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うろほろぞ
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『は…離して下さい!』
メリルの声が聞こえた瞬間、ヴァッシュは窓から飛び出そうとした。だが何故かウルフウッドに足を引っぱられ、窓枠に顎をぶつけそうになるのを両手をついて回避する。
 何すんだ、と怒鳴る前にごつい右手で口を塞がれ呻くことしかできない。
「オドレが出たかてこじれるだけや。アイツが自主的に消えれば一番ええやろ?」
不敵な笑みを浮かべたキャッチャーに、頭に血が上っていたピッチャーも落ち着きを取り戻した。
「…どうするのさ」
「とりあえずマネージャーに顔見せて安心さしたり」
言われるまま、ヴァッシュは窓から顔を覗かせメリルにウインクしてみせた。
『…お話を伺いますわ』
一人じゃないと判ってくれたようだ。そう言ったメリルの声は冷静だった。
「滝に打たれる荒行でもさせたいとこやけど、滝なんてあらへんしな。かわりに水ぶっかけたろ。これだけ寒いんや、すぐ帰るやろ」
「…楽しそうだね、キミ」
「ワイが上に行くさかい、マネージャーに時間稼ぐよう伝えてや」
ヴァッシュの返事を待たずウルフウッドは教室を走り出た。
「伝えてやって言われても…」
声を出せばキールに気づかれてしまう。以心伝心などできっこない。
せわしなく辺りを見回す。自分の鞄が目に飛び込んできた。この件が片づいたら部室に直行できるよう持ってきていたのだ。
大学ノートとサインペンを取り出すと、ヴァッシュは次々と大きく字を書き込んでいった。
窓から上半身を出し、ノートを繰ってみせる。
『…それであなたはその提案を受け入れたんですの?』
話を長引かせる為にマネージャーが質問した。本当は口をきくのも不愉快だろうと思うと申し訳ない気持ちで一杯になる。
『ウルフウッド…早くしてくれ…』
一秒が一分にも感じられる。ヴァッシュは度々顔を出し、状況を確認した。
ようやくウルフウッドが屋上から顔を見せた。笑顔で右手のビニール袋を軽く振り、左手の親指と人差し指で輪を作る。OKのサインだ。
ヴァッシュは再びノートでメッセージを伝えた後、上を指差した。メリルがウルフウッドに気づく。これで準備は万端。
『程度低すぎですわ』
怒りを秘めたメリルの声を聞きながら、ヴァッシュはノートを足元に放り出し背中を窓枠で支えて上体を外に出した。それぞれの手を二人に向ける。
 カウントダウン開始。メリルがその場にキールを留めるべく細工をするのを見守りながら、指を一本ずつ順に折っていく。
両手を握り締めた直後に身体を引っ込めたヴァッシュは、残念なことにビニール袋がキールに命中する瞬間を見られなかった。――
「…あの水、緑色でしたわね。絵の具でも混ぜたんですの?」
「え、ただの水じゃなかったの?」
二人の視線が黒髪の男に集中する。
「ビニール袋はごみ箱から拾ったんやけど、水入れて運ぶんはちと重いやろ。カラッポのまんま屋上まで持ってってそこで汲んだんや。プールの水をな」
「プールの…」
「…あの緑色は藻の色でしたのね…」
「あんなけったくそ悪い奴に水道水なんぞ上等すぎるわ」
吐き捨てるような口調にヴァッシュは僅かに眉根を寄せた。どうしてウルフウッドはこんなに怒ってるんだろう…。
以前彼が言った『億万長者になるもう一つの方法』が脳裏をよぎる。
「背景が判っただけでも御の字ですのに、お二人のお陰で胸がすっとしましたわ。ありがとうございます」
ウルフウッドとは対照的なメリルの明るい声。再び頭が下げられ艶やかな黒髪が揺れるのを、返事をするでもなくただぼんやりと眺める。
身体を起こしたメリルがにっこり笑った。
「それじゃ部活に行きましょうか」
バッテリーはきょとんとした表情で同時に瞬きすると、首を巡らせ互いの顔を凝視した。
「…遅刻――!!」
あっという間に二人の姿が教室から消えた。窓の外にメリルを残して。
「…前もって断ってきた訳ではなかったんですのね」
苦笑混じりの小さな呟きは、当然のことながら廊下を必死に走る二人の耳には届かなかった。

ⅩⅠ
顧問の説教を正座で拝聴することとスペシャル外回り三周。無断で遅刻したバッテリーへの罰である。
「オドレの…言葉に…のせられた…ワイが…阿呆やった…」
「何…言ってんの…俺より…熱心に…動いてた…クセに…」
ハイペースで熊野宮神社の階段を駆け上りながら、二人はこうなった責任をなすりつけあっていた。
百メートル走でテープを切るような勢いのまま鳥居をくぐる。
急にヴァッシュが立ち止まった。視界の隅をよぎった白い紙に飾られた木に目を向ける。
 半月程前、彼女はあの木におみくじを結んだ。見慣れない和服姿。本当に綺麗で…
あでやかな幻は後頭部への一撃で雲散霧消した。
「いっ…たいな! 口より先に手ェ出すのやめてくんない!?」
「何ボケっとしとんねん。はよ走らんと日が暮れてまうわ」
「…ウルフウッド」
いつになく真摯な自分の声に黒髪の男が真顔になった。重い沈黙。
「…いや、やっぱりいい」
訊きたい。だけど訊けない。もし肯定されたら、俺と同じ想いを抱いてるとしたら、俺は――
ヴァッシュが辛そうに顔を曇らせる。が、そんなことはお構いなしに、ウルフウッドは容赦ない関節技をかけた。
「いてて、いててて」
「言いかけてやめんなボケ! 気色悪いやんか!」
情けない声をきっぱり無視し、しばらくの間きっちり締め上げてから解放する。
「で? 言いたいことがあるんやったらハッキリ言えや」
「…べっつに」
なげやりな自分の言葉に、ウルフウッドの血管が切れた音が聞こえた気がした。こめかみから噴き出す鮮血も見えたような気がする。
「殺スッ…ブッ殺し尽くす!!」
「あいてててててててて」
先刻よりも更にきつい技をかけられ、ヴァッシュの顔から徐々に血の気が引いていく。
「言わんとずううううううっとこのままやで!?」
「わ…判った、言います! 言うから離して!」
ようやく自由を取り戻し、大きく息をついてからヴァッシュは重い口を開いた。
「…どうしてキミは…その…協力してくれたの?」
「…あ?」
「今日のこと」
ウルフウッドは怪訝そうに目を細め、冴えない表情で立ち尽くす男を見やった。
「問答無用で巻き込んだ張本人が何ゆうとんねん」
「人間台風デスカラ」
軽口で応じてはいるが、ブルーグリーンの瞳は更に問いかけている。理由はそれだけか、と。
「…前から虫が好かん奴やった、いうのもあるけどな」
言えるか。あの子と約束したから、なんて。
ウルフウッドは直接誓った訳ではない。しかし、メリルが辛い思いをしたら間違いなくミリィは怒り悲しむ。あの子の泣き顔を見たくない――その気持ちは今も変わっていなかった。
ヴァッシュは僅かに俯き目を伏せた。虫が好かない理由は何なのかの説明は一切ない。が、目の前にいるのは答えたくないことは決して口にしない男だ。これ以上質問を重ねても適当にはぐらかされるのがオチだ。
「…判った。…ありがとう。しんどい思いをさせて、済まない」
踵を返すと、ヴァッシュは一人で足早に階段を下り始めた。
「行こう。ほんとに日が暮れちゃうよ」
ウルフウッドが隣を走ろうとすると、ヴァッシュは決まってペースを上げ横に並ばれるのを拒んだ。今は…校庭に戻るまでは顔を見たくなかった。見られたくなかった。
仕方なくピッチャーの斜め後ろを走りながら、ウルフウッドはこれまでに起きた出来事を次々と思い起こした。
 心から笑う、怒る、泣く、凄む、危険なことに自ら首を突っ込む――カラッポの笑顔を絶やさない人間台風は、マネージャーが絡んだ時だけ自分の感情をむき出しにする。刃物を持つ相手に素手で掴みかかるほど自分の命に無頓着になる。
野球部やクラスの連中はどうだか知らないが、ヴァッシュの気持ちなどとうにお見通しだ。当然今の心理状態も手に取るように判っている。
だからといって、こちらにその気がないことを説明するつもりはこれっぽっちもない。納得させるには理由をきちんと話さなければならない。自分の想いを他人に知られるのはご免だ。
「冗談やない」
吐き捨てるような呟きにヴァッシュが一瞬振り返ったが何も言わなかった。

------



ⅩⅡ
「今日は家までマネージャー送ったり」
練習を終え部室に着替えに向かう途中、ウルフウッドはヴァッシュの横に並ぶと、聞き取るのに苦労するほど小さな声で囁いた。
「…どうして?」
問い返す声も同じくらい小さい。
「あの場には自分とマネージャーしかおらんかった、キールはそう思っとる筈や。無差別なイタズラでないとしたら、犯人として考えられるんはケビンかマネージャーやけど、アイツは『ケビンは自分の言いなりになる』っちう確信しとるやろ。となると犯人はマネージャーってことになってまう。…報復にどっかで待ち伏せとるかも知れんやろ」
メリルの腕を掴んで離さなかったキールの姿がヴァッシュの脳裏に浮かぶ。
「…何で俺にやらせる訳?」
「…ワイがやってもええんか?」
「駄目」
間髪入れない即答に、ウルフウッドは僅かに口の端を吊り上げた。
遠回りさせては申し訳ないから、と固辞するメリルを二人がかりで説得し、ヴァッシュはかつてのように二人乗りでメリルの家に向かった。
門の前に誰か立っている。ヴァッシュは一瞬緊張したが、体格はキールよりもずっと小柄で少々太目だ。
別人なのは間違いないが、念の為警戒しながらペダルを踏む。二人を乗せた自転車はゆっくりと近づいていった。
「お嬢様!」
聞き覚えのある声。門灯に照らし出された顔。そこにいたのはストライフ家の家政婦だった。
「ジョアンナさん! どうしましたの、こんな所で…」
メリルは怪訝そうに尋ねた。嬉しそうな表情から、悪い知らせではないことは判るのだが…
「おめでとうございます!」
「…え?」
この寒い中わざわざ屋外で待っていた原因は自分にあるらしい。しかし、お祝いの言葉で迎えられる心当たりは全くない。
「これです!」
ジョアンナは手にしていた紙を二人の前に広げて見せた。
「クラスメイトのケビン様からいただいたファックスです! お嬢様を生徒会の副会長に推薦したと!」
ヴァッシュとメリルは顔を見合わせた後、むさぼるようにその紙に目を通した。ワープロかパソコンで作成したのだろう、明朝体の文字が整然と並んでいる。最後のサインさえ直筆ではなかった。発信元は消されていた。
「小学校低学年の頃は学校になじめなかったお嬢様が、クラスメイトの方から生徒会の役員に推薦されるほどの信頼を得るまでになっていたなんて…! ジョアンナは嬉しゅうございます!」
せっかくの喜びに水を差すのは忍びない。二人は目だけで会話した。
『アイツだね』
『ええ、間違いありませんわ』
キール・バルドウ。
ジョアンナに判らないよう呼吸に紛らわせて小さくため息をつくと、メリルは恐る恐る質問した。
「ジョアンナさん…このことはお父様やお母様には」
「お知らせしました! 奥様は事の他お喜びです!」
「まだ当選した訳ではありませんのよ」
メリルの苦笑に翳りが混じった。
 彼女には判っていた。母が喜んだ理由がジョアンナとは異なることを。
「あ…そ、そうですね。私ったら気が早くて…。でも当選なさったら張り切ってお赤飯を炊かせていただきますから!」
「それは…楽しみですわね。…ヴァッシュさん、わざわざ送って下さってありがとうございました。早く帰って暖かくして下さいね。風邪など引かないように」
「うん、ありがとう。それじゃ。ジョアンナさん、失礼します」
祝いの席のメニューをあれこれ並べ立てていたジョアンナは、慌てて頭を下げてヴァッシュを見送った。

ⅩⅢ
「ほうか、そう来たか…」
朝練の後、教室でメリルからファックスの話を聞いたウルフウッドは、それだけ言うと不快そうに口元を歪めた。
「…私、体調不良を口実に保健室に行くか早退するかして、選挙には出席しないつもりでしたの」
大切な日に体調を崩すような自己管理ができない人に、生徒会役員の激務がこなせる筈がない。そう考えて貰う為の策だった。
おそらくキールも同じことを考えたのだろう。ケビンの名前でファックスを送りつけたのは、今日が大事な選挙の日だと家人に知らせる為。仮病で学校を休ませない為。
「…で、どうするの?」
「選挙に出ます」
「!?」
「落選すれば小言は間違いないでしょうけど、不戦敗よりはましですわ」
失敗は許されない。敗北は恥。そう考える身内は多い。ましてやこれは内申書をよくするチャンスなのだ。
落選後の、母親を初めとする親戚一同の怒りの形相が目に浮かぶ。
『二度もストライフの名に泥を塗るとは何事ですか!』
 詰問する台詞まで想像がついて、メリルは思わず吐息した。
「あんなに喜んでいたジョアンナさんには悪いですけど…」
祖父母の家で乳母として自分の世話をし、小学校入学と共に今の家に移り家政婦としてずっと尽くしてくれている。そんな彼女を悲しませることだけが心苦しかった。
昼休み終了を告げるチャイムの後、一・二年生は選挙の為全員体育館に移動した。
現生徒会長の挨拶が済むと、早速候補者の演説が始まった。まずは応援演説、続いて本人の演説の順で、次々と生徒が壇上に立つ。
会長候補が終わり、副会長候補の演説に移った。くじ引きの結果、メリルは三番目に演説することになった。
他の候補者のスピーチが終わり、ケビンを呼ぶアナウンスが流れた。強張った顔のケビンが中央の演説台を目指して進む。極度に緊張していることは右手と右足が同時に出ていることが証明している。
「あ…あの…メ、メリル・ストライフさんを推薦した、じゃなかった、推薦しました…」
暫しの沈黙の後どうにか話し始めたものの、声は上ずり、無意味な言葉が多数混じる。簡潔明瞭には程遠く、お世辞にも上手いとは言えない。
「メリルさんは…ご、ご存知の方も多いと思いますけど…学年トップの成績で、頭がよくて…あれ? そ、そう! スポーツも 万能です。野球部で活躍していて…いや、あの、マネージャーとして…」
しどろもどろの応援演説は、時間切れの為に中途半端のまま終わった。
「では続いてメリル・ストライフさんの演説です」
よろめきながら舞台の袖に戻るケビンとは対照的に、メリルはしっかりとした足取りで演説台へと進んだ。
「副会長に推薦されました、一年のメリル・ストライフと申します」
短く自己紹介すると、メリルは一人一人の顔を確認するようにゆっくりと視線を巡らせた。長すぎる中断に生徒達がざわめき始める。
「…何故自分がここにいるのか、私にはその理由が判りません」
判ってますけどね、と心の中だけでつけ足す。
推薦制度が既に本来の意味を失っていることは生徒の大半が知っている。意外な言葉にざわめきがひときわ大きくなった。
「…私には重責を果たす決意も公約もありません。また、副会長の激務をこなす実力があるとも思っておりません」
いったん言葉を切る。大きく息を吸ってから、メリルは再び言葉を紡いだ。
「私はトライガン学園が好きです。それは皆さんも同じだと思います」
館内が水を打ったように静まり返った。誰もがメリルの声に耳を傾けていた。
「ですから…来年生徒会を運営するに相応しい人を選んで下さい。誰かに言われたから、というようなことではなく、よく考えて、自分の意志で投票して下さい。…以上です。ご静聴ありがとうございました」
メリルは深々と一礼し、ゆっくりと舞台の袖に引っ込んだ。選挙管理委員が慌てて駆け寄り耳打ちする。
「あ、あの、時間はまだたっぷり残ってますけど」
「いいんです。お話ししたいことは全て申し上げましたから」
微笑みながら会釈し候補者控室に向かうメリルに、それ以上話しかける人はいなかった。


ⅩⅣ
書記・会計・会計監査と演説は続き、投票用紙を記入する為の時間がとられた。その後、生徒達はクラス毎に退場しながら出入り口に設置された投票箱に用紙を入れていった。
 程なく投票は終了し、即刻開票作業が始められた。
放課後、部室に向かうマネージャーの後ろ姿に気づいたヴァッシュは、さながら飼い主を見つけた大型犬のように駆け寄った。
「お疲れさま」
並んで歩きながら言葉少なにねぎらう。自分を見上げる顔に微笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます。…公約を一切言わない選挙演説は前代未聞でしょうね」
「確かに。でもカッコよかったよ。感動した。キミが『よく考えて、自分の意志で』って言った時、背中が震えたもん」
言いながらぶるぶると身体を震わせてみせる。
「もう、大袈裟ですわね。…ちゃんと伝わってるといいんですけど」
「うん」
キールは私欲の為に生徒会を利用しようとしている。二人は彼の落選を願わずにはいられなかった。
翌朝、掲示板の前には再び人だかりができた。選挙の結果が発表になったのだ。
朝練を終えたヴァッシュ達三人は、二日前と同じようにその傍を通りかかった。
「あ、貼ってあるみたいだよ」
ヴァッシュの声にそこにいた生徒達が一斉に振り向いた。視線が横へ移動し、隣に立つメリルで止まる。人垣が割れるように左右に動いた。
「…?」
譲って貰ったことを訝しく思いながらも、三人は軽く会釈して感謝の意を表わしてから掲示板に歩み寄った。
結果――
生徒会長、キール・バルドウ。無効票がもう一人の候補に投票されていれば当落は逆転していたという、まさに辛勝であった。
副会長、メリル・ストライフ。こちらは全体の九割近くを得た圧勝である。
書記・会計・会計監査は、必要な人数と候補者が同数だった為信任投票となった。全員が過半数を充分上回る票を獲得し当選を果たした。
「…どうしてこうなるんですの…」
自分の席でメリルは頭を抱えた。蓋を開けてみれば最悪の事態に陥っていたのだ。
「やる気も公約もないと申し上げましたのに…」
「だからかも知れんな」
ただ誉めちぎるだけの応援演説、声高に決意を表明し公約を並べ立てる候補者。その中にあって、淡々と自分の意見を述べたメリルは異彩を放っていた。
「守られるかどうかも判らん公約をやかましいほど主張した奴より、一言『トライガン学園が好きです』言った奴のほうがよっぽど信用できる、愛校心がある奴やったら仕事の手ェは抜かん、そう思われたっちうこっちゃ」
何よりもメリルの率直さと、不本意な推薦をされたのに真摯な態度で選挙に臨んだことが、多くの生徒達の心をしっかりと掴んだ。
「言い方が悪かった、ということですのね…」
「キミは誰に入れたの?」
ウルフウッドが挙げた副会長候補の名はメリルではなかった。
「え!? マネージャーじゃないの!?」
「オドレはマネージャーに入れたんかい」
肯いたヴァッシュの顔にウルフウッドの左手が押しつけられた。
「ドアホ。只でさえ忙しいマネージャーこれ以上忙しくしてどないすんねん」
「…!」
勉強と部活を両立するだけでも大変だ。ましてやメリルは、部活を続ける為に厳しい条件をクリアし続けなければならない。この上副会長の激務が加わったら…
「ご、ごめん! 俺考えなしで、その…」
「気にしないで下さい。一票減っても結果は変わりませんもの」
申し訳なさそうに大きな身体を縮こまらせたヴァッシュにメリルは笑顔で答えた。
「あ…あの…」
ためらいがちな声に三人が振り返る。俯き加減のケビンが背中を丸めて立っていた。
「何ぞ用か?」
三人を代表し、ウルフウッドがぶっきらぼうに答えた。小柄な肩がびくりと震える。それでもケビンは勇気を振り絞って口を開いた。
「メ…メリルさんに…話が…」
「…判りました。でももう予鈴が鳴りますから。そうですわね…お昼休みに一昨日と同じ場所で。いかがですか?」
音を立てて唾を飲み込むと、ケビンは大きく肯いて答え、そのまま自分の席へと走っていった。
ヴァッシュとウルフウッドも自分の席に着いた。それを待っていたかのように予鈴が鳴り始める。
「…またアイツの差し金かな…」
「ワイは行かへんで」
短い会話はチャイムの音にまぎれ、周囲のクラスメイトには聞こえなかった。





