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「猊下がお待ちではないのか」
 腕の中からの声に、ロシュフォールの指の動きが止まった。

「憎らしいことを言う」

「あなたの弱点だからね」

「生憎だったな。我が猊下は目下、陛下と謁見中だ。故におまえとの時間はたっぷりとあるって訳だ」

「んんっ」

 キュッと長椅子に張られた繻子が音を立てる。

「やめ…」

「アラミス、力を抜いたらどうだ」

「……ったく…」

「そうだ、その眼…」ロシュフォールはアラミスの髪を掻き上げた。

「挑むがいい。おまえのその眼が俺を狂わせる」

 乾いたアラミスの唇を求める。だが、きつく結ばれた唇は男の侵入をがんとして拒んだ。
 その代償としてロシュフォールの指先は、滑るようにアラミスの深淵へと進んでいった。

「…あ…っ」

 長椅子に押しつけられた背中がしなやかに反る。

「そうだ。声を上げろ…俺の腕の中で」

「……ロシュフォール…あなたに…僕が心を許すとでも思っているのか?」

「ん? そうはなるまい、簡単にはな」

 ロシュフォールの唇がアラミスの喉元に触れる。

「………」

「俺は、おまえのこの美しい顔が快楽で歪むのを見たいのだ。
眉間に刻まれる苦悩の表情。額に滲む汗、そういったものすべてが俺のこの手で生み出される。
俺の望みは、悩ましく狂うおまえを見ることだ」

「すごい告白だね。ふふ…たしかに…、僕はあなたの手で乱れるだろう。でも、心まで乱れはしないぞ」

「それでこそ俺のアラミスだな。だからこそおまえがますます欲しくなる」

 アラミスは艶然たる笑みを見せ、腕をロシュフォールのうなじに回した。
 それはロシュフォールが勝ったという訳ではない。ましてアラミスが彼の手に落ちた訳でもない。
 男と女の不可思議な了承であった。
 だから……。
 唇が触れ合い、舌を絡ませ、息を吸う。
 金の髪は絨毯に流れ落ち、描かれたマドンナ・リリーがその中に消える。
 時間が知らぬ間に過ぎて行く二人の秘密の行為。その向こうで小さな音がした。
 銃士であるアラミスの鋭敏な感覚が、その音を聞きつけた。
 伯爵の腕に抱かれたまま、アラミスの身体は硬直した。

『誰かがいる』

 目を見開く。
 纏わり付く髪を手で除ける。
 身体を起こしながら、ロシュフォールの肩越しに視線を流した。
 扉が見えた。
 自分を見ている目があった。
 見慣れた黒い瞳が驚愕を湛えている。

『アトス!?』

 アラミスの視線と、アトスの視線が絡まった。
 ふっとアトスが目を逸らした。
 ぱたん、と扉が閉まった まるで一瞬の夢の如く ロシュフォールが、アラミスの身体から離れて振り返った。
 だが彼が扉に目をやった時には、もうアトスの姿は消え、扉は堅く閉ざされていた。

「どうした。誰かがいたのか?」

 腕がゆるめられた一瞬の隙を突いて、アラミスはロシュフォールの身体の下から抜け出た。

「アラミス?」

「見られた」

 一言いうと、アラミスは乱れた胴着とズボンを正し始めた。

「おい」

 ロシュフォールがアラミスの腕を取って彼女の身体を引き寄せた。
 アラミスは長椅子の前に膝を付いた。ロシュフォールの腕がアラミスを抱き締めた。

「放せ」

 あごを上向かせると、ロシュフォールは彼女の唇に口づけた。今度はささやかな応えが返ってきた。

「扉の向こうにいたのは、アトスではないのか?」

「!」

「やはりな。…行くか?」

「ロシュフォール」

「俺は止めはせん。おまえほどの女だ。ほかに男がいてもおかしくはあるまい」

 アラミスの碧い瞳が輝いた。ロシュフォールは彼女の髪の中へ手を差し入れた。程なくして細いうなじを見つけ出す。

「俺は昔から…奪うのが好きだからな」

 ロシュフォールとアラミスは見つめ合った。アラミスの色を増した唇の端に笑みが浮かぶ。

「あなたは僕を奪えないよ」

「アラミス」

「……そんなあなたは好きだけどね」

「ほう、充分過ぎるほどの答だな」

「ふふ… 今に後悔するよ」

「後悔だと? はは、それはないな。俺は常に前を見る」

 ロシュフォールは言葉を区切り、再び続けた。

「わが…猊下しかり、だ」

「なるほどね」

 納得したようにアラミスは瞬きをした。長い睫毛に魅せられたように、ロシュフォールは指先で彼女の頬を撫ぜた。睫毛は震え、瞳が開かれて彼を見返す。

「……おまえがあいつとどうなっているのかは知らん。知りたくもない。俺にとって重要なのは、おまえが俺の腕の中でこそ魅惑的になるということさ」

「訂正が必要だね」

「ほう?」

「僕はあなたの言いなりにはならない女だからな」

「そうだな」

「どう、後悔した?」

「いや、ますますおまえが欲しくなった」

「そう言うと思った」

 アラミスは立ち上がり、ロシュフォールに自ら口づけると、その身をさっと翻した。

「まったく、いつもアトスに邪魔される。憎らしい男だ。あいつの想わぬ男であったら、すぐさま八つ裂きにでもしてくれるのにな」

 ロシュフォールは衣服を正し、髪を撫でつけた。






「あ、アラミス。隊長が呼んでおられるそうだよ」

 銃士のひとりが彼女の姿を見つけて階段の上から声をかけてきた。

「私を?」

「いや、君とアトスだよ。アトスはどうしたのさ」

「見ていないな」

「まあ、いいや。途中見つけたら頼むよ。俺も探すからさ」

「ああ、なら私は先に隊長のところへ行こう」




「隊長、お呼びでしょうか。アラミス、参りました」

 しかし、扉の向こうからの返事はなかった。

「変だな」

 アラミスが把手に手をやり、扉を開けようとすると、扉は突然中から開かれた。

「アトス」

「隊長は席をはずされた。急なお召しがあったのだ」

「そう、君は?」

「仕事の整理を頼まれてね」

 室内に入ると、執務机の上にはラテン語の書き記された書類とおぼしきものが散乱している。

「手伝ってくれるかな」

「ああ、隊長の用事ってこれだったのか」

「そういうことだ。何でも今夜中にこれを翻訳せねばならない。私一人の手には負えんからな」

「いいよ。どれから?」

「君にはこっちをやって貰おうか」

 どん、と重たい書類が手渡された。

「うわ、すごい量」

「なんでもこの数か月たまったもんらしい」

「困るよな。隊長ってば自分でこういったことをこなそうとしては断念するんだから。早く言ってくれればいいのに」

「全くだ」

 アラミスが傍らに腰を下ろすのをアトスはじっと見つめていた。

「えっと、なになに…」

 アラミスは書類に目を通し始める。

 アトスがアラミスの横に立った。

「アトス?」

 腕がすっと伸びると、アラミスは椅子に座ったまま抱き竦められた。

「ちょっと」

 反論を返す間もなく、無理やり立ち上がらせられる。アトスの片方の手が、机上の書類を端へと押しやった。かと思うと、アラミスの身体が机の上に乗せられた。

「なにを」

 手でアトスの肩を押すが、びくともしない。

「んっ」

 抱き締めたままアトスがアラミスを求めてきた。

「アトス!」

 抗議の声を出した途端、アトスの熱っぽい舌が彼女の口の中へ侵入してくる。求め、それに応え、身体がしなる。大きな手がアラミスの喉から肩、胸へ移動して行った。
 アラミスの襟元の止めが音もなく鮮やかに外されて、ブラウスが肩から滑り落とされた。
 唇が離され、アトスはアラミスを見つめた。瞳の強さのなかに、言いたげな何かが見えそうで、アラミスの身体に震えが走り、腕に鳥肌が立った。

