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うろほろぞ
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vp9


夕食の前に全員自分の荷物を調べたが、財布や貴重品等がなくなっていた者はいなかった。老夫婦の持ち物も同様である。手分けして民宿中の窓を調べたが、壊されたりこじ開けられた形跡のあるものはなかった。勿論全て施錠されている。
盗んだのが鍋の中身だけというのは解せない。メリルが見たという人影も含めて、マネージャーの勘違いではないか、という意見が大勢を占めた。
「昨日のことも、猫か何かの仕業かも知れんな」
小声でそう言ってメリルの肩を軽く叩くと、顧問は自分の席についた。メリルも反論しなかった。
どことなく落ち着かない雰囲気の中で食事が始まった。
味噌煮込みうどんの汁を一口飲むと、ウルフウッドは自分の目の前に置かれていた七味唐辛子に手を伸ばした。
ざかざかと音がする度にうどんが赤くなってゆく。食堂にいたほぼ全員の視線がそこに集中した。
「お、おいウルフウッド…入れ過ぎじゃないのか?」
たまたま隣に座っていた副主将の問いかけに、ウルフウッドは普段と変わらぬ口調で短く答えた。
「ワイ、辛党ですねん」
真っ赤になったうどんを平然とすすっている姿を横目で見ながら、メリルは小さくため息をついた。
朝食の後『辛いモンが食いたい』とリクエストされ、教わったばかりの麻婆豆腐を作った。それでも昼食の後で『辛さが足りひん』と言われたので、老人に頼んで七味唐辛子を買ってきて貰ったのだ。
テーブルに戻された瓶の残りを確認して、メリルは再び吐息した。
『お特用…いえ、業務用を買っておいたほうがよかったかしら』
明日以降の献立をどうするか…。合宿終了まであと七食、頭の痛い問題だった。
夕食と入浴が済むと、部員は部屋に戻って思い思いのことをして過ごした。だが、その中にバッテリーの姿はなかった。
ヴァッシュはいつものように裏庭で素振りをしていた。
背後から近づく気配を感じて、振り向きざまに身構える。バットは手ごろな武器と化した。
「ちょい待ち。ワイや」
「ウルフウッド…昨日の話、思い出したのかい?」
ゆっくりと息を吐き、全身の緊張を緩める。
「ちゃうちゃう。話したいんは謎の事件のことや。…マネージャーが見たっちう人影、どう思う?」
「どうって…幻を見たんじゃないかって言ったのはキミだろ?」
「まあ、それだけやったら見間違いで片づけるんやけど…実はな、昨日晩メシ用のおでんを台無しにされたんやと」
風呂から上がると、ウルフウッドは老婦人をつかまえカマをかけた。
『マネージャーから聞いたんやけど、昨日は何や大変やったそうで』
老婦人は野球部の新顔を疑うこともなく、おでんを煮ていた鍋がひっくり返されていたのを二人で見つけたこと、大急ぎで親子丼を作ったことを話した。
「ワイらが戻るちっと前に気がついたそうや。それにオドレの服、まだ見つかってへんのやろ?」
「ああ。昨日も今日も風はそんなに強くないから、見つからないほど遠くまで飛ばされたってことはないと思うんだけど…」
答えてから、ヴァッシュはやっぱり聞いてたんだ、と呟いてため息をついた。
「主将は嫌がらせじゃないかって考えてる」
「野球部にか?」
「判らない。僕個人にかも知れないし」
「恨まれる心当たり、あるんか?」
五年ほど前の辛い記憶の断片が蘇り、ヴァッシュは思わず顔をしかめた。もしあの時と同じ理由でのことなら…いや、それにしてはやり方が回りくどい。もしそうなら直接自分を狙う筈だ。それに何故今なのか。
「…マネージャーに対する嫌がらせ、っちうことも考えられるか…」
ヴァッシュの思考はウルフウッドの独り言に遮られた。
「え?」
「オドレの服のことはちと置いといて、二日連続で料理に手ぇ出す、今日は一人でおるところを脅かす…一番迷惑被ったんはマネージャーやろ」
「…!!」
メリルを狙いそうな奴等ならいる。嫌がらせは夏にフィルムを駄目にされた報復か。
今彼女がいるであろう場所に思い至って、ヴァッシュの顔が強張った。
「ウルフウッド、一緒に来てくれ!」
二人は足音を忍ばせて建物に沿って移動した。目指すは建物の南西の角にある風呂場だ。
壁に身を寄せてそっと顔を出す。窓の近くに人影が四つ。手に持っているのは値段も性能も高そうなカメラだ。
「あいつら…」
低い呟きに怒りが満ちていた。
「はぁん…そういうことかいな」
ウルフウッドの声にも不快感が滲んでいる。
「二対四。取り押さえられるか?」
どの程度撮影されたのか判らない。一人も逃がす訳にはいかないのだ。
「誰に向かってゆうとんねん」
むっとしたような声に苦笑混じりに詫びてから、ヴァッシュは表情を引き締めた。
「…行くぞ!」



