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うろほろぞ
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 人間には得手不得手があって、中条静夫はどうやら人材を育てることが苦手そうだった。三十半ばで悟るにはいささか遅いが、ともかく現実そうに違いない。特に冷たいとか人嫌いとかいう訳ではないが、どうもこういった困難な状況に陥っている人間に対して、その人間に相応しい言葉が思いつかない。大体にして、中条自身も己の矛盾を解決しきっているとは言い難い。
 つまり、明らかにエキスパートではないが、そうなろうとしている段階の、所謂微妙な年頃の青年に対して無口になったのは、或る意味中条の素質の問題であり、別段彼を嫌っている訳でも、逆に特別視している訳でもなかった。
 もっとも、そんな判断も出来ない状況だった。




「何をしている」
 暮れなずむ時間に、ここ梁山泊で。返答次第では、或いは次のリアクション次第では殺す、と暗に込めて。
 ただし、ここを住処としていない中条の台詞だ、或る意味図々しい。
 しかしそんな暗喩や矛盾にに気付く様子など、向こうにはまるで無かった。仮に敵であったとしても五秒は待っただろうと中条は後に語る程、可哀想な有様だったからだ。
 目の前に居た青年は、中条の兄弟にしても若すぎる青年で、ようよう20を超えたばかりと見えた。それをいっそう若く見せたのは、ものを探して探して探して、探し疲れて途方に暮れている小動物の様な空気のせいだった……実はそうじゃあないんでしょうと何故か周囲は頑固に否定するのだが、中条は噂される様な一目惚れをしたとは思っていない。自分にも幾らか経験はあるのだが、ああいう感覚は確かに、訪れなかった。
 ただ、ちょこんと存在している、へたり込んでいる青年、呉学人が酷く可哀想だと思った。なにしろ目の前の青年はすっかり煤けていて、髪はばさばさで、息がぜぇぜぇとあがりまくっていて、俯いた顔をあげると鋭くしてみせた目の周りは微かでなく赤くなっていた。鼻水だって出ている。そしてどれだけ走っていたのか、膝をついた足には微かな震えが来ていた。あの時点での呉でも、8割程度にはエキスパートになっていたのだから、相当走ったのだろうと赤の他人の中条にも知れた。
 威嚇はしていないつもりだが、小動物はこちらの姿を見せただけでぴくりと震えた……呉が一目惚れだったでしょうと周囲に言われるたびに扇子で顔を隠してしまうのは、実は周囲の予想と全く違う感情を抱いていたからだ。
 なにせ当時の呉は限界までヘトヘトになっていて、その上で滅多にない自棄っぱちになっていた。その上で、一部の師範には知れていたが、当時の呉を現世に繋いでいたのは一人の少女の存在だけだったので、酷く冷酷でもあった。なにせその少女がいなければ、とっくの昔に首をくくっていただろうと今でも思うぐらいだ。そんな彼女にしても頼れるのは呉だけで、彼等はお互いにお互いを支え合い、依存しあっていた。
 そんな状況の呉が中条を見た途端に思った事は、前々より望んでいた通り、死ぬことだった……梁山泊も決して安全な土地ではないと聞いており、現に呉が梁山泊に入ってからも幾度か敵襲があった。自然の要塞であり我が庭でもある梁山泊という事で、国際警察機構はそれらを楯に何度も急場を凌いできたが、幾人もの命がその勝利の戦いに消えていった事も知っている。
 つまり自分はおそらく、この戦いの最初の犠牲者の一人になる、そう悟った。
 戦いはあらゆる意味で苦手だが、不思議と恐いという気持ちはごく薄く、呉はただ嗚呼と思った……そして思ったよりも素早く、この世に別れを告げた。小さくさようならと呟くと、ただ一つだけ持っていた鉄扇子を袖から取りだし、中腰に立ち上がるとぎゅうと握って出来る限り鋭角を相手に押しだした。最早、学んだり望んだりした通りに身を守る事など考えず、磨き抜かれた鋭い縁が、愚直なまでに中条に向かっている。鉄扇子を武器として選んだ時に言われた事など、当の昔に消えてしまっていた。
 中条の方はこの反応に苦笑していた。中条は何度か梁山泊に足を運んだ事はあるが、彼の顔は見たことが無かった。つまり相手は新参者で、九大天王など見たことも無いに違いない。しかしこの珍しい武器やその真摯な様子に見とれてやられる訳にもいかないと、中条はゆっくりと手を挙げた。
「私は国警の者だ、ここに用事があって来たんだ。しかし君の顔は知らない」
「私だって貴方の顔を知りません」
 もっともな理由だ、知らない人間においそれと梁山泊に踏み入らせる訳にはいかない。しかも正規の道ならともかく、ここは誰もが忘れかけた裏道の様な場所ときている。
 しかし、これからどうするにしても青年が可哀想だった。今だって、生まれたてなのに必死に立ちあがろうとする子鹿の様に足が震えて、真剣さの余り泣き出しそうな顔をしている。しかも全体的な雰囲気から見るに、国警に入ったのも、荒くれ者が行き場所を失ってというのではなく、まっとうな人間がやむをえずと選んだといった様子がある。何よりもお互い、死合いは望んでいる事ではない。
 結果、中条は妥当な線として、自分から折れようと決めた。元より相手は自分よりも随分と若そうだ、『大人の貫禄』も見せておきたい。
「ふむ。では、どうすれば信じて貰えるかな? もっとも、私には時間が幾らかはあるが、君はこんな所で油を売っている訳にもいくまい。その様子だと、余程の事があるのだろう?……そう、君さえよければ、私も手伝おう。これでも腕に多少の覚えはある、君よりも随分と老いてはいるがね」
 そのままの言葉に青年は反撃の機会を失った。言葉を詰まらせて、それでも中条の言葉を疑っている。しかし確かに、事実だった……猫の手も借りたいというか、事情を知らずに手伝ってくれるなら敵の手だって借りたい。
「お願いします」
 そう言って地面についた手は、中条が外見から考えていたよりもずっと華奢に見えた。


