ただその時を
衣擦れの音で目が覚めた。
辺りは未だ闇の中。
窓の奥にある山の上に傾いた下弦が浮かんでいた。
焚いてあった火鉢の炭が消えていて、何か羽織っていないとすっかり冷えてしまう。
女は布団に包まりながら、慣れた手付きで脱ぎ捨てた着物を羽織る男をぼんやりと眺めていた。
ではまた、とだけ言い残して、男は部屋を後にした。
夜空に浮かぶ月は既に消えかけ、窓から見下ろした雲の海はほんのり白み始めていた。
月が完全に沈んでしまえば、やがて待ち侘びていたかのように太陽が顔を出す。
彼等が決して顔を合わせることのないように、私たちもまた、結ばれることはないのだ。
あの男が飽きるまでは、このままの関係でいれば良い。
この想いは一時の過ちであったと、そう思える日が来るはずだから。
女は再び寝台に身体を横たえると、浅い眠りについた。
覚めることのない悪夢が、彼女を待っている。
衣擦れの音で目が覚めた。
辺りは未だ闇の中。
窓の奥にある山の上に傾いた下弦が浮かんでいた。
焚いてあった火鉢の炭が消えていて、何か羽織っていないとすっかり冷えてしまう。
女は布団に包まりながら、慣れた手付きで脱ぎ捨てた着物を羽織る男をぼんやりと眺めていた。
ではまた、とだけ言い残して、男は部屋を後にした。
夜空に浮かぶ月は既に消えかけ、窓から見下ろした雲の海はほんのり白み始めていた。
月が完全に沈んでしまえば、やがて待ち侘びていたかのように太陽が顔を出す。
彼等が決して顔を合わせることのないように、私たちもまた、結ばれることはないのだ。
あの男が飽きるまでは、このままの関係でいれば良い。
この想いは一時の過ちであったと、そう思える日が来るはずだから。
女は再び寝台に身体を横たえると、浅い眠りについた。
覚めることのない悪夢が、彼女を待っている。
PR
こころ
ふと魔が差して、女を抱く腕に力を込めた。
女は短く喘いだものの、それ以上は何も言わない。
ならば何か吐かせてやろうと、掴んだ胸に歯を立てた。
今度は少し、苦しそうな表情を見せただけで、しかし咎めることは無かった。
それならば。
次第に自棄になって、その日は乱暴に女を犯した。
完全に征服した後に女の顔を見ると、何か物言いたげな目線を寄越しただけで、そっと睫毛を伏せた。
何故、こんなことになってしまったのだろうか。
初めて会ったときは、単純に良い女だと思った。
次第に言葉を交わし、行動をともにする内に、欲しいと思った。
そして女を抱く度に自分に心が無いことは判っていたが、次を求めずにはいられなかった。
―――そもそもこの女が自分の誘いを断るはずがないのだ。
その答えはあまりにも明確だった。
もしも王になどならなかったら、この女は私に全てを呉れていただろうか。
それとも。
こみ上げる自嘲を抑えれきれない。
いつもより辛そうな顔をする女を胸に抱いて、目を閉じた。
夜が明けるまでは、まだ時間が掛かる。
ふと魔が差して、女を抱く腕に力を込めた。
女は短く喘いだものの、それ以上は何も言わない。
ならば何か吐かせてやろうと、掴んだ胸に歯を立てた。
今度は少し、苦しそうな表情を見せただけで、しかし咎めることは無かった。
それならば。
次第に自棄になって、その日は乱暴に女を犯した。
完全に征服した後に女の顔を見ると、何か物言いたげな目線を寄越しただけで、そっと睫毛を伏せた。
何故、こんなことになってしまったのだろうか。
初めて会ったときは、単純に良い女だと思った。
次第に言葉を交わし、行動をともにする内に、欲しいと思った。
そして女を抱く度に自分に心が無いことは判っていたが、次を求めずにはいられなかった。
―――そもそもこの女が自分の誘いを断るはずがないのだ。
その答えはあまりにも明確だった。
もしも王になどならなかったら、この女は私に全てを呉れていただろうか。
