アラミスはアトスとともに別の酒場へと入っていった。かなり遅い時間だったせいか、酒場は半分以上が空席で、2人は中央の柱のところに席をとった。注文はアトスがアラミスに促されてやることになった。2本の葡萄酒と、鳥の丸焼き、野菜のシチューを。
「君の、おごりだからなっ」
アラミスがにっこり笑って確認すると、
「勿論。君の快気祝いだからね」
と、アトスは笑みを浮かべた。
「快気祝いね、君が遅れたせいで、僕の怪我の治りが少し遅くなったんだぞ」
「そりゃ、悪かった」
「わかっているんならいいさ」
運ばれてきた葡萄酒を、アトスがまあ機嫌直せ、とばかりにアラミスのグラスに注いだ。グラスに満たされた紅の液体を、一息に喉に注ぎ入れると、ふうっとアラミスは息を解いた。先刻のよりはかなり良い酒だ。
飲み終って何となくグラスを見ていると、再びトポトポとアトスが酒を注ぎ足してきた。
「良い酒だろ?」
顔を上げたところへ、アトスが自慢気に言ってきた。
「…うん」
取り敢えず素直にアラミスは答えた。アトスも自分のグラスにたっぷりと注ぎ入れ、喉を震わせながら実に美味しそうに葡萄酒を飲んだ。
「今夜はもう随分飲んだみたいだが、こういった酒はまた違った趣があってじっくりと飲ませてくれるのさ」
「…酒飲みらしい言い方だな」
「遅くなった言い訳さ」
勤務が終わって真っ直ぐ店に来ようとしたのだが、恋煩いのダルタニヤンに捕まって、ひとしきりコンスタンスの話を聞かされたんだ。とアトスはアラミスに話した。
「なるほど、あいつらは結構うまくやってるんだね」
「どうかなぁ、コンスタンスに振りまわされてるって感じが、なきにしもあらずだな」
アトスはすでにもう何杯目かの杯を立て続けに空けている。
「そこがまたいいんだよ、きっとね」
アラミスは数年前の自分と許婚者フランソワとの幸せな頃を想い出していた。彼も私に振りまわされている、と笑って言っていたっけ…。
「君もそう思うのか?」
突然問われて、アラミスはアトスをちらりと眺め、「ところで、そこの鳥も食べたいんだが?」と、さりげなく話を逸らした。テーブルにはいつの間にか、大皿にはみださんばかりの鳥の丸焼きが乗っていた。
「いやあ、気付かなかった。どうぞ、どうぞ」
「空きっ腹に酒ばかりじゃ、身体を壊すからな」
ナイフとフォークを手にして、アラミスは鳥に向かった。手は器用に食器を操り、肉をさばいていく。
『さっきのこと… 君は何も聞かないんだな。見ていたんだろう?