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エピローグ
「ヴァッシュ、一緒に昼飯食わないか?」
「ごめん、今日は学食なんだ」
ヴァッシュは顔の前で両手を合わせ、いつも弁当を持参しているクラスメイトの誘いを断った。
そう言った手前、教室で弁当は食べられない。ヴァッシュは鞄を持って教室を走り出た。昇降口で急いで靴を履き替える。
校舎の陰で待つこと暫し。まずメリルが、次いでケビンがやって来た。
「お話って何ですの?」
「…あ…あの……ごめんなさいっ!」
言うと同時にケビンは勢いよく頭を下げた。身体が直角以上に曲がっている。
「ケビンさん?」
「僕が…メリルさんを推薦したりしなければ…こんなことには…」
「…」
「僕が弱いから…キールの言葉に逆らえなかったから…だから…」
「ケビンさん困ります。やめて下さい」
メリルの困惑した声に、ケビンはお辞儀をしたまま首を横に振った。
「お願いですから…顔を上げて下さい」
困り果てている、といった雰囲気を察して、ケビンは恐る恐る身体を起こした。メリルは――穏やかに微笑んでいた。
「…あなたのせいではありませんわ。…あなたが断っても、あの人は別の誰かにやらせた筈ですもの。ですから
どうか今回のことは気にしないで下さい」
「でも…」
「いいんです。…私には生まれた時からお世話になっている女性がいるんです。その人が、私が副会長に推薦されたことをとても喜んでくれましたの。当選したと知ったら…嬉し泣きしてしまうかも知れませんわ」
有り得る。一昨日見たジョアンナの浮かれようを思い出して、ヴァッシュは大きく肯首した。
「その人の喜ぶ顔が二回も見られるなんて、嬉しいですわ。ありがとうございます」
「い、いや…そんな…でも…」
謝った相手に逆に感謝され、ケビンはしどろもどろになった。童顔の頬が紅潮する。
「…僕のこと…怒って…ない…?」
「ええ」
メリルは笑顔で請け負った。憤りを感じる相手はキールただ一人。
「ごめんなさい…ありがとう…」
「お話ってこのことでしたの?」
「うん。…食事前に時間を取らせちゃってごめんなさい。それじゃ!」
ケビンは脱兎の如く走り出した。自分に対する情けなさとメリルへの感謝の気持ちが入り交じり、涙が溢れそうになったからだ。泣き顔は見られたくなかった。
ケビンの後ろ姿が見えなくなってから、メリルはおもむろに口を開いた。
「ヴァッシュさん」
突然名前を呼ばれてヴァッシュは飛び上がった。息を殺して様子を窺う。
「そこにいるのは判ってるんですのよ」
気づかれていたのなら仕方がない。『覗き見なんて悪趣味ですわ!』と怒られるのを覚悟しつつ、ヴァッシュは校舎の陰から移動した。その気配を感じたのだろう、何故かあさっての方を向いていたメリルが振り返った。
「あら、そちらにいらしたんですのね」
「…山勘だった訳!?」
「いらしてるだろうとは思ってましたの。でもどこにいるかまでは判りませんでしたわ。…お一人ですの?」
「あ…うん」
笑顔で質問され、つい答えてしまった。先刻までの動揺と覚悟は綺麗に消えた。
「…お二人には…特にヴァッシュさんには心配やご迷惑をかけてばかりですわね」
顔を曇らせたメリルを見てヴァッシュは慌てた。
「そんなことない! 俺が勝手にやってるんだから!」
主将やミリィに頼まれたからじゃない。俺は自分の意志で行動してる。
「それとも…嫌だった? ずっとつきまとわれてるみたいで、キミの後輩の言葉じゃないけど、ストーカーみたいだって」
「そんなことありませんわ!」
視線がまともにぶつかった。硬直したように動けないまま二人は見つめ合い…同時に赤面して俯いた。酷くむきになっていた自分を思い起こしたのだ。
「…あ、あの、ヴァッシュさんもお昼はまだですよね。どうなさいます?」
「弁当は持ってきてるけど、教室ではちょっと食べられないな」
自分の鞄に目を落とす。レムのところにでも行こうか…。
「…部室に行きませんか?」
「え?」
「私もここに持ってきましたの。ケビンさんとは顔を合わせづらいですし…外で食べるには少し寒すぎますでしょう?」
マネージャーの職権乱用かも知れませんけど。そうつけ加えて笑ったメリルに、ヴァッシュは微笑みを返した。
「…いいね。それじゃ急がないと。昼休みが終わっちゃう」
「そうですわね」
踵を返し、急ぎ足で歩き出した華奢な後ろ姿を眺めながら考える。
顔を会わせづらいのはケビンのほうだ。罪悪感が消えるまでその状態は続くだろう。でも。
『メリルは普段と変わらない態度で挨拶するんだろうな…』
気を遣わせない為に。クラスメイトに何かあったのかと勘繰られないように。
今回のことも迷惑でない筈がない。それでも決してケビンを責めず、逆に相手の苦しみが少しでも和らぐよう語りかけた強さと優しさ。
「ヴァッシュさん? どうかなさいました?」
声をかけられて我に返る。メリルはすいぶん先まで進んでいた。
「ごめん、今行く!」
 駆け出して思う。やっぱり誰にも渡したくない、と。
 走りながら自分に誓う。彼女を必ず守り通すことを。
 追いついて祈る。こんな時ばかりでなく隣を歩ける日が来るように。

―FIN―
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一月中旬のある日、複数あるトライガン学園の掲示板には人だかりができた。候補者の名前が推薦者と共に発表されたのだ。
朝練を終えて教室に向かおうとしていたヴァッシュ達三人も、昇降口の近くにある掲示板の前で足を止めた。
 投票は明日、さすがに無関心ではいられない。
ここにも生徒が大勢いて、遠くから名前が連記された紙を眺める形になった。
「えっ!?」
「何で…」
バッテリーが同時に声を上げた。しばらく硬直した後、そろそろと視線をマネージャーに向ける。
「どうしたんですの?」
掲示板が見えず、バッテリーが驚いた理由が判らないメリルは、怪訝そうな表情で二人の顔を交互に見上げた。
「…キミの名前がある」
「副会長候補やて」
菫色の双眸が大きく見開かれた。ショックで呼吸さえ満足にできない。
軽く頭を振って気持ちを切り替えると、メリルは一歩踏み出した。
「あの…すみません、ちょっと通して下さい」
謝りながら人垣をかき分け、メリルは掲示板の前に立った。副会長候補の三名の中に確かに自分の名前がある。
 推薦者は同じクラスの男子生徒。
「どうして…」
呟きかけて、唐突に理由を理解する。
会長候補に記された二人の名。片方はキール・バルドウだった。
三人は生徒会室に寄り道した。現役員を拝み倒して見せて貰った推薦状の筆跡は、メリルがかつて入部届や退部届で見たキールのものとは異なっていた。
「やられましたわ…まさかこんな手段に訴えるとは…」
教室の自分の席に座り、メリルは小さく呟いた。すぐ傍に立つヴァッシュも困惑している。顔には出さないが、メリルを挟んでヴァッシュと反対の位置にいるウルフウッドも同様だった。
「やっぱりアイツの差し金かな」
「ええ、おそらく。あの二人は確か同じ部ですもの。一応ケビンさんに確認しますけど」
言いながら、メリルは自分を推薦したクラスメイトの席に目を向けた。予鈴が鳴るまであまり時間がないが、そこには誰もいない。
こんなことなら偽カップルを演じておくんでしたわ。我知らずため息が洩れた。後悔先に立たず、ということわざが重くのしかかる。
「ま、そんなに悩まんでもええんと違うか? 推薦されたっちうだけで、まだ決まった訳やあらへんのやし。明日わざとおかしなことやらかして落選したら」
「ストライフ家の恥になるようなことはできません!」
いつになく強い口調にヴァッシュは僅かに顔を曇らせた。練習初めでは普通に振る舞っていたが、やはり元旦には相当嫌な思いをしたのだろう。
「…推薦を辞退するとか、取り下げるとかできないのかな」
「候補者の選出を推薦のみにした由来を考えると、辞退は無理そうですわね。取り下げは…仮にできたとしても、申請できるのは推薦者でしょう」
となるとケビンの協力は不可欠だ。しかし、メリルに無断で推薦した彼が協力してくれるとは考えにくい。
「うーん…」
打つ手なし、か。三人は難しい表情で押し黙った。時間の余裕がほとんどないのが辛い。
「…とにかく、なるべく早くケビンさんと話をするようにします。対策を考えるのはそれからですわ」
結論が出るのを待っていたかのように予鈴が鳴り始めた。ヴァッシュとウルフウッドが自分の席に戻る。チャイムと同時に急ぎ足で教室に入ってきた話題の中心人物は、メリルのほうを見ようとしなかった。
メリルは授業の合間の短い休憩時間に何とかケビンと話をすべく努力したのだが、二度続けて失敗した。向こうも判っているらしく、授業が終わるとすぐに教室を出て姿をくらましてしまう。
メリルがケビンと話ができたのは四時間目の前だった。視聴覚室へと移動する僅かな間に声をかけたのだ。
「ケビンさん」
右隣から突然聞こえた自分を呼ぶ声に、男子高校生にしては小柄な体躯がびくりと震えた。慌てて逃げ道はないかと首を巡らせる。少し前を歩くヴァッシュが肩越しに振り向いた。左斜め後ろにはウルフウッドがいる。
「…お話ししたいことがありますの。少しお時間をいただけませんか?」
「い、今は時間がないから…放課後なら」
「…判りました」
小さく吐息しながらメリルは肯いた。対策を練る時間が更に少なくなってしまうが仕方がない。
「生徒指導室の窓の前で待ってる」
必要最小限のことだけ告げると、ケビンはヴァッシュの横をすり抜け走り去った。
一方的に指定された場所に三人は意表を突かれた。生徒指導室はL字型の建物の先端、体育館とは反対側の校舎の一階端にある。
同行する、というヴァッシュの申し出をメリルは断った。
「大丈夫ですわ。話を聞くだけですから」
大勢で行ったのではケビンさんも言いづらくなってしまうでしょうし。
クラスメイトに声をかけられマネージャーがそちらへと駆けていく。それを目で追いながら、ヴァッシュは眉根を寄せて何やら思案し始めた。
「…どないした?」
「…もしこれがキールの仕組んだことなら、放課後の話し合いもアイツが指示したことなんじゃないかな」
廊下を歩きながらヴァッシュは声をひそめて続けた。
「気になるんだ。話なら教室でもできるだろ? それなのに…。生徒指導室の場所は判るよね?」
ウルフウッドは無言のまま肯首した。
「昇降口から遠くて、校門からはもっと離れてる。それに、俺は入ったことがあるから知ってるんだけど、あの部屋の窓は一ヶ所しかないんだ。校舎の裏側、校庭とは反対側に」
一学期の終業式の記憶が脳裏に蘇る。薄暗い部屋で、担任と学年主任の前でモネヴ先輩達との顛末を説明させられた。
「…人目を避けるには絶好の場所っちう訳か」
「だからさ、――」

放課後、メリルは顧問に『部活に遅れる』とだけ話し、一人指定された場所に向かった。選挙の準備の為だと解釈されたようだが、敢えて訂正しなかった。あながち的外れでもない。
ケビンは既にそこに来ていた。
「…貴重な時間を割いていただいてありがとうございます」
軽く会釈して礼を言ったメリルを、驚きに見開かれた茶色の双眸が凝視した。最初から詰問されるのを覚悟していたのだ。
ゆっくり顔を上げると、メリルは正面に立つクラスメイトをまっすぐ見つめた。ヴァッシュやウルフウッドと立ち話をする時とは異なり、目線の高さはそれほど変わらなかった。
「どうして私を副会長に推薦したのか、教えていただけませんか?」
「あ、あの…それは…」
菫色に輝く瞳に何もかも見透かされそうな気がして、ケビンは目をそらせた。緊張と後ろめたさから言葉が出てこない。
メリルは何も言わずにじっと答えを待った。
「それは僕から説明しよう」
沈黙を破る神経に障る声。校舎の陰から姿を現したのはキールだった。
「ケビン君、後は僕が引き受けた」
命令するような口調でも内容でもない。しかし二人は察した。言外の意味が『とっとと消えろ』だと。
「…うん、判った。じゃ」
短く答えると、ケビンはメリルに向かって走り出した。すれ違いざま彼が口にしたのは謝罪の言葉。
「あ、待って」
慌てて後を追おうとしたメリルの前に、素早く回り込んだキールが立ちはだかった。咄嗟に踏みとどまって衝突するのは回避したが、両腕を掴まれ身動きが取れなくなる。
「は…離して下さい!」
何とか振りほどこうとするのだがびくともしない。性差と体格差は埋めようがなかった。
「…どうしてあいつが君を推薦したのか、知りたくないのかい?」
あなたが裏で糸を引いてるんでしょう?
 口まで出かかった台詞が発せられることはなかった。校舎の窓からヴァッシュが顔を出しすぐに引っ込めたのが見えたからだ。それもウインクというおまけ付きで。
自分達との距離を目算する。もし一人で対処しきれない事態に陥ったとしても、ヴァッシュの足なら三秒あればここまで来られる筈。
『なら…』
メリルはもがくのをやめた。それを諦めととったのか、キールが満足そうに薄く笑みを浮かべる。
「…お話を伺いますわ。ですから腕を離して下さいませんこと?」
しばし考えた後、キールは細い腕を解放した。メリルは一歩引いて距離を置き、正面の男をきっと睨んだ。
「先日部活中にケビンと選挙のことを話したんだ。ああ、彼とは同じ技術部でね」
技術部。主に金属を使っていろいろなものを作る。
やっぱりこの二人は同じ部でしたのね。頭の中で慌ただしく確認しつつ、メリルは不快感に眉をひそめた。
尊大なものの言い方。本人がいなくなった途端呼び捨てにする。キールがケビンを格下に見ていることは疑いようもない。
「僕を生徒会長に推薦しようという動きは元々あったんだ。『僕を補佐してくれる優秀な人材が欲しい』と言ったら、ケビンが『副会長にはメリルさんが相応しい』と言い出してね、一肌脱いでくれたんだよ。てっきり彼から話がいってると思ったんだが…」
もしそれが事実なら、ケビンはまず自分にその旨打診するだろう。クラスではあまり目立たない存在だが、少なくとも相手に無断で副会長に推薦するような非常識なことをする人ではないのは知っている。
ヴァッシュが窓から身を乗り出した。頭の上で大学ノートを開く。見開き一杯に一文字だけ『時』と書いてある。
大きな手が次々をページを繰る。続けて読むと『時間をかせいで』となった。
「…それであなたはその提案を受け入れたんですの?」
「勿論。僕を補佐できるのは君しかいない」
既に自分が当選しているかのような口ぶりにメリルは内心苦笑した。生徒会長候補は二人。結果は明日の投票次第だというのに。
そこまで考えて、急に背中を冷たいものが走った。もしこれが思いつきの行動でないとしたら、彼は二人とも当選するよう周到な準備をしたのではないか。
「生徒会長になったら、あなたは何をするつもりですの?」
キールは校則の改定や部の予算編成の改善案などを得々として語った。明日の予行練習を兼ねているのだろう、身振り手振りを交えて熱弁を振るっている。
『部の予算増を餌に票を取りまとめさせたんですのね』
 耳障りな声を適当に聞き流しながら、メリルは心の中だけで唸った。考えていたよりも事態は深刻だった。


二人が話している間もヴァッシュは度々顔を出した。状況を確認するようにメリルのほうをちらりと見た後、空を仰いではすぐに引っ込む。キールに気づかれては元も子もないからだ。
それは、彼が顔を出し始めて何度目のことだったか。
 上を向いたヴァッシュが何やら合図を送っている。行動する時が近づいたことを察知したメリルは、キールの声を遮ってこれまでとは全く違うことを尋ねた。
「どうしてタイミングよくこの場に現れたんですの?」
「ケビンが『君にうまく説明できないかも知れない』と洩らしていたのでね、必要ならいつでも交替できるよう傍にいたんだ」
 この質問を予測していたのだろう、答える声に淀みはない。だが、朗々とした声ではメリルを誤魔化すことはできなかった。
彼から話がいってると思った。ケビンが『君にうまく説明できないかも知れない』と洩らしていた。この二つの発言は明らかに矛盾する。第一ケビンはメリルを推薦した理由を一言も話していない。あの時点で交替する必要はなかったのだ。
ヴァッシュはメリルへ顔を向けると再びノートをめくった。『よけて』というメッセージを伝えた後、左手が人差し指を残して握られる。まっすぐ伸ばした指は上を指し示した。
「…それで、あなたは副会長に何を望むんですの?」
「いつも僕の傍にいて、僕を助ける。それだけだ」
メリルは額に手を置き、天を仰いで吐息した。さりげなく頭上を確認する。屋上から身を乗り出したウルフウッドが笑顔で左手を振っていた。右手の、近くのコンビニのものと思しき白いビニール袋は大きく膨らんでいる。
顔を正面に戻すと、メリルはまっすぐにキールを見つめた。
「なるほどですわ。これがあなたの『女性の拘束方法』という訳ですのね。短絡的かつ非道徳的な」
菫色の双眸に苛烈な光が宿った。
「程度低すぎですわ」
勝利を確信した者の余裕か、手厳しく非難されてもキールは暴力に訴えるようなことはしなかった。
「…ああ、そうかもな。だけど根回しタイムはもう終わりだ。結果は判ってる」
 二学期の半ばから見学と称して野球部以外の部を回り、それとなく内情を探った。そして、話に乗ってきそうな部の中心人物に密かに交渉し、部の予算アップを見返りに部員全員に自分とメリルに投票させる約束を取りつけたのだ。一・二年生のほぼ七割を丸め込んだ計算だった。
ヴァッシュは窓枠に背中を預けて上体を外に出すと、右手をウルフウッドに、左手をメリルに向けた。
「私が今から足掻いても無駄だ、とおっしゃりたいのでしょう?」
「フ……気付くのが遅いなぁ、君は。…選挙は明日だ。もう手後れだし時間もない」
ヴァッシュが両手の親指を折る。四――カウントダウンスタート。
『気づいてないのは自分じゃなくて』
唇を動かさず、メリルは口の中だけで呟いた。
三。メリルはさりげなく視線を落としさ迷わせた。何かを見つけたかのような表情でキールの靴を凝視する。
二。メリルの視線を追って、キールは自分の足元をきょろきょろと見回した。メリルは顔を上げる。
一。軽く膝を曲げて呼吸を止め、ヴァッシュの左手を見つめてその瞬間を待つ。
ゼロ。勢いよく後ろに数歩飛び退る。メリルの気配が遠ざかったことにキールが気づいた。
が、時既に遅し。その瞬間、緑色の液体を満たしたビニール袋が彼の頭を直撃した。
「なっ…だ、誰だ!!」
ずぶ濡れのキールは憤怒の表情で空を見上げ、周囲に視線を走らせた。勿論ヴァッシュもウルフウッドももういない。メリル以外、人影は全くなかった。
「あら大変ですこと。風が冷たいですし気温も低いですから、早く帰って着替えをなさるほうがよろしいんじゃありません?」
「…貴様ッ!!」
自分を睨みつける剣呑な瞳に動じることなく、メリルは静かに言葉を紡いだ。
「風邪でも引いたら一大事ですわよ。選挙は明日でしょう? 休んでも結果が変わらないのであれば話は別ですけど」
キールは両腕を震わせ必死に自分を押さえた。感情の捌け口はメリルしかいない。だが、今ここで問題を起こせば十中八九せっかくの苦労が水泡に帰す。それに犯人は彼女ではない。手ぶらのメリルが水の入った袋を投げるのは不可能だ。
明日休めないのも事実だ。候補者本人の演説なしに対立候補を押さえて当選したとあっては、不正行為があったと声を大にして言っているようなものだ。もし事実が発覚したら、最悪の場合退学になることも考えられる。
濡れた身体に北風がしみる。キールは派手にくしゃみをした後、無言のまま足早に去った。
足音が聞こえなくなってから更にしばらく待って、ヴァッシュは窓から顔を出した。メリルが急いで駆け寄る。
「大丈夫? かからなかった?」
「ええ、大丈夫ですわ。助けて下さってありがとうございました。でもどうしてこんな所にいらっしゃるんですの?」
「アイツが黒幕だっていうのは予測できてたから、ちょっと心配になってね。来て正解だった」
「ずいぶん派手なことをなさいましたわね。…ざまあ見ろ、ですけど」
汚い言葉を口にし、いたずらっ子のような表情でちらっと舌を出す。初めて見るマネージャーの子供っぽい仕草にヴァッシュは我知らず微笑みを浮かべた。
「ウルフウッドの案なんだ。よっぽど腹に据えかねたらしいよ」
噂をすれば影。屋上から戻ったウルフウッドがヴァッシュの横に並んだ。メリルが頭を下げ礼を言う。
「大丈夫か? かからへんかったか?」
ヴァッシュとメリルは同時に吹き出した。事情が判らず、ウルフウッドが眉をひそめ二人を交互に見やる。
「…ごめんなさい。ヴァッシュさんと同じことをウルフウッドさんがおっしゃったから…」
メリルの説明にウルフウッドは心底嫌そうな顔をした。横目で隣の男を睨む。同レベル扱いされるのは彼にとっては不本意だった。
ようやく笑いを収めると、ヴァッシュは口をへの字に曲げた男に先刻聞いた会話をかいつまんで話した。
「…性にあわんわ、そのやり口」
「どうする? 生徒会に届け出て選挙を中止して貰う?」
「私達三人が証言しても、あの人もケビンさんも、裏取り引きのあった部の人達も絶対否定しますわ。それを覆せる だけの証拠はありませんし。…まだ時間はあります。策を考えますわ」
重苦しくなった雰囲気を変えるべく、メリルは無意識のうちに刻まれていた眉間の皺を伸ばし明るい声で言った。
「それにしても見事な連係プレーでしたわね。前もって打ち合わせてらっしゃったんですの?」





