modern lovers
その町を上空から見ると、廃屋と化した小さな教会を中心に新旧二つの町がちょうど集合の図形のように重なっているのがわかるに違いない。
かつてここにはふたつの勢力があった。先にここに定住し町を作った家と、外から流れ着いて力をつけた家と。彼らは長い間抗争を繰り返し、そして若い勢力のほうが生き残った、ここはそんな町だった。
旅人からは新しい家並みしか目に入らず、その先にあるはずの教会も鐘楼は半ば崩れ落ちて近くまで行かないとその使用目的すら判別できない。更に奥にあるのはゴーストタウンとしか呼べない廃墟だ。住人たちももう今ではそこに人が住んでいたことすら覚えてはいない。
彼らが旅の途中で立ち寄ったそここは、ちょっと大きな屋敷(ここの実力者ものものだ)と、その恩恵にあずかろうという人々の家で構成されていた。
町唯一の宿屋兼酒場には、雛にはまれな美人の歌姫がいた。
よくある話だ。その歌姫が旅人に声をかける。
「お願い、この町から連れ出して」
この場合、旅人がどういう反応をしようが、大抵は彼女のパトロンである実力者の反感を買うものである。彼は当然、プライドをかけて旅人の排除にかかる。
問題は歌姫ヘルヴァの目に止まった旅人というのが、――たとえ傍からそうは見えなくても――伝説の賞金首だった点にある。そして、町の住民全てが実力者ナイアルのファミリーだったことも。
ヴァッシュ・ザ・スタンピードと関わる以上、全ての人に災いは降りかかる。それは道連れの他の三人も同様だ。彼と共にいる人間が幾ら無関係を主張しても、その意見が無駄になるのは判りきっているのだ。
かくして四人対住民の追いかけっこが始まった。のどかな声の「こんなのどっかの町でもありましたよねー」と言う発言に誰も何の意見も出せないほど慌しく。
土地鑑のない自分達に対し、地元民の相手ではあまりにも数が多い。追っ手から逃れるためにくじ引きで二手に分かれた。
そして。
「まさか町全体が一味だったとは、思っても見ませんでしたわね」
走りこんだ廃屋の壁にもたれて、息を整える。背後を数人の足跡が遠ざかっていった。
どうやら相手を撒くことには成功したらしい。メリルと同じく外を窺っていた黒衣の男もようやく緊張を解いた。
「まったくや。しかもあのダァホ、反撃せんと『逃げろ』言いよる」
心から残念がっているその様子におかしくなって、彼女はちょっとした意地悪を言ってみたくなった。
「ほんと、残念でしたわね。お相手が私で」
薄暗がりの中でもわかるほど、男はぎょっとしてこちらを向いた。
「バレとったんか!」
あの時戦力のバランスを取るために男女のペアに別れようと言い出したのは、確かに最初「逃げる」と言い出した男だった。それを受けてこの牧師がくじを作ったのだが……。
「……やっぱりね。あんなの作るのに妙に時間がかかるとは思ってましたわ。大方ミリイと……」
「っだーっちゃうちゃう! そんなっ、どっかにしけ込もうなんて、思っとらん!」
大慌てで否定したのが、かえって図星だったのを知らしめている。女は声を殺して爆笑するのに苦労した。
彼女の連れと、このウルフウッドは非常に仲が良い。それが本当に愛だの恋だのと呼べるものなのかについてはまだ決まったわけではないらしい。
少なくとも男のほうは『そういうこと』に長けているようなのだが、何しろ、
「あの子、ぼけぼけですからねぇ……」
頬に手を当てて、ふうとため息をひとつ。つられてウルフウッドもしゃがんだままはあぁぁと長い息を吐く。
「……そおやねえ……あそこまであっけらかんとされると、なんやこっちがほんま、キッタナイ大人なんやなぁって思い知らされるわ」
その言葉につい声が弾むメリルだった。
「まあ、その気はおありなんですのね。それでしたらあーゆータイプは真っ向勝負が基本ですわよ」
「おいおい嬢ちゃんー何なんやそらー」
そうやってしばらく情けない男の声に面白がっていたのだが、やはり女として、ミリイの先輩として言っておかなければいけない言葉もある。
「でも、もし泣かせたら承知しませんからね。よろしくて?」
最前とは打って変わって真剣な物言いである。
自分の持つ大きな十字架にそんな小さい銃なんかでは到底かなわないだろうに。ウルフウッドはくすりと笑った。あの娘は本当に大事にされている。
「あんた、そそのかしとんのか止めとんのかどっちやねん。ま、ええわ。ワイかてふざけとるつもりはあらへん。そのうち、な。全ては神のお導きや」
男はよっこいしょと身を起こし、外の様子を再び窺った。危機はまだ完全には過ぎ去っていないのだ。
そんな姿をメリルは眺めていた。どこまで本気なのか相変わらず読めない。
読めないといえば。もう一人、他人に本心を読ませない男がいる。此処にはいない、もうひとり……。
メリルのそんな思いに気付いたのか、殊更に明るい声が言った。
「そういえば、あっちはどうなっとんやろなぁ。なあ嬢ちゃん、ほんとはあんたも組み合わせが逆やったら良かったんと違うか?」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。さっきの意趣返しのつもりか。
こうなるとこの男は格段と楽しそうになる。揚げ足を取られないようにしなければならない。
「わ、私では足手まといになってしまいますもの。それに、スタンガンなら必要以上には相手を傷つけませんし……」
手元の小銃に目がいってしまう。男も同じものを見ているらしかった。
「せやなぁ。あのバカでっかさで必要以上ってのは無理があるが、それでもトンガリも余計な目くじらたてんでええやろ。ただなあ……」
「ただ?」
「あの二人で建設的に会話ができるんかなあ? ボケが二人おってもなぁんにもならへんやろ。せやから組み合わせが逆や言うたんや。間違うとるか?」
熱弁を振るっているのがおかしかった。これはこれでこの男なりの慰め方かもしれない。
人間台風の不器用な生き方に対してやりきれない思いを抱いているのはこの男も同じなのだから。
しかし、また話題が元に戻ってしまうのはメリルにとっては不利以外の何ものでもない。案の定、
「それで? ヤツとはどうなんだ?」
「どうって……」
