Francois-Ⅴ
ベルイールの要塞は陥落し、鉄仮面一味は壊滅した。
その首領であった男は脱出時に鉄の仮面を脱ぎ捨て、抜け道であった海洞から島の沿岸まで潜水し、
戦いで海に転落したフランス軍兵士達にまぎれることにより、その正体を見破られることなく
海上の孤島から対岸の港町まで戻るに至った。
フランス軍の勝利の行進に加わる自分に屈辱を感じながらも、落石により大きな損傷を負った片足が
不自由な上、今の自分には何もない。それならば幾らかの傭兵金を貰えるであろうパリまで
大人しく一兵の振りをして運ばれたほうがよい、と算段したのだった。
しかしその凱旋での王や側近達、特に四銃士の姿は男にとって忌々しい以外の何者でもなかった。
勝利に喜び勇む姿に加え、アラミス、と呼ばれる銃士を気遣う黒髪の銃士の姿。
それに甘えるように寄り添う金髪の銃士は以前とは明らかに違う雰囲気を纏っていた。
マンソンを討ったことによって全て終わったと思っているのか?
それで"フランソワ"のことは全て過去に流したというのか?あの崩れ去った要塞に
全てを置いてきたというのか?
男はただ無言に、遠くからでも陽の光に輝く白馬上の金の髪を見続ける。
その気配を感じ取ったダルタニアンがアトスに小さく告げた。
「ねぇあの人、アラミスのことをずっと見てるよ」
「・・・どいつだ?」
「あの傭兵部隊の濃茶色の髪の人」
「君は目がいいな、あんな後方部隊の様子がよく見える」
「だって気持ち悪いんだ。変な気配がするっていうか、妙な視線だなって思ったら気になって」
「・・・どうせそっちのケのある傭兵だろう。よくあることさ、
アラミスはあの容姿だからか目を付けられる」
「そう・・・」
ダルタニアンもそういう趣味の男を知らないわけではない。
だが、その男にはそれとは違う、"何か"を感じてはいた。
けれど今はアラミスの不安を煽るようなことはしたくない。
穏やかな笑顔を浮かべアトスと笑い合う横顔を見て、ダルタニアンは心の底からそう思った。
***
国王は帰路途中にある領地主の館で一晩を明かすこととなり、
その兵達は近辺に陣を張り、館の下女達や近辺の村娘と思い思いに戯れの時間を過ごす事となった。
男も村女に褥中に誘われ、時間を潰していた。
「それが、本当に綺麗な銃士らしいのよ。アンタ見た?」
「さぁ?」
「金の髪に蒼い目、白い肌をしてお人形さんみたいなんだって!」
「誰から聞いたんだ?」
「館仕えをしてる娘からさぁ。何でも怪我してるとかで外れの部屋を使ってるみたい。
夜這いに行っちゃおうかしら」
「おいおい、俺の相手はもう終りかい?」
「そうねぇ・・・」
女は土臭い肌を摺り寄せて来る。
その相手しながら、男はベルイールで触れた絹のような肌を思い出していた。
***
兵達の凱旋の宴も終り、辺りが寝静まった頃。
男は村女から聞いた館の外れの一室に忍び込んだ。
寝台で静かに眠っている白い顔を見下ろす。
安らかな寝息をたて、戦の疲れからか深く寝入っていた。
張り詰めていた雰囲気は無くなり、その寝顔は幼ささえ覗く。
既に男の記憶は混濁し、ノワジーの事は断片的にしか思い出せなくなっていた。
しかし、その瞳を閉じられた顔には覚えがあり、吸い込まれるように
薔薇色の頬に手を沿わせようとする。
誰の夢を見ている?私か?それとも・・・
「触るな」
その時、音も無く扉が開き黒髪の銃士が現れた。
目には激しい憎悪の色を浮かべ、相手を射抜く。
その挑発を受け流し、男はゆっくりと笑いを浮かべた。
***
アトスに促され、二人は館の裏の森で対峙する。
「何と呼べばよい?」
「さあ、ご自由に」
「・・・鉄仮面、ではまずかろう」
「・・・さすが、"銃士隊一の知恵者"だな」
「嫌でも気が付くさ。肋骨を折ってくれた相手だ」
「私を捕まえようというのか?」
「無理だろう。あの仮面以外、お前が鉄仮面だという証拠はどこにも無い」
「ご名答だ」
男のその言葉に蔑を感じ、怒りに燃える藤色の目を細めた。
その姿にますますの可笑しさを感じて、男は更に挑発を重ねる。
「もう抱いたのか?」
「何のことだ」
「金髪の銃士殿のことだ」
「お前には関係ないことだろう」
「良ければ教えてさしあげようか?どのようにされるのがあの女の好みか」
「やめろ!」
剣を抜き、相手の首にその先を向ける。
しかし男は微動だにせず、抜き身の剣を楽しそうに見やる。
「どうした?今の私なら簡単に殺すことができよう?」
負傷した足をわざとらしく引き摺ってみせる。
「そうだな。簡単だろう。だが・・・」
「だが・・?」
「お前を殺してしまうことが正しいことか、私には判断しかねる」
「三銃士のリーダともあろう方が、その程度の判断ができないとは情けないことだ」
「勘違いするな。フランスの為ならばお前の首をさっさと刎ね、私の名の元にこの首は鉄仮面のもので
間違いないと陛下に捧げればよいこと」
「その通りだ」
「ただ、それではお前の顔が晒される」
「何か問題でも?」
「・・・」
「では私を殺して、この森の奥にでも埋めるか?」
「そうだな・・・私の憤怒を抑えるためにもそうしたいが・・・」
「が・・・?」
「・・・お前はアラミスの"過去"と関係あるのだろう」
「"過去"か。・・・"ルネ"は"フランソワ"のことはもう過去だと言ったのか?」
「・・・」
「貴公が"フランソワ"を殺したと知ればルネはどうするかな?」
くくく・・と忍び笑いを男は立てる。
その目に浮かぶ狂気にアトスは自分の勘の正しさに呪いの言葉を呟く。
どさっ、と重さのある麻袋をアトスは男に向かって放り投げた。
「ベルイールで回収された金銀だ。それだけあれば何とでもなるだろう。さっさとここから立ち去れ」
「これは親切に」
「ただし、二度と私達の前には現れるな。次にお前の姿を見た時は間違いなく殺してやる」
「"私達"か、面白いことを言う」
「黙れ」
「あの女の心は私の物だ。永久にな」
「・・・だから陵辱したのか?」
「あれは私の所有物だ。どうしようと勝手だろう?」
「貴様・・・」
「ああ、立ち去るさ。命は惜しいからな」
男は動かない片足を引きずり、闇に消えていった。
***
重い足取りで部屋に戻ると、アラミスは身じろぎ怪訝な視線を向けた。
「アトス?」
「起きたのか?」
「うん、何だか胸騒ぎがして・・・」
「心配するな。ここは安全な館の中だ。ゆっくり眠れ」
「うん...」
立ち去ろうとするアトスの上着の裾を掴み、不安げな瞳で見上げる。
「何だ、ずいぶんな甘え様だな」
「ごめん・・・もう少し居てくれる?」
「構わないが」
寝台に腰かけ、ゆっくりと金の髪を撫でる。
美しい猫がじゃれつくように、アトスの手に頬をすりよせてくる姿にいとおしさを感じ、優しく問う。
「婚約者殿の話、聞かせてくれるか?」
「・・・フランソワのこと?」
「そう。フランソワ殿はどのような方だったのか。
君達はどのように出会い、どのように愛し合ったのか?」
「うん・・・」
「辛いか?」
静かに首を振り、大丈夫、と小さく呟く。
アラミスはやがてゆっくりと、小麦畑色の髪と瞳を持っていた優しい恋人の話を始めた。
Francois-Ⅵ
ようやく手にした機密文章を皇太后に渡し、屋敷を後にすると一人の銃士の姿がアラミスの目に入った。
「アトス?」
澄んだ夜の空気に鈴のように響くその声に、
黒髪の銃士はもたれていた壁から体を起こし優しく微笑んだ。
「済んだか?」
「皇太后様が火の内に焼べて処分されたよ」
「そうか」
柔らかな月の光に照らされ、二人は静かに歩き出した。
交わされる言葉は無いが、たまにふ、と目線が合う。
するとお互い目を細め、少しだけ笑い合う。
そしてまた、歩を進める。
セーヌの川の流れに合わせるようにゆっくり、ゆっくりと・・・
その時、心地よく頬を撫でていたはずの空気が澱み、生温い風がざぁと吹いた。
同時にぞっとするものに抱きすくめられたような感覚。
反射的に二人は振り向いた。
ゆっくりと、深い闇の中から一人の男が現れた。
見知らぬ顔にアラミスは怪訝な表情をする。
だが、アトスは次第に慣れる夜目にその男の顔を認めると同時に鈍い痛みが蘇り、低く唸った。
「貴様・・・」
「久しぶりだな。スイスまで奔走とはご苦労だったな」
「何?」
「そちらの"アラミス"殿も大変だったろう?だがこれで、愛しい"フランソワ"の事を思い出して頂けたかな?」
「何だと?」
アラミスは顔色を変え、男を睨みつけた。
なぜその名を知っている?
言葉には出さないが、蒼い炎がゆらゆらとその瞳で揺れる。
その揺らめきに宿る想いを辿るように、男はゆっくりと言葉を綴り始めた。
「ねぇ金髪の銃士殿。君は"フランソワ"を忘れてはいけないんだよ?
君の心の中でしかもう彼は生きていないんだ。
なのに彼を"過去"にしてしまうとは・・・酷いじゃないか」
露骨に顔をしかめ、風に巻き上がる金髪に彩られた顔を覗き込む。
その口調は緩やかだが、拒む事も逆らう事も許さない絶対的な支配が細い体を突き抜けた。
「今回の事件は無事解決した様だけど、また君が彼を忘れる日が来たら、
"フランソワ"は何度でも君の前に現れるよ。そしてその度に君は走る事となる。
彼の面影を追ってね」
男の紡ぐ言葉は蒼の炎の揺らぎを益々大きくする。
アラミスは必死に口を開こうとするが、体中が硬直し動くことができなかった。
「彼はこの国を揺るがすカードを沢山持っているから・・・
君が彼から離れようとする度に彼はカードを切っていくよ?
彼を過去にしようとすれば、その度に"フランソワ"は君の前に姿を変え形を変え現れ続ける。
今回は紙切れだったね?次は何かな?」
それは恐ろしい呪縛の言葉だった。
鉄仮面事件から幾つもの季節は過ぎていた。
パリの喧噪の中に少しづつ彼を過去にし、新しい愛を手に入れたいと願っていた。
もう、それでいいと・・・思っていた。
喘ぐ様にアラミスは息をし、訴える。
「お前は・・・誰だ?アトス、この男は・・・誰だ?」
アトスは答えない。答えられない。
ただ頭を振り、アラミスにこの場から離れるように促す。
その姿に男は更に挑発を繰り返した。
「"フランソワ"は今でも君を愛しているんだよ?」
「お前は誰だと聞いている!!」
その言葉に男は心底可笑しそうに、アラミスを見下ろした。
そしてアトスを見やる。
"言ったらどうなるかな?"とその目は語っていた。
できることならアラミスの耳を塞ぎ、この場から立ち去りたかった。
だが既に手遅れだった。
アラミスは男を全身で睨み付け、その場を動こうとしない。
その様子に男は少しだけ肩を竦めてアラミスの体にゆっくりと舐め回すように目線を送った。
その気味悪さに思わず後ずさる。
それに合わせて男は歩を進める。
"この感覚、、、どこかで・・・"
アラミスの思案を辿るように男はゆっくりと口を開いた。
「ベルイールの夜を忘れたかい?それとも初めて男と、私と肌を重ねた
ノワジーの森での事のほうが君にとって印象深いかな?」
その言葉を反芻し、混乱する頭を必死で整理する。
得体の知れない冷や汗がじっとりと全身を濡らしていった。
大きく肩で息をすると切れ切れに、必死で失いそうだった言葉を返す。
「何を・・・言って・・・いる?」
「傷跡のある肌も良いが、染み一つ無い肌のほうが私は好みだな。・・・ルネ」
頭の中でパズルがぱちん、と音を立てて組み合わさった。
体が凍りつき、心臓が早鐘を打ち始める。呼吸が荒くなる。
この男が鉄仮面だということか?
だが・・・それよりも・・
自分の出した答えを振り払うかのようにアラミスは叫んだ。
「違う!お前とフランソワは似ても似つかぬ!」
「あんなに愛した男の顔を忘れてしまうとは、つれないことだ。
確かに人相が変わった上に髪も目もだいぶ濃くなり、声も擦れてしまったがなぁ・・・」
まるで他人事のように口ずさむ。
その言葉にアラミスはもう一度、男の顔を見る。目、鼻、頬、唇・・・
真っ青になって固まったままのアラミスをを庇うようにアトスがアラミスの前に出た。
ぎりぎりと歯ぎしりを立て、低く唸るように言葉を吐き出した。
「次に会ったら殺すと言ったはずだ」
「だから、二人で居る所にお邪魔することにした」
男はにやり、と笑う。
この女の前で殺せるものなら、殺してみろ、ということだった。
そして少しずつ二人との距離を詰める。
その靴音は夜の闇に不気味なほどに響いていた。
一刻も早くこの場を離れなくてはいけない。
そう感じたアトスは相手を切りつけた。
動きを止めるには充分な切り口であり、その隙に無理矢理にでもアラミスとこの場を離れる・・・はずであった。
だが肉までざっくり切れ、闇の中にも鮮やかな赤に足を染めながら、
それでも男は歩みを止めること無く近づいてきた。
アトスは驚愕で目を見開いた。痛みを感じていない?
そんなはずはない。間違いなく切り付けた。切りつけた時は白い肉が見えた。
辺りに充満する血の匂いが何よりそれを物語っている。
だが男はやはり、"それ"に気にする様子も無い。
一歩、一歩、歩を進める度に赤い血がどろどろと流れ出す。
どんよりと、澱んだ空気が辺りを包み込む。
それが恐怖であるとは認めたくない。
しかし得体の知れないもの、自分とは異質なものであると体中で警報が鳴り響き、禍々しさが纏わりついた。
「動かないで・・・」
その時、震える声が吐息を漏らすように響いた。
男はゆっくりと足を止め、アトスは振り向いた時に見た姿に狼狽した。
ふらふらとアラミスは男に近づいていく。
「これ以上、血が流れたら死んでしまう・・・」
鼻先をくすぐる黒髪も目に入らず、その肩をすり抜け、
泣きそうな顔をして男の顔に探るように視線を送り続ける。
その瞳を優しく見つめ返す表情に今度こそは間違いなくフランソワの面影を見つけると、
アラミスは男に駆け寄った。
どくどくと血が流れ出る傷口を押さえ、腰を落とすように促す。
男はそれに大人しく従い、必死で止血の処置をするアラミスを抱えるようにその体に寄り掛かった。
絶望的な思いに囚われアトスは言葉を失くす。
だが動くわけにいかない。アラミスを此処に残していくわけにはいかない。
屈辱を噛み締め、ぐっと地を踏みしめたその思いを打ち砕くように、アラミスは呟いた。
「アトス・・・私達を二人にして」
知らない国の言葉を聞くようにアトスはアラミスの声を聞いた。
だが、更に蒼白呆然としている銃士に向かって男は勝利者の笑みを浮かべ残酷な言葉を投げ突けた。
「心配せずとも、"アラミス"殿はお返しする」
「!」
侮辱の言葉に唇を震わせ表情を強張らせる銃士に視線を送りながら、自分の胸の中の金髪をゆっくりと撫でる。
次にその白い頬に手を添わせ、自分のほうを向かせると言い聞かせるように優しく微笑んだ。
「私なら大丈夫。戻りなさい」
「けれど!」
空の月を見上げてその耳元で小さく、優しく囁いた。
「次の満月の夜、ノワジーのあの館で・・・」
そう言って、耳朶に触れるか触れないかの口付けをした。
甘い疼きに体を震わせる姿を満足そうに見やると、体を起こし、闇に消えようとする。
その姿を追おうとするアラミスの体に強い力が走った。
「行くな」
アトスの手がその細い肩を押さえつける。
薄い唇を噛み、刺すような視線を湛えた藤色の瞳がアラミスを見ていた。
「わかっているのか?」
「・・・」
「わかっているのか!?あの男は!!」
ベルイールの要塞は陥落し、鉄仮面一味は壊滅した。
その首領であった男は脱出時に鉄の仮面を脱ぎ捨て、抜け道であった海洞から島の沿岸まで潜水し、
戦いで海に転落したフランス軍兵士達にまぎれることにより、その正体を見破られることなく
海上の孤島から対岸の港町まで戻るに至った。
フランス軍の勝利の行進に加わる自分に屈辱を感じながらも、落石により大きな損傷を負った片足が
不自由な上、今の自分には何もない。それならば幾らかの傭兵金を貰えるであろうパリまで
大人しく一兵の振りをして運ばれたほうがよい、と算段したのだった。
しかしその凱旋での王や側近達、特に四銃士の姿は男にとって忌々しい以外の何者でもなかった。
勝利に喜び勇む姿に加え、アラミス、と呼ばれる銃士を気遣う黒髪の銃士の姿。
それに甘えるように寄り添う金髪の銃士は以前とは明らかに違う雰囲気を纏っていた。
マンソンを討ったことによって全て終わったと思っているのか?
それで"フランソワ"のことは全て過去に流したというのか?あの崩れ去った要塞に
全てを置いてきたというのか?
