「ねぇジョニー?今日は・・その・・・・何の日か覚えてる?」
「今日?おぉ!今日は素敵なレィデェとの約束があったな。危うく忘れる所だったぜ。」
「・・ジョ・・・ジョニーの馬鹿ぁぁぁぁ!!!!」
メイは船から飛び出していった。
勢いに任せて船を飛び出したのはいいが、結局のところ当てもなく森の中を歩いていた。
足取りは重く、うなだれていて、平穏でややメルヘンちっくな森の中にも陰鬱な空気が溢れていた。
ある程度歩くと丁度良い切り株があったので、メイはそれに腰を下ろした。
物憂げな表情で天を仰いだ。
「はぁ・・・やっぱりジョニーは僕の事を何とも思ってないのかなぁ」
か細い声は風に流され、この静かな森にも響くことなく消えていった。
そんな時、メイの頭上を1羽の烏がよぎる。
烏は突然降下し、メイの目の前に現れ、何と話しかけてきたのだ。
「君はなんでそんなに落ち込んでるの?」
普通は驚いて逃げ出す程だが、GEARがはびこるこの時代、その程度のことで驚く人もいないだろう。
メイは怯むどころか、うっぷんをはらす為に愚痴をこぼし始めた。
「ジョニーったら酷いんだよ!自分の誕生日の日に”今日は何の日?”って聞き辛いけど、自分から踏み出せば気づいてくれると思って
後ろめいた気分を押し切って聞いてみたのに”今日は素敵なレィデェとの約束の日だったなぁ”なんて言うんだよ!!ほんとジョニーのタコ!!
他にもね、前から・・・」
~1時間後~
「でね?この間なんかは、”ちょっと体調が優れねぇから部屋で静かにさせてくれねェか?”とか言うから
僕としてもジョニーの体調を気遣ってあげたいからゆっくりさせてあげたんだよ!だけどね?お粥をジョニーの部屋に持っていったら
ジョニーがいなくてね、何処に行ったのかと思ったらまた別の女の人をたらしこんでたんだよ?信じられる!?
あとね?・・・って聞いてる!?聞き始めたのはそっちなんだからしっかり聞いてよね!!」
「・・・ハイ」
~2時間後~
「ほんっとにあったんだよ!まだあってね? 実は・・・」
~3時間後~
中略
~4時間後~
「あ~なんかいろいろ話したらスッキリした~。この調子でジョニーにもドンと言ってこないと。
今日はありがとね、烏さん。またなんかあったら話相手になってね~」
来た時とは違い、軽くスキップをしながら帰っていった。
メイが去っていくと同時に、テスタメントが現れた。
「サキュバス、今日はご苦労だったな。ゆっくりと休め。しかしディズィーの事で借りがあったとはいえ、随分と高くついたものだな」
メイが船に戻ってくると、船の前にはなんとジョニーがいた。
「なんでジョニーが此処に?」
「言ったろ?今日は素敵なレィデェとの約束があるってな。
HAPPY BIRTHDAY メイ 中でみんなも待ってるが、とりあえず一曲どうだ?」
さっきまでのことが頭から一瞬でなくなり、メイは小声で言った
「やっぱりジョニーはジョニーだね」
そしてメイは満面の笑みを浮かべ、ジョニーの誘いを受けた。
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白昼の月
女はさっきから強気な賭けを繰り返している。 アウトサイドなどまるで眼中にないかのように、インサイド・ベッツばかりだ。 性格が見て取れるぜ。
背中の開いた赤いドレス。
ウェーブのあるブルネットの髪が剥き出しの背中に緩やかに流れ落ちている。
ウィルがスピンし、ディーラーが締め切りの合図を鳴らす。
やがてウィルが回転する速度が落ちると、女はつまらなさそうに口を尖らせた。
テーブルの上に両肘を付き、組んだ指の上に華奢な顎を乗せた。 赤いマニキュアで装飾された爪が白い指に映える。
ザラザラと音を立ててディーラーがチップを回収するのを眺めていた女は、ひとつ溜息を吐くと顎を乗せた指を解き、再び勝気な眼差しをルーレット盤へと向けた。
「今度は負けないわ」
そう宣言して残り少ない手元のチップに指を伸ばす。
「…赤がいいと思うぜ?」
女の見上げた視線を無視しながらサングラスを少し外して呟いた。
「美しい女には赤が似合う。 そのドレスのようにな」
値踏みするような視線は肌蹴た胸元に絡み付く。
「…スプリットで、全部よ」
女は全てのチップを赤の18と21の境界線に置いた。
俺はその場を離れてカウンターへと向かった。
オーダーしたのはいつものバーボン。
世の中には自分の気に入りの酒が珍しい銘柄であることに喜びを見出す奴もいるが、俺に言わせれば気に入りの酒は平々凡々な銘柄の方がずっと幸せだ。 おかげで世界中何処へ行っても好きな酒を味わえる。
あの女が勝つ。 世の中はああいう女が勝つことになってるんだ、不思議とな。
ディーラーが鳴らすベルの音が響き、しばらくするとルーレットの周りで歓声が上がった。
「赤の21」
ウィルに落ちた玉を確認して、ディーラーが告げた。
…ほらな、そういうもんさ。
そして、次の展開もお約束ってヤツだ。
「さっきは、良いアドバイスをありがとう」
赤いドレスと白い肌。
女はカウンターに凭れ掛かって微笑を見せる。 ブルネットの髪が揺れる。
「さっきので随分儲かっちゃったの。 お礼に貴方に一杯奢らせて貰っていいかしら?」
「俺は赤がいいとは言ったが、18と21を選んだのはアンタだ。 アンタの運が勝ったのさ」
「フフ、そうかも知れないわね。 で? 奢らせてくれるの? くれないの?」
「俺は美人の誘いは断らない主義でね」
「じゃあ、お好きなのを。 私も同じのを戴くわ。 …良いかしら?」
視線で隣りの席を指した女に、俺は気障に頷いて笑って見せる。
女にバーボンは似合わない。 だが、俺は甘い酒は苦手なんでな。 無難にブランデーでいいだろう。 そう思って酒の名を告げると、女はカウンターの中に「それを2 つ」と声を掛けた。
「ルーレット、止めちまって良かったのかい? 折角向いて来たツキを逃したかも知れないぜ?」
女は艶やかな視線で微笑んだ。
「ギャンブルは勝ちで止めるのが賢いのよ」
「確かにな」
「それに、貴方とのギャンブルの方が楽しめそうだわ」
「言うね」
女の香水が僅かに漂う。
イイ女に違いはない。 誰もが称えるだろう美しい顔立ちと、豊かなラインを描く肢体。
だが、艶めいたルージュと同じ赤いドレスは高級な品なんだろうが、生憎と安く見える。
そんな女だ。
そんな女でも、次期大統領候補の正妻だ。
こんな女が近い将来一国のファースト・レディになるかも知れねぇなんざ、どうかと思うがねぇ。 それでも、まぁ、世の中はこういう女が勝つことになってるからな。
有力な次期大統領候補は勤勉で政治力に長けている。 家柄も育ちも良く、人柄も良く、国民の人気も高い。
だが、そういう男が女には失敗するのは良くある話だ。 女の上っ面とセックスの上手さに見境をなくして入れ込む。 そうして頭が冷えた頃には女の薬指にはでかいダイヤの指輪が輝いている。
次期大統領候補とこの女は親子ほども歳が離れている。 真面目で有能な政治家は女には初心だったんだろうな。 イイ歳をした中年男の真摯な愛情は、虚しくもこの女にとっちゃ自分の利と得の手玉だっただろう。
幸いは、男がそれに気付いていないことだな。
嘘はバレない内は真実なのさ。
「貴方、見ない顔ね」
「だろうな。 ここへ寄ったのは初めてだ」
「そう」
「…雨宿り、さ」
「雨宿り?」
「その内に雨になる。 そういう風だった」
「あぁ、生暖かくて湿気の強い風でしょう? 毎年、この時季になるとそういう風が良く吹くのよ。 私は雨は嫌いだわ、この時季は雨が多いのが嫌よ」
「雨が好きだなんて奴は、そういないさ」
「フフ、そうね」
背中に感じる男の視線。 警戒心の強い、逃さぬような重い視線。
この女のボディー・ガードってところか。 次期大統領候補の正妻だ、独りで夜遊びはさせないだろうからな。
「アンタ、俺みたいな男と一緒に居ていいのかい?」
「どうして?」
「アンタみたいにイイ女が独りなワケがない」
女は余裕を口元に浮かべ、自分の左の薬指を右の人差し指で摩るようにしながら目を細めた。
「今夜は独身よ」
「そうかい」
適当な会話と適当な詮索。
もっとも、俺の方は女のことを多少は知っている。
確かな筋を持つ情報屋とは仲良くしておくものさ。
今夜、女の旦那が留守なのも知っている。 某国の幹事長との公式会談で、この国を離れている。
ジェリーフィッシュが次に狙っているのは、その次期大統領候補の屋敷だ。
俺の狙いはこの女から屋敷の情報を得ること。
ある程度の情報は得ている。 だが、隠し金庫の場所が掴めねぇ。
上手くこの女から聞き出したいところだが、さぁて。
掛け引きが好きな女っていうのは、掛け引きに嵌る。 ギャンブルと同じだ。 こういう女は会話の妙に快感を得る。 掛け引きに酔う。
この女はしたたかだが、そのしたたかさが逆に狙いどころだ。 掛け引き上手な女は自分の掛け引きに自信を持っている。 上手く乗せられた振りをしておいて、手綱はこっちが握らせて貰うぜ。
「…少し酔ったみたい。 ねぇ、テラスへ出たいわ、まだ雨は降ってないみたいだし。 付き合ってくれる?」
「いいぜ?」
女は少し酒に酔った様子でストールから立ち上がった。 勿論、これは演技だ。
テラスへ向かうほんの一瞬、女は擦れ違い様に男に目配せした。 『付いて来ないで』という合図。 職務を放棄しろと命じられた男の前を、俺は気付かぬ振りで悠然と通り過ぎる。
男から漂う嫌悪の感情。 そいつは俺に向けられたものじゃない、女へ、だ。
情報屋の話は確からしい。
旦那の留守に女は他の男へ色目を使い、気に入れば誘ってヨロシクやってるんだろう。 この女の身体の疼きが強過ぎるのか旦那が甲斐性なしなのかは知らないが、まぁ、生真面目な次期大統領候補が絶倫で女を喜ばせる術に長けてるって話は聞かないな。 男はベッドの中でもモラリストなんだろう。
次期大統領候補である有力政治家の奥方が遊ぶにしてはちょいとグレードが落ちるカジノ・ホテルだが、似合いの高級どころじゃマズイ知り合いに出くわす可能性も高いか。
それくらいはこの女も配慮はしているとみえる。
ま、スキャンダルを揉み消すにしても、これくらいのところなら手の内だろう。
ボディー・ガードが用心深く周囲を伺う気配がする。
仕事とはいえこの女のお守をしなきゃならないアンタには同情したいところだが、それでもアンタはこれで食ってるんだから文句は言わないこった。
「ああ、ホントに雨になりそう」
テラスへ出ると、生緩い風が吹いていた。 女の髪と赤いドレスが風に揺れる。
女は柵の手摺に腕を乗せ、溜息を吐く。
「一年中、雨なんて降らなきゃいいのに」
「濡れるのは嫌いかい?」
俺の意味ありの言葉に女は薄く微笑する。 そして瞳に艶かしい色を浮かべ、首に掛けたネックレスの飾りを指で弄ぶ。 豊満な胸元の谷間に視線を誘う、計算された仕草だ。