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募る想い

プロローグ


十二月三十一日、午後一時六分。
ノックの音にドアを開けたウルフウッドは、来訪者の顔をしばらく眺めた後何も言わずに扉を閉めた。
「ちょっとキミ! これはないんじゃない!?」
先刻までのにこやかな笑顔もどこへやら、ヴァッシュは慌てて拳でドアを叩き始めた。
アパートの住人の大半が帰郷や旅行の為留守なのは知っていたが、必死に抗議する情けない声やノックにしては大きすぎる音が近所迷惑なことに変わりはない。一つため息をついてから、ウルフウッドは勢いよくドアを開けた。
「わっ!」
ヴァッシュは咄嗟に飛び退り、とんでもないスピードで自分に迫ってきた扉をかろうじて避けた。彼だからできたのであって、並みの人間なら間違いなく直撃を受け昏倒しただろう。
「チッ」
「何なのその舌打ちは!?」
「四日間だけオドレの阿呆面見んで済む思とったのに…最悪の大晦日や」
野球部の合宿が昨日終わり、年内の部活は全て終了した。年明けの練習は一月四日から始まることになっている。
「仕方ないでしょ!? 連絡しようにも、野球部の名簿にキミんちの電話番号載ってなかったんだから!」
「あらへん」
「…え?」
間の抜けた表情で問い返したヴァッシュを尻目に、ウルフウッドはこともなげに言った。
「電話はあらへん」
「…じゃ、家族に連絡する時はどうするの?」
「こっちからは公衆電話でかける。向こうからは大家さんにかけてくる」
これだけ携帯電話やPHSが普及している今、電話そのものがない人というのはかなり珍しいのではないか。ぽかんと口を開けたヴァッシュの頭を容赦ない一撃が襲った。
「痛い!」
「うっさいボケ! 用があるんやったら早よ言わんかい!」
殴られたところをさすりながら、ヴァッシュはむくれたような口調で言った。
「初詣に行きませんかって」
「…何やて?」
「初詣。熊野宮神社に」
身の危険を感じ、言い終えると同時に膝を曲げ身体を低くする。逆立てた金髪の先を固く握り締められた右手が掠めた。
「何が悲しゅうてオドレと初詣せなあかんのや!?」
「俺達だけじゃないってば!!」
今度はウルフウッドがぽかんと口を開けた。
「…昼前にミリィから電話を貰ったんだ。『先輩と初詣に行くんです、よかったら四人で行きませんか』って」
目の前の男が僅かに眉根を寄せたことに気づかず、ヴァッシュは続けた。
「去年は二人で行ったんだって。その時絡まれたんだけど、逃げるに逃げられなくて困ったって言ってた」
「…マネージャーとあの子やったら足速いやろ。何で逃げられへんかったんや?」
メリルの運動神経は体育の授業でよく知っている。ミリィは二年前、一年生でただ一人ソフトボール部のレギュラーになった。二人が逃げられないとはよほど相手が悪かったのか、それとも大勢いたのか。
「訊いてみたんだけど、『今日来ればわかります!』って教えてくれなかった。…で、どうする? 行く? 行かない?」
「…行く」
憮然とした表情と声にヴァッシュは思わず苦笑した。ウルフウッドのこめかみに血管が浮かぶ。
「な~んぞおかしなことでもあったんかい」
「いや別に! なんにもありません!」
念の為に一歩引いて距離をとってから、両手と首を大きく横に振ってみせる。一番の特技は喧嘩だと断言した男のパンチを二度も食らうのはご免だ。
人間台風にとって幸いなことに、それ以上の追求はなかった。
「それじゃ今夜十一時十五分、駅北口の改札前で」
触らぬウルフウッドに祟りなし。待ち合わせの時間と場所を告げると、ヴァッシュは片手を上げて挨拶しそそくさと立ち去った。


今年も残すところあと僅か。普段なら残業帰りのサラリーマンが家路を急ぐ時間帯、駅前にはかなりの人がたむろしていた。
その中に、ひときわ目を引く長身の男達が人待ち顔で立っていた。
「彼女が遅れるなんて珍しいな」
小柄なメリルは人込みに紛れやすい。辺りに目を配りながらヴァッシュは小さく呟いた。
「えらい人やなぁ。これ全部初詣に行くんかいな」
「熊野宮神社はこの辺りの土地神様だからね。けっこう混雑するって聞いた」
「せやかて十一時十五分待ち合わせっちうんは中途半端やで。聞き間違えたんとちゃうか?」
「そんなことないよ! 三回確認したんだから!」
ヴァッシュはむきになって否定した。
疑問を感じたのは彼も同じだった。駅から熊野宮神社までの所用時間は徒歩で約二十分。少し早すぎるように思えたのだ。が、ミリィは『十一時十五分です』ときっぱり言った。
「…そらそうと、なんでオドレのとこにあの子から電話がいくん?」
「番号知ってるからでしょ? 自分で伝えようにもミリィはキミの家も電話番号も知らないし…電話はなかったんだけど…忙しいメリルにメッセンジャーなんてさせたくなかったんじゃないかな」
答えになっていない答え。ウルフウッドの小さなため息は白く煙り、すぐに消えた。
少し前に到着した電車がゆっくりと動き出した。その電車から降りてきた人達が次々と改札を抜ける。
周囲から頭一つ高い金髪を見つけて、ヴァッシュは右手を上げて合図した。
「遅れてすみません! …あれ? 先輩もまだなんですか?」
ミリィは謝りながらぴょこんと頭を下げ、それから不思議そうにきょろきょろと辺りを見回した。約束の時間を五分ほど過ぎている。
「一緒に来るんじゃなかったんだ」
「はい。去年もここで待ち合わせたんです」
答えながら身体を駅のほうへ向ける。人影もまばらになった構内を、目にも鮮やかな振袖姿の女が改札目指して小走りに駆けてくるのが見えた。
「せんぱーい!!」
ぶんぶんと手を振るミリィに、メリルは走りながら長い袖を左手で押さえ右手を軽く上げて応えた。三人の前に立ち、軽く息を弾ませたまま深々と一礼する。金色の髪飾りが街灯の光を反射してきらりと輝いた。
「ごめんなさい、遅くなって」
「大丈夫です先輩、あたしもさっき着いたばっかりですから! おんなじ電車だったんですねぇ」
トライガン学園のバッテリーは言葉を失っていた。マネージャーが和服で来るとは思っていなかったのだ。
「やっぱり先輩は今年も着物でしたね! 驚かせたくてナイショにしてたんです。ヴァッシュさん、ウルフウッドさん、びっくりしました?」
「…驚いたわ、ホンマ…」
「喉から手が出るほどですか?」
「それを言うなら口から心臓ですわ」
漫才めいた天然ボケとツッコミにひとしきり笑ってから、ウルフウッドはまじまじとメリルを見た。
「…けど、正月らしゅうてええな。成人式の予行練習なんか?」
「ちがいますわよ!!」
大半は医者なので全員という訳にはいかないが、毎年元旦に親族がメリルの祖父母の家に集まり、年始の挨拶と新年会をするのが習わしなのだ。メリルが振袖を着ているのは初詣の為ではなく、この後祖父母の家を訪ねるからである。
「…ですから、お参りが済んだらすぐに失礼しますわ」
 初詣を終えたら即、メリルは両親と出発しなければならない。着替える時間は皆無だ。大勢の人でごった返す中を振袖で歩くのは少々不安が残るが、背に腹はかえられない。
「正月早々忙しいんやな」
「去年も一昨年も大急ぎで帰りましたよね」
「ごめんなさい、いつもゆっくりできなくて。でも今年は駅前まで迎えにきて貰えることになりましたの。多少は時間にゆとりができましたわ」
「じゃ、おみくじひきましょうね!」
三人の会話がはずむようになってもヴァッシュは呆然と突っ立っていた。メリルに見とれていたのだ。きちんと化粧した顔はいつもより華やかで、決して着物に負けていない。初めて見るあでやかな姿に目が釘付けになっていた。
「…何や、ずっと黙りこくって」
肘で軽く小突かれて、ようやくヴァッシュは我に返った。といっても完全にではなく半分程度だったようで、呟くような声はどこか上の空だった。
「綺麗だ…」
メリルは目を丸くした後かすかに頬を染めて俯き、ミリィは嬉しそうににぱっと笑い、ウルフウッドは皮肉な笑みを薄く口元に刻んだ。
「着物がか?」
「!」
その一言に遅まきながら意識がはっきりする。
本心を押し隠して肯定すれば彼女に失礼だ。かといって否定すれば、『何が綺麗なんや?』と厳しく追及された上それをネタに当分の間からかわれる。
ヴァッシュは口をパクパクさせながらピコピコ暴れた。何を言えばいいのか、どうしたらいいのか判らない。
 盛大にうろたえている人間台風に助け船を出したのはメリルだった。俯いて自分の着物に目を落とす。
「母から譲り受けたものですの。染めも刺繍も凝っていて、本当に綺麗ですわね」
まだ言葉が出てこない。首を縦に振るのが精一杯だった。
「制服とジャージとズボン姿しか見たことがないマネージャーがいきなり和服で登場すれば驚くのも当然だとは思いますけど、まあ特大の日本人形のようなものだと思っていただければ。…そろそろ慣れて下さいました?」
菫色の双眸に見上げられて、落ち着きかけていた心拍数が再び跳ね上がる。
「はい! はい!」
まるで拳法のかけ声ですわね。信憑性に乏しい返事にメリルは苦笑いを浮かべた。
「ほなそろそろ行こか」


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今年も残すところあと僅か。普段なら残業帰りのサラリーマンが家路を急ぐ時間帯、駅前にはかなりの人がたむろしていた。
その中に、ひときわ目を引く長身の男達が人待ち顔で立っていた。
「彼女が遅れるなんて珍しいな」
小柄なメリルは人込みに紛れやすい。辺りに目を配りながらヴァッシュは小さく呟いた。
「えらい人やなぁ。これ全部初詣に行くんかいな」
「熊野宮神社はこの辺りの土地神様だからね。けっこう混雑するって聞いた」
「せやかて十一時十五分待ち合わせっちうんは中途半端やで。聞き間違えたんとちゃうか?」
「そんなことないよ! 三回確認したんだから!」
ヴァッシュはむきになって否定した。
疑問を感じたのは彼も同じだった。駅から熊野宮神社までの所用時間は徒歩で約二十分。少し早すぎるように思えたのだ。が、ミリィは『十一時十五分です』ときっぱり言った。
「…そらそうと、なんでオドレのとこにあの子から電話がいくん?」
「番号知ってるからでしょ? 自分で伝えようにもミリィはキミの家も電話番号も知らないし…電話はなかったんだけど…忙しいメリルにメッセンジャーなんてさせたくなかったんじゃないかな」
答えになっていない答え。ウルフウッドの小さなため息は白く煙り、すぐに消えた。
少し前に到着した電車がゆっくりと動き出した。その電車から降りてきた人達が次々と改札を抜ける。
周囲から頭一つ高い金髪を見つけて、ヴァッシュは右手を上げて合図した。
「遅れてすみません! …あれ? 先輩もまだなんですか?」
ミリィは謝りながらぴょこんと頭を下げ、それから不思議そうにきょろきょろと辺りを見回した。約束の時間を五分ほど過ぎている。
「一緒に来るんじゃなかったんだ」
「はい。去年もここで待ち合わせたんです」
答えながら身体を駅のほうへ向ける。人影もまばらになった構内を、目にも鮮やかな振袖姿の女が改札目指して小走りに駆けてくるのが見えた。
「せんぱーい!!」
ぶんぶんと手を振るミリィに、メリルは走りながら長い袖を左手で押さえ右手を軽く上げて応えた。三人の前に立ち、軽く息を弾ませたまま深々と一礼する。金色の髪飾りが街灯の光を反射してきらりと輝いた。
「ごめんなさい、遅くなって」
「大丈夫です先輩、あたしもさっき着いたばっかりですから! おんなじ電車だったんですねぇ」
トライガン学園のバッテリーは言葉を失っていた。マネージャーが和服で来るとは思っていなかったのだ。
「やっぱり先輩は今年も着物でしたね! 驚かせたくてナイショにしてたんです。ヴァッシュさん、ウルフウッドさん、びっくりしました?」
「…驚いたわ、ホンマ…」
「喉から手が出るほどですか?」
「それを言うなら口から心臓ですわ」
漫才めいた天然ボケとツッコミにひとしきり笑ってから、ウルフウッドはまじまじとメリルを見た。
「…けど、正月らしゅうてええな。成人式の予行練習なんか?」
「ちがいますわよ!!」
大半は医者なので全員という訳にはいかないが、毎年元旦に親族がメリルの祖父母の家に集まり、年始の挨拶と新年会をするのが習わしなのだ。メリルが振袖を着ているのは初詣の為ではなく、この後祖父母の家を訪ねるからである。
「…ですから、お参りが済んだらすぐに失礼しますわ」
 初詣を終えたら即、メリルは両親と出発しなければならない。着替える時間は皆無だ。大勢の人でごった返す中を振袖で歩くのは少々不安が残るが、背に腹はかえられない。
「正月早々忙しいんやな」
「去年も一昨年も大急ぎで帰りましたよね」
「ごめんなさい、いつもゆっくりできなくて。でも今年は駅前まで迎えにきて貰えることになりましたの。多少は時間にゆとりができましたわ」
「じゃ、おみくじひきましょうね!」
三人の会話がはずむようになってもヴァッシュは呆然と突っ立っていた。メリルに見とれていたのだ。きちんと化粧した顔はいつもより華やかで、決して着物に負けていない。初めて見るあでやかな姿に目が釘付けになっていた。
「…何や、ずっと黙りこくって」
肘で軽く小突かれて、ようやくヴァッシュは我に返った。といっても完全にではなく半分程度だったようで、呟くような声はどこか上の空だった。
「綺麗だ…」
メリルは目を丸くした後かすかに頬を染めて俯き、ミリィは嬉しそうににぱっと笑い、ウルフウッドは皮肉な笑みを薄く口元に刻んだ。
「着物がか?」
「!」
その一言に遅まきながら意識がはっきりする。
本心を押し隠して肯定すれば彼女に失礼だ。かといって否定すれば、『何が綺麗なんや?』と厳しく追及された上それをネタに当分の間からかわれる。
ヴァッシュは口をパクパクさせながらピコピコ暴れた。何を言えばいいのか、どうしたらいいのか判らない。
 盛大にうろたえている人間台風に助け船を出したのはメリルだった。俯いて自分の着物に目を落とす。
「母から譲り受けたものですの。染めも刺繍も凝っていて、本当に綺麗ですわね」
まだ言葉が出てこない。首を縦に振るのが精一杯だった。
「制服とジャージとズボン姿しか見たことがないマネージャーがいきなり和服で登場すれば驚くのも当然だとは思いますけど、まあ特大の日本人形のようなものだと思っていただければ。…そろそろ慣れて下さいました?」
菫色の双眸に見上げられて、落ち着きかけていた心拍数が再び跳ね上がる。
「はい! はい!」
まるで拳法のかけ声ですわね。信憑性に乏しい返事にメリルは苦笑いを浮かべた。
「ほなそろそろ行こか」


歩幅は狭く、内股気味に、しずしずと足を進める。当然のことながらいつもの速さで歩くことなどできない。三人もメリルのペースに合わせてゆっくり歩いた。
 時折先を急ぐ人が四人の間をすり抜けていくのだが、大半がメリルに――正確には彼女の帯にぶつかった。その度に小柄な身体がよろめく。
メリルの左隣をミリィが、その横をウルフウッドが歩いている。ヴァッシュはわざと半歩遅れてメリルの右斜め後ろを歩くようにした。
 左腕を自然に垂らし、後ろから人が近づくとメリルを庇うように横に伸ばす。大抵はいきなり目の前に現れた腕に驚いて足を止めるので、衝突は避けられるようになった。
「どないしたトンガリ。並んで歩ったらええやん」
「でもほら、四人も並んで歩いたら社会の迷惑でしょ?」
「そらまあオドレは図体でかいしな」
「人のこと言える!?」
ようやく山道に入った。舗装されていない急な坂を登るのは、ジーンズにスニーカーの三人はともかく草履のメリルにとって大変なことだ。どうしてもこれまで以上にペースを落とさざるを得ない。
『十一時十五分待ち合わせにしたのはこの為か』
ミリィとウルフウッドが先頭で、その後ろにメリル、しんがりにヴァッシュという順で並んだ。すぐ横をたくさんの人が追い越してゆく。
「ごめんなさい、私のせいで遅くなってしまって」
「かまへんて。別に競争しとる訳やあらへんのやし」
熊野宮神社の長い階段は人が溢れていて、のろのろ進むのがやっとだった。
階段の中ほどで四人は新年を迎えた。
「明けましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします」
「ま、ひとつよろしゅう」
「いえいえこちらこそよろしくです」
互いに挨拶を交わして、いつになく改まった雰囲気に苦笑する。
ようやく賽銭箱の前にたどり着いた四人は、神妙な表情で神様に願い事をした。誰もが無言の中、ミリィだけは願い事を小声で呟いていた。
「志望校に受かりますように。家族みんなが健康でありますように。ガトーミルフィーユとセイロンティーがおいしいお店に巡り会えますように。それから…」
 つつがなく初詣を済ませると、ミリィはメリルの手を引きお守りやおみくじを扱う一角を目指して走り出した。
「先輩、あそこです!」
「ちょ、ちょっとミリィ」
このままではメリルが転んでしまう。ヴァッシュは慌ててミリィの肩を掴んで引き止めた。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ。おみくじは逃げたりしないから」
「あ…はい、すみません」
先輩が走れないことを思い出し、ミリィは素直に謝った。
「あたッ!」
人の波を縫うようにして歩き始めてすぐ、ヴァッシュは後頭部に感じた衝撃に思わず声を上げた。ウルフウッドに殴られたのだ。
「何でぶつのさ!?」
「蚊が止まっとった」
 本音は言えなかった。その子に気安く触るんやない、と。
「真冬にいる訳ないでしょ!?」
頭をさすりながらぶつぶつ文句を言っている人間台風を無視して、ウルフウッドは何事もなかったかのように足を進めた。



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「やったあ! 先輩ほら見て下さい! 大吉です!」
嬉しそうに声を上げ、ミリィはメリルに自分のおみくじを見せた。
「よかったですわね。…あら、『進学:平常心を失わず信神努力せよ 入学出来る』ですって。受験勉強にも力が 入りますわね」
「あうっ…ヴァ、ヴァッシュさんとウルフウッドさんはどうでした?」
哀しきかな灰色の受験生。ミリィは小さく呻くと、トライガン学園野球部のバッテリーに問いかけた。
「ワイは中吉や」
「僕も中吉。『苦あれば楽あり』だって。波瀾万丈の一年ってことなのかな」
「先輩はどうでした?」
自分のおみくじを読む前に三人の分を見ていたメリルは、慌てて折り畳まれた紙片を開いた。
「…凶」
僅かに表情を曇らせメリルは答えた。八つの瞳が小さな手に集中する。
「『家庭:争い事多し 恨まず嘆かず和やかに過ごしなさい』やて」
「『病気:無理は禁物 己を過信するべからず』…先輩、気をつけて下さいね」
「で、でもそんなに悪いことばっかりじゃないよ。ほら、『失物:遅くなって出る』だって」
「そんなにむきにならなくても大丈夫ですわ。鵜呑みにして落ち込んだりしませんから」
メリルはくすくす笑いながら、必死にフォローするヴァッシュを安心させるように言った。
「一応結んできますね」
ああは言ったものの、信心深い祖父母の影響か多少は気になる。メリルは一人鳥居の近くにある大きな木に歩み寄った。既にたくさんのおみくじが飾りのように結びつけられている。
低い枝はあらかた白い紙に埋め尽くされていた。草履で背伸びをして手を差し伸べても、メリルの身長では空いているところに届かない。
不意に高い位置の枝がしなって、メリルの頭の近くまできた。驚いて辺りを見回す。枝を掴んだヴァッシュが自分のすぐ横に立っていた。
「はい、どうぞ」
「あ…ありがとうございます」
メリルがおみくじをしっかり結ぶのを待って、ヴァッシュはそっと手を離した。木の葉がざわめく音と共に枝は元の位置に戻った。
「わざわざこの為に来て下さったんですの?」
お守りを物色しているミリィ達のほうへ歩きながら、メリルは隣の男を見上げた。
「いや…去年絡まれて大変だったって話を聞いてたから。男が傍にいたほうが安全でしょ? その恰好じゃ満足に走れないだろうし。…そう言えば、去年はどうやって逃げたの?」
「ミリィのお陰ですわ」
お参りを済ませて階段を下りる途中で、メリルとミリィは大学生風の二人組の男に声をかけられた。ナンパらしいがつきあうつもりも時間もない。
しばらく無視していたがしつこく話しかけてくる。逃げようにも、人が多すぎるのとメリルが草履履きなので全力疾走できない。
どうしたものかとメリルが思案し始めた時、ミリィが口を開いた。
『わかりました! あたしと勝負して下さい! あたしが負けたらつきあいます!』
駅前まで移動してから勝負となった。種目は腕相撲。
「結果はミリィの圧勝でした」
いい気分の酔っ払いに『女の子に負けるなんて情けねえぞ!』『それでも男か!』などとやじられ、男達はすぐに姿を消した。
「私一人では対応に困ったと思いますの。あの時は本当に助かりましたわ」
ヴァッシュは心の中でその二人組に同情した。声をかけたくなる気持ちは判る。でも、彼女達は可愛いだけの女の子ではないのだ。
幸い去年は何事もなく済んだが、今後悪どい連中に遭遇しないとも限らない。思い起こせばメリルはこれまでも何度も危ない目に遭っている。
『やっぱり目が離せないな』
できるだけ傍にいよう。ヴァッシュは密かに決意を固めた。


