騎士を持たないキリュウは、フードを目深に被り、街を抜けようとした。夜の街は危険だ。特にファティマには。
だが、誰かが腕を引いた。振り返ると、目つきの悪い男達がいた。
「ファティマだ。男のファティマがいるぞ」
男達が取り囲む。ファティマの自分には身を守る術がない。こんなのに売り飛ばされるのかと、キリュウが覚悟したときだった。
空気を切り裂いて、スパッドが飛んできた。キリュウを掴んでいた男の手が飛んだ。
キリュウは驚いてスパッドが投げられた方を見た。そこには、まだ幼い少女が両足を踏ん張るようにして立っていた。
「やめてよ!」
少女は叫んだ。キリュウを取り巻いていた男達は、お楽しみを中断したのが少女だとわかると、ニヤニヤと笑い出した。そして、少女の方へ足を踏み出していく。男の体を持つファティマより、幼くても女のほうがいいと判断したのだろう。少女が怯えた表情に変わった。瞬間、キリュウはスパッドを拾うと少女の体を抱え、飛び上がった。建物の屋根に飛び移り、街の外れまで一気に走り抜ける。
道路の影になるところまで移動して、キリュウは少女を下ろした。
「大丈夫か?」
声をかけると、少女は頷いた。黒い髪の少女は、小さく震えていた。その手にスパッドを渡して握らせる。
「お前、騎士なのか?」
少女は頷いた。
「何で、あんな所にいたんだ」
「お母さん、探しに・・・」
スパッドを握り締め、少女は俯く。
「だからって、お前」
キリュウが言うと、少女は顔を上げた。美しく輝く、黒い瞳に決意が現れていた。
「ハルカ。お前じゃない。私はハルカ。あなたは?」
キリュウは動揺した。強い光を感じた。こんな小さな、恐らくまだ学校に通うような少女に引き付けられる。
「俺は、キリュウ。キリュウ カズマだ」
フードをはずし、遥を真っ直ぐに見つめる。これは運命だ。キリュウは思った。逃れられない運命。この少女に己の命を託す宿命だ。
「ハルカ。お前を『マスター』と呼んでもいいか?」
ハルカは驚いた表情になった。
「え、何で・・・私、正式な騎士じゃないし・・・MHも持ってないし・・・」
「俺の『マスター』になってくれれば、お前の母親探しを手伝おう」
ハルカは少し考えた。それから頷いた。
「うん。わかった。おじさんの『マスター』になる」
おじさん、か。キリュウは笑った。少女から見れば、ファティマの自分もおじさんだろう。
「Yes,Master」
キリュウは膝をついた。伸ばされた小さな少女の手を取る。長い旅の始まりを、キリュウは感じていた。
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冬の空はどこまでも青く広がっている。遥は大きく息を吐いた。
高校生の制服。首から下げられた箱。それはまだとても熱くて、抱きしめる事も出来ない。
「はい、こちらに並んでください」
葬儀場の係の人が遥の腕を引っ張った。よろけつつも、遥は言われた場所に立つ。隣に、位牌を持った弥生が、逆側に遺影を持った大吾が立った。
ここまで、一瞬だったと遥は思った。一瞬で、桐生は箱に入ってしまった。
「それでは、お車にどうぞ」
言われて、遥は我に帰る。東城会の黒塗りの車があった。弥生が助手席に、大吾と遥は後部座席に乗った。
焼き場から、本部に帰るのだ。
膝の上の箱が熱いと遥は思った。もう、涙も出なかった。
「遥」
声を掛けられて、遥は顔を上げた。大吾が心配そうな顔をしていた。
「お前、これからどうするんだ。一人じゃないか。当分、俺んトコロにいろ」
ぶっきらぼうな言い方だが、目が真剣だった。遥は小さく笑った。
「大丈夫。一人じゃないから」
「一人じゃない?」
問われて、遥は俯いた。
「赤ちゃん、いるの。おじさんには言えなかったけど。もう四ヶ月なの・・・だから、一人じゃないの」
「遥、それって・・・」
「うん。だから大丈夫」
言った瞬間、大吾が肩を抱き寄せた。