「あっという間に決着ついたねぇ」
地面に転がっている男達を見下ろして呟くヴァッシュの息は全く乱れていない。ウルフウッドも同様である。
一撃必勝、声を出す暇も与えずに全員気絶させたのだ。お陰で風呂場にいるであろうメリルに気づかれずに済んだ。
四人は夏の合宿半ばに野球部を退部した写真部の連中だった。
「…で、どないする?」
「先生と主将に報告してくる。見張りを頼む」
小声で言葉を交わすとヴァッシュは走り出した。数歩進んだところで振り返り、その場で足踏みをしながら真剣な面持ちで唇だけ動かす。
『の・ぞ・く・な・よ』
『見損なうな!!』
声を出さずにピコピコして怒りを顕わにするウルフウッドを残して、ヴァッシュは裏口を目指した。
しばらくして、ヴァッシュがギリアムと顧問を連れて戻ってきた。
「とにかく中に運ぼう。対策を練るのはそれからだ」
顧問の指示で、ギリアム達は気絶した四人と近くにあった鞄を食堂に運んだ。荷物や服のポケットを検め、撮影済みのフィルムとカメラに入っていたフィルムを全部光に当てて感光させる。デジカメから抜いたメモリースティックは粉々になるまで踏んだ。
「まったく…懲りない連中だな」
作業を終えたギリアムが吐き捨てるように言う。ヴァッシュも同感だった。
「二人とも、よく気づいてくれた。お陰で被害を出さずに済んだ。…さて、こいつらをどうするかだが…」
「退学ですよ! こんな奴等と同じ学校にいるなんて…冗談じゃない!!」
学校でまたメリルが狙われることだって充分考えられるんだ!!
「落ち着けやトンガリ。この件が表沙汰んなったら、マネージャーかてしんどい思いするんやで」
ウルフウッドの指摘にヴァッシュは息を呑んだ。退学の理由が明らかにされればメリルは注目の的となる。口さがない連中に何を言われるか判ったものではない。
「懲りない、いうことは、前にもこんなことがあったっちうことですか?」
ギリアムはウルフウッドに夏の合宿での出来事を説明した。話が進むにつれて黒髪に縁取られた顔が歪んでいく。
「…初犯やない、いう訳か。…ワイに任して貰えませんか? 考えがありますよって」
六つの目がウルフウッドに集中したその時、食堂のドアがノックされた。
「先生? こちらにいらっしゃいますか?」
続けて聞こえてきたマネージャーの声に全員の顔が強張る。
「あー、その…」
意味のない顧問の言葉を返事ととったのか、メリルが食堂のドアを開けた。自分を見つめる四人の硬い表情と、床に倒れている元野球部員に気づいてその場に立ち尽くす。
「あ、あの…食事のことで相談したいことが…」
それ以上言葉が続かない。重苦しい雰囲気を察したメリルの顔が不安げに曇った。
ウルフウッドが動いた。ドアに歩み寄り、自分の身体でメリルの視界を遮る。
「ウ、ウルフウッドさん?」
「あいつらがアンタのこと盗撮しようとしとったんでな、これからちとお灸を据えるとこなんや。悪いけど、後にしてくれるか?」
既に撮影されていたことは言わなかったが、それでもメリルの顔はひきつった。
「…何を…するんですの?」
「手荒なことはせえへん」
「でも」
「ここから先はあんたの見ていい世界やない。あいつらの事はワイらに任せて部屋に戻り」
「そうしてくれ。こちらが片づいたらすぐに行く」
拒否を許さないウルフウッドの声。更に顧問にそう言われて、メリルは従うしかなかった。
「…判りました。部屋に戻ります」
メリルの後ろ姿が完全に見えなくなるまで待って、ウルフウッドはドアを閉めた。

ⅩⅠ
背中や腰の冷たい感触に、写真部の一人はようやく意識を取り戻した。古ぼけた天井、自分を覗き込んでいる三つの顔。どれも厳しい表情を浮かべていて…
慌てて飛び起き、自分の姿に愕然とする。服を着ていないのだ。辺りを見回すと、他の三人も裸で床に寝かされている。
「お、おい、起きろ!」
仲間の頬を叩いて回る。小さく呻きながら目を開けた三人は、自分の状態に揃って絶句した。
「やあっとお目覚めかい」
のほほんとした声に硬直し、恐る恐る首を巡らせる。かつて運動部が熾烈な獲得争いをした男がこちらを見て笑っていた。――否、目は笑っていない。
「マネージャーを盗撮するために遠路はるばるご苦労さん。ま、無駄足になってもうたけどな」
ウルフウッドの視線を追って、四人もそれを見た。とぐろを巻く黒一色のフィルム、メモリースティックの残骸。
「な、何てことを!」
フィルムはともかくメモリースティックは高価だ。食ってかかろうとした四人の舌は、笑みを消した黒髪の男の表情に凍りついた。
「それはこっちの台詞や」
再びウルフウッドが笑った。肉食獣を思わせる獰猛な笑顔。
「いっつも撮ってばっかりやとつまらんやろ。ワイがしっかり撮ってやったさかい、感謝しいや」
四人の顔から血の気が引く。
「ポーズもアングルも凝りまくったんやで。公表されたら街歩けなくなること請け合いや」
ギリアムとヴァッシュがそれとなく顔を背ける。それが四人の想像を悪いほうへと掻き立てた。
「今後一切うちのマネージャーに近づくな。もし近づいたら…判るやろ?」
「そんな、それじゃ報酬が」
写真部の一年生が言いかけ、慌てて口をつぐむ。三人の表情が更に険しくなった。
「…早く服を着ろ。そこの椅子に置いてある」
怒りを押さえた声でギリアムが言った。四人が急いで身支度を整える。
「…君達に訊きたいことがあるんだけど」
ヴァッシュは服を着た四人を等分に見ながら問いかけた。
「昨日の夜、僕の服を持ち去ったか?」
「…知らない。俺達は今日ここに来たんだ」
リーダーと思しき二年の部員がふてくされながらも答えた。
「それじゃ、今日勝利荘に忍び込んだことは?」
「いや。鍵がかかっててできなかった」
「鍵が開いてたら、マネージャーの下着でも盗むつもりだったのかな」
しまった。部員の顔には後悔の色がありありと浮かんでいる。
ヴァッシュは目を細めると、ジーパンのポケットに両手を突っ込んだまま四人に歩み寄った。ギリアムが慌てて声をかける。
「ヴァッシュ、手を出すな」
「手は出しませんよ」
確かにヴァッシュは四人に手は出さなかった。全員に頭突きをお見舞いしたのである。
「今後もしトライガン学園の関係者の間で盗撮騒ぎがおこったら、それ一切君達の責任ね」
額を押さえてうずくまる男達を前に、ヴァッシュは語尾にハートマークがつきそうな口調で言った。
「…なッ!」
「それで退学にならずに済むし、街を歩けなくなることもない。安いもんだろ!? …もっとも…」
声色ががらりと変わった。いや、声色だけではない。目つきも、表情も、身に纏う雰囲気も。
「失敗したら、地獄の底まで追いかけてくからそのつもりで」
四人の目はほとんど白目のみになっていた。卒倒しなかったのが不思議なくらいだ。
一歩退き、ギリアムのほうに向き直ったヴァッシュは、もういつもの表情に戻っていた。殺気に近い剣呑な空気も綺麗に消えている。
「主将、ご主人に車を出してくれるよう頼んで貰えませんか。ローカル線だから終電は早いだろうけど、車で行けば間に合うと思うんです」
肩越しにちらりと視線を走らせる。
「あいつらと同じ屋根の下で過ごすなんて、マネージャーは気持ち悪いでしょうから」
俺だってごめんだ、と心の中だけで付け足す。今もそうだが、傍にいられたらぶん殴ってやりたい衝動を必死に押さえなければならない。
ピッチャーの提案ももっともだ。ギリアムは肯くと、四人を連れて食堂を後にした。
「…もういいですよ、先生」
ヴァッシュの声に厨房にいた顧問が姿を現した。退学確実な盗撮事件を知りながら黙殺したとあっては、顧問の立場が微妙なものになる。メリルの為に表沙汰にしないと決めた以上、あくまで生徒間で決着をつけたことにしなければならなかったのだ。
「…さっきの凄い音は何だ?」
「いやあ、ちょっとしたコミュニケーションですよ」
にこやかにとぼけるヴァッシュにそれ以上の追求は無駄だと考えたのだろう。顧問は嘆息すると話題を変えた。
「これで大人しくなるといいんだが…」
「大丈夫や、思います。損得勘定のできる奴みたいやし、自分の将来棒に振るようなことはせえへんでしょう」
人間台風にあれだけ凄まれたんや、肝っ玉の小さいあいつらが何か企むとは思えへん。
「まあ、念の為マネージャーに気をつけるよう言っておこう」
顧問は食堂を出るとメリルの部屋へと向かった。
「…僕もすることがあるから」
何をするのかは説明しないで、ヴァッシュはウルフウッドを残して食堂を出ていった。その足で管理人室に行き、ドアをノックする。
「はい?」
顔を出した老婦人に一礼すると、ヴァッシュは真剣な表情で口を開いた。
「実はお願いしたいことがあるんです。…」





