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うろほろぞ
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勝利荘禍難譚



プロローグ


闇と静寂。それが世界の全てだった。
首を巡らせても何も見えない。何も聞こえない。
両手を目の前に持ってくる。腕を動かした感覚はあるのに黒一色の視界は変わらなかった。
ここは一体どこなのか。何故自分はここにいるのか。
「…誰か…誰かいらっしゃいませんか?」
問いかける声は反響し、やがて消えた。
再び訪れた静寂に不安が募る。
「誰もいないんですの?」
先刻よりも大きな声で呼びかけてみる。と。
何か聞こえた。小さな、小さな音…違う、これは――
『泣いている…?』
辺りを見回して声の主を探す。でも見えるのは相変わらず闇だけ。
不意に泣き声が大きくなり、同時に視界の先がぼんやりと明るくなった。
膝を抱え込み顔を伏せて、少年が泣いている。着ている縦縞の上下お揃いの服はパジャマらしい。
悲痛な声に思わず手を差し伸べる。歩いたつもりはなかったが、互いの距離が一気に縮まった。
少年の傍らに膝をつく。
「どうしましたの? どこか痛いんですの?」
自分の不安を押し隠し、できるだけ優しく語りかけたが、少年は一向に泣き止まない。
「お姉さんが来たからにはもう大丈夫ですわ」
安心させるようにしゃくりあげる背中をそっと撫でる。小さな身体は冷えきっていて、慌てて上着を脱いで肩にかけ自分の服ごと抱きしめた。
「…けて…」
鳴咽に混じる声は小さすぎて聞き取れなかった。
「え?」
「…たす…て…」
冷たい手が自分のブラウスを握り締める。白く見えるのは淡い光の為か、力を込め過ぎて血の気が引いてしまったせいか。
突然少年が涙に濡れた顔を上げ、自分を正面から見上げた。
「助けて! ぼくの家がなくなっちゃう!」
強張った顔、切羽詰まった声。緊迫した空気が痛いほど伝わってくる。
「お願い、たす」
言いかけた言葉は突風にかき消された。何かに引っ張られたような浮遊感。あっと思う間もなく腕が離れ、少年の姿が見えなくなる。
そして、闇の中を何処までも落ちてゆく感覚。
恐怖に思わず悲鳴を上げた。
「……っ!!」
目を見開くと同時にメリルは飛び起きた。せわしなく辺りを見回して現状を把握するのに数秒を要した。
いつもと変わらない自分の部屋。カーテンの隙間から見える外は暗い。目覚まし時計はもうすぐ四時半になるところだった。
「夢…」
我知らず呟きながら、メリルは額の汗をパジャマの袖で拭った。酷く寝汗をかいていて、布地が肌に張りつく感覚が気持ち悪い。
『あの子…』
夢の中で必死に助けを求めていた少年の顔を思い起こす。
「確かめなくちゃ…」
固い表情で自分に誓うと、メリルはシャワーを浴びるべくバスルーム目指してけだるい足を動かした。


授業の合間の休み時間になると、メリルは職員室の近くに備え付けてある公衆電話に走った。携帯電話は使わなかった。通話記録に自分の携帯番号を残さない為である。先方の状況が判らない以上用心するに越したことはない。
祈るような気持ちでダイヤルする。が、コール音はするのに誰も出ない。何度かけ直しても同じだった。
食材の仕入れなどで外出する可能性はある。しかし民宿が完全に無人になることがあるだろうか。
『おじいさん…おばあさん…バドウィックさん…』
メリルの不安は増す一方だった。
努力が報われたのは昼休みになってからだった。
『…はい』
聞いたことのない男の声。メリルは咄嗟に声を半オクターブほど跳ね上げた。
「あの~、勝利荘さんですか~?」
語尾を延ばすイマドキの女子高生的口調で相手を確認する。返事はなかったが、メリルは構わず話し続けた。
「えっとぉ、予約をしたいんですけど~、六月の~」
「あいにく一杯だ。他をあたるんだな」
それだけ告げると電話は一方的に切れた。
「……」
仕方なく受話器を戻す。電話を睨むように見つめながらメリルは考え込んだ。
おそらく二十代。電話の応対は接客業としては間違いなく落第で、人手が足りなくて雇われた人物とは思えない。
何よりも、崩れた、というような声の印象が気になった。
「…マネージャー?」
整列した数字から心配そうな声の主へと視線を移す。その短い間にメリルは完璧に表情を整えた。
「あらヴァッシュさん、どうなさいましたの?」
「いや…」
落ち着かない素振りが気になって後を尾けたのだが、笑顔で質問されては言葉に詰まってしまう。人間台風は曖昧な笑みを浮かべながら次に言うべき台詞を探した。
「あ、電話使われます? ごめんなさい、お邪魔でしたわね」
「そうじゃないんだ。その…何かあったの?」
悩んだ挙げ句ヴァッシュが選んだのは直球勝負。
「何か…とおっしゃいますと?」
僅かに首をかしげ、メリルはきょとんとした表情で再び尋ねた。質問には質問を返し、決して答えない。相手の問いを封じる最良の策である。
メリルは隠し事をしている。ヴァッシュは自分の直感を確信していた。だが彼女に答える意志がないのは明白で。
これ以上の問答は時間の無駄だ。小さくため息をつくと、人間台風は再び口を開いた。
「…何でもないならいいんだ。でも…」
菫色の双眸をまっすぐ見つめる。
「困った事があったら教えてね。できるだけ力になるから」
「…はい、ありがとうございます」
前にも同じようなことを言われましたわね。いつものことではあるが、クラスメイト兼クラブメイトのあまりの心配症ぶり
にメリルはかすかに苦笑めいた笑みを浮かべた。
「さあ、お昼にしましょう。急がないと休み時間がなくなってしまいますわ」
「あのっ」
「はい?」
「…い、一緒に食べない?」
「ええ、いいですわよ」
臆病な自分を押しやり、ありったけの勇気をかき集めての発言は、拍子抜けするほどあっさり報われた。が。
「放課後の練習の様子をお聞きしたいですし」
メリルが平日部活に参加しているのは朝練だけ。放課後は生徒会の業務に追われて様子を見に行くことさえできない。マネージャーとして当然の配慮である。
歩きながらあれこれ説明する間も、ヴァッシュは落胆を悟られないよう人知れず血の滲むような努力をした。


放課後、副主将に約二十秒遅れて教室を出たウルフウッドは昇降口の手前で声をかけられ足を止めた。
「どないしたん、小っさいマネージャー。練習メニューの渡し忘れでもあったんか?」
「いえ。…実は…相談したいことがありますの」
メリルは手短かに説明した。内容は伏せたが今朝嫌な夢を見たこと、勝利荘に電話をかけ続けたがなかなか繋がらなかったこと、お昼に電話に出たのが老夫婦でもバドウィックでもなかったこと、対応がいい加減で悪い印象を受けたこと。
ウルフウッドは超常現象の類は一切信じない。夢の話だけなら『気にしなや』の一言で片づけ、決して取り合わなかっただろう。だが、電話の件は彼の脳裏に注意信号を点滅させるに充分だった。
「カタギやない印象やった、っちうことか?」
「…ええ、そうですわね」
ウルフウッドは眉根を寄せた。
消息不明だった約十年の間に、左うちわとは程遠い生活をしていたであろうバドウィックがカタギでない連中とかかわった可能性は低くはない。もしそうなら…
「で? 小っさいマネージャーはどうしたいんや?」
メリルは自分の計画を語った。
「必要なものは私が明日までに揃えます」
「…アンタも行くんか?」
確認の形をとってはいるが、ウルフウッドの言葉は暗に反対の意思表示をしたものだった。危険なことが起こっているかも知れない場所に女を行かせたくない。たとえ彼女が男勝りの性格と、人並み以上の度胸と、平均を遥かに上回る運動神経の持ち主だとしても。
「ええ」
必要最小限の返答。咄嗟に説得の足がかりが見出せず、ウルフウッドは暫し自分の髪をかき回した。
「…アンタがもし危険な目におうたらおっきいマネージャーがまた泣くで。あの子に心配かけたくないやろ? ここはおとなしゅう留守番」
「大丈夫ですわ。ミリィには内緒にしますから」
自分を見上げる瞳を見返した瞬間、トライガン学園野球部主将は自分が無駄な努力をしていることを悟った。
「判った。けどな…」
先刻聞いた計画に修正を加える。それに伴い必要な物品も若干増えることになるが。
「…こっちの方がより確実やろ? そやなかったらワイは乗らん」
ウルフウッドの提案にも一理ある。メリルはごく僅かな時間黙考した後肯首した。
「では明日の朝」
「おう。派手にやるで」
会釈して生徒会室に向かうマネージャーを見送ってから、ウルフウッドは靴を履き替え部室を目指した。
ドアの前に所在なげな表情で人間台風が立っていた。鍵がなくて入れなかったのだ。
「遅かったね。すぐ来ると思ってたのに」
「ちょうどええ。トンガリ、オドレ明後日何か予定あるか?」
「明後日?」
曜日の関係で飛び石となったゴールデンウィークの連休初日である。
「部活があるのに旅行の予定を入れられる訳ないでしょ。練習以外何もないよ」
「ほならええ。これからも入れるんやないで。おさげのマネージャーに丸め込まれんなや」
「何でここでジェシカが出てくるのさ」
答えはなかった。駆けてくる後輩に気づいて、ウルフウッドが口を閉ざした為に。
どこか釈然としないままヴァッシュは部活にいそしんだ。今日も校庭にメリルの姿はなく、野球部はいつものように練習を終えた。


「どういうことですのっ!?」
怒りに満ちた声に突然耳朶を打たれ、校庭の隅で思い思いに準備運動をしていた野球部員達は一斉に動きを止め声の主を見やった。いつも欠かさない朝の挨拶を省略した黒髪のマネージャーが、柳眉を逆立てて主将を睨みつけていた。
「…何のことや」
「自主トレのことですわ! 放課後やってますでしょう!?」
「あああれか。甲子園目指すんやったらそのくらいやって当然やろが」
「そんなお話私は聞いてません!」
メリルの剣幕にウルフウッドは不快そうに眉をひそめた。
「…何でそないなこといちいち小っさいマネージャーに報告せなあかんのんや」
「練習メニューは個人の体力や弱点に応じて作ってあるんです! 勝手に練習量を増やしたりしたら故障者が続出するだけです! 地区予選まであと三ヶ月足らずだというのに」
「だからやっとるんやないか。試合に勝たな意味なんぞあらへん。勝てるチームを作るんがワイの務めや」
「故障者ばかりのチームでは勝てる試合も勝てなくなります!」
「怪我した奴はおらんで」
「これからも怪我をしないと言いきれますの!?」
「ワイは大丈夫や」
「自分を基準に考えないで下さい!」
無言の睨み合い。ウルフウッドの視線は三年生でさえ背筋が寒くなるほど苛烈だが、メリルは臆することなくそれを真正面から受け止めている。
「…もいっぺん言う。ワイの務めは勝てるチーム作りや」
「…私の仕事は野球部員から故障者を出さないことです」
「小っさいマネージャーは甲子園に行きたくないんか?」
「行きたいです。野球部員全員の望みですもの、当然でしょう?」
再び沈黙。
「…目的はおんなじでも」
「選択する手段が異なるようですわね」
主将が僅かに目を細めた。
遅まきながら、ヴァッシュは事態を収拾するべく二人の間に割って入った。
「ちょ、ちょっと主将落ち着いて。マネージャーも」
大きな手に肩を、小さな手に背中を押され、人間台風は蚊帳の外へと押し出された。ぬくもりを感じたのは同時、力を入れるタイミングも見事に一致している。そのあうんの呼吸に、ヴァッシュはよろめきつつも妙な感動を覚えた。
嫉妬という棘が混じった苦い感動を。
周囲をぐるりと見渡してから、ウルフウッドはおもむろに口を開いた。
「明日の練習は中止!」
意外な怒号に部員達はどよめいた。
再び小柄なマネージャーに向き直ると、黒髪の男は口の端を吊り上げるようにして笑った。
「明日、顔貸してもらうで。今後の野球部についてじっくり話し合おうやないか」
「ええ、望むところですわ」
厳しい表情で見返し、メリルは主将の申し出を承諾した。傍目には売られた喧嘩を言い値で買ったようにしか見えない。まさか暴力沙汰にはならないとは思うが、そう断言できる者は誰もいなかかった。拭い切れない不安が
胸に広がる。
「マ、マネージャー!?」
裏返りかけた声での呼びかけに、メリルはようやく表情を和らげて先刻押しのけたピッチャーを見上げた。
「すみません副主将、生徒会の仕事がありますの。申し訳ありませんが今日の部活は休ませていただきます」
「あ…はい、いってらっしゃい頑張って」
我ながら間の抜けた返答だと思う。視界の隅に『何言うとんねんこのど阿呆』と書いてある相棒の顔が見えた。
『いつもならこういうことはウルフウッドに言うのに…』
最古参のマネージャーに無視された形になった主将は、そんな彼女に文句を言うこともせず、練習を始めるべく部員達に指示を出している。目には目を、無視には無視を、ということか。
二人の間に大きな亀裂が入っているのを感じて、ヴァッシュは小さくため息をついた。



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勝利荘禍難譚



その日は自主トレも中止された。部活中、口をへの字に曲げた主将に声をかける者はいなかった。
一人を除いて。
唯一の例外は家に帰ろうとするウルフウッドの横を自転車を押しながら歩いていた。
「どうしたんだよ、皆の前でマネージャーとあんな口論するなんて…」
「いつもなら熱くなるのは俺の方で、ストッパー役はお前じゃないか」
「何かあったのか?」
返事はない。表情は固いまま。
部室を出て以降ずっと沈黙を守っていたウルフウッドが口を開いたのは、彼が自宅の鍵を開けた直後だった。
「ちと寄ってけ」
「…は?」
「コーヒーくらい出したるわ。インスタントやけどな」
黒髪に縁取られた顔に浮かんだ皮肉な笑み。それは、普段見慣れたいつもの表情。
申し出の意図は理解どころか見当さえつかなかったが、ヴァッシュは遠慮なく主将の部屋に上がることにした。
鍋で沸かした湯でウルフウッドがコーヒーを煎れている間も、副主将はひたすら頭をフル回転させていた。とにかく話を聞き出して解決の糸口を掴まなければならない。でもどうすれば…
「どないした? 冷めてまうで」
「あ、いや…ありがとう」
熱いコーヒーをすすってから、ヴァッシュは確固たる方針を見出せないまま話を切り出した。
「今日は変だよ、キミ。休みなしを決行した時だって、反対した部員を怒鳴ったりしなかったのに…」
ウルフウッドは答えない。無表情でコーヒーを飲んでいる。
「…忙しいだろうからって、練習メニューを組んでくれてるマネージャーに相談しないで自主トレを始めたのはまずかったかなって思ってる。俺達みたいに体力余ってる奴ばっかりじゃないし、怪我をしたら大変だっていう彼女の主張も判るし…」
やはり答えはない。俯き加減で手にしたマグカップに視線を落としている。長めの前髪のせいで表情は判らない。
「マネージャーには俺から謝る。何とか冷静になってもらうから、キミも明日はケンカ腰にならないで」
ヴァッシュはそこで言葉を切った。顔を伏せた男の肩が震えているのに気づいた為に。
「…ウルフウッド?」
とうとう堪えきれなくなり、ウルフウッドはそれまでの不機嫌ぶりが嘘のように爆笑した。
息も絶え絶えになるまで笑い続けた後、目尻に浮かんだ涙を拭いながら主将はおかしそうに言った。
「オドレも騙されたか。迫真の演技やったっちうことやな」
「演技?」
ようやく落ち着きを取り戻したウルフウッドは、昨日のメリルとのやりとりをヴァッシュに話した。
「…でな、部員には内緒で勝利荘の様子を見に行くことになったんや」
「それで部活を休みにする為にあんな派手に口論した訳ね。納得」
「小っさいマネージャーは『内密にしたい』言うてな、ワイと二人で行くつもりやったようやけど」
ヴァッシュの眉間に皺が刻まれた。
メリルの考えは判る。でも、頭では理解できても感情が猛烈に反発する。『自分は部外者扱いなのか』と。
半年ほど前、胸にわだかまった疑問が再び蘇る。二人は互いをどう思ってるんだろう…。
「オドレも巻き込むことにした」
相棒の気持ちに構わず、ウルフウッドは自分の予測を説明した。話が進むにつれてヴァッシュの表情が厳しくなっていく。
「…危険な状況かも知れないのか…」
「ホンマは小っさいマネージャーは置いていきたいんやけどな」
重苦しい沈黙が六畳間を満たした。
無言の状態を打破したのは主将だった。
「ワイかオドレがどっかの学校のワンゲル部員になりすまして、合宿の下見と称して勝利荘に行く。特大のリュックに隠れた小っさいマネージャーを背負ってな」
「変装して、だろ?」
ヴァッシュの言葉にウルフウッドは口元に笑みを刻んだ。
何もなければいい。しかし、何かトラブルが起きていて、それに首を突っ込んだことが公になったら、最悪の場合野球部は公式試合への出場を自粛せざるを得なくなる。自分達のことは誰にも気づかれてはならない。
「何が起きとるのか確認するのが第一。ヤバイ状況やったら証拠を集めて匿名で警察に届けるのが第二や。リュックとか変装の小道具とか、必要なモンは全部小っさいマネージャーが用意して今日ここへ届けてくれる。いつになるか判らんけど…どないする?」
「待つよ。キミさえ構わなければ、だけど」
一人暮らしのウルフウッドの部屋をメリルが訪ねるというのは面白くない。
ピッチャーは内心の不満を見事に押し隠したが、キャッチャーは自分の感情を素直に表現した。思いきり顔を顰めてみせたのである。
「オドレと二人っきりかい…」
「誘ったのはキミでしょ」
「気色悪いことぬかすなっ!!」
怒鳴りながら素早く立ち、言い終わる前に相手の背後に回り込んだ。そして。
くり出された怒りの鉄拳を後頭部にまともに受け、ヴァッシュは謎の悲鳴を上げて痛む頭を抱えた。そのまま床を見つめるような体勢でじっと動かない。
しばらくしてから、人間台風は殴られたところをさすりながら肩越しに振り返った。加害者を見上げる目には涙が浮かんでいる。
「…ってー…何も殴ることないだろ!? 罪のないジョークなのに」
「今度笑えん冗談ゆうたら拳じゃ済まさへんで」
声色は絶対零度。
更に言い募ろうとしていた男は顔を引き攣らせて沈黙し、飲み込んだ言葉のかわりに息を吐いた。
それぞれが自分の思考に沈んでどのくらい経ってからだったか。
廊下を近づいてくるかすかな音に、男達は揃ってドアへ目をやった。
台車を押すようなその音はだんだん大きくなっていき、部屋の前で止まった。続いてノックの音。
家主は誰何することなく扉を開けた。