…良い酒を注文しのは、遅れた詫ばかりでないんだろう?』
アラミスは、黙々と食器を動かし続けた。
『君はいつからあそこに居たんだろう……』
焼けた鳥の美味しそうな匂いが立ち込める。二人で食べ尽くすには量が多い気がするが構わずに作業に取り組んだ。
何かしていなければ、先刻のことを思い出してしまうし、アトスに何かを聞くのも躊躇われる。アトスが現れる前のあの出来事は余りにも驚くべきことだった。あのローシュフォールが、まさかあのようなことをするなんて、いったい誰が想像できるっていうんだ。不可抗力だったんだ。私が悪いわけじゃない…。
だから、沈黙こそは良しとして気を紛らわそうとしているアラミスだった。そして、一応はアトスに気を遣って、さばいた肉を彼の皿にも盛ってあげた。
「いつ見ても、そのさばき方は上手いもんだ。ポルトスも、君のナイフとフォークの使い方は魔術のようだと褒めていたものな」
珍しくアトスはアラミスのことを褒めてくる。こういった役回りは、どちらかというとダルタニヤンか、ポルトスなのだが。アトスはアトスなりにアラミスに気を遣っているようだった。
「使えない方が変なんだ」アラミスはぽつりと答えた。「だいたい、剣の使い手ともあろう剣士が、鳥の一羽ぐらいさばけなくてどうする」
「そうだな、もっともだ。だが、人間、不得意分野というものがあるのだ」
アトスはにやりと笑って、いつものようにアラミスを見返した。
「ほら、出来たぞ。食え」
「ご苦労さん」
アトスは右手にフォークを持つと、待ってましたとばかり、肉を思いきり頬張った。そしてアラミスも。2人が葡萄酒と鳥を代わる代わる食していると、もうひとつの注文品である野菜シチューも運ばれてテーブルは更に賑やかになった。
その後、たらふく食べて飲んだ彼らは店を後にした。2人ともかなり酔いが回っていた。特にアラミスはアトスと店に入る前に飲んでいたのだから当然だった。
「大…丈夫か?」
「これぐらい、何とも、ないさ」
それにしても暑いな、と呟いた。ふらつきながら歩を進める。
今夜のアラミスはいつも以上に酒杯を空けていた。ローシュフォールとのことも、飲めば忘れられると思っていたのだが、一向に効き目はなかった。飲む程に、どうも眼の前の人物に見られたということが気にかかってしようがないのだ。
足元が覚束なくなる程飲んだってのに、気分は全く治らないじゃないか! だいたい、なんでアトスは何も言わない。別に聞かれたって困るが、こうやってはぐらかされているようなのは気分が悪い。折角良い葡萄酒を飲んだのに!
「いいよ、一人で歩けるって」
身体を支えてきたアトスの腕を振り払い、アラミスはふらふらと歩き出した。
「意地っ張りなんだから」
「何か言ったか、アトス!」
「いや、何も」
「ふん! ふん、ふん!」
何かさ、言いたいことがあればはっきり言えばいいじゃないか!
アラミスが手を払った後、アトスはアラミスを面白そうに見ていた。先刻、見られたことをかなり気にしているみたいだなと、わかってはいるのだ。
アトスは、アラミスに話したように確かにダルタニヤンに捕まっていた。ポルトスは夜勤だし、トレヴィル邸でこのような戯言(アトスにすれば)を話すのはどうかと思い、ダルタニヤンに一緒に飲みに行かないかと誘おうとした。が、誘ってみると彼はコンスタンスと夕食を約束していると言ってアトスの誘いを断ってくる。何のことはない、ダルタニヤンは彼女との約束の時間までの暇つぶしに彼を呼び止めただけだったのだ。
アトスは、アラミスがひとりで居ると決まって揉め事を起こすのを知っていたし、早足で約束の店へと向かった。店に着いてみると、中は荒れ放題で一目で何があったのか想像はついた。ところが店にはアラミスも、アラミスの相手になったであろう面倒を起こした者たちも居なかった。すぐに店の者がアトスを見つけて、アラミスとローシュフォールが2人して出て行ったと彼に教えてくれた。
アトスは店の者が指差す方角へと歩いて行き、角を曲がった時にふたりを見たのだ。
始めはローシュフォールの後ろ姿しか眼に入らなかった。彼のマントが翻り、その奥に金糸を見た時、何が起きているのかを理解した。
「おい、どこまで行く。お前の家はここだろうが」