「ずいぶん買い込んだね」
階段を下りながら、ヴァッシュはたくさんのお守りで膨らんだ紙袋を抱えたミリィに率直な感想を述べた。
「はい! あげたい人がたくさんいるんです!」
ミリィの笑顔にウルフウッドの胸中は複雑なものになった。その中に彼女の言う『大っ好きな先輩』の分が含まれているのかも知れないのだ。恋愛成就のお守りがなかったのがせめてもの救いだった。
「自分の分は買いましたの?」
「…忘れてました。…でもでも、大吉のおみくじがありますから大丈夫です!」
引き返そうと提案される前にミリィは言った。先輩に時間の余裕がないことは判っている。自分の為に迷惑をかけたくない。
「でも」
「メリルさん!」
聞き覚えのある、しかしお近づきになりたくない男の声。メリルは口をつぐみヴァッシュの顔は微妙に引きつった。
それとなく視線を巡らせる。階段を上る人達の中にキールがいた。
ヴァッシュはメリルに、休み明けの練習メニューについて矢継ぎ早に質問した。会話に夢中で気がつかなかったことにしようと考えたのだ。幸い辺りは大勢の人の声でざわついていて不自然な話ではない。
ことさら声を大きくした男の意図をすぐに察し、メリルはひとつひとつ丁寧に説明していった。
「メリルさん! メリルさぁん!」
懸命に名を呼ぶ姿が気の毒に思えたが、ここで甘い顔を見せれば増長するのは目に見えている。二人はひたすら無視し続けた。
「せんぱ」
メリルに声をかけようとしたミリィを止めたのはウルフウッドだった。
 理由は知らないが、何かと口実を設けてわざわざ自分達のクラスにやってくるあの男をマネージャーが避けているのは転入してすぐに判った。あの男が声をかける前にヴァッシュがメリルに話しかけ、それとなくガードしているのを何度も見たことがある。
『恋のさやあてっちう奴か…?』
他人のことに首を突っ込む気は毛頭ない。ウルフウッドはずっと見て見ぬふりをしていた。
キールとすれ違い、彼の声が届かないほど距離が開いてから、ヴァッシュとメリルは揃ってため息をついた。
「先輩、よかったんですか? 先輩のこと必死に呼んでましたけど」
「いいのよミリィ…ちょっと訳ありなの」
「何ぞあったんか?」
げんなりといった表情のメリルに代わってヴァッシュが口を開いた。
「一時期野球部にいた奴なんだ。名前はキール・バルドウ。夏合宿の時マネージャーに惚れたらしくて、顔を合わせる度に『僕は君が好きだ! 僕と付き合って欲しい!!』って凄かったんだから。いっくらマネージャーが断ってもつきまとうし、迷惑だよね」
「いい加減諦めて下さるといいんですけど…」
再び吐息したメリルとは対照的にミリィは拳を固めて憤慨した。
「それじゃまるでストーカーじゃないですか! 大丈夫ですか!? 出かけると後尾けられるとか、イタズラ電話とか、家に変なもの送りつけられるとか、中傷ビラまかれたりとか」
「大丈夫ですわ。そんな悪質なものではありませんから」
「いっそ誰かとつきおうたことにすればアイツも諦めるんとちゃう?」
「え!?」
当事者以上に素っ頓狂な声を上げたのは人間台風だった。
「ナイスアイディアです、ウルフウッドさん! ぜひお願いします!」
「ええっ!?」
ヴァッシュは絶叫して周囲の冷たい視線の的となり、何度も頭を下げて謝罪した。メリルは呆然と目を見開き、ウルフウッドは大きくよろめいて、共にそのまま硬直する。
「…ど…どうしてそういう人選になるんですの?」
問いかける声は僅かに上ずっていた。
もし本当に実践するなら、キールが諦めるまで仲睦まじいところを見せつけなければならない。しかしウルフウッドが公衆の面前で異性と仲良くするところなど想像すら不可能だった。勿論自分も同様である。
「言いだしっぺがやるのは当然ですよね!」
「いや、その、ワイは」
「これで先輩も安心です!」
「…」
無邪気に喜んでいるミリィに『冗談でした』とはとても言えない。
「や、でも、やっぱり…そ、そういうことをふりでするのはよくないんじゃ」
「よかったあ、これで鼻を高くして眠れます!」
『それを言うなら枕を高くして』と訂正する気力のある者はいなかった。
小さく咳払いをして気を取り直すと、メリルは明るい笑顔の後輩に微笑みかけた。
「…素敵なアイディアですわね。でも、それは最後の手段にしますわ。ヴァッシュさんには普段からさっきのように助けていただいてますし、これからはウルフウッドさんも協力して下さるでしょうから」
ウルフウッドはぶんぶんと音を立てそうなくらい勢いよく何度も肯いてみせた。
「心配かけてごめんなさい。ありがとう、ミリィ」
「いえそんな…でも、何かあったら絶っ対教えて下さいね」
「ええ」
受験生の後輩に余計な心配をさせたくない。肯首しながらメリルは正反対の決意をしていた。






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キール・バルドウ対策を話し合いながら歩いていると、ようやく駅の明かりが見えてきた。
 バス停の少し手前に停まっている大型車にヴァッシュは見覚えがあった。気づいたメリルが足を速める。
「お父様、お母様」
運転席にメリルの父が、その後ろに和服姿の中年の女がいた。髪の色は違うが、整った顔立ちは親子だけあってく似ている。
「早くなさいメリル。皆さんをお迎えしなければならないんですから、遅れる訳にはいきませんのよ」
叱責するような高い声が四人の耳朶を打った。バッテリーは自分が感じた印象を確認するようにそっと目配せし、ミリィの身体は緊張に強張った。
娘と同じ色の瞳がメリルの背後の三人に向けられる。目が合った刹那、ヴァッシュはしゃちほこばって深々と一礼した。
「あ、あの、はじめまして。ヴァッシュ・ザ・スタンピードといいます。マネージャーにはいつもお世話になってます」
自分を見つめる瞳に僅かに宿る非好意的な光。ヴァッシュはちくちくするような痛みを感じた。
「こちらこそ、娘が大変お世話になっております。…私達、とても急いでおりますの。申し訳ありませんけどこれで失礼させていただきますわ」
返事にはそつがなかった。が、いかにも儀礼的で暖かみに乏しかった。
「それじゃ皆さん、私はここで。ゆっくりできなくてごめんなさい」
軽く頭を下げて短く挨拶すると、メリルは助手席に乗り込んだ。
「…なんちうか…きっついオバちゃんやったな」
言葉を返す間もなく走り出した車が見えなくなってから、ウルフウッドはぼそりと呟いた。
ヴァッシュも全く同感だった。何か失礼なことをしたかと自分の言動を振り返ってみる。
「…やっぱり『ヴァッシュ・ザ・スタンピードと申します』って言ったほうがよかったかなぁ」
「たぶん、そうゆう問題じゃないです」
ミリィは顔を曇らせるとため息をついた。
「ヴァッシュさん、先輩のことマネージャーって呼びましたよね。それが気に入らなかったんだと思います。…先輩のお母さん、部活みたいな勉強に関係ないことは無駄だって考えてるみたいなんです。うちの中学は部活は必須なんですけど、もし自由参加だったらどんな部でも入部させなかったんじゃないかって思うんですよね」
ヴァッシュは夏合宿の時にメリルから聞いた話を思い出した。野球部への入部を母親に猛反対された、と。
「あの人の前に立つと緊張しちゃうっていうか、ちょっと恐いっていうか…あ、あの、嫌いだってことじゃないんです! 先輩のお母さんだし、病院を大きくしたのはあの人の手腕だって言われてて、すごい人なんだなって思うんです。けど、その…」
「判るよ。何となく苦手なんでしょ? …実は僕もそう感じた」
「ま、あんま会いたいとは思わんな」
「…何だ、みんなおんなじだったんですね」
三人は顔を見合わせて笑った。
軽く何か食べよう、という話になった。ファーストフードの店を目指して歩きながら、ヴァッシュは小さく吐息した。
『大丈夫かな…』
高校受験に失敗した時にはずいぶんいろいろ言われたらしい。一族の恥さらし、なんて心を抉るような言葉もあったという。
また酷いこと言われたりしないといいけど…。
何もできない自分をもどかしく思いながら、ヴァッシュは祈るような気持ちで満天の星を仰いだ。


三が日が過ぎ、今年初の練習に部員全員が顔を揃えた。
「今日からビシバシいくぞ。まあ勘が鈍るほど休みはなかったし、大丈夫だな」
新年の挨拶を省略した顧問の言葉はなかなか厳しい。
「怪我には注意するように。ではウォーミングアップ始め!」
ギリアムの声にめいめいがストレッチを始める。両手を組んで手のひらを上に向け、そのまま伸びをして背筋を伸ばしながら、ヴァッシュはそれとなくメリルのほうを見た。
彼女の様子に変わったところはない。校庭の一角でファイルを手に顧問と話をしている表情もいつもと同じだ。
『よかった…』
ヴァッシュは密かに胸をなで下ろした。
新学期が始まった。ヴァッシュは久しぶりに顔を合わせたクラスメイトと他愛のないことを話しては爆笑した。
 始業式の翌日、休みボケしている生徒達に活を入れる為か、国語・数学・英語の抜き打ちテストが行なわれた。
「やられた…」
机に突っ伏し、ヴァッシュは情けない表情で呻いた。冬休みの宿題がほとんど出なかったのをいいことに、ここ数日ろくに勉強していなかった。数学と英語はともかく、国語は答案返却日が恐い。
四時間目のホームルームで担任が何やら話をしていたが、その内容はヴァッシュの耳を見事に素通りした。
「へあ――あ」
ホームルーム終了を告げるチャイムと同時に、ヴァッシュは再び机に倒れ込み深く息を吐いた。鞄を手に教室を出ていくクラスメイトの声に手だけ挙げて応える。
 今日の授業は午前中だけ。早く食事を済ませて部活に行かなければならないのだが、ショックが大きすぎて空腹も感じない。
「ヴァッシュさん」
近づいてきた人に名前を呼ばれ、顔だけ上げて弱々しく微笑む。声の主は成績の心配とは無縁だ。
「まいったよ。前もって判ってれば少しは勉強したんだけどね」
「…思わしくなかったんですの?」
「漢文の問題があんなに出るなんて…マネージャーの脳みそ少し分けて欲しいよ」
常日頃の努力の差なのだから羨むこと自体筋違いな話なのは判っているが、つい詮無いことを言ってしまう。
テストの話はタブーですわね。そう判断したメリルは唐突に話題を変えた。
「お昼はどうなさいます?」
「食欲ないよ。…もし赤点だったらどうしよう。母さんとレム、二人がかりでお説教だ…」
ヴァッシュの母は子供の前で涙を見せたのはただ一度きりという気丈な人で、それだけに怒ると恐い。レムはその気になれば歯に衣着せずいくらでもきついことを言える。
「恐ろしい…よく考えたら恐ろしい話だなオイ!! どうすんだ、シャレにならん!!」
ぶつぶつ呟くヴァッシュの顔を大量の冷や汗が伝う。心なしか顔色も悪くなっていくようだ。
 メリルは自分の世界に入り込みつつあるピッチャーを呼び戻すべく再度話しかけた。
「あ、あの、トライガン学園の生徒会役員選挙って変わってますのね。こういう方法、初めて聞きましたわ」
「へ?」
「…ホームルームの時間寝てらしたんですの?」
「起きてたよ。覚えてないだけ」
とんでもない答えにメリルは思わず吹き出した。声を上げて笑うマネージャーの姿に、ヴァッシュも何とか気を取り直して起き上がった。
一緒に昼食を摂りながら、メリルはホームルームでの話をヴァッシュに説明した。
トライガン学園の生徒会は生徒の自主的な組織の中では最大の権限を持つ。部を総括して予算の配分を行ない、各種行事では運営委員会の更に上の存在として活動する。それだけに仕事は多岐にわたり、その責任は重い。
歴代の生徒会役員候補者に立候補した者はいない。全て他者による推薦である。創立当初、激務といっても過言ではない役員の仕事をこなすに相応しい人を選ぶ為に敢えてこのような方法をとったのが、そのまま伝統として残っているのだ。
「…推薦期間は今日から一週間。〆切翌日に候補者の発表があって、次の日に選挙が実施されるそうです」
会長と副会長は各一名、書記・会計・会計監査は各二名選出する。投票するのは一・二年生だけ。二ヶ月後に卒業する三年生は選挙に参加できない。自分の学園生活の要を委ねる人を自ら選べ、ということだ。
「ふーん…でもそれでうまくいくのかなあ」
ヴァッシュは首をかしげた。やりたくないのに押しつけられた人だっていた筈だ。
「後で先輩に訊いてみましょう」
放課後、部活を終え帰ろうとしているギリアムを引き止める。何故か残っていたウルフウッドも交え、三人を代表してヴァッシュが尋ねた。
「推薦っていっても、初めの頃はいざ知らず今じゃ有名無実だな。やりたい奴が友達に頼んで自分を推薦して貰う。実質立候補と同じさ」
「ああ、なるほど」
ヴァッシュはようやく納得した。それならやる気のある人が集まるだろう。
「演説も一人につき二種類やるんだ。候補者本人と推薦した奴の応援演説。候補者が多いと選挙も時間がかかって大変らしい。去年は必要な人数と候補者が同じで信任投票みたいなもんだったが、今年はどうなるかな」
この時点では、その場にいる全員にとって生徒会役員選挙は対岸の火事だった。




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vp9


夕食の前に全員自分の荷物を調べたが、財布や貴重品等がなくなっていた者はいなかった。老夫婦の持ち物も同様である。手分けして民宿中の窓を調べたが、壊されたりこじ開けられた形跡のあるものはなかった。勿論全て施錠されている。
盗んだのが鍋の中身だけというのは解せない。メリルが見たという人影も含めて、マネージャーの勘違いではないか、という意見が大勢を占めた。
「昨日のことも、猫か何かの仕業かも知れんな」
小声でそう言ってメリルの肩を軽く叩くと、顧問は自分の席についた。メリルも反論しなかった。
どことなく落ち着かない雰囲気の中で食事が始まった。
味噌煮込みうどんの汁を一口飲むと、ウルフウッドは自分の目の前に置かれていた七味唐辛子に手を伸ばした。
ざかざかと音がする度にうどんが赤くなってゆく。食堂にいたほぼ全員の視線がそこに集中した。
「お、おいウルフウッド…入れ過ぎじゃないのか?」
たまたま隣に座っていた副主将の問いかけに、ウルフウッドは普段と変わらぬ口調で短く答えた。
「ワイ、辛党ですねん」
真っ赤になったうどんを平然とすすっている姿を横目で見ながら、メリルは小さくため息をついた。
朝食の後『辛いモンが食いたい』とリクエストされ、教わったばかりの麻婆豆腐を作った。それでも昼食の後で『辛さが足りひん』と言われたので、老人に頼んで七味唐辛子を買ってきて貰ったのだ。
テーブルに戻された瓶の残りを確認して、メリルは再び吐息した。
『お特用…いえ、業務用を買っておいたほうがよかったかしら』
明日以降の献立をどうするか…。合宿終了まであと七食、頭の痛い問題だった。
夕食と入浴が済むと、部員は部屋に戻って思い思いのことをして過ごした。だが、その中にバッテリーの姿はなかった。
ヴァッシュはいつものように裏庭で素振りをしていた。
背後から近づく気配を感じて、振り向きざまに身構える。バットは手ごろな武器と化した。
「ちょい待ち。ワイや」
「ウルフウッド…昨日の話、思い出したのかい?」
ゆっくりと息を吐き、全身の緊張を緩める。
「ちゃうちゃう。話したいんは謎の事件のことや。…マネージャーが見たっちう人影、どう思う?」
「どうって…幻を見たんじゃないかって言ったのはキミだろ?」
「まあ、それだけやったら見間違いで片づけるんやけど…実はな、昨日晩メシ用のおでんを台無しにされたんやと」
風呂から上がると、ウルフウッドは老婦人をつかまえカマをかけた。
『マネージャーから聞いたんやけど、昨日は何や大変やったそうで』
老婦人は野球部の新顔を疑うこともなく、おでんを煮ていた鍋がひっくり返されていたのを二人で見つけたこと、大急ぎで親子丼を作ったことを話した。
「ワイらが戻るちっと前に気がついたそうや。それにオドレの服、まだ見つかってへんのやろ?」
「ああ。昨日も今日も風はそんなに強くないから、見つからないほど遠くまで飛ばされたってことはないと思うんだけど…」
答えてから、ヴァッシュはやっぱり聞いてたんだ、と呟いてため息をついた。
「主将は嫌がらせじゃないかって考えてる」
「野球部にか?」
「判らない。僕個人にかも知れないし」
「恨まれる心当たり、あるんか?」
五年ほど前の辛い記憶の断片が蘇り、ヴァッシュは思わず顔をしかめた。もしあの時と同じ理由でのことなら…いや、それにしてはやり方が回りくどい。もしそうなら直接自分を狙う筈だ。それに何故今なのか。
「…マネージャーに対する嫌がらせ、っちうことも考えられるか…」
ヴァッシュの思考はウルフウッドの独り言に遮られた。
「え?」
「オドレの服のことはちと置いといて、二日連続で料理に手ぇ出す、今日は一人でおるところを脅かす…一番迷惑被ったんはマネージャーやろ」
「…!!」
メリルを狙いそうな奴等ならいる。嫌がらせは夏にフィルムを駄目にされた報復か。
今彼女がいるであろう場所に思い至って、ヴァッシュの顔が強張った。
「ウルフウッド、一緒に来てくれ!」
二人は足音を忍ばせて建物に沿って移動した。目指すは建物の南西の角にある風呂場だ。
壁に身を寄せてそっと顔を出す。窓の近くに人影が四つ。手に持っているのは値段も性能も高そうなカメラだ。
「あいつら…」
低い呟きに怒りが満ちていた。
「はぁん…そういうことかいな」
ウルフウッドの声にも不快感が滲んでいる。
「二対四。取り押さえられるか?」
どの程度撮影されたのか判らない。一人も逃がす訳にはいかないのだ。
「誰に向かってゆうとんねん」
むっとしたような声に苦笑混じりに詫びてから、ヴァッシュは表情を引き締めた。
「…行くぞ!」