急に『どう』もへったくれもない。まだ、何もはじまってすらいないのだから、改めて訊かれても困ってしまう。黙り込んでしまったメリルに男は続けた。
「おおかた、目的をもって旅をしているヤツに余計なことを言って邪魔にされるんが怖いんやろ? せやなあ、まぁた置いてきぼりはいややもんなあ」
「何でそんなことあなたに言われなくちゃならないんですか? あなただっていざとなれば置いていかれるかも知れないんですのよ。私だってこれが仕事でなければ」
「なければ何やの。シゴトシゴト、ほんまご苦労なこっちゃ。あんた、仕事いう理由がなけりゃなぁんも動けへんな……ってこら、泣くな」
「泣いてません!」
まさに涙を堪えていたまま男をにらむ。いちいち言うことが当たっているだけに悔しい。しかしその悔しさの本当の原因が一体なんなのか自分でもわかっていないということに少し混乱したままでいると、さすがに言い過ぎたのか、ウルフウッドの声の調子が優しくなった。
「すまんかったな。ワイもこお、イラついとんのかな、言い方きつくなってしもて。アホなこと言うて悪かった」
窓の外は昼間の太陽がふたつ、容赦なく照り付けている。すでに半日以上逃げ回っていることになる。
合流地点ではもう二人は先にたどり着いているのだろうか。そこでは戦闘は行われているのだろうか。……あの人はまた無茶をして傷を負ってはいないだろうか。メリルの心に浮かぶのはそんなことばかりだ。
「あんたらまるで、お月さんみたいやな」
ふと、ウルフウッドが言った。
「誰かの回りぐるぐる回っとんねん。それが近すぎると重力に負けて落っこってしまうし、離れると遠心力で宇宙に飛ばされてしまう。丁度いいバランスで距離を保っていな、あかんねん」
そう言いながら顔を窓のほうからこちらに向ける。逆光になってその表情は窺えない。
「あんたら二人ともそんな感じや。お互い他人に気イ遣ってばかりやから、かえって肝心なとこで誰もそばに寄りつけへん。――ああ、二人ともそんなんやから、月ゆうよりも、あのふたつの太陽やね」
牧師に釣られてメリルも天井の向こうにあるはずの空を見上げた。確かに互いの重力に囚われている二重の太陽は自分達の姿に似つかわしい。下手に近づいて破滅を呼ぶよりも、安全を保つために必要な今の二人のポジションなのだろう。
男の言うことは少し癪に障るが、気分転換にはなる。大きく息を吸って、さっきまでのいやな気持ちと共に吐き出した。
「そうですわね、なるようになる、ですわ。別に急ぐこともありませんし」
「せやな。よっしゃ、行くで。走れるか?」
「はい! いつでもどうぞ。あ、ところで」
戸口で外の様子を窺っていた男に声をかけると、目を外に向けたまま「なんや」と応えた。そしてメリルはささやかな反撃を試みる。
――私だって心配なんですもの
「あなたの場合は、すこおし急いだほうがよろしいかもしれませんわよ」
その町を上空から見ると、廃屋と化した小さな教会を中心に新旧二つの町がちょうど集合の図形のように重なっているのがわかるに違いない。
かつてここにはふたつの勢力があった。先にここに定住し町を作った家と、外から流れ着いて力をつけた家と。彼らは長い間抗争を繰り返し、そして若い勢力のほうが生き残った、ここはそんな町だった。
旅人からは新しい家並みしか目に入らず、その先にあるはずの教会も鐘楼は半ば崩れ落ちて近くまで行かないとその使用目的すら判別できない。更に奥にあるのはゴーストタウンとしか呼べない廃墟だ。住人たちももう今ではそこに人が住んでいたことすら覚えてはいない。
彼らが旅の途中で立ち寄ったそここは、ちょっと大きな屋敷(ここの実力者ものものだ)と、その恩恵にあずかろうという人々の家で構成されていた。
町唯一の宿屋兼酒場には、雛にはまれな美人の歌姫がいた。
よくある話だ。その歌姫が旅人に声をかける。
「お願い、この町から連れ出して」
この場合、旅人がどういう反応をしようが、大抵は彼女のパトロンである実力者の反感を買うものである。彼は当然、プライドをかけて旅人の排除にかかる。
問題は歌姫ヘルヴァの目に止まった旅人というのが、――たとえ傍からそうは見えなくても――伝説の賞金首だった点にある。そして、町の住民全てが実力者ナイアルのファミリーだったことも。
ヴァッシュ・ザ・スタンピードと関わる以上、全ての人に災いは降りかかる。それは道連れの他の三人も同様だ。彼と共にいる人間が幾ら無関係を主張しても、その意見が無駄になるのは判りきっているのだ。
かくして四人対住民の追いかけっこが始まった。のどかな声の「こんなのどっかの町でもありましたよねー」と言う発言に誰も何の意見も出せないほど慌しく。
土地鑑のない自分達に対し、地元民の相手ではあまりにも数が多い。追っ手から逃れるためにくじ引きで二手に分かれた。
そして。
「まさか町全体が一味だったとは、思っても見ませんでしたわね」
走りこんだ廃屋の壁にもたれて、息を整える。背後を数人の足跡が遠ざかっていった。
どうやら相手を撒くことには成功したらしい。メリルと同じく外を窺っていた黒衣の男もようやく緊張を解いた。
「まったくや。しかもあのダァホ、反撃せんと『逃げろ』言いよる」
心から残念がっているその様子におかしくなって、彼女はちょっとした意地悪を言ってみたくなった。
「ほんと、残念でしたわね。お相手が私で」
薄暗がりの中でもわかるほど、男はぎょっとしてこちらを向いた。
「バレとったんか!」
あの時戦力のバランスを取るために男女のペアに別れようと言い出したのは、確かに最初「逃げる」と言い出した男だった。それを受けてこの牧師がくじを作ったのだが……。
「……やっぱりね。あんなの作るのに妙に時間がかかるとは思ってましたわ。大方ミリイと……」
「っだーっちゃうちゃう! そんなっ、どっかにしけ込もうなんて、思っとらん!」
大慌てで否定したのが、かえって図星だったのを知らしめている。女は声を殺して爆笑するのに苦労した。
彼女の連れと、このウルフウッドは非常に仲が良い。それが本当に愛だの恋だのと呼べるものなのかについてはまだ決まったわけではないらしい。
少なくとも男のほうは『そういうこと』に長けているようなのだが、何しろ、
「あの子、ぼけぼけですからねぇ……」
頬に手を当てて、ふうとため息をひとつ。つられてウルフウッドもしゃがんだままはあぁぁと長い息を吐く。