いつの間にか2人はアラミスの家の前に来ていた。アトスは自分の家を通り過ぎようとしていたアラミスの袖を掴んだ。
「あー本当だ。僕の家だ」
かなり酔っているな、アトスはやれやれと手を広げた。掴んでいた袖をいきなり放されたので、アラミスの身体がぐらりと傾いだ。
「しっかりしろ」
「僕は、しっかりして、る」
駄目だ、完全にやられている。アトスはアラミスを後ろから押して、階段から落ちないように上がって行った。
「そこらへんで寝るんじゃないぞ」
辛うじて開いた戸口からアラミスを押し込んで声をかけた。アラミスは押されたせいで1、2歩よたつきながら、部屋の机に手を付いた。がつんと、膝を机の脚に引っかけた音がした。
「いっ…たぁ…」
「何やってんだ」
室内に入るのは少し躇いがあったが、アトスはアラミスのそばに近付いた。
「馬鹿だな」
「……あいつも、そう、言った」
「え?」
膝を擦りながら、アラミスがアトスを見上げた。
「ローシュフォールだよ。僕たちが、大馬鹿だってさ」
「……」
「ま、そうかもな。あいつにしてみればそうかもしれないからな」
アトスは黙ったまま自分の帽子を外し、更にアラミスの帽子を外して机の上に乗せた。
「云いたいことは、はっきり云えよ。アトス」
帽子に目をやっているアトスに、思い切ってアラミスは聞いてみた。アトスは不思議そうにアラミスを見返した。
「云いたいことなど、何もないが?」
「へえ、そう」
何だ、では私の思い込みか。気にし過ぎだったか。
アトスの帽子をひょいと手にすると、アラミスは彼に背を向けてふらつきながら戸口へと向かった。
「お休み、アトス。変なことを聞いて悪かった」
開いたままの戸口へ優雅に手を振って彼を誘うと、アトスはしっかりとした足取りでアラミスの前に立った。
「…気にするな。お前らしくないぞ」
アトスは、アラミスの手から彼の帽子を受け取ろうとしながら答えた。途端にアラミスが帽子を外に放り投げ出した。
「アラミス!」
「らしくない? ああ、そうかもね、けっこう酔っ払ってるし!」
眉を顰め、アトスは手を腰に当ててアラミスを睨んできた。が、負けまいとアラミスは拳を握り締めて叫んだ。
「君はそうやって、いつも黙っているんだ!」
「……」
「お休み!」
アラミスは金髪を強く振って顔を横に向けた。
カツッと、アトスのブーツの音が立てられた。
一瞬音に気を取られたアラミスが、視線を靴の先へと向けた時、突如アトスの手が伸びてきた。アトスはアラミスの顎に手をかけ、彼女の顔をむりやり自分の方へと向かせた。
「云わせたいのか?」
「……アトス…」
ふたりの視線が絡まった。アラミスはアトスの鋭い視線に思わず眼を逸らした。
「え? どうなんだ。何が聞きたい」
「……」
「云いたいことがあるのはお前の方じゃないのか」
「僕が? 放せよ、暑っ苦しい」
顎にかけられた手をアラミスは振り解いた。が、手は離れたものの、アラミスの顔のすぐ間近にアトスの顔が迫って来た。思わず後退ると、アラミスの背は扉にぶつかった。その拍子に扉が勢いづいて閉まる。
室内は真っ暗になり、アラミスにもアトスにも互いの顔さえ見えなくなった。アトスはそれ以上動かない気配だったが、もし今自分が顔を動かせば彼に触れてしまう。アラミスはただぎゅっと目を瞑った。
眼を瞑ったことで、自分の動悸がアトスに聴こえるのではないかと思う程激しく高鳴るのを感じた。
暗闇の中でアトスは何も云わなかったが、その手でアラミスの頬に優しく触れて来た。
「アトス!」
堪り兼ねて、アラミスが声を上げる。アトスは彼女の肩を引き寄せ、更に顔を近付けてきた。アラミスは目を開き、震える手でアトスの肩を押し戻そうとした。
段々と闇に眼が慣れてくる。それを助けるように、月明かりが窓から忍び込む。闇を散らし、互いの姿を照らし出す。月光に浮かんだアラミスの顔は蒼白だった。
アトスの一方の手はアラミスの頬に触れ、唇は今にも触れ合いそうになる。だが互いの息が交わらんばかりのところで、アトスはアラミスを深く見つめ続けた。蒼白のアラミスの顔は、昼の銃士の面影を留めていなかった。瞳は酔ったせいもあって熱く潤み、親友であるはずのアトスの態度に怯えていた。
