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うろほろぞ
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 目を閉じて。闇の中、見えない人の影を追う。
 重ねる祈りが、彼女に届くようにと。

 結局、メリルとミリィは、ヴァッシュとウルフウッドに付いてきている。
 一度干物にされかけたこともあってか、ヴァッシュもウルフウッドも強いて引き離すようなマネはしなかった。目の届く範囲に置いて危害を加えられないよう監視する方が、むしろ安全だということで、二人の考えが一致したからである。
 大抵は宿で夜を過ごしたが、町と町との距離が空いているところでは、四人揃って野営することもあった。
 大抵は男二人が交替で火の番と見張りをして、夜を過ごした。

 毛布にくるまって眠るメリルが、身じろいだ。
 眠り込んでしまわない程度にぼんやりと炎を見つめたヴァッシュ容易にそれに気付いた。
 彼女の方を見やると、細い肩が毛布からはみ出ているのがわかった。
 砂漠の冷え込みは激しい。毛布をかけ直してやろうと、ヴァッシュは立ち上がる。
 細いうなじ。艶やかな黒髪。年相応の女性の持つやわらかな容貌。
 伸ばしかけた指が触れる寸前、メリルが目を覚ました。
「ヴァッシュさん…?」
「あ、ああ。肩がはみ出ていたから…」
「ありがとうございま…」
 紅い唇から漏れた眠気にかすれる声は、彼女が再び夢の世界に舞い戻るのと同時に、消え去ってしまう。
 見られていない。いつものように、笑えたはず。
 健やかな寝息を立てるメリルに触れないように毛布を掛け、ヴァッシュはため息をつく。
 やさしく、ふれて。大丈夫だと、囁きたいのに。
 もう一度、頬に手を伸ばすが、ふれる寸前で指を止めてしまう。
 彼女が、銃爪を引くことの出来る強い女性だと、知っている。
 だけど、汚したくはない。幾人もの命を奪った、この手で……
 ヴァッシュは、黙って最初の位置に戻り、座った。

 目を閉じて。彼女の、姿を追う。
 微笑んでいられるようにと。ただ、祈り続けて…

end.

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  いつの日にか、もう一度あなたにめぐり会える日がくる

 この想いが 続く限り必ず・・・

 

 あなたの背を遠くに見て、その軌跡をたどりめぐり会い、時間を共有し、あの日その背を見送った。そして、再びあなたの背を見つめながら軌跡をたどる。靴後をたどっている。

 残した足跡は一本の道となり、そのわきに花を咲かせていた。美しい花が咲いていた。

 それを目印に、わたしはあなたの後を追った。あなたの花の隣に、自分の花の種をまきながら。

 種子は涙の雨にうたれ、いつしか芽吹くだろう。やさしさの息吹を葉に受けて、心地よい暖かさに触れて育ち、空からの恵みの日差しを浴び、つぼみをつけて花を咲かせるだろう。あなたの花とともに、そこに咲き誇るだろう。

 二つ並んだ花を見て、わたしはそっと微笑むに違いない。あなたとの出会いを誇るに違いない。

 わたしがその背に追いついた時、あなたの隣でその花たちを見ようと思う。わたしと一緒に微笑むあなたが見たいから、わたしは歩くことをやめない。やめはしない。

 花は枯れても種を残し、大地に落ちてまた芽吹く。あなたに続いている花たちに、わたしの花を重ねていく。この想いは消えない。花がまた咲くように。

 

  二つ並んだ花を見て、あなたは微笑んでこう言った。

 「どの花よりも、君の方がきれいだよ」

 

    ・・・・何をたくらんでますの?

 

 「人聞きが悪いなあ、本当のことなのに」

 怪訝な表情の君に言う。あ、その目は、疑っている目だ。信用がないなあ、ほんと。

 でも、信じてよ。うそじゃないんだから。

 こんなこと、簡単に言える性格じゃないって事は、君がよく知ってるはずだよ。

 君だから言ってるのに・・・・。

 

 この花たちは絶えることなく、この大地に咲き誇るだろう。この想いが消えない限り、また芽吹き種を残す。僕の想いをつなげていく。君への想いを募らせる。

 二人の時をたどりながら、並んだ花の横に、また僕は種をまく。新しい種を、ひとりまいていく。君の姿を想い描きながら、僕と君の種をまいていく。ひとつ、またひとつと。

 もう一度、君の微笑む顔が見たいから、僕は歩き続ける。立ち止まることなく、この道を歩いている。

 君の涙の雨は、もう降らない。降り注ぐのは、星の雨。君の息吹が大地を駆け抜けて、葉を揺らし心地よさを運ぶ。僕に、君の風が吹く。日差しは君の笑顔だろうか。目を細め、微笑むよいうに僕は空を見上げた。柔らかくやさしい君の笑顔を、青く高く澄んだ空に重ねた、ある午後の日。

  いつしか、この星は花で埋め尽くされるだろう。僕と君の花で、星はいっぱいになるだろう。そうしたら、もう一度・・・・・。

 

 

   そこから、この花たちは見えるかい?君と僕の花たちが見えているかい?

          僕の想いは届いているかい・・・・・?

vm


  ひとときの休息

長山ゆう様        

 メリルは深い溜息をついた。
 ──仕方のないことですもの。
 心の中で呟いて、目を閉じた彼女は軽く頭を振る。短い黒髪が揺れ、イヤリングが小さく音を立てた。
 深呼吸を一回。
 顔を上げて、目を開く。…もう、いつも通りだ。
「さてと、次の仕事に…」
「あ、保険屋さーん!」
 ぴくり、とメリルの肩が動く。
 応じるべきか否かを迷ったものの、知らんぷりをしては相手に悪いと思い直し、メリルは振り向いた。
 近づいてくるのは、赤いコートを着た背の高い金髪の青年だ。にこにこと笑っている。
「何かご用ですの?ヴァッシュさん」
「うん。いやぁ、いっつも僕の側にいてくれるのに、いざ君に話をしようとしたらいないんだよね。その辺捜しちゃった」
 屈託のない笑顔は、とても幸せそうで。
 …何となく、彼に応じてしまった自分に後悔してしまう。
 せめて今でなければ、もっときちんと挨拶出来ただろうに。
「それは失礼いたしました。急用がありましたから…。あら、ミリィは?」
「ウルフウッドに預けてきた」
「は!?」
 さらりと返されたヴァッシュの言葉に、思わずメリルが声を上げる。
「いや、ホラ、だって僕は君を捜してたワケだし、彼女がいなくても君といれば見張ることはできるわけで…」
 言葉がまずかったと気づいたらしく、ヴァッシュはしどろもどろで言い訳を始めた。
 メリルはまなじりをつり上げていたが、肩をすくめてきびすを返す。
「…わかりましたわ。とにかく二人の所へ参りましょう」
 だが、三歩進んだところでメリルは立ち止まった。
 彼女の華奢な肩を、ヴァッシュがつかんだのだ。
「悪いんだけど、ちょっとつきあってくれないかな?」
 反論する間もあらばこそ。
 にっこりと笑いながら、半ば強引にヴァッシュは彼女を連れて駆け出した。