 どうしてアトスはこうも容易く私を捕まえるんだろう。
 どうして私はこの男の腕を解けないのだろう。

「書類が…」

 視線を外したのはアラミスの方が先だった。机上に散乱した紙の束が、彼女の目に入った。
 アトスの視線も、はっとそれらに移された。

「気にすることない」

 やがてふわりと自身の身体が空に浮くのをアラミスは感じた。
 アトスが彼女を抱き上げたのだ。彼は無言のまま隣室の戸を開いた。

 隣室は暗く、ひんやりとした空気に満たされていた。抱き上げられていたアラミスがアトスの手から降り立った。そして、アトスは彼女の腰に当てた手に力を込め、彼女と共に敷物上に倒れていった。

「待てよ、アトス」

 口づけが落ちるのを避けて、アラミスは声を出した。

「誰か来るかもしれないじゃないか」

 顔の上でアトスが冷たく笑みを浮かべていた。

「黙れ」

 低く重い声が降って来た。

「退けよ!」

 かっとしたアラミスは、大きな声を出した。

「嫌だね」

 氷のような響きに、アラミスは答え返すことが出来なかった。
 アトスの手は乱暴に彼女の身体を貪って、彼女を翻弄させた。彼の口はアラミスの果実をきつく噛み、アラミスに悲鳴にも似た喘ぎをもたらした。双丘は様々に形を変えさせられ、男の手の中で熱く燃え上がっていった。

 徐々に、アトスの顔が沈んで行った。
 最後の細い紐が指に搦め捕られた音が鳴った。
 途切れ途切れの喘ぎが続いた。

「あぁ」

 アラミスの喉から声が漏れた。
 露になった彼女の秘密が、アトスの舌先に触れたのだ。身体の奥から流れ出る蜜は、男の喉の奥に吸い込まれていく。アラミスの脚が小さな痙攣を起こして震えた。
 執拗に絶えることのない責め。
 髪は乱れ、身体はしなり、無防備な喉元が白く震えている。
 蕾は刺激を受けて開花し、豊潤な薫りで以て男の心を美惑する。

「んっ! はっ…ぁ…ンッ」

 醸し出される淫らな音と共に声が艶やかさを増していった。
 身体の緊張が高まっていく。
 まだ。
 解き放せ。
 もう少し…。
 意識の奥が切ない叫びを上げていた。
 びくんとアラミスの身体に衝撃が突き抜けそうになった。が、その感覚が途中で途絶えさせられた。
 アトスが突然アラミスの泉から顔を上げたのだ。
 アラミスは声を出すことが出来なかった。責めるようにアトスの腕にアラミスの爪が食い込んだ。体内で爆発しそうな程の感情の迸りが、言葉より優先していた。

「アラミス」

 アトスが彼女の潤んだ瞳を見つめていた。

「イきたいか? え? それともこの続きはお預けがいいかな」

「知っている筈だろ。どうする? 続きは俺の屋敷でするか?」

 アトスはアラミスの耳たぶを軽く噛みながら囁く。

「は、んっ」

 アトスの指は、特に敏感に快楽を待つ蕾を突いた。
 アラミスはゴクリと喉を鳴らして手を伸ばした。手はアトスの落ちてくる黒い髪の先を引っ張った。

「それって、やきもちなわけ?」

 だんまりを決め込んだアトスの目が険しくなった。

「僕がロシュフォールといたからだろ?」

「……だったら悪いか」

 やっとの思いで云っているような答え方だった。

「君がそう言ってくれるのって、嬉しいな」

「あいつとはいつから…」 続ける言葉はアラミスの甘い口づけで中断された。

「訊くな、ということか?」

 アトスの問いにアラミスは微笑んだ。

「僕が恥ずかしい?」

「………いや、恥ずかしいのではない。おまえが欲しいのだ」

「僕もさ、君が欲しい」

 口づけが繰り返された。
 冷めかけた肌が再び燃え上がっていった。
 二人が溶けたのはそれからすぐのことだった。


 結局のところ、隊長から頼まれた翻訳は一晩中かかってしまった。隊長は夜遅くになって一旦部屋に戻って来たが、彼ら二人に仕事を与えたまま、屋敷へ戻られた。

「わしの仕事なのだから、君らばかりに迷惑はかけられん」

 と、優しいことを言ってはいたのだが、アトスとアラミスがそれを断ったのだ。上司がいては、はかどる仕事もはかどらないという時があるのだった。


 早朝のラッパが宮廷に響いた頃、書類の山から二人は解放された。
 そして二人は王宮の出口で別れた。
 しばらくぼんやりと歩いていたアラミスは、はっとして顔を上げた。

「しまった! 剣を忘れて来てしまった」

 王宮へ慌てて引き返していった。


 剣を隊長の部屋に取りに戻った彼女は、途中ロシュフォールに出くわした。

「やあ、ボンジュール、伯爵。早いね」

「アラミス、どうした、おまえこそ」

「泊まりで仕事さ」

「夜勤だったのか」

「うーん、そういったことではないけど、隊長の頼まれごとをやっていたんだよ」

「目が赤くなってる」

「そう?」

 アラミスが目に手をやった時、ロシュフォールが意外そうな顔をした。

「ロシュフォール?」

「……いや…」

 ロシュフォールの視線がアラミスの金髪に注がれている。

「ああ。…そうだよ」

 アラミスはにこっと微笑んで、髪をさらりと風に流した。
 髪からアトスのつけている香りが漂った。

「じゃ、僕はこれで!」

 茫然とするロシュフォールの前をアラミスは笑いながら駈けて行った。





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pp4
 窓辺にかかる朝日は、アラミスの目に眩しかった。昨日のことといい、アトスは、何を考えているのかさっぱり分からない。その上ガンガンと響く程の二日酔いだ。こんな二日酔いの日は、妙に朝早く目が覚めてしまうもの。アラミスは自分の酒臭さに辟易しながら服を着替え、トレヴィル隊長の屋敷へ向かった。

「ボンジュー」

「ボンジュール、アラミス! わぁ」

 誰にだって分かる不機嫌さは、みんなを遠ざけた。こういう日のアラミスは、気の荒いトレヴィル隊長の馬みたいなものだ。

「何だ。僕を見て『わあ』とは…。失敬な」

 文句を言ってもみても、大声では言えない。自分の声でますます頭痛が酷くなるだけだ。ぎろりと睨んでみるのが限界だった。と、屋敷の玄関先で意外な人物がアラミスに手を振っていた。

「いやぁ、いつにも増してご機嫌麗しいようで、アラミス殿」

「ローシュフォール…」

 トレヴィル邸の前になぜかローシュフォールと、ジュサックが立っていた。

 『どうして、ここにいるんだ?』

「朝から貴公の尊顔が拝めるとは、なかなか良い一日かもしれませんな」

「こっちは最悪だな」

「まあ、まあ、そう刺々しくされなくとも、銃士隊一の美しき方に似合いませんぞ。そうであろう? ジュサック」

「伯爵… 本気で言ってるんすか」

「もちろん本気だとも」

「迷惑だな。一体伯爵は如何な趣きでこちらに参られたのかな?」

「何、パリの治安について銃士隊長殿に少々ね」

「ほう? それで?」

 アラミスは尊大な態度でローシュフォールに向かった。

「もう、帰りましょうよぅ。用件は済んだのですから」

 ローシュフォールの代わりに側のジュサックが答える。その態度にアラミスはふふんと納得した。

「では、ご用件はお済みなのですね」

 さっさと帰れ、と言わんばかりのアラミスにローシュフォールは意味ありげに笑った。

「まあね、済んだことは済んだのだ」

「おや、ローシュフォール殿。何かお忘れ物ですか?」

 玄関の扉を開けてアトスが現れた。

「これは、アトス殿か。…忘れ物などではない。帰ろうとしていたら、アラミス殿にお会いしましてね。ところで、貴公に会うのは久方ぶりですな。そう、いつぞやの夜…以来でしょうか」