「女の子?」
 この人は敵ではないんだろうな、と呉が思ったのはその動きのせいだった。梁山泊は天然の要塞で、決して人の受け入れが良いわけではなく、それは住んでいる人間にとっても言えた。なので普通に梁山泊を訪れたり出て行ったりする時にはヘリコプターを使うのが通常で、手練れであれば移動もさもありなんといったレベルだ。
 その梁山泊を中条は素早く動いていく。慣れていたと思っていた呉の方が付いていくのが辛いぐらいだ。年齢をあげつらえたが、根本的な体力が違うのだろう。そもそもにして呉は、間違っても体力自慢武力自慢の輩ではない、勝負しても意外性程度のものだ。
 にも関わらず呉を殺す所か、手伝おうと言ってきたのだ、敵ではないだろう。
「ええ、十歳ぐらいの女の子で、碧を含んだ黒色の髪で」
「青い瞳の、だね」
 言った後で中条はしまったと思ったが、表面的には穏やかに笑う事で流した……呉の方はいっそ悲痛な顔をしており、視線をぐいと前のみに向けて全てを無視した。

 件の人間の話は、九大天王としての中条の耳に入ってきた。おそらく中条がそういった身分でなければ入って来ることは無かっただろうし、入れさせる事も無かっただろう。
 ある時、つまりあのバシュタールの惨劇からさして経っていない時、華僑の一人から紹介された二人の子供は、自ら国際警察機構に入りたいと申し出たらしい。勿論、無能で脆弱な、しかも何の取り柄も無さそうな子供に見えたので断った所、自分達が件の博士の縁者である事を告白し、保護を求めた。
 かのフォーグラー博士の実子と、第一助手。
 事態は一気に困窮を極めた……バシュタールの惨劇はあまりにも厳しい社会現象であり、いかな国際警察機構とはいえ、そういった前科者を置くのは問題在りと判断された。管理というなら、単なる凶状持ちの殺人鬼の方がいっそ気楽だ。きっと彼等は内部からも永劫にその責務を問われる事だろう……一時期は見殺しというまっとうな判断もあったが、彼等の立場と年齢が寛容さを与えた。
 曰く、本当にその立場で、その年齢で、かの惨劇を阻止し得たか? 責務をと言われる立場なのか? 人殺しの親を持つ子は、永劫に人を殺したそのものと同じ誹りを受けなければいけないのか?
『……赦してやりたい、赦して欲しい』
 誰がそう言ったかは分からない、しかし誰もが思っていたことでもあった……世紀の大罪人は、監視カメラにきっと気付いているのだろう。しかに何をすることもなく、ただ不安でぐずる少女を抱きしめて大丈夫だと言い続けていた。随分とやせこけて、しかし人間として大事なものを失わない瞳は、普通の人間の優しさで少女を見つめていた。
 あの悲劇さえなければ、彼にあったのは栄光と平和だったろうに。そして彼女にあったのは幸せだったろうに。
「……銀鈴、といいます」
 観念した様子で漏らした呉に、中条は苦笑を漏らした。ほんの少しの間で、別の言葉を思いつくことで、彼を慰めた。一片の哀れみかもしれないが、それも又真実だ。
「何、8歳で梁山泊に入る少女など、滅多にいないからね。おそらく、彼女が最年少じゃあないかな……いや、もう10歳だが、それでも彼女より若い子は滅多と居まいね」
 呉は別の息を漏らしてしまったと呟いた。様子を見るに、いかにも生真面目で、逆にいうとそういった8歳の少女のあらゆる事に関しては鈍感だろう様子だ。中条が不意に笑いたくなったのは、滅多にそんなものを見ないからだ。
 彼は、酷く純粋だ。
「……ええ」
「黄信にでもしごかれたのかね?」
 黙り込んだ呉が正しいのかそうでないのか、ともかくあの男は余りにも真っ直ぐなものだから、差別はいけないと件の少女にも同じように接したらしい……10歳の少女には酷だったろう、まして覚悟もなにもないのだから。
「……ええ」
「黄信君は真面目だからな」
 え、とおどろいた表情を浮かべた呉は、年齢よりも随分と若く見えた。


「黄信殿も黄信殿だ」
 呉はそう言いながら、走っている。最早夕日は一片の線になっており、山奥の梁山泊は急激に冷えていく時間だ。子供には厳しい。
「あんなに酷く、銀鈴を叱咤せずとも」
「死んでは欲しくないからね」
 真面目なのだよ、と中条はもう一度繰り返したが、つい先程その真面目さが招いた馬鹿馬鹿しさを実戦したばかりの呉には、あまり正しい言葉とは思えなかった……ともかく、銀鈴がいないと気付いたのは今日の明け方で、そう言えば昨日は鍛錬場で黄信に叱咤されて泣いていたと思いだした。銀鈴は悪くはないのだと宥めたものの、もうそろそろ銀鈴の中でも限界の様なものが近付いていたらしい。そうでなくともこの一ヶ月の間に女性専用の寮に移り、つまり呉と引き離された。呉としても何時までもべったりではいけないと分かっているが、急速に元気を無くしていく銀鈴を見ていると、果たしてこの判断は正しかったのかと訝る所だった。
 そして挙げ句の果ての大脱走……銀鈴も心配だが、今後の周囲も心配だった。一端放り出そうとした子供を、周囲は受け入れてくれるだろうかという不安が付いてまわって仕方ない。虐められたりしたら、今度こそ銀鈴は立ち直れまい。
「ですが……」
 呉の言葉はそこで止まった。酷使した膝が意図に反してかくんと笑って、地面を蹴った足元が頼りなく注に浮いて、そのまま飛び越そうとした穴に落ちかける……あ、と思った時には視界が幾分下がって、続いて頬が地面に撃たれて視界は更に一転し、自然落ちた視線の先で、自分の足元の遙か下に轟々と音を立てて流れていく川が見えた。
「随分と疲れているようだね? 何時から探しているんだい?」
 今や全体重を預かっている左手の手首は随分と細いし、それから察せられるようにエキスパートとはいえ随分と体重も軽い。筋肉が付いていると分かっていても、軽い。件の呉学人が智のエキスパートを目指しているとはいえ、これはいささか軽過ぎやしないか、と顔をしかめながら、中条は青年の脇に腕を差し込んでえいと持ち上げた。
「少し休もう」
 異論も何もなく、呉は頷いた。