.............



勝利荘怪奇譚 4

ⅩⅡ
顧問との話は短時間で終わった。課題も済ませた。献立の見直しも終了した。今日やるべきことはもう何もない。
部屋の明かりをつけたまま布団に横になっていたメリルは、小さくため息をつくと身を起こした。夜もだいぶ更けてきているというのに一向に眠くならない。
ひっくり返されたおでん、減っていたうどんの具、夕方見た人影、盗撮未遂。
『写真部の四人にはしっかりと釘を刺しておいた。もう大丈夫だとは思うが、一応気をつけるように』
打ち合わせの最後にそう言われたものの、これで全ての問題が解決したとは思えない。漠然とした不安が胸にわだかまっている。
「メリルさん、起きてます?」
「は、はい」
襖の向こうから老婦人に声をかけられ、メリルは慌てて布団を抜け出し静かに襖を開けた。
「どうかなさいました?」
「こんな時間にごめんなさい。ちょっとお願いしたいことがあって…」
老婦人は今日の夕食のメニューだった味噌煮込みうどんを教えてほしいとメリルに言った。
「おじいさんが気に入ったみたいで…。私でも作れますかねぇ」
メリルは柔らかく微笑んだ。夏の合宿の時も今回も、手を繋いで森を散歩する二人の姿を何度も見かけた。互いを大切にしているのがよく判る。
「ええ。とっても簡単ですのよ」
「よかったら管理人室に来ませんか。お茶をいれましょう。お菓子もありますし」
「でも、お邪魔じゃありません?」
管理人室は夫妻の私室を兼ねており、二人がそこで寝起きしていることは全員が知っていた。
「大丈夫ですよ。おじいさんは酒瓶片手に先生のところへ行きましたから」
「そうですか。…それじゃ遠慮なく」
メリルが管理人室に入るのはこれが初めてだった。八畳ほどの畳の部屋に、ちゃぶ台と座布団と小型のテレビと小さな和箪笥が置かれている。清潔だが飾り気のない、殺風景な印象の部屋だった。それだけに、和箪笥の上の写真立てがひときわ目を引いた。
古い写真だった。今よりずっと若い夫妻が並び、十歳くらいの黒髪の少年がその前で笑っている。婦人に抱かれ眠っている乳児。暖かな家族の肖像。
メリルは僅かに首をかしげた。ご夫妻にはトライガン学園野球部OBの一人息子がいると聞いている。だとしたらあの赤ちゃんは…
「どうぞ座って下さい」
「はい、ありがとうございます」
座布団に正座し、メリルは持参したレポート用紙に味噌煮込みうどんのレシピを書いた。請われるまま、いくつかの料理のレシピを続けて書く。その間に老婦人は日本茶をいれ、どら焼きと一緒にちゃぶ台に置いた。
老婦人は十数枚のレシピに目を通し、時々質問しては余白にいろいろと書き込んでいった。
「…どうもありがとう。あ、お茶が冷めないうちに召し上がれ」
「すみません、いただきます」
どら焼きを頬張りながら、二人は他愛のない話に花を咲かせた。
「…いけない、もうこんな時間ですのね。私、そろそろ戻ります。遅くまでお邪魔して申し訳ありません」
メリルは軽く頭を下げ立ち上がった。写真のことは気になるが、こちらから質問するのははばかられた。
「そうだ、もしよければこのままここで休んでは?」
「でもご主人が…」
ちゃぶ台と座布団を片づけながら、老婦人は小さく吐息した。
「おじいさんはお酒が入るとすぐ寝てしまうんですよ。どうせ戻って来れないと思って、お布団一組先生の部屋に運んでおきました。今頃きっと高いびきですよ」
ころころと笑う老婦人につられてメリルも笑った。
「…よろしいんですか?」
「ええ、娘ができたみたいで私も嬉しいですし」
「…では、お言葉に甘えて」
押し入れから布団を出して敷くと、二人はそれぞれ横になった。明かりを消してからもしばらくは話をしていたが、やがて静かな寝息が小さな声にとってかわった。

