冬の月が最も美しい。
冴えた漆黒の闇の中で浮いた白銀の光。
そして、冬の残月もまた最も美しい。
残月
「ああ、残月でございます。」
「ん」
先ほどまで腕の中にいた女は起き上がり、閨の窓を見た。
朝議までまだ程遠い時である。
諸官達もまだ眠っているであろう。
中途半端に目覚めた自分も彼女を抱いて惰眠を貪りたい。
「驍宗様?」
「何だ、李斎…もう少し眠らせろ。」
「…ええ。しかし残月がとても美しいのでございます。」
「そうか…置きだす頃まで月は残っていよう。」
驍宗は李斎を抱き寄せる。
身体は泰の冬の寒さに晒されて、王宮の中ですら、体が冷えている。
「李斎、体が冷たいぞ」
「そうかもしれませぬ…布団の中は暖かい…」
「女官が起こしに来るまで随分と時間はある。」
「では二度寝を致しましょう。」
「ああ、」
冬の朝は辛い。
暖かい布団の中から出る事は実に勇気と忍耐がいることである。
それゆえ、時間が許す限り直前まで寝台の中へもぐりこんでいる。
ふと、李斎が見ていた窓を見る。
薄暗い空に浮かんだ残月。
やがて、山々は暁光を照り返し地平は赤く染まるであろう。
地平の赤に
空の灰蒼色
地平と空の境界に白銀の月。
明けに有る月とはよく言ったものだ。
「共に残月を見よう仲となろうとは。」
「…ん…なんでございます…か…」
「なんでも、ない。」
遠くで鳥の鳴く声がする。
夜明けは近い。
しかし、今しばらくの夜を楽しませてもらおう。
Fin.
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蒿里
夜の金波宮。人影が露台へと出る。
目の前に広がる雲海。
鼻腔をくすぐる潮の香り。
髪を流す潮風。
李斎はその中にただ独り居た。
髪は風のいいようにし、
上着は煽られる。
それでも彼女は一歩たりとも動かない。
雲海の北をただじっと見つめるのみ。
蒿里誰家地
聚斂魂魄無賢愚
鬼伯一何相催促
人命不得少踟厨
―蒿里は誰家(いずれ)の地ぞ
魂魄を聚斂(しゅうれん)して賢愚無し。
鬼伯 一に何ぞ相催促する、
人命 少(しばら)くも踟厨(ちちゅう)するを得ず―
「死後の世界の歌、か…」
ふと李斎は思う。
今の戴は蒿里だ―と。
人々の苦しい生活。
それは死で無く何か。
王、台輔共に不在および行方知れずは
如何なる事か―と。
やがて李斎は帯の切れ端を胸元に引き寄せた。
―驍宗殿、今何処に。
―独りは寒いのです。
―戴を、私をいつも暖めて下さったあなたは何処に。
李斎は独り嗚咽を漏らした。
FIN.
※作中の漢詩「蒿里」は中国名詩選(上)91、編者松枝茂夫 岩波書店より抜粋しました。
また、踟厨(ちちゅう)のちゅうは本来、足偏に厨の字ですが常用漢字ではないため表示できませんでした。
―あとがき―
李斎は強い人間であり女性なので決して人前では弱音は吐かないと思います。
そして夜、独りでこっそりとため息をついてそうです。
しかも、自分のことで泣くほかの人のためを思っての。
(黄昏の岸~は李斎が自分のこと(自分の国の事)しか考えてなかったという感じの話ですが。)
「蒿里」という詩は中三のときテーマを決めて詩のアンソロジーを作りなさいという宿題が出まして。
その時見つけた詩です。
驍宗が作中で「蒿里とは死者の世界の名だが…いっそ不吉で返って良いことが起こるだろう」と
言っていましたから、こうピーンときました。
少佐さんに贈らせていただきます。
明日(めいじつ)
口さがない者たちの噂話を、若者はつとめて気に留めないようにしていた。
聞かないふりをしていた。
つまらない風説に心を乱しては、結局のところ彼が今仕えている人物を傷つけることに至ってしまうと思ったからだ。
そのひとが、自分に関わることであってもそんな俗聞になど全く興味を示さなかったからこそ。
若者は、部外者である自分が心を騒がすことほどみっともないことはないと思った。
特に、そのひとは美しい女性であったから。
自分が見苦しい態度に出てしまうことが、たいそう恥ずべきことに思えた。
「いつもすまないな。」
身の回りの世話をする役目を嬉々としてこなす若者に、李斎は小さく労いの言葉をかけた。
「いいえ、劉将軍のお世話が出来るのは、光栄なことです。」
「ただでさえ、この国には人が足らぬのに。」
苦しげに眉を寄せる李斎に、若者が首を振る。
「将軍は、この国を救われた方です。台輔がお帰りになられたのは劉将軍のお力あってこそです。将軍のお役に立てることを誇りに思わない戴国の民は一人としていません。」
偽王の時代、蓬莱へと流されてしまった泰麒を帰還させるために命がけで他国に救いを求め、その過程で片腕を失ったこの女将軍は、国を救った恩人として破格の扱いを受けているが、一方で片腕を失ってしまったことで、武人としての働きどころか日常の生活すら人の手を借りずば立ち行かない。
「そなたのような前途有望な官を、私ごときの召使いに据えておくとは、宝の持ち腐れというもの。私には、故郷へ帰ってつつましく暮らすというすべもあると言うに。」
「劉将軍。」
何度か聞かされていた言葉に、若者はいつものように困惑の表情を浮かべるしかない。
この人望篤い将軍に白圭宮を去らせたくないという気持ちは、彼とて他の官と同じく強かったが、しかし彼女を説得して引き止める術を持たなかった。
そこで、ふと魔が差した。
いつもは聞かないようにしていた、あの噂がもし本当だったのなら・・・。
「あの、将軍。」
おずおずと問う若者に、李斎は優しげな視線を向ける。
うつむいたまま、尋ねた。
「将軍のどなたかに嫁されるというお話は本当なのですか。」
唐突な問いに、しかし李斎は表情を変えなかった。
まるで、その噂をとうに知っていたかのように。
かわりに、小さく笑った。
「誰がそのようなことを申しているのだ?」
「あ、その・・・。」
しどろもどろな若者に、李斎はついと窓の外を一瞥して言った。
「それが主上のご命令であれば従わずばなるまい。」
「違います!」
慌てて若者が遮った。
国主である王の名が、こんな巷の噂話に混ざってしまうのは恐ろしいことだった。
「だが私は全くの役立たずであるから、主上の御命令で私を押し付けられては諸卿にとっても迷惑であろう。」
「そんな・・・。」
若者はうまく言葉を紡ぐことが出来ず、おろおろするばかりだった。
実のところ、その噂は「劉将軍のお世話をお引き受けしたい」と願い出る上位の文官や武官が一人ならずいるらしいという話を端緒にしている。
国の恩人であっても、満足に働くことが出来ない身に国の俸給を与えることは、泰王を快く思わない者たちの中傷を呼ぶ。
それくらいならば、と進んで李斎を引き受けたいと願い出る者が、彼女の知己であった者や信奉者であった者の中から現れている、そういうことなのだ。
「それは・・・、違います。」
「それに。」
必要以上に自らを貶めようとする李斎に若者が抗弁しようとした時、女将軍はさらに低い声音でつぶやいた。
