土曜昼12時。
食事の支度をしようと冷蔵庫の中身をチェックする、と。
足元を灰色の物体が走り抜けていった。
一瞬のことすぎて悲鳴は出なかったけれど、その代わり堪忍袋の尾が切れる。
「なんでこの事務所、こんなにボロいの!?」
叫んで、丸めたエプロンをパソコンデスクへ投げ付ける。
「なんだぁ?」
「鼠よ!ネ・ズ・ミ!ここんとこ毎日見るのよぅ!!」
偉そうに椅子に座るパオは目線すら上げない。
「見るだけならいいじゃねぇか」
「だけならね?でもどこでなに食べて来んだか知らないけどそこら中フンは撒き散らすし・・・
だいたい不衛生じゃない!」
前の日どんなに掃除をしても、次の朝には嘲笑うかのように点々と黒く小さなものが落ちている。
お風呂場、流し、炊飯器の横からこの間はパソコンの上にまであった。
「もう、嫌…それにねぇ」
「それに?」
パオは器用に片眉をあげた。
でもまだ画面と仲良しのまま私へは向かない。
余計に腹が立った。
「5万歩譲ってネズミ1匹なら我慢の範囲かもだけど仲良く親子連れ。
ゴキブリホイホイは連日大盛況!おまけにそこの鉢植えはナメクジまみれ!!
一体ここはなに、動物園?多摩?上野!?」
言うだけ言ったら息が切れた。
肩で呼吸しながら睨み付けるとようやくパオは顔を上げる。
「ここは珠閒瑠市だ。鼠なんだから子供ぐらい産む。
ちゃんと掃除しねぇからフンは散らかるしゴキブリも出んだろ?この部屋の古さとは関係ねぇ」
「じゃあの鉢はなんだってのよ?」
「花の名前も知らねぇのか?ありゃ蘭だ。あいつが…美樹が好きだった花だよ」
その時自分のこめかみから確かに、血管の千切れる音が聞こえた気がした。
「ホントに、プチっていうのね・・・」
「あぁ?」
できるだけ冷静になろうと深く空気を吸い込む。
それでも押さえ込めなくて横の壁を一発殴った。
コンクリートにひびが入る。
その傷に自分の感情を知った。
私は、こんなに、怒ってるんだ。
「…アタシ、出てく」
「おい、」
「あとで働いた分の給料は請求するから。じゃね」
あまりに興奮しすぎたからか頭が冴えていくのに合わせて、どうしようもなく力が抜けていく。
何も考えないように最大限努力しながら事務所を出た。
呆気なく背後で扉は閉まって、パオは追いかけて来なかった。
アラヤ神社の石段に座って溜め息をつく。
財布さえ持って来なかったから、缶ジュースすら買えない。
だからといってまさか手水場の水を飲むわけにもいかないから、喉は渇いていたけれど我慢して膝を抱える。
スーパーでもコンビニでもない場所を一人で歩くのは久し振りだった。
ウインドーショッピングをする暇はないし、依頼人との約束はふたりで行く。
仕事に昼夜がないことを理由に、事務所兼パオの部屋へ押し掛けてからは家までの往復もなくなって、必然的に食料買い出し以外で個別行動をしなくなっていた。
「一人のがせいせいするわ」
部屋を飛び出してしばらくは楽しかった。
サトミタダシクローンズはやっぱり同じ顔だったし、しらいしのおばちゃんからは相変わらず嘘か本当か判らない昔話をたっぷり聞かされた。
ビキニラインでは無闇な歓迎を受けたし、葛葉では営業癖が出てつい商売仲間の顔で挨拶をしてしまった。
あいつの昔のアジトは今瓦礫の下で近づいても場所が判らなかったから、少し周りを歩いただけで戻って来た。
あの人のお墓に行ってこようかとも考えたけれど、なんだか自分が余計惨めになるようで止めた。
最後に訪れたこの神社の境内には、来る度会ったあのおばあさんもいない。
今、何時になるのだろう。
もう陽は沈みかけている。
気温も少しずつ下がり始めた。
マフラーくらい、持ってくればよかった。
薄暗い人気のない場所に独りで蹲っているせいで、どんどん思考が滅入ってくる。
寒いと寂しいが似ているかどうかだなんてどうだっていいことなのに。
「レッツポジティブシンキング、か…」
何度目かの溜め息のついでに何年も一緒に暮らした親友の口癖を、ふと思い出した。
そういえば港南区にはまだ行っていなかった。
マーヤはどうしているだろう。
お互いに忙しくてしばらく会っていない。
「…様子でも見に行ってやるかな」
携帯を忘れたから、連絡できない。
突然行ったら迷惑かもしれない。
第一、家にいるとは限らない。
同居している間にもたまに取材が長引いて午前様になるのを見てきたし、周防さんとデートの可能性だってないとは言えない。
どんどん弱気に飲み込まれてしまいそうになるのを頭を振って払う。
立ち上がって軽く服を叩いた。
ここにこうしてずっといるより、確実じゃなくてもまだ行き場があるのなら。
「レッツらゴー、ってね」
マーヤの口癖をもうひとつ呟きながら、おなかが空いたなとぼんやり思った。
ルナパレス港南703号室、ちょっと前までは私も住んでいた場所。