「嫌いじゃないわ…」
女は俺の手を引き、人目に付かない場所へと誘う。 両手で俺のサングラスを外すと、艶めいた瞳は更にその色を深める。 女は自分から俺の身体に腕を回し、キスを強請る。 濃過ぎるルージュは好きじゃないが、仕方がないな。
絡み付く舌と腕。 女は下腹部を股間に押し付けて来る。 俺はそんな女の腰を腕で抱き寄せる。
憶えのある嫌悪の視線。 この女のボディ・ガードは女の命令には従わないらしい。 逆に職務に忠実とも言えるな。 テラスの入り口近くに身を潜め、こちらを伺っている。 キスに夢中のこの女は気付いてもいないだろうが。
濃厚なキスを交わした唇をそっと離す。
「濡れるとますますイイ女だぜ? アンタ」
欲情を隠さない淫らに濡れた瞳と唇。 熱い吐息交じりに女は囁く。
「ねぇ… ここに部屋を取ってあるの。 雨宿りに、どうかしら?」
「…悪くはなさそうだな」
女の手からサングラスを取り、掛け直す。
中身は好みじゃないが、それでも身体だけは楽しませてくれそうだぜ。
肌を重ねた相手には油断もする。 隠し金庫のヒントくらいは聞き出すさ。
「だが、俺は人に情事を見せて喜ぶ趣味はないぜ?」
女は咄嗟に意味が分からずに少し眉を顰めた。
「まさか、そこでも監視付きってワケじゃあないんだろ?」
口元を歪めて微笑うと、意味を知った女はキツイ視線でテラスの入り口を一瞥した。
女は苦々しい表情を浮かべ、テラスの入り口近くに居る男に向けて嫌味たっぷりに溜息を吐く。
「追い返すわ、あんな奴。 私だって自由な時間は欲しいわ」
アンタを自由にさせたら困る奴も多いと思うがな。
女は俺から身を離すと、剥れた様子で再びテラスの柵へと近付いた。
そんな女の後ろ姿を見送りながら、俺は唇に付いた女のルージュを拳で拭った。
木が裂ける音がした。
見ると、女の身体は壊れた柵と一緒に宙に乗り出していた。
それは一瞬。
赤いドレスの裾がスローモーションのように舞って見えた。
「奥様っ!!」
テラスに飛び込んで来た男が間に合うはずもなく、女の身体はもうそこにはなかった。
男は壊れた柵に近寄り、下を見つめて愕然とする。
「…い、医者を呼んでくれっ、誰か、医者をっ!」
男の大声と異変に何人かの客達がテラスに近寄り、壊れた柵とその下を覗いて、騒ぎは一層大きくなる。 甲高い悲鳴を上げる女の声が煩い。
「警察も呼んだ方がいいんじゃないか?」
「おい、触るな! 動かさない方がいいっ!」
地面に倒れている女の側に駆け寄った男に、一人の男が怒鳴る。
…医者が来ようが警察が来ようが、何が変わるわけでもない。 地面に散らばった柵の残骸に飾られたあの女はもう動かない。 女の見開かれた目がここからでも確認出来る。
拳に残る、あの女のルージュ。
これがあの女の置き土産になっちまったな…
「柵が脆くなってたんだな、なんて運の悪い」
「この時季は長く雨が続くからな…」
野次馬達が口々に女の不運を嘆く。
俺もツイてないな、これであの女から隠し金庫の場所を聞けなくなっちまった。 せっかくのイイ身体も逃しちまったしな。
それだけじゃねぇ、予定を変更しなくちゃならねぇぜ。 しばらくはあの女の家には警察が出入りする。 人目も多くなる。 のこのこと盗みに入る馬鹿はいないぜ。
「おい、お前っ。 さっさと姿を消せ!」
野次馬で溢れた中、興奮したあの女のボディ・ガードが人目につかぬように、それでも掴みかかるようにして迫って来た。
「お前のことが知れると奥様の恥になる、名誉に関わる! 去れ!」
恥になるのも名誉に関わるのも、あの奥様の、じゃなくて旦那の、だろうがな。
まぁ、こちらとしても警察と顔を合わせるのは御免だ、素直に退散させて貰うさ。
騒ぎに紛れて俺は場を離れた。 カジノの広間を出て、絨毯敷きの豪華な階段を降りると、ロビーも騒ぎになっていた。 フロントの従業員が慌しく動いている。 偶然居合わせた客達の興奮気味な会話が耳に飛び込んで来る。
「女の人が2 階のテラスから落ちたって!」
「死んでる、とか聞いたが…」
「2 階なら、落ちたって助かるでしょう?」
「それが、運悪く頭を地面に叩きつけられたらしいぜ」
「前にもこんな事故が新聞に載ってたな、長雨で柵が腐って…」
「嫌ね、怖いわ」
このホテルも大変だな、信用と評判が傷付いちまって。
ホテルの敷地を出て、一本道の坂を下る。
細かい雨が降り出している。
生暖かい空気に纏わりつくような柔らかい雨は霧に似て、夜を濡らす。
涙雨、かもな、誰のだか分からないが。
あれは事故じゃない。
最初にテラスに出た時に、あの女はあの柵の手摺に腕を乗せて身を預けた。 その時は軋みもしなかったぜ。 俺も手摺には手を置いたんだ。
それに、あの女の身体はまるで何かに突き飛ばされたかのように宙を舞った。
あれは殺しだ。
お前の、な。
霧雨に煙った向こうに見える、白銀の髪。
着かず離れずに後を追う。
アイツは雨に濡れることを厭わない様子で歩く。
俺のことなど当に気付いているんだろうが、振り向くこともない。
殺気も敵意もなく、闇と雨の中を漂うようなその後ろ姿。
組織の長が自ら動くくらいだ、依頼主は余程の大者か、それだけ組織にとってメリットのある依頼内容だったのか。
事故死に見せ掛けなければならない殺し…か。
それなら、お前はうってつけだろう。 お前は殺しと判らない殺しが出来る。
狙ったのは、おそらく女の後頭部。 球は外傷を残さずに女の頭を貫通した。 憶測だが、間違ってもいないと思うぜ。 あの女は地面に叩き付けられる前に脳が潰れていただろう。
……おっかないねェ、お前さんは。 殺気もなく人を殺す、か。
あの女の身体が宙を舞う直前、何かが空を切り裂く気配は感じた。 今ならそれはお前が弾いた球だったと言えるが。
何処にいた? 上の階の窓辺か、屋上か。
殺気を感じていたら、俺はお前の仕事を邪魔しただろう。 俺は随分と汚れてはいるが、目の前で人が殺されるのを黙って見守る趣味もないんでな。
だが、俺が気付いたのは刹那の気配だ。 油断していたとは思いたくはねぇが。
まぁ、俺がめでたくも殺気を感じたとして、方角を感知出来たとして、あのタイミングじゃあどうだったかねェ。 軌道が見えたとして、それで抜いたとして。 間に合うだろうが、それだけかもな。
世の中はああいう女が勝つことになってるもんだが、相手が悪かったな。
お前に狙われたのなら、運命を違える術はそうなかっただろうぜ。
せめて苦しむ間もなく即死だったことと、自慢だっただろう美しい顔が潰れなかっただけ、あの女には良かったのかも知れないな。
風がなくなった代わりに雨は強まり、気に入りの帽子もすっかりと濡れちまった。
コートも靴も重さを増す。
大通りから小路に入り、しばらく歩くと、不意に奴の足が止まった。
振り向かずに、ただ、俺に背中を向けたまま立ち止まっている。
雨に濡れ、先端から水滴がしたたり落ちる銀の髪。 柔らかな髪のボリュームがなくなると頭の小ささが目立つ。 まだ若いことを感じさせる男の背中。
「…斬るのか?」
静かな声だ。
「俺はあの女と一緒にいた。 それだけでこの剣を抜く理由にはならないかい?」
抜刀に指を掛けてもヴェノムに動く気配はない。 キュー・ケースを握る指も動かない。
「それに、お前さんのおかげでこっちの仕事がパァになっちまったぜ」
剣を抜くはずがないと思っているのか。
それとも、抜かれても構わないのか。
「動かないのかい?」
「無駄なことだ。 君が本気で私を斬るつもりなら、私は斬られる」
……フ、つくづくと出来る男だよ、お前さんは。 溜息が出るね。 相手の本当の技量を見抜けるのは、それなりの技量がある奴だけだ。
お前さんは俺に斬られても構わないんだろうな。 長たる者が独りで動くのはどうとか、お前さん、俺に言ってなかったか?
だが、俺と違って余程自分の腕に自信があるからって理由じゃない。 単に死ぬ時が死ぬ時なんだと思ってるからなんだろう? ある意味、ロマンチストなんだな、お前さんは。
軒の下に身を移し、脱いだ帽子を軽く振って水滴を掃い、帽子を被り直す。
軒先から雨の雫が規則正しく落ちる。
「こっちに来な。 雨に濡れて楽しいかい?」
ようやくお前はゆっくりと俺に振り向いた。
濡れそぼった髪は普段隠している顔を珍しく覗かせている。
「私は雨は嫌いではない」
「雨に濡れたって、お前さんの罪が洗い流されるワケじゃねぇぜ?」
ヴェノムは僅かに薄く嗤った。
そんなことはコイツも分かっているんだろうがな。 俺も野暮なことを言ったもんだ、そんな気分くらいは求めたところで責めるつもりはないんだが。
壁に凭れ掛かってコートから煙草の箱を取り出す。 湿気が強いが、火は着く。
黙って俺の隣りに寄ったヴェノムは、貼り付いた前髪を構う様子もなく佇んでいる。
肌の色に不似合いな銀の髪と淡い水色の瞳。
印象的なその瞳は何を見ているのか。
滑り落ちる水滴が睫に触れると、反射的に瞬きをする。 それが妙に人間臭い感じがする。
細い顎の輪郭を伝うように雨の雫が滑り落ちる。
「吸うかい?」
「…いや」
予定通りの返事を受けて、差し出した煙草をコートの内ポケットに仕舞った。
咥えた煙草の先に灯るオレンジの火。 雨は止む気配はない。
俺も含めて大抵の奴は雨を疎うが、雨が好きな酔狂な奴がいても、俺はな、イイと思うぜ? ヴェノム。
「ジョニー」
「何だ」
「何故、君は剣を抜かなかった?」
「抜く気にならなかった、からだな」
「何故?」
「ならない、からだ」
吐き出した煙草の煙が纏わり付くような湿った空気に重たく溶けて行く。
「だからって、お前さんは俺を見くびっているわけじゃないだろう?」
ヴェノムの音のない静かな微笑みも空気に溶けて行く。
「…まさか。 君は、本気になれば誰にでも本気の剣を抜く男だろう」
「まぁな」
煙草一本分にも満たない会話が、妙に長く感じられる。
悪くはない。 こんな雨音だけの間も。
「ヴェノム」
俺はサングラスを外し、そのまま手の内に収めた。
「今度、話がある。 これはジェリーフィッシュの団長としての申し込みだ」
ヴェノムはゆっくりと視線を俺に向けた。
その静かな瞳は密やかな湖を連想させる。
「…君は、組織は嫌いだと思ったが」
「嫌いだね」
人殺しと麻薬の請負屋なんざ、好きには成れねぇなぁ。
「だが、お前ならいい」
感情の見えない視線は揺らぐことがない。
お前さんは意外と、いや、いっそ不似合いなほど素直だと思うんだが、こういう時は何を考えているのか判らないもんだな。
やがてその口唇が薄く動いた。
「…では、私も組織の長として話を聞く」
「そうしてくれ」
緩やかに外された視線は夜を濡らす雨を見つめている。
つい、とヴェノムの身が緩やかに動いて、この軒下から離れた。
そのまま雨の中に身を晒すと、雨音に溶け込みながら立ち去って行く。
礼儀正しい男だと思ったが、別れの挨拶もなしかい?