「私の夫となる者は、いささかおぞましきものを見ることになる。」
感情の見えない、だが今までになく険しいその声に若者はたじろいだ。
だが、李斎の凍り付くような声に一瞬青くなったものの、その意味するところに思い当たって若者はぱっと顔に朱を昇らせた。
「あ、あの・・・。」
「主上が、故郷に戻ることをお許し下されば良いのだが。」
その声は。
必ずしも切実な願いに聞こえるものではなかったのだが。
目の前に佇む女将軍の、質素な官服の内側にあるものを想像して思わず赤面してしまった若者の耳に、その微妙な声音は入って来なかった。
訪ねて来た男も、訪問を受けた女も、傍から見れば困惑しているとしか思えない表情で向かい合っていた。
厳密には、顔に出すべき表情を選びあぐねている、というのが正しかったかもしれない。
何もかもが、昔日とは違うのだということを、男も女も受け入れようと努力していた。
だが、その努力をしなければならないという両者の使命感の強さが、昔日と変わっていないことまで受け入れるのを拒否している、そんな皮肉な状況でもあった。 ふいに視線がぶつかると、そっと李斎は目を伏せた。
それは、ありし日の彼女には見られなかった仕草だった。
かつて想いを交わした女が視線を逸らす時、それは愛を失ったと解釈すべき時である。
そのくらいは、驍宗も知っている。
だが、自分たちがその昔に育んでいた情は、そんなお手本が通用するようなものではなかったことも知っていた。
知らなければ、あるいは幸せだったかもしれないが。
あらゆるものが変わってしまったかに見えるこの時この場所で、しかし驍宗にとって李斎が、そして李斎にとって驍宗が、何を以てしても引き換えることの適わない特別な存在であることだけは、実は変わっていないのだということを、二人は受け入れざるを得なかった。
未熟さを言い訳にそれを受け入れられない若さを、不幸にも二人とも失くして久しい。
「わたくしの処遇を、お決めになられたのでございますか。」
かつての李斎を知る身にはまるで馴染まない、蚊の鳴くような声に、驍宗は乏しい表情で答えた。
「そういう訳ではない。」
否定してみるものの、それに続く言葉はなかなか見つからない。
不自然な沈黙だけが、二人の間に横たわる。
「李斎。」
「はい。」
「そなたは、どうしたいのだ。」
尋ねる意味もないと判っていることを、それでも驍宗は訊いてしまった。
「数ならぬ身となりました。主上のご意向に従うしか術はございません。」
予想された答えに、驍宗は唇をわずかに歪めた。
歪めたまま、手を伸ばした。
李斎の身体をそこに収めるまでは柔らかかった腕の力が、記憶にある感触よりもはるかに細くて弱いのを認識するなり弾けるように強まった。
「わたしは、そなたを失いたくない。」
絞り出すような声が、李斎の耳元で漏れた。
わずかに身じろいだ李斎の動きは、哀れなほどに弱々しい。
その弱さに苛立つように、驍宗はさらに荒々しく抱き竦めた。
貪るように唇を奪うが、李斎は抗う仕草も応える様子も見せない。
襟元を解き、雪のように白い肌に口付けた時、か細い声が聞こえた。
「李斎とて女でございます。」
それはあまりに弱々しく、ありし日の彼女を知る者には同じ人間の声に聞こえなかったであろう。
「殿方に己の醜き様を晒すのは辛うございます・・・。」
伏せられた睫毛が揺れ、そこに涙が滲むのを見て驍宗は手を止めた。
李斎は抱き締められながら、驍宗の視線から逃れるように顔を伏せていた。
そして、弱った鳥でもこれほどにか細くは啼かないだろうと思う、そんな声を絞り出す。
「それが、心に想う方であれば尚更・・・。」
李斎はそうして、何かを否定するかのように、首を振った。
だが、男の肩を掴んでいた片方しかない腕は、首の動きに反作用でも起こしたように強くしがみつく。
驍宗は穏やかに、そっと彼女の頭を支えて自分の肩に乗せ、髪をやさしく撫でた。
心に渦巻く想いは、その仕草とは裏腹な、いささか苛烈なものであったけれども。
この女が、こんな風に脆い姿を晒すはずがない。
そう思いたかった。
己が惹かれ、愛したのは、この女の持つ強さであり気高さであった。
けれど、今腕の中に在る女がそれを失っているという事実を、受け入れなければならなかった。
女は小さく震えて、泣いていた。
ありし日、情を交わす時に彼女が抵抗して見せた力は、ずっと強くてしなやかだった。
だが、あの頃それをやすやすと封じた腕の力は、いま李斎が自分を拒否しようと抗う弱々しい力を跳ね返すことが出来ない。
すべては、変わってしまったのだ。
苦難の日々と片腕を喪うという事件が李斎から奪ったものは、あの清冽で涼やかで、瑞々しい生気だった。
もはや彼女が将軍として働けないという事実がもたらす缺落感より、それははるかに大きな痛みを驍宗にもたらした。
流れ出る溶岩のような色をした瞳を、驍宗はわずかに細めた。
その重苦しく燃える塊が、迸って流れるのを防ぐかのように。
そこに光るのは、正しく憎しみであったかもしれない。
それは李斎を変えてしまった物に対する、強い憎しみだった。
しなやかに靱く、眩しいほどに輝いていたあの人は、いま腕の中でか細く震えている。
こんな風に、この人を脆くしてしまった元凶たる存在を、驍宗は憎んだ。
己れの存在をかけて、憎んだ。
即ち、その不在によってこの国の隅々にまで苦難を与えた、自分自身という存在を。
仮住まいにと下賜された邸宅からほとんど出ようとしない李斎を、連れ出したのは泰麒だった。
李斎が、白圭宮に登城するのを躊躇してしまうのは、あまりに過去と重なるからだ。
辛い思い出だけを想起させる場所よりも、苦難の記憶と幸福の記憶が共にある場所に立つほうが、心が痛むことを李斎は知った。
その精神(こころ)の強さと器の大きさで、敬意の輪を作り上げていた泰王と、純真であどけない泰麒が幸せそうに笑む姿、この庭院に来るだけで、否、脳裏に思い描くだけで、李斎はそんな幻を見てしまう。
すべては、変わってしまったのだ。
それをきちんと理解しているはずの頭脳と、幻を見せようとする心が、痩せ細った李斎の身体の中で激しく拮抗する。
雲海を見渡すはずの路亭を遠目に認めて、李斎は目を眇めた。
一瞬、そこに人影を見たように感じた。
大柄な泰王の後ろ姿が、その腕に抱え上げられた幼い泰麒に何事かを囁いている、そんな風景が蜃気楼のように眼前を彷徨った。
彷徨って、やがて消えた。
「どうしたの。李斎。」
尋ねた泰麒に、李斎は答えた。
「あの路亭は、全く変わっていないのですね。」
努めて穏やかに紡いだはずの言葉に、しかし泰麒は目を剣呑に光らせることで応じる。
「李斎。」
一瞬だけ俯き、泰麒は李斎を真っ直ぐに見つめた。
その、己れとほとんど変わらない目線の高さに刹那戸惑って、李斎はまたも目を伏せた。
その時泰麒の瞳に、怒りに似た鋭い光が宿った。
「台輔!」
やにわに抱き上げられて、李斎が泡を食ったような声で叫んだ。
泰麒は、軽々と李斎の身体を抱き上げると、路亭に向かった。
「台輔、お離しください。」
