神奈川県のとある山の中を、一台のバイクが疾走していた。
空には月が、地上ではバイクのヘッドライトが輝いている。
「なっ、流!」
バイクの後部座席に座るぼろぼろの制服を来た少女が叫ぶ。
「あぁん? 何か言ったか?」
悪路をものともせず、悠々とバイクを操っていた秋葉流が、女の声を聞き付け少し速度を落とした。
「もっとゆっくり走りなさいよ!」
「……ンだよ、かったりぃ。」
「こんな山道で飛ばし過ぎ!」
「オレの運転に文句つけんじゃねぇっての。」
「いいからスピードを落としなさい!」
四つも年下の女にどなりつけられ、流は首を竦めながらも速度を落とす。
「ったくよぉ……おめぇのケツならこれっくらいの振動なんてことねぇだろうがよ。」
「何だと!」
その言葉を聞き付け、女は怒りをあらわにして腰に回していた手を流の首に巻き付けた。
「ぐわっ…ちょ、ちょっとまてこらっ日輪!」
ふらふらと蛇行したバイクは次の瞬間、木の根に乗り上げる。
「うわっ…」
「ちっ!」
二人は抱き合うようにして地面に転がった。
激しい音とともにバイクは横倒しになり、ヘッドライトの明かりが消える。
「………ててて。おい、日輪大丈夫か……?」
関守日輪は、仰向けに寝転んだ男の身体にもたれるようにして意識を失っていた。
「おい、生きてっか?」
軽く頬を叩くと日輪はわずかに呻き、珍しくも流の表情がほっと和らぐ。
しかし、それすらも闇の中の出来事だったが。
「………さて、どうするかねぇ………」
意識のない日輪に乗っかられたまま、流は呟いた。
まさかこの月明かりの中でバイクの修理という訳にもいかない。
日輪は意識を失っている。
それを情けないと責めることはできなかった。いくら獣の槍伝承者候補とはいえ、つい先程まで“囁く者たちの家”で激しい闘いを繰り広げ、足にも深い傷を負っているのだ。
もっとも、それは流も同じだったのだが………
「こんな情けねぇ理由で遭難なんかしたかねぇぞ……」
流は独り呟く。
「仕方ねぇな……」
よっ、と流は日輪の身体をずらして起き上がった。
「これが純じゃなくて良かったぜ。あいつの方が出るとこ出ててグラマーだからな……、ホントはそっちの方がうれしいんだがよ……」
ぶつぶついいながらも軽々と日輪を肩にかつぎ上げる。
「つっ………」
流の傷だらけの両足がみしりと軋んだ。
よろよろと流は山道を下り始める。
眼下に移る街の明かりが、ひどく遠くに感じられた。
嗅いだことのない匂いだった。
何と言えばいいのだろう。
陽に灼けたような……でもそれだけではない匂い。
それは自分にはない異質の匂いだったが、何故か不快ではない。
「………ん………」
日輪の黒く長い睫が上下に瞬いた。
「!」
次の瞬間、日輪はがばっと起き上がり辺りを見回す。
独りで寝るには大きすぎるベットの中央に彼女はいた。辺りの内装やベットのシーツはあまりにも趣味が悪い。
すぐ隣には流が正体もなく眠っている。この状況で女が心配する事はひとつしかなかった。
「なっ………流ぇぇ!!」
日輪は叫んだ。
その声にぱち、と流が目を開く。
「起きろっ、この馬鹿!」
首根っこをつかんで引き起こそうとする彼女を、鋭い視線が捕らえた。
「うるせぇ。」
一瞬。関守日輪ともあろうものがその眼に呑まれた。だが、臆した自分を隠すようにさらに声を上げる。
「説明しなさいよっ、流! これは一体っ……」
「ヤられたかどうかぐらい、自分で分かンだろうが。
オレは眠ぃンだ。……分かったな。」
静かな、だが凄みのある声にとうとう日輪は押し黙った。流は眼を閉じる。すぐに軽い寝息が戻ってきた。
「…………………」
取り残された彼女は、しばらく放心したかのように黙っていた。落ち着いてくると、少しずつそれまでの事を思い出す。 流のバイクの後ろに乗った事、あまりにも乱暴な運転に文句をつけた事、からかわれてついカッときた事、バイクから投げ出された事……それから。
それから……気が付いたらこのベットの中だった。
一体ここまで、誰が運んで来たのか。
答えはひとつしか無かった筈だが、彼女はそれをためらった。怪我をしているのだ。それも足に。
「………流……」
流は眠っている。
どうしたら良いのだろう。
日輪は迷ったが、どうする事もできなかった。流をこのまま静かに眠らせてやるのが一番なのだから。
だから、彼女は仕方なく身を再びベットに横たえた。
…と、ほどなく流が寝返りをうった。
「!」
流の腕が、日輪の肩を抱くように回される。