「……そおやねえ……あそこまであっけらかんとされると、なんやこっちがほんま、キッタナイ大人なんやなぁって思い知らされるわ」
その言葉につい声が弾むメリルだった。
「まあ、その気はおありなんですのね。それでしたらあーゆータイプは真っ向勝負が基本ですわよ」
「おいおい嬢ちゃんー何なんやそらー」
そうやってしばらく情けない男の声に面白がっていたのだが、やはり女として、ミリイの先輩として言っておかなければいけない言葉もある。
「でも、もし泣かせたら承知しませんからね。よろしくて?」
最前とは打って変わって真剣な物言いである。
自分の持つ大きな十字架にそんな小さい銃なんかでは到底かなわないだろうに。ウルフウッドはくすりと笑った。あの娘は本当に大事にされている。
「あんた、そそのかしとんのか止めとんのかどっちやねん。ま、ええわ。ワイかてふざけとるつもりはあらへん。そのうち、な。全ては神のお導きや」
男はよっこいしょと身を起こし、外の様子を再び窺った。危機はまだ完全には過ぎ去っていないのだ。
そんな姿をメリルは眺めていた。どこまで本気なのか相変わらず読めない。
読めないといえば。もう一人、他人に本心を読ませない男がいる。此処にはいない、もうひとり……。
メリルのそんな思いに気付いたのか、殊更に明るい声が言った。
「そういえば、あっちはどうなっとんやろなぁ。なあ嬢ちゃん、ほんとはあんたも組み合わせが逆やったら良かったんと違うか?」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。さっきの意趣返しのつもりか。
こうなるとこの男は格段と楽しそうになる。揚げ足を取られないようにしなければならない。
「わ、私では足手まといになってしまいますもの。それに、スタンガンなら必要以上には相手を傷つけませんし……」
手元の小銃に目がいってしまう。男も同じものを見ているらしかった。
「せやなぁ。あのバカでっかさで必要以上ってのは無理があるが、それでもトンガリも余計な目くじらたてんでええやろ。ただなあ……」
「ただ?」
「あの二人で建設的に会話ができるんかなあ? ボケが二人おってもなぁんにもならへんやろ。せやから組み合わせが逆や言うたんや。間違うとるか?」
熱弁を振るっているのがおかしかった。これはこれでこの男なりの慰め方かもしれない。
人間台風の不器用な生き方に対してやりきれない思いを抱いているのはこの男も同じなのだから。
しかし、また話題が元に戻ってしまうのはメリルにとっては不利以外の何ものでもない。案の定、
「それで? ヤツとはどうなんだ?」
「どうって……」
急に『どう』もへったくれもない。まだ、何もはじまってすらいないのだから、改めて訊かれても困ってしまう。黙り込んでしまったメリルに男は続けた。
「おおかた、目的をもって旅をしているヤツに余計なことを言って邪魔にされるんが怖いんやろ? せやなあ、まぁた置いてきぼりはいややもんなあ」
「何でそんなことあなたに言われなくちゃならないんですか? あなただっていざとなれば置いていかれるかも知れないんですのよ。私だってこれが仕事でなければ」
「なければ何やの。シゴトシゴト、ほんまご苦労なこっちゃ。あんた、仕事いう理由がなけりゃなぁんも動けへんな……ってこら、泣くな」
「泣いてません!」
まさに涙を堪えていたまま男をにらむ。いちいち言うことが当たっているだけに悔しい。しかしその悔しさの本当の原因が一体なんなのか自分でもわかっていないということに少し混乱したままでいると、さすがに言い過ぎたのか、ウルフウッドの声の調子が優しくなった。
「すまんかったな。ワイもこお、イラついとんのかな、言い方きつくなってしもて。アホなこと言うて悪かった」
窓の外は昼間の太陽がふたつ、容赦なく照り付けている。すでに半日以上逃げ回っていることになる。
合流地点ではもう二人は先にたどり着いているのだろうか。そこでは戦闘は行われているのだろうか。……あの人はまた無茶をして傷を負ってはいないだろうか。メリルの心に浮かぶのはそんなことばかりだ。
「あんたらまるで、お月さんみたいやな」
ふと、ウルフウッドが言った。
「誰かの回りぐるぐる回っとんねん。それが近すぎると重力に負けて落っこってしまうし、離れると遠心力で宇宙に飛ばされてしまう。丁度いいバランスで距離を保っていな、あかんねん」
そう言いながら顔を窓のほうからこちらに向ける。逆光になってその表情は窺えない。
「あんたら二人ともそんな感じや。お互い他人に気イ遣ってばかりやから、かえって肝心なとこで誰もそばに寄りつけへん。――ああ、二人ともそんなんやから、月ゆうよりも、あのふたつの太陽やね」
牧師に釣られてメリルも天井の向こうにあるはずの空を見上げた。確かに互いの重力に囚われている二重の太陽は自分達の姿に似つかわしい。下手に近づいて破滅を呼ぶよりも、安全を保つために必要な今の二人のポジションなのだろう。
男の言うことは少し癪に障るが、気分転換にはなる。大きく息を吸って、さっきまでのいやな気持ちと共に吐き出した。
「そうですわね、なるようになる、ですわ。別に急ぐこともありませんし」
「せやな。よっしゃ、行くで。走れるか?」
「はい! いつでもどうぞ。あ、ところで」
戸口で外の様子を窺っていた男に声をかけると、目を外に向けたまま「なんや」と応えた。そしてメリルはささやかな反撃を試みる。
――私だって心配なんですもの
「あなたの場合は、すこおし急いだほうがよろしいかもしれませんわよ」
PR
こんな夢を見た。
自分は歩いていた。
ここがどこだか判らない。 どこへ行くのかも判らない。
只、歩いて行く先に≪あいつ≫が居る。
弟が、居る。
其れだけが確かな事だ。
弟の気配に向けて、自分は歩いているのだ。
果たして、そこに弟は居た。
話に聞いたとおり、明るい筈だった頭髪は黒くなっている。
あの町で≪兄弟≫が変貌するのをまのあたりにした時よりも心が痛むかと思ったが、
何故かそう云うことはなかった。
只、自分よりも更に症状が進んでいることに驚きを感じた。
あいつは身体が変化していた。
羽に似た身体。 刃のような自分の身体とは違う。