胸の鼓動が高まる中、アラミスは顔を逸らすこともままならず、そのまま目を見開いてアトスに対した。どの位の間そうしていたのか、しばらくしてアトスはふっと意味ありげに笑うと、彼女の肩から手を放した。そして半歩程アラミスから離れながら、彼女の金髪をひと房手に取った。
「そうなんだよな」
「…何?」
アトスは唇を歪ませた。そして、アラミスの流れる絹糸のような金の髪を人差し指に戯れさせた。
…あいつも、捕まったって訳か…。
アラミスの金糸は、指の間からさらさらと落ちて行った。アトスは、茫然としているアラミスの身体を退して、閉まった扉を開いた。
「何が、そうなんだ、アトス」
アトスの腕を目にしながらアラミスはできるだけはっきりと聞いた。ところがアトスは彼女を見つめながらも、表情を変えようとしない。
「……別に」
「アトス!」
何だってこの男ははっきり言わないんだ。まるで鼻で笑っているみたいに私を見る。
「お休み、明日は寝過ごすなよ」
アトスは可笑しそうにくすくすと笑い、アラミスの頭をぐしゃりと掻き回した。
「止めろって」
頭を振るアラミスをぽんと叩くと、するりと戸から出て行った。階段を走るように降り、アラミスが放り投げた自分の帽子を拾うと、それを後ろで見ているであろう彼女に背を向けたままひと振りして、帰っていった。
「ア、アトスのばかやろうっ。何とか云えばいいだろ!」
思いっきりアラミスは扉を閉めた。
「くっそっ…何が云いたいんだ……」
アラミスは天井を仰いだ。
どうして声が震えてくるんだ。
唇から小さな声が洩れた。
「何を彼から尋こうっていうんだ、私は!」
突然、ローシュフォールの口付けが生々しく思い出された。その上にアトスの不思議な声が反響する。
そうなんだよな…
右の掌がいつの間にか唇に当てられていた。ローシュフォールが触れた唇、アトスが触れた頬、俄かに熱を持ってきているようだった。
「…あんなのは、私……」
アラミスは寝室へと駆け出して行った。
「君の、おごりだからなっ」
アラミスがにっこり笑って確認すると、
「勿論。君の快気祝いだからね」
と、アトスは笑みを浮かべた。
「快気祝いね、君が遅れたせいで、僕の怪我の治りが少し遅くなったんだぞ」
「そりゃ、悪かった」
「わかっているんならいいさ」
運ばれてきた葡萄酒を、アトスがまあ機嫌直せ、とばかりにアラミスのグラスに注いだ。グラスに満たされた紅の液体を、一息に喉に注ぎ入れると、ふうっとアラミスは息を解いた。先刻のよりはかなり良い酒だ。
飲み終って何となくグラスを見ていると、再びトポトポとアトスが酒を注ぎ足してきた。
「良い酒だろ?」
顔を上げたところへ、アトスが自慢気に言ってきた。
「…うん」
取り敢えず素直にアラミスは答えた。アトスも自分のグラスにたっぷりと注ぎ入れ、喉を震わせながら実に美味しそうに葡萄酒を飲んだ。
「今夜はもう随分飲んだみたいだが、こういった酒はまた違った趣があってじっくりと飲ませてくれるのさ」
「…酒飲みらしい言い方だな」
「遅くなった言い訳さ」
勤務が終わって真っ直ぐ店に来ようとしたのだが、恋煩いのダルタニヤンに捕まって、ひとしきりコンスタンスの話を聞かされたんだ。とアトスはアラミスに話した。
「なるほど、あいつらは結構うまくやってるんだね」
「どうかなぁ、コンスタンスに振りまわされてるって感じが、なきにしもあらずだな」
アトスはすでにもう何杯目かの杯を立て続けに空けている。
「そこがまたいいんだよ、きっとね」
アラミスは数年前の自分と許婚者フランソワとの幸せな頃を想い出していた。彼も私に振りまわされている、と笑って言っていたっけ…。
「君もそう思うのか?」
突然問われて、アラミスはアトスをちらりと眺め、「ところで、そこの鳥も食べたいんだが?」と、さりげなく話を逸らした。テーブルにはいつの間にか、大皿にはみださんばかりの鳥の丸焼きが乗っていた。
「いやあ、気付かなかった。どうぞ、どうぞ」
「空きっ腹に酒ばかりじゃ、身体を壊すからな」
ナイフとフォークを手にして、アラミスは鳥に向かった。手は器用に食器を操り、肉をさばいていく。
『さっきのこと… 君は何も聞かないんだな。見ていたんだろう?
