満天の星の下で。陸酔いをする蜉蝣は船の甲板で、疾風と共に酒を飲んでいた。あっという間に大量に持ち込んだ酒瓶は空になり、中身が入っているのは一瓶だけになっていた。
「蜉蝣。」
「何だよ。」
疾風が呼ぶので返事をするが、当の本人は何も言わずにじっと、蜉蝣の眼帯を見詰めている。
「・・・おい?」
反応がないのを訝しく思い、声をかけるが返事はない。やがて疾風は膝立ちになり、蜉蝣の正面に移動してきた。
「・・疾風?」
疾風が何をしたいのか分からず名前を呼ぶが、それに対して返事がない。蜉蝣が如何した物かと考えていると急に疾風は蜉蝣の眼帯を剥ぎ取った。
「何がしてぇんだ、お前は・・・。」
酔っ払いの考える事はわからない。蜉蝣が胸の内でそう思うのと同時に、疾風は眼帯の下に隠している蜉蝣の瞼で閉じられた眼窩に口付けた。
「・・おい。」
ぽっかりと。空ろな穴が口を開いているだけの醜いそこに、疾風が何故口付けるのかが蜉蝣には分からない。
戦で左目に矢が刺さった時、どんなに大きく皮膚が裂け、血があふれるのを見ても左程顔色を変えない連中が顔を顰めたのを蜉蝣は覚えている。あと一寸深く刺さっていたら死んでいただろうと、戦で味方した城の医者は言った。運が良かったのだとは思う。片目を失うだけで済んだのだから。けれど、残った傷の醜さと、そこにもう目がないのだと鏡を見るたびに思うことが嫌で、蜉蝣は眼帯をして隠す事にした。そんな事をしても如何にもならないことぐらい分かっているが、それでも、蜉蝣は隠した。
「いいじゃねぇかよ、此処に何もなくてもよぉ。」
ぽつりと、疾風は呟いた。
「何で、お前が眼帯してんのかなンて、知ってるけどよぉ、こんな傷晒してたんじゃあ世の中渡っていけねぇんだなンて、想像つくけどよ、けど、隠さなくてもいいじゃねぇか。」
「お前、言ってる事矛盾してるぞ。」
「俺は、この傷なンか怖くねぇよ。それより、お前がいなくなるかも知れなかったことの方が怖ぇ。だから、この傷なんて怖くねぇよ。お前が生きてる証じゃねぇか。」
疾風はぽつぽつと言い続ける。
「だから、怖くなんかねぇから、俺といる時くらい、これは外せよ。俺は、気にしねぇから。ありのままでいろよ。」
それだけ言うと疾風はまた、蜉蝣のその左目のあった場所に口付け始めた。
一つ。
また一つ。疾風は唇を落としていく。ゆっくりと、何度も繰り返す疾風を、そっと蜉蝣は抱きしめた。
今の言葉は、疾風がずっと思っていたことなのだろうと、蜉蝣は思う。けれど意地っ張りで素直じゃない疾風が素直に言う筈が、言える筈がなくて、ずっと胸の内で燻っていたのだろうとも。それが酔った勢いで出てきたのだろうことも長い付き合いで分かるから、蜉蝣は嬉しかった。多分、こんな風に酔うことがなかったら、きっと一生疾風は言わなかっただろう。疾風が、自分に対して持っていた思いを知る事が出来て蜉蝣はよかったと思う。
いつの間にか眠り込んでしまった疾風を船で自分が寝起きしている部屋に運ぼうと、蜉蝣はその体を担ぎ上げた。穏やかな寝顔にそっと唇を寄せて蜉蝣は思う、今度からは望み通り二人でいる時は眼帯を外そう、と。
「蜉蝣。」
「何だよ。」
疾風が呼ぶので返事をするが、当の本人は何も言わずにじっと、蜉蝣の眼帯を見詰めている。
「・・・おい?」
反応がないのを訝しく思い、声をかけるが返事はない。やがて疾風は膝立ちになり、蜉蝣の正面に移動してきた。
「・・疾風?」
疾風が何をしたいのか分からず名前を呼ぶが、それに対して返事がない。蜉蝣が如何した物かと考えていると急に疾風は蜉蝣の眼帯を剥ぎ取った。
「何がしてぇんだ、お前は・・・。」
酔っ払いの考える事はわからない。蜉蝣が胸の内でそう思うのと同時に、疾風は眼帯の下に隠している蜉蝣の瞼で閉じられた眼窩に口付けた。
「・・おい。」
ぽっかりと。空ろな穴が口を開いているだけの醜いそこに、疾風が何故口付けるのかが蜉蝣には分からない。
戦で左目に矢が刺さった時、どんなに大きく皮膚が裂け、血があふれるのを見ても左程顔色を変えない連中が顔を顰めたのを蜉蝣は覚えている。あと一寸深く刺さっていたら死んでいただろうと、戦で味方した城の医者は言った。運が良かったのだとは思う。片目を失うだけで済んだのだから。けれど、残った傷の醜さと、そこにもう目がないのだと鏡を見るたびに思うことが嫌で、蜉蝣は眼帯をして隠す事にした。そんな事をしても如何にもならないことぐらい分かっているが、それでも、蜉蝣は隠した。
「いいじゃねぇかよ、此処に何もなくてもよぉ。」
ぽつりと、疾風は呟いた。
「何で、お前が眼帯してんのかなンて、知ってるけどよぉ、こんな傷晒してたんじゃあ世の中渡っていけねぇんだなンて、想像つくけどよ、けど、隠さなくてもいいじゃねぇか。」
「お前、言ってる事矛盾してるぞ。」
「俺は、この傷なンか怖くねぇよ。それより、お前がいなくなるかも知れなかったことの方が怖ぇ。だから、この傷なんて怖くねぇよ。お前が生きてる証じゃねぇか。」
疾風はぽつぽつと言い続ける。
「だから、怖くなんかねぇから、俺といる時くらい、これは外せよ。俺は、気にしねぇから。ありのままでいろよ。」
それだけ言うと疾風はまた、蜉蝣のその左目のあった場所に口付け始めた。
一つ。
また一つ。疾風は唇を落としていく。ゆっくりと、何度も繰り返す疾風を、そっと蜉蝣は抱きしめた。
今の言葉は、疾風がずっと思っていたことなのだろうと、蜉蝣は思う。けれど意地っ張りで素直じゃない疾風が素直に言う筈が、言える筈がなくて、ずっと胸の内で燻っていたのだろうとも。それが酔った勢いで出てきたのだろうことも長い付き合いで分かるから、蜉蝣は嬉しかった。多分、こんな風に酔うことがなかったら、きっと一生疾風は言わなかっただろう。疾風が、自分に対して持っていた思いを知る事が出来て蜉蝣はよかったと思う。
いつの間にか眠り込んでしまった疾風を船で自分が寝起きしている部屋に運ぼうと、蜉蝣はその体を担ぎ上げた。穏やかな寝顔にそっと唇を寄せて蜉蝣は思う、今度からは望み通り二人でいる時は眼帯を外そう、と。
PR
重が血相を変えて若手の作業場に飛び込んで来たのは、そろそろ昼食の準備に取りかかろうかという時間だった。
「遅い!報告に行くだけに、どんだけ時間がかかってるんだ……って、おい、どうした変な顔して?」
叱ってはみたものの、尋常ではない重の動揺っぷりに流石の舳丸も不審がる。
「顔真っ赤だけど、大丈夫か?」
東南風と一緒に、縁側で網の繕いをしていた航が、心配そうに声を掛けた。
「う、う、う、ん」
そのあきらかなどもりっぷりに、あきれ果てたように庭で薪を割る手を止めた間切が呟く。
「いや、大丈夫じゃないだろ?」
「赤くなっちゃって、どうしたの?」
続いて網問が興味津々でそう問う。彼は庭で干物の準備をしていた。
昼中にこのメンバー全員が揃っていることは珍しい。
重は一端口ごもる。
しかし、この秘め事は一人で抱えるには荷が重かった。
「あのさ、鬼蜘蛛丸の兄ィのことなんだけど……」
その言葉に、間切がぴくりと反応を返す。
「鬼蜘蛛丸の兄貴がどうしたんだ?」
近しい兄役に関してのこととは思わず、少し緊張気味に舳丸が先を促した。
意を決して、重はズバリ言った。
「疾風の兄ィとできてるかもしれない」
瞬間。周りの空気が凍りついた。
「…………………………えーっと、できてるってあれだよね。なんか、意外」
「…………………………うん」
とりあえず、一番初めに復活した網問と航がそう言葉を交わして、また沈黙する。
不憫そうに舳丸と東南風が間切を見た。
「……似たようなタイプなんだがな」
「年の功か……」
「ああ、間切にはまだあの渋さが足りないからな」
ぼそぼそと沈痛な面持ちで、語り合う。
いや、まだ真実と決まったわけではないのだけれども。
「…………重、その情報、どこからだ?」
背に黒雲を背負った間切がうめくように尋ねた。
「……おれが聞いちゃったんだけど……」
重の話を聞くところによるとこうである。
舳丸とともに行った水中の探索の報告に行くために鬼蜘蛛丸の部屋へと出かけた。
特に異常は見当たらなかったので報告自体は簡素に済んだ。そして退室する重と入れ替わるようにやってきたのが件の疾風である。
さて舳丸のところに戻ろうとしたのは良かったのだが、些細なことの確認をし忘れていたことを思い出し、念のためにもう一度鬼蜘蛛丸の部屋の前まできびすを返した。
そこで、声が聞こえたのだ。
「今晩、いいか?」
「今夜ですか……ええ、かまいませんよ。いつものトコでいいんですか?」
「おう」
そこまで言って、重は沈黙する。
話を聞く5人もやはり沈黙した。
「……それだけじゃあ、わかんねぇだろ?」
認めたくない間切がそう異を唱える。
「それだけじゃない」と、重が口を尖らせた。
「ぜったいばれないようにに出てこいよ。特に蜉蝣の兄ィにはって、言ってたし。それに……」
何を思い出したのか、かぁっと一気に顔に朱が走る。
航と網問が思わず身を乗り出した。
「それに?」
つられて頬を染めた網問が促す。
「……今夜こそ俺のもんにしてやるからな。って、疾風兄ィが鬼蜘蛛丸の兄ィに……」
『……………………』
ダイレクト。決定打。
網問と航も耳まで真っ赤に染まる。
「……で、鬼蜘蛛丸の兄貴の反応は?」
魂の抜けかけている間切の代わりに舳丸が聞いた。
「期待してますよって、笑ってた」
重は頭をかく。それはまあ、まんざらじゃないということなんだろう。
そして、「う……ちょっと海に出てきます」といつもの陸酔いが出たために話は終わったようだった。
慌てて重は逃げ出した。
「ど、どうしようか?」
と、話を終えた重が言う。
「どうにもこうにも仕様はないだろ」
対して、きっぱりと舳丸が決断した。
「いや、だってさ、あのふたりが」視線を泳がす重と、うんうんとうなずく網問と航に、舳丸はため息をついた。
「個人の自由だ、これは」
「うん……そうだよね」
「それは分かってるんだけど」
「なんか……」
ふんぎりがつかない3人に、東南風が口を開いた。
「間違っても二人を追おうなんて思うな。そんなことしてばれたら揃って罰を受ける」
『分かってるよ』
年少組3人揃って、そうは言ったものの、納得はいかない顔であった。
だが、いろんな意味で確かめるのは怖くて、そんなことは出来ない3人でもあった。
「しかし」と、舳丸が眉根を寄せて考え込んだそぶりを見せる。
「相瀬を重ねるってわりには風が強い日だが……声が風に飛ばされたり、コトに夢中になって流されたらどうするんだろうな?」
あくまで真面目な顔で呟かれた内容に、重は真っ赤になってずっこけた。
「……舳丸って実は……むご」
東南風に口を押さえられ、最後まで言えずに航は沈黙する。
間切の魂が音を立てて抜けてしまったように、網問には思えた。
しかし。兄役等の本当の関係を唯一知る東南風は思う。
鬼蜘蛛丸は義丸と。
疾風は蜉蝣と。
……できてるはずなんだが。
**********
夜半。不意にぱちりと目がさえてしまった義丸は、途切れた眠気にはあと息をついた。
「今夜、どうです?」と誘って、ものの見事に鬼蜘蛛丸に振られたのがこの重い気分に拍車をかけていることは間違いない。
カタカタと鳴る風の音さえも耳障りで恨めしい。
まぁ、この音にまぎれてと、不埒なことを考えたのは認めるが。
にしいても、最近の鬼蜘蛛丸はどこか様子がおかしい。
何やら疲れ気味な気もするし、隈も少し酷くなっている。それでいて、決して機嫌が悪かったりするわけではない。
むしろみんなに内緒で飴をもらえた子供みたいな、少し楽しそうな雰囲気すら持つのだ。
それってまるで。いやいやまさか。だって俺がいるでしょう。
そんな虚しい問答を頭の中で繰り返しても埒があかない。
「……鬼蜘蛛丸」
思い切って、隣室の問題の人に小さく声を掛けてみる。当たり前だが返事はない。
そして気配も。
「?」
小用にでも立ったのかと、しばらく待ってみるが物音一つしない。
「……??」
ごそごそと布団から這いだし自室を出て、音を立てないようにゆっくりと隣の部屋の障子を開ける。
「鬼蜘蛛丸?」
どこか呆然と、義丸は呟く。
部屋はもぬけの空だった。冷え切った布団がぽつんと敷かれている。
もしかして陸酔いがひどくなって海に出たのだろうか。よくある話ではある。
妙な胸騒ぎを抱えて、義丸は空のたらいをひっつかんで水軍館から外に出た。
月はすでに中天から傾きかけている。
海へ向かう道を月明かりが皎々と照らし出す。ただでさえ、量の多い髪が風に遊ばれてうざったく絡みつく。
しばらく道なりに進むと、向かいから耳に慣れた探し人の声が聞こえてきた。
「鬼蜘蛛丸」と呼ぼうとした声を、義丸はあわてて引っ込めた。誰かと話している。
向かってくるのは、鬼蜘蛛丸だけではない。
特にやましいことをしているわけではないのだが、瞬間的に義丸は道の横手の木の後ろに身を隠した。
疾風の兄貴と鬼蜘蛛丸?