「あっという間に決着ついたねぇ」
地面に転がっている男達を見下ろして呟くヴァッシュの息は全く乱れていない。ウルフウッドも同様である。
一撃必勝、声を出す暇も与えずに全員気絶させたのだ。お陰で風呂場にいるであろうメリルに気づかれずに済んだ。
四人は夏の合宿半ばに野球部を退部した写真部の連中だった。
「…で、どないする?」
「先生と主将に報告してくる。見張りを頼む」
小声で言葉を交わすとヴァッシュは走り出した。数歩進んだところで振り返り、その場で足踏みをしながら真剣な面持ちで唇だけ動かす。
『の・ぞ・く・な・よ』
『見損なうな!!』
声を出さずにピコピコして怒りを顕わにするウルフウッドを残して、ヴァッシュは裏口を目指した。
しばらくして、ヴァッシュがギリアムと顧問を連れて戻ってきた。
「とにかく中に運ぼう。対策を練るのはそれからだ」
顧問の指示で、ギリアム達は気絶した四人と近くにあった鞄を食堂に運んだ。荷物や服のポケットを検め、撮影済みのフィルムとカメラに入っていたフィルムを全部光に当てて感光させる。デジカメから抜いたメモリースティックは粉々になるまで踏んだ。
「まったく…懲りない連中だな」
作業を終えたギリアムが吐き捨てるように言う。ヴァッシュも同感だった。
「二人とも、よく気づいてくれた。お陰で被害を出さずに済んだ。…さて、こいつらをどうするかだが…」
「退学ですよ! こんな奴等と同じ学校にいるなんて…冗談じゃない!!」
学校でまたメリルが狙われることだって充分考えられるんだ!!
「落ち着けやトンガリ。この件が表沙汰んなったら、マネージャーかてしんどい思いするんやで」
ウルフウッドの指摘にヴァッシュは息を呑んだ。退学の理由が明らかにされればメリルは注目の的となる。口さがない連中に何を言われるか判ったものではない。
「懲りない、いうことは、前にもこんなことがあったっちうことですか?」
ギリアムはウルフウッドに夏の合宿での出来事を説明した。話が進むにつれて黒髪に縁取られた顔が歪んでいく。
「…初犯やない、いう訳か。…ワイに任して貰えませんか? 考えがありますよって」
六つの目がウルフウッドに集中したその時、食堂のドアがノックされた。
「先生? こちらにいらっしゃいますか?」
続けて聞こえてきたマネージャーの声に全員の顔が強張る。
「あー、その…」
意味のない顧問の言葉を返事ととったのか、メリルが食堂のドアを開けた。自分を見つめる四人の硬い表情と、床に倒れている元野球部員に気づいてその場に立ち尽くす。
「あ、あの…食事のことで相談したいことが…」
それ以上言葉が続かない。重苦しい雰囲気を察したメリルの顔が不安げに曇った。
ウルフウッドが動いた。ドアに歩み寄り、自分の身体でメリルの視界を遮る。
「ウ、ウルフウッドさん?」
「あいつらがアンタのこと盗撮しようとしとったんでな、これからちとお灸を据えるとこなんや。悪いけど、後にしてくれるか?」
既に撮影されていたことは言わなかったが、それでもメリルの顔はひきつった。
「…何を…するんですの?」
「手荒なことはせえへん」
「でも」
「ここから先はあんたの見ていい世界やない。あいつらの事はワイらに任せて部屋に戻り」
「そうしてくれ。こちらが片づいたらすぐに行く」
拒否を許さないウルフウッドの声。更に顧問にそう言われて、メリルは従うしかなかった。
「…判りました。部屋に戻ります」
メリルの後ろ姿が完全に見えなくなるまで待って、ウルフウッドはドアを閉めた。

ⅩⅠ
背中や腰の冷たい感触に、写真部の一人はようやく意識を取り戻した。古ぼけた天井、自分を覗き込んでいる三つの顔。どれも厳しい表情を浮かべていて…
慌てて飛び起き、自分の姿に愕然とする。服を着ていないのだ。辺りを見回すと、他の三人も裸で床に寝かされている。
「お、おい、起きろ!」
仲間の頬を叩いて回る。小さく呻きながら目を開けた三人は、自分の状態に揃って絶句した。
「やあっとお目覚めかい」
のほほんとした声に硬直し、恐る恐る首を巡らせる。かつて運動部が熾烈な獲得争いをした男がこちらを見て笑っていた。――否、目は笑っていない。
「マネージャーを盗撮するために遠路はるばるご苦労さん。ま、無駄足になってもうたけどな」
ウルフウッドの視線を追って、四人もそれを見た。とぐろを巻く黒一色のフィルム、メモリースティックの残骸。
「な、何てことを!」
フィルムはともかくメモリースティックは高価だ。食ってかかろうとした四人の舌は、笑みを消した黒髪の男の表情に凍りついた。
「それはこっちの台詞や」
再びウルフウッドが笑った。肉食獣を思わせる獰猛な笑顔。
「いっつも撮ってばっかりやとつまらんやろ。ワイがしっかり撮ってやったさかい、感謝しいや」
四人の顔から血の気が引く。
「ポーズもアングルも凝りまくったんやで。公表されたら街歩けなくなること請け合いや」
ギリアムとヴァッシュがそれとなく顔を背ける。それが四人の想像を悪いほうへと掻き立てた。
「今後一切うちのマネージャーに近づくな。もし近づいたら…判るやろ?」
「そんな、それじゃ報酬が」
写真部の一年生が言いかけ、慌てて口をつぐむ。三人の表情が更に険しくなった。
「…早く服を着ろ。そこの椅子に置いてある」
怒りを押さえた声でギリアムが言った。四人が急いで身支度を整える。
「…君達に訊きたいことがあるんだけど」
ヴァッシュは服を着た四人を等分に見ながら問いかけた。
「昨日の夜、僕の服を持ち去ったか?」
「…知らない。俺達は今日ここに来たんだ」
リーダーと思しき二年の部員がふてくされながらも答えた。
「それじゃ、今日勝利荘に忍び込んだことは?」
「いや。鍵がかかっててできなかった」
「鍵が開いてたら、マネージャーの下着でも盗むつもりだったのかな」
しまった。部員の顔には後悔の色がありありと浮かんでいる。
ヴァッシュは目を細めると、ジーパンのポケットに両手を突っ込んだまま四人に歩み寄った。ギリアムが慌てて声をかける。
「ヴァッシュ、手を出すな」
「手は出しませんよ」
確かにヴァッシュは四人に手は出さなかった。全員に頭突きをお見舞いしたのである。
「今後もしトライガン学園の関係者の間で盗撮騒ぎがおこったら、それ一切君達の責任ね」
額を押さえてうずくまる男達を前に、ヴァッシュは語尾にハートマークがつきそうな口調で言った。
「…なッ!」
「それで退学にならずに済むし、街を歩けなくなることもない。安いもんだろ!? …もっとも…」
声色ががらりと変わった。いや、声色だけではない。目つきも、表情も、身に纏う雰囲気も。
「失敗したら、地獄の底まで追いかけてくからそのつもりで」
四人の目はほとんど白目のみになっていた。卒倒しなかったのが不思議なくらいだ。
一歩退き、ギリアムのほうに向き直ったヴァッシュは、もういつもの表情に戻っていた。殺気に近い剣呑な空気も綺麗に消えている。
「主将、ご主人に車を出してくれるよう頼んで貰えませんか。ローカル線だから終電は早いだろうけど、車で行けば間に合うと思うんです」
肩越しにちらりと視線を走らせる。
「あいつらと同じ屋根の下で過ごすなんて、マネージャーは気持ち悪いでしょうから」
俺だってごめんだ、と心の中だけで付け足す。今もそうだが、傍にいられたらぶん殴ってやりたい衝動を必死に押さえなければならない。
ピッチャーの提案ももっともだ。ギリアムは肯くと、四人を連れて食堂を後にした。
「…もういいですよ、先生」
ヴァッシュの声に厨房にいた顧問が姿を現した。退学確実な盗撮事件を知りながら黙殺したとあっては、顧問の立場が微妙なものになる。メリルの為に表沙汰にしないと決めた以上、あくまで生徒間で決着をつけたことにしなければならなかったのだ。
「…さっきの凄い音は何だ?」
「いやあ、ちょっとしたコミュニケーションですよ」
にこやかにとぼけるヴァッシュにそれ以上の追求は無駄だと考えたのだろう。顧問は嘆息すると話題を変えた。
「これで大人しくなるといいんだが…」
「大丈夫や、思います。損得勘定のできる奴みたいやし、自分の将来棒に振るようなことはせえへんでしょう」
人間台風にあれだけ凄まれたんや、肝っ玉の小さいあいつらが何か企むとは思えへん。
「まあ、念の為マネージャーに気をつけるよう言っておこう」
顧問は食堂を出るとメリルの部屋へと向かった。
「…僕もすることがあるから」
何をするのかは説明しないで、ヴァッシュはウルフウッドを残して食堂を出ていった。その足で管理人室に行き、ドアをノックする。
「はい?」
顔を出した老婦人に一礼すると、ヴァッシュは真剣な表情で口を開いた。
「実はお願いしたいことがあるんです。…」





.............



勝利荘怪奇譚 4

ⅩⅡ
顧問との話は短時間で終わった。課題も済ませた。献立の見直しも終了した。今日やるべきことはもう何もない。
部屋の明かりをつけたまま布団に横になっていたメリルは、小さくため息をつくと身を起こした。夜もだいぶ更けてきているというのに一向に眠くならない。
ひっくり返されたおでん、減っていたうどんの具、夕方見た人影、盗撮未遂。
『写真部の四人にはしっかりと釘を刺しておいた。もう大丈夫だとは思うが、一応気をつけるように』
打ち合わせの最後にそう言われたものの、これで全ての問題が解決したとは思えない。漠然とした不安が胸にわだかまっている。
「メリルさん、起きてます?」
「は、はい」
襖の向こうから老婦人に声をかけられ、メリルは慌てて布団を抜け出し静かに襖を開けた。
「どうかなさいました?」
「こんな時間にごめんなさい。ちょっとお願いしたいことがあって…」
老婦人は今日の夕食のメニューだった味噌煮込みうどんを教えてほしいとメリルに言った。
「おじいさんが気に入ったみたいで…。私でも作れますかねぇ」
メリルは柔らかく微笑んだ。夏の合宿の時も今回も、手を繋いで森を散歩する二人の姿を何度も見かけた。互いを大切にしているのがよく判る。
「ええ。とっても簡単ですのよ」
「よかったら管理人室に来ませんか。お茶をいれましょう。お菓子もありますし」
「でも、お邪魔じゃありません?」
管理人室は夫妻の私室を兼ねており、二人がそこで寝起きしていることは全員が知っていた。
「大丈夫ですよ。おじいさんは酒瓶片手に先生のところへ行きましたから」
「そうですか。…それじゃ遠慮なく」
メリルが管理人室に入るのはこれが初めてだった。八畳ほどの畳の部屋に、ちゃぶ台と座布団と小型のテレビと小さな和箪笥が置かれている。清潔だが飾り気のない、殺風景な印象の部屋だった。それだけに、和箪笥の上の写真立てがひときわ目を引いた。
古い写真だった。今よりずっと若い夫妻が並び、十歳くらいの黒髪の少年がその前で笑っている。婦人に抱かれ眠っている乳児。暖かな家族の肖像。
メリルは僅かに首をかしげた。ご夫妻にはトライガン学園野球部OBの一人息子がいると聞いている。だとしたらあの赤ちゃんは…
「どうぞ座って下さい」
「はい、ありがとうございます」
座布団に正座し、メリルは持参したレポート用紙に味噌煮込みうどんのレシピを書いた。請われるまま、いくつかの料理のレシピを続けて書く。その間に老婦人は日本茶をいれ、どら焼きと一緒にちゃぶ台に置いた。
老婦人は十数枚のレシピに目を通し、時々質問しては余白にいろいろと書き込んでいった。
「…どうもありがとう。あ、お茶が冷めないうちに召し上がれ」
「すみません、いただきます」
どら焼きを頬張りながら、二人は他愛のない話に花を咲かせた。
「…いけない、もうこんな時間ですのね。私、そろそろ戻ります。遅くまでお邪魔して申し訳ありません」
メリルは軽く頭を下げ立ち上がった。写真のことは気になるが、こちらから質問するのははばかられた。
「そうだ、もしよければこのままここで休んでは?」
「でもご主人が…」
ちゃぶ台と座布団を片づけながら、老婦人は小さく吐息した。
「おじいさんはお酒が入るとすぐ寝てしまうんですよ。どうせ戻って来れないと思って、お布団一組先生の部屋に運んでおきました。今頃きっと高いびきですよ」
ころころと笑う老婦人につられてメリルも笑った。
「…よろしいんですか?」
「ええ、娘ができたみたいで私も嬉しいですし」
「…では、お言葉に甘えて」
押し入れから布団を出して敷くと、二人はそれぞれ横になった。明かりを消してからもしばらくは話をしていたが、やがて静かな寝息が小さな声にとってかわった。

ⅩⅢ
写真部とのトラブルは一応決着がついたが、ヴァッシュの心は晴れなかった。初日のおでんの件は野良犬か何かの仕業だとしても、昨日の鍋のことや人影がメリルの勘違いだとは思えない。それに、自分の服もまだ見つかっていない。
合宿三日目の朝も、彼の心とは裏腹にいい天気になった。日課の素振りを終え、タオルで額の汗を拭いながら屋内に入る。
シャワー室は風呂場の隣にある。そこに向かう時、ヴァッシュはいつも南側の廊下を通ることにしていた。
建物の中央を貫く廊下とは異なり、こちらは南に面したほうがガラス戸になっていて、昼間は庭とその向こうの森が見える。まるで細長いサンルームのようだ。
老夫婦が手分けして雨戸を開けている。毎朝見かける光景だった。
部員達が寝泊まりしている東に近い雨戸はまだ閉まったままだ。西に近い雨戸はほぼ全部開けられている。
「おはようございます。…マネージャー、夕べどうでした?」
「私達の部屋で寝ましたけど、よく眠ってましたよ」
老婦人の答えに、心配と照れが入り交じるヴァッシュの表情が笑顔へと変わった。
メリルは野球部の男達が使っている部屋から一番遠い部屋――リネン室の隣の部屋を使っていた。奇妙な出来事が続いているし、写真部の盗撮騒ぎもあった今、一人では心細いだろうと思い老婦人に一緒に休んでほしいと頼んだのだ。
「そうですか…。ありがとうございました。ご主人を追い出しちゃったみたいで申し訳ないです」
「いやいや、先生と久しぶりに呑んだんでな。楽しかったよ」
夫妻の優しい言葉に、ヴァッシュは深々と頭を下げた。
「手伝いましょうか?」
「大丈夫じゃよ。それより早くシャワーを浴びなさい。風邪をひかんようにな」
これも毎朝くり返される会話だ。ヴァッシュは苦笑しながら礼を言って老人の横を通り過ぎようとした。
不意にガラス戸が音を立てて割れた。それも一枚だけではない。風呂場に近いほうから順に、次々と割れたりヒビが入ったりする。
ヴァッシュは身体を右に傾け、自ら老人の盾となった。と同時に左腕で老婦人を引き寄せて自分の背に庇う。すぐ右のガラス戸に亀裂が走った。
次は自分の正面――左手を顔の前にかざして身構える。
だが、予想に反して三人がいる場所のガラス戸には何の変化も起きなかった。一拍遅れてヴァッシュの左側のガラスが割れた。
「どうしたんですの!?」
その声にヴァッシュは首を巡らせた。エプロンをつけたままのメリルが暗い廊下を走ってくる。
「止まれ! 近付くな、キミは!!」
そう言われても、板張りの上をスリッパで走っているのだから簡単には止まれない。何とか踏みとどまろうとしたが勢いを多少殺すことしかできず、メリルは日の差し込む明るい場所へと飛び出した。すぐ横を複数の光が舞う。
「メリル!!」
咄嗟に両手で頭を庇いしゃがみ込んだマネージャーの元へ駆け寄る。左手の甲に一筋の赤い線。
「大丈夫…かすり傷ですわ」
ゆっくりと立ち上がると、メリルは額が膝につくくらい深く身体を倒して襟や肩の上に残っていたガラスの欠片を下に落とした。幸い切り傷は左手の一ヶ所だけだった。
遅まきながら部員達が襖を開け、眠そうな顔を覗かせた。廊下に散乱している輝くガラス片にいっぺんに目が覚める。
「これは…!?」
「お前がやったのか、ヴァッシュ?」
「何でそうなるんですか!?」
先輩の無情な一言に思わず声を荒げた人間台風は、次の瞬間我に返った。原因究明よりも先にやらなければならないことを思い出したのだ。
「きゅうきゅうばこー!!」
メリルの手当ては老婦人がやってくれた。いたって冷静な怪我人とは対照的に大騒ぎをしているピッチャーは放っておいて、部員達は手分けしてガラス片の掃除とヒビの入ったガラス戸の補強を始めた。
「…妙だな」
そう呟いたのはギリアムだった。
「主将、どうかしました?」
「どうして割れたんだ?」
原因としてまず考えられるのは石などを投げられたということ。しかし廊下にはガラスの破片しかなかった。
次に突風によるものだが、一部のガラス戸は無傷だし、それらしい音は聞こえなかった。
誰かが直接ガラスを割ったのなら、ヴァッシュや老夫婦がその姿を必ず目にした筈。だが三人とも庭には誰もいなかったと証言した。
「…幽霊、とか…」
昨日マネージャーが見たという人影。それなら密室だった勝利荘から忽然と消えたのも納得できる。
「まさか…」
部員達は互いに顔を見合わせ力なく笑った。妙に乾いた笑い声だった。


ⅩⅣ
朝食の後、ウルフウッドはメリルに歩み寄ると小声でいくつか頼み事をした。メリルが驚いたように目を丸くする。
更に言葉をかけ、念押しするように華奢な肩を軽く叩いてから、ウルフウッドは食堂を出た。
「何話してたの?」
ヴァッシュは飄々とした黒髪の男に並ぶと歩きながら尋ねた。顔にも声にも不機嫌そうな様子が滲み出ている。
「ちょうどええ、オドレも手伝え」
「?」
「鍋の謎、解けるかも知れん。着替えの前に主将に交渉や」
午前の練習を終え、シャワーを浴びて着替えた部員達が三々五々食堂に集まってくる。漂う香辛料の香りにテーブルに目を向け、思わず足が止まる。
一人分だけメニューが違う。匂いの元はその料理だった。
「お疲れ様でした。お昼は皆さんは肉豆腐、ウルフウッドさんだけキムチ鍋ですわ」
昨夜顧問に相談して許可を貰ったメリルは、筋金入りの辛党の為に特別食を用意したのだ。
一斉に挨拶して食事が始まった。
ウルフウッドは早速キムチ鍋の豚肉を頬張った。表情が僅かに曇る。
「あの…お口に合いませんか?」
メリルは恐る恐る質問した。七味唐辛子の減り具合から普通のキムチだけでは足りないだろうと思い豆板醤を入れたのだが、味見ができないほど辛くなってしまったのだ。
「…もっと辛いほうがええねんけど」
「もっとですか!?」
自分の声に驚いて慌てて口を押さえる。食堂にいた全員の目がマネージャーに向けられた。
「何? どうしたの?」
ウルフウッドから話を聞いたヴァッシュは横からキムチ鍋に箸を伸ばした。
「一口貰うよ」
ふうふう吹いて冷ましてから、白菜を口に入れる。その途端ヴァッシュは箸を放り出し、両手で口を覆った。味など判らない。ひたすら熱くて痛いだけだ。
メリルが差し出したコップの水ごと白菜を飲み込む。本当は吐き出すほうがいいのだろうが、彼女が作ったものを生ゴミにするのは嫌だった。第一行儀が悪い。
ヴァッシュの喉をぴりぴりした感触が通り抜けた。
「…よく…食べられるね…キミ…」
目尻に涙を浮かべながら呟く声は少し嗄れていた。
「人の嗜好にケチつけんなや」
ウルフウッドは平然と箸を動かしている。
メリルはもう一度別のグラスに水を注ぎ、顔を赤くしたヴァッシュに手渡した。礼を言って受け取り一気に飲み干す。
ようやく人心地ついて、安堵のため息を洩らす。
気を取り直して食事を再開したヴァッシュだったが、味噌汁を一口飲んで絶句した。味が全く判らない。舌が麻痺してしまっている。
『絶対おいしい筈なのに…』
料理ではなく損した気分を味わいながらヴァッシュは全部平らげた。残したくなかったのだ。
それに、午後に起こるであろう騒動に備えてエネルギーを補充しておきたかった。


