勝利荘怪奇譚 1
プロローグ
二学期の終業式の夜、ヴァッシュ・ウルフウッド・ミリィの三人はメリルの父に食事に招待された。
中高生には敷居の高い中華料理店の個室で、メリルとその父を加えた五人が丸いテーブルを囲む。
「娘が迷惑をかけたお詫びです。皆さん遠慮なくどうぞ」
烏龍茶で乾杯した後それぞれが好みの料理を注文し、回転テーブルには所狭しと皿が並んだ。
「えーと、あたし、桃まんじゅうとマンゴープリンが食べたいですぅ」
まだ食事が始まったばかりだというのに、ミリィの関心は早くもデザートに向けられている。
「ミリィ、デザートは一番最後のお楽しみですわよ。桃饅頭もマンゴープリンも逃げたりしませんから」
「あ…そ、そうですよね。早くしないとなくなっちゃうかなーって心配だったんですけど…」
それとなくたしなめられ、ミリィが照れ笑いを浮かべながら頭を掻く。その様子に四人は声を上げて笑った。
ヴァッシュは出てきた料理は全て必ず一口食べ、気に入ったものを自分の皿に取っていった。ウルフウッドは例によって辛い料理にしか手をつけない。
二人の食欲は底無しかと思われるほどだった。いっそ清々しいほどの健啖家ぶりを、メリルの父は目を細めて見守っていた。
話題の中心は野球部とウルフウッドのことだった。
ミリィとメリルの父はウルフウッドに関してほとんど何も知らない。ヴァッシュとメリルは彼が十月に転校してきたこと、運動部の間で熾烈なスカウト合戦があったこと、半月ほど前に野球部に入部したことなどをかわるがわる話した。
「野球部は冬にも合宿を行なうそうですね」
「はい、明日から三十日までの五日間です。最終日は帰るだけですから実質四日ですけど」
メリルの父の質問に答えたのは手を止めたヴァッシュだった。
「この合宿からヴァッシュさんとウルフウッドさんも他の皆さんと一緒に練習して貰いますから」
まずはウルフウッドさんに捕球に慣れて貰うことから始めましょう。実戦を想定した投球練習はその後ですわ。
メリルの言葉に従い、ヴァッシュはずっと校庭の片隅でウルフウッドを相手に投げ込みをしていた。
最初はストライクゾーンのど真ん中だけを狙った。初めてボール球を投げたのはバッテリーを組んで三日後、敬遠のように大きく外した投球をしたのは八日後のことだった。
メリルは様子を見に度々顔を出した。時折ウルフウッドに姿勢などのアドバイスをする。
「ホンマ、マネージャーは野球のことよう勉強しとるわ」
的を射た助言にウルフウッドは感嘆の声を上げた。もっとも細かすぎるくらいの指摘に半ばうんざりして、嫌味を少々織り交ぜての発言である。
「あら、何事も基本は大切ですわよ。でもこの分でしたら、思っていたより早く他の皆さんの練習に合流できるかも知れませんわね」
夏以来抱えてきた問題にようやく解決のめどがついたのがよほど嬉しいのだろう。こんな時、普段なら刺を含んだ言葉で応酬する筈のメリルは、至極上機嫌な様子でそう言うと満面の笑みを浮かべた。――
「やった! ずっと二人だけ隔離されてるみたいでちょっと寂しかったんだよね」
「ウルフウッドさんもよろしいですか?」
食べるのに忙しい黒髪の男は、口を動かしながら首を縦に振って了承の意を示した。
「スタンピード君と別練習…ということは、ウルフウッド君はキャッチャーですね。前の学校では違ったんですか?」
メリルの父は本人に質問したのだが、生憎口は一つしかない。話せないウルフウッドに代わってメリルが答えた。
「ライトだったそうですわ。いい判断だと思います。僧帽筋・三角筋・上腕三頭筋…肩から二の腕にかけての筋肉は本当にしっかりしてましたもの。体力測定の数値も凄かったですし、どう鍛えればあんな身体ができるのか…」
答えはなかった。たとえ話せる状態だったとしても決して言わないだろうが。
『あの時肩と腕を触ってたのは、筋肉のつき方を確かめる為だったんだ』
「でもこれでヴァッシュさんもやっと全力投球できますわね」
メリルは金髪を逆立てた男ににっこり笑いかけた。謎が氷解し安堵しているところへ突然話しかけられ、ヴァッシュはしどろもどろになった。
「え!? う、うん、まだまだこれからって感じだけどね。あはははは」
意味もなく高笑いをする。自分の発言がバッテリーを組むことに対してのものなのか、密かに想いを寄せる人とのことなのか、言った本人にも判らなかった。
「ウルフウッドさん、キャッチャーなんですか?」
「…せや」
この時ばかりはウルフウッドが返事をした。質問したのがミリィだったので。
「それじゃあたしとおんなじですね!! あたし、夏で引退しちゃいましたけど、ソフトボール部でキャッチャーだったんです。先輩とバッテリー組んでたんですよ!」
「へぇ…」
ヴァッシュは二人が中学時代ソフトボール部に在籍していたことはミリィから聞いて知っていたが、ポジションまでは知らなかった。ウルフウッドは勿論初耳である。
「あの時の先輩、カッコよかったなぁ…」
「あの時って?」
人間台風が身を乗り出す。自分の知らないメリルのことは何でも聞きたかった。
