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うろほろぞ
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さて、所変わって、こちらBF団本部でも、新生シズマドライブの完成は重大であった。
地球上の大半の動力であるだけに、世界征服を目指すBF団でも必要不可欠なものであった
が、地球静止作戦による世界破壊で国警ともども殆ど本来の活動を停止せざるをえなかっ
たのだが、真正シズマドライブが発表された今、冬眠から目覚めたように早速世界征服活
動を再開している。
 十傑集も相変わらず、眩惑のセルバンテスの死後、いまだに末席を埋める者はいない。
肝心のビックファイアもバベルの篭城戦が勃発しないことが判ると再び眠りについてしまっ
たため、その意思をすべて把握している策士・諸葛亮孔明がボスに代わって指揮権の大半
を掌握することになったことは、当然、十傑集の反感を買っている。しかし、これも首領
の思し召しとあればどうにもできず、白羽扇を片手に本当かどうかも判らない『ビックファ
イアの意思』で黙らされていることにストレスを感じている者も多いが、
「おじ様方、お茶がはいりました」
 ワゴンを押してきたサニーの愛らしさに疲れも吹っ飛ぶのは、父親であるアルベルトよ
りも庇護者の樊瑞である。十傑集のリーダーとして多忙な身として、どんなに嫌な事や腹
立たしいような事があろうとも、サニーの顔を見れば上機嫌になるのだから自分でも不思
議である。しかし、これは何も樊瑞一人だけの効能ではなく、いわばサニーは十傑集の癒
し系アイドルのような存在であった。
「ありがとう、サニー」
 サニーのいれてくれたお茶に至福を感じながら、樊瑞は息を吐いた。安らぎの吐息であ
る。その隣で、カワラザキも好々爺に変わり果て、陰気な幽鬼も普段の不気味な表情が何
となく違っているのも、すべてサニー効果である。
「カワラザキのおじい様、御替りは如何ですか?」
 サニーの差し出すティーポットに、
「おお、これはすまんな」
 カワラザキがカップを差し出すと、
「「「私にも」」」
 日頃は息の合わぬ連中が見事にハモって数個のカップがサニーの前に突き出されるが、
サニーは驚き戸惑うどころか、
「はい」
 にっこり微笑んで喧嘩にならないように順々にお茶を注いでゆく。お茶汲みOL以上にむ
さ苦しい親父たちに囲まれながら、こんなに幸福でいる少女はこの世でサニーくらいのも
のだろう。
「それにしても」
 と、口を開いたのはアルベルトであった。私的な十傑集の会合だけにイワンの姿はない
が、いつも隣室で控えているので、サニーはそこにもお茶を持って行くことにしている。
「今度の作戦を、どう思う?」
「今度の作戦というと、上海直接襲撃作戦のことか」
 煙管を片手に残月が受けた。そうだ、とアルベルトが頷いた。
「いくら何でもふざけているとは思わんか」
「たしかに」
 これには一同が頷いた。
「タイトルそのままだもんな」
「上海直接襲撃ったって、要するに国警の北京支部を潰してこいってこととしか考えられ
んのだが……」
「それを、わざわざ何故上海なのかが解せん」
「まさか、孔明の独断ではあるまいな」
「しかし、この程度の独断とはなあ……、孔明らしくもない」
「作戦名もふざけているとしか思えんな。こう、もっと具体的に言ってもらわんと、どう
にもならんぞ」
「要するに、徹底的に破壊してくればいいってことか?」
 喧喧囂囂としているが、作戦のあまりの単純さに真面目に顔を突き合わせているのが馬
鹿らしくなってきて、
「で、畢竟、誰が行くのだ? 上海へ」
 と、ここはリーダーらしく樊瑞がまとめにかかった。
「わしが行く」
 真っ先にアルベルトが葉巻を片手に名乗り出た。
「まあ、北京支部が相手とあれば、当然だな」
 誰もが納得したが、アルベルトの仇敵は一人しかおらず、他にも九天王がもう一人でい
るので、一応、
「他に、誰か行くか?」
 樊瑞が見回すと、アルベルト以外は黙っている。
「まさか、アルベルト一人に任せるわけにはいくまい。ここは、リーダーのわしが……」
 そう言い掛けた樊瑞に、
「何を言うか。リーダーだからこそ、お主が動くことはならん」
 古老・カワラザキが制止した。隣で幽鬼や残月が頷く。
「じゃあ、じいさまが行ってくれるのか?」
 爪の手入れをしていたヒィッツカラルドが口を出すと、
「いや、じい様にはいてもらわねばならん。もしもの時、孔明を牽制するには、激動のじ
いさまがいなくては困る」
 と、今度は樊瑞が止める。もともと、孔明に対抗するための参謀役なのであるから、カ
ワラザキの不在時に何事かないとは限らない。
「では、誰か、他にいないか? 自薦他薦は問わないぞ」
 樊瑞の呼び掛けに、
「……あの、」
 おずおずと可憐な声音が響いた。全員の眼差しがそちらに集中する。隣室から戻ってき
たサニーが、扉に寄り添うように立っていた。
「サニー、どうした?」
 樊瑞の言葉に、
「あの、私では、……駄目でしょうか?」
「駄目でしょうか、とは何がだ?」
「ですから、今度の作戦に、私を出撃させてはいただけませんか?」
 サニーの不意の申し出に、部屋の空気が揺れた。
「サニー、自分が何を言っているのか解っておるのか? 遊びに行くのではないのだぞ」
 慌てる樊瑞に、
「解っています」
 と、サニーは毅然と返した。
「確かに、私の能力はまだ未開です。足手纏いになることくらい、承知しています。でも
……、」
 サニーは小さな手をぎゅっと握って、
「私も、早く、おじ様方のお役に立てるようになりたいのです。ですから、どうか、私を
上海に随行させて下さい! お願いします!」
 頭を下げて懇願した。これには十傑集も動揺である。戸惑いざわめく中から、
「駄目だ」
 冷静に一蹴したのは、アルベルトであった。
「お父様…っ」
「未だに己の能力の使いこなせぬお前など連れて行っても、邪魔なだけだ」
「アルベルト、」
 取り付く島もないアルベルトの物言いに、正論とはいえども、樊瑞も流石に気が咎める。
いくら生まれた時から親子の縁を切っているとはいえ、それでも父娘であることに変わり
はないのである。ましてや、強力なテレパシーで結ばれているとなれば尚更であろう。
 しかし、アルベルトは気にする風もなく、
「事実を言ったまでだ」
 と、新しい葉巻を取り出した。
 だが、サニーは、
「お父様、いえ、アルベルト様」
 常になく瞳に強い光を宿して父を見た。
「先程も申し上げましたように、それを重々承知の上で嘆願しているのです。私もBF団
の一員です。ですから、どうか、上海へ連れて行って下さい。もしも、本当に邪魔になっ
た時は、私を殺して下さっても構いません」
「サニー、お前……」
 少女の覚悟のあまりの強さに、樊瑞は絶句した。
 アルベルトは顔色も変えず、ただ、サニーを一瞥し、
「……よかろう。だが、自分の身は自分で守れ」
 と、だけ言うと、
「樊瑞、これで決定だ」
 反論しようとする面々を押し黙らせた。サニー自身の覚悟と、サニーの父の決断である
だけに、誰も彼も、何も言えなくなってしまったが、
「……サニー、アルベルトの他に、オロシャのイワンも参加することになるだろうから、
お主はただ、初陣で手柄をたてようなどと焦る事はないのだぞ」
 無事に帰って来ることだけを考えろ、とカワラザキが皆を代表するように忠告すると、
「はい、ありがとうございます」
 サニーは高揚した頬に、清楚な笑みを浮かべて頷いた。