 たどり着いたのは街外れ。見晴らしの良い高台の上だ。
「い、一体、どう…なさい、まし、た、の?」
 街の中から駆け通しだったため、メリルはすっかり息が上がっていた。
 しかし、あの程度で息を乱すはずもなく、ヴァッシュは平然と空を見上げている。
 そして、傍らの彼女に視線の先を転じた。
「見せたいものがあるんだ。でも、もう少しかかりそうだから、ここで待ってよう」
 いつもと変わらない笑みを向けられて、メリルは何故か苛立ちを感じてしまう。
「…あのですね、私、ヒマじゃありませんのよ」
「でも君の仕事は僕の見張りでしょ?…一人にしてもいいのかなぁ」
「~~~~っ!!」
 いつになく強気なヴァッシュに抗議しようとしたメリルだったが、彼の瞳を見ているうちに、その気力が失せた。
 軽く溜息をついて、ヴァッシュから目をそらすと、街からこの高台へと続く道が視界に入った。つい先程、彼と駆けてきた道である。
 そして、その向こうに街が見えた。
 先程の会社とのやりとりを思い出し、ふとメリルの瞳が翳る。
 そこへ脳天気な声が飛んできた。
「せっかくだから、座らない?ぼーっと待ってるのも何だしさ」
 この言葉にかちんと来たものの、咄嗟に反論が浮かんでこない。
 結局、メリルは不機嫌な表情のまま、ヴァッシュの隣に腰を下ろした。
 乾いた風が頬をなでる。
 ──何をやってるのかしら、私。
 まだやりかけの仕事が残っている。本社へ提出した書類に追加で送らなくてはならない資料作りが待っているのだ。ミリィ一人に任せられるものではないし、第一これは彼女が担当している仕事だった。一刻も早く終わらせてしまいたいのである。
 ぽん、と左の肩を叩かれ、メリルはそちらに目をやった。ヴァッシュが座っている逆サイドだが、反射的に叩かれた方を振り向いてしまったのだ。
 案の定、左肩にはヴァッシュの手が置かれている。
 何のつもりか尋ねようとしたメリルの瞳が、彼の手の向こうに映る景色を捉えた。
 先程は気づかなかったが、風に乗って、かすかに街のざわめきが耳に届く。
 いや、恐らく、最初から聞こえていたのだろう。ただ、彼女自身が気づいていなかっただけで。
 メリルは視線を戻してみた。すると、何故か、今まで見ていた風景が、ほんの少しだけ変わったような気がしたのである。
 珍しく、地面に座っているせいだろうか。
「いつも立ってるばかりじゃ疲れるだろ?たまには休まなきゃ」
 タイミングのいい言葉に、思わずメリルは隣の青年を見上げた。
 彼女と並んで腰を下ろしていたヴァッシュが、小さく微笑みかけている。
 そうかもしれないと思いながらも、メリルは正反対のことを口にした。
「仕事が忙しくてゆっくりしている暇がありませんもの」
「手厳しいなぁ」
 苦笑する青年は、どこにでもいるような、お人好しの優しい人にしか見えない。
 …けれど、彼が人間台風と呼ばれている事は紛れもない事実である。
 ──どうしてなのかしら。
 不意に、この仕事についてから、幾度となく抱いた思いが頭をもたげる。
 確かにヴァッシュは根っからのトラブルメーカーで、彼の巻き起こす騒動や被害は尋常なものではない。
 そして、噂は常に尾ヒレをつけて、星中を駆けめぐる。
 …本当は、ただ、不器用なだけの人なのに。
「保険屋さん?」
 こうしてふざけていると、彼の不名誉なあだなすら忘れてしまいそうになるほどで。
「おーい、もしもし?」
「え!?」
 ヴァッシュの顔が大写しになり、目の前で大きな手が左右に振られると、ようやくメリルは我に返った。
 同時に、飛び跳ねるようにして後退る。
「ななな何ですの!?」
 声を上げてから、メリルは慌てて右手で口を覆った。
 自分の声の大きさに驚いたのもさることながら、熱を持ってしまった頬を隠したかったのだ。
 今の声自体、上擦っていた気がする。
 内心焦るメリルをよそに、ヴァッシュはにこりと笑いかけた。
「いや、さっきからぼーっとしてたから。どうしたのかと思ったよ」
「そ、それは失礼いたしました」
 ばたばたと居住まいを正す彼女をどこか楽しそうに見ていたヴァッシュが、突然背後を振り向いた。
 そして、メリルの腕を引く。
「あっち、見て」
 メリルが何かを口にするより先に、ヴァッシュが囁いた。
 つられて彼女はその視線を追う。と。
 一面に、夕焼けが広がっていた。
 黄色、橙、赤、赤紫…。
 色彩の見事なグラデーションに、メリルは目を奪われた。
「…綺麗…」
 思わず呟く。
 こんな風に、夕焼けを意識して見たのはいつのことだったろう。
 仕事に就いて、せわしない毎日を送り、それなりに充実していたが、自分自身にやや疲労も感じていた事に、気づく。
 いつだったろうか、メリルが就職して独り暮らしを始める前、家族がまだひとつの家で暮らしていた頃。旅先で、このような鮮やかな夕焼けを見たような気がする。
 遮るものが何もない、一面の空に広がる夕焼けを。
 ビルに囲まれた街並みのディセムバでは、決して見られないであろうもの、だ。
「…旅をしてるとね、時々信じられないくらい綺麗な空を見るんだよ」
 傍らの声に、メリルはヴァッシュを見やった。
 彼は夕焼けを見つめている。赤く照らされた横顔は、懐かしそうな表情を浮かべていた。
「そのたびにね、思うんだ。この星も捨てたものじゃないよね、って」
 ふと、ヴァッシュはメリルに視線を転じ、やわらかく微笑む。
「たまには、こういうのもいいんじゃない?」
 突然、メリルはヴァッシュの意図に気づいた。
 街で落ち込んでいた自分の姿を見かけた彼が、さりげなく励ましてくれたのだということに。
 思わずメリルは俯いた。
 頬が赤く染まっているのが自分でもわかる。だが、それだけではない。
 …涙が、あふれそうになったのだ。
 何か返事をしなければ、変に思われるだろう。
 メリルが俯いたまま言葉を探していた、その時。
 ふと視界が陰った。
 そして、不審に思う間もなく、メリルの華奢な身体はヴァッシュの腕の中に収まっていたのである。
 ただでさえ、感情が高ぶっているというのに、メリルの頭は更に混乱した。
「ヴァ…ヴァ…ヴァッシュさん、あの…」
 涙声になってしまうのを恥ずかしがっている余裕などありはしない。
 言葉にならない声で、それでもメリルは何とか喋ろうとしたのだが。
「…静かに」
 この一言で、何も言えなくなった。
「ちょっとだけ、このままでいてみない?僕はここにいるだけだから、騒ぎも起きないはずだしね」
 そして、ヴァッシュはメリルの背を軽く叩いた。子供をあやすように。
 メリルはヴァッシュの腕の中で困惑する。これ以上このままでいられたら、涙腺がゆるんでしまいそうで。
「肩の力を抜いてごらん」
「…あの、だから…っ」
「我慢しないで、ね」
 やさしい声音がメリルの耳朶を打つ。思わずメリルの頬を一筋の涙が伝い落ちた。
「ご、ごめんなさい。ヴァッシュさん、あの…」
「大丈夫。…夕焼けの間の出来事は、二人だけの秘密にしよう」
 この涙は、きっとこの人が優しすぎるから、勝手に流れてしまうのだ、と。
 そう思いつつも、後から後から頬を流れる涙に、いつしかメリルは何も考えず、子供のようにただ泣きじゃくっていた。

「…すみませんでした」
 メリルの涙が収まる頃には、辺りはとっぷりと日が暮れてしまっていた。二つの月に照らされる中、彼女はヴァッシュから身を離すや、謝罪する。
 しかし、ヴァッシュはにっこりと笑っていた。
「何のこと?」
「ですから、あの…」
「綺麗な夕焼けだったよね。遅くなったから二人とも心配してるかなぁ」
「あ!」
 メリルは我に返った。すぐ戻るつもりだったのに、かれこれ一時間は経っている。
「じゃ、そろそろ戻ろうか?」
「そうですわね。急ぎましょう!」
 二人は肩を並べたまま、小走りに歩き出す。
 しばらく黙っていたが、不意にメリルは口を開いた。
「ヴァッシュさん」
「何?」
「──ありがとうございます」
 小さな声だったが、それははっきりとヴァッシュの耳に届いたらしい。
 彼はメリルの肩を軽く叩く。
 メリルはまたもや頬が上気するのを感じたが、同時に心の中に優しい暖かさを感じていた。
 
vv


私は私と、はぐれる訳にはいかないから
いつかまた逢いましょう。
その日までサヨナラ恋心よ。


落とした照明。薄明かりの部屋。
「どうせだったら最後まで騙して欲しいわ」
裸の胸にシーツを掻き寄せて彼女は呟いた。
何も言わず苦笑したヴァッシュを、そっと上目遣いに睨む。
「騙すも何もないじゃない。君は訊いた事ない、ボクについて」
「あら。訊いて欲しいんですの?」
「そういう訳じゃないよ、でも」
「って事は。今までの女はみーんな根掘り葉掘り訊いたんですね。で、騙した、と」
逞しい腕にそっと頬を預け、メリルは傷だらけの胸に掌を這わせる。
言葉に詰まった男は枕に頭を預け、投げやりに薄暗い天井を仰ぐ。
「だって、そんなの、馬鹿馬鹿しいじゃありませんか」
「何が」
「嘘だと分かっていながら訊く事も。嘘が嫌いな人に言わせる事も」
「…ボクは別に」
「馬鹿馬鹿しいですわ」


嘘をつくくらいなら、何も話してくれなくていい
あなたは去っていくの、それだけは分かっているから


「ボクは君が好きだよ」
にこにこと笑った頬を思い切り容赦なく抓ってやる。
「痛い!」
「そんなありきたりの台詞。何人に言ったのか、知りたいものですわ」
ぷいと顔を背け、メリルはベッドの脇に腰掛けた。床に落ちた服と下着を摘み上げる。裸の背中を後ろから抱き締められて、わざと意地悪く身を捩った。
「…誰にだって言ってなんかないよ。ちゃんと選んでる」
「それでフォローしているおつもり?」
「少なくとも君が想像しているよりは少ない筈だしっ」
間髪入れず、がぶりと太い手首に噛み付いてやる。
腕が怯んで緩んだ隙に、服を抱え、シーツを巻き付けた裸身のままするりと抜け出して立ち上がった。振り返って、ベッドの上の情けない顔に舌を出す。
「博愛主義者」
「はは…」
困った様に笑い、乱れた金髪をぼりぼりやるヴァッシュにようやく溜飲が下がる。
「シャワーから出るまでに、私のためだけの口説き文句を考えておいて下さい」
共犯者の笑みを見せて、メリルはシャワー室の曇り硝子のドアを押し開けた。


見つめ合った私は、可愛い女じゃなかったね。
せめて最後は笑顔で、飾らせて。


「センパイ!?」
「…」
「先輩ったらぁ!!」
大声と共に肩を叩かれ、メリルは飛び上がった。
「は、はい?どうしたのミリィ」
「お茶っお茶!零れてます!」
「…ッ!?きゃああ!」
はっと我に返り、手にしたポットを慌てて持ち上げたが、時既に遅しである。部長のティーカップに熱い紅茶を注いでいた「筈」が。もうもうとした湯気とむせるような紅茶の匂い。下に敷いたお盆だけでなく、給湯室の流し台全域に渡って見事な茶色の大洪水ができあがっていた。
「嘘ー!」
無言でずいと右から差し出された台布巾で、とにかく拭こうと抑える。途端に熱い紅茶が布に染みて手が熱くなり、また悲鳴を上げた。
「あ、熱っ…!」
「ちょっとセンパイっ!何やってるんですかもう!」
ミリィは慌ててメリルの両手首を掴んで流しに引っぱり、蛇口を全開にひねった。袖口が濡れるのも構わずに、とにかく迸る水道の下に赤くなった小さな掌を引きずり込む。
「普通こういうのは水で濡らしてから拭くじゃないですか~もう…」
「あ、ははは。つい焦ってしまって。失敗失敗」
「この紅茶洪水も、ですか?」
ミリィは静かに溜息をつく。見れば紅茶は床のタイルも少々浸食していた。横の戸棚から濡れ雑巾を取り出す。
「部長が一体いつまで紅茶を淹れてるのかですって。驚きました。何ですかぁコレは」
メリルの少し斜め後ろにしゃがみ込み、手にした濡れ雑巾でタイルを軽く拭く。
「あっミリィ、私が拭きますわ」
「いいんです。先輩は手を冷やしてて下さい」
慌てて振り返り手を出そうとしたメリルを、上目遣いに睨む。
「…ありがと」
メリルは大きな目を伏せてうなだれた。狭い給湯室に、蛇口から流れる盛大な水音だけが響き渡る。
一通り適当に拭き、ミリィはよいしょと掛け声をかけて立ち上がった。殊更元気に言う。
「さてとっ先輩!そろそろ手は」
「駄目ですわね私も」
突然はっきりと、明るい声でメリルが遮った。ミリィは、まだ蛇口の下に手を差し出している細い背中を見つめた。
「分かってるでしょ?ミリィ」
「…」
「男が一人居なくなったくらいでこの始末ですわ。笑っちゃうわね」
「そんな」
「情けない女ですわ。ふふ、そう思いませんこと?」
声と裏腹に震える女性らしい華奢な肩。その繊細なラインをミリィが羨んだ事は、一度や二度ではない。
この肩を優しく抱いたあの男は一ヶ月前に消えた。
月の一つに悪夢の様な大穴を残して。
「だからきっとあの人もね。こんな情けない私なんかに話す事なんか何も」
「…先輩」
「いえ、違いますわね。私が訊かなかっただけ。つまらない見栄なんて張って」
「止めて下さい」
「こんな事になるなら。もっと素直に」
「先輩っ!」
ミリィは堪らずに涙を零し、細い肩を後ろから抱いた。
「もういいです!止めて下さい!お願いですから」
この背中を支える役目は自分ではないのは分かっているけれど。
「嫌ね」
静かに微笑んでメリルは目を閉じた。肩に回された優しい手にそっと体を預ける。
閉じた長い睫毛の目尻から一筋、透明な滴が白い頬に滑り落ちた。
「私まで…泣けてしまうじゃありませんか」
悲しみのように迸り、手を濡らす冷水は、指先の感覚をとうに奪っていた。