現れた二人を目の端で確認して、ごくりとつばを飲みこんだ。
「疾風の兄さんは飛ばしすぎなんですよ、つき合わされるこっちの身にもなってください」
「あー、悪ぃ悪ぃ。ちょっと無理させたか?」
な、何の話だ……?と、義丸は木陰で耳をそばだてる。
「でもよ、やっと俺のモノになったと思うと嬉しくて飛ばしたくもなる気持ちも分かってくれるだろ?なあ、蜘蛛」
その言葉を聞いた瞬間、義丸は思わず吹き出して、目を見開いた。
え、まさか、このふたりが出来てんの?
蜉蝣の兄貴はどうした?嘘だろ?と、ひきつった笑いが浮かんだ。
「……確かに、俺も嬉しいですけど。蜉蝣の兄さん役をやるのは大変ですよ」
しかも、鬼蜘蛛丸が上!?嘘だろ!!
義丸としては、走って逃げ出したい気持ちで一杯である。しかし足は動かない。
耳だけはきっちりと言葉を聞き取っていた。疾風の笑い声が響く。
「昔から慣れ親しんだ奴もそりゃあ愛着があるし、もう分かり切ったところもあって安心できるがよ、やっぱ新しい奴って新鮮でいいな」
そう言って、疾風が鬼蜘蛛丸の首に手を回す。
「この駆け引きがたまんねぇ」
かなり上機嫌だ。鬼蜘蛛丸とてそこまで感情を露わにしているわけではないが、嬉しそうなのは伝わってくる。
古いのって、新しいのって。ぐるぐると義丸の頭と世界が不安定に回りだす。
「……兄さん、ここまで来れたんですから、そろそろ隠し通すのもやめませんか?」
誰に聞こえていると意識しているわけでもないが、鬼蜘蛛丸の声のトーンが少し下がった。
「うーん……だよなぁ。蜉蝣の奴にも、もう感づかれても仕方ねぇ頃合いだよな」
だとしたらまずいな。と、疾風も顎をなでる。
「俺もヨシに悪いことしちまったし……」
流石に少し落ち込んだ様子のその言葉。
「……明日」
そう言って、疾風は空を見上げてすうっと目を細めた。やがて、小さく息をついてうなずく。
「言うか」
「はい」
この時点で、完全に義丸の顔からは血の気が失せている。
ふたりの気配や声が完全に消え去った後も、しばし呆然と立ち尽くす。
やがて、長い長い息をついて力ない足取りで水軍館へと足を向けた。
「!?」
人影に気が付いて、ぎょっと目を剥いた。
「か、蜉蝣の兄貴。何してんですか?」
ほんのすぐ近くの木の裏。そこには腕を組んだ蜉蝣が立っていた。
まっすぐの長い髪が風に煽られ乱れている。青白い厳しい顔と相まって、さながら幽鬼のごとき様相を醸し出している。
ゆっくりと義丸は蜉蝣に近づき、声をかけた。
「陸酔いですか?」
「……………………」
返事はない。
「はぁ……よければたらいありますよ」
「……………………」
普段から気難しい顔をしている蜉蝣ではあったが、今日は格別だ。すごすごと差し出したたらいを手元に戻す。
何だかんだいって疾風の兄貴のこと気にしてる人だから、やっぱり追いかけて来たんだろうな。
思えば思うほど哀しい。
どちらが口火を切ろうか逡巡し、やはりおずおずと口を開いたのは義丸であった。
普段の余裕の態度は完全に消えうせた、力ない物言いである。
「……あの、やっぱ聞いてました?」
そんな義丸を独眼で一睨みして、蜉蝣は一言だけ言った。
「…………何も……言うな……」
「………………はい………………」
潮風がやけに目に染みる夜だった。
次の日。
「なあ、ちょっと話があるんだけどよ。時間いいか?」
やましさのかけらもなく、笑って話しかけてきた相棒。
ついに来たか。と、蜉蝣はぐっと眉根を寄せて拳を握る。
どれだけ昨夜、問い詰めようかと思ったことか。しかし、陸酔いのひどさと相まって結局日が昇り、戻ってみれば疾風の姿は早々に見えず。
昼を過ぎた今やっと、対面したのであった。
「……何だ?」
「まあ、とりあえず来てくれねぇか?」
歯切れの悪い答えに、頭の血管が一本くらい破裂しそうな予感を感じつつ蜉蝣は答えた。
「いいだろう」
「そうか。あとヨシ、お前も来い」
「へい」
こちらも昨晩結局問い詰めることができずに夜を明かしてしまった義丸である。
「蜘蛛の野郎も待ってるぜ。感謝しろよ、お前らが初なんだぜ、これを打ち明かすのは」
からからと笑う疾風に二人は無言になる。
『…………………』
なんで、こんなに嬉しそうなんだ!?
「しかも体験できるんだからよ」
「は?体験?」
予想外の単語に義丸が首を傾げた。
同じように疑問符を貼り付けた蜉蝣と顔を見合わせる。
「来いよ」と、疾風が悪戯を仕掛けた子どものように口角を上げた。
「あ、鬼蜘蛛丸の兄ィだ」
そういって水軍館の一室から重が指差す先には、岸に寄せられた小早に鎮座する鬼蜘蛛丸の姿が見えた。
昨日の風がまだ残る、晴天の日。
「向こうから来るのは疾風兄ィと……蜉蝣兄ィと義兄ィだ」
わずかに上ずったその声。
現在若手の中で渦中の人たる組み合わせとその相棒が同じ船に乗り込んだ。
舳丸でさえ思わず仕事の手を止めて、4人の動向を見守ってしまう。
「あれ?お頭と由良さん?」
だが予想外の人物の登場に、重が頓狂な声をあげる。
見れば確かに、少し高台に位置する場所から船を見守るようにして立つ総大将と船頭。
疾風が彼らに向かって大きく、手を振った。
それに対して笑顔で第三協栄丸も手を振り返す。
「ど、どうなってるの?」
「俺に聞くなよ」
水練ふたりは身を乗り出すように窓から様子をうかがう。
すると水軍館のほうに、くるっとお頭が振り向いた。
ふたりそろって息を呑む。
「おーい!!残ってる者がいたらちょっとこっちに来い。おもしろいもんが見れるぞ!!」
その号令に、舳丸と重は顔を見合わせた。
「で、話はなんだ?」
男4人も乗れば狭い小船の上。苛立ちを隠そうともせずに蜉蝣が疾風に言った。
「えらく機嫌悪ぃんだな、蜉蝣?」
「何でもねぇよ」
蜉蝣は苦虫を噛み潰したような表情になる。原因は目の前にいるそらっとぼけた相棒である。
しかし、どうにも先の読めない展開になっているのは間違いない。
何故だか船に乗せられて、4人揃って櫓を漕いで、広い海原に出る。
しかもお頭に船頭まで巻き込んでいるらしい。
そして現在、岸を望めば、お頭の周りにはすでに人だかりができている。
一体、このふたりは何をやらかすつもりなんだ。
「んー?まあ、見てりゃわかるさ」
にいっとガラのあまりよろしくない笑顔を浮かべて、疾風は慣れた手つきで帆を降ろした。
「行くぜ!!」
気合一発。
ぱんっと、大量の風を孕んだ帆が大きく膨らんだ。
『!!??』
ぐんと、今までに感じたことのないほどの急激な加速に、蜉蝣と義丸は声を失った。
「いい風だ!飛ばすぞ!蜘蛛、案内頼む」
「はい!」
鬼蜘蛛丸が舵を握った。
普段なら、蜉蝣の役。
あ、と義丸は自分の迂闊さに目を点にした。
*********
「あれが、木綿帆の威力か」
「木綿帆……ですか?」
凄い速さで水を切って進む小船から視線は離さず、由良の言った言葉を東南風が反芻した。
集まった他の面子も時折感嘆の声を上げては、船の様子を見守っている。
「そうだ」と、第三協栄丸が胸を張った。
「鬼蜘蛛丸が得た知識なんだがな。ムシロ帆と違って風が抜けないからよ。ああやって、帆走力が高くなるわけだ。
しっかし、風があるとはいえたいした速さだ」
ほおうと、改めて感心したように第三協栄丸が嬉しそうに感嘆の声をあげる。
ちなみにムシロ帆というのは草やワラで編んだ帆のことである。
「なんといっても、帆と風のことなら任せとけ!な兵庫水軍きっての手引き、疾風兄ィが扱ってるし」
「海のことなら任せとけ!な山立の鬼蜘蛛丸の兄さんがついてたら、安心して荒い海でも走らせれる」
そう言って、網問と航がくすくす笑う。
「ものにするのは。帆の扱いかよ!」叫んで、どっと力が抜けたというように、間切は地面にへたりこんだ。
その背をぽんと舳丸が叩く。
「でも、なんでわざわざ秘密に練習させてたんですか?」
「知ってたのか?」
ただでさえ丸い瞳をさらに丸めて、由良が声を上げた重を見返した。
「あ……」と、口を押さえるが後の祭りだ。
バカ。と、舳丸が重の失言に頭を抱えた。
「け、決して、夜に抜け出したりしたわけじゃないんです!!ただ、鬼蜘蛛丸の兄ィと疾風兄ィがこそこそ話してるのを聞いて不思議に思ったもんで」
「疾風の兄貴達もこのことは何も言いませんでした。ただ、今晩どうかという約束事を取り付けていた話を漏れ聞いたんです。つい、昨日」
重がパニックに陥れば自分は冷静になるように刷り込まれている舳丸が言葉を引き継いだ。
苦笑して、由良が溜息をつく。
「安心しろ。咎めはしない。水軍内で秘密を作ったこちらも悪いんだからな」
「じゃあ、何でですか?」
重がもう一度問う。
「木綿といのは、この国では生産されていないからどうしても輸入に頼るしかなくなる。
だがもし軍船1つ分の帆を木綿に変えるとしたらどれくらいの高い買い物になるか……」
『…………………』
唐渡りの輸入品。給金の安い水夫連中は、その値段を考えて無言になった。
「本当に使えるかどうかはどうしても自分達の所で実践しておきたかった」
その結果が今まさに海を切り走る小船である。
結果は上々。
お頭が船を見つめて続きを言う。
「いくら上乗りや警護で、商人達との結びつきは強いわれわれだが、彼らはあくまで商売相手だ。
もしこちらが大量に木綿を買い占めると知れて、値段を吊り上げられたりされたら困る」
「確かに」と、全員がうなずく。
「それに何より、他の海賊衆が俺達の動向を知って、先に買い占められて2番手に甘んじるのはもっと嫌だ」
その矜持の高さに、他の者が一斉にふっと笑う。その通りだ。
「善は急げ。買いにいきましょうか?」
由良が笑って、堺の町の方へと踵を返した。
今一度、小さな帆船に視線を送って第三協栄丸もうなずく。
「そうだな。じゃあ、疾風たちをねぎらってやっといてくれ」
『へい!!』
頼もしい大きな返事に支えられて、総大将と船頭、頭たるふたりは街へと向かう。
「ここは、もっともっと、強くなるんだね」
航が東南風の隣で意気込んだ。
「ああ……そうだな」
「おれらも、それに見合うようにがんばらないと!」
誇らしげな航の笑顔を受けて、東南風がくしゃりとその頭を撫でた。
横では間切がほーっと安堵の息をついている。
「…………………」
真実は、まだ閉まっておこう。東南風は無言で決意した。