「なぜ?危ないから?」
飄々と問うた泰麒に、李斎は返答に詰まる。
泰麒の力は強く、骨まで痩せてしまっている李斎を運ぶのに難儀しているようには見えない。
かといって、恐れ多い、などという当たり前の理由を口に出来る空気はそこになかった。
路亭まで運ぶと、泰麒は雲海を見せるようにしながら李斎を下ろした。
「台輔・・・。」
困惑するだけで言葉のない李斎に、泰麒はひとつ、溜息をついた。
そして、一呼吸の間を置いて李斎に問うた。
「李斎は、昔に帰りたいですか?」
「・・・。」
泰麒は、視線を雲海に向かって泳がせながら、問うた。
「李斎は、あの頃のほうがすべて、今よりも良かったと考えているのですか。」
すべてではないだろう。
だが、ほとんどの物事について、この荒廃以前の状態に戻せるものなら戻したいと、切に願うこともある。
それは適わないことだからと、心の奥底に封じ込めてはいても。
「時間を戻ることが出来るのなら、戻りたいと思っているのですか。」
「不可能なことを願うのは、罪深いことです。けれど心が弱っている時のわたくしは、考えてしまいます。あれ以前に帰ることが出来たらと。」
「そう・・・。」
泰麒はもう一つ、溜息をついた。
それは、どこか冷ややかな空気を帯びていた。
「では、僕だけなんだ。」
泰麒の、半ば諦念の混ざったような声に李斎は驚く。
「喜んでいるのは、僕だけなんだ。僕には今、あの頃にはなかった、貴女をこの腕で運べるだけの力がある。こちらの文字も、多少なら読める。子供の頭には入らないことも、理解できる力も得た。あの頃には出来なかった、驍宗さまの国づくりの輔けとなることが、もしかしたら出来るかもしれないと思ったのだけど・・・。」
「台輔・・・?」
「皆、変わってしまった僕は、要らないみたいだ。」
「台輔!」
泰麒の言わんとすることの輪郭を朧げに悟って、李斎が鋭く叫んだ。
「僕だけは、あの頃と変わったことを喜んでいる。けれど、変わったことを喜んでいるのは、僕一人なんだ。」
「違います!!」
堪らず李斎は、泰麒の袖を掴んで叫んだ。
「台輔、貴方は、希望です。戴国の、待ち望んだ希望です・・・。」
李斎の瞳に往時の、堅固な意志を秘めた光が少しだけ復活していた。
「誰もが、貴方のご帰還を待っていました。貴方が、この国の礎となって下さるのを、待ち望んでいました。」
必死の呈で訴える李斎から泰麒はしかし、視線を逸らした。
ふいに、背後に騒めきが起こった。
「あ、劉将軍だ。」
自邸に籠りきりで、李斎の姿を見たくても見られない者たちが集まっていた。
泰麒が彼らを招き、李斎はわずかに顔を綻ばせた。
だが伏し目がちなその瞳に、かつて州師を率いていた頃の面影がないのを発見して、ありし日の彼女を知る者たちの目に戸惑いが浮かぶ。
泰麒は、彼らの名を一人一人呼ぶと、近況を聞いた。
誰にとっても苦難の中にあった過去6年のことには触れず、ごく最近の話題を持ちだしてはそれに関わった者たちの噂を拾い出した。
李斎はそれをただ聞いていた。
まるで、あの平和だった日々の続きに、昨日や今日があったかのような錯覚を起こしながらただ聞いていた。
穏やかなその時間の中に、李斎は幻を見る。
若枝が太陽に向かって伸びるように、健やかに成長する泰麒の姿を。
暖かい波のようなものが胸の裡を流れ、だが突然李斎は我に返った。
幻を振り払うように首を振った李斎の、その視線の先に、泰麒の瞳があった。
「疲れましたか?李斎。」
気遣わしげなその声は穏やかに低く。
綻んだ笑みに緩められた瞳は静かに深く。
「あ・・・。」
暗い闇の中で、ふいに外界への扉を開かれた時のような眩しさを、李斎は言葉に出来なかった。
光の中に立つ、李斎とほとんど変わらぬ背丈の麒麟は、幻ではなかった。
白圭宮の主が姿を現したのは、その時。
集った者たちが、一斉に跪礼する。
「主上。」
皆に混じって跪いた李斎に、驍宗は穏やかに声をかけた。
「話をしたいのだが構わないか。」
「・・・・。」
顔を上げられず、答える言葉も見つからないでいる李斎の脇で、衣擦れの音がした。
集っていた者たちが、王に遠慮して一人また一人を去っていった。
その衣擦れの音が止んだ後、そっと目を上げると赤い真摯な眼差しに出会う。
李斎は、目を逸らさなかった。
紡ぐ言葉が見つからないまま、それでも李斎はその赤い瞳を見つめていた。
「駄目です。」
その時ふいに、背後から拒否の言葉が聞こえて李斎は思わず振り返った。
泰麒は、路亭の手すりに腰を預けながら、己が主を真っ直ぐに凝視している。
「蒿里?」
訝しげに首を傾げた驍宗に、泰麒は静かに、ただ静かにその言葉を突きつけた。
「貴方は、この人を泣かせることしか言わない。だから、行かせられない。」
「台輔!」
李斎は小さく、悲鳴を漏らした。小さな声しか出せなかったのは、そこに拡がる空気の圧力が緊迫をもたらしたため。
後に続いたのはしばしの沈黙。
泰王である男は、やがて静かに呟いた。
「そうだったな・・・。」
大柄な男の頭が、わずかに下を向く。
「官にも将軍にも、私をそのように譴責してくれる者がおらぬ。」
どこか寂しげな主の横顔を、泰麒は睨んだ。
何を責めようとしたのか、或いはしたいのか、定かでないまま泰麒はただ睨んだ。
「邪魔をした。」
一言そう発すると、驍宗はもと来た道を帰っていった。
「台輔。」
李斎が雲海を見下ろしながら、穏やかに泰麒を見る。
微笑を浮かべ、李斎は言った。
「主上と、お話をしてまいります。」
昔日の彼女を知る者を戸惑わせていた、伏し目がちの眼差しではない、まっすぐな瞳を泰麒に向け、宣言するように李斎はそう言った。
「また泣くことになるかもしれないのに?」
「泣きません。」
揶揄するような泰麒の言葉には、毅然と応じた。
「何を話すの?」
詰問に近いそれに、微笑みで答える。
「片腕を失くしたとはいえ、剣術指南程度は李斎にも出来ます。かたわの身ではありますが、戴国の再建に尽くしたい、だから使ってくださいと、お願いをしに参ります。」
「そのことで悪く言うものが出てくれば主上が困るだろうからと、邸に引きこもるのは止めるということですか。」
・・・やはりご存知だったのか。
だが、李斎は驚かない。
目の前の泰麒はもはや、あの幼くてあどけない麒麟ではないのだと、李斎はもう知っている。
「そのような非難が出るのならば、共に受けてくださいと、お願いをいたします。」
李斎は、正面に向きあって泰麒を見た。
「私の志を、ともに背負っていただきたいと・・・。」
そして、やわらかく笑んだ。
その悪戯めいた微笑みが、仄かに色香を纏う。
「あの方に要求してまいります。」
「李斎が泣くのは見たくないです。」
泰麒も、悪戯をする時のような微笑を浮かべた。
「だから、泣くかもしれないところへなんて行かせたくない。それならば、泣いて引き止めたい。」
あの頃のように。
だが、あれは遠い日で、もはや返らない。
「台輔。」
李斎はその場で跪いた。