「大丈夫じゃねえよ。どうするんだよ、ガキが生まれるっていうのに」
「大丈夫だよ」
「ダメだ。お前は俺の所に来い。生まれてくるガキもまとめて面倒見てやる」
捕まれた肩が痛い。遥は静かに目を閉じた。
「大吾さん・・・大丈夫だから」
「俺が側にいれば大丈夫になるんだ。分かったな。お前は、元気なガキを産むんだ」
温かい手の感触。涙が、また視界を曇らせる。
「大丈夫・・・」
大吾の優しさが辛かった。遥は、桐の箱を抱きしめた。
風の季節
その秋の日曜日、堂島の家には桐生と遥がやってきた。
「こんにちは~」
「お久しぶりです。姐さん」
玄関先に並ぶ二人は、まるで親子だと大吾は思った。弥生はいつも通り、きりっと和服を着て、桐生に言った。
「桐生、わざわざウチまで来てもらって悪いね。本部だと話せないからさ・・・柏木は奥で待ってるよ」
「わかりました」
「遥ちゃん。悪いけど、ウチのぼんくらと待っててくれるかい?」
「はい」
遥が頷く。今日は大吾が遥を預かる事になったのだ。大吾は内心ため息をついていた。もっと大きな女なら、喜びそうな事はいくらでもわかる。ただ、相手は十歳のガキだ。
「大吾さん。よろしくお願いします」
遥はぺこっと頭を下げた。
「ああ」
大吾も釣られて、頭を下げた。
広い庭の見える和室で、遥は縁側に腰を下ろすと庭を眺めていた。堂島の庭は、ちょっとした庭園みたいなものだ。
「大吾さん、紅葉、いつ頃になるんですか?」
遥が振り返りながら聞いてくる。
「さあな。もう少し先じゃねーの?」
答えると、遥は一瞬表情を曇らせ、視線を戻した。大吾から見えるのは、小さな背中だけだ。
どうしたもんかとため息をつく。灰皿と煙草をもって、遥の隣に座ってみた。驚いた遥が、黒目がちの瞳で見上げてくる。
「煙草、吸っていいか?」
聞くと、遥はこくりと頷いた。
「はい。大丈夫です」
「ん」
火をつけて、煙を吐き出す。自分にとって見慣れた庭の、葉の色づく頃なんて知らないのは、もしかしたら変なのかもしれないと思う。
「大吾さん」
「ああ?」
かけられた声に遥を見ると、真剣な表情があった。
「あの、私、ここにいますから、大吾さんはお出かけしてもいいですよ」
「そりゃダメだろ。お袋に叱られる」
「でも、私、邪魔みたいだから」
シュンと遥が項垂れた。一瞬、自分が罪人のように思えた。良く分からないからという理由で、傷つけたかもしれない。小さな手が、スカートを握っていた。その手の甲が、やけに赤い。
「遥。ちょっと手、見せてみろ」
「え?」
驚きつつも、遥は両手を差し出した。小さな手を掴んで、手のひらを見る。その指先は、見事にあかぎれを作っていた。
「どうしたんだ?これ」
「あ、あの・・・ちょと洗剤変えたら、こんなんなっちゃって」
遥が耳まで赤くなりながら答えた。小さくても、遥は一人前に家事をやっていると聞いた。桐生は、この手を知っているのだろうか?恐らく気付いても、そのままにしているんだろう。
「酷いぞ、これは」
「そ、そうですか?」
両手をつかまれたままの遥は、赤くなりながら答えてくる。
「・・・これから、薬買いに行こう。俺が買ってやるから」
「で、でも」
「いいから。どうせ桐生さん達の話し合い、すぐに酒盛りになるさ。ちょっとくらい出かけてもバレねえよ。それとも、俺と一緒じゃイヤか?」
遥は首を左右に振る。初心な反応だと大吾は思った。大人になれば、きっと誰もが放っておけない女になりそうだ。
「じゃあ、行くか」
手を離し、立ち上がると、遥はしばらく自分の手を見ていた。
「行こうぜ、遥」
大吾は右手を差し出す。遥はその右手と大吾の顔を交互に見上げていた。
「手ェ、繋ぐんだよ。危ないからな」
「あっ・・・はい」
赤くなりながら、遥は手を重ねてきた。きゅっと握ると、小さな手は折れそうだ。耳を真っ赤にして、遥は俯いている。
「さ、行くぞ」
大吾が歩き出し、遥がついてきた。歩幅を遥に合わせつつ、大吾は小さな遥をちょっと気に入った自分を発見していた。
