『結婚するとき、私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。
今考えると、あのとき食べておけばよかった。
アーサー・ゴッドフリー』
招かれざる客にテーブルはない
カップから上がる湯気を軽く吹きながら、死んじゃったんだ、とぽつり洩らした。葉巻を吸っていたアルベルトが静かに視線を寄せてきた。その表情から、どうも説明不足だったようだと思い、言葉を付け足す。
「妻と子がね、いっぺんに」
言葉と共に溜息が出てゆき、入れ替わりにコーヒーが入ってくる。これがまた再度溜息を吐きたくなるほど美味しい。
「んー、でもまだ甘さが足りないかな」
「飽和量ぎりぎりまで入れてまだ言うか」
アルベルトが忌々しげに言う。彼はカップに角砂糖を投入する度実に嫌そうな顔をしていた。甘い匂いに気分が悪くなるそうだ。
「・・・それで、」
「ん?」
「死んだと言ったろう」
「・・・うん、残念ながらオチはなくてね。死んだのは間違いなく愛する我が妻と、生れてすらいない我が子。子供の方はまだ男か女かも分からないほどなんだよ。小さすぎて」
「・・・ああ、お前の口から子が出来たらしいと聞いて、まだ二月と経っていないからな」
「うん」
テラスから遠く離れた庭に目を向ける。子供が二人遊んでいる。サニーと大作だ。花を付けた木々の間を走り抜け、あれは追いかけっこだろうか、陽気がいいから蝶の遊びにも見える。楽しそうだ。
カップを空けたら構いに行こう、と思った。
「確か5人目の妻だと」
「そう、内縁を含めないとね。まだ若かった。幼いと言ってもいいくらいで、それが何より悔やまれるよ」
「幾つだ?」
「16」
「・・・そんな年齢だったか?」
「大人っぽい子だったから」
アルベルトが無言のままコーヒーを飲み込んだ。柔らかい風がカップから立つ湯気を乱していった。
「よい娘だったんだよ、本当に。子が出来たんだって笑った貌はそりゃもう綺麗だった。きっと私にはそれが綺麗すぎたんだね・・・・・・まさか泣くなんて思わなかった。あの時の自分の行動が不思議でならないよ――」
「・・・・・・」
馬鹿みたいに砂糖を入れたコーヒーを飲み下す。可笑しいかな、子が出来たと分かったときより、死んだときの方が喋ることが沢山あるなんて。
「・・・知っての通り、彼女にとってもだが、私にとっても初めての子供だったわけだ」
私の精子には殆んど生命力ってものがないからね・・・と何処へでもなく視線を投げる。
「あ、勿論妻を疑ったりはしなかったさ。彼女が言うんだから私の子だろう。けれどね、いざ私の子だって言われると、俄かには信じがたいんだよ。はいこれが宇宙人です、って連れて来られるくらい信じがたい。動揺したんだ、これでも。・・・うん・・・だからあんなふうに言ったのかも知れないな・・・」
「――あれか」
「君は他人事みたいな口ぶりだと言ってたね」
「生むのか、ではな。小娘が泣いたのも頷けるというものだ。お前らしくもない」
「だから自分でもどうかしてたって言ってるじゃないか・・・。それに、彼女が泣いたのは言葉よりも私の腹の内を読んだからだろうと思う。まあそちらの方がよほど私らしくないと言えばそうだがね」
「違いない」
残り少なくなってきたカップの中に、年若い妻の顔がふと浮かぶ。
アーモンド形の黒く潤んだ瞳、果実みたいに赤くて柔らかい唇。長い髪は、抱きしめるといい匂いがした。成長の終っていない体は痩せ過ぎなくらいで、時には物足りなさを感じたものだったが、そういえばこの頃は少しふっくらしていた覚えがある。
何より頭のいい子だった。そこに一番惹かれた。遭って直ぐに自分が殺されることを理解したのだ、極めて社交的に振舞ったというのに。それで妻に迎えることにした。
「・・・・・・」