 BF団が早速動きを見せ始めたことは、国警側にもすぐに知れた。とはいえ、ヨーロッ
パ圏における勢力はBF団の方が強いだけに、よって情報収集能力もどうしても低下せざ
るをえない。
「しかし、よりによって上海とはなあ……。何考えてんだ?」
 上海に向かう飛行船グレタガルボの中で、鉄牛が唸った。
「取り敢えず、活動再開の景気付けに、って、とこじゃねえのか?」
 戴宗が酒を呷る。その隣で、
「新シズマドライブも完成したばかりだからねえ……。でも、だからってねえ……」
 流石に楊志も疑問視せざるをえない。何故なら、襲撃してくるというだけで、敵の目的
がはっきりとしていないからである。
「まあ、BF団の世界征服が最終目的とはいっても、確かにおかしいわよね」
 と、銀鈴も首を傾げる。
「だが、どちらにしろ、戦うことに変わりはない」
 幻夜だけは引き締まった表情をしている。それをまた、大作が隣から見惚れているもの
だから、余計に鉄牛も戴宗も不満そうだ。
「ま、どっちにしろ、わざわざ上海まで来るんだ。……やってやるぜ」
 そのせいか、戴宗は両手をぼきぼき鳴らした。
 衝撃のアルベルトが出撃してくるであろうことは、誰もがほぼ確信していた。右目と盟
友を奪われた屈辱から、戴宗を仇敵と狙うアルベルトとの決着は、今日こそ着くのか。そ
うなった時、無事であるのはどちらなのか。上海での戦いということで、前回の事から、
楊志の表情が思わず複雑になる。だが、
「心配するな、俺を信じろよ」
 そう、直接言葉にせずとも、瞳で語り掛けられて、楊志も力強く頷く。目と目で語り合
う夫婦の絆も、またひとつの愛の形であった。
 その時、いよいよ上海エリア上空に突入したという艦内放送が響き渡った。誰もが臨戦
態勢の準備に入る。
「じゃあ、こっちも景気付けに勝つとするか!」
 が、戴宗の台詞は最後まで言い終えることはできなかった。何故なら、グレタガルボを
突然の衝動が襲ったからである。あまりの唐突さに、全員が床に打ち付けられそうになり
ながらも、何とか体勢を持ち堪える。
「まさか、これは……!」
 うわあっ、とよろめく大作を腕に抱きながら、幻夜は襲撃してきた方角を見る。と、
「二発目、来ます!」
 報告よりも早く、グレタガルボが騒音とともに大きく揺れる。何んとか避けたものの、
飛行船を打ち落とそうとする一筋の波動に、
「衝撃波か!?」
 戴宗の瞳が、遥か彼方に仁王立ちする男の姿を捉える。ニヤリと笑ったモノクルの右目
が、太陽を受けて光った。
「あの野郎!」
 叫ぶと共に、甲板から一気に地上へと飛び降りる。地上では、すでにBF団の戦闘体勢
がすっかり整い、戴宗の降下に合わせるように攻撃が開始された。が、それを物ともせず、
戴宗はただ仇敵のもとへ急ぐ。
「あんた!」
「兄貴!」
 それに続いて、楊志や鉄牛も降下し、次々とBF団の戦闘員を薙ぎ倒して行く。銀鈴も
他のエキスパートらと共に上空からBF団に銃で応戦し始め、グレタガルボも急ぎ避難す
るためにスピードをあげる。
「ジャイアントロボ!」
 幻夜の腕の中から、大作が腕時計に向かって叫ぶ。父の遺した巨大ロボットを操縦する
大作の表情はいつもの子供とは全く違う。ロボの腕が求めるように差し出され、大作は幻
夜から離れると、そのまま甲板からロボに飛び乗った。
「幻夜さん、いってきます!」
 そう言いながら、大作はロボの堅牢のような掌から腕を振った。この子は、戦場を怖い
と感じたことはないのかと今更ながらに思いながら、幻夜は大作を見送った。ロボがつい
ていれば大丈夫だろうと思いながら、ふと、つい静止作戦へ記憶が遡ってしまうのは仕方
のないことなのかもしれない。
「……ここで、私は大作を初めて直に目にしたというわけか…」
 まさか、あの時は、この少年を心底から愛するような日が訪れるとは、全く予想だにし
なかった。そんな運命の不思議さを感じながら、幻夜はBF団の怪ロボットに立ち向かっ
ているジャイアントロボを見下ろした。順調に戦っている。が、どうあれ、不安は消えな
い。
 そんな幻夜に、
「兄さん、何しているの!?」
 危ないわよ! と銀鈴が叫び、銃を的確に乱射している。と、そこへ、
「今日こそBF団の勝利だ!」
 巨大な二つの爛々とした光眼が眩しく視界に飛び込んできた。
「ウラエヌス!?」
 銀鈴を背後に隠し、咄嗟に幻夜も身構える。
「ほう、面白いところで出会ったな、幻夜」
 ウラエヌスの中から、甲高い声が響いた。
「オロシャのイワンか」
「よくもBF団を利用した挙句に国警なんぞに鞍替えできたものだな。だが、もう貴様も
これで終わりだ!」
 大笑いしながら、イワンがウラヌエスの中から止めのボタンを押そうとした時だった。

 ドオン!!!!!

 上海全土を揺らしかねないような大爆音が轟き渡った。
「なんだ!?」
 音の方角を見ると、巨大な黒煙が丸くもうもうと噴き上がっている。先程、ジャイアン
トロボが戦っていた場所である。
「大作!!」
 イワンを無視して、青くなった幻夜がグレタガルボから飛び降り、大作を目指して修羅
の巷を一瞬一瞬で移動してゆく。
「幻夜!!」
 裏切り者の成敗をと思ったイワンであったが、今度はウラエヌスが大いなる衝撃に揺れ
た。
「なんだ!?」
 グレタガルボからの砲撃であった。フィールドが間に合わなかったものの、不幸中の幸
いともいうべきか、命中とまではいかないが、それでも内部で警報が鳴り響いた。
「くっ、くそっ!」
 こうなっては撤退するしかないとイワンは退いたが、再び遠方から轟いた大爆音に、
「まさか、サニー様!?」
 初陣の少女を救うために駆け付けようとしたものの、ウラエヌスは最早ただ落下してゆ
くことしかできなかった。
「大作!! 何処だ!?」

 一方、二度目の大爆音に、現場に辿り着いた幻夜は黒煙の中からロボを見つけ出し、一
旦は安堵したものの、周囲を見回したが大作の姿は何処にも見当たらない。

「大作!! 私だ!! 何処にいる!?」

 晴れ切らぬ黒煙の中に躊躇なく飛び込み、大作を探し出す。ロボの頬には勿論、掌の中
にもおらず、幻夜は絶望した心地で必死に大作を探索した。白いスーツがたちまちに色を
変えた。と、

「……う、ん……」

 こんな時でもなければ聞き逃して当然のような微かな唸り声に、もしやと思い、

「大作か!?」

 幻夜は危急と瓦礫を掻き分けたが、黒煙のせいで大作であるのかも判別できず、それで
も小柄な感触に少年かと抱き上げたが、大急ぎで日の下で見ると、全く別の人物であった。
しかも、その顔には見覚えがある。