「すみません、遅くなって」
セーターとカーディガンのアンサンブルにスラックスというラフな恰好で、メリルは申し訳なさそうに頭を下げた。
華奢な身体の左右に大きなスーツケースが置かれている。手には小さな鞄と紙袋。
「そんな待ってへん、大丈夫や。…えらい荷物やなあ。迎えにいった方がよかったか?」
言いながら靴を履き、二つのスーツケースに手を伸ばす。様子を見に来たヴァッシュと手分けして荷物を室内に運び込んだ。
「大丈夫ですわ。近くまでタクシーで来ましたから」
お邪魔します、と一礼して部屋に入ると、メリルは早速トランクから中身を取り出し始めた。登山用の大きなリュック、ビデオカメラ、MDプレーヤーと録音用マイクなどが床に並べられる。
その中の一つ、金髪のカツラを手にすると、ウルフウッドは無言のまま隣の男にそれをかぶせた。
「ちょっ…突然何!?」
「ワンゲル部員はオドレに決定や」
「はぁ?」
ストレートの髪に輪郭の大半を隠された状態でヴァッシュは間の抜けた声を上げた。カツラがずれていて毛先の長さが左右で異なるのはご愛敬である。
「ワイの顔立ちやと金髪は不自然やからな」
金髪のウルフウッドを想像し、すぐさまそれを打ち消した人間台風は、こみ上げる吐き気を堪えながらカツラをとり首を縦に振って了承の意を示した。逆立てていた髪は見事に崩れてしまったがどうしようもない。
「スーツなんですけど…」
バッテリーは声の主へと視線を移した。
「父のものを持ってきましたの」
それは一目で上等と判る黒のスーツだった。
「とりあえず着てみよか」
ウルフウッドは学ランを脱ぐと上着だけ羽織ってみた。
「…無理そうですわね」
胸板が厚くボタンがかけられない。肩や腕にゆとりがなく、袖丈も短いように思える。ズボンははいていないが
おそらく寸足らずだろう。
「ワイもこの手の服は持ってへんしなぁ…」
計画を変更せなあかんか…。ウルフウッドが眉根を寄せた時、右手を挙げてヴァッシュが質問した。
「あのさ…スーツを何に使うの?」
「あ、ごめんなさい。ヴァッシュさんはご存知ないんでしたわね。変装用ですの」
「スーツで変装?」
「ヤッちゃんにな」
キャッチャーは不敵な笑みを浮かべて相棒を見やり、ピッチャーは彼の意図を瞬時に理解した。
ワンゲル部員はいわば正攻法の偵察。もしその手の連中が勝利荘にいるのなら、同業者と思われた方が近づき
やすいかも知れない。
「そうや、オドレ、この手の服持ってへんか?」
「あるにはあるけど…」
ヴァッシュの脳裏に浮かんだのはレムの結婚式の時に着た礼服。
「よっしゃ、明日持ってきいや」
「え!?」
「オドレの服ならサイズもちょうどええやろ」
「困るよソレ! もし破ったりしたら…」
母に大目玉食らうのは間違いない。
「このスーツじゃ変装にならんやん。…それとも何か? 小っさいマネージャーのおとんの服なら破ってもええ、言うんか?」
「…判ったよ」
メリルのこととなると弱い。ヴァッシュはしぶしぶ承知した。
明日の打ち合わせを済ませた後、デタラメーズは同時に紙袋へと目を向けた。食欲をそそる香ばしい匂いはそこから立ち上っている。
「たこ焼きを買ってきましたの。よろしかったらどうぞ」
「いいの!?」
紙袋からプラスチック製のパックと缶入りの烏龍茶を取り出しながら、メリルは心底嬉しそうな人間台風に肯いてみせた。
「ありがとう、おなかペコペコだったんだ!」
「おおきに。ほな遠慮なく」
『いただきます』と言いつつたこ焼きに手を伸ばした二人に間髪入れず雷が落ちた。
「駄目です! 手を洗ってからにして下さい!」
「…は~い」
よい子に返事をした後バッテリーは先を争うように流しに行き、両手を泡だらけにしてきちんと手を洗った。
「…どうぞ、召し上がれ」
マネージャーの許可を貰い、二人は早食い競争でもしているかのように勢いよく食べ始めた。彼らにとって幸いなことにたこ焼きは少し冷めてしまっていて火傷する心配はなかった。
「それじゃ私は失礼しますわ」
ヴァッシュは三つ目のたこ焼きを飲み込むことに失敗した。ひとしきり咳込んだ後涙目のままメリルを見つめる。
「…一緒に食べないの?」
「ごめんなさい。急いで帰らなければならないんですの」
今日はドイツ語のレッスンの日なのである。
「送ろうか?」
「大丈夫ですわ、タクシーを使いますから」
玄関までついてきた副主将の『タクシーを拾うまで付き合う』という申し出を感謝しつつも辞退し、メリルは靴を履いてから厳しい表情で向き直った。
「食べ終わったら早く帰って、ちゃんとご飯を食べて下さいね。ウルフウッドさんもですわよ。たこ焼きでは夕食になりませんから」
バッテリーが肯くのを確認し、ようやく小柄なマネージャーは笑みを浮かべた。
「それじゃ明日」
「うん、また明日」
「気ぃつけてな」
ウルフウッドは座ったまま手を振ってマネージャーを見送った。
扉が閉まり気配が完全に消えてから座卓に戻ったヴァッシュは、たこ焼きの七割がなくなっていることに気づいて憤慨した。


翌朝、人間台風は待ち合わせよりも十分ほど早くキャッチャーの家に着いた。スーツの試着の為である。
「…大丈夫そうやな」
ウルフウッドは両腕をぶんぶん振り回して着心地を確認した。胸元は多少きつい感じがするが、動くのに大きな支障はない。この際贅沢は言っていられなかった。
「破らないでよね、汚さないでよね」
「わかっとるて!」
カツラとつけ髭と丸眼鏡で変装したヴァッシュに涙声で懇願され、ウルフウッドは半ば呆れながら請け負った。
約束の七時を二十分過ぎたがメリルは来ない。
「どうしたんだろ…」
つけ髭だけ外したヴァッシュが誰に言うともなく呟いた。
自分が家を出るまでに電話はなかった。ウルフウッドに連絡しようにも電話はない。大家さんにかける訳にもいかないだろう。
あと五分待って来なかったら携帯に電話してみよう。バッテリーがそう結論を出した時ドアがノックされた。
「遅かったやん、小っさい」
言いながら扉を開けて、ウルフウッドは絶句した。
「…すみません、説得しきれませんでした」
そこに立っていたのは、困惑と若干の疲労が入り交じった表情のメリルと、その後ろで頬を膨らませているミリィだった。
どういうことなんですか、と詰め寄るミリィをなだめてとりあえず部屋に入ると、メリルは簡単に事情を説明した。
「今日の話し合いが心配で、自分も立ち会いたくて朝から私の家の前で待ってたそうなんです。でも、私の服装があまりにも普段と違うので『おかしい』と察したらしくて…」
ジーパンにスニーカー、厚手のシャツ、ドットボタンのついたジャンパー。確かに彼女らしからぬコーディネートである。
「ヴァッシュ先輩もウルフウッド先輩も仮装してるなんて絶っ対変です!」
ウルフウッドは黒のスーツを着込み、ヴァッシュが持ってきた整髪料で髪をオールバックにしている。ヴァッシュの外見は前述のとおり。疑問に思わない方が不思議だ。
「…せめて変装って言ってくれないかな」
「ごまかそうったって駄目です!」
ぴしゃりと言われ、ヴァッシュは低く呻いて口をつぐんだ。
小さく吐息すると、ウルフウッドはやむなく勝利荘の様子を見に行くのだと打ち明けた。いきさつと予測は説明しなかったが、三人の雰囲気から感じるものがあったのだろう。ミリィはきっと顔を上げると力強く宣言した。
「あたしも行きます!」
「え!?」
異口同音に短く言った後三人がかりで説得を試みたが、ミリィは耳を貸そうとしない。
「ヴァッシュ先輩っ」
「はいっ!」
大柄な後輩に睨まれ、ヴァッシュは背筋を伸ばして元気よく返事をした。
「ここまで自転車で来ましたよね。下に停めてあるの見ましたよ」
「…ソレガ何カ?」
「あたしを家まで送って下さい。で、あたしが着替え終わったらまた二人で戻りましょう!」
行く気満々である。
「いや、あの、でもね」
「もし置いてけぼりにしたら…あたし、大騒ぎしますからね~~~」
目が据わっている。本気なのは疑いようもない。
後ろ襟を掴まれ半ば引きずられるようにして、ヴァッシュはミリィと共に部屋を出ていった。
「ちょ、ちょっと待って、コレは外させてよお~~~」
一度閉まった扉が開き、玄関にカツラと眼鏡が置かれた後再び閉められた。
「……」
残された二人は長い沈黙の後、揃って特大のため息をついた。







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勝利荘禍難譚



ヴァッシュ達を待つ間、ウルフウッドはスーツを脱ぎ普段着に着替え、髪型もいつもどおりに戻した。地元であの姿を見られるのはまずいと判断した為である。変装道具はヴァッシュのリュックに入れた。
再びウルフウッドの家で落ち合い、四人は駅へと向かった。
二度の乗り換えの後、メリルは周囲を見回し他に乗客がいないことを確認してから、真剣な面持ちでミリィを見つめた。
「あなたの変装はほとんどできませんけど…でも、できるだけのことはしましょう」
髪を梳き、二つに分けて三つ編みを作りお団子にする。急遽コンビニで買った大判のハンカチで頭を覆う。髪の色を少しでも隠そうとしたのだ。
同じくコンビニで買った眉墨でソバカスを書く。それだけでも随分雰囲気が変わった。
「…そうだ、本名を呼んだらまずいですよね」
ミリィの指摘に三人は顔を見合わせた。
言われてみればそのとおりである。単独行動のウルフウッドとリュックに隠れるメリルには必要ないが、ヴァッシュとミリィはあった方がいいかも知れない。
偽名が決まるまで一分もかからなかった。
「がんばりましょーね、エリクス先輩!」
「…そうだね、後輩君」
無邪気な笑顔での呼びかけに、ヴァッシュは複雑な思いを押し隠しつつ同意した。
駅に着くと、男達は変装する為誰もいないトイレに入った。メリル達は改札からは死角になる場所で二人を待った。
「…トンガリ」
低い声に真摯な響きを感じてヴァッシュは思わず振り返った。
「何?」
身支度する手は休めずに、ウルフウッドは言葉を紡いだ。
「…おっきいマネージャーにはどうも緊迫感が足らん。まるで遠足気分や。せやから…」
いったん言葉を区切ると、黒髪の男は声を潜めて言った。
「マネージャーのこと、頼むわ。守ってやってくれ」
ウルフウッドは三人と別行動せざるを得ない。ヴァッシュの運動神経を信頼していない訳ではないが、喧嘩なら自分の方が得意だという確信がある。万一の事態に遭遇した場合にすぐ自分が駆けつけられないのはやはり不安
だった。
「…判ってる。お前こそこっちの心配ばっかりしてドジ踏むなよ」
返事の代わりにウルフウッドの服を詰めたミリィのリュックが結構な勢いで飛んできた。それを難なく受け止め、ヴァッシュは鏡の前に立つ相棒に向かって親指を立ててみせた。
キャッチャーのリアクションはなかった。髪を整えるので両手が塞がっていたのである。
ミリィが兄から無断借用してきたというサングラスをかけると、ウルフウッドはメリルが用意した手術用のゴム手袋を手にはめた。つけ髭とカツラをつけ丸眼鏡をかけたヴァッシュもワンゲル部員らしく軍手をはめる。指紋を残さない
為だ。切符の指紋はハンカチで綺麗に拭った。
「…行くぞ」


にせワンゲル部員達は肩を並べて山道を登っていった。特大のリュックにはビデオカメラや録音機器と一緒にメリルが入っている。
「ごめんね。窮屈でしょ」
「大丈夫ですわ」
呟くような声で呼びかけると小さな声で返事がきた。辛そうな口調ではないことに人間台風はほっと胸をなで下ろした。
空は快晴、緑は豊か。ミリィは鳥のさえずりに合わせて鼻歌を歌っている。目的を忘れられたらまさにハイキングである。
が、そんな行楽気分は程なく粉砕された。
勝利荘へ至る唯一の道を塞ぐように車が停まっていた。その前に男達がたむろしている。外見や服装はバラバラだが、二人を見る目には友好的な雰囲気は微塵もない。
ミリィの顔を見られないよう背に庇いつつ、ヴァッシュはにこやかに話しかけた。
「あのー、勝利荘って民宿がこの先にある筈なんですけど…」
「無駄足だったな。閉鎖されたぜ」
顔を上下に分断する縫い傷のある男がぶっきらぼうに答えた。
「え、そんな連絡もらってないっスヨ?」
「急だったんだ。とっとと帰んな」
「それじゃおじいさんとおばあさん」
「か・え・れ、っつってんだよ」
何故か顔と胸に星が描かれている上半身裸の巨漢がヴァッシュを見下ろしながら凄んだ。
人間台風はホールドアップしつつ素早く辺りを見回した。全員の姿勢が変わっている。後ろに手を回している奴がいるのはおそらく隠し持った武器を掴んでいるから。
『逆らえば問答無用って訳か』
自分一人ならともかく、マネージャーがいる今は絶対に無茶はできない。ヴァッシュはため息をつくと後ろにいる後輩に呼びかけた。
「しょうがない。帰ろう」
踵を返して今来た道を引き返す。背中に突き刺さるような視線を感じながら。
どうやらウルフウッドの予測が的中しているようだ。メリルが電話した時に出たのもあいつらの仲間だろう。
『これからどうするか…』
三人は無事なのか、それだけでも確かめたい。
「あ」
ミリィが声を上げたのに一拍遅れて背中を叩かれた。ヴァッシュは思わず足を止め、どちらに先に声をかけるべきか迷った。
と、今度は右肩に近い位置を叩かれた。くり返し軽い衝撃が来る。
肩越しに背後を確かめる。連中の姿はもう見えない。
「ちょっと、こっちに」
後輩の手を引いて右手の繁みをかき分ける。数メートル進んだところでリュックを降ろし、口を開けた。
脱皮するように小柄なマネージャーは狭い空間から抜け出した。
「大丈夫?」
答えないまま、俯き加減だったメリルがゆっくりと顔を上げる。
菫色の双眸に見上げられた時、ヴァッシュは奇妙な違和感を覚えた。
「道はあるよ」
メリルは言った。まぎれもないメリルの声で。
だが違う。口調も、微妙なイントネーションも。
「道っていえないかも知れないけど。お兄ちゃん達はからだが大きいから大変かな」
メリルが同学年の自分を『お兄ちゃん』と呼ぶ筈がない。僅かに首をかしげて考え込む表情もどこか子供じみていて、いつもの彼女らしくない。訳が判らずヴァッシュは困惑した。
「道って、勝利荘に行ける道のこと?」
ミリィは先輩の異変に臆することなく声をかけた。メリルがこっくりと肯く。
「あたしたちを案内してくれる?」
「うん」
「行きましょう!」
副主将をまっすぐ見てそう言ったミリィの表情は明るかった。
三人の安否を確認する唯一の方法は現地に赴くこと。ウルフウッドが連中をうまく言いくるめられる保証はない。
「…道案内、よろしくな」
「うん!」
元気一杯の返事はやはり普段のメリルとは明らかに違う。それなのにヴァッシュより付き合いの長いミリィに不安を感じている様子はない。
「こっちだよ」
『悩んでる暇はないか』
とにかく勝利荘に行かなくちゃ。ヴァッシュは軽く頭を振って意識を切り替えた。
確かに道はあった。獣道で、人間が歩く為のものではなかったが。
当然のことながらお世辞にも歩きやすいとは言えない。急な斜面を駆け上がったり、薮の中を分け入ったり、伸び放題の下草に足をとられそうになったり…悪路に四苦八苦しながら二人はメリルの道案内で進んでいった。




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そして彼は途方に暮れる



人間台風の意識は真っ白に染まった。恥ずかしくて情けなくて、いっそ消えてしまいたいくらいだった。
メリルも戸惑っていた。固まってしまったピッチャーに何と声をかけたらいいのか判らない。
気まずい沈黙。それを打ち破ったのは耳まで真っ赤になったヴァッシュだった。
「そ、そう! 写真!」
「写真?」
「見せたかったんだ、レムの結婚式の写真」
ヴァッシュは机の上に置いてあった鞄に駆け寄ると、ごそごそと中身を漁り始めた。
写真を見せたい、というのは咄嗟に思いついたことだった。本当は、月一回の食事会より早くレムに渡せればと思い持ってきたものの、保健室に行く時間がなくてそのままになっていただけなのである。
『写真を使って何とか雰囲気を修復する。プレゼントを渡すのはその後だ』
ここから仕切り直し。心の中でくり返し自分に言い聞かせる。
「……あった。はいコレ」
ヴァッシュはフォトアルバムを差し出した。
椅子に座ってからメリルはアルバムを開いた。ヴァッシュはちゃっかり隣に腰掛け、細い指がゆっくりとページを繰るのを見守った。
純白のドレスを纏ったレムの写真が続く。
「……綺麗……」
ため息交じりの呟きにさりげなく目線を動かす。写真を見ているメリルは優しい微笑みを浮かべていた。
横顔に見とれつつ、ヴァッシュは事態が好転し始めたことを確信し密かに喜んだ。
やがて写真は二次会のものに変わった。結婚式の厳かな雰囲気とは全く違うパーティーの楽しい空気が伝わってくる。
突然メリルの肩が震え始めた。笑いを堪えているのだ。
「何か面白いものでもあった?」
「……この写真……」
ヴァッシュは椅子ごと移動してメリルとの距離を縮めた。アルバムを覗き込むという大義名分の元、思いきって身体を傾ける。腕が密着した。
メリルが指差していたのはヴァッシュの写真だった。髪を下ろし正装した彼が直立不動の姿勢で空を睨んでいる。
強張った全身と固い表情からひどく緊張しているのがよく判る。
緊張の原因は周囲を取り巻く女性達だった。隣に寄り添っているのはレムで、その他の五人も新婦とほぼ同年代、全員がチャイナドレス姿でポーズをとっている。
「ハーレム状態でよかったですわね」
「全然よくない! 俺が緊張してるの知ってて皆で囲んで、母さんが面白がってシャッター押して……ホント、ガチガチでみっともないったら……抜いときゃよかった」
本気で拗ねるヴァッシュの表情に堪えきれなくなり、メリルは声を上げて笑った。
「……そんなに笑わないでよ」
「ご、ごめんなさい……」
どうにか笑いを押さえ、メリルは再びアルバムに視線を戻した。