**********
鬼蜘蛛丸からこの帆走力の理由と、隠していたわけを聞かされて蜉蝣と義丸は思わず脱力した。
帆を扱う手綱の感触にひとり悦に入りながら、疾風が隣に座る蜉蝣に言った。
「そうゆうわけで、俺これからどんどん忙しくなりそうだから、よろしく頼むぜ蜉蝣」
「何をだ?」
そりゃあ、と、にやりと笑って疾風は耳打ちする。
「あんまし、夜の相手できねぇぞ」
「バカヤロウ」
「あでっ」
蜉蝣が疾風を小突いた。
「?」
じつは未だ、兄役ふたりの関係を知らない鬼蜘蛛丸が、聞き取れずに首をかしげた。
「鬼蜘蛛丸は聞かなくていい」
何となく予想の付く義丸が言う。そして、ふてくされて愚痴ってしまった。
「しっかしまぁ、ふたりそろってコソコソこんなことしてたとは、驚きだ」
「ヨシ、すまねぇな。他言無用ってお達しがあってよ」
「上からの命令じゃ仕方ないとは分かっちゃいますがね」
ああ、この勘違いに顔から火が出そうだ。
この瀬戸内で夜の海で帆船を走らせようなんて思えば、この水軍内で疾風と鬼蜘蛛丸以上の適任者はいない。
「それにしたって鈎役の自分はともかく、舵取りの兄貴くらいには伝えといてもいいんじゃないか?」
義丸は毒づいた。それを聞いた鬼蜘蛛丸がちらと兄役ふたりを見て、義丸のほうに顔を寄せた。
「な、なんすか?鬼蜘蛛丸」
「疾風の兄さんは蜉蝣の兄さんには言いたくなかったんだ」
苦笑して、前で言い合う二人に聞こえないように小声で義丸に耳打ちした。
「何で?」
「甘えるのが嫌だってのと、驚かせてやりたいのが大半の理由みたいだけど、怪談話とかの嫌がらせをされるのが嫌だからって言ってた」
俺はさすがにそんなことしないと思うんだけど。と、鬼蜘蛛丸は笑うが、義丸はやりかねないと思った。
いくら仕事とはいえ、夜半自分以外とふたりっきりになることが分かれば怪談くらいの嫌がらせはしかねないだろう。
長い付き合いのせいもあるのか、時折子供っぽい兄役ふたりのことを思って、義丸は息をついた。
しかしそれは、今まで秘密にしてきたことで何倍にもなって帰ってきそうである。
ウミボウズ、ウミカブロ、ウミグモ、ウミザトウ、ウミアマ、オキユウレイ、ウシオニ、カイナンホウシ、カゲワニ、ナミコゾウ、ヌレオナゴ、フナユウレイ、フナモウレン、マヨイブネ、モウレイセン、ボーシン等々。
今日からしばらく思いつく限りの海の幽霊話を泣いて謝るまで聞かせてやろうかと、蜉蝣は半ば本気で考えていた。
しかし。
誇りと喜色がない混じった表情で手綱を引き、帆を扱う疾風の顔が、ひとまわりどころか、ふたまわりも若く輝いて見えたもので。
すべて、それで帳消しにしてやるかという気分になったのであった。
「蜘蛛、舵は俺が取る」
「はい!」
蜉蝣が定位置に収まる。それに全員がどこかほっとしたような雰囲気が流れる。
やはりこうでないと。
この面子なら、怖いモノなんてなくどこまでも走っていけそうだった。
「遅い!報告に行くだけに、どんだけ時間がかかってるんだ……って、おい、どうした変な顔して?」
叱ってはみたものの、尋常ではない重の動揺っぷりに流石の舳丸も不審がる。
「顔真っ赤だけど、大丈夫か?」
東南風と一緒に、縁側で網の繕いをしていた航が、心配そうに声を掛けた。
「う、う、う、ん」
そのあきらかなどもりっぷりに、あきれ果てたように庭で薪を割る手を止めた間切が呟く。
「いや、大丈夫じゃないだろ?」
「赤くなっちゃって、どうしたの?」
続いて網問が興味津々でそう問う。彼は庭で干物の準備をしていた。
昼中にこのメンバー全員が揃っていることは珍しい。
重は一端口ごもる。
しかし、この秘め事は一人で抱えるには荷が重かった。
「あのさ、鬼蜘蛛丸の兄ィのことなんだけど……」
その言葉に、間切がぴくりと反応を返す。
「鬼蜘蛛丸の兄貴がどうしたんだ?」
近しい兄役に関してのこととは思わず、少し緊張気味に舳丸が先を促した。
意を決して、重はズバリ言った。
「疾風の兄ィとできてるかもしれない」
瞬間。周りの空気が凍りついた。
「…………………………えーっと、できてるってあれだよね。なんか、意外」
「…………………………うん」
とりあえず、一番初めに復活した網問と航がそう言葉を交わして、また沈黙する。
不憫そうに舳丸と東南風が間切を見た。
「……似たようなタイプなんだがな」
「年の功か……」
「ああ、間切にはまだあの渋さが足りないからな」
ぼそぼそと沈痛な面持ちで、語り合う。
いや、まだ真実と決まったわけではないのだけれども。
「…………重、その情報、どこからだ?」
背に黒雲を背負った間切がうめくように尋ねた。
「……おれが聞いちゃったんだけど……」
重の話を聞くところによるとこうである。
舳丸とともに行った水中の探索の報告に行くために鬼蜘蛛丸の部屋へと出かけた。
特に異常は見当たらなかったので報告自体は簡素に済んだ。そして退室する重と入れ替わるようにやってきたのが件の疾風である。
さて舳丸のところに戻ろうとしたのは良かったのだが、些細なことの確認をし忘れていたことを思い出し、念のためにもう一度鬼蜘蛛丸の部屋の前まできびすを返した。
そこで、声が聞こえたのだ。
「今晩、いいか?」
「今夜ですか……ええ、かまいませんよ。いつものトコでいいんですか?」
「おう」
そこまで言って、重は沈黙する。
話を聞く5人もやはり沈黙した。
「……それだけじゃあ、わかんねぇだろ?」
認めたくない間切がそう異を唱える。
「それだけじゃない」と、重が口を尖らせた。
「ぜったいばれないようにに出てこいよ。特に蜉蝣の兄ィにはって、言ってたし。それに……」
何を思い出したのか、かぁっと一気に顔に朱が走る。
航と網問が思わず身を乗り出した。
「それに?」
つられて頬を染めた網問が促す。
「……今夜こそ俺のもんにしてやるからな。って、疾風兄ィが鬼蜘蛛丸の兄ィに……」
『……………………』
ダイレクト。決定打。
網問と航も耳まで真っ赤に染まる。
「……で、鬼蜘蛛丸の兄貴の反応は?」
魂の抜けかけている間切の代わりに舳丸が聞いた。
「期待してますよって、笑ってた」
重は頭をかく。それはまあ、まんざらじゃないということなんだろう。
そして、「う……ちょっと海に出てきます」といつもの陸酔いが出たために話は終わったようだった。
慌てて重は逃げ出した。
「ど、どうしようか?」
と、話を終えた重が言う。
「どうにもこうにも仕様はないだろ」
対して、きっぱりと舳丸が決断した。
「いや、だってさ、あのふたりが」視線を泳がす重と、うんうんとうなずく網問と航に、舳丸はため息をついた。
「個人の自由だ、これは」
「うん……そうだよね」
「それは分かってるんだけど」
「なんか……」
ふんぎりがつかない3人に、東南風が口を開いた。
「間違っても二人を追おうなんて思うな。そんなことしてばれたら揃って罰を受ける」
『分かってるよ』
年少組3人揃って、そうは言ったものの、納得はいかない顔であった。
だが、いろんな意味で確かめるのは怖くて、そんなことは出来ない3人でもあった。
「しかし」と、舳丸が眉根を寄せて考え込んだそぶりを見せる。
「相瀬を重ねるってわりには風が強い日だが……声が風に飛ばされたり、コトに夢中になって流されたらどうするんだろうな?」
あくまで真面目な顔で呟かれた内容に、重は真っ赤になってずっこけた。
「……舳丸って実は……むご」
東南風に口を押さえられ、最後まで言えずに航は沈黙する。
間切の魂が音を立てて抜けてしまったように、網問には思えた。
しかし。兄役等の本当の関係を唯一知る東南風は思う。
鬼蜘蛛丸は義丸と。
疾風は蜉蝣と。
……できてるはずなんだが。
**********
夜半。不意にぱちりと目がさえてしまった義丸は、途切れた眠気にはあと息をついた。
「今夜、どうです?」と誘って、ものの見事に鬼蜘蛛丸に振られたのがこの重い気分に拍車をかけていることは間違いない。
カタカタと鳴る風の音さえも耳障りで恨めしい。
まぁ、この音にまぎれてと、不埒なことを考えたのは認めるが。
にしいても、最近の鬼蜘蛛丸はどこか様子がおかしい。
何やら疲れ気味な気もするし、隈も少し酷くなっている。それでいて、決して機嫌が悪かったりするわけではない。
むしろみんなに内緒で飴をもらえた子供みたいな、少し楽しそうな雰囲気すら持つのだ。
それってまるで。いやいやまさか。だって俺がいるでしょう。
そんな虚しい問答を頭の中で繰り返しても埒があかない。
「……鬼蜘蛛丸」
思い切って、隣室の問題の人に小さく声を掛けてみる。当たり前だが返事はない。
そして気配も。
「?」
小用にでも立ったのかと、しばらく待ってみるが物音一つしない。
「……??」
ごそごそと布団から這いだし自室を出て、音を立てないようにゆっくりと隣の部屋の障子を開ける。
「鬼蜘蛛丸?」
どこか呆然と、義丸は呟く。
部屋はもぬけの空だった。冷え切った布団がぽつんと敷かれている。
もしかして陸酔いがひどくなって海に出たのだろうか。よくある話ではある。
妙な胸騒ぎを抱えて、義丸は空のたらいをひっつかんで水軍館から外に出た。
月はすでに中天から傾きかけている。
海へ向かう道を月明かりが皎々と照らし出す。ただでさえ、量の多い髪が風に遊ばれてうざったく絡みつく。
しばらく道なりに進むと、向かいから耳に慣れた探し人の声が聞こえてきた。
「鬼蜘蛛丸」と呼ぼうとした声を、義丸はあわてて引っ込めた。誰かと話している。
向かってくるのは、鬼蜘蛛丸だけではない。
特にやましいことをしているわけではないのだが、瞬間的に義丸は道の横手の木の後ろに身を隠した。
疾風の兄貴と鬼蜘蛛丸?
現れた二人を目の端で確認して、ごくりとつばを飲みこんだ。
「疾風の兄さんは飛ばしすぎなんですよ、つき合わされるこっちの身にもなってください」
「あー、悪ぃ悪ぃ。ちょっと無理させたか?」
な、何の話だ……?と、義丸は木陰で耳をそばだてる。
「でもよ、やっと俺のモノになったと思うと嬉しくて飛ばしたくもなる気持ちも分かってくれるだろ?なあ、蜘蛛」
その言葉を聞いた瞬間、義丸は思わず吹き出して、目を見開いた。
え、まさか、このふたりが出来てんの?
蜉蝣の兄貴はどうした?嘘だろ?と、ひきつった笑いが浮かんだ。
「……確かに、俺も嬉しいですけど。蜉蝣の兄さん役をやるのは大変ですよ」
しかも、鬼蜘蛛丸が上!?嘘だろ!!