 アトスは釣り帯の位置を確かめつつ階段を下りてきて、アラミスの横に立った。アラミスは昨夜のことをかなり頭にきているので、憮然とアトスを睨むと、小声で朝の挨拶を述べた。アトスは機嫌良さそうに彼女におはようと、返してきた。そしてローシュフォールに向かい、

「いつぞやの夜ね…、ああ」

 思い出した、といった顔で見た。アラミスとの待ち合わせの夜のことを言っているのだ。

「パリの治安もだんだんと流れ者が多くなって非常に悪くなってきておる。枢機卿様はそのことを大変憂いておられてね。もちろん私もだが」

「そのことは今トレヴィル隊長から伺いました。その向きでわざわざこちらにお出でになられたとか」

「パリの治安については護衛隊は日夜奔走しておりますが、銃士隊にもご協力願いたいと思いましてな」

「ローシュフォール伯爵! いつだって揉め事を起こしているのはそっちじゃないかっ」

「銃士隊どもがならず者なのだ!」

 アラミスの怒声に、すかさずジュサックが答える。

「ジュサック、何もこんなところでもめる必要はない」

 ローシュフォールは彼を宥めながら、アトスを見やった。

「夜のパリは今まで以上に夜盗が増えておりましてね、報告によると一月前までに比べて格段に増えたんですよ」

「それは、こちらもよく分かっております。何も貴方にいわれなくても」

 アトスはやんわりと返した。

「…さすがは、アトス殿。しかし、貴公とて人間。取られて困るようなものは大切に保管せねばなりませんぞ」

 ローシュフォールはちらりとアラミスを見ていった。

「お言葉だが、私には取られて困るものなどない。この命さえも国王陛下の御為ならば厭わないのですから」アトスは続いて楽しそうに笑った。「伯爵の方こそ、色々とありそうですな」

「何、私とてリシュリュー猊下の御為ならば、この命惜しくもござらん」

「そうですか?」

「そう、私も取られて困るものなどありませんからな。もっとも…私はどちらかというと奪う方かもしれません」

「ほう、奇遇ですな。私もそれに近いものを持っております」

「では、お互い夜盗と間違われんように気を付けなくてはなりませんな」

 『アラミスは俺が頂く。アトス殿』

 『盗人猛々しいとは貴様のことだな、ローシュフォール』

 穏やかに進む会話の裏に、互いの思いを読んだふたりだった。

「伯爵! パリの安全は貴公たちには到底守れっこない。我々銃士隊には陛下、そしてフランスの名誉のために戦う使命がある。わざわざこちらまで来て無駄足だったな」

 アラミスはローシュフォールに軽快に言い放った。それを見てジュサックは顔を真っ赤にしたが、当のローシュフォールはにやりとしてアラミスを見つめ返した。

 『可愛いやつだ。俺が惚れるに値する女だ』

「では、戻るとするか、ジュサック。どうも銃士隊は気にくわんからな」

「枢機卿様によろしく」

 アトスは丁寧過ぎる程にローシュフォールに挨拶を返した。

「…失礼する。ではまた、アラミス殿。飲み過ぎはいかんですぞ。注意をした筈ですがね」

 ローシュフォールの言葉にアラミスの全身の血が下がっていった。

「大きなお世話だ!」

 震えながらアラミスは剣の柄に手を触れた。アトスが彼女の肩に手をやり、それを押し止めた。

 ローシュフォールはジュサックと共に馬車に乗り込むと、朝の賑いの街の中へと消えて行き、アラミスはアトスにうながされながらトレヴィル邸に入っていった。

 パリの騒々しい一日がまた繰り返される。


pp3
いつも通りの賑やかな時が数日間流れていった。或る夕刻、アラミスたち4人はいつものように飲みに行った。その帰り道、彼らは川沿いの穏やかな風を受けつつ歩いていた。

「ねえ、ポルトス」

「何だ、ダルタニヤン?」

「ポルトスって恋人にさ…」

「俺の、恋人?」

「うん、どうやって口説いたのさ」

 真剣な表情でダルタニヤンが質問を仕掛けた。余りポルトスは恋人のことを語りたがらないが、いつになく真剣な顔に、彼も精一杯真面目に答えた。

「それはだな、何事も誠実にそしてまめに相手に対することだ。花は欠かさず、愛の言葉は極上に、身なりも美しく、だ。なあ、アラミス」

「そうそう」

「じゃあ俺なんて、本当、子供っぽくコンスタンスに対しているのかなぁ」

 ダルタニヤンは耳の後ろをポリポリと掻いた。銃士たちはそんな彼を微笑ましく思い、笑った。

「ダルタニヤン、子供っぽいかもしれないけれど、君の誠実さは充分彼女に伝わっているよ」

 アラミスはダルタニヤンをまるで自分の弟のように思っていた。きっとダルタニヤンにとってコンスタンスとの恋は初めてのものだろう。自分だって彼の年頃の時にフランソワに会った。初めての恋に夢中になって、全てを賭けて彼を愛した。

 自分の幸せは過去のものだが、ダルタニヤンの恋はまだ始まったばかり、自分の分も幸せになって欲しい。そう想って彼の肩を叩いた。

「だとは、思うんだけど。…アラミス、君はとても格好いいし、女性に事欠かないかもしれない。こんな悩みは持ったことなどないんだろう」

 ダルタニヤンはにっこり笑ってアラミスを見た。

「私が? 悩みも何も、私にはそのような人はいないからな」

「アラミスはね、将来偉い坊さんになるために常日ごろ論文を書いたりしている、らしいんだよ」

 ポルトスはにやにや笑って言う。

「ええ! 信じらんないよ。いつだって女性に騒がれているっていうのに!」

「人を外見で判断してはいけないな、ダルタニヤン」

 アトスも後から静かにつけ加えてくる。アラミスは何となく気まずい思いがしてきた。この間の夜のことが思い出されたからだ。けれどあの夜以来アトスは何も云って来ないし…。ローシュフォールだって町中で出会ったっていつもと変わらない。

「でもさ、アトス。アトスだって昔は恋をしたこともあっただろう?」

 ダルタニヤンの突っ込みにポルトスが思わず吹き出した。アトスほど恋の話を嫌う人間はいないからだ。ポルトスが自慢気に恋人の事を話し出すと、酒瓶と杯を持ってすっと席を外す程、避けている。

「やめとけ、ダルタニヤン。アトスはそういう話はしないぞ」

「そういう事だ。俺はそういった話題は好きじゃない。恋の相談はポルトスだけに絞って聞くべきだ」

「ポルトスだけぇ? いやいや僕はアラミスにだって、アトスにだって聞きたい」

「ダルタニヤン、きっとアトスは昔つらい恋でもして、懲りちゃったんだよ」

 ポルトスが、俺はずっとそう思っているとアトスを見ながら言った。アトスは苦笑いをして手を振った。

「どうとでも解釈すればいい」

「アラミスは? ねえ、どうすればコンスタンスとキスできると思う?」

「キス?」

「充分してるじゃない、か」

 アラミスもポルトスもアトスも呆れて一斉に答えた。

 ダルタニヤンはコンスタンスと会う度に迫る程積極的に出ているじゃないか! 3人は各々心の中で叫んだ。

「違うよ! ああいうのじゃなくってだよ」

 慌ててダルタニヤンは彼らに抗議をするが、3人の彼を見る眼は…。

「だからさ、俺も大人の恋ってのをしたいわけ」

「大人の恋だって?」

 ポルトスはアラミスと顔を見合わせた。

「俺だって、会う度に『コンスタ~ンス、好きだよ』って言うのは簡単さ。でもそうじゃなくって、アラミスがするみたいに女性に優しく言葉をかけてみたりして、相手の女性をぼうっとさせてみたいんだよ」