「あたしが中一の時なんですけど、夏に大会があって」
「ミリィ、余計なことは言わなくていいんですのよ」
先輩のいつになく厳しい声に、ミリィは身体を縮こまらせ小さな声で謝った。
「あ…ごめんなさい。私もきつく言い過ぎましたわ。…そろそろデザートにしましょうか。ミリィ、桃饅頭とマンゴープリンでしたわね?」
「はい! あと、ごまのアイスクリームもお願いします!」
ついさっきまでしゅんとしていたミリィはもう笑顔に戻っていた。
Ⅰ
デザートの注文を終えると、メリルは『ちょっと失礼しますわ』と断ってハンドバッグを手に席を外した。
「ねえ、さっき言いかけた夏の大会のことって何?」
今を逃したら訊く機会は当分ない。ヴァッシュはドアの方を気にしながらミリィに尋ねた。
「えー、でも話すと先輩に怒られちゃいますから…」
「…もしかしたら、トロフィーのことですか?」
メリルの父が会話に加わった。穏やかな声に水を向けられた形になる。
「はいそうです! …そっか、先輩のお父さんはご存知なんですよね」
「修理できる業者を教えて欲しいと頼まれただけで、いきさつは知らないんですよ」
六つの目に促され、ミリィは重い口を開いた。
「…実は…」
二人が通っていた中学校の女子ソフトボール部は強豪として知られていた。その中で、ミリィは入部後間もなくキャッチャーとしてレギュラー入りを果たした。一年でレギュラーは彼女だけである。
部室の掃除は全員でやることになっている。レギュラーか否かは関係なく、ミリィも掃除当番を割り当てられた。
「…あたし、掃除中に去年の優勝トロフィーを落っことして、傷をつけちゃったんです。…」
途端に先輩達からの風当たりが厳しくなった。大事なトロフィーを壊したのだから当然だと、ミリィは黙ってそれに耐えた。
夏の大会が始まった。二年でエースピッチャーのメリルはミリィを女房役に一人で全試合を投げ抜き、見事優勝盃を手にした。
校長室に顧問とレギュラー全員で優勝の報告に行った時のことである。メリルは校長にトロフィーを手渡し、暫く眺めた後返されたそれを、わざと机に叩きつけて壊した。
「…先輩達は勿論、先生もなんにも言えなくて…」
突然のことに言葉を失っている一同を見回し、メリルは静かに、だが毅然と言った。
『本当に価値があるのはこんなものではありません。大会で優勝できるまで練習を積み重ねた、私達の努力そのものですわ』
メリルは父にトロフィー等の修理を請け負う業者を探して貰い、ミリィと共に自分で費用を出して二つのトロフィーを直した。それ以来、ミリィが先輩から嫌味を言われたり辛く当たられたりすることはなくなった。
「…それまで、あたし一人部の中で浮いてたんです。先輩達には嫌われてたし、同じ一年の子達ともうまくいってなくて…。先輩が助けてくれなかったら、あたし…部活やめてたかも知れません」
「…そんなことがあったんだ…」
辛い思いをしている後輩を放っておけなかった優しさ。問題解決の為に荒療治を敢行した行動力。最悪の場合ミリィ以上に自分が村八分にされるのに、それを恐れない勇気。
『変わってないんだな…』
それでこそメリルだ。ヴァッシュの口元に微笑みが浮かんだ。
「キミは…いい先輩に巡り会えてよかったね」
「はい!」
「しっかし、マネージャーもずいぶん思い切ったことしたんやな」
「当然です! 先輩は大胆無敵ですから!」
「それを言うなら大胆不敵だと思うけど…」
意味、正しいような気がする。ヴァッシュは心の中だけで呟いた。
「アンタ、ひょっとして言い間違いとか多いんか?」
「えと、そうらしいです。自分ではよくわかんないんですけど…」
「初めておうた時、ワイのこと『カンセツな人』言うたの覚えとるか?」
「え!? ごめんなさいっ、あの、親切な人って言ったつもりなんです…けど…間違えてました?」
ウルフウッドが無言のまま肯く。
「僕のことも人間台風じゃなくて人間国宝って言ったよね」
「あああ、ごごごめんなさいいい」
顔を真っ赤にして謝るミリィの姿に、トライガン学園のバッテリーは同時に吹き出した。
「ごめんごめん、からかうつもりじゃなかったんだ」
「まったく、トンガリはいじめっ子やなぁ」
「言いだしっぺはキミでしょ!? 僕だけ悪者にしないでよ!」
「ワイは質問しただけや」
「あのねえ!」
「ずいぶん賑やかですわね」
口論寸前の会話はマネージャーの一言であっさり打ち切られた。
「何のお話ですの?」
「いや、キミの後輩は言い間違いが多いんだねって話」
妙にぎこちない笑顔のヴァッシュと、赤面しているミリィを交互に見つめる。
「早く座りなさい。もうデザートが来てる」
「はい、すみません」
父の言葉に短く謝罪し、メリルはそれ以上追求せず自分の席に戻った。
「先輩、桃まんじゅうおいしかったですよ! これ先輩の分です!」
「ありがとうミリィ」
メリルは冷めて少し固くなっている小さな菓子をありがたくいただいた。後輩が自分の為にとっておいてくれたことが嬉しかった。
「本当…おいしいですわ」
「ですよね!」
ミリィは嬉しそうににぱっと笑った。
Ⅱ