男はただ無言に、遠くからでも陽の光に輝く白馬上の金の髪を見続ける。
その気配を感じ取ったダルタニアンがアトスに小さく告げた。
「ねぇあの人、アラミスのことをずっと見てるよ」
「・・・どいつだ?」
「あの傭兵部隊の濃茶色の髪の人」
「君は目がいいな、あんな後方部隊の様子がよく見える」
「だって気持ち悪いんだ。変な気配がするっていうか、妙な視線だなって思ったら気になって」
「・・・どうせそっちのケのある傭兵だろう。よくあることさ、
アラミスはあの容姿だからか目を付けられる」
「そう・・・」
ダルタニアンもそういう趣味の男を知らないわけではない。
だが、その男にはそれとは違う、"何か"を感じてはいた。
けれど今はアラミスの不安を煽るようなことはしたくない。
穏やかな笑顔を浮かべアトスと笑い合う横顔を見て、ダルタニアンは心の底からそう思った。
***
国王は帰路途中にある領地主の館で一晩を明かすこととなり、
その兵達は近辺に陣を張り、館の下女達や近辺の村娘と思い思いに戯れの時間を過ごす事となった。
男も村女に褥中に誘われ、時間を潰していた。
「それが、本当に綺麗な銃士らしいのよ。アンタ見た?」
「さぁ?」
「金の髪に蒼い目、白い肌をしてお人形さんみたいなんだって!」
「誰から聞いたんだ?」
「館仕えをしてる娘からさぁ。何でも怪我してるとかで外れの部屋を使ってるみたい。
夜這いに行っちゃおうかしら」
「おいおい、俺の相手はもう終りかい?」
「そうねぇ・・・」
女は土臭い肌を摺り寄せて来る。
その相手しながら、男はベルイールで触れた絹のような肌を思い出していた。
***
兵達の凱旋の宴も終り、辺りが寝静まった頃。
男は村女から聞いた館の外れの一室に忍び込んだ。
寝台で静かに眠っている白い顔を見下ろす。
安らかな寝息をたて、戦の疲れからか深く寝入っていた。
張り詰めていた雰囲気は無くなり、その寝顔は幼ささえ覗く。
既に男の記憶は混濁し、ノワジーの事は断片的にしか思い出せなくなっていた。
しかし、その瞳を閉じられた顔には覚えがあり、吸い込まれるように
薔薇色の頬に手を沿わせようとする。
誰の夢を見ている?私か?それとも・・・
「触るな」
その時、音も無く扉が開き黒髪の銃士が現れた。
目には激しい憎悪の色を浮かべ、相手を射抜く。
その挑発を受け流し、男はゆっくりと笑いを浮かべた。
***
アトスに促され、二人は館の裏の森で対峙する。
「何と呼べばよい?」
「さあ、ご自由に」
「・・・鉄仮面、ではまずかろう」
「・・・さすが、"銃士隊一の知恵者"だな」
「嫌でも気が付くさ。肋骨を折ってくれた相手だ」
「私を捕まえようというのか?」
「無理だろう。あの仮面以外、お前が鉄仮面だという証拠はどこにも無い」
「ご名答だ」
男のその言葉に蔑を感じ、怒りに燃える藤色の目を細めた。
その姿にますますの可笑しさを感じて、男は更に挑発を重ねる。
「もう抱いたのか?」
「何のことだ」
「金髪の銃士殿のことだ」
「お前には関係ないことだろう」
「良ければ教えてさしあげようか?どのようにされるのがあの女の好みか」
「やめろ!」
剣を抜き、相手の首にその先を向ける。
しかし男は微動だにせず、抜き身の剣を楽しそうに見やる。
「どうした?今の私なら簡単に殺すことができよう?」
負傷した足をわざとらしく引き摺ってみせる。
「そうだな。簡単だろう。だが・・・」
「だが・・?」
「お前を殺してしまうことが正しいことか、私には判断しかねる」
「三銃士のリーダともあろう方が、その程度の判断ができないとは情けないことだ」
「勘違いするな。フランスの為ならばお前の首をさっさと刎ね、私の名の元にこの首は鉄仮面のもので
間違いないと陛下に捧げればよいこと」
「その通りだ」
「ただ、それではお前の顔が晒される」
「何か問題でも?」
「・・・」
「では私を殺して、この森の奥にでも埋めるか?」
「そうだな・・・私の憤怒を抑えるためにもそうしたいが・・・」
「が・・・?」
「・・・お前はアラミスの"過去"と関係あるのだろう」
「"過去"か。・・・"ルネ"は"フランソワ"のことはもう過去だと言ったのか?」
「・・・」
「貴公が"フランソワ"を殺したと知ればルネはどうするかな?」
くくく・・と忍び笑いを男は立てる。
その目に浮かぶ狂気にアトスは自分の勘の正しさに呪いの言葉を呟く。
どさっ、と重さのある麻袋をアトスは男に向かって放り投げた。
「ベルイールで回収された金銀だ。それだけあれば何とでもなるだろう。さっさとここから立ち去れ」
「これは親切に」
「ただし、二度と私達の前には現れるな。次にお前の姿を見た時は間違いなく殺してやる」
「"私達"か、面白いことを言う」
「黙れ」
「あの女の心は私の物だ。永久にな」
「・・・だから陵辱したのか?」
「あれは私の所有物だ。どうしようと勝手だろう?」
「貴様・・・」
「ああ、立ち去るさ。命は惜しいからな」
男は動かない片足を引きずり、闇に消えていった。
***
重い足取りで部屋に戻ると、アラミスは身じろぎ怪訝な視線を向けた。
「アトス?」
「起きたのか?」
「うん、何だか胸騒ぎがして・・・」
「心配するな。ここは安全な館の中だ。ゆっくり眠れ」
「うん...」
立ち去ろうとするアトスの上着の裾を掴み、不安げな瞳で見上げる。
「何だ、ずいぶんな甘え様だな」
「ごめん・・・もう少し居てくれる?」
「構わないが」
寝台に腰かけ、ゆっくりと金の髪を撫でる。
美しい猫がじゃれつくように、アトスの手に頬をすりよせてくる姿にいとおしさを感じ、優しく問う。
「婚約者殿の話、聞かせてくれるか?」
「・・・フランソワのこと?」
「そう。フランソワ殿はどのような方だったのか。
君達はどのように出会い、どのように愛し合ったのか?」
「うん・・・」
「辛いか?」
静かに首を振り、大丈夫、と小さく呟く。
アラミスはやがてゆっくりと、小麦畑色の髪と瞳を持っていた優しい恋人の話を始めた。
Francois-Ⅵ
ようやく手にした機密文章を皇太后に渡し、屋敷を後にすると一人の銃士の姿がアラミスの目に入った。
「アトス?」
澄んだ夜の空気に鈴のように響くその声に、
黒髪の銃士はもたれていた壁から体を起こし優しく微笑んだ。
「済んだか?」
「皇太后様が火の内に焼べて処分されたよ」
「そうか」
柔らかな月の光に照らされ、二人は静かに歩き出した。
交わされる言葉は無いが、たまにふ、と目線が合う。
するとお互い目を細め、少しだけ笑い合う。
そしてまた、歩を進める。
セーヌの川の流れに合わせるようにゆっくり、ゆっくりと・・・
その時、心地よく頬を撫でていたはずの空気が澱み、生温い風がざぁと吹いた。
同時にぞっとするものに抱きすくめられたような感覚。
反射的に二人は振り向いた。
ゆっくりと、深い闇の中から一人の男が現れた。
見知らぬ顔にアラミスは怪訝な表情をする。
だが、アトスは次第に慣れる夜目にその男の顔を認めると同時に鈍い痛みが蘇り、低く唸った。
「貴様・・・」
「久しぶりだな。スイスまで奔走とはご苦労だったな」
「何?」
「そちらの"アラミス"殿も大変だったろう?だがこれで、愛しい"フランソワ"の事を思い出して頂けたかな?」
「何だと?」
アラミスは顔色を変え、男を睨みつけた。
なぜその名を知っている?
言葉には出さないが、蒼い炎がゆらゆらとその瞳で揺れる。
その揺らめきに宿る想いを辿るように、男はゆっくりと言葉を綴り始めた。
「ねぇ金髪の銃士殿。君は"フランソワ"を忘れてはいけないんだよ?
君の心の中でしかもう彼は生きていないんだ。
なのに彼を"過去"にしてしまうとは・・・酷いじゃないか」
露骨に顔をしかめ、風に巻き上がる金髪に彩られた顔を覗き込む。
その口調は緩やかだが、拒む事も逆らう事も許さない絶対的な支配が細い体を突き抜けた。
「今回の事件は無事解決した様だけど、また君が彼を忘れる日が来たら、
"フランソワ"は何度でも君の前に現れるよ。そしてその度に君は走る事となる。
彼の面影を追ってね」
男の紡ぐ言葉は蒼の炎の揺らぎを益々大きくする。
アラミスは必死に口を開こうとするが、体中が硬直し動くことができなかった。
「彼はこの国を揺るがすカードを沢山持っているから・・・
君が彼から離れようとする度に彼はカードを切っていくよ?
彼を過去にしようとすれば、その度に"フランソワ"は君の前に姿を変え形を変え現れ続ける。
今回は紙切れだったね?次は何かな?」
それは恐ろしい呪縛の言葉だった。
鉄仮面事件から幾つもの季節は過ぎていた。
パリの喧噪の中に少しづつ彼を過去にし、新しい愛を手に入れたいと願っていた。
もう、それでいいと・・・思っていた。
喘ぐ様にアラミスは息をし、訴える。
「お前は・・・誰だ?アトス、この男は・・・誰だ?」
アトスは答えない。答えられない。
ただ頭を振り、アラミスにこの場から離れるように促す。
その姿に男は更に挑発を繰り返した。
「"フランソワ"は今でも君を愛しているんだよ?」
「お前は誰だと聞いている!!」
その言葉に男は心底可笑しそうに、アラミスを見下ろした。
そしてアトスを見やる。
"言ったらどうなるかな?"とその目は語っていた。
できることならアラミスの耳を塞ぎ、この場から立ち去りたかった。
だが既に手遅れだった。
アラミスは男を全身で睨み付け、その場を動こうとしない。
その様子に男は少しだけ肩を竦めてアラミスの体にゆっくりと舐め回すように目線を送った。
その気味悪さに思わず後ずさる。
それに合わせて男は歩を進める。
"この感覚、、、どこかで・・・"
アラミスの思案を辿るように男はゆっくりと口を開いた。
「ベルイールの夜を忘れたかい?それとも初めて男と、私と肌を重ねた
ノワジーの森での事のほうが君にとって印象深いかな?」
その言葉を反芻し、混乱する頭を必死で整理する。
得体の知れない冷や汗がじっとりと全身を濡らしていった。
大きく肩で息をすると切れ切れに、必死で失いそうだった言葉を返す。
「何を・・・言って・・・いる?」
「傷跡のある肌も良いが、染み一つ無い肌のほうが私は好みだな。・・・ルネ」
頭の中でパズルがぱちん、と音を立てて組み合わさった。
体が凍りつき、心臓が早鐘を打ち始める。呼吸が荒くなる。
この男が鉄仮面だということか?
だが・・・それよりも・・
自分の出した答えを振り払うかのようにアラミスは叫んだ。
「違う!お前とフランソワは似ても似つかぬ!」
「あんなに愛した男の顔を忘れてしまうとは、つれないことだ。
確かに人相が変わった上に髪も目もだいぶ濃くなり、声も擦れてしまったがなぁ・・・」
まるで他人事のように口ずさむ。
その言葉にアラミスはもう一度、男の顔を見る。目、鼻、頬、唇・・・
真っ青になって固まったままのアラミスをを庇うようにアトスがアラミスの前に出た。
ぎりぎりと歯ぎしりを立て、低く唸るように言葉を吐き出した。
「次に会ったら殺すと言ったはずだ」
「だから、二人で居る所にお邪魔することにした」
男はにやり、と笑う。
この女の前で殺せるものなら、殺してみろ、ということだった。
そして少しずつ二人との距離を詰める。
その靴音は夜の闇に不気味なほどに響いていた。
一刻も早くこの場を離れなくてはいけない。
そう感じたアトスは相手を切りつけた。
動きを止めるには充分な切り口であり、その隙に無理矢理にでもアラミスとこの場を離れる・・・はずであった。
だが肉までざっくり切れ、闇の中にも鮮やかな赤に足を染めながら、
それでも男は歩みを止めること無く近づいてきた。
アトスは驚愕で目を見開いた。痛みを感じていない?
そんなはずはない。間違いなく切り付けた。切りつけた時は白い肉が見えた。
辺りに充満する血の匂いが何よりそれを物語っている。
だが男はやはり、"それ"に気にする様子も無い。
一歩、一歩、歩を進める度に赤い血がどろどろと流れ出す。
どんよりと、澱んだ空気が辺りを包み込む。
それが恐怖であるとは認めたくない。
しかし得体の知れないもの、自分とは異質なものであると体中で警報が鳴り響き、禍々しさが纏わりついた。
「動かないで・・・」
その時、震える声が吐息を漏らすように響いた。
男はゆっくりと足を止め、アトスは振り向いた時に見た姿に狼狽した。
ふらふらとアラミスは男に近づいていく。
「これ以上、血が流れたら死んでしまう・・・」
鼻先をくすぐる黒髪も目に入らず、その肩をすり抜け、
泣きそうな顔をして男の顔に探るように視線を送り続ける。
その瞳を優しく見つめ返す表情に今度こそは間違いなくフランソワの面影を見つけると、
アラミスは男に駆け寄った。
どくどくと血が流れ出る傷口を押さえ、腰を落とすように促す。
男はそれに大人しく従い、必死で止血の処置をするアラミスを抱えるようにその体に寄り掛かった。
絶望的な思いに囚われアトスは言葉を失くす。
だが動くわけにいかない。アラミスを此処に残していくわけにはいかない。
屈辱を噛み締め、ぐっと地を踏みしめたその思いを打ち砕くように、アラミスは呟いた。
「アトス・・・私達を二人にして」
知らない国の言葉を聞くようにアトスはアラミスの声を聞いた。
だが、更に蒼白呆然としている銃士に向かって男は勝利者の笑みを浮かべ残酷な言葉を投げ突けた。
「心配せずとも、"アラミス"殿はお返しする」
「!」
侮辱の言葉に唇を震わせ表情を強張らせる銃士に視線を送りながら、自分の胸の中の金髪をゆっくりと撫でる。
次にその白い頬に手を添わせ、自分のほうを向かせると言い聞かせるように優しく微笑んだ。
「私なら大丈夫。戻りなさい」
「けれど!」
空の月を見上げてその耳元で小さく、優しく囁いた。
「次の満月の夜、ノワジーのあの館で・・・」
そう言って、耳朶に触れるか触れないかの口付けをした。
甘い疼きに体を震わせる姿を満足そうに見やると、体を起こし、闇に消えようとする。
その姿を追おうとするアラミスの体に強い力が走った。
「行くな」
アトスの手がその細い肩を押さえつける。
薄い唇を噛み、刺すような視線を湛えた藤色の瞳がアラミスを見ていた。
「わかっているのか?」
「・・・」
「わかっているのか!?あの男は!!」
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Francois-Ⅲ
「ひどい雨だな・・・」
もう春だというのに酷く冷え込む夜。だが次に移る所は此処より更に冷えるはずだ。
そう思うと男は少し憂鬱な気持ちとなる。
その時、大きな物音とともに大勢の人間が部屋に飛びこんできた。
「何者だ!?」
激しい雨音で何も聞こえなかった為か退路を確保することもできず男は賊達に囲まれる。
やがて火焔を思わせる熱さがその体を貫き、体中の血が逆流する。
崩れ落ちる瞬間に男が見たのは、下卑た笑いを浮かべた顔だった。
「おい、用は済んだのだからさっさと立ち去るぞ!」
「まぁ焦んなさんなって。盗賊が本業なものでね、お宝を探させていただくよ」
「ちっ。好きにしろ。こちらは先に行かせてもらうからな」
薄れゆく意識の中で若い恋人の泣き叫ぶ声が聞こえた気がした。
駆け寄ろうとするが、鉛の塊を押し込まれたようで体はまるで動かない。
やがて闇が男を包み、すべての感覚が消えていった。
*****
「私は・・・?」
空気の振るえに男は違和感を覚える。
やがて霞む視界の焦点が合うと、黒髪の婦人が目に入った。
「ここは・・・?」
「フランソワ!」
婦人が驚愕の表情を浮かべて駆け寄る。
「なにが・・・」
男の混濁していた記憶が少しずつ鮮明になる。
春の嵐、襲ってきた賊、指揮を取る仮面の男・・・
「そうだ!フィリップ様は?」
婦人はゆっくりと首を横に振る。
「ご無事よ。パリからそう遠くない所に監禁されているわ」
「何・・・?」
「心配はいらないわ、口の利けぬよう仮面を付けられ一室に閉じ込められてはいるけれど・・・
殿下を自分達の厳重な監視の元に置くことが彼らの目的であって、決して危害を加える事は無いわ」
「誰だ・・・?」
「・・・例の公爵よ。覚えているかしら?」
「国王の側で甘い汁を吸っている、あの豚か?」
たっぷりと肉のついた体をゆすって、ルーブルを我が物顔で闊歩する公爵の顔が脳裏に浮かぶ。
あれが王が懇意にしてる公爵とは、と本気で呆れたことを思い出す。
「どこだ?教えろ。今すぐ奪い返す!!」
怒りのままに叫び、体を起こそうとするとその視界が白らんだ。
何が起こったのかわからず、顔をしかめると、婦人は男をたしなめる口調で言った。
「・・・今の貴方に殿下を奪い返すことなどできるとは思えないわ」
「どういう意味だ?」
「これ、お使いになって」
「・・?」
男は手渡された鏡を受け取ろうとする。
しかしその手は振るえ、鏡は乾いた音をたてて落ちた。
「すまない」
「いえ・・・」
体を起こし、鏡を拾おうとするがその時男は自分の腕に驚愕する。
"何だこの枯れ枝のような腕は・・・"
慌てて自分の体を撫で回すと体中の肉が削げ落ち、骨が醜く浮き出ている。
「ノワジーの館が襲われたと聞いて、駆けつけた時は館の中は滅茶苦茶だったわ。
貴方は血だらけで倒れていて・・・命は助かったけれど、1年も意識が戻らなかったのだから当然よ」
「1年?そんなにも経っているのか?」