それとも。
こみ上げる自嘲を抑えれきれない。
いつもより辛そうな顔をする女を胸に抱いて、目を閉じた。
夜が明けるまでは、まだ時間が掛かる。
奥深く
「お慕い、申し上げております」
掠れた声は、しかし重みをもって全身に響き渡った。
男の紅い瞳が大きく見開かれて、やがて柔らかな弧を描く。
「あなたを、ずっと、お慕い申し上げておりました」
今度は自分で確かめるように呟いた。
あなたが好きだと、ただそれだけのことを口にしただけだというのに、全身に沸き起こる幸福感はなんだろう。
なんて甘く、色めいて、魅惑的な感覚。
これはこの男の見せる瞳の奥にたゆたう紅い情熱の炎。
私を抱きしめる陽に焼けた逞しい腕。
時に甘い熱を与える唇から紡ぎ出される心地良い音色。
その全てが。
次第に苦しくなる胸を抑えて、彼女は深く息を吐いた。
その時初めて、心底この男に惚れていたのだと気が付いた。
「お慕い、申し上げております」
掠れた声は、しかし重みをもって全身に響き渡った。
男の紅い瞳が大きく見開かれて、やがて柔らかな弧を描く。
「あなたを、ずっと、お慕い申し上げておりました」
今度は自分で確かめるように呟いた。
あなたが好きだと、ただそれだけのことを口にしただけだというのに、全身に沸き起こる幸福感はなんだろう。
なんて甘く、色めいて、魅惑的な感覚。
これはこの男の見せる瞳の奥にたゆたう紅い情熱の炎。
私を抱きしめる陽に焼けた逞しい腕。
時に甘い熱を与える唇から紡ぎ出される心地良い音色。
その全てが。
次第に苦しくなる胸を抑えて、彼女は深く息を吐いた。
その時初めて、心底この男に惚れていたのだと気が付いた。
君の花顔は蒼天の如し
--------------------------------------------------------------------------------
全ては一瞬の出来事だった。
いや、一瞬の内に終わってしまったと、後になってから気付いた。
腕を上げるだけでも鉛を纏ったかのように重い。
凝固した血液が剥がれた皮膚に感覚というものは既に無く、冬の外気に晒されひび割れている。
とりあえず動くことを確認するために手近な砂利を握り締めた。それだけの動作なのに、逐一細かい痛さが付き纏った。掴んだ土は指の隙間から空しく零れ落ちた。
―――確かに自分はこの高みを掴んだと思ったのに。
朦朧とした意識の中で、生き長らえた自分に嗚咽を上げていた。
裏をかくつもりが逆に噛み付かれ、何もかもを奪われてしまった。
連れていた部下はどうしただろう。
軍は、朝廷は。
今だこの命があるということはあの幼い台輔はまだ無事だろうが、その雲行きは怪しい。
そして。
「では留守を頼んだ」
眼前にかしずく女は常時よりもなお恭しく頭を垂れた。まだ夜が明けきってない部屋には蝋燭の灯火が一つ、とうとうと揺れている。
叩頭する女の肩から流れ落ちる髪を見つめていた。微かに痕の残るうなじから、夜着にしな垂れる赤茶の糸―――少しだけ癖のある、しっとりとした手触りのこの髪を指に絡め取るのが好きだった。女が躊躇無く叩頭したままだから床についてしまう髪が惜しくて、顔を上げるように促した。
おもむろに身体を起こした女と視線が絡み合う。凛と佇む蘇芳の瞳が美しい。
女にしては猛々しく、軍人にしてはたおやかな、自分の側近の一人。
偏った寵など、組織にとっていらぬ波乱の契機になる恐れもあるが、この女だけは手元に置いておきたかった。
何故そう思ったのかは今でも分からない。
彼女の見せる気安い雰囲気が良かったのか、何者にも媚び諂うことのない清廉潔白な性格が良かったのか。…いや、案外勇ましい皮甲姿からは想像も付かない情熱的な肢体に心奪われてしまったのかもしれない。
ともかく今この時期に王宮、――いや、女の側から離れることがひどく躊躇われているのは事実だった。