普段なら撥ね除けて文句のひとつも……いや、蹴りのひとつも放っているところなのだが。
そうもいかずに、彼女は身体を堅くしている。
せめて腕だけは何とかしようと、そっと男の腕に手を添え、押しのけようとした。
だが、その腕は重たい。
鍛えられた筋肉が、鋼のように堅い。だが、血の通ったそれは暖かくもあった。
日輪の身体も鍛えられてはいる。だがそれとはまったく異質の腕なのだ。
(…………)
彼女は流を見た。眠っているその顔は普段よりも幼い感じすらするというのに。
そして、ふと気が付いた。
あの匂いは、流のそれだという事に。
髪を撫でつけるグリースと、煙草と、バイクのオイル…そんなものが交じり合って、男の陽に灼けた腕に、その逞しい胸に染み付いているのだ。
日輪は息を呑んだ。
何故か分からない。
胸がドキドキと激しく脈打つ。
……とてもじゃないが、眠れそうになかった。
それでもいつしか、疲れ果てていた彼女は再びまどろみの中にいた。
どこか遠くで、シャワーの水音が聞こえる。ぼんやりと眼を開くと、眩しい光が厚いカーテンの透き間から入って来た。 流の姿はない。
しばらくしてシャワーの水音が止まった。
「お、起きたか。」
腰にタオルを巻き付けただけで現れた男の姿に、彼女は赤面した。
「馬鹿っ、服ぐらい着ろ!」
「へーへー、お前にゃ刺激が強かったかね……」
「そういう問題じゃない!」
日輪は赤い顔をごまかすようにまた怒鳴りつけた。
仕方なく流が、壁に手をつき足を引きずりながらも浴室に戻った。ほどなく、ぼろぼろのズボンにランニングといういで立ちで再び現れる。
日輪はまだ少し文句をつけたい気分だったが、それ以上は何も言わなかった。流が足を引きずっているせいかもしれない。
「よぉ、お前もシャワー浴びてきたらどうだ。眼が覚めるぜ。」
ベットに腰掛け、煙草をくわえる流。いつもオールバックにしている髪が水に濡れてぼさぼさになっていた。
「あ、ああ……」
日輪はどこか少し上の空だった。
「街まで歩くにゃ、もうちっと時間が欲しいしな。」
流の言葉を日輪が聞きとがめる。
「歩く? それより本山に連絡を取ってヘリを回してもらえばいい。」
「そりゃ、その方が楽だけどよ。お前……いいのか?」
「何か困るような………」
事でもあるのか、と言いかけた彼女の言葉が途切れた。
ヘリを回すとなれば、必然的に流と二人っきりでこのホテルにいた事が知られてしまう。
いくら身にやましい事がないとはいえ、さすがに日輪としてはためらってしかるべき状況だ。
「…………な、素直に街まで歩くだろ?」
流の言葉に、渋々同意するしか手がない。
「仕方ないわね……」
「へ。元はと言えばこんな事になったのは誰のせいでしたかねってんだ。」
「流が安全運転しないからに決まってるじゃない。」
「日輪ぁ、お前なぁ………」
「さらに元をたどれば、蒼月の馬鹿が獣の槍をキリオに奪われたりしなければ……」
「へーへー。その通りだよ。」
流は諦めたようなため息と共に、短くなった煙草を近くの灰皿に押し付けた。
「流。」
「ん?」
二本目の煙草をくわえ、愛用のジッポをポケットから探りだしながら、流が振り返った。
「………悪かったわ。」
日輪が頭を下げる。
流の口からぽとりと煙草が落ちた。
「………」
ヒュウ、と感嘆の口笛が鳴った。
「おい、何かヘンなモンでも食ったんじゃねぇのか。」
「なんだと!」
日輪が流につかみ掛かかる。
「人が真面目に謝っているのに、お前って男は!」
「痛てっ、分かった分かった! 寄せって日輪!」
「まったく…………」
子供のように怒った日輪は、ようやく拳を降ろした。
流は落とした煙草を拾い上げ、今度こそそれに火を灯す。
不意に静けさが辺りを覆った。
流は煙草を吸って特に言葉もないのだが、日輪は手持ち無沙汰で仕方ない。
こんな所に二人きりというのも、どうにも居心地が悪い。
「い、今何時?」
思い立って、彼女は時計を探す。だが、それらしい壁に時計の姿が見当たらない。ふと日輪の眼に部屋の隅のTVが映った。
時間を見ようと、リモコンに手を伸ばす。
「あ、おい…」
「!」
だが、TVの画像が線を結んだ途端、日輪はあわてて画面を切った。
彼女の顔が真っ赤になっている。
一瞬だけ映った画面には裸の男女が絡み合っていたのだ。
「そりゃ、こーゆー所だからなぁ……」
流がにやにや笑いながら、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「お前、見た事ねぇの?」