…良い酒を注文しのは、遅れた詫ばかりでないんだろう?』
アラミスは、黙々と食器を動かし続けた。
『君はいつからあそこに居たんだろう……』
焼けた鳥の美味しそうな匂いが立ち込める。二人で食べ尽くすには量が多い気がするが構わずに作業に取り組んだ。
何かしていなければ、先刻のことを思い出してしまうし、アトスに何かを聞くのも躊躇われる。アトスが現れる前のあの出来事は余りにも驚くべきことだった。あのローシュフォールが、まさかあのようなことをするなんて、いったい誰が想像できるっていうんだ。不可抗力だったんだ。私が悪いわけじゃない…。
だから、沈黙こそは良しとして気を紛らわそうとしているアラミスだった。そして、一応はアトスに気を遣って、さばいた肉を彼の皿にも盛ってあげた。
「いつ見ても、そのさばき方は上手いもんだ。ポルトスも、君のナイフとフォークの使い方は魔術のようだと褒めていたものな」
珍しくアトスはアラミスのことを褒めてくる。こういった役回りは、どちらかというとダルタニヤンか、ポルトスなのだが。アトスはアトスなりにアラミスに気を遣っているようだった。
「使えない方が変なんだ」アラミスはぽつりと答えた。「だいたい、剣の使い手ともあろう剣士が、鳥の一羽ぐらいさばけなくてどうする」
「そうだな、もっともだ。だが、人間、不得意分野というものがあるのだ」
アトスはにやりと笑って、いつものようにアラミスを見返した。
「ほら、出来たぞ。食え」
「ご苦労さん」
アトスは右手にフォークを持つと、待ってましたとばかり、肉を思いきり頬張った。そしてアラミスも。2人が葡萄酒と鳥を代わる代わる食していると、もうひとつの注文品である野菜シチューも運ばれてテーブルは更に賑やかになった。
その後、たらふく食べて飲んだ彼らは店を後にした。2人ともかなり酔いが回っていた。特にアラミスはアトスと店に入る前に飲んでいたのだから当然だった。
「大…丈夫か?」
「これぐらい、何とも、ないさ」
それにしても暑いな、と呟いた。ふらつきながら歩を進める。
今夜のアラミスはいつも以上に酒杯を空けていた。ローシュフォールとのことも、飲めば忘れられると思っていたのだが、一向に効き目はなかった。飲む程に、どうも眼の前の人物に見られたということが気にかかってしようがないのだ。
足元が覚束なくなる程飲んだってのに、気分は全く治らないじゃないか! だいたい、なんでアトスは何も言わない。別に聞かれたって困るが、こうやってはぐらかされているようなのは気分が悪い。折角良い葡萄酒を飲んだのに!
「いいよ、一人で歩けるって」
身体を支えてきたアトスの腕を振り払い、アラミスはふらふらと歩き出した。
「意地っ張りなんだから」
「何か言ったか、アトス!」
「いや、何も」
「ふん! ふん、ふん!」
何かさ、言いたいことがあればはっきり言えばいいじゃないか!