いっそ今回の文州遠征へ従軍するように手配することも出来たが、そうなれば王宮に一人残すことになる幼い台輔を守る者が欠けてしまう。他に信用出来る者が居ない訳ではないが、剣の腕も、忠誠心も、そして何より台輔自身の心情を察しても、殊に信頼出来るのはこの女を差し置いて他に見当たらなかった。
勿論女自身も彼奴の息に罹患している可能性は皆無とは言い切れないが、その時は自分に見る目がなかったと、王の器ではなかったと、腹を括る時なのだろう。
先ほどの余韻をかみ締めたくて、そのふくよかな唇に指の腹を押し当てた。女は何も言わずにこちらを見つめていたが、視線を絡めると恥ずかしそうに長い睫毛を伏せた。
灯火に照らされて端整な顔に影が落ちる。そんな表情がいつになく愛らしくて、攫うように抱き寄せ、熱を孕んだ膨らみに自分のものを重ねた。
整えた皮甲が擦れて硬い音が響く。唇だけでは飽きたらず、抱きすくめてやると女は少しだけ苦しそうな声を漏らした。
見つめる瞳はただ、自分だけを映している。僅かに潤んで見える自分に苦笑し、ほんのり湿り気を帯びた髪を撫でた。
「そんな顔をしてくれるな」
これが最後、と、もう一度、唇を落とした。
「蒿里を、頼んだ」
御意、と短く答えた女は名残惜しそうに私の胸に預けた身体を放して、深く、深く、頭を垂れた。髪が地につくことなど、一向に構うこともなく。
だから、それでは髪が、折角の綺麗な髪が汚れてしまうというのに。
苦虫を呑みこんで女の礼を受け取ると、全身に残る余韻を断ち切って振り返ることなく部屋を後にした。
全てが終れば、あの髪に似合う簪の一つでも見繕ってやろうと思いながら。
背中が熱を伴っている。
少しでも傷を和らげようと、うつ伏せに投げ出した身体を傾けた。
指の先ほど動かしただけでも全身を裂かれるような激痛が走る。苦悶の声を堪えて、ようやく地面から半身を離した時には、全身から冷たい汗が浮かんでいた。
周囲を見渡してみたが、ただ闇があるばかりで、ここがどこなのかやはり検討もつかない。
しばらくこの体勢のまま目を開け、閉じることを繰り返すこと幾時間、しばらくして右手から一寸の光が差し込んできた。悲鳴を上げる身体に鞭を打ち、腹這いに光の側に寄ると、その眩しさに思わず目が眩んだ。
やがて光に慣れてくると、ここが洞窟のような場所だという事がわかった。光の先が曲がり角になっていて、そちらにある入り口から冷たい風が吹いてくる。よく見ると所々岩の隙間から小さな玉の原石が見えるから、どこかの鉱山の一部なのだろうか。
わかったことは、だがそれだけだった。
ここがどこなのか。
意識を取り戻すまでにどのくらいの時間が流れたのか。
残した軍はどういう状況で、他の者はどうなったのか。
彼奴が自分を切りつけたのは何のためなのか。
共謀者はいるのか。
宮殿に残してきた者たちは無事なのか。
民は、……戴はどうなるのか。
これから何が起ころうというのか。
すべてを闇に残したままで。
幾ばくか助けを求めて叫んでみたが、返事はただ風を切る音のみ。
諦念して足元の岩場に背を預けるとそのままぐったりと倒れこんだ。
背中が熱い。
もしかしたら傷が開いているのかもしれない。いくら仙骨を持つ身体とはいえ、この状態でどれほど生き長らえることができるのか分らなかった。
……それともその日を待たずとも、彼奴等に引き出されて命を絶たれるのだろうか。
「…ふん」
自然と込み上げてきたものは自嘲だった。
それから大きく、ゆっくりと息を吐き、なるべく体力を消耗しないよう楽な姿勢に崩した。既に岩穴をこじ開ける体力も、叫ぶ気力も残っていない。
重くて仕方のない瞼を閉じると、数日前に別れた女の夢ばかりが蘇ってくる。それも良かった日々のことだけだ。