食事が済むと、ヴァッシュ達はメリルの父が運転する車に乗り込んだ。まずミリィを自宅まで送り届ける。
「ごちそうさまでした。今日はとっても楽しかったです。ありがとうございました!」
賑やかに話していたミリィがいなくなると車内は静かになった。色とりどりの電球で飾り立てられた景色が窓の外を流れていく。
無言のまま車を走らせていたメリルの父が不意に口を開いた。
「君達には礼を言わなければなりません。…娘を助けていただいたこと、本当に感謝しています」
その声にあわせて助手席のメリルが振り向き、二人に頭を下げる。
「そんな、気にしないで下さい。こんなにご馳走になっちゃってかえって申し訳ないくらいです。キミもそんな、お辞儀なんかしないで」
慌てふためくヴァッシュの姿に好意的な微笑みを浮かべると、メリルの父は更に言葉を続けた。
「…どうして表沙汰にしなかったのか…理由を訊いてもいいですか?」
「…僕らの顔を見ても、マネージャーは『警察を呼んで』とは言いませんでしたから」
送り迎えの初日にこちらの行動を話し、メリルのいきさつを聞いた。説明を終えた彼女がぽつりと言った言葉が脳裏に蘇る。
事実を公表しても誰も幸せになりませんわ。
本当にそのとおりだと思う。メリルに頼まれ、ヴァッシュはその場で他言しないことを誓った。
部室で着替えながら、ヴァッシュはウルフウッドにメリルから聞いたことを全て伝えた。その後メリルはウルフウッドにも事実を口外しないよう頼み、彼もそれを快諾した。
「沈黙を守ることで誰も傷つかずに済むのなら、その方がいいに決まってます」
「…それに、ホンマのこと知ったらあの大っきい嬢ちゃんやお手伝いさんがまた泣きますやろ」
あの子の泣き顔は見たない。その為やったら口つぐむことぐらい何でもあらへん。
「そうですね…。特にあの子は和顔施のできる子ですから、表情を曇らせるようなことはしたくありませんね」
「わがんせ…?」
耳慣れない単語をヴァッシュはおうむ返しに呟いた。
「仏教の言葉ですわ。平和の和に顔に施すと書いて和顔施。無財七施…人として生まれてきたのなら、たとえお金がなくても自分以外の人に対して七つの施しをしなさい、という教えがありますの。和顔施はその一つで、笑顔で周囲の人を和ませることをいいます。赤ちゃんの笑顔を見ると無条件に微笑みかけてしまいますでしょう? その時赤ちゃんは和顔施をしているんですの。年をとるに従って出来なくなってしまうことが多いんですけど、ミリィは今でもそれができるんです」
メリルは目を細めて微笑んだ。
「あの子の笑顔を見ていると、心が暖かくなったり勇気づけられたりしますもの。ミリィにはずっとあのままでいて欲しいですわ」
それは車内にいる全員の共通の願いだった。
「…詳しいんだね」
「小さい頃から写経をしてましたから」
その様子を想像しようとして密かに挫折した後部座席の二人をよそに、メリルはいたずらっぽい笑みを浮かべてヴァッシュのほうを見た。
「ヴァッシュさんもやってみます? 般若心経二百七十六文字、全部漢字です。精神統一にはもってこいですわよ」
「…エンリョシトキマス」
ヴァッシュの苦虫を噛み潰したような顔を見て、ウルフウッドが早速からかい始めた。
「オドレ、ホンマに漢字が苦手なんやなあ」
「キミは英語が駄目じゃない。僕英語は得意だもーん」
「母国語には困っとらん」
「じゃあ何で標準語喋らないの?」
「表現の自由や」
「それ、引用間違ってると思うけど」
「何やとこのクソトンガリ!」
メリルがくすくす笑っている。彼女の父が一緒だったことを思い起こし、二人の低次元な言い争いは幕を閉じた。
にらめっこの如く暫し睨み合った後同時にそっぽを向いたあたり、どちらも子供じみている。
ウルフウッドを降ろした後、車はヴァッシュの家を目指して走り出した。
「…そうだ、マネージャーはまたパソコンを持って参加するの?」
「ええ、夏の時と同じですわ」
「じゃあ朝迎えに行くよ。重くて大変でしょ?」
「でも」
「いいからいいから」
しきりに遠慮するメリルを、ヴァッシュは何とか説き伏せ約束を取りつけた。
自宅のマンションの前でヴァッシュは車を降りた。さすがに冷え込んできている。吐く息が白く煙った。
「今日は本当にありがとうございました。遠回りさせてしまってすみません。失礼します。…マネージャー、また明日」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
車が走り去るまでヴァッシュはその場で見送った。
「…メリル」
「はい?」
「いい友達を持ったな。…大切にしなさい」
「…はい!」
Ⅲ
電車に揺られ山道を登り、トライガン学園野球部一同は勝利荘にたどり着いた。夏の時と違うのはまず気候、
人数が約三分の一になっていること、そして道中メリルのパソコンをヴァッシュが運んだことである。
「お世話になります」
顧問の挨拶にあわせて全員でお辞儀をする。老夫婦はにこやかに出迎えてくれた。
部員達は早速着替えて練習を、マネージャーは老婦人と共に昼食の準備を始めた。