「……まさか……、」

 それに反応したかのように、幻夜の腕の中で、閉じられていた瞳が、微かに動いた。

「サニー・ザ・マジシャン……!」

 見間違う筈がない。衝撃のアルベルトの娘である。無から有を生み出す能力は未開花で
あるために、十傑集候補のまま、空席を埋めることのできていない少女である。本来であ
れば、このような戦場に来ることなどない筈の人物である。それが、

「何故、こんなところに……!?」

 驚愕する幻夜の前で、少女の瞳が、すうっと開いた。

「………あ、」

 サニーの意識が、徐々にはっきりしてくる。痛みは殆ど感じてはいないが、爆発のショッ
クから、それだけ感覚がどうかしたというわけなのだろうか。それとともに、ぼやけた視
界も次第に輪郭線を取り戻してゆく。誰かが、自分を助けてくれているらしいことが解る。
だが、それがアルベルトやイワンでも、覆面のBF団員でもないことはぼんやりと理解し
た。では、まさか国警だろうか。自分は捕らえられたということなのか。サニーの中で、
恐怖や不甲斐無さが涙になって込み上げて来る。

「……大丈夫か」

 だが、問い掛けられた声音に、サニーは敵意を感じられなかった。初めての戦場という
せいもあったのだろう、心弱さからか、

「は、は…い…」

 思わず、頷いていた。

「……そうか」

 幻夜はサニーを抱えたまま立ち上がると、

「大作を知らないか、何処にいる!?」

 必死の形相で薄汚れた少女を揺さぶった。

「さ、さあ……?」

 サニーにも、大作が何処へ飛ばされたのかなど、全く検討も付かない。
 そもそも、偶然にもジャイアントロボに倒された怪ロボットの近くにいたために、大作
に見付かったものの、サニーを知らない大作は民間人がいたのかと驚き助けようとしたの
だが、動転したサニーの能力が暴走し、大爆発を起こしてしまったのであった。
 しかし、今度も、

「頼む!! 大作は何処にいる!? 答えてくれ!!」

 恐ろしいような形相で懇願してくる幻夜に、

「い、いやー!!」

 サニーが動転と恐怖から思わず叫ぶと、二人の背後で、またも大爆音が轟いた。

「何!?」

 これには幻夜も驚くが、ともあれ逃げ去るしかない。仕方なくサニーを横抱きにしたま
ま、余波の届かないような位置へと急いで逃れる。と、その一瞬の間に、黒く長い髪が広
がって鼻孔を掠めた香りに、サニーは知らず息を止めていた。そして自分を抱えている人
物を見上げる。この白皙黒髪にはサニーにも見覚えがある。たしか、幻夜という、十傑集
である父を差し置いて地球静止作戦のリーダーであったエージェントで、今は国警に鞍替
えした男であることは知っていた。地球静止作戦の折、アルベルトが上海で行方不明になっ
たことから、サニーは樊瑞のもとに身を寄せていたのであったが、それ以外にもアキレス
に捕まってビックファイアの身代わりをさせられたりと、原因はすべてこの男にあったの
だが、サニーの性質からして別に幻夜を恨むなどといった感情を持つことはなかったが、
かといってどう思っていたわけでもない。だが、その白皙を見詰めているうちに、サニー
は急に胸がドキドキしてくるのを感じて、戸惑った。これまでサニーは十傑集に囲まれて
成長してきただけに、こんな動悸は初めてだった。

「流石にここまでは……」

 立ち止まった幻夜は、腕の中のサニーの様子がおかしいことには気付かなかった。それ
よりも大作は何処へ行ってしまったのかの方が遥かに重大であった。よって、

「立てるか?」

 困惑しているサニーを地上に降ろし、

「待っていろ、大作!」

 そのまま大作を救出に向かおうとした幻夜の前に、

「待てい!!」

 問答無用に衝撃波が飛んで来て、幻夜は慌てて飛び退き逃れた。が、あまりにも突然だっ
たために、衝撃波を避け損なって瓦礫の中に派手に落下した。

「お父様!」

 サニーが咄嗟に叫ぶ。父の登場による安堵よりも、幻夜が殺されるのではないかという
無意識の恐怖から今度は青褪めていたが、サニー自身、これがどういった感情であるのか
は理解できていないため、強力なテレパシーで結ばれているとはいえ、アルベルトにも伝
わりきらず、またアルベルトにしてみればそれどころではなかった。

「…うっ……」

 なんとか起き上がった幻夜を、正面から見下ろしながら、

「貴様、よくもわしの娘を……!」

 アルベルトの掌に衝撃波が音をたてる。サニーの瞳が大きく見開く。

「お父様、待って下さい! その方は……!」

「黙っていろ!!」

 アルベルトの怒声に、サニーがびくりと震えた。

「ええ、幻夜、この前は、よくも我々BF団を愚弄してくれたな。しかも、よりによって
わしの娘に触れるとは……、今度こそ貴様の息の根を止めてくれるわ!!」

 アルベルトの衝撃波が幻夜に向かって放たれる。だが、それは幻夜の息の根を止めるこ
とはなく、むしろ、

「衝撃のー!! そこかー!!」

 上空からの噴射拳がアルベルトを吹き飛ばした。

「お父様!?」

 が、サニーの心配も余所にアルベルトは即座に体勢を立て直す。

「戴宗!」

 スタッ、と戴宗が地上に着地する。互いに相当やりあってきたらしく、よく見ればアル
ベルトも戴宗も無傷ではない。

「へっ、俺との勝負をいきなり放棄したかと思いきや、てめえみてぇなおっさんにこんな
可愛らしい娘がいたとはなあ……。こいつはちょっと驚きだぜ」

 戴宗は酒瓢を呷り、口許を手の甲で拭う。

「うるさい! 貴様、よくも邪魔してくれたな!」

「ええ、意外に子煩悩らしいな、衝撃の。てめえの娘も心配だろうがな、こちとら大事な
大作が心配なんでな……、幻夜!」

 戴宗は振り返らずに、幻夜を呼んだ。

「判っている」

 すでに復活していた幻夜の腕には、いつの間にやら大作が抱きかかえられていた。

「おお、いたか!」

「丁度、この瓦礫の下にな。……息はあるから、大丈夫だ」

 そう言い、愛おしそうに大作を見詰めた。怪我はないが、汚れた頬が痛々しい。

「あ……」

 大作を見詰める幻夜の眼差しが、傍目にもサニーの小さな胸をちくりと刺した。だが、
それも一瞬の出来事であり、誰も気付く筈もない。

「無事なら無事で、大作を連れてさっさと逃げろ!」

 衝撃のは俺に任せとけ、と戴宗が身構え豪語する。アルベルトも当然受ける構えである
が、

「サニー、早く逃げんか」

 それまでの娘への激情が嘘であったかのように、今度は打って変わって平静な声音であっ
た。は、はい、とサニーも立ち上がろうとするが、うまくいかず、

「一人じゃ立てねえみてえだぜ、あの嬢ちゃんは」

 からかうような戴宗に、

「うるさい! 黙れ!」

 と、アルベルトが衝撃波を放った。

「るあー!!」

 戴宗も負けじと噴射拳で対抗する。二つの強大な力がぶつかり合い、戦場が一瞬、目映
く照らし出される。廃墟と化すしかない上海の地を、二つの力が衝突しては離れ、離れて
は衝突する。どれも一瞬の出来事であるが、拮抗故に決着はいまだにない。