8回目のインターホンを押しながら、さすがに半分以上諦めていた。
マーヤのことだから寝ていて気付かなかったということも有り得ないではないけれど、それなら一層始末に悪い。
TVのオンタイマーを目覚し代わりにセットして、その最大音量でもびくともせずに眠り続けた記録がある。
電話のベルと食べ物の匂いにだけは素早い反応をするところは記者であり、マーヤらしいのだけれど。
ともかくどうしよう。
鍵は財布の中に入ったまま、手元にはない。
港南署は近いし周防さんなら喜んでマーヤに連絡を取ってくれそうでも、わざわざ仕事場に私用で訪ねていくのは気が引ける。
だいたい刑事さんを訪ねに警察へ、なんて悪いことをしたわけじゃなくてもぞっとしない。
いつまでいても事態が好転するわけでもなくて、マンションを出てすぐの外壁に寄りかかる。
これで今度こそ本当に向かうあてがなくなってしまった。
どうしたらいいのか考え付かなくてただ目の前の海を見る。
今日1日、行ける範囲は全部歩いたけれど、どこにも落ち着けはしなかった。
皆で立ち寄った時にはあんなに緊迫した状況の中、それでも楽しかった所ばかりなのに、今日はどこにも居たたまれなくて。
そういえばあの事件に巻き込まれる前も似たように感じていた。
どこにも自分のいられる隙間がない、と。
あの頃はただ空っぽでこの感覚の名前も知らなかった。
でも今は解る。
「寂しい…」
ひとりでいるのは、寂しい。
誰でもいいわけじゃない、誰かの側にいたい。
相手が認めてくれるなら、その隣が自分の居場所になる。
そのことを言葉でなく教えてくれた人がいるから。
「パオ…」
そして、パオがあたしの居場所なら、あたしはパオの居場所だと信じる。
ひどい言い方かもしれないけれど、権利を瓦礫や墓石には譲りたくない。
「帰ん、なくちゃ」
辺りは完全に真っ暗だった。
普段なら夕食もとっくに済ませているような時間になっていそうで、急いで通りへ向かう。
タクシーでも拾えばすぐに着く。
食事をしながら謝ろう。
いちばん近い街道へ出て思いきり手を振った。
ほどなくして一台が目の前へ止まる。
なぜかやけに見慣れたその車は、ドアの代わりに窓を開いた。
運転手まで涙が出そうになるほど見覚えの有る、顔。
「こんな所で運動会の応援練習か?」
「…んなわけないでしょ。まだ…準備体操よ」
「そりゃ随分とまぁ気合いの入ったこって」
「まぁ、ね」
皮肉げな笑みには、ない胸を反らして返す。
睨むために目を合わせたら、感づかれてしまいそうだった。
ここへ探して迎えに来てくれたことを、私が、どう思ったのか。
「で、パオはなにしにこんなとこまできたわけ?」
「住んでる街ん中で迷える全く有能な食事係を拾いに、だよ」
「…アンタの辞書に皮肉以外の言葉はないの?」
「見たことねぇな。…いいから早く乗れ」
「…うん」
助手席側のドアを開けて、自分の居場所へ座る。
パオは責めないし、私も言わない。
だからそっと心の中で囁いておく。
数え切れない程の謝罪と感謝。
ゴメンナサイと、ありがとう。
「…ここあったかい」
「そりゃま外よりは、な」
車が走り出してふと呟くと、信号待ちの合間、不意にパオが指先を掴んだ。
「冷てぇな」
「なら、あっためてよ」
「部屋へ帰ったら…な」
「手だけじゃなくて、ね」
薄く笑って返事をしないまま青に変わってパオの手は離されたけれど、一瞬の体温で心が十分に満たされた気がしていた。
そして部屋に着く寸前、ようやく思い出したことがあった。
そういえば先週も先々週もそのまた前も、全く同じ理由で全く同じ1日を過ごしたような気がするな、と。
食事の支度をしようと冷蔵庫の中身をチェックする、と。
足元を灰色の物体が走り抜けていった。
一瞬のことすぎて悲鳴は出なかったけれど、その代わり堪忍袋の尾が切れる。
「なんでこの事務所、こんなにボロいの!?」
叫んで、丸めたエプロンをパソコンデスクへ投げ付ける。
「なんだぁ?」
「鼠よ!ネ・ズ・ミ!ここんとこ毎日見るのよぅ!!」
偉そうに椅子に座るパオは目線すら上げない。
「見るだけならいいじゃねぇか」
「だけならね?でもどこでなに食べて来んだか知らないけどそこら中フンは撒き散らすし・・・
だいたい不衛生じゃない!」
前の日どんなに掃除をしても、次の朝には嘲笑うかのように点々と黒く小さなものが落ちている。
お風呂場、流し、炊飯器の横からこの間はパソコンの上にまであった。
「もう、嫌…それにねぇ」
「それに?」
パオは器用に片眉をあげた。
でもまだ画面と仲良しのまま私へは向かない。
余計に腹が立った。
「5万歩譲ってネズミ1匹なら我慢の範囲かもだけど仲良く親子連れ。
ゴキブリホイホイは連日大盛況!おまけにそこの鉢植えはナメクジまみれ!!