「そうよ。その状態で今まで命を保っていた貴方の精神力には感服するわ・・・」
そしてため息をつき、言う。
「その体では無理、という意味よ」
「確かに」
細くなった腕を忌々しく睨み付ける。
婦人は静かに、薄綿に水を含ませて男の口元に持っていく。
「焦らなくても、彼らは殿下を殺す気はないわ」
「・・・私は用済みだったということか?」
「そうね」
「・・・館を襲ったあいつらは誰だ?あの豚が自ら動くわけはないだろう」
「ラクダ、という物盗りを金で雇ったようよ」
「ラクダ・・・」
自分を一刺しにした賊の顔を思い出す。
屈辱に歪む男の顔を見て、婦人はもう一度ため息をついた。
「何か口にできるものを持たせるから。今は養生することだけを考えたほうがいいわ」
***
一命を取り留めた男は、婦人のパリの屋敷に身を潜ませ、王弟奪回の機会をうかがっていた。
事件での傷が後遺症を残し、思うように動かない体に呪いの言葉を吐きながら。
元凶となった娘とその娘にいつの間にか心奪われていた自分の愚かさを失笑しながら。
聞けば王弟と同様、男の存在も国家にとって機密事項である為その死は闇に葬られ、墓は人気の無い丘に
おざなりに作られ、今では訪ねる人も父親くらいだという。
「・・・そこに若い娘は来ないのか?」
「あの伯爵令嬢のこと?残念ながら、そのような話は聞いてないわ」
「そうか」
「気になるの?」
「いや・・・」
どこかから婿を取り家督を継いでる頃だろうか。
夫の愛に包まれ、死んだの男のことなぞ忘れたか。
「所詮、私の死など誰にも、何の意味も成さないのだと思ってな・・」
自分は今、生きている意味があるのだろうか。
回復しない体に苛立ちを覚え、男は弱気になっていた。
黒髪の婦人は何か言いたげではあったが口を噤み、パリで見た金髪の少女の姿を思い出していた。
***
それから何度か季節が巡った。
ノワジーでの事件の時と同じ様な嵐の日毎に、男は闇に落ちていった。
自分を捨石として使った国家への恨みは時間を追う毎に増していく。
奴らなどこの世から消えてしまえばよい、この国など滅んでしまえばよい。
男は自分の野望が次第に歪んでいくのを感じていた。
体中の疼きを抑え、弱りきった体を再生させるために飲み続けている薬が
その精神を犯し始めているのかもしれなかった。
ある日、婦人は珍しく表情を強張らせて男の元にやってきた。
「良くない知らせよ。殿下が日の差さぬ地下牢に閉じ込められたわ」
「どういうことだ?」
今までは事件を知る先王と親しかった老伯爵が、王弟には身分相応の扱いを、と例の公爵を押さえ込んでいた。
しかし彼が病で亡くなった事を機に、公爵は王弟を地下牢に閉じ込め狂人に仕立て上げるつもりなのだという。
「さすがに刃に掛ける勇気は無いようだけど・・・」
フランソワは低く唸った。
殺すことができなければ、狂人にしてしまおうというのか。
何と卑劣な・・・
王家の血を引く人間の扱いも知らぬ奴らの愚かさに怒りで拳が震える。
男はいつのまにか異常なまでに鍛えられた体躯を確かめる。
薬の影響で髪の色は濃くなり、顔つきも変わった。声もくぐもっていた。
どこにも6年前の自分は居ない。世の中から抹殺されたのだ。
胸の内のどす黒い渦が蠢くのを感じた。
これは機会だ・・・
あの老伯爵が居るのならと、今まで静観していたのだ。
*****
あの日と同じ春の嵐の吹く夜、男は公爵の館に忍び込んだ。
その一室では二人の男が向かい合い、話をしていた。
「ああ、ありがたい。そろそろこの国から足を洗いたいと思っていたからな。
この金でどこか外国に行ってもう一稼ぎしてくるよ」
「好きにすればいい」
「できれば口止め料としてもう少し積んでいだたきたいのですがね」
「何?それだけあれば充分だろう?」
「はぁ、そうですが。まぁこちらは珍しい品もいろいろ手に入ったし、
あの時はたっぷり楽しめたのでいいんですがね。また来ますよ」
金のペンダントをいじくりながらマンソン、と呼ばれた男は去っていった。
「あの男、始末に困るな・・・」
公爵は忌々しげに扉を睨みつける。
その時、露台に繋がる戸が開き落雷の光の中に雨に濡れた屈強な男の体が浮かび上がった。
「甘いな。俺ならあの男を殺すがな」
「誰だ!?」
「ノワジーの村では世話になったな」
「ノワジー?」
「フィリップ王弟殿下はどこだ?」
「な、何?なぜそれを?いや、それより何故この場所が・・・」
改めて見た公爵の姿に、激しい憤りを感じ男は声を荒げる。
「ラクダを追っていたらこの屋敷にたどり着けたんだよ。あいつをさっさと殺してしまえば、お前もその丸い尻尾を
掴まれずに済んだのにな」
そのおぞましいまでの憎悪に伯爵は気圧される。
震える体と声を押し止め、必死の虚勢を張る。
「ひ、必要の無い殺戮は好まないのでね。第一、"事件"には下手人が必要だろう?」
「"事件"?"暗殺"の間違いではないのか?」
目は怒りに血走り、全身から殺気を出し続け剣を向ける男についに公爵は震え上がり、椅子から転げ落ちると
隣の部屋に続く扉を叩いた。
「おいっ」
主人に呼ばれ、気味悪い仮面を着けた男が飛び出してくる。
「こ、こいつを殺せ!ノワジーの亡霊だ!」
その言葉に仮面の男は、怪訝な声を出す。
「・・・ノワジー?」
「久しぶりだな。あの時は世話になった」
「誰だお前は?」
「つれないな。ノワジーでの事は俺には忘れたくても忘れられない思い出なのにな」
皮肉たっぷりに言う。
「フランソワ、という名前に覚えはないか?」
公爵が驚愕の声を上げる。
「フランソワ?王弟の世話役のか!?」
「何?こんな物騒な顔はしてなかったはずだぜ。もっと細身の優男だったはずだ」
「お前らのお陰で地獄を見たからな。いい人相だろう?」
「今更亡霊が出てきて何の用だ!?もう一度死ぬがいい!!」
剣を抜き仮面の男が襲い掛かる。
しかし、何なくその一突きをかわすと常人とは思えない勢いで男の首をはね、返す剣でその主人の胸を一刺した。
噴出す血の匂いがあたりに充満する。
男は表情を変えず、胴体と切り離された首から仮面をはぎとる。
「こいつ、この公爵家で腕が立つと有名な護衛役だったな・・・」
つまらん、と仮面を手に進路を邪魔している骸達を踏みつけ部屋を出る。
「この仮面、使わせてもらうか・・・」
次第に男に笑いがこみ上げ、ついに大きな笑い声があたりに響く。
地位も財産も、人としての存在も消された私だ。
ならばノワジーの亡霊としてこの国を混乱に陥れてやろう。
上手くいけばフィリップを王座につけられるかもしれないが、私にとってその事は既に如何でもよくなっていた。
Francois-Ⅳ
王弟奪回のためベル=イールに忍び込んだ二人の銃士が捕らえられた夜。
小さな窓から射す月の光が豊かな金髪を闇の中に浮かび上がらせる。
その横顔は冴え冴えとし、人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。
「少し休んだらどうだ?ここ暫く、碌に寝ていないのだろう?」
「いや・・・」
小さく否定して、ひたすら窓の外を睨み付ける。
その姿に黒髪の銃士は語調を荒げる
「ここから逃げ出す算段なら止めろ。時間の無駄だ」
「何だって?」
怒りを含んだ蒼い目が射抜く。
「このような足枷をさせられて、何ができると言うのだ」
「・・・」
「焦る必要は無い。殿下の身に危険が及ぶ心配はないだろう。
それよりも少しは眠って明日に備えておいたほうが良策だと思うが?」
「それは・・・」
悔しさに形の良い唇を噛み、アラミスは座り込む。
だが、やがてアトスの言い分に従い、目を閉じた。
たとえ眠れなくても・・・
その時乾いた靴音がし、捕らわれの銃士達の前に鉄仮面と呼ばれている男が現れた。
全身黒で覆われた姿は恐ろしいまでの威圧感が在り、並みの銃士であれば震え上がり命を乞うほどである。
気高き二人の銃士はとっさに身構え、鉄仮面へ鋭い眼光を向けた。
しかしその姿を一瞥すると、獅子が獲物を蹴散らすように黒髪の銃士の腹に容赦無く蹴りを入れる。
鈍い音がし、足枷の鉄球ごとアトスは壁に叩き付けれた。
吐しゃ物と共に赤黒い血が彼の口から噴き出す。
あまりに瞬間の事で声も出ず、ただその惨状にアラミスはアトスの側に駆け寄ろうとした。
しかし鉄仮面はアラミスのその細い腕をあっと云う間にねじ上ると、
後ろ手に縛り猿轡を噛ませ、その体を担ぎ上げた。
「この女、借りるぞ」
くぐもった声が牢に響き、暗闇の中に二人の姿が消えようとするのをアトスは激痛に絶え必死で抗議する。
しかしその叫び声は届かずただ動かぬ体を呪うことしかできなかった。
***
要塞の一室に着くと鉄仮面はその猿轡を外し、アラミスを床に転がした。
怒りに燃える蒼い目を見下ろし、薄笑いを浮かべて鉄仮面は問うた。
「女、お前に聞きたいことがある」
その言葉に僅かに動揺しながもアラミスは気圧されぬ様、必死に言葉を紡いだ。
「鉄仮面、私もお前に聞きたいことがある」
「何だ?先に聞こう」
「・・・フランソワ、という名前に覚えがあるだろう?」
「フランソワ?ああ、捨て駒とされることも知らずに国家に忠誠を誓っていた愚かな男のことか?」
男はその名で呼ばれていた、嘗ての自分を思い出す。
自分はフランスに忠誠を誓っていた。だからこそ、その冠を被る人物はこの美しい国に相応しい者では
無ければと思っていた。
くだらない理想論だった。
だが最愛の恋人を侮辱された銃士の姿をした女は、怒りに叫んだ。
・・・その相手を誰とも知らずに・・・
「お前のせいで私の人生は狂ったんだ!
フランソワが殺されなければ・・・私は・・・私は・・・」
その言葉にぞくりとする快感が男の背を這った。
マンソンからこの銃士は女で本名が"ルネ"であるという話を聞いた時は男は俄かに信じられなかった。
6年という歳月は恐ろしく人の姿を変える。
何度か対峙した時も、1年足らずしか交わらなかった恋人の姿なぞ到底連想できなかった。
それを確かめる為にこの場に連れてきたが、これ以上何を聞く必要も無かった。
自分の死がこの女の人生を狂わせた。
あの可憐だった少女が、埃にまみれ、枷を付けられ、私の足元に転がっている。
その姿に情愛などではなく、完全な制服欲という名の欲情が男に湧き上がる。
ここで仇と思う男に陵辱されれば、この女はますます"フランソワ"の影を追い駆け続けるだろう。
優しく誠実な恋人に愛された記憶は鮮やかに蘇り、それはその魂に永遠に焼き付けられるだろう。
目の前の獣の狂気染みた思いに本能的に気づき、思わずアラミスは後ずさりをする。
必死に自分を押し留めようとするがその目は心ならず怯えた色に染まっていく。
鈍い動きで後ずさる彼女をさらにゆっくりした足取りで男は追い詰める。
暇に任せて弄んでいた獲物を、飢えている時に再び見つけた獣の気持ちはこういうものなのか・・・
恐怖に捕りつかれた姿を見て、悦に入る。
男は獲物を充分に焦らし、その牙を剥いた。
***
数時間後・・・
痛みに耐えていたアトスの元にぐったりとしたアラミスがまるで荷が運ばれるように戻ってきた。
彼女が何をされたのか・・・
手荒くはだけられた上着から覗く痕が物語っていた。
仮面の下の表情は放り出された女を庇う銃士の仕草に侮蔑の笑みを浮かべ、あざ笑うように問う。
「この女に惚れているのか?」
ぎりっと歯を噛み締め、アトスは答えない。目には恐ろしいまでの憎悪が宿っていた。
その姿を可笑しそうに見下ろし、鼻で笑う。
「無駄な事だ。この女の心を支配しているのは・・・」
男はその先の言葉を続けようとして、止めた。かわりに嘲笑を込め言い放つ。
「試しに抱いてみればいい。それが誰なのか、貴公にもわかろう」
踵を返し、笑い声を上げながら男は去っていった。
***
「アトス・・・、体は大丈夫?」
アラミスに膝に貸し、忌々しげに窓の外の月を眺めていると力の無い声が聞こえた。
同じように月を見ている。
その頬には打たれた痕が見え、唇も切れ、白い肌が痛々しく赤に染まっていた。
そっと肌に触れ、ほつれた金の髪を梳く。
「それは私の台詞だ・・・」
「肋骨、やられたんじゃない?背中も随分強く打ってた。血も吐いて・・・」
「私のことはいい。それより・・・」
その後の言葉を続けられず、黙り込む。やがて静かに一言だけ告げる。
「あの男にはもう近づかないほうがいい」
その言葉にアラミスはこくん、と小さく頷いた。
自分の忠告ではあるが、素直に承諾する姿にアトスは驚く。
弱気になる彼女を見るのは初めてだった。
その首筋の赤黒い痕が金髪の間から覗く。残酷ではあったがアトスは問うた。
「鉄仮面の顔は・・・見たのか?」
「・・・目隠しされてたから」
「そうか」
その言葉にアトスは少しだけ安堵する、少しだけだが。あの男はおそらく・・・
癒えない傷をこれ以上負わせたくない。アトスは諭すようにアラミスに告げた。
「アラミス、君の復讐はマンソンを討つこと、それだけだ。それ以上の個人行動は絶対に駄目だ。
鉄仮面は法の裁きに任せよう。いいな?」
膝の上でまた、小さく頷く気配がした。
こんな時ではあるが素直なその姿を可愛らしいとアトスは思った。
自分の勘が正しいなら、絶対にあの男にアラミスを近づけてはいけない。
あの男は・・・
考えに耽りそうになった時、つ、とアトスの袖を引きアラミスは問うた。
「アトス・・・」
「なんだ?」
「私の事、抱くの?」
「先ほどの話か?」
「・・・」
「今は眠れ。膝を貸しといてやるから」
やがて寝入った彼女が小さく"Francois"と呟いたようが気がした。
そんな事、とっくに判っている、アトスは心の中で呟いた。
「ひどい雨だな・・・」
もう春だというのに酷く冷え込む夜。だが次に移る所は此処より更に冷えるはずだ。
そう思うと男は少し憂鬱な気持ちとなる。
その時、大きな物音とともに大勢の人間が部屋に飛びこんできた。
「何者だ!?」
激しい雨音で何も聞こえなかった為か退路を確保することもできず男は賊達に囲まれる。
やがて火焔を思わせる熱さがその体を貫き、体中の血が逆流する。
崩れ落ちる瞬間に男が見たのは、下卑た笑いを浮かべた顔だった。
「おい、用は済んだのだからさっさと立ち去るぞ!」
「まぁ焦んなさんなって。盗賊が本業なものでね、お宝を探させていただくよ」
「ちっ。好きにしろ。こちらは先に行かせてもらうからな」
薄れゆく意識の中で若い恋人の泣き叫ぶ声が聞こえた気がした。
駆け寄ろうとするが、鉛の塊を押し込まれたようで体はまるで動かない。
やがて闇が男を包み、すべての感覚が消えていった。
*****
「私は・・・?」
空気の振るえに男は違和感を覚える。
やがて霞む視界の焦点が合うと、黒髪の婦人が目に入った。
「ここは・・・?」
「フランソワ!」
婦人が驚愕の表情を浮かべて駆け寄る。
「なにが・・・」
男の混濁していた記憶が少しずつ鮮明になる。
春の嵐、襲ってきた賊、指揮を取る仮面の男・・・
「そうだ!フィリップ様は?」
婦人はゆっくりと首を横に振る。
「ご無事よ。パリからそう遠くない所に監禁されているわ」
「何・・・?」
「心配はいらないわ、口の利けぬよう仮面を付けられ一室に閉じ込められてはいるけれど・・・
殿下を自分達の厳重な監視の元に置くことが彼らの目的であって、決して危害を加える事は無いわ」
「誰だ・・・?」
「・・・例の公爵よ。覚えているかしら?」
「国王の側で甘い汁を吸っている、あの豚か?」
たっぷりと肉のついた体をゆすって、ルーブルを我が物顔で闊歩する公爵の顔が脳裏に浮かぶ。
あれが王が懇意にしてる公爵とは、と本気で呆れたことを思い出す。
「どこだ?教えろ。今すぐ奪い返す!!」
怒りのままに叫び、体を起こそうとするとその視界が白らんだ。
何が起こったのかわからず、顔をしかめると、婦人は男をたしなめる口調で言った。
「・・・今の貴方に殿下を奪い返すことなどできるとは思えないわ」
「どういう意味だ?」
「これ、お使いになって」
「・・?」
男は手渡された鏡を受け取ろうとする。
しかしその手は振るえ、鏡は乾いた音をたてて落ちた。
「すまない」
「いえ・・・」
体を起こし、鏡を拾おうとするがその時男は自分の腕に驚愕する。
"何だこの枯れ枝のような腕は・・・"
慌てて自分の体を撫で回すと体中の肉が削げ落ち、骨が醜く浮き出ている。
「ノワジーの館が襲われたと聞いて、駆けつけた時は館の中は滅茶苦茶だったわ。
貴方は血だらけで倒れていて・・・命は助かったけれど、1年も意識が戻らなかったのだから当然よ」
「1年?そんなにも経っているのか?」
「そうよ。その状態で今まで命を保っていた貴方の精神力には感服するわ・・・」
そしてため息をつき、言う。
「その体では無理、という意味よ」
「確かに」
細くなった腕を忌々しく睨み付ける。
婦人は静かに、薄綿に水を含ませて男の口元に持っていく。
「焦らなくても、彼らは殿下を殺す気はないわ」
「・・・私は用済みだったということか?」
「そうね」
「・・・館を襲ったあいつらは誰だ?あの豚が自ら動くわけはないだろう」
「ラクダ、という物盗りを金で雇ったようよ」
「ラクダ・・・」
自分を一刺しにした賊の顔を思い出す。
屈辱に歪む男の顔を見て、婦人はもう一度ため息をついた。