 俯いた呉はとても20歳には見えなかった。膝を抱えて俯いていると、中条の子供ほどに見える。中条は誰かに出会ったり遭難する予定は無かったので、こんな時に役立ちそうなものといえばライターぐらいなものだった。適当に木切れを集めて薪をすると、とうとう呉はしくしくと泣き始めた。
「どうしよう……銀鈴は……し、死んでいるかも、しれません」
 この山には人食い虎だっているんです、と言った途端、自分で恐くなったのか、泣く気配が一層強くなった。どうにも泣いている人間を宥める術を知らない中条はいささか困ったものの、さりとて放り出す訳にもいかず、自然口調は何処か堅いものになった。
「銀鈴君を他に捜している者はいるのかい?」
 呉は小さく頭を振って、今日一日は自分がただそうしていた事を思いだした。
「いません……銀鈴が、私がいなくなった事だって、知っているかどうか……」
「どうして周囲に相談しない?」
 国際警察機構も非情ではない。受け入れると決めれば相応の礼は尽くすし、何より10歳の少女が行方不明になったと知れば、捜索隊の有志だって両手に余る数が出てくるだろう。辛い思いをしたからこそ、その気持ちが分かる連中は多い。
 呉は黙り込んだ……中条は倣うでもなく黙って、パイプに火を付けようとして、刻み煙草を切らした事に気付いて顔をしかめた。おそらく、この短い探索の内に無くしてしまったのだろう。元よりこういった寄り道をする予定では無かった。
「どうして?」
 幾分穏やかにした声に、鼻をすすり上げて顔をあげた呉の声はとても小さくて、中条はいっそ哀れだと思った。

    だって、私達が生きていていいのかどうか、分からないんです。

 生きていけと言うことも出来なければ、死んでしまえと言うことも出来ず、中条は長い息を吐き出して、顔をあげた。この周囲には自分達以外の生き物はいないと思っていたが、どうも違うらしい。先程呉が足を滑らせかけた崖の辺りから、寝息のようなものが聞こえている。
 中条は正確にその跡を辿り始めた。普通の人間の目では見えない暗闇でも、エキスパートの目にははっきりと小さないきものが見えた……只の切り立った崖に思えた部分には幾らか、それなりの大きさの岩棚があり、その一つに、幾分薄汚れているが、虎などではなくれっきとした人間の子供で、件の少女に違いなかった。
 おそらく足を滑らせて、その岩棚に落ちたのだろう。中条は一見絶壁に見える岩の間に、小さなとっかかりを探しながら、そろそろと岩棚に向かって降りていった。自分が足を置いた途端に砕けたらと一瞬嫌な想像をしたが、岩棚はきっちりと中条の体重を受け止めてくれた。
「あの……どうしたんですか?」
 思ったよりも上の方から聞こえてくる声に、中条は返した。
「君の捜し物が見つかったよ」


 灯りの元で見ると、少女は思ったほど傷ついておらず、寝息も安定していて悪いところは無さそうだった。ただ、右手に握った花は幾分しおれていて、あの場所にいた時間を教えてくれた。あのままだったら、凍死していたかもしれない。
「銀鈴、銀鈴……ファルメール」
 涙で顔をくしゃくしゃにした呉が、中条を押しのけるように少女を抱きかかえた。馴染みの気配に気付いたのか、ぱちりと目を開けた少女は、小さく欠伸をした後で、まるで普通に小首をかしげた。
「呉先生、またないてたの?」
 涙の跡が残っているのに気付いたのだろう。起きた途端の指摘に、絶句した呉に、銀鈴はへにゃりと笑いかけた。
「やっぱり」
「そ、そりゃ、銀鈴がいなくなるからだろう!」
 自分勝手な行動に怒りを込めたものの、泣いて掠れた声では迫力に欠ける。逆に少女はそんな様子にやはり小首を傾げた。
「わたしは修行してたの。黄信のおじちゃんがおこるから」
 黄信のアレを『怒る』で済むのが将来の大物振りを示しているようで、中条は思わず苦笑いを浮かべた。一方、勝手に居なくなったと想像していた呉にしてみれば、暢気な発言には足元を崩された気にもなってくる。結果、ああとかいささか間の抜けた返事を返した呉に、銀鈴は思い出したように花を突き付けた。
「はい、先生が元気がないから、これあげる」
 綺麗でしょ、と笑った少女に、呉はついにへたれこんでその場に座り込み、中条は先程とは別の苦笑を浮かべた……どうやら銀鈴は事故で足を滑らせた訳ではなく、花があそこにあったので取りに行こうとして、降りたはいいが上れなくなってしまったらしい。それで焦るでもなく眠っているのだから、やはり期待の大物といったところか。
「だから、なかないでね、心配するもん」
 矢張り、呉は泣きそうな顔をしていた。


 安心したせいか一気に力が抜けたらしく、呉はその場で眠り始めた。銀鈴も安心したせいか再び眠り始めて、結局中条は軽いとはいえ人間二人を背負って梁山泊の本部まで歩く羽目になった。他のエキスパートだったら途中で放りだしていただろう道のりの果てにたどり着いた本部は、いささか緊迫した空気に包まれていた。夜中だというのに、大勢の人間が緊張した面持ちで歩き回り、指示が飛び交っている。
「中条、何をしていたんだ」
 こんな時期に、と怒鳴る黄信の顔には汗が浮いている。一見飄々とした様にも見える中条に更に苛立ったのだろう、かまわんと言い掛けて背をむけかけた所に中条が声をかけた。
「何かあったのかね、黄信君」
「子供がいなくなった。10歳と、20歳と」
 20歳の方は黄信と大して違わないのにそうと言いきる辺りが流石だと中条が奇妙に納得していると、大山狩りの様な雰囲気を漂わせた花栄が肩を鳴らしながらさてと言った。
「こいつが怒鳴ったのがこたえたのか、今朝方辺りに女の子の方がふらりと居なくなって、それを探すつもりか保護者の、呉学人って男もいなくなっちまって……まぁ帰ってくるだろうと思っていたら、この時間になってもちらりとも姿を見せやしない。韓信殿は必ず帰ってくると言ったものの、どうにも周囲が収まらないからな」
 そういった花栄自身も、勿論黄信もその『収まりのつかない周囲』の一部だろう。
「では、ここには有志一同が集まっている訳かね」
「そうだな」
 不満そうな黄信に、中条は滅多にない笑いを浮かべて、背負っていたものを黄信に手渡した。
「では、周囲を安心させてやってくれ」
 その時に見せた黄信の顔は、その後暫くの噂になるぐらいの有様だった。
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誰もサニーにそれを告げなかった。
サニーも何ひとつ尋ねなかった。
その時を見ていた訳ではない。それでも分かったのだ―――