「なるほど」

 ぽんとポルトスは手を打った。アラミスは照れたように少し赤くなり、アトスはふむふむと頷いていた。

「自分からの恋じゃなくって、彼女からの熱烈な思いってのが欲しいんだな」

「そうなんだよ、ポルトス!」

「確かに今のままじゃ」

 アラミスはダルタニヤンとコンスタンスの恋の現場を想像しながらぼそりと言った。

「やっぱり、アラミスだってそう思うだろ」

 聞き止めたダルタニヤンは絶望せんばかりに溜め息と共に言葉を吐いた。アラミスが思い出し笑いらしきものでくすりと笑う。

「アラミス、笑うなんてダルタニヤンに失礼だぞ」

「だって…」

「いいんだよ、だからこうやって恥を忍んで聞いているんだ。ねえ、どうしたらいい?」

「僕に聞かれてもね。ポルトスの意見の方が実用的だと思うよ」

「アラミスの優しい言葉ってのは、自然に出てくるモンみたいだからなあ」

「失礼だな、君は」

 アラミスはポルトスを睨んでみる。ポルトスはだってそうだろ、と笑って答えてきた。

「ダルタニヤン、君は君らしくコンスタンスに接しているし、彼女はアラミスが喋る流暢な言葉で惑わされたりはしない女の子だよ」

「ポルトス! 君は僕が女性を惑わしてるというのかっ」

 アラミスは真っ赤になっていた。

「違ったかい?」

「僕はそんなつもりなどないねっ。女性達はみんなそれぞれに素敵なところを持っているからそれを素直に褒めているだけだよ」

「それが、僕にはできないんだよー」

 ダルタニヤンは嘆き、ポルトスは更に大きく笑った。アラミスはちらっとアトスを覗き見た。彼は穏やかにダルタニヤンを見ている。その表情の下に何を隠しているんだ、こいつ。アラミスは一人むっとしていた。ポルトスに何だかんだと言われても、別に対した事はない。が、どうしたってアトスの心が気にかかる。

「言葉なんか、どうだっていいんだ。君の素直な行動で、コンスタンスは君を好いているよ」

 アラミスは気分を直そうとしながらダルタニヤンに向かった。

「そうそう、アラミスの言う通り」

 ポルトスもうんうんと頷く。

「じゃあさ…、もうひとつだけ、これがちょっと難問なんだ」

「言ってみろ」

 と答えるポルトスにダルタニヤンは耳を貸して欲しいと頼み、小声で聞いた。

「何と! キスの仕方だって?」

 ポルトスは折角ダルタニヤンが小声で聞いたのに大きな声で喋った。

「う、そんなデッカイ声でぇ」

「キスの仕方って?」

 興味深そうにアラミスは聞く。

「俺なんて、なんかコンスタンスにただ迫っているだけだし、女性がうっとりとするような仕方なんて分んないんだもの。君達だったら、そういうキスを知っていると思って」

「おお、それならばアラミスに聞いた方がいい」

「何で、僕なんだ。ポルトス、君が教えてやればいいだろう。僕はそんなのは聞かれても困る」

「困る、ってことは…」

 言い掛けたポルトスはアラミスが余りにも睨むので言葉を飲み込んだ。

「分かったって、そう睨むなアラミス。いいかダルタニヤン、うっとりするようなキスっていうのはな、まず情熱的に相手を見つめて、徐に彼女の額に手をやり、抵抗感とか不安感とかを取ってあげるように静かに触れる。
 ここでいくつか愛の言葉、そうだな『あなたはまるで震えている小鳥のように愛らしい』とか何とか言う。そして指で彼女のかわいい上を向いた鼻の頭を触って、顔を寄せるんだ。で…」

 ポルトスが、どうも自分の恋人を思い出してへらへらしだしたので、聞いている3人は笑い出した。

「ポルトス~、そんなのは俺だってできるよ。俺が知りたいのはキスの仕方さ」

「なに、そんなのは君にもできるって? よく言うな。人が一生懸命教えてやろうっていうのに…」

「怒るな、ポルトス。ダルタニヤンが知りたがっているのはどうもそういった過程とは違うみたいだ」

「そう、分かっているね、アラミス!」

 瞳をキラキラさせて、ダルタニヤンはアラミスを見つめた。

「おい、期待するな。そういうのは僕たちだって教えられるものか」

 アラミスが急いで断る。

「まあ、知りたいのなら然るべき女性に教えて貰った方がいい」

 ポルトスが胸を張って答えた。

「ってことは、コンスタンスを裏切って、他の女性とってことか?」

 ダルタニヤンは怒ってポルトスに噛み付いた。ポルトスはさっと彼の前から避けてアトスの影に隠れた。

「言い過ぎだな、ポルトス」アトスは冷や汗をかいているポルトスにやんわりと言い、ダルタニヤンを見た。「まあ、まあダルタニヤン、君にはそんな事はできないし、かといって我々がキスの仕方なるものを簡単に教える事など出来ない」

「ああ、もうどうしたらいいんだ」

「アラミスを見張っていればいいよ」

 頭を抱えるダルタニヤンに、アトスの後ろか身体の大きなポルトスが言った。

「どういうことだっ」

 気色ばんだアラミスはポルトスの胸倉を掴んだ。

「だって、君は女性を口説くがあんなにも上手いし、キスぐらいダルタニヤンに見せてやれよ」

「何て事言うんだ! 僕はそんな誰彼となくキスなどするものかっ」

「ふむ…」

 怒りまくっているアラミスに向かって、アトスはなるほどなといった顔をしていた。

「何だよ、アトス」

 アラミスは先日の夜が胸の中に閃くように甦って来るのを感じた。

 ローシュフォールにああされたのは、僕のせいじゃないぞ。

「いや、何でもない」

 何でもないって顔かよ。はっきり聞けばいいんだ。僕は言ってやるよ、そうしたら… あれは無理やりだったんだって…。僕はフランソワ以外、あんな事された事はないんだからな。

「アトスはさ、恋の話が苦手だって言うけど、キス位はした事はあるだろ?」

 いきなりダルタニヤンはアトスに聞いた。たじろぎながらアトスは、まあなと答えた。それも小さな声で。

「なら、君を張ってみる!」

「どうして俺なんだ!」

「ポルトスじゃあ余り勉強になりそうもないし、アラミスはいつだってクール過ぎるし、君がもしするなら、それはなかなか見応えがあるかも」

「馬鹿な事を!」

 アトスとアラミスが同時に叫んだ。

「アトスを張っていたってそんな場面は一生おがめんぞ!」

 アトスは矢継ぎ早に言うアラミスを、吃驚した顔で見つめた。

「多分、そうだが」

 アトスはにやりと笑ってアラミスの肩に手をかけた。

「アトス?」

 ポルトス、ダルタニヤン、アラミスが彼の名を口にした。

「一度だけ、見せてやろう」

 手に力を込めて、アトスはアラミスの身体を引き寄せた。アラミスの腰に手を回し、彼女の金の髪に隠れたうなじに手を当て、硬直したアラミスに口付けたのだった。

「げっ、アトス!」

 ポルトスが声を上げ、ダルタニヤンは茫然と口付けをしている2人を見ていた。

 アラミスは思いっきり口付けをしてくるアトスの肩を引き剥そうと懸命だった。

 それは、意外な程、艶めかしい口付けだった。見ている方だってどうしたらいいか思案する位だったし、されているアラミスにしてみればそれ以上のものだった。

 アトスの口付けは、ポルトスが言ったような、『額に手をやり、まずは相手の不安感を取り除いてから』の口付けなんてものではない。腰に回された手は力強かったし、頭は固定され半ば強制的な姿勢で受ける口付けだった。