涙が悲しみを溶かして、溢れるものだとしたら
その滴ももう一度飲み干してしまいたい。
凛とした痛み胸に、とどまり続ける限り
あなたを忘れずにいられるでしょう


「忘れない限り。いつかきっとまた。逢えますわ」
「…え?」
「そんな気がするんですのよ。きっといつも通り、やぁなんて笑って出てくるに決まってるんですわ!」
「…あ。あはは」
「ね?ミリィ」
「…勿論ですよ!だって、あの人ですからね!!」
涙に濡れた顔を見交わして、ミリィとメリルは声を立てて笑った。
「だからね…忘れてなんかやらないの。その日までね」
「はい!!」




許してね、恋心よ
甘い夢は波にさらわれたの
いつかまた逢いましょう。
その日までサヨナラ恋心よ









サウダージ

北野ひ~様

郷愁、というには生々しい彼の記憶。

「どうしてあなたはそうやって自分からトラブルに突っ込んでいくんですの!」
真剣に怒気を含んだ瞳に睨まれて、ヴァッシュは思わず一歩下がる。
「そ、そりゃあその…見ていられないじゃない」
メリルはずい、と一歩前に出る。ヴァッシュの胸倉を掴まん勢いで、
「だからって!こうやって、傷だらけになって!痛い思いして!それでいいの!?」
「よくはないよぅ」
「じゃあ!」
「だって悲しいじゃない。誰かが傷つくの」
ばちん、と派手な音が部屋に響き渡った。ヴァッシュの右頬にメリルの全身全霊を込めたクリティカル・びんたが炸裂である。
「…い、痛~~~っ!」
一瞬よろけたヴァッシュはぶたれた頬を押さえ、涙目でしゃがみこんだ。
「ちょっと酷いじゃないか!今とびきり痛い思いしたぞ!?」
「もうあなたみたいな馬鹿知りませんわ!」
激しい怒りに任せてぷいっと背中を向け、ドアに向かって勢い良く歩き出す。苛立つ。むかつく。冷静でなんて居られない。
「勝手になさい!そうやって何でもかんでも…ッ」
後ろからやんわり抱き締められて、足は勝手に止まってしまった。
ぎゅっと、押し付けるのではなく包み込むように、抱かれる。
「…」
「分かってるよ。心配してくれてるんでしょ?」
耳元で囁かれ、観念して目を閉じた。
「ごめんね」
「謝罪なんかこれっぽっちもいりませんわ!」
「ありがとう」
「感謝は尚更お断り」
「好きだよ」
「よし」
照れ隠しに、勢い良く背中を厚い胸にもたせかける。この程度ではびくともしてくれない逞しい体は、彼が今迄に味わった辛酸が全て刻まれている。
(誰よりも痛い思いをしている癖に)
それでもまだ。
(行くというの?)
「…これっぽっちも分かりませんわ。あなたの考えなんて」
溜息混じりに心底呟くと、冷たい金属の掌が優しく髪を撫でてくれた。
「君になるべく笑ってて貰いたいって考えてるよ」
「…好きな人が傷つくのを笑う女が居るとお思い?」
「好きな女を守れなくて嬉しい男も、なかなか居ないんだよねぇ」
「守ってくれなんて誰も頼んでませんわよ」
優しく苦笑する声が好きだと気が付いたのは、確か出逢ってすぐだった。
「そうだね。じゃあ、次からは一緒に逃げようね。ぴゅ~って」
そんな事できない癖に、という呟きは降りてきたキスに塞がれた。

時を重ねるごとに、ひとつずつあなたを知っていて
さらに時を重ねて、ひとつずつ分からなくなって
愛が消えていくのを、夕日に例えてみたりして
そこに確かに残る      郷愁

着いた街は、うら寂れた小さな田舎だった。
「…そんな事訊いて、あんた達一体どうしようってんだい?」
愛想の良かった雑貨屋の亭主は、「ヴァッシュ」の名前を聞いた途端に酷く嫌そうな眼差しを向けた。
「ですから、ちょっと」
「知りたくもないね疫病神の事なんか。こっちから願い下げだ」
「…そういう言い方はないんじゃありませんか?」
ついかっとなってメリルは叫ぶ。そんなメリルに中年の亭主は、肩を竦めて苦笑した。
「あの『月に穴をあけた男』だろ?知らないね。そんな赤いコートもトンガリ頭も。俺はこの街ずっとだけど、一度も見た事ねぇよ」
「そうですか」
メリルは軽く溜息をつく。8番目の街、流石に落胆は隠せなかった。そんな彼女を上から下まで舐めまわすように見、亭主はテーブルに肘をついて身を乗り出した。好色そうな笑みを浮かべ、顔を突き出す。
「なぁ。見たとこ、ここいらの人間にも見えねぇけど。愛人か何かなのか?あんたいい女なのによぉ。やっぱ違うか?バケモノは」
「…!」
後ろに立ったミリィが前に出ようとするのを、軽く右手で制す。メリルはぐっと感情を堪えて無理矢理微笑んだ。
「…とにかく、何もご存知ないのですね」
「あぁ」
「失礼しました」
すげなく一礼して去ろうとすると、二の腕を掴まれた。
「あんまりその名前、口に出さねぇ方がいいぞ?」
「…」
「確かにな。冗談みてぇな噂だがよ。信じて怖がってる奴は一杯居るんだ。触らぬ神に祟りなし、ってな。忠告だぜ」
ぱしりと腕を振り解き、メリルは振り向きもせずに店を飛び出した。
「センパイ!待ってくださいよぉ」
ミリィも慌てて店を出る。飛び出した人の少ない往来に、小さな姿はもうなかった。必死で周囲を見回すと、駆け足に近い勢いで遠くの角を曲がろうとしているメリルが見えた。後を追って必死で駆け寄る。
「センパ~イ!置いて行っちゃ嫌です」
「…」
硬い表情で唇を噛んで歩くメリルの横に、わたわたと並ぶ。
「全く何考えてるんでしょあのオヤジ!やらしいんだから!スケベ!」
「…」
「絶対水虫ですよ!でねついでに虫歯で、キレ痔で、え~とそれから」
「…」
「今すぐつるつるに禿げちゃえ!」
ついにメリルは爆笑して、歩みを緩めた。
「もう…ミリィ、あなたには敵いませんわね」
「あんな奴、ぶん殴っちゃえばよかったのに!先輩ったら!」
まだ怒りの収まらない様子のミリィを優しく見上げ、メリルは弱々しく笑った。
「何も知らないくせに!ヴァッシュさんのことあんな風に!何も分かってないくせに!」
「仕方有りませんわよ…。あんな礼儀知らずに怒るだけ無駄よ。ね?」
「そうですけどっ」
「あーあ!ここも空振りでしたわ!残念!」
大きく一つ伸びをして、メリルは元気良く歩き出す。白いケープを翻し、顔を凛と上げて。しょげそうになる態度とは裏腹に。
「今夜はこの街に泊まって。明日またがんばりましょうか!」
「はい、センパイ!」
肩を並べて歩くミリィに聞こえない小声で呟いた。
「何にも分かってないくせに、か」
もう日が暮れようとする空を見上げる。日中の熱さとは違う優しい風。オレンジ色の雲がたなびく美しい空は一日の終わりを告げていた。
 いつかあの人と見上げたものと寸分変わらないけれど。
(私だって、何も分かってませんわ)
手の届かない今も、思い出す事など幾らでもできる。刻まれた記憶は遠のいてくれる気配すらない。だけれど、よく考えてみれば彼のことなんて自分だって何も知らない。メリルは先の亭主の言葉を反芻する。
(バケモノ…か)
自分は人類に仇成すモノに、抱かれた女なのだろうか。
だとしたら「愛している」なんて有りふれた一言だって……言えない。