数時間後、たっぷり汗をかいた部員達が帰ってきた。シャワーを浴びて着替えをし、食堂に移動する。
「お疲れ様でした。お昼は肉じゃがですわ」
夏の時と同様にメリルは笑顔で献立を伝えた。
賑やかな昼食を終えると、部員達は再び練習に戻った。マネージャーは夕食用の米とぎなどを済ませてから午前中の練習で汗だく泥まみれになった服を洗濯した。
合宿初日は何事もなく終わるかに見えたのだが。
日が落ちる直前、メリルと老婦人は夕食の仕上げをする為に厨房に入り、主菜のおでんが床にぶちまけられているのを発見した。傍らに大きな鍋と蓋も転がっている。
それは昼食と同時進行で午前中に作ったもので、昼食後に洗い物などをした時には異常はなかった。鍋は確かにコンロの上に置かれていた。
「どうしましょう…」
「とにかくここを片づけて、別のものを作りましょう」
二人は急いで床を掃除し、材料の在庫を確認した。シャワー室に向かう部員達の声が聞こえてくる。時間に余裕はない。
「お疲れ様でした。夕食は親子丼ですわ」
そう言って迎えてくれたマネージャーがひどく疲れていたことに気づいた部員はごく僅かだった。
夕食と入浴の後、ヴァッシュは裏庭でいつものように素振りをした。
『何かあったのかな』
バットを手に部屋を出る際、それとなく辺りを見回した。雑談をしたりトランプで遊んでいる部員の中にギリアムの姿はなかった。
もしメリルも部屋にいないのなら。もしまた顧問に呼ばれて打ち合わせをしているのなら。
夏の合宿の記憶が脳裏をよぎる。顧問と主将とマネージャーが密談…正直な話いい予感はしない。
近づく足音に振り返る。窓から洩れる光に浮かび上がったのはウルフウッドだった。
「何だキミか…」
またナスティ先輩かと思った。もう退部したのだからそんなことはありえないけれど。
「何だとはご挨拶やな。ま、気にせんと続けてや」
ウルフウッドはヴァッシュの正面に腰を下ろした。バットが空を切る音だけがしばらく辺りに流れた。
先に口を開いたのはウルフウッドだった。
「…気づいたか?」
「…マネージャーのこと?」
黒髪の男は無言のまま肯首した。
「昼間はそんなことなかったのに、さっきはすごく疲れてるように見えた」
「前にも合宿はあったんやろ? そん時はどうやった?」
マネージャーの親父さんは『冬にも合宿を行なう』言うた。ワイが転入する前、春か夏にやっとる筈や。
「少なくとも僕は気がつかなかった」
夏の合宿が始まった時は、部員二十三人に対してマネージャーは二人。そして、合宿六日目に部員は十二人に減り、マネージャーもメリル一人になってしまった。だがそれなら今と大差ない。疲労の原因は炊事や洗濯ではなく、
別にあると考えるのが妥当だ。
素振りをしながら、ヴァッシュは夏に合宿があったこととメリルの退部劇、その結果部員が半減したことを手短かに説明した。
「…そないなことがなぁ…。大胆無敵なマネージャーらしいわ」
「キミはどう思う? メリルのこと」
自分の言葉に驚愕する。無論夕方彼女の様子がおかしかったことについて質問しただけなのだが、訊きたくて訊けなかった核心を問いただしているような気がして。
「単に体調が悪いだけなんちゃうか?」
ウルフウッドの答えは酷くそっけなくて、特別な好意があるようには思えない。でも、それならどうして。
「…ずいぶんマネージャーにこだわるんだね」
早くなる鼓動をなだめながら言葉を紡ぐ。いつもどおりの声と口調だったか、自信がなかった。
ウルフウッドは片眉を跳ね上げヴァッシュを見やると、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「何寝ぼけたことゆうとんのや。こだわっとるんはオドレやろ」
「な…!」
バットを構えたまま、人間台風が目をむいて眼下の男を睨みつける。怒りに似た感情が自分に向けられていることに気づいているが全く気にせず、ウルフウッドは怪訝そうな表情で補足した。
「気づいてへんのか? クラスにおる時、オドレはいつもニコニコ愛想ええけど笑い方がカラッポなんや。…ツラくてしゃあないクセにやせガマンだけで笑っとる…そんなふうに見えとったで」
意外な指摘にヴァッシュは言葉が出なかった。
「けどな、野球やっとる時はちっとましな笑い方になる。で、ホンマにええ顔になるんはマネージャーとおる時だけや。胸に手ぇ当てて、よお考えてみい」
「キミはどうなんだよ! わざわざ裏庭まで来てメリルの話をするなんて…」
頬の熱さを誤魔化す為にヴァッシュは声を荒げた。視線の先で右手が黒髪をかき回している。俯いてしまったウルフウッドの表情はヴァッシュからは見えない。
「…マネージャーの話はついでや。…オドレにちと訊きたいことがあったんやけど…」
トンガリの痛いとこ突いてしもたし、今日はやめといたほうがええな。
「…忘れた」
あっけにとられているヴァッシュには目もくれず、ウルフウッドは立ち上がると汚れたジーパンを手ではたいた。
「思い出したら言うわ。ほな」
長身の後ろ姿が見えなくなっても、ヴァッシュは呆然とその場に立ち尽くしていた。
..........