「何か口にできるものを持たせるから。今は養生することだけを考えたほうがいいわ」
***
一命を取り留めた男は、婦人のパリの屋敷に身を潜ませ、王弟奪回の機会をうかがっていた。
事件での傷が後遺症を残し、思うように動かない体に呪いの言葉を吐きながら。
元凶となった娘とその娘にいつの間にか心奪われていた自分の愚かさを失笑しながら。
聞けば王弟と同様、男の存在も国家にとって機密事項である為その死は闇に葬られ、墓は人気の無い丘に
おざなりに作られ、今では訪ねる人も父親くらいだという。
「・・・そこに若い娘は来ないのか?」
「あの伯爵令嬢のこと?残念ながら、そのような話は聞いてないわ」
「そうか」
「気になるの?」
「いや・・・」
どこかから婿を取り家督を継いでる頃だろうか。
夫の愛に包まれ、死んだの男のことなぞ忘れたか。
「所詮、私の死など誰にも、何の意味も成さないのだと思ってな・・」
自分は今、生きている意味があるのだろうか。
回復しない体に苛立ちを覚え、男は弱気になっていた。
黒髪の婦人は何か言いたげではあったが口を噤み、パリで見た金髪の少女の姿を思い出していた。
***
それから何度か季節が巡った。
ノワジーでの事件の時と同じ様な嵐の日毎に、男は闇に落ちていった。
自分を捨石として使った国家への恨みは時間を追う毎に増していく。
奴らなどこの世から消えてしまえばよい、この国など滅んでしまえばよい。
男は自分の野望が次第に歪んでいくのを感じていた。
体中の疼きを抑え、弱りきった体を再生させるために飲み続けている薬が
その精神を犯し始めているのかもしれなかった。
ある日、婦人は珍しく表情を強張らせて男の元にやってきた。
「良くない知らせよ。殿下が日の差さぬ地下牢に閉じ込められたわ」
「どういうことだ?」
今までは事件を知る先王と親しかった老伯爵が、王弟には身分相応の扱いを、と例の公爵を押さえ込んでいた。
しかし彼が病で亡くなった事を機に、公爵は王弟を地下牢に閉じ込め狂人に仕立て上げるつもりなのだという。
「さすがに刃に掛ける勇気は無いようだけど・・・」
フランソワは低く唸った。
殺すことができなければ、狂人にしてしまおうというのか。
何と卑劣な・・・
王家の血を引く人間の扱いも知らぬ奴らの愚かさに怒りで拳が震える。
男はいつのまにか異常なまでに鍛えられた体躯を確かめる。
薬の影響で髪の色は濃くなり、顔つきも変わった。声もくぐもっていた。
どこにも6年前の自分は居ない。世の中から抹殺されたのだ。
胸の内のどす黒い渦が蠢くのを感じた。
これは機会だ・・・
あの老伯爵が居るのならと、今まで静観していたのだ。
*****
あの日と同じ春の嵐の吹く夜、男は公爵の館に忍び込んだ。
その一室では二人の男が向かい合い、話をしていた。
「ああ、ありがたい。そろそろこの国から足を洗いたいと思っていたからな。
この金でどこか外国に行ってもう一稼ぎしてくるよ」
「好きにすればいい」
「できれば口止め料としてもう少し積んでいだたきたいのですがね」
「何?それだけあれば充分だろう?」
「はぁ、そうですが。まぁこちらは珍しい品もいろいろ手に入ったし、
あの時はたっぷり楽しめたのでいいんですがね。また来ますよ」
金のペンダントをいじくりながらマンソン、と呼ばれた男は去っていった。
「あの男、始末に困るな・・・」
公爵は忌々しげに扉を睨みつける。
その時、露台に繋がる戸が開き落雷の光の中に雨に濡れた屈強な男の体が浮かび上がった。
「甘いな。俺ならあの男を殺すがな」
「誰だ!?」
「ノワジーの村では世話になったな」
「ノワジー?」
「フィリップ王弟殿下はどこだ?」
「な、何?なぜそれを?いや、それより何故この場所が・・・」
改めて見た公爵の姿に、激しい憤りを感じ男は声を荒げる。
「ラクダを追っていたらこの屋敷にたどり着けたんだよ。あいつをさっさと殺してしまえば、お前もその丸い尻尾を
掴まれずに済んだのにな」
そのおぞましいまでの憎悪に伯爵は気圧される。
震える体と声を押し止め、必死の虚勢を張る。
「ひ、必要の無い殺戮は好まないのでね。第一、"事件"には下手人が必要だろう?」
「"事件"?"暗殺"の間違いではないのか?」
目は怒りに血走り、全身から殺気を出し続け剣を向ける男についに公爵は震え上がり、椅子から転げ落ちると
隣の部屋に続く扉を叩いた。
「おいっ」
主人に呼ばれ、気味悪い仮面を着けた男が飛び出してくる。
「こ、こいつを殺せ!ノワジーの亡霊だ!」
その言葉に仮面の男は、怪訝な声を出す。
「・・・ノワジー?」
「久しぶりだな。あの時は世話になった」
「誰だお前は?」
「つれないな。ノワジーでの事は俺には忘れたくても忘れられない思い出なのにな」
皮肉たっぷりに言う。
「フランソワ、という名前に覚えはないか?」
公爵が驚愕の声を上げる。
「フランソワ?王弟の世話役のか!?」
「何?こんな物騒な顔はしてなかったはずだぜ。もっと細身の優男だったはずだ」
「お前らのお陰で地獄を見たからな。いい人相だろう?」
「今更亡霊が出てきて何の用だ!?もう一度死ぬがいい!!」
剣を抜き仮面の男が襲い掛かる。
しかし、何なくその一突きをかわすと常人とは思えない勢いで男の首をはね、返す剣でその主人の胸を一刺した。
噴出す血の匂いがあたりに充満する。
男は表情を変えず、胴体と切り離された首から仮面をはぎとる。
「こいつ、この公爵家で腕が立つと有名な護衛役だったな・・・」
つまらん、と仮面を手に進路を邪魔している骸達を踏みつけ部屋を出る。
「この仮面、使わせてもらうか・・・」
次第に男に笑いがこみ上げ、ついに大きな笑い声があたりに響く。
地位も財産も、人としての存在も消された私だ。
ならばノワジーの亡霊としてこの国を混乱に陥れてやろう。
上手くいけばフィリップを王座につけられるかもしれないが、私にとってその事は既に如何でもよくなっていた。
Francois-Ⅳ
王弟奪回のためベル=イールに忍び込んだ二人の銃士が捕らえられた夜。
小さな窓から射す月の光が豊かな金髪を闇の中に浮かび上がらせる。
その横顔は冴え冴えとし、人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。
「少し休んだらどうだ?ここ暫く、碌に寝ていないのだろう?」
「いや・・・」
小さく否定して、ひたすら窓の外を睨み付ける。
その姿に黒髪の銃士は語調を荒げる
「ここから逃げ出す算段なら止めろ。時間の無駄だ」
「何だって?」
怒りを含んだ蒼い目が射抜く。
「このような足枷をさせられて、何ができると言うのだ」
「・・・」
「焦る必要は無い。殿下の身に危険が及ぶ心配はないだろう。
それよりも少しは眠って明日に備えておいたほうが良策だと思うが?」
「それは・・・」
悔しさに形の良い唇を噛み、アラミスは座り込む。
だが、やがてアトスの言い分に従い、目を閉じた。
たとえ眠れなくても・・・
その時乾いた靴音がし、捕らわれの銃士達の前に鉄仮面と呼ばれている男が現れた。
全身黒で覆われた姿は恐ろしいまでの威圧感が在り、並みの銃士であれば震え上がり命を乞うほどである。
気高き二人の銃士はとっさに身構え、鉄仮面へ鋭い眼光を向けた。
しかしその姿を一瞥すると、獅子が獲物を蹴散らすように黒髪の銃士の腹に容赦無く蹴りを入れる。
鈍い音がし、足枷の鉄球ごとアトスは壁に叩き付けれた。
吐しゃ物と共に赤黒い血が彼の口から噴き出す。
あまりに瞬間の事で声も出ず、ただその惨状にアラミスはアトスの側に駆け寄ろうとした。
しかし鉄仮面はアラミスのその細い腕をあっと云う間にねじ上ると、
後ろ手に縛り猿轡を噛ませ、その体を担ぎ上げた。
「この女、借りるぞ」
くぐもった声が牢に響き、暗闇の中に二人の姿が消えようとするのをアトスは激痛に絶え必死で抗議する。
しかしその叫び声は届かずただ動かぬ体を呪うことしかできなかった。
***
要塞の一室に着くと鉄仮面はその猿轡を外し、アラミスを床に転がした。
怒りに燃える蒼い目を見下ろし、薄笑いを浮かべて鉄仮面は問うた。
「女、お前に聞きたいことがある」
その言葉に僅かに動揺しながもアラミスは気圧されぬ様、必死に言葉を紡いだ。
「鉄仮面、私もお前に聞きたいことがある」
「何だ?先に聞こう」
「・・・フランソワ、という名前に覚えがあるだろう?」
「フランソワ?ああ、捨て駒とされることも知らずに国家に忠誠を誓っていた愚かな男のことか?」
男はその名で呼ばれていた、嘗ての自分を思い出す。
自分はフランスに忠誠を誓っていた。だからこそ、その冠を被る人物はこの美しい国に相応しい者では
無ければと思っていた。
くだらない理想論だった。
だが最愛の恋人を侮辱された銃士の姿をした女は、怒りに叫んだ。
・・・その相手を誰とも知らずに・・・
「お前のせいで私の人生は狂ったんだ!
フランソワが殺されなければ・・・私は・・・私は・・・」
その言葉にぞくりとする快感が男の背を這った。
マンソンからこの銃士は女で本名が"ルネ"であるという話を聞いた時は男は俄かに信じられなかった。
6年という歳月は恐ろしく人の姿を変える。
何度か対峙した時も、1年足らずしか交わらなかった恋人の姿なぞ到底連想できなかった。
それを確かめる為にこの場に連れてきたが、これ以上何を聞く必要も無かった。
自分の死がこの女の人生を狂わせた。
あの可憐だった少女が、埃にまみれ、枷を付けられ、私の足元に転がっている。
その姿に情愛などではなく、完全な制服欲という名の欲情が男に湧き上がる。
ここで仇と思う男に陵辱されれば、この女はますます"フランソワ"の影を追い駆け続けるだろう。
優しく誠実な恋人に愛された記憶は鮮やかに蘇り、それはその魂に永遠に焼き付けられるだろう。
目の前の獣の狂気染みた思いに本能的に気づき、思わずアラミスは後ずさりをする。
必死に自分を押し留めようとするがその目は心ならず怯えた色に染まっていく。
鈍い動きで後ずさる彼女をさらにゆっくりした足取りで男は追い詰める。
暇に任せて弄んでいた獲物を、飢えている時に再び見つけた獣の気持ちはこういうものなのか・・・
恐怖に捕りつかれた姿を見て、悦に入る。
男は獲物を充分に焦らし、その牙を剥いた。
***
数時間後・・・
痛みに耐えていたアトスの元にぐったりとしたアラミスがまるで荷が運ばれるように戻ってきた。
彼女が何をされたのか・・・
手荒くはだけられた上着から覗く痕が物語っていた。
仮面の下の表情は放り出された女を庇う銃士の仕草に侮蔑の笑みを浮かべ、あざ笑うように問う。
「この女に惚れているのか?」
ぎりっと歯を噛み締め、アトスは答えない。目には恐ろしいまでの憎悪が宿っていた。
その姿を可笑しそうに見下ろし、鼻で笑う。
「無駄な事だ。この女の心を支配しているのは・・・」
男はその先の言葉を続けようとして、止めた。かわりに嘲笑を込め言い放つ。
「試しに抱いてみればいい。それが誰なのか、貴公にもわかろう」
踵を返し、笑い声を上げながら男は去っていった。
***
「アトス・・・、体は大丈夫?」
アラミスに膝に貸し、忌々しげに窓の外の月を眺めていると力の無い声が聞こえた。
同じように月を見ている。
その頬には打たれた痕が見え、唇も切れ、白い肌が痛々しく赤に染まっていた。
そっと肌に触れ、ほつれた金の髪を梳く。
「それは私の台詞だ・・・」
「肋骨、やられたんじゃない?背中も随分強く打ってた。血も吐いて・・・」
「私のことはいい。それより・・・」
その後の言葉を続けられず、黙り込む。やがて静かに一言だけ告げる。
「あの男にはもう近づかないほうがいい」
その言葉にアラミスはこくん、と小さく頷いた。
自分の忠告ではあるが、素直に承諾する姿にアトスは驚く。
弱気になる彼女を見るのは初めてだった。
その首筋の赤黒い痕が金髪の間から覗く。残酷ではあったがアトスは問うた。
「鉄仮面の顔は・・・見たのか?」
「・・・目隠しされてたから」
「そうか」
その言葉にアトスは少しだけ安堵する、少しだけだが。あの男はおそらく・・・
癒えない傷をこれ以上負わせたくない。アトスは諭すようにアラミスに告げた。
「アラミス、君の復讐はマンソンを討つこと、それだけだ。それ以上の個人行動は絶対に駄目だ。
鉄仮面は法の裁きに任せよう。いいな?」
膝の上でまた、小さく頷く気配がした。
こんな時ではあるが素直なその姿を可愛らしいとアトスは思った。
自分の勘が正しいなら、絶対にあの男にアラミスを近づけてはいけない。
あの男は・・・
考えに耽りそうになった時、つ、とアトスの袖を引きアラミスは問うた。
「アトス・・・」
「なんだ?」
「私の事、抱くの?」
「先ほどの話か?」
「・・・」
「今は眠れ。膝を貸しといてやるから」
やがて寝入った彼女が小さく"Francois"と呟いたようが気がした。
そんな事、とっくに判っている、アトスは心の中で呟いた。
Francois-Ⅰ
夜の闇の中に女のしどけない裸体が浮かび上がる。
熟した男女の匂いが辺りに満ち、空気が熱を帯びる。
しっとりと汗ばんだ女の体からは緩やかに力が抜け、欲情を吐き出した男は緩慢な動作で体を起こす。
ノワジー・ル・セックのはずれの小さな館。
屋敷の主人は知らぬ秘められた寝室での営みは互いに充分の快楽を得、終りを迎える。
「ずいぶん若い娘に手を出してるのね」
長い黒髪を素肌にさらし、視線を外した女がからかう様に問う。
男は先ほど脱ぎ捨てたシャツを羽織り、パリの土産のワインに手を伸ばす。
「よく調べてるな」
「それが私のお役目ですから」
「何も知らぬ只の田舎娘だ。心配することはない」
「例え国家機密を探るスパイだとしても...」
意味ありげに微笑む。
「男は剣で。女には体で、だったかしら?」
「ご名答」
闇色に染められたグラスを渡すと"merci"と妖艶な微笑みを浮かべ女は続ける。
「16歳の伯爵令嬢だったかしら。フランソワ、貴方は今お幾つ?」
「32だ」
「32の国家機密を握る男が世間知らずの16歳の田舎娘と、おもしろいわね」
「そういう君はアンリ4世陛下と幾つの差だったかな?」
「王と貴方とは違うわ」
黒い華を思わせる美貌の持ち主は先王の愛人達の中でも、際立って美しくまた聡明である。
争いの元凶の女達の中で双子の王子の存在を知っているのはこの女だけだ。
今は先王の意思を継ぎ、パリの王宮の様子を月に1度報告に来る。
「ルーブルの状況は?」
「変わりないわよ。陛下とアンヌ王妃は相変わらず不仲で世継ぎの誕生など望むべくも無いわ」
「王のスペイン嫌いは相変わらず、か」
グラスを飲み干すと男からふっと笑いが出る。
私のフィリップに瓜二つのルイ13世は愚かだ。
王に必要なのは愛を通わす結婚ではない。
「フィリップ様に丁度よいかと思ってね」
「何の話?」
「デルブレー家のご令嬢さ。フィリップ"陛下"にね」
「...伯爵令嬢風情で王妃に、と?」
「いやいや、寵妃としてだ。それに必要な賢明さと王を虜にする肉体を彼女は持っている。
王妃にはオーストリア女でもスペイン女でも釣り合う身分の娘を適当に見繕えばよい」
「...そしてその寵妃の体をあなたが今仕込んでいる、という訳?」
「先王の愛人だった君にならわかるだろう?寵妃の体が王にどれほどの影響を与えるのか」
男は若い恋人、ルネを思い出す。豊かな金の髪と何の穢れも知らぬ青い瞳、そして体。
秘密を嗅ぎ付け近寄る女達は手練手管を知り尽くした女ばかりだ。
あらゆる技巧を尽くし彼の体を犯し、秘密を探ろうとする。
そんな獣達からの仕掛けをかわし、また時には誘惑に乗りその体を貪る。
それは一種の遊戯であり退屈な田舎暮らしに程よい刺激を与えてくれる。
しかしそのような駆け引きに飽きていたことも確かだった。
彼女は何も知らない。私のことしか知らない。
小さな蕾が少しずつ開いていくように、彼女の体は私に少しずつ応えるようになってきている。
震えるようにすがり付いてくる彼女の瞳はいとおしい。
優しく声を掛けると頬をばら色に染めていじらしくそれに応える姿。
やがてルネの体に私の全てを教え、その肉体を持って彼女がフィリップの寵愛を受けるようになる。
そのことを想像すると、私は何物にも得難い恍惚感に満たされる。
「美しい娘だ。このような田舎には似合わないほどにね」
「その娘、貴方を愛しているのでしょう?愛人としてあてがうつもりとは、酷い男ね」
「そのうち愛とは別と割り切れるようになる。ルイに代わってフィリップ様が王となられる頃にはね」
「ふふっ」
「そして私は王の摂政として、中央に出る。彼女を妻として」
「その妻は王の愛人ということ?」
「そういうことだ」
「怖い人」
「王に悪い雌が付いては困るからね」
そろそろ帰るわ、と女はガウンを羽織り客室へ戻ろうとする。
そう言えば...と艶のある声が部屋に響く。
「一つ教えておくわ。貴方と伯爵令嬢の話、誰から聞いたと思う?」
「...領民の誰かが見たのだろう?森に忍んでいく男女なぞ珍しくもあるまい」
「彼女の後見人の男爵の使用人からよ。貴方を屋敷に呼びたいとお嬢様が言っているらしいわ」
「何・・・?」
思わず口が歪む。
私たちのことは二人の秘密にと言っていたはずだ。
いずれ迎えに行く。それまでは、と。
女の口が軽いことは重々承知だ。だからこそ...
