難しい顔をして、彼はパソコンの画面を睨み付けていた。
私は遅めの朝食を用意しながら、掃除をする。
部屋にはどこかで聴いた曲が流れていた。
私には彼が今している仕事の細かい内容はわからない。
けれど彼は彼女に私を「相棒」だと告げた。
人間には適材適所というものが在るのだという。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
最後にみんなで飲んだあの日、彼は新しく仕事を始めようと思うと言った。
本当のところ私はほんの少しだけ複雑な心境だったけれど、これから忙しくなると彼がこれまでにない表情をするのは素直に嬉しかった。
これからやっと、何にも縛られずに新しくやっていく気になったということなのだから。
私達4人は笑顔で祝杯を挙げた。
酔い潰れたマーヤは始末に負えない。
普段の更に3割増しで陽気に騒いだかと思えば、突然糸が切れた様にどこででも眠り込んでしまうのだ。
周防さんも強いわけではないようで、マーヤの無茶なペースに付き合わされた挙句仲良くふたり、肩を寄せ合って寝息を立てている。
私は酔うこともなく、黙って盃を重ねた。
隣には彼がいる。
同じ灰皿を使うほど、こんなにも近い位置にいるのは初めてかもしれない。
そんなささやかなことが私に幸せをくれる。
今感じているこの気持ちは、多分正しく伝えられはしないだろうけれど。
気詰まりでない沈黙はどれだけ続いたのか、ふと彼が口を開いた。
「…お前はこの先どうすんだ?」
「会社…はもうクビかなぁ。大分休んじゃったしね」
「そうか…」
取材名目で外に出られていたマーヤ、謹慎中だった周防さん、学生の達哉くん、自由業の彼。
普通に勤めていた私には生活に支障が有ったけれど、後悔していなかった。
もともと明確な目的もなく就いた仕事だ。
それなりにきたけれど、もう充分に自分はやり遂げたと思う。
「次は自分のホントにしたいことしよっかなってね」
「もう、決めたのか?」
「なにするか、とかはまだわかんないけど、さ」
何杯目になるか判らないグラスを一息に空けて隣に笑いかける。
と、彼は思いのほか真剣な顔をしていた。
「な…なによぅ」
空気に気圧される。
彼は前を向いていた。
きっと、会話をしている間中ずっと、私のことなど見ずに。
なんだか感傷的な気分になった。
言葉を探そうとして、止める。
俯きかけて、代わりに彼と同じ方向を見つめた。
届かなくても解らなくても、届きたいし解りたいと思う。
彼の目に、私が映っていなくても。
それから閉店時間になるまでなんとなく言葉を交わさずに、私達はその場を後にした。
「ほらマーヤ起きて!…悪いけどパオ、周防さん頼むね」
「仕方ねぇな…こんなんで刑事が勤まんのかぁ?」
文句を言いながらも完全に潰れてしまった周防さんに肩を貸して、後ろ手を振り彼はそのまま去って行こうとする。
「あ…ちょっとぉ!」
気付くと呼び止めていた。
2、3歩進んだところで怪訝そうに彼が振り返る。
なんでもないとは流せずに、口を開いた。
「あのさ、…また、会えるよね…?」
もう日々を共にする理由はない。
側にいたいのは自分の我が侭で。
これまで、幸せになることばかり考えてきた。
相手がどんな人間だからかじゃなくて、外見や収入やステータスに恋をしていた。
今抱えているこの気持ちがなんなのかはっきりとは言葉にできないけれど、誰より彼を大切に想う。
彼の与えてくれる物はなんでも大事だし、彼がなにか望むならば喜んで叶えたい。
私がなにを感じるかより彼の意思を尊重したいと、そう思う。
「ヒマになったらさ、またみんなして遊ぼうよ?」
邪魔はしたくないから、がんばって笑う。
「芹沢…?」
不意になぜか、彼が近づいた。
「なに?」
「お前、…目から水垂れてるぜ」
頬に触れる手に、覚えず落としていた滴を知らされる。
街灯をサングラスが反射して、彼の表情は見えない。
「きっと、酔ってるからよ」
「…そう、かもな」
気を抜いたら縋ってしまいそうな身体を、必死に心で押し留める。
「そうよ。…アンタ、私に触んの初めてね」
どうやっても止められない涙を拭って、そっと掌を外した。
今度こそ本当に離れる時間だと、自分に言い聞かせる。
側を通る車のクラクションを合図に背を向けた。