「サニー様、ご無事でございますか!?」

 今になって、漸くイワンが駆け付けた。

「イワンのおじ様!」

 慌てて立ち上がり駆け寄ろうとするサニーを、イワンが支える。

「お怪我はございませんか!? さ、今のうちに安全な場所へ……」

 イワンが連れて行こうとするのを、サニーは、

「待って下さい! お父様が……!」

 さっと小さな両の掌に光を集めようとするが、上手くいかない。

「アルベルト様が負ける筈がございません! それよりも、サニー様にもしもの事があっ
たりしたら……!」

「でも、私のせいで、お父様が……!」

 空中でドンパチを繰り広げる父親の姿に、苦渋はない。だが、サニーは父親に一瞬でも
負担を掛けさせたのかと思うと、自分が情けなく、せめて一矢を報いることはできないか
と、もう一度掌に力を集中させてみる。そもそも、もしも戦場という危急に立てば能力も
開花するのではないかと期待して志願したのだ、せめて少しだけでもと歯を食い縛る。

「サニー様!?」

 イワンの目の前で、サニーの手が急速に目映い光に包まれてゆく。と、それはサニー自
身をも包容し、星にも似たきらめきを放ちながら、どんどん輝きを増してゆく。しかし、

「きゃあああ!?」

 これもサニーには扱いきれていないのである。暴走する魔力は使い手である少女にも止
めることはできない。それだけサニーの潜在能力の高さを意味しているのだが、どちらに
しろ器が伴っていないので余計に厄介である。サニーの意思とは関係なく、止め処なく溢
れる光は奔流となって方々へ飛び火してゆく。

「なんだ、ありゃ!?」

 戦闘の最中でありながらも、戴宗やアルベルトも思わず動きを止めて眼を見張る。流れ
る光は淡い輪郭を捨てて唐突に周囲へ襲い掛かり出した。衝突した先で激しい爆発が起こ
る。と、光は二人にも襲い掛かって来た。

「どうなってんだ、衝撃の!」

 器用に避けながら、戴宗が叫ぶ。

「うるさい! ワシが知るか! サニー! いい加減にしろ!」

「で、でも~!」

 サニーも涙ぐんで対応策に懸命に頭をひねるがどうにもできない。

「サニー様!」

 一先ず、イワンがサニーを抱えて現場から離れるが、四方八方も暴走する光によって次
々と塞がれてゆくばかりで、

「ええい、仕方がない!」

 イワンは兎に角開けている方角へ行くしかない。涙で霞むサニーの瞳に、大作を抱える
幻夜の姿が飛び込んで来た。彼も襲来する光から逃れようと彷徨っているが、髪を振り乱
して大作を守護するその有様に、サニーの視界が一気に晴れ渡り、胸の高鳴りが驚くよう
な大きさで身体中に響いてくる。思わずサニーの頬が染まる。と、方々へ荒れ狂っていた
光が、俄かに身を捻らせて方向転換し、幻夜へ集中し始めた。

「何!?」

 光が音をたてて幻夜を取り巻き、抱擁しようと幾筋もの腕を伸ばしてくる。瞬く間に壁
となって幻夜を包み隠す。

「大作!!」

 戴宗が叫ぶ。と、目映い光の壁の隙間から、淡い緑色の輝きが溢れ出し、サニーの光を
撥ね退けて行く。

「何!?」

 テレポートである。大作を抱える幻夜の姿が、緑の光と共に消えた。何処まで移動した
のか。慌てて周囲を見回すが、絶体絶命の危機とはいえ、命を削る能力だけに容易には使
えない筈だが、その行方は解らない。

「あの野郎……」

 しかし、これで大作の無事は保障されたも同然だった。

「戴宗!!」

 戴宗の横を、衝撃波が過ぎる。当たらなかったものの、バランスが崩れた。

「勝負は終わったわけではないぞ!」

「うるせえ!! てめぇの娘の心配でもしてろー!」

 再び衝撃波と噴射拳が激突する。数時間も経たぬうちに、すでにまともに戦っているの
は、この二人だけであった。

「サニー様、こうなっては最早撤退するしかありません!」

 イワンの台詞に、サニーも今度は頷く。サニー自身にもよくは解らないが、サニーの光
は幻夜のテレポートと共に消え去っていた。

「一体、どちらの勝利だったのでしょうか……?」

 サニーの疑問には、イワンも答える術をもたない。ただ、少しでも早くサニーを安全な
場所へと脱出を急ぐだけだ。
 だが、そんなイワンの決死を余所に、サニーは幻夜が一体何処へ消えたのかが気になっ
て仕方なかった。一目遇い見た草間大作を見詰める幻夜の眼差しの意味は、そして、こん
なにも熱く燃える頬の意味は何だというのか。母であれば、知っていただろうか。けれど
も、母はもういない。首を廻らし、遥か後方の父を見る。父は今、戦っているだけだ。サ
ニーは瞳を閉じた。



 一方、幻夜がテレポートした先は、浮遊するグレタガルボのメインブリッジであった。
すでに戴宗以外のエキスパートが戻って来ていた。

「まさか、兄さん!?」

 自身も同じ能力を持つだけに、突然、目の前に出現した淡い緑色の輝きに銀鈴は驚愕の
声をあげた。その腕に抱かれた大作は、うっすらと瞼を開けている。だが、自分の状況に
すぐに気付き、床に屑折れるように降りた幻夜に眼を見開いていた。

「幻夜さん!? しっかりして下さい!!」

 しがみ付き、その白い顔を凝視する。駆け寄る銀鈴たちの不安の表情を一瞥して、幻夜
は、絞り出すように、

「……大丈夫だ……」

 と、乱れた黒髪に手をやった。生色を失った整貌は痛々しく、透けるように白い。

「…それより、大作は……、」

「な、なんともありません! でも、幻夜さんが……、」

 大作の瞳から、みるみる涙が溢れ、頬を濡らしてゆく。幻夜は口許を緩めて、

「……そう、か……」

 よかった…、と唇だけが微かに動いた。

「……兄さん」

 銀鈴の青い瞳が揺れる。漸く、幻夜が頭を上げる。軽く吐いた息は、正常に戻りつつあ
り、銀鈴を安堵させたが、大作は変わらず、

「……幻夜さん!!」

 堪え切れずに抱き付いた。ううっ、と嗚咽が漏れる。そんな大作の髪を撫でながら、

「……大丈夫だ、これくらい」

 幻夜は赤児をあやすように言ったが、

「だ、大丈夫じゃありません!!」

 大作はそれを振り払うように顔を上げ、

「テレポートは命を削るって、僕だって知ってます! だったら、そんな力、もう使わな
いで下さい! もし…、もし幻夜さんに、何かあったりしたら、僕は、僕は……っ、もう
生きてられません!!」

 感極まって、あわっと泣き出した。

「大作……」

 これには流石に居合わせた誰もが息を呑んだ。当人の幻夜も困惑気味に眉を寄せていた
が、啼泣する大作の背中を優しく撫で、

「大作、もう泣くな。……だがな、もし、お前に何事かあれば、私も到底生きてはいられ
ない。だからこそ、この力を使うのだ」

「でも……!」

「私の存在など、お前の命に比べれば何ということもない。私にとって、お前こそが私の
命であり、心臓なのだから」

「じゃあ、僕にとっても、幻夜さんは僕の命です! だから、もうやめて下さい! もう、
大事な人をなくしたくありません!」

 大作の号泣はやまない。幻夜の腕の中で止め処なく泣き喚く大作を、戻って来た戴宗は、
ブリッジの入り口の脇から、ただ、じっと眺めていた。




 シズマドライブ復帰後のBF団の第一作戦は、BF団と国際警察機構、そのどちらの勝
利ともならずに幕を閉じた。双方の被害もそう大したことはなかったが、もろに被害を蒙っ
たのは決戦の地となった上海であり、よって上海の復興事業はまたしても振り出しに戻っ
たのであった。
 その夜。