最後の一服を終えて、手にしていた煙草を路地に捨てた。
煙草は瞬時に沈黙し、屍のように雨に打たれている。
ふと、それを拾い直して携帯の吸殻入れに仕舞った。
…なんとなくな、アイツは捨て煙草は好きそうじゃないからな。
サングラスを掛け直して軒先を出る。
雨は降り続いている。
お前の姿はもう見えない。
「ジョニーさんっ!? 戻っていらしたんですか?」
タラップを上がると、驚いた表情をしたディズィーが出迎えた。
「ああ、予定が変わってな。 こっちは変わりはないか?」
「ええ、ありませんけれど… 随分と雨に降られたのですね、今、タオルを…」
辺りを見回したディズィーがタオルを見付けたと同時に、早速とメイが駆け寄って来た。
「ジョニー、おかえりっ! …うわわっ、ずぶ濡れじゃない、風邪引いちゃうよっ!」
身を翻したメイは椅子の背もたれに掛けられているタオルを掴み、ダッシュで戻って来る。 役目を失って立ち尽くしているディズィーに俺は軽く苦笑してみせた。 ディズィーも少しだけ肩を竦めて微笑った。
「はいっ、ジョニー、タオル!」
「ありがとさんよ」
メイから受け取ったタオルで水滴を払う。
「どうしたの? 今日は帰って来れないとか言ってたのに。 もしかして、作戦変更?」
「そういうこった」
「ええ~~っ!? あとは詰めるだけだって言ってたのにぃ? …でも、ジョニーだもん、ミスなんてするはずないし…」
心のままに豊かな表情を見せるメイにひとつ笑い掛ける。
「メ~イ、いいから艇を出す指揮を取ってくれ。 この国を出る」
メイは途端にあどけない表情を潜ませ、真剣な眼差しで頷いた。 メイは俺の声の調子に聡い。
「分かった。 ディズィー、索敵のモニター見ててもらえる? 怪しい影が映らないか見てくれるだけでいいから。 オクティを起こしたくないんだ」
この国の気候が合わないのか、オクティは少し体調を崩していた。 メイはそんなオクティを気遣っている。
「はい、それなら私にも出来ます」
「うん、お願い。 何かあったらすぐに教えて。 エイプリル! 舵、スタンバって!」
エイプリルが小走りに舵に向かうのを確認しながらメイは艇内通信のスイッチを入れた。
「ノーベル、予定変更で艇を出すよ! エンジン上げて、機関のチェックをお願い。 それからスタンバイ、ボクの指示を待って」
メイはキビキビと指令を出し、最後に俺に顔を向けた。
「ジョニー、準備が出来次第、すぐに浮上でいい?」
「それでいい、上げたら安全な高度を保ったまま北西へ向かってくれ」
「北西だね。 了解」
「頼むな、メイ」
「アイ・サー」
ピンとしたメイの立ち姿にひとつ微笑を送って、俺はブリッジを後にする。
メイならこの艇を立派に引き継ぐだろう。 だが、俺はそれを望んじゃいない。 メイには、いずれはこの艇を降りて、良い男と本当の恋をして、普通の結婚をして家庭を持ち、そうして幸せに暮らして欲しい。
メイはイイ女になるさ、赤いドレスは似合わなくても、本当にイイ女にな。 俺が育ててるんだからな。
直に艇はこの国の領空を出る。 次期大統領候補の妻が死んだんだ、警察が五月蝿くなる前にこの国を出るに越したことはない。
しばらくはこの国での仕事は様子見だな。 計画の練り直しが必要だ。
高度を上げた飛行艇の窓から見下ろせば、夜の闇に浮かぶ雨雲が見える。
地上からは見えなかった月はいつものように天に輝いている。
月に似ていると言っていたのはアクセルの野郎だ。
俺がサングラスをするようになったのは何時頃からだったかな。
何故サングラスをするようになったか、そんな理由は忘れちまった。
…多分な。
こうして部屋で独りで居る時は、昔と同じでサングラスなどしていない。
鏡を見れば昔と違う面が映る。 かなりイイ男だとは思うぜ。 当然だな、実際、俺様はイイ男だ。
ガキの頃の面影が残っているのかどうかは、俺には判らねぇ。 生憎と、その辺を指摘してくれるはずの奴はもうこの世にいないんでな。
気に入りのバーボンをグラスに注ぐ。
こんな夜はストレートがいい。
酒を憶えたのは早かったな、見つかっては親父に叱られたもんさ。
親父が死んだのは俺が13 歳の時だった。
俺は他人に心を開くことのないガキで、そんな俺に唯一愛情を注いでくれたのが親父だった。
可愛げのない俺の、どこが良かったのかは知らないが… 無償の愛ってヤツだ。
この歳になって思うが、親って奴はつくづく凄いもんだぜ。
親父を失って、俺はますます自分の殻に閉じ篭った。
いつしか物事を見る眼が出来て、戦争で親を亡くしたのは俺だけじゃないと、そんな当たり前のことに気付いた。
ようやく他人の痛みを知ることが出来るようになって、俺は親父のようになろうと思った。 俺に愛を注いでくれた親父のような男に。
今にして思えば、ヴェノム、俺はお前よりどんなにか恵まれていたんだろうな。
『何故?』
以前もアイツは俺に訊いたことがある。 『何故、踏み止まったのだ?』、と。 『踏み込んでいれば君が勝ったはずだ』、と。
俺の大事なクルーがどうにかなるなら、その時は… その時は斬ると思うがね。
それでも、俺はな、ヴェノム、お前には本気で剣を抜けない気がしている。
お前に殺されるのならそれも仕方がないと、心の何処かでは思っている。
お前は俺が救ってやれなかった子供だ。
俺がすべての子供を救ってやれないことくらいは分かっている。 そんなに自惚れてもいない。 俺は神じゃない。 もっとも、神も随分とえこひいきするものらしいが。
俺が救えたのは、ほんの僅かだ。 それでも誰も救えなかったよりは、ちったぁマシだろうとは思うのさ。 メイやディズィー達の笑顔を見るとな、俺は悪党だが、俺のしていることもそうそう悪くないと思える。
だがな、ヴェノム、お前という現実を目の当たりにすると俺の胸が痛むのさ。
お前が抱えている底知れない孤独が、哀しさが、俺の胸に刺さる。
アサシンは心無き人形になることを叩き込まれるらしいが、お前の眼を見れば分かる。 人殺しを稼業にするにはお前さんは優し過ぎる眼をしている。
知ってるか? 以前にディズィーもそんなことを言ってたぜ? お前は優しい眼をしているってな。
お前がその眼で何を見て来たのか容易に想像が出来るから、嫌な気になる。
出来損ないのお人形さん。
いっそのこと出来の良い人形だったら、ヴェノム、お前さんは楽だっただろうけどな。
人形には傷む心はないんだ。
お前さんは俺を責めないさ、そんなことは解かっている。
お前は結構芯の強い男だしな。
それでもな。
ヴェノム、お前を見付けてやれなくて、すまなかったな。
俺は、お前を救ってやりたかった。
お前が悪党に似合いの生き汚い奴になっていたら、俺もこうも思わなかったが。
お前さん、静かに生きられたら良かったな。
そんな些細なことが、さぞかしお前には似合っただろうな。
お前を見付けてやれなくて、すまなかったな…
センチメンタルなんてガラじゃねぇが…
俺にも酔いたい時があるんだ。
翌日にはあの女の死を伝える見出しが新聞を飾った。
不幸な事故死として。
当然だろうな。
数日後には、女の葬儀と妻の死を嘆き哀しむ夫の様子を伝える記事が紙面に踊っていた。 男に殺しの容疑は掛からなかった。 状況からして、それも当然だろうさ。
あの女の殺しを依頼したのは夫ではないだろう、あんな女でも男の女への愛は本物だったと聞いている。 おそらく殺しを依頼したのは男の側近か、その辺りの奴等だろうな。 男には大統領になって欲しいが、そのためにはあの女は邪魔だったってワケだ。 まぁ、俺もあの女はファースト・レディの器じゃあないとは思ったが。 選挙キャンペーンやら何やら表舞台にあの女にしゃしゃり出られちゃ、嫌悪か嫉妬か解からねぇが世間が男を見る目は芳しくなかっただろうぜ。
若く美しい愛妻を不幸な事故で失った、有能で善良なる寡男。
悪くはないね。 政治家はイメージが大切だ。
中年男の純愛によって女の死は悲劇となり、国民の大いなる同情を得た。
そうして、あの女が足を引っ張る懸念ももうない。
次の選挙ではあの男が勝つさ。
どんな取り引きで先方の暗殺依頼を受けたのかは知らないが、組織としては、あの男があの国の大統領になってくれた方が都合が良いってことか。
まぁ、上手くやるだろう、アイツなら。
アイツは馬鹿じゃないからな。
デッキへ出れば、目の前には青い空が広がる。
他の機影もなくこうして空の中を飛んでいると、孤独でちっぽけな存在に思えるもんだ。
人ってのは、そもそもが孤独でちっぽけな存在なんだろうが。
眩しい太陽の光を浴びて輝くこの空の海は何処までも続いている。
空にいると、地上では見えないものが良く見えることがある。
たとえば、白昼の月。
ギリシア神話じゃあるまいし、昼と夜で太陽と月が交代しながら空に昇るわけじゃない。 日中でも月は空に浮かぶ。
こうして眺める空は地上から見るよりも深くて青い。 地上よりも空気が澄んでいて光の反射が少ないからだ。 だから地上からは見えにくい白昼の月も、この空の中なら良く見える。
今も探せば、薄ぼんやりとしたその輪郭を南の空に見付けることが出来る。
今度は見失わない。
夜の闇の中でも、陽の光の中でも。 雨が降っていても。
空を飛ぶ俺には見付けられるさ。
月はそこに在る。
女はさっきから強気な賭けを繰り返している。 アウトサイドなどまるで眼中にないかのように、インサイド・ベッツばかりだ。 性格が見て取れるぜ。
背中の開いた赤いドレス。
ウェーブのあるブルネットの髪が剥き出しの背中に緩やかに流れ落ちている。
ウィルがスピンし、ディーラーが締め切りの合図を鳴らす。
やがてウィルが回転する速度が落ちると、女はつまらなさそうに口を尖らせた。
テーブルの上に両肘を付き、組んだ指の上に華奢な顎を乗せた。 赤いマニキュアで装飾された爪が白い指に映える。
ザラザラと音を立ててディーラーがチップを回収するのを眺めていた女は、ひとつ溜息を吐くと顎を乗せた指を解き、再び勝気な眼差しをルーレット盤へと向けた。
「今度は負けないわ」
そう宣言して残り少ない手元のチップに指を伸ばす。
「…赤がいいと思うぜ?」
女の見上げた視線を無視しながらサングラスを少し外して呟いた。
「美しい女には赤が似合う。 そのドレスのようにな」
値踏みするような視線は肌蹴た胸元に絡み付く。
「…スプリットで、全部よ」
女は全てのチップを赤の18と21の境界線に置いた。
俺はその場を離れてカウンターへと向かった。
オーダーしたのはいつものバーボン。
世の中には自分の気に入りの酒が珍しい銘柄であることに喜びを見出す奴もいるが、俺に言わせれば気に入りの酒は平々凡々な銘柄の方がずっと幸せだ。 おかげで世界中何処へ行っても好きな酒を味わえる。
あの女が勝つ。 世の中はああいう女が勝つことになってるんだ、不思議とな。
ディーラーが鳴らすベルの音が響き、しばらくするとルーレットの周りで歓声が上がった。
「赤の21」
ウィルに落ちた玉を確認して、ディーラーが告げた。
…ほらな、そういうもんさ。
そして、次の展開もお約束ってヤツだ。
「さっきは、良いアドバイスをありがとう」
赤いドレスと白い肌。
女はカウンターに凭れ掛かって微笑を見せる。 ブルネットの髪が揺れる。
「さっきので随分儲かっちゃったの。 お礼に貴方に一杯奢らせて貰っていいかしら?」
「俺は赤がいいとは言ったが、18と21を選んだのはアンタだ。 アンタの運が勝ったのさ」
「フフ、そうかも知れないわね。 で? 奢らせてくれるの? くれないの?」
「俺は美人の誘いは断らない主義でね」
「じゃあ、お好きなのを。 私も同じのを戴くわ。 …良いかしら?」
視線で隣りの席を指した女に、俺は気障に頷いて笑って見せる。
女にバーボンは似合わない。 だが、俺は甘い酒は苦手なんでな。 無難にブランデーでいいだろう。 そう思って酒の名を告げると、女はカウンターの中に「それを2 つ」と声を掛けた。
「ルーレット、止めちまって良かったのかい? 折角向いて来たツキを逃したかも知れないぜ?」
女は艶やかな視線で微笑んだ。
「ギャンブルは勝ちで止めるのが賢いのよ」
「確かにな」
「それに、貴方とのギャンブルの方が楽しめそうだわ」
「言うね」
女の香水が僅かに漂う。
イイ女に違いはない。 誰もが称えるだろう美しい顔立ちと、豊かなラインを描く肢体。