アラミスが手を払った後、アトスはアラミスを面白そうに見ていた。先刻、見られたことをかなり気にしているみたいだなと、わかってはいるのだ。
アトスは、アラミスに話したように確かにダルタニヤンに捕まっていた。ポルトスは夜勤だし、トレヴィル邸でこのような戯言(アトスにすれば)を話すのはどうかと思い、ダルタニヤンに一緒に飲みに行かないかと誘おうとした。が、誘ってみると彼はコンスタンスと夕食を約束していると言ってアトスの誘いを断ってくる。何のことはない、ダルタニヤンは彼女との約束の時間までの暇つぶしに彼を呼び止めただけだったのだ。
アトスは、アラミスがひとりで居ると決まって揉め事を起こすのを知っていたし、早足で約束の店へと向かった。店に着いてみると、中は荒れ放題で一目で何があったのか想像はついた。ところが店にはアラミスも、アラミスの相手になったであろう面倒を起こした者たちも居なかった。すぐに店の者がアトスを見つけて、アラミスとローシュフォールが2人して出て行ったと彼に教えてくれた。
アトスは店の者が指差す方角へと歩いて行き、角を曲がった時にふたりを見たのだ。
始めはローシュフォールの後ろ姿しか眼に入らなかった。彼のマントが翻り、その奥に金糸を見た時、何が起きているのかを理解した。
「おい、どこまで行く。お前の家はここだろうが」
いつの間にか2人はアラミスの家の前に来ていた。アトスは自分の家を通り過ぎようとしていたアラミスの袖を掴んだ。
「あー本当だ。僕の家だ」
かなり酔っているな、アトスはやれやれと手を広げた。掴んでいた袖をいきなり放されたので、アラミスの身体がぐらりと傾いだ。
「しっかりしろ」
「僕は、しっかりして、る」
駄目だ、完全にやられている。アトスはアラミスを後ろから押して、階段から落ちないように上がって行った。
「そこらへんで寝るんじゃないぞ」
辛うじて開いた戸口からアラミスを押し込んで声をかけた。アラミスは押されたせいで1、2歩よたつきながら、部屋の机に手を付いた。がつんと、膝を机の脚に引っかけた音がした。
「いっ…たぁ…」
「何やってんだ」
室内に入るのは少し躇いがあったが、アトスはアラミスのそばに近付いた。
「馬鹿だな」
「……あいつも、そう、言った」
「え?」
膝を擦りながら、アラミスがアトスを見上げた。
「ローシュフォールだよ。僕たちが、大馬鹿だってさ」
「……」
「ま、そうかもな。あいつにしてみればそうかもしれないからな」
アトスは黙ったまま自分の帽子を外し、更にアラミスの帽子を外して机の上に乗せた。
「云いたいことは、はっきり云えよ。アトス」
帽子に目をやっているアトスに、思い切ってアラミスは聞いてみた。アトスは不思議そうにアラミスを見返した。
「云いたいことなど、何もないが?」
「へえ、そう」
何だ、では私の思い込みか。気にし過ぎだったか。
アトスの帽子をひょいと手にすると、アラミスは彼に背を向けてふらつきながら戸口へと向かった。
「お休み、アトス。変なことを聞いて悪かった」
開いたままの戸口へ優雅に手を振って彼を誘うと、アトスはしっかりとした足取りでアラミスの前に立った。
「…気にするな。お前らしくないぞ」
アトスは、アラミスの手から彼の帽子を受け取ろうとしながら答えた。途端にアラミスが帽子を外に放り投げ出した。
「アラミス!」
「らしくない? ああ、そうかもね、けっこう酔っ払ってるし!」
眉を顰め、アトスは手を腰に当ててアラミスを睨んできた。が、負けまいとアラミスは拳を握り締めて叫んだ。
「君はそうやって、いつも黙っているんだ!」
「……」
「お休み!」
アラミスは金髪を強く振って顔を横に向けた。
カツッと、アトスのブーツの音が立てられた。
一瞬音に気を取られたアラミスが、視線を靴の先へと向けた時、突如アトスの手が伸びてきた。アトスはアラミスの顎に手をかけ、彼女の顔をむりやり自分の方へと向かせた。