他の≪産み出す者≫と同じ造りの。
その羽の中で、黒いものが見え隠れしている。
人間の。
女だった。
女はゆらゆらと羽の中で蠢く。
弟の羽の中で。
動きに合わせて白い頸や肩が顕わになった。
弟は其れを凝と観ていたが、
ふと。
此方を見返した。
眼が、あった。
――待っていたよ――
其の口が動いた。
声は届かなくてもそう云っているのだと判った。
ごらん、彼女を。
僕達はいずれこんな風になって逝くんだ。
僕もお前もいつか真黒に染まる。
そう云いながら弟は女を抱く。
眉根を寄せていた女の両の眼が朦朧と開けられた。
其の水晶には何も映されずにまた閉じられる。
白い貌に浮かぶのは紛れもない
愉悦だった。
――おいで――
弟は呼ぶ。
――来たいんだろう?――
肯定も否定もしなかったが其の刹那、自分は≪そこ≫に居た。
夢だからだ。 そう思った。
弟は満足げに自分を観ている。
唇が笑みの形につり上がる。
そして。
羽が四肢を絡め取った。
――何を見ているんだい?――
誰も。 貴様以外は誰も。
――そんな筈は無いだろう?――
羽に被われた眼の前に、
女が現れる。
夢見るような表情で女が口を開く。
お前は僕を見てはいない。
弟の声で告発する。
彼女の事を視ているんだ。
女の手が自分に触れる。 鳥肌が立った。
――違うよ――
告発は続く。
何が違うものか。
――嘘吐き――
声が嘲笑う。
手は熱を持った中心を探り当てた。
そして。
目が醒めた。
Frou Frou
彼はいつものように自宅周辺を見廻っていた。
自分の住処と隣家は同じ敷地にあり、そこに不審な物事が起きないようにするのが彼の役目だった。そのために彼はここにいるのだ。
何故なら、ここは彼の領域――テリトリー、即ち「ナワバリ」だからだ。
自分に把握できないことがあってはならないのだ。
その日その時、彼の優れた聴覚は聞きなれない音を捉えた。
少し高めの少女の泣き声だった。
すすり泣くというよりはしゃくりあげると言った感じの声は何かに話し掛けている。
「ごめんね、ごめんね。おとーさんもおかーさんも『うちは家族が多いからそんなよゆうはありません』って言うの。『もといたところに返してきなさい』って……」
声のほうに行って見ると、生垣の向こうを栗色の髪をお下げにした少女がとぼとぼと歩いている。どうやら手に持った小さい箱に向かって話しているみたいだった。
――これだから子供という動物は…
彼はやれやれと首を振る。この少女はどこかで捨てられたペットを見つけてしまったらしい。そして家に持ち帰り、案の定家族の反対にあってしまったのだ。
初歩的な推理だ。
そして人間の身勝手さに憤りを覚える。最近の人間は本当になっていない。たやすくブームに乗っかりそして飽きるとすぐ次に乗りかえる。この少女も明日には新しいオモチャを見つけて今日のことなど忘れてしまうに違いない。
「あのね、でもあなたに新しいおうちを見つけたの」
少女の話は続いている。しかも動く口とは裏腹に彼女の足は止まっていた。
彼の家の前で。
「ここはね、美人のネコさんとか、かっこいいワンちゃんがいるおうちなの」
少女は夢見るような表情で洋館を見上げている。
繰り返すが、そこは彼の住まいだった。
「あなたは白くてきれいだから、きっとここで幸せになれるわ」
ね? と箱に微笑みかけるその無邪気な笑顔が彼には疫病神のものに見えたに違いない。
茫然自失の態で警告することすら忘れた彼の鼻先を少女は気軽な足取りで横切り、
「ここがあなたの新しいおうちよ」
いともあっさり敷地に侵入してしまった。とんだ失態をしでかしたと臍をかむ彼の姿には気がつかなかったらしい。
少女の関心は、可愛そうなこの子をいかに『いつまでも幸せに暮らしました』の物語に当てはめるかということだけに注がれていた。
やがて少女は桜の木の下で立ち止まった。
いっせいに咲き誇るその時を待つ固い蕾を見上げて、一人うなづく。
「この木がお花でいっぱいになったころに、幸せになったあなたに会いに来るからね」
それまで元気でね。と根元に箱を置いた。
それを見ていた彼は思う。お花でいっぱいになるころまでその約束を覚えていられるわけがない、と。
子供の時間の流れは驚くほど早い。毎日が新しい事件の連続だ。見るからに好奇心旺盛な少女がいつまでもこの箱の存在を覚えていられるはずがない。
その証拠に、
「じゃあ、元気でね」
そういった後はくるりときびすを返して外へと駆けて行くではないか。
一度も振り返らず。
そして、後には彼と小さな箱が残された。しょうがないから近寄ってみる。
箱の中が気になるのは、けして同情とかボランティア精神とかそういったものではない。そんなものは隣家の昼行灯にくれてやる。
ただ、このままでは寝覚めが悪いからだ。
自分のテリトリーでこんな厄介ごとがあるのが許せなかったからだ。
――まったく、面倒臭い……
そうっと箱をつついてみる。<中身>が死んではいないことは既に確認してある。
小さい紙箱をこわさないように開けるのはいかに器用な彼でも少し苦労したが、程なくタオルに包まれた<中身>の生き物が姿を見せた。
――……ふん、やっぱりな…
大方の想像はついていたが、それは仔猫だった。タオルとハンカチに囲まれ、丸くなっている。
動かないのは衰弱しているせいか。ミルク臭くないところをみると、拾われたときにあまり食事をもらえないまま来たらしい。
仔猫は眠るようにじっとしていたがちゃんと目は見えるらしく、明るさに反応して起き上がった。そしてまぶしそうにその光のさす源を仰ぎ見た。
針のように細くなったその眼は、夜明け前の空の色に似ていた。
――……………………
両者の目が合って、数秒後。
仔猫の白い背中の毛が逆立った。
耳を伏せ、幼いながらも全身で警戒している。彼はこの気の強さが気に入った。しかしこちらも気を抜こうものなら顔を引っ掻かれるかも知れない。彼も本気で仔猫の相手をするつもりだった。子供相手だからといって容赦はしないのが彼の信念だ。
とその時。
「うっふっふっ、見ーちゃった」
ハートマークつきの甘い声が頭上から降ってきた。
一気に緊張感が萎える。
「……いつから見てた?」
「いやぁねえー、ヒトをのぞきみたいに」
声の主は桜の枝からひらりと飛び降りた。