彼のしたように後ろ手を揺らして、半分眠ってしまっているマーヤを引っ張りながらゆっくりと離れる。
見送る視線をなんとなく感じたけれど、振り返らなかった。
家に帰り着いたのは明け方になってからだった。
大通りでなんとか拾った車に乗った途端起きだしたマーヤが気分が悪いと騒ぎ出し、歩いて帰る羽目になったのだ。
都合が、よかったかもしれない。
引っ張るためにつないだマーヤの手は温かくて、自分はひとりじゃないと思わせてくれた。
夜の冷気にだんだんと酔いが覚めて、それとともに涙も少しずつ収まっていった。
なんとかマーヤをベッドに運んで軽くシャワーを浴びた頃には気持ちの整理も付き始めていた。
結局私は好きなのだ。
他の誰でもなく、彼のことが。
「馬鹿ねぇ、うらら…」
呟いて、自分の部屋のベッドで膝を抱える。
ふと視界に入ったカレンダーの書き込みに、そういえば明日はまたお見合いパーティだったと思い出した。
あんな事件に巻き込まれて、彼に出会って。
たった2週間ほどしか経っていないのに、なにもかもが変わった。
先払いした料金のことを思うと癪に障るけれど、予約したパーティももう行く気がしない。
自分にはもう、必要のない物だから。
いろいろ考え出すとまた意思とは関係なく涙腺が緩んでしまいそうで、とりあえず毛布をかぶった。
目を閉じて、暗闇に身体を委ねる。
―――――と、携帯が鳴り始めた。
せっかく、眠ろうとしていたのに。
頭に来て、誰からかも確認せずに留守録に切りかえる。
一拍置いて、赤い光が小さく明滅した。
どうやらちゃんとメッセージを吹き込んでいるらしい。
悪戯電話の類ではないようで、録音されているまま電話に耳をつけた。
『…もし、良けりゃだがな』
電話越しに声を聴くのは初めてで、瞬間、判らなかった。
さっき、別れたばかりの声。
『やりたい事が見つかるまでの間…手伝いに来られるなら来い』
偉そうで、飾り気も素っ気もない口調。
でも本当は誰より優しい事を、知っていた。
こんな、風に。
急に目の前で泣き出した私を見かねて、かもしれない。
私の気持ちに、気付いているからかもしれない。
同情でも構わない。
出る間もなくきっちり30秒で切れた録音を何度も何度も聴き返しながら、私は声を上げて泣いた。
ひとしきり身体中の水分を搾り出した後最初にしたのは服を選ぶことだった。
新しい仕事の雇い主である彼に、会いに行くための。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「パオ、ご飯!」
強く言わないとパソコンの前から離れようとしない彼は、仕事熱心というよりゲームに集中する子供のようだ。
「…なに、笑ってんだ?」
「なんでも~」
「……阿呆」
憮然とした顔が更におかしい。
笑い続けていると、彼は先にテーブルへ行ってしまった。
あれから、一月が経つ。
仕事も少しずつ軌道にのってきて、毎日が充実していた。
危なっかしいという理由で大したことはさせてもらえていないけれど、「相棒」としてはいつか目にモノ見せてやろうと考えていたりもする。
そしてひとつ、解った事がある。
「ねぇパオ、あの日ホントは最初っから、アタシのことスカウトする気だったんでしょ?」
炊き立てのご飯を手渡しながら言うと彼は一瞬詰まって、けれどいつも通りシニカルな笑みを浮かべた。
「んなわけあるかい。どっかのガキがぴゃあぴゃあうるせぇから拾ってやったんだよ」
「…ったく素直じゃないんだから」
負けずに言い返す。
しばらく戯れに睨み合って、同時に笑い出した。
人間には適材適所というものが在るのだという。
本当の居場所や成すべき事はまだ判らなくて、それでも祈っていることがある。
どうか私にとって彼の側が本当の居場所で、彼と共に過ごすことが私の成すべき事でありますように。
「今日って仕事早く終わりそう?」
「多分、な」
「そしたらさ、久しぶりにみんなで飲みに行こうよ」
「…阿呆が酔っ払って絡まなきゃなぁ?」
「またそんなこと言う!」
今、自分があの日言った「本当にやりたいこと」をできていると思えるから、どうかこのなによりも幸せななんでもない日常が、永遠に続きますように。
祈りは通じると私は、信じる。
私は遅めの朝食を用意しながら、掃除をする。