 初めからアトスはアラミスの抵抗を考えていたと見える。普段のアラミスだったのならば、アトスに殴りかかっていることだろう。けれどアトスはアラミスの動きを熟知していた。殴られる前に、アラミスの身体をそのまま大きな胸に抱き締めたのだか ら。アラミスは身を捩ろうとするものの、動きを封じられているためそれは徒労に終わる。

『放せ、どういうつもりなんだよ!』

 アラミスは頭痛がする程アトスが何を考えているのか分からなかった。ローシュフォールのそれとは違っている。求める激しさも、口付けの仕方も。舌を捕らえる動きはローシュフォールよりもしなやかだった。絡めるというよりも、じれったそうになる程に甘く吸う口付け。手はうなじから背に流れて上から下へ、下から上へと優しく擦る。但し力強さは変わらずに。

「は…っ…ん、んっ」

 思わずアラミスは喘いだ。彼女の頭からはすでにダルタニヤンもポルトスも消え失せていた。

「アトス」

 ポルトスがはっとして彼の肩を叩いた。アトスは手を振ってそれに答えたが、口付けを止めようとはしない。ますますアラミスを求めていた。

「止めてよ、アトス。もういいよ」

 ダルタニヤンも思わず彼の背中を叩いた。アトスはアラミスの唇から離れ、彼女を抱き締めたままダルタニヤンに微笑んだ。

「分かったか?」

「じゅ、充分…」

「そうか」

 短く答え、アトスはアラミスを放した。

「わ、ちょっとアラミス!」

 ぼうっとしたままのアラミスがポルトスの腕の中に倒れ込んだ。ほとんど意識がない状態である。ポルトスはぺたぺたとアラミスの頬を叩いた。

「しっかりしろ、アラミス! まったくアトス、君は何て事するんだ!」

「ダルタニヤンの希望に応えてやっただけだ。たまには俺も先輩として教授しなくてはならんからな」

「おまえな、いくらなんでもアラミスは男だぞ」

「だから?」

「だからって! 普通するか? 男だぞ」

 ポルトスの腕の中でアラミスはうっすらと目を開けた。身体に力が入らない。眼の焦点さえ合わない。頭を振ってみてやっと自分がどういった状態に居たのかが認識されていく。

「男だろうが、女だろうが、キスに変わるまい。そうだな、ダルタニヤン?」

 同意を求められたダルタニヤンは、引きつった顔で答えた。

「そ、そうかもね。でも、さ、アラミスにするなんて」

「きさま…ッ」

 ポルトスの腕から素早く身体を起こし、アラミスはアトスに殴りかかっていった。

「何てことするんだっ!」

 アトスはアラミスの手を除けながら、彼女の耳に囁いた。

「上手いもんだろ?」

「そういう問題じゃない!」

「行け、アラミス! 男にキスされたんだ。殴って当然だ!」

 ポルトスが後ろで声援を送り、ダルタニヤンはもう止めてよ、と呟いていた。アラミスのパンチがアトスの腹部に決まり、アトスは少し呻いた。

「このやろうっ!」ぼかっとアラミスはアトスの顔面を殴りつけた。「僕は女じゃないぞ!」

 猛然と立ち向かっていくアラミスを見ながら、ダルタニヤンはポルトスに聞いた。

「こう言ったらアラミスは怒るかもしれないけど、アトスって見掛けによらず、上手いんだね」

「だよなぁ。あのアラミスをぼうっとさせるくらいなんだから」

「見習わなくちゃね」

 数発のパンチがアトスの顔面を目掛けて飛んで行く。さすがにいくつかは軽く避けてはいるが、命中したパンチには苦笑いを浮かべている。息せき切ってるアラミスは額に汗を浮かべ、思いっきり早いパンチをひとつ送りつけた。アトスはのけ反りながらも、そのままアラミスの腕を取った。アラミスがアトスの上になだれ込む。2人して地面に倒れ込んでいった。

「許さん!」

 アラミスは真っ赤になって怒り続け、ダルタニヤンはやっとの思いで2人を引き剥した。アラミスは肩で息をしていた。アトスの上に倒れてはいたが、素早く立ち上がり服をばたばたと叩いた。

「僕はもう、帰る!」

 吐き捨てると、3人に背を向けて歩き出した。帽子をささっと被り直す姿にどう見たって動揺が表れていた。

「さて、俺も帰るかな」

 アトスも言うとポルトスとダルタニヤンを残してあっという間に帰ってしまった。残されたダルタニヤンは、はぁと溜め息を吐いてポルトスを見上げ た。

「アトスって、何考えてるのか、よく分からない奴だね」

「付き合いは長いが、今夜ほどわからないのはなかったな」

「俺、アラミスになんかすごく悪い気がしてきた」

 ダルタニヤンは去っていくアラミスの小さな姿を見つめて言った。

「今夜のことは、誰にも言うなよ。知られたらアラミスは手当たり次第に決闘を申し込んでしまうぞ」

「俺もそう思う…。まずは俺になりそうな位だ」

 ポルトスは大声で笑った。

「そりゃあ大丈夫だ」

「どうしてさ」

「我々は仲間だからさ。たとえアトスがああいうことしたって、アラミスは友情にひびを入れたりはしない男さ」

「そうだね」

 ふと、ポルトスとダルタニヤンの2人は沈黙してしまう。2人とも、今見たばかりのキスシーンが目に焼きついて離れない。今夜は眠れそうにない2人、だった。


アラミスはアトスとともに別の酒場へと入っていった。かなり遅い時間だったせいか、酒場は半分以上が空席で、2人は中央の柱のところに席をとった。注文はアトスがアラミスに促されてやることになった。2本の葡萄酒と、鳥の丸焼き、野菜のシチューを。

「君の、おごりだからなっ」

 アラミスがにっこり笑って確認すると、

「勿論。君の快気祝いだからね」

 と、アトスは笑みを浮かべた。

「快気祝いね、君が遅れたせいで、僕の怪我の治りが少し遅くなったんだぞ」

「そりゃ、悪かった」

「わかっているんならいいさ」

 運ばれてきた葡萄酒を、アトスがまあ機嫌直せ、とばかりにアラミスのグラスに注いだ。グラスに満たされた紅の液体を、一息に喉に注ぎ入れると、ふうっとアラミスは息を解いた。先刻のよりはかなり良い酒だ。

 飲み終って何となくグラスを見ていると、再びトポトポとアトスが酒を注ぎ足してきた。

「良い酒だろ?」

 顔を上げたところへ、アトスが自慢気に言ってきた。

「…うん」

 取り敢えず素直にアラミスは答えた。アトスも自分のグラスにたっぷりと注ぎ入れ、喉を震わせながら実に美味しそうに葡萄酒を飲んだ。

「今夜はもう随分飲んだみたいだが、こういった酒はまた違った趣があってじっくりと飲ませてくれるのさ」

「…酒飲みらしい言い方だな」

「遅くなった言い訳さ」

 勤務が終わって真っ直ぐ店に来ようとしたのだが、恋煩いのダルタニヤンに捕まって、ひとしきりコンスタンスの話を聞かされたんだ。とアトスはアラミスに話した。

「なるほど、あいつらは結構うまくやってるんだね」

「どうかなぁ、コンスタンスに振りまわされてるって感じが、なきにしもあらずだな」

 アトスはすでにもう何杯目かの杯を立て続けに空けている。

「そこがまたいいんだよ、きっとね」

 アラミスは数年前の自分と許婚者フランソワとの幸せな頃を想い出していた。彼も私に振りまわされている、と笑って言っていたっけ…。

「君もそう思うのか?」

 突然問われて、アラミスはアトスをちらりと眺め、「ところで、そこの鳥も食べたいんだが?」と、さりげなく話を逸らした。テーブルにはいつの間にか、大皿にはみださんばかりの鳥の丸焼きが乗っていた。