だが、艶めいたルージュと同じ赤いドレスは高級な品なんだろうが、生憎と安く見える。
そんな女だ。
そんな女でも、次期大統領候補の正妻だ。
こんな女が近い将来一国のファースト・レディになるかも知れねぇなんざ、どうかと思うがねぇ。 それでも、まぁ、世の中はこういう女が勝つことになってるからな。
有力な次期大統領候補は勤勉で政治力に長けている。 家柄も育ちも良く、人柄も良く、国民の人気も高い。
だが、そういう男が女には失敗するのは良くある話だ。 女の上っ面とセックスの上手さに見境をなくして入れ込む。 そうして頭が冷えた頃には女の薬指にはでかいダイヤの指輪が輝いている。
次期大統領候補とこの女は親子ほども歳が離れている。 真面目で有能な政治家は女には初心だったんだろうな。 イイ歳をした中年男の真摯な愛情は、虚しくもこの女にとっちゃ自分の利と得の手玉だっただろう。
幸いは、男がそれに気付いていないことだな。
嘘はバレない内は真実なのさ。
「貴方、見ない顔ね」
「だろうな。 ここへ寄ったのは初めてだ」
「そう」
「…雨宿り、さ」
「雨宿り?」
「その内に雨になる。 そういう風だった」
「あぁ、生暖かくて湿気の強い風でしょう? 毎年、この時季になるとそういう風が良く吹くのよ。 私は雨は嫌いだわ、この時季は雨が多いのが嫌よ」
「雨が好きだなんて奴は、そういないさ」
「フフ、そうね」
背中に感じる男の視線。 警戒心の強い、逃さぬような重い視線。
この女のボディー・ガードってところか。 次期大統領候補の正妻だ、独りで夜遊びはさせないだろうからな。
「アンタ、俺みたいな男と一緒に居ていいのかい?」
「どうして?」
「アンタみたいにイイ女が独りなワケがない」
女は余裕を口元に浮かべ、自分の左の薬指を右の人差し指で摩るようにしながら目を細めた。
「今夜は独身よ」
「そうかい」
適当な会話と適当な詮索。
もっとも、俺の方は女のことを多少は知っている。
確かな筋を持つ情報屋とは仲良くしておくものさ。
今夜、女の旦那が留守なのも知っている。 某国の幹事長との公式会談で、この国を離れている。
ジェリーフィッシュが次に狙っているのは、その次期大統領候補の屋敷だ。
俺の狙いはこの女から屋敷の情報を得ること。
ある程度の情報は得ている。 だが、隠し金庫の場所が掴めねぇ。
上手くこの女から聞き出したいところだが、さぁて。
掛け引きが好きな女っていうのは、掛け引きに嵌る。 ギャンブルと同じだ。 こういう女は会話の妙に快感を得る。 掛け引きに酔う。
この女はしたたかだが、そのしたたかさが逆に狙いどころだ。 掛け引き上手な女は自分の掛け引きに自信を持っている。 上手く乗せられた振りをしておいて、手綱はこっちが握らせて貰うぜ。
「…少し酔ったみたい。 ねぇ、テラスへ出たいわ、まだ雨は降ってないみたいだし。 付き合ってくれる?」
「いいぜ?」
女は少し酒に酔った様子でストールから立ち上がった。 勿論、これは演技だ。
テラスへ向かうほんの一瞬、女は擦れ違い様に男に目配せした。 『付いて来ないで』という合図。 職務を放棄しろと命じられた男の前を、俺は気付かぬ振りで悠然と通り過ぎる。
男から漂う嫌悪の感情。 そいつは俺に向けられたものじゃない、女へ、だ。
情報屋の話は確からしい。
旦那の留守に女は他の男へ色目を使い、気に入れば誘ってヨロシクやってるんだろう。 この女の身体の疼きが強過ぎるのか旦那が甲斐性なしなのかは知らないが、まぁ、生真面目な次期大統領候補が絶倫で女を喜ばせる術に長けてるって話は聞かないな。 男はベッドの中でもモラリストなんだろう。
次期大統領候補である有力政治家の奥方が遊ぶにしてはちょいとグレードが落ちるカジノ・ホテルだが、似合いの高級どころじゃマズイ知り合いに出くわす可能性も高いか。
それくらいはこの女も配慮はしているとみえる。
ま、スキャンダルを揉み消すにしても、これくらいのところなら手の内だろう。
ボディー・ガードが用心深く周囲を伺う気配がする。
仕事とはいえこの女のお守をしなきゃならないアンタには同情したいところだが、それでもアンタはこれで食ってるんだから文句は言わないこった。
「ああ、ホントに雨になりそう」
テラスへ出ると、生緩い風が吹いていた。 女の髪と赤いドレスが風に揺れる。
女は柵の手摺に腕を乗せ、溜息を吐く。
「一年中、雨なんて降らなきゃいいのに」
「濡れるのは嫌いかい?」
俺の意味ありの言葉に女は薄く微笑する。 そして瞳に艶かしい色を浮かべ、首に掛けたネックレスの飾りを指で弄ぶ。 豊満な胸元の谷間に視線を誘う、計算された仕草だ。
「嫌いじゃないわ…」
女は俺の手を引き、人目に付かない場所へと誘う。 両手で俺のサングラスを外すと、艶めいた瞳は更にその色を深める。 女は自分から俺の身体に腕を回し、キスを強請る。 濃過ぎるルージュは好きじゃないが、仕方がないな。
絡み付く舌と腕。 女は下腹部を股間に押し付けて来る。 俺はそんな女の腰を腕で抱き寄せる。
憶えのある嫌悪の視線。 この女のボディ・ガードは女の命令には従わないらしい。 逆に職務に忠実とも言えるな。 テラスの入り口近くに身を潜め、こちらを伺っている。 キスに夢中のこの女は気付いてもいないだろうが。
濃厚なキスを交わした唇をそっと離す。
「濡れるとますますイイ女だぜ? アンタ」
欲情を隠さない淫らに濡れた瞳と唇。 熱い吐息交じりに女は囁く。
「ねぇ… ここに部屋を取ってあるの。 雨宿りに、どうかしら?」
「…悪くはなさそうだな」
女の手からサングラスを取り、掛け直す。
中身は好みじゃないが、それでも身体だけは楽しませてくれそうだぜ。
肌を重ねた相手には油断もする。 隠し金庫のヒントくらいは聞き出すさ。
「だが、俺は人に情事を見せて喜ぶ趣味はないぜ?」
女は咄嗟に意味が分からずに少し眉を顰めた。
「まさか、そこでも監視付きってワケじゃあないんだろ?」
口元を歪めて微笑うと、意味を知った女はキツイ視線でテラスの入り口を一瞥した。
女は苦々しい表情を浮かべ、テラスの入り口近くに居る男に向けて嫌味たっぷりに溜息を吐く。
「追い返すわ、あんな奴。 私だって自由な時間は欲しいわ」
アンタを自由にさせたら困る奴も多いと思うがな。
女は俺から身を離すと、剥れた様子で再びテラスの柵へと近付いた。
そんな女の後ろ姿を見送りながら、俺は唇に付いた女のルージュを拳で拭った。
木が裂ける音がした。
見ると、女の身体は壊れた柵と一緒に宙に乗り出していた。
それは一瞬。
赤いドレスの裾がスローモーションのように舞って見えた。
「奥様っ!!」
テラスに飛び込んで来た男が間に合うはずもなく、女の身体はもうそこにはなかった。
男は壊れた柵に近寄り、下を見つめて愕然とする。
「…い、医者を呼んでくれっ、誰か、医者をっ!」
男の大声と異変に何人かの客達がテラスに近寄り、壊れた柵とその下を覗いて、騒ぎは一層大きくなる。 甲高い悲鳴を上げる女の声が煩い。
「警察も呼んだ方がいいんじゃないか?」
「おい、触るな! 動かさない方がいいっ!」
地面に倒れている女の側に駆け寄った男に、一人の男が怒鳴る。
…医者が来ようが警察が来ようが、何が変わるわけでもない。 地面に散らばった柵の残骸に飾られたあの女はもう動かない。 女の見開かれた目がここからでも確認出来る。
拳に残る、あの女のルージュ。
これがあの女の置き土産になっちまったな…
「柵が脆くなってたんだな、なんて運の悪い」
「この時季は長く雨が続くからな…」
野次馬達が口々に女の不運を嘆く。
俺もツイてないな、これであの女から隠し金庫の場所を聞けなくなっちまった。 せっかくのイイ身体も逃しちまったしな。
それだけじゃねぇ、予定を変更しなくちゃならねぇぜ。 しばらくはあの女の家には警察が出入りする。 人目も多くなる。 のこのこと盗みに入る馬鹿はいないぜ。
「おい、お前っ。 さっさと姿を消せ!」
野次馬で溢れた中、興奮したあの女のボディ・ガードが人目につかぬように、それでも掴みかかるようにして迫って来た。
「お前のことが知れると奥様の恥になる、名誉に関わる! 去れ!」
恥になるのも名誉に関わるのも、あの奥様の、じゃなくて旦那の、だろうがな。
まぁ、こちらとしても警察と顔を合わせるのは御免だ、素直に退散させて貰うさ。
騒ぎに紛れて俺は場を離れた。 カジノの広間を出て、絨毯敷きの豪華な階段を降りると、ロビーも騒ぎになっていた。 フロントの従業員が慌しく動いている。 偶然居合わせた客達の興奮気味な会話が耳に飛び込んで来る。
「女の人が2 階のテラスから落ちたって!」
「死んでる、とか聞いたが…」
「2 階なら、落ちたって助かるでしょう?」
「それが、運悪く頭を地面に叩きつけられたらしいぜ」
「前にもこんな事故が新聞に載ってたな、長雨で柵が腐って…」
「嫌ね、怖いわ」
このホテルも大変だな、信用と評判が傷付いちまって。
ホテルの敷地を出て、一本道の坂を下る。
細かい雨が降り出している。
生暖かい空気に纏わりつくような柔らかい雨は霧に似て、夜を濡らす。
涙雨、かもな、誰のだか分からないが。
あれは事故じゃない。
最初にテラスに出た時に、あの女はあの柵の手摺に腕を乗せて身を預けた。 その時は軋みもしなかったぜ。 俺も手摺には手を置いたんだ。
それに、あの女の身体はまるで何かに突き飛ばされたかのように宙を舞った。
あれは殺しだ。
お前の、な。
霧雨に煙った向こうに見える、白銀の髪。
着かず離れずに後を追う。
アイツは雨に濡れることを厭わない様子で歩く。
俺のことなど当に気付いているんだろうが、振り向くこともない。
殺気も敵意もなく、闇と雨の中を漂うようなその後ろ姿。
組織の長が自ら動くくらいだ、依頼主は余程の大者か、それだけ組織にとってメリットのある依頼内容だったのか。
事故死に見せ掛けなければならない殺し…か。
それなら、お前はうってつけだろう。 お前は殺しと判らない殺しが出来る。
狙ったのは、おそらく女の後頭部。 球は外傷を残さずに女の頭を貫通した。 憶測だが、間違ってもいないと思うぜ。 あの女は地面に叩き付けられる前に脳が潰れていただろう。
……おっかないねェ、お前さんは。 殺気もなく人を殺す、か。
あの女の身体が宙を舞う直前、何かが空を切り裂く気配は感じた。 今ならそれはお前が弾いた球だったと言えるが。
何処にいた? 上の階の窓辺か、屋上か。
殺気を感じていたら、俺はお前の仕事を邪魔しただろう。 俺は随分と汚れてはいるが、目の前で人が殺されるのを黙って見守る趣味もないんでな。
だが、俺が気付いたのは刹那の気配だ。 油断していたとは思いたくはねぇが。
まぁ、俺がめでたくも殺気を感じたとして、方角を感知出来たとして、あのタイミングじゃあどうだったかねェ。 軌道が見えたとして、それで抜いたとして。 間に合うだろうが、それだけかもな。
世の中はああいう女が勝つことになってるもんだが、相手が悪かったな。
お前に狙われたのなら、運命を違える術はそうなかっただろうぜ。
せめて苦しむ間もなく即死だったことと、自慢だっただろう美しい顔が潰れなかっただけ、あの女には良かったのかも知れないな。
風がなくなった代わりに雨は強まり、気に入りの帽子もすっかりと濡れちまった。
コートも靴も重さを増す。
大通りから小路に入り、しばらく歩くと、不意に奴の足が止まった。
振り向かずに、ただ、俺に背中を向けたまま立ち止まっている。
雨に濡れ、先端から水滴がしたたり落ちる銀の髪。 柔らかな髪のボリュームがなくなると頭の小ささが目立つ。 まだ若いことを感じさせる男の背中。
「…斬るのか?」
静かな声だ。
「俺はあの女と一緒にいた。 それだけでこの剣を抜く理由にはならないかい?」
抜刀に指を掛けてもヴェノムに動く気配はない。 キュー・ケースを握る指も動かない。
「それに、お前さんのおかげでこっちの仕事がパァになっちまったぜ」
剣を抜くはずがないと思っているのか。
それとも、抜かれても構わないのか。
「動かないのかい?」
「無駄なことだ。 君が本気で私を斬るつもりなら、私は斬られる」
……フ、つくづくと出来る男だよ、お前さんは。 溜息が出るね。 相手の本当の技量を見抜けるのは、それなりの技量がある奴だけだ。
お前さんは俺に斬られても構わないんだろうな。 長たる者が独りで動くのはどうとか、お前さん、俺に言ってなかったか?