ⅩⅤ
顧問と部員達が午後の練習に出かけて間もなく二時間が経とうという頃。
夕食の仕込みを終えたメリルと老婦人はいつものように裏庭で洗濯を、老人はシャワー室の掃除をしていた。
今なら大丈夫。そう確信し、男はポケットから取り出した鍵で玄関を開け中に入った。せわしなく目を動かし、人がいないことを確かめる。シャワー室のかすかな水音以外何も聞こえない。
周囲の気配を窺いながら厨房へ直行する。
『!?』
厨房にある冷蔵庫は業務用の大きなもので、扉は観音開きになっている。その扉の取っ手全てに鎖が巻かれ、
南京錠がかかっていた。
慌てて辺りを見回し、コンロの上の鍋に目をつける。蓋を開けた男の身体が硬直した。
鍋の中身は鯖の味噌煮だった。切り身が十四切れ。なくなれば一目で判ってしまう。
「くそっ」
思わず小声で呟いたその時。
「はぁいそこまで」
底抜けに明るい声に、男はぎょっとした表情で振り返った。厨房と食堂を行き来する為の扉のない出入口の柱にもたれかかるようにして立つ、金髪を逆立てた男。彼が人間台風と呼ばれていることを男は知っていた。
「僕達の夕飯に手ぇ出さないで下さいね」
ブルーグリーンの双眸が僅かに細められた。男がはいているサイズの合っていない黒のジャージ、あれは…
「…それ、僕の服だと思うんだけど」
柱から背を離し、組んでいた腕をほどきながら厨房に一歩足を踏み入れる。
顔面めがけて飛んできたものを反射的に受け止める。男が持っていた鍋の蓋だった。
ヴァッシュの足が止まった隙を見逃さず、男は踵を返すと廊下へ走り出た。途端に身体が宙に浮き、次の瞬間背中に感じた衝撃に呼吸が止まる。腕を取られて投げ飛ばされたのだと理解するまでに数秒を要した。
「逃がさへんで」
上体を起こしかけた自分を冷たく見下ろす黒髪の男。少し遅れてその横に人間台風が並んだ。ちなみに合流が遅くなった理由は鍋に蓋をしていたからである。
逃げられない――男は床にあぐらをかくと全身の力を抜いた。
「なあ、コイツ知っとるか?」
「いや」
答えながら、ヴァッシュは男の傍にしゃがみ込んだ。失礼、と短く断って、着ている黒いセーターの袖を少しめくる。
覗いた淡いブルーに見覚えがあった。
「そのトレーナーも僕のだよね」
「何や、トンガリのファンなんか」
「違う!!」
男は力一杯否定した。額に落ちかかった長い黒髪を鬱陶しそうにかきあげる。
「名前は? どうして僕の服を盗ったりしたの?」
「……」
「素直に吐かんかい、このクチビルゴーレム」
「誰がクチビルゴーレムだっ!!」
男の怒鳴り声を聞きつけてメリルと老婦人が駆けつけた。メリルは男の顔を見て何かを思案するような表情を浮かべ、老婦人はしばらく立ち竦んだ後シャワー室目指してあたふたと走っていった。
「この人、マネージャーの知り合い?」
「いえ…でも、どこかで…」
確かに見たカオ。はれぼったく見える一重の目、厚い唇。だけどこんな顔じゃなくて、もっと…
「!! あ――ッ」
「ど、どうしたの!?」
そこへ老夫婦がやってきた。男が気まずそうな表情で顔を背ける。
「……!! バドウィック…!!」
老人がそう呟いて絶句した。寄り添う老婦人も言葉を失っている。
ヴァッシュとウルフウッドは揃って視線をマネージャーに向けた。
「…ご夫妻の息子さんですわ。トライガン学園野球部のOBというのはたぶんこの方です」

ⅩⅤ
バドウィックのことは老夫婦に任せて、ヴァッシュ達は練習に加わり、メリルは再び家事にいそしんだ。ウルフウッドのメニューは主菜は同じで副菜だけ味付けを変えようと考えていたのだが、急遽別の料理を作り彼の分の鯖の味噌煮をバドウィックにまわすことにする。
夕食の前に老人はバドウィックを紹介し、今日里帰りしたとだけ話した。お世話になっている老夫婦の息子で自分達の先輩にあたる男を、現役野球部員達は一部を除いてすんなりと受け入れた。
入浴後、ギリアム・ヴァッシュ・ウルフウッド・メリルは顧問の指示で管理人室に向かった。
部屋には顧問が既に来ており、老夫婦とバドウィックもいた。バドウィックは誰とも目を合わせようとしない。
「座れ。お前達には事実確認の場に立ち会って貰おうと思ってな」
教え子が思い思いの場所に座るのを待って、顧問は一同を見回し咳払いをした。当時を振り返るように目を閉じて言葉を紡ぐ。
「…バドウィックのことは覚えてる。十年…十二年くらい前に野球部にいた奴だ。バントや盗塁が得意だった。…
高校を卒業して地元に就職したんだが、一年もしないうちに家を出ていってしまった」
顧問は目を開けるとかつての教え子をじっと見つめた。
「…とりあえず、元気そうで安心した。…でもどうして急に家を飛び出したりしたんだ? どうして忍び込むような真似をした?」
返事はなかった。
「…帰ってきたものの親に会わせる顔がない。で、コッソリ忍び込んじゃあメシを盗んどった…ちゃうか?」
やはり返事はない。小さく吐息すると、ウルフウッドはメリルへと視線を動かした。
「マネージャー、午後に洗濯したもんはどうしてたん? 外に干しっぱなしやないやろ?」
「ええ、初日は日が落ちる前に取り込んで空いている部屋に干し直しましたわ。ヴァッシュさんの服がなくなったので、 二日目からは全部室内に干すようにしましたけど」
その答えに満足そうに肯くと、ウルフウッドは視線をバドウィックに移した。
「アンタがここに来たんは二十六日の夕方、マネージャーが洗濯もんを干し直しとる最中や。腹をすかしとったアンタは厨房に行き、鍋にあったおでんで空腹を解消した」
「…どうしてそんなことが言える」
不愉快そうな低い呟きに、ウルフウッドは僅かに口元を歪めた。
「鍋がひっくり返されとったからや。アンタ、食いすぎたんやろ? 一目で減ってるっちうことが判るくらい」
男が息を呑む音がその場にいた全員の耳朶を打った。
「床にぶちまけられた食いもんをわざわざ鍋に戻す奴はおらん。ゴミ箱直行や。アンタはそうやって誰かがおでんを食ったっちう事実を誤魔化したんや」
発言する者はいなかった。誰もがウルフウッドの話に耳を傾けていた。
「その夜アンタはトンガリの服を盗んだ。乾いた服を盗めりゃよかったんやろが、それしかなかったんや、しゃあないわな。…翌日、ようやく乾いた服を着込んだアンタはまた厨房にやって来てつまみ食いをした。もしかしたら冷蔵庫の残りもんも食ったのかも知れんな」
味噌煮込みうどんの具が減っている、とメリルが思ったのは錯覚ではなかったのだ。
「もいっぺん忍び込んだんは、毛布か何か寒さを凌げるもんが欲しかったからやろ。けどマネージャーが悲鳴を上げたんで何も盗らずに逃げ出した」
ヴァッシュはちらりとメリルのほうを見た。俯き加減で目を細め、畳のへりを見つめている。しかしヴァッシュには判っていた。彼女の目にそれが写っていないことが。
「ワイはマネージャーに頼んで、鎖と南京錠をこおてきてもろた。そんで冷蔵庫を開けられへんようにして、メシもなくなったらすぐに判るメニューにしてもろたんや。鯖の味噌煮、うまかったか?」
最後の一言は痛烈な皮肉だ。バドウィックは唸ったが、何も言わなかった。







.................


勝利荘怪奇譚 5

ⅩⅥ
「今朝ガラスを割ったのもアンタや」
「で、でもどうやって? 廊下にはガラスの破片しかなかった。それはお前も見ただろう?」
初めてギリアムが口を挟んだ。
「ガラス戸とおんなじような色と厚さのガラス片をいくつか重ねて髪を巻きつけて固定したもんをパチンコで撃つ。
建物に近づく必要はあらへんし、割れてしまえば弾が何だったのか判らんようになる。廊下に髪が落ちてたかて誰も気にしませんやろ。ま、破片をパズルみたいに組み立てれば余る筈ですわ」
単純極まりないが見事な方法である。ギリアムは何度も大きく肯いた。
「どうやったかの説明はつけられるんやけど、これだけは判らへんのや。何で帰ってきたん?」
「…かまいり…」
「何やて?」
「墓参りだよ! 十年前に死んだ弟のな!」
バドウィックは両親を睨みつけた。憎悪にも似た突き刺さるような視線に老夫婦が顔を伏せる。
「あの時、あいつはひどい風邪をひいていた。それなのに忙しい親に心配をかけたくなくて、必死に我慢して…肺炎で病院に担ぎ込まれた時にはもう手後れだった!」
いったん言葉を切る。奥歯がぎりっと嫌な音を立てた。
「…今日はあいつの…命日なんだ。…それなのにこいつらは…仲良く雨戸を開けながらへらへら笑っていやがった!」
畳に拳を叩きつけてからバドウィックは立ち上がった。
「畜生、こんな親なら…マックスも途中で死んで正解ってもんだ!!」
二人の小さな肩がびくりと震えた。膝に置かれた両手がきつく握り締められる。
バドウィックの左手が、本人も気づかないうちに口元を覆った。
恐ろしいほどの静寂。
突然バドウィックは激しい頭痛に襲われ畳に倒れ伏した。何が起こったのか判らないまま胸倉を掴まれ乱暴に持ち上げられる。頬に血管を浮かせたウルフウッドの顔が目の前にきた。
彼の頭痛の原因は、ヴァッシュが写真部の四人にお見舞いしたものよりも数段きつい頭突きをウルフウッドから食らった為だった。
「その親のおかげで生きてこれたんは誰なんじゃコラ」
「なッ…てめえには関係ねぇだろ!」
自分を睨みつける怒りに満ちた瞳にも臆せず、バドウィックは声を張り上げた。
「オドレかて弟の病状に気がつかなかったんやろ!? 自分のこと棚に上げて親ばっか責めるんはスジ違いやで!!」
男の顔に動揺が走る。それは、ずっと目をそらせてきた痛い真実。
「弟が心配かけたくなかったんは親だけやない、兄貴もや。判っとるやろ? 家族のこと、ホンマ大事に思っとったんやな。…なのに兄貴は親ほっぽり出して好き勝手して、困った時だけ頼ってくるヘタレかい。草葉の陰で弟が泣いとるで」
「てめえに何が判る!?」
「ほなら何で墓参りだけ済ませてさっさと立ち去らんかった!?」
…答えられない。全て指摘されたとおりだから。
ようやく手を離すと、ウルフウッドはわざと片眉だけ跳ね上げた。家出の原因は見当がついているが、意図的に的外れなことを言う。
「大方こおんな田舎おん出てどっかで一旗揚げようとしたんやけど、失敗街道まっしぐらでとうとう尻尾巻いて逃げてきたっちうトコやろ」
「違う!!」
弟を亡くしたことが辛くて、親を恨むことで平静を保って。それでも苦しくてここにいたくなかった。いられなかった。
「なら家業継ぐのが嫌やったんか」
わなわなと震えているOBを気にせず、ウルフウッドは毒を含んだ明るい声で更につけ加える。
「そうやろなー。根性なしのヘタレな兄貴やもんなー。山ん中の民宿切り盛りするんは大変やろうなー」
「そんなんじゃねえ!!」
「信じられへんなー」
小馬鹿にしたような目でバドウィックを眺めてから大袈裟にため息をつく。目を閉じて肩を竦め、首を横に振ってみせる。駄目だ、というジェスチャーだ。
「ふざけるな! こんな仕事、屁でもねぇ!!」
威勢のいい啖呵にウルフウッドはにやりと笑った。
「…男に二言はないで」
売り言葉に買い言葉。まんまとのせられたことにバドウィックが気づいた時には既に遅かった。

ⅩⅦ
それから合宿が終わるまで、ウルフウッドはバドウィックに厳しく当たった。掃除の仕方から作業の段取りまでチェックし、少しでも至らない点があると事細かに指摘した後聞こえよがしにため息をつき、必ず決まり文句を言った。
「やっぱヘタレやなー」
こめかみに血管を浮かせながら、バドウィックは必死に怒りを押さえて掃除をやり直したり、作業の手順を見直したりするのだった。
合宿最終日。朝食を終えた部員達は自分の荷物を纏めると庭に集合した。顧問と老人が、ギリアムと老婦人がしっかりと握手する。
「また夏に来ます。その時はよろしくお願いします」
「待ってますよ。また酒を呑みましょう」
「お世話になりました」
「いえいえ、頑張って下さいね」
バドウィックがウルフウッドに歩み寄った。無言のまま右手を差し出す。軽く眉をひそめてから、ウルフウッドはその手を握った。
「…今度来た時におらんかったら、一族滅びるまで反面教師として語り継いだるわ」
言いながら右手に力を込める。バドウィックの口から苦痛の声が僅かに洩れた。ささやかな復讐にと握力テストよろしく力一杯握ったのだが、生意気な後輩の握力のほうが遥かに上だったのだ。
互いの手に指の跡をくっきりと刻んで、二人は笑った。その笑顔は妙に強張っていた。
「…キミ、あの態度はないんじゃない? 目上だし、野球部のOBなんだから」
例によって大半が船を漕いでいる電車の中。二人掛けの席が向かい合うシートに座ったヴァッシュは、前の席にいるウルフウッドに小声で話しかけた。
「何ゆうとんねん。あれでも手ぬるいくらいやで」
「そうかなあ…」
ヴァッシュはわざとらしく首をかしげ、慌てて元に戻した。隣で眠っているメリルを起こさない為に。
「ま、あそこまでコケにされとんのに逃げ出したら、ほんまもんのヘタレ、いうことになる。ワイが詫び入れるまで、何があっても家おん出るようなことはせえへんやろ」
「うん。…あの親子、うまくいくといいね。前途多難そうだけど」
「心配いらん。大丈夫や」
「すいぶん自信満々だね」
ヴァッシュの視線を避けるように、ウルフウッドは流れる景色へと目を転じた。黒髪をがしがしとかき回す。
ウルフウッドにはバドウィックのこの十年が、その心情が目に見えるようだった。
親への反発は真面目に働くことへの反発になった。勤めても長続きしない、身元を保証してくれる人もいない男の働き口は次第になくなっていき、懐は寒さがますます厳しくなるこの時期にコートはおろか上着さえ買えない程苦しくなった。
ろくに食べることもできず、やっとの思いでたどり着いた実家に忍び込み、周囲を警戒しながらそこにあるものを貪り食った時の惨めさ。目の前に家があるのに、一人森の中で心身共に凍えて過ごす夜の辛さ。
自分がすぐ傍にいることも知らずに笑っている両親を見た時、どんなに怒り、悲しみ、苦しんだことだろう。でも、報復にガラス戸を割っても、彼は両親がいるその場所だけは狙えなかった。
「…親は鍵を替えへんかった。息子は鍵をずっと持っとった。…それだけで充分なんちゃうか」
自分が捨てきれなかった場所。野良犬のような自分を無条件で迎えてくれた親。その暖かさは何物にも代え難い宝の筈。
「大切にしてほしい、思うわ」
早世した心優しい弟の分も。たとえどんなに望んでも実の両親には会えないであろう自分の分も。
「うん、そうだね」
相槌を耳にして、初めて自分が余計な一言を声に出していたことに気づく。視線を戻すと、人間台風が穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「何や、人の顔見てニヤニヤ笑いおって…。気色悪いやっちゃな」
口調が必要以上につっけんどんになった理由は双方とも判っている。
「気色悪いって…失礼だよキミ」
口を尖らせて文句を言うヴァッシュを無視してウルフウッドは立ち上がった。
「オドレの傍だと眠れへんわ」
幸い空席はたくさんある。ウルフウッドは誰もいない二人掛けのシートに腰を下ろして足を投げ出し腕を組んだ。
眠くはなかったが目を閉じる。
「ちょっと、席まで替わることないじゃない」
「偏食克服しなよね。身体に悪いし、マネージャーだって大変なんだから」
「そう言えば、俺に訊きたいこと思い出した?」
追ってきたヴァッシュがあれこれ話しかけてきたが、ウルフウッドは狸寝入りを決め込んだ。

エピローグ
「何もあんなに照れ隠ししなくてもいいのになあ」
何を言っても相手にされないので、ヴァッシュは仕方なく元の席に戻った。何とはなしに隣を見る。この位置だと彼女の寝顔は見えない。
そっと立ち、向かいの席に座り直す。音は立てなかったが、頻繁に動いた気配を感じたのだろう、メリルの睫毛が小刻みに震えた。瞼に隠されていた菫色の瞳がゆっくりと姿を現し、焦点が結ばれる。
「…ヴァッシュさん…」
ほんの少し眠気の残る声がクラスメイト兼部活仲間の名を呼んだ。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いえ…少しうとうとしていただけですから」
自分に向けられているいつもと変わらぬ彼女の微笑み。ふと数日前の胸の痛みが蘇り、ヴァッシュは僅かに顔をしかめた。
「どうしましたの?」
「…どうして…本当のことを話してくれなかったの?」
「え?」
「おでんのこと」
メリルの表情が曇るのを見た瞬間、ヴァッシュは心底後悔した。彼女は進んで嘘をつくようなことは絶対にしない。
彼女が嘘をつくとしたら、迷惑をかけたくないとか誰かを傷つけない為とか、そうしなければならない理由があるからだ。しかし、口から出た言葉はもう取り返しがつかない。
「あ、あの」
「ごめんなさい。信頼してないとか、そういうことじゃないんです。皆さんに余計な心配をかけたくなくて…。特にヴァッシュさんにはバッテリーを完成させることに専念して欲しかったんですの」
やっぱりそういうことか。
周囲を、自分を思いやる気持ちはとても嬉しい。でも。
「…これからは何でも話してよ。そうでないと気になって、おちおち昼寝もできないからさ」
あまり上手くはない冗談だったが、メリルはくすりと笑って肯いた。
「…もう一つ、訊いてもいいかな?」
「何ですか?」
「ウルフウッドの名推理に納得してないみたいだったけど…何か気になることでもあるの?」
「それは…」
メリルは言い淀んだ。嘘はつきたくない。でも…
ヴァッシュは静かにメリルの言葉を待っている。優しい光を湛えたブルーグリーンの瞳。
「…信じて…いただけないかも知れませんけど…」
ためらいながらもメリルは言葉を紡いだ。
「私が見た人影…ウルフウッドさんはバドウィックさんだとおっしゃいましたけど…違うんです。私が見たのは…男の子でした。白い光に包まれた…」
「それって…」
幽霊、という単語をヴァッシュは飲み込んだ。
「小さい頃は見えるのが当たり前でしたの。だから祖父母はひどく心配して、私に写経をさせたんです」
メリルは口をつぐむと俯いた。
「…小学校に入学してからだんだん見えなくなっていったんですが…他の人には見えないんだということを失念してつい言ってしまって、クラスメイトから気味悪がられたり敬遠されたりしました」
誤解される辛さを、信じて貰えない悲しみを、仲のよかった子が自分から離れていく寂しさを、これまで何度味わったことか。
「…ここ五・六年は全く見てなかったんです。それが突然、あんなにはっきり見てしまって、驚いて悲鳴を上げて…でも あの子は悪い存在ではありませんわ! 表情は穏やかでしたし、恐い感じはしませんでしたから」
顔を上げて身を乗り出し必死に幽霊の弁護をしている自分に気づいて、メリルは再び俯いた。面喰らったようなヴァッシュの表情を見たくなかった。
また、判って貰えないかも知れない。この人も、遠ざかってしまうかも知れない。
「…信じるよ」
恐る恐る顔を上げる。自分を見つめるヴァッシュの瞳は穏やかで、不信や疑念の色は微塵もない。
柔らかな微笑みにつられるように、メリルの口元もほころんだ。
「考えてみればそうだよねぇ。廊下は電気ついてなかったんだから、黒髪の男が黒づくめの服で立ってたとしてもまず見えないし、見えたとしてもせいぜい顔と手だけ。それなら『人影を見た』んじゃなくて『生首が浮いてた』って話になるよね。…ウルフウッドはホームズにはなれなかったってことか。まあ、あいつは探偵ってがらじゃないけど」
二人は顔を見合わせてくすくす笑った。
「…夏には見なかったんだよね? どうして急に…」
「たぶん、お兄さんが帰ってきたからですわ。家族のことが心配で、成仏できなかったんでしょうね」
「…そっか」
家族を想う気持ちは皆同じなのだ。
「ご夫婦とバドウィックさんのわだかまりが完全に消えたら、あの子も安心できるんでしょうけど…」
「…ってことは、まだあの家に…?」
メリルは小さく肯いた。嬉しそうな両親と憮然とした表情の兄が一緒に立ち働く姿を優しく見守っているのを何度も見た。自分以外は誰も、肉親でさえ気づいていないようだったが。
「…皆さんが気味悪がるといけませんから」
「判ってます。誰にも言いません」
胸に右手を当てて厳かに言うと、ヴァッシュはその手を小指だけ伸ばした状態でメリルに差し出した。
「約束するよ」
「…はい」
互いの小指を絡める。指切りなんて何年ぶりだろう。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーますっ」
軽く手を振りながら妙に楽しそうに口ずさむと、ヴァッシュはにっこり笑った。
ウルフウッドが見ていたら皮肉交じりに誉めたであろう、いい笑顔だった。