「……あら?」
「? どうかした?」
問いかけへの返事はなかった。菫色の瞳はひととおり見た写真を最初から注意深く見直している。
全ての写真を確認した後、メリルは意外そうにある事実を指摘した。
「ナイブズさんの写真はありませんのね」
「ああ、アイツ来なかったんだ」
「え……?」
頭の後ろで手を組んで背もたれに体重を預けると、ヴァッシュは大袈裟にため息をついてみせた。
「ナイブズがこーんな薄情な奴だとは思わなかったよ。せっかくのレムの晴れ舞台なのに欠席だし、中学に入ってから一度も帰ってこないし」
全寮制で、『各々の個性を伸ばす教育』をモットーとするGUNG-HO-GUNS大付属高校は、器材や教師陣といったハード面を金に糸目をつけることなく整備している。その一方で『生徒の為にならない』と判断したものは徹底的に排除するのだ。例えば、強靭な精神を養う為に身内との接点を極力少なくし甘えさせないようにする、というように。
特待生の場合、年に一度の帰省は認められている。しかし、それ以外の私用外出については事前に申請し許可をとらなければならない。
「離婚したことを話しに母さんが会いに行こうとしたら、『来るのは勝手だが会えるとは限らない』って言ってたって」
部外者との面談も制限されている。例え家族でも、理由や所要時間の見込み等を書いた面談申込書を提出して審査を受け、それにパスしてからでないと面会できないのだ。
GUNG-HO-GUNS大付属高校の規則が厳しいことはヴァッシュも承知している。だが、それを差し引いて考えても兄の行動は理解し難い。せめてレムの結婚式には参列して欲しかった。
「年賀状とか暑中見舞いを出しても返事はないし、電話しても本人は出ないで『用件を承ります』って言われるし。……この四年間で俺が話をしたのは一回、それも俺が高校への特待生入学を断った時にむこうから電話がかかってきて理由を訊かれただけ。そういう時って普通『久しぶり』とか『元気か』ぐらい言うよねぇ」
姿勢を戻し、同意を求めて隣を見やったヴァッシュは瞬時に自分の失態を悟った。
俯き加減で唇を引き結んだメリル。色白の顔に浮かんでいるのは痛みに耐えている表情。
『兄弟なのにどうして……』
一人っ子の自分には判らないことがあるのだと思う。でも……
ヴァッシュの生い立ちを思い起こす。四年も会えなくて、声を聞けたのも一回で……どんなに辛いだろう。
「や、元々ナイブズって判んないところがあるっていうか、変な奴なんだよね! 無口だし、野球なんてチームワークが大切なスポーツやってるクセに人付き合い悪いし」
何とかメリルの気持ちを盛り立てようとヴァッシュは明るく話しかける。
「愛想もないからインタビュアーの人とか大変そうで……。一昨年だったかな? レポーターがコメントをとろうとしてナイブズの横について歩きながら話しかけてるのをテレビで見たんだけど、アイツ完全に無視してたんだ。で、野球のことじゃ喋ってくれないと思ったのか、その人『どうしてナイブズ・ミリオンズじゃなくてミリオンズ・ナイブズなんですか』って質問したんだ」
フルネームを表記する場合、通常は名前の後に姓がくる。
両親が離婚した際、ナイブズは親権が母親にあるにもかかわらず何故か父方の姓を名乗るようになり、更に中学入学と同時に表記を逆にした。東洋式にしたのである。
その時の様子を思い出したのか、ヴァッシュはしばらく一人で笑ってから再び口を開いた。
「そしたらアイツ、相手をちらっと見てから答えた。たった一言、『語呂が悪い』」
思わず足を止めたレポーターには目もくれず、ナイブズは何事もなかったかのように立ち去った。
「レポーターは『いやあ、煙に巻かれちゃいました』なんて言ってたけど、アレ絶対本気だと思うよ。ね、変な奴でしょ?」
にっこり笑ってメリルの様子を確かめる。
辛そうな表情は変わっていなかった。


笑みを消し、小さくため息をついて、ヴァッシュはそっと目を閉じた。苦い後悔を噛み締める。
ただの雑談のつもりだったのに。そんな顔をさせたかったんじゃないのに。悲しい思いをさせたかったんじゃないのに。
どんなに悔やんでも言葉はもう取り返しがつかない。
「……ごめん、心配かけて」
静かな声にメリルは恐る恐る顔を上げた。クラスメイト兼クラブメイトは穏やかに微笑んでいた。
「確かに会えないのは少し寂しいけど、ナイブズには多分会いたくない理由があると思うんだ」
見当はついている。あの時俺のせいでナイブズは――
胸の痛みを必死に押し隠して言葉を紡ぐ。
「だから、今は無理に会おうとは思わない。アイツが元気でいるのはニュースで判るから。去年は甲子園で優勝した
お陰で動いてるナイブズをうんざりするほど見たしね」
「でも……」
兄の元気な姿をマスコミを通してしか見られないなんて。
「一生このままの状態が続く訳じゃない。いつか変わる。変われる。……そう信じてる」
自分が変われたように。
「……それに、今年地区大会で優勝すれば甲子園で会えるよ。例えアイツがどんなに嫌がってても」
ヴァッシュはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「今から再会の演出を考えとかなきゃ。ナイブズが目を真ん丸にして絶句するようなとびきりのやつを、ね」
ね、と同時に茶目っ気たっぷりにウインク。
「やっぱり『お兄様~~~~』って叫びながら駆け寄って熱~い抱擁、かな。それとも真っ赤なバラの花束をスッと差し出して……」
深刻な表情で眉間に指を当て悩める哲学者のように呟いている男の姿に、ようやくメリルの口元が僅かにほころんだ。
「……やっと笑った」
にわか哲学者はいつもの人懐っこい笑顔に戻った。
「大丈夫だから……キミは心配しないで」
「ヴァッシュさん……」
メリルは目を細めて微笑むと小さく肯いた。
沈黙。でもそれは先刻の気まずいものではなく、暖かい空気に満ちたもので。
今度こそ渡せる。ヴァッシュは大きく息を吸い込んだ。
「あ、あの……」
「はい?」
早鐘のような鼓動をなだめつつ、人間台風が再び口を開こうとしたその時。
無慈悲かつ無機質な音が部室に響いた。






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そして彼は途方に暮れる




「あ、ちょっとごめんなさい」
硬直したヴァッシュに短く謝罪し、メリルは鞄から携帯電話を取り出すと口元を手で覆って話し始めた。
「もしもし、はい……ごめんなさい、時間がかかってしまって……ええ、判りました」
通話は短時間で終わった。
マネージャーが慌てた様子で立ち上がった。人間台風の胸に嫌な予感が湧き上がる。
「ごめんなさい、私もう戻らないと」
……予感的中。
「もう遅いですし、ヴァッシュさんはお帰りになって下さい。掃除は明日早く来てやりますから」
「じゃ、じゃあ待ってるよ。暗い夜道は危ないし」
「大丈夫ですわ」
メリルは書記の女子生徒の名を挙げた。
「意外と家が近かったんですの。降りる駅も同じですし、途中までは一緒に帰れますから。それにいつ終わるか判りませんもの」
言いながら、机の上に置きっぱなしになっていた紙の束を揃えて鞄にしまう。小さな包みが目についた。
「でも」
更に言い募ろうとしたヴァッシュの前に差し出されたのはチョコレートバーを載せた小さな手。
「どうぞ」
「?」
「今日も自転車なのでしょう? 空腹時……つまり血糖値が低い状態で運動するのは危険ですのよ。とりあえずこれで
糖質を補充して下さい」
「あ……ありがとう」
「早く帰って、ちゃんとご飯を食べて下さいね。インスタントなんて以ての外ですわよ」
「うん……」
気が急いているメリルはヴァッシュの返事が上の空だったことに気づかなかった。
「それじゃ。お疲れ様でした」
「お疲れ様……」
椅子に座ったまま条件反射で手を振ってマネージャーを見送ったピッチャーは、小さな音を立ててドアが閉まった後もしばらく動けなかった。
ゆるゆると身体の力が抜け、自然と猫背になってゆく。もし立っていたらその場にへたり込んでいただろう。
長いため息をついたらがっくりと首が前に倒れた。
左拳を開き、自分の瞳に似た色のパッケージをぼんやりと見つめる。
――プレゼントを渡す筈が、逆にプレゼントされてしまった。
野球で鍛えた肩が小刻みに震え。
「……ヴァッシュ・ザ・スタンピードの大馬鹿やろおおおおおおおおおおっっっっ!!!!!!!!」
喉が破れんばかりの絶叫が旧クラブハウスに轟いた。
その後、マネージャーのアドバイスに従い糖質を補充した自己嫌悪男は、不甲斐ない自分への怒りをモップがけのエネルギーへと変換した。生徒会の仕事と、おそらく今夜から始まるであろう練習メニュー作りに忙しい彼女に負担をかけたくなかった。
翌朝、バッテリーとメリルを除く野球部関係者は、何故かピカピカに磨き上げられた部室の床を見て一様に首を捻った。

ⅩⅠ
体力測定から二週間、メリルに渡された五十名を越える資料のうち約半分が無用のものとなっていた。練習についていけない者、メリル目当てで入部した者、単なる冷やかし等が自然に淘汰された結果である。
減ったのは部員だけではない。当初七名いたマネージャー希望者も、残っているのはミリィとジェシカのみ。
大人数の洗濯は重労働だし、こまごまとした雑用もきりがない。生半可な気持ちでは続かないのだ。
メリルは二人の後輩にマネージャーの仕事を教えることに専念した。行事の前は生徒会のほうに時間をとられ、部活にほとんど出られない日が続くようになる。部室の管理や雑務はなるべく早く自分がいなくてもできるようになって貰いたかった。
故に、先日己の頭を殴打したい衝動に駆られた男の悩みは日に日に深くなっていく。
何とかして二人きりになりたいのだが、メリルが部活に参加している時は必ずといっていいほど新人マネージャー達が傍にいる。ミリィはともかくジェシカがいるところでは個人的な話はできない。たまにメリルが一人でいることがあっても自分が練習中だったりで、何度も心の中で地団太を踏んだ。
それだけでも辛いのに。
「ヴァッシュ~~~、今日一緒に帰ろ~~~」
甘えるような声に勢いよく首を振る。勿論横に。
「方向が全然違うでショ? ブラドと一緒に帰ればいいじゃない。アイツが一緒なら変な人に絡まれることもないだろうし」
デカくて強面。元々悪い目つきがジェシカが絡むと更に悪くなる。ジェシカ専属のボディガードにはうってつけだ。
「そんなの嫌! あたしはヴァッシュと帰りたいの!」
「だぁめ」
「ええ~~~~」
毎日くり返される不毛な会話。いい加減諦めて欲しいのだがそんな気はないらしく。
『ジェシカはいいよなぁ……』
俺が言いたくても言えない台詞をあっさり言えて。
精神的疲労感と羨望のダブルパンチ。自転車をこぎながらため息を量産するのが新しい日課になりつつあった。
部活が駄目なら教室で、とも思ったがこちらも不可能だった。ひょうきんで面白いとの評判が仇になって、休み時間の度に誰かしらに声をかけられ騒ぎに巻き込まれてメリルに近づけない。おまけにウルフウッドが同じクラスにいるのだ。ばれたらどれだけからかわれるか、と思うとつい用心深くなる。
電話で呼び出すのはためらわれた。平日は授業に部活に生徒会、家に帰ればドイツ語のレッスンが週三回と、朝早くから夜遅くまでフル回転。部活は日曜・祝日もあるし、時には生徒会の仕事が割り込むことさえある。自分の為に
時間を割いて欲しいとは言えなかった。
手紙をつけて、机か鞄にこっそり入れてしまおうか。
「……でもなぁ……」
やっぱり手渡したい。直接感謝の気持ちを伝えたい。
できれば、自分の想いも……。
「なーに一人でブツブツ言っとんねん。気色悪いやっちゃな」
突然声をかけられ心臓が跳ねた。
「べ、別に! 何でもないよ」
笑顔で即座に否定する。うまく笑えた自信はない。
ウルフウッドは怪訝そうな表情で口を開きかけたが、結局何も言わずに踵を返した。

ⅩⅡ
校内の雰囲気がどことなく落ち着かない。それもその筈、明後日からゴールデンウィークなのだ。遊びに行く
計画を打ち合わせる楽しそうな声が教室のあちこちから聞こえてくる。
『ま、俺には関係ないけどね』
人間台風は僅かに肩を竦めた。
四月に入ってから野球部の休みは皆無になった。
一日練習を休むと取り戻すのに三日かかる、言うやろ。本気で甲子園目指すんやったらこれくらい当然や。
新主将は厳しい表情でそう言い、一部の反対を押し切り休日ゼロを決行した。
新入部員全員にという訳ではないが、ウルフウッドに対する潜在的な不満があることをヴァッシュは感じていた。
それが表面化しないのはウルフウッドが自分の発言を率先して守るからだ。練習中は誰よりも動くし自主トレも欠かさない。それを見たやる気のある部員は、自ら残って部活後の自主トレに加わるようになった。
自主トレには勿論ヴァッシュも参加している。野球三昧も嬉しいが、ジェシカの誘いを断る口実ができたことがありがたかった。
あとは二人きりになれれば。
視線を移す。副会長の席に本人はいない。メリルはできるだけ部活に出る為に連日弁当持参で生徒会室に行き、連休中の備品貸出について各部の担当者と分刻みで面談しながら昼食をとっていた。
だが、放課後ウルフウッドの言うところのちっさいマネージャーの姿は部室にも校庭にもない。残念ながら努力は実っていなかった。
『あれからずっと放課後部室で会ってないんだよな……』
思い出したくもない大失敗が鮮やかに蘇り、ヴァッシュは小さくため息をつくと空になった弁当箱を鞄にしまった。
部活と自主トレを終えた人間台風は、自転車置き場へと向かいながら深々と吐息した。
誰もいなくなった校庭を突っ切った時、何の気なしに校舎を見上げた。明かりがいくつか灯っている。その内の一つは生徒会室のもの。
「あんまり無理するなよ……」
呟く声がマネージャーに届く筈もなく。
自転車は数えるほどしか残っていなかった。
難なく自分の自転車を見つけ鞄をかごに放り込んだ時、ヴァッシュは意外な人物に名前を呼ばれ首を巡らせた。
「ケビン……」
「は……話したいことがあるんだ。もしよかったら少し時間を貰えないかな」
去年同じクラスだった時もそれほど親しかった訳ではない。ケビンの方から声をかけてくるのはこれが初めてだ。
よほどの訳があるんだろう。話の内容に心当たりはなかったが、ヴァッシュは無言のまま肯いた。
『人目を避けたい』というケビンの希望で、二人は旧クラブハウスの裏手へ移動した。最後まで残っていたのは野球部で、練習が終わった今そこには誰もいないし人が来る可能性もまずない。
「僕に話って何?」
声をかけてきた時のどこか思いつめたような雰囲気を思い出し、ヴァッシュは努めて明るく言った。
ケビンは何度も言い淀んだが、音を立てて唾を飲み込むとようやく口を開いた。
「……僕……今朝メリルさんに……告白した」





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そして彼は途方に暮れる



ⅩⅢ
最初は言葉の意味が判らなかった。
「…………えっ?」
長い沈黙の後、ようやく理解した人間台風はやっとの思いで短く問い返した。ずっと俯いている、自分より小柄な元クラスメイトの表情は見えない。
「憧れてたんだ……入学してからずっと。すごく綺麗で、頭がよくて、スポーツも得意で。……生徒会役員選挙の時には迷惑をかけたのに許してくれて……優しい人なんだってよく判った」
ヴァッシュは何も言わずに――何も言えずに、ただケビンの話を聞いた。
「あれからメリルさんのことが頭から離れなくなった。違うクラスになって少しは落ち着くかと思ったんだけど、好きだっていう気持ちがどんどん膨らんでいって……」
再び訪れた沈黙。それを破ったのはケビンだった。
「ストーカーみたいかな、とも思ったけど、今朝早くメリルさんの家に行ったんだ。メリルさんは驚いてたけど、僕のこと怒ったり追い返したりしなかった。……家の前で告白した。『好きです、僕とつきあって下さい』って……」
「……それで?」
激しい動悸を自覚しつつ、ヴァッシュは何とか平静を装い先を促した。
ケビンは顔を伏せたまま静かに首を横に振った。その時の、悲しそうな彼女の表情を思い出しながら。
「……『ありがとうございます、お気持ちはとても嬉しいですわ。でも……ごめんなさい。私は今自分のことで精一杯で、どなたともおつきあいするつもりはありませんの』……そう言われた」
ヴァッシュの顔が歪んだ。
ケビンがメリルに告白したことに対する動揺、返事がNOだったことへの安堵、ケビンの苦しみに同調する反面、彼の失恋を心のどこかで喜んでいる自分への嫌悪と怒り、誰ともつきあうつもりはないという言葉への落胆……
さまざまな想いが複雑に混ざりあい、インクのように胸に広がってゆく。
「……メリルさん、野球部に好きな人がいるのかな」
そう考えれば、副会長と兼務で忙しいのに部活を辞めないのも納得がいく。
「……それはないと思うよ。部員をひいきしたりしないし、野球部に入部したのも野球が大好きだからだって言ってたし。それに、もしそうならマネージャーはきちんと『好きな人がいます』って言ったんじゃないかな。真面目な言葉に対していい加減な答え方をする人じゃないから」
「……そうか……そうだよね」
ずっと俯いていたケビンが不意に顔を上げた。
「……ほんとはすごく不安だったんだ。本気にされないんじゃないか、笑われるんじゃないかって。でもメリルさんは真剣に話を聞いてくれて、きちんと答えてくれた。お詫びの印も受け取ってくれたし」
「お詫びの印?」
「手作りのオルゴール。……僕はこんなことしかできないから」
眼鏡をかけた顔が再び伏せられた。
「……僕が……君みたいにカッコよかったら……背が高くて、ハンサムで、スポーツ万能で、話も面白くて、人気者で……そうしたらメリルさんは……」
「そんなことない。キミはかっこいいよ」
ケビンは勢いよく人間台風を振り仰いだ。
「……誰かに自分の想いを伝えるのって凄く勇気が要るよね。それをやり遂げたキミはかっこいいよ。……それに、さっきキミは僕のこと誉めてくれたけど、僕は全然かっこよくなんかないよ。マネージャーには叱られてばっかりだし、ホント情けない奴なんだ」
言いたいことも言えないし、プレゼントも渡せない。
「オルゴールは全部手作りなんだろ? 外側だけじゃなくて中身も。それって凄い才能だよ。僕にはとてもできない。……尊敬するよ」
「……ありがとう……」
ケビンは笑った。泣き笑いのような表情ではあったが。
「ごめんね。部活で疲れてるのに引き止めて。……話、聞いてくれてありがとう……」
突然走り出した元クラスメイトの姿が見えなくなるまで人間台風はその場を動かなかった。
辛くて泣いている男の姿を見ちゃいけない――そう思った。