部屋にはどこかで聴いた曲が流れていた。
私には彼が今している仕事の細かい内容はわからない。
けれど彼は彼女に私を「相棒」だと告げた。
人間には適材適所というものが在るのだという。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
最後にみんなで飲んだあの日、彼は新しく仕事を始めようと思うと言った。
本当のところ私はほんの少しだけ複雑な心境だったけれど、これから忙しくなると彼がこれまでにない表情をするのは素直に嬉しかった。
これからやっと、何にも縛られずに新しくやっていく気になったということなのだから。
私達4人は笑顔で祝杯を挙げた。
酔い潰れたマーヤは始末に負えない。
普段の更に3割増しで陽気に騒いだかと思えば、突然糸が切れた様にどこででも眠り込んでしまうのだ。
周防さんも強いわけではないようで、マーヤの無茶なペースに付き合わされた挙句仲良くふたり、肩を寄せ合って寝息を立てている。
私は酔うこともなく、黙って盃を重ねた。
隣には彼がいる。
同じ灰皿を使うほど、こんなにも近い位置にいるのは初めてかもしれない。
そんなささやかなことが私に幸せをくれる。
今感じているこの気持ちは、多分正しく伝えられはしないだろうけれど。
気詰まりでない沈黙はどれだけ続いたのか、ふと彼が口を開いた。
「…お前はこの先どうすんだ?」
「会社…はもうクビかなぁ。大分休んじゃったしね」
「そうか…」
取材名目で外に出られていたマーヤ、謹慎中だった周防さん、学生の達哉くん、自由業の彼。
普通に勤めていた私には生活に支障が有ったけれど、後悔していなかった。
もともと明確な目的もなく就いた仕事だ。
それなりにきたけれど、もう充分に自分はやり遂げたと思う。
「次は自分のホントにしたいことしよっかなってね」
「もう、決めたのか?」
「なにするか、とかはまだわかんないけど、さ」
何杯目になるか判らないグラスを一息に空けて隣に笑いかける。
と、彼は思いのほか真剣な顔をしていた。
「な…なによぅ」
空気に気圧される。
彼は前を向いていた。
きっと、会話をしている間中ずっと、私のことなど見ずに。
なんだか感傷的な気分になった。
言葉を探そうとして、止める。
俯きかけて、代わりに彼と同じ方向を見つめた。
届かなくても解らなくても、届きたいし解りたいと思う。
彼の目に、私が映っていなくても。
それから閉店時間になるまでなんとなく言葉を交わさずに、私達はその場を後にした。
「ほらマーヤ起きて!…悪いけどパオ、周防さん頼むね」
「仕方ねぇな…こんなんで刑事が勤まんのかぁ?」
文句を言いながらも完全に潰れてしまった周防さんに肩を貸して、後ろ手を振り彼はそのまま去って行こうとする。
「あ…ちょっとぉ!」
気付くと呼び止めていた。
2、3歩進んだところで怪訝そうに彼が振り返る。
なんでもないとは流せずに、口を開いた。
「あのさ、…また、会えるよね…?」
もう日々を共にする理由はない。
側にいたいのは自分の我が侭で。
これまで、幸せになることばかり考えてきた。
相手がどんな人間だからかじゃなくて、外見や収入やステータスに恋をしていた。
今抱えているこの気持ちがなんなのかはっきりとは言葉にできないけれど、誰より彼を大切に想う。
彼の与えてくれる物はなんでも大事だし、彼がなにか望むならば喜んで叶えたい。
私がなにを感じるかより彼の意思を尊重したいと、そう思う。
「ヒマになったらさ、またみんなして遊ぼうよ?」
邪魔はしたくないから、がんばって笑う。
「芹沢…?」
不意になぜか、彼が近づいた。
「なに?」
「お前、…目から水垂れてるぜ」
頬に触れる手に、覚えず落としていた滴を知らされる。
街灯をサングラスが反射して、彼の表情は見えない。
「きっと、酔ってるからよ」
「…そう、かもな」
気を抜いたら縋ってしまいそうな身体を、必死に心で押し留める。
「そうよ。…アンタ、私に触んの初めてね」
どうやっても止められない涙を拭って、そっと掌を外した。
今度こそ本当に離れる時間だと、自分に言い聞かせる。
側を通る車のクラクションを合図に背を向けた。
彼のしたように後ろ手を揺らして、半分眠ってしまっているマーヤを引っ張りながらゆっくりと離れる。