まるで天に頭を垂れているかのように恭しく頭を下げ、李斎はその言葉を雲海からの風に乗せた。
「台輔。よくお戻り下さいました。」
静かに歩み去る李斎の背を見送った泰麒は、その視線をついと脇に逸らす。
いつの間にか、路亭の入り口付近に佇んでいた人物に声をかけた。
「ねえ正頼。」
否、問いを、発した。
「仁獣の麒麟に、憎まれ役をさせるこの国って、どういうこと?」
成年にはわずかに猶予があるような年頃の少年が見せる、悪ぶった声音で問われたそれに、正頼は答えなかった。
答えられなかった、というのが正しい。
「答えられないの?」
悪ぶった態度を取るために、無理をして侮蔑の表情を作る、そんな趣きを匂わす泰麒の問いに、それでも正頼は素直に応じた。
「はい。」
「ふーん。」
「申し訳ありません。」
「僕の問いに、答えられないんだ。それじゃあ・・・。」
泰麒は、人さし指を立てて天に向けた。
「貴方は傳相失格だ。」
「はい。」
正頼はその言葉にも素直に頷いた。
「解任だよ。」
「はい。」
「主上に、新しいお役目を貰わないとね。」
「はい。」
子守を卒業させられた男は、ただ、素直に頷いていた。
李斎が剣術指南の役目を得、つつましくも戴国再建の一翼を担い出してしばらく経つ頃には、彼女に求婚しようとする者はいつの間にかいなくなっていた。 その必要を見出さなくなったのが一番の理由であろうが、それとは別に、どうやら台輔と恋敵にならねばならぬらしいとの噂が、どこからか聞こえて来た。
ただ、その噂の出所は定かでない。
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35000ヒットリクby明美さま。『払い下げになる(なりそうになる)李斎』。ハイハイ、H.v.H.恒例の詐欺まがいリク作品の登場です。35000、一年以上前ですね。これだけ待って下さったのに、やはり詐欺くさいシロモノしか出来ませんでした。
ていうか、
途中で主役変わってます。(滅)
驍宗さまも李斎さんも逆境では黙して語らずのタイプだったようで、とにかく喋ってくれないくれない・・・。二人が喋ってくれないせいで半年近く執筆は停滞。そこで「子はかすがい作戦」ということで、泰麒ちゃんをグレーに染めて(そこが間違いか!?)投入したところ、話は動いてくれたのですが、ご覧の通りすっかり両親を喰ってしまいやがり・・・・ったくもう。
大人泰麒が自ら正頼の傳相の任を解く、というネタと、李斎の台詞「わが夫となるもの・・・」(これは我が最愛の女性アニメキャラ、クシャナ殿下のマイベスト台詞)は、常々どっかで使いたいな~と思っていたものです。
問題の「払い下げ」は、やはり私には無理だったようで(初期の頃は「やっぱり英章が出てくるんだろうなあ」とか思っていたのですが、私の中で英章のキャラが固まっていないため却下。)なんだか「リク内容消化率30%」あたりに落ち着いてしまいました。せめてもの気持ちということで(誤魔化しともいう)タイトルに明美さんの「明」の字を入れてみる・・・
「自宅療養中にしては真面目に摂生しているみたいね。元気そうじゃない」
何度もしつこく鳴る煩いチャイムの音に眠りを妨げられ玄関まで歩いていくと、ガラスの張られたドアの向こうにはパラメディックがいた。俺は邪魔な松葉杖を壁に立てかけ、ドアを開けて彼女を部屋へと入れた。
「うんうん、顔色もいいし、食事もきちんと摂っているみたいね」
笑顔を見せながら手を伸ばし、俺の頬を撫でて触診する。医者のする事なのでそのままやりたいようにやらせていたが、頭を撫でられ結局腹が立って振り払う事になった。子供扱いされたようで気に入らない。
「何しに来たんだ。怪我ならもうすぐ治りそうだし、医者の出番はそろそろ終わりだぞ?」
学会の予定が重なっていたとはいえ入院中もろくに顔を見せなかったつれない主治医には嫌味のひとつでも言ってやりたくなる。苛立ちながらさっきまで寝ていたソファーに腰を下ろし、よくよく彼女の格好を見て驚いた。
「……珍しい格好だな」
「年甲斐もなくって、思ってる?」
グレーの地に大きな緑のグラデーションカラーの花の模様が散ったワンピースの裾は短く、柔らかそうなシフォン生地の奥には小さな膝頭と弾力のありそうな太ももが惜しげもなく覗いていた。
「いや、似合ってるさ。いつものパッとしない服よりよっぽどいい」
「……それは褒められているのか微妙な感想ね」
俺の気が利かない言葉にふくれながら裾をくしゃりと握った。座っている俺の視線は目の前にある肉感的な太ももにいとも容易く釘付けになってしまう。
「何しに来たか、知りたい?」
言いながら俺の首にするりと腕を絡め、コーラルピンクで艶やかに染められた形のいい唇が俺のそれへと重なった。唇を割って入ってきた柔らかい舌が俺の口腔をじっくりと犯していく。清楚な外見には似つかわしくない大胆で淫靡なキスに鼓動が高鳴り、少し気が遠くなる気がした。
「先週に予約入れてた診察をすっぽかしたから、出張で様子を見に来てくれてんだと勝手に思っていたんだが……」
「それもあるけど……あの約束、忘れたの?」
言いながら唾液で濡れた唇を手の甲で軽く拭う仕草がやけにいやらしく感じた。俺は記憶を辿り、ある事を思い出して頭を抱えた。
「あれはそのままの意味で言ったんだがな」
「慰めてくれるんでしょう?」
スネークとEVAの再会後、微妙な空気を纏うようになった彼女に俺は確かに「泣きたい気分なら胸ぐらい貸すぞ」とは言ったが……。
「忘れさせてよ、好きにしていいから……ダメ?」
こういう女の口説き文句に何回俺は引っかかるんだろう。罠だと知りつつも好んではまってしまう自分を恨みつつ、俺は彼女の手を取った。
「ね、気持ちいい?」
気持ちよくないわけがない。彼女の上下に動く手の中で硬くそそり起っているそれは、もう既に限界を感じ始めていた。細い指が先端のふくらみと窪みへ滑り、俺を愛撫する。
「……いつまであんたは服着てるつもりなんだ、そろそろ脱げよ」
俺だけが下半身を剥かれ弄ばれているのはやっぱり面白くない。ワンピースの裾から手を入れ太ももの外側から尻を触ると、そこはしっかりと張りがあって滑らかだった。
「や……だめよ、擽ったいじゃない」
諌めるにしては甘い声を出して身をよじる。触られると弱い場所なのかもしれない。俺は調子に乗って下着の裾からさらに奥へと指を進めた。
「んっ……あっ……」
そこは既にびっしょりと濡れていた。キスと軽い触りあいしかしていないのにこんな状態になっている事を考えると、やけに興奮してしまう。
「もうっ……やめてったら……」
指の腹でふっくらと充血した入り口をなぞると、彼女は俺から逃れるようにソファーのクッションへと倒れこんだ。力が抜けて開いた脚の間から白いレースの下着がちらりと見え、余計に扇情的な眺めになってしまっている。
「脚、上げろよ」
俺に言われるまま脚を上げる。白いレースの下着を脱がせて左右に大きく開かせると、彼女は恥ずかしそうに片手で顔を覆った。