ⅩⅢ
写真部とのトラブルは一応決着がついたが、ヴァッシュの心は晴れなかった。初日のおでんの件は野良犬か何かの仕業だとしても、昨日の鍋のことや人影がメリルの勘違いだとは思えない。それに、自分の服もまだ見つかっていない。
合宿三日目の朝も、彼の心とは裏腹にいい天気になった。日課の素振りを終え、タオルで額の汗を拭いながら屋内に入る。
シャワー室は風呂場の隣にある。そこに向かう時、ヴァッシュはいつも南側の廊下を通ることにしていた。
建物の中央を貫く廊下とは異なり、こちらは南に面したほうがガラス戸になっていて、昼間は庭とその向こうの森が見える。まるで細長いサンルームのようだ。
老夫婦が手分けして雨戸を開けている。毎朝見かける光景だった。
部員達が寝泊まりしている東に近い雨戸はまだ閉まったままだ。西に近い雨戸はほぼ全部開けられている。
「おはようございます。…マネージャー、夕べどうでした?」
「私達の部屋で寝ましたけど、よく眠ってましたよ」
老婦人の答えに、心配と照れが入り交じるヴァッシュの表情が笑顔へと変わった。
メリルは野球部の男達が使っている部屋から一番遠い部屋――リネン室の隣の部屋を使っていた。奇妙な出来事が続いているし、写真部の盗撮騒ぎもあった今、一人では心細いだろうと思い老婦人に一緒に休んでほしいと頼んだのだ。
「そうですか…。ありがとうございました。ご主人を追い出しちゃったみたいで申し訳ないです」
「いやいや、先生と久しぶりに呑んだんでな。楽しかったよ」
夫妻の優しい言葉に、ヴァッシュは深々と頭を下げた。
「手伝いましょうか?」
「大丈夫じゃよ。それより早くシャワーを浴びなさい。風邪をひかんようにな」
これも毎朝くり返される会話だ。ヴァッシュは苦笑しながら礼を言って老人の横を通り過ぎようとした。
不意にガラス戸が音を立てて割れた。それも一枚だけではない。風呂場に近いほうから順に、次々と割れたりヒビが入ったりする。
ヴァッシュは身体を右に傾け、自ら老人の盾となった。と同時に左腕で老婦人を引き寄せて自分の背に庇う。すぐ右のガラス戸に亀裂が走った。
次は自分の正面――左手を顔の前にかざして身構える。
だが、予想に反して三人がいる場所のガラス戸には何の変化も起きなかった。一拍遅れてヴァッシュの左側のガラスが割れた。
「どうしたんですの!?」
その声にヴァッシュは首を巡らせた。エプロンをつけたままのメリルが暗い廊下を走ってくる。
「止まれ! 近付くな、キミは!!」
そう言われても、板張りの上をスリッパで走っているのだから簡単には止まれない。何とか踏みとどまろうとしたが勢いを多少殺すことしかできず、メリルは日の差し込む明るい場所へと飛び出した。すぐ横を複数の光が舞う。
「メリル!!」
咄嗟に両手で頭を庇いしゃがみ込んだマネージャーの元へ駆け寄る。左手の甲に一筋の赤い線。
「大丈夫…かすり傷ですわ」
ゆっくりと立ち上がると、メリルは額が膝につくくらい深く身体を倒して襟や肩の上に残っていたガラスの欠片を下に落とした。幸い切り傷は左手の一ヶ所だけだった。
遅まきながら部員達が襖を開け、眠そうな顔を覗かせた。廊下に散乱している輝くガラス片にいっぺんに目が覚める。
「これは…!?」
「お前がやったのか、ヴァッシュ?」
「何でそうなるんですか!?」
先輩の無情な一言に思わず声を荒げた人間台風は、次の瞬間我に返った。原因究明よりも先にやらなければならないことを思い出したのだ。
「きゅうきゅうばこー!!」
メリルの手当ては老婦人がやってくれた。いたって冷静な怪我人とは対照的に大騒ぎをしているピッチャーは放っておいて、部員達は手分けしてガラス片の掃除とヒビの入ったガラス戸の補強を始めた。
「…妙だな」
そう呟いたのはギリアムだった。
「主将、どうかしました?」
「どうして割れたんだ?」
原因としてまず考えられるのは石などを投げられたということ。しかし廊下にはガラスの破片しかなかった。
次に突風によるものだが、一部のガラス戸は無傷だし、それらしい音は聞こえなかった。
誰かが直接ガラスを割ったのなら、ヴァッシュや老夫婦がその姿を必ず目にした筈。だが三人とも庭には誰もいなかったと証言した。
「…幽霊、とか…」
昨日マネージャーが見たという人影。それなら密室だった勝利荘から忽然と消えたのも納得できる。
「まさか…」
部員達は互いに顔を見合わせ力なく笑った。妙に乾いた笑い声だった。


