Ⅶ
一月中旬のある日、複数あるトライガン学園の掲示板には人だかりができた。候補者の名前が推薦者と共に発表されたのだ。
朝練を終えて教室に向かおうとしていたヴァッシュ達三人も、昇降口の近くにある掲示板の前で足を止めた。
投票は明日、さすがに無関心ではいられない。
ここにも生徒が大勢いて、遠くから名前が連記された紙を眺める形になった。
「えっ!?」
「何で…」
バッテリーが同時に声を上げた。しばらく硬直した後、そろそろと視線をマネージャーに向ける。
「どうしたんですの?」
掲示板が見えず、バッテリーが驚いた理由が判らないメリルは、怪訝そうな表情で二人の顔を交互に見上げた。
「…キミの名前がある」
「副会長候補やて」
菫色の双眸が大きく見開かれた。ショックで呼吸さえ満足にできない。
軽く頭を振って気持ちを切り替えると、メリルは一歩踏み出した。
「あの…すみません、ちょっと通して下さい」
謝りながら人垣をかき分け、メリルは掲示板の前に立った。副会長候補の三名の中に確かに自分の名前がある。
推薦者は同じクラスの男子生徒。
「どうして…」
呟きかけて、唐突に理由を理解する。
会長候補に記された二人の名。片方はキール・バルドウだった。
三人は生徒会室に寄り道した。現役員を拝み倒して見せて貰った推薦状の筆跡は、メリルがかつて入部届や退部届で見たキールのものとは異なっていた。
「やられましたわ…まさかこんな手段に訴えるとは…」
教室の自分の席に座り、メリルは小さく呟いた。すぐ傍に立つヴァッシュも困惑している。顔には出さないが、メリルを挟んでヴァッシュと反対の位置にいるウルフウッドも同様だった。
「やっぱりアイツの差し金かな」
「ええ、おそらく。あの二人は確か同じ部ですもの。一応ケビンさんに確認しますけど」
言いながら、メリルは自分を推薦したクラスメイトの席に目を向けた。予鈴が鳴るまであまり時間がないが、そこには誰もいない。
こんなことなら偽カップルを演じておくんでしたわ。我知らずため息が洩れた。後悔先に立たず、ということわざが重くのしかかる。
「ま、そんなに悩まんでもええんと違うか? 推薦されたっちうだけで、まだ決まった訳やあらへんのやし。明日わざとおかしなことやらかして落選したら」
「ストライフ家の恥になるようなことはできません!」
いつになく強い口調にヴァッシュは僅かに顔を曇らせた。練習初めでは普通に振る舞っていたが、やはり元旦には相当嫌な思いをしたのだろう。
「…推薦を辞退するとか、取り下げるとかできないのかな」
「候補者の選出を推薦のみにした由来を考えると、辞退は無理そうですわね。取り下げは…仮にできたとしても、申請できるのは推薦者でしょう」
となるとケビンの協力は不可欠だ。しかし、メリルに無断で推薦した彼が協力してくれるとは考えにくい。
「うーん…」
打つ手なし、か。三人は難しい表情で押し黙った。時間の余裕がほとんどないのが辛い。
「…とにかく、なるべく早くケビンさんと話をするようにします。対策を考えるのはそれからですわ」
結論が出るのを待っていたかのように予鈴が鳴り始めた。ヴァッシュとウルフウッドが自分の席に戻る。チャイムと同時に急ぎ足で教室に入ってきた話題の中心人物は、メリルのほうを見ようとしなかった。
メリルは授業の合間の短い休憩時間に何とかケビンと話をすべく努力したのだが、二度続けて失敗した。向こうも判っているらしく、授業が終わるとすぐに教室を出て姿をくらましてしまう。
メリルがケビンと話ができたのは四時間目の前だった。視聴覚室へと移動する僅かな間に声をかけたのだ。
「ケビンさん」