瞼を閉じる。薄い肉の幕越しにも日差しと視線は感じられる。涙を零した妻の姿も、ぐちゃぐちゃになった我が子も見える。目を閉じれば何も見えなくなるなんていうのは嘘もいいところだ。だから目を開けてカップを煽る。コーヒーの最後の一口は、砂糖の溶け残りでざらざらしていた。これでどうして甘くないのか。
溜息が出そうだった。
「二週間ぶりに会った妻は白のワンピースを着ていたよ。花のコサージュを着けてね、まだ外見に変化もないから、胎の中にもう一人いるって知らなきゃ同じ年頃の子たちとそう変わらない。挨拶のキスをしてから膝間付いて、胎に耳を当てた。勿論、まだ何も聞こえるはずないんだが。愛してるふりがしたくて抱きしめたんだ」
両手を広げ抱きしめる真似をする・・・その途中で腕を下ろした。
「私が其処から去った夜、彼女は飛び出した。胎の子を伴って。そして真っ暗な道路で車に撥ねられた」
「・・・・・・」
アルベルトの反応は微かなものだ。眉を顰め、私の目を透して遠くを見る。眩しいものがそこにあるかのように。その薄い反応が意味するのは、意外にも、沈痛のそれだった。
写真でしか見たことのない相手に対してこんな表情が出来る男だったろうか。それとも私を気遣って?
「アハ」
「――それでどうしてお前が笑う」
「だって君が珍しい顔を見せてくれたから」
「はッ。いいから先を言え」
言いながら、葉巻を灰皿に押し付ける。
「今度はオチもあるのだろう?」
「・・・鋭いねえ」
まだ話を聞いてくれるつもりらしいと知り、嬉しさと同時にコーヒーを飲みきってしまったことを少し後悔した。
「――彼女たちの死はまるで完璧な事故死のようだけど。けれど私達が見詰め合っていたことを死体は語らない。何を見て、何を思っていたのか、誰にも分からない」
「お前にもか」
「そう・・・、そうだよ、私にももう知る術はない。推測くらいは出来るが・・・私が子に向けた感情が何であれ、結局それが引き金になったのは間違いないからね。まさか『彼女ごと』失う羽目になるとは思わなかったが」
「母親は子供を連れて逃げようとした」
「多分。妻から母になる彼女を私は見抜けなかった、私は子に負けというわけ。・・・はぁ・・・それとも、眩惑術でそのへんも含めてやっちゃったのかなぁ・・・覚えはないんだけど」
「なに?」
「無意識にやったかもしれない。本能的な部分で」
「待て、有り得るのかそんなことが。事実なら問題だぞ」
「どうかな。何せ事は無意識下で行われたか否かだから・・・でも、もしそうだったら凄いじゃないか」
ああ、また他人事みたいな口ぶりだと言われそうだ。
「生物は自らの遺伝子を残すために永いこと進化してきた。子孫を残すことは生き物としての本能だ、そうだろう?だのにそれを、私は同じく本能で拒否したことになる。どれだけ自分の遺伝子を残したくないんだか」
言ってて笑えてきた。やっぱりこんな遺伝子は一代限りにすべきだ。人類の為にも。引いては目の前で頭を押えている盟友の、子孫繁栄の為にも。
「セルバンテス」
呼ばれて、視界に映った顔は眉間のあたりが固かった。瞬間、閃きのようなものが走った。・・・彼は案外、子供の為に死んだりするのかもしれない。
言葉を返すことはせず、席を立つ。後ろで再度呼ぶ声がするけど気にしない。
石畳のテラスから下りると庭は緑の柔らかい草に覆われ、一歩踏み出すごと楽しい気分にさせてくれる。子供たちは遊び疲れたのか木陰で休んでいた。薄ピンクの花の下でクスクスと笑う様子に絆され、こちらの頬も思わず緩む。
「やあサニーちゃん、大作くん」
子供が二人、同時に顔を上げる。「何をしていたんだい?」
問えば、秘密を教えようか、どうしようか?と微笑みの会話交わされ、頷き、答えが返って来た。
『結婚式ごっこ!』
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