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うろほろぞ
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堂島家の小さな異変は、朝早くに起きた。
「おはよう、遥ちゃん」
朝食の支度を済ませた居間へ、一番早くやってきたのは弥生だった。東城会を息子に任せたとはいえ、彼女には何かとやること
が多い。今日もいくつか予定があるらしく、それに間に合わせるため早く現れたというわけだ。遥もそれを心得ているらしく、特に
戸惑う様子もなく、明るく挨拶をした。
「おはようございます」
弥生は久しぶりに聞く遥の挨拶を聞き、嬉しそうに目を細める。少し前、彼女が桐生と沖縄へ行ってしまった時は、まるで今生の
別れをしたような寂しい心持だった。しかし、遥は沖縄へ住まいを移しても、頻度は減ったものの、堂島家へ何度も遊びに来てく
れている。おかげで、堂島家の空気が再び明るくなったが、申し訳なく思うのも確かだ。弥生は席に着いて苦笑を浮かべた。
「遥ちゃん。前ならまだしも、今は遠いところから来ていて疲れてるのだから、食事の支度なんてしなくていいんだよ。ゆっくりおしよ」
「はい、ありがとうございます」
遥は柔らかく微笑んで礼を言う。しかし、すぐに首を振って弥生を見つめた。
「でも、私あさがおでも毎日同じ事してるんです。こっちに来て急にやめちゃうと、怠け癖がついちゃいますから、やらせてください」
「でもねえ」
「それに、弥生さんのおうちは、用意する食事の量が少ないから、あさがおより楽なんですよ。あさがおのみんなって、朝でも
 沢山食べるから、食事作るのだって汗だくなんです!もう、すごいんですから、こーんな大きなお鍋にいっぱいカレーを作って……」
遥はさりげなく話をそらし、弥生の気遣いを受け流してしまう。どうやら何があっても家事を譲る気はないようだ。弥生は少し呆れ
つつ、遥が楽しげに語る沖縄の話を聞いていた。
「おはよ」
不意に、居間へ素っ気無い声が聞こえた。堂島家の食卓につく最後の一人が、ようやく登場だ。遥と弥生はそれぞれの表情で
その人物を迎えた。
「おはよう、お兄ちゃ……」
「遅いじゃないのさ。折角遥ちゃんが温かい朝御飯を……」
二人は、居間に入ってきた大吾を見るなり、きょとんとして言葉を失う。大吾は二人の反応に気付き、わずかに顔を曇らせた。
「なんだよ」
弥生と遥は一旦顔を見合わせ、首を傾げる。そして、再び大吾を見上げて指差した。
「だって、大吾あんた」
「前髪ないよ」
二人は驚きを滲ませた声で指摘する。そう、今日の大吾はいつもの前髪を下ろしていた髪型とは違って、無造作にオールバック
にしていた。驚きすぎだろ。大吾は顔をしかめ、自分の席に腰を下ろした。
「いいだろ別に、どんな髪型しようが」
「いや、別にいいんだけどねえ」
弥生は肩を竦め、しげしげと大吾を眺める。遥は彼に身を乗り出したかと思うと、真剣な顔で声を潜めた。
「お兄ちゃん……気になるのはわかるけど、一生懸命隠すより、堂々としてたほうがいいと思うよ」
「てめえ……誰が薄髪に悩むオヤジだコラ……!」
大吾は唸るように声を上げ、遥の頭に拳骨をぐりぐり押し付ける。遥は小さく悲鳴を上げ、頭を抑えながら身を引いた。
「だ、だって、お兄ちゃんが急にそんな髪型にするから!何で変えちゃったの?」
「教える義理はねえ。遥、飯!」
あっさり回答拒否し、大吾は遥を促す。取り付く島がないなあ。遥が不満げに大吾の御飯をよそっていると、弥生が何もかもわか
ったような顔で、遥に告げた。
「放っときなさいな。大方、歳より若く見られて幹部に舐められるからって、無駄な努力してるだけなんだから」
「そんなんじゃねえよ!知ったような口きくんじゃねえ!」
大吾は即座に弥生を怒鳴りつける。どうやら図星のようだ。なんてわかりやすい子だろうね。弥生はやれやれとおいう風に首を
振った。
「ああ、やだやだ。見てくれだけいじったって、中身が伴わなかったら意味ないってのにさあ。その短絡的なとこ誰に似たんだろう
 ねえ。間違っても私や宗兵さんじゃないね」
「オイコラ、そんじゃ俺は誰のガキだ、ああ!?上等だ、今からでも堂島の名前捨てて、別の人生突っ走ってもいいんだぞ!」
「……だってさ。遥ちゃん、大吾が仕事放り出して新しい人生に旅立つそうだから、あなた養子に貰ってやってちょうだい。沖縄で
 二人仲良く『あさがお』やりなさいな。あ、その時は桐生をこっちに戻しておくれね。大吾よりは役に立つから」
「よ、養子って、なに素っ頓狂なこと言ってんだよ!あとな、さりげに桐生さんと俺のトレード交渉するな!遥が真に受けたら……」
「真に受けるほど、もう子供じゃないよ。お兄ちゃん」
二人の言い合いを黙って聞いていた遥は、困ったように笑う。そして、大吾へ御飯をよそった茶碗をそっと差し出した。
「はい、御飯」
「……あ、ああ」
大吾は小さく頷いて茶碗を受け取る。遥がそんな大人びた物言いをするから、なんだか一人で騒いでたのが、途端に恥ずかしく
なってきた。彼は不機嫌に箸を取り、朝食を食べ始めた。そんな大吾を、弥生は呆れた様子で眺め、遥は何か物思う様子で見つ
めていた。