だが、俺と違って余程自分の腕に自信があるからって理由じゃない。 単に死ぬ時が死ぬ時なんだと思ってるからなんだろう? ある意味、ロマンチストなんだな、お前さんは。
軒の下に身を移し、脱いだ帽子を軽く振って水滴を掃い、帽子を被り直す。
軒先から雨の雫が規則正しく落ちる。
「こっちに来な。 雨に濡れて楽しいかい?」
ようやくお前はゆっくりと俺に振り向いた。
濡れそぼった髪は普段隠している顔を珍しく覗かせている。
「私は雨は嫌いではない」
「雨に濡れたって、お前さんの罪が洗い流されるワケじゃねぇぜ?」
ヴェノムは僅かに薄く嗤った。
そんなことはコイツも分かっているんだろうがな。 俺も野暮なことを言ったもんだ、そんな気分くらいは求めたところで責めるつもりはないんだが。
壁に凭れ掛かってコートから煙草の箱を取り出す。 湿気が強いが、火は着く。
黙って俺の隣りに寄ったヴェノムは、貼り付いた前髪を構う様子もなく佇んでいる。
肌の色に不似合いな銀の髪と淡い水色の瞳。
印象的なその瞳は何を見ているのか。
滑り落ちる水滴が睫に触れると、反射的に瞬きをする。 それが妙に人間臭い感じがする。
細い顎の輪郭を伝うように雨の雫が滑り落ちる。
「吸うかい?」
「…いや」
予定通りの返事を受けて、差し出した煙草をコートの内ポケットに仕舞った。
咥えた煙草の先に灯るオレンジの火。 雨は止む気配はない。
俺も含めて大抵の奴は雨を疎うが、雨が好きな酔狂な奴がいても、俺はな、イイと思うぜ? ヴェノム。
「ジョニー」
「何だ」
「何故、君は剣を抜かなかった?」
「抜く気にならなかった、からだな」
「何故?」
「ならない、からだ」
吐き出した煙草の煙が纏わり付くような湿った空気に重たく溶けて行く。
「だからって、お前さんは俺を見くびっているわけじゃないだろう?」
ヴェノムの音のない静かな微笑みも空気に溶けて行く。
「…まさか。 君は、本気になれば誰にでも本気の剣を抜く男だろう」
「まぁな」
煙草一本分にも満たない会話が、妙に長く感じられる。
悪くはない。 こんな雨音だけの間も。
「ヴェノム」
俺はサングラスを外し、そのまま手の内に収めた。
「今度、話がある。 これはジェリーフィッシュの団長としての申し込みだ」
ヴェノムはゆっくりと視線を俺に向けた。
その静かな瞳は密やかな湖を連想させる。
「…君は、組織は嫌いだと思ったが」
「嫌いだね」
人殺しと麻薬の請負屋なんざ、好きには成れねぇなぁ。
「だが、お前ならいい」
感情の見えない視線は揺らぐことがない。
お前さんは意外と、いや、いっそ不似合いなほど素直だと思うんだが、こういう時は何を考えているのか判らないもんだな。
やがてその口唇が薄く動いた。
「…では、私も組織の長として話を聞く」
「そうしてくれ」
緩やかに外された視線は夜を濡らす雨を見つめている。
つい、とヴェノムの身が緩やかに動いて、この軒下から離れた。
そのまま雨の中に身を晒すと、雨音に溶け込みながら立ち去って行く。
礼儀正しい男だと思ったが、別れの挨拶もなしかい?
最後の一服を終えて、手にしていた煙草を路地に捨てた。
煙草は瞬時に沈黙し、屍のように雨に打たれている。
ふと、それを拾い直して携帯の吸殻入れに仕舞った。
…なんとなくな、アイツは捨て煙草は好きそうじゃないからな。
サングラスを掛け直して軒先を出る。
雨は降り続いている。
お前の姿はもう見えない。
「ジョニーさんっ!? 戻っていらしたんですか?」
タラップを上がると、驚いた表情をしたディズィーが出迎えた。
「ああ、予定が変わってな。 こっちは変わりはないか?」
「ええ、ありませんけれど… 随分と雨に降られたのですね、今、タオルを…」
辺りを見回したディズィーがタオルを見付けたと同時に、早速とメイが駆け寄って来た。
「ジョニー、おかえりっ! …うわわっ、ずぶ濡れじゃない、風邪引いちゃうよっ!」
身を翻したメイは椅子の背もたれに掛けられているタオルを掴み、ダッシュで戻って来る。 役目を失って立ち尽くしているディズィーに俺は軽く苦笑してみせた。 ディズィーも少しだけ肩を竦めて微笑った。
「はいっ、ジョニー、タオル!」
「ありがとさんよ」
メイから受け取ったタオルで水滴を払う。
「どうしたの? 今日は帰って来れないとか言ってたのに。 もしかして、作戦変更?」
「そういうこった」
「ええ~~っ!? あとは詰めるだけだって言ってたのにぃ? …でも、ジョニーだもん、ミスなんてするはずないし…」
心のままに豊かな表情を見せるメイにひとつ笑い掛ける。
「メ~イ、いいから艇を出す指揮を取ってくれ。 この国を出る」
メイは途端にあどけない表情を潜ませ、真剣な眼差しで頷いた。 メイは俺の声の調子に聡い。
「分かった。 ディズィー、索敵のモニター見ててもらえる? 怪しい影が映らないか見てくれるだけでいいから。 オクティを起こしたくないんだ」
この国の気候が合わないのか、オクティは少し体調を崩していた。 メイはそんなオクティを気遣っている。
「はい、それなら私にも出来ます」
「うん、お願い。 何かあったらすぐに教えて。 エイプリル! 舵、スタンバって!」
エイプリルが小走りに舵に向かうのを確認しながらメイは艇内通信のスイッチを入れた。
「ノーベル、予定変更で艇を出すよ! エンジン上げて、機関のチェックをお願い。 それからスタンバイ、ボクの指示を待って」
メイはキビキビと指令を出し、最後に俺に顔を向けた。
「ジョニー、準備が出来次第、すぐに浮上でいい?」
「それでいい、上げたら安全な高度を保ったまま北西へ向かってくれ」
「北西だね。 了解」
「頼むな、メイ」
「アイ・サー」
ピンとしたメイの立ち姿にひとつ微笑を送って、俺はブリッジを後にする。
メイならこの艇を立派に引き継ぐだろう。 だが、俺はそれを望んじゃいない。 メイには、いずれはこの艇を降りて、良い男と本当の恋をして、普通の結婚をして家庭を持ち、そうして幸せに暮らして欲しい。
メイはイイ女になるさ、赤いドレスは似合わなくても、本当にイイ女にな。 俺が育ててるんだからな。
直に艇はこの国の領空を出る。 次期大統領候補の妻が死んだんだ、警察が五月蝿くなる前にこの国を出るに越したことはない。
しばらくはこの国での仕事は様子見だな。 計画の練り直しが必要だ。
高度を上げた飛行艇の窓から見下ろせば、夜の闇に浮かぶ雨雲が見える。
地上からは見えなかった月はいつものように天に輝いている。
月に似ていると言っていたのはアクセルの野郎だ。
俺がサングラスをするようになったのは何時頃からだったかな。
何故サングラスをするようになったか、そんな理由は忘れちまった。
…多分な。
こうして部屋で独りで居る時は、昔と同じでサングラスなどしていない。
鏡を見れば昔と違う面が映る。 かなりイイ男だとは思うぜ。 当然だな、実際、俺様はイイ男だ。
ガキの頃の面影が残っているのかどうかは、俺には判らねぇ。 生憎と、その辺を指摘してくれるはずの奴はもうこの世にいないんでな。
気に入りのバーボンをグラスに注ぐ。
こんな夜はストレートがいい。
酒を憶えたのは早かったな、見つかっては親父に叱られたもんさ。
親父が死んだのは俺が13 歳の時だった。
俺は他人に心を開くことのないガキで、そんな俺に唯一愛情を注いでくれたのが親父だった。
可愛げのない俺の、どこが良かったのかは知らないが… 無償の愛ってヤツだ。
この歳になって思うが、親って奴はつくづく凄いもんだぜ。
親父を失って、俺はますます自分の殻に閉じ篭った。
いつしか物事を見る眼が出来て、戦争で親を亡くしたのは俺だけじゃないと、そんな当たり前のことに気付いた。
ようやく他人の痛みを知ることが出来るようになって、俺は親父のようになろうと思った。 俺に愛を注いでくれた親父のような男に。
今にして思えば、ヴェノム、俺はお前よりどんなにか恵まれていたんだろうな。
『何故?』
以前もアイツは俺に訊いたことがある。 『何故、踏み止まったのだ?』、と。 『踏み込んでいれば君が勝ったはずだ』、と。
俺の大事なクルーがどうにかなるなら、その時は… その時は斬ると思うがね。
それでも、俺はな、ヴェノム、お前には本気で剣を抜けない気がしている。
お前に殺されるのならそれも仕方がないと、心の何処かでは思っている。
お前は俺が救ってやれなかった子供だ。
俺がすべての子供を救ってやれないことくらいは分かっている。 そんなに自惚れてもいない。 俺は神じゃない。 もっとも、神も随分とえこひいきするものらしいが。
俺が救えたのは、ほんの僅かだ。 それでも誰も救えなかったよりは、ちったぁマシだろうとは思うのさ。 メイやディズィー達の笑顔を見るとな、俺は悪党だが、俺のしていることもそうそう悪くないと思える。
だがな、ヴェノム、お前という現実を目の当たりにすると俺の胸が痛むのさ。
お前が抱えている底知れない孤独が、哀しさが、俺の胸に刺さる。
アサシンは心無き人形になることを叩き込まれるらしいが、お前の眼を見れば分かる。 人殺しを稼業にするにはお前さんは優し過ぎる眼をしている。
知ってるか? 以前にディズィーもそんなことを言ってたぜ? お前は優しい眼をしているってな。
お前がその眼で何を見て来たのか容易に想像が出来るから、嫌な気になる。
出来損ないのお人形さん。
いっそのこと出来の良い人形だったら、ヴェノム、お前さんは楽だっただろうけどな。
人形には傷む心はないんだ。
お前さんは俺を責めないさ、そんなことは解かっている。
お前は結構芯の強い男だしな。
それでもな。
ヴェノム、お前を見付けてやれなくて、すまなかったな。
俺は、お前を救ってやりたかった。
お前が悪党に似合いの生き汚い奴になっていたら、俺もこうも思わなかったが。
お前さん、静かに生きられたら良かったな。
そんな些細なことが、さぞかしお前には似合っただろうな。
お前を見付けてやれなくて、すまなかったな…
センチメンタルなんてガラじゃねぇが…
俺にも酔いたい時があるんだ。
翌日にはあの女の死を伝える見出しが新聞を飾った。
不幸な事故死として。
当然だろうな。
数日後には、女の葬儀と妻の死を嘆き哀しむ夫の様子を伝える記事が紙面に踊っていた。 男に殺しの容疑は掛からなかった。 状況からして、それも当然だろうさ。
あの女の殺しを依頼したのは夫ではないだろう、あんな女でも男の女への愛は本物だったと聞いている。 おそらく殺しを依頼したのは男の側近か、その辺りの奴等だろうな。 男には大統領になって欲しいが、そのためにはあの女は邪魔だったってワケだ。 まぁ、俺もあの女はファースト・レディの器じゃあないとは思ったが。 選挙キャンペーンやら何やら表舞台にあの女にしゃしゃり出られちゃ、嫌悪か嫉妬か解からねぇが世間が男を見る目は芳しくなかっただろうぜ。
若く美しい愛妻を不幸な事故で失った、有能で善良なる寡男。
悪くはないね。 政治家はイメージが大切だ。
中年男の純愛によって女の死は悲劇となり、国民の大いなる同情を得た。
そうして、あの女が足を引っ張る懸念ももうない。
次の選挙ではあの男が勝つさ。
どんな取り引きで先方の暗殺依頼を受けたのかは知らないが、組織としては、あの男があの国の大統領になってくれた方が都合が良いってことか。