エピローグ
翌朝、ヴァッシュは夜が明ける前からメリルの家の前にいた。
昨日のケビンの話は衝撃的だった。打ちのめされた気分になった。でも、大きな示唆を与えてくれた。
『一緒に帰れないんだったら一緒に登校すればいいんだよね』
そうすれば確実に二人きりになれる。
多くは望まない。二日連続で告白されたらメリルも困るだろうから。プレゼントを渡して感謝の気持ちを伝える。
今日はそれだけでいい。
「行って参ります」
ドアが開く音に続けて聞こえた涼やかな声。ヴァッシュはもたれかかっていた自転車から離れ、門扉へと歩み寄った。
「おはよう」
「ヴァッシュさん!?」
予想だにしなかった来訪者にメリルは門の取っ手を掴んだまま目を見開いた。が、それもごく短い間のことだった。
菫色の双眸がすっと細められた。黒髪に縁取られた顔に緊張が走る。
「……何かあったんですの?」
問いかける声も強張っている。その理由が判らず、ヴァッシュは困惑混じりの笑みを浮かべて逆に質問した。
「何かって?」
「……こんな時間にわざわざこんなところまでいらっしゃるなんて……野球部で何か問題が起きたんじゃ……」
あの時も何か言いたそうだった。でも肝心の話はその後も聞けずじまいで。
「え!? いや、なんにもないよ! ただ……」
右手が鞄に触れた。小さな紙袋の存在を確かめるように。
「……一緒に学校に行こうと思って」
『何言ってんだ俺! 小学生じゃあるまいし!』
本当に言いたいこととは大きくかけ離れた発言にどうしようもなく腹が立つ。人間台風の心の中で自分に対する罵詈雑言が吹き荒れた。
が、彼の内心の嵐は意外な返事の為にぴたりと止んだ。
「……ごめんなさい。それはできません」
驚いてメリルを見つめる。戸惑いと謝罪の気持ちが入り交じった複雑な表情を。
「……どうして?」
理由を尋ねる声は僅かに掠れた。
「一緒に登校したことがジェシカさんに知れたら大騒ぎになりますわ」
もっともな指摘にヴァッシュははっと息を呑んだ。それが原因で二人がぎくしゃくするようになったら、野球部全体に悪影響を及ぼすだろう。
『だからあの時も待たなくていいって言ったのか……』
マネージャーの細やかな心配り。それに対して……人間台風は己の浅慮を恥じた。
「お話でしたら学校で伺います。……部活にあまり出られない半幽霊部員にこんなこと言う資格なんてないのかも知れませんけど」
「そんなことない!! それに、話があった訳じゃないんだ。たまたま早く目が覚めて、思いつきでここまで来ただけ だから」
しどろもどろに言い訳しつつ、ヴァッシュは自分の自転車目指して後ずさりした。ハンドルが腰に当たり、目的地に着いたことを知る。
「せっかく時間に余裕があるんだから、早く行って自主トレするよ。今年こそ甲子園、頑張らなくちゃ! それじゃお先!」
言い終えると同時に自転車に飛び乗る。右足がペダルを踏み損ね危うくバランスを崩しかけたが、何とか持ち直し急発進させた。自分を心配する声は聞こえなかったことにした。
『話は学校で、か』
それはつまり、イヤリングを手渡すなら校内で、ということ。だが、めぼしい口実もない現状で二人きりになれる機会がそうそうあるとは思えない。
あの時、千載一遇のチャンスを二度も逃した自分が恨めしい。
「間違いない!! 俺にゃー疫病神か貧乏神が2ケタ以上ついてるんだ!!」
早朝故、猛スピードで大通りを走る自転車から発せられた悲痛な叫びを耳にした者は少なかった。


―FIN―

そして彼は途方に暮れる

プロローグ
『よっしゃ!』
朝練前には貼り出されていなかったクラス編成の掲示の前で、人間台風は心の中でガッツポーズをした。
「あら、今年も同じクラスですのね。ヴァッシュさん、ウルフウッドさん、もう一年よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
笑顔で挨拶を返すヴァッシュの心は、曇りという頭上の天気に関係なく晴れやかだった。今年はクラスだけでなく出席番号も同じ。きちんと席が決まるまでの数日間は隣に座れる。
「なぁにニヤついとんねん。無事進級できたんがそんなに嬉しいんか」
「大きなお世話!」
顔を顰めて舌を出した瞬間嫌な考えが脳裏をよぎり、ヴァッシュは真剣な面持ちで再び掲示板へと視線を戻した。
『アイツは……』
自分達の欄とは大幅に離れたところにキールの名を見つけ、ほっと胸をなで下ろす。これなら通常の授業での接点は皆無だ。
「さあて、クラスの確認も出来たことだし移動しますか。いつまでもここに陣取ってたら邪魔になっちゃうよ」
明るい声で提案すると、ヴァッシュはメリルの肩を軽く叩いてから進むべき方向を指差した。さりげなくウルフウッドに目配せする。
三人は人垣の最前列から外れ、校舎を目指した。
バッテリーはマネージャーの後ろを歩くようにした。掲示板を見ている生徒会長に彼女の存在を気づかれないように。
廊下を歩きながら、メリルは心配そうな表情で二人を等分に見やった。
「部活説明会の準備は大丈夫ですの?」
彼女が問いかけたのも当然である。本番は二日後なのに、何をやるのか教えて貰っていないのだから。
菫色の瞳に見つめられ、ヴァッシュは内心どぎまぎしながら元気よく答えた。
「平気平気! 準備万端、ノープロブレムってね」
「楽しみにしててや」
いたずらっ子のような表情が並んでいる。顔立ちは似ていないのにこういう時は何故かそっくりに見えて、メリルは小さくため息をついた。
『本当に大丈夫なのかしら……』
マネージャーの不安は二倍ではなく二乗された。
教室に入ると、三人は自分の出席番号に従って席についた。ヴァッシュの席は教卓に近い位置で、隣には勿論
想い人。ほんの少し目線を動かせば彼女の横顔が見られる。
『中吉の御利益ってやつかな』
幸先のいい新年度のスタートに、ヴァッシュの口元は自然とほころんだ。


入学式の日は灰色一色だった昨日の空が嘘のような見事な晴天となった。期待と不安が入り交じる新入生への天からの贈り物のように。
いい天気は翌日も続いた。
体育館でカリキュラムと年中行事の説明、校歌の紹介が行なわれ、その後各クラスでホームルーム――昨年までオリエンテーリングは午前中だけで終わっていた。が、今年は昼食を挟んで午後に部活説明会がある。
食事を終えた一年生は再び体育館に集合した。
体育館の舞台には飾りつけも何もなかった。あるのは中央に置かれたスタンドマイクだけ。
その前にキールが立った。
「はじめまして、生徒会長のキール・バルドウです。部活説明会を行なう前に一言ご挨拶させていただきます。……
トライガン学園は部活は自由参加です。ですが、新入生諸君にはこれからの紹介を参考にして、是非積極的に参加して欲しい。何故なら、部活動を通して育まれる友情があるからです。授業とは違う貴重な体験の場になるからです。……」
自己陶酔しているようなキールの言葉に真面目に耳を傾ける者はごく僅かだった。大半は事前に配られた
クラブ名一覧と部室の場所を示したプリントを熱心に見ていた。
「それでは運動部の紹介を始めます。……合気道部」
メリルの声に白い道着姿の男子生徒が舞台に飛び出し、一列に並んだ。威勢のいい掛け声に合わせ、基本の型を披露する。
一つの部に与えられた時間は九十秒。同好会を含めると五十を越える部全てを中だるみすることなく紹介するにはそれが限界だったのである。『短すぎる』という苦情が多数寄せられたが、メリルは何とか説得した。
各部とも工夫を凝らした演出で自己紹介をしていった。
紹介が途中でも、時間が来るとメリルは終了の合図であるホイッスルを吹いた。すかさず書記・会計・会計監査が舞台に上がり、穏便かつ迅速に強制撤収する。舞台の袖に追いやられながらも往生際悪くクラブ名を連呼する部に体育館はどっと沸いた。
「野球部」
いつもより早い鼓動を無視し、メリルは自分が所属する部を呼んだ。
舞台に上がったのはバッテリーの二人だけだった。ユニフォーム姿でグラブをはめたヴァッシュが、同じくユニフォームを着てミットを構えたウルフウッドに向かって投球する。鋭い音が体育館に響き、どよめきがそれに続いた。
二球受けた後、ウルフウッドはミットを脇に置き、バットを手に立ちあがった。ホームランを予告するように右手のある一点をバットで指し示す。新入生が首を巡らすと体育館の窓が野球部員によって開けられるところだった。
キャッチャーがいないことを気にする風もなく、ヴァッシュはいつものようにボールを投げた。小気味いい音と共に白球は一枚だけ開けられた窓から外へ消えた。
今度は左手の一点を指し示すと、ウルフウッドは見事に打球を飛ばした。
「来たれ野球部、一緒に甲子園を目指そう!」
マイクに駆け寄り、ヴァッシュは拳を固めつつ元気よく決め台詞を言った。が、何故か一緒に言う筈の声がない。
不審に思い目だけ動かして横を見る。ウルフウッドは舞台の袖にいた。
「!?」
主将に腕を掴まれ、メリルは危うく声を上げそうになった。そのまま舞台の中央まで引っ張り出される。
ヴァッシュの隣に立つと、ウルフウッドは華奢な肩を抱くようにしてにこやかに付け足した。
「今なら美人のマネージャーがお出迎えするで! ……あいだだだだだだだ」
アドリブに続いて予定外の雑音が口から洩れた。ヴァッシュに容赦なく手をつねられ、メリルの肩から力ずくで引き剥がされたのだから無理もない。
「セクハラしませんからねー、マネージャー希望の女子の皆さんも安心して来て下さいねー」
漫才のようなやりとりに生徒達は爆笑した。明るくフォローしたピッチャーの笑顔がぎこちないことに気づいた新入生はいただろうか。
突然至近距離から聞こえた騒音にバッテリーは揃って顔を顰め耳を押さえた。発信源はマネージャー。片手でマイクを覆ってからホイッスルを吹いたのは流石である。
メリルは生徒会役員に促され退場する二人とは反対側の舞台の袖に戻った。咳払いをして気持ちを切り替え、何事もなかったように言葉を紡ぐ。
「……失礼しました。続いて陸上部」
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そして彼は途方に暮れる



「何なんだよ、さっきのアレ」
放課後、ヴァッシュはウォーミングアップをしながら小声でキャッチャーに問いかけた。アレとは勿論先刻の部活説明会のことである。
「勝手に打ち合わせになかったことやって……」
「ええやんか、減るもんやないし」
「そういう問題じゃないだろ!?」
目をむいて怒りを顕わにするピッチャーにジェスチャーで落ち着くよう示してから、ウルフウッドは皮肉な笑みを浮かべた。
「結果オーライや。見学者ぎょーさんおるで」
確かに野球部を取り囲む生徒は多い。しかもほとんどが男子である。部員が欲しい野球部としては嬉しい事態なのだが。
「……野球に興味があって来てる奴ばっかりじゃないさ」
グラウンドを見ようとせず、きょろきょろと辺りを見回している生徒が何人もいる。誰を探しているのか一目瞭然だ。
「プレーヤーとして使えそうな奴が入部したらええんや。動機は関係あらへん」
「動機が不純だと長続きしないんじゃない?」
「入部者がおらんかったら話にならんやん。長続き云々は実際に入部した連中を見てから心配すればええ」
ウルフウッドはどこまでも楽天的だ。相棒の冷たい視線も全く意に介さない。
「ほな挨拶しとこか」
『去年の夏みたいなことにならなきゃいいけど……』
走り出した主将の後を追いながら、人間台風はこっそりため息をついた。
「皆さんようこそ。ワイが主将のニコラス・D・ウルフウッドです。今日はのんびり見学してって下さい」
見学者を校庭の一角に集めると、ウルフウッドは笑顔で挨拶した。いつにない愛想の良さに部員達の背中に悪寒が走る。
「副主将のヴァッシュ・ザ・スタンピードです。野球が好きな人、野球に感心のある人は大歓迎……」
寒気を堪えつつ発したヴァッシュの言葉は途中で途切れた。人垣をかき分け自分の前に立ったおさげ髪の女子生徒にじっと見つめられた為に。
「え、と……質問ですか?」
彼女は何も言わない。ただ固い表情で見上げているだけだ。
『……?』
既視感。どこかで会ったことがある。でもどこで……
「……ジェシカ?」
大急ぎで記憶を辿り、ようやく思いついた名前を口にした途端、彼女が破顔した。
「ン"ギャ――――、ヴァッシュウウウウウ」
飛びかかるような勢いで抱きつかれ、ヴァッシュの顔は瞬時に愉快なものに変わった。突然のことにどう対処していいのか判らず、人一人首からぶら下げたままただ口をぱくぱくさせるのみ。動揺の余り女子達の非難の声も耳に
届かない。
突き刺さるような視線を感じて目線を動かす。リーゼントの大柄な男が呪いをかけているかのような目で自分を睨んでいた。
『ブラド……』
いかつい顔に昔の面影はほとんどなかったが、変わらぬ髪と瞳の色からヴァッシュはそう確信した。
「…………ほら、もう泣かないでジェシカ……」
何とか気をとり直し、頭をそっと撫でながら幼なじみをなだめる。
「ヴァッシュ……ヴァッシュ……会いたかった……。……こっちに戻って来てたんならどうして連絡くれなかったの?」
「積もる話は後で。今は部活中だから……」
どうにか説得してジェシカを元の場所に帰すと、ヴァッシュは再び口を開いた。
「今日は見学だけとします。入部希望者は基礎体力の測定をしますので、明日の放課後運動できる恰好でここに来て下さい」
「はいは~い、質問で~す! マネージャー希望はどうしたらいいですか~?」
ぶんぶんと手を振りながら発言したのはミリィだった。
「明日の昼休みに部室に来て下さい。マネージャーのメリル・ストライフさんから説明があります」
「あのう……メリル先輩は……?」
控えめな質問にヴァッシュはそれまでと変わらぬ声で答えた。内心穏やかではなかったが。
「オリエンテーリングで判ったと思いますが、マネージャーは生徒会副会長を兼務しています。生徒会の仕事が忙しい場合は部活に参加しないこともあります」
それとなく全員の表情を確認する。落胆した男子生徒は一人や二人ではなかった。
ジェシカのこと、ブラドのこと、メリル目当ての見学者、ここにはいないがキールのこと……悩みの種は尽きない。
『ゼントタナンだなぁ……ところでゼントタナンってどう書くんだっけ?』
漢字の書き取りという、普段なら絶対やらない方法で現実逃避する人間台風であった。