義丸としては、走って逃げ出したい気持ちで一杯である。しかし足は動かない。
耳だけはきっちりと言葉を聞き取っていた。疾風の笑い声が響く。
「昔から慣れ親しんだ奴もそりゃあ愛着があるし、もう分かり切ったところもあって安心できるがよ、やっぱ新しい奴って新鮮でいいな」
そう言って、疾風が鬼蜘蛛丸の首に手を回す。
「この駆け引きがたまんねぇ」
かなり上機嫌だ。鬼蜘蛛丸とてそこまで感情を露わにしているわけではないが、嬉しそうなのは伝わってくる。
古いのって、新しいのって。ぐるぐると義丸の頭と世界が不安定に回りだす。
「……兄さん、ここまで来れたんですから、そろそろ隠し通すのもやめませんか?」
誰に聞こえていると意識しているわけでもないが、鬼蜘蛛丸の声のトーンが少し下がった。
「うーん……だよなぁ。蜉蝣の奴にも、もう感づかれても仕方ねぇ頃合いだよな」
だとしたらまずいな。と、疾風も顎をなでる。
「俺もヨシに悪いことしちまったし……」
流石に少し落ち込んだ様子のその言葉。
「……明日」
そう言って、疾風は空を見上げてすうっと目を細めた。やがて、小さく息をついてうなずく。
「言うか」
「はい」
この時点で、完全に義丸の顔からは血の気が失せている。
ふたりの気配や声が完全に消え去った後も、しばし呆然と立ち尽くす。
やがて、長い長い息をついて力ない足取りで水軍館へと足を向けた。
「!?」
人影に気が付いて、ぎょっと目を剥いた。
「か、蜉蝣の兄貴。何してんですか?」
ほんのすぐ近くの木の裏。そこには腕を組んだ蜉蝣が立っていた。
まっすぐの長い髪が風に煽られ乱れている。青白い厳しい顔と相まって、さながら幽鬼のごとき様相を醸し出している。
ゆっくりと義丸は蜉蝣に近づき、声をかけた。
「陸酔いですか?」
「……………………」
返事はない。
「はぁ……よければたらいありますよ」
「……………………」
普段から気難しい顔をしている蜉蝣ではあったが、今日は格別だ。すごすごと差し出したたらいを手元に戻す。
何だかんだいって疾風の兄貴のこと気にしてる人だから、やっぱり追いかけて来たんだろうな。
思えば思うほど哀しい。
どちらが口火を切ろうか逡巡し、やはりおずおずと口を開いたのは義丸であった。
普段の余裕の態度は完全に消えうせた、力ない物言いである。
「……あの、やっぱ聞いてました?」
そんな義丸を独眼で一睨みして、蜉蝣は一言だけ言った。
「…………何も……言うな……」
「………………はい………………」
潮風がやけに目に染みる夜だった。
次の日。
「なあ、ちょっと話があるんだけどよ。時間いいか?」
やましさのかけらもなく、笑って話しかけてきた相棒。
ついに来たか。と、蜉蝣はぐっと眉根を寄せて拳を握る。
どれだけ昨夜、問い詰めようかと思ったことか。しかし、陸酔いのひどさと相まって結局日が昇り、戻ってみれば疾風の姿は早々に見えず。
昼を過ぎた今やっと、対面したのであった。
「……何だ?」
「まあ、とりあえず来てくれねぇか?」
歯切れの悪い答えに、頭の血管が一本くらい破裂しそうな予感を感じつつ蜉蝣は答えた。
「いいだろう」
「そうか。あとヨシ、お前も来い」
「へい」
こちらも昨晩結局問い詰めることができずに夜を明かしてしまった義丸である。
「蜘蛛の野郎も待ってるぜ。感謝しろよ、お前らが初なんだぜ、これを打ち明かすのは」
からからと笑う疾風に二人は無言になる。
『…………………』
なんで、こんなに嬉しそうなんだ!?
「しかも体験できるんだからよ」
「は?体験?」
予想外の単語に義丸が首を傾げた。
同じように疑問符を貼り付けた蜉蝣と顔を見合わせる。
「来いよ」と、疾風が悪戯を仕掛けた子どものように口角を上げた。
「あ、鬼蜘蛛丸の兄ィだ」
そういって水軍館の一室から重が指差す先には、岸に寄せられた小早に鎮座する鬼蜘蛛丸の姿が見えた。
昨日の風がまだ残る、晴天の日。
「向こうから来るのは疾風兄ィと……蜉蝣兄ィと義兄ィだ」
わずかに上ずったその声。
現在若手の中で渦中の人たる組み合わせとその相棒が同じ船に乗り込んだ。
舳丸でさえ思わず仕事の手を止めて、4人の動向を見守ってしまう。
「あれ?お頭と由良さん?」
だが予想外の人物の登場に、重が頓狂な声をあげる。
見れば確かに、少し高台に位置する場所から船を見守るようにして立つ総大将と船頭。
疾風が彼らに向かって大きく、手を振った。
それに対して笑顔で第三協栄丸も手を振り返す。
「ど、どうなってるの?」
「俺に聞くなよ」
水練ふたりは身を乗り出すように窓から様子をうかがう。
すると水軍館のほうに、くるっとお頭が振り向いた。
ふたりそろって息を呑む。
「おーい!!残ってる者がいたらちょっとこっちに来い。おもしろいもんが見れるぞ!!」
その号令に、舳丸と重は顔を見合わせた。
「で、話はなんだ?」
男4人も乗れば狭い小船の上。苛立ちを隠そうともせずに蜉蝣が疾風に言った。
「えらく機嫌悪ぃんだな、蜉蝣?」
「何でもねぇよ」
蜉蝣は苦虫を噛み潰したような表情になる。原因は目の前にいるそらっとぼけた相棒である。
しかし、どうにも先の読めない展開になっているのは間違いない。
何故だか船に乗せられて、4人揃って櫓を漕いで、広い海原に出る。
しかもお頭に船頭まで巻き込んでいるらしい。
そして現在、岸を望めば、お頭の周りにはすでに人だかりができている。
一体、このふたりは何をやらかすつもりなんだ。
「んー?まあ、見てりゃわかるさ」
にいっとガラのあまりよろしくない笑顔を浮かべて、疾風は慣れた手つきで帆を降ろした。
「行くぜ!!」
気合一発。
ぱんっと、大量の風を孕んだ帆が大きく膨らんだ。
『!!??』
ぐんと、今までに感じたことのないほどの急激な加速に、蜉蝣と義丸は声を失った。
「いい風だ!飛ばすぞ!蜘蛛、案内頼む」
「はい!」
鬼蜘蛛丸が舵を握った。
普段なら、蜉蝣の役。
あ、と義丸は自分の迂闊さに目を点にした。
*********
「あれが、木綿帆の威力か」
「木綿帆……ですか?」
凄い速さで水を切って進む小船から視線は離さず、由良の言った言葉を東南風が反芻した。
集まった他の面子も時折感嘆の声を上げては、船の様子を見守っている。
「そうだ」と、第三協栄丸が胸を張った。
「鬼蜘蛛丸が得た知識なんだがな。ムシロ帆と違って風が抜けないからよ。ああやって、帆走力が高くなるわけだ。
しっかし、風があるとはいえたいした速さだ」
ほおうと、改めて感心したように第三協栄丸が嬉しそうに感嘆の声をあげる。
ちなみにムシロ帆というのは草やワラで編んだ帆のことである。
「なんといっても、帆と風のことなら任せとけ!な兵庫水軍きっての手引き、疾風兄ィが扱ってるし」
「海のことなら任せとけ!な山立の鬼蜘蛛丸の兄さんがついてたら、安心して荒い海でも走らせれる」
そう言って、網問と航がくすくす笑う。
「ものにするのは。帆の扱いかよ!」叫んで、どっと力が抜けたというように、間切は地面にへたりこんだ。
その背をぽんと舳丸が叩く。
「でも、なんでわざわざ秘密に練習させてたんですか?」
「知ってたのか?」
ただでさえ丸い瞳をさらに丸めて、由良が声を上げた重を見返した。
「あ……」と、口を押さえるが後の祭りだ。
バカ。と、舳丸が重の失言に頭を抱えた。
「け、決して、夜に抜け出したりしたわけじゃないんです!!ただ、鬼蜘蛛丸の兄ィと疾風兄ィがこそこそ話してるのを聞いて不思議に思ったもんで」
「疾風の兄貴達もこのことは何も言いませんでした。ただ、今晩どうかという約束事を取り付けていた話を漏れ聞いたんです。つい、昨日」
重がパニックに陥れば自分は冷静になるように刷り込まれている舳丸が言葉を引き継いだ。
苦笑して、由良が溜息をつく。
「安心しろ。咎めはしない。水軍内で秘密を作ったこちらも悪いんだからな」
「じゃあ、何でですか?」
重がもう一度問う。
「木綿といのは、この国では生産されていないからどうしても輸入に頼るしかなくなる。
だがもし軍船1つ分の帆を木綿に変えるとしたらどれくらいの高い買い物になるか……」
『…………………』
唐渡りの輸入品。給金の安い水夫連中は、その値段を考えて無言になった。
「本当に使えるかどうかはどうしても自分達の所で実践しておきたかった」
その結果が今まさに海を切り走る小船である。
結果は上々。
お頭が船を見つめて続きを言う。
「いくら上乗りや警護で、商人達との結びつきは強いわれわれだが、彼らはあくまで商売相手だ。
もしこちらが大量に木綿を買い占めると知れて、値段を吊り上げられたりされたら困る」
「確かに」と、全員がうなずく。
「それに何より、他の海賊衆が俺達の動向を知って、先に買い占められて2番手に甘んじるのはもっと嫌だ」
その矜持の高さに、他の者が一斉にふっと笑う。その通りだ。
「善は急げ。買いにいきましょうか?」
由良が笑って、堺の町の方へと踵を返した。
今一度、小さな帆船に視線を送って第三協栄丸もうなずく。
「そうだな。じゃあ、疾風たちをねぎらってやっといてくれ」
『へい!!』
頼もしい大きな返事に支えられて、総大将と船頭、頭たるふたりは街へと向かう。
「ここは、もっともっと、強くなるんだね」
航が東南風の隣で意気込んだ。
「ああ……そうだな」
「おれらも、それに見合うようにがんばらないと!」
誇らしげな航の笑顔を受けて、東南風がくしゃりとその頭を撫でた。
横では間切がほーっと安堵の息をついている。
「…………………」
真実は、まだ閉まっておこう。東南風は無言で決意した。
**********
鬼蜘蛛丸からこの帆走力の理由と、隠していたわけを聞かされて蜉蝣と義丸は思わず脱力した。
帆を扱う手綱の感触にひとり悦に入りながら、疾風が隣に座る蜉蝣に言った。
「そうゆうわけで、俺これからどんどん忙しくなりそうだから、よろしく頼むぜ蜉蝣」
「何をだ?」
そりゃあ、と、にやりと笑って疾風は耳打ちする。
「あんまし、夜の相手できねぇぞ」
「バカヤロウ」
「あでっ」
蜉蝣が疾風を小突いた。
「?」
じつは未だ、兄役ふたりの関係を知らない鬼蜘蛛丸が、聞き取れずに首をかしげた。
「鬼蜘蛛丸は聞かなくていい」
何となく予想の付く義丸が言う。そして、ふてくされて愚痴ってしまった。
「しっかしまぁ、ふたりそろってコソコソこんなことしてたとは、驚きだ」
「ヨシ、すまねぇな。他言無用ってお達しがあってよ」
「上からの命令じゃ仕方ないとは分かっちゃいますがね」
ああ、この勘違いに顔から火が出そうだ。
この瀬戸内で夜の海で帆船を走らせようなんて思えば、この水軍内で疾風と鬼蜘蛛丸以上の適任者はいない。