まぁ、上手くやるだろう、アイツなら。
アイツは馬鹿じゃないからな。
デッキへ出れば、目の前には青い空が広がる。
他の機影もなくこうして空の中を飛んでいると、孤独でちっぽけな存在に思えるもんだ。
人ってのは、そもそもが孤独でちっぽけな存在なんだろうが。
眩しい太陽の光を浴びて輝くこの空の海は何処までも続いている。
空にいると、地上では見えないものが良く見えることがある。
たとえば、白昼の月。
ギリシア神話じゃあるまいし、昼と夜で太陽と月が交代しながら空に昇るわけじゃない。 日中でも月は空に浮かぶ。
こうして眺める空は地上から見るよりも深くて青い。 地上よりも空気が澄んでいて光の反射が少ないからだ。 だから地上からは見えにくい白昼の月も、この空の中なら良く見える。
今も探せば、薄ぼんやりとしたその輪郭を南の空に見付けることが出来る。
今度は見失わない。
夜の闇の中でも、陽の光の中でも。 雨が降っていても。
空を飛ぶ俺には見付けられるさ。
月はそこに在る。
少しばかりのノイズ交じりに相手の声を聞く。
『奴等、ヤクの取引についてはがっちり手綱を握ってやがる。 規制が厳しくなったっていうかな。 安い紛いモンが出回らなくなって庶民が困ってるぜ、アンタ、助けてやったらどうだい?ジョニー』
「フ、バカ言ってんじゃねぇよ」
相手の冗談に低く笑った。
「で、殺しの仕事は相変わらずか?」
『ああ、引き受けた仕事はきっちりやってるぜ。 だが、依頼は何でも請け負うってワケじゃあなくなったみたいだな。 相当数断ってると聞く』
「ヤクには規制を掛けて殺しの依頼は選別するか。 それじゃあ金が入って来ねェだろうなァ」
『ところがそうでもない様なんだな。 ヤクじゃねぇが、奴等は市場に大きな影響を持ち始めてる』
「市場?」
『投機だよ。 この世は未だに『戦後』だ、物でも土地でも価格の変動が激しい。 奴等のやり方がこれまたえらく巧妙でな、一気に頭角を現してからは短期間であれよあれよという間にだ』
「成る程な、投機で資金調達、おまけに市場の価格変動に影響力も持つか。 奴さん達にとっちゃ二重の利点があるってワケだ。 考えやがったなァ」
『ま、財界への影響が大きいってことは芋蔓に政界への影響も大きいってこった。 これまでとは別の意味で脅威に成りつつあるぜ』
「インフレーションでも誘動されたらそりゃ企業家も政治家もたまったモンじゃないだろうからな。 おっかないねェ」
『奴等にその気があるんだかどうかは知らねぇが、前より怖いかも知れねぇってオレらの間じゃ囁かれてるぜ。 前みたいに頭ごなしでも力ずくでもねぇし、こっちがちゃんと筋を通せばずっと物分りの良い相手なんだけどよ、だからって調子こいてると痛い目に合う。 それはもう、確実にな。 筋と交わした約束を守ってる分には前より自由も利くし保護もしてくれるイイ相手なんだが、それを外れたら容赦がねぇんだ。 前は頭ごなしだった割には金詰むなり女渡すなりすりゃ結構なぁなぁで抜け穴もあったが、今じゃそういうの通じねぇしよ』
「ふぅん、気を付けな。 アンタがいなくなったらこっちも困るんでな」
『オレはそんなヘマはしねぇよ』
「ま、そうだろうな。 じゃ、報告ありがとよ。 またヨロシクな」
通信機をオフにして、新しい煙草に火を着ける。
ゆっくりと煙を吐き出しながら情報屋の言葉を頭の中で巡らせる。
…やってるな、奴さん。
アサシンのお人形さんはやはりただの操り人形じゃなかったか。
投機か。 お前さん、そういうゲームは得意そうだな。
暗殺者から華麗なる投機家に転身出来ればお前さんも楽なんだろうが、そうもいかないんだろうな。 相変わらず人を殺してるんだろう? お前さんには似合わないがな。
あの日、艇が波止場へ着いた時にお前さんが突っ立ってたのには驚いたぜ。
何の用かと訊けばディズィーとメイに詫びに来たと言う。
メイはともかく、ディズィーは怖がるかと思ったが…
「私、行きます」
そう言ってディズィーはお前のところへ進んだ。
ディズィーを前にしたお前さんは紳士よろしく片膝を地に突いた。
何を話したかは知らないが、戻って来たディズィーはひどく辛そうな顔をしていた。
「ディズィー、どうしたの? アイツにヤなコト言われたの? ボク、行って来る!」
「ち、違っ…」
メイの奴、ディズィーの言葉を待たずにぷんすかとお前のとこへ行ったっけな。
「ディズィー、どうした?」
「あの人… 哀しい人です。 あんなに優しい瞳をしているのに… どうして…」
「…ああ、そうだな」
組織の暗殺者で人殺しのお前。
「そんな顔も見せない奴に謝られたって、ボク、嬉しくないよ!」
メイの奴は大声だからな。 離れてても筒抜けだ。 強気に言うメイのその声は動揺していた。
言われてお前さんは前髪を掻き上げた。
「殴っていい?」
おいおい、お前に殴られたらソイツ、二度と見られない顔になるぜ? と思ったが…
振り下ろしたメイの右手がお前さんの頬を叩くことはなかった。 髪を掠っただけで。
「殴ったよ。 だから、これで帳消しにしてあげるっ!」
そう言ってメイは走って戻って来た。
ゆっくりと立ち上がったお前さんは俺達に向かって一礼すると、静かに去ったな。
「メイ、本気じゃなかったんだな」
少し息を切らせたメイはふくれっ面を残したまま言った。
「本気だったよ。 殴った方がアイツの気が済むと思ったんだ。 でも、当たんなかったのっ」
「そうか」
「…あんな真っ直ぐに見つめられて、素直に目を閉じられたらさ… ボク、出来なかったよ。 手が震えちゃって… 殴られるよりもっとアイツの心は痛そうだったから…」
「良い子だな、メイ」
メイの肩をポンポンと叩いて言うと、メイはついと肩を避けた。
「子供扱いしないでよ、ジョニー…」
うちのお姫さんもいつの間にか大人への階段を上っているらしい。
どうせならもう少しおしとやかなレィディに育って欲しいが。
まったく、律儀で礼儀正しい暗殺者がいるもんだ。
ソルのとこへも詫びに行ったとは知らなかったぜ。
お前さんが女だったら、この艇のクルーにしてやってもいいんだが…
まぁ、無理はするな。 無理はしなきゃやってられないにしても。
お前さんに頼んだライター、まだ貰ってないしな。
この前の借りも返しちゃいない。 俺は借りは返す主義なんだ。
冷めかけたコーヒーを口にする。
お前さんの伝言どおり、クルーのココアは買ったぜ。 ミルクと砂糖入りのヤツな。
このコーヒーは俺の自腹だ。 安心しろ。
毎日、新聞の賞金首の報告欄を確認するのが日課。
毎日、貴方の名前が削除されていないことに安心する。
賞金首のリストに名前があるのを見て安心するなんて可笑しなことだけど。
昨日、出掛けた途中で猫を見かけたわ。
出窓に置かれた鉢植えの隣に佇むロシアン・ブルー。
ガラス越しに目が合ったの。
細っそりとしていて、銀を帯びたブルーの毛並み。 首に青いリボンが付いていて。
瞳の色は違うけれど、貴方に似ていると思ったわ。
ロシアン・ブルーは穏やかで優しい猫。
私は猫を飼うのが夢だった。
置いて逝ったら可哀相だから飼うことはなかったけれど。
組織を抜けてからは追われる生活だったし…
そうね、落ち着いたら猫を飼うのも良いわね。
アビシニアン、ソマリ、アメリカン・ショートヘア、スコティッシュ・フォールド…
どれもカワイイわね。
でも、ロシアン・ブルーは辞めておくわ。 だって、何だか滑稽でしょう。
久し振りに美味しい紅茶が飲みたいと思って、紅茶の缶を買ったわ。
でもね、何度淹れても貴方が淹れるようには美味しくならないの。
貴方に美味しい紅茶の淹れ方を教わっておけば良かったわね。
『どうぞ、ミリア』
カタリ、と置かれた陶磁のティー・セット。 苺のヴァレーニエが添えられている。
懐かしい。 ヴァレーニエなんて良く見つけて来たものだと思う。
『イングランドではレモン・ティーをロシアン・ティーと言うのですよ。 御存知でしたか?』
優しい声、優しい指先。 遠い日に彼と交わした会話。
ヴェノ、今度は、これからは、貴方が殺して来た自分を生かしてあげて。
そして、もしも貴方が少しでも私のことを思ってくれるのなら、生きていて。
もう会うことはないのでしょう、それでも、もしも今度貴方に会ったら…
その時には私に「ごめんなさい」と言わせて。
その時には、きっと私にも言えるから。 言えるようになってみせるから…
ねぇ、ヴェノ…
『奴等、ヤクの取引についてはがっちり手綱を握ってやがる。 規制が厳しくなったっていうかな。 安い紛いモンが出回らなくなって庶民が困ってるぜ、アンタ、助けてやったらどうだい?ジョニー』
「フ、バカ言ってんじゃねぇよ」
相手の冗談に低く笑った。
「で、殺しの仕事は相変わらずか?」
『ああ、引き受けた仕事はきっちりやってるぜ。 だが、依頼は何でも請け負うってワケじゃあなくなったみたいだな。 相当数断ってると聞く』
「ヤクには規制を掛けて殺しの依頼は選別するか。 それじゃあ金が入って来ねェだろうなァ」
『ところがそうでもない様なんだな。 ヤクじゃねぇが、奴等は市場に大きな影響を持ち始めてる』
「市場?」
『投機だよ。 この世は未だに『戦後』だ、物でも土地でも価格の変動が激しい。 奴等のやり方がこれまたえらく巧妙でな、一気に頭角を現してからは短期間であれよあれよという間にだ』
「成る程な、投機で資金調達、おまけに市場の価格変動に影響力も持つか。 奴さん達にとっちゃ二重の利点があるってワケだ。 考えやがったなァ」
『ま、財界への影響が大きいってことは芋蔓に政界への影響も大きいってこった。 これまでとは別の意味で脅威に成りつつあるぜ』
「インフレーションでも誘動されたらそりゃ企業家も政治家もたまったモンじゃないだろうからな。 おっかないねェ」
『奴等にその気があるんだかどうかは知らねぇが、前より怖いかも知れねぇってオレらの間じゃ囁かれてるぜ。 前みたいに頭ごなしでも力ずくでもねぇし、こっちがちゃんと筋を通せばずっと物分りの良い相手なんだけどよ、だからって調子こいてると痛い目に合う。 それはもう、確実にな。 筋と交わした約束を守ってる分には前より自由も利くし保護もしてくれるイイ相手なんだが、それを外れたら容赦がねぇんだ。 前は頭ごなしだった割には金詰むなり女渡すなりすりゃ結構なぁなぁで抜け穴もあったが、今じゃそういうの通じねぇしよ』
「ふぅん、気を付けな。 アンタがいなくなったらこっちも困るんでな」
『オレはそんなヘマはしねぇよ』
「ま、そうだろうな。 じゃ、報告ありがとよ。 またヨロシクな」
通信機をオフにして、新しい煙草に火を着ける。
ゆっくりと煙を吐き出しながら情報屋の言葉を頭の中で巡らせる。
…やってるな、奴さん。
アサシンのお人形さんはやはりただの操り人形じゃなかったか。
投機か。 お前さん、そういうゲームは得意そうだな。
暗殺者から華麗なる投機家に転身出来ればお前さんも楽なんだろうが、そうもいかないんだろうな。 相変わらず人を殺してるんだろう? お前さんには似合わないがな。
あの日、艇が波止場へ着いた時にお前さんが突っ立ってたのには驚いたぜ。