「いやあ、気付かなかった。どうぞ、どうぞ」

「空きっ腹に酒ばかりじゃ、身体を壊すからな」

 ナイフとフォークを手にして、アラミスは鳥に向かった。手は器用に食器を操り、肉をさばいていく。

 『さっきのこと… 君は何も聞かないんだな。見ていたんだろう? 
 …良い酒を注文しのは、遅れた詫ばかりでないんだろう?』

 アラミスは、黙々と食器を動かし続けた。

 『君はいつからあそこに居たんだろう……』

 焼けた鳥の美味しそうな匂いが立ち込める。二人で食べ尽くすには量が多い気がするが構わずに作業に取り組んだ。

 何かしていなければ、先刻のことを思い出してしまうし、アトスに何かを聞くのも躊躇われる。アトスが現れる前のあの出来事は余りにも驚くべきことだった。あのローシュフォールが、まさかあのようなことをするなんて、いったい誰が想像できるっていうんだ。不可抗力だったんだ。私が悪いわけじゃない…。

 だから、沈黙こそは良しとして気を紛らわそうとしているアラミスだった。そして、一応はアトスに気を遣って、さばいた肉を彼の皿にも盛ってあげた。

「いつ見ても、そのさばき方は上手いもんだ。ポルトスも、君のナイフとフォークの使い方は魔術のようだと褒めていたものな」

 珍しくアトスはアラミスのことを褒めてくる。こういった役回りは、どちらかというとダルタニヤンか、ポルトスなのだが。アトスはアトスなりにアラミスに気を遣っているようだった。

「使えない方が変なんだ」アラミスはぽつりと答えた。「だいたい、剣の使い手ともあろう剣士が、鳥の一羽ぐらいさばけなくてどうする」

「そうだな、もっともだ。だが、人間、不得意分野というものがあるのだ」

 アトスはにやりと笑って、いつものようにアラミスを見返した。

「ほら、出来たぞ。食え」

「ご苦労さん」

 アトスは右手にフォークを持つと、待ってましたとばかり、肉を思いきり頬張った。そしてアラミスも。2人が葡萄酒と鳥を代わる代わる食していると、もうひとつの注文品である野菜シチューも運ばれてテーブルは更に賑やかになった。

 その後、たらふく食べて飲んだ彼らは店を後にした。2人ともかなり酔いが回っていた。特にアラミスはアトスと店に入る前に飲んでいたのだから当然だった。

「大…丈夫か?」

「これぐらい、何とも、ないさ」

 それにしても暑いな、と呟いた。ふらつきながら歩を進める。
 今夜のアラミスはいつも以上に酒杯を空けていた。ローシュフォールとのことも、飲めば忘れられると思っていたのだが、一向に効き目はなかった。飲む程に、どうも眼の前の人物に見られたということが気にかかってしようがないのだ。

 足元が覚束なくなる程飲んだってのに、気分は全く治らないじゃないか! だいたい、なんでアトスは何も言わない。別に聞かれたって困るが、こうやってはぐらかされているようなのは気分が悪い。折角良い葡萄酒を飲んだのに!

「いいよ、一人で歩けるって」

 身体を支えてきたアトスの腕を振り払い、アラミスはふらふらと歩き出した。

「意地っ張りなんだから」

「何か言ったか、アトス!」

「いや、何も」

「ふん! ふん、ふん!」 

 何かさ、言いたいことがあればはっきり言えばいいじゃないか!

 アラミスが手を払った後、アトスはアラミスを面白そうに見ていた。先刻、見られたことをかなり気にしているみたいだなと、わかってはいるのだ。

 アトスは、アラミスに話したように確かにダルタニヤンに捕まっていた。ポルトスは夜勤だし、トレヴィル邸でこのような戯言(アトスにすれば)を話すのはどうかと思い、ダルタニヤンに一緒に飲みに行かないかと誘おうとした。が、誘ってみると彼はコンスタンスと夕食を約束していると言ってアトスの誘いを断ってくる。何のことはない、ダルタニヤンは彼女との約束の時間までの暇つぶしに彼を呼び止めただけだったのだ。

 アトスは、アラミスがひとりで居ると決まって揉め事を起こすのを知っていたし、早足で約束の店へと向かった。店に着いてみると、中は荒れ放題で一目で何があったのか想像はついた。ところが店にはアラミスも、アラミスの相手になったであろう面倒を起こした者たちも居なかった。すぐに店の者がアトスを見つけて、アラミスとローシュフォールが2人して出て行ったと彼に教えてくれた。

 アトスは店の者が指差す方角へと歩いて行き、角を曲がった時にふたりを見たのだ。

 始めはローシュフォールの後ろ姿しか眼に入らなかった。彼のマントが翻り、その奥に金糸を見た時、何が起きているのかを理解した。

「おい、どこまで行く。お前の家はここだろうが」

 いつの間にか2人はアラミスの家の前に来ていた。アトスは自分の家を通り過ぎようとしていたアラミスの袖を掴んだ。

「あー本当だ。僕の家だ」

 かなり酔っているな、アトスはやれやれと手を広げた。掴んでいた袖をいきなり放されたので、アラミスの身体がぐらりと傾いだ。

「しっかりしろ」

「僕は、しっかりして、る」

 駄目だ、完全にやられている。アトスはアラミスを後ろから押して、階段から落ちないように上がって行った。

「そこらへんで寝るんじゃないぞ」

 辛うじて開いた戸口からアラミスを押し込んで声をかけた。アラミスは押されたせいで1、2歩よたつきながら、部屋の机に手を付いた。がつんと、膝を机の脚に引っかけた音がした。

「いっ…たぁ…」

「何やってんだ」

 室内に入るのは少し躇いがあったが、アトスはアラミスのそばに近付いた。

「馬鹿だな」

「……あいつも、そう、言った」

「え?」

 膝を擦りながら、アラミスがアトスを見上げた。

「ローシュフォールだよ。僕たちが、大馬鹿だってさ」

「……」

「ま、そうかもな。あいつにしてみればそうかもしれないからな」

 アトスは黙ったまま自分の帽子を外し、更にアラミスの帽子を外して机の上に乗せた。

「云いたいことは、はっきり云えよ。アトス」

 帽子に目をやっているアトスに、思い切ってアラミスは聞いてみた。アトスは不思議そうにアラミスを見返した。

「云いたいことなど、何もないが?」

「へえ、そう」

 何だ、では私の思い込みか。気にし過ぎだったか。

 アトスの帽子をひょいと手にすると、アラミスは彼に背を向けてふらつきながら戸口へと向かった。

「お休み、アトス。変なことを聞いて悪かった」

 開いたままの戸口へ優雅に手を振って彼を誘うと、アトスはしっかりとした足取りでアラミスの前に立った。

「…気にするな。お前らしくないぞ」

 アトスは、アラミスの手から彼の帽子を受け取ろうとしながら答えた。途端にアラミスが帽子を外に放り投げ出した。

「アラミス!」

「らしくない? ああ、そうかもね、けっこう酔っ払ってるし!」

 眉を顰め、アトスは手を腰に当ててアラミスを睨んできた。が、負けまいとアラミスは拳を握り締めて叫んだ。

「君はそうやって、いつも黙っているんだ!」

「……」

「お休み!」

 アラミスは金髪を強く振って顔を横に向けた。

 カツッと、アトスのブーツの音が立てられた。
 一瞬音に気を取られたアラミスが、視線を靴の先へと向けた時、突如アトスの手が伸びてきた。アトスはアラミスの顎に手をかけ、彼女の顔をむりやり自分の方へと向かせた。