「まあ、誰も欠けずに済んだ、ってことでよかったのかねえ」

 夫の奮戦は相変わらずのことなので、楊志は毎度のことながら器用に手当ての包帯を巻
いてやりながら、

「上海には申し訳なかったけどさ」

 と、肩を竦めた。

「まあな……、それにしても、あの野郎、子持ちだったとはなあ……」

 戴宗が顎を撫でる。

「サニーって子のことかい?」

「あの野郎に似ず、可愛い顔してたけどな。……あの能力は、ちっと厄介だな…」

「あの光だろう、グレタガルボからも確認できたけど、なかなか……ね…。けど、扱いき
れていないみたいだったし、次に出撃してくることはないと思うよ」

「ああ……、だが、用心に越したことはねえ」

 戴宗は何事か考えている様子であったが、

「……大作は、どうした」

 と、振り向かずに言った。

「別に、特に大きな怪我はしてないからね、せいぜい掠り傷程度さ。今頃、部屋でぐっす
り休んでいるよ、幻夜に付き添われてね」

「……そうか」

 後は無言で戴宗は上着に袖を通した。
 数分後、秘蔵中の秘蔵の酒瓶を片手に、大作の部屋を訪れる戴宗の姿が目撃された。



 同じ頃、BF団では、

「作戦はともかくとして、サニーに何事もなくよかった」

 カワラザキが少女の無事に安堵すると、他の十傑集も揃って頷いた。

「しかし、肝心のサニーはどうしたのだ、アルベルト」

 訝しがる樊瑞の台詞に、アルベルトは、

「放っておけ」

 と、だけ言うと、背を向けた。ただ、葉巻を咥え、

「……全く、何ということだ……」

 娘の中に芽生えた新たな感情に表情を歪めた。よりによって、あんな男を…、等とぶつ
ぶつ呟いていたが、それを十傑集の面々は、

「何かあったのか?」

「戴宗と勝負が着かなかったから苛々してるとか」

「サニーの能力が暴走して心配したからじゃないか」

 互いに顔を見合わせていた。
 その渦中のサニーはといえば、

「お母様……、私、一体どうしてしまったのでしょうか」

 亡き母・一丈青扈三娘の遺影を見詰めていた。

「今日の、あの方のことを想うと、胸がドキドキして、何も考えられなくて……、どうに
もならなくなってしまうのです。あの方は、我がBF団を利用した、裏切り者だというの
に……。何故でしょう……」

 と、頬杖をついた。

「……もしかして、これを、…恋、というのでしょうか、お母様……」

 写真の中、母は微笑んでいる。まるで、愛する娘の初恋を容認するかのように。

「……幻夜……さま……」

 呟き、サニーは頬を染めた。これまで人間離れした親父たちの中だけで成長したサニー
にとって、これが初恋であった。
 陶然とする娘の感情に、アルベルトが日夜魘されるようになったのは、それから間もな
くのことであった。



                                     終



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まだ仄かにしか日の光が入ってこない寝室で、
 黄信は絶望していた。
 まず、

 腰が痛い。

 日常では異常なほどすべての神経を研ぎ澄まし、
 身体に付属しているすべての機能を使って仕事をしている。
 そういった仕事を何年も続けている身、
 自ずと、何をすればどこが痛むか、
 それは一体いつまで続くのか、など把握出来ている・・・
 はずだった。
 だから、
 今、
 腰が痛いなどと何故思うのか、
 ありえないこと・・・であるし、
 腰が痛い、と言うことは昨日一昨日無理をしたのか、
 なぜ、"腰"だけが痛むのか、
 疑問が後から後からわきあがってくる。
 その回答は、自分では導き出せなかった。
 なぜなら、

 昨日の記憶がすべてなかったからだ。

 黄信は狭い布団の上で身じろぐ。
 変な汗が頬を伝った。
 ――何故だ?
 記憶がぶっ飛んでしまうほど、
 酒に溺れる事など今までなかったし、
 酒ごときで酔うなど、
 エキスパートを育成する梁山泊が指南――黄信にとって、
 あっていいはずがない。
 酒に酔わない自信はあった。
 そして昨日は、宴会などそういった類のものはなかったはず。
 それがより一層黄信を混乱へと導く。
 ――酒を飲んだ記憶もない、昨日の昼ごろまでの記憶はある・・・。
 そうなのだ。
 正確に言うと、昨日の夜・・・花栄と帰宅を共にした後の記憶がない。
 黄信はシーツを掻き抱く。
 さらに最悪なことには、

 ・・・服を着ていなかった。

 それがすべての混乱の現況だった。
 朝、というより深夜、
 常人よりは数段はやい時刻に起きた黄信は、
 まず肌寒さを覚えた。
 この季節、確かに変わり目で寒暖の差が日増しに強くなっていくのだが、
 それでも。
 ふと見て気づいた。
 一糸纏わぬ、己の姿。
 ・・・叫ばなかったのが、せめてもの幸い。
 黄信は危うく気絶しそうになったが、
 何とか持ちこたえ、
 そして冷静に、
 極力冷静に物事を見極めようとした。
 そして現在に至る。
 ――花栄と、いつものように共に帰宅して、それから・・・・、
 それから、何をしたのか。
 普段なら、
 多少の酒に付き合ったり、
 もしくは、
 共に部下の特別稽古をつけてやったり、
 説教をしたり、
 様々なことが思い出されるが、
 それでも、
 今日に繋がるようなことは何一つ思い出されなかった。

 ――一体何をしたと言うのだ・・・。

 黄信は絶望する。
 エキスパートとして、
 十数年修行し、
 さらには指南役など、
 身に余るほどの光栄に甘んじておきながら、
 この不覚。
 憤死してしまいそうになる。
 黄信は未だ日の入らない寝室で、
 布団の上で、身じろいでいた。
 身じろいでいたために、
 布団のカバーは乱れていたが、
 それもただ身じろいでいたが為に出来たものなのか、
 それとも違う現象から起きたものなのか、
 もう判別できない。
 いつも身に着けている甲冑や剣は普段なら専用の場所に収納しているはずなのに、
 今日はすべて布団の回りに散らばっている。
 ・・・ありえない。
 自分でも几帳面だと自負している。
 日常の反復動作を、この自分が疎かにするはずがない。

 段々、目が覚めてきた。

 混乱も、多少は収まってきた。

 ・・・命は、ある。
 一番不可思議だと思ったのが、
 今自分が生きている、という事だ。
 というより、
 ――性質の悪い、悪戯か?
 自分を陥れようと、誰かが画策したのやもしれぬ。
 そうは思ったものの。
 ――一体、誰が。
 思いも付かない。
 確かに部下には厳しい。
 だが、怨まれるような指導はしていない。
 すべて個人個人の能力に合うよう、
 黄信なりに気を使ってやっているつもりだった。
 だから、
 余計に、
 今、この摩訶不思議な状態で朝日を迎えようとしている自分が怖かった。