「16歳の恋する娘の口に戸は立てられないわよ。
貴方が今まであしらってきた女達と同じやり方では駄目よ」
「・・・男爵を会い、話をつける必要がありそうだな」
「足元すくわれないよう気をつけてね」
不吉な予言のような言葉を残し女はパリに帰っていった。
王となる人格を育て、いずれ国を動かす。それは私の唯一の希望であり、光だ。
そのためフィリップに王として必要な事全てを徹底的に教えこむ。
人柄も申し分無く、素直で柔軟で温和で、強い意志を持ち、既に王に相応しい気品も身に付いている。
そのように私が育ててきたのだ。私が。
こんな所でその計画を邪魔されるわけにはいかない・・・・・
Francois-Ⅱ
「フランソワッ」
陽に輝く金髪を振り乱し、美しい少女が駆けてくる。
まだ幼さの残る表情と、反して女として成長しつつある体。
そのアンバランスさに男の欲情の火が灯る。
「叔父様に貴方に会うなと言われたの!だけど私っ」
「ああ、ルネ落ち着いて」
「私...」
大きな瞳を潤ませて少女は男を見つめる。何の陰りも無い瞳で。
男は優しく口付けを落とし、森の奥へ誘う。
しばらく触れることができないと思うと惜しい気がし、男は常より時間をかけて少女を愛する。
ゆっくりと、確かめるように。自分の香りが、癖がこの体に残るように。
若く瑞々しい裸体が緑深い日差しを受けて輝く。
最初はぎこちなかった少女からの愛撫も、今では男に充分の快楽を与えていた。
一生懸命なその姿はいじらしく、また淫らで白い雪原を汚したような背徳感と征服感に男の快楽は頂点を迎えた。
「愛してるよルネ」
「...私も...フランソワ」
所々にその所有の跡の残る白く美しい肌をさらした少女を、男は優しく抱きしめる。
震える体を愛する人の胸に摺り寄せ、深い息をする金絹の髪を撫でながら彼はゆっくりと話し始める。
少女の後見人である伯父と話した事、自分とその主人が違う土地に移る必要がある事、
けれど遠からず必ず君のことを迎えに来る、と。
「私、あなたのご主人のこと嫌いだわ」
男が話し終わると、蒼の瞳に明らかな不快の色を示して少女は言う。
先ほど縋りついてきた時と同じ瞳とは思えない位、強い意志を宿らせた瞳だった。
「どうして?」
「貴方の自由を奪ってる」
「ルネ、私の自由は私の意志では決められないのだよ」
「そんなの・・・」
「私は本当は誰かを愛してはいけない立場の人間なのだから」
「そんなのおかしい!貴方の人生は貴方のものよ!」
「違うんだよ、ルネ。私の人生はあの方のものなのだよ」
自分を絶対的に必要としている"あの方"をこの国の王に据え、それと共に自分が在ること。
それ以外は意味を持たず、少女を愛している事も何もかも、全てその目的に繋がるものでなければならない。
「それにあの方に仕えていたから私はこの地に在ることができて、君を出遭えたのだよ」
「違うわ、例え貴方がこの地に居なかったとしても、私は貴方を見つけたわ。
それが世界の果てだとしても、私は貴方を探し出すわ!」
なだめるように男が言うと、その強い意志を持った瞳はすかさず言い返してくる。
そんな運命論、と鼻白む思いがしたが、恋する娘はこの手の話が好きだ。そのことには触れず、男は続ける。
「私達のこと、誰にも話してはいけないと言ったよね?もし話せば会う事ができなくなるとも...」
本当は問い詰めたい気持ちであったが、そんなことはおくびにも出さず穏やかに問う。
歳若い恋人は男への激しい愛情を止められず、語調を強くする。
「確かに、昨日伯父様にしばらく貴方に会ってはいけないと言われたわ...」
「ほら、僕の言った通りに...」
「けれど!伯父様の言葉なんて関係ないわ!私は馬も駆れるし、どこまでも行けるわ。
私が貴方に会いたいと思えば、私は貴方に会いに行くわ!」
自分の言葉を遮る少女のその強い意志と気迫に男はいらつきを覚える。
しかし、言い出したら聞かない娘だということは判っているので、話を改める。
「どうして僕達のことを話したの?」
「・・・隠す意味がわからなくなったから。隠す必要がどこにあるの?」
「・・・」
「ねぇ、教えてフランソワ。貴方の主人は誰なの?貴方ほど人を側に置くなんて、よほどの人なのでしょう?」
「ルネ、それは聞かない約束だよ」
「私、貴方の役に立てると思うの。剣も少しは使えるし、馬だって誰より速く駆れるわ。
あの家を出たっていい。貴方の側にいて、役に立ちたいわ」
面白い少女だと思った。男は少女のこういう所に惹かれていた。
凡庸な娘と同じように夢見がちな所もある。しかし幼くして両親を亡くした事も関係しているのだろうか、
神に祈っても何も変わらないことも知っている。
ただの愚かな女であれば2,3度の情事の後適当な理由をつけて会うことも無くなるが、
少女は歳に似合わぬ考えを持ち、磨けば確実に輝く美貌と男を魅惑する肉体を持っている。
彼女と話をすると王弟に教鞭を執る時と同じように、ぞくりとする予感を男は覚えていた。
「私にできることはないの?」
その真摯な少女の問いに男は自分の試案を少しだけ口にすることにした。
「...まだ早いんだ」
「早い?」
「そう、だがいずれ君が必要となる時が来る。その時まで待って欲しい」
「待っているだけでは、叶わないことが多いわ」
「私は必ず君を迎えに来るから」
「本当に?信じていいの?」
「ああ、信じて。私を愛しているなら信じて欲しい」
納得はしていないようだが、静かに頷き男を見つめる。その憂いを含み愛するものにだけ向ける瞳の揺らぎ。
この少女ならフィリップ様への奉仕を自分への愛として喜んで受け入れるだろう。
その確信に男の欲情の火がまた灯る。
森の神達に彼女の素肌を再び晒し、愛撫に震える可愛らしい声を響かせる。
その行為の中でも男は冷静に計画を思案する。
次に移る場所では急がなくては・・・
もうあの方の存在が明るみになるのも時間の問題だ。
夜の闇の中に女のしどけない裸体が浮かび上がる。
熟した男女の匂いが辺りに満ち、空気が熱を帯びる。
しっとりと汗ばんだ女の体からは緩やかに力が抜け、欲情を吐き出した男は緩慢な動作で体を起こす。
ノワジー・ル・セックのはずれの小さな館。
屋敷の主人は知らぬ秘められた寝室での営みは互いに充分の快楽を得、終りを迎える。
「ずいぶん若い娘に手を出してるのね」
長い黒髪を素肌にさらし、視線を外した女がからかう様に問う。
男は先ほど脱ぎ捨てたシャツを羽織り、パリの土産のワインに手を伸ばす。
「よく調べてるな」
「それが私のお役目ですから」
「何も知らぬ只の田舎娘だ。心配することはない」
「例え国家機密を探るスパイだとしても...」
意味ありげに微笑む。
「男は剣で。女には体で、だったかしら?」
「ご名答」
闇色に染められたグラスを渡すと"merci"と妖艶な微笑みを浮かべ女は続ける。
「16歳の伯爵令嬢だったかしら。フランソワ、貴方は今お幾つ?」
「32だ」
「32の国家機密を握る男が世間知らずの16歳の田舎娘と、おもしろいわね」
「そういう君はアンリ4世陛下と幾つの差だったかな?」
「王と貴方とは違うわ」
黒い華を思わせる美貌の持ち主は先王の愛人達の中でも、際立って美しくまた聡明である。
争いの元凶の女達の中で双子の王子の存在を知っているのはこの女だけだ。
今は先王の意思を継ぎ、パリの王宮の様子を月に1度報告に来る。
「ルーブルの状況は?」
「変わりないわよ。陛下とアンヌ王妃は相変わらず不仲で世継ぎの誕生など望むべくも無いわ」
「王のスペイン嫌いは相変わらず、か」
グラスを飲み干すと男からふっと笑いが出る。
私のフィリップに瓜二つのルイ13世は愚かだ。
王に必要なのは愛を通わす結婚ではない。
「フィリップ様に丁度よいかと思ってね」
「何の話?」
「デルブレー家のご令嬢さ。フィリップ"陛下"にね」
「...伯爵令嬢風情で王妃に、と?」
「いやいや、寵妃としてだ。それに必要な賢明さと王を虜にする肉体を彼女は持っている。
王妃にはオーストリア女でもスペイン女でも釣り合う身分の娘を適当に見繕えばよい」
「...そしてその寵妃の体をあなたが今仕込んでいる、という訳?」
「先王の愛人だった君にならわかるだろう?寵妃の体が王にどれほどの影響を与えるのか」
男は若い恋人、ルネを思い出す。豊かな金の髪と何の穢れも知らぬ青い瞳、そして体。
秘密を嗅ぎ付け近寄る女達は手練手管を知り尽くした女ばかりだ。
あらゆる技巧を尽くし彼の体を犯し、秘密を探ろうとする。
そんな獣達からの仕掛けをかわし、また時には誘惑に乗りその体を貪る。
それは一種の遊戯であり退屈な田舎暮らしに程よい刺激を与えてくれる。
しかしそのような駆け引きに飽きていたことも確かだった。
彼女は何も知らない。私のことしか知らない。
小さな蕾が少しずつ開いていくように、彼女の体は私に少しずつ応えるようになってきている。
震えるようにすがり付いてくる彼女の瞳はいとおしい。
優しく声を掛けると頬をばら色に染めていじらしくそれに応える姿。
やがてルネの体に私の全てを教え、その肉体を持って彼女がフィリップの寵愛を受けるようになる。
そのことを想像すると、私は何物にも得難い恍惚感に満たされる。
「美しい娘だ。このような田舎には似合わないほどにね」
「その娘、貴方を愛しているのでしょう?愛人としてあてがうつもりとは、酷い男ね」
「そのうち愛とは別と割り切れるようになる。ルイに代わってフィリップ様が王となられる頃にはね」
「ふふっ」
「そして私は王の摂政として、中央に出る。彼女を妻として」
「その妻は王の愛人ということ?」
「そういうことだ」
「怖い人」
「王に悪い雌が付いては困るからね」
そろそろ帰るわ、と女はガウンを羽織り客室へ戻ろうとする。
そう言えば...と艶のある声が部屋に響く。
「一つ教えておくわ。貴方と伯爵令嬢の話、誰から聞いたと思う?」
「...領民の誰かが見たのだろう?森に忍んでいく男女なぞ珍しくもあるまい」
「彼女の後見人の男爵の使用人からよ。貴方を屋敷に呼びたいとお嬢様が言っているらしいわ」
「何・・・?」
思わず口が歪む。
私たちのことは二人の秘密にと言っていたはずだ。
いずれ迎えに行く。それまでは、と。
女の口が軽いことは重々承知だ。だからこそ...
「16歳の恋する娘の口に戸は立てられないわよ。
貴方が今まであしらってきた女達と同じやり方では駄目よ」
「・・・男爵を会い、話をつける必要がありそうだな」
「足元すくわれないよう気をつけてね」
不吉な予言のような言葉を残し女はパリに帰っていった。
王となる人格を育て、いずれ国を動かす。それは私の唯一の希望であり、光だ。
そのためフィリップに王として必要な事全てを徹底的に教えこむ。
人柄も申し分無く、素直で柔軟で温和で、強い意志を持ち、既に王に相応しい気品も身に付いている。
そのように私が育ててきたのだ。私が。
こんな所でその計画を邪魔されるわけにはいかない・・・・・
Francois-Ⅱ
「フランソワッ」
陽に輝く金髪を振り乱し、美しい少女が駆けてくる。
まだ幼さの残る表情と、反して女として成長しつつある体。
そのアンバランスさに男の欲情の火が灯る。
「叔父様に貴方に会うなと言われたの!だけど私っ」
「ああ、ルネ落ち着いて」
「私...」
大きな瞳を潤ませて少女は男を見つめる。何の陰りも無い瞳で。
男は優しく口付けを落とし、森の奥へ誘う。
しばらく触れることができないと思うと惜しい気がし、男は常より時間をかけて少女を愛する。
ゆっくりと、確かめるように。自分の香りが、癖がこの体に残るように。
若く瑞々しい裸体が緑深い日差しを受けて輝く。
最初はぎこちなかった少女からの愛撫も、今では男に充分の快楽を与えていた。
一生懸命なその姿はいじらしく、また淫らで白い雪原を汚したような背徳感と征服感に男の快楽は頂点を迎えた。
「愛してるよルネ」
「...私も...フランソワ」
所々にその所有の跡の残る白く美しい肌をさらした少女を、男は優しく抱きしめる。
震える体を愛する人の胸に摺り寄せ、深い息をする金絹の髪を撫でながら彼はゆっくりと話し始める。
少女の後見人である伯父と話した事、自分とその主人が違う土地に移る必要がある事、
けれど遠からず必ず君のことを迎えに来る、と。
「私、あなたのご主人のこと嫌いだわ」
男が話し終わると、蒼の瞳に明らかな不快の色を示して少女は言う。
先ほど縋りついてきた時と同じ瞳とは思えない位、強い意志を宿らせた瞳だった。
「どうして?」
「貴方の自由を奪ってる」
「ルネ、私の自由は私の意志では決められないのだよ」
「そんなの・・・」
「私は本当は誰かを愛してはいけない立場の人間なのだから」
「そんなのおかしい!貴方の人生は貴方のものよ!」
「違うんだよ、ルネ。私の人生はあの方のものなのだよ」
自分を絶対的に必要としている"あの方"をこの国の王に据え、それと共に自分が在ること。
それ以外は意味を持たず、少女を愛している事も何もかも、全てその目的に繋がるものでなければならない。
「それにあの方に仕えていたから私はこの地に在ることができて、君を出遭えたのだよ」
「違うわ、例え貴方がこの地に居なかったとしても、私は貴方を見つけたわ。
それが世界の果てだとしても、私は貴方を探し出すわ!」
なだめるように男が言うと、その強い意志を持った瞳はすかさず言い返してくる。
そんな運命論、と鼻白む思いがしたが、恋する娘はこの手の話が好きだ。そのことには触れず、男は続ける。
「私達のこと、誰にも話してはいけないと言ったよね?もし話せば会う事ができなくなるとも...」
本当は問い詰めたい気持ちであったが、そんなことはおくびにも出さず穏やかに問う。
歳若い恋人は男への激しい愛情を止められず、語調を強くする。
「確かに、昨日伯父様にしばらく貴方に会ってはいけないと言われたわ...」
「ほら、僕の言った通りに...」
「けれど!伯父様の言葉なんて関係ないわ!私は馬も駆れるし、どこまでも行けるわ。
私が貴方に会いたいと思えば、私は貴方に会いに行くわ!」
自分の言葉を遮る少女のその強い意志と気迫に男はいらつきを覚える。
しかし、言い出したら聞かない娘だということは判っているので、話を改める。
「どうして僕達のことを話したの?」
「・・・隠す意味がわからなくなったから。隠す必要がどこにあるの?」
「・・・」
「ねぇ、教えてフランソワ。貴方の主人は誰なの?貴方ほど人を側に置くなんて、よほどの人なのでしょう?」
「ルネ、それは聞かない約束だよ」
「私、貴方の役に立てると思うの。剣も少しは使えるし、馬だって誰より速く駆れるわ。
あの家を出たっていい。貴方の側にいて、役に立ちたいわ」
面白い少女だと思った。男は少女のこういう所に惹かれていた。
凡庸な娘と同じように夢見がちな所もある。しかし幼くして両親を亡くした事も関係しているのだろうか、
神に祈っても何も変わらないことも知っている。
ただの愚かな女であれば2,3度の情事の後適当な理由をつけて会うことも無くなるが、
少女は歳に似合わぬ考えを持ち、磨けば確実に輝く美貌と男を魅惑する肉体を持っている。
彼女と話をすると王弟に教鞭を執る時と同じように、ぞくりとする予感を男は覚えていた。
「私にできることはないの?」
その真摯な少女の問いに男は自分の試案を少しだけ口にすることにした。
「...まだ早いんだ」
「早い?」
「そう、だがいずれ君が必要となる時が来る。その時まで待って欲しい」
「待っているだけでは、叶わないことが多いわ」
「私は必ず君を迎えに来るから」
「本当に?信じていいの?」
「ああ、信じて。私を愛しているなら信じて欲しい」
納得はしていないようだが、静かに頷き男を見つめる。その憂いを含み愛するものにだけ向ける瞳の揺らぎ。
この少女ならフィリップ様への奉仕を自分への愛として喜んで受け入れるだろう。
その確信に男の欲情の火がまた灯る。
森の神達に彼女の素肌を再び晒し、愛撫に震える可愛らしい声を響かせる。
その行為の中でも男は冷静に計画を思案する。
次に移る場所では急がなくては・・・
もうあの方の存在が明るみになるのも時間の問題だ。
Athos-Ⅲ
柔らかい日差しが降り注ぐ午後、二人の銃士は相も変わらず馬の世話に精を出している
小さな銃士の後ろ姿を窓から眺めていた。
「あれからそろそろ1ヶ月か」
「そうだな」
「アラミスの様子はどうだ?」
「何も変わりない」
「そりゃよかったじゃないか。ずいぶん顔色も良くなったしな。
前に比べれば大分食べるようになったし・・・」
「ああ、それに夜もよく眠ってる」
にやりと笑い、楽しげな視線をポルトスは返した。
アトスは自分の言葉の含む意味に気が付き、はっと上気する。
そそくさと目線を泳がせると、ちょうど振り返ったアラミスと目が合った。
照れたように小さく笑みを浮かべると、同じく微笑みを浮かべ、潤んだ瞳に意味を込めて見つめ返してきた。
以前は人を拒絶する表情を浮かべ、そっけなく背を向けた事を思い出す。
「あんなにわかりやすいヤツだったとはなぁ」
ポルトスが後ろから肩を組み、からかうように声をかけてきた。
にっこりとした笑みを浮かべ、ひらひらとアラミスに手を振ると無邪気に笑顔を返してくる。
確かにアラミスがこんなにも感情を素直に表すとは意外だった。
自分と時間を過ごす時の輝くような笑顔や、懇意にしている婦人の話をすると途端に不機嫌になる唇、
侮辱された時の怒りに燃える瞳も、一つ一つの挙動に驚かされ、その度に愛しさが増していく。
だからこそ、殊更それを抑えこんでいた存在の大きさに脅かされる。
自分も愛を分かち合った人を失うと共に、感情を失った日々があったことが思い出される。
思案に浸り黙ってしまったアトスに、ポルトスはポツリと尋ねた。
「銃士は続けさせるのか?」
「・・・」
「あの占い師の言ったこと、忘れたのか?」
「いや」
「だったら・・・」
「・・・そうだな。そうなんだが・・・」
そこまで言うと、アトスは大きくため息をついた。
記憶を消し去る。銃士を辞めさせる。
確かに、苦しみからも、危険な職務からも解放することができる。
だがそれは、本当にアラミスにとって幸せであるのだろうか?