「云わせたいのか?」

「……アトス…」

 ふたりの視線が絡まった。アラミスはアトスの鋭い視線に思わず眼を逸らした。

「え? どうなんだ。何が聞きたい」

「……」

「云いたいことがあるのはお前の方じゃないのか」

「僕が? 放せよ、暑っ苦しい」

 顎にかけられた手をアラミスは振り解いた。が、手は離れたものの、アラミスの顔のすぐ間近にアトスの顔が迫って来た。思わず後退ると、アラミスの背は扉にぶつかった。その拍子に扉が勢いづいて閉まる。
 室内は真っ暗になり、アラミスにもアトスにも互いの顔さえ見えなくなった。アトスはそれ以上動かない気配だったが、もし今自分が顔を動かせば彼に触れてしまう。アラミスはただぎゅっと目を瞑った。
 眼を瞑ったことで、自分の動悸がアトスに聴こえるのではないかと思う程激しく高鳴るのを感じた。

 暗闇の中でアトスは何も云わなかったが、その手でアラミスの頬に優しく触れて来た。

「アトス!」

 堪り兼ねて、アラミスが声を上げる。アトスは彼女の肩を引き寄せ、更に顔を近付けてきた。アラミスは目を開き、震える手でアトスの肩を押し戻そうとした。

 段々と闇に眼が慣れてくる。それを助けるように、月明かりが窓から忍び込む。闇を散らし、互いの姿を照らし出す。月光に浮かんだアラミスの顔は蒼白だった。

 アトスの一方の手はアラミスの頬に触れ、唇は今にも触れ合いそうになる。だが互いの息が交わらんばかりのところで、アトスはアラミスを深く見つめ続けた。蒼白のアラミスの顔は、昼の銃士の面影を留めていなかった。瞳は酔ったせいもあって熱く潤み、親友であるはずのアトスの態度に怯えていた。

 胸の鼓動が高まる中、アラミスは顔を逸らすこともままならず、そのまま目を見開いてアトスに対した。どの位の間そうしていたのか、しばらくしてアトスはふっと意味ありげに笑うと、彼女の肩から手を放した。そして半歩程アラミスから離れながら、彼女の金髪をひと房手に取った。

「そうなんだよな」

「…何?」

 アトスは唇を歪ませた。そして、アラミスの流れる絹糸のような金の髪を人差し指に戯れさせた。

 …あいつも、捕まったって訳か…。

 アラミスの金糸は、指の間からさらさらと落ちて行った。アトスは、茫然としているアラミスの身体を退して、閉まった扉を開いた。

「何が、そうなんだ、アトス」

 アトスの腕を目にしながらアラミスはできるだけはっきりと聞いた。ところがアトスは彼女を見つめながらも、表情を変えようとしない。

「……別に」

「アトス!」

 何だってこの男ははっきり言わないんだ。まるで鼻で笑っているみたいに私を見る。

「お休み、明日は寝過ごすなよ」

 アトスは可笑しそうにくすくすと笑い、アラミスの頭をぐしゃりと掻き回した。

「止めろって」

 頭を振るアラミスをぽんと叩くと、するりと戸から出て行った。階段を走るように降り、アラミスが放り投げた自分の帽子を拾うと、それを後ろで見ているであろう彼女に背を向けたままひと振りして、帰っていった。

「ア、アトスのばかやろうっ。何とか云えばいいだろ!」

 思いっきりアラミスは扉を閉めた。

「くっそっ…何が云いたいんだ……」

 アラミスは天井を仰いだ。

 どうして声が震えてくるんだ。

 唇から小さな声が洩れた。

「何を彼から尋こうっていうんだ、私は!」

 突然、ローシュフォールの口付けが生々しく思い出された。その上にアトスの不思議な声が反響する。

 そうなんだよな…

 右の掌がいつの間にか唇に当てられていた。ローシュフォールが触れた唇、アトスが触れた頬、俄かに熱を持ってきているようだった。

「…あんなのは、私……」

アラミスは寝室へと駆け出して行った。


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  解 放  PT・5 其の壱





 差し伸べられた手は、アラミスが待っていた男ではなかった。

 アトスもよりもひと回り大きな掌が、アラミスの頭上にあった時、男の右の眼は黒い眼帯に覆われていたからだ。

「いい加減にしろ。治る傷も治らんぞ」

「誰のせいだ! 人をさんざん待たせといて、君が…!」

見上げたアラミスは声の主を知り、アトスとは違うその人物を認めた。

 ローシュフォール!?

 アラミスがアトスを待っていた酒場は、ローシュフォールの行きつけだったらしい。偶々訪れた時、アラミスと出会ったというわけだ。ローシュフォールが云うにはおまえが暴れていた、ということだったが。

 ローシュフォールは困った奴だといった風情で、アラミスを店から連れ出そうとした。2人が出ようと出口に向かいかけた時、先刻相手になった男たちが何やらぶつくさ言うのが聞こえてきた。

「しかたない、枢機卿様の配下の方だ。それもあの方だし…」

 どういうことだ! こいつが護衛隊だから取りあえず引こうって聞こえるぞ! 陛下を守る我々を侮辱するつもりか。

「銃士隊だぞ、私は!」

 ぎらりと睨みつけると、男たちは不適な笑いを顔に浮かべていた。

「くそっ」

「よせ」

 アラミスはもう一戦! と、構えたが、ローシュフォールに肩口を掴まれて、やんわりと緊張を解いた。まだ自分の傷は完全には癒えていないようだし、今夜の処はこいつの言う通りここは大人しくするか。だが、次に会った時に倍にして返してやるぞ!

「ったく…、何の見返りがあるわけでなし、いつもつまらんケンカで命を縮めようとしている馬鹿の集まりが銃士隊だな」

 アラミスの先に立ち、ローシュフォールは日頃彼が思っていることを溜め息混じりに話しながら歩いた。

 銃士隊をあからさまに馬鹿にした言動は、後ろから付いて来ていたアラミスの歩みを止めた。

「…じゃあ首飾り騒動の時、大ケガをした僕たち3人は皆、大馬鹿か? ロンドンに行くダルタニヤンをあんたらの妨害から守って」

 街の中にローシュフォールひとりだけの靴音が響いた。
 靴音と、アラミスの澄んだ声が混じり合う。ローシュフォールはアラミスが彼の背中に冷たい視線を投げかけているのを感じて立ち止まり、肩越しに振り返った。ローシュフォールが振り返ったと同時に風が2人の間を吹き抜けていった。

 風はアラミスの髪をふわりと撫ぜて通り過ぎる。揺れたアラミスの前髪が、店の窓から漏れる微かな光りを受けて煌いた。
 男の眼は意外な輝きに思わず細められた。数度瞬きをした後、じっとアラミスを見つめると、ローシュフォールのひとつだけの瞳にアラミスと固い友情で結ばれた3人の男たちが重なった。

 輝くばかりに青春を謳歌している者たち、自分にはないものを簡単にも手に入れている者たち、妬ましい思いは彼らを見る度に強くなっていった。
 確かに、今の自分がこうしてリシュリュー猊下の御為に生きていることは自分が選んだ道だ。が、そのために失ったものも多くある。けれどもこうした人生を後悔をしているというわけではない。
 では何がこんなにも自分を焦らせる。

 それは…手放したものの中にたったひとつだけどんな思いをしても欲しかったものが入っているからだ。

 『アラミス』という人間を。

 手に入れられないのならばいっそ殺してでも奪いたいほどに、俺の心におまえがいるのだ。

 ローシュフォールはアラミスの喉元から胸元にかけて眼を走らせつつ、心の中で笑った。

「俺は、そういうお前たちが大嫌いなんでな」

 アラミスは一瞬大きく眼を見開いた後、唇の端を微笑むように引き上げた。そして首を少し傾け、何故なのだといった風にローシュフォールに瞳で問いかけた。

 ローシュフォールはその問いに激情で以て応えを返してきた。アラミスの細い腕をその手に掴み、建物の壁にいきなり押しつけたのだ。

 不意を突かれて、アラミスには力を込める時間さえなかった。ローシュフォールの力はアラミスを容易くその腕に抱いた。

 唇が触れた。

 声を出そうと唇を開いたアラミスが後悔した時、すでにローシュフォールの口付けは深く彼女を捕らえていた。

「ん……っ」

 掴まれた腕が痺れて思うように動かせない。ローシュフォールの体重と、体温の温かさが直に伝わってくる。眩暈を感じる程の激しさは、隠してきた本能を眠りから覚まそうとしているようだった。ローシュフォールの腕の中でアラミスはなんとか逃げようともがいていた。だが男の激しさの前に、次第に諦めが全身を包み、アラミスの中の何かが更に力を奪っていった。

「…う……」

 息苦しさと、どうにもならない苛立ち、多くの感情がアラミスに襲いかかった。うなじにあてられたローシュフォールの手が弛められた。だがそれはアラミスにとって一瞬の安息にしかならず、彼女は今まで以上の動揺を受ける羽目になった。ローシュフォールの手がアラミスの胸元に移動したのだ。ローシュフォールはアラミスの隠された胸をいとも容易く、明確な意思をもって触れたのだった。

 知っていて!