翌日の昼休み、ヴァッシュとメリルは部室で昼食をとることにした。万が一にもマネージャー希望者を待たせる
訳にはいかないとの判断からである。
副主将がいる必要はないのだが、ヴァッシュは『何か手伝えることがあるかも知れないから』と自ら同席を申し出た。
無論主たる目的は別にある。
「さあ、早く食事を済ませてしまいましょう」
「あ、あの……」
持参した弁当を手早く広げるメリルにヴァッシュは上ずった声で呼びかけた。
「? どうかなさいました?」
「……じ、実は……わ」
突然ノックもなくドアが開き、甲高い声が部室に響いた。
「ヴァッシュ~~~~~ッ」
「うわああああああっっっ!!!!」
体当たり同然に抱きつかれ、ヴァッシュは右手を鞄に突っ込んだまま尻餅をついた。
「ジェ、ジェ、ジェシカ!?」
「やっぱりこっちにいたのね! 教室にいなかったからそうだと思った!」
「ど、どうしてここに!?」
「決まってるじゃない、マネージャー希望だもの。そ・れ・に」
ようやくヴァッシュから離れると、ジェシカは満面の笑顔で持っていたトートバックを見せた。
「一緒にお弁当食べようと思って!」
逆立てた金髪が大きく前に倒れた。うなだれた男はゆっくり吐息し、小さな紙袋からそろそろと手を離した。
二人きりの時にプレゼントを渡す。たったそれだけのことがどうしてできないんだろう。
メリルが苦笑混じりの微笑みを浮かべているのに気づいて、ヴァッシュは慌てて立ち上がった。
「あ、あの、マネージャー、この子は僕の幼なじみで、同じ保育園に通って」
「はじめまして! マネージャー希望、一年のジェシカです。よろしくお願いします!」
しどろもどろに説明するヴァッシュを差し置いて、ジェシカは元気よく挨拶しぴょこんと頭を下げた。
「はじめまして。マネージャーで二年のメリル・ストライフです。こちらこそよろしくお願いしますわね」
自分より背の高い後輩に礼を返してから、メリルはピッチャーへと視線を移した。
「折角ですから一緒に食べましょう」
反対する理由はない。複雑な心境のままヴァッシュは肯いて賛成の意を示した。
昼食は賑やかになった。当然のようにヴァッシュの隣に座ったジェシカが食べる間も惜しんで喋ったからだ。
「ヴァッシュはあたしの王子様なんです! ブラドっていういや~な幼なじみがいるんですけど、そいつがあたしのことよく苛めて、その度にヴァッシュが助けてくれて……」
食事を中断したジェシカは胸の前で両手を組み、目を輝かせて思い出に浸っている。
「ジェシカさんにとって、ヴァッシュさんは正義のヒーローでしたのね」
「はい! ほんとにカッコよかったんですよ!」
話が弾む女性陣とは裏腹にヴァッシュの心は沈んでいった。ブラドがジェシカを苛めていた理由を知っているからだ。
昨日自分に向けられた視線からして、ブラドの想いはあの頃と変わっていない。ジェシカの方はブラドの気持ちなどこれっぽっちも判っていないようだ。
ヴァッシュは暗い気分で黙々と箸を動かした。
食事を終え片づけをしている時、不意にジェシカがヴァッシュを見上げて首をかしげた。
「どうしてヴァッシュ・ザ・スタンピードなの? ヴァッシュ・ミリオンズじゃなくて」
去年、初めて新聞でトライガン学園のピッチャーの記事を見た時、姓が違うことを疑問に思った。昨日名前を呼ばれるまで『もしかしたら人違いかも知れない』とずっと不安だった。
「……両親が離婚したんだ。ナイブズとも離れて暮らしてる」
「あ……ごめんなさい」
「いいよ。気にしないで」
しょげ返ったジェシカにヴァッシュは微笑んでみせたが、幼なじみの表情は明るくならない。
重苦しい沈黙。それを破ったのはまたもノックなしに飛び込んできた高い声だった。
「せんぱ~い、来ましたぁ! …………あれ? あたしの顔に何かついてます? もしかしてお弁当とか!?」
六つの瞳に見つめられ、ミリィは慌てて両手で自分の顔を撫で回した。
「あ、いえ、大丈夫ですわよ。何でもありませんわ」
本当にこの子には助けられてばかりですわね。この場の雰囲気を一変させてくれた後輩に心の中で感謝しつつ、メリルはゆっくりと首を横に振った。





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そして彼は途方に暮れる



放課後、入部希望者はいくつかのグループに分かれて体力測定を受けた。昼休み部室に集合したマネージャー志願の女子生徒も記録係として初仕事にいそしんでいる。
が、本来彼女達を監督する立場の筈のメリルは校庭にはいなかった。
『ごめんなさい、部活説明会の反省会が昨日終わらなかったんですの』
朝練の後申し訳なさそうに謝ったメリルの顔が脳裏に浮かび、副主将は僅かに顔を曇らせた。
どうせまたキールがいちゃもんをつけてるんだろう……そう思うと怒りがふつふつとこみ上げてくる。
突然筋肉質の腕にヘッドロックをかけられた。そのまま身体の向きを百八十度変えられる。
「なーにぶすくれとんねん」
囁きに近い声には怒りと呆れが同量ずつ含まれていた。
「誰が!?」
「入部希望者の前で不機嫌そうなツラするんやないわ、ボケ」
捨て台詞と共に身体の自由が戻った。
短距離走や遠投などの測定を終えた男子生徒がすぐ後ろで待っている。ヴァッシュは頬を軽く叩いて自分に気合を入れてから振り返り、てきぱきと指示を出した。
入部希望者を運動部経験者と未経験者の二つに分け、更に六人一組でグループを作る。それぞれにマネージャー希望の女子と部員を割り振ってタイムの記録を頼む。
「最後に持久力の測定をします。運動部経験者はスペシャル外回りを三周、未経験者は外回りを三周走って貰います」
ヴァッシュはトライガン学園周辺の大きな地図を指で辿りながらコースの説明をした。
「コースが判らない人はいますか? …………大丈夫ですね。……スペシャル外回りは主将が、外回りは僕が一緒に走ります」
凄い勢いでウルフウッドがこちらを見たが、何食わぬ顔で続ける。
「途中で具合が悪くなった人は遠慮なく申し出て下さい。では十分後、校門前に集合して下さい。……解散」
三々五々散っていく将来の仲間達を見送ってから、ヴァッシュは一人ウォーミングアップを始めた。と。
「ウラッ!」
屈伸していて立ち上がりかけたところに飛んできた平手。咄嗟に顔をそらせたものの避けきれず、左の頬がじんじんと痛んだ。
「何すんだ、このテロキャッチャー!」
「さっきの分担、どういうこっちゃ!?」
入部希望者達について走ることは前もって決めていた。どちらがスペシャル外回りを走るか決めたのは部活が始まる直前、方法はジャンケン三本勝負。
二勝一敗で勝者となったのはウルフウッドで、彼は当然の如く外回りを選択したのだが。
「いやあ、ゴメンゴメン。間違っちゃった」
頭を掻きながら詫びる人間台風に反省の色は見られない。わざと逆に言ったのは明白だった。
一度発表した役割分担を何の説明もせず変更したら入部希望者達が戸惑うだろう。かといってこんな馬鹿馬鹿しい理由は公表できないし、もっともらしい理屈も思いつかない。
舌打ちして苛立ちを紛らわせると、ウルフウッドは何も言わずにヴァッシュに背を向け立ち去った。
『ヘッドロックと人のことボケ呼ばわりしたお礼だよ』
だが、この配役変更はピッチャーにとって仇となった。
ウルフウッドはスペシャル外回りを六周走った。入部希望者の実力を自分の目で確かめたかったのと、コースを外れて楽をしようとする連中が出ることを警戒したのだ。
運動神経に多少は自信があった男子達も心臓破りの階段にはずいぶん消耗した。息を切らして階段を登る彼らに短く声をかけながら主将は平然と追い越していく。走り終えた後も疲れた様子は微塵もなかった。
ヴァッシュは外回りを八周走った後、迷子になった新入生を探してかなりの距離を走る羽目になった。しかし、二人で校庭に戻った時、息も絶え絶えな一年生とは対照的に彼の呼吸はほとんど乱れていなかった。
この話が広まり、トライガン学園野球部のバッテリーが密かに"デタラメーズ"と呼ばれるようになったのはそれから数日後のことである。


「トンガリ、オドレ居残りな」
「はあ!?」
部室で着替えている時に突然下された命令にヴァッシュは素っ頓狂な声を上げた。予想外のアクシデントに加え平謝りする一年生をなだめるのにずいぶん時間がかかってしまい、窓の外はすっかり暗くなっている。
「俺だけ!? 何で!?」
「ええやん、用事がある訳やないんやろ?」
「用事なんてないけど……」
結構な量の運動をこなしたお陰でおなかも空いている。できれば早く帰りたい。
ワイシャツのボタンをとめつつ反論のネタを探しているピッチャーの目の前に、ウルフウッドは白い紙の束を突きつけた。
「今日の測定結果。これをマネージャーに渡すんや」
「……メリルに!?」
「生徒会のほうが終わったらこっち来る、ゆうとったけど、長引いとるようやな」
こんなに遅くまで……? ヴァッシュの眉間に深い皺が刻まれた。
「で、どうなんや? 居残りするんか?」
「喜んでやらせていただきます!」
元気一杯の返事にウルフウッドの口元が緩む。だが、その笑顔は天使の微笑みには程遠いものだった。
「マネージャーが来るのが何時になるかは判らんけど、それまでじ――っと待っとるのも阿呆らしいから部室の掃除頼むわ」
「え!?」
「昨日今日とろくすっぽ掃除してへんからなぁ、ちょうどええわ。……居残りするんやろ?」
黒い双眸は訴えている。『男に二言はあらへんで』と。
ヴァッシュはがっくりと項垂れ、呟くように答えた。
「喜ンデヤラセテイタダキマス……」
手早く荷物をまとめると、ウルフウッドは満面の笑みを浮かべつつ机に部室の鍵を置いた。部員で鍵を持っているのは主将とマネージャーだけでヴァッシュは持っていないからだ。
「鍵は明日返してや。ほなお先に」
音を立てて閉まったドアに向かって思いきり舌を出してみたが胸のもやもやは晴れない。ヴァッシュは我知らずため息をついた。
ひねくれた思いやりか、ささやかな復讐に対する報復か、単に掃除をさせたかっただけなのか。正直判断に苦しむ。
『……でも!』
ウルフウッドの思惑がどうであれ、これがチャンスであることには変わりがない。おまけに今度は邪魔が入る可能性はかなり低いのだ。
「よしっ、お掃除タイムスタート!」
大きな声で自らに宣言し、ヴァッシュは袖をまくりつつ掃除用具入れに歩み寄った。



部室のドアがノックされたのは、ヴァッシュが床の掃き掃除を終えモップがけを始めて間もなくのことだった。
「は~い、どうぞ~」
明るい返事にドアから顔を覗かせたのはやはりメリルだった。手にしていたモップを壁に立てかけ、部室に入ってきた彼女に向き直る。
「電気が点いていたからもしやと思ったんですけど……こんな遅くまでどうしたんですの?」
「汚れが気になっちゃってね、ちょっとお掃除してたところ」
正直に『キミを待ってた』と言うつもりは毛頭なかった。そうと知ったら彼女は罪悪感を覚えるだろうから。
「キミこそ遅いじゃない。生徒会のほう、大変だね。お疲れ様」
労ったつもりだったが、何故かメリルは顔を曇らせた。
「……まだ終わってないんです。ちょっと抜けさせて貰っただけですの。……ごめんなさい。新入部員獲得で大切な時期なのに来られなくて……」
「や、だ、大丈夫だよ! 皆で対応してるし、昼休みに来てたマネージャー希望の子達も頑張ってくれたし。あ、これ今日の測定結果」
しどろもどろになりながら書類を手渡す。これで任務は完了。残るは個人的な用件のみ。
それとなく様子を窺う。真剣な表情で書類をめくっていたメリルの表情がふっと和らいだ。
「思ってたより多いですわ。それに……この人とこの人……この人も……」
「お眼鏡にかなう輩はおりますかな、マネージャー殿」
恭しく一礼する。芝居がかった言動にメリルは吹き出した。
「ええ、是非欲しい人材が何人か。……ブラドさん、なかなかいい数値ですわよ。中学時代は野球部に在籍していたとのことですし、入部してくれるといいんですけど」
「大丈夫だよ。アイツは絶対野球部に入る」
「あら、どうして断言できるんですの?」
誰が誰を好きだとか、そういうゴシップめいた話をするのは気が進まない。
理由を説明すべきか否か。僅かに逡巡した後口から出た言葉は本人にとっても意外なものだった。
「男のカン」
「……ヴァッシュさんのカンなら信じてよさそうですわね」
冗談だと思ったのだろう、メリルはくすくす笑っている。
部室に二人きり。なごやかな雰囲気。
『ロマンチックなムードとは言えないけど……』
今なら渡せる。ヴァッシュは唾を飲み込み、心を落ち着かせるべく深呼吸をした。
「メリル……」
それまでと微妙に異なる声のトーン。強張った表情。名前を呼んだこと。
クラスメイト兼クラブメイトの変化に気づいてメリルは表情を引き締めた。ブルーグリーンの瞳をまっすぐに見つめ、
静かに次の言葉を待つ。
「……キミに……」
その時、ヴァッシュの腹の虫が派手に自己主張した。






 ようやく靴を買い、残すはアクセサリーのみとなった。
 もう夕方だというのに、母に疲れた様子は全くない。買ったものを全部自分が持っていることを差し引いても凄いバイタリティーだと思う。
 しかし、感心したからといって早く帰りたいという気持ちは消えてはくれない。
『もう部活は終わっちゃっただろうな』
 ヴァッシュは背中を丸めて小さく吐息し、気を取り直すように顔を上げた。その途端、彼の身体は不自然な姿勢のまま硬直した。
 ブルーグリーンの瞳が食い入るように見つめているのは一枚のポスターだった。
 黒髪を小さくまとめたモデルの凛とした横顔。キャリアウーマン風のスーツを着て、小ぶりの耳飾りをつけている。
 ジャケットの襟元で輝くブローチ。
 胸がざわめくのを感じた。でもそれは決して嫌なものではなく。
 引き寄せられるように近づき、ショーケースを覗き込む。初詣の時に見た髪飾りの影響か、銀色の光には興味がなかった。ただひたすら金色の商品に視線を走らせた。
「あ…」
 丸い飾りのついた金の留め金と細長い金の円筒を金糸で繋いだイヤリングに目が釘付けになった。メリルに似合う、そう確信した。
「何かお探しですか?」
 声をかけられて思い出す。自分が何処にいるのかを。何をしていたのかを。
「え、いや、あの…ま、また来ます!」
 顔が赤くなるのを自覚しつつ、ヴァッシュは逃げるようにその場を離れた。
 らしくない行動。らしくない買い物。でも――
 小遣いで気軽に買えるような値段ではないが、手が届かないほど高価でもない。
「母さん!」
 頬を紅潮させた息子に突然呼ばれ、ヴァッシュの母はぎくりとした。長すぎる買い物にとうとう堪忍袋の尾が切れたのか、と。
「買いたいものがあるんだ。貯金を少し使いたい」
「…何を買うの? 無駄遣いは」
「無駄じゃない! …お世話になってるマネージャーに、プレゼントを」
 自分の頬が更に熱くなるのが判った。金額を訊かれ、素直に答える。
「いいわよ」
 あっさりした返事にヴァッシュは目を丸くした。もっといろいろ言われると思っていたのだ。
 財布から紙幣を取り出すと、ヴァッシュの母はそれを息子に差し出した。
「…どうしたの? いらないの?」
「ありがとう! 後で返すから!」
 電光石火の速さで紙幣を掴み、ヴァッシュは一目散に走り出した。
「…思わぬ産物ね。瓢箪から独楽ってことかしら。…でもあの子が、女の子にプレゼントをねぇ…」
 後ろ姿が見えなくなってから、ヴァッシュの母は苦笑混じりに呟いた。僅かに俯いてそっと目を閉じる。緩みかけた涙腺をなだめる為に。
「あの、すみません! そこの、奥から二列目の…その横…はいそれです、そのイヤリングを下さい!」
 さすがはプロである。赤い顔で息せき切って戻ってきた若い男を前にしても、店員の営業スマイルが崩れることはなかった。答えは判りきっているがマニュアルどおりに質問する。
「贈り物ですか?」
「はい!」
「では贈答用にお包みしますので少々お待ち下さいませ」
「あ、あの…」
「はい、何か?」
「き…綺麗に包んで下さい。よろしくお願いします!」
 耳まで真っ赤にして一礼した姿に、初めて店員の顔に作ったものではない笑みが浮かんだ。
「かしこまりました」
 しばらくして、手のひらに載るくらい小さな純白の紙袋がヴァッシュに渡された。清算を待つ間にそっと覗いてみる。白いリボンがかかった白い箱が見えた。
「お待たせ致しました。こちらお釣りとレシートでございます」
「あ、ありがとうございました!」
 言うべき台詞を先に言われてしまった。店員は内心苦笑しながら、柔らかな笑顔で何も言わずに頭を下げ初々しい客を見送った。


 月曜日の昼休み、教室で昨日の話を聞いたヴァッシュはしばらく絶句した後酷く悔しがった。
「…チクショー、会いたかったなあ。初詣以来会ってないし…」
 会えなかったのも残念だが、一番悔しいのはミリィの制服姿を見られなかったことだ。ミリィの母校、イコールメリルの母校。どんな制服なのか知りたかった。
 まあ、写真を見せて貰うって手もあるさ。落胆しつつもそう思い、ヴァッシュは自分を慰めた。
「元気そうだった?」
「ええ、それはもう」
「言い間違いもパワフルやったで。二日モノは傑作やな」
「ふつかもの?」
 メリルの説明にしばし笑い転げる。目尻に涙が浮かんだ。
「…お、おなか痛い…。…でも、あの子がマネージャーになってくれるんなら、キミも少し楽になるんじゃない?」
「そうですわね」
「あとは部員やな。もちっと人数欲しいわ」
「入学式の翌日に新入生のオリテンテーリングがあります。その時、部活の説明と各部のPRの時間をとりたいと考えてますの。一つの部の持ち時間は短いですけど、新入生にアピールするいい機会になると思いますわ」
「部活の説明? 僕らの時はなかったよね?」
「ええ。実行できればこれが初めての試みになります」
 部活は自由参加の為、これまで勧誘活動は各々が勝手に行なっていた。当然効率は悪く、入部者獲得はどの部にとっても頭の痛い問題だった。
 関係改善の一助になれば。そう考えて、メリルは会長の許可を得て企画書を作成し、教師達にオリエンテーリングの内容変更を願い出た。
 手応えは感じている。実現できる確信がメリルにはあった。
「今日の職員会議で認められれば、明後日には各部に通達を出します」
「それでずっと放課後部活に来られなかったんだ」
「ええ…皆さんには申し訳ありませんけど、まだしばらくこの状態が続きそうですわ」
 新しいことをやろうとするなら周到な準備は不可欠だ。発案者が自分である以上、自分が先頭に立って動かなければ。
「こっちのことは心配しないで。部室の掃除は皆でやってるから大丈夫だよ」
 マネージャーに負担をかけないよう、部室の掃除は自分達でやろう。ヴァッシュの提案に全員が賛成した。
「トンガリの奴、掃除の最中はどこぞの頑固ジジイみたいに口うるさいんやで」
「悪かったね、口うるさくて。そういうキミはけっこう真面目にやってるよね」
「綺麗好きなんや」
「うわ、嘘っぽい」
 ヴァッシュはこめかみに血管を浮かせたキャッチャーに容赦ないヘッドロックをかけられた。
「ヒドイじゃないか! あー、髪ぐちゃぐちゃ…」
「口は災いの元やて教えたったやろ? ちっとは学習しいや」
 悪びれないキャッチャーに報復しようとにじり寄った瞬間、五時間目の予鈴が鳴り始めた。仕方なく低く唸りながら睨むだけにとどめる。
 そんなヴァッシュに目もくれず、ウルフウッドは涼しい顔でさっさと自分の席に戻った。
『髪整える時間もないや』
 椅子に腰掛けると、ヴァッシュは額にかかる大きな髪の束を指で引っぱった。ここまで崩れてしまうとドライヤーなしで直すのはほぼ不可能だ。
『ええい、こうなったら!』
 ヴァッシュは両手で自分の髪をかき回した。
 その日の午後、人間台風は起き抜けと大差ないぼさぼさの頭で授業を受け部活にいそしんだのだった。