一体ここはなに、動物園?多摩?上野!?」
言うだけ言ったら息が切れた。
肩で呼吸しながら睨み付けるとようやくパオは顔を上げる。
「ここは珠閒瑠市だ。鼠なんだから子供ぐらい産む。
ちゃんと掃除しねぇからフンは散らかるしゴキブリも出んだろ?この部屋の古さとは関係ねぇ」
「じゃあの鉢はなんだってのよ?」
「花の名前も知らねぇのか?ありゃ蘭だ。あいつが…美樹が好きだった花だよ」
その時自分のこめかみから確かに、血管の千切れる音が聞こえた気がした。
「ホントに、プチっていうのね・・・」
「あぁ?」
できるだけ冷静になろうと深く空気を吸い込む。
それでも押さえ込めなくて横の壁を一発殴った。
コンクリートにひびが入る。
その傷に自分の感情を知った。
私は、こんなに、怒ってるんだ。
「…アタシ、出てく」
「おい、」
「あとで働いた分の給料は請求するから。じゃね」
あまりに興奮しすぎたからか頭が冴えていくのに合わせて、どうしようもなく力が抜けていく。
何も考えないように最大限努力しながら事務所を出た。
呆気なく背後で扉は閉まって、パオは追いかけて来なかった。
アラヤ神社の石段に座って溜め息をつく。
財布さえ持って来なかったから、缶ジュースすら買えない。
だからといってまさか手水場の水を飲むわけにもいかないから、喉は渇いていたけれど我慢して膝を抱える。
スーパーでもコンビニでもない場所を一人で歩くのは久し振りだった。
ウインドーショッピングをする暇はないし、依頼人との約束はふたりで行く。
仕事に昼夜がないことを理由に、事務所兼パオの部屋へ押し掛けてからは家までの往復もなくなって、必然的に食料買い出し以外で個別行動をしなくなっていた。
「一人のがせいせいするわ」
部屋を飛び出してしばらくは楽しかった。
サトミタダシクローンズはやっぱり同じ顔だったし、しらいしのおばちゃんからは相変わらず嘘か本当か判らない昔話をたっぷり聞かされた。
ビキニラインでは無闇な歓迎を受けたし、葛葉では営業癖が出てつい商売仲間の顔で挨拶をしてしまった。
あいつの昔のアジトは今瓦礫の下で近づいても場所が判らなかったから、少し周りを歩いただけで戻って来た。
あの人のお墓に行ってこようかとも考えたけれど、なんだか自分が余計惨めになるようで止めた。
最後に訪れたこの神社の境内には、来る度会ったあのおばあさんもいない。
今、何時になるのだろう。
もう陽は沈みかけている。
気温も少しずつ下がり始めた。
マフラーくらい、持ってくればよかった。
薄暗い人気のない場所に独りで蹲っているせいで、どんどん思考が滅入ってくる。
寒いと寂しいが似ているかどうかだなんてどうだっていいことなのに。
「レッツポジティブシンキング、か…」
何度目かの溜め息のついでに何年も一緒に暮らした親友の口癖を、ふと思い出した。
そういえば港南区にはまだ行っていなかった。
マーヤはどうしているだろう。
お互いに忙しくてしばらく会っていない。
「…様子でも見に行ってやるかな」
携帯を忘れたから、連絡できない。
突然行ったら迷惑かもしれない。
第一、家にいるとは限らない。
同居している間にもたまに取材が長引いて午前様になるのを見てきたし、周防さんとデートの可能性だってないとは言えない。
どんどん弱気に飲み込まれてしまいそうになるのを頭を振って払う。
立ち上がって軽く服を叩いた。
ここにこうしてずっといるより、確実じゃなくてもまだ行き場があるのなら。
「レッツらゴー、ってね」
マーヤの口癖をもうひとつ呟きながら、おなかが空いたなとぼんやり思った。
ルナパレス港南703号室、ちょっと前までは私も住んでいた場所。
8回目のインターホンを押しながら、さすがに半分以上諦めていた。