ⅩⅣ
朝食の後、ウルフウッドはメリルに歩み寄ると小声でいくつか頼み事をした。メリルが驚いたように目を丸くする。
更に言葉をかけ、念押しするように華奢な肩を軽く叩いてから、ウルフウッドは食堂を出た。
「何話してたの?」
ヴァッシュは飄々とした黒髪の男に並ぶと歩きながら尋ねた。顔にも声にも不機嫌そうな様子が滲み出ている。
「ちょうどええ、オドレも手伝え」
「?」
「鍋の謎、解けるかも知れん。着替えの前に主将に交渉や」
午前の練習を終え、シャワーを浴びて着替えた部員達が三々五々食堂に集まってくる。漂う香辛料の香りにテーブルに目を向け、思わず足が止まる。
一人分だけメニューが違う。匂いの元はその料理だった。
「お疲れ様でした。お昼は皆さんは肉豆腐、ウルフウッドさんだけキムチ鍋ですわ」
昨夜顧問に相談して許可を貰ったメリルは、筋金入りの辛党の為に特別食を用意したのだ。
一斉に挨拶して食事が始まった。
ウルフウッドは早速キムチ鍋の豚肉を頬張った。表情が僅かに曇る。
「あの…お口に合いませんか?」
メリルは恐る恐る質問した。七味唐辛子の減り具合から普通のキムチだけでは足りないだろうと思い豆板醤を入れたのだが、味見ができないほど辛くなってしまったのだ。
「…もっと辛いほうがええねんけど」
「もっとですか!?」
自分の声に驚いて慌てて口を押さえる。食堂にいた全員の目がマネージャーに向けられた。
「何? どうしたの?」
ウルフウッドから話を聞いたヴァッシュは横からキムチ鍋に箸を伸ばした。
「一口貰うよ」
ふうふう吹いて冷ましてから、白菜を口に入れる。その途端ヴァッシュは箸を放り出し、両手で口を覆った。味など判らない。ひたすら熱くて痛いだけだ。
メリルが差し出したコップの水ごと白菜を飲み込む。本当は吐き出すほうがいいのだろうが、彼女が作ったものを生ゴミにするのは嫌だった。第一行儀が悪い。
ヴァッシュの喉をぴりぴりした感触が通り抜けた。
「…よく…食べられるね…キミ…」
目尻に涙を浮かべながら呟く声は少し嗄れていた。
「人の嗜好にケチつけんなや」
ウルフウッドは平然と箸を動かしている。
メリルはもう一度別のグラスに水を注ぎ、顔を赤くしたヴァッシュに手渡した。礼を言って受け取り一気に飲み干す。
ようやく人心地ついて、安堵のため息を洩らす。
気を取り直して食事を再開したヴァッシュだったが、味噌汁を一口飲んで絶句した。味が全く判らない。舌が麻痺してしまっている。
『絶対おいしい筈なのに…』
料理ではなく損した気分を味わいながらヴァッシュは全部平らげた。残したくなかったのだ。
それに、午後に起こるであろう騒動に備えてエネルギーを補充しておきたかった。


ⅩⅤ
顧問と部員達が午後の練習に出かけて間もなく二時間が経とうという頃。
夕食の仕込みを終えたメリルと老婦人はいつものように裏庭で洗濯を、老人はシャワー室の掃除をしていた。
今なら大丈夫。そう確信し、男はポケットから取り出した鍵で玄関を開け中に入った。せわしなく目を動かし、人がいないことを確かめる。シャワー室のかすかな水音以外何も聞こえない。
周囲の気配を窺いながら厨房へ直行する。
『!?』
厨房にある冷蔵庫は業務用の大きなもので、扉は観音開きになっている。その扉の取っ手全てに鎖が巻かれ、
南京錠がかかっていた。
慌てて辺りを見回し、コンロの上の鍋に目をつける。蓋を開けた男の身体が硬直した。
鍋の中身は鯖の味噌煮だった。切り身が十四切れ。なくなれば一目で判ってしまう。
「くそっ」
思わず小声で呟いたその時。
「はぁいそこまで」
底抜けに明るい声に、男はぎょっとした表情で振り返った。厨房と食堂を行き来する為の扉のない出入口の柱にもたれかかるようにして立つ、金髪を逆立てた男。彼が人間台風と呼ばれていることを男は知っていた。
「僕達の夕飯に手ぇ出さないで下さいね」
ブルーグリーンの双眸が僅かに細められた。男がはいているサイズの合っていない黒のジャージ、あれは…
「…それ、僕の服だと思うんだけど」
柱から背を離し、組んでいた腕をほどきながら厨房に一歩足を踏み入れる。
顔面めがけて飛んできたものを反射的に受け止める。男が持っていた鍋の蓋だった。
ヴァッシュの足が止まった隙を見逃さず、男は踵を返すと廊下へ走り出た。途端に身体が宙に浮き、次の瞬間背中に感じた衝撃に呼吸が止まる。腕を取られて投げ飛ばされたのだと理解するまでに数秒を要した。
「逃がさへんで」
上体を起こしかけた自分を冷たく見下ろす黒髪の男。少し遅れてその横に人間台風が並んだ。ちなみに合流が遅くなった理由は鍋に蓋をしていたからである。
逃げられない――男は床にあぐらをかくと全身の力を抜いた。
「なあ、コイツ知っとるか?」
「いや」
答えながら、ヴァッシュは男の傍にしゃがみ込んだ。失礼、と短く断って、着ている黒いセーターの袖を少しめくる。
覗いた淡いブルーに見覚えがあった。
「そのトレーナーも僕のだよね」
「何や、トンガリのファンなんか」
「違う!!」
男は力一杯否定した。額に落ちかかった長い黒髪を鬱陶しそうにかきあげる。
「名前は? どうして僕の服を盗ったりしたの?」
「……」
「素直に吐かんかい、このクチビルゴーレム」
「誰がクチビルゴーレムだっ!!」
男の怒鳴り声を聞きつけてメリルと老婦人が駆けつけた。メリルは男の顔を見て何かを思案するような表情を浮かべ、老婦人はしばらく立ち竦んだ後シャワー室目指してあたふたと走っていった。
「この人、マネージャーの知り合い?」
「いえ…でも、どこかで…」
確かに見たカオ。はれぼったく見える一重の目、厚い唇。だけどこんな顔じゃなくて、もっと…
「!! あ――ッ」
「ど、どうしたの!?」
そこへ老夫婦がやってきた。男が気まずそうな表情で顔を背ける。
「……!! バドウィック…!!」
老人がそう呟いて絶句した。寄り添う老婦人も言葉を失っている。
ヴァッシュとウルフウッドは揃って視線をマネージャーに向けた。
「…ご夫妻の息子さんですわ。トライガン学園野球部のOBというのはたぶんこの方です」