想いを紡いだ言葉まで、影を背負わすのならば
海の底で物言わぬ貝になりたい
誰にも邪魔をされずに、海に帰れたらいいのに
あなたをひっそりと思い出させて

「ふふふ」
「?」
突然、微かに笑ったメリルに、ミリィは歩みを止めて振り向く。大袈裟に顔をしかめ、メリルはブーツの爪先で、道の上の小石を勢い良く蹴飛ばした。
「『やっぱ違うか?バケモノは』…ですって」
「さっきのオヤジですね。全くもう。信じられないせくはらです」
憤懣やるかたなく腕を胸の前で組んだミリィが唸る。
「ええ、違いますわねぇ」
まだこの首筋に残る彼の唇の感触を思い出しながら、メリルはつんと顎を逸らした。
「あなたなんかより数百倍はイイですわよ、って言ってやればよかったわ!」
「ゼロを何倍してもずっとゼロですけどね、センパイ」
一瞬沈黙してから、メリルはいつもの様に声を上げて笑った。
「その通りですわ!」
「センパイ、今夜は嫌なこと忘れてぱーっと飲みましょうか」
「そうね。そうしましょ。じゃあお酒買わなきゃですわね」
二人は肩を寄せ合って朗らかに笑った。ミリィの存在はどれ程救いになっているかメリルには分からなかった。彼女が居てくれる限り、きっと自分は大丈夫だろう。
 それでも微かに胸に留まる慕情を消すことは出来ないのだけれど。
(言葉を求めるほど、一人寝の夜が寂しいほど…子供でもないと思っていたのにね)

諦めて恋心よ、青い期待は私を切り裂くだけ
あの人に伝えて…寂しい…大丈夫…寂しい

 時刻はもう真夜中である。ランプの光が満ちるダブルの部屋。廃棄寸前の古いラジオから、意味のないクラシックが雑音混じりに気怠く流れていた。
 泥酔して幸せそうに眠り込むミリィを苦労してベッドに運び込んだ後、一人メリルはもう一度、グラスにワインを注いだ。小さな丸テーブルに肘をつき、唇を寄せて半分程喉に流し込む。酔いが体に回るのを心地よく感じながら目を細め、グラスの赤い液体を見つめた。すぐ横のランプの光を反射して、ワインは血の様に赤く沈んだ色をしていた。
(見たくない色ですわね)
街角で神経を尖らせるのは何よりも赤い服である。今もあのコートを愛用しているなんて限らないのに、それでも。
 溜息をついてメリルは自嘲気味に笑う。暗い考えにまたしても囚われそうになった自分を誤魔化す様に、ワインを一息に飲み干した。
「繰り返される  よくある話
 出逢いと別れ  泣くも笑うも好きも嫌いも…か」
少し昔に流行した古い歌謡曲をふと思い出し、軽く口ずさんで、空になったグラスの縁を指でなぞった。
 今迄恋は、何度かしたように思う。目を閉じれば思い出さない男も居ないわけではない。だがそれらは皆「よくある話」だった。情熱とは無縁な恋の駆け引き。別れ話はいつも自分から。男も恋もそんなものだと思っていた。そうやっていつか適当な相手と結婚して、人生を普通に平凡に過ごしていくのだ、と。だがしかし。
 出会ってしまった。
彼と過ごした僅かな時間だけは、「よくある話」なんかではなかったのである。
(…だからこんなにも固執しているのかしらね)
 『好きだから』という可能性は、敢えて目を背けておこう。
「だって悔しいし」
「むに~。せんぱひ…」
頬を膨らませてむっつりと呟いた途端、ミリィがころんと寝返りを打った。起こしてしまったかとぎくりとし、ベッドの寝顔を見つめる。
「…おいしくなひでふ」
どうやら寝言だったらしい。涎を垂らさんばかりに口を開けて太平な寝顔に苦笑した。横のワインボトルに手を伸ばし、えいとばかりにグラスに注ぐ。木造の丸い机に零れた雫を無視し、わざと乱暴な仕草でぐっと飲み干す。
「…あんな奴。大っ嫌いですわ」 
吐き出した熱い息と共に呟く。
 けれど、「ありふれない物語」続けるには、あの男が必要なのだ。
 酔いで気持ちよく思考がまとまらないのをいい事に、メリルはにやりと笑った。
(ふん。負けるモンですか)
 先ほど口ずさんだ歌が何時の間にか、偶然、ラジオから流れ出していた。

許してね恋心よ、甘い夢は波にさらわれたの
いつかまた逢いましょう。その日までサヨナラ恋心よ

あなたのそばでは、永遠を確かに感じたから
夜空を焦がして、私は生きたわ恋心と


遅れて出発したウルフウッドは人相の悪い男達の前で不敵な笑みを浮かべた。
「お勤めゴクローさん」
「何だてめぇは」
「労働者さ。日雇いのな」
男達は互いに顔を見合わせた。
コインのペンダントをしたリーダーと思しき男が、不信と警戒を顕わにしてウルフウッドの前に立ちはだかった。
「この先にハローワークはねえ」
「仕事に来た」
「…?」
「頼まれたんだよ。この先にある勝利荘のジジイにちょっと、な」
こんなところで通行妨害をしている連中が親玉の筈がない。黒幕は別にいる。──そう予測しての発言である。
「そんな話は聞いていない」
短い返答に、自称労働者は自分の考えが正しかったことを確信した。
「待ちくたびれたんだろう。お前らだけに任せておけないとも言っていた」
プライドを傷つけられ、男は口を閉ざしたまま眼前の黒服を睨みつけた。
「俺を足止めするとあの方の怒りに油を注ぐことになるぞ」
「…少し待て。確認をとる」
「無駄だ。あの方は否定する」
その一言に男達は殺気立った。が、一触即発の空気は痛いほど感じている筈なのに男の飄々とした態度には何の変化もない。
「ヤバイ仕事に名前を出されるのはご免でね。俺はここには存在しないことになっている」
言いながら、ポケットに突っ込んだままの両手で拳を作る。呼吸を一つする間に全身に緊張感をみなぎらせる。
サングラスの下で目つきが変わったことに男は気づいただろうか。
「…いいだろう。通んな」
「…どうも」
感謝の気持ちなど欠片も含まれていない礼を述べると、ウルフウッドはそこへ至ったのと同じ歩調で再び山道を登り始めた。
黒い後ろ姿が視界から消えてから、モヒカン刈りの男がウルフウッドと問答していた男に問いかけた。
「いいのか、行かせちまって」
「構わねえさ。どうせ道はここしかないんだ。何かありゃあここで食い止めるだけのことだ」
そんな会話がなされているのと同じ頃、坂道を進むウルフウッドは答えてくれる人もなく一人文句を言っていた。
「やばかったわ~。もうちょっとで『おおきに』って言ってまうとこやった。…あー気色悪っ。標準語なんぞ喋れるか!」


先に勝利荘に着いたのはウルフウッドだった。
見たところ建物に異変はない。だが雨戸は全部閉められている。
仮に客がいないとしても空気の入れ替えや掃除はするだろう。こんなにいい天気なのに閉めっぱなしというのは不自然だ。
『さて、どないするか…』
五秒間の黙考の後、主将が選択したのは正面突破だった。
普通に歩いて勝利荘に近づき、ドアをノックする。見知らぬ男が細目にドアを開けた。
「何だてめぇは」
「助っ人」
「何だと?」
「あの方に雇われた」
男が驚いたように目を見はった。
「…モーガンさんに?」
「下でも通してもらったんだが」
最後の一言が効いたらしい。男は警戒しながらも人が通れるくらい扉を開いた。
軽く頭を下げて屋内に入ると、ウルフウッドは礼を言う代わりにしたたかな一撃を喰らわせた。声を上げる間もなく気絶した男のズボンからベルトを引き抜き、前屈の姿勢で手足を縛ってその辺に転がす。
人の気配がないことを確認してから、音を立てないよう管理人室の扉を開ける。
「!」
中は足の踏み場もないほど荒らされていた。和箪笥の引き出しは全てひっくり返され、座布団と押し入れから引っ張り出したらしい布団は派手に切り裂かれている。畳がずれているところがあるのは床下まで調べたからだろう。
変わっていないのであればここは老夫婦の部屋の筈。調度品を見てもバドウィックの部屋とは思えない。
『探しモンか…』
連中は何を探しているのか。
答えを見出せないまま、ウルフウッドは食堂へと移動した。ここにも誰もいなかった。
台所も荒らされていた。といっても管理人室とは異なり、冷蔵庫の食料を手当たり次第に食い散らかしただけのようである。どちらにも血の匂いがなかったことが救いだった。
北側の一室から、老人ともバドウィックとも違う男の声がかすかに声が聞こえてくる。食堂の扉をそっと閉めると、ウルフウッドは足音を忍ばせ敢えて南側の廊下を目指した。
南側の部屋の襖も全部閉まっていた。神経を研ぎ澄ませ、本来なら明るい筈の廊下を静かに進む。
南西の風呂場に行き着いても人の気配は皆無だった。
いったん食堂まで戻ってから、ウルフウッドは北東の端の部屋に忍び込んだ。ヴァッシュ達が到着する前にだいたいの様子は掴んでおきたいが、廊下を進んでいる時に襖を開けられたら隠れる場所がない。部屋の中を進む方が時間はかかるが発見されにくいと考えたのだ。
泥棒の才能もあることを立証したトライガン学園野球部主将は、音を立てないよう細心の注意を払いつつ少しずつ声のする部屋へと近づいていった。
かなりの時間を消費してどうにかすぐ隣の部屋にたどり着いた。ほっとしたのも束の間、ガラスか何かが壊れる派手な音に黒い双眸が細められた。
「悪ィ悪ィ、手ェーがスベっちまったよ手ェーが」
男の猫撫で声がはっきりと聞こえる。ウルフウッドは手早くマイクをセットしMDプレーヤーの録音ボタンを押した。
「よくもまあいけしゃあしゃあと、この悪党が!!」
「こんな脅しに誰が乗るものですか」
老夫婦に怯えた様子がないことに男は一瞬鼻白んだが、大袈裟にため息をつくと説得方法の方向転換を行なった。
「なあ、強情張ってこんな民宿守ったってなんにもいいことないぜ? もう歳なんだし、さっさと売っぱらって悠々自適な生活を楽しむほうがいいんじゃねえのか?」
「手放しませんわよこの土地は!!」
「その通り!! 帰ってモーガンに伝えるがええわ!!」
凄んだりなだめたり刃物をちらつかせたり、男は手を変え品を変え首を縦に振らせようとする。
対する老夫婦の態度は一貫して拒否。
『こいつら地上げ屋なんか…?』
だとしたら探しているのは土地の権利書で、連中はまだそれを見つけていないということになる。あれだけ室内を荒らされた上にこの会話だ、脅迫罪で訴えれば連中に勝ち目はない。
『もちっと証拠を押さえな…』
万一の時にはいつでも飛び込める姿勢を保ちながら、ウルフウッドは録音がちゃんとされているかを確認した。