マーヤのことだから寝ていて気付かなかったということも有り得ないではないけれど、それなら一層始末に悪い。
TVのオンタイマーを目覚し代わりにセットして、その最大音量でもびくともせずに眠り続けた記録がある。
電話のベルと食べ物の匂いにだけは素早い反応をするところは記者であり、マーヤらしいのだけれど。
ともかくどうしよう。
鍵は財布の中に入ったまま、手元にはない。
港南署は近いし周防さんなら喜んでマーヤに連絡を取ってくれそうでも、わざわざ仕事場に私用で訪ねていくのは気が引ける。
だいたい刑事さんを訪ねに警察へ、なんて悪いことをしたわけじゃなくてもぞっとしない。
いつまでいても事態が好転するわけでもなくて、マンションを出てすぐの外壁に寄りかかる。
これで今度こそ本当に向かうあてがなくなってしまった。
どうしたらいいのか考え付かなくてただ目の前の海を見る。
今日1日、行ける範囲は全部歩いたけれど、どこにも落ち着けはしなかった。
皆で立ち寄った時にはあんなに緊迫した状況の中、それでも楽しかった所ばかりなのに、今日はどこにも居たたまれなくて。
そういえばあの事件に巻き込まれる前も似たように感じていた。
どこにも自分のいられる隙間がない、と。
あの頃はただ空っぽでこの感覚の名前も知らなかった。
でも今は解る。
「寂しい…」
ひとりでいるのは、寂しい。
誰でもいいわけじゃない、誰かの側にいたい。
相手が認めてくれるなら、その隣が自分の居場所になる。
そのことを言葉でなく教えてくれた人がいるから。
「パオ…」
そして、パオがあたしの居場所なら、あたしはパオの居場所だと信じる。
ひどい言い方かもしれないけれど、権利を瓦礫や墓石には譲りたくない。
「帰ん、なくちゃ」
辺りは完全に真っ暗だった。
普段なら夕食もとっくに済ませているような時間になっていそうで、急いで通りへ向かう。
タクシーでも拾えばすぐに着く。
食事をしながら謝ろう。
いちばん近い街道へ出て思いきり手を振った。
ほどなくして一台が目の前へ止まる。
なぜかやけに見慣れたその車は、ドアの代わりに窓を開いた。
運転手まで涙が出そうになるほど見覚えの有る、顔。
「こんな所で運動会の応援練習か?」
「…んなわけないでしょ。まだ…準備体操よ」
「そりゃ随分とまぁ気合いの入ったこって」
「まぁ、ね」
皮肉げな笑みには、ない胸を反らして返す。
睨むために目を合わせたら、感づかれてしまいそうだった。
ここへ探して迎えに来てくれたことを、私が、どう思ったのか。
「で、パオはなにしにこんなとこまできたわけ?」
「住んでる街ん中で迷える全く有能な食事係を拾いに、だよ」
「…アンタの辞書に皮肉以外の言葉はないの?」
「見たことねぇな。…いいから早く乗れ」
「…うん」
助手席側のドアを開けて、自分の居場所へ座る。
パオは責めないし、私も言わない。
だからそっと心の中で囁いておく。
数え切れない程の謝罪と感謝。
ゴメンナサイと、ありがとう。
「…ここあったかい」
「そりゃま外よりは、な」
車が走り出してふと呟くと、信号待ちの合間、不意にパオが指先を掴んだ。
「冷てぇな」
「なら、あっためてよ」
「部屋へ帰ったら…な」
「手だけじゃなくて、ね」
薄く笑って返事をしないまま青に変わってパオの手は離されたけれど、一瞬の体温で心が十分に満たされた気がしていた。
そして部屋に着く寸前、ようやく思い出したことがあった。
そういえば先週も先々週もそのまた前も、全く同じ理由で全く同じ1日を過ごしたような気がするな、と。
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