「よう、黄信!目覚めの気分はどうだ?」

 黄信はまた、叫びそうになった。
 目を見開く。
 ――か、花栄!?
 何故、自室に花栄が!?
 そんな表情がありありと浮かび上がる。
 花栄はそれに気づいたのか気が付かなかったのか、
 さらに言葉を続ける。
「まぁしかし、昨日は無理をさせた。すまなかったな。」
 謝られる。
 黄信は、訳がわからずも、
 このなにも着ていない自分を見られるのが嫌で、
 というより恥ずかしくて、
 思わず布団を強く握り締めた。
 花栄は謝った後、気味が悪いほど爽やかに微笑んでいる。
「か、花栄、おぬしが、なぜここに・・・?」
 はぁ?と花栄はいつもの調子で聞き返す。
「何言ってんだ、お前。昨日はあれだけ盛り上がったつぅのに・・・。」
 ぼりぼりと頭を掻きながら、
 幾許か照れたように、
「まぁその、何だ、お前も今日はつらいかもしれぬが・・・」
 歯切れが悪い。
 ――なぜ顔がにやけているのだ?
 黄信は不審に思った。
 まさか、花栄が・・・。
 あらぬことが思い浮かぶ。
 しかし、
 ――花栄がなぜこの黄信を陥れる必要がある?
 必死に否定する。
 乱れた髪が邪魔で、
 黄信は肩先まである髪を掻き揚げた。
「っ・・と、お前、今日はちゃんと用心しろよ?」
「は?」
 何の事か分からず聞き返した。
 さっきから何をわけのわからないことをいっているのか・・・・。
 黄信は花栄が来たことで平常心を失いかけてはいたものの、
 なんとか持ちこたえている。
「だから、その・・・アレが、見えるし。」
 アレって何だ。
「・・・それと、ちょいと昨日は激しくしたから、腰がつらいかもしれねぇな。」
 何で腰が痛いのを知っている。
「お前、やっぱりまだ動くのつらいのか?服も着てない・・・し。」
 目線が泳いでいる。

 黄信は苛苛してきた。
 こうもはっきりしない花栄は初めてだ。
 が、先ほどからニヤニヤニヤニヤ下世話な笑いが収まっていないところをみると、
 本当に花栄が自分に何かしたのではないか、
 という疑いが、黄信のなかで再発しだした。
 ――まさか。
 布団の中で、多少は温まった掌を握り締めながら、
 黄信は、

「花栄、・・・昨夜、俺に何かしたか?」

「何したって・・・お前、覚えてないのか?」

 呆然とした。
 花栄もあまりに本気で何もわかってなさそうな黄信を見て、
 呆気にとられている。
 日はやっと入ってきて、大分部屋が明るくなってきた。
 窓の桟から漏れる光が、黄信と花栄を照らし始める。
「・・・本当に、覚えてないのか?」
 最初に口を開いたのは、花栄。
「本当の本当に、覚えていないのか!?」
「だから、一体何の事をいっているのだお前は!!」
「いやだから本気かぁお前!昨日何したってナニしたんだよ!!!」
「分けがわからぬことをほざくな阿呆!!俺に何するって何だ!!!」

「だからっ、・・・お前を、抱いたんだよ・・・・。」


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 昨日の夜から記憶がない。
 花栄と帰宅して、
 一緒にこの自室にもどって、
 それから、
 それから・・・・。
「な・・・?」
「思い出したか?」
 目線がかち合った。
 思い出せない。
 まったくもって、思い出せない。
「思い出せぬ・・・。」
 はぁ、と花栄は盛大な溜息をついた。
 黄信は抱いたという刺激的な、かつ下世話な言の葉に恥ずかしくなり、
 思わず下を向いた。
「・・・まぁ、思い出せなくても、これから夜は何回もあるし。」
 花栄はその持ち前の明るさからか、
 それとも単に目の前にある現実から目を背けたかったのか、
 己に言い聞かせるようにそういった。
 黄信は、
 ・・・・保身の為に、わざと思い出せないようなっているのか。
 人間の脳とは真に不思議よ、と納得した。
 日はもう完全に朝の位置につき、
 もうそろそろ早朝練習が始まる。
 黄信は多少の腰の痛みをこらえて、
 花栄は現実逃避しそうになる自分を制御して、
 いつもとおなじように、
 まるで何事もなかったかのように、
 出勤していった。


 そんな初夜だった。

□02□ 罰






幼い頃、
わたくしは天使の羽に包まれているように、
柔らかな愛と優しさによって育てられました。
この血の色をした眼に映るものはすべて、
この世の美しいものでした。

今でもそれは私の心に残って、それはそれは美しい幻を見せてくれるのです。

母の記憶は一切ありませんが、
父や、おじ様たちの記憶は今も色鮮やかに残っております。
わたくしはわがままで、
何度となく父やおじ様たちを困らせていたようで・・・。

特に思い出深いのは、
父と一緒に地中海の別荘で晩餐を共にしたことでしょうか。
わたくしは樊瑞のおじ様に連れられて、冬の優しい風と戯れていたのですが、そこへ突然父が来てくれたのです。
父は、たまたま任務地だったので寄っただけだと言っておりましたが・・・。
その日は母との特別な日らしく、
晩餐中にも関わらず、父はまるで懐かしむように母との思い出を語ってくださいました。
ふふ、幼いながらに嬉しかったのでしょうね。
その日の父との会話は、今でも温かな血潮となってわたくしの体をめぐっていますもの。
樊瑞のおじ様も、父の饒舌がもの珍しかったのか、上機嫌でわたくしと父の会話を見守って下さいました。
母の記憶がなくても、わたくしに母という優しい存在が分かるように、理解できるように、父が心を砕いてわたくしに語って下さったかと思うと、その思いだけで心が満たされる気がしました。
父と、
樊瑞のおじ様と、
そして父の語る亡き母との思い出が、
家族の団欒というものをわたくしの心へ届けてくださった晩餐は至上の思い出です。

そしてそれは、最初で最後の団欒でした。

父はわたくしへの愛からか、家族との縁を切って孤独に生きておりました。
その愛が、どれほど深く、どれほど高いかなど貴方には到底理解できないでしょう。
父は崇高な方でした。
わたくしの中の父は、背中姿ばかりで、決して弱いところを見せないのです。
最後の時もそうでしたね。
決して己の誇りを失うようなことはしなかった。
最後まで、父は父の意志を貫き通して散っていったのです。

樊瑞のおじ様もそうでした。
幾度となく仲間の死を体験しながらも、
それでもなお、
わたくしに暗いところをお見せにしようとはしませんでした。
何時でも、
明るく照らしてくれるその内面に、
幼いながらもわたくしは何度も救われました。

わたくしは沢山の形ないものを貰いました。

そして、
わたくしから沢山の形あるものを奪っていったのは、貴方でしたね。

今から父と樊瑞のおじ様のところへ送って差し上げます。
お二人とも、きっとお喜びになる事でしょう。
貴方だって、嬉しいでしょう?