白くて張りのある頬、小さな傷跡が残っている肢体、情熱と慈愛に溢れた声、はにかみながら微笑む、真っ直ぐな眼差し。
全てがまだこの腕に、胸に、焼き付いているのに。
「李斎」
ただ、女の名前を繰り返していた。
あれは…、彼女は、無事なのだろうか。
あの柔らかい笑みを、再び目にすることがあるのだろうか。
「李斎、李斎、…私は」
いくら繰り返しても届く事はない。その時初めて自分が犯した罪の重さに気付いた。
差し込む光は徐々に赤く染まり、やがて消えていく。
その先には星の明かりすら差さなかった。
<END>
--------------------------------------------------------------------------------
救いがなくてすみません。ていうかようやくアップしたSSがこれって…(comicとのテンションの違いに自分がビックリ)。
驍宗さまの行方に関しては想像すればする程悪い方向へ向かっていくので、最近は何だかんだ言っても生きて再会できるさと楽観的に考えています。もちろん李斎、蒿里の三人共無事な状態で、ですよ。早く無事な姿を拝ませて欲しいです(主に小野主上への願い)。
まあ何と言うか、早く帰って来てね、驍宗さま、と祈りをこめて。
06.01.29.
その女、妖艶につき
--------------------------------------------------------------------------------
「承州師の、…劉将軍ですか」
すでに決めたことだ、と何やら嬉しそうに太い笑みを浮べた顔で、今や泰王となった上司は答えた。相変わらずの専行振りに溜息を吐きながら、正頼は手持ちぶたさにすっかり伸びきった白髭を撫でつけた。
承州師の劉将軍といえば武官ではない自分自身もその名声を何度か耳にしたことはある。確か精錬潔白で温情に厚い智将、その上将軍職にありながら一般の兵卒から州候城の女官達にまで慕われているそうで…。
ここまで聞けば大抵の者は余程の名将なのだろう、素晴らしい人物なのだろうと、未見の女将軍について各々の勝手な美人画を付け加えて思い浮かべるが、人の裏を見知った朝廷で長年生活をしている自分には、それらの情報は得てして危険信号になってしまう。そんなに上手い話があるものか―――そんなに全てを兼ね備えた人間が居るものか、と。
いや、何も劉将軍とやらの人格や力量を疑っているのではない。ただ、この手の話に軽軽しく首を突っ込むほど青くはないし、もっともな理由をこじつけるとしたら、職務的な立場上、何か裏があるだろうと疑って掛るのが自分でも気が付かない内に癖になっていた。
それに皆無というわけではないけれど、やはり武官、それも幹部ともなれば女は少ない。先王の時代にも六師は大概むさ苦しい野郎共が顔を連ねていたから、王師将軍に女が入るのはひどく珍しいことではあったのだ。
とはいえそれなりの評判が上がっているのだからある程度有能な将なのだろう。人選に関して言えば、穴を空けた六師にこれほどの適任はいないのだろうが。
まさかな。
その時、劉将軍にはその名声とは別に、黒い噂があることを思い出した。もっともそれは注目されるべき人物だからこそ、卑しい輩の間で面白おかしく吹聴される類のものなのだが。
「何やら、思うところでもあるようだな」
間髪入れずに突き刺さった男の眼光に、正頼は小さく舌打ちした。相変わらずこちらの思案など見透かされていたようで、どうしたものかと視線を宙に彷徨わせながら、この石頭が満足出来るような言い訳を考え始めた。自分とてさすがに蓬山で女にほだされたのかと言えるほど下衆ではない。
よもやこの男に限って女に謀られるということもあるまい。元よりこの男の決めたことに文句を言うこともなかったのだ。なかったのだが。
「…ただ、気になる噂が一つ」