 遥にとっては久しぶりの本部だったが、組員達は相変わらず優しかった。顔を合わせれば、沖縄の話を聞いてきたり、遥のいな
い間に東城会であったことや、大吾のことなどを話してくれた。沖縄に来てからも堂島家へ行くことに、桐生はひどく渋い顔をして
いたが、説得して来てよかったと思う。遥は嬉しそうに組員達との触れ合いを楽しんだ。
 一通りの組員と話し終えた後、遥は会長室へ向かった。忙しいかな。少し不安に思いつつ扉をノックすると、中から大吾が返事
をしてきた。
「入れ」
扉を開けて顔を覗かせれば、大吾は仕事の手を止め、一服しているところだった。丁度良かったかも。遥は顔をほころばせて
部屋に足を踏み入れた。
「なんだ、遥か。土産話は終わったのか」
大吾は遥に気付くと、煙草を消して肩を竦める。遥は小さく頷いて、彼の横に立った。
「話しすぎて、喉乾いちゃったくらい」
肩を竦める遥を見て、大吾は穏やかに笑う。それがいつになく落ち着いて見えるのは、髪形のせいだろうか。遥は黙って大吾の
横顔を見つめた。
「なんだよ」
窺うような視線を感じ、大吾は遥へ怪訝に首を傾げる。遥は慌てて首を振った。
「う、ううん。なんでも、ないよ」
「あ、そ」
大吾は素っ気無く呟き、少し疲れた様子で遠くを見つめる。遥は黙って立ち尽くしていたが、ふと口を開いた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「あのね、その髪型……ずっと、そのまま?」
「はあ?」
思いがけない質問に、大吾は目を丸くして遥に顔を向ける。遥は胸の前で組んだ両手を揺らしながら、ちらりと大吾を見た。
「私ね、その髪型もお兄ちゃんに似合ってると思うよ、思うけど、前の髪型の方が好きだったなあ、なんて」
遥の声は、だんだん小さくなっていく。我侭なことを言っていると、自覚しているのだろう。でも言わずにはおれないのか、少し
迷うように視線を落とした後、そっと続けた。
「今のお兄ちゃんは、とっても会長さんらしいけど、ちょっと、遠い、なって」
「遥」
「寂しい、なって」
それきり、遥は黙り込んでしまった。大吾は俯く彼女を困ったように眺めた。会長らしくなろうと、しっかり見せようと思ってやって
んだから、いいじゃないかと思う。だが、そう思っているのに、どうして胸が痛いのだろう。こんな小さな女の子に、少し頼りない
ことを言われたくらいで。
――お袋の言う通り、中身が外面に伴ってねえのか、単に遥に弱いだけか。
大吾は不意に大きく溜息をつく。遥が不安げに大吾を覗き込んだ時、彼は舌打ちして前髪を乱暴に下ろした。
「お前がいる時だけだからな」
驚いている遥にちらりと視線を送り、大吾はぶっきらぼうに言い放つ。遥は短い沈黙の後、顔を輝かせて大きく頷いた。
「うん!ありがとう、お兄ちゃん!」
遥は礼を言い、ふと大吾の机の引出しを探り出した。
「ね、ね、お兄ちゃん。ここに櫛があったよね?私が前みたいにしてあげる!」
「そりゃどうも」
大吾は遥に明るい笑顔が戻ったことに、ようやく安堵する。しかし、それを表に出す気はないのか、至極ぞんざいに促した。
「早くしろよ。組員がこういうとこ見たら、妙にニヤニヤして鬱陶しいんだよ」
「うん、すぐする、すぐ!私、お兄ちゃんの髪型、ちゃんと覚えてるもん!」
引出しから櫛を探し出した遥は、弾んだ声を上げ、嬉しそうに笑う。大吾もつられるようにそっと微笑み、遥に向き直って少し屈ん
だ。遥の手が髪に届きやすいように。
 その後、大吾がすっかり元の髪型に戻ってしまったことで、組員達は揃って首を捻ることとなる。本人に尋ねてみようとも思った
が、大吾自身が満足そうだったし、それ以上に遥が嬉しそうだったので、皆はそれでいいと思うことにした。
以来、遥が本部に現れる時は、決まって大吾の髪型が昔に戻るらしい。