もう我慢ができなかった。深さもあり気持ちが良さそうなそこに硬くなったものを押し入れると、驚くほどスムーズに滑り込んでいった。
若干狭いと感じるものの柔らかく熱い。中をかき回すように動くと、彼女の腰も俺の動きに合わせて吸い付くように蠢く。すぐにでも達してしまいそうな快感に、俺は呻いた。
「ね……構わないからそのまま、出して」
火照った顔で俺を見上げ、甘い言葉を囁く。挿入してからまだいくらも経っていないというのに、俺は言われるまま彼女の中で達した。
「あなたって意外と素直なのね、可愛い……」
満足そうな笑顔で言って。外見に似つかわしくない貪るようなキスをする。濡れた舌が俺の唇を撫で、俺の舌を彼女の中へと誘った。
どくどくと脈打つ俺を彼女の粘膜が断続的に締め付け、再び高めさせようとする。感じやすい両方の粘膜を同時に弄ばれ、俺は二度目の快楽に身を任せる事にした。
ワンピースと下着を脱がせると、白くて大きな乳房が目の前に現れた。弾力があり、つんと上向きに張っている。
「見てるだけ?……触らないの?」
悪戯っぽい笑みを見せ、俺の手を取って誘う。そのまま手を這わせると俺の手で覆っても少し覆いきれないくらいの十分な質量があった。心地よさにたまらず顔を埋めると微かな香水の香りが鼻腔を擽った。
充血してふっくらと起っている先端に舌を這わせる。それだけで過敏に反応する彼女を困らせたくなり、俺はそこを重点的に愛撫する事にした。
おざなりになっているもう片方のそこを指で転がし嬲りながら夢中で吸い付くと、彼女の唇から焦れるような声が漏れた。
「あ、そこ……ダメ…っ…」
顔を見上げると伏せられた目は潤んでいた。見られている事に気付いたのか恥ずかしそうに俺から視線を外し、瞼を閉じる。
羞恥心に苛まれている彼女の姿は、俺を興奮させるには十分すぎた。滑らかなストッキングで包まれたままの脚を左右に開かせ、俺は二度目の挿入を試みた。
しっとりと濡れそぼったそこに押入れるとコーラルピンクの唇から鼻にかかったような声が漏れたが、俺は構わず突き上げた。
先ほどよりも乱暴に扱っているのに、彼女は悦んでさえいる様子だった。俺の名を時折呼びながら小さな手で俺の二の腕を掴み、胸に顔を埋める。
恥らっているようなその素振りとは裏腹に、俺の腰へと脚を絡める。より深くなった結合に俺は身震いした。
「ねえ……もう、私……っ」
「……まだ早いだろ、先生」
抱きつかれ軽く爪を立てられた背中の痛みが今まで眠っていた嗜虐心を呼び覚ましたようだった。小刻みに震える脚の位置がずれ、履いたままのパンプスのヒールがひやりと俺の尻へと触れた。
こんな事なら、勢いでも構わないから適当な理由をつけてあの時に手をつけておくべきだったのかもしれない。あの頃好んで持ち歩いていた雑誌のグラビアガールより、よっぽど魅力的だ。
試してみたのはこれが初めてだったが、口での奉仕の快楽はなかなかのものだった。
俺の起ちあがったそれに丁寧に舌を這わせ、時折俺の様子を見る彼女の姿は可愛らしく思えた。手を使っての愛撫と違い刺激は少ないが、扇情的な奉仕中の光景に、俺は心を躍らせた。
「なんでも飲み込みが早いんだな、先生は……さっき教えたばかりだってのに」
素直すぎる態度に、つい辱めるような事を言ってしまった。パラメディックは言葉を聞いてちらりと俺の様子を伺うように見たが、特に気にする風でもなくそのまま奉仕を続けた。
深く飲み込むと、座っている俺の膝に彼女の胸が押し付けられ、そのまま柔らかく形を変えた。本当に下らない事だが、怪我を負ったばかりのせいで足の感覚がいまいち鈍いのが悔やまれた。本来なら暖かい彼女の体温が伝わってくるはずだ。
「要領の悪い女の方が好みなの?」
俺が教えた事を応用し、咥え込んだままじっくりと吸い上げるようにして根元から先端へと唇を滑らせ、辿りついた場所を舌先でねぶりながら訊く。生意気な口を利く気力はすでに失われていた。
「強いて言えばどちらも好み、かな……」
溜息を吐くように力ない声しか出せない。何度も乱暴に扱ったせいでくしゃくしゃに乱れてしまった赤い髪を手で梳いてやると、彼女は俺自身から手を放し、気持ち良さそうにふっと吐息を漏らした。
そのまま指の甲で柔らかい頬を撫でると、目を閉じた。まるで猫が主人に懐いているようで、つい口元がにやけてしまう。
「それは良かったわ」
どこか恍惚とした顔のまま立ち上がり、俺の肩に両手をついてそのまま体重をかけた。自然とソファーに組み敷かれる体勢になる。
「怪我、つらいでしょう?……まかせて」
俺の体に跨り、治りかけの胸の傷跡にキスをした。彼女の配慮にまかせ、俺は眼を閉じて全身から力を抜いた。
目を閉じると嫌でも他の感覚が研ぎ澄まされる。硬くなったそこに彼女が触れ、導かれて暖かい場所へ辿りつくまでの感触は今までの経験と比べても生々しい感覚として俺の中に残った。
目を開けると、動かない俺の上でゆっくりと揺れる女のシルエットが映った。蠢く腰に手を沿え、滑らかな曲線を描くボディーラインを辿ると微かな嬌声が部屋に響いた。
もう夕暮れだ。レースのカーテンで遮られた柔らかい日差しも夕闇に飲まれつつある。薄暗い部屋のせいなのかはよく分からないが、彼女の行動は次第に大胆になっていった。
唇を引き結び殺していた声を開放し、体を動かして繋がったままのそれを自らの体から引き抜き、腰を落として再び中へと誘う。
普段は冷静な彼女の乱れた息遣いを聞きながら、俺は幾度目かの絶頂を迎えた。
考えてみれば女と一緒にシャワーを浴びるのも久しぶりだった。何度も抱き合ってすっかり汚れた体を清め、濡れたままシーツの間に潜り込むと、パラメディックは俺の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「おい、やめろよ」
「短い髪もなかなか似合うわね。玄関で見たとき、見違えちゃった」
コロンビアでの監禁生活で伸びきっていた髪と髭は、退院した後すぐに整えた。彼女に見せるのは確かに今日が初めてだった。
「休暇中とはいえ、いつまでもだらしない格好だと女性にも呆れられそうだしな」
「休暇中なら、きちんと通院しなさい」
検査と診察をサボった事を思い出したようだ。俺は内心、舌打ちした。
「明日の昼過ぎに予約を入れておくわ。必ず来るように」
「了解」
どうせ買い物に行こうと思っていた。ついでに寄ればいいだろう。返事をして抱き寄せると彼女のうなじからシャワーの後に使ったタルカムパウダーの柔らかい香りがして、なんとも言いがたい満足感が俺の体を満たしていった。
昼間あんなに眠ったのに急に睡魔が襲ってきた。うとうとし始めた俺の髪に彼女がキス落としてくれた気もするが、確かではない。
目覚めると横に彼女はいなかった。
コロンビアで囚われて尋問を受けていた最中、考えていた事はいくつもある。
私的で本当に下らない望みだが、生きて帰れたら好みの女と飽きるほどしようと思っていた事もあった。
神はどこかにいるのかもしれない。一応望みはかなったようだ。