右隣から突然聞こえた自分を呼ぶ声に、男子高校生にしては小柄な体躯がびくりと震えた。慌てて逃げ道はないかと首を巡らせる。少し前を歩くヴァッシュが肩越しに振り向いた。左斜め後ろにはウルフウッドがいる。
「…お話ししたいことがありますの。少しお時間をいただけませんか?」
「い、今は時間がないから…放課後なら」
「…判りました」
小さく吐息しながらメリルは肯いた。対策を練る時間が更に少なくなってしまうが仕方がない。
「生徒指導室の窓の前で待ってる」
必要最小限のことだけ告げると、ケビンはヴァッシュの横をすり抜け走り去った。
一方的に指定された場所に三人は意表を突かれた。生徒指導室はL字型の建物の先端、体育館とは反対側の校舎の一階端にある。
同行する、というヴァッシュの申し出をメリルは断った。
「大丈夫ですわ。話を聞くだけですから」
大勢で行ったのではケビンさんも言いづらくなってしまうでしょうし。
クラスメイトに声をかけられマネージャーがそちらへと駆けていく。それを目で追いながら、ヴァッシュは眉根を寄せて何やら思案し始めた。
「…どないした?」
「…もしこれがキールの仕組んだことなら、放課後の話し合いもアイツが指示したことなんじゃないかな」
廊下を歩きながらヴァッシュは声をひそめて続けた。
「気になるんだ。話なら教室でもできるだろ? それなのに…。生徒指導室の場所は判るよね?」
ウルフウッドは無言のまま肯首した。
「昇降口から遠くて、校門からはもっと離れてる。それに、俺は入ったことがあるから知ってるんだけど、あの部屋の窓は一ヶ所しかないんだ。校舎の裏側、校庭とは反対側に」
一学期の終業式の記憶が脳裏に蘇る。薄暗い部屋で、担任と学年主任の前でモネヴ先輩達との顛末を説明させられた。
「…人目を避けるには絶好の場所っちう訳か」
「だからさ、――」
Ⅷ
放課後、メリルは顧問に『部活に遅れる』とだけ話し、一人指定された場所に向かった。選挙の準備の為だと解釈されたようだが、敢えて訂正しなかった。あながち的外れでもない。
ケビンは既にそこに来ていた。
「…貴重な時間を割いていただいてありがとうございます」
軽く会釈して礼を言ったメリルを、驚きに見開かれた茶色の双眸が凝視した。最初から詰問されるのを覚悟していたのだ。
ゆっくり顔を上げると、メリルは正面に立つクラスメイトをまっすぐ見つめた。ヴァッシュやウルフウッドと立ち話をする時とは異なり、目線の高さはそれほど変わらなかった。
「どうして私を副会長に推薦したのか、教えていただけませんか?」
「あ、あの…それは…」
菫色に輝く瞳に何もかも見透かされそうな気がして、ケビンは目をそらせた。緊張と後ろめたさから言葉が出てこない。
メリルは何も言わずにじっと答えを待った。
「それは僕から説明しよう」
沈黙を破る神経に障る声。校舎の陰から姿を現したのはキールだった。
「ケビン君、後は僕が引き受けた」
命令するような口調でも内容でもない。しかし二人は察した。言外の意味が『とっとと消えろ』だと。
「…うん、判った。じゃ」
短く答えると、ケビンはメリルに向かって走り出した。すれ違いざま彼が口にしたのは謝罪の言葉。
「あ、待って」
慌てて後を追おうとしたメリルの前に、素早く回り込んだキールが立ちはだかった。咄嗟に踏みとどまって衝突するのは回避したが、両腕を掴まれ身動きが取れなくなる。
「は…離して下さい!」
何とか振りほどこうとするのだがびくともしない。性差と体格差は埋めようがなかった。
「…どうしてあいつが君を推薦したのか、知りたくないのかい?」
あなたが裏で糸を引いてるんでしょう?