見送る視線をなんとなく感じたけれど、振り返らなかった。
家に帰り着いたのは明け方になってからだった。
大通りでなんとか拾った車に乗った途端起きだしたマーヤが気分が悪いと騒ぎ出し、歩いて帰る羽目になったのだ。
都合が、よかったかもしれない。
引っ張るためにつないだマーヤの手は温かくて、自分はひとりじゃないと思わせてくれた。
夜の冷気にだんだんと酔いが覚めて、それとともに涙も少しずつ収まっていった。
なんとかマーヤをベッドに運んで軽くシャワーを浴びた頃には気持ちの整理も付き始めていた。
結局私は好きなのだ。
他の誰でもなく、彼のことが。
「馬鹿ねぇ、うらら…」
呟いて、自分の部屋のベッドで膝を抱える。
ふと視界に入ったカレンダーの書き込みに、そういえば明日はまたお見合いパーティだったと思い出した。
あんな事件に巻き込まれて、彼に出会って。
たった2週間ほどしか経っていないのに、なにもかもが変わった。
先払いした料金のことを思うと癪に障るけれど、予約したパーティももう行く気がしない。
自分にはもう、必要のない物だから。
いろいろ考え出すとまた意思とは関係なく涙腺が緩んでしまいそうで、とりあえず毛布をかぶった。
目を閉じて、暗闇に身体を委ねる。
―――――と、携帯が鳴り始めた。
せっかく、眠ろうとしていたのに。
頭に来て、誰からかも確認せずに留守録に切りかえる。
一拍置いて、赤い光が小さく明滅した。
どうやらちゃんとメッセージを吹き込んでいるらしい。
悪戯電話の類ではないようで、録音されているまま電話に耳をつけた。
『…もし、良けりゃだがな』
電話越しに声を聴くのは初めてで、瞬間、判らなかった。
さっき、別れたばかりの声。
『やりたい事が見つかるまでの間…手伝いに来られるなら来い』
偉そうで、飾り気も素っ気もない口調。
でも本当は誰より優しい事を、知っていた。
こんな、風に。
急に目の前で泣き出した私を見かねて、かもしれない。
私の気持ちに、気付いているからかもしれない。
同情でも構わない。
出る間もなくきっちり30秒で切れた録音を何度も何度も聴き返しながら、私は声を上げて泣いた。
ひとしきり身体中の水分を搾り出した後最初にしたのは服を選ぶことだった。
新しい仕事の雇い主である彼に、会いに行くための。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「パオ、ご飯!」
強く言わないとパソコンの前から離れようとしない彼は、仕事熱心というよりゲームに集中する子供のようだ。
「…なに、笑ってんだ?」
「なんでも~」
「……阿呆」
憮然とした顔が更におかしい。
笑い続けていると、彼は先にテーブルへ行ってしまった。
あれから、一月が経つ。
仕事も少しずつ軌道にのってきて、毎日が充実していた。
危なっかしいという理由で大したことはさせてもらえていないけれど、「相棒」としてはいつか目にモノ見せてやろうと考えていたりもする。
そしてひとつ、解った事がある。
「ねぇパオ、あの日ホントは最初っから、アタシのことスカウトする気だったんでしょ?」
炊き立てのご飯を手渡しながら言うと彼は一瞬詰まって、けれどいつも通りシニカルな笑みを浮かべた。
「んなわけあるかい。どっかのガキがぴゃあぴゃあうるせぇから拾ってやったんだよ」
「…ったく素直じゃないんだから」
負けずに言い返す。
しばらく戯れに睨み合って、同時に笑い出した。
人間には適材適所というものが在るのだという。
本当の居場所や成すべき事はまだ判らなくて、それでも祈っていることがある。
どうか私にとって彼の側が本当の居場所で、彼と共に過ごすことが私の成すべき事でありますように。
「今日って仕事早く終わりそう?」
「多分、な」
「そしたらさ、久しぶりにみんなで飲みに行こうよ」
「…阿呆が酔っ払って絡まなきゃなぁ?」
「またそんなこと言う!」
今、自分があの日言った「本当にやりたいこと」をできていると思えるから、どうかこのなによりも幸せななんでもない日常が、永遠に続きますように。
祈りは通じると私は、信じる。
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