日の光が眩しくて、サニーは俯いた。
足元の草原に咲く花もどこかで歌う小鳥の声にも、何も感じない。
晴れ渡る空を吹く穏やかな風も―――全てが遠いもののように感じられるのだった。
覚束ない足取りで木陰に辿り着き、ぼんやりと佇む。
どれぐらいそうしていたのか分からない。
「サニー」
深くて静かな声がした。
「おじ様」
振り返ったサニーは樊瑞の表情を見て、上手く笑うのに失敗したと悟る。
「…泣いていたのか」
「いいえ」
サニーは顔を上げた。
「泣いてはおりませんわ、おじ様」
だからそんな傷ましいものを見る目でみられるのは辛い、とサニーは思う。
「そうか…」
「はい」
悲しいのだろうか。悲しむべきなのだろうかとサニーは躊躇う。
―――父は笑っていたのに?
「サニー」
「何でしょう、おじ様」
サニーには自分が今どんな顔をしているのかが分からない。
「…良いのだぞ」
樊瑞は見詰めるサニーの前で片膝をついた。
「儂の前では―――泣いても良いのだぞ」
大きくて温かい手が頬に触れ、その余りの変わりなさにサニーは思わず微笑んでいた。
「サニー」
ゆっくりと抱き締められて、サニーは目を見開いた。少し息苦しい程の力。拒むでもなく、応えるでもなく、立ち尽くしながら肩越しの空を見詰める。綺麗だと思った―――他人事のように。
「…泣きません」
声は震えなかった。
「…そうか」
「はい」
この人は優しい。この広い胸は温かくて、まるで―――
思いがけない唐突さで、サニーの視界が滲んだ。
ああ、と樊瑞は溜息をつく。
「悲しい…空だな」
サニーは答えなかった。
晴れ渡る空に吹く穏やかな風。それのどこが悲しいのだろうか。
そう思うのに涙が零れるのがなぜなのか、それだけが分からなかった。




『結婚するとき、私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。
今考えると、あのとき食べておけばよかった。
                               アーサー・ゴッドフリー』





招かれざる客にテーブルはない





カップから上がる湯気を軽く吹きながら、死んじゃったんだ、とぽつり洩らした。葉巻を吸っていたアルベルトが静かに視線を寄せてきた。その表情から、どうも説明不足だったようだと思い、言葉を付け足す。
「妻と子がね、いっぺんに」
言葉と共に溜息が出てゆき、入れ替わりにコーヒーが入ってくる。これがまた再度溜息を吐きたくなるほど美味しい。
「んー、でもまだ甘さが足りないかな」
「飽和量ぎりぎりまで入れてまだ言うか」
アルベルトが忌々しげに言う。彼はカップに角砂糖を投入する度実に嫌そうな顔をしていた。甘い匂いに気分が悪くなるそうだ。
「・・・それで、」
「ん?」
「死んだと言ったろう」
「・・・うん、残念ながらオチはなくてね。死んだのは間違いなく愛する我が妻と、生れてすらいない我が子。子供の方はまだ男か女かも分からないほどなんだよ。小さすぎて」
「・・・ああ、お前の口から子が出来たらしいと聞いて、まだ二月と経っていないからな」
「うん」
テラスから遠く離れた庭に目を向ける。子供が二人遊んでいる。サニーと大作だ。花を付けた木々の間を走り抜け、あれは追いかけっこだろうか、陽気がいいから蝶の遊びにも見える。楽しそうだ。
カップを空けたら構いに行こう、と思った。
「確か5人目の妻だと」
「そう、内縁を含めないとね。まだ若かった。幼いと言ってもいいくらいで、それが何より悔やまれるよ」
「幾つだ?」
「16」
「・・・そんな年齢だったか?」
「大人っぽい子だったから」
アルベルトが無言のままコーヒーを飲み込んだ。柔らかい風がカップから立つ湯気を乱していった。
「よい娘だったんだよ、本当に。子が出来たんだって笑った貌はそりゃもう綺麗だった。きっと私にはそれが綺麗すぎたんだね・・・・・・まさか泣くなんて思わなかった。あの時の自分の行動が不思議でならないよ――」
「・・・・・・」
馬鹿みたいに砂糖を入れたコーヒーを飲み下す。可笑しいかな、子が出来たと分かったときより、死んだときの方が喋ることが沢山あるなんて。
「・・・知っての通り、彼女にとってもだが、私にとっても初めての子供だったわけだ」
私の精子には殆んど生命力ってものがないからね・・・と何処へでもなく視線を投げる。
「あ、勿論妻を疑ったりはしなかったさ。彼女が言うんだから私の子だろう。けれどね、いざ私の子だって言われると、俄かには信じがたいんだよ。はいこれが宇宙人です、って連れて来られるくらい信じがたい。動揺したんだ、これでも。・・・うん・・・だからあんなふうに言ったのかも知れないな・・・」
「――あれか」
「君は他人事みたいな口ぶりだと言ってたね」
「生むのか、ではな。小娘が泣いたのも頷けるというものだ。お前らしくもない」
「だから自分でもどうかしてたって言ってるじゃないか・・・。それに、彼女が泣いたのは言葉よりも私の腹の内を読んだからだろうと思う。まあそちらの方がよほど私らしくないと言えばそうだがね」
「違いない」
残り少なくなってきたカップの中に、年若い妻の顔がふと浮かぶ。
アーモンド形の黒く潤んだ瞳、果実みたいに赤くて柔らかい唇。長い髪は、抱きしめるといい匂いがした。成長の終っていない体は痩せ過ぎなくらいで、時には物足りなさを感じたものだったが、そういえばこの頃は少しふっくらしていた覚えがある。
何より頭のいい子だった。そこに一番惹かれた。遭って直ぐに自分が殺されることを理解したのだ、極めて社交的に振舞ったというのに。それで妻に迎えることにした。
「・・・・・・」
瞼を閉じる。薄い肉の幕越しにも日差しと視線は感じられる。涙を零した妻の姿も、ぐちゃぐちゃになった我が子も見える。目を閉じれば何も見えなくなるなんていうのは嘘もいいところだ。だから目を開けてカップを煽る。コーヒーの最後の一口は、砂糖の溶け残りでざらざらしていた。これでどうして甘くないのか。
溜息が出そうだった。
「二週間ぶりに会った妻は白のワンピースを着ていたよ。花のコサージュを着けてね、まだ外見に変化もないから、胎の中にもう一人いるって知らなきゃ同じ年頃の子たちとそう変わらない。挨拶のキスをしてから膝間付いて、胎に耳を当てた。勿論、まだ何も聞こえるはずないんだが。愛してるふりがしたくて抱きしめたんだ」
両手を広げ抱きしめる真似をする・・・その途中で腕を下ろした。
「私が其処から去った夜、彼女は飛び出した。胎の子を伴って。そして真っ暗な道路で車に撥ねられた」
「・・・・・・」
アルベルトの反応は微かなものだ。眉を顰め、私の目を透して遠くを見る。眩しいものがそこにあるかのように。その薄い反応が意味するのは、意外にも、沈痛のそれだった。
写真でしか見たことのない相手に対してこんな表情が出来る男だったろうか。それとも私を気遣って?
「アハ」
「――それでどうしてお前が笑う」
「だって君が珍しい顔を見せてくれたから」
「はッ。いいから先を言え」
言いながら、葉巻を灰皿に押し付ける。
「今度はオチもあるのだろう?」
「・・・鋭いねえ」
まだ話を聞いてくれるつもりらしいと知り、嬉しさと同時にコーヒーを飲みきってしまったことを少し後悔した。
「――彼女たちの死はまるで完璧な事故死のようだけど。けれど私達が見詰め合っていたことを死体は語らない。何を見て、何を思っていたのか、誰にも分からない」
「お前にもか」
「そう・・・、そうだよ、私にももう知る術はない。推測くらいは出来るが・・・私が子に向けた感情が何であれ、結局それが引き金になったのは間違いないからね。まさか『彼女ごと』失う羽目になるとは思わなかったが」
「母親は子供を連れて逃げようとした」
「多分。妻から母になる彼女を私は見抜けなかった、私は子に負けというわけ。・・・はぁ・・・それとも、眩惑術でそのへんも含めてやっちゃったのかなぁ・・・覚えはないんだけど」
「なに?」
「無意識にやったかもしれない。本能的な部分で」
「待て、有り得るのかそんなことが。事実なら問題だぞ」
「どうかな。何せ事は無意識下で行われたか否かだから・・・でも、もしそうだったら凄いじゃないか」
ああ、また他人事みたいな口ぶりだと言われそうだ。
「生物は自らの遺伝子を残すために永いこと進化してきた。子孫を残すことは生き物としての本能だ、そうだろう?だのにそれを、私は同じく本能で拒否したことになる。どれだけ自分の遺伝子を残したくないんだか」
言ってて笑えてきた。やっぱりこんな遺伝子は一代限りにすべきだ。人類の為にも。引いては目の前で頭を押えている盟友の、子孫繁栄の為にも。
「セルバンテス」
呼ばれて、視界に映った顔は眉間のあたりが固かった。瞬間、閃きのようなものが走った。・・・彼は案外、子供の為に死んだりするのかもしれない。
言葉を返すことはせず、席を立つ。後ろで再度呼ぶ声がするけど気にしない。
石畳のテラスから下りると庭は緑の柔らかい草に覆われ、一歩踏み出すごと楽しい気分にさせてくれる。子供たちは遊び疲れたのか木陰で休んでいた。薄ピンクの花の下でクスクスと笑う様子に絆され、こちらの頬も思わず緩む。
「やあサニーちゃん、大作くん」
子供が二人、同時に顔を上げる。「何をしていたんだい?」
問えば、秘密を教えようか、どうしようか?と微笑みの会話交わされ、頷き、答えが返って来た。
『結婚式ごっこ!』