何の用かと訊けばディズィーとメイに詫びに来たと言う。
メイはともかく、ディズィーは怖がるかと思ったが…
「私、行きます」
そう言ってディズィーはお前のところへ進んだ。
ディズィーを前にしたお前さんは紳士よろしく片膝を地に突いた。
何を話したかは知らないが、戻って来たディズィーはひどく辛そうな顔をしていた。
「ディズィー、どうしたの? アイツにヤなコト言われたの? ボク、行って来る!」
「ち、違っ…」
メイの奴、ディズィーの言葉を待たずにぷんすかとお前のとこへ行ったっけな。
「ディズィー、どうした?」
「あの人… 哀しい人です。 あんなに優しい瞳をしているのに… どうして…」
「…ああ、そうだな」
組織の暗殺者で人殺しのお前。
「そんな顔も見せない奴に謝られたって、ボク、嬉しくないよ!」
メイの奴は大声だからな。 離れてても筒抜けだ。 強気に言うメイのその声は動揺していた。
言われてお前さんは前髪を掻き上げた。
「殴っていい?」
おいおい、お前に殴られたらソイツ、二度と見られない顔になるぜ? と思ったが…
振り下ろしたメイの右手がお前さんの頬を叩くことはなかった。 髪を掠っただけで。
「殴ったよ。 だから、これで帳消しにしてあげるっ!」
そう言ってメイは走って戻って来た。
ゆっくりと立ち上がったお前さんは俺達に向かって一礼すると、静かに去ったな。
「メイ、本気じゃなかったんだな」
少し息を切らせたメイはふくれっ面を残したまま言った。
「本気だったよ。 殴った方がアイツの気が済むと思ったんだ。 でも、当たんなかったのっ」
「そうか」
「…あんな真っ直ぐに見つめられて、素直に目を閉じられたらさ… ボク、出来なかったよ。 手が震えちゃって… 殴られるよりもっとアイツの心は痛そうだったから…」
「良い子だな、メイ」
メイの肩をポンポンと叩いて言うと、メイはついと肩を避けた。
「子供扱いしないでよ、ジョニー…」
うちのお姫さんもいつの間にか大人への階段を上っているらしい。
どうせならもう少しおしとやかなレィディに育って欲しいが。
まったく、律儀で礼儀正しい暗殺者がいるもんだ。
ソルのとこへも詫びに行ったとは知らなかったぜ。
お前さんが女だったら、この艇のクルーにしてやってもいいんだが…
まぁ、無理はするな。 無理はしなきゃやってられないにしても。
お前さんに頼んだライター、まだ貰ってないしな。
この前の借りも返しちゃいない。 俺は借りは返す主義なんだ。
冷めかけたコーヒーを口にする。
お前さんの伝言どおり、クルーのココアは買ったぜ。 ミルクと砂糖入りのヤツな。
このコーヒーは俺の自腹だ。 安心しろ。
毎日、新聞の賞金首の報告欄を確認するのが日課。
毎日、貴方の名前が削除されていないことに安心する。
賞金首のリストに名前があるのを見て安心するなんて可笑しなことだけど。
昨日、出掛けた途中で猫を見かけたわ。
出窓に置かれた鉢植えの隣に佇むロシアン・ブルー。
ガラス越しに目が合ったの。
細っそりとしていて、銀を帯びたブルーの毛並み。 首に青いリボンが付いていて。
瞳の色は違うけれど、貴方に似ていると思ったわ。
ロシアン・ブルーは穏やかで優しい猫。
私は猫を飼うのが夢だった。
置いて逝ったら可哀相だから飼うことはなかったけれど。
組織を抜けてからは追われる生活だったし…
そうね、落ち着いたら猫を飼うのも良いわね。
アビシニアン、ソマリ、アメリカン・ショートヘア、スコティッシュ・フォールド…
どれもカワイイわね。
でも、ロシアン・ブルーは辞めておくわ。 だって、何だか滑稽でしょう。
久し振りに美味しい紅茶が飲みたいと思って、紅茶の缶を買ったわ。
でもね、何度淹れても貴方が淹れるようには美味しくならないの。
貴方に美味しい紅茶の淹れ方を教わっておけば良かったわね。
『どうぞ、ミリア』
カタリ、と置かれた陶磁のティー・セット。 苺のヴァレーニエが添えられている。
懐かしい。 ヴァレーニエなんて良く見つけて来たものだと思う。
『イングランドではレモン・ティーをロシアン・ティーと言うのですよ。 御存知でしたか?』
優しい声、優しい指先。 遠い日に彼と交わした会話。
ヴェノ、今度は、これからは、貴方が殺して来た自分を生かしてあげて。
そして、もしも貴方が少しでも私のことを思ってくれるのなら、生きていて。
もう会うことはないのでしょう、それでも、もしも今度貴方に会ったら…
その時には私に「ごめんなさい」と言わせて。
その時には、きっと私にも言えるから。 言えるようになってみせるから…
ねぇ、ヴェノ…
11.心臓が止まりそうです
いつ死ぬかも判らぬ職業柄、『食えるものは食う、抱ける女は抱く』を貫き通してきたものの、成程だからいつまでも独身なのだと、ラルフ・ジョーンズは改めて頭をかかえた。先日かわいげのない部下にも同様のことを忠告されたばかりである。
とはいえ、肉欲的な口唇に艶やかな紅を引き、白い鎖骨をさらしながら求められでもされたら、彼としては早速肩を抱いて、食事でもホテルでもと連れていってしまいたくなるものだ。
「好きです。付き合ってください」
ただし、その声や瞳が無愛想を通り越して無表情でなければ。
そして何より、彼女の名前がレオナ・ハイデルンでさえなければ。
おおジーザス、不安も恥じらいもない少女に祈る。
(心臓が、止まりそうです。いろんな意味で)
額から嫌な汗が流れた。齢四十を前にして幻聴が始まったのかもしれない。レオナの言葉が呪詛のたぐいに聞こえてくる。隣部隊の少佐も、若い頃は戦場でよく虹色の蝶を見たものですと語っていたのを思い出す。
(いいや違う、奴ぁジャンキーだっただけだ)
わざとらしく背けていた目をおそるおそる戻し、すぐさま後悔する。幻覚でもなんでもなく佇むレオナは、いくらか上背のあるラルフを見上げ、返事を待っている様子だった。
裂傷や銃創など傷痕の残った彼女の肉体は、されど軍人以前にうら若き女のものには変わりない。剥き出しの腹部にくびれを覗かせ、ホットパンツからのびた太腿は川魚の腹のようで、しなやかな脚線美を強調させる。鍛えられた体のラインは丸みを忘れずに、誰もが食指を動かさんばかりに柔らかさを秘めている。深海を宿す双眸は豊かなまつ毛にふちどられ、鋭いながらもあどけなさを感じさせるものがあった。
実際のところ、レオナ見たさに同じ隊を希望する者も少なくない。ファンクラブまで結成されているのをラルフは知っている。
しかし、そうまでしながらラルフを含め一切の男たちが彼女を口説くことはなかった。下心を持って声を掛けたら最後、功を奏するか否かに関係なく、彼女の養父によって完膚なきまでに叩きのめされるからだ。彼女に愛を語った男は皆、二度と姿を現さなかった。遠くで見ているが花、ファンクラブ副会長フラ・フープがそう涙した。
「返事は?」
レオナがぐっと踏み込んでくる。ラルフは慌てて飛びのいた。少女の無機質な瞳が、底のほうで似通った養父を連想させる。そしてまた、養父はラルフの上司でもあった。まずい、まずすぎる。内臓がきりきり痛んだ。こめかみの冷たいものを拭い、諸手を突き出し少女を制す。
「ま、待てレオナ! 話せば判る!」
「何?」
レオナは掌を受け流し、数歩後退したところで鼻白んだ。シルクの眉間に微々たる皺が刻まれる。
「あのだな、教官に言ったりとか……してないよな、な?」
「今は任務中だから、終わり次第報告する」時計に目を遣りレオナが答える。
ラルフは血液が沸き立ち、刹那にして凍りつくような感覚に襲われた。
(どっちにしろ殺されるじゃねえか!)
少女の育てかたについて小一時間問い掛けたかったが、それもままならない。大体ファザコンにも程度ってもんがあるだろ。こいつは自分の生理の周期すら養父に伝えているにちがいない。毒づきながら手をズボンにこすりつける。養父に見つからぬようにと願うか、それとも新しい就職先を探すか、腕利きの医者を紹介してもらうのが先かと、大脳をめまぐるしく回転させる。赤いバンダナが半分ほどまでしめっていた。
「あと五分以内に答えて。任務に支障をきたす」
レオナはあくまで毅然たる態度を崩さない。再び時計に視線を落とす。能面めいた姿にデジャ・ビュをおぼえ、ラルフは太い首をかしげた。時を正確に刻むべく、時計を何度も確認する癖は戦場でよく目撃したものだ。
「おい、このあとは任務か?」
「いいえ、デスクだけよ」
「午前にこなしてきたとか?」
「予定を管理しているのはあなたでしょう? ないわ」
重ね重ねの問いを、レオナは淡白に否定した。足をやや開き、両腕が腰の裏で組まれた時、ラルフは大きく噴出した。
「そういうことかてめえ! クラークに伝えろ、この『任務』は失敗だってな!」
「……了解」
けたたましく震える喉に反し、脱力感が全身にのし掛かる。濡れた背中が急速に熱を失う。今度は慎重に息を吐き出した。
「んで、あの野郎に何を吹き込まれたんだ?」
「大佐の日ごろの行いの悪さを正すための任務よ」
「……確かに肝は冷えたけど。おまえね、さっきの言葉の意味判って言ってたのか?」
「さあ……ウイップが、わたしにしか出来ないからって」
あいつら。ともに耐え抜いた理性に感謝する反面、計画犯たちを殴りに行こうと歯軋りする。サングラスの下で瓢々とするクラークが目に浮かぶようだった。
ほどけた靴紐を直さんとレオナがかがんでいた。垂れ下がるのが邪魔なのか、何度も首を振って髪の束を避ける。弓型のイヤリングが蛍光灯に照らされる。少女の首筋から目を逸らしつつ、ラルフはポケットに手を突っ込んだ。紙屑の感触しか得られず舌打ちする。静まった鼓動が強く跳ね上がり始める。
(なんだって一体。本当に、心臓に悪い)
「知っていたとしたらどうする?」
「おう、俺もあとで行くわ……あ?」
「あの言葉の、意味を」
少女のシルエットが床に落ちる。レオナの目はラルフを射抜いていた。甘さとはほど遠い、ともすれば不機嫌にすら思われる視線ではあったものの。ごくりとラルフは生唾を飲んだ。朱唇の動きに意識を奪われる。
数十秒と経過してから、レオナは何事もなかったかのように立ち去った。
「……脈アリってこと、なのか?」
自動販売機に硬貨をつぎ込む。選んだブラックコーヒーのプルタブを開けて一息つき、ラルフは小さく唸った。
十八の生娘が、二十以上も歳の離れた自分に恋愛の情などいだいくわけがない。まして相手は恋愛どころか笑顔のひとつも持ち合わせていない具合だ。乾いた笑みがこぼれる。そんなはずはない、そんなはずはない。言い含めるようにコーヒーを呷る。
「でも……ま、確かめてみるのもいいよな?」
空になった缶を捨てる。ああ麗しの少女よ、難攻不落の心に咲くのは薔薇かウツボカズラか。動悸が静まらない。にやける頬が締まらない。絶対にオトす、俺の魂に掛けてオトす! 鼻息荒く誓ったラルフの後方で、ゴミ箱にぶつかった缶が転がった。
「ほう、落とすとは貴様の不埒な首のことか」
レオナに呼ばれた際よりも激しい悪寒がはしった。蛇に睨まれた蛙のごとく、歴戦の四肢は竦んで役に立たない。弁明の余地はなかった。教官、と呟くだけで精一杯だった。
気付けばラルフは宙を舞い、鬼神と化した隻眼の男が見えた。
(心臓が止まりそう、むしろ止まる! いくつあっても足りねえよ!)