だからどうか、そんな顔をなさらないで。

寂しいと思った事はないけれど。
 欠けていると思ったことはあった。


「サニーちゃん」
 久しぶりだね、と言った大作は少しはにかんで、滑らかな頬を赤くしていた。あれから4年だが、大作は随分大きくなったとサニーには思えた。この頃の子供達はどちらかというと女の子の方が早熟だが、サニーが4年という年月を歩いてきたのなら、大作も4年という年月を生きている。父が居ない4年間を生きている身寄りの無い少年は、それでもサニーよりも満たされている様に見えた。
「今日もお父さんのお見舞い?」
「…ええ、父の」
 大怪球との死闘により、サニーの父は瀕死の重傷を負った。口の悪い人間に言わせれば自業自得との事だが、サニーはそうせざるを得なかったのだと知っていた。温度を失っている父の心には時に酷く燃え上がるものがあり、その為ならば文字通りに全てを投げうつ事が出来るのだ。
 ……つまり自分も、その中の一つに過ぎなかった。分かっていたが、改めてそうと思うと足先がズンと冷えていく様に思う。
「……今日も、会えなかったけれども」
「残念だったね」
 サニーちゃんは毎日来ているのに、と大作は続ける。言わなくてもちゃんと気付いてくれている人がいると思うと、心の何処かにぽっと暖かいものが灯るのを感じたが、肝心の人には通じていないのだと思うと、途端に冷え込んでいった。衝撃も分かっているのだと、樊瑞は言ってくれたものの、事実は変わりはしない、がんとしてそこに在る。
「大丈夫です」
「サニーちゃん?」
 サニーは下を向いて、こつこつと歩いていく。自分はいずれ十傑集の一員となるのだから、国際警察機構の人間と馴れ合っておくことなど出来ないのだと言い聞かせると、すたすたと歩いていく。肩に掛けたケープが冷たい風をはらんで、微かに揺れる。今日は寒くはならないだろうと言っていたのに、何故か酷く肩や足や手の先が冷たくて感覚を失っている。
「あの、サニーちゃん」
 あの声はもう喜んで聞けないのだ、と思いながら目を閉じたサニーは、呼びかけと同時にどんと暖かいけど重たいものにぶつかった。
「楊志さんにぶつかるよ」
 ……少し、遅かった。サニーは危うくつんぞり返る所だった。危うく抱き留められてなんとか、ひっくり返らずに済んだ。


「あはは、ごめんよ。アンタがあの衝撃の娘かい。話には聞いてるよ」
 自分の速度で歩いたのだから大した事は無かったが、それでも人にぶつかるなんて事を滅多にしないサニーはその事実に落ち込んでいた。しかも相手は女性だ……もっとも、十傑集の大概の者より彼女は大柄で、女性にぶつかった時の申し訳なさは少しだけ小さかった。真っ青な肌は一種異様だが、笑っている姿は不思議と暖かで好感の持てるものだった。
「こんな可愛い娘さんがいるのに、あの阿呆は……」
 え、と小さな悲鳴がサニーの口から漏れた。父の誇り高さは知っているが、それ故に困難が多い事も知っている。妥協が出来ない、という事がサニーには未だ良く分からないが、
それ故に生じる問題はサニーの心を密かに痛めている。正しく評価されるべきものなのだから。
「あの……父が……何か?」
「正確に言うと、『ここで』うちの旦那と死合おうとしたんだ」
 あの馬鹿、と楊志は顔を顰めた。
 大作がはぁ、とぽかんとした息を吐き出した……戴宗については、小さなものだがトラブルがちょくちょくと起こっているのは知っている。院内飲酒で放り出されかけた事2回、女性看護師についついセクハラをした事3回、ちょっとした諍いに参加して激しく大きくして強制退院寸前になった事4回。
 ちなみに4回目が、今日、本日、つい今し方。サニーがやって来る30分前。
 もれなく楊志に手痛い説教を喰らっている。入院しているのは幾らか楊志が原因でもあるが、何処ぞの3回については、もう少し死にかけると思っていたのに残念残念というか本気で反省しないと次は死ぬぞ、と無慈悲な感想を貰った事がある。
 早い話が、全て自業自得。本日はそれにアルベルトが巻き込まれた。もっとも、アルベルトが発生させたものだから、体よく纏めてぽいとされたとも言える。つまり戴宗とセットで説教された訳だ。
 説教と言っても、文字通りの説教が聞くとハナから楊志は思っていないので、問題解決も含めて文字通り窓の外にぶん投げた所、ふたつでひとつだったので一緒に窓の外に飛んでいった。取っ組み合っていた所を投げればそうもなろう。当の楊志に、何となくもう一人分程度は重たくなかったのかと言えば、『そんな事考えている場合じゃなかったんだよ』と答えられただろう。なにしろ衝撃破と噴射拳が発動する寸前だったのだ。
「人様の病院で死合うな、この馬鹿。少しそこで頭を冷やしときな」
 そう怒鳴ってぴしゃんと締めた窓の向こう。
 九大天王の一人と十傑集の一人は、予想に反して見事に受け身も取れずに墜落していた。ちょっと軽めに思いたい複雑骨折が増えたのは、ちょっとした気の迷い程度でいいだろう。