このことを考え出すと、堂々巡りに陥ってしまう。
再び黙りこくってしまったアトスに、「お前は考え過ぎだ」と言おうとしたポルトスだったが言葉を飲み込んだ。
そして身動きの取れずにいる肩を2,3度叩くと、もう一度外に視線を向け、
眼下の小さな銃士と無二の友人の幸せが続くようにと静かに願うことにした。
*****
部屋の中から食欲をそそる良い匂いが流れてくる。
夜の帳が下り、優しく幸せな時間が始まっていた。
そっと中の様子をアトスが伺うと、細く白い指先から流れる血を食い入るように見つめる姿があった。
「アラミス!?」
「・・・アトス?」
「お、お前、大丈夫か?」
「?・・・いや、ちょっと包丁がひっかかっただけだよ。大袈裟だね」
「あ、ああ。いや、すぐ血を止めないと」
「大丈夫だって。すぐ止まるよ」
「ああ、かせ。ほら」
視界に鮮やな赤が残ったまま、アトスの黒髪と重なる。
自分の指を強く押さえ必死に止血しようとするアトスの姿に、アラミスはくすくすを笑いを立て、
甘えるように覗き込んだ。
「ね。アトスも明日、非番だよね?」
「ん?ああ」
「遠乗りに出かけない?僕、思いっきり馬を走らせたいな」
「あ、ああ、そうしよう。明日もきっと晴れるだろうから」
「うん!」
喜びを一杯に表し、自分を見上げてくる瞳に優しく微笑み返す。
明日も晴れることを祈って、アトスはアラミスの額にそっと口付けを落とした。
*****
次の日の朝、日が昇るとともに二人はパリを抜け出した。
思い切り馬を走らせる。
女であることを隠すための男装ではないので豊かな膨らみがそのままに、馬上で揺れる。
風に舞う金髪と、それに彩られた白い肌、高潮した頬に乗せた笑顔を独占できることに、
アトスは不思議な高揚感を覚えていた。
昼を過ぎた頃、静かな森で休憩を取ることにした。
小さな泉で無邪気に遊ぶ姿は少女にしか見えず、アトスは愛しさに目を細める。
「アトス、どうしたの?」
「いや。随分活き活きとしてるなと思ってね」
「うん、パリも嫌いじゃないんだけどね。人の多さとかに少しだけ疲れるんだ」
「そうか・・・。アラミス、君の故郷はどんな所なんだい?」
「僕の故郷はね・・・」
肩を並べ笑顔で自分の故郷の話をする表情に見入っていると、
いつの間にか木々の隙間に重たい雲が張り出し、湿った風が吹き始めていた。
「何だか嫌な天気になっちゃったね」
「そうだな。雨が降る前に帰るか」
「残念だな・・・」
「雨に濡れて風邪でもひいたら大変だろう?遠乗りならまた来ればいい」
「うん・・・」
駄々をこねるような口ぶりに、アトスはなだめるように髪を梳くと体の線を隠すため
ふわり自分の外套をかけ、優しく抱きしめた。
その時、草を分ける音がし振り返った二人が見たのは片手には血塗られた剣を持ち、
片手に金目と思われるものをぶら下げた男の姿だった。
「・・・盗賊?」
アラミスが、つぶやく。
その蒼の瞳は血塗られた赤をヌラヌラと映していた。
Athos-Ⅳ
この記憶は刃の鈍色に渦巻く血の赤色に巣食われているわ。
そのような状況に遭う環境からは遠ざけてあげなさい。
私も万能ではないのだから・・・
占い師の声が遠くで聞こえた気がした。
*****
「待て!!」
瞬間、アラミスは飛び出した。
男は踵を返し、森の中に逃げこもうとする。
「やめろ!アラミス!!」
「なぜ!?あれは間違いなく物盗りの類だ!」
「お前には関係ないだろう!」
「何を言ってるんだ!?放っておくわけにいかない!」
言い放つとアラミスは男を追って走り出した。
アトスもその後を必死に追う。だがすぐにその足は鈍り、アラミスの姿を見失った。
森の中はむき出しになった木の根があり、くぼみもあれば段差もある。
太陽は厚い雲に覆われ、小さな闇さえ落ちている。
だが、アラミスは小柄な体を巧みに使い、恐るべき速さで森を駆け抜けた。
やがて藪を抜けた先の開けた一帯でアラミスが見たのは、折り重なるように
倒れている男と、女。そしてそれを囲むように群がる賊達だった。
賊の頭と思われる男が、森の抜け道を探りに出したはずの手下の姿を見つけ、いぶかし気な声をあげた。
「どうしたんだ?」
「いや、それが・・・」
「・・・何だその小僧は?」
逃げ戻った手下の後ろには、匂い立つような美貌を持った小さな剣士が細い肩を大きく上下させていた。
「・・・よく見りゃ女じゃねぇか、そいつ」
「何?」
「へっ、面白いもんを連れてきてくれたな」
下卑た笑いを浮かべ、だらしなく下半身を晒したまま男はアラミスに近づいてきた。
「貴様ら・・・」
目の前に広がる凄惨な図に、大きく見開かれた蒼の瞳に怒りの炎がたぎる。
だが、同時に戸惑いの呻き声がその柔らかな唇から漏れた。
傷つき、血にまみれ倒れた男。
男の名前を呼びながら、必死の抵抗の中、賊達に蹂躙される女。
頭の中に警報が鳴り響く。
知っている・・・自分はこの光景を知っている・・・!
大きく息があがり、身体が固まる。
それを自分達に対する恐怖に取り付かれたと思い込み、賊達は上機嫌な声を上げた。
「あ~あ、足が竦んじゃったかなぁ。お嬢さん」
歓喜の声をあげ、賊達が襲い掛かる。
あっという間に四肢が押さえつけられ、白い素肌が晒された。
・・・知ってる・・・私は・・・
その時、ぼやける視界に鮮やかな赤が飛び散った。
「・・・!!」
アトスの剣が次々と賊の身体に突き刺さる。
その度に鮮やかな赤が視界を彩り、やがて蒼の瞳には一面沈黙と暗闇のみが支配した世界が映った。
その闇の中に倒れていたのは・・・
「フランソワ・・・」
搾り出すように零れた声は、静かになった森の空気を小さく震わせた。
*****
襲われていたのはパリに向かっていた貴族夫婦だった。
駆けつけた銃士達に保護され、二人は深く傷付きながらも一命を取り留めることができた。
「アトス、無事か?」
「ポルトス・・・」
「馬車が襲撃を受けていると知らせが入ったんだ。お前達二人とまさか鉢合う事になってるとは・・・」
「・・・」
「アラミスは?」
アトスは黙ったまま、目線を少し先の樹の根元で揺れる金の髪に向けた。
「まさか・・・」
その言葉にアトスは応えず、ただ首を横に振る。
ポルトスは項垂れて、息を一つ吐くと苛ついた視線を返した。
樹の端から見える細い後肩は震えているように見える。
ゆっくりと歩を進め、白く晒したままの小さな肩に上着を掛けようとしたアトスの手は、
ぱしりと拒否された。
「僕に何をした・・・?」
「・・・」
「何をした!!?」
ざわざわと梢が鳴る中、唇をかみしめた強い視線が突き刺さる。
アトスは思わず眼を伏せ、次の言葉を継げないまま立ち竦んでいた。
Athos-Ⅴ
何日か前から降り出した雨はやむことなくパリの街を濡らしていた。
アトスは銃士隊の詰め所の窓から霞む街をぼんやりと見つめ、思案から抜け出せずにいた。
アラミスはあの日から休暇を取ったままだった。
昨夜、迷いながらも訪ねた時に家に小さく灯った明かりにほっとし、
だが合わせる顔が無くそのまま踵を返してしまった。
数日前まで二人で過ごした幸福な時間が心に流れ込んできて、足元を鈍らせる。
温もりを知ってしまった一人の夜の孤独に呑み込まれたまま止まない雨の朝を迎える日々は、
アトスの瞳を曇らせていた。
頁の進まない本に視線を落とし、それでもゆっくりと文字を追っていると
聞き知ったブーツの鳴る音が聞こえてきた。
小さく扉を叩く音が心に響く。
oui、と応えると扉の向こうから冷たい空気が流れ込んできた。
白い肌をうっすらと上気させ、金の髪に小さく雫を絡ませた蒼の瞳がそこにはあった。
「アラミス・・・」
アトスが小さく呟く。
応えるように視線を泳がせるとアトスの傍にゆっくりと寄る。
つ、と差し出した腕にはよく使い込まれた彼の外套があった。
「これ、借りたままだったから」
「あ、ああ・・・」
「直してもらってたんだけど、やっぱり少し傷が残ったみたいで・・・
気に入らなかったら言って。次の給料が出たら新しく仕立てて貰うから」
「そんなこと・・・気にしなくてもいい。それより・・・」
髪も服もしっとりと濡れた姿の艶めきにアトスは小さく目眩を覚える。
その想いを振り払い、言葉を続ける。
「アラミス、外套を着てこなかったのか?こんなに濡れて・・」
「・・・家を出る時は雨が止んでたから」
「だったら・・・途中で降り出したのなら、この外套を使えばよかったのに」
「・・・それはできないよ」
「・・・」
「できないよ」
そこに含んだ意味に、アトスの心に痛みが走る。
そして黙って伏せられた視線に熱をはらんだ言葉がふわりと被さる。
「僕はそんなに強い人間じゃないから・・・」
その顔を見やる。
ふと思う。アラミスはこんな顔をしていただろうか?
人を拒絶していた顔、素直に自分への気持ちを表した顔、
そのどちらでもない、戸惑いと抵抗の間でゆらゆらと揺れる表情に
アトスは静かに、深く溺れる感覚を覚えながら見入っていた。
「アラミス」
改めて、その名前を呼ぶ。
愛しさを精一杯込めて。
夢のように響く声に応えるようにアラミスはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「アトス・・・君と過ごした1ヶ月、僕は幸福だった。鉛を飲み込んだような日々から解放されて、
身体も心も軽くて・・・、空は青くて、水は美味しくて笑い合えることが楽しくて・・・」
「・・・」
「けれど、心も身体も軽いんだけど・・・何か大切なものを失くした
ような気がずっとしてて・・・」
「・・・」
「忘れてしまいたいって思ったことも何度もあったけど・・・」
「・・・」
「忘れてしまうことが、こんなに寂しいことだったなんて・・・」
そこまで言うとアラミスは小さく息をついた。
続ける言葉を捜したまま視線を伏せた蒼に、アトスは声を落とす。
「すまない、勝手なことをして」
「・・・ううん、いいんだ」
「・・・」
「僕にとって・・・何が大切なのかわかったから」
「・・・そうか」
そして外套を持ち主の手に渡すと、金髪を揺らして部屋を出ようとする。
ゆっくりと、その足が止まり、華奢な背中が少しだけ震えた。
「アトス・・・」
「何だ?」
「君と過ごした1ヶ月は・・・楽しかった。あんな日がいつか来るといいなって・・・思うよ」
「アラ・・・」
「ごめん。ずるい言い方だよね」
そこまで言うと急ぎ、部屋を出ようとすると時同じくして入ってきたポルトスにぽすんとぶつかる。
「アラミス・・・」
「やあ、ポルトス」
「お前、・・・も、もう大丈夫なのか?」
困った表情を浮かべるポルトスに、小さくアラミスは微笑みを返した。
「ポルトス、君が教えてくれた兎シチューの美味しいお店、また行きたいな」
「あ、ああ?もちろんいいが・・・」
「それじゃ、僕は今日は帰るから」
肩を軽く叩き、アラミスは少しだけ急いだ足取りでその場を離れていく。
過去を背負いながら、現在を生きること。
それを受け入れられるようになるにはまだ時間が必要だけど、前よりも自然に笑えるようになるかもしれない。
彼らが三銃士を呼ばれるようになったのは、それから少し後のことだった。
(Fin)
柔らかい日差しが降り注ぐ午後、二人の銃士は相も変わらず馬の世話に精を出している
小さな銃士の後ろ姿を窓から眺めていた。
「あれからそろそろ1ヶ月か」
「そうだな」
「アラミスの様子はどうだ?」
「何も変わりない」
「そりゃよかったじゃないか。ずいぶん顔色も良くなったしな。
前に比べれば大分食べるようになったし・・・」
「ああ、それに夜もよく眠ってる」
にやりと笑い、楽しげな視線をポルトスは返した。
アトスは自分の言葉の含む意味に気が付き、はっと上気する。
そそくさと目線を泳がせると、ちょうど振り返ったアラミスと目が合った。
照れたように小さく笑みを浮かべると、同じく微笑みを浮かべ、潤んだ瞳に意味を込めて見つめ返してきた。
以前は人を拒絶する表情を浮かべ、そっけなく背を向けた事を思い出す。
「あんなにわかりやすいヤツだったとはなぁ」
ポルトスが後ろから肩を組み、からかうように声をかけてきた。
にっこりとした笑みを浮かべ、ひらひらとアラミスに手を振ると無邪気に笑顔を返してくる。
確かにアラミスがこんなにも感情を素直に表すとは意外だった。
自分と時間を過ごす時の輝くような笑顔や、懇意にしている婦人の話をすると途端に不機嫌になる唇、
侮辱された時の怒りに燃える瞳も、一つ一つの挙動に驚かされ、その度に愛しさが増していく。
だからこそ、殊更それを抑えこんでいた存在の大きさに脅かされる。
自分も愛を分かち合った人を失うと共に、感情を失った日々があったことが思い出される。
思案に浸り黙ってしまったアトスに、ポルトスはポツリと尋ねた。
「銃士は続けさせるのか?」
「・・・」
「あの占い師の言ったこと、忘れたのか?」
「いや」
「だったら・・・」
「・・・そうだな。そうなんだが・・・」
そこまで言うと、アトスは大きくため息をついた。
記憶を消し去る。銃士を辞めさせる。
確かに、苦しみからも、危険な職務からも解放することができる。
だがそれは、本当にアラミスにとって幸せであるのだろうか?