FIN.
決して踏み入るな
こちらを向いてはいけない
お前はいつまでも
美しい光であってくれ……
「…テスタメントさん…テスタメントさん、どこですか?」
そこは、木漏れ日の美しい森の中。心の安らぐ光が体を包み込み、本来ならばすっきりと癒してくれる小鳥の声も耳に優しい。が、今現在、この森に踏み入ったディズィーには足りないものがあった。
それは漆黒の優しい人。いつも自分を想い、守ってくれていた存在が、今は何故かいなかった。ディズィーは、不安そうに周囲を見回した。
「…どうしたのかな…いつもならテスタメントさん、ここで待っててくれるのに。」
ひょっとして、何かあったのだろうか。急に心配になってきて、ディズィーは歩くスピードを少し上げた。本当ならば翼を広げて飛んでいきたいところだが、そうするとここにいる小鳥達を驚かせてしまう。彼女は仕方なく、自分の二本の足で森の中を走った。
「テスタメントさん、どこにいるの…?」
彼女は呟いて、ふとした違和感に気がついた。足を止め、その違和感が何なのかを考えてみる。そしてその答えはすぐに出た。彼女の目が、僅かに見開かれる。
「……血の匂い……。」
彼女の鼻腔に広がったのは、確かに鉄のような血の匂い。ディズィーの血の気が引いた。これは、「テスタメントに何かがあった」というよりも、「彼を取り巻く何か」に何かがあったと考えた方が正しいかもしれない。ディズィーは、胸騒ぎを止める事もできずに、胸元を押さえたままで走り出した。先程よりも早く、早く。
テスタメントが何をしたのか。この血の匂いは何なのか。いずれにせよ、これがテスタメントの血でない事を祈るしかない、だろう。彼女は、だんだん濃くなってきた血の匂いに咽そうになりながら、足を早めていった。
そして。
「…………っ!?」
ディズィーの目が限界まで見開かれる。そこに広がっていた光景は、あまりに残酷だった。美しく堂々と立っていた木を真っ赤に染めて倒れている人間達。血の海が広がり、そこに沈んでいるのは何も人間だけではなく、巻き添えを食ったらしい動物達までがいる。そして、その真ん中に立つのは、あの優しい闇のギア。そして彼自身も、体中から血を流していた。明らかに、返り血ではないと分かるほどの。
ディズィーはたまらなくなって、テスタメントに駆け寄ろうとした。が、テスタメントが先にディズィーの存在に気付き、ひどく冷たい目で睨みつけてきたため、彼女はもうそれ以上動く事ができなかった。
「…テスタメントさん…これは…どういう事ですか?」
絞り出した声が、震える。テスタメントに恐怖を感じるなど、今までなかったのに。どうして、と心の中で思い、その答えを出すより先に、テスタメントの静かな溜め息が聞こえた。その赤い目は、相変わらずディズィーを捕らえたままで。
怯えるディズィーをしばらく見つめていたテスタメントは、やがて力ない微笑みを浮かべた。ゆっくりと、近付いてくる。ディズィーはあとずさる事もできずに、その様子を見ていた。やがて、彼女の元に辿り着いたテスタメントは、そっと、だが力強くディズィーの肩を掴んだ。それは痛いほどで、思わず顔をしかめてしまう。
「テスタメントさん……?」
「私には…何も残らない。」
名を呼んで帰ってきたのは、そんな応え。いや、むしろ答えにもなっていないのだが、テスタメントは俯いたままで、ディズィーに顔を見せようとはしなかった。身長差はかなりあるのに、テスタメントの長く垂れた髪が表情を隠している。ディズィーはしばらくうろたえていたが、何かを決心したようにテスタメントの肩を掴んで引き離した。まだ、彼の表情は見えない。が、お構い無しに、ディズィーは押し殺した声で言葉を紡いだ。
「これはどういう事ですか、テスタメントさん。」
こんなに人を殺して
自身も傷ついて
一体何があったのか
「…フフフ…ック、ハハハハハハハハハハハハハ!!」
突然狂ったように笑い出したテスタメントを、ディズィーは驚いたように見つめた。いつもの冷静な彼からは考えられないその姿に、声を失う。自分を見つめてくるディズィーに視線を戻したテスタメントは、優しく微笑んでいた。そのどこか狂気じみた笑顔に、ディズィーの心が震える。しばらく会いに来ないうちに、一体彼の何が変わってしまったと言うのだろうか。その答えは見つからないまま、テスタメントは次の言葉を発していた。笑顔のまま、声は低く。
「言ったろう、ディズィー…私には何も残らない。」
「……え?」
「私は暗い影の中で生きる者。何も…何も残されてはいない!」
なおも笑い続けるテスタメントを、ディズィーはただ呆然と見つめていた。結局、どうしてテスタメントがこうなったのかは分からず終いか。ディズィーの唇が、無意識にテスタメントの名前を呼んだ。どうして、何も変わっていないのに、何かが変わってしまったのか。何かがあったのならば、自分にも話して欲しいのに。今のテスタメントには、そんなディズィーの心情さえ、察する事はできなかった。ただ、ディズィーの目には、笑うテスタメントが悲しい目をしているように見えた。そう思うと、彼女自身も悲しくなってくる。
気がつくと、ディズィーはテスタメントの腕を引っ張っていた。彼の笑い声が、ぴたりと止まる。そんな様子に構っている余裕は無く、ディズィーは自分の髪を結わえていたリボンを外し、テスタメントの傷口に押し当てた。じわじわと、布に血が染みて行く。それを見つめながら、ディズィーは静かに言った。
「テスタメントさん、貴方が影に生きるものなら、私は何ですか。」
ディズィーの言葉を、テスタメントは表情も変えずに聞いていた。心ここにあらず、と言った表情に悲しみを覚えつつ、ディズィーは下からテスタメントの顔を覗き込む。そして、涙が出てきそうなのを必死で堪えながら、ゆっくりと言った。
「私もギアです。この力は人をも殺します。…貴方と、何が違うの?」
紡がれた言葉の悲しさを、果たしてテスタメントは感じただろうか。だが彼は、変わらず優しく微笑んだままで、ディズィーの頭を撫でた。びく、と震える彼女に告げたのは、ディズィーの欲しかった言葉ではなかった。
「…お前には仲間がいる。共に笑い会える仲間がな。」
言うなればお前は光
その裏側でそれに焦がれるのは影
私の存在はまさにそれ
お前に焦がれ
決して届かぬ
交わらぬ
「……。もう行け、ディズィー。」
テスタメントが、ディズィーから一歩離れた。その表情に浮かべていた笑みを綺麗に消して。変わりに、切なさと苦しみをたたえた目をして。その様子に胸が痛くなったディズィーは、左右に首を振った。こんな状態のテスタメントを置いていくなど、一体誰ができようか。だが、そんな彼女の様子を見たテスタメントは、ただ困ったように溜め息をついただけだった。手を伸ばして、ディズィーの頬に触れる。血にまみれた手がその柔らかな頬をなぞり、ディズィーの顔が赤く染まった。が、彼女もそんな事は気にしない。赤く汚れた自らの頬に触れもせずに、彼女は真っ直ぐにテスタメントを見つめていた。
「…帰りたく、ありません。」
「帰れ。ここは影の領域だ。お前のいるべき場所は、ここではない。」
いつに無く冷たい声が、ディズィーを打ちのめす。その痛みに耐えながらも、彼女はなおも首を縦には振らなかった。嫌がる彼女をしばらく見ていたテスタメントは、仕方ない、と言うように鎌を取り出した。その鈍く光る刃に、ディズィーが怯えた表情を見せる。テスタメントは、小さく息を吐き出すと、素早く一歩を踏み出して、ディズィーの体にその柄を埋めた。みし、と嫌な音がしたのは、きっとディズィーの気のせいではないだろう。彼女の背中に宿る二つの力ですら、その素早さに対処が遅れた。顕現した時には、もう彼女はテスタメントの方に倒れこんでいて。
テスタメントはそんな彼女を腕の中に抱きとめると、自分を睨みつけているネクロとウンディーネを見上げた。再び悲しげに唇の端を吊り上げる。
「ジェリーフィッシュに彼女を送る。すまなかった。」
呟けば、二つの力は翼に変わり、テスタメントは彼女を抱えて森の外へと向かった。
快賊団の船が、まだ地上にある事を祈って。
・・ ・・ ・・
「ディズィー!どうしたの!?」
快賊団の船に乗り込むと、メイが誰よりも早く駆け寄ってきた。そして、血にまみれたテスタメントを、何か恐ろしいものでも見るような目つきで睨みつけてくる。間違ってはいないため、テスタメントは訂正する事無く、ディズィーを床の上に下ろした。さらり、と零れた青い髪が床の上に散らばり、幻想的な姿に見える。そのあまりの眩しさから目を逸らし、テスタメントは口を開いた。
「眠ってしまったようだ。だから送ってきた。」
「…そう…。ありがと。」
「いや。」
テスタメントの説明を耳にしたメイは、とりあえず礼を言ってきた。が、その目は変わらず、心配そうにディズィーを見つめていて。その目の美しさに、テスタメントは心を決め、その少女の名を呼んだ。今までテスタメントに名前で呼ばれた事が一度も無かったメイは、驚いたように顔を上げる。そんな様子には構わず、テスタメントは静かな声で言い放った。
「ディズィーに伝言だ。…影に沈むな、できれば忘れろ、…と。」
「……?それ、どういう意味?」
メイが怪訝な顔を下のを、テスタメントは綺麗に無視した。この意味を、この少女に説明する気にはなれない。問いには答えず去っていこうとするテスタメントに声をかける事もできず、メイはそれとなくそこに眠るディズィーに視線を戻した。そんな彼女が見たものは。
「…ディズィー…。」
ディズィーは、黙って涙を流していた。閉じていた瞳をうっすらと開いて、その目から零れ落ちる大粒の雫は、全てを物語っているかのようにも見える。彼女は、メイの顔を見て、無理に微笑みながら体を起こした。体に鈍い痛みが走ったが、どうしてかそれを大して痛いとも感じずに、胸を押さえる。彼女にとっては、この心の痛みの方がダメージが大きいのだろう。
テスタメントの言葉の意味は分からなかったものの、ディズィーにそれを問い詰めるのはひどく残酷な気がして、メイはディズィーのすぐ傍に膝をついた。そっと抱きしめてやれば、ディズィーの細い肩が震える。
「…ねぇディズィー。無理して笑わなくても…。」
泣きたかったら泣いてもいいと、そう言おうとしたメイの耳に届いたのは、小さな嗚咽を含んだディズィーのくぐもった声だった。
「私…影を失うくらいなら、光にはなれない…。」
「……。うん。」
「私、もう少しの間…影に溺れていたいんです…!」
「…………じゃあ、そうすればいいよ。」
本当に、全く意味は分からない。だが、メイはディズィーの好きにさせておきたくて、ただ頷くだけだった。その態度に救われたのか、涙に濡れた瞳を細めて彼女は笑った。すみません、と謝られてしまい、メイもどうしたものかと一瞬悩んでしまう。が、すぐにディズィーを元気付けるために笑みを浮かべ、もう一度その小さな体で抱きしめてやった。
その様子を見つめる「影」の存在には、気付かぬままに……。
決して踏み入るな
振り返って欲しくも無かったのに
どうしてお前は
自ら影に沈んでくるのだ
お前は光
私はその裏に潜むもの
どうか
見失わないでくれ……
fin
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