「あたしのお気に入りの場所の下で面白いことをしているあなたにそんな風に言われたくないわねぇ」
つーんと鼻先を空に向けて気取った足取りで彼の元へ歩み寄る。
「さっきのはトンプソンさんちの末っ子ね。あたしたち皆にいつも優しくしてくれるわ。…まあ、たまぁーに好意の度が過ぎるときもあるけどね」
「さすがに詳しいな」
「あら、あたしたちのネットワークを馬鹿にしないで。今まで何回か手伝ってあげたじゃない?」
一見世間知らずの箱入りでおとなしそうな姿だが、実はこの辺り一帯を取り仕切る首領だ。
無論彼もそれを知らないわけではない。
「そうだったな。……どうでもいいが、その口調、何とかならんか」
「うるさいわね。そんなことよりその子見せてよ」
彼の苦言をいつものことだと聞き流し、美しい被毛と肢体を持つロシアンブルーは箱を覗き込んだ。
二人のやり取りの間も仔猫は緊張して睨んでいた。
その顔を見て取り、
「あら、この子……」
「わかるのか?」
わかっているのなら、とっととこいつを捨てた家につき返してやりたい。彼はこういったわずらわしい面倒ごとから早く開放されたがっていた。
珍しく勢いづいてたずねるのに対して、返答はなんともあっさりしたものだった。
「こないだ引越しちゃったわねえ、あのお医者さんち」
飼っていた猫(仔猫の母親だ)を事故で失い、傷心のまま勤め先の総合病院の異動で移っていったらしい。
「だから、この子は身寄りがないってワケ」
「なんでこいつは捨てられたんだ?」
「親に似すぎたのよ。あそこは夫婦そろって溺愛してたからねえ…」
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように言うと、彼は箱を相手に示した。
「同じ猫だ。お前に任せる」
「あら、いいの? あたし、この子可愛がっちゃうかもしれないわよ。んねー、女同士仲良くしなきゃね」
仔猫に向かって安心させるように声をかける姿に彼の容赦ない言葉が飛ぶ。
「お前はオスだろう。種がないからといって変なちょっかい出すんじゃないぞ」
「うるさいわねー。怖がられたからってやつあたりはあなたらしくないわよ」
仔猫は同じ猫のほうに興味を示していた。細い尾をぴんと立ててゆっくり近づいている。猫が柔らかく鳴くと、小さい声で返事もしてみせた。
いずれも彼相手にはなかったことだ。
なんだか、面白くない。
「それじゃ、任せたからな」
得体の知れない苛立ちを隠して、彼は家のほうへ向かった。
「やあねー、妬いちゃって」
という言葉には耳も貸さずに。
「さてと、あなた名前はまだないんでしょ? あたしがつけてあげるわ」
猫は振りかえって白猫に微笑んだ。
何しろ飼い主につけられた自分の名前さえ気に入らずに自ら勝手に女性名に改名したくらいである。名前にはひときわこだわりがある。
仔猫はじっとしている。その瞳にある人物の姿を思い浮かべた猫は、自分の思いつきに嬉しくなった。
隣家に住む若夫婦。さっきまでここにいたドーベルマンはその妻のほうに懐いている。しかもなぜか自覚がない。
――それだけでもかなり笑えるわよねー
ふと見ると仔猫が怪訝な顔をしている。自分の表情が悪意のある笑みに変わっていたらしい。
「あらやだ、ごめんなさいね。あなたのことじゃないのよ。あのこわーい黒いヒトのこと」
いつもいつも偉そうにして、人間も虫けらのように思っている彼のことだ。自分の感情の変化など理解できないのだろう。
――ま、それがあたしには見てて面白いんだけれどね
猫はおとなしくしている仔猫に向かって宣言した。
「あなたの名前は『メリル』。メリルよ」
――あのヒトも少しは感情の機微ってモノを知るべきなのよ
そうと知ったときの彼の反応を思い浮かべ、猫はにやりとした。
白猫のメリルはただじっとその姿を見ていたが、やがてゆっくりと話し出した。
「あの、ありがとうございます。名前までつけてくださって」
「ああ良かった。話せるのね。あたしの名前は、エレンディラ。その名前気に入ってくれた?」
「はい。あの、エレンディラさんは、女のかたなんですか? それとも…」
「あぁん、野暮なことは言わないのよ。あたしはあたし。メリルちゃん、これから仲良くしましょうね」
「はい、よろしくお願いします」
こうしてナイブズが暮らす洋館に、また住人が増えることになった。
その名前を、まだ今の彼は知らない。
彼はいつものように自宅周辺を見廻っていた。
自分の住処と隣家は同じ敷地にあり、そこに不審な物事が起きないようにするのが彼の役目だった。そのために彼はここにいるのだ。
何故なら、ここは彼の領域――テリトリー、即ち「ナワバリ」だからだ。
自分に把握できないことがあってはならないのだ。
その日その時、彼の優れた聴覚は聞きなれない音を捉えた。
少し高めの少女の泣き声だった。
すすり泣くというよりはしゃくりあげると言った感じの声は何かに話し掛けている。
「ごめんね、ごめんね。おとーさんもおかーさんも『うちは家族が多いからそんなよゆうはありません』って言うの。『もといたところに返してきなさい』って……」
声のほうに行って見ると、生垣の向こうを栗色の髪をお下げにした少女がとぼとぼと歩いている。どうやら手に持った小さい箱に向かって話しているみたいだった。
――これだから子供という動物は…
彼はやれやれと首を振る。この少女はどこかで捨てられたペットを見つけてしまったらしい。そして家に持ち帰り、案の定家族の反対にあってしまったのだ。
初歩的な推理だ。
そして人間の身勝手さに憤りを覚える。最近の人間は本当になっていない。たやすくブームに乗っかりそして飽きるとすぐ次に乗りかえる。この少女も明日には新しいオモチャを見つけて今日のことなど忘れてしまうに違いない。
「あのね、でもあなたに新しいおうちを見つけたの」
少女の話は続いている。しかも動く口とは裏腹に彼女の足は止まっていた。
彼の家の前で。
「ここはね、美人のネコさんとか、かっこいいワンちゃんがいるおうちなの」
少女は夢見るような表情で洋館を見上げている。
繰り返すが、そこは彼の住まいだった。
「あなたは白くてきれいだから、きっとここで幸せになれるわ」
ね? と箱に微笑みかけるその無邪気な笑顔が彼には疫病神のものに見えたに違いない。