―終―

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難しい顔をして、彼はパソコンの画面を睨み付けていた。
 私は遅めの朝食を用意しながら、掃除をする。
 部屋にはどこかで聴いた曲が流れていた。

 私には彼が今している仕事の細かい内容はわからない。
 けれど彼は彼女に私を「相棒」だと告げた。
 


 人間には適材適所というものが在るのだという。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 最後にみんなで飲んだあの日、彼は新しく仕事を始めようと思うと言った。
 本当のところ私はほんの少しだけ複雑な心境だったけれど、これから忙しくなると彼がこれまでにない表情をするのは素直に嬉しかった。
 これからやっと、何にも縛られずに新しくやっていく気になったということなのだから。
 私達4人は笑顔で祝杯を挙げた。



 酔い潰れたマーヤは始末に負えない。
 普段の更に3割増しで陽気に騒いだかと思えば、突然糸が切れた様にどこででも眠り込んでしまうのだ。
 周防さんも強いわけではないようで、マーヤの無茶なペースに付き合わされた挙句仲良くふたり、肩を寄せ合って寝息を立てている。


 私は酔うこともなく、黙って盃を重ねた。
 隣には彼がいる。
 同じ灰皿を使うほど、こんなにも近い位置にいるのは初めてかもしれない。
 そんなささやかなことが私に幸せをくれる。
 今感じているこの気持ちは、多分正しく伝えられはしないだろうけれど。


 気詰まりでない沈黙はどれだけ続いたのか、ふと彼が口を開いた。
「…お前はこの先どうすんだ?」
「会社…はもうクビかなぁ。大分休んじゃったしね」
「そうか…」
 取材名目で外に出られていたマーヤ、謹慎中だった周防さん、学生の達哉くん、自由業の彼。
 普通に勤めていた私には生活に支障が有ったけれど、後悔していなかった。
 もともと明確な目的もなく就いた仕事だ。
 それなりにきたけれど、もう充分に自分はやり遂げたと思う。
「次は自分のホントにしたいことしよっかなってね」
「もう、決めたのか?」
「なにするか、とかはまだわかんないけど、さ」
 何杯目になるか判らないグラスを一息に空けて隣に笑いかける。
 と、彼は思いのほか真剣な顔をしていた。
「な…なによぅ」
 空気に気圧される。
 彼は前を向いていた。
 きっと、会話をしている間中ずっと、私のことなど見ずに。


 なんだか感傷的な気分になった。
 言葉を探そうとして、止める。
 俯きかけて、代わりに彼と同じ方向を見つめた。
 届かなくても解らなくても、届きたいし解りたいと思う。
 彼の目に、私が映っていなくても。



 それから閉店時間になるまでなんとなく言葉を交わさずに、私達はその場を後にした。



「ほらマーヤ起きて!…悪いけどパオ、周防さん頼むね」
「仕方ねぇな…こんなんで刑事が勤まんのかぁ?」
 文句を言いながらも完全に潰れてしまった周防さんに肩を貸して、後ろ手を振り彼はそのまま去って行こうとする。
「あ…ちょっとぉ!」
 気付くと呼び止めていた。
 2、3歩進んだところで怪訝そうに彼が振り返る。
 なんでもないとは流せずに、口を開いた。
「あのさ、…また、会えるよね…?」
 もう日々を共にする理由はない。
 側にいたいのは自分の我が侭で。


 これまで、幸せになることばかり考えてきた。
 相手がどんな人間だからかじゃなくて、外見や収入やステータスに恋をしていた。
 今抱えているこの気持ちがなんなのかはっきりとは言葉にできないけれど、誰より彼を大切に想う。
 彼の与えてくれる物はなんでも大事だし、彼がなにか望むならば喜んで叶えたい。
 私がなにを感じるかより彼の意思を尊重したいと、そう思う。


「ヒマになったらさ、またみんなして遊ぼうよ?」
 邪魔はしたくないから、がんばって笑う。
「芹沢…?」
 不意になぜか、彼が近づいた。
「なに?」
「お前、…目から水垂れてるぜ」
 頬に触れる手に、覚えず落としていた滴を知らされる。
 街灯をサングラスが反射して、彼の表情は見えない。
「きっと、酔ってるからよ」
「…そう、かもな」
 気を抜いたら縋ってしまいそうな身体を、必死に心で押し留める。
「そうよ。…アンタ、私に触んの初めてね」
 どうやっても止められない涙を拭って、そっと掌を外した。
 今度こそ本当に離れる時間だと、自分に言い聞かせる。