ⅩⅠ
 卒業式を明日に控えた三月十四日。
 登校直後、メリルは部室の前でギリアムから何も入っていない大きな紙袋を手渡された。
「主将、あの、これは…」
「すぐに判る。まずは俺からだ」
 続けて差し出されたのは、小さな造花とリボンをあしらった一辺十センチ程の立方体の箱。
「オーソドックスにキャンディを」
「あ…ありがとうございます」
 微笑と苦笑が半々の笑みを浮かべてメリルは礼を言った。今日がホワイトデーだということをすっかり失念していたのだ。
 着替えに来た部員達が次々とマネージャーに用意した品物を渡していく。チョコやマシュマロといった菓子、アロマキャンドル、アイピロー、マフラー…メリルの両手はすぐにいっぱいになった。
『この紙袋…』
 主将の配慮にメリルは頭が下がる思いだった。
 各々が考え抜いて選んだであろうお返しの中で、飛びきり奇抜だったのはウルフウッドのものだった。
 巷でブームを巻き起こしているという、中に動物の人形が入った卵型のチョコレート一個。それはラッピングも何もされず、むき出しのまま小さな手の上にぽんと置かれた。
「ウルフウッド、これは…」
 さすがにそれではあんまりだと思ったのだろう、副主将が声をかけた。
「近所のスーパーで見つけたんですわ。『大人気』っちうラベルが棚に貼ってあったんで、そうなんか思てこおたんですけど」
「ありがとうございますウルフウッドさん、嬉しいですわ」
 無駄な出費は避けたいだろうに、こうしてお返しを用意してくれた。それだけで充分だった。
 ヴァッシュはチョコクッキーを詰めた可愛い缶をメリルに差し出した。あの白い紙袋は鞄の中にあるが、できれば二人だけの時に渡したかった。
 メリルが贈り物を紙袋に入れ終えるのを待ってギリアムは口を開いた。
「皆、聞いてくれ」
 重々しい口調に部員達は一斉に声の主を見、そのまま凍りついたように動けなくなった。いつになく強張った顔、瞳の中の強い光。
「俺は…主将をおりようと思う」
 どよめきが上がった。部員達は顔を見合わせ、誰もが寝耳に水であることを確かめた。
「しゅ、主将! どうしてですか!?」
「バレンタインの時揉めただろう? あの時俺は皆を止められなかった。その後も問題を解決することができなかった。…自分の力不足を痛感したよ」
「でもあれは俺達が悪かったんであって、主将に責任はありません!」
「…もっと前から考えていたことなんだ」
 十二月にマネージャーが退部届を出した時、自分は何もできなかった。
 冬合宿では、写真部の連中の動きに気づかなかった。あの四人を封じ込める方法を思いつかなかった。
 先月のいざこざの時、自分がマネージャーの考えを汲むことができていればあんな騒ぎにはならなかっただろう。
 トラブルを収拾したのは。解決の糸口を提示したのは。
「…主将と副主将の交替は夏の地区予選の後に行なわれてきた。いつも話し合いで選んできたが、今回は指名させて欲しい。主将は…ウルフウッド、君に頼みたい」
「!!」
 一同の動揺をよそに、いつの間にかギリアムに並んだ副主将が続けて言った。
「同じ理由で俺も副主将をおりる。後任は…ヴァッシュ、お前だ」
「ええっ!?」
 ピッチャーの裏返った声に二人は揃って苦笑いを浮かべた。事前に話さずいきなり発表したのだ、驚くのも無理はない。
「交代の時期も人選方法も前例のないことなのは判ってる。でも…考えてみて欲しい。去年俺達は感じた筈だ。甲子園出場が手の届かない夢じゃないと」
 全員が黙ったまま静かにギリアムの声に聞き入った。
「夢を実現させるには全員が一丸となることが必要不可欠だ。その為には、皆をしっかりまとめて引っ張っていける実力の持ち主がリーダーにならなければならない。…俺では力不足だ。人間的にも、プレーヤーとしても」
「そんなこと」
 否定の言葉は静かな声に遮られた。
「ウルフウッドは心の機微に聡い。アイディアも豊富で、必要とあれば大胆な判断を下せる。行動力もある。運動神経は皆が知っているとおりだ。主将にもっとも相応しい奴だと確信している」
「これは俺と主将、それに先生も交えて何度も話し合って出した結論だ。主将にウルフウッド、副主将にヴァッシュ、俺達はこれがベストだと思ってる」
 爆弾発言をした二人の目がバッテリーに向けられた。
「…即答…できません」
「ちと考えさして下さい」
「…そうだな。でもなるべく早く結論を出してくれ」




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季節は移り、人は

ⅩⅡ
 卒業式が終わった。終業式も終わった。
 が、春休みに入ってもヴァッシュは結論を出せずにいた。
 メリルもこの話は知らなかったという。ウルフウッドにどうするつもりなのか尋ねたが答えはなかった。
 野球が好きで、野球がやりたくて、野球部に入部した。ただそれだけだ。それなのに副主将だなんて。
 主将と副主将が真剣に考えて提案したことだ、こちらも真剣に考えなければ。とは思うものの、『荷が重い』というのが率直な感想だ。誰かの上に立つ自分…想像もつかない。
「はぁ…」
「何ため息なんてついてるの。もっと嬉しそうな顔をしなさい」
 母から小声で注意され、ヴァッシュは自分の頬を軽く二回叩いて気持ちを切り替えた。一日がかりの買い物から三週間後の今日はレムとアレックスの結婚式だ。
 そっと周囲を見回す。貸切にした一軒家のレストランの中、静かに座っている正装した人達。
 こういう堅苦しい雰囲気は苦手だ。心の中でこっそりため息をつく。と、入り口の扉が開け放たれ、新郎新婦がしずしずと入場してきた。
 二人を見た瞬間、ヴァッシュは先刻までの重い気分も、軽く横分けにし後ろに流すようにして整えた違和感を覚える髪のことも、窮屈なスーツを着ていることも、息苦しいようなネクタイの存在も全部忘れた。
「レム…綺麗だね…」
「ええ」
 それに凄く幸せそうだ。ヴァッシュの顔に自然と笑みが浮かんだ。
『まったく…ナイブズの奴、どうして来ないんだよ』
 人数が一人少ない分、ヴァッシュのいるテーブルは他のテーブルより余裕があった。寮に招待状を送ったが、返ってきたのは短いお祝いの言葉を添えた欠席の通知だったという。
『大丈夫だよレム、俺が二人分お祝いするから』
 声には出さずに呼びかけ、膝の上のレンズ付フィルムに手をやる。こうなったら綺麗なレムの写真をたくさん撮って薄情者に送りつけてやろう。
 人前結婚式、という言葉をヴァッシュは初めて耳にした。神様にではなく出席者に対して永遠の愛を誓う。仲人はいない、派手な演出もない。結婚式らしいことといえば新婦の純白のドレス、宣誓、指輪の交換、店特製のケーキに入刀したことくらい。
 披露宴を兼ねた式は滞りなく進み、最後にアレックスが挨拶してお開きとなった。次は二次会。会場はこのレストラン自慢の中庭である。
 中庭の隅で所在なげにジュースを飲んでいたヴァッシュは後ろから名前を呼ばれて振り返った。
「レム!?」
 落っことしそうになったグラスを慌ててしっかり持ち直す。中身が少なかったので零さずに済んだ。
「うふ、いいでしょ。純白のチャイナドレスよ」
 レムは困惑している従兄弟にいたずらっ子のような表情でウインクした。
 お色直しって式の最中にやるもんじゃ…ていうか、そもそもチャイナドレスってありなの? 混乱する頭で考えつつ、ヴァッシュは視線をあちこちさ迷わせた。服の上からでも判る身体のライン、深いスリットから覗く足。目のやり場に困る。よく見ると、レムの他にもチャイナドレスに着替えた人が何人かいた。
「…ずいぶん思いきったことしたね」
「あら、前例がないとやっちゃいけないの?」
 返答に窮したヴァッシュに、レムは優しい微笑みを向けた。
「私達が出会ったきっかけは少林寺拳法ですもの。この服が相応しいと思ったの。ベストじゃないけど」
「ベストじゃない?」
「一番相応しいのは道着でしょ? でもそれじゃあんまりだから」
 二人の出会いは大学でだった。レムが入部した少林寺拳法部の一年先輩にアレックスがいたのだ。
「まあ確かに、年配の人とかは反発するかも知れないわね。その時はごめんなさいって謝るわ」
 あっけらかんとした口調にヴァッシュは思わず苦笑した。
「これに限らず失敗した時はね」
「?」
「初めてだもの。夫婦っていう人間関係も、自分が中心になって家庭を築くのも。失敗して当たり前だと思うの。
でも、失敗したらやり直せばいい」
「…」
「大切なのは失敗しても諦めないこと。自分がどうしたいのかを見失わないこと。そして、何ができるかを常に自分の胸に訊くこと」
 ヴァッシュはレムの言葉を心の中で反芻した。失敗しても諦めないこと…
「生まれた時に手わたされた白紙の切符に征き先を書き込んだのに、どうすればそこに行けるのか判らないんだったら、誰かに質問すればいいのよ。家族や友達、周りにいる人みんながきっと手がかりをくれる。前に進むのに協力してくれる」
 迷子になったらおまわりさん、ってね。とんでもない例えにヴァッシュは吹き出した。
「私はアレックスと幸せになりたい。この気持ちを見失わなければ、どんな障害だって乗り越えていける。そう思うの」
「はいはい、ご馳走様でした! いい話だと思って拝聴してたら結局のろけなんだから…」
「ヴァッシュのほうはどうなの? バレンタインがあったでしょ? クラスメイトでクラブメイトなんだから、チョコの一つも貰えたんじゃない?」
「貰いましたけどねー、新婚ほやほやのお二人に比べたら不幸のどん底ですよーだ」
 胸がずきんと痛んだ。二人きりになれる機会に恵まれず、イヤリングはまだ自分の手元にある。
「やっぱりあの子のこと、そーいう目で見てたんだ」
「…!!」
「で? ホワイトデーには何をお返ししたの?」
「アアアレックスがこっちを気にしてる! 旦那さんほったらかしにしちゃ駄目じゃないか。ほら、奥さんは行った行った!」
 話せば話すほど自分の墓穴を掘りそうだ。ヴァッシュはアレックスのほうへとレムの背中を押した。
「…ありがと、レム…」
 笑いながら歩き出した後ろ姿を見送りながら呟いた言葉は、誰の耳にも届くことなく風にまぎれて消えた。

ⅩⅢ
 人間台風が従兄弟の結婚式の為に部活を休んでから三日後のこと。
 生徒会の仕事が思いの他早く終わったメリルは、春休みに入って以降初めて野球部の部室を訪れた。入学式とオリエンテーリングの準備で、全く部活に出られない状態が続いていた。
前副会長が言っていたことを思い出す。こういうことだったのか、と実感したし、両立が大変なのもよく判ったが、野球部をやめる気にはならなかった。
 鍵を開けて中に入る。思っていたよりも綺麗な部室にほっと安堵のため息をつく。それでも部屋の隅など細かいところが気になって、箒とちりとりを取り出して掃除を始めた。
「あ、マネージャー」
 ギリアムの声に手を休めて振り向く。部員達が続々と部室に入ってくるのが見えた。髪やユニフォームが濡れている。
「とうとう降ってきたよ。今日はこれで終わりだな」
「お疲れ様でした。それじゃ私は外しますね」
 掃除用具を片づけ鞄を手にドアへと向かう。ヴァッシュの横を通り過ぎようとした時、かすかな声が聞こえた。
「ミリィ」
 目だけ動かして声の主を見やり、唇にかすかに笑みを浮かべる。
 メリルの表情の変化を確かめてから、ヴァッシュはちらりとウルフウッドを見た。
 名前と微笑と視線。意思疎通にはそれだけで充分だった。
 クラブハウスの角まで移動すると、メリルは携帯電話を取り出した。
「もしもし…ミリィですの? …ええ、私ですわ。突然でごめんなさい。あなたの都合がよければ、これからあなたの合格祝いをやりたいのですけど…」
 ミリィの合格祝いをやろうとヴァッシュやウルフウッドと話はしていた。本人にもその旨伝えてあるのだが、自分の時間の都合が判らず前もって約束できずにいたのだ。
 短い電話を終えると、メリルは扉の横で部員達が出てくるのを待った。
「マネージャー、お先」
「お疲れ様でした。傘はあります? 身体を冷やさないで下さいね」
 ついお小言のような台詞になってしまう。が、それはいつものことで皆慣れている。部員達は苦笑しつつ手を挙げて応え、帰っていった。
 最後まで部室に残ったのは三人。ヴァッシュ、ウルフウッド、そしてギリアムである。
「…決心はついたか?」
 バッテリーからの答えはない。ギリアムは小さく吐息した。
「…いい返事を期待してる。それじゃお先に」
「失礼します」
 扉の向こうでメリルと何か言葉を交わしているのが聞こえた。ヴァッシュは窓の戸締まりを確認し、首を巡らせて室内が片づいているのを確かめた。
 しばらく待ってから部室のドアを開ける。ギリアムの姿はなかった。
「お待たせ」
「いえ。…あら? ヴァッシュさん、傘は?」
「持ってこなかった」
 小さなため息がマネージャーの口から洩れた。
「仕方がありませんわね。ご一緒します?」
「いいの?」
「こんな雨の中雨具なしで歩いたら肩を冷やしてしまいますもの。…それとも、ウルフウッドさんの傘に入れて貰います?」
「冗談でしょ!?」
「冗談やない!!」
 メリルは勢いよく首を横に振る二人の姿にきょとんとし、嫌がる理由に思い至って吹き出した。他意はなく、単に彼の傘のほうが大きかったが故に提案しただけなのだが。
「…判りましたわ。それじゃ行きましょうか」
 ドアに鍵をかけたマネージャーから傘を受け取ると、ヴァッシュはそれを開いてメリルを招き入れた。
 雨の中を相合傘で歩く。未だ鞄の中にある小さな紙袋を渡すには絶好のシチュエーションだが。
『ウルフウッドがいなけりゃなぁ…』
 からかわれるネタを自ら提供したくない。ヴァッシュは呼吸に紛らわせてこっそり吐息した。

エピローグ
 三人が駅近くの喫茶店に着いた時、ミリィは既に店の前にいた。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「いいえ全然! ほら、指長くなってませんよね」
 肩で傘を支え、両手を開いて三人の前に突き出す。傍から見ればまるでギャグのようだが本人はいたって真面目だ。
「長時間待った時に長くなるのは首ですわ」
 メリルは苦笑しながら律義に訂正した。知り合ってもう三年、その間に何回こんな会話をしただろうか。
 二人のやり取りに笑みを浮かべると、ヴァッシュは遅れた理由――オレンジを基調とした花束をミリィに差し出した。
「これ僕達から。遅くなったけど、合格おめでとう」
「ありがとうございます!!」
 本当に嬉しそうな笑顔。見ているこちらまで幸せな気分になる。
 店に入り注文を終えた後、早速ミリィは隣のメリルを見やった。
「先輩ほんとに忙しいんですね。生徒会のお仕事、大変なんですか?」
「ええ、今は特に。部活に参加できない日が何日も続いてましたの。四月以降どうなるか判りませんし、あなたがマネージャーになってくれれば心強いですわ。…でもいいんですの? トライガン学園にはソフトボール部もありますのよ?」
「はい! ソフトボールも楽しいですけど、あたしは先輩といっしょにいたいんです!」
 ミリィは小さな身体をしっかりと抱きしめた。メリルが照れくさそうな表情でそっと腕を回す。
 見守るバッテリーの胸中は複雑だったが、どちらも顔には出さなかった。
「あ…野球部に入ったら、ヴァッシュさんはヴァッシュ先輩、ウルフウッドさんはウルフウッド先輩って呼ばなきゃいけなくなるんですよね」
「…主将、副主将と呼ぶようになるかも知れませんわよ」
 男達は動きを止め、真顔でマネージャーを見つめた。菫色の瞳が向かいに座る部活仲間を等分に見返す。
「…主将に頼まれましたの。皆の気持ちは固まってる、二人の考えを訊いてくれないか、と」
 ギリアム達の提案に反対する者は皆無だった。メリルも賛成した。あとはバッテリー次第だ。
「それじゃヴァッシュ主将にウルフウッド副主将って呼ぶんですね! 今から練習して慣れとかないと。ヴァッシュ主将、ヴァッシュしゅしょう、ヴァッシュしゅそう…あれ?」
 ミリィはしばらくの間小声でくり返し練習した後、申し訳なさそうに人間台風のほうを見た。
「…ヴァッシュさん駄目ですごめんなさい。うまく言えません。ヴァッシュしゅそう…せせ先輩どうしましょう!?」
「ごめんなさいミリィ、言い方が悪かったですわね。違いますのよ」
「そうそう、僕がなるのは主将じゃなくて副主将。こっちなら言いやすいんじゃない?」
「…!」
 目を見開いて自分を凝視するマネージャーにヴァッシュはにっこり笑いかけた。
「決めたよ。僕は引き受ける」
 野球が好き。野球がやりたい。甲子園に行きたい。その為に、プレーヤーとして以外に自分にできることがあるのなら喜んでやる。
 自分がどうしたいのか、自分に何ができるか、くり返し問いかけて出した結論だった。
「はいっ判りました! ヴァッシュ副主将、ヴァッシュふくくしょう…あれれ?」
「副主将は一人しかいないからね。副主将だけでいいと思うよ。これまでもそうしてきたし」
「そ、そですか」
 苦笑混じりのヴァッシュのアドバイスにミリィは安堵の表情を浮かべた。
 六つの目は自然とウルフウッドに向けられた。
「…トンガリに指図されるんは癪やしな。やったるわ」
 偽悪的な言い方。だが三人は理解していた。それが、彼が野球部の今後や先輩達の気持ちを熟慮した上で導き出した答えだということを。
「そういう理由で引き受けるかなフツー」
 本当の理由は敢えて追求せず、ヴァッシュは片眉だけ跳ね上げて隣の男をからかった。
 ウルフウッドが反論する前にミリィの明るい声が響いた。
「それじゃ今日はウルフウッドさんが主将になるのとヴァッシュさんが副主将になるののお祝いでもあるんですね!」
 その時、注文した飲み物やケーキがテーブルに並べられた。
「すみません! いちごショート追加、お願いしまあす!」
「食べたかったんですのね、苺ショート」
「えへへ…ガトーミルフィーユとどっちにしようかギリギリまで悩んだんですけど」
 ケーキ二個は食べ過ぎですかねぇ。ミリィは肩を落とすと悲しげに呟いた。
「ま、たまにはいいでしょう。おめでたい日ですもの。苺ショートは御祝儀代わりにご馳走しますわ」
「ほんとですか!? ありがとうございます! 先輩だあい好き!!」
 力一杯抱きしめられ、途端に息が苦しくなる。慌てて後輩をなだめながらメリルは思った。
 今日は珍しく一息つけた。でも明日から、マネージャーとして、副会長として、また目のまわる様な忙しい日々がやってくるのだろう。
 でもそれはきっと、賑やかで活気に満ちた楽しい日々――
 未来に思いを馳せるメリルとスキンシップにいそしむミリィはしばらく気づかなかった。バッテリーが揃って口をへの字に曲げて自分達を見つめていることに。
「…あっ、ご、ごめんなさいお待たせしてしまって。お茶が冷めてしまいますわね。いただきましょうか」
「あ、うんそうだね。それじゃ…いっただっきまーす」
 不機嫌の原因を理解して貰えず更にへこんだことはおくびにも出さず、男達は妙に苦いコーヒーを同時に一口啜った。