ⅩⅤ
バドウィックのことは老夫婦に任せて、ヴァッシュ達は練習に加わり、メリルは再び家事にいそしんだ。ウルフウッドのメニューは主菜は同じで副菜だけ味付けを変えようと考えていたのだが、急遽別の料理を作り彼の分の鯖の味噌煮をバドウィックにまわすことにする。
夕食の前に老人はバドウィックを紹介し、今日里帰りしたとだけ話した。お世話になっている老夫婦の息子で自分達の先輩にあたる男を、現役野球部員達は一部を除いてすんなりと受け入れた。
入浴後、ギリアム・ヴァッシュ・ウルフウッド・メリルは顧問の指示で管理人室に向かった。
部屋には顧問が既に来ており、老夫婦とバドウィックもいた。バドウィックは誰とも目を合わせようとしない。
「座れ。お前達には事実確認の場に立ち会って貰おうと思ってな」
教え子が思い思いの場所に座るのを待って、顧問は一同を見回し咳払いをした。当時を振り返るように目を閉じて言葉を紡ぐ。
「…バドウィックのことは覚えてる。十年…十二年くらい前に野球部にいた奴だ。バントや盗塁が得意だった。…
高校を卒業して地元に就職したんだが、一年もしないうちに家を出ていってしまった」
顧問は目を開けるとかつての教え子をじっと見つめた。
「…とりあえず、元気そうで安心した。…でもどうして急に家を飛び出したりしたんだ? どうして忍び込むような真似をした?」
返事はなかった。
「…帰ってきたものの親に会わせる顔がない。で、コッソリ忍び込んじゃあメシを盗んどった…ちゃうか?」
やはり返事はない。小さく吐息すると、ウルフウッドはメリルへと視線を動かした。
「マネージャー、午後に洗濯したもんはどうしてたん? 外に干しっぱなしやないやろ?」
「ええ、初日は日が落ちる前に取り込んで空いている部屋に干し直しましたわ。ヴァッシュさんの服がなくなったので、 二日目からは全部室内に干すようにしましたけど」
その答えに満足そうに肯くと、ウルフウッドは視線をバドウィックに移した。
「アンタがここに来たんは二十六日の夕方、マネージャーが洗濯もんを干し直しとる最中や。腹をすかしとったアンタは厨房に行き、鍋にあったおでんで空腹を解消した」
「…どうしてそんなことが言える」
不愉快そうな低い呟きに、ウルフウッドは僅かに口元を歪めた。
「鍋がひっくり返されとったからや。アンタ、食いすぎたんやろ? 一目で減ってるっちうことが判るくらい」
男が息を呑む音がその場にいた全員の耳朶を打った。
「床にぶちまけられた食いもんをわざわざ鍋に戻す奴はおらん。ゴミ箱直行や。アンタはそうやって誰かがおでんを食ったっちう事実を誤魔化したんや」
発言する者はいなかった。誰もがウルフウッドの話に耳を傾けていた。
「その夜アンタはトンガリの服を盗んだ。乾いた服を盗めりゃよかったんやろが、それしかなかったんや、しゃあないわな。…翌日、ようやく乾いた服を着込んだアンタはまた厨房にやって来てつまみ食いをした。もしかしたら冷蔵庫の残りもんも食ったのかも知れんな」
味噌煮込みうどんの具が減っている、とメリルが思ったのは錯覚ではなかったのだ。
「もいっぺん忍び込んだんは、毛布か何か寒さを凌げるもんが欲しかったからやろ。けどマネージャーが悲鳴を上げたんで何も盗らずに逃げ出した」
ヴァッシュはちらりとメリルのほうを見た。俯き加減で目を細め、畳のへりを見つめている。しかしヴァッシュには判っていた。彼女の目にそれが写っていないことが。
「ワイはマネージャーに頼んで、鎖と南京錠をこおてきてもろた。そんで冷蔵庫を開けられへんようにして、メシもなくなったらすぐに判るメニューにしてもろたんや。鯖の味噌煮、うまかったか?」
最後の一言は痛烈な皮肉だ。バドウィックは唸ったが、何も言わなかった。







.................