―FIN―







勝利荘怪奇譚 1

プロローグ
二学期の終業式の夜、ヴァッシュ・ウルフウッド・ミリィの三人はメリルの父に食事に招待された。
中高生には敷居の高い中華料理店の個室で、メリルとその父を加えた五人が丸いテーブルを囲む。
「娘が迷惑をかけたお詫びです。皆さん遠慮なくどうぞ」
烏龍茶で乾杯した後それぞれが好みの料理を注文し、回転テーブルには所狭しと皿が並んだ。
「えーと、あたし、桃まんじゅうとマンゴープリンが食べたいですぅ」
まだ食事が始まったばかりだというのに、ミリィの関心は早くもデザートに向けられている。
「ミリィ、デザートは一番最後のお楽しみですわよ。桃饅頭もマンゴープリンも逃げたりしませんから」
「あ…そ、そうですよね。早くしないとなくなっちゃうかなーって心配だったんですけど…」
それとなくたしなめられ、ミリィが照れ笑いを浮かべながら頭を掻く。その様子に四人は声を上げて笑った。
ヴァッシュは出てきた料理は全て必ず一口食べ、気に入ったものを自分の皿に取っていった。ウルフウッドは例によって辛い料理にしか手をつけない。
 二人の食欲は底無しかと思われるほどだった。いっそ清々しいほどの健啖家ぶりを、メリルの父は目を細めて見守っていた。
話題の中心は野球部とウルフウッドのことだった。
 ミリィとメリルの父はウルフウッドに関してほとんど何も知らない。ヴァッシュとメリルは彼が十月に転校してきたこと、運動部の間で熾烈なスカウト合戦があったこと、半月ほど前に野球部に入部したことなどをかわるがわる話した。
「野球部は冬にも合宿を行なうそうですね」
「はい、明日から三十日までの五日間です。最終日は帰るだけですから実質四日ですけど」
メリルの父の質問に答えたのは手を止めたヴァッシュだった。
「この合宿からヴァッシュさんとウルフウッドさんも他の皆さんと一緒に練習して貰いますから」
まずはウルフウッドさんに捕球に慣れて貰うことから始めましょう。実戦を想定した投球練習はその後ですわ。
 メリルの言葉に従い、ヴァッシュはずっと校庭の片隅でウルフウッドを相手に投げ込みをしていた。
最初はストライクゾーンのど真ん中だけを狙った。初めてボール球を投げたのはバッテリーを組んで三日後、敬遠のように大きく外した投球をしたのは八日後のことだった。
メリルは様子を見に度々顔を出した。時折ウルフウッドに姿勢などのアドバイスをする。
「ホンマ、マネージャーは野球のことよう勉強しとるわ」
的を射た助言にウルフウッドは感嘆の声を上げた。もっとも細かすぎるくらいの指摘に半ばうんざりして、嫌味を少々織り交ぜての発言である。
「あら、何事も基本は大切ですわよ。でもこの分でしたら、思っていたより早く他の皆さんの練習に合流できるかも知れませんわね」
夏以来抱えてきた問題にようやく解決のめどがついたのがよほど嬉しいのだろう。こんな時、普段なら刺を含んだ言葉で応酬する筈のメリルは、至極上機嫌な様子でそう言うと満面の笑みを浮かべた。――
「やった! ずっと二人だけ隔離されてるみたいでちょっと寂しかったんだよね」
「ウルフウッドさんもよろしいですか?」
食べるのに忙しい黒髪の男は、口を動かしながら首を縦に振って了承の意を示した。
「スタンピード君と別練習…ということは、ウルフウッド君はキャッチャーですね。前の学校では違ったんですか?」
メリルの父は本人に質問したのだが、生憎口は一つしかない。話せないウルフウッドに代わってメリルが答えた。
「ライトだったそうですわ。いい判断だと思います。僧帽筋・三角筋・上腕三頭筋…肩から二の腕にかけての筋肉は本当にしっかりしてましたもの。体力測定の数値も凄かったですし、どう鍛えればあんな身体ができるのか…」
答えはなかった。たとえ話せる状態だったとしても決して言わないだろうが。
『あの時肩と腕を触ってたのは、筋肉のつき方を確かめる為だったんだ』
「でもこれでヴァッシュさんもやっと全力投球できますわね」
メリルは金髪を逆立てた男ににっこり笑いかけた。謎が氷解し安堵しているところへ突然話しかけられ、ヴァッシュはしどろもどろになった。
「え!? う、うん、まだまだこれからって感じだけどね。あはははは」
意味もなく高笑いをする。自分の発言がバッテリーを組むことに対してのものなのか、密かに想いを寄せる人とのことなのか、言った本人にも判らなかった。
「ウルフウッドさん、キャッチャーなんですか?」
「…せや」
この時ばかりはウルフウッドが返事をした。質問したのがミリィだったので。
「それじゃあたしとおんなじですね!! あたし、夏で引退しちゃいましたけど、ソフトボール部でキャッチャーだったんです。先輩とバッテリー組んでたんですよ!」
「へぇ…」
ヴァッシュは二人が中学時代ソフトボール部に在籍していたことはミリィから聞いて知っていたが、ポジションまでは知らなかった。ウルフウッドは勿論初耳である。
「あの時の先輩、カッコよかったなぁ…」
「あの時って?」
人間台風が身を乗り出す。自分の知らないメリルのことは何でも聞きたかった。
「あたしが中一の時なんですけど、夏に大会があって」
「ミリィ、余計なことは言わなくていいんですのよ」
先輩のいつになく厳しい声に、ミリィは身体を縮こまらせ小さな声で謝った。
「あ…ごめんなさい。私もきつく言い過ぎましたわ。…そろそろデザートにしましょうか。ミリィ、桃饅頭とマンゴープリンでしたわね?」
「はい! あと、ごまのアイスクリームもお願いします!」
ついさっきまでしゅんとしていたミリィはもう笑顔に戻っていた。


デザートの注文を終えると、メリルは『ちょっと失礼しますわ』と断ってハンドバッグを手に席を外した。
「ねえ、さっき言いかけた夏の大会のことって何?」
今を逃したら訊く機会は当分ない。ヴァッシュはドアの方を気にしながらミリィに尋ねた。
「えー、でも話すと先輩に怒られちゃいますから…」
「…もしかしたら、トロフィーのことですか?」
メリルの父が会話に加わった。穏やかな声に水を向けられた形になる。
「はいそうです! …そっか、先輩のお父さんはご存知なんですよね」
「修理できる業者を教えて欲しいと頼まれただけで、いきさつは知らないんですよ」
六つの目に促され、ミリィは重い口を開いた。
「…実は…」
二人が通っていた中学校の女子ソフトボール部は強豪として知られていた。その中で、ミリィは入部後間もなくキャッチャーとしてレギュラー入りを果たした。一年でレギュラーは彼女だけである。
部室の掃除は全員でやることになっている。レギュラーか否かは関係なく、ミリィも掃除当番を割り当てられた。
「…あたし、掃除中に去年の優勝トロフィーを落っことして、傷をつけちゃったんです。…」
途端に先輩達からの風当たりが厳しくなった。大事なトロフィーを壊したのだから当然だと、ミリィは黙ってそれに耐えた。
夏の大会が始まった。二年でエースピッチャーのメリルはミリィを女房役に一人で全試合を投げ抜き、見事優勝盃を手にした。
校長室に顧問とレギュラー全員で優勝の報告に行った時のことである。メリルは校長にトロフィーを手渡し、暫く眺めた後返されたそれを、わざと机に叩きつけて壊した。
「…先輩達は勿論、先生もなんにも言えなくて…」
突然のことに言葉を失っている一同を見回し、メリルは静かに、だが毅然と言った。
『本当に価値があるのはこんなものではありません。大会で優勝できるまで練習を積み重ねた、私達の努力そのものですわ』
メリルは父にトロフィー等の修理を請け負う業者を探して貰い、ミリィと共に自分で費用を出して二つのトロフィーを直した。それ以来、ミリィが先輩から嫌味を言われたり辛く当たられたりすることはなくなった。
「…それまで、あたし一人部の中で浮いてたんです。先輩達には嫌われてたし、同じ一年の子達ともうまくいってなくて…。先輩が助けてくれなかったら、あたし…部活やめてたかも知れません」
「…そんなことがあったんだ…」
辛い思いをしている後輩を放っておけなかった優しさ。問題解決の為に荒療治を敢行した行動力。最悪の場合ミリィ以上に自分が村八分にされるのに、それを恐れない勇気。
『変わってないんだな…』
それでこそメリルだ。ヴァッシュの口元に微笑みが浮かんだ。
「キミは…いい先輩に巡り会えてよかったね」
「はい!」
「しっかし、マネージャーもずいぶん思い切ったことしたんやな」
「当然です! 先輩は大胆無敵ですから!」
「それを言うなら大胆不敵だと思うけど…」
意味、正しいような気がする。ヴァッシュは心の中だけで呟いた。
「アンタ、ひょっとして言い間違いとか多いんか?」
「えと、そうらしいです。自分ではよくわかんないんですけど…」
「初めておうた時、ワイのこと『カンセツな人』言うたの覚えとるか?」
「え!? ごめんなさいっ、あの、親切な人って言ったつもりなんです…けど…間違えてました?」
ウルフウッドが無言のまま肯く。
「僕のことも人間台風じゃなくて人間国宝って言ったよね」
「あああ、ごごごめんなさいいい」
顔を真っ赤にして謝るミリィの姿に、トライガン学園のバッテリーは同時に吹き出した。
「ごめんごめん、からかうつもりじゃなかったんだ」
「まったく、トンガリはいじめっ子やなぁ」
「言いだしっぺはキミでしょ!? 僕だけ悪者にしないでよ!」
「ワイは質問しただけや」
「あのねえ!」
「ずいぶん賑やかですわね」
口論寸前の会話はマネージャーの一言であっさり打ち切られた。
「何のお話ですの?」
「いや、キミの後輩は言い間違いが多いんだねって話」
妙にぎこちない笑顔のヴァッシュと、赤面しているミリィを交互に見つめる。
「早く座りなさい。もうデザートが来てる」
「はい、すみません」
父の言葉に短く謝罪し、メリルはそれ以上追求せず自分の席に戻った。
「先輩、桃まんじゅうおいしかったですよ! これ先輩の分です!」
「ありがとうミリィ」
メリルは冷めて少し固くなっている小さな菓子をありがたくいただいた。後輩が自分の為にとっておいてくれたことが嬉しかった。
「本当…おいしいですわ」
「ですよね!」
ミリィは嬉しそうににぱっと笑った。


食事が済むと、ヴァッシュ達はメリルの父が運転する車に乗り込んだ。まずミリィを自宅まで送り届ける。
「ごちそうさまでした。今日はとっても楽しかったです。ありがとうございました!」
賑やかに話していたミリィがいなくなると車内は静かになった。色とりどりの電球で飾り立てられた景色が窓の外を流れていく。
無言のまま車を走らせていたメリルの父が不意に口を開いた。
「君達には礼を言わなければなりません。…娘を助けていただいたこと、本当に感謝しています」
その声にあわせて助手席のメリルが振り向き、二人に頭を下げる。
「そんな、気にしないで下さい。こんなにご馳走になっちゃってかえって申し訳ないくらいです。キミもそんな、お辞儀なんかしないで」
慌てふためくヴァッシュの姿に好意的な微笑みを浮かべると、メリルの父は更に言葉を続けた。
「…どうして表沙汰にしなかったのか…理由を訊いてもいいですか?」
「…僕らの顔を見ても、マネージャーは『警察を呼んで』とは言いませんでしたから」
送り迎えの初日にこちらの行動を話し、メリルのいきさつを聞いた。説明を終えた彼女がぽつりと言った言葉が脳裏に蘇る。
事実を公表しても誰も幸せになりませんわ。
本当にそのとおりだと思う。メリルに頼まれ、ヴァッシュはその場で他言しないことを誓った。
部室で着替えながら、ヴァッシュはウルフウッドにメリルから聞いたことを全て伝えた。その後メリルはウルフウッドにも事実を口外しないよう頼み、彼もそれを快諾した。
「沈黙を守ることで誰も傷つかずに済むのなら、その方がいいに決まってます」
「…それに、ホンマのこと知ったらあの大っきい嬢ちゃんやお手伝いさんがまた泣きますやろ」
あの子の泣き顔は見たない。その為やったら口つぐむことぐらい何でもあらへん。
「そうですね…。特にあの子は和顔施のできる子ですから、表情を曇らせるようなことはしたくありませんね」
「わがんせ…?」
耳慣れない単語をヴァッシュはおうむ返しに呟いた。
「仏教の言葉ですわ。平和の和に顔に施すと書いて和顔施。無財七施…人として生まれてきたのなら、たとえお金がなくても自分以外の人に対して七つの施しをしなさい、という教えがありますの。和顔施はその一つで、笑顔で周囲の人を和ませることをいいます。赤ちゃんの笑顔を見ると無条件に微笑みかけてしまいますでしょう? その時赤ちゃんは和顔施をしているんですの。年をとるに従って出来なくなってしまうことが多いんですけど、ミリィは今でもそれができるんです」
メリルは目を細めて微笑んだ。
「あの子の笑顔を見ていると、心が暖かくなったり勇気づけられたりしますもの。ミリィにはずっとあのままでいて欲しいですわ」
それは車内にいる全員の共通の願いだった。
「…詳しいんだね」
「小さい頃から写経をしてましたから」
その様子を想像しようとして密かに挫折した後部座席の二人をよそに、メリルはいたずらっぽい笑みを浮かべてヴァッシュのほうを見た。
「ヴァッシュさんもやってみます? 般若心経二百七十六文字、全部漢字です。精神統一にはもってこいですわよ」
「…エンリョシトキマス」
ヴァッシュの苦虫を噛み潰したような顔を見て、ウルフウッドが早速からかい始めた。
「オドレ、ホンマに漢字が苦手なんやなあ」
「キミは英語が駄目じゃない。僕英語は得意だもーん」
「母国語には困っとらん」
「じゃあ何で標準語喋らないの?」
「表現の自由や」
「それ、引用間違ってると思うけど」
「何やとこのクソトンガリ!」
メリルがくすくす笑っている。彼女の父が一緒だったことを思い起こし、二人の低次元な言い争いは幕を閉じた。
にらめっこの如く暫し睨み合った後同時にそっぽを向いたあたり、どちらも子供じみている。
ウルフウッドを降ろした後、車はヴァッシュの家を目指して走り出した。
「…そうだ、マネージャーはまたパソコンを持って参加するの?」
「ええ、夏の時と同じですわ」
「じゃあ朝迎えに行くよ。重くて大変でしょ?」
「でも」
「いいからいいから」
しきりに遠慮するメリルを、ヴァッシュは何とか説き伏せ約束を取りつけた。
自宅のマンションの前でヴァッシュは車を降りた。さすがに冷え込んできている。吐く息が白く煙った。
「今日は本当にありがとうございました。遠回りさせてしまってすみません。失礼します。…マネージャー、また明日」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
車が走り去るまでヴァッシュはその場で見送った。
「…メリル」
「はい?」
「いい友達を持ったな。…大切にしなさい」
「…はい!」


電車に揺られ山道を登り、トライガン学園野球部一同は勝利荘にたどり着いた。夏の時と違うのはまず気候、
人数が約三分の一になっていること、そして道中メリルのパソコンをヴァッシュが運んだことである。
「お世話になります」
顧問の挨拶にあわせて全員でお辞儀をする。老夫婦はにこやかに出迎えてくれた。
部員達は早速着替えて練習を、マネージャーは老婦人と共に昼食の準備を始めた。
数時間後、たっぷり汗をかいた部員達が帰ってきた。シャワーを浴びて着替えをし、食堂に移動する。
「お疲れ様でした。お昼は肉じゃがですわ」
夏の時と同様にメリルは笑顔で献立を伝えた。
賑やかな昼食を終えると、部員達は再び練習に戻った。マネージャーは夕食用の米とぎなどを済ませてから午前中の練習で汗だく泥まみれになった服を洗濯した。
合宿初日は何事もなく終わるかに見えたのだが。
日が落ちる直前、メリルと老婦人は夕食の仕上げをする為に厨房に入り、主菜のおでんが床にぶちまけられているのを発見した。傍らに大きな鍋と蓋も転がっている。
それは昼食と同時進行で午前中に作ったもので、昼食後に洗い物などをした時には異常はなかった。鍋は確かにコンロの上に置かれていた。
「どうしましょう…」
「とにかくここを片づけて、別のものを作りましょう」
二人は急いで床を掃除し、材料の在庫を確認した。シャワー室に向かう部員達の声が聞こえてくる。時間に余裕はない。
「お疲れ様でした。夕食は親子丼ですわ」
そう言って迎えてくれたマネージャーがひどく疲れていたことに気づいた部員はごく僅かだった。
夕食と入浴の後、ヴァッシュは裏庭でいつものように素振りをした。
『何かあったのかな』
バットを手に部屋を出る際、それとなく辺りを見回した。雑談をしたりトランプで遊んでいる部員の中にギリアムの姿はなかった。
もしメリルも部屋にいないのなら。もしまた顧問に呼ばれて打ち合わせをしているのなら。
夏の合宿の記憶が脳裏をよぎる。顧問と主将とマネージャーが密談…正直な話いい予感はしない。
近づく足音に振り返る。窓から洩れる光に浮かび上がったのはウルフウッドだった。
「何だキミか…」
またナスティ先輩かと思った。もう退部したのだからそんなことはありえないけれど。
「何だとはご挨拶やな。ま、気にせんと続けてや」
ウルフウッドはヴァッシュの正面に腰を下ろした。バットが空を切る音だけがしばらく辺りに流れた。
先に口を開いたのはウルフウッドだった。
「…気づいたか?」
「…マネージャーのこと?」
黒髪の男は無言のまま肯首した。
「昼間はそんなことなかったのに、さっきはすごく疲れてるように見えた」
「前にも合宿はあったんやろ? そん時はどうやった?」
マネージャーの親父さんは『冬にも合宿を行なう』言うた。ワイが転入する前、春か夏にやっとる筈や。
「少なくとも僕は気がつかなかった」
夏の合宿が始まった時は、部員二十三人に対してマネージャーは二人。そして、合宿六日目に部員は十二人に減り、マネージャーもメリル一人になってしまった。だがそれなら今と大差ない。疲労の原因は炊事や洗濯ではなく、
別にあると考えるのが妥当だ。
素振りをしながら、ヴァッシュは夏に合宿があったこととメリルの退部劇、その結果部員が半減したことを手短かに説明した。
「…そないなことがなぁ…。大胆無敵なマネージャーらしいわ」
「キミはどう思う? メリルのこと」
自分の言葉に驚愕する。無論夕方彼女の様子がおかしかったことについて質問しただけなのだが、訊きたくて訊けなかった核心を問いただしているような気がして。
「単に体調が悪いだけなんちゃうか?」
ウルフウッドの答えは酷くそっけなくて、特別な好意があるようには思えない。でも、それならどうして。
「…ずいぶんマネージャーにこだわるんだね」
早くなる鼓動をなだめながら言葉を紡ぐ。いつもどおりの声と口調だったか、自信がなかった。
ウルフウッドは片眉を跳ね上げヴァッシュを見やると、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「何寝ぼけたことゆうとんのや。こだわっとるんはオドレやろ」
「な…!」
バットを構えたまま、人間台風が目をむいて眼下の男を睨みつける。怒りに似た感情が自分に向けられていることに気づいているが全く気にせず、ウルフウッドは怪訝そうな表情で補足した。
「気づいてへんのか? クラスにおる時、オドレはいつもニコニコ愛想ええけど笑い方がカラッポなんや。…ツラくてしゃあないクセにやせガマンだけで笑っとる…そんなふうに見えとったで」
意外な指摘にヴァッシュは言葉が出なかった。
「けどな、野球やっとる時はちっとましな笑い方になる。で、ホンマにええ顔になるんはマネージャーとおる時だけや。胸に手ぇ当てて、よお考えてみい」
「キミはどうなんだよ! わざわざ裏庭まで来てメリルの話をするなんて…」
頬の熱さを誤魔化す為にヴァッシュは声を荒げた。視線の先で右手が黒髪をかき回している。俯いてしまったウルフウッドの表情はヴァッシュからは見えない。
「…マネージャーの話はついでや。…オドレにちと訊きたいことがあったんやけど…」
トンガリの痛いとこ突いてしもたし、今日はやめといたほうがええな。
「…忘れた」
あっけにとられているヴァッシュには目もくれず、ウルフウッドは立ち上がると汚れたジーパンを手ではたいた。
「思い出したら言うわ。ほな」
長身の後ろ姿が見えなくなっても、ヴァッシュは呆然とその場に立ち尽くしていた。


..........