――――この男は劉将軍の噂話を知っているだろうか。
「噂?」
我ながら、また余計なことを口走りそうになっていることに呆れてしまう。魔が差すとはこういうことを言うのだろう。勿論何を言ったところで自分の考えを曲げるような男ではないことは重々承知している。……いや、だからこそ沸き起こる悪戯心に火が灯ってしまったのだ。
偶にはカマをかけてみるのも悪くはない。込み上げる笑いを押し込められた口は、なるべくこの男の関心を惹きつける様に、さも涼しげな調子で言葉を紡ぎ出していた。
「劉将軍にまつわるものです。おや、もしかして主上は、ご存知ない?」
男は器用に片眉だけ動かすと、卓に顎を付き、興味深げに机に身体を乗り出してきた。どうやら撒き餌は効いたらしい。
「なんでも武人としての能力だけではなく、その容貌もなかなかのものとか」
「まあな」
一瞬鷹揚に構える男の頬が緩んだのを見逃さなかった。男の方は悟られていないと思っているのか、いささか目尻が下がっている。
ははん。
どうやら自分の直感も捨てたものではないようだ。伊達に何十年もこの堅物に仕えてきたわけではない。これは話に少々尾鰭をつけて驚かしてみるのも面白いかもしれない。
手際良く得物が釣れたものだから、舌の回りも嬉々として速くなる。こほん、と意味ありげに咳を払い、視線で早く話を続けろとせがむ男を制した。
「それ故か、彼女の周りでは不吉な噂が後を絶たないそうで」
尾鰭どころか、いっそ嘘八百、その辺の民話でももじって、とんでもない出鱈目でも並べてみようか。
「不吉な、……と言うと?」
「…将軍の麗しい相貌に惹きつけられた男共は、ことごとく数日の内に行方を眩ましてしまうそうです。噂では彼女の剣の露となって消えたとか。勿論、昼間は普通の女性ですよ。と言っても将軍ですから多少勇ましいところがおありですが」
「…それで?何故彼女は男を喰らうんだ?」
男は卓に付いた腕を組み直すと、謎解きの答えを探す子供のように首を傾け、話に聞き入っている。思いがけず入った合いの手に、気分良く二枚の舌を滑らせた。
「これが夜になると豹変するのです。特に月夜は用心下され。近付く獲物を軽々と手玉に取り、皮甲の下に隠された艶かしい肢体と甘い吐息にほだされれば堕ちたも同然、その後は精気を残らず吸い尽くして、挙句血と骨まで喰ってしまう怪女でございます。古来より人の血液は美容に効くと云われまして、毎夜彼等の血糊で洗われた御髪は、陽の光すら照らさないほど毒々しい…」
「見事な黒金の色、だろう?」
「そう、そうです。台輔の鋼の色もお美しいが、劉将軍のそれには女の魔力が加わって見る男見る男を片っ端から虜にしてしまうのです。その黒金の御髪が月の光を浴びた時だけうっすらと紅く光るのは、切り捨てられた獣共の未練と怨念が」
「はっ」
刹那、目の前の男が高い声を放つと、その整った顔を大いに崩しながら腹を抱えて卓に突っ伏した。
何十年も仕えてきたが、ここまで笑う男も珍しい。やおら叱責の一つでも喰らうかと思っていた賭博の最中だっただけに、こちらの方が驚かされてしまった。
「は、はは、あまり笑わせるな。…確かに、彼女の側に居ると喰われたがる輩が絶えん。昇山に付き合った連中の中にも数人居たが、見事にばっさばっさと斬り捨てられていたな。私も斬られるやもしれぬが、なに、同じ武人なら斬り返してやればよかろう。ついでに言うならあれの髪の色は赤みの強い桧皮色だ」
豪快に笑い飛ばす男はにんまりと目を細めた。
確かに途中からあまりにも化け物地味てしまったことは否めないが、化かすつもりが逆に化かされては何とも居心地が悪い。こういう時はおとなしく負けを認めて、陳謝の言葉を並べてしまおう。
深く頭を垂れたのは主をからかおうとした詫びもあるが、何よりこの苦虫を噛み潰したような顔を隠したかったからだ。
「…なんだ、すっかりご存知