その日の夜、桐生家のテーブルには、可愛いピンクの入れ物が置かれていた。
「遥、これ何だ?」
桐生が聞く。台所を終えた遥が戻ってきて、テーブルの上の入れ物の蓋を開けた。
「ハンドクリームだよ。大吾さんに買ってもらったの。手が荒れてるからって」
遥は幸せそうな表情で、手にクリームを塗る。それは丁寧に、指先まで塗りこんで、その後しばらく手のひらを眺めると、嬉しそうに笑った。
「クリーム塗るのが、そんなに楽しいのか?」
「え?」
桐生の問いかけに遥は驚く。
「蕩けそうな顔してたぞ」
「そ、そうかな・・・いい匂いがするから・・・」
耳まで赤くなった遥から、視線を新聞に戻した桐生は、明日、大吾に一言いわなくてはと思った。
その頃の遥は、ひどく沈んでいた。周りの人には勤めて明るく振舞っていたが、ふさぎこみがちだった。わずか九歳の子供が見た悪夢のような世界が、彼女の心に大きな傷を残したのは間違いない。
桐生が面会に行っても、
「平気だよ」
としか、答えなかった。
しかし、園長に聞くと、夜中に起きていたり、突然泣き出したりするという。
だが、すぐにもう一つの問題が持ち上がった。神宮の妻から、『ヒマワリ』に連絡が入った。遥に会いたいという。そして、某日に弁護士事務所に来てほしいとの事だった。
指定された場所は、都内でも有数の弁護士事務所だった。高いビルの最上階にあるその事務所へ桐生と遥が行くと、広い部屋に通された。美しく磨き上げられた机と、ガラスの灰皿、金色のライター。窓の外からは大都会の町並みが見えた。冬の、淡い太陽の光が、長い影を作っている。
「すごいね、おじさん」
遥は、黒い皮のソファに沈み込みそうになりながら、そんなことを言った。
すぐに、弁護士と、中年の女性が入ってきた。桐生は、この女が神宮の妻だろうと思った。美人だが、冷たいイメージがある。
桐生と遥の前に座った神宮の妻は、挨拶すると、
「遥さんにわざわざ来ていただいたのは、神宮の遺産の件なのです」
と、すぐに切り出した。びっくりしている遥を見ても、彼女は顔色一つ変えず、話を進めた。
「遥さんは、神宮の娘でありますので、神宮の遺産を相続する権利があります」
そして、小切手を取り出し、
「遥さんに一千万、お渡しいたします。その代わり、今後一切、神宮家とはかかわり無いことを誓約していただきます」
神宮の妻は、真っ白な、水仕事一つしたことも無いような手で、小切手を遥の前に差し出した。
遥は、どうしていいのか分からず、泣きそうな顔で桐生を見上げた。桐生は一つため息をつくと
「遥、やるといってるんだ、貰っておけ」
「うん」
遥は頷いた。弁護士が横から書類を出し、遥がそれに名前と印鑑を押した。弁護士と神宮の妻は、何事か話をした。その後、神宮の妻は一つの箱を取り出し、
「神宮が持っていた、あなたに関するものです。あなたがお持ちになった方がいいと思います」
白い手が、箱を遥の前に押した。
「ありがとうございます」
遥は、箱を受け取った。すると、彼女はようやっと笑顔を見せて、
「遥さんは、目が神宮に似ているわ。」
と、柔らかく言った。
帰り道、遥は箱を紙袋に入れ、大事に抱えていた。そして、
「おじさん、どこかで箱を開けたいんだけど・・・」
と、おずおずと聞いてきた。
「ヒマワリに戻ってから開けたらどうだ?」
桐生が言うと、遥は少し考えてから、
「でも、もしお母さんのものとか入ってたら、他の子に悪いし。ね、おじさん」
そう言われては、桐生としても断りにくい。仕方なく
「じゃあ、そこのカラオケボックスで開けてみるか」
遥を連れて、近くのカラオケボックスへ入った。
暗い、狭い部屋で、桐生の隣に座った遥は、貰った箱をそっと開けた。
中には、アルバムが入っていた。遥はめくると、
「あ、お母さんだ」