勝利荘怪奇譚 2


「――っくしゅん!」
ヴァッシュは自分のくしゃみで我に返った。ここは街よりも冷え込みが厳しい。夜素振りをして汗をかいたまま屋外にいればまず間違いなく風邪をひく。そんなことになったら。
口を尖らせて怒るメリルの顔が目に浮かび、ヴァッシュは再び赤面した。
「今日は終わりっ!」
必要以上に大きな声で宣言して、ヴァッシュは民宿に戻った。老人に断ってシャワーを借りる。熱い湯を浴びるうちに、混乱していた頭が徐々に整理されてきた。
『こだわっとるんはオドレやろ』
…そのとおりだ。
部室で彼女を抱きしめた時、自分の気持ちをはっきりと自覚した。自分にとってメリルは特別な存在だと。
いやそのことよりも。
『笑い方がカラッポなんや』
…そんな風に見られてたなんて。
服を洗いながら高校生活を振り返ってみる。
クラスにも野球部にもすんなり溶け込めたと思う。明るくてひょうきんで面白い奴――たぶんそんな風に見られているだろう。
俺はいつも笑っていたから。
カラッポの…笑顔で…?
判らない。クラスにいる時と、部活中と、メリルといる時で、笑顔が変わるなんてことが本当にあるのだろうか…
「…ええいっ、考えるのやめやめ!」
ヴァッシュはかぶりを振って意識を切り替えると、すすいだ服を力一杯絞った。悩んで答えが見つかるとは限らないし、今すぐ結論を出さなければならないようなことでもない。
普段着に着替え、乾いたタオルで髪を乱暴に拭う。上着を羽織って洗った服を手に裏庭に出る。
洗濯物を干していると水分の残る髪から寒さがしみてくる感じがする。急いで作業を終え、ヴァッシュは勝利荘に駆け込んだ。
「…そうだ」
打ち合わせをしていたのなら、もしかしたら食堂にいるかも知れない。もしいるのなら会いたい。
『いや、様子を確認したいだけで、その…』
必要ないのに心の中で言い訳しつつ、ヴァッシュは食堂に向かった。
あの時と同じ席に座っている小さな背中。でも、キーボードを叩く音は何故か途切れがちだった。
「マネージャー」
振り返ったメリルが微笑みを浮かべる。ヴァッシュも笑顔を返しながら静かに歩み寄り、隣の椅子に腰掛けた。
「打ち合わせ、お疲れ様。…大丈夫?」
「…何がですの?」
主語を省いた質問が理解できなかったらしい。メリルはきょとんとした表情でヴァッシュを見上げた。
「ちょっと疲れてたみたいだから…」
「…それでわざわざここに?」
「え、あ…うん、まあ」
曖昧に答えながら、僅かに紅潮した頬を指で掻く。ブルーグリーンの瞳はあらぬ方向に向けられた。
「すみません、ご心配をおかけして…。実は…」
その時視線をそらせていた為に、ヴァッシュがメリルの顔に一瞬ためらいの色が浮かんだのを見ることはなかった。
「今日のお夕飯は…本当はおでんの予定だったんです。でも煮込んでいる時にうっかり焦がしてしまって…それで急遽メニューを変更したんですの」
そっと視線をメリルに戻す。苦笑と照れ笑いの中間のような微笑みが見えた。
「大急ぎで玉ねぎと鶏肉を切って、丼たれを作って…皆さんの声は聞こえてくるし、気が気じゃありませんでしたわ。
本当、間に合ってよかった…」
深呼吸のような大きなため息が語尾に続いた。
「それじゃ、具合が悪いとかそういうことじゃないんだね?」
「ええ、身体は何ともありませんわ」
ガッツポーズをするマネージャーの姿に思わず笑みが洩れる。
「少しくらい遅れても文句を言う奴はいないと思うよ」
「…言えませんわ。弱火にするのを忘れておでんが黒焦げになりました、だからお夕飯が遅れます、なんて。私のミスで皆さんにご迷惑をおかけする訳にはいきませんもの。…練習の後はお腹すいてますでしょ?」
「そりゃもう!!」
正直すぎる答えにメリルは吹き出した。ひとしきり笑った後表情を引き締める。
「明日から気をつけます。ですからヴァッシュさん、このことは」
「ハイハイ判ってます。僕の胸の中にしまっときます」
「ありがとうございます」
僅かに目を細めて微笑むメリルを、ヴァッシュはただじっと見つめた。
絶対になくしたくない人。誰にも渡したくない人。認めるのには戸惑いもあったけど、これは事実。
「…ヴァッシュさん」
「え!? な、何!?」
「髪、濡れてますのね」
「あ、ああ…さっきシャワー浴びたから」
ヴァッシュは毎日朝晩素振りをしていることと、合宿中もずっとやっていたことなどをメリルに打ち明けた。洗濯なら自分がやる、という申し出をやんわりと辞退する。
「…服は裏庭に干したんですの?」
「うん」
「この気温だと凍ってしまうかも知れませんわ。屋内に干すほうがいいと思います」
「そうか…夏の時とは違うもんね。ありがとう、そうするよ」
食堂を出て行きかけて、ヴァッシュはドアのところで振り返った。
「何か困ったことがあったら言ってね。できることは手伝うから。それから無理は禁物だよ。課題も大事だけどさ」
「…はい、ありがとうございます」
ヴァッシュは自分を見送るメリルに小さく手を振ってから裏庭に向かった。物干し台の近くで足が止まる。
『!?』
ついさっき干したばかりのトレーナーとジャージがなくなっていた。


老婦人に頼んで空いている部屋にロープを渡して貰うと、ヴァッシュは裏庭に残されていたTシャツと下着、靴下、タオルをそこに干し直した。明かりのない裏庭を探すのは困難なので、探索は明朝に持ち越して部員がいる大部屋に戻る。
部屋は賑やかだった。合宿初日で皆体力に余裕があるのだろう。
ヴァッシュは部屋に入るとギリアムにさりげなく視線を向けた。一瞬目を合わせた後首を巡らせ、ポーカーで盛り上がっているキャッチャーと内野手のグループに乱入する。
「ヴァッシュ、今日は遅かったな」
「はい、何かもう体力余っちゃって。…僕も」
混ぜて貰えますか、と言いかけた時に肩を叩かれ、動きが止まる。
「そうかそうか、体力余ってるのか。それはちょうどよかった」
「…主将…」
「実はご主人に米を厨房に運ぶと約束してたんだ。いやあ、思い出してよかった。明日の朝食がめし抜きになるところだった」
口元をひきつらせつつ肩越しにゆっくりと振り返る。満面の笑みを浮かべたギリアムがいた。
「手伝ってくれるよな、ヴァッシュ」
「頼むぞヴァッシュ、俺達の朝飯の為だ!」
「しっかりやれよ!」
「…ハイ、やらせていただきます」
口々に言いたいことを言われ、ヴァッシュは答えながらがっくりと肩を落とした。
暗い表情のピッチャーと、励ますようにその肩に腕を回した笑顔の野球部主将は並んで部屋を後にした。
食堂にメリルの姿はなかった。二人は食堂に入るとドアに程近い場所に腰を下ろした。その途端、二人の表情が一変する。
「何かあったのか?」
ヴァッシュは自主トレの後服を洗濯したこと、裏庭の物干し台に干しておいたのが短時間のうちになくなったことを説明した。
「…トレーナーとジャージだけ、か…」
難しい表情で腕組みをした主将の顔をヴァッシュはじっと見つめた。
「嫌がらせか…」
「え?」
小さな呟きを問い返したが、ギリアムは『いや、何でもない』と答えただけだった。
「念の為に言っておくが、お前が戻る三十分くらい前からあの部屋を出た奴は一人もいない」
「僕は皆を疑ったりしてません!」
自分の大声に驚いて辺りを見回す。誰かが聞きつけてここに来るかも知れない。
しばらく様子を見たが、幸い人がやってくる気配はなかった。
「…すまない、考えなしの発言だった。気を悪くしないでくれ。…まったく、主将の俺が動揺してどうするんだか…」
台詞の後半は独り言のような小さな声。ヴァッシュは居住まいを正すといつになく硬い声で尋ねた。
「何かあったんですか、この他に」
自分にまっすぐ向けられているブルーグリーンの瞳を正面から見返して、ギリアムは僅かに微笑んだ。
「お前が心配することじゃない」
ヴァッシュは眉根を寄せ押し黙った。
打ち合わせ、お疲れ様。何気なく口にした言葉だったが、あの時は打ち合わせをしたのかどうか判らなかった。
でもメリルは否定しなかった。すぐに話題が切り替わって返事ができなかっただけかも知れないが。
もし本当に打ち合わせをしていたのなら。
野球部に、あるいは俺個人に対する嫌がらせだと考えられる出来事が他にもあって、その為に主将やメリルは顧問に呼ばれたのではないか。――もしそうだとしたら。
『どうして話してくれなかったんだ…』
約束は必ず守る。言わないと約束したら絶対誰にも話さない。それこそ墓の中まで持っていくつもりだ。それは彼女も判ってくれてると、信じてくれてると思ってた。
「…もう少ししてから部屋に戻ろう。…そんな深刻そうな顔をするな。マネージャーが心配するぞ」
不本意ながらテーブルに密着したヴァッシュは、突っ伏したままギリアムを見上げ呟くように言った。
「…何でここでマネージャーが出てくるんですか?」
「マネージャーが部員の心配をするのは当然だろう?」
正論だが一般論の台詞からは主将の考えなど窺い知ることはできない。ヴァッシュは小さく吐息した。
人の気配にヴァッシュは跳ね起きた。四つの目が厨房に向けられる。
そこにいた黒髪の後輩に、ギリアムはもっともな質問をぶつけた
「ウルフウッド…どうしてここに?」
「水飲みに来たんやけど…あかんかったですか?」
「いや、構わないよ」
米を運搬するという名目で食堂に来たのだ。文句など言える訳がない。
ウルフウッドは勝手にグラスを取り水を飲むと、すぐにその場を離れた。


翌朝、ヴァッシュは素振りの前に裏庭の周辺を探してみたが、なくなった服は見つからなかった。風に飛ばされた、という願望に近い予測は残念ながら外れた。
朝食を終えた後、ウルフウッドがメリルに耳打ちしているのを見かけた。片手を顔の前に持っていき拝むようなポーズをしたから、何か頼み事をしたのだろう。
――何を? 釈然としないままヴァッシュは着替えを済ませた。
ウォーミングアップを終えた部員達がランニングしながら練習場に向かう。勝利荘は途端に静かになった。
「…ばあさんや、わしらはちょっと買い物に行ってくるよ」
「はいはい、いってらっしゃい。気をつけて」
にこにこ笑っている老婦人に緊迫感はまるでない。
「…お一人で大丈夫ですの?」
メリルは眉をひそめて問いかけた。昨日何者かに夕食の主菜をひっくり返されたばかりだ。犯人も判っていない。
物ならまだしも、もし老婦人に危害を加えられるようなことがあったら…
「心配いりませんよ。おじいさん達が帰ってくるまで先生がいてくれますから」
「そうですか…。でも、気をつけて下さいね。本当に」
夕べのアクシデントのお陰で食材にゆとりはないし、メールのやりとりもしなければならない。後ろ髪を引かれる思いでメリルは軽トラックの助手席に乗り込んだ。
大急ぎで買い物と課題の送受信を終わらせて、老人とメリルは民宿に戻った。幸い留守中にトラブルはなかった。
ほっと小さく安堵のため息をつき、メリルはすぐに次の作業にとりかかった。昼食の準備である。
昼近くになって部員達が帰ってきた。
「お疲れ様でした。お昼は麻婆豆腐ですわ」
合宿初の中華メニューに歓声が上がった。何品もある副菜には野菜がふんだんに使われていて、食べ盛りの男子高校生の胃袋を充分満足させられるボリュームがある。勿論栄養的にも申し分ない。
「いただきまーす!」
元気よく食事の前の挨拶をすると、全員一斉に食べ始めた。
『あれ?』
麻婆豆腐を一口食べて、ヴァッシュは僅かに首をかしげた。この味は…
それとなく視線をマネージャーに向ける。目が合うと、菫色の瞳が片方だけ一瞬瞼に隠された。
一昨日デザートを注文した後、メリルはトライガン学園のバッテリーが半ば取り合いをしたメニューのレシピを厨房に教わりに行ったのだった。店の味を見事に再現してみせたのは、調理人の教え方もさることながら、もともと料理が得意な彼女の腕があってのことだろう。
ヴァッシュの斜め向かいに座っているウルフウッドは、いつもと変わらぬ表情で黙々と箸を動かしている。朝食の時より食べるペースが速いようにヴァッシュには思えた。
午後の練習が始まる直前、ウルフウッドは再びメリルに耳打ちした。驚いたように目をみはったマネージャーはしばらくキャッチャーの顔を見上げていたが、やがて小さく吐息すると肯いて答えた。
「…さっき何話してたの?」
広い庭で二人一組になって柔軟体操をしながら、ヴァッシュはウルフウッドに小声で尋ねた。
「メシのことでちっとな。…マネージャーのこととなると目ざといやんか」
後半のからかうような口調にピッチャーの口元がかすかにひきつった。
「じゅううううううぶんっ、身体をほぐさなきゃね!」
地面に足を伸ばして座っている男の背中にのしかかるようにして体重をかける。その体勢ではウルフウッドもさすがに切り返すことができない。
「おんどれぁッ!! なんてコトしてくれんねん!!」
ようやく交替となった後、ヴァッシュはウルフウッドからたっぷり利息をつけて先刻のお返しを受けた。
「ちょ、ちょっとウルフウッド! いたたたた」
「じゅううううううぶんっ、ほぐさなあかんのやろ?」
「いたいいたい、痛いってば! 手荒なマネはなしっ!!」
「わかっとる、わかっとるがな」
そう言ってにた~~と笑うウルフウッドの顔は、ノーメイクでお化け屋敷でアルバイトができそうなほど不気味なものだった。苦しい姿勢の中何とか首と目を動かしてその表情を仰ぎ見たヴァッシュの顔から血の気が引く。
「まてまてまて、なんだその笑い…ノオ―――ッ!!!!」
人間台風の情けない悲鳴が辺りに反響して消えた。


洗い物を終えたメリルと老婦人は、夕食用の味噌煮込みうどんの下ごしらえを済ませてから洗濯にとりかかった。
老人はメリルに頼まれ再び買い物に出かけた。
玄関も裏口も普段は昼間は開けてあるのだが両方とも施錠した。もし用があって部員が戻ってきたとしても、裏庭にいる二人に声をかければ事足りる。
大量の洗濯物を室内に干し終えると、メリルは台所に向かった。具を煮込んだ二つの大きな鍋に変わったところはない。
老婦人と手分けして部屋の掃除をする。街から戻った老人も途中からそれに加わった。
メリルが異変に気づいたのは夕刻、鍋に味噌を溶き入れようとした時だった。煮汁の量は同じくらいなのだが、具が減っているのだ。
その場を老婦人に任せて、メリルは懐中電灯を手に外へ出た。扉の鍵穴を順に確認する。何かでこじあけたような不自然な傷はない。
いったん厨房に戻ると、メリルは老夫婦に鍋と鍵のことを説明し顧問のところへ行ってくると話した。あと三十分ほどで戻ってくるのは判っていたが、一刻も早く報告するほうがいいと考えたのだ。
「それなら私が行ってきますよ」
「でも」
「私は味噌煮込みうどんなんて作ったことありませんからねぇ。味付けのほうをお願いします」
「…判りました。では、お二人で行ってきていただけますか?」
ピッキングという特殊な工具を使えば、鍵穴に傷一つつけずに鍵を開けることができる。だがそれは窃盗のプロが使うものだ。もしそんな人が周囲に潜んでいるとしたら、年配者が暗い中一人で動くのは危ない。襲って下さいと言っているようなものだ。
女の子一人残すのは、と心配する二人にメリルは微笑みかけた。
「ドアに鍵をかけておきます。皆さんが戻るまで絶対に開けませんから」
玄関で老夫婦を見送って戸締まりを確認すると、メリルは夕食の準備を続けた。味付けを済ませ、うどんを茹でる。
食堂に箸や調味料を並べる。箸休めもできあがった。あとは時間を見計らって、うどんを軽く煮込むだけだ。
今できる作業を全て終えると、途端に静寂がメリルを包み込んだ。古びた広い民宿にたった一人でいるのだという現実を遅れ馳せながら実感する。
明るい厨房にいるのに、胸の不安は膨れるばかり。
不意に何かの気配を感じて、メリルは恐る恐る食堂のドアに目を向けた。その先には建物を東西に突っ切る廊下がある。
大きく深呼吸をして心を落ち着けてから、メリルは音を立てないようドアを開け一歩踏み出した。
老夫婦が野球部員達に合流したのは、練習の最後のメニューであるクールダウンの真っ最中だった。全員が中断し、老人から話を聞く。
「…それじゃ今マネージャーが一人で残ってるんですか!?」
「あ、ああ、そうじゃよ」
老人が持っていた懐中電灯を半ば奪い取ると、ヴァッシュは全力で走り出した。
「ワイも行きます」
老婦人から玄関の鍵を受け取り、ウルフウッドはヴァッシュの後を追った。
「我々は全員一緒に行動する。周囲の状況に注意するように」
顧問の緊張した声に、一同は一斉に肯いて答えた。
先を行く懐中電灯の明かりを頼りに走る。ウルフウッドはようやくヴァッシュに追いついた。
「…鍵なんて…意味…ないんだ…」
息を切らしながらヴァッシュは言葉を紡いだ。
侵入経路がドアとは限らない。窓ガラスを割ればそれで済む。
「せやな。…急がんと」
二人が玄関の前に立った時建物の大半は暗かった。厨房と食堂がある東側の一角が明るいだけだ。
「メリル! メリル!」
マネージャーの名を呼びながら、ヴァッシュは拳で扉を叩いた。ウルフウッドが鍵を取り出し鍵穴に差し込む。
鍵が開いたのと甲高い悲鳴が響き渡ったのはほぼ同時だった。





.............
勝利荘怪奇譚 3


「メリル!!」
ぶち壊す勢いでドアを開け、ヴァッシュは土足のまま声のしたほうへ走り出した。
暗い廊下に座り込んでいるメリルの姿が食堂から洩れる光に照らされていた。
「メリル!!」
ヴァッシュはメリルの肩に両手を置いて揺さぶった。ウルフウッドが廊下の電気をつけて周囲を明るくする。
「どうした!? 何があった!?」
震える右手が廊下の先を指差す。
「ひ…人影が…」
「誰かおったんか!? どっち行った!?」
「…突き当たりを…右へ…」
ウルフウッドは全神経を研ぎ澄ませて、左右に部屋が並んでいる廊下をゆっくりと進んでいった。
ヴァッシュはメリルの横に片膝をつくと、その華奢な体を抱き寄せた。
「もう大丈夫だから。傍にいるから。…怪我はない?」
小さな背中をそっとさすりながら優しい声で語りかける。首が縦に振られ、ほっと胸をなで下ろす。
「もう心配いらない。…俺が守るから」
呟くようにそう言うと、ヴァッシュは両腕に力を込めた。
突き当たりの右手には六畳弱の部屋があり、リネン室として使われている。襖に手をかけ気配を窺った後、ウルフウッドは勢いよく開けた。猫の子一匹いない。
明かりをつけて子細に確認する。誰かが潜んでいた形跡はない。部屋には窓が二つあるが、どちらもきちんと施錠されていた。桟にうっすらと積もった埃から見て、最近開閉されていないのは確かだ。
廊下を戻りながら再び周囲に注意を払う。人の気配はやはりない。念の為廊下に面した襖は全部開けていったがどの部屋も無人だった。
「誰もおらんで」
ウルフウッドには自信があった。しょっちゅう喧嘩していた頃は待ち伏せされるのは珍しくなかった。誰かが隠れているのなら見逃す筈はない。
「恐い恐い、思とったから幻でも見たんちゃう?」
「そんな!」
メリルは顔を上げウルフウッドをきっと睨みつけた。が、すぐに俯いて口元を手で覆い隠してしまう。
「…そう…かも、知れません…」
呟くような声で消極的ながらも同意する。
言葉とは裏腹に納得していない様子のメリルを訝しく思いながら、ヴァッシュは沈んだ雰囲気を変えようと努めて明るく言った。
「とにかくキミが無事でよかった。…ところで、夕飯も無事なのかな?」
「何や、マネージャーと夕メシとおんなじ扱いなんか」
ヴァッシュの意図を察したウルフウッドが早速まぜっかえす。
「そ、そんなつもりじゃ!」
「ほならどういうつもりや?」
「それは…」
口篭もる人間台風を見下ろし、ウルフウッドは口の端を僅かに吊り上げた。今の彼の姿を見れば、ヴァッシュが一番大切にしているものが何なのか一目瞭然だ。
「で、いつまでそうしとるんや?」
「え…あ!」
ずっとメリルを抱きしめていたことに気づいて、ヴァッシュは耳まで赤くなりながら腕を解き立ち上がった。
赤面している二人を眺めつつ、ウルフウッドは人間台風の足元を指差した。
「ま、頑張れや」
ヴァッシュは俯いてから背後を振り返った。玄関から一直線に残っている靴跡は一人分のみ。視線を戻してみると、ウルフウッドはちゃんと靴を脱いでいる。
急いで靴を脱いで手に持つと、ヴァッシュは気まずそうな表情でメリルに尋ねた。
「…雑巾、どこ?」


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