茫然自失の態で警告することすら忘れた彼の鼻先を少女は気軽な足取りで横切り、
「ここがあなたの新しいおうちよ」
いともあっさり敷地に侵入してしまった。とんだ失態をしでかしたと臍をかむ彼の姿には気がつかなかったらしい。
少女の関心は、可愛そうなこの子をいかに『いつまでも幸せに暮らしました』の物語に当てはめるかということだけに注がれていた。
やがて少女は桜の木の下で立ち止まった。
いっせいに咲き誇るその時を待つ固い蕾を見上げて、一人うなづく。
「この木がお花でいっぱいになったころに、幸せになったあなたに会いに来るからね」
それまで元気でね。と根元に箱を置いた。
それを見ていた彼は思う。お花でいっぱいになるころまでその約束を覚えていられるわけがない、と。
子供の時間の流れは驚くほど早い。毎日が新しい事件の連続だ。見るからに好奇心旺盛な少女がいつまでもこの箱の存在を覚えていられるはずがない。
その証拠に、
「じゃあ、元気でね」
そういった後はくるりときびすを返して外へと駆けて行くではないか。
一度も振り返らず。
そして、後には彼と小さな箱が残された。しょうがないから近寄ってみる。
箱の中が気になるのは、けして同情とかボランティア精神とかそういったものではない。そんなものは隣家の昼行灯にくれてやる。
ただ、このままでは寝覚めが悪いからだ。
自分のテリトリーでこんな厄介ごとがあるのが許せなかったからだ。
――まったく、面倒臭い……
そうっと箱をつついてみる。<中身>が死んではいないことは既に確認してある。
小さい紙箱をこわさないように開けるのはいかに器用な彼でも少し苦労したが、程なくタオルに包まれた<中身>の生き物が姿を見せた。
――……ふん、やっぱりな…
大方の想像はついていたが、それは仔猫だった。タオルとハンカチに囲まれ、丸くなっている。
動かないのは衰弱しているせいか。ミルク臭くないところをみると、拾われたときにあまり食事をもらえないまま来たらしい。
仔猫は眠るようにじっとしていたがちゃんと目は見えるらしく、明るさに反応して起き上がった。そしてまぶしそうにその光のさす源を仰ぎ見た。
針のように細くなったその眼は、夜明け前の空の色に似ていた。
――……………………
両者の目が合って、数秒後。
仔猫の白い背中の毛が逆立った。
耳を伏せ、幼いながらも全身で警戒している。彼はこの気の強さが気に入った。しかしこちらも気を抜こうものなら顔を引っ掻かれるかも知れない。彼も本気で仔猫の相手をするつもりだった。子供相手だからといって容赦はしないのが彼の信念だ。
とその時。
「うっふっふっ、見ーちゃった」
ハートマークつきの甘い声が頭上から降ってきた。
一気に緊張感が萎える。
「……いつから見てた?」
「いやぁねえー、ヒトをのぞきみたいに」
声の主は桜の枝からひらりと飛び降りた。
「あたしのお気に入りの場所の下で面白いことをしているあなたにそんな風に言われたくないわねぇ」
つーんと鼻先を空に向けて気取った足取りで彼の元へ歩み寄る。
「さっきのはトンプソンさんちの末っ子ね。あたしたち皆にいつも優しくしてくれるわ。…まあ、たまぁーに好意の度が過ぎるときもあるけどね」
「さすがに詳しいな」
「あら、あたしたちのネットワークを馬鹿にしないで。今まで何回か手伝ってあげたじゃない?」
一見世間知らずの箱入りでおとなしそうな姿だが、実はこの辺り一帯を取り仕切る首領だ。
無論彼もそれを知らないわけではない。
「そうだったな。……どうでもいいが、その口調、何とかならんか」
「うるさいわね。そんなことよりその子見せてよ」
彼の苦言をいつものことだと聞き流し、美しい被毛と肢体を持つロシアンブルーは箱を覗き込んだ。
二人のやり取りの間も仔猫は緊張して睨んでいた。
その顔を見て取り、
「あら、この子……」
「わかるのか?」
わかっているのなら、とっととこいつを捨てた家につき返してやりたい。彼はこういったわずらわしい面倒ごとから早く開放されたがっていた。
珍しく勢いづいてたずねるのに対して、返答はなんともあっさりしたものだった。
「こないだ引越しちゃったわねえ、あのお医者さんち」
飼っていた猫(仔猫の母親だ)を事故で失い、傷心のまま勤め先の総合病院の異動で移っていったらしい。
「だから、この子は身寄りがないってワケ」
「なんでこいつは捨てられたんだ?」
「親に似すぎたのよ。あそこは夫婦そろって溺愛してたからねえ…」
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように言うと、彼は箱を相手に示した。
「同じ猫だ。お前に任せる」
「あら、いいの? あたし、この子可愛がっちゃうかもしれないわよ。んねー、女同士仲良くしなきゃね」
仔猫に向かって安心させるように声をかける姿に彼の容赦ない言葉が飛ぶ。
「お前はオスだろう。種がないからといって変なちょっかい出すんじゃないぞ」
「うるさいわねー。怖がられたからってやつあたりはあなたらしくないわよ」
仔猫は同じ猫のほうに興味を示していた。細い尾をぴんと立ててゆっくり近づいている。猫が柔らかく鳴くと、小さい声で返事もしてみせた。
いずれも彼相手にはなかったことだ。
なんだか、面白くない。
「それじゃ、任せたからな」
得体の知れない苛立ちを隠して、彼は家のほうへ向かった。
「やあねー、妬いちゃって」
という言葉には耳も貸さずに。
「さてと、あなた名前はまだないんでしょ? あたしがつけてあげるわ」
猫は振りかえって白猫に微笑んだ。
何しろ飼い主につけられた自分の名前さえ気に入らずに自ら勝手に女性名に改名したくらいである。名前にはひときわこだわりがある。
仔猫はじっとしている。その瞳にある人物の姿を思い浮かべた猫は、自分の思いつきに嬉しくなった。
隣家に住む若夫婦。さっきまでここにいたドーベルマンはその妻のほうに懐いている。しかもなぜか自覚がない。
――それだけでもかなり笑えるわよねー
ふと見ると仔猫が怪訝な顔をしている。自分の表情が悪意のある笑みに変わっていたらしい。
「あらやだ、ごめんなさいね。あなたのことじゃないのよ。あのこわーい黒いヒトのこと」