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勝利荘禍難譚




ⅩⅠ
延々と続くかに思えた悪路がようやく途切れ、ヴァッシュとミリィはほっと息をついた。ハードなトレッキングをやったも同然で、二人とも僅かではあるが疲労感が滲み出ている。
「もうすぐだよ」
ただ一人、メリルだけは全く疲れを見せない。それどころか、進むにつれて更にペースを上げようとしているようにヴァッシュには思えた。
不意に視界がひらけた。木々が途切れ、小さな空き地のような場所に出たのだ。
だが、ここが遊歩道なら休憩所に最適と思われるそこにあったのは木漏れ日を浴びたベンチではなかった。
石製の十字架。
ヴァッシュとミリィは思わず駆け寄って辺りを見回した。綺麗に掃除されているが、生けてある花はしおれかけている。
刻まれた名前を見てヴァッシュは息を呑んだ。
『マックス…』
それはあの老夫婦の、バドウィックの──
「早く。こっちだよ」
メリルは空き地の一角から延びている道に立ち、二人に向かってしきりに手を振っていた。十字架には目もくれない。
ヴァッシュとミリィは顔を見合わせ小さく肯くとメリルの後を追った。
そこから勝利荘までは五分とかからなかった。雨戸は全て閉まっていて物音や声は一切聞こえない。
メリルは庭を迂回するようにして繁みの中を進み、にせワンゲル部員もそれに続いた。
建物の北西側で案内人は足を止めた。玄関はもとより裏口からも離れている場所だ。リネン室の窓は見えるが鍵はかかっているだろう。
落ちていた木の枝を拾うと、メリルは勝利荘の簡単な見取り図を地面に描いた。
「ぼくたちがいるのはここ。こわいおじさん達がいるのがここ」
棒の先が指し示したのは、ウルフウッドが息を殺して潜んでいる部屋の隣だった。
「そこに管理人さん達やバドウィックさんも?」
ヴァッシュの言葉にメリルは肯首した。
「でも、ここからどうやってお家に入るんですか? やっぱりいも煮込みですか?」
「…?」
ミリィの発言の意味が人間台風には理解できなかった。
いつものメリルなら『それを言うなら忍び込みですわ』と律義に訂正しただろう。だが彼女の口から出たのは違う言葉だった。
「大丈夫。ちょっとまってて」
それだけ言うと、メリルは手近な木から枝を折り一人建物に駆け寄った。
『違う…』
走り方がたどたどしい。まるで別人のようだ。ヴァッシュは密かに眉根を寄せた。
しばらくして、縁の下に入って姿が見えなくなっていたメリルが顔を出した。二人に向かって手招きする。
辺りに人影はない。
「よし、行こう」
ヴァッシュが、続いてミリィが勝利荘の床下に潜り込んだ。
真っ暗な筈の一角が明るくなっていた。上からほのかな光が射しているのだ。メリルは二人の姿を認めると蜘蛛の巣塗れになった枝を投げ捨て、先に上によじ登った。
次いで室内に入ったヴァッシュはまず靴を脱ぎ、ミリィに手を貸した。三人揃ったところで何となく自分達が這い出た場所を確かめてみる。
そこはリネン室の押し入れだった。
「床板がはずれるんだ。お兄ちゃんがちっちゃいころわるいことしてここにとじこめられた時に気がついて、ぼくにコッソリおしえてくれたんだ」
不意に笑みを浮かべると、ウルフウッド同様手術用の手袋をしたメリルが押し入れの隅に転がっていたものに手を伸ばした。
どこにでもありそうなゴム製のボール。元は白かったのだろうが、今は埃を被って灰色になっている。それでも野球のボールに見立てた縫い目が印刷されているのは判った。
「…ちょっと貸してくれるかな」
メリルは不安そうな表情でヴァッシュを見上げた。
しばらく迷った後、小さな手はおずおずとボールを差し出した。
ヴァッシュは軍手をはめたまま両手でボールを包み込み、磨くように動かした。なかなか落ちない汚れに息を吹きかけ、手の甲にこすりつける。
「はい、どうぞ」
水洗いした程ではないが、かなり綺麗になったボールを返す。途端にメリルが破顔した。
「ありがとう!」
無邪気な笑顔につい笑みが零れる。
「…キミは」
ヴァッシュの声は男の怒号によってかき消された。

ⅩⅡ
「侵入者だ!! 黒服野郎が入り込みやがった!!」
声の主は玄関に転がされていた男。
「何だと!?」
老夫婦達を脅していた連中は一斉に色めき立ち、慌てて廊下に飛び出すと玄関へ向かおうとした。
ウルフウッドは襖を開け室内に入った。見張りに残っていた二人を次々と殴り倒す。短い悲鳴を上げて男達は気絶した。
同時にヴァッシュも行動を起こしていた。
「ここにいるんだ」
短く言い置いて廊下に走り出、室内の異変に気づいて次の行動を決めかねていた四人をウルフウッドと共に叩きのめす。
事態が急変してから、ウルフウッドがなおも喚き続ける男を不穏当な手段で再び沈黙させた後肩に担ぎ上げて老夫婦達の前に戻るまでに要した時間は二十秒ほど。まさにデタラメーズである。
「大丈夫ですか?」
心配そうに自分の顔を覗き込む長身長髪丸眼鏡の男の顔を見ても、老人はそれが誰なのかすぐには判らなかった。ようやく理解できたのは程なく合流したメリルの顔を見た後。
「君達か…。ありがとう、助かったよ」
安堵から身体の力が抜けた老人が尻餅をついた。縛られたりはしていないが、ここ数日は満足に食事もできず、ならず者達を相手に丁々発止とやりあっていたのだ。当然のことだろう。
ヴァッシュとミリィが三人に怪我がないか確認する間に、ウルフウッドは隣室に置きっぱなしになっていたMDを操作し騒ぎの直後からの録音を消去した。自分達と老人に面識があると判ってしまう発言を残しておきたくなかった。
作業を終え、落ちてきた前髪を掻き上げる。整髪料の量が少なすぎたのだろう、汗をかいたのと運動の影響で髪型は崩れいつものスタイルに戻ってしまっていた。
メリルが持ってきた水を飲み干し、三人はようやく人心地ついた。
「何なんですか、あいつらは」
気絶させた連中を隣室に運んで目隠しをし、手足をロープで縛った上で全員を一本のロープで繋いだ後、四人を代表する形でヴァッシュが尋ねた。
「地上げ屋だよ。この山を狙ってるモーガンに雇われたな」
吐き捨てるようにバドウィックが答えた。
「この山?」
「ああ。この山丸ごと親父のモンなんだ。モーガンはここらへん一帯を切り崩してゴルフ場を作ろうとしてる。現に 駅前に住んでた人達もこいつらに脅されて随分引っ越していっちまった」
言われて思い出す。駅前の商店街の半分以上がシャッターを下ろしていたことを。
「…俺はこんな山さっさと手放したほうがいいと思ってる」
そうすれば老体に鞭打ってあくせく働かなくても済む。
「わしの答えは変わらん」
「どーしてもっ、いう通りにするつもりはねえのか!?」
「何度いっても同じ事じゃ。渡せるものか、この土地を」
「…モーガンは表向きは中堅建設会社の社長だが、裏じゃ相当悪どいことをやってる。そんな事いってりゃあんた達が死ぬ事になるかも知れないんだぞ!! モーガンにはそれだけの力があるんだ。逆らうな…」
連中の恐ろしさはよく知っている。自分も一時期関わっていたから。
「……土地は譲れん」
「けッ、命より大切だってか!! そうかよこの土地亡者!!」
ヴァッシュ達が親子の対立をどうすることもできずただ見守っている頃。
山道を封鎖していた男達の前に一台のクラシックカーが停まった。後部座席から降りてきたのは、中分けにした前髪を外巻きにはねさせ鼻の下に髭をたくわえた中年の男。
彼らの雇い主、モーガンである。
「上からの連絡はまだありませんか」
「は、はいまだ…。あの黒服の男も何も言ってきません」
モーガンは顔を顰めた。望んだ答えが得られなかったことと、黒服の男に心当たりがなかった為に。
「…もう片づいたかと思って様子を見に来たのですが…仕方がありません。私が行きましょう」
見張りの五人の中からリーダー格の男と星印の巨漢を指名すると、モーガンは自分の車を顎でしゃくった。
「あなた達は一緒に来て下さい」
残りの三人に向き直る。
「あなた達は今までどおりここにいて下さい。…猫の子一匹通してはなりません。いいですね」
紳士然とした男の表情が著しく変化した。
「……はい────ッ!!」
答える男達の顔色は一様に悪くなっていった。