このことを考え出すと、堂々巡りに陥ってしまう。
再び黙りこくってしまったアトスに、「お前は考え過ぎだ」と言おうとしたポルトスだったが言葉を飲み込んだ。
そして身動きの取れずにいる肩を2,3度叩くと、もう一度外に視線を向け、
眼下の小さな銃士と無二の友人の幸せが続くようにと静かに願うことにした。
*****
部屋の中から食欲をそそる良い匂いが流れてくる。
夜の帳が下り、優しく幸せな時間が始まっていた。
そっと中の様子をアトスが伺うと、細く白い指先から流れる血を食い入るように見つめる姿があった。
「アラミス!?」
「・・・アトス?」
「お、お前、大丈夫か?」
「?・・・いや、ちょっと包丁がひっかかっただけだよ。大袈裟だね」
「あ、ああ。いや、すぐ血を止めないと」
「大丈夫だって。すぐ止まるよ」
「ああ、かせ。ほら」
視界に鮮やな赤が残ったまま、アトスの黒髪と重なる。
自分の指を強く押さえ必死に止血しようとするアトスの姿に、アラミスはくすくすを笑いを立て、
甘えるように覗き込んだ。
「ね。アトスも明日、非番だよね?」
「ん?ああ」
「遠乗りに出かけない?僕、思いっきり馬を走らせたいな」
「あ、ああ、そうしよう。明日もきっと晴れるだろうから」
「うん!」
喜びを一杯に表し、自分を見上げてくる瞳に優しく微笑み返す。
明日も晴れることを祈って、アトスはアラミスの額にそっと口付けを落とした。
*****
次の日の朝、日が昇るとともに二人はパリを抜け出した。
思い切り馬を走らせる。
女であることを隠すための男装ではないので豊かな膨らみがそのままに、馬上で揺れる。
風に舞う金髪と、それに彩られた白い肌、高潮した頬に乗せた笑顔を独占できることに、
アトスは不思議な高揚感を覚えていた。
昼を過ぎた頃、静かな森で休憩を取ることにした。
小さな泉で無邪気に遊ぶ姿は少女にしか見えず、アトスは愛しさに目を細める。
「アトス、どうしたの?」
「いや。随分活き活きとしてるなと思ってね」
「うん、パリも嫌いじゃないんだけどね。人の多さとかに少しだけ疲れるんだ」
「そうか・・・。アラミス、君の故郷はどんな所なんだい?」
「僕の故郷はね・・・」
肩を並べ笑顔で自分の故郷の話をする表情に見入っていると、
いつの間にか木々の隙間に重たい雲が張り出し、湿った風が吹き始めていた。
「何だか嫌な天気になっちゃったね」
「そうだな。雨が降る前に帰るか」
「残念だな・・・」
「雨に濡れて風邪でもひいたら大変だろう?遠乗りならまた来ればいい」
「うん・・・」
駄々をこねるような口ぶりに、アトスはなだめるように髪を梳くと体の線を隠すため
ふわり自分の外套をかけ、優しく抱きしめた。
その時、草を分ける音がし振り返った二人が見たのは片手には血塗られた剣を持ち、
片手に金目と思われるものをぶら下げた男の姿だった。
「・・・盗賊?」
アラミスが、つぶやく。
その蒼の瞳は血塗られた赤をヌラヌラと映していた。
Athos-Ⅳ
この記憶は刃の鈍色に渦巻く血の赤色に巣食われているわ。
そのような状況に遭う環境からは遠ざけてあげなさい。
私も万能ではないのだから・・・
占い師の声が遠くで聞こえた気がした。
*****
「待て!!」
瞬間、アラミスは飛び出した。
男は踵を返し、森の中に逃げこもうとする。
「やめろ!アラミス!!」
「なぜ!?あれは間違いなく物盗りの類だ!」
「お前には関係ないだろう!」
「何を言ってるんだ!?放っておくわけにいかない!」
言い放つとアラミスは男を追って走り出した。
アトスもその後を必死に追う。だがすぐにその足は鈍り、アラミスの姿を見失った。
森の中はむき出しになった木の根があり、くぼみもあれば段差もある。
太陽は厚い雲に覆われ、小さな闇さえ落ちている。
だが、アラミスは小柄な体を巧みに使い、恐るべき速さで森を駆け抜けた。
やがて藪を抜けた先の開けた一帯でアラミスが見たのは、折り重なるように
倒れている男と、女。そしてそれを囲むように群がる賊達だった。
賊の頭と思われる男が、森の抜け道を探りに出したはずの手下の姿を見つけ、いぶかし気な声をあげた。
「どうしたんだ?」
「いや、それが・・・」
「・・・何だその小僧は?」
逃げ戻った手下の後ろには、匂い立つような美貌を持った小さな剣士が細い肩を大きく上下させていた。
「・・・よく見りゃ女じゃねぇか、そいつ」
「何?」
「へっ、面白いもんを連れてきてくれたな」
下卑た笑いを浮かべ、だらしなく下半身を晒したまま男はアラミスに近づいてきた。
「貴様ら・・・」
目の前に広がる凄惨な図に、大きく見開かれた蒼の瞳に怒りの炎がたぎる。
だが、同時に戸惑いの呻き声がその柔らかな唇から漏れた。
傷つき、血にまみれ倒れた男。
男の名前を呼びながら、必死の抵抗の中、賊達に蹂躙される女。
頭の中に警報が鳴り響く。
知っている・・・自分はこの光景を知っている・・・!
大きく息があがり、身体が固まる。
それを自分達に対する恐怖に取り付かれたと思い込み、賊達は上機嫌な声を上げた。
「あ~あ、足が竦んじゃったかなぁ。お嬢さん」
歓喜の声をあげ、賊達が襲い掛かる。
あっという間に四肢が押さえつけられ、白い素肌が晒された。
・・・知ってる・・・私は・・・
その時、ぼやける視界に鮮やかな赤が飛び散った。
「・・・!!」
アトスの剣が次々と賊の身体に突き刺さる。
その度に鮮やかな赤が視界を彩り、やがて蒼の瞳には一面沈黙と暗闇のみが支配した世界が映った。
その闇の中に倒れていたのは・・・
「フランソワ・・・」
搾り出すように零れた声は、静かになった森の空気を小さく震わせた。
*****
襲われていたのはパリに向かっていた貴族夫婦だった。
駆けつけた銃士達に保護され、二人は深く傷付きながらも一命を取り留めることができた。
「アトス、無事か?」
「ポルトス・・・」
「馬車が襲撃を受けていると知らせが入ったんだ。お前達二人とまさか鉢合う事になってるとは・・・」
「・・・」
「アラミスは?」
アトスは黙ったまま、目線を少し先の樹の根元で揺れる金の髪に向けた。
「まさか・・・」
その言葉にアトスは応えず、ただ首を横に振る。
ポルトスは項垂れて、息を一つ吐くと苛ついた視線を返した。
樹の端から見える細い後肩は震えているように見える。
ゆっくりと歩を進め、白く晒したままの小さな肩に上着を掛けようとしたアトスの手は、
ぱしりと拒否された。
「僕に何をした・・・?」
「・・・」
「何をした!!?」
ざわざわと梢が鳴る中、唇をかみしめた強い視線が突き刺さる。
アトスは思わず眼を伏せ、次の言葉を継げないまま立ち竦んでいた。
Athos-Ⅴ
何日か前から降り出した雨はやむことなくパリの街を濡らしていた。
アトスは銃士隊の詰め所の窓から霞む街をぼんやりと見つめ、思案から抜け出せずにいた。
アラミスはあの日から休暇を取ったままだった。
昨夜、迷いながらも訪ねた時に家に小さく灯った明かりにほっとし、
だが合わせる顔が無くそのまま踵を返してしまった。
数日前まで二人で過ごした幸福な時間が心に流れ込んできて、足元を鈍らせる。
温もりを知ってしまった一人の夜の孤独に呑み込まれたまま止まない雨の朝を迎える日々は、
アトスの瞳を曇らせていた。
頁の進まない本に視線を落とし、それでもゆっくりと文字を追っていると
聞き知ったブーツの鳴る音が聞こえてきた。
小さく扉を叩く音が心に響く。
oui、と応えると扉の向こうから冷たい空気が流れ込んできた。
白い肌をうっすらと上気させ、金の髪に小さく雫を絡ませた蒼の瞳がそこにはあった。
「アラミス・・・」
アトスが小さく呟く。
応えるように視線を泳がせるとアトスの傍にゆっくりと寄る。
つ、と差し出した腕にはよく使い込まれた彼の外套があった。
「これ、借りたままだったから」
「あ、ああ・・・」
「直してもらってたんだけど、やっぱり少し傷が残ったみたいで・・・
気に入らなかったら言って。次の給料が出たら新しく仕立てて貰うから」
「そんなこと・・・気にしなくてもいい。それより・・・」
髪も服もしっとりと濡れた姿の艶めきにアトスは小さく目眩を覚える。
その想いを振り払い、言葉を続ける。
「アラミス、外套を着てこなかったのか?こんなに濡れて・・」
「・・・家を出る時は雨が止んでたから」
「だったら・・・途中で降り出したのなら、この外套を使えばよかったのに」
「・・・それはできないよ」
「・・・」
「できないよ」
そこに含んだ意味に、アトスの心に痛みが走る。
そして黙って伏せられた視線に熱をはらんだ言葉がふわりと被さる。
「僕はそんなに強い人間じゃないから・・・」
その顔を見やる。
ふと思う。アラミスはこんな顔をしていただろうか?
人を拒絶していた顔、素直に自分への気持ちを表した顔、
そのどちらでもない、戸惑いと抵抗の間でゆらゆらと揺れる表情に
アトスは静かに、深く溺れる感覚を覚えながら見入っていた。
「アラミス」
改めて、その名前を呼ぶ。
愛しさを精一杯込めて。
夢のように響く声に応えるようにアラミスはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「アトス・・・君と過ごした1ヶ月、僕は幸福だった。鉛を飲み込んだような日々から解放されて、
身体も心も軽くて・・・、空は青くて、水は美味しくて笑い合えることが楽しくて・・・」
「・・・」
「けれど、心も身体も軽いんだけど・・・何か大切なものを失くした
ような気がずっとしてて・・・」
「・・・」
「忘れてしまいたいって思ったことも何度もあったけど・・・」
「・・・」
「忘れてしまうことが、こんなに寂しいことだったなんて・・・」
そこまで言うとアラミスは小さく息をついた。
続ける言葉を捜したまま視線を伏せた蒼に、アトスは声を落とす。
「すまない、勝手なことをして」
「・・・ううん、いいんだ」
「・・・」
「僕にとって・・・何が大切なのかわかったから」
「・・・そうか」
そして外套を持ち主の手に渡すと、金髪を揺らして部屋を出ようとする。
ゆっくりと、その足が止まり、華奢な背中が少しだけ震えた。
「アトス・・・」
「何だ?」
「君と過ごした1ヶ月は・・・楽しかった。あんな日がいつか来るといいなって・・・思うよ」
「アラ・・・」
「ごめん。ずるい言い方だよね」
そこまで言うと急ぎ、部屋を出ようとすると時同じくして入ってきたポルトスにぽすんとぶつかる。
「アラミス・・・」
「やあ、ポルトス」
「お前、・・・も、もう大丈夫なのか?」
困った表情を浮かべるポルトスに、小さくアラミスは微笑みを返した。
「ポルトス、君が教えてくれた兎シチューの美味しいお店、また行きたいな」
「あ、ああ?もちろんいいが・・・」
「それじゃ、僕は今日は帰るから」
肩を軽く叩き、アラミスは少しだけ急いだ足取りでその場を離れていく。
過去を背負いながら、現在を生きること。
それを受け入れられるようになるにはまだ時間が必要だけど、前よりも自然に笑えるようになるかもしれない。
彼らが三銃士を呼ばれるようになったのは、それから少し後のことだった。
(Fin)
Athos-Ⅰ
「記憶操作?」
厚い雲が空を覆い始めた昼下がり、暇を持て余して雑談をする銃士の中の一人が
"面白い話を聞いた"と話題を提供したのが事の始まりだった。
「その御婦人には忘れられない男性が居たらしく、
それをどうしても許せなかった婚約者がある占い師に頼んだらしい。
最初は自分の行く末を占ってもらうだけのつもりだったらしいがな」
「それで、どうなったんだ?」
「御婦人は昔の男のことなぞ、すっかりと忘れてしまったとさ」
「まさか」
「いや、それがまるで覚えていないそうだ。その男との記憶だけすっぽりと抜けているとか」
「そんな馬鹿な」
「今では二人はそれは仲睦まじい夫婦となったようだぞ」
「へ~、そんなことができるなら俺も忘れさせて欲しい女がいるんだけどな~」
「お前の場合は騙されただけだろう」
「俺なりに真剣だったんだぞ!」
俺も俺も、と皆が騒ぎ始めるのを横目に一人の黒髪の銃士はぼんやりと
窓の外で馬の世話をしている金髪の銃士に目をやった。
まだ幼さが残る顔は、張り詰めた絹糸を思わせる。
ふ、と蒼の目がこちらを振り返り、しばし怪訝な顔を造るとまたこちらに背を向けて、
じゃれつく馬を鎮めるようその背を撫でる。
斜め見えた笑顔にアトスは小さくため息をついた。
*****
「おい、アトス。雨が降り出しそうだぞ」
「・・・ああ、そろそろ行くか」
「何だよ、ぼんやりして」
「・・・」
「何を考えてる?」
「・・・いや」
「・・・・・俺は思ったよ。その占い師を探し出してアラミスを突き出してやりたいってね」
「・・・ポルトス?」
「まぁ俺は友人として、だけどな」
「・・・」
「アラミスの奴、不安定で見てられないよな。自分を痛めつけるようなことばかりして」
そう言うと大きな体を屈め、相変わらず馬の世話に没頭している小さな銃士に目線をやった。
「何が、・・・誰があいつを追い詰めているんだろうなぁ。
そいつの記憶がアラミスの中から消えれば、あいつ楽になれるんじゃないかって・・・思ったんだろ?」
この友人にはお見通しか・・・とアトスは小さく苦笑するとぽつりと言葉を紡いだ。
「そうだな。・・・だがそれが正しいことなんだろうか?」
「さぁ。どうだろうな」
「・・・」
「・・・アトス、お前は物事を難しく考えすぎだよ」
「・・・そうかもな」
「好きなら自分のものにしたいと思うのは当然だろう?」
「当然、か。だが強引に手に入れてもいつか相手を傷つけることになるんじゃないかってね」
「・・・お前、まだ」
続く言葉を制するように首が降られるのを見て、
ポルトスは何とも言えない顔で頭を掻いた。
「悪い」
「いや、君の想像通りだよ。我ながら女々しいとは思うがね」
自嘲気味に言うと、帽子を被り足早に部屋を後にする。
その姿と窓の外に見えるアラミスの姿を交互に見て、巨躯の銃士は大きく肩を竦めてため息をついた。
*****
その日の夜は嵐だった。
窓に打ち付ける風を見やりながらアトスはある貴族の屋敷に身を潜めていた。
傍には冴え冴えとした顔をした金髪の銃士が瞳にゆらゆらと炎を湛え、じっと息を殺している。
最近パリを荒らし廻っている盗賊団が、次はこの屋敷に出るとの情報が入ってからしばらく、
此処に泊り込みをする日々が続いていた。
「アラミス、少し眠ったらどうだ?」
「・・・僕はいい。起きてるからアトスこそ寝なよ」
「そう言って、昨日もほとんど眠ってないだろう?」
「そんなことないよ」
「・・・体がもたないぞ?」
「平気だよ」
「アラミス・・・」
今日こそは無理にでも眠らせようとアトスがその細い肩に手を掛けようとした、その時だった。
遠くで何かが割れる音が響くと、はじかれるようにアラミスは飛び出していった。
掛けようとした手が空を切り遅れを取ったアトスは急ぎ後を追おうとするが、その途中に倒れていた館の主人に
足を取られ手間取っていると、別の部屋で待機していたポルトスが駆けつけてきた。
「アトスっ!」
「ポルトスっ、主人を頼む!」
「あ、おいっ!アトス!」
上がる息を押さえつけ、アラミスの後を追う。
嫌な予感が胸に走り始めると同時に鼻につく血の匂いが漂い始めていた。
「アラミスっ!」
闇に浮かぶ金が目に入り、声を掛けた先に居た銃士は体中にたっぷりと血を滴らせ、佇んでいた。
足元にはごろごろと、もう二度と動かぬ人間だったモノ、が転がっている。
それをじっ、と見下ろしたまま、やがて自分に声を掛けた相手に振り向くと何も映さない瞳であたりを見渡した。
「これでいいかな?」
「・・・?」
「これで、私の復讐は終り?」
「・・・」
「・・・違うわ」
「・・・」
「あの人を殺したのは誰なのか、私は知らないでしょう?」
「・・・」
「この世の中の"盗賊"を全員殺せば、いいのかな?」
「・・・」
「そうね、そうすればいいんだわ。盗賊と呼ばれる人間を全員殺せば、間違いないもの・・・」
そこまで言うと、アラミスは崩れるように倒れた。
アトスは慌てて血で塗れたその体を受け止めた。
「アトスっ」
遅れて入ってきたポルトスが見たのは、無残にも転がる死体の中で血塗れで気を失っているアラミスを
抱き締めたまま、呆然と動かないアトスだった。
「・・・ア、アトス?これは?」
「アラミスが殺った」
「全員か・・・」
「ああ・・」
「ひどいな、ここまで・・・」
「・・・ポルトス」
「何だ?」
「あの占い師、どこに居るかわかるか?」
「・・・アトス?」
「頼む、調べてくれ。探し出してくれ。頼む」
「アトス・・・」
「・・・もう、限界だ」
「・・・わかった」
Athos-Ⅱ
---忘れてしまえれば、どんなに楽だろうと思った。
けれど、決して失いたくない幸福な記憶だった---
その日は抜けるような青空だった。
薄く差しこむ朝日の眩しさで目を覚ますと、妙に頭がすっきりしてる。
身を起こすと足取りも軽く、朝の支度にかかる。
顔を洗い、髪を整え、着慣れた服を身に付けようと胸の膨らみを抑える布を手に取った。
だが、ふと気が付く。
なぜ自分はこの布を使っているのだろうか?
自分が銃士であることは間違いない。
だからこの服を着ること、羽帽子を被ること、何もおかしい事ではないはずだ。
けれど、なぜ?
女である自分がなぜ銃士隊に出勤しようとしているのだろう?
どこかぽっかりとした空虚感を感じる心と対話していると、戸を叩く音がした。
急ぎ服を身に付け出迎えた相手は、黒髪の銃士だった。
「おはよう、アラミス」
「・・・アトス?おはよう、どうしたの?」
「いや、昨日ずいぶん呑み過ぎた様だったから、起きれるか心配で迎えに来た」
ばつの悪そうな顔で視線を泳がせるアトスを、無垢な蒼でアラミスは見上げる。
呑みすぎ・・・?