口まで出かかった台詞が発せられることはなかった。校舎の窓からヴァッシュが顔を出しすぐに引っ込めたのが見えたからだ。それもウインクというおまけ付きで。
自分達との距離を目算する。もし一人で対処しきれない事態に陥ったとしても、ヴァッシュの足なら三秒あればここまで来られる筈。
『なら…』
メリルはもがくのをやめた。それを諦めととったのか、キールが満足そうに薄く笑みを浮かべる。
「…お話を伺いますわ。ですから腕を離して下さいませんこと?」
しばし考えた後、キールは細い腕を解放した。メリルは一歩引いて距離を置き、正面の男をきっと睨んだ。
「先日部活中にケビンと選挙のことを話したんだ。ああ、彼とは同じ技術部でね」
技術部。主に金属を使っていろいろなものを作る。
やっぱりこの二人は同じ部でしたのね。頭の中で慌ただしく確認しつつ、メリルは不快感に眉をひそめた。
尊大なものの言い方。本人がいなくなった途端呼び捨てにする。キールがケビンを格下に見ていることは疑いようもない。
「僕を生徒会長に推薦しようという動きは元々あったんだ。『僕を補佐してくれる優秀な人材が欲しい』と言ったら、ケビンが『副会長にはメリルさんが相応しい』と言い出してね、一肌脱いでくれたんだよ。てっきり彼から話がいってると思ったんだが…」
もしそれが事実なら、ケビンはまず自分にその旨打診するだろう。クラスではあまり目立たない存在だが、少なくとも相手に無断で副会長に推薦するような非常識なことをする人ではないのは知っている。
ヴァッシュが窓から身を乗り出した。頭の上で大学ノートを開く。見開き一杯に一文字だけ『時』と書いてある。
大きな手が次々をページを繰る。続けて読むと『時間をかせいで』となった。
「…それであなたはその提案を受け入れたんですの?」
「勿論。僕を補佐できるのは君しかいない」
既に自分が当選しているかのような口ぶりにメリルは内心苦笑した。生徒会長候補は二人。結果は明日の投票次第だというのに。
そこまで考えて、急に背中を冷たいものが走った。もしこれが思いつきの行動でないとしたら、彼は二人とも当選するよう周到な準備をしたのではないか。
「生徒会長になったら、あなたは何をするつもりですの?」
キールは校則の改定や部の予算編成の改善案などを得々として語った。明日の予行練習を兼ねているのだろう、身振り手振りを交えて熱弁を振るっている。
『部の予算増を餌に票を取りまとめさせたんですのね』
耳障りな声を適当に聞き流しながら、メリルは心の中だけで唸った。考えていたよりも事態は深刻だった。
Ⅸ
二人が話している間もヴァッシュは度々顔を出した。状況を確認するようにメリルのほうをちらりと見た後、空を仰いではすぐに引っ込む。キールに気づかれては元も子もないからだ。
それは、彼が顔を出し始めて何度目のことだったか。
上を向いたヴァッシュが何やら合図を送っている。行動する時が近づいたことを察知したメリルは、キールの声を遮ってこれまでとは全く違うことを尋ねた。
「どうしてタイミングよくこの場に現れたんですの?」
「ケビンが『君にうまく説明できないかも知れない』と洩らしていたのでね、必要ならいつでも交替できるよう傍にいたんだ」
この質問を予測していたのだろう、答える声に淀みはない。だが、朗々とした声ではメリルを誤魔化すことはできなかった。
彼から話がいってると思った。ケビンが『君にうまく説明できないかも知れない』と洩らしていた。この二つの発言は明らかに矛盾する。第一ケビンはメリルを推薦した理由を一言も話していない。あの時点で交替する必要はなかったのだ。
ヴァッシュはメリルへ顔を向けると再びノートをめくった。『よけて』というメッセージを伝えた後、左手が人差し指を残して握られる。まっすぐ伸ばした指は上を指し示した。
「…それで、あなたは副会長に何を望むんですの?」
「いつも僕の傍にいて、僕を助ける。それだけだ」
メリルは額に手を置き、天を仰いで吐息した。さりげなく頭上を確認する。屋上から身を乗り出したウルフウッドが笑顔で左手を振っていた。右手の、近くのコンビニのものと思しき白いビニール袋は大きく膨らんでいる。
顔を正面に戻すと、メリルはまっすぐにキールを見つめた。
「なるほどですわ。これがあなたの『女性の拘束方法』という訳ですのね。短絡的かつ非道徳的な」
菫色の双眸に苛烈な光が宿った。
「程度低すぎですわ」
勝利を確信した者の余裕か、手厳しく非難されてもキールは暴力に訴えるようなことはしなかった。