ⅩⅢ
平行線の会話を遮ったのはメリルだった。
「だれか来るよ」
怒鳴ろうとしていたバドウィックは慌てて口をつぐんだ。全員が耳に意識を集中する。
かすかに聞こえてくるエンジン音。それは徐々に近づいてきて、やがて止まった。
「…わしが行こう」
老人は静かに言うと立ち上がった。玄関に向かって歩き出す小さな背中をその場にいた全員が追った。
「君達はどこかに隠れてなさい」
そう言われても『はいそうですか』と従う訳にはいかない。バッテリーは互いの目を見、相手の考えが自分と同じであることを確認した。
「キミ達は部屋に戻るんだ」
口調は穏やか、しかし断固たる態度でヴァッシュは二人のマネージャーに命令した。
「そんな! あたしにも何かできることが」
「あいつらの見張りを頼むわ。今は気ィ失うとるけど、目覚ましてさっきみたいに叫ばれでもしたら面倒やさかい。…これも重要な仕事やで」
ウルフウッドはわざと声を低くして言った。その重々しい響きと二人の固い表情を見たミリィに緊張が走る。
「…判りました。こっちのことは心配しないで下さい」
「あの部屋でしゃべっちゃ駄目だよ。キミ達の声を知られたらまずいからね」
「はいっ」
ミリィは背筋を伸ばししゃちほこばって返事をした。
メリルは部屋から持ってきたビデオカメラをヴァッシュに手渡した。強張った顔はこころもち青ざめ、ゴムボールを握る手は小刻みに震えている。
『大丈夫だ』と言う代わりに柔らかく微笑みかけて、ヴァッシュは華奢な肩をそっとミリィの方へ押しやった。メリルは何度も振り返りながら後輩に手を引かれて部屋に戻った。
二人の姿が見えなくなってからバッテリーは肩の力を抜き表情を崩した。
「…ま、あっちは大丈夫とは思うけどな」
「きっちりのした上にあれだけ厳重に縛ったもんね」
連中が意識を取り戻すのは当分先の筈。仮に気がついたとしても声を上げるのがせいぜいだろう。目隠しをしてあるから二人の顔を見られる心配はないし、口をきかないよう注意もした。
「問題はこっちや」
玄関で靴を履き終え、ウルフウッドは再び臨戦態勢に戻った。扉の向こうの気配は四つ。山道の途中で会った連中が土地を明け渡すようお世辞にも上品とは言えない言葉ではやし立てているのが聞こえる。
不快そうに眉をひそめると、主将は相棒に唇に指を当ててみせてから録音ボタンを押した。
「わしが一人で話をする…コラコラ、お前は中に居なさい!!」
台詞の後半は台所に寄り道をしていた妻に対してのものだった。言われた当人は鍋をかぶり、武器のつもりなのだろう、お玉を握り締めている。もっとも、妻を戒めた本人の頭にも管理人室から持ってきた三日月印のヘルメットがあるのだが。
「出て来てはいかんぞ」
バドウィックが制止する間もなく、老人はごく細く開けたドアから外へとすべり出た。
ヴァッシュは完全に閉められなかった扉に歩み寄った。そこにあった靴を土台にして下から見上げるようなアングルにカメラを置き、録画ボタンを押す。ウルフウッドはMDプレーヤーをその隣に置いた。
「…ご理解頂けましたかな?」
「貴様のロクでもなさ加減なら十分にな」
周囲の気温が一気に氷点下まで下がったような気がした。
「この土地…持っていた所で金喰うのみ、メリットなぞ何もないでしょう。そこで」
モーガンは懐から手のひらほどの大きさの紙を取り出した。
「ホラ、はるかに現実的な代物です。額面は今から入れる事にしましょう」
皺だらけの手に強引に渡された白紙の小切手は四つに破られ、本来の役目を果たす事なく風に飛ばされて消えた。

ⅩⅣ
「そいつが答えだ。失せろ」
モーガンの背後に控えた男達の気配が剣呑なもの変わった。否、気配だけではない。表情も、姿勢も。たった一言命じられれば即座に動けるように。
「お、親父!!」
「大丈夫さ、連中は手出しできゃしないよ。書類に記名しなきゃ土地はあいつのものにならないのさ」
「それにしたって…無茶すぎる!! 何故!!」
コツ!! と音を立てて、お玉がバドウィックの額に命中した。
「馬鹿だねお前は。私と"あんた"と土地を守るために決まってるだろう」
ここはあんた達が生まれ育った場所。あの子が静かに眠る場所。
だから守る。たとえ何があっても。
「何と比べてんのか知らないけど、お前はその程度にゃ愛されてんだよ!!」
「な…何調子のいい事いってやがんだ…!!」
非常事態にもかかわらず微笑みを浮かべている母親をまともに見られず、バドウィックは顔を背けた。
「……成程、死に急ぐか。手伝ってやろうじゃないか」
「できるのか? わしを殺した時点でお前の負けだ。証人は揃っておるのだぞ」
「はははははははは」
突然モーガンが爆笑した。
「買いかぶるのはなしにしてくれ!! 証人!? 冗談だろう。一人だって残さんよ。パーフェクトに皆殺しにしてやるさ」
「……」
僅かに表情が険しくなった老人を見据えると、モーガンは淀みない口調で更に言葉を紡いだ。
「警察に訊かれたら『商談は平和に成立しました。どこか暖かいところに小さな家を買ってのんびり余生を送ると 言っていましたよ。行き先? いえ、聞いてませんね』と答える。通り一遍の捜査が行なわれるが手がかりは得られず、 親子三人は行方不明者として処理され、やがて忘れ去られる。…どうだ、見事な筋書きだろう」
「…そううまくいくかな」
「いくさ。当然だろう。私はモーガンだぞ」
バドウィックは管理人室に駆け込んだ。座布団をどかし、投げ捨てられた引き出しの中身の山から封筒と便箋を発掘する。
何も書いていない便箋を一枚取りきちんと折り畳む。それを封筒に入れしっかりと封をすると、バドウィックはきっと顔を上げた。
「バドウィック、何を」
母の問いかけに答えず、バドウィックは後輩に順に目配せすると扉を開けた。
「モーガンさん、土地の権利書はここにある」
その場にいた全員の目が封筒とそれを持つ男に向けられた。
「こいつはあんたに渡す。ここでのことは誰にも言わない。だから…命だけは助けてくれ」
「…いいでしょう。さあ、封筒を持ってきなさい」
鷹揚に肯くと、モーガンは両手を後ろに回して胸を反らせた。その右手が密かに動き、背後に控えている男達に指示を出した。
『権利書を手に入れたら全員殺しなさい』と。
バドウィックはゆっくりと歩き始めた。




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勝利荘禍難譚



ⅩⅤ
互いの距離があと三歩となった時。
バドウィックが突然走り出した。封筒を差し出した姿勢のままモーガンの横を駆け抜ける。
「な…!」
つられて四人が振り返り、後を追おうとした瞬間。
バッテリーはビデオとMDを止めると同時に飛び出し、無防備に背中を向けている男達に飛びかかった。後頭部や首筋を強打され、四人は声を上げる間もなく折り重なるように倒れた。不運にも一番下になってしまった小柄な運転手をヴァッシュは本気で心配した。
「…玄人相手に一撃とはな。武道か何かやってたのか?」
引き返してきたバドウィックがそう質問したのも当然である。だが、ヴァッシュは黙ったまま曖昧に笑って誤魔化し、ウルフウッドは答えの代わりに違うことを口にした。
「こいつら片したら山を下りるで」
「あとは途中の三人だけだね」
「他に仲間がおるかも知れん。油断は禁物や」
静かな口調で相棒に釘を刺してから、ウルフウッドは一番上に倒れている顔に星を描いた巨漢に手を伸ばした。
意識のない人間は酷く重い。それが自分より遥かに大柄な男となれば尚更である。バッテリーは二人がかりで巨漢を屋内に運んだ。モーガンを背負ったバドウィックがそれに続く。老夫婦はロープを取りに行った。
廊下を曲がろうとした時、男達のすぐ脇を小さな影がすり抜けた。
「メリル!?」
ヴァッシュの声にも返事はなく。
デタラメーズはその場に巨漢を放り出しマネージャーの後を追った。
靴も履かずに飛び出した三人が見たのはうつぶせに倒れている運転手ただ一人。コインのペンダントをした男の姿が消えていた。
「あそこ!」
メリルの指差す先に男はいた。
気絶したふりをして逃げる機会を窺っていた男の目標は自分達が乗ってきたクラシックカーだった。
勝利荘にある軽トラックはパンクさせてある筈。車で逃げれば追いつかれることはない。あの黒服以外に助っ人がいたのは予想外だったが、仲間を全員集めて戻れば形勢は逆転できる。
誰もが全力疾走している。バッテリーはメリルを追い抜いたが、それでも二人と男との距離よりも、男と車との距離の方が遥かに短い。
状況は絶望的。
ヴァッシュは不意に足を止め、メリルに右手を伸ばした。
「それ貸して!」
メリルから手渡されたものを握り締めると、人間台風は息を吸いながらセットポジションに入った。息を止め、大きく振りかぶってそれを投げる。
渾身の力を込めた一投は見事に男の後頭部に命中し、バランスを崩した男は顔面から運転席の窓ガラスに激突した。
車にもたれかかるような姿勢のまま今度こそ気が遠くなる。男は必死の思いで自分の意識を繋ぎ止めた。
朦朧としていたのはごく僅かな間。しかしそれは致命的な長さであった。
襟首を掴まれ、勢いよく引かれると同時に足払いをかけられる。仰向けに倒れたところへ鳩尾に肘での一撃を喰らい、男は白目をむいて気絶した。
「ホンマ、油断は禁物やで」
ウルフウッドは額の汗を拭った。ロープを抱えてあたふたと走ってくる老人に手を挙げて答える。
ヴァッシュは車の傍に転がっていたゴムボールを拾うと土埃の汚れをこすり落とした。そして、ようやく追いついたメリルの目線に合わせて膝を曲げ笑顔でそれを差し出した。
「はい。これのお陰で助かったよ。ありがとう」
「…うん!」
その笑顔はやはり彼女らしくなかった。