 ああ…以前からな

 言葉はなかった。触れた唇と、手の力強さが、2人の会話であった。
 身じろぎして尚も逃れようとするアラミスに、ローシュフォールの指は胸の頂きがあるべきところをなぞっていった。

 やめろ!

 この果実は誰のものだ? いままでに誰かが触れたか? 俺が、この果実を口に含むまで、隠しておくか?

 手を放せ!

 激しく求めてくる口付けに、アラミスは一言たりと彼に訴えることはできなかった。

 アラミスの白い喉に2人の唾液が流れ落ちて行った。
 ローシュフォールの唇がさまざまにアラミスを求める度に、淫らな音が夜のパリの街角に漏れた。互いの靴が土を踏み乱す音と重なって、更に男はアラミスを腕に抱き続けた。

 彼が、女だということはだいぶ以前から気付いていた。どうして男のなりをしているのか、そんなことはローシュフォールにはどうでもよかった。そして、なによりもアラミスがドレスで彼の前に現れたのなら、ここまで恋い焦がれるようなことは決してなかったのだ。

 この時代、女が自由を手に入れるには男の姿になるのが手っ取り早い方法だ。おそらくアラミスはそういった女のひとりなのだろう。
 そのようにローシュフォールは自分なりにアラミスに対して解釈をしていた。またローシュフォールは自由を手にして、己の想うままに生きようとしている女に敬意さえ抱いていた。

 何のことはない、ドレスを着たごく普通の女などローシュフォールには願い下げだったからだ。普通の女なんぞいつでも簡単に落とせるし、そのような女はローシュフォールの心を掻き立てはしないからだ。

 しかし、アラミスが女だと知った時、初めて己の生きている場所がこの恋から程遠いものだと気付かされた。

 だからこそ、彼等を憎んだのだ。

 だからこそ、彼等を妬まずにはいられなかったのだ。

 アトス、アラミス、ポルトス、ダルタニヤンの四銃士の仲間たちを。

 この恋を抹殺しようと、幾度思ったかしれない。この恋ほど危険に満ちたものはないのだ。あいつは俺が築き上げてきたものを根こそぎ引っくり返してしまうだろう。けれども危険と隣合わせの恋ほど、この男が求めていたものにほかならない。それに気づくにはまだ至らなかったが。

 目が覚めて、今日こそはと思いながら、いつの間にかアラミスの姿を捜している自分に愕然とした。しかし、らしくないと笑ってごまかし、酒で忘れようとすればするほどにあいつの笑い声が聞こえ、折角の決心が脆くも崩れ去っていくのだ。
 今夜も、そういった夜だったはずなのだ。だが…。

 想像していた通りに、アラミスの身体は細くしなやかだった。触れた唇は柔らかく、絡め捕った逃げる舌はわき上がる欲望をあざ笑うかのように滑らかだった。洩れた声は全身の血が逆流するほどの感動を与えてくれた。

 渡したくない。

 お前は私のものだ。

 語る筈のなかった言葉が、情熱に狂った男の喉から迸り出た。

「何で、お前はそちらにいるのだ」

 俺の手の届かぬところにいるのだ、と。

 唇は離され、ローシュフォールはアラミスの碧き双眸を覗き込んだ。彼の眼に映ったのは驚愕をたたえた瞳だけであった。

 はっとしたアラミスが何かを云おうとした時、彼らの背後で革靴が砂利を踏む音がした。ローシュフォールは店にいた男たちが後をつけて来たのかと思い、振り返った。彼等はこのように口付けをしている俺たちのことを何と思うだろうかと、半ば面白く思いながら。
 その期待は振り返った途端に破られた。背後に立っていたのは、いま最も出会いたくない男だったのだ。

「アト……」

 男の名を告げようとするアラミスの腕を解いた。

 銃士アトスはマントに風を含ませつつ、彼等2人を、特にローシュフォールを悠然と眺めていた。

「…アラミス、待たせたな」

「あ、ああ…」

 ほう、何も言わんのか。

 ローシュフォールは、興味深げにアトスを見守っていた。

 アラミスはローシュフォールの脇をすっと通り抜けて、アトスの横に並んだ。

 似合いだな。渡したくはない女とこの男は、憎いほどに美しい。敗北を認めたわけではないが、この男と張り合うことこそ我が楽しみではないか? そんな内なる声が聞こえてくる。

「失礼する。今夜、こいつは俺と約束をしているのでね」

 笑いも怒りもせずに、アトスはローシュフォールにさらりと言ってのけた。

「そのようだな。だが、余り待たせるものではないぞ」

「ご忠告感謝する。ローシュフォール殿」

「なに、感謝するほどのことではない」ローシュフォールはアトスの横に立ち尽くしているアラミスを見つめた。「おかげで私には良い夜であった」

 アラミスはローシュフォールに真っ直ぐな視線を返して来た。つい今し方、この腕に抱かれ、その力を失するほどに口付けをした女。だが、自分に注ぐこの視線は、まるで何もなかったかの如くではないか? 思っていた通り気丈な女だ。……一体アラミスはこの男、アトスをどう想っているのであろうか。銃士隊の中でも謎の多いこの人物を。

「あの店での待ち合わせは止された方が賢明だな、アトス殿」

「…のようだな。…では、失礼する。行くぞ」

「では、失礼いたします。…ローシュフォール殿…」

 ローシュフォールは、素早く会釈してアトスを追おうとしたアラミスに低い声で声をかけた。

「飲み過ぎるでないぞ。お前は危な過ぎる」

 去りかけたアラミスは、つかつかとローシュフォールのところに引き返して来た。手は剣の柄にかけ、碧い瞳は怒りに燃え、睫毛は震えていた。

「2度と、私に触れるな! 今度このような真似をしたら、殺してやる」

「そうか? ではそうするがいい」

 ローシュフォールは笑って答えた。アラミスは構わず背を向けると、走ってアトスの後を追って路地に姿を消した。

「さて、今夜はどこで飲み直すかな」

 ローシュフォールはひとり呟くと、彼等とは反対方向に背を向けた。歩き出すと風に乗って路地に消えた筈の2人の会話が聞こえてきた。

「おごりだって言ってたな、アトス。これから君と待ち合わせる時は、ずーっと君のおごりだからな」

「参ったな…、まあ今夜はたっぷり食ってくれ」

「当たり前だっ」

 簡単に手に入れられるものには興味はない。権力も、財力も、地位も…。己のすべてを賭けて手に入れるもの程愛しいものはない。だからいつか、私はお前をも手に入れるだろう。

 それまで待っているがいい、アラミス…。

 ローシュフォールは、アラミスの暖かさの残る指先で、なくした右の眼の眼帯をさも大切そうに触れた。そして光りの届かぬ闇の中へと歩いて行った。
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