「戴宗さんったら……」
 ついこの間、『もうしません』って言ったばかりなのに、と大作ははぁ~ともう一度気の抜けた息を吐き出した。『間違った大人にはしたくない』と何度も言われたが、どうにも戴宗自身の行動とはつじつまが合わず呉学人に相談した所、呉は困った顔をして告げた。
『あ~……つまり、反面教師というものですかね』
 分かりやすく言うと、『なってはいけない見本』らしい。戴宗の事は好きだし尊敬しているが、だからといって同じような事は絶対にしたくないなぁと思っている大作には、少し困った所でもある。
 一方、サニーは一気に縮み上がった。アルベルト様は無茶をされるものだからサニー様、せめてお顔を見てきて頂ければとイワンに請われたものの、行っても会えないか、一言二言交わして終わってしまう事ばかりだ。せめてヒィッツカラルドの様にもう少しでも弾んだ会話が出来たら、と思わずにはいられない……そうすれば、そんな事もしなかったかもと思いながらも、矢張り仕方ないのだとも思う。
「すいません、父が御迷惑をかけました」
 廊下の真ん中でサニーは小さく頭を下げる。細い肩が更に縮こまって、今にも消えてしまいそうだ。大作は暢気な自分とは対照的に沈む混んでいる少女に、いささか心配になってくる。衝撃のアルベルトの娘としてしっかりしなくては、と何時でも思っているサニーは、いっそ痛々しい程に彼の誇りを重んじている。
「でも父は……」
「分かってる、でもそこはアンタが謝る所じゃないよ」
 楊志は困った様な笑いを浮かべて、くしゃくしゃとサニーのくせっ毛を撫でた。実はあまりそうされた事の無いサニーはきょとんとして、大作と同じ年としてはいささか幼く見えて、微かに楊志を心配させた。
「……親の責任を子供がしょいこむ事は無いんだよ、それに自業自得だ。あの年で、していい事と悪い事が分かってないわけじゃないんだから。
 後、謝るんならスタッフに謝っておくれよ。アタシも旦那の事を謝らなきゃいけないんだしさ」
 分かっていたらBF団に入っていない気もするけれど、楊志さんの言うことはもっともだよなぁ、と大作が考えていると、ぎゅ~と小気味の良い音を立ててお腹が鳴った。学校が終わった後でここに来ているのだから、もういい夕ご飯時だ。
「あはは、大作。そんなにお腹がすいてんのかい?」
「え、いいえ……」
 言葉とは裏腹に、お腹はもう一度鳴った。今はサニーちゃんの前なのに何してんだよ、と大作は顔を赤くして、きょとんとこちらを見るサニーに気付いて更に顔を赤くする。
「あ、あの、いや、だって……」
「今日はアタシの家で飯喰うかい?」
 やっぱり一人ってのはどうにも味気なくてね、と笑う楊志は矢張りそれなりに旦那を心配しているのだ。やはり帰っても一人の大作は、ほんの少しだけ考えてからハイと頷いた。
「御馳走になります」
「アンタはどうするんだい?」
 ことん、とサニーが振り返った。明らかに自分に対しての言葉だったが、戸惑いの方が大きかった。だってつい先程であったばかりの人間から、しかも敵方の人間から食事に誘われるなんてありえない事だ。きっと父は怒るだろうし、周囲もいい顔はすまい。
「……でも……」
「誰か家で待ってくれてるのかい?」
 サニーは首を振った。今日はイワンも樊瑞も仕事で手が空かない。何時もの事で、もう随分と慣れきっている。こまめなイワンは毎度自分が居ない時には準備してくれているが、イワンがいない以上は自分で暖めて、自分で食べて、自分で片付けるしかない。屋敷にあるシンクは未だ少し大きすぎて、水道に手を伸ばす時に少し難しいのは、誰にも言っていない。
「じゃあウチで喰いな」
 だからそれが、とサニーは言い掛けて、再び頭をくしゃくしゃと撫でられた。何しろ父を投げ飛ばしてしまう人なのでもっと乱暴かと思ったが、存外柔らかくて暖かい。何となく気恥ずかしくなってそれ以上の言葉が出なくなった所で、優しく肩を抱かれた。
「子供がいちいち遠慮するんじゃないよ。そんなに小さく小さくなってたら、大きくてちゃんとした大人になれやしないよ」
 多分アンタはねぇ、と言い掛けた楊志は珍しく口ごもった後で、代わりに声を出した。そこは中々微妙な所だ、特に本日は。
「じゃあ大作は食べるね、何でもいいかい?」
「はい」
 大作が元気よく返事する。
「サニー、好き嫌いはないね」
「は、はい」
 好き嫌いはしてはいけないと、これでも頑張っているのだが、実はサニーは食が決して豊かな方ではないし、食べれないものも多い。
「ま、嫌いって言っても食べて貰うけどね。大体、好き嫌いしてたら大きくなりやしないんだから。おばさんが美味しいものを作ってやるよ。
 その前に、詰め所だけれどね」
 謝っておかなきゃあ、と笑った楊志に、サニーも釣られて笑った。
いよいよ面会時間も終わりそうな頃だった。
 ようやく研究室から抜け出した呉は、疲労を押し殺してへろへろと病室に向かっていき、へろへろとそこから出て行った……手にしているのは沢山の着替えだ。アレは戴宗、これは鉄牛と、気付けばちょっとしたカートが必要な量の荷物になっている。実はカートをその為に購入した。所謂共通通貨でざっと20ドル辺りで。頼まれて断れないのが悪い所だと言われたが、此処に居てもいいと言われるならばちょっとした労苦はむしろ福音にも思えた。
 呉はそんな過去現在の戒めに微かに首を竦め、ふるりと全身を振るわせた。新年を越した季節は骨まで凍り付く寒さで、病棟の廊下まで忍び寄っている。道着の上にコートを羽織ったいささか奇妙な格好は、既にここでは呉の一般的な姿として知られている。
 北京支部を去って一月が経つが、どうしても此処に居を構えてしまうため、何故に呉が北京支部にいないのかを理解できていない人間も多い。
 しまったとは思った。組織としては悪い傾向だ。
 しかし個人的な願いはどうしても消せなくて、ことんと住んだのは中条のアパートの同じ棟の、丁度隣だった。寮を出ることになってたまたま空きが出ていたのを、必死で借り取ったのだ。
 中条の別名で借りてあるアパートはまるで国警の匂いはしなくて、自然呉はその住民になりすました。丁度空いていた、中条の隣の部屋の……おかげで、たとえ本人が居なくても、知られていなくても、毎日が嬉しくて、洗濯をしていてもテレビを見ていても何となく笑ってしまう。隣にあの人は住んでいるのだし、と嬉しくなってしまう。
 今日も寝るまで洗濯機を回す事になるから迷惑かも、と思いながら歩いていく呉は、とんとんとんと歩いていく姿に少しだけ緊張した。
 オロシャのイワン。彼はそう呼ばれている。


「おや、お帰りで」
 戦闘の場に居ないイワンは、B級エージェントという物騒な代物よりも、超一流の執事にこそ相応しく見える。呉は執事というものを見たことが無いが、多分イワンの様な存在なのだろうと思う。
 何一つとってもそつがない。事実、呉が買い物袋の様に洗濯物を運んでいるなら、イワンは令状の様に洗濯物を運んでいる。一つ一つ皺にならない方法を選んでいるのだと知った時は、思わずため息が出た程だ。そこまでの領域に呉は至った事がないし、そんな事をしていたら心労で死んでしまうのだが、その歴然とした差異に、どうしてもほぉとため息は出てしまう。
 負けたと思わないと言ったら、嘘だろう。事実完敗だ。仮に実際の戦闘と比較した場合で言うと、梁山泊はとっくの昔に粉砕消失している。
「ええ」
 呉は出来るだけ背を伸ばしたが、カートを押していては話にならない。体勢上、自然微かに背は丸まって、視線はどうしても下を向いてしまう……一瞬だけ洗濯物に視線を落とした呉は、ああとため息をついた。
 まるで惨めな自分。本当に惨め。貧乏の子沢山ってこんな気分かも? だって10人分の洗濯物をこうして抱え込んでいるのだ。対するイワンは同じように洗濯物を持っていても背筋はピンとしていて、彼単体だけでも立派な紳士だろう。顔の傷さえなかったら、社交界には欠かせない存在だ。抱えているのが仕立てたばかりの礼服でも違和感はないし、そうと言えるだろう。
「今から」


 国際警察機構というものは、一体全体どういう存在なのか?
 カートを押して弱々しく微笑む元軍師に、イワンは小一時間尋ねたい気分だった。
 イワンに戦術能力はないし、求められても居なかった。それを特に不遇とは思わないが、在れば少なくともアルベルトの役には立っただろうと思う。自分が小手先をひねれば、彼の所存は幾らでも融通が効くと分かれば尚更に。
 しかしたかがB級エージェント、作戦の駒の一つでしかない。意見を述べたところで響くことは皆無だ。ただただ、間違っていようが何だろうが、命令一つで突撃して死ねばそれまで、背けば反逆者としての死、生きていれば次の作戦の駒だ。楽しい生き方ではない。
 その環境そのものを作り上げる能力と地位が目の前の男には存在している。孔明にも匹敵する軍師と言ったのは誰だったか? それなら国際警察機構でもさぞかし珍重されていようと考えてふいと見れば、下級エージェントの洗濯物を抱えている優男で、しかも今にも泣き出しそうだ。
 確かに湯水の如く金を用いるBF団と違い、国際警察機構にはれっきとした運用資金やら時給やらが存在する。ちなみに全員、生命保険にも自動車保険にも入れない。私用自動車が壊れれば、公務であっても全額負担だ。公務中に死んだって、雀の涙ほどの見舞い金が提供されるだけだ。
 結構、痛々しい。


「私もなんです、でも多分明日から暫く、ローテーションが厳しくて」
 ちょっと厳しいかもしれませんと言いながらも、呉は困った様に笑った。
「でも、御世話になった北京支部の皆さんなので」
 駄目だと思った10年間で、それでもこの支部の一つ一つの、あの廊下さえ覚えていて、暇を貰ったと言ったものの今更全部きっぱり無かった事にも出来ないわけで。あの挨拶の一つや視線も、気付けばちゃんと覚えていて。
 そして振り向けば、静かに笑っているあの人がいて。


「忘れられないんです」
 左様ですか、とイワンは肩をすくめてみせた。
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