勝利荘怪奇譚 5

ⅩⅥ
「今朝ガラスを割ったのもアンタや」
「で、でもどうやって? 廊下にはガラスの破片しかなかった。それはお前も見ただろう?」
初めてギリアムが口を挟んだ。
「ガラス戸とおんなじような色と厚さのガラス片をいくつか重ねて髪を巻きつけて固定したもんをパチンコで撃つ。
建物に近づく必要はあらへんし、割れてしまえば弾が何だったのか判らんようになる。廊下に髪が落ちてたかて誰も気にしませんやろ。ま、破片をパズルみたいに組み立てれば余る筈ですわ」
単純極まりないが見事な方法である。ギリアムは何度も大きく肯いた。
「どうやったかの説明はつけられるんやけど、これだけは判らへんのや。何で帰ってきたん?」
「…かまいり…」
「何やて?」
「墓参りだよ! 十年前に死んだ弟のな!」
バドウィックは両親を睨みつけた。憎悪にも似た突き刺さるような視線に老夫婦が顔を伏せる。
「あの時、あいつはひどい風邪をひいていた。それなのに忙しい親に心配をかけたくなくて、必死に我慢して…肺炎で病院に担ぎ込まれた時にはもう手後れだった!」
いったん言葉を切る。奥歯がぎりっと嫌な音を立てた。
「…今日はあいつの…命日なんだ。…それなのにこいつらは…仲良く雨戸を開けながらへらへら笑っていやがった!」
畳に拳を叩きつけてからバドウィックは立ち上がった。
「畜生、こんな親なら…マックスも途中で死んで正解ってもんだ!!」
二人の小さな肩がびくりと震えた。膝に置かれた両手がきつく握り締められる。
バドウィックの左手が、本人も気づかないうちに口元を覆った。
恐ろしいほどの静寂。
突然バドウィックは激しい頭痛に襲われ畳に倒れ伏した。何が起こったのか判らないまま胸倉を掴まれ乱暴に持ち上げられる。頬に血管を浮かせたウルフウッドの顔が目の前にきた。
彼の頭痛の原因は、ヴァッシュが写真部の四人にお見舞いしたものよりも数段きつい頭突きをウルフウッドから食らった為だった。
「その親のおかげで生きてこれたんは誰なんじゃコラ」
「なッ…てめえには関係ねぇだろ!」
自分を睨みつける怒りに満ちた瞳にも臆せず、バドウィックは声を張り上げた。
「オドレかて弟の病状に気がつかなかったんやろ!? 自分のこと棚に上げて親ばっか責めるんはスジ違いやで!!」
男の顔に動揺が走る。それは、ずっと目をそらせてきた痛い真実。
「弟が心配かけたくなかったんは親だけやない、兄貴もや。判っとるやろ? 家族のこと、ホンマ大事に思っとったんやな。…なのに兄貴は親ほっぽり出して好き勝手して、困った時だけ頼ってくるヘタレかい。草葉の陰で弟が泣いとるで」
「てめえに何が判る!?」
「ほなら何で墓参りだけ済ませてさっさと立ち去らんかった!?」
…答えられない。全て指摘されたとおりだから。
ようやく手を離すと、ウルフウッドはわざと片眉だけ跳ね上げた。家出の原因は見当がついているが、意図的に的外れなことを言う。
「大方こおんな田舎おん出てどっかで一旗揚げようとしたんやけど、失敗街道まっしぐらでとうとう尻尾巻いて逃げてきたっちうトコやろ」
「違う!!」
弟を亡くしたことが辛くて、親を恨むことで平静を保って。それでも苦しくてここにいたくなかった。いられなかった。
「なら家業継ぐのが嫌やったんか」
わなわなと震えているOBを気にせず、ウルフウッドは毒を含んだ明るい声で更につけ加える。
「そうやろなー。根性なしのヘタレな兄貴やもんなー。山ん中の民宿切り盛りするんは大変やろうなー」
「そんなんじゃねえ!!」
「信じられへんなー」
小馬鹿にしたような目でバドウィックを眺めてから大袈裟にため息をつく。目を閉じて肩を竦め、首を横に振ってみせる。駄目だ、というジェスチャーだ。
「ふざけるな! こんな仕事、屁でもねぇ!!」
威勢のいい啖呵にウルフウッドはにやりと笑った。
「…男に二言はないで」
売り言葉に買い言葉。まんまとのせられたことにバドウィックが気づいた時には既に遅かった。

ⅩⅦ
それから合宿が終わるまで、ウルフウッドはバドウィックに厳しく当たった。掃除の仕方から作業の段取りまでチェックし、少しでも至らない点があると事細かに指摘した後聞こえよがしにため息をつき、必ず決まり文句を言った。
「やっぱヘタレやなー」
こめかみに血管を浮かせながら、バドウィックは必死に怒りを押さえて掃除をやり直したり、作業の手順を見直したりするのだった。
合宿最終日。朝食を終えた部員達は自分の荷物を纏めると庭に集合した。顧問と老人が、ギリアムと老婦人がしっかりと握手する。
「また夏に来ます。その時はよろしくお願いします」
「待ってますよ。また酒を呑みましょう」
「お世話になりました」
「いえいえ、頑張って下さいね」
バドウィックがウルフウッドに歩み寄った。無言のまま右手を差し出す。軽く眉をひそめてから、ウルフウッドはその手を握った。
「…今度来た時におらんかったら、一族滅びるまで反面教師として語り継いだるわ」
言いながら右手に力を込める。バドウィックの口から苦痛の声が僅かに洩れた。ささやかな復讐にと握力テストよろしく力一杯握ったのだが、生意気な後輩の握力のほうが遥かに上だったのだ。
互いの手に指の跡をくっきりと刻んで、二人は笑った。その笑顔は妙に強張っていた。
「…キミ、あの態度はないんじゃない? 目上だし、野球部のOBなんだから」
例によって大半が船を漕いでいる電車の中。二人掛けの席が向かい合うシートに座ったヴァッシュは、前の席にいるウルフウッドに小声で話しかけた。
「何ゆうとんねん。あれでも手ぬるいくらいやで」
「そうかなあ…」
ヴァッシュはわざとらしく首をかしげ、慌てて元に戻した。隣で眠っているメリルを起こさない為に。
「ま、あそこまでコケにされとんのに逃げ出したら、ほんまもんのヘタレ、いうことになる。ワイが詫び入れるまで、何があっても家おん出るようなことはせえへんやろ」
「うん。…あの親子、うまくいくといいね。前途多難そうだけど」
「心配いらん。大丈夫や」
「すいぶん自信満々だね」
ヴァッシュの視線を避けるように、ウルフウッドは流れる景色へと目を転じた。黒髪をがしがしとかき回す。
ウルフウッドにはバドウィックのこの十年が、その心情が目に見えるようだった。
親への反発は真面目に働くことへの反発になった。勤めても長続きしない、身元を保証してくれる人もいない男の働き口は次第になくなっていき、懐は寒さがますます厳しくなるこの時期にコートはおろか上着さえ買えない程苦しくなった。
ろくに食べることもできず、やっとの思いでたどり着いた実家に忍び込み、周囲を警戒しながらそこにあるものを貪り食った時の惨めさ。目の前に家があるのに、一人森の中で心身共に凍えて過ごす夜の辛さ。
自分がすぐ傍にいることも知らずに笑っている両親を見た時、どんなに怒り、悲しみ、苦しんだことだろう。でも、報復にガラス戸を割っても、彼は両親がいるその場所だけは狙えなかった。
「…親は鍵を替えへんかった。息子は鍵をずっと持っとった。…それだけで充分なんちゃうか」
自分が捨てきれなかった場所。野良犬のような自分を無条件で迎えてくれた親。その暖かさは何物にも代え難い宝の筈。
「大切にしてほしい、思うわ」
早世した心優しい弟の分も。たとえどんなに望んでも実の両親には会えないであろう自分の分も。
「うん、そうだね」
相槌を耳にして、初めて自分が余計な一言を声に出していたことに気づく。視線を戻すと、人間台風が穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「何や、人の顔見てニヤニヤ笑いおって…。気色悪いやっちゃな」
口調が必要以上につっけんどんになった理由は双方とも判っている。
「気色悪いって…失礼だよキミ」
口を尖らせて文句を言うヴァッシュを無視してウルフウッドは立ち上がった。
「オドレの傍だと眠れへんわ」
幸い空席はたくさんある。ウルフウッドは誰もいない二人掛けのシートに腰を下ろして足を投げ出し腕を組んだ。
眠くはなかったが目を閉じる。
「ちょっと、席まで替わることないじゃない」
「偏食克服しなよね。身体に悪いし、マネージャーだって大変なんだから」
「そう言えば、俺に訊きたいこと思い出した?」
追ってきたヴァッシュがあれこれ話しかけてきたが、ウルフウッドは狸寝入りを決め込んだ。