首を傾げながら記憶を辿るが、勤務後にアトスとポルトスに呑みにと誘われ向かった先でふつ、と切れていた。
随分と酒が進んでしまったんだな、と心の中で苦笑すると同時にそれを止められなかった事に
責任を感じているのか年上の友人の探るような視線が可笑しくて、軽く反論する。
「何だよ、それ。子ども扱いして」
「いや、お前が遅刻したら俺が隊長に怒られるからな」
「あはは、そうだね」
笑ってアトスの腕を軽く叩くと、優しい藤色の瞳が笑い返してきた。
自分の心臓がびくと鼓を打ち、頬に熱が浮かぶのを感じたアラミスは
思わず目をそらす。
「どうした?」
「え、な・・何でもないよ。待ってね、今出るから」
踵を返しながら、自分の頬の熱が治めるようにと頭を振る。
手に取ると、ふわふわと揺れる羽帽子が鼻をくすぐった。
その羽のように揺れる自分の心に困惑し、アラミスはしばらくその場から動けないでいた。
*****
その日アラミスは一日中落ち着けずにいた。
大好きな馬の世話をしていてもそわそわと、通り過ぎる仲間の銃士達の中に黒髪を探してしまう。
「変だよね、僕・・・」
馬相手に呟くと、その首に抱きつきため息をついた。
やがて通り過ぎる銃士の中で屈託のない笑顔を浮かべる大男と目が合う。
彼は馬達の間にある小さな銃士の存在に気が付くとひらひらと手を振りながら近づいてきた。
「よう、アラミス。相変わらす馬の相手が好きだなぁ」
「ポルトスはもう少し自分の馬に気を使ったほうがいいんじゃない?」
「そうか。こいつは本当によく頑張ってくれてるからな」
「そうだよ。もうちょっと可愛がってやりなよ」
ポルトスはじゃれ付いてくる自分の馬を軽くいなしながら、まるで澄んだ泉のような笑顔を浮かべて
自分と談笑する友人の姿に、こっそりと、しかし大きく安堵していた。
その笑顔がふ、と紅潮する。
ためらいがちに、柔らかな唇がゆっくりとその名を紡いだ。
「あ...アトスは、まだルーブル?」
「ああ、少し野暮用ができてな。残して先に戻ってきた」
「・・・そう」
ポルトスは自分の眼下で小さくふてくされた表情を見取り、
その意味に気が付くと目端に静かに微笑みを浮かべた。
*****
いつの間にかすっかりと日は沈み、明るい光を湛えた月が空に浮かんでいた。
控え室で一人ぼんやりと耽っていたアラミスがふと視線を感じて振り返ると、
自分の物思いの原因がそこにあり、思わず声がうわずる。
「あっ、アトス」
「何をしてるんだ?」
「えっと・・・あの・・・アトスこそ遅かったね」
「ああ、ちょっとな。帰らないのか?」
「うん・・・かえる・・・」
何とも間抜けな応え方をしてしまった自分が恥ずかしくてアラミスは目を伏せたまま立ち上がった。
ぱたぱたとアトスの後を追う。
門をくぐり、通い慣れた路を抜け、セーヌ沿いに出る。
よく知っている景色であるはずなのにアラミスにはまるで見知らぬ街のように見え、
所々に灯る柔らかな明かりがまるで夢の中にいるような気持ちにさせる。
やがて会話が途切れた時、ふと思い出し疑問のままだった事を口にした。
「ねぇアトス、僕が銃士隊に入った理由って知ってる?」
「・・・いや」
「そう。あのさ・・・変なんだけど、わからないんだ」
「・・・」
「どうして僕、銃士隊に居るのかがわからなくって」
「そうか・・・」
アトスにどこか悦びと怯えが混じった表情が浮かんだ。
だが、それには気が付かず、アラミスは自分の記憶を辿るように言葉を続けた。
「僕がパリに出てきたのは16?あれ17の時?えっと、それまでは・・・」
その先の言葉を止めて、アトスを振り返る。この人は自分のことを知っているのだろうか?
故郷で幸せな貴族の娘として在ったことを。つまり、自分が女であることを。
アトスと共にした時間を手繰り、思案したまま黙ったアラミスに視線を落とすと
唐突な言葉をアトスは発した。
「銃士隊、辞めるのか?」
「え?・・・何?」
「いや、どうして銃士隊に居るのかわからなくなったんだろう?
だったら居る意味は無くなったのではないか?」
その言葉を放った本人は、精一杯遠まわしに銃士など辞めて幸せに暮らすことを促していた。
だが、受けた当人にとってはそれはどこか冷たく響き、返す言葉を失い、呆然をしたまま
足止まったアラミスの表情からアトスは自分の言葉の含んだ意味に気が付き、狼狽した。
「いや、そういう意味ではない。私にとって君と一緒に銃士隊の仲間として
過ごせることは有意義なことだ。だが、君にとって・・・」
「僕にとって・・・何?」
自分の感情を理解できないまま、ただそれは高く波打ち、みるみるうちに蒼の瞳が潤う。
アラミスは必死にそれをこらえ、震える唇を引き結んで目を伏せた。
「ご、ごめん。僕、何だか変なんだ」
「アラミス・・・」
「僕・・・アトスのこと・・・」
その先の言葉は続けられず、ただ目元を赤く染め揺らめく瞳と、鼻腔をくすぐる香りに
たまらずアトスは両腕を伸ばして細い体を抱き締めた。
驚き身じろいだが、抗うことはなくアラミスはそのまま身を預ける。
空の月は真実を隠すように霞み、どこかゆらゆらと幻のような光が二人を包んでいた。
「記憶操作?」
厚い雲が空を覆い始めた昼下がり、暇を持て余して雑談をする銃士の中の一人が
"面白い話を聞いた"と話題を提供したのが事の始まりだった。
「その御婦人には忘れられない男性が居たらしく、
それをどうしても許せなかった婚約者がある占い師に頼んだらしい。
最初は自分の行く末を占ってもらうだけのつもりだったらしいがな」
「それで、どうなったんだ?」
「御婦人は昔の男のことなぞ、すっかりと忘れてしまったとさ」
「まさか」
「いや、それがまるで覚えていないそうだ。その男との記憶だけすっぽりと抜けているとか」
「そんな馬鹿な」
「今では二人はそれは仲睦まじい夫婦となったようだぞ」
「へ~、そんなことができるなら俺も忘れさせて欲しい女がいるんだけどな~」
「お前の場合は騙されただけだろう」
「俺なりに真剣だったんだぞ!」
俺も俺も、と皆が騒ぎ始めるのを横目に一人の黒髪の銃士はぼんやりと
窓の外で馬の世話をしている金髪の銃士に目をやった。
まだ幼さが残る顔は、張り詰めた絹糸を思わせる。
ふ、と蒼の目がこちらを振り返り、しばし怪訝な顔を造るとまたこちらに背を向けて、
じゃれつく馬を鎮めるようその背を撫でる。
斜め見えた笑顔にアトスは小さくため息をついた。
*****
「おい、アトス。雨が降り出しそうだぞ」
「・・・ああ、そろそろ行くか」
「何だよ、ぼんやりして」
「・・・」
「何を考えてる?」
「・・・いや」
「・・・・・俺は思ったよ。その占い師を探し出してアラミスを突き出してやりたいってね」
「・・・ポルトス?」
「まぁ俺は友人として、だけどな」
「・・・」
「アラミスの奴、不安定で見てられないよな。自分を痛めつけるようなことばかりして」
そう言うと大きな体を屈め、相変わらず馬の世話に没頭している小さな銃士に目線をやった。
「何が、・・・誰があいつを追い詰めているんだろうなぁ。
そいつの記憶がアラミスの中から消えれば、あいつ楽になれるんじゃないかって・・・思ったんだろ?」
この友人にはお見通しか・・・とアトスは小さく苦笑するとぽつりと言葉を紡いだ。
「そうだな。・・・だがそれが正しいことなんだろうか?」
「さぁ。どうだろうな」
「・・・」
「・・・アトス、お前は物事を難しく考えすぎだよ」
「・・・そうかもな」
「好きなら自分のものにしたいと思うのは当然だろう?」
「当然、か。だが強引に手に入れてもいつか相手を傷つけることになるんじゃないかってね」
「・・・お前、まだ」
続く言葉を制するように首が降られるのを見て、
ポルトスは何とも言えない顔で頭を掻いた。
「悪い」
「いや、君の想像通りだよ。我ながら女々しいとは思うがね」
自嘲気味に言うと、帽子を被り足早に部屋を後にする。
その姿と窓の外に見えるアラミスの姿を交互に見て、巨躯の銃士は大きく肩を竦めてため息をついた。
*****
その日の夜は嵐だった。
窓に打ち付ける風を見やりながらアトスはある貴族の屋敷に身を潜めていた。
傍には冴え冴えとした顔をした金髪の銃士が瞳にゆらゆらと炎を湛え、じっと息を殺している。
最近パリを荒らし廻っている盗賊団が、次はこの屋敷に出るとの情報が入ってからしばらく、
此処に泊り込みをする日々が続いていた。
「アラミス、少し眠ったらどうだ?」
「・・・僕はいい。起きてるからアトスこそ寝なよ」
「そう言って、昨日もほとんど眠ってないだろう?」
「そんなことないよ」
「・・・体がもたないぞ?」
「平気だよ」
「アラミス・・・」
今日こそは無理にでも眠らせようとアトスがその細い肩に手を掛けようとした、その時だった。
遠くで何かが割れる音が響くと、はじかれるようにアラミスは飛び出していった。
掛けようとした手が空を切り遅れを取ったアトスは急ぎ後を追おうとするが、その途中に倒れていた館の主人に
足を取られ手間取っていると、別の部屋で待機していたポルトスが駆けつけてきた。
「アトスっ!」
「ポルトスっ、主人を頼む!」
「あ、おいっ!アトス!」
上がる息を押さえつけ、アラミスの後を追う。
嫌な予感が胸に走り始めると同時に鼻につく血の匂いが漂い始めていた。
「アラミスっ!」
闇に浮かぶ金が目に入り、声を掛けた先に居た銃士は体中にたっぷりと血を滴らせ、佇んでいた。
足元にはごろごろと、もう二度と動かぬ人間だったモノ、が転がっている。
それをじっ、と見下ろしたまま、やがて自分に声を掛けた相手に振り向くと何も映さない瞳であたりを見渡した。
「これでいいかな?」
「・・・?」
「これで、私の復讐は終り?」
「・・・」
「・・・違うわ」
「・・・」
「あの人を殺したのは誰なのか、私は知らないでしょう?」
「・・・」
「この世の中の"盗賊"を全員殺せば、いいのかな?」
「・・・」
「そうね、そうすればいいんだわ。盗賊と呼ばれる人間を全員殺せば、間違いないもの・・・」
そこまで言うと、アラミスは崩れるように倒れた。
アトスは慌てて血で塗れたその体を受け止めた。
「アトスっ」
遅れて入ってきたポルトスが見たのは、無残にも転がる死体の中で血塗れで気を失っているアラミスを
抱き締めたまま、呆然と動かないアトスだった。
「・・・ア、アトス?これは?」
「アラミスが殺った」
「全員か・・・」
「ああ・・」
「ひどいな、ここまで・・・」
「・・・ポルトス」
「何だ?」
「あの占い師、どこに居るかわかるか?」
「・・・アトス?」
「頼む、調べてくれ。探し出してくれ。頼む」
「アトス・・・」
「・・・もう、限界だ」
「・・・わかった」
Athos-Ⅱ
---忘れてしまえれば、どんなに楽だろうと思った。
けれど、決して失いたくない幸福な記憶だった---
その日は抜けるような青空だった。
薄く差しこむ朝日の眩しさで目を覚ますと、妙に頭がすっきりしてる。
身を起こすと足取りも軽く、朝の支度にかかる。
顔を洗い、髪を整え、着慣れた服を身に付けようと胸の膨らみを抑える布を手に取った。
だが、ふと気が付く。
なぜ自分はこの布を使っているのだろうか?
自分が銃士であることは間違いない。
だからこの服を着ること、羽帽子を被ること、何もおかしい事ではないはずだ。
けれど、なぜ?
女である自分がなぜ銃士隊に出勤しようとしているのだろう?
どこかぽっかりとした空虚感を感じる心と対話していると、戸を叩く音がした。
急ぎ服を身に付け出迎えた相手は、黒髪の銃士だった。
「おはよう、アラミス」
「・・・アトス?おはよう、どうしたの?」
「いや、昨日ずいぶん呑み過ぎた様だったから、起きれるか心配で迎えに来た」
ばつの悪そうな顔で視線を泳がせるアトスを、無垢な蒼でアラミスは見上げる。
呑みすぎ・・・?
首を傾げながら記憶を辿るが、勤務後にアトスとポルトスに呑みにと誘われ向かった先でふつ、と切れていた。
随分と酒が進んでしまったんだな、と心の中で苦笑すると同時にそれを止められなかった事に
責任を感じているのか年上の友人の探るような視線が可笑しくて、軽く反論する。
「何だよ、それ。子ども扱いして」
「いや、お前が遅刻したら俺が隊長に怒られるからな」
「あはは、そうだね」
笑ってアトスの腕を軽く叩くと、優しい藤色の瞳が笑い返してきた。
自分の心臓がびくと鼓を打ち、頬に熱が浮かぶのを感じたアラミスは
思わず目をそらす。
「どうした?」
「え、な・・何でもないよ。待ってね、今出るから」
踵を返しながら、自分の頬の熱が治めるようにと頭を振る。
手に取ると、ふわふわと揺れる羽帽子が鼻をくすぐった。
その羽のように揺れる自分の心に困惑し、アラミスはしばらくその場から動けないでいた。
*****
その日アラミスは一日中落ち着けずにいた。
大好きな馬の世話をしていてもそわそわと、通り過ぎる仲間の銃士達の中に黒髪を探してしまう。
「変だよね、僕・・・」
馬相手に呟くと、その首に抱きつきため息をついた。
やがて通り過ぎる銃士の中で屈託のない笑顔を浮かべる大男と目が合う。
彼は馬達の間にある小さな銃士の存在に気が付くとひらひらと手を振りながら近づいてきた。
「よう、アラミス。相変わらす馬の相手が好きだなぁ」
「ポルトスはもう少し自分の馬に気を使ったほうがいいんじゃない?」
「そうか。こいつは本当によく頑張ってくれてるからな」
「そうだよ。もうちょっと可愛がってやりなよ」
ポルトスはじゃれ付いてくる自分の馬を軽くいなしながら、まるで澄んだ泉のような笑顔を浮かべて
自分と談笑する友人の姿に、こっそりと、しかし大きく安堵していた。
その笑顔がふ、と紅潮する。
ためらいがちに、柔らかな唇がゆっくりとその名を紡いだ。
「あ...アトスは、まだルーブル?」
「ああ、少し野暮用ができてな。残して先に戻ってきた」
「・・・そう」
ポルトスは自分の眼下で小さくふてくされた表情を見取り、
その意味に気が付くと目端に静かに微笑みを浮かべた。
*****
いつの間にかすっかりと日は沈み、明るい光を湛えた月が空に浮かんでいた。
控え室で一人ぼんやりと耽っていたアラミスがふと視線を感じて振り返ると、
自分の物思いの原因がそこにあり、思わず声がうわずる。
「あっ、アトス」
「何をしてるんだ?」
「えっと・・・あの・・・アトスこそ遅かったね」
「ああ、ちょっとな。帰らないのか?」
「うん・・・かえる・・・」
何とも間抜けな応え方をしてしまった自分が恥ずかしくてアラミスは目を伏せたまま立ち上がった。
ぱたぱたとアトスの後を追う。
門をくぐり、通い慣れた路を抜け、セーヌ沿いに出る。
よく知っている景色であるはずなのにアラミスにはまるで見知らぬ街のように見え、
所々に灯る柔らかな明かりがまるで夢の中にいるような気持ちにさせる。
やがて会話が途切れた時、ふと思い出し疑問のままだった事を口にした。
「ねぇアトス、僕が銃士隊に入った理由って知ってる?」
「・・・いや」
「そう。あのさ・・・変なんだけど、わからないんだ」
「・・・」
「どうして僕、銃士隊に居るのかがわからなくって」
「そうか・・・」
アトスにどこか悦びと怯えが混じった表情が浮かんだ。
だが、それには気が付かず、アラミスは自分の記憶を辿るように言葉を続けた。
「僕がパリに出てきたのは16?あれ17の時?えっと、それまでは・・・」
その先の言葉を止めて、アトスを振り返る。この人は自分のことを知っているのだろうか?
故郷で幸せな貴族の娘として在ったことを。つまり、自分が女であることを。
アトスと共にした時間を手繰り、思案したまま黙ったアラミスに視線を落とすと
唐突な言葉をアトスは発した。
「銃士隊、辞めるのか?」
「え?・・・何?」
「いや、どうして銃士隊に居るのかわからなくなったんだろう?
だったら居る意味は無くなったのではないか?」
その言葉を放った本人は、精一杯遠まわしに銃士など辞めて幸せに暮らすことを促していた。
だが、受けた当人にとってはそれはどこか冷たく響き、返す言葉を失い、呆然をしたまま
足止まったアラミスの表情からアトスは自分の言葉の含んだ意味に気が付き、狼狽した。
「いや、そういう意味ではない。私にとって君と一緒に銃士隊の仲間として
過ごせることは有意義なことだ。だが、君にとって・・・」
「僕にとって・・・何?」
自分の感情を理解できないまま、ただそれは高く波打ち、みるみるうちに蒼の瞳が潤う。
アラミスは必死にそれをこらえ、震える唇を引き結んで目を伏せた。
「ご、ごめん。僕、何だか変なんだ」
「アラミス・・・」
「僕・・・アトスのこと・・・」
その先の言葉は続けられず、ただ目元を赤く染め揺らめく瞳と、鼻腔をくすぐる香りに
たまらずアトスは両腕を伸ばして細い体を抱き締めた。
驚き身じろいだが、抗うことはなくアラミスはそのまま身を預ける。
空の月は真実を隠すように霞み、どこかゆらゆらと幻のような光が二人を包んでいた。