待っていただいて……主上」
女官に伝言を申し付けようと思った時には、すでに遅く主は部屋の扉の前に立っていた。
「人払いは済ませたが」
「少々お待ち下さい、髪が……」
「濡れていて何か不都合があるか?」
「主上の前では……っ!」
部屋を飛び出そうとした李斎の腕をつかむ。
「私個人としては喜ばしいのだが」
「……真面目な顔で言わないで下さい」
驍宗の微笑に李斎は頬を赤らめて答えた。
「しかし昼間から風呂か?」
「稽古がありましたので。主上にご挨拶に向かう前に、身を清めようと……帰還しなければなりませんので」
「そうだったな」
腕を解き放ち窓から庭園を眺める。
「あれが嵩里が言っていた花だな」
「台輔が?」
「ああ。李斎に花をもらってきた、と嬉しそうに言っていた。見ても良いか?」
「はい」
庭園に直接通じる扉を開ければ、そこは見渡す限り一面の金色の花で埋め尽くされていた。
「官邸暮らしに慣れますように、と女官たちが奇麗に手入れをしてくれて……見事な花畑となりました」
「確かに見事だ……」
「主上もいかがですか? 花束をお作りします」
「私は良い。眺めることができただけで十分だ、それに……別の花を所望したい」
「別のは……主上!」
言いたいことが理解できて、李斎は一喝するように叫んでしまった。
「主上とのご関係はあります……が……ですが……」
「私にとっては極上の花であることには変わりない」
「私は花のように美しいわけではございません。武人で……」
「戦場で咲く花、なのだろうな」
側に寄り背から濡れ髪に触れて口づける。それだけがひどく恥かしい行為に思えて、李斎は振り返った。
「どこにいようとも、李斎という花は目立つ。私の目からの話だが……己が思うほど目だっていないわけではないのだぞ?」
「私は」
「武人である以上強さは求められる、が以前に女だという意識を失う必要はない。強さの中に、女として細やかな動きも必要だろう。だからこそ、自分を卑下するな。十分美しい」
毅然とした態度で、家臣であり女として諌める言葉を述べられてただ、緋玉の瞳を見つめた。
「だからこそ……」
「……驍宗様」
伸ばされた腕、腰に回されて李斎は名を呼んだ。名はやっと驍宗を男として認めた証拠だった。
「まだ昼間でございますから」
「別に抱こうとしているわけではない。部屋で茶を貰おう。二人で過ごす時間が勿体無い」
「政務はよろしいので?」
「それは先程嵩里に尋ねられた。今日はあらかた片付いた。急することはやめたのでな。多少の余裕ができたかもしれぬ」
微笑む顔は柔らかい。つられて微笑んで李斎もまた腕を伸ばす。
もう躊躇も拒むこともしない。
腕の中にようやく花を抱くことができて、驍宗は満面の笑みを浮かべて愛する花に口づけた――。
「これは……氷?」
「そうです、氷ですよ」
瓶(かめ)に入った冷たい塊に手を触れようと、足を伸ばす。届かなくて転びそうになるところを、抱えあげられて触ることができた。
「この氷どうしたの、李斎?」
「貰い受けてきたのですよ」
笑顔で幼い台輔に答える。
「清水の流れる場所がありまして。冬場は凍りつき、水の流れもとまってしまいますが、塊は多くできます」
「瓶に入れて……溶かすの?」
「はい。溶かして茶などで使おうかと」
「清水だから美味しいだろうね」
「ええ。お酒を飲む方にも重宝されますよ」
床に足がついたのを確認して、手を話す。視線を合わせるように李斎は屈んだ。
「氷を用立てて、茶を用意いたしましょう」
「うん」
李斎自らが氷を割り、氷を溶かす。茶器を運び居間に待つ泰麒の前で茶を点て差し出す。
「……美味しいね」
「お味がおわかりでよかった」
微笑み空になった湯飲みに茶を注ぐ。
「ねえ、李斎」
「はい」
「お酒にはどう使うの?」
「氷を砕きそのまま使うのです。酒を冷たく飲むためですが、ここでは贅沢なものですね。戴は極寒の地です。室内が暖かければ美味に感じますが、民は贅沢と言うでしょう」
「そうだね、外は寒くて、薪も少ないから暖かい飲み物のほうが良いものね」
「はい。それで台輔にお願いがあるのですが」
「お願い?」
「主上にこの氷をお持ちください。酒を所望される方ですから……最近政務にも力が入り、お疲れのご様子も見られますので」
「うん」
笑顔で答えて大きく頷く。
「その必要はない」
低い声に驚き、二人は振り返る。そこには二人の主が立っていた。
「主上、どうなされたので?」
「今宵は参ると言わなかったか、李斎?」
言われて思い出す。忍んでくると告げられ、お控えくださいと言ったはずだった。そんなことは知らない泰麒は二人の顔を見る。
「驍宗様、お酒飲みますか?」
「うん?」
「美味しい氷があるんです」
「ほお、珍しいな。持ち帰ってきたのか?」
「は、はい」
「私も貰おうか」
頼まれて李斎に断る術はない。急ぎ仕度をし、器に氷を割りいれた。冷えた酒を注ぎ、酒は冷たさを増した。
「嵩里、覗いてみるといい」
「お酒をですか?」
「ああ」
椅子に座り、泰麒を抱き上げ膝の上に乗せる。
「透明ですね」
「そうだ、多少でも飲めなくはないが、濁りのある水で作った氷は、白い濁りが浮かぶ。これは純粋な水だ」
器を手に取り口に含む。暖かい室内で、冷たい酒は心から美味いと言えた。
「美味しいですか?」
「ああ。美味い」
主の笑顔に満足そうに、泰麒もまた笑顔を浮かべる。
その様子に李斎もまた笑んで、酒を注ぎなおす。
「ゆっくり休んで下さいね、驍宗様」
「ああ」
「李斎も疲れているから、といって氷を持ち帰ってほし……」
「台輔、それは」
「ならば明日また来る」
立ち上がり、泰麒を降ろす。
「嵩里戻るぞ」
「はい」
先に駆け出す泰麒。姿が消えたのを確認して、驍宗は振り返り李斎の側へと歩み寄り耳元で囁く。
「明日も来る……褥で癒してくれ」
「っ……主上!」
その言葉に李斎は顔を真っ赤に染め上げた。返答も待たずに驍宗もまた姿を消した。
酒に満足した笑みと、明日が待ちきれないと浮かべた表情を李斎の脳裏に残して。