―FIN―   
季節は移り、人は

プロローグ
 バレンタインから三日目の朝を迎えたが、野球部員達もマネージャーもわだかまりを消す機会を見出せずにいた。
 その日、珍しく弁当を持参しなかったヴァッシュは、混雑した学食の一角に新会計の男子生徒を見つけトレイを手に歩み寄った。
「隣、いいかい?」
「あ、ああ」
 どうしても確認しておきたいことがある。これはチャンスだ。
 ヴァッシュはすぐ横の席に腰掛けると、いつもより速いペースでカレーライスをかき込んだ。
 相手が食べ終えるのを待って声をかける。
「キミ、新しい生徒会の会計だよね。忙しい?」
「いや、今はそれほどでもないよ」
 ヴァッシュは僅かに眉をひそめた。それじゃどうしてメリルは放課後部活に来ないんだ…。
「イキナリの質問だけど、何で?」
 逆に訊かれてヴァッシュは我に返った。
「あ、突然ごめんね。僕野球部なんだけど、マネージャー…副会長がこのところ放課後の部活を休んでるもんだから」
「ああ…」
 相槌とも独り言ともつかない言葉。彼の顔を不快の色が一瞬よぎる。
『!?』
 だが、ヴァッシュが更に尋ねるよりも早く会計担当は席を立った。
「お先に」
 離れていく背中はすぐに学ランとセーラー服に紛れて見えなくなった。
 ヴァッシュは残っていた水を一気に飲み干し、食器を窓口に返却して食堂を後にした。
 釈然としないどころか、胸のつかえが倍増した気分だ。廊下を歩きながらついため息が洩れる。
 不意に誰かが無言のまま横に並んだ。目だけ動かして確認する。先刻話しかけた会計だった。
「生徒会長がごねてるんだ」
「え?」
 小さな声が生徒会の現状を、メリルの苦境を告げた。無茶な予算申請をした部がたくさんあったこと。予算を成立させる為にメリルが生徒会の備品の貸出を提案したこと。そのしくみ作りから書類の作成まで彼女一人でやっていること。キールがいちいちクレームをつけてやり直しをさせていること。
「…俺に限らず手伝いを申し出たんだけど、当のメリルさんに断られた。あなた方まで睨まれることはありませんわ、私なら大丈夫ですから、ってね。…あの噂、本当らしいな」
「噂?」
 視線は合わせず、顔を相手に向けることもしない。偶然傍を歩いているふりをしながら先を促す。
「何度メリルさんにアタックしても色よい返事が貰えなくて、業を煮やしたキールが生徒会役員にかこつけてメリルさんに近づこうとしたって話」
「…」
「引継ぎの時、キールはメリルさんのほうばっかり見てた。彼女がパソコンで作業してる時たまに後ろに立ってるけど、あれは絶対ディスプレイじゃなくて」
 声は途中で途切れた。金髪を逆立てた男が拳を固く握り締めているのに気づいたからだ。
「…ありがとう、教えてくれて」
 はらわたが煮えくりかえる思いを必死に押さえ、ヴァッシュはできるだけ穏やかな声で礼を言った。
「…できるのなら…できる範囲でいい、マネージャーを助けてやってくれないか。…頼む」
「勿論。俺達六人は副会長の味方だ。心配いらない」
 その言葉を最後に、会計担当はさりげなくヴァッシュの横を離れ自分のクラスに入った。


「どうする?」
「どうするったって…話をする時間もないんじゃ…」
 西日が差し込む野球部の部室では堂々巡りの会話がくり返されていた。もっともこれは今日に限ったことではない。既に三日連続で行なわれている。テーマは、マネージャーと仲直りをする方法。
 この会話の特徴は二つある。一つは主語がなくても意味が通じること。もう一つは決して結論が出ないということ。
 部活休止期間まであと二日。バッテリーを除いて、メリルとはほとんど会えなくなってしまう。
「ヴァッシュ、もう一度マネージャーに話してみてくれないか」
 そう言われるのも何度目だろう。心の中で吐息しながらヴァッシュは答えた。
「それは構いませんけど…何を言えばいいんですか?」
「…」
 かける言葉が見つからないのはヴァッシュも同じだった。尻切れとんぼになってしまったが言いたいことは言った。
 でもメリルの反応はなかった。あの時も、その後も。
 クラスでメリルと話すことが何度かあったが、彼女は決して野球部のことを話題にしなかった。一度だけこちらから持ち出したら、困ったような微笑みを浮かべてすぐに話をそらしてしまった。
「…ちと整理しましょうや」
 全く進展しない状況に辟易したのかウルフウッドが口を挟んだ。この会話に彼が加わるのはこれが初めてだった。
「先輩達はどうしたい、思ってはります? どうすればええか、やのうて」
「…謝りたい。許して欲しい。…できれば部に留まって欲しい」
「それ、まんま伝えたらええんとちゃいます?」
「どうやって!? マネージャーに俺達と話す時間はないんだぞ!? …わざと忙しそうに振る舞って、避けてるのかも知れないけど…」
「マネージャーがそんなことする訳ないでしょう!?」
 突然声を荒げたピッチャーに一同は驚いた表情を浮かべた。発言した二年生はすまん、と短く謝罪した。
「…直接言うだけが方法やない。手紙、電話、録音して渡すっちう手もある。第一、面と向かって言えます?」
「それは…」
 おそらくできないだろう。気まずくて、遠くからでさえメリルの顔をまともに見られないのだから。
「…言葉だけで…ちゃんと伝わるかな…」
「足りひんのやったら、何かつけたらどないです?」
「何かって…」
 野球部員の八割が一斉に低く唸った。
「…ホワイトデーのお返しと一緒にメッセージを渡すってのは」
「駄目です」
 ヴァッシュの容赦ない声が先輩の発言を遮った。
「それじゃどっちがメインか判らないですよ」
「礼儀正しいマネージャーのことやから、ホワイトデーにプレゼントしても『義理堅くお返ししてくれた』ぐらいにしか思わんやろな」
「それに、謝るなら早い方がいい。一ヶ月近くも後じゃ…」
 昼に聞いた話を思い起こす。副会長の仕事は彼女にしかできない。たとえそれが理不尽なものであっても。それにひきかえ部活は自由参加だ。もし両立できないとなったら、今回のことを口実にメリルは野球部を――
 彼女に負担をかけるのは判っている。マネージャーを続けて欲しいと思うのは我侭なのかも知れない。…でも。
「こういうのはどうでしょう」
 ヴァッシュの提案に一同は真剣な面持ちで耳を傾けた。


 二月後半のある日、トライガン学園は入試の為休校となった。この日は在校生の登校は例外なく禁止された。既に学年末試験まで一週間を切っている。日頃の勉強不足を補うにはもってこいの貴重な一日だったが、メリルを除く野球部員は自宅で素直に机に向かうようなことはしなかった。
 入試の翌日、打ち合わせを終えた黒髪の副会長は、生徒会室を出たところで金髪を逆立てたクラスメイトに呼び止められた。
「ヴァッシュさん…」
「お疲れ様。今日はもう終わり?」
「ええ」
「じゃあ…見せたいものがあるんだ。ちょっと時間貰えないかな」
 すぐには答えず相手を見つめる。夕陽で茜色に染まった空間の中、いつもと変わらない笑みを浮かべる彼が意図していることは掴めない。
「…何ですの?」
「ナイショ」
 メリルは小さく吐息した。今日はドイツ語のレッスンの日だ。帰りが遅くなるのは困る。
「今日は時間の余裕があまりありませんの。ですから…少しでよろしければ」
 ヴァッシュの顔が悲しそうに歪むのを目の当たりにしたら断れなくなってしまった。自分の甘さに心の中でこっそりため息をつく。
 消極的ながらも了承の返事に、男は嬉しそうににっこり笑った。
「大丈夫! すぐ済むし、家までちゃんと送るから!」
 小さな手をしっかり握ると、ヴァッシュはまっすぐ昇降口を目指した。急いで運動靴に履き替え、メリルが外履きに履き替えるのを待って彼女の背後に回り込む。
「ちょっと目つむってくれる?」
 訝しく思いながらもメリルは素直に目を閉じた。その途端、瞼に肌触りのよい布が押し当てられた。
「ヴァッシュさん!?」
「とっちゃ駄目だよ。目的地に着いたら外すから」
 タオルで目隠しをしたメリルをひょいと抱き上げる。
「!?」
「見えないまんまで歩くのは危険でしょ?」
「大丈夫です! 歩けます! …って、目隠しをとれば済む話ですわ!」
「駄ぁ目。ちょっとの間だから辛抱して」
 抗議の声を軽くいなして、ヴァッシュはそのまま歩き出した。十歩も行かないうちに方向転換する。
 数え切れないほど曲がった為にメリルの方向感覚はあっけなく狂わされた。何処をどう進んでいるのか見当もつかない。
 五分ほど経った後、ヴァッシュはそっとメリルを降ろした。
「…はい、もういいよ」
 言いながら目隠しをとる。ゆっくりと目を開けたメリルの身体が強張った。
 見慣れた扉。最近は朝しか見ることのできなかった。
「どうして…」
 今は部活休止期間なのに。
「皆待ってる」
 おそらく無意識にだろう、一歩退いたメリルの背中に腕を回すと、ヴァッシュは部室のドアのノブに手を伸ばした。


 扉が開いた瞬間メリルはきつく目を閉じた。光と、僅かな恐怖心から。
 ヴァッシュにそっと背中を押され、自ら視覚を封じたまま室内に足を踏み入れる。
「ごめんなさいっ!!」
 大音量の謝罪に恐る恐る目を開ける。見えたのは深々とお辞儀をした頭の群れだった。
「あ、あの…」
 戸惑いながら真後ろにいるクラスメイトに目を向ける。ドアのすぐ横にもう一人のクラスメイトが立っていた。
「皆謝りたかったんだ、バレンタインデーのこと」
 ヴァッシュは穏やかに微笑みながら、どうすればちゃんと気持ちを伝えられるのか判らなくて途方に暮れていたことを説明した。
「…ようやくどうするか決まって、準備が整ったんで、今日キミにここまで来て貰ったんだ」
「…あの時は悪かった。…マネージャーの話を聞く前に、一方的に怒鳴ったりして…。その…許して貰えるだろうか」
 メリルを厳しく問い詰めた二年の部員が顔を上げ、口篭もりながらも言葉を紡いだ。
「そんな…。悪いのは…謝らなければならないのは私の方ですのに…」
「ほならこれで水に流すっちうことでええか?」
「勿論ですわ!」
 異存などある筈がない。仲直りの印にメリルは部員全員と順に握手していった。
「ワイが昼に弁当食っとったら、こないな騒ぎにはならんかったかも知れんのに…すまんかったな」
「ウルフウッドさん達に別に渡したことが判れば、必然的に『何を貰ったんだ』という話になりますわ。どちらにしても同じだったと思います。ですから気にしないで下さい」
「そうそう。それにもう水に流したことなんだから蒸し返すのはナシ!」
 人間台風が二人の会話に乱入した。さりげなく繋いだままの手を外し、ウルフウッドに代わってマネージャーの手を握る。
「見せたいものってこういうことでしたのね」
「うん!」
「でしたら最初にそうおっしゃって下さればよかったのに…。何もあんな方法で連れてこなくても」
「あんな方法って?」
 メリルの説明に、主将らごく一部を除く部員達の口元が微妙に歪んだ。
「目隠しした上抱き上げて…」
「おまけに遠回りしましたわね。わざと何度も曲がりましたでしょ」
 更なる指摘に部員達の顔は強張り、ヴァッシュの顔からは血の気が引いた。
「…なあんか役得じゃねぇ?」
「それってちょっとセクハラ…」
「な、何言ってんですか! おんなじクラスでウルフウッドより付き合いが長いってだけで、マネージャー連れてくるって大役押しつけたクセに!」
「問答無用!」
「ちょ、ちょっと、先ぱ…ノオ――――ッ!!!!」
 関節技をかけられ、ヴァッシュは情けない悲鳴を上げた。
「白状しろ! 何でそんなことをした!?」
「…その方が何が起こるかって…ドキドキワクワクできるじゃないすか」
「…皆さん、判決は?」
「有罪!!」
 これまで以上に締め上げられ顔色が土気色になりつつあるピッチャーを、ウルフウッドは少し離れたところから眺めていた。
『まったく…正直に言うたらええのに…』
 目隠しで視覚を、抱き上げることで足を封じる。何も見えない状態にしてわざと遠回りし、目的地を悟られないようにする。全てマネージャーを確実に連れてくる為にしたことだ、と。
「う…うるふうっど…みてないでたすけて…」
 妙にぎこちない声での救援要請。普通に話せないほど苦しいのだろうが。
「先輩、ワイの分もキッチリお灸を据えたって下さい」
 まるっきり下心がなかった訳やあらへんやろ。
「そ…そんな…」
 息も絶え絶えのヴァッシュであった。
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季節は移り、人は


 賑やかな一角をよそに、主将はマネージャーに歩み寄ると真っ白い大きな紙袋を差し出した。
「俺達からのお詫びの品だ。受け取ってくれ」
「え、でも…」
「いいから。それに、多分これはマネージャーにしか使えない」
 メリルは許可を貰ってから中身を取り出した。崩してしまうのが惜しいくらい綺麗なラッピングを丁寧に開ける。
 出てきたのは同じ柄のエプロンが三枚。厚手の白い生地に、紫でブルーベリー、緑で葉と蔦が繊細に描かれている。
「洗濯する時服が濡れないように」
「あ…ありがとうございます」
 軽く頭を下げて礼を言った後、メリルは僅かに首をかしげた。どうしてこれが自分にしか使えないのか。
「サイズ、大丈夫か?」
 質問するより先に答えが示され、メリルは慌ててエプロンを身につけてみた。
「ええ、ピッタリですわ。でも探すのは大変でしたでしょう?」
 市販のものは大きすぎて、いつも肩紐のボタンを付け直しているのだ。
「皆で手分けして探したんだ。ヴァッシュに言われて、少し小さめのものをね」
 エプロン姿のマネージャーに気づいた部員が周りを囲んだ。ようやく解放されたヴァッシュがぐったりと床に倒れ伏す。
「あ、よかった。似合うよ」
「うん、いいね」
「ありがとうございます。大切にしますね」
 盛り上がる一団の傍らで、ウルフウッドはヴァッシュの肩を指でつついた。
「おーい、生きとるかー?」
「…キミが…そーゆーこと…言う?」
 横にしゃがみ込む男をブルーグリーンの瞳が睨みつける。が、鋭い視線とは反対に声には力がなかった。
「あっちはハッピーエンドのようやで」
 指差された方向に目をやって、ヴァッシュは床に頬をつけたまま微笑んだ。ほとんど足しか見えないが、和やかな雰囲気はここまで伝わってくる。
「ヴァッシュの見立てが正解だったってことか」
「え?」
「それ見つけてきたのヴァッシュなんだよ」
「で、昨日皆で店に行って品物を確認して買ったんだけど」
「本当は他にも花とか貝とか、果物でも苺とかレモンとかリンゴとか、いろんな柄があったんだ」
「どうせなら柄違いのほうがいいんじゃないかって意見も出たんだけど」
「あいつが『絶対コレ!』って譲らなくて」
 そこまで言って、一同は未だ床に密着しているピッチャーへと視線を向けた。
「…何で?」
 尋ねる男達の声は見事に重なった。それに促されるようにヴァッシュは身を起こし、床にあぐらをかいた。
「…ブルーベリーって、マネージャーの大好物じゃなかった?」
「いいえ。嫌いではありませんけど、大好物という訳では」
 正直に答えかけて、メリルははっと息を呑んだ。周囲の雰囲気が一変したのと、本当の理由に思い至って。
「ヴァッシュ君はだーれーと間違えたのかなー?」
「彼女か? それとも片思いか?」
「素直に吐いちまえよ」
 じりじりと間合いを詰めてくる仲間達の笑顔が恐い。人間台風の背中を冷や汗が一筋伝った。
「あ、あの、私用事があってもう帰らなければなりませんの。ヴァッシュさん、送って下さるんでしたわね?」
 メリルはエプロンを脱ぎながら、助け船を出すつもりでヴァッシュに声をかけた。
「え!?」
「ちょっとマネージャー、危ないんじゃないの!?」
「目隠し抱き上げ遠回りの男だぞ!?」
「送り狼に変身するかも知れないよ!?」
「あのねえ! 僕はスタンピード! 狼はウルフウッドでしょ!?」
 酷い言われようにさすがにカチンときたのかヴァッシュが声を荒げた。が、素晴らしく的外れの反論は名指しされた男の神経をこの上ないほど逆なでした。
 怪我をしないギリギリに手加減された回し蹴りを頭に食らい、ヴァッシュは誠に不本意ながら再び床に寝そべった。
「口は災いの元なんやで。よおく覚えとき」
 突然の痛みに頭を抱え顔を顰めて耐える男に、ウルフウッドは冷たい声で古人の有り難い言葉を教えてやった。