と、小さく言った。桐生が覗き込むと、そこには神宮と由美が並んで写っている写真、由美がどこかの海岸に佇む写真などが貼ってあった。さらにページをめくると、神宮と由美と赤ん坊が居る写真が出てきた。
「おじさん、これって私かなぁ」
「たぶんな」
桐生はそう答えた。見たことも無い穏やかな顔をした由美は、遥をしっかり抱きかかえていた。他にも、遥に笑いかける由美や、泣いている遥の写真が出てきた。
遥の最初の誕生日の写真では、由美は本当に嬉しそうに、遥を抱いていた。それは、桐生の見たことの無い由美だった。おそらく、この頃の由美は幸せの絶頂だったのだろうと桐生は思った。
そして、アルバムは終わっていた。誕生日からそう遠くない日に、二人の関係が終わり、写真をとることが出来なくなったのだろう。
遥はアルバムを置くと、箱の中から紙を取り出した。四つに折りたたまれたそれは、半紙だった。あければ、中央に
『命名 遥』
と、墨で黒々と書かれていた。遥はそれをしげしげと眺め
「おじさん、これ、なあに?」
桐生は、遥の頭を一つ撫でて
「これは、神宮が生まれた子供に、名前をつけたんだろう。遥の名前は、神宮がつけたんだな」
遥が、きょとんとしている。桐生は、慎重に言葉を選びながら、遥に言った。
「神宮は、遥が生まれたことをすごく喜んでたんだ。だから、名前も考えたし、写真もこんなに残していたんだ。由美と遥を、殺そうとまでしながら、捨てることが出来なかったんだろう」
「どうして?」
「遥を大切にしていたんだ。ずっと、遥を娘だと思ってたんだろうな」
桐生が言い終わらないうちに、遥の目に大粒の涙があふれた。
「おじさん、私、『いらない子』だと思ってた」
小さな肩が震えていた。桐生は、ああ、そうかと思った。あの日から、遥は自分が『要らない子』だと思っていたのだ。自分が居たばかりに、父と母は死んだのだと。
桐生は、遥を抱き寄せ、
「そんなことは無いんだ。遥の誕生を、神宮も由美も、とても喜んでいたんだ。こんなにたくさん、写真を撮って、誕生日を祝っていたんだ。分かるよな、遥」
桐生は、小さな遥のために、出来る限りのことをしようと思った。小さな遥に、幸せが訪れるように。小さな遥が、日の当たる道を歩けるように。
桐生じゃないか。久しぶりだな。
伊達さんじゃねえか。こっち出てきたのか?
引退したってぇのになんやかんや引っ張りまわされてんだよ。
日本の警察ってのは働き過ぎってのは本当だな。
違いない。ところで桐生、小耳に挟んだんだが、お前東京と大阪のキャバクラを荒らしまわってたそうじゃないか。
…そんなこと誰から聞いたんだ。
誰だか言わなくても分かるだろ。
ユウヤか。あいつあとで覚えてろよ。
お前ぇな、遊びたい気持ちは分かるがあんまり遥に心配かけるなよ。
遥には言わないでくれよ。
言えるかそんなこと!バレたら遥に散々罵倒されるぞ。
叫ぶだろうなぁ。
おじさんの馬鹿!女たらし!おじさんみたいな女性の敵はおうちに帰ってこなくていいです!とかな。
…想像しただけで泣けてきた。
お前の無駄に豊かな想像力に俺は泣けてくるよ。
俺の後喜んでついてまわる遥にそんなこと言われたらなあ…。
遥だって今はおじさんおじさんとお前のあとついてまわるがよ、そのうち離れてくんだぜ?今のうちに色々決着つけてねえと「おじさんの洗濯物と一緒に洗わないで!」とか言われるようになるんだぜ?
経験者の言葉か。重みがあるじゃねえか。
余計なお世話だ。…まあ可愛がることができるうちに可愛がっておけってことだ。ところでお前、こんなところでなにやってたんだ。大荷物抱えて。
晩飯の買出しだが。そこのスーパーでタイムセールやっててな、遥に2割引のうちに買えるもん買ってこいと言われたんだ。
…
元刑事の男は一瞬言葉をなくし、膝を打って笑った。あの堂島の龍と呼ばれた男も今や娘に嫌われるのを恐れ買出しに顎でこき使われるのである。元刑事は元龍の男の肩を叩き、お嬢さんによろしくなとその場を後にした。ああいい天気だ。