いつもいつも偉そうにして、人間も虫けらのように思っている彼のことだ。自分の感情の変化など理解できないのだろう。
――ま、それがあたしには見てて面白いんだけれどね
猫はおとなしくしている仔猫に向かって宣言した。
「あなたの名前は『メリル』。メリルよ」
――あのヒトも少しは感情の機微ってモノを知るべきなのよ
そうと知ったときの彼の反応を思い浮かべ、猫はにやりとした。
白猫のメリルはただじっとその姿を見ていたが、やがてゆっくりと話し出した。
「あの、ありがとうございます。名前までつけてくださって」
「ああ良かった。話せるのね。あたしの名前は、エレンディラ。その名前気に入ってくれた?」
「はい。あの、エレンディラさんは、女のかたなんですか? それとも…」
「あぁん、野暮なことは言わないのよ。あたしはあたし。メリルちゃん、これから仲良くしましょうね」
「はい、よろしくお願いします」
こうしてナイブズが暮らす洋館に、また住人が増えることになった。
その名前を、まだ今の彼は知らない。
Sweet Bitter Candy
彼の暮らす洋館にその若夫婦が来たのは、木々の色づき始めた季節だった。
男のほうは見覚えがある。彼はこの男を小さいときからよく知っていた。まだ幼かった彼がこの洋館に来たときの先客がこの男だった。
「やあ、ナイブズ、久しぶり。オレのこと覚えてる?」
(忘れてやれば良かった……)
彼はあまり思い出したくはなかったのだが、しょうがなく肯定した。やたらと物覚えが良いのも困りものだ。
”ナイブズ”という名は、ここに来たときにこの洋館の主人である女性がつけたものだ。『百万もの刃のように精悍に』という意味がこめられている。
(ヴァッシュ、お前も相変わらず脳天気そうだな)
ナイブズは鷹揚に頷く。しかし彼の目は兄弟同然に育ったヴァッシュのかげにたたずむ女性に向けられていた。
小柄で黒髪を短くした、初めて見る顔に警戒心が起こる。しかし相手に敵意はなさそうだ。
じっと向けられる視線に怯えて、女性はヴァッシュの陰に隠れるように寄り添ったが、ヴァッシュは逆に彼女を前に押し出した。
「ナイブズ、このひとはメリル。ぼくの、奥さんだ」
最後の『奥さん』という一言に照れが混じる。まだ結婚したばかりのはずだから、きっと呼び慣れていないのだろう。
「ちゃんと顔覚えててね。家族なんだから、追い返したりしちゃ駄目だぞ」
(「だぞ」、だとう……?)
その言いぐさに少しむっとしたナイブズだったが、
「はじめまして、ナイブズさん。メリルです。よろしくお願いしますわ」
彼女が丁寧な挨拶をしてくれたので、気を取り直して少しずつ近寄ってみた。
無表情な彼に硬直しているメリルのまわりを一周する。個体識別にはこれが一番なのだ。
「大丈夫だよ。ナイブズは気難しいけどいいヤツだから」
(「ヤツ」、だとう……?)
ますますヴァッシュに対して敵意をつのらせるナイブズだった。
彼はヴァッシュを無視することに決めて、関心をメリル一人に向ける。
「あら、ナイブズさん、ありがとう」
何かに気づいてメリルがかがむ。目線の高さを彼と同じにしてにっこりと微笑んだ。
「あーーーーッ! ナイブズったら短いくせに尻尾振ってやがる! オレには一度もやらなかったくせに!!」
「この子、ドーベルマンですわよね。よかったわ私を認めてくださって」
「こいつ、今までレムにしか振んなかったくせにー!やっぱオンナのほうがいいのか?」
ヴァッシュは大人気なく地団駄を踏んでいる。自分よりメリルを選んだのがよほど悔しいのだろう。
(当たり前だ。お前なんかよりもこの女のほうが礼儀を知っている)
横目でヴァッシュを見遣り、ナイブズはこれ見よがしにメリルになつき始めた。
「ヴァッシュさんたら、落ち付いてくださいな。こんなにおとなしい、いい子なのに」
「キミはだまされてるよ…。コイツ、なんであからさまになつくんだよ」
差し出された鼻筋をなでていたメリルはこの二人(一人と一頭)の確執を知らない。
「と、とりあえず、レムのところに行こう。ほらナイブズ、離れた離れた」
「そうですわね。ではナイブズさん失礼します」
そう言ってメリルが立ちあがろうとした時、ナイブズは行動した。
「あっ!!」
「きゃっ?」
彼はメリルの顔に鼻を押しつけ……
「なっ、ななな舐めたなーーーーーー! お前、メリルの、口、舐めたぁ!!」
(ほんの挨拶だ)
犬は親愛の情を示すとき、相手の口元を舐める。ナイブズはその本能に従っただけだったのだが、ヴァッシュにしてみれば気が気ではない。
「ちきしょーーーーーー! 負けるもんか!」
訳のわからない捨て台詞と共にメリルを引っ張って家の中に入ってしまった。
じっとそれを見送っていたナイブズだったが、そろそろ自分の夕食の時間が迫っている。二人を追って我が家へと向かった。
メリルをはさんだこの奇妙な三角関係は、若夫婦が新居に移るまでの二ヶ月間、毎日続いたのであった。
彼の暮らす洋館にその若夫婦が来たのは、木々の色づき始めた季節だった。
男のほうは見覚えがある。彼はこの男を小さいときからよく知っていた。まだ幼かった彼がこの洋館に来たときの先客がこの男だった。
「やあ、ナイブズ、久しぶり。オレのこと覚えてる?」
(忘れてやれば良かった……)
彼はあまり思い出したくはなかったのだが、しょうがなく肯定した。やたらと物覚えが良いのも困りものだ。
”ナイブズ”という名は、ここに来たときにこの洋館の主人である女性がつけたものだ。『百万もの刃のように精悍に』という意味がこめられている。
(ヴァッシュ、お前も相変わらず脳天気そうだな)
ナイブズは鷹揚に頷く。しかし彼の目は兄弟同然に育ったヴァッシュのかげにたたずむ女性に向けられていた。
小柄で黒髪を短くした、初めて見る顔に警戒心が起こる。しかし相手に敵意はなさそうだ。
じっと向けられる視線に怯えて、女性はヴァッシュの陰に隠れるように寄り添ったが、ヴァッシュは逆に彼女を前に押し出した。
「ナイブズ、このひとはメリル。ぼくの、奥さんだ」
最後の『奥さん』という一言に照れが混じる。まだ結婚したばかりのはずだから、きっと呼び慣れていないのだろう。
「ちゃんと顔覚えててね。家族なんだから、追い返したりしちゃ駄目だぞ」
(「だぞ」、だとう……?)