「云わせたいのか?」
「……アトス…」
ふたりの視線が絡まった。アラミスはアトスの鋭い視線に思わず眼を逸らした。
「え? どうなんだ。何が聞きたい」
「……」
「云いたいことがあるのはお前の方じゃないのか」
「僕が? 放せよ、暑っ苦しい」
顎にかけられた手をアラミスは振り解いた。が、手は離れたものの、アラミスの顔のすぐ間近にアトスの顔が迫って来た。思わず後退ると、アラミスの背は扉にぶつかった。その拍子に扉が勢いづいて閉まる。
室内は真っ暗になり、アラミスにもアトスにも互いの顔さえ見えなくなった。アトスはそれ以上動かない気配だったが、もし今自分が顔を動かせば彼に触れてしまう。アラミスはただぎゅっと目を瞑った。
眼を瞑ったことで、自分の動悸がアトスに聴こえるのではないかと思う程激しく高鳴るのを感じた。
暗闇の中でアトスは何も云わなかったが、その手でアラミスの頬に優しく触れて来た。
「アトス!」
堪り兼ねて、アラミスが声を上げる。アトスは彼女の肩を引き寄せ、更に顔を近付けてきた。アラミスは目を開き、震える手でアトスの肩を押し戻そうとした。
段々と闇に眼が慣れてくる。それを助けるように、月明かりが窓から忍び込む。闇を散らし、互いの姿を照らし出す。月光に浮かんだアラミスの顔は蒼白だった。
アトスの一方の手はアラミスの頬に触れ、唇は今にも触れ合いそうになる。だが互いの息が交わらんばかりのところで、アトスはアラミスを深く見つめ続けた。蒼白のアラミスの顔は、昼の銃士の面影を留めていなかった。瞳は酔ったせいもあって熱く潤み、親友であるはずのアトスの態度に怯えていた。
胸の鼓動が高まる中、アラミスは顔を逸らすこともままならず、そのまま目を見開いてアトスに対した。どの位の間そうしていたのか、しばらくしてアトスはふっと意味ありげに笑うと、彼女の肩から手を放した。そして半歩程アラミスから離れながら、彼女の金髪をひと房手に取った。
「そうなんだよな」
「…何?」
アトスは唇を歪ませた。そして、アラミスの流れる絹糸のような金の髪を人差し指に戯れさせた。
…あいつも、捕まったって訳か…。
アラミスの金糸は、指の間からさらさらと落ちて行った。アトスは、茫然としているアラミスの身体を退して、閉まった扉を開いた。
「何が、そうなんだ、アトス」
アトスの腕を目にしながらアラミスはできるだけはっきりと聞いた。ところがアトスは彼女を見つめながらも、表情を変えようとしない。
「……別に」
「アトス!」
何だってこの男ははっきり言わないんだ。まるで鼻で笑っているみたいに私を見る。
「お休み、明日は寝過ごすなよ」
アトスは可笑しそうにくすくすと笑い、アラミスの頭をぐしゃりと掻き回した。
「止めろって」
頭を振るアラミスをぽんと叩くと、するりと戸から出て行った。階段を走るように降り、アラミスが放り投げた自分の帽子を拾うと、それを後ろで見ているであろう彼女に背を向けたままひと振りして、帰っていった。
「ア、アトスのばかやろうっ。何とか云えばいいだろ!」
思いっきりアラミスは扉を閉めた。
「くっそっ…何が云いたいんだ……」
アラミスは天井を仰いだ。
どうして声が震えてくるんだ。
唇から小さな声が洩れた。
「何を彼から尋こうっていうんだ、私は!」
突然、ローシュフォールの口付けが生々しく思い出された。その上にアトスの不思議な声が反響する。
そうなんだよな…
右の掌がいつの間にか唇に当てられていた。ローシュフォールが触れた唇、アトスが触れた頬、俄かに熱を持ってきているようだった。
「…あんなのは、私……」
アラミスは寝室へと駆け出して行った。
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