買い物を終えて病院に着いたのは12時すぎだった。大きな総合病院なのでどこに行けばいいのかいつも迷ってしまう。
館内図を見て辿りつくとすぐに看護婦が俺の名を呼んでくれた。通された診察室には見慣れた姿があった。
「こんにちは、キャンベルさん」
「こんにちは、よろしくお願いします」
笑顔を見せてくれたが昨日とは随分態度が違う。冷ややかな視線をレントゲンに向け、俺の脚を触った。
「体の調子はどうですか?」
調子がいいか悪いかなんて、昨夜さんざん確かめたくせに。
「いいですよ。ただ少し、今日に限って体がだるい気がします。腰とか」
「……腎臓の検査結果も正常値なので問題ないと思いますよ。なにか無理でもしたんじゃないですか?不摂生はしないように十分気をつけて下さい」
僅かな沈黙がやけに痛い。彼女の冷静なコメントに、横で準備をしていた看護婦が噴出した。笑いたければ笑えばいいと思いつつも少し恥ずかしくなった。あんたが来いと言ったから来たんじゃないか。つれない態度が憎らしい。
「完治してますね。定期健診が必要なので次は二ヵ月後にでも来てください。忙しいお仕事でしょうから都合のいい時にでも予約を入れて下さい」
さらさらとカルテにペンを走らせ、メモに病院の連絡先番号を書いて俺に渡してくれた。どうやら診察予約を入れる時の番号のようだ。完治していると言われたのは嬉しいが、次に会えるのが二ヵ月後というのは寂しい。
「怪我をきれいに治す為のお薬も後で出しますから、毎日忘れないで飲んで下さいね」
笑顔で話す彼女に、俺は持ってきた書類を渡した。ぎりぎりで思い出してよかった。
「これ、保険と労災の申請に使うのでよろしくお願いします」
渡した書類に目を通し、彼女は頷いた。
「では早めにお渡しした方がいいですね。今日はもう時間がありませんけれど数日中に用意しましょう」
机の引き出しを開け、小さな紙にメモし、俺に手渡した。紙の正体は名刺だった。先ほどの番号とは違う番号が書かれている。
「私の自宅の番号です。病院にはいない事が多いので、書類を取りに来られる日が決まったらこちらに連絡をして下さい」
看護婦が診察室からいなくなったのを確認し、俺は小声で訊いてみた。
「先生、この番号は私事でも連絡してかまいませんか?」
「どうぞ。ただし時々兄が出ると思いますけれど、それでも宜しいですか?」
どうやら一人暮らしではないようだ。少し落胆しつつもそのまま胸ポケットにしまった。なくさないようにしなければ。
「ではまた後日」
「お大事に」
決まりきった挨拶を交わし受付で薬と領収書をもらって外に出ると、もう日が傾き始めていた。でかい病院の手続きは面倒で困る。
駐車場に停めていた車に乗り、貰った名刺を手にとって眺めた。しっかりと彼女の本名の書かれたそれが、今はやけに愛しく感じた。
何度もしつこく鳴る煩いチャイムの音に眠りを妨げられ玄関まで歩いていくと、ガラスの張られたドアの向こうにはパラメディックがいた。俺は邪魔な松葉杖を壁に立てかけ、ドアを開けて彼女を部屋へと入れた。
「うんうん、顔色もいいし、食事もきちんと摂っているみたいね」
笑顔を見せながら手を伸ばし、俺の頬を撫でて触診する。医者のする事なのでそのままやりたいようにやらせていたが、頭を撫でられ結局腹が立って振り払う事になった。子供扱いされたようで気に入らない。
「何しに来たんだ。怪我ならもうすぐ治りそうだし、医者の出番はそろそろ終わりだぞ?」
学会の予定が重なっていたとはいえ入院中もろくに顔を見せなかったつれない主治医には嫌味のひとつでも言ってやりたくなる。苛立ちながらさっきまで寝ていたソファーに腰を下ろし、よくよく彼女の格好を見て驚いた。
「……珍しい格好だな」
「年甲斐もなくって、思ってる?」
グレーの地に大きな緑のグラデーションカラーの花の模様が散ったワンピースの裾は短く、柔らかそうなシフォン生地の奥には小さな膝頭と弾力のありそうな太ももが惜しげもなく覗いていた。
「いや、似合ってるさ。いつものパッとしない服よりよっぽどいい」
「……それは褒められているのか微妙な感想ね」
俺の気が利かない言葉にふくれながら裾をくしゃりと握った。座っている俺の視線は目の前にある肉感的な太ももにいとも容易く釘付けになってしまう。
「何しに来たか、知りたい?」
言いながら俺の首にするりと腕を絡め、コーラルピンクで艶やかに染められた形のいい唇が俺のそれへと重なった。唇を割って入ってきた柔らかい舌が俺の口腔をじっくりと犯していく。清楚な外見には似つかわしくない大胆で淫靡なキスに鼓動が高鳴り、少し気が遠くなる気がした。
「先週に予約入れてた診察をすっぽかしたから、出張で様子を見に来てくれてんだと勝手に思っていたんだが……」
「それもあるけど……あの約束、忘れたの?」
言いながら唾液で濡れた唇を手の甲で軽く拭う仕草がやけにいやらしく感じた。俺は記憶を辿り、ある事を思い出して頭を抱えた。
「あれはそのままの意味で言ったんだがな」
「慰めてくれるんでしょう?」
スネークとEVAの再会後、微妙な空気を纏うようになった彼女に俺は確かに「泣きたい気分なら胸ぐらい貸すぞ」とは言ったが……。
「忘れさせてよ、好きにしていいから……ダメ?」
こういう女の口説き文句に何回俺は引っかかるんだろう。罠だと知りつつも好んではまってしまう自分を恨みつつ、俺は彼女の手を取った。
「ね、気持ちいい?」
気持ちよくないわけがない。彼女の上下に動く手の中で硬くそそり起っているそれは、もう既に限界を感じ始めていた。細い指が先端のふくらみと窪みへ滑り、俺を愛撫する。
「……いつまであんたは服着てるつもりなんだ、そろそろ脱げよ」
俺だけが下半身を剥かれ弄ばれているのはやっぱり面白くない。ワンピースの裾から手を入れ太ももの外側から尻を触ると、そこはしっかりと張りがあって滑らかだった。
「や……だめよ、擽ったいじゃない」
諌めるにしては甘い声を出して身をよじる。触られると弱い場所なのかもしれない。俺は調子に乗って下着の裾からさらに奥へと指を進めた。
「んっ……あっ……」
そこは既にびっしょりと濡れていた。キスと軽い触りあいしかしていないのにこんな状態になっている事を考えると、やけに興奮してしまう。
「もうっ……やめてったら……」
指の腹でふっくらと充血した入り口をなぞると、彼女は俺から逃れるようにソファーのクッションへと倒れこんだ。力が抜けて開いた脚の間から白いレースの下着がちらりと見え、余計に扇情的な眺めになってしまっている。
「脚、上げろよ」
俺に言われるまま脚を上げる。白いレースの下着を脱がせて左右に大きく開かせると、彼女は恥ずかしそうに片手で顔を覆った。
もう我慢ができなかった。深さもあり気持ちが良さそうなそこに硬くなったものを押し入れると、驚くほどスムーズに滑り込んでいった。
若干狭いと感じるものの柔らかく熱い。中をかき回すように動くと、彼女の腰も俺の動きに合わせて吸い付くように蠢く。すぐにでも達してしまいそうな快感に、俺は呻いた。