がんばれ村雨!!
「どうして……健二さんなんか好きになったんだろう」
 サニーは大人の世界をかいま見ながら、ソーダ水を飲んでいる。その目の前で、殆どパジャマの様な格好をした銀鈴が、文字通り机に頭を付けて凹んでいる。楊志はその様子を見ながら、この店自慢のパフェを食べている。
 そんな午後の昼下がりのカフェ、傍目にも恋愛相談と分かる奇妙な一行は、とりあえず銀鈴を見守ることから始めていた。


 サニーにも、幾分かは現状が分かっていた。
 サニー・ザ・マジシャン13歳。或いは樊瑞よりもその点では上手かもしれない。
 エキスパートである楊志の耳には、ふいと居なくなったサニーを探す樊瑞の声が聞こえたそうだが、『取って喰うつもりじゃないんだから』と一蹴した。ちなみに万が一発見されたとしても、サニーはこう言っただろう。
『叔父様、少し席を外して下さいな』
 ……きっと樊瑞は激しく撃沈したに違いない。サニー、敵方の人間と茶をするとは何事だ、嗚呼一体全体何処で育て方を間違ったんだろう、と嘆きに嘆いただろう。多分、国警一の泣き虫のあの軍師とタメをはれるぐらいに。
 十傑集のリーダーは時に酷く脆弱だ……樊瑞を殺すに刃物は要らぬ、『叔父様大嫌い』の一言あればいい……きっとBF団、国警の誰もが知っているが、余りにも哀れで使うことは控えている。使ったら最後、確実に再起不能の状態で恩師の元に、落胆した一清道人が引きずって帰ることになるからだ。
 閑話休題。
 ともかくサニーも恋愛の機微が少しは分かるようになってきたし、知りたいと思う。皆に言われている様に、大作が初恋の人ではないのだから、尚更に。
「どうして、銀鈴さんは悲しんでいるの?」
「あ~、そりゃあねぇ……」
 楊志はもっともな反応に遠い目をした……大容量テレポーテーションの影響で一時期は死をも覚悟した銀鈴だが、何とか復帰して外出出来る迄になった、退院も目前だ……二ヶ月、いわば瀕死の重傷からの帰還といっていい。
 その銀鈴に対して(鉄牛以外の)周囲が認める恋人・村雨健二は思ったよりも冷たい反応が多かった。仕事があるにしても滅多に会いに来るわけでもなく、殊更心配した素振りも見せない。勿論、村雨が件の体質のせいで三ひねり程度はある人間だから、まぁそこら辺は常とはいくまい、とある程度までは傍観していたのだが、銀鈴が怒り出したとあれば話は別になってくる。
 銀鈴だって不安だ……人間として、或いは恋人を持つ身として。それでも健気に黙っていたのだが、村雨に疑惑が浮んだとあれば別だ。
「いいオンナと歩いていたからさ、しかも銀鈴を放ってね」