「あたた…まさか蹴りがくるとは思わなかった」
 学校を出て間もなく、赤信号で自転車を停めたヴァッシュは左手でこめかみの辺りをさすった。当たる直前に身体を横にずらしてクリーンヒットは免れたが、痛いことには変わりがない。
「あの…ごめんなさい。大丈夫ですの? 辛いんでしたら、私電車で帰りますから」
「平気平気! ウルフウッドもちゃんと手加減してくれてたし、大したことないよ。それにキミのせいじゃないから、気にしないで」
 背後から聞こえた遠慮がちな声に慌てて振り返り、満面の笑顔で元気よく答える。必要以上に大きい自分の動作と声に頭痛が酷くなったが、意地とやせ我慢で顔には出さなかった。
『ウルフウッドが見てたら思いっきり馬鹿にされただろうな』
 この場にあいつがいないのは不幸中の幸いだ。それに不幸なだけじゃない。メリルがこうして自分のことを心配してくれるのは、申し訳ないと思う反面ちょっぴり嬉しかったりする。
 信号が変わり、ヴァッシュは勢いよくペダルを踏んだ。
「あのエプロンを選んで下さったのはヴァッシュさんだそうですわね」
「あ、うん。…もしかして、気に入らなかった?」
「いいえ! 逆ですわ! サイズが合うものってなかなか見つからなくて、困ることが多いんですの」
「ああやっぱり」
「?」
「合宿の時気になってたんだ。エプロンにゆとりがあり過ぎるっていうか、だぼだぼした印象だったっていうか…」
 だから、『マネージャーへのプレゼント』と言われた時真っ先にエプロンを思いついたのだ。
 提案が皆にすんなり受け入れられたのはよかったが、どこで買うかが問題になった。誰にも心当たりはなく、結局手分けして探すことになった。
 これまで自分でエプロンを買ったことなど一度もない。当然いい店など知らない。やむを得ず、母とレムにいくつか候補を挙げて貰うことにした。覚悟はしていたが予想以上にからかわれ閉口した。
 突然メリルがくすくす笑い出した。思考を読まれる筈はないが、それでもヴァッシュはぎくりとする。
「何? どうしたの?」
「いえ…皆でエプロンを買いに行った、という話を思い出してしまって…。男性がこういうものを品定めするのって凄く大変だったんじゃないかと…」
 ヴァッシュは自転車に乗っていたことに感謝した。お陰で赤面した顔をメリルに見られずに済むからだ。
 あのエプロンを見つけたのは、レムに『行くなら覚悟しておいたほうがいいわよ』と言われた店だった。謎の発言の意味は行ってみて判った。ブライダル関連の商品の専門店だったのだ。
 幸せそうなカップルが寄り添って歩く店内を男一人でうろつくのは正直勇気が要った。でも、理想のエプロンを発見できたことで恥ずかしさも報われたような気がした。
 昨日皆に品物を確認して貰った。男ばっかり十人で押しかけたのだ、店の人も困惑したに違いない。
 質はいい。ペアルックにする為かサイズも豊富で、メリルに合いそうな大きさのものがすぐに見つかった。それを贈ることは満場一致で即決した。
 しかしどの柄にするかで意見が分かれた。少々揉めたが、ヴァッシュは決して折れなかった。
 メリルの為のエプロンだから。でも。
「…違う柄のほうがよかった?」
「そんなことありませんわ。とても綺麗な模様ですし…私の瞳の色に合わせて下さったんでしょう? ありがとうございます」
 さすがはメリルだ。ちゃんと判ってくれてる。ヴァッシュの口元に笑みが浮かんだ。
「洗剤もつけようか、なんて言ってたんだけどね」
「お洗濯、頑張りますわ」
「うん。…でも、エプロン贈っといてこういうこと言うのも何だけど、頑張り過ぎないでね。キミにしかできないことってあるでしょ? それをやって欲しいんだ。練習メニューを作るとかね」
「ええ…え!?」
 メリルは何気なく相槌を打った後絶句した。
「やっぱりキミが作ってたんだ」
「ど…どうして…」
「合宿の時必ずパソコンを持参してたでしょ。もっと小さな…モバイルって言ったっけ? 持ち運びに便利な奴がある筈なのに、何でかなってずっと疑問に思ってたんだ。合宿中もあれを使ってメニューを組んでたんだね」
「…」
「十二月に一緒に食事をして、キミのお父さんが凄く真面目で誠実な人なのがよく判った。そんな人が相手に一度も会わずに練習メニューを組むなんてことは絶対しないだろう…そう考えて、適任者が他にいることに気がついた」
「…ごめんなさい。騙すつもりじゃなかったんですけど…。でも、チェックはして貰ってますの。たまに修正」
「ストップ! 俺が聞いたのは『マネージャーのお父さんに内密に協力して貰ってる』ってことだけだ。チェックだって立派な協力だから、騙したことにはならないよ」
「…そうおっしゃっていただけると、心が軽くなります」
 それからしばらく沈黙が続いた。
「…両立はすごく大変だろうけど…でも…」
 マネージャーを続けて欲しい――その一言がどうしても言えない。自分の我侭かも知れないと判っているから。
「大丈夫、続けますわ。皆さん助けて下さいますし。…必ずやり遂げてみせます!」
 それは、ヴァッシュを証人にした自分との約束。
「うん…」
 ありがとう。口の中だけで呟かれた感謝の言葉はメリルには聞こえなかった。


 月をまたいで行なわれた学年末試験が終わり、校内にはほっとした雰囲気が漂っていた。残された大きな行事は三年生の送別会と卒業式のみ。
 送別会には三年生は全員、一・二年生は各クラスとクラブの代表が出席する。やることといえば、校長を始めとする諸先生の話を聞くことと生徒代表達によるスピーチ。その後立食形式で軽く食事をする。最後の食事を除けば酷く堅苦しいもので、生徒達からは不評だった。
 その準備に、生徒会と運営委員会は慌ただしい毎日を過ごしていた。
 今回、立食パーティーの時に生演奏でBGMを流すことになった。生徒会長が提案したのだが、実はメリルが入れ知恵したのである。
 音楽関係の部は大会や文化祭を除いて発表の場がほとんどない。実績を作ろうにも難しいのが現状だ。その為に予算の配分で差が生じるのは不公平だと考えてのことだった。
 吹奏楽部と合唱部、琴同好会が名乗りをあげ、交替で演奏することになった。
 退屈な送別会はつつがなく進行していったのだが。
 卒業生の一人が緊張の余りスピーチの内容を忘れて沈黙した。その時、すかさず吹奏楽部のトランペット奏者が短いフレーズを演奏した。野球でバッターが三振した時によく耳にする、『残念でした』とでもいうようなあの曲である。
 突然の出来事に体育館の中はどっと沸いた。
「えー、今のは僕の後任の吹奏楽部部長による名演奏でした。ナイスなフォローありがとう。…後で覚えてろよ」
 元部長がぼそっと呟いた一言に生徒達は再び爆笑した。どことなく白けたムードは綺麗に吹き飛んだ。
 全てのスピーチが終わり立食パーティーが始まった。先刻のハプニングの影響もあって、参加者達は賑やかに言葉を交わし交流を深めた。
 その席で、キールは前例のないことを敢行したとして先生や生徒から口々に賞賛された。
「いやあ、どうなるかと冷や冷やしましたけど、上手くいってよかったですよ」
 誉め言葉の雨にキールは終始ご機嫌だった。
 メリルは乾杯の直後に、舞台の上にある照明器具などをメンテナンスする為の細い通路に移動した。幕を少しずらして下の様子を確かめる。
 現場は常に把握できるが出席者からは見えない。そこは二つの条件を満たす絶好の場所だった。有事の際にすぐに駆けつけられないのが難点だが、念の為携帯電話は持っているし、キール以外の生徒会役員には事前にその旨話してある。
『どうやら無事終わりそうですわね…』
 数年前に卒業生と在校生が取っ組み合いの喧嘩をしたことがあったらしいが、そんな剣呑な雰囲気はどこにもない。
「マネージャー、いる?」
 ほっと息をついた瞬間に呼びかけられ、メリルの心臓は跳ね上がった。声を出さないよう手で口を押さえつつ、急いで声のしたほうに目を向ける。薄暗い中、せわしなく動く逆立てた金髪が見て取れた。自分を探しているのだろう。
「ここですわ。…そう言えば、野球部代表でしたわね」
「うん。…つまんないって聞いてたし、先生の話ではちょっと居眠りしちゃったけど、大成功だね」
「吹奏楽部の二人の部長のお陰ですわ」
 言いながら目線を落とし、賑やかな様子を眺める。横に並んだヴァッシュもそれに倣った。
「どうしてこんな所に…参加しないの?」
「ええ」
 菫色の双眸が生徒会長を捉えた。生徒達に囲まれ笑顔で応えている。
 この方法なら…。メリルは今後の生徒会運営に一筋の光明を見たような気がした。
 各部が活躍できる場を提供することで生徒会に対する反発を打ち消していく。今年予算の申請を大幅に削らされた吹奏楽部との関係は、今日のことで多少改善されるだろう。
 その一方で自分はできるだけ裏方に徹し、成功の功績は全てキールのものとする。彼の自尊心を常に満足させることができれば、備品貸出のしくみ作りのような仕事のやり方をさせられることは減っていく筈。だが、もし失敗したら。
 気分を害したキールに八つ当たりされるのは必至だ。各部との関係も険悪な状態に戻ってしまう。
 失敗した時は責任は自分が取る。その覚悟はできているけれど。
「失敗は…許されませんわね」
 低い呟きにヴァッシュは視線を隣に移した。僅かに細められた目。ほんの少し強張った横顔。厳しい空気が彼女を包んでいるのを感じる。
 メリルが今後のことを考えているのは判る。でも今くらいは少し力を抜いて欲しい。
 背中を軽く叩く。驚いたような表情を浮かべてこちらを見たマネージャーににっこり笑いかけ、手のひらを上にして両手を差し出す。ホームランを打ったチームメイトを迎える時のように。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
 大きな手に小さな手のひらが勢いよく打ちつけられ、小気味よい音を立てた。


 三月最初の日曜日、トライガン学園の体育館にはさまざまな制服姿の中学生がいた。壁に貼られた一覧表に視線が集中する。長い受験勉強の結果が今日判るのだ。
 あちこちから歓声が上がる。抱き合って喜ぶ姿もそこかしこで見られた。落胆する者も中にはいた。
「賑やかですわね」
 久しぶりに日曜の練習に参加したメリルは、洗濯の手を休めて体育館のほうを見た。
 一年前、自分は合否の確認に来なかった。合格して当たり前だったし、入学するつもりもなかった。
 それなのに、ひょんな事からこうして三年間通うことになった。
 不思議な巡り合わせだと思う。
 視線を落とし、ブルーベリー模様のエプロンを見つめる。ここに来なければ、部活仲間からエプロンをプレゼントされるなんてことは一生なかっただろう…。
 メリルの口元が自然とほころんだ。
「あの中に野球部に入部しようという人がいるといいんですけど…」
 もう一度体育館に目をやって小さく呟くと、メリルは洗濯を再開した。
「せんぱ~い!」
 耳慣れた、しかし学校という場所ではこの一年聞くことのなかった声。驚いて辺りを見回す。高々と挙げた右手を盛んに振りながら走ってくる大柄な後輩の姿が目に飛び込んできた。
「ミリィ!?」
「先輩っ!」
 ミリィは満面の笑みを浮かべてメリルに抱きついた。
「ミリィ…あなた」
 どうして、と訊きかけてメリルは口をつぐんだ。今日ここに中学生がいる理由は一つしかない。
「えへへ…ジャーン!」
 自分でファンファーレを鳴らすと、ミリィは左脇に抱えていた定型外の封筒を誇らしげにメリルに見せた。
「…おめでとう!」
「ありがとうございます! これでまた先輩といっしょの学校に通えます!」
 二人は抱き合ってミリィの合格を喜んだ。
「…志望校を教えてくれなかったのは私を驚かせる為だったんですのね」
「はい! …でも、落ちたらミットがないなっていうのもちょっぴりあったんです」
 トライガン学園はいわゆる進学校ではないが、大学進学率は高く偏差値も高めだ。
「それを言うならみっともない、ですわよ」
 相変わらずのボケっぷりにメリルは苦笑した。訂正する声も笑いを含んでいる。
 ふと気がつくと野球部員が二人を取り巻いていた。マネージャー達の声を聞きつけて何事かと駆けつけたのだ。
「あ、皆さん紹介しますわ。こちらミリィ・トンプソン。私の中学時代の後輩ですの」
「はじめまして、ミリィ・トンプソンです! 先輩がいつもお世話してます!」
「ミ、ミリィ!? お世話してますじゃなくてお世話になってますでしょう!? あの、ごめんなさい! この子よく言い間違いをするんですの」
 深々と一礼するミリィの横で、メリルは慌てて部員達に謝罪した。周囲からどっと笑いが起こる。
「いや、お世話されてるのはこっちだから、彼女の言葉は正しいよ」
「い、いえ、そんなことありませんわ。全然、あの」
 ギリアムの言葉にマネージャーがしどろもどろになる。
 こんなにうろたえる彼女を見ることなど滅多にない。自分に向けられている珍しいものを見るような視線に気づいてメリルの頬が紅潮した。
 彼女にとって幸いなことに全員の関心はすぐに別のものに移った。ミリィの思いがけない発言によって。
「四月からは皆さんの後輩になります!」
「え?」
「ミリィ、それじゃ…」
「はい! あたしも野球部のマネージャーになります! 二日モノですがよろしくお願いします!」
「それを言うなら不束者ですわ…」
 訂正は本日三度目。呻くようなメリルの声に再び大きな笑い声が上がった。
「…あれ? 今日はヴァッシュさんいないんですねぇ」
「ヴァッシュのこと知ってるの?」
 ミリィが答えるより早くメリルが口を開いた。
「夏の予選の時に応援に来てくれたことがあって、その時に会ったんですの。ね、ミリィ」
 部の中ではあくまでも部員とマネージャー。四人で初詣に行った等、学校の外でヴァッシュやウルフウッドと何度も会っていることは知られたくない。
「あ、はいそうです」
 理由は判らないまでも何かを察し、ミリィはすぐにメリルに調子を合わせた。
「ヴァッシュさんは家の都合で今日はお休みですの。早く用事が終われば午後からでも来るとおっしゃってましたけど」






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季節は移り、人は


「え~っと、次は六階ね」
「まだ行くの!?」
 楽しそうな母の声に、ヴァッシュは周囲の目も憚らず素っ頓狂な声を上げた。
「当たり前じゃない。靴とアクセサリーがまだだもの」
「これで何軒目だよ…」
 デパートをはしごすること五軒目、回った店の数を数えるのは途中でやめた。今はただ従者よろしく後についていってるだけだ。
 ヴァッシュが部活を休んだ理由、それは買い物だった。
「…俺の分はとっくに終わってるんだよ。先に帰ってもいいでしょ? 荷物は持って帰るから。部活だって行きたいし」
 彼の両手には大きな紙袋が合計五つ。
「駄目よ。ちゃんと服に合わせて選ぶんだから。レムの一生一度の晴れ舞台なんだもの、きちんとしなくちゃ」
「母さんが結婚するんじゃないんだから…」
 吐息混じりの呟きが聞こえたのか、それまでとは打って変わった沈んだ声でヴァッシュの母は言った。
「…息子と出かける機会なんてそうそうないのよ。もう少し付き合ってくれてもいいじゃない」
 ヴァッシュははっと息を呑んだ。母の寂しさを垣間見たような気がした。
「…判ったよ。でも買い物に付き合うのは今日だけだからね」
「うん、ありがとう! エスカレーターはあっちよ」
 この変わり身の早さ…さっきの暗いムードは何だったのか。ついため息が洩れてしまう。
「何してるの、早く早く!」
 母に急かされ、ヴァッシュは重い足を動かした。――
 金曜の夜、ヴァッシュは母に明後日の部活を休むよう言われた。
「何で?」
「もうすぐレムの結婚式でしょう? いい機会だから、ちゃんとしたスーツを一着買っとこうかと思って」
 母の言葉に、礼服の類は持っていないことを思い起こす。葬儀の場合は学生服に喪章でも問題ないが、結婚式のようなおめでたい席ではそれなりの恰好をしなければならない。
「うん、判った。でも早く終わったら部活に行くからね」
「はいはい。それじゃ紳士服売り場から回ることにしましょう」
 日曜日、約束どおりヴァッシュの母は息子の買い物から始めた。営業スマイルを浮かべた店員があれこれ持ってくるスーツの中から迷うことなく選び出し、ヴァッシュに手渡した。
「コレ。試着させて貰いなさい」
 言われるままにヴァッシュは袖を通し、ズボンをはいた。
 それは黒のシンプルな上下だった。ジャケットはウエストの辺りがややシェイプされたデザインでシングルボタン、ズボンも細身の為ほっそりした印象を受ける。
「寸足らずのズボンの裾は直して貰うとして…いいじゃない。似合うわよ。これなら筋肉ダルマも誤魔化せるわ」
「誰が筋肉ダルマだって?」
 買い物が早く終われば部活に出られる。口を尖らせてみせたものの、ヴァッシュはそれ以上文句を言わなかった。
 同じ店でワイシャツと白のネクタイも買った。靴もすぐに見つかった。
 これでお役御免と思ったが甘かった。母の分の買い物に付き合わされたのだ。
 多くのご婦人の例に洩れず、ヴァッシュの母も自分の買い物となると目の色が変わった。あちこち見て回るのも全く苦にならないらしい。
 遅い昼食を終えた時点で母が買ったのはスーツとブラウスと鞄だけ。
 歩き回るのも荷物持ちも大変だとは思わない。婦人物売り場という場違いなところにいるのが苦痛なのだ。暇つぶしに売り場を眺めても楽しくないことこの上ない。
「母さん…俺帰っちゃ駄目?」
 精神的に疲労困ぱいし、ヴァッシュは上目遣いに母親を見た。実際には彼のほうが背が高いので見下ろす形になったのだが。
「駄ぁ目」
 楽しそうな母を見ると何も言えなくなる。ヴァッシュは今日いくつ目になるのか判らないため息をついた。
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