「そんなもの、ある訳がない!」
日輪の見幕がどうにも堪えきれず、流がくくっと喉の奥から楽しそうな笑い声をあげる。
「可愛いねぇ……」
「なに?」
他愛もないその言葉に、日輪の眼が鋭く尖った。
「可愛い…? 女だと思って馬鹿にしたら承知しないわ!」
流は怒りをあらわにしている女をまじまじと見つめる。
「………“可愛い”ってのは、褒め言葉だぜ。少なくとも馬鹿にはしてねぇぞ。前から思ってたけどよ……日輪、お前はなんでそんなに女を嫌がンのかねぇ。」
「決まってる! 世の中が女に不公平だからよ。流だって知ってるじゃない、私が伝承者候補になった時、“女だから”というだけでどれだけ反対されたか!」
「そりゃそうだけどよ。…………オレは女の方が得だと思うんだがなぁ。」
激しく憤る彼女を尻目に流はごろりとベットに寝転んだ。
「一体何が!」
「何って……レディースデーとかって、女だけの割引やら特典って多くねえか?男の特典なんざ聞いた事がねぇのによ。」
「馬鹿! そんな低次元の事……」
「それともうひとつ。これはホント不公平だと思うんだがな。」
「?」
「セックス。」
「!」
日輪は顔を真っ赤にして、流の頭の下にあった枕を凄まじい勢いで引き抜き、それを顔に叩きつけた。
「……おまえなぁ…」
流はため息をつき、何事も無かったように枕を再びあるべき位置に戻す。殴られたといえども、もともとが柔らかい枕。ダメージはほとんど無かった。
「ホントに不公平だと思わねぇ?」
日輪はキツイ眼差しで流を睨みつけている。
「男が必死こいて口説いて、頑張って励んでよ。そりゃ、
こっちだって良くねぇとは言わねぇが……どーも女の方が良さそうだよなぁ。」
「知るか!」
怒鳴っても睨んでも変わらない流の態度に、彼女はとうとう顔を背けた。
「ホント……可愛いねぇ、お前……」
くくくっ、と流が笑う。
日輪は相手をせずに顔を背けたまま、しかしぼそりと呟いた。
「……馬鹿にされてるようにしか思えない。」
「してねぇって。ま、ガキ扱いはしてるけどなぁ。」
「何だと!」
振り向きざまに繰り出された拳を、流は寝転んだまま軽く受け止める。
「くっ……」
日輪は拳を引こうとするが、その手首は男に捕まれ、思うように動かせない。
「道理も知らねぇ小学生のガキが、男に生まれたかったって駄々こねてるようにしか見えねぇよ。」
「うるさいっ! 離せ!!」
彼女は力任せに、手を振りほどこうとあがいた。
「離せっ……」
だが、渾身の力を込めても。
日輪は歯を食いしばる。
「離せっ……」
「………お前、泣いてんのか?」
俯いた彼女の眼に涙が滲んでいた。
「泣いてなんかいない!」
日輪はくやしかった。流の手を振りほどけない事よりも、その言葉に図星をさされて苛立っている自分自身が嫌だった。
-駄々をこねているようにしか……
違う、違う、違う!
日輪は心の中で叫んでいた。
しかし、彼女の頬を涙が伝う。
………否定する事が間違いなのだと、その涙が言うのだ。
「おい、日輪……」
「離せ!!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、日輪は叫ぶ。
流の手が力を失い、彼女は両手で顔を覆った。
ずきずきと痛む手首が、哀しい。
分かっている、分かっている。
日輪は心の中で繰り返す、この涙を止めようと。
どれだけ子供じみた欲求か、なんてことぐらい。
……でも。
それでも男に生まれたかったと思う、この心をどう しろと。
……どうしろと言うのだ。
彼女の心の中を土足で踏み荒らした流は、困ったような眼で日輪を見つめている。
と、流が腕を伸ばし、彼女の身体を引き寄せた。
「泣くなよ。」
耳元で、はじめて聞く流の優しい声。
「……ない」
「ん?」
「泣いてなんか、ない。」
その肩に顔を埋め、日輪は涙声で尚も言い張った。
「………お前、ホント……」
骨張った男の大きな手のひらが、女の濡れた頬を撫でる。まるで熱をもったかのように暖かい流の手が、彼女の顔を導いた。
「可愛い、女だよな……」
囁くような甘い言葉と共に、ゆっくりと触れてきた流の口唇は、手のひらと同じように暖かい。
「な、が……」
グリースと、煙草と、バイクのオイルと、陽に灼けた……男の匂い。
それが、日輪を包み込んだ。
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