「…ああ、そうかもな。だけど根回しタイムはもう終わりだ。結果は判ってる」
二学期の半ばから見学と称して野球部以外の部を回り、それとなく内情を探った。そして、話に乗ってきそうな部の中心人物に密かに交渉し、部の予算アップを見返りに部員全員に自分とメリルに投票させる約束を取りつけたのだ。一・二年生のほぼ七割を丸め込んだ計算だった。
ヴァッシュは窓枠に背中を預けて上体を外に出すと、右手をウルフウッドに、左手をメリルに向けた。
「私が今から足掻いても無駄だ、とおっしゃりたいのでしょう?」
「フ……気付くのが遅いなぁ、君は。…選挙は明日だ。もう手後れだし時間もない」
ヴァッシュが両手の親指を折る。四――カウントダウンスタート。
『気づいてないのは自分じゃなくて』
唇を動かさず、メリルは口の中だけで呟いた。
三。メリルはさりげなく視線を落としさ迷わせた。何かを見つけたかのような表情でキールの靴を凝視する。
二。メリルの視線を追って、キールは自分の足元をきょろきょろと見回した。メリルは顔を上げる。
一。軽く膝を曲げて呼吸を止め、ヴァッシュの左手を見つめてその瞬間を待つ。
ゼロ。勢いよく後ろに数歩飛び退る。メリルの気配が遠ざかったことにキールが気づいた。
が、時既に遅し。その瞬間、緑色の液体を満たしたビニール袋が彼の頭を直撃した。
「なっ…だ、誰だ!!」
ずぶ濡れのキールは憤怒の表情で空を見上げ、周囲に視線を走らせた。勿論ヴァッシュもウルフウッドももういない。メリル以外、人影は全くなかった。
「あら大変ですこと。風が冷たいですし気温も低いですから、早く帰って着替えをなさるほうがよろしいんじゃありません?」
「…貴様ッ!!」
自分を睨みつける剣呑な瞳に動じることなく、メリルは静かに言葉を紡いだ。
「風邪でも引いたら一大事ですわよ。選挙は明日でしょう? 休んでも結果が変わらないのであれば話は別ですけど」
キールは両腕を震わせ必死に自分を押さえた。感情の捌け口はメリルしかいない。だが、今ここで問題を起こせば十中八九せっかくの苦労が水泡に帰す。それに犯人は彼女ではない。手ぶらのメリルが水の入った袋を投げるのは不可能だ。
明日休めないのも事実だ。候補者本人の演説なしに対立候補を押さえて当選したとあっては、不正行為があったと声を大にして言っているようなものだ。もし事実が発覚したら、最悪の場合退学になることも考えられる。
濡れた身体に北風がしみる。キールは派手にくしゃみをした後、無言のまま足早に去った。
足音が聞こえなくなってから更にしばらく待って、ヴァッシュは窓から顔を出した。メリルが急いで駆け寄る。
「大丈夫? かからなかった?」
「ええ、大丈夫ですわ。助けて下さってありがとうございました。でもどうしてこんな所にいらっしゃるんですの?」
「アイツが黒幕だっていうのは予測できてたから、ちょっと心配になってね。来て正解だった」
「ずいぶん派手なことをなさいましたわね。…ざまあ見ろ、ですけど」
汚い言葉を口にし、いたずらっ子のような表情でちらっと舌を出す。初めて見るマネージャーの子供っぽい仕草にヴァッシュは我知らず微笑みを浮かべた。
「ウルフウッドの案なんだ。よっぽど腹に据えかねたらしいよ」
噂をすれば影。屋上から戻ったウルフウッドがヴァッシュの横に並んだ。メリルが頭を下げ礼を言う。
「大丈夫か? かからへんかったか?」
ヴァッシュとメリルは同時に吹き出した。事情が判らず、ウルフウッドが眉をひそめ二人を交互に見やる。
「…ごめんなさい。ヴァッシュさんと同じことをウルフウッドさんがおっしゃったから…」
メリルの説明にウルフウッドは心底嫌そうな顔をした。横目で隣の男を睨む。同レベル扱いされるのは彼にとっては不本意だった。
ようやく笑いを収めると、ヴァッシュは口をへの字に曲げた男に先刻聞いた会話をかいつまんで話した。
「…性にあわんわ、そのやり口」
「どうする? 生徒会に届け出て選挙を中止して貰う?」
「私達三人が証言しても、あの人もケビンさんも、裏取り引きのあった部の人達も絶対否定しますわ。それを覆せる だけの証拠はありませんし。…まだ時間はあります。策を考えますわ」
重苦しくなった雰囲気を変えるべく、メリルは無意識のうちに刻まれていた眉間の皺を伸ばし明るい声で言った。
「それにしても見事な連係プレーでしたわね。前もって打ち合わせてらっしゃったんですの?」
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