勝利荘怪奇譚 2
Ⅳ
「――っくしゅん!」
ヴァッシュは自分のくしゃみで我に返った。ここは街よりも冷え込みが厳しい。夜素振りをして汗をかいたまま屋外にいればまず間違いなく風邪をひく。そんなことになったら。
口を尖らせて怒るメリルの顔が目に浮かび、ヴァッシュは再び赤面した。
「今日は終わりっ!」
必要以上に大きな声で宣言して、ヴァッシュは民宿に戻った。老人に断ってシャワーを借りる。熱い湯を浴びるうちに、混乱していた頭が徐々に整理されてきた。
『こだわっとるんはオドレやろ』
…そのとおりだ。
部室で彼女を抱きしめた時、自分の気持ちをはっきりと自覚した。自分にとってメリルは特別な存在だと。
いやそのことよりも。
『笑い方がカラッポなんや』
…そんな風に見られてたなんて。
服を洗いながら高校生活を振り返ってみる。
クラスにも野球部にもすんなり溶け込めたと思う。明るくてひょうきんで面白い奴――たぶんそんな風に見られているだろう。
俺はいつも笑っていたから。
カラッポの…笑顔で…?
判らない。クラスにいる時と、部活中と、メリルといる時で、笑顔が変わるなんてことが本当にあるのだろうか…
「…ええいっ、考えるのやめやめ!」
ヴァッシュはかぶりを振って意識を切り替えると、すすいだ服を力一杯絞った。悩んで答えが見つかるとは限らないし、今すぐ結論を出さなければならないようなことでもない。
普段着に着替え、乾いたタオルで髪を乱暴に拭う。上着を羽織って洗った服を手に裏庭に出る。
洗濯物を干していると水分の残る髪から寒さがしみてくる感じがする。急いで作業を終え、ヴァッシュは勝利荘に駆け込んだ。
「…そうだ」
打ち合わせをしていたのなら、もしかしたら食堂にいるかも知れない。もしいるのなら会いたい。
『いや、様子を確認したいだけで、その…』
必要ないのに心の中で言い訳しつつ、ヴァッシュは食堂に向かった。
あの時と同じ席に座っている小さな背中。でも、キーボードを叩く音は何故か途切れがちだった。
「マネージャー」
振り返ったメリルが微笑みを浮かべる。ヴァッシュも笑顔を返しながら静かに歩み寄り、隣の椅子に腰掛けた。
「打ち合わせ、お疲れ様。…大丈夫?」
「…何がですの?」
主語を省いた質問が理解できなかったらしい。メリルはきょとんとした表情でヴァッシュを見上げた。
「ちょっと疲れてたみたいだから…」
「…それでわざわざここに?」
「え、あ…うん、まあ」
曖昧に答えながら、僅かに紅潮した頬を指で掻く。ブルーグリーンの瞳はあらぬ方向に向けられた。
「すみません、ご心配をおかけして…。実は…」
その時視線をそらせていた為に、ヴァッシュがメリルの顔に一瞬ためらいの色が浮かんだのを見ることはなかった。
「今日のお夕飯は…本当はおでんの予定だったんです。でも煮込んでいる時にうっかり焦がしてしまって…それで急遽メニューを変更したんですの」
そっと視線をメリルに戻す。苦笑と照れ笑いの中間のような微笑みが見えた。
「大急ぎで玉ねぎと鶏肉を切って、丼たれを作って…皆さんの声は聞こえてくるし、気が気じゃありませんでしたわ。
本当、間に合ってよかった…」
深呼吸のような大きなため息が語尾に続いた。
「それじゃ、具合が悪いとかそういうことじゃないんだね?」
「ええ、身体は何ともありませんわ」
ガッツポーズをするマネージャーの姿に思わず笑みが洩れる。
「少しくらい遅れても文句を言う奴はいないと思うよ」
「…言えませんわ。弱火にするのを忘れておでんが黒焦げになりました、だからお夕飯が遅れます、なんて。私のミスで皆さんにご迷惑をおかけする訳にはいきませんもの。…練習の後はお腹すいてますでしょ?」
「そりゃもう!!」
正直すぎる答えにメリルは吹き出した。ひとしきり笑った後表情を引き締める。
「明日から気をつけます。ですからヴァッシュさん、このことは」
「ハイハイ判ってます。僕の胸の中にしまっときます」
「ありがとうございます」
僅かに目を細めて微笑むメリルを、ヴァッシュはただじっと見つめた。
絶対になくしたくない人。誰にも渡したくない人。認めるのには戸惑いもあったけど、これは事実。
「…ヴァッシュさん」
「え!? な、何!?」
「髪、濡れてますのね」
「あ、ああ…さっきシャワー浴びたから」
ヴァッシュは毎日朝晩素振りをしていることと、合宿中もずっとやっていたことなどをメリルに打ち明けた。洗濯なら自分がやる、という申し出をやんわりと辞退する。
「…服は裏庭に干したんですの?」
「うん」
「この気温だと凍ってしまうかも知れませんわ。屋内に干すほうがいいと思います」
「そうか…夏の時とは違うもんね。ありがとう、そうするよ」
食堂を出て行きかけて、ヴァッシュはドアのところで振り返った。
「何か困ったことがあったら言ってね。できることは手伝うから。それから無理は禁物だよ。課題も大事だけどさ」
「…はい、ありがとうございます」
ヴァッシュは自分を見送るメリルに小さく手を振ってから裏庭に向かった。物干し台の近くで足が止まる。
『!?』
ついさっき干したばかりのトレーナーとジャージがなくなっていた。