「ね……構わないからそのまま、出して」
火照った顔で俺を見上げ、甘い言葉を囁く。挿入してからまだいくらも経っていないというのに、俺は言われるまま彼女の中で達した。
「あなたって意外と素直なのね、可愛い……」
満足そうな笑顔で言って。外見に似つかわしくない貪るようなキスをする。濡れた舌が俺の唇を撫で、俺の舌を彼女の中へと誘った。
どくどくと脈打つ俺を彼女の粘膜が断続的に締め付け、再び高めさせようとする。感じやすい両方の粘膜を同時に弄ばれ、俺は二度目の快楽に身を任せる事にした。
ワンピースと下着を脱がせると、白くて大きな乳房が目の前に現れた。弾力があり、つんと上向きに張っている。
「見てるだけ?……触らないの?」
悪戯っぽい笑みを見せ、俺の手を取って誘う。そのまま手を這わせると俺の手で覆っても少し覆いきれないくらいの十分な質量があった。心地よさにたまらず顔を埋めると微かな香水の香りが鼻腔を擽った。
充血してふっくらと起っている先端に舌を這わせる。それだけで過敏に反応する彼女を困らせたくなり、俺はそこを重点的に愛撫する事にした。
おざなりになっているもう片方のそこを指で転がし嬲りながら夢中で吸い付くと、彼女の唇から焦れるような声が漏れた。
「あ、そこ……ダメ…っ…」
顔を見上げると伏せられた目は潤んでいた。見られている事に気付いたのか恥ずかしそうに俺から視線を外し、瞼を閉じる。
羞恥心に苛まれている彼女の姿は、俺を興奮させるには十分すぎた。滑らかなストッキングで包まれたままの脚を左右に開かせ、俺は二度目の挿入を試みた。
しっとりと濡れそぼったそこに押入れるとコーラルピンクの唇から鼻にかかったような声が漏れたが、俺は構わず突き上げた。
先ほどよりも乱暴に扱っているのに、彼女は悦んでさえいる様子だった。俺の名を時折呼びながら小さな手で俺の二の腕を掴み、胸に顔を埋める。
恥らっているようなその素振りとは裏腹に、俺の腰へと脚を絡める。より深くなった結合に俺は身震いした。
「ねえ……もう、私……っ」
「……まだ早いだろ、先生」
抱きつかれ軽く爪を立てられた背中の痛みが今まで眠っていた嗜虐心を呼び覚ましたようだった。小刻みに震える脚の位置がずれ、履いたままのパンプスのヒールがひやりと俺の尻へと触れた。
こんな事なら、勢いでも構わないから適当な理由をつけてあの時に手をつけておくべきだったのかもしれない。あの頃好んで持ち歩いていた雑誌のグラビアガールより、よっぽど魅力的だ。
試してみたのはこれが初めてだったが、口での奉仕の快楽はなかなかのものだった。
俺の起ちあがったそれに丁寧に舌を這わせ、時折俺の様子を見る彼女の姿は可愛らしく思えた。手を使っての愛撫と違い刺激は少ないが、扇情的な奉仕中の光景に、俺は心を躍らせた。
「なんでも飲み込みが早いんだな、先生は……さっき教えたばかりだってのに」
素直すぎる態度に、つい辱めるような事を言ってしまった。パラメディックは言葉を聞いてちらりと俺の様子を伺うように見たが、特に気にする風でもなくそのまま奉仕を続けた。
深く飲み込むと、座っている俺の膝に彼女の胸が押し付けられ、そのまま柔らかく形を変えた。本当に下らない事だが、怪我を負ったばかりのせいで足の感覚がいまいち鈍いのが悔やまれた。本来なら暖かい彼女の体温が伝わってくるはずだ。
「要領の悪い女の方が好みなの?」
俺が教えた事を応用し、咥え込んだままじっくりと吸い上げるようにして根元から先端へと唇を滑らせ、辿りついた場所を舌先でねぶりながら訊く。生意気な口を利く気力はすでに失われていた。
「強いて言えばどちらも好み、かな……」
溜息を吐くように力ない声しか出せない。何度も乱暴に扱ったせいでくしゃくしゃに乱れてしまった赤い髪を手で梳いてやると、彼女は俺自身から手を放し、気持ち良さそうにふっと吐息を漏らした。
そのまま指の甲で柔らかい頬を撫でると、目を閉じた。まるで猫が主人に懐いているようで、つい口元がにやけてしまう。
「それは良かったわ」
どこか恍惚とした顔のまま立ち上がり、俺の肩に両手をついてそのまま体重をかけた。自然とソファーに組み敷かれる体勢になる。
「怪我、つらいでしょう?……まかせて」
俺の体に跨り、治りかけの胸の傷跡にキスをした。彼女の配慮にまかせ、俺は眼を閉じて全身から力を抜いた。
目を閉じると嫌でも他の感覚が研ぎ澄まされる。硬くなったそこに彼女が触れ、導かれて暖かい場所へ辿りつくまでの感触は今までの経験と比べても生々しい感覚として俺の中に残った。
目を開けると、動かない俺の上でゆっくりと揺れる女のシルエットが映った。蠢く腰に手を沿え、滑らかな曲線を描くボディーラインを辿ると微かな嬌声が部屋に響いた。
もう夕暮れだ。レースのカーテンで遮られた柔らかい日差しも夕闇に飲まれつつある。薄暗い部屋のせいなのかはよく分からないが、彼女の行動は次第に大胆になっていった。
唇を引き結び殺していた声を開放し、体を動かして繋がったままのそれを自らの体から引き抜き、腰を落として再び中へと誘う。
普段は冷静な彼女の乱れた息遣いを聞きながら、俺は幾度目かの絶頂を迎えた。
考えてみれば女と一緒にシャワーを浴びるのも久しぶりだった。何度も抱き合ってすっかり汚れた体を清め、濡れたままシーツの間に潜り込むと、パラメディックは俺の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「おい、やめろよ」
「短い髪もなかなか似合うわね。玄関で見たとき、見違えちゃった」
コロンビアでの監禁生活で伸びきっていた髪と髭は、退院した後すぐに整えた。彼女に見せるのは確かに今日が初めてだった。
「休暇中とはいえ、いつまでもだらしない格好だと女性にも呆れられそうだしな」
「休暇中なら、きちんと通院しなさい」
検査と診察をサボった事を思い出したようだ。俺は内心、舌打ちした。
「明日の昼過ぎに予約を入れておくわ。必ず来るように」
「了解」
どうせ買い物に行こうと思っていた。ついでに寄ればいいだろう。返事をして抱き寄せると彼女のうなじからシャワーの後に使ったタルカムパウダーの柔らかい香りがして、なんとも言いがたい満足感が俺の体を満たしていった。
昼間あんなに眠ったのに急に睡魔が襲ってきた。うとうとし始めた俺の髪に彼女がキス落としてくれた気もするが、確かではない。
目覚めると横に彼女はいなかった。
コロンビアで囚われて尋問を受けていた最中、考えていた事はいくつもある。
私的で本当に下らない望みだが、生きて帰れたら好みの女と飽きるほどしようと思っていた事もあった。
神はどこかにいるのかもしれない。一応望みはかなったようだ。
買い物を終えて病院に着いたのは12時すぎだった。大きな総合病院なのでどこに行けばいいのかいつも迷ってしまう。
館内図を見て辿りつくとすぐに看護婦が俺の名を呼んでくれた。通された診察室には見慣れた姿があった。
「こんにちは、キャンベルさん」
「こんにちは、よろしくお願いします」