「それにしたって鈎役の自分はともかく、舵取りの兄貴くらいには伝えといてもいいんじゃないか?」
義丸は毒づいた。それを聞いた鬼蜘蛛丸がちらと兄役ふたりを見て、義丸のほうに顔を寄せた。
「な、なんすか?鬼蜘蛛丸」
「疾風の兄さんは蜉蝣の兄さんには言いたくなかったんだ」
苦笑して、前で言い合う二人に聞こえないように小声で義丸に耳打ちした。
「何で?」
「甘えるのが嫌だってのと、驚かせてやりたいのが大半の理由みたいだけど、怪談話とかの嫌がらせをされるのが嫌だからって言ってた」
俺はさすがにそんなことしないと思うんだけど。と、鬼蜘蛛丸は笑うが、義丸はやりかねないと思った。
いくら仕事とはいえ、夜半自分以外とふたりっきりになることが分かれば怪談くらいの嫌がらせはしかねないだろう。
長い付き合いのせいもあるのか、時折子供っぽい兄役ふたりのことを思って、義丸は息をついた。
しかしそれは、今まで秘密にしてきたことで何倍にもなって帰ってきそうである。
ウミボウズ、ウミカブロ、ウミグモ、ウミザトウ、ウミアマ、オキユウレイ、ウシオニ、カイナンホウシ、カゲワニ、ナミコゾウ、ヌレオナゴ、フナユウレイ、フナモウレン、マヨイブネ、モウレイセン、ボーシン等々。
今日からしばらく思いつく限りの海の幽霊話を泣いて謝るまで聞かせてやろうかと、蜉蝣は半ば本気で考えていた。
しかし。
誇りと喜色がない混じった表情で手綱を引き、帆を扱う疾風の顔が、ひとまわりどころか、ふたまわりも若く輝いて見えたもので。
すべて、それで帳消しにしてやるかという気分になったのであった。
「蜘蛛、舵は俺が取る」
「はい!」
蜉蝣が定位置に収まる。それに全員がどこかほっとしたような雰囲気が流れる。
やはりこうでないと。
この面子なら、怖いモノなんてなくどこまでも走っていけそうだった。
春潮
生まれる前から聞き慣れた波濤を全身で感じながら、少年は夜の海に対峙した。
柔らかな月光が、不安定なリズムで揺れる波間にきらきらと弾かれている。
時折、大きくうねる波が投げ出した裸足の足に海水の粒を投げかけた。初めはつま先に当たる程度だった波が、やがて足首を浸し始める。
その冷たさを感じながら、吹き付ける潮風に含まれた塩で固まってしまったかのように、少年は海から目が離せない。
それは世界でもっとも巨大な存在だった。
少年の凛としたかんばせは、まるで死人のように酷く青白い。
しばらくして、少年はようように立ち上がった。しかしその足取りは悪い酒でも煽ったかのようにおぼつかない。
そのまま着衣をばさばさと脱ぎ置いて、黒に染め抜かれそうなまでに真っ暗に色づいた海に、倒れこむように身を投じた。
生き返る。と、切に感じながら。
陸酔い。というけったいな病が重度だと感じるようになったのは最近だ。
幼い頃から薄々感づいてはいたが、まさかここまでひどくなるとはお頭、兵庫第一協栄丸でさえ予期していなかった。
「おめぇは、海子だからなぁ」そう語る、苦虫を噛みつぶしたような複雑な表情は忘れられそうにない。
黒い影が蠢くような海の底を適当に潜っていると、だいぶ気分も落ち着いた。いったん海面へと顔を出す。
「ぷ、はっ!」
いくら海水や潮風に洗われようと、みどりにあやなす豊かな黒髪を無造作に掻き上げて、身体を波に任せながら欠けたとこのない月をしばし眺めやった。
「………………」
陸に上がり、動かぬ大地を歩むたびに感じる、頭痛と、嘔吐感。
一言で表すなら、これは拒絶だ。と、少年は何遍となく巡らせた思考をもう一度繰り返した。
だからといって、この強大な海に受け入れられている。などという大それた実感を持つことなど、彼には出来ない話だった。
知らずにため息が漏れた。
「一人で夜間水泳たぁ、元気だな、蜉蝣!!」
「!?」
その漠然とした思考を打ち砕いたのは、本人にとっては普通にしゃべっているつもりでも脅しつけるようにとられてしまう胴間声。
「……っ!!うるせーよ、てめぇこそ何しに来やがった!!疾風!!」
驚きに躊躇したのは一瞬のことで、すでに条件反射のように口から言葉が飛び出してきた。
浜に目を送れば、先ほど自分が座り込んでいた辺りで仁王立ちでいる、同い年の相棒の姿。
その表情はよく分からなかったが、何となく「笑ってはないだろうな」と、蜉蝣には判断がついた。なんだかだ言っても、すでにそれなりの長いの付き合いである。
浅瀬に近づいてみると、疾風の手に持つものに気がついた。半身が出る程度の場所で立ち足になる。
「俺の服を返せ。こんのビビリ野郎」
「誰がビビリだ!けっ、褌一丁で水軍館まで帰りやがれ」
「何怒ってんだ、おめぇは。さては、幽霊にでも会ったか?」
「……んなわけねぇだろ!気味の悪ィぬれおなごならここにいるけどよ」
「それは俺のことか?あぁ!?」
ざぶざぶと波に押され押し返されそうになりつつも、疾風のもとに蜉蝣は近づいていく。
その間も二人の口げんかは止まらない。
「他に誰もいねぇだろうが。かー、綺麗なねぇちゃんなら、いくらバケモンでも目の保養にはなるんだがよぉ」
「抜かせ。その前にちびって、腰抜かすだろ」
「ああん!?もいっぺん言ってみろ!」
「何度でも言ってやらぁ。てゆうか、服返しやがれ!」
「さーて、どうしてやるかな?」
疾風ならともかく。と、他の兄役達から見れば驚くほどのの、蜉蝣の罵詈雑言の数々である。
このガラの悪い同僚の前では、礼儀も愛想も遙か彼方に吹っ飛ぶのである。蜉蝣も地はこちらである。言い合ってすっきりする。
海水が膝丈あたりまでになって、疾風の表情もやっと分かるようになった。
いつもと同じに笑っている。
「…………………」
何となく違和感にも似た苛立ちがある。それは蜉蝣自身気づかない程、小さなものだったが。
不意に、ピンっと常にない悪巧みが蜉蝣の脳裏に頭をもたげた。
失敗したところで別にたいしたこともない他愛ないものであるが、何となく仕掛けてみたくなった。
ざっと、距離やら何やらを目算する。
「--返さねぇなら、力ずくでってか?いいぜ。最近、暴れたりねぇみたいだしな」
足を止め、ガラの悪い笑みを深めて蜉蝣がそう言い放った。
いつになく好戦的な相棒の姿にやや驚きつつも、疾風も同じく笑う。
基本は、殴られたら殴り返す。そんな関係でここまで来たふたりであった。
蜉蝣が一歩足を踏み出す。ゆっくりと右の方へ。
そうすれば、疾風は一直線上に向かい合うために左に歩を進める。
読み通りだった。
このままいけば、あと3歩、2歩。
年相応のくだらないともいえるような喜びが、心を躍らせる。
そして、もう一歩。
ぐちゃ
「……あ?」
右足の踏み抜いた、海水とも、砂とも、泥とも言えない感触に疾風は眉をひそめた。
その瞬間。蜉蝣が爆笑した。
「ひっかかりやがったな、疾風!悪いが、さっきそこで吐いたんだよ、阿呆!!」
「なっ!!??」
それはつまり。
踏んだものの正体を理解した疾風の背を、寒気と痒みが混合したものが這い回り、全身が粟だった。
これは夜だったのが、幸なのか、不幸なのか。
「て、てめぇ、このオレにゲロ踏ませやがったのか!!」
ぶっ殺す!!と、顔を茹で蛸よろしく真っ赤にした疾風は、名の如しのスピードで蜉蝣に向かって駆けだした。
「はっはっは」
もちろん、蜉蝣とて名に恥じぬ動きでくるりと向きを変えると、魚のようにと形容するにはまだまだ未熟な泳ぎで水中へと逃げを打った。
その後を追って、疾風も海に。
「あ、てめ、服は置いとけよ!」
「うるせえ!」
邪魔になる蜉蝣の服を海面に投げ捨て、まだ発達途中の薄く筋肉の付いた細長い四肢を、精一杯伸ばして水中で追い掛け合う。
追う側たる疾風が服を着たままなので圧倒的不利ではあるが、蜉蝣も服が流されてしまうのはたまったものではない。
流されていた服を何とかすべてひっ掴み、本気で疾風がぶち切れる前に捕まってやることにした。
疾風に後ろから抱え込まれて、ごぽりと空気を吐き出す。そのまま、不安げに薄ら光る波間に浮上していく泡沫を、追うようにふたりで浮上した。
『っは!』
ごんっ!!
二人揃って大きく息を吸った直後、疾風が蜉蝣の背後を片手で捉えたまま、残る手で拳を落とした。
「汚ねーもん踏ませやがって!こん野郎!!」
「くっくっく」
「笑いすぎだ!!」
「はっはっ、悪っ……」
殴られた痛みなんかより、何だか非常におかしい。
憮然とした表情の疾風と対照的に、蜉蝣はなかなか笑いが収まらない。いつものふたりとは逆の構図である。
笑いすぎ故の涙が目尻にうっすらと浮かんでは、打ち寄せる海水に同化していく。
「……っ……は」
ようやく収まった笑いの発作の後に残ったのは海のように巨大で重い沈黙。
沈黙を厭う少年が、何かを言いたげに口を開くが、言いたい言葉はこの海水のようにするりと心の手をすり抜けていってしまう。
言葉を引っかけられずに、疾風は波にゆらゆらと揺られながら、知らず蜉蝣の後ろから回した腕に力を込めた。
「……………………」
背中に額をを押しつけられた感触があって、蜉蝣は僅かに振り返る。だが、俯いた疾風の表情は見えない。
「…………疾風?」
「るせぇ……陸酔い野郎」
背に張り付いた髪の毛に顔を埋め、もごもごと呟かれた言葉に蜉蝣は苦笑した。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……海で、生まれた子は陸酔いがひでぇんだとよ」
「?」
「この前、俺が15になった時、お頭が教えてくれたんだ」
「何をだよ」
「……俺の父は臨月の母を連れて、密航しようとしたらしい」
「…………!!」
ばっと、疾風は顔を上げる。すでに蜉蝣は正面を向いて、表情を見せてはくれなかった。
兵庫水軍内ではどれだけ近しい間柄であろうとも、過去を詮索することを良しとしない風潮がある。
それはふたりにとっても同じことで。
だから、初耳、だった。
話は静かに続いていった。
「俺が生まれて、ばれちまった。そのまま……」
ふっと、遠くを見るように、痛ましいように目を細める。
波濤の音に混じって、聞こえてくる赤ん坊の鉄火の泣き声。
「死んだか、いや殺されたか……」
あの、お頭の表情を見れば何となく予想が付いた。
女性を船に乗せるは禁忌。しかもお産には穢れが付きまとう。
「俺は流石に殺すに忍びなかったのか、船霊様が女性の神様だから赤ん坊を殺すのは縁起が悪かったのかもしれねぇが……生かされて、お頭に拾われた」
生粋の水軍育ち。そう、自負はある。
だがそれは決して誇らしいものではなかったのだ。
「………………」
背後で絶句する疾風に、蜉蝣はもう一度苦笑した。
「辛気くさい話だけどよ、いきなりだろ?それに、親の記憶がないと……悲しむに悲しめねぇとこもあるな……。もう、海が親みたいなものになっちまってるからよ」