 側を通る車のクラクションを合図に背を向けた。
 彼のしたように後ろ手を揺らして、半分眠ってしまっているマーヤを引っ張りながらゆっくりと離れる。
 見送る視線をなんとなく感じたけれど、振り返らなかった。



 家に帰り着いたのは明け方になってからだった。
 大通りでなんとか拾った車に乗った途端起きだしたマーヤが気分が悪いと騒ぎ出し、歩いて帰る羽目になったのだ。
 都合が、よかったかもしれない。
 引っ張るためにつないだマーヤの手は温かくて、自分はひとりじゃないと思わせてくれた。
 夜の冷気にだんだんと酔いが覚めて、それとともに涙も少しずつ収まっていった。
 なんとかマーヤをベッドに運んで軽くシャワーを浴びた頃には気持ちの整理も付き始めていた。


 結局私は好きなのだ。
 他の誰でもなく、彼のことが。


「馬鹿ねぇ、うらら…」
 呟いて、自分の部屋のベッドで膝を抱える。
 ふと視界に入ったカレンダーの書き込みに、そういえば明日はまたお見合いパーティだったと思い出した。
 あんな事件に巻き込まれて、彼に出会って。
 たった2週間ほどしか経っていないのに、なにもかもが変わった。
 先払いした料金のことを思うと癪に障るけれど、予約したパーティももう行く気がしない。
 自分にはもう、必要のない物だから。

 いろいろ考え出すとまた意思とは関係なく涙腺が緩んでしまいそうで、とりあえず毛布をかぶった。
 目を閉じて、暗闇に身体を委ねる。


 ―――――と、携帯が鳴り始めた。
 せっかく、眠ろうとしていたのに。
 頭に来て、誰からかも確認せずに留守録に切りかえる。
 一拍置いて、赤い光が小さく明滅した。
 どうやらちゃんとメッセージを吹き込んでいるらしい。
 悪戯電話の類ではないようで、録音されているまま電話に耳をつけた。
『…もし、良けりゃだがな』
 電話越しに声を聴くのは初めてで、瞬間、判らなかった。
 さっき、別れたばかりの声。
『やりたい事が見つかるまでの間…手伝いに来られるなら来い』
 偉そうで、飾り気も素っ気もない口調。
 でも本当は誰より優しい事を、知っていた。
 こんな、風に。
 急に目の前で泣き出した私を見かねて、かもしれない。
 私の気持ちに、気付いているからかもしれない。
 同情でも構わない。
 


 出る間もなくきっちり30秒で切れた録音を何度も何度も聴き返しながら、私は声を上げて泣いた。
 ひとしきり身体中の水分を搾り出した後最初にしたのは服を選ぶことだった。
 新しい仕事の雇い主である彼に、会いに行くための。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「パオ、ご飯!」
 強く言わないとパソコンの前から離れようとしない彼は、仕事熱心というよりゲームに集中する子供のようだ。
「…なに、笑ってんだ?」
「なんでも~」
「……阿呆」
 憮然とした顔が更におかしい。
 笑い続けていると、彼は先にテーブルへ行ってしまった。


 あれから、一月が経つ。
 仕事も少しずつ軌道にのってきて、毎日が充実していた。
 危なっかしいという理由で大したことはさせてもらえていないけれど、「相棒」としてはいつか目にモノ見せてやろうと考えていたりもする。


 そしてひとつ、解った事がある。
「ねぇパオ、あの日ホントは最初っから、アタシのことスカウトする気だったんでしょ?」
 炊き立てのご飯を手渡しながら言うと彼は一瞬詰まって、けれどいつも通りシニカルな笑みを浮かべた。
「んなわけあるかい。どっかのガキがぴゃあぴゃあうるせぇから拾ってやったんだよ」
「…ったく素直じゃないんだから」
 負けずに言い返す。
 しばらく戯れに睨み合って、同時に笑い出した。



 人間には適材適所というものが在るのだという。



 本当の居場所や成すべき事はまだ判らなくて、それでも祈っていることがある。
 どうか私にとって彼の側が本当の居場所で、彼と共に過ごすことが私の成すべき事でありますように。

「今日って仕事早く終わりそう?」
「多分、な」
「そしたらさ、久しぶりにみんなで飲みに行こうよ」
「…阿呆が酔っ払って絡まなきゃなぁ?」
「またそんなこと言う!」

 今、自分があの日言った「本当にやりたいこと」をできていると思えるから、どうかこのなによりも幸せななんでもない日常が、永遠に続きますように。
 




 祈りは通じると私は、信じる。

puu
土曜昼12時。

 食事の支度をしようと冷蔵庫の中身をチェックする、と。
 足元を灰色の物体が走り抜けていった。
 一瞬のことすぎて悲鳴は出なかったけれど、その代わり堪忍袋の尾が切れる。