ⅩⅥ
全員を勝利荘に運んで手足を縛り上げ目隠しをした後、ウルフウッドはバドウィックに問いかけた。
「車の運転できるか?」
ああ、という短い答えにトライガン学園野球部主将は満足そうに肯いた。
「ワイらがモーガンを連れてあの車で山を下りる。トンガリ達は残ってここの見張りや」
「二人で大丈夫か?」
連中の仲間は少なくともあと三人いるのに。
「大丈夫や、ワイに考えがあるさかい。…うまく脱出したら合図を送る。そしたらトンガリはマネージャー連れて山を下りるんや。ええか、誰にも見られるんやないで」
「それは判ってるけど…合図って何?」
ウルフウッドは何も言わずに口の端を吊り上げて笑った。
目隠しだけ外したモーガンを助手席に乗せシートベルトで固定すると、バドウィックは運転席に乗り込んだ。
ウルフウッドは悠然と後部座席に座った。隣にはとぐろを巻くロープと、恐喝及び殺人未遂の証拠となるMDとビデオテープが置いてある。
「ほな先に行くわ。駅で待っとるで」
「ああ」
「気をつけて下さいね」
手を振って答える主将の表情には不安のかけらもない。大丈夫なんだ、心配することないんだ──ミリィはそう思うことにした。
「…部屋に戻ろう」
車が見えなくなってもその場から動こうとしない大柄なマネージャーに、ヴァッシュは遠慮がちに声をかけた。
拭いきれない不安は自分にもあるから彼女の気持ちはよく判る。だが、今勝利荘にいるのはメリルと老夫婦のみ。
もし連中が暴れ出したら、と思うと気が気ではない。
「そうですね」
副主将の心情を察し、ミリィはにっこり笑うと玄関に向かって歩き出した。
車の中でウルフウッドは今後の手順を説明した。
バドウィックは一度質問しただけで異を唱えなかった。他にいい方法が思いつかなかった。
「…この件がカタついたら…」
暫しの沈黙の後、ウルフウッドは独り言のように呟いた。
それまでとは異なる口調にバドウィックはルームミラー越しに後輩の顔を見やった。サングラスをかけている為に表情は判らない。
「冬合宿での生意気な態度、土下座して詫び入れたる」
「!」
「最後の正念場や。ええか、気張るんやで」
「…言われるまでもない」
答えながらブレーキを踏む。視線の先にあるのは道を封鎖している車と男達の姿。
「ヘタレな兄貴、返上しいや」
エールと呼ぶにはあまりにもきつい言葉を投げかけると、ウルフウッドはロープを手に一人車を降りた。

ⅩⅦ
クラシックカーはゆっくりと坂道を下っていった。その後ろをウルフウッドが徒歩でついていく。互いの距離は次第に縮まっていった。
助手席にモーガンがいることに気づき、男達は雇い主を出迎えるべく車を離れた。
『今だ!』
一際高くエンジン音を轟かせ、脅迫の主犯と貴重な証拠を乗せた車は一気にその場を走り抜けた。
「!」
ならず者達は一斉に車に戻ろうとしたが、そこには先客がいた。先刻自分達を丸め込んだ黒服の男が。
ウルフウッドは差しっぱなしになっていたキーを抜くと思いきり遠くへ放り投げた。銀色の放物線を描き、鍵は緑の中に消えた。
「てめぇ!!」
怒りに満ちた声が三対一の格闘開始を告げるゴングとなった。
ロープを鞭のようにしならせ、先頭の男の顔をしたたかに打つ。顔面を押さえてその場にうずくまった男にモヒカン刈りの男がつまづいて転ぶ。
一番出遅れたボザボサ頭の男が一番最初に車に肉薄し、一番最初に倒されることとなった。自称日雇い労働者の蹴りが顎先にクリーンヒットしたのである。
気絶した男には目もくれず、ウルフウッドは立ち上がったばかりの男の鳩尾に拳を叩き込んだ。その場に崩れ落ち、縫い傷のある顔に派手なみみず腫れを作った仲間に荒々しく突き飛ばされて怪我を増やした相手に同情する気はなかった。
二人は無言のまま対峙した。
静が動に転じたのは十秒ほど後。
「ウラァ!!」
男が隠し持っていた特殊警棒を手にウルフウッドに躍りかかる。だが、デタラメーズの片割れは勢いよく振り下ろされたそれを難なく躱すと即座に反撃した。腕を取って投げ飛ばし、不安定な体勢をものともせず片手をついて倒立回転をし、倒れた相手の喉元にかかと落としをお見舞いする。
急所に痛恨の一撃を喰らった男は声も出せずに気絶した。
疲れるほど動いてはいないがウルフウッドに休息は許されなかった。三人を一ヶ所に運び後ろ手に縛った上で背中合わせに座らせ、それぞれの手をロープで繋ぐ。足は柔軟体操をするように開かせて二人三脚の要領で足首を縛った。警察が来る前に誰かが目を覚ましたとしてもこれでは身動きが取れない。
服のポケットを全て探り、持っていた携帯電話と車のスペアキーを奪う。鍵は先刻とは逆の方向へ放り投げた。
続けて携帯電話を壊そうとして思いとどまる。
連中の仲間を取り逃がしたら勝利荘に復讐する可能性がある。メモリーに残っているアドレスや通話記録は仲間を一掃する手がかりになる筈。
「電話会社に手間かけさせることもあらへんな」
ウルフウッドは車の助手席に携帯電話を置いた。そのまま木陰に移動し、幹に凭れ掛かるようにしてじっと合図を待つ。
内心の焦燥に耐えている黒服の男に柔らかな木漏れ日が降り注いだ。

ⅩⅧ
突然聞こえてきたサイレンの音にウルフウッドは空を見上げた。
「……成程、死に急ぐか。手伝ってやろうじゃないか」
「できるのか? わしを殺した時点でお前の負けだ。証人は揃っておるのだぞ」
「よっしゃ!」
大音量で流れ始めたモーガンと老人の声に、ウルフウッドは思わず拳を固め破顔した。
クラシックカーは途中妨害されることなく無事山を下りた。そしてバドウィックは警察には向かわず、防災用の放送設備を使って二人の会話を放送したのである。
車の中でその後の行動を聞かされたバドウィックは『警察に行くんじゃないのか』と質問した。
「モーガンのふてぶてしい態度を考えてみい。あれは自分は絶対に捕まらん、ちう確信あってのモンや。警察の中に連中とつるんどる奴がおる、ワイはそう思っとる」
バドウィックは沈黙した。駅前の商店街の店主達が警察に相談したのだが取り合ってもらえなかったことを思い出したのだ。後輩の大胆な仮説が事実ならそれも納得がいく。
「証人がワイらだけやったら口封じも難しくないやろ。けど、あの会話をこの辺の住民が聞いたらどうや? 全員殺すんはまず不可能やし、騒ぎが大きくなれば警察かて動かざるを得んようになる…違うか?」
短く同意すると後輩は更に言葉を重ねた。
「証拠はなるたけ地位の高い警官に渡すんや。MDかビデオ、どっちかはマスコミに渡すほうがええかも知れんな」
それが警察に握り潰された時の為の保険であることに気づいて、ハンドルを握る男は手の汗を自覚しつつ肯いて答えた。──
「ほな行こか」
物騒な会話をBGMに、ウルフウッドは軽い足取りで坂道を下り始めた。
放送は勝利荘にいるヴァッシュ達にも聞こえた。高校生は思わず立ち上がり、老夫婦は腰を浮かせた。
『合図ってこのことか!』
それは自分達への合図であると同時に二人が無事下山した証拠でもある。ヴァッシュは思わず安堵のため息を洩らした。
不意に隣の気配が揺らいだ。
「メリル!?」
咄嗟に腕を伸ばし、その場に崩れ落ちた華奢な身体を難なく支える。
「先輩!? 先輩!?」
ミリィの声にも反応がない。
人間台風の背中を戦慄が駆け抜けた。
ゆっくりと膝をつき、こわれものを扱うようにそっと横たわらせる。状況が理解できないまま、四人は恐る恐る黒髪に縁取られた顔を覗き込んだ。
メリルは眠っていた。呼吸も表情も穏やかで苦しそうな様子はない。
「…緊張が解けただけみたいだね。よかった。…どうしたの?」
最後の質問は何故かきょろきょろと辺りを見回しているもう一人のマネージャーへのものだった。
「あ、いえ、何でもないです」
ミリィは慌てて両手と首を横に振ってみせた。
後輩の態度は気になったが、今はやらなければならないことがある。ヴァッシュは老夫婦に向き直るときちんと正座した。
「おじいさん、おばあさん、僕達はこれで失礼します。すぐに警察が来ると思いますから、しばらく二人で頑張って下さい」
「なぁに、こいつらも当分目を覚まさんじゃろう。大丈夫じゃよ」
「くれぐれも僕達のことは」
「わかってますよ。内緒の秘密にします」
老婦人の念の入った言いように僅かに苦笑すると、ヴァッシュはメリルを背負って一礼しミリィを促して勝利荘を出た。



--------



勝利荘禍難譚



ⅩⅨ
身体は疲労していたがヴァッシュの心は軽かった。
おじいさん達は無事だった。モーガン達は逮捕され、勝利荘はいつもの生活を取り戻す。
「ん…」
背後から聞こえた小さな声に人間台風の意識は否応なくそちらに向けられた。
メリルが目を覚ます気配はない。よく眠っている。鳥のさえずりや木々のざわめきがふと途切れるとかすかな寝息が耳を掠める。
背中に感じるぬくもり、柔らかさ、重さ…
ヴァッシュは唇を噛み締め、痛みに意識を集中した。
ミリィと話をすれば気も紛れるのだろうが、普段はおしゃべりなミリィは眠っている先輩を気遣い、後ろについて黙々と足を動かしている。
それでも。
『ミリィがいてくれてよかったよ…』
もし二人っきりだったら、髪とかほっぺとか触っちゃったりしそうだし、それ以外のところにも…その、胸とか触りたくなっちゃうかも知れないし、それだけじゃなくて、キ、キスとか……
暴走しかけた思考は近づいてくるサイレンによって強引に現実に引き戻された。
傍の繁みに身を潜めたヴァッシュ達の前を数台のパトカーがもの凄いスピードで通り過ぎていった。その中の一台にバドウィックが同乗していたのを人間台風は見逃さなかった。
「これでもう安心ですね」
「そうだね」
二人は笑みを交わし、再び山を下り始めた。
その後も二人はエンジン音が聞こえる度に身を隠し、マスコミのものらしい車をやり過ごした。目的地に急ぐ彼らが勝利荘の騒動解決に一役買った高校生がすぐそこにいることに気づく筈もない。行きとは違い、音に注意を払うだけの気楽な道中であった。
駅前の商店街への曲がり角を曲がった途端、ヴァッシュは己の油断を自覚すると同時に後悔した。記者と思しき男に出くわしてしまったのである。
「あ、君達、もしかして勝利荘から来たの!?」
男はヴァッシュ達の服装に色めきたった。メモとペンを取り出し目を輝かせて近づいてくる。どうやらカメラは持っていないらしい。
ミリィはにぱ、と笑うと明るい声で逆に質問した。
「勝利荘って、座敷わらしさんのいる民宿のことですよね?」
脅迫事件についてインタビューしようとしていた相手に予想外のことを言われ、男は見事に撹乱された。
「あ、あの、僕達この子を病院に運ばなくちゃいけないんです。急いでますんで失礼します! 行こう!」
「はい、エリクス先輩!」
呆然としている男をその場に残し、ヴァッシュとミリィは駅目指して全力疾走した。
ウルフウッドは駅舎に隠れるようにして三人を待っていた。ヴァッシュの背にいるメリルに一瞬怪訝そうな表情を浮かべたがその場では質問せず、買っておいた切符を差し出す。
「急ぐんや、もうすぐ電車が来る」
もし乗り損ねたら次の電車が来るまで延々待つ羽目になる。警察や報道関係者が殺到するであろう時に現場近くにいるのは絶対に避けなければならない。
「了解!」