だが、海はあまりにでかいから。と、蜉蝣は心中で続ける。
俺だけを愛するわけにも、怒るわけにも、許すわけにもいかない。
二度目の沈黙。
伸びかけの髪がべったりと皮膚に張り付いた感触、海水をたらふく吸った服の重さ、深夜の海の冷たさ、頬を撫でる微かな風。不安定な海の律動。
普段なら気にとめないことが、何故だか異様に確たる感覚でもって責めてくる。
「って」
突然、ぐいと、髪をひっぱられて眉をひそめる。蜉蝣が振り返ると、そこにはいつもと違う真面目な表情をした相棒がいた。
「………………蜉蝣」
「何だよ……っと」
引き寄せられて、今度は肩口に顔を埋められ面食らった。そんな蜉蝣に対して、唇を悔しそうに歪めて、疾風は言葉を絞り出す。
「…………ひとりで、勝手にいつもいつも、よぉ………この阿呆が」
その響きに、胸が痛くなるのを感じて、蜉蝣も僅かに俯いた。
「……すまねぇな……」
「オレのことなんてどうでもいいのかよ?」
「そんなわけないだろ!」
だが、あまりの的はずれの言葉に、ばっと体の向きを変えて蜉蝣は疾風を正面から見据えた。
その両の目は、いつもながらの海のような深さに、秘めた炎をまとっていて。疾風は思わずほっとした。
この目が好きだ、と思う。
常に自己完結をする嫌いのある相棒が、気分が悪くなったらここに来ることは知っていた。だが、声を掛けたことはなかった。
だが今日はいつもとは何かが違った。
不意に姿を消した相棒を追ってきたこの浜辺で、相棒はまるで魔物に魅入られたように海を見つめていた。
その姿がひどく危うくて、思わず声を掛けてしまったのだが。
オレは普段みたいに、うまく笑えていただろうか。
海の他に何も目に入らない、あの目は嫌でたまらねぇ。
頭が良くて冷静なのは蜉蝣。勘が良くて行動力があるのは疾風。いい組合せじゃないか。
だが、名前通りに生き急ぐ必要はねぇんだぞ、お前達は。
第一協栄丸の言葉が不意に思い出された。
勝ち喧嘩の最中に頬にでかい傷を作ったことを自慢したら、ぶん殴られた後に何でか蜉蝣と一緒に説教された。
その最後の締めの言葉である。
そのすで時に、ふたりの関係は決定されていたような気がした。
ごろつきどもの掃き溜めみてぇなとこで、明日をも知れぬ生活をしていた自分を拾ってくれたのはお頭で、こんな短気で喧嘩っ早い自分を諫めたのも、時折便乗したのも、この同い年の相棒。
たいそう扱いにくい馬鹿な餓鬼だったろうに。そんな自分の傍にずっといてくれたのだ。
頭はいいけど、どこか不器用な生き方をしている相棒の弱さをもっと知ってやりたい。
自分を救ってくれたように、出来ることなら救ってやりたい。とも、思う。
そしてなにより、ずっと一緒にいたい。いるだけでも、いい。
最後まで。
自分でも知らずに引き寄せるように抱きしめてしまった。蜉蝣が驚いたように、息を詰める。
だが、ぐっと回された腕に力が込められたのを感じて、困ったような顔はそのまま、微かに笑うようにふうと息を吐き出した。
服を持っていないほうの片手を回された腕に添えて、どこか切なげに蜉蝣は声を掛ける。
「……疾風……」
顔は上げずに、疾風は応えた。
「どこにも行くなよ」
「ん」
「…………一緒に、海でいきてぇなぁ…………」
「生く」とも「逝く」ともとれるその言葉。。
「ああ……一緒に、な」
たとえどちらでもあれ、コイツとならいいか。蜉蝣はそう思う。
生身の相手なら怖い者知らず。だが、実はすこぶる怪談話の類が苦手で、ひとりで夜の海に近づくのは出来る限り遠慮している相棒がここにいることで、充分ではないか。
親代わりの海はあまりにでかくて、自分ひとりに関わってはいられない。
だから。
愛されたいのよ、ただひとりに。
怒って欲しいんだ、ただひとりに。
こんな愚かな自分を許して欲しい。
ただ、ひとりに。
3度目の沈黙は、とても心地よいもので。
不安定な波の音でさえ、柔らかな子守歌に聞こえてくる。
沈黙を破って、最初に口を開いたのは蜉蝣であった。
「……そろそろ戻るか……」
「だいぶ、流されたしなぁ……」
にっと、疾風が先ほどまでの重い空気を吹き飛ばすように笑った。
「競争しねぇか。勝った方がこの服の洗濯だ」
言うが早いか、笑い声をひとつ残してざぶんと水中に消える。
「いよしっ!!」
蜉蝣も笑って、手に持つ服を適当に身体に巻き付け、今度は追う側となって疾風の後に続く。
15の春であった。
生まれる前から聞き慣れた波濤を全身で感じながら、少年は夜の海に対峙した。
柔らかな月光が、不安定なリズムで揺れる波間にきらきらと弾かれている。
時折、大きくうねる波が投げ出した裸足の足に海水の粒を投げかけた。初めはつま先に当たる程度だった波が、やがて足首を浸し始める。
その冷たさを感じながら、吹き付ける潮風に含まれた塩で固まってしまったかのように、少年は海から目が離せない。
それは世界でもっとも巨大な存在だった。
少年の凛としたかんばせは、まるで死人のように酷く青白い。
しばらくして、少年はようように立ち上がった。しかしその足取りは悪い酒でも煽ったかのようにおぼつかない。
そのまま着衣をばさばさと脱ぎ置いて、黒に染め抜かれそうなまでに真っ暗に色づいた海に、倒れこむように身を投じた。
生き返る。と、切に感じながら。
陸酔い。というけったいな病が重度だと感じるようになったのは最近だ。
幼い頃から薄々感づいてはいたが、まさかここまでひどくなるとはお頭、兵庫第一協栄丸でさえ予期していなかった。
「おめぇは、海子だからなぁ」そう語る、苦虫を噛みつぶしたような複雑な表情は忘れられそうにない。
黒い影が蠢くような海の底を適当に潜っていると、だいぶ気分も落ち着いた。いったん海面へと顔を出す。
「ぷ、はっ!」
いくら海水や潮風に洗われようと、みどりにあやなす豊かな黒髪を無造作に掻き上げて、身体を波に任せながら欠けたとこのない月をしばし眺めやった。
「………………」
陸に上がり、動かぬ大地を歩むたびに感じる、頭痛と、嘔吐感。
一言で表すなら、これは拒絶だ。と、少年は何遍となく巡らせた思考をもう一度繰り返した。
だからといって、この強大な海に受け入れられている。などという大それた実感を持つことなど、彼には出来ない話だった。
知らずにため息が漏れた。
「一人で夜間水泳たぁ、元気だな、蜉蝣!!」
「!?」
その漠然とした思考を打ち砕いたのは、本人にとっては普通にしゃべっているつもりでも脅しつけるようにとられてしまう胴間声。
「……っ!!うるせーよ、てめぇこそ何しに来やがった!!疾風!!」
驚きに躊躇したのは一瞬のことで、すでに条件反射のように口から言葉が飛び出してきた。
浜に目を送れば、先ほど自分が座り込んでいた辺りで仁王立ちでいる、同い年の相棒の姿。
その表情はよく分からなかったが、何となく「笑ってはないだろうな」と、蜉蝣には判断がついた。なんだかだ言っても、すでにそれなりの長いの付き合いである。
浅瀬に近づいてみると、疾風の手に持つものに気がついた。半身が出る程度の場所で立ち足になる。
「俺の服を返せ。こんのビビリ野郎」
「誰がビビリだ!けっ、褌一丁で水軍館まで帰りやがれ」
「何怒ってんだ、おめぇは。さては、幽霊にでも会ったか?」
「……んなわけねぇだろ!気味の悪ィぬれおなごならここにいるけどよ」
「それは俺のことか?あぁ!?」
ざぶざぶと波に押され押し返されそうになりつつも、疾風のもとに蜉蝣は近づいていく。
その間も二人の口げんかは止まらない。
「他に誰もいねぇだろうが。かー、綺麗なねぇちゃんなら、いくらバケモンでも目の保養にはなるんだがよぉ」
「抜かせ。その前にちびって、腰抜かすだろ」
「ああん!?もいっぺん言ってみろ!」
「何度でも言ってやらぁ。てゆうか、服返しやがれ!」
「さーて、どうしてやるかな?」
疾風ならともかく。と、他の兄役達から見れば驚くほどのの、蜉蝣の罵詈雑言の数々である。
このガラの悪い同僚の前では、礼儀も愛想も遙か彼方に吹っ飛ぶのである。蜉蝣も地はこちらである。言い合ってすっきりする。
海水が膝丈あたりまでになって、疾風の表情もやっと分かるようになった。
いつもと同じに笑っている。
「…………………」
何となく違和感にも似た苛立ちがある。それは蜉蝣自身気づかない程、小さなものだったが。
不意に、ピンっと常にない悪巧みが蜉蝣の脳裏に頭をもたげた。
失敗したところで別にたいしたこともない他愛ないものであるが、何となく仕掛けてみたくなった。
ざっと、距離やら何やらを目算する。
「--返さねぇなら、力ずくでってか?いいぜ。最近、暴れたりねぇみたいだしな」
足を止め、ガラの悪い笑みを深めて蜉蝣がそう言い放った。
いつになく好戦的な相棒の姿にやや驚きつつも、疾風も同じく笑う。
基本は、殴られたら殴り返す。そんな関係でここまで来たふたりであった。
蜉蝣が一歩足を踏み出す。ゆっくりと右の方へ。
そうすれば、疾風は一直線上に向かい合うために左に歩を進める。
読み通りだった。
このままいけば、あと3歩、2歩。
年相応のくだらないともいえるような喜びが、心を躍らせる。
そして、もう一歩。
ぐちゃ
「……あ?」
右足の踏み抜いた、海水とも、砂とも、泥とも言えない感触に疾風は眉をひそめた。
その瞬間。蜉蝣が爆笑した。
「ひっかかりやがったな、疾風!悪いが、さっきそこで吐いたんだよ、阿呆!!」
「なっ!!??」
それはつまり。
踏んだものの正体を理解した疾風の背を、寒気と痒みが混合したものが這い回り、全身が粟だった。
これは夜だったのが、幸なのか、不幸なのか。
「て、てめぇ、このオレにゲロ踏ませやがったのか!!」
ぶっ殺す!!と、顔を茹で蛸よろしく真っ赤にした疾風は、名の如しのスピードで蜉蝣に向かって駆けだした。
「はっはっは」
もちろん、蜉蝣とて名に恥じぬ動きでくるりと向きを変えると、魚のようにと形容するにはまだまだ未熟な泳ぎで水中へと逃げを打った。
その後を追って、疾風も海に。
「あ、てめ、服は置いとけよ!」
「うるせえ!」
邪魔になる蜉蝣の服を海面に投げ捨て、まだ発達途中の薄く筋肉の付いた細長い四肢を、精一杯伸ばして水中で追い掛け合う。
追う側たる疾風が服を着たままなので圧倒的不利ではあるが、蜉蝣も服が流されてしまうのはたまったものではない。
流されていた服を何とかすべてひっ掴み、本気で疾風がぶち切れる前に捕まってやることにした。
疾風に後ろから抱え込まれて、ごぽりと空気を吐き出す。そのまま、不安げに薄ら光る波間に浮上していく泡沫を、追うようにふたりで浮上した。
『っは!』
ごんっ!!