エピローグ
「何もあんなに照れ隠ししなくてもいいのになあ」
何を言っても相手にされないので、ヴァッシュは仕方なく元の席に戻った。何とはなしに隣を見る。この位置だと彼女の寝顔は見えない。
そっと立ち、向かいの席に座り直す。音は立てなかったが、頻繁に動いた気配を感じたのだろう、メリルの睫毛が小刻みに震えた。瞼に隠されていた菫色の瞳がゆっくりと姿を現し、焦点が結ばれる。
「…ヴァッシュさん…」
ほんの少し眠気の残る声がクラスメイト兼部活仲間の名を呼んだ。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いえ…少しうとうとしていただけですから」
自分に向けられているいつもと変わらぬ彼女の微笑み。ふと数日前の胸の痛みが蘇り、ヴァッシュは僅かに顔をしかめた。
「どうしましたの?」
「…どうして…本当のことを話してくれなかったの?」
「え?」
「おでんのこと」
メリルの表情が曇るのを見た瞬間、ヴァッシュは心底後悔した。彼女は進んで嘘をつくようなことは絶対にしない。
彼女が嘘をつくとしたら、迷惑をかけたくないとか誰かを傷つけない為とか、そうしなければならない理由があるからだ。しかし、口から出た言葉はもう取り返しがつかない。
「あ、あの」
「ごめんなさい。信頼してないとか、そういうことじゃないんです。皆さんに余計な心配をかけたくなくて…。特にヴァッシュさんにはバッテリーを完成させることに専念して欲しかったんですの」
やっぱりそういうことか。
周囲を、自分を思いやる気持ちはとても嬉しい。でも。
「…これからは何でも話してよ。そうでないと気になって、おちおち昼寝もできないからさ」
あまり上手くはない冗談だったが、メリルはくすりと笑って肯いた。
「…もう一つ、訊いてもいいかな?」
「何ですか?」
「ウルフウッドの名推理に納得してないみたいだったけど…何か気になることでもあるの?」
「それは…」
メリルは言い淀んだ。嘘はつきたくない。でも…
ヴァッシュは静かにメリルの言葉を待っている。優しい光を湛えたブルーグリーンの瞳。
「…信じて…いただけないかも知れませんけど…」
ためらいながらもメリルは言葉を紡いだ。
「私が見た人影…ウルフウッドさんはバドウィックさんだとおっしゃいましたけど…違うんです。私が見たのは…男の子でした。白い光に包まれた…」
「それって…」
幽霊、という単語をヴァッシュは飲み込んだ。
「小さい頃は見えるのが当たり前でしたの。だから祖父母はひどく心配して、私に写経をさせたんです」
メリルは口をつぐむと俯いた。
「…小学校に入学してからだんだん見えなくなっていったんですが…他の人には見えないんだということを失念してつい言ってしまって、クラスメイトから気味悪がられたり敬遠されたりしました」
誤解される辛さを、信じて貰えない悲しみを、仲のよかった子が自分から離れていく寂しさを、これまで何度味わったことか。
「…ここ五・六年は全く見てなかったんです。それが突然、あんなにはっきり見てしまって、驚いて悲鳴を上げて…でも あの子は悪い存在ではありませんわ! 表情は穏やかでしたし、恐い感じはしませんでしたから」
顔を上げて身を乗り出し必死に幽霊の弁護をしている自分に気づいて、メリルは再び俯いた。面喰らったようなヴァッシュの表情を見たくなかった。
また、判って貰えないかも知れない。この人も、遠ざかってしまうかも知れない。
「…信じるよ」
恐る恐る顔を上げる。自分を見つめるヴァッシュの瞳は穏やかで、不信や疑念の色は微塵もない。
柔らかな微笑みにつられるように、メリルの口元もほころんだ。
「考えてみればそうだよねぇ。廊下は電気ついてなかったんだから、黒髪の男が黒づくめの服で立ってたとしてもまず見えないし、見えたとしてもせいぜい顔と手だけ。それなら『人影を見た』んじゃなくて『生首が浮いてた』って話になるよね。…ウルフウッドはホームズにはなれなかったってことか。まあ、あいつは探偵ってがらじゃないけど」
二人は顔を見合わせてくすくす笑った。
「…夏には見なかったんだよね? どうして急に…」
「たぶん、お兄さんが帰ってきたからですわ。家族のことが心配で、成仏できなかったんでしょうね」
「…そっか」
家族を想う気持ちは皆同じなのだ。
「ご夫婦とバドウィックさんのわだかまりが完全に消えたら、あの子も安心できるんでしょうけど…」
「…ってことは、まだあの家に…?」
メリルは小さく肯いた。嬉しそうな両親と憮然とした表情の兄が一緒に立ち働く姿を優しく見守っているのを何度も見た。自分以外は誰も、肉親でさえ気づいていないようだったが。
「…皆さんが気味悪がるといけませんから」
「判ってます。誰にも言いません」
胸に右手を当てて厳かに言うと、ヴァッシュはその手を小指だけ伸ばした状態でメリルに差し出した。
「約束するよ」
「…はい」
互いの小指を絡める。指切りなんて何年ぶりだろう。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーますっ」
軽く手を振りながら妙に楽しそうに口ずさむと、ヴァッシュはにっこり笑った。
ウルフウッドが見ていたら皮肉交じりに誉めたであろう、いい笑顔だった。

―FIN―





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