笑顔を見せてくれたが昨日とは随分態度が違う。冷ややかな視線をレントゲンに向け、俺の脚を触った。
「体の調子はどうですか?」
調子がいいか悪いかなんて、昨夜さんざん確かめたくせに。
「いいですよ。ただ少し、今日に限って体がだるい気がします。腰とか」
「……腎臓の検査結果も正常値なので問題ないと思いますよ。なにか無理でもしたんじゃないですか?不摂生はしないように十分気をつけて下さい」
僅かな沈黙がやけに痛い。彼女の冷静なコメントに、横で準備をしていた看護婦が噴出した。笑いたければ笑えばいいと思いつつも少し恥ずかしくなった。あんたが来いと言ったから来たんじゃないか。つれない態度が憎らしい。
「完治してますね。定期健診が必要なので次は二ヵ月後にでも来てください。忙しいお仕事でしょうから都合のいい時にでも予約を入れて下さい」
さらさらとカルテにペンを走らせ、メモに病院の連絡先番号を書いて俺に渡してくれた。どうやら診察予約を入れる時の番号のようだ。完治していると言われたのは嬉しいが、次に会えるのが二ヵ月後というのは寂しい。
「怪我をきれいに治す為のお薬も後で出しますから、毎日忘れないで飲んで下さいね」
笑顔で話す彼女に、俺は持ってきた書類を渡した。ぎりぎりで思い出してよかった。
「これ、保険と労災の申請に使うのでよろしくお願いします」
渡した書類に目を通し、彼女は頷いた。
「では早めにお渡しした方がいいですね。今日はもう時間がありませんけれど数日中に用意しましょう」
机の引き出しを開け、小さな紙にメモし、俺に手渡した。紙の正体は名刺だった。先ほどの番号とは違う番号が書かれている。
「私の自宅の番号です。病院にはいない事が多いので、書類を取りに来られる日が決まったらこちらに連絡をして下さい」
看護婦が診察室からいなくなったのを確認し、俺は小声で訊いてみた。
「先生、この番号は私事でも連絡してかまいませんか?」
「どうぞ。ただし時々兄が出ると思いますけれど、それでも宜しいですか?」
どうやら一人暮らしではないようだ。少し落胆しつつもそのまま胸ポケットにしまった。なくさないようにしなければ。
「ではまた後日」
「お大事に」
決まりきった挨拶を交わし受付で薬と領収書をもらって外に出ると、もう日が傾き始めていた。でかい病院の手続きは面倒で困る。
駐車場に停めていた車に乗り、貰った名刺を手にとって眺めた。しっかりと彼女の本名の書かれたそれが、今はやけに愛しく感じた。
09 麦畑の真ん中で
もう何度、彼女の姿を見ただろう。
白銀の甲皮を身に纏い腰には紅玉の石が光る剣を携え、しっかりとした足取りで歩く。
その表情の凛としたこと。
ああ、そうだ。
私はこれを手に入れたかった。
やがて近付いてきた女が私の前で傅いた。
皮甲の擦れる音が小さく響く。
彼女は深く叩頭したまま、膝を付いたまま動こうとしない。
地に垂れた髪が泥に濡れるから顔を上げるようにと促しても、一向にその気配を見せなかった。
何度言っても頭を垂れたまま。
随分長い時間そうしているものだからぬかるんだ地面から吸い上げられた汚水が彼女の朝焼けに似た赤の髪に染みこんでいった。
みるみるうちに泥褐色に滲むその異様な光景に私は目を見張った。
妙な胸騒ぎがして女の肩を強く掴んで無理矢理抱えあげた。
女は泣いていた。
声も出さずにただ静かに泣いていた。
噛み締められた唇に赤いものが染みていた。
乾いた唇から発せられる嗚咽にも似たその叫びを私は聞くことが出来ない。
酷く震えた顔立ちに最早彼女の面影は無く、その異形は咽びながら両の手で私の腕を掴んだ。
間髪付かずに突き出された上腕が着物を切り裂き、肉に食い込む。
左肩に激痛が走った。
尋常ではないその痛みに気を取られた一瞬、狂った足元は掴み合った我等を奈落に突き落とす。
新月よりも深い暗闇の中で己の左肩に喰い込む彼女の右腕を見た。
次に顔を上げた時には異形も女も姿は無く、その残骸だけを残して音も無く消えた。
「………上、…主上、いかがされました?」
額に溢れた汗を拭う、その左手。
日々の剣の鍛錬で培われてきたのだろう、小さな傷を幾つも残したいつもと変わらない彼女の手。
「……―――――」
常に無く戦慄いた顔で息を切らす男に女は驚いている様だった。
それを誤魔化すように忙しなく汗を拭う彼女の指から伝わる体温に安堵して男は大きく息を吐いた。
「お加減はよろしいですか?…酷く、うなされていた様ですが…」
上下した息が一しきり落ち着いてようやく男は身を起こした。
彼以上に真っ青な顔をして男の背を擦る女の顔に涙はない。
「…いや、…何でもない…」
女を胸に抱えて、無くなった肩を撫でた。
縋るように抱えて、もう一度息を吐いた。
(06.11.28.update)
もう何度、彼女の姿を見ただろう。
白銀の甲皮を身に纏い腰には紅玉の石が光る剣を携え、しっかりとした足取りで歩く。
その表情の凛としたこと。
ああ、そうだ。
私はこれを手に入れたかった。
やがて近付いてきた女が私の前で傅いた。
皮甲の擦れる音が小さく響く。
彼女は深く叩頭したまま、膝を付いたまま動こうとしない。
地に垂れた髪が泥に濡れるから顔を上げるようにと促しても、一向にその気配を見せなかった。
何度言っても頭を垂れたまま。
随分長い時間そうしているものだからぬかるんだ地面から吸い上げられた汚水が彼女の朝焼けに似た赤の髪に染みこんでいった。
みるみるうちに泥褐色に滲むその異様な光景に私は目を見張った。
妙な胸騒ぎがして女の肩を強く掴んで無理矢理抱えあげた。
女は泣いていた。
声も出さずにただ静かに泣いていた。
噛み締められた唇に赤いものが染みていた。
乾いた唇から発せられる嗚咽にも似たその叫びを私は聞くことが出来ない。
酷く震えた顔立ちに最早彼女の面影は無く、その異形は咽びながら両の手で私の腕を掴んだ。
間髪付かずに突き出された上腕が着物を切り裂き、肉に食い込む。
左肩に激痛が走った。
尋常ではないその痛みに気を取られた一瞬、狂った足元は掴み合った我等を奈落に突き落とす。
新月よりも深い暗闇の中で己の左肩に喰い込む彼女の右腕を見た。
次に顔を上げた時には異形も女も姿は無く、その残骸だけを残して音も無く消えた。
「………上、…主上、いかがされました?」
額に溢れた汗を拭う、その左手。
日々の剣の鍛錬で培われてきたのだろう、小さな傷を幾つも残したいつもと変わらない彼女の手。
「……―――――」
常に無く戦慄いた顔で息を切らす男に女は驚いている様だった。
それを誤魔化すように忙しなく汗を拭う彼女の指から伝わる体温に安堵して男は大きく息を吐いた。
「お加減はよろしいですか?…酷く、うなされていた様ですが…」
上下した息が一しきり落ち着いてようやく男は身を起こした。
彼以上に真っ青な顔をして男の背を擦る女の顔に涙はない。
「…いや、…何でもない…」
女を胸に抱えて、無くなった肩を撫でた。
縋るように抱えて、もう一度息を吐いた。
(06.11.28.update)