二人揃って大きく息を吸った直後、疾風が蜉蝣の背後を片手で捉えたまま、残る手で拳を落とした。
「汚ねーもん踏ませやがって!こん野郎!!」
「くっくっく」
「笑いすぎだ!!」
「はっはっ、悪っ……」
殴られた痛みなんかより、何だか非常におかしい。
憮然とした表情の疾風と対照的に、蜉蝣はなかなか笑いが収まらない。いつものふたりとは逆の構図である。
笑いすぎ故の涙が目尻にうっすらと浮かんでは、打ち寄せる海水に同化していく。
「……っ……は」
ようやく収まった笑いの発作の後に残ったのは海のように巨大で重い沈黙。
沈黙を厭う少年が、何かを言いたげに口を開くが、言いたい言葉はこの海水のようにするりと心の手をすり抜けていってしまう。
言葉を引っかけられずに、疾風は波にゆらゆらと揺られながら、知らず蜉蝣の後ろから回した腕に力を込めた。
「……………………」
背中に額をを押しつけられた感触があって、蜉蝣は僅かに振り返る。だが、俯いた疾風の表情は見えない。
「…………疾風?」
「るせぇ……陸酔い野郎」
背に張り付いた髪の毛に顔を埋め、もごもごと呟かれた言葉に蜉蝣は苦笑した。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……海で、生まれた子は陸酔いがひでぇんだとよ」
「?」
「この前、俺が15になった時、お頭が教えてくれたんだ」
「何をだよ」
「……俺の父は臨月の母を連れて、密航しようとしたらしい」
「…………!!」
ばっと、疾風は顔を上げる。すでに蜉蝣は正面を向いて、表情を見せてはくれなかった。
兵庫水軍内ではどれだけ近しい間柄であろうとも、過去を詮索することを良しとしない風潮がある。
それはふたりにとっても同じことで。
だから、初耳、だった。
話は静かに続いていった。
「俺が生まれて、ばれちまった。そのまま……」
ふっと、遠くを見るように、痛ましいように目を細める。
波濤の音に混じって、聞こえてくる赤ん坊の鉄火の泣き声。
「死んだか、いや殺されたか……」
あの、お頭の表情を見れば何となく予想が付いた。
女性を船に乗せるは禁忌。しかもお産には穢れが付きまとう。
「俺は流石に殺すに忍びなかったのか、船霊様が女性の神様だから赤ん坊を殺すのは縁起が悪かったのかもしれねぇが……生かされて、お頭に拾われた」
生粋の水軍育ち。そう、自負はある。
だがそれは決して誇らしいものではなかったのだ。
「………………」
背後で絶句する疾風に、蜉蝣はもう一度苦笑した。
「辛気くさい話だけどよ、いきなりだろ?それに、親の記憶がないと……悲しむに悲しめねぇとこもあるな……。もう、海が親みたいなものになっちまってるからよ」
だが、海はあまりにでかいから。と、蜉蝣は心中で続ける。
俺だけを愛するわけにも、怒るわけにも、許すわけにもいかない。
二度目の沈黙。
伸びかけの髪がべったりと皮膚に張り付いた感触、海水をたらふく吸った服の重さ、深夜の海の冷たさ、頬を撫でる微かな風。不安定な海の律動。
普段なら気にとめないことが、何故だか異様に確たる感覚でもって責めてくる。
「って」
突然、ぐいと、髪をひっぱられて眉をひそめる。蜉蝣が振り返ると、そこにはいつもと違う真面目な表情をした相棒がいた。
「………………蜉蝣」
「何だよ……っと」
引き寄せられて、今度は肩口に顔を埋められ面食らった。そんな蜉蝣に対して、唇を悔しそうに歪めて、疾風は言葉を絞り出す。
「…………ひとりで、勝手にいつもいつも、よぉ………この阿呆が」
その響きに、胸が痛くなるのを感じて、蜉蝣も僅かに俯いた。
「……すまねぇな……」
「オレのことなんてどうでもいいのかよ?」
「そんなわけないだろ!」
だが、あまりの的はずれの言葉に、ばっと体の向きを変えて蜉蝣は疾風を正面から見据えた。
その両の目は、いつもながらの海のような深さに、秘めた炎をまとっていて。疾風は思わずほっとした。
この目が好きだ、と思う。
常に自己完結をする嫌いのある相棒が、気分が悪くなったらここに来ることは知っていた。だが、声を掛けたことはなかった。
だが今日はいつもとは何かが違った。
不意に姿を消した相棒を追ってきたこの浜辺で、相棒はまるで魔物に魅入られたように海を見つめていた。
その姿がひどく危うくて、思わず声を掛けてしまったのだが。
オレは普段みたいに、うまく笑えていただろうか。
海の他に何も目に入らない、あの目は嫌でたまらねぇ。
頭が良くて冷静なのは蜉蝣。勘が良くて行動力があるのは疾風。いい組合せじゃないか。
だが、名前通りに生き急ぐ必要はねぇんだぞ、お前達は。
第一協栄丸の言葉が不意に思い出された。
勝ち喧嘩の最中に頬にでかい傷を作ったことを自慢したら、ぶん殴られた後に何でか蜉蝣と一緒に説教された。
その最後の締めの言葉である。
そのすで時に、ふたりの関係は決定されていたような気がした。
ごろつきどもの掃き溜めみてぇなとこで、明日をも知れぬ生活をしていた自分を拾ってくれたのはお頭で、こんな短気で喧嘩っ早い自分を諫めたのも、時折便乗したのも、この同い年の相棒。
たいそう扱いにくい馬鹿な餓鬼だったろうに。そんな自分の傍にずっといてくれたのだ。
頭はいいけど、どこか不器用な生き方をしている相棒の弱さをもっと知ってやりたい。
自分を救ってくれたように、出来ることなら救ってやりたい。とも、思う。
そしてなにより、ずっと一緒にいたい。いるだけでも、いい。
最後まで。
自分でも知らずに引き寄せるように抱きしめてしまった。蜉蝣が驚いたように、息を詰める。
だが、ぐっと回された腕に力が込められたのを感じて、困ったような顔はそのまま、微かに笑うようにふうと息を吐き出した。
服を持っていないほうの片手を回された腕に添えて、どこか切なげに蜉蝣は声を掛ける。
「……疾風……」
顔は上げずに、疾風は応えた。
「どこにも行くなよ」
「ん」
「…………一緒に、海でいきてぇなぁ…………」
「生く」とも「逝く」ともとれるその言葉。。
「ああ……一緒に、な」
たとえどちらでもあれ、コイツとならいいか。蜉蝣はそう思う。
生身の相手なら怖い者知らず。だが、実はすこぶる怪談話の類が苦手で、ひとりで夜の海に近づくのは出来る限り遠慮している相棒がここにいることで、充分ではないか。
親代わりの海はあまりにでかくて、自分ひとりに関わってはいられない。
だから。
愛されたいのよ、ただひとりに。
怒って欲しいんだ、ただひとりに。
こんな愚かな自分を許して欲しい。
ただ、ひとりに。
3度目の沈黙は、とても心地よいもので。
不安定な波の音でさえ、柔らかな子守歌に聞こえてくる。
沈黙を破って、最初に口を開いたのは蜉蝣であった。
「……そろそろ戻るか……」
「だいぶ、流されたしなぁ……」
にっと、疾風が先ほどまでの重い空気を吹き飛ばすように笑った。
「競争しねぇか。勝った方がこの服の洗濯だ」
言うが早いか、笑い声をひとつ残してざぶんと水中に消える。
「いよしっ!!」
蜉蝣も笑って、手に持つ服を適当に身体に巻き付け、今度は追う側となって疾風の後に続く。
15の春であった。
冗談
夜の波浪が静かに打ち寄せる浜辺に、その館は鎮座している。
昼の喧噪はどこへやら、ひっそりと佇むそこには、潮の香る海の猛者たちが暫しの休息とばかりに体を休めていた。
そんな水軍館の一角に、今なお薄明かりが灯っている。月明かりとはまた別に、炎が緩くちろちろと揺れる。
年若い水夫らが雑魚寝するその部屋には、太い蝋燭が立てられ、男たちが取り囲むように車座になって座っていた。
一様に興奮した顔を向ける先には、年長の義丸がいる。秀麗な面差しに薄い笑みを浮かべ語るは、猥談。
昼間出会った廓の女たち。
遊女、芸娼。
襞が、肉芽が、花びらがと、次々と紡ぎ出される薄い唇に、ごくりと唾を飲み込んだのは誰だったか。
頬を赤く染め、乾いた唇を一舐めしたのは誰だったか。
蝋燭の下でなお赤い髪を掻き上げる。
殊更声をひそめ、コトの内容に差し掛かろうとした時。
義丸の頭に硬い枕が投げつけられた。
「アペケシオカナー!!」
突如入った邪魔に、幾つかの溜息が重なった。
「……なんだよ、網問」
お子さまは寝てろよ、と茶化す義丸を、網問は睨み付ける。
「寝れないよ!!」
赤い顔で憤然と怒鳴る。「五月蝿くて寝れない!!」
「寝てるヤツ、いるぞ」
間切が顎をしゃくるその先には、喧噪の中寝こける東南風の姿がある。
「東南風は特別なの!一旦寝たら起きないんだから!!」
確かに、一度「う」だか「む」だか分からない唸り声をあげたものの、一向に目を覚ます気配はない。
目を潤ませながら地団駄を踏む網問に、周囲から笑いが漏れる。
「他の部屋に行きゃあいいじゃねぇか」
意地悪そうに、義丸が唇を持ち上げる。
「オレの部屋はここなの!義兄の部屋はここじゃないだろ!!」
体の横で握った拳を振るわせながら、網問が大声を出す。
確かに義丸の部屋は別であるが、そもそもが陸にいるときに、館に寝泊まりするような男ではない。
水軍の厳しい掟をかいくぐり、今日はこっち明日はあっちと紅と白粉の香を振りまきながら泊まり歩くのが常なのだ。
今日は珍しく館にいる。
理由はと言えば、その赤髪に隠れた頬に紅葉跡を見たという水夫の証言から、大体の見当はつく。
周囲では、今夜はお開きと悟ったのか水夫たちが布団に潜り始めた。
「ったく五月蝿ぇなー」
癖の強い髪を掻き上げる義丸の口調に、反省の色は全く見られない。
「……んーっも、いいよっ!!」
捨て台詞を吐き、網問が部屋を出ていく。どすどすと、足音が廊下を遠ざかる。
「ありゃ」
ホントに出ていきやがった、と義丸が呟く。
「ガキだな」
真顔で言い放った重に、「お前もだろ」と隣から的確なツッコミが入る。
舳丸に突っかかる重を横目にしつつ、間切が義丸に顔を寄せた。
「いいんスか、兄貴」
「何がだ?」
皿の底に残った肴を口に入れながら、義丸が応じる。
「アイツ、網問の奴、最近チクる事覚えたんスよ」
はぁ?と顔をしかめる。
「チクるって、誰に」
「もう、遅いみたいッス」
間切が、入り口に目を向ける。つられて振り向いた義丸の耳にも、明らかに一人でない足音が聞こえる。
「おいおいおい。誰だよ」
「……機嫌、悪かったッスよ。陸酔いが酷くて、酒呑めなかったみたいッスから」
ご愁傷様です、と真面目に言い放つと、間切は布団を端に寄せそそくさと潜り込んだ。
同時に、障子が乱暴に開けられた。
そちらを向かなくてもひしひしと伝わってくる不機嫌オーラに、
舳丸に覆い被さってじゃれていた重が恐る恐る振り向く。
「げ」
その場に居合わせた全員を代表し、端的にだが的確に感想を漏らした。
途端に、独眼に射竦められる。
「…か、蜉蝣兄ぃ……?」
薄笑いを顔に貼り付け、義丸が声をかけた。
眉間に皺を寄せ、こめかみを引きつらせた蜉蝣は、どうみても機嫌が悪かった。
への字に曲げられた口元が小刻みに震えている。
握られた両の拳は青筋が浮き出、ぎり、と今にも音がしそうである。
彼の後ろからは網問が顔を出し、にやりと笑う。
「………五月蝿ぇんだよ」
蜉蝣がぼそり、と呟く。
射竦められたまま固まっていた重を、航と舳丸がそっと壁際に引きずった。
「……たまにしかねぇ休みなのによぉ、気持ち悪ぃわ酒は飲めねぇわ、さっさと寝ちまおうとすりゃあ寝れねぇわ、
ようやく寝れそうになった途端に大声で目が覚めて、喧しい足音が聞こえたと思ったら網問が入ってきて、
きゃんきゃん喚く。吐き気はするし、頭は痛ぇ。はっきり言って、俺は今すこぶる機嫌が悪いんだ………
………吐くぞこらあ!!!!」
「うわっ!!兄貴!それだけは勘弁!!」
義丸が頭を抱える。
陸酔いと興奮で、蜉蝣の顔色は酷いものになっている。ゆらり、と義丸に近づく。
「……誰が、原因なんだ?」
「義兄ぃ!義兄ぃ!!」
蜉蝣の後ろから、網問が指をさす。
「喚くなっ!!頭に響く!!!」
途端に怒鳴られ、「ひゃっ」と悲鳴をあげた網問が壁際に避難する。
自分の声が響いたのか、頭を抱えた蜉蝣が指の間からぎろりと義丸を睨み付けた。
「や、やだなぁ兄貴……冗談ですってば」
ひく、と顔を引きつらせながら義丸が後じさる。とん、と背中が壁に当たった。
「………冗談、だと?」
蜉蝣が血走った片目を向けた。
「冗談じゃねぇっ!!!!!」
ばきっ!!!!!