ⅩⅩ
貸切となった車内の一角でウルフウッドがミリィに見えないよう着替えを済ませ、ヴァッシュが変装を解いて、ようやく落ち着いて話ができる雰囲気になった。向かい合う形の座席に腰掛けてそれぞれが自分の状況を説明し、互いに怪我がなかったことを喜んだ。
「けどな…」
ウルフウッドは斜め前に座っているメリルを見やった。後輩に寄りかかってずっと眠っている。
「心配ないと思うよ。疲れただけだろうし、もうすぐ起きるさ」
そう応じたヴァッシュが自分の言葉を信じていないことは一目瞭然だった。
勝利荘で倒れてからメリルは熟睡し続けている。けたたましいサイレンの音も、駅まで全力で走った時の振動も、彼女を眠りから解放することはなかった。
『もしこのまま目を覚まさなかったら…』
「大丈夫ですよ!」
ミリィは自信たっぷりに宣言し、バッテリーはマネージャーの自信の根拠を求めてしばらく顔を見合わせた。無論答えが得られる筈もなく、二人は同時に断念すると小さく吐息した。
「…そう言えばキミ、『座敷わらしがいる』って言ったよね。あれ、何のこと?」
「先輩とずっと一緒にいたじゃないですか」
簡潔すぎる言葉では副主将の頭から疑問符が消えることはなかった。
「えと、恐いお兄さん達に追い返された後、男の子がヴァッシュさんに近づいてきたんです。でもすうっと姿が 見えなくなって、そしたらヴァッシュさんが道をそれて先輩をリュックから出して。それからその子、ずっと先輩の そばにいたんですよ。あの放送が聞こえてきて、あの子がまたすうっといなくなっちゃって、そしたら先輩が 寝ちゃって…。でもイマドキの座敷わらしさんって着物じゃないんですねぇ。ストライプのシャツとズボンだなんて、 あたし、初めて知りました」
奇妙な表情を浮かべているバッテリーに気づき、ミリィはにわかに慌て出した。
「あの、あたしまた変なことゆいました? あ、座敷わらしさんじゃなくて屋敷わらしさんでしたっけ? 座敷らわしさん?」
「あ、いや、座敷わらしであってるよ。…そっか」
ヴァッシュはかすかに微笑んだ。マックスはメリルに乗り移って自分達を導いてくれたのだ。
『キミがメリルを連れて行く筈ないよな…』
家族想いの故人に向かってヴァッシュは心の中で呼びかけた。
答える声はない。それでも大丈夫だとようやく信じられるようになった。
ミリィが欠伸をかみ殺した。運動は得意だがデタラメーズほどの体力は彼女にはない。獣道を進むのは酷だったことだろう。
「寝てええよ。着いたら起こしたる」
「…ありがとうございます。それじゃ…おやすみなさい…」
語尾は口の中で呟かれただけだった。ミリィはすぐに寝息を立て始めた。
「…ま、とりあえずメデタシメデタシ、やな」
「まだだよ。メリルは眠ったまんまだし、勝利荘がどうなったか判らないんだから」
「さっき『心配ない』言うたんは誰やった?」
「それはメリルのことだけで」
反論しかけて人間台風は口をつぐんだ。ウルフウッドは意味ありげな笑みを浮かべている。うかつに発言すれば散々からかわれるのは明らかだ。
降りる駅の三つ手前でメリルが目を覚ますまで、二人はずっと沈黙を守った。
ウルフウッドの家に移動し、四人は本来の目的である野球部の自主トレについて話し合った。三十分ほど後に出た結論は、希望者についてのみメリルが自主トレ用のメニューを別に組むというもの。自主トレの練習量は減らすことになった。
「それって大変じゃない?」
「大丈夫ですわ。怪我をしないボリュームで弱点強化に重点を置いたメニューを作ればいいだけですもの」
それが大変なんじゃないか。ヴァッシュは心の中で嘆息した。
「アンタのおとんの話をしてもええか?」
「父の…?」
「アキレス腱切ってもうて野球ができなくなってしもた、いう話や。あんだけ派手にやりおうたんやし、ワイが多少なりとも 譲歩するにはそれなりの理由がないと皆も納得せえへんやろ?」
しばらく考え込んだ後メリルは首を縦に振った。
「怪我の怖さを知ってもらうにはちょうどいいかも知れませんわね。どうぞ」
「連休が明けるまで自主トレは中止するさかい、メニュー作りは急がんでええで」
放っておけばメリルは明日の練習に間に合わせる為に徹夜も辞さず作業をするだろう。それは主将の思いやりであった。
「…何ニヤニヤしとんねん」
「べえっつに~♪」
実はメリルはくすぐったそうな微笑みを浮かべ、ミリィも嬉しそうに笑っていたのだが、ウルフウッドの拳はヴァッシュのみに向けられた。
本気の一撃を喰らい勢い余って畳に倒れ伏したヴァッシュは、右手で後頭部を押さえつつ近所迷惑にならないよう左手で自分の口を塞いで痛みに耐えた。
『ウルフウッドの隣にはなるべく座らないようにしよう…』
密かに誓う人間台風であった。

エピローグ
事件のその後を四人はニュースで知ることとなった。万が一にも警察にマークされることを恐れて直接連絡をとることはしなかった。
モーガンを始めとする容疑者は全員逮捕された。
事件の関係者として三人の男女の存在が浮かび上がったが、その身元は結局判らずじまいとなった。容疑者達は彼らの人相について詳細に証言したし金髪の男の名前も警察の知るところとなったが、勝利荘の住人が知らぬ存ぜぬで通したからである。警察からトライガン学園野球部に問い合わせがくることもなかった。
ウルフウッドが予測したとおり、モーガンと某警察幹部との癒着が発覚した。それだけでなく、モーガンが経営する不動産会社がとある大物政治家に多額の政治献金を秘密裏に行なっていたことまで明るみに出た。国会をも揺るがす事態に謎の男女のことはすぐに忘れ去られた。
勝利荘はにわかに騒がしくなった。警察の検証が終わった後はマスコミの取材が殺到した。バドウィックは両親を気遣い一人で報道関係者の応対をした。
それも一段落しようやく静かな日々が帰ってくるかと思いきや、事態は思わぬ展開を見せた。──
衣更えまであと二週間を切ったある日の夕方、メリルの携帯に電話がかかってきた。発信元は勝利荘。
生徒会の仕事中で出られなかった副会長は、それに気づくと生徒会長の制止も聞かず校庭に走った。
メリルから話を聞いたウルフウッドは、練習を終えた後学校近くの公衆電話から勝利荘へ電話した。すぐ傍でヴァッシュとミリィが固唾を飲んで見守っている。
『はい、勝利荘です』
バドウィックの声にかすかに滲む疲労を感じて、ウルフウッドは僅かに眉根を寄せた。
「小っさいマネージャーに電話くれたそうやな」
『お前…!』
「小っさいマネージャーは生徒会の副会長を兼務しとってな、忙しそうやったからワイが代わりにかけたんや。… どないしたん?」
『大した用じゃない。夏合宿の日程と人数が決まったら早目に連絡が欲しい、それだけだ』
「早目に? 何でや?」
『ずっと混んでるんだよ。どういう訳か座敷わらしがいるって噂が広まっててな。予約も立て込んじまってる』
ウルフウッドは思わずミリィへと視線を向けた。
「…判った。マネージャーに伝えとく」
『あ、おい…』
言いかけて、バドウィックは口篭もった。
「ああ、詫び入れる件か? 毎日練習があるさかい、なかなかそっちまで行かれへんのや。夏合宿ん時に部員の前で 土下座するほうがええかと思っとったんやけど…」
『…いい』
「あ?」
『恩人にそんなことさせたらマックスに怒られちまう。…それに、俺がヘタレだったのは事実だからな』
その時、息子を呼ぶ老婦人の声が遠くから聞こえた。
『もう戻らねぇと。…あの時は世話になった。礼を言う。三人にも伝えてくれ』
慌ただしく電話は切れた。
「…何だって?」
ウルフウッドは受話器を戻しながら人間台風の質問に簡潔に答えた。
「バドウィックから業務連絡。それと『あの時は世話になった、礼を言う』やて」
「バドウィックさんからですか!? 元気そうでしたか?」
「まあな。ちと疲れとるようやったけど。仕事が忙しいらしいわ」
「そうですかぁ、よかった…。あ、あたし、先輩に伝えてきます!」
言うが早いかミリィは学校目指して走り出した。
「お、おい、伝えてきますって業務連絡の内容…」
主将の声が聞こえていないらしい。左右に揺れる長い金髪がどんどん遠くなっていく。
「…しゃあない、ワイらも行くか」
「あのさ、さっき言ってた『詫び入れる』とか『土下座』って何のこと?」
「…何でもあらへん」
表情も声も不快感で満ちている。
これまでに相棒の機嫌を損ねて何回殴られたかを数え始めて途中でやめ、ヴァッシュは首を竦めつつ沈黙を守ることにした。


―FIN―

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