「あの女の人は誰?」

 子供は苦手、というのが村雨健二の口癖だ。なのになんで九歳も年下の娘を好きになったのか? しかもつき合いだした頃ときたら銀鈴は十四なのだからもういっそ犯罪者だろうお前、と突っ込んだのは誰だったか……ともかくそれだけ長くつき合っていて、しかしそんな言葉が出てきたのは、実はコレが初めてだった。
 健二さんは私を大事に思ってくれている。
 銀鈴の口癖だ。だからといって、理想的なカップルのようにベタベタしているなど皆無。任務の合間に多くて月に一度顔を見せるか否かで、機密を理由に連絡も頻繁ではない。それでも嬉しそうな銀鈴の言葉を真実と知っているからこそ、保護者である呉学人も、見た目は飄々としてシニカルな、つまり保護者としては余り恋人に相応しくないと思われるこの男に全てを任せる事にしたのだ。
 しかし呉も、決して恋愛経験が豊富な訳ではない……むしろ、恋愛は三度目と言っていいかもしれないぐらいだ。その内の二つも淡いもので、今現在は言わずもがな、こっそりと隣の部屋に引っ越したと言っていたが、どう考えても思い切り誘導された挙げ句、今では立派な同居にすり替わっている。暇を貰ったから逆に長官もやりたい放題だ、と言ったのは誰だったか。
 まぁ、そんな男が保護者だから、自然被保護者もいくらかしっかりしようとしても、何処かでのほほんと抜けている……そこを突かれたとも言える。


 病院の中でお洒落はしていない。グロスだって塗っていないし、パジャマだって戦闘チャイナ並のヘヴィーローテだ。しかし、身体が重たいのだし、誰もがまずは休みなさいと言うから思わず気を抜いてしまった。
 で、発見してしまった。

「あの女の人、誰?」

 誰だって十中九八、村雨とその女性の組み合わせはカップルだと思っただろう。事実、通りすがりのイワンは微かに眉をひそめていた……只の夫婦なら彼もそうすまいが、ともかくその雰囲気は、どう考えてもあまり健全でない男女の仲に見えた。村雨もさりげに腰に手を当てている。その腰が銀鈴よりもワンサイズ細くて、逆に胸はツーサイズ大きかった。
 マリリン・モンローは好きじゃないが、実物を見ると別格だな。
 そう言ったのは誰だったか? 当てつけの様に、村雨の帽子の縁の辺りを切った男だったと思う。ベンチに腰掛けて、ぱちんと鳴った指に、ふわりと切れた帽子の縁、しかし村雨は実に鷹揚に肩を竦めてみせただけだ。隣の女も不思議そうに切れた縁を見ていたが、村雨の態度にふわりと笑って腕を巻き付けた。
 男なら、理想とする男女関係の一つだろう。ヒィッツカラルドもその意見には賛成だが、確か彼には可愛い娘が居た筈だ。こんな艶やかさはないが、可愛い、彼の命よりも随分と、随分と大事にしていた筈の娘が。
「伊達男、あのお嬢ちゃんはどうしたんだい?」

「あの女の人、誰?」

「健二さんに否定されたのよ」
 銀鈴はそう言って机に突っ伏したままだった。
「『誰の事だい』ですって!」
 無論、その衝撃発言に、伊達男ヒィッツカラルドが裏を取らない筈もない。そして何気なく、実にさりげなく聞いて判明したのは、ヒィッツカラルドが村雨を見かけたその日に、彼は銀鈴には会わなかったという驚愕の事実だった。幾ら棟が違うといっても同じ病院の中の事、まして村雨は滅多に北京に来ることもない、ならば入院している恋人の銀鈴に顔を合わせるぐらいはするべきだが、それすらしなかった。
 ヒィッツカラルドは、聞いて、後悔したそうだ。
 それが元で、銀鈴は村雨に詰め寄る事になった。銀鈴だって何人からか話は聞いていて、格別に目立つ美人と、その隣に佇む男の事を知っていた……だから口にしたのだ。

「あの女の人、誰?」


 銀鈴はそれ以上、何も言わずに突っ伏していた。ぐずぐずと泣いているのが誰にでも分かる。
 せっかく会えたのが一時間前だ。本当はデートをする予定で、余所行きの服も用意していた……ここに来る予定だった。呆れた様に『違う』と言ってくれたらと期待して、期待して、どうしようもない位期待していた。こんなに願ったのは初めてじゃないかと思うぐらい、名もないものにも神様にも願った。
「そう言ったら……『お前には関係ない』ですって……」
 もう別れる寸前みたい、と銀鈴は不意に泣きやんで笑おうとした。今更ながら、流石に年下のサニーの前で泣くのは恥ずかしいと感じたらしいが、それでもはれぼったい、赤い目が治るわけでもない。サニーの心配そうな顔に、何とか奥歯を食いしばって、でも保護者譲りの涙腺はあっさり決壊してしまった。
「……やっぱり、消えちゃう女なんか、イヤなのかなぁ……」
 だってあの時、胴体だって半分無かったし、皆凄く動揺していて、しごく普通だったのは呉先生ぐらいだもの、と袖の所で涙や鼻の辺りを拭う銀鈴に、ぽんぽんと楊志が頭を撫でてやる。
「アタシだったら、イヤだとは思わないね」
「私もです」
 珍しくサニーが鋭い声をあげた。楊志や銀鈴が見るに、サニーは小さい頃に騒いだ事が無い子供独特の静けさを持っているのだが、今のサニーは本当に珍しく、熱っぽい声を出していた。
「好きだったら、絶対に探してくれますもの、どんな形でも」
 楊志と銀鈴は顔を見合わせて、それから何故か笑いがこみ上げてきた。サニーの初恋の人はきっと、幼い彼女を何処かから捜してくれた人なのだろうと知れると、他人の事なのに酷く好ましく思えた。


「でもまぁ、酷いもんだよね」
 楊志から見て、村雨は情を寄せれば普段通りの薄情とは言い難い人物だと思っていたのだが、まさか銀鈴にそういった言葉を投げかけるとは思わなかった。銀鈴はおそらく唯一、あの死ねない体質に心からの悲しみを覚えた女性だ。そんな得難い存在に対して、いささか酷い仕打ちじゃないかと思いながらも、楊志はにぃと笑って銀鈴の額を突いた。
「いっそ、あんな男なんか捨てて、初恋の人に鞍替えしちまうのもいいんじゃないかい」
 悲しむばかりが能じゃないだろう、と笑うと、銀鈴は今度は顔を真っ赤にした。サニーも一瞬だけ『初恋の人』を思いだして、微かに頬に熱を感じた。サニーの方はともかくとして、銀鈴の方は大体の想像が付く。
「だって」
 『あの人』ならきっと、全部丸ごと受けとってくれるさ、と笑う楊志に、銀鈴は微かに首を振った。目は真っ赤だし未だに気分はぐちゃぐちゃだが、それでも首はちゃんと横に振った。
「でも、私は健二さんが好きなの」
 難しいなぁ、とサニーは頭の中で処理出来ないまま、話を聞いていた。