Ⅴ
老婦人に頼んで空いている部屋にロープを渡して貰うと、ヴァッシュは裏庭に残されていたTシャツと下着、靴下、タオルをそこに干し直した。明かりのない裏庭を探すのは困難なので、探索は明朝に持ち越して部員がいる大部屋に戻る。
部屋は賑やかだった。合宿初日で皆体力に余裕があるのだろう。
ヴァッシュは部屋に入るとギリアムにさりげなく視線を向けた。一瞬目を合わせた後首を巡らせ、ポーカーで盛り上がっているキャッチャーと内野手のグループに乱入する。
「ヴァッシュ、今日は遅かったな」
「はい、何かもう体力余っちゃって。…僕も」
混ぜて貰えますか、と言いかけた時に肩を叩かれ、動きが止まる。
「そうかそうか、体力余ってるのか。それはちょうどよかった」
「…主将…」
「実はご主人に米を厨房に運ぶと約束してたんだ。いやあ、思い出してよかった。明日の朝食がめし抜きになるところだった」
口元をひきつらせつつ肩越しにゆっくりと振り返る。満面の笑みを浮かべたギリアムがいた。
「手伝ってくれるよな、ヴァッシュ」
「頼むぞヴァッシュ、俺達の朝飯の為だ!」
「しっかりやれよ!」
「…ハイ、やらせていただきます」
口々に言いたいことを言われ、ヴァッシュは答えながらがっくりと肩を落とした。
暗い表情のピッチャーと、励ますようにその肩に腕を回した笑顔の野球部主将は並んで部屋を後にした。
食堂にメリルの姿はなかった。二人は食堂に入るとドアに程近い場所に腰を下ろした。その途端、二人の表情が一変する。
「何かあったのか?」
ヴァッシュは自主トレの後服を洗濯したこと、裏庭の物干し台に干しておいたのが短時間のうちになくなったことを説明した。
「…トレーナーとジャージだけ、か…」
難しい表情で腕組みをした主将の顔をヴァッシュはじっと見つめた。
「嫌がらせか…」
「え?」
小さな呟きを問い返したが、ギリアムは『いや、何でもない』と答えただけだった。
「念の為に言っておくが、お前が戻る三十分くらい前からあの部屋を出た奴は一人もいない」
「僕は皆を疑ったりしてません!」
自分の大声に驚いて辺りを見回す。誰かが聞きつけてここに来るかも知れない。
しばらく様子を見たが、幸い人がやってくる気配はなかった。
「…すまない、考えなしの発言だった。気を悪くしないでくれ。…まったく、主将の俺が動揺してどうするんだか…」
台詞の後半は独り言のような小さな声。ヴァッシュは居住まいを正すといつになく硬い声で尋ねた。
「何かあったんですか、この他に」
自分にまっすぐ向けられているブルーグリーンの瞳を正面から見返して、ギリアムは僅かに微笑んだ。
「お前が心配することじゃない」
ヴァッシュは眉根を寄せ押し黙った。
打ち合わせ、お疲れ様。何気なく口にした言葉だったが、あの時は打ち合わせをしたのかどうか判らなかった。
でもメリルは否定しなかった。すぐに話題が切り替わって返事ができなかっただけかも知れないが。
もし本当に打ち合わせをしていたのなら。
野球部に、あるいは俺個人に対する嫌がらせだと考えられる出来事が他にもあって、その為に主将やメリルは顧問に呼ばれたのではないか。――もしそうだとしたら。
『どうして話してくれなかったんだ…』
約束は必ず守る。言わないと約束したら絶対誰にも話さない。それこそ墓の中まで持っていくつもりだ。それは彼女も判ってくれてると、信じてくれてると思ってた。
「…もう少ししてから部屋に戻ろう。…そんな深刻そうな顔をするな。マネージャーが心配するぞ」
不本意ながらテーブルに密着したヴァッシュは、突っ伏したままギリアムを見上げ呟くように言った。
「…何でここでマネージャーが出てくるんですか?」
「マネージャーが部員の心配をするのは当然だろう?」
正論だが一般論の台詞からは主将の考えなど窺い知ることはできない。ヴァッシュは小さく吐息した。
人の気配にヴァッシュは跳ね起きた。四つの目が厨房に向けられる。
そこにいた黒髪の後輩に、ギリアムはもっともな質問をぶつけた
「ウルフウッド…どうしてここに?」
「水飲みに来たんやけど…あかんかったですか?」
「いや、構わないよ」
米を運搬するという名目で食堂に来たのだ。文句など言える訳がない。
ウルフウッドは勝手にグラスを取り水を飲むと、すぐにその場を離れた。
Ⅵ
翌朝、ヴァッシュは素振りの前に裏庭の周辺を探してみたが、なくなった服は見つからなかった。風に飛ばされた、という願望に近い予測は残念ながら外れた。
朝食を終えた後、ウルフウッドがメリルに耳打ちしているのを見かけた。片手を顔の前に持っていき拝むようなポーズをしたから、何か頼み事をしたのだろう。
――何を? 釈然としないままヴァッシュは着替えを済ませた。
ウォーミングアップを終えた部員達がランニングしながら練習場に向かう。勝利荘は途端に静かになった。
「…ばあさんや、わしらはちょっと買い物に行ってくるよ」
「はいはい、いってらっしゃい。気をつけて」
にこにこ笑っている老婦人に緊迫感はまるでない。
「…お一人で大丈夫ですの?」
メリルは眉をひそめて問いかけた。昨日何者かに夕食の主菜をひっくり返されたばかりだ。犯人も判っていない。