その言いぐさに少しむっとしたナイブズだったが、
「はじめまして、ナイブズさん。メリルです。よろしくお願いしますわ」
彼女が丁寧な挨拶をしてくれたので、気を取り直して少しずつ近寄ってみた。
無表情な彼に硬直しているメリルのまわりを一周する。個体識別にはこれが一番なのだ。
「大丈夫だよ。ナイブズは気難しいけどいいヤツだから」
(「ヤツ」、だとう……?)
ますますヴァッシュに対して敵意をつのらせるナイブズだった。
彼はヴァッシュを無視することに決めて、関心をメリル一人に向ける。
「あら、ナイブズさん、ありがとう」
何かに気づいてメリルがかがむ。目線の高さを彼と同じにしてにっこりと微笑んだ。
「あーーーーッ! ナイブズったら短いくせに尻尾振ってやがる! オレには一度もやらなかったくせに!!」
「この子、ドーベルマンですわよね。よかったわ私を認めてくださって」
「こいつ、今までレムにしか振んなかったくせにー!やっぱオンナのほうがいいのか?」
ヴァッシュは大人気なく地団駄を踏んでいる。自分よりメリルを選んだのがよほど悔しいのだろう。
(当たり前だ。お前なんかよりもこの女のほうが礼儀を知っている)
横目でヴァッシュを見遣り、ナイブズはこれ見よがしにメリルになつき始めた。
「ヴァッシュさんたら、落ち付いてくださいな。こんなにおとなしい、いい子なのに」
「キミはだまされてるよ…。コイツ、なんであからさまになつくんだよ」
差し出された鼻筋をなでていたメリルはこの二人(一人と一頭)の確執を知らない。
「と、とりあえず、レムのところに行こう。ほらナイブズ、離れた離れた」
「そうですわね。ではナイブズさん失礼します」
そう言ってメリルが立ちあがろうとした時、ナイブズは行動した。
「あっ!!」
「きゃっ?」
彼はメリルの顔に鼻を押しつけ……
「なっ、ななな舐めたなーーーーーー! お前、メリルの、口、舐めたぁ!!」
(ほんの挨拶だ)
犬は親愛の情を示すとき、相手の口元を舐める。ナイブズはその本能に従っただけだったのだが、ヴァッシュにしてみれば気が気ではない。
「ちきしょーーーーーー! 負けるもんか!」
訳のわからない捨て台詞と共にメリルを引っ張って家の中に入ってしまった。
じっとそれを見送っていたナイブズだったが、そろそろ自分の夕食の時間が迫っている。二人を追って我が家へと向かった。
メリルをはさんだこの奇妙な三角関係は、若夫婦が新居に移るまでの二ヶ月間、毎日続いたのであった。
目を閉じて。闇の中、見えない人の影を追う。
重ねる祈りが、彼女に届くようにと。
結局、メリルとミリィは、ヴァッシュとウルフウッドに付いてきている。
一度干物にされかけたこともあってか、ヴァッシュもウルフウッドも強いて引き離すようなマネはしなかった。目の届く範囲に置いて危害を加えられないよう監視する方が、むしろ安全だということで、二人の考えが一致したからである。
大抵は宿で夜を過ごしたが、町と町との距離が空いているところでは、四人揃って野営することもあった。
大抵は男二人が交替で火の番と見張りをして、夜を過ごした。
毛布にくるまって眠るメリルが、身じろいだ。
眠り込んでしまわない程度にぼんやりと炎を見つめたヴァッシュ容易にそれに気付いた。
彼女の方を見やると、細い肩が毛布からはみ出ているのがわかった。
砂漠の冷え込みは激しい。毛布をかけ直してやろうと、ヴァッシュは立ち上がる。
細いうなじ。艶やかな黒髪。年相応の女性の持つやわらかな容貌。
伸ばしかけた指が触れる寸前、メリルが目を覚ました。
「ヴァッシュさん…?」
「あ、ああ。肩がはみ出ていたから…」
「ありがとうございま…」
紅い唇から漏れた眠気にかすれる声は、彼女が再び夢の世界に舞い戻るのと同時に、消え去ってしまう。
見られていない。いつものように、笑えたはず。
健やかな寝息を立てるメリルに触れないように毛布を掛け、ヴァッシュはため息をつく。
やさしく、ふれて。大丈夫だと、囁きたいのに。
もう一度、頬に手を伸ばすが、ふれる寸前で指を止めてしまう。
彼女が、銃爪を引くことの出来る強い女性だと、知っている。
だけど、汚したくはない。幾人もの命を奪った、この手で……
ヴァッシュは、黙って最初の位置に戻り、座った。
目を閉じて。彼女の、姿を追う。
微笑んでいられるようにと。ただ、祈り続けて…
end.