「で」
 呉学人を侮ると痛い目にあう。
 無論、村雨は痛い程知っている。石の様に黙り込んでしまった銀鈴の気持ちが想像に難くない様に。それでも『関わりのない』事だと言い切ったし、そもそもにして関わって貰っては困る。関わらなければいっそ、怒っても泣いても、自分を嫌ってすらいいのだが、この男に悟られるのだけは困る。
「どういう事なんでしょうか?」
 理論的な事をしているのだと分かっても、本能的に村雨の背中に冷たい汗が流れた。無論、呉に何事かがあったら隣室からビッグバンパンチが飛んで来るという事も含めて色々だ。皆は大概ビッグバンパンチを怖がるが、村雨としては他称舅自身も結構恐い。なにせ少女一人の幸せの為に、人類的な秘密をひた隠しにしていた男だ。本人に自覚はないが、一端舅として考えるだすとともかく恐い。
「何、アンタも知っていての事だろうと思ってね」
 村雨は冷や汗を隠しながら、出来るだけシニカルな表情を浮かべた。
「BF団はともかく、案外小さな組織共が、テレポート能力の持ち主を捜していてな」
 呉はその言葉に顔色を失った……聖アーバーエーの件の詳細はひた隠しにされているが、詳細を知っている者は知っている。無論、アーバーエーの崩壊の大原因は大怪球なのだが、相応の筋では別の話も出ている。
 曰く、何者かが山一つを移動させて、あの辺りを崩壊させた、と。その能力は、誰もが欲しがっているテレポてーションだとも察している。
「で、ついにここまでふらっと来たワケだ」
 あの件は国警もしくはBF団に関係在り、と睨んだのだろう。エマニエルが又変な気をおこさないといいけれども、とぼんやり考える呉に、村雨は大きくため息をついた。
「でだ、スパイを見付けて、懇ろにお付き合いしていた訳だ」
 今頃はすっかり記憶を失っている筈だぜ、と笑う村雨に、呉は何処か表情のない顔を向けた。
「……村雨君、何処なんですか?」
「何処?」
 何の事だ、と村雨は首をかしげた。相手の組織については幾らか調べたが、国警であれば問題にならない程度の大きさだった。銀鈴の体調が戻れば、むざむざ捕まる相手でもない。しかし出来るならば杞憂は知らぬ方がいいに違いない。
「その組織は、何という名前ですか?」
 呉はことんと首をかしげたが、何故かそこにはいつもと違い、一切の感情が見えなかった……何となく、最悪の状況を予想しながら、村雨は他人事の様に告げた。
「ああ、知ってるさ。しかし先生がどうするって言うんだい」


「健二さん」
 今日は銀鈴がべったりと側にいる。相変わらず視線は合わせていないが、随分と幸せな事だ。わざわざ北京支部から仕事の関係で呼び出しがあって来たのだが、結局大した話でもなく、こうして銀鈴と、堂々と出会っている。ヘタに村雨がこちら側の人間と知れれば、銀鈴の身も危険だが、今回は特別だ。
 なにせ件の犯罪組織はこの一週間で消滅した。おそらく、跡形無く、手法自体も相当厳しいものだ。あのフォーグラーの助手が何をしたか、さもありなん……『三大軍師には勝てませんが、私だって北京支部の軍師なのですから』とは良く言ったものだ、謙遜もいいところだ。
「今日は居てくれるの?」
「ああ」
 抱きつく銀鈴に、何故か村雨は小さな息を吐いた。
「アルベルト!!セルバンテス!!!」

「うっひゃわ、な!?ああああー!!!」



突如現れた我らがリーダーによってひっくり返された白と黒の駒に、素っ頓狂な声を上げたのはセルバンテスだった。

「お主らはなんとも思わぬのか!!」

「ちょ・・・・何をするのかね!!せっかく一発逆転の一手を打とうと言う時に・・・ああ・・・オセロでアルベルトに勝てると思ったのに・・・」

ナマズ髭をさらに下げてセルバンテスは肩を落とすが、テーブルを挟んだ向かい側のアルベルトはというと「ざまぁみろ」と言わんばかりの態度で葉巻を盛大に吹かしていた。

「私はね、自慢じゃないがオセロでアルベルトに勝ったためしが無いのだよ?チェスやポーカーでは勝率は上だというのに・・・何故かオセロだけはどーしても勝てないのだよ。そんな私があと一歩で初勝利だというところへ・・・樊瑞!どうしてく」

「そんな場合ではない!!!!!」

本当に自慢にならないことを言うセルバンテスの剣幕を、さらに上回る剣幕で樊瑞はさらに詰め寄った。

「サニーが、私の全てである可愛いサニーがあの覆面男の餌食にぃ!」

「は?」




少々混乱している樊瑞を正気づかせるために、アルベルトは軽く(アルベルト的に)彼のみぞおちに衝撃波付きの一撃を見舞った。




「もう少し落ち着いて説明しろ、うるさくて敵わん」

「いや随分と静かになったが、大丈夫かねぇ」

セルバンテスに鼻を摘み上げられる樊瑞に反応は無かった。





息を吹き返すのに20分を要した樊瑞が涙ながらに語るにはこうだった。

サニーは最近は時間があればほとんど残月の元、つまり彼の執務室へ足を運ぶようになったらしい。残月とて多忙を常とする十傑集であるため、いつもそこにいるわけではないがサニーの方が残月がいる時は必ず訪れるようになったのだ。そしてそれがかれこれ二ヶ月もずっと続いているという。

「それで、どうしてサニーちゃんが残月の餌食になるのかよくわからないのだが」

「何を言うか、今までは時間があればこの私とのんびりとお茶を楽しんだり散歩をしたり・・・とにかく私と過ごしていたというのに・・・それがどうしたことだ!『明日は残月様は本部勤務でいらっしゃるのでしょうかおじ様』『残月様は今度いつお戻りになられるのですか?』『残月様のところへ遊びにいってきます』って・・・・残月残月残月と・・・・奴の元に通うのを楽しみにし、そわそわと待ち焦がれるサニーのあの顔!!うううあああ!!!」