物ならまだしも、もし老婦人に危害を加えられるようなことがあったら…
「心配いりませんよ。おじいさん達が帰ってくるまで先生がいてくれますから」
「そうですか…。でも、気をつけて下さいね。本当に」
夕べのアクシデントのお陰で食材にゆとりはないし、メールのやりとりもしなければならない。後ろ髪を引かれる思いでメリルは軽トラックの助手席に乗り込んだ。
大急ぎで買い物と課題の送受信を終わらせて、老人とメリルは民宿に戻った。幸い留守中にトラブルはなかった。
ほっと小さく安堵のため息をつき、メリルはすぐに次の作業にとりかかった。昼食の準備である。
昼近くになって部員達が帰ってきた。
「お疲れ様でした。お昼は麻婆豆腐ですわ」
合宿初の中華メニューに歓声が上がった。何品もある副菜には野菜がふんだんに使われていて、食べ盛りの男子高校生の胃袋を充分満足させられるボリュームがある。勿論栄養的にも申し分ない。
「いただきまーす!」
元気よく食事の前の挨拶をすると、全員一斉に食べ始めた。
『あれ?』
麻婆豆腐を一口食べて、ヴァッシュは僅かに首をかしげた。この味は…
それとなく視線をマネージャーに向ける。目が合うと、菫色の瞳が片方だけ一瞬瞼に隠された。
一昨日デザートを注文した後、メリルはトライガン学園のバッテリーが半ば取り合いをしたメニューのレシピを厨房に教わりに行ったのだった。店の味を見事に再現してみせたのは、調理人の教え方もさることながら、もともと料理が得意な彼女の腕があってのことだろう。
ヴァッシュの斜め向かいに座っているウルフウッドは、いつもと変わらぬ表情で黙々と箸を動かしている。朝食の時より食べるペースが速いようにヴァッシュには思えた。
午後の練習が始まる直前、ウルフウッドは再びメリルに耳打ちした。驚いたように目をみはったマネージャーはしばらくキャッチャーの顔を見上げていたが、やがて小さく吐息すると肯いて答えた。
「…さっき何話してたの?」
広い庭で二人一組になって柔軟体操をしながら、ヴァッシュはウルフウッドに小声で尋ねた。
「メシのことでちっとな。…マネージャーのこととなると目ざといやんか」
後半のからかうような口調にピッチャーの口元がかすかにひきつった。
「じゅううううううぶんっ、身体をほぐさなきゃね!」
地面に足を伸ばして座っている男の背中にのしかかるようにして体重をかける。その体勢ではウルフウッドもさすがに切り返すことができない。
「おんどれぁッ!! なんてコトしてくれんねん!!」
ようやく交替となった後、ヴァッシュはウルフウッドからたっぷり利息をつけて先刻のお返しを受けた。
「ちょ、ちょっとウルフウッド! いたたたた」
「じゅううううううぶんっ、ほぐさなあかんのやろ?」
「いたいいたい、痛いってば! 手荒なマネはなしっ!!」
「わかっとる、わかっとるがな」
そう言ってにた~~と笑うウルフウッドの顔は、ノーメイクでお化け屋敷でアルバイトができそうなほど不気味なものだった。苦しい姿勢の中何とか首と目を動かしてその表情を仰ぎ見たヴァッシュの顔から血の気が引く。
「まてまてまて、なんだその笑い…ノオ―――ッ!!!!」
人間台風の情けない悲鳴が辺りに反響して消えた。
Ⅶ
洗い物を終えたメリルと老婦人は、夕食用の味噌煮込みうどんの下ごしらえを済ませてから洗濯にとりかかった。
老人はメリルに頼まれ再び買い物に出かけた。
玄関も裏口も普段は昼間は開けてあるのだが両方とも施錠した。もし用があって部員が戻ってきたとしても、裏庭にいる二人に声をかければ事足りる。
大量の洗濯物を室内に干し終えると、メリルは台所に向かった。具を煮込んだ二つの大きな鍋に変わったところはない。
老婦人と手分けして部屋の掃除をする。街から戻った老人も途中からそれに加わった。
メリルが異変に気づいたのは夕刻、鍋に味噌を溶き入れようとした時だった。煮汁の量は同じくらいなのだが、具が減っているのだ。
その場を老婦人に任せて、メリルは懐中電灯を手に外へ出た。扉の鍵穴を順に確認する。何かでこじあけたような不自然な傷はない。
いったん厨房に戻ると、メリルは老夫婦に鍋と鍵のことを説明し顧問のところへ行ってくると話した。あと三十分ほどで戻ってくるのは判っていたが、一刻も早く報告するほうがいいと考えたのだ。
「それなら私が行ってきますよ」
「でも」
「私は味噌煮込みうどんなんて作ったことありませんからねぇ。味付けのほうをお願いします」
「…判りました。では、お二人で行ってきていただけますか?」
ピッキングという特殊な工具を使えば、鍵穴に傷一つつけずに鍵を開けることができる。だがそれは窃盗のプロが使うものだ。もしそんな人が周囲に潜んでいるとしたら、年配者が暗い中一人で動くのは危ない。襲って下さいと言っているようなものだ。
女の子一人残すのは、と心配する二人にメリルは微笑みかけた。
「ドアに鍵をかけておきます。皆さんが戻るまで絶対に開けませんから」
玄関で老夫婦を見送って戸締まりを確認すると、メリルは夕食の準備を続けた。味付けを済ませ、うどんを茹でる。
食堂に箸や調味料を並べる。箸休めもできあがった。あとは時間を見計らって、うどんを軽く煮込むだけだ。
今できる作業を全て終えると、途端に静寂がメリルを包み込んだ。古びた広い民宿にたった一人でいるのだという現実を遅れ馳せながら実感する。
明るい厨房にいるのに、胸の不安は膨れるばかり。
不意に何かの気配を感じて、メリルは恐る恐る食堂のドアに目を向けた。その先には建物を東西に突っ切る廊下がある。
大きく深呼吸をして心を落ち着けてから、メリルは音を立てないようドアを開け一歩踏み出した。
老夫婦が野球部員達に合流したのは、練習の最後のメニューであるクールダウンの真っ最中だった。全員が中断し、老人から話を聞く。
「…それじゃ今マネージャーが一人で残ってるんですか!?」
「あ、ああ、そうじゃよ」
老人が持っていた懐中電灯を半ば奪い取ると、ヴァッシュは全力で走り出した。
「ワイも行きます」
老婦人から玄関の鍵を受け取り、ウルフウッドはヴァッシュの後を追った。
「我々は全員一緒に行動する。周囲の状況に注意するように」
顧問の緊張した声に、一同は一斉に肯いて答えた。
先を行く懐中電灯の明かりを頼りに走る。ウルフウッドはようやくヴァッシュに追いついた。
「…鍵なんて…意味…ないんだ…」
息を切らしながらヴァッシュは言葉を紡いだ。
侵入経路がドアとは限らない。窓ガラスを割ればそれで済む。
「せやな。…急がんと」
二人が玄関の前に立った時建物の大半は暗かった。厨房と食堂がある東側の一角が明るいだけだ。
「メリル! メリル!」
マネージャーの名を呼びながら、ヴァッシュは拳で扉を叩いた。ウルフウッドが鍵を取り出し鍵穴に差し込む。
鍵が開いたのと甲高い悲鳴が響き渡ったのはほぼ同時だった。
.............
勝利荘怪奇譚 3
Ⅷ
「メリル!!」
ぶち壊す勢いでドアを開け、ヴァッシュは土足のまま声のしたほうへ走り出した。
暗い廊下に座り込んでいるメリルの姿が食堂から洩れる光に照らされていた。
「メリル!!」
ヴァッシュはメリルの肩に両手を置いて揺さぶった。ウルフウッドが廊下の電気をつけて周囲を明るくする。
「どうした!? 何があった!?」
震える右手が廊下の先を指差す。
「ひ…人影が…」
「誰かおったんか!? どっち行った!?」
「…突き当たりを…右へ…」
ウルフウッドは全神経を研ぎ澄ませて、左右に部屋が並んでいる廊下をゆっくりと進んでいった。
ヴァッシュはメリルの横に片膝をつくと、その華奢な体を抱き寄せた。
「もう大丈夫だから。傍にいるから。…怪我はない?」
小さな背中をそっとさすりながら優しい声で語りかける。首が縦に振られ、ほっと胸をなで下ろす。
「もう心配いらない。…俺が守るから」
呟くようにそう言うと、ヴァッシュは両腕に力を込めた。
突き当たりの右手には六畳弱の部屋があり、リネン室として使われている。襖に手をかけ気配を窺った後、ウルフウッドは勢いよく開けた。猫の子一匹いない。
明かりをつけて子細に確認する。誰かが潜んでいた形跡はない。部屋には窓が二つあるが、どちらもきちんと施錠されていた。桟にうっすらと積もった埃から見て、最近開閉されていないのは確かだ。
廊下を戻りながら再び周囲に注意を払う。人の気配はやはりない。念の為廊下に面した襖は全部開けていったがどの部屋も無人だった。
「誰もおらんで」
ウルフウッドには自信があった。しょっちゅう喧嘩していた頃は待ち伏せされるのは珍しくなかった。誰かが隠れているのなら見逃す筈はない。
「恐い恐い、思とったから幻でも見たんちゃう?」
「そんな!」
メリルは顔を上げウルフウッドをきっと睨みつけた。が、すぐに俯いて口元を手で覆い隠してしまう。
「…そう…かも、知れません…」
呟くような声で消極的ながらも同意する。
言葉とは裏腹に納得していない様子のメリルを訝しく思いながら、ヴァッシュは沈んだ雰囲気を変えようと努めて明るく言った。
「とにかくキミが無事でよかった。…ところで、夕飯も無事なのかな?」
「何や、マネージャーと夕メシとおんなじ扱いなんか」
ヴァッシュの意図を察したウルフウッドが早速まぜっかえす。
「そ、そんなつもりじゃ!」
「ほならどういうつもりや?」
「それは…」
口篭もる人間台風を見下ろし、ウルフウッドは口の端を僅かに吊り上げた。今の彼の姿を見れば、ヴァッシュが一番大切にしているものが何なのか一目瞭然だ。
「で、いつまでそうしとるんや?」
「え…あ!」
ずっとメリルを抱きしめていたことに気づいて、ヴァッシュは耳まで赤くなりながら腕を解き立ち上がった。
赤面している二人を眺めつつ、ウルフウッドは人間台風の足元を指差した。
「ま、頑張れや」
ヴァッシュは俯いてから背後を振り返った。玄関から一直線に残っている靴跡は一人分のみ。視線を戻してみると、ウルフウッドはちゃんと靴を脱いでいる。
急いで靴を脱いで手に持つと、ヴァッシュは気まずそうな表情でメリルに尋ねた。
「…雑巾、どこ?」
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