頭のど真ん中、その赤髪の頂点に拳がめり込んだ。
「うぐぇ」
蛙が潰れたような悲惨な呻き声を漏らしたのは、予想に反して蜉蝣本人だった。
両手で口元を覆うと、じりじりと後じさる。
真っ青な顔から脂汗が滴り落ちた。
凄まじい形相のまま部屋を出ると、途端に「おうぇぇぇぇぇ」と世にも恐ろしい声が聞こえた。
「相討ち」
ぼそ、と間切が呟く。
「って言うのか?」
舳丸が冷静にツッコんでいる横で、義丸はというと頭を抱えてうずくまっていた。
日夜鍛え上げられているその拳で、その腕の限りで殴られた衝撃により、視界が定まらず、
足が立たない状態である。
「大丈夫ですか」
「………てぇ」
航の問いかけに、微かに義丸が応えた。
「痛ぇ」とも「酷ぇ」とも取れる呟きに、笑い声が返った。
「疾風兄ぃ」
「災難だったな、ヨシ」
廊下から顔を覗かせたのは疾風である。
台詞とは裏腹に、その視線は明らかに楽しんでいる。
にやにやと部屋を見回すと、網問に視線を向けた。
「網問」
と呼ぶ。
「はい?」
「片づけとけよ、廊下のドバァー」
「え?えええええーーー!!!」
途端にあがる不満の声に、苦笑する。
「お前も関わってんだろ?そのぐらいしろ」
「………ちぇー。……………ミヨー」
着物を網問に握られ、舳丸は溜息を吐いた。
諦めたようにはいはい、と頷く。
「………分かったよ。後で手伝ってやるから」
「ホント甘いよなーミヨ」
口を尖らせる重のわきを、疾風がすり抜ける。
寝間着の裾を豪快に開き、座り込んだ。
「口が滑ったな、ヨシ」
「え?」
義丸が充血した瞳を上げる。
疾風が、ざり、と髭を撫でた。
「アイツな、冗談が大ッ嫌ぇなんだ」
「蜉蝣兄ぃが、ですか?」
航が尋ねる。
それに無言で頷くと、疾風は口を開いた。
「俺も前に怒鳴られた。『そういう冗談は二度と聞きたくねぇ』ってな」
「何言ったんスか?」
いつの間にか、間切がにじり寄って来る。
考え込むように黙った疾風に、視線が集まる。
「アイツに、告白した時だ」
一瞬にして、部屋が沈黙に満ちた。東南風の寝息だけがやけに大きく聞こえた。
「こ………」
思いも寄らぬ言葉に、さすがの義丸も口を開いたまま絶句する。
「告白って、あの、告白っスよね」
意外にも、一番先に言葉を発したのは間切だった。
「あの、ってどの告白だよ」
疾風が顎を撫で苦笑する。
「『好きだ』とか、『愛してる』とか」
真顔で疾風に応じる彼の横で、重が「うげ」と声を漏らす。
「…んな事言うわけねぇだろ」
疾風はにやりと笑う。周囲から、ほ、と溜息が零れた。
「『抱かせろ』っつっただけだ」
「だ……抱かせ…」
疾風に集まった瞳が、一斉に見開かれた。
「……想像出来ない」
ぼそ、と間切が呟く。
途端に双方向から「想像させんなっ!!」と噛みつかれる。
おそらく全員の頭の中にはモザイクをかけずにはいられないモノが溢れかえっていることだろう。
「想像出来ない?じゃあ俺が抱かれるのかもしれん」
「「「そういう問題じゃありませんっ!!!」」」
とうとう涙目で頭を抱えた重を、舳丸が連れ出す。
「俺たちあっちで寝ますんで」
舳丸が網問を手招きする。
当然一緒に行くと思ったが、網問はきょとんと目をしばたいた。
「オレここにいるよ」
楽しーもん、と笑う網問は意外や意外、頭の中のモザイクにまったく動じていないようだ。
うむうむ、と頷いた間切が、頭を撫でる。
「ね、疾風兄ぃ」
目を輝かせつつ、網問が口を開いた。
「なんだ?」
「蜉蝣兄ぃは、疾風兄ぃが嫌いなの?」
思わぬ質問に、顎を撫でている手が止まる。
「……んな事ぁねぇと思うけどよ」
「じゃあ、何でフラれたの?」
「……あいつは冗談が嫌ぇで、俺が『抱かせろ』っつったのも冗談だと思って、だからか?
いやそもそも俺がそういうことを言う事自体があいつにとっては冗談みてぇなもんで……」
「じゃあ、じゃあさ!」
網問がしかめ面をする。
「疾風兄ぃは冗談で言ったの!?」
「俺は……」
疾風は虚空を睨んだ。
「本気だ」
に、と網問が笑った。
「じゃあ、そう言えばいいんだよ!!」
しん、とする部屋の中で、疾風は瞬きをゆっくり三回した。
「……それもそうか」
何度か頷くと、すっくと立ち上がる。
思案するような表情のまま、部屋を出ていく。
「行ってらっしゃーい!!」
嬉しげにぶんぶん手を振る網問の後ろで、すっかり固まっていた航らが顔を見合わせた。
「そんな単純なことだったのか?」
「なかなかやるな、網問」
「………面白くなってきたな」
三者三様な感想を聞き、舳丸は足元を見た。
話の内容が処理できる限度を超えたのか、頭の中がすっかりパンクした重がぐったりと潰れている。
溜息を吐いた。
「……なんだかなー」
一番まともと言える意見を呟いたものの、賛同のかわりに聞こえたのは、東南風の
「ぶふ」
といううなり声だけであった。
冗談(裏)
「蜉蝣」
入るぞ、という声と共に障子が開けられる。
蜉蝣は、げんなりとした顔を向けた。
ひどい陸酔いに悩まされている彼は、だが先程吐いたことで少し楽になったのか、意外と良い顔色をしていた。
「何の用だ」
ゆっくりと床から身体を起こすと、蜉蝣は髪の毛を掻き上げた。
顔に似合わないさらりとした髪が、指の隙間から零れた。
「疾風」
何も言わない相棒を、蜉蝣は独眼で見つめる。
首を傾げたと同時に頭痛がしたのか、一瞬眉をひそめた。
「……なあ、蜉」
酒の席でしか口にしない呼び名を呟き、疾風が蜉蝣の前に膝をついた。
いつも髭の下に貼り付けている、にやりとした笑みが消えている。
間近で見るその顔に、どうした、と問いかけた蜉蝣の台詞が途切れた。
唇に触れる温かい感覚と、何よりも目の前にある良く焼けた肌が、混乱した頭に飛び込んできた。
それは髭と髭が触れる程度の軽い接吻だった。
「抱かせてくれ、蜉」
目を見開いたまま固まった蜉蝣に、疾風が口を開いた。
乾ききった舌で唇を一舐めすると、塩辛い味がする。
「お前を、抱かせ…」
「それ以上言うな!!!」
疾風の台詞を遮り、蜉蝣が怒鳴った。
胸ぐらを掴むと、壁に叩きつける。
「そういう冗談は……!」
「冗談じゃねぇ!!」
噛みつくように怒鳴ると、蜉蝣がたじろいだ。
力が弱まった一瞬の隙に、疾風は逆に蜉蝣を壁に押しつけた。
「俺は……」
目の前を睨め付ける。
ぎり、と蜉蝣の肩を握りしめた。
息を吸った。
「本気だ」
蜉蝣の顔が、見られなかった。
はは、と乾いた笑いを漏らすと、疾風は蜉蝣から手を離した。
腰が抜けたように、ずる、と座り込む。
「言っちまった」
自嘲の笑みが零れる。
何かしゃべっていなければ潰されてしまうような沈黙に囲まれる。
「悪かった」
静寂を破る声に、疾風が顔をあげた。
蜉蝣が、少し照れたように頬を掻いている。
「冗談とか言って、悪かった」
「お…おう。分かればいいんだ…」
「本気なら、俺も本気で考えるべきか」
「あ…ああ。そうしてくれると助かる…」
頭の中に、網問の脳天気な笑いが浮かんだ。
何だよ、何なんだよ。
「別に、お前の事は嫌いじゃねぇ」
「そ…そうか。それは、良かった…」
網問の笑みが一段と大きくなった気がした。
「て事は好きなのか」
「そ…そうなんじゃねぇの」
おい、ちょっと待て。
「好きなら別に、接吻くらいするか」
本当に
「一緒に寝ても構わねぇよな」
こんなに、簡単に。
「けどよ。抱かれるってのは頂けねぇ」
「………は」
頭の中を占領していた網問の笑みが、ぱちんと弾けた。
「俺が抱けばいいんじゃねぇか」
耳に入ってきた蜉蝣の言葉を、理解するのにずいぶんと時間がかかったような気がした。
「俺が………だ、抱、抱かれ……!!!?」
酸欠の魚のように、口を開け閉めする疾風に、蜉蝣がずいと近寄る。
首を抱くと、そのまま唇を押しつけた。
「……っん……!!」
疾風の視界がぐるっと回った。天井が目に入り、自分が床に寝ころんでいると分かる。
否、押し倒されたと。
「…蜉っ……」
抗議の声は、蜉蝣の唇で塞がれた。
唇が擦れ合う。
髭を食(は)むようにくわえられる。弄ぶように何度か引っ張られた後、ぺろりと舐められた。
髭を、頬を、顎を、そして唇を。
「舌、出せ」
は、と疑問符の浮かんだ疾風に、蜉蝣は舌を突き出す。
「こうしろ」
つられて舌を出すと、蜉蝣が顔を重ねた。
舌と舌がふれあう。身体に電気が走った。
蜉蝣に舌を吸われ、疾風は堅く目を閉じた。
次第に荒くなる呼吸に、蜉蝣の熱い息が混じる。
首筋に吐息を感じ、疾風は蜉蝣の頭を抱えた。
首筋を、蜉蝣の唇が撫でる。
愛おしむように何度か上下すると、熱い舌が這う。
「………ん…ふ」
疾風の口から、絞り出すような声が漏れる。
蜉蝣は、首筋に口付けたまま、手を這わせた。
寝間着の帯を引っ張ると、それは頼りなく解ける。
隆々とした腹筋に指を沿わせると、波打つように反応する。
下帯に手をかけると、慌てたように疾風が抵抗した。
「ちょ…と待て……っ」
「待たん」
ちゅ、と音をたてて首を吸い上げる。疾風の手が力を失う。
蜉蝣は下帯の隙間から、手を差し入れた。
身体の、下へと。
「…か・蜉っ!」
同時に、足の間に腰を割り込ませる。
浮いた尻の方へ、指を一本潜り込ませた。
「やめ…そこは無理だぁっ!!」
疾風が抗議するその場所を探り当てる。
堅く閉じたその場所に、指をあてがう。
「無理だっ!!」
撫でさするような動きに、疾風が呻く。
周囲を優しく揉みほぐす。
「……気持ち悪ぃ…!」
刺激を受け、その場所が律動し始める。
蜉蝣の指を、飲み込もうとするかのような動き。
生理的なその動きに合わせ、蜉蝣が指を挿し進めた。
つ、と先端が潜る。
「うあ……っ」
異物感に、疾風が仰け反る。
だが、一旦侵入を許すと、奥へ奥へと誘導するかのような顫動が指を誘う。
「も……やめろっ!」
疾風が息を吐いた瞬間、蜉蝣の動きがピタ、と止まった。
首筋から、顔が離れる。
「……蜉…?」
「………すまん」
呻くようにそういうと、指を引き抜き猛然と廊下へ走り出した。
「おうえぇぇぇぇぇぇ」
聞き慣れたその声に、疾風が顔を引きつらせた。
「陸酔い、かよ」
ふらふらと部屋に戻って来るなり、蜉蝣は布団に倒れ込んだ。相変わらず青い顔をしている。
「蜉」
「…………すまん」
「いつものこった」
「…………情けねぇ」
布団に顔を埋めた蜉蝣の頭を、疾風がぽん、と叩く。
「ホント、情けねぇな」
「…………畜生」
心底悔しそうな蜉蝣の声に、疾風は笑いを噛み殺した。
ほっとしてはいるが、少しだけ残念な気もする。
「仕方ねぇな」
蜉蝣の隣に寝ころぶ。
耳元に顔を寄せた。
「再戦は、舟の上だな」
蜉蝣が、隈の浮かんだ目を向けた。
「………いいのか」
にやり、と疾風が笑う。
「ただし、俺が上でな」
「……どうかな」
ふん、と笑う蜉蝣の横で、疾風は目を瞑った。
甲板で嗅ぐ潮の匂いと、同じ香りに包まれながら。
塩辛い、唇に口付けられて。
<了>
いいわけ(とゆーかなんとゆーかfor柚月サマ)
……お腹いっぱい。
どどど・どうでしょう……(滝汗)
蜉疾になってますかねー;;;
ごめんなさい蜉蝣ヘタレで。
ヘタレ攻めバンザーイ(え)
そしてリバ有りな終わり方ですみません(汗)
リバ有りバンザーイ(afo)
何やら馬鹿っぽい蜉蝣さんでしたが、蜉蝣さんは馬鹿ではありません(当たり前だっ)
素直なだけなんですvv
初めてのリクエスト小説でした。
本当に遅くなって申し訳ないです…。
これに懲りずに、蜉疾もしくは疾蜉を広めて行きましょうっ!!!ねっ!!!!!(勝手にがしっ)
すいませんすいませんごめんなさい。