「おいおい、あの残月だよ?あの残月がサニーちゃんをどうこうする男だとは思わないがねぇ、アルベルトもそう思うだろ?」

「少なくとも樊瑞よりかはな」

馬鹿馬鹿しいと言いたげな顔でアルベルトは紫煙をあさっての方向に吐き出した。娘をこの男に預けた責任をちょっとだけ感じたがそれは顔には出さなかった。

「あの男・・・我々の中でもちょーっと一番若いからといって、ちょーっとデキる男だといって、ちょーっとイイ男だからといって・・・きっとサニーは奴に弄ばれておるのだ!!」

「も、弄ばれているっていうのはちょっと考えすぎなんじゃあ・・・っていうか私には想像付かないんだけど」

完全に何かを見失っている樊瑞に2人はため息を漏らすが、私怨(というか嫉妬)を含んだ怒りをあらわに樊瑞はテーブルに拳を叩きつけた。分厚いそれは綺麗に二つに割れてしまったがそれを気にする者は誰もいない。

「イイ男かどうかは・・・覆面被ってるのだからわかんないけどまぁ一番は確実にこの私だとして、若いのは確かだし、彼の仕事の丁寧さは私も認めるところだけど。いいんじゃあないのかねぇ、サニーちゃん本人が楽しければ私は別に問題だとは思わないけどなぁ」

「私にとっては大問題だ!!!今日も残月の元へ行くなどと・・・うううサニー~」

「やれやれ付き合いきれん」

アルベルトは再び溜め息混じりの紫煙を吐いてから立ち去っていった。

「あ、おいアルベルト、もう一回オセロやろう!君が勝ったらモルジブの別荘あげるからさぁもちろんあの島丸ごとだよ!」

一人残ったのは勝手に盛り上がり頭を抱える樊瑞だけだった。













「十常寺から取って置きの茶葉をもらってな、今日は私とお茶を・・・」

「残月様のところへ行く約束をしているの、ごめんなさいおじ様。あ、今日は帰りが夕方になりますね、ちゃんと門限の5時までには戻りますので」

「・・・・・・・・・・・・・」





「サニー、今日もまた残月の元へ・・・」

「残月様今日は一時間しかいらっしゃらないそうなので・・・いけない急がなきゃ。それでは行ってきます」

「あ、ちょっと待ちなさい、サニー!」






あの・・・あの覆面男め・・・・・

渦巻く怨念(というか嫉妬)を背に乗せて樊瑞はその二つ名のとおりの形相を見せる。混世魔王ここに降臨!といった様相。彼の脳内劇場ではサニーの肩を引き寄せ下品な笑みを浮かべる残月の姿。アテレコはきっちり樊瑞によって行われ何も知らない純真無垢なサニーが残月の口車に乗せられてしまって騙されようとしている。子うさぎに牙を剥こうとする狼が忍び寄る!危うし!サニー!・・・・とまぁとにかく盛り上がって(勝手に)いた。

盛り上がりすぎて花嫁姿のサニーの隣に残月が立ったものだからさぁ大変。

全米ではなく樊瑞が泣いたその脳内劇場、ついにいても立ってもいられず気づけば残月の執務室のドアの前で仁王立ちとなっていた。


「残月ー!!私は許さんぞぉーーー!!」

ノックも無しに蹴破るや否や、マントより生み出された無数の古銭の弾丸が執務室のデスクに座っている残月に向かって高速飛来。

「な!!!!?」

「おじ様!?」

残月はさすが十傑集という動きで突如の攻撃にも関わらず全てをかわしたが・・・デスクの上に山高く積まれていた十傑集の決済を必要とする書類全てが古銭攻撃を受け、彼の目の前でまるで粉雪のように細かく飛び散っていった。

「なんてことをしてくれたのだ・・・今日中に各支部に送らねばならぬのに・・・」

「サニー!退いていなさい!!。残月貴様、何も知らぬのをいいことに私のサニーに無理やりチューを迫るとは・・・許さん!!この品性下劣な変態エロ覆面め!!!」

「きゃあ残月様あぶない!おじ様おやめください!!」

再び古銭の攻撃を放ったが・・・無数の古銭は全て同じ数の無数の鋼の針によって一瞬にして壁や書棚に縫い付けられてしまった。

「何をする樊瑞!!」

「おじ様!残月様はそんなことはなさりません!!私はただご本をこちらで読まさせて頂いていただけです!」

前に立ちはだかったサニーにやっと我に返った樊瑞。
彼がが目にしたのは・・・

来客用のテーブルに積まれている全18巻の大長編の恋愛小説。

泣きそうなサニーの手にあるのはその11巻目。
夢中になり先が楽しみで仕方が無い本を・・・しっかり握っていた。

「私がこの本を読むために残月様にお願いしてこちらへ通わせて頂いていたのです」

「え?は?・・・・いやそれなら何故借りるなどしない、今までそうしていたであろう」

「ですが・・・・おじ様は・・・こういう本を私が読むのを・・・」

「樊瑞、お主がうるさいからサニーも借りて帰ることができんのだ。だから彼女から頼まれて私がいる間はここで読まさせていた」

静かにおとなしく読書をしているだけなので自分も仕事に専念できる、たまにお茶を入れてもらったり気分転換にちょっとした話し相手になるので悪くは無い。サニーもまた読む時間は限られるが小うるさい後見人に気兼ねすることなく本を楽しめるし、残月はこころよく話し相手になってくれるので居心地がいい。

「そ・・・・そうだったのか・・・・そうか・・・はは・・・良かった・・・」

「私は良くは無い」

やはり勝手に安堵している樊瑞だったが、覆面越しにでもわかる大きな青筋を額に浮かべて残月は勤めて冷静に愛用する煙管に火を点けた。

「それで?山のような書類を片付けるのに汗を流す私が何をしていたと?」

「いや、あの・・・ゲホゲホ」

まるで樊瑞の顔にあてつけるかのように紫煙が細く吐き出される。

「誰が・・・品性下劣で・・・変態エロ覆面・・・だと?」

「その・・・」

残月はこの状況にどうしていいかわからないサニーに穏やかに言う。

「サニー、済まないが席を外してもらってもよいだろうか?」




一転、樊瑞に向き直れば嵐の前の静けさを含んだ声のトーンで




「『樊瑞のおじ様』と少々込み入った・・・話があるのでな」










END





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合掌。



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