「なんでこの事務所、こんなにボロいの!?」
 叫んで、丸めたエプロンをパソコンデスクへ投げ付ける。
「なんだぁ?」
「鼠よ!ネ・ズ・ミ!ここんとこ毎日見るのよぅ!!」
 偉そうに椅子に座るパオは目線すら上げない。
「見るだけならいいじゃねぇか」
「だけならね?でもどこでなに食べて来んだか知らないけどそこら中フンは撒き散らすし・・・
 だいたい不衛生じゃない!」

 前の日どんなに掃除をしても、次の朝には嘲笑うかのように点々と黒く小さなものが落ちている。
 お風呂場、流し、炊飯器の横からこの間はパソコンの上にまであった。

「もう、嫌…それにねぇ」
「それに?」
 パオは器用に片眉をあげた。
 でもまだ画面と仲良しのまま私へは向かない。
 余計に腹が立った。
「5万歩譲ってネズミ1匹なら我慢の範囲かもだけど仲良く親子連れ。
 ゴキブリホイホイは連日大盛況!おまけにそこの鉢植えはナメクジまみれ!!
 一体ここはなに、動物園?多摩?上野!?」
 言うだけ言ったら息が切れた。
 肩で呼吸しながら睨み付けるとようやくパオは顔を上げる。
「ここは珠閒瑠市だ。鼠なんだから子供ぐらい産む。
 ちゃんと掃除しねぇからフンは散らかるしゴキブリも出んだろ?この部屋の古さとは関係ねぇ」
「じゃあの鉢はなんだってのよ?」
「花の名前も知らねぇのか?ありゃ蘭だ。あいつが…美樹が好きだった花だよ」

 その時自分のこめかみから確かに、血管の千切れる音が聞こえた気がした。
「ホントに、プチっていうのね・・・」
「あぁ?」
 できるだけ冷静になろうと深く空気を吸い込む。
 それでも押さえ込めなくて横の壁を一発殴った。
 コンクリートにひびが入る。
 その傷に自分の感情を知った。
 私は、こんなに、怒ってるんだ。
「…アタシ、出てく」
「おい、」
「あとで働いた分の給料は請求するから。じゃね」

 あまりに興奮しすぎたからか頭が冴えていくのに合わせて、どうしようもなく力が抜けていく。
 何も考えないように最大限努力しながら事務所を出た。



 呆気なく背後で扉は閉まって、パオは追いかけて来なかった。





 アラヤ神社の石段に座って溜め息をつく。
 財布さえ持って来なかったから、缶ジュースすら買えない。
 だからといってまさか手水場の水を飲むわけにもいかないから、喉は渇いていたけれど我慢して膝を抱える。


 スーパーでもコンビニでもない場所を一人で歩くのは久し振りだった。
 ウインドーショッピングをする暇はないし、依頼人との約束はふたりで行く。
 仕事に昼夜がないことを理由に、事務所兼パオの部屋へ押し掛けてからは家までの往復もなくなって、必然的に食料買い出し以外で個別行動をしなくなっていた。

「一人のがせいせいするわ」
 部屋を飛び出してしばらくは楽しかった。
 サトミタダシクローンズはやっぱり同じ顔だったし、しらいしのおばちゃんからは相変わらず嘘か本当か判らない昔話をたっぷり聞かされた。
 ビキニラインでは無闇な歓迎を受けたし、葛葉では営業癖が出てつい商売仲間の顔で挨拶をしてしまった。
 あいつの昔のアジトは今瓦礫の下で近づいても場所が判らなかったから、少し周りを歩いただけで戻って来た。
 あの人のお墓に行ってこようかとも考えたけれど、なんだか自分が余計惨めになるようで止めた。

 最後に訪れたこの神社の境内には、来る度会ったあのおばあさんもいない。
 今、何時になるのだろう。
 もう陽は沈みかけている。
 気温も少しずつ下がり始めた。
 マフラーくらい、持ってくればよかった。

 薄暗い人気のない場所に独りで蹲っているせいで、どんどん思考が滅入ってくる。
 寒いと寂しいが似ているかどうかだなんてどうだっていいことなのに。
「レッツポジティブシンキング、か…」
 何度目かの溜め息のついでに何年も一緒に暮らした親友の口癖を、ふと思い出した。
 そういえば港南区にはまだ行っていなかった。
 マーヤはどうしているだろう。
 お互いに忙しくてしばらく会っていない。
「…様子でも見に行ってやるかな」
 携帯を忘れたから、連絡できない。
 突然行ったら迷惑かもしれない。
 第一、家にいるとは限らない。
 同居している間にもたまに取材が長引いて午前様になるのを見てきたし、周防さんとデートの可能性だってないとは言えない。

 どんどん弱気に飲み込まれてしまいそうになるのを頭を振って払う。
 立ち上がって軽く服を叩いた。
 ここにこうしてずっといるより、確実じゃなくてもまだ行き場があるのなら。
「レッツらゴー、ってね」
 マーヤの口癖をもうひとつ呟きながら、おなかが空いたなとぼんやり思った。



 ルナパレス港南703号室、ちょっと前までは私も住んでいた場所。
 8回目のインターホンを押しながら、さすがに半分以上諦めていた。
 マーヤのことだから寝ていて気付かなかったということも有り得ないではないけれど、それなら一層始末に悪い。
 TVのオンタイマーを目覚し代わりにセットして、その最大音量でもびくともせずに眠り続けた記録がある。
 電話のベルと食べ物の匂いにだけは素早い反応をするところは記者であり、マーヤらしいのだけれど。

 ともかくどうしよう。
 鍵は財布の中に入ったまま、手元にはない。
 港南署は近いし周防さんなら喜んでマーヤに連絡を取ってくれそうでも、わざわざ仕事場に私用で訪ねていくのは気が引ける。
 だいたい刑事さんを訪ねに警察へ、なんて悪いことをしたわけじゃなくてもぞっとしない。


 いつまでいても事態が好転するわけでもなくて、マンションを出てすぐの外壁に寄りかかる。
 これで今度こそ本当に向かうあてがなくなってしまった。
 どうしたらいいのか考え付かなくてただ目の前の海を見る。
 今日1日、行ける範囲は全部歩いたけれど、どこにも落ち着けはしなかった。
 皆で立ち寄った時にはあんなに緊迫した状況の中、それでも楽しかった所ばかりなのに、今日はどこにも居たたまれなくて。

 そういえばあの事件に巻き込まれる前も似たように感じていた。
 どこにも自分のいられる隙間がない、と。

 あの頃はただ空っぽでこの感覚の名前も知らなかった。
 でも今は解る。
「寂しい…」
 ひとりでいるのは、寂しい。
 誰でもいいわけじゃない、誰かの側にいたい。
 相手が認めてくれるなら、その隣が自分の居場所になる。
 そのことを言葉でなく教えてくれた人がいるから。
「パオ…」
 そして、パオがあたしの居場所なら、あたしはパオの居場所だと信じる。
 ひどい言い方かもしれないけれど、権利を瓦礫や墓石には譲りたくない。
「帰ん、なくちゃ」
 辺りは完全に真っ暗だった。
 普段なら夕食もとっくに済ませているような時間になっていそうで、急いで通りへ向かう。
 タクシーでも拾えばすぐに着く。
 食事をしながら謝ろう。


 いちばん近い街道へ出て思いきり手を振った。
 ほどなくして一台が目の前へ止まる。
 なぜかやけに見慣れたその車は、ドアの代わりに窓を開いた。
 運転手まで涙が出そうになるほど見覚えの有る、顔。
「こんな所で運動会の応援練習か?」
「…んなわけないでしょ。まだ…準備体操よ」
「そりゃ随分とまぁ気合いの入ったこって」
「まぁ、ね」
 皮肉げな笑みには、ない胸を反らして返す。
 睨むために目を合わせたら、感づかれてしまいそうだった。
 ここへ探して迎えに来てくれたことを、私が、どう思ったのか。
「で、パオはなにしにこんなとこまできたわけ?」
「住んでる街ん中で迷える全く有能な食事係を拾いに、だよ」
「…アンタの辞書に皮肉以外の言葉はないの?」
「見たことねぇな。…いいから早く乗れ」
「…うん」
 助手席側のドアを開けて、自分の居場所へ座る。
 パオは責めないし、私も言わない。
 だからそっと心の中で囁いておく。
 数え切れない程の謝罪と感謝。

 ゴメンナサイと、ありがとう。



「…ここあったかい」
「そりゃま外よりは、な」
 車が走り出してふと呟くと、信号待ちの合間、不意にパオが指先を掴んだ。
「冷てぇな」
「なら、あっためてよ」
「部屋へ帰ったら…な」
「手だけじゃなくて、ね」
 薄く笑って返事をしないまま青に変わってパオの手は離されたけれど、一瞬の体温で心が十分に満たされた気がしていた。





 そして部屋に着く寸前、ようやく思い出したことがあった。



 そういえば先週も先々週もそのまた前も、全く同じ理由で全く同じ1日を過ごしたような気がするな、と。
Er
*FOR ME LOVER*


最近おかしい。
自分の心の中を占める栄吉の割合が日に日に増してくるような気がする・・・
何でだろう、何なんだろうこの切なさは・・・
・・・・・・つーかどうして私が栄吉の事なんかで悩まなきゃなんないの!
第一私には達哉っていうステキな情人が・・・
「情人かあ」

ついさっき仲間達と解散したリサは、ひとりで夢崎区のピースダイナーに来ていた。
家へ帰るにはまだ少し早かったし、だからといって友達と遊び歩く気にもなれない。
むしろずいぶん前の事になるが、MUSESの件であさっちとみーぽを失ったリサには、心を許せる友人が誰もいなかった。
「私の本当の情人って誰なんだろう・・・」
「情人がどうかしたのかい?」
突然油断している所に背後から声をかけられたリサは、普段からの癖か振り返りざまに思わず身がまえた。
「リッリサ、僕だって」
聞き覚えのある声に反応しよく見てみると、そこにはすっかり逃げ腰の淳がいる。
「淳!?」
ほんの数十分前に別れたはずの、思いがけない人物の登場にリサは驚いた。
「ふう、殴られるのかと思ったよ、あっ、隣いい?」
「いいけどねえ、急に声かけないでいるんならいるっていいなさいよ!」
「ご、ごめん、だってリサってば真っ赤な顔しながら考え込んでるみたいで声かけにくくて・・・」
(真っ赤な顔!?私が!?
 達哉の事考えてたんなら分かるけど、今私が考えてたのは・・・栄吉?)
「リサ?」
「え、あ、うん、大丈夫、そっそれよりもさぁ、淳は何でこんなとこに来たの? 寄り道なんてめずらしいじゃん」
自分の顔が再び赤く染まり始めるのを感じたリサは、カンのいい淳に気付かれる前に話をうまくそらした。
(末期症状なのかな・・・あいつの事思い出しただけで顔が赤くなるなんて・・・)
「あっ、そうだ!実は舞耶姉さんからの伝言を伝えるためにリサを探してたんだよ
 『今すぐ青葉公園に集合!!』だって」
「今すぐ!?あっ、でも・・・それってさぁ、もしかして達哉と栄吉も来るの?」
「うん、来ると思うよ、何でもけっこう大切な用事らしいからね」
(やっぱり自分の気持ちを確かめたい、でもそのためには今日じゃなきゃダメな気がする・・・
きっと、あいつに会えばすべてが分かる)
「分かった!じゃあ淳、急いで公園に行こ!」
「そうだね、みんなもう待ってるかもしれないし」
午後5時、リサはそろそろ暗くなり始める街へ、不安と期待を抱きながら飛び出した。

 
「よーし、みんな集まったわね~。
 わざわざこんなに遅くなってから集まってもらったのにはちゃんとワケがあるのよ。
 ユッキー達からの連絡でね、近頃夜になるとこの公園でラストバタリオンに襲われる人が急激に増えてるらしいの。
 そ・こ・で!今から私達が見回り係と連絡係に分かれてユッキー達のお手伝いをしたいと思いま~す!」
「ハイ!舞耶ちゃん、しつもーん!」
「何、リサ?」
「それってぇ、何人ずつに分かれてやるの?」
「そうねえ・・・、見回り係は二人組を二組、連絡係は一人で十分でしょ」
(二人組か、達哉はやっぱり・・・やっぱり舞耶ちゃんの方見てる
 でもそうだよね、達哉はきっと舞耶ちゃんの事が好き。
 こんな光景、今まで何回見たんだろう・・・。なのに、今日は不思議とそんなにつらくない)
「舞耶姉、俺と・・・」
「え?達哉クンはリサと一緒じゃなくていいの?」
「えっ、あっ、いいのいいの!舞耶ちゃんは達哉と行ってきなよ。
 わ、私は・・・うん、栄吉と行くからさあ。ほ、ほら、行くよ、栄吉!」
「は!?お、おい待てよ、おいっ!」
リサは答えも聞かないうちに、栄吉の腕をつかんで全速力で公園の奥へと走り出した。
あの状況の中で、自分が達哉にとって邪魔者なのは明らかであったし、これ以上舞耶に変な気を使われる事に耐えられなかったからだ。



「はあ、はあ、はあ、・・・おまえさぁ、急に走り出して何があったか知らねえけど、あれで良かったのかよ?」
「はあ、はあ、はあ、達哉と舞耶ちゃんの事?」
「お、おう、やっぱりさ、何て言ったらいいのかわかんねえけど・・・
 あのタッちゃんの態度は良くないよな、ギンコがいるってのにあんなにストレートに言わなくても・・・
 あ、別にタッちゃんは舞耶ネェが好きなんじゃないかとかそういう事を言ってるんじゃなくて、あの、その・・・」
「いいよ、別に、いくら私でももう分かってるから」
「わりぃ・・・」
二人の間にしばらく沈黙が流れた。栄吉の顔もずっと曇ったままでうつむいていた。
「バーカ、何であんたが悲しそうな顔してんのよ! 私は全然大丈夫なんだからね、ほらこの通り!」
リサは無理に最高の笑顔をつくってみせた。もうこの話題から離れたかったからだ。
こうすれば栄吉もいつもの栄吉に戻る・・・
そう思ったのに、返ってきた言葉はあまりにも予想外のものであった。
「つらかったら泣けばいいじゃん、少なくともオレの前では素直になっとけよ。
 オレならすべて受け入れてやるから・・・」
その言葉を聞いたとたん、リサはまるで時がとまったような感覚におそわれた。
今まで自分を閉じ込めていたオリが解き放たれたかのように、涙が瞳からとめどなく溢れてくる。
そして頭で考えるより先に体が動き、次の瞬間には栄吉の胸に飛び込んでいた。
(どうしよう、私本気で栄吉の事が好きなんだ・・・
 この涙だってつらかったからながれたんじゃない、栄吉の言葉うれしくてうれしくてどうしようもなくて溢れてきたんだ・・・)
初めはリサの突然の行動に驚きを隠せなかった栄吉も、次第に自分の胸で泣きじゃくる弱々しい天使を守り、包み込むかのように優しく背中に手をそえた。

 
「も、もう落ち着いたのかよ?」
「う、うん・・・」
ベンチに並んで座った二人は、ついさっきまできつく抱き合っていた恥ずかしさからか、お互いの顔も見れずにうつむいていた。
「なあ!」「ねえ!」
「・・・栄吉からどうぞ」
「ギンコから言えよ」
(やっぱり言おう、自分の気持ちがやっとはっきりしたんだから、私は栄吉が好き、それだけ分かれば十分じゃん)
リサは高鳴る鼓動をおさえるように深く息をすると、栄吉の目をまっすぐにみつめた。
「私ね、私・・・、実は達哉の事けっこうあきらめついてきてるんだ」
「え、マ、ジで・・・?」」
「うん、いつもいつもつらくて、みじめで、落ち込んでばっかりだった
 達哉に嫌われないようにって本当の私をずっと隠して、自分にウソついて・・・
 その上、舞耶ちゃんにやきもちやいたりしてホントに私って最低だなあって
 でもね、でも・・・」
「でも?」
「そんなふうに暗くなってる私をいつも優しくはげましてくれたり、気使ってくれたり
 私には気付かれてないつもりなんだろうけど実はバレバレで・・
 そんなバカな奴を最近好きになっちゃた!」
「え、誰だよ、そいつって?」
「はあ・・・もう!まだ分かんないの?そんなバカな奴なんてあんたしかいないでしょ!」
「!!!!!」
突然すぎるリサの告白に、白く化粧した顔が桜色に見えるほど栄吉の顔は紅潮した。
そして大きく深呼吸したあとに、決意をしたような面持ちで前に乗り出すと、
リサの肩をしっかりとつかみ、そのまま額に唇を軽くおとした。
「栄吉・・・」
「そ、そのよお・・・実はオレから言うつもりだったんだけど先こされちゃったみたいだから・・・。
 でも、あ、あ、改めて言わせてもらいます。
 オレ、三科栄吉は、ギンコことリサ=シルバーマンにマジで惚れてしまいました。
 付き合ってください!!」
リサの瞳から再び大粒の涙がながれはじめた。
生まれて初めて大好きな人と心から思い合えた事に感激しての涙だった。
「情人、だーいすき!!」
リサと栄吉は時間を忘れて、いつまでもお互いを確認するかのように抱き合っていた・・・。



                                         FIN 


puu
何度も何度も書き直しても

それでも、もう

ニ度と描くことはできない…














 レ



 ン












何もかもがひどく虚ろで。

何もかもが薄らいでいってしまうだけで。

だから、私はゆっくりと、瞼を閉じる。

暗闇の中に、ふんわりと浮かび上がる、笑顔。

あの声を。あの姿を。あの手を。

あの人の表情を忘れたくなくて。








崩れそうな記憶というキャンバスに、あの日々あの憧憬を一枚一枚塗りかさねていく。








あ お 。

それはあの人の好んでいたシャツ。その柔らかな色彩。




あ か 。

それはあの人の好きだった煙草の銘柄。そのパッケージ。




く ろ 。

それはあの人がよく読んでいた全書。その厚みを覆う表紙。




ぎ ん 。

それはあの人が愛していた世界。その真っ直ぐな心、正義。




こ は く 。

それはあの人が好んで飲んでいたお酒。その透き通った美しさ。








…透明な、し ず く 。




それは私の涙。そして、弱さ。













途端、記憶の糸が撓む。

瞼を開いたら、世界がぐるりと滲んだ。












眠りに落ちても、後姿だけが遠ざかり

辺りを見渡しても、息遣いすら感じられない。

通り過ぎていくものは、あまりにも曖昧で不確かな、けれど確固たる形を持った感情だけ。

あの人を描くには、記憶だけが鮮明で、現実にそれを著す事はできない。

なぜなら、もう既に失ってしまったものだから。





記憶を彩っていたクレヨンが、ぽきりと折れる。

あの日々は、もうニ度と、描く事は出来ない。

…もうニ度と、還っては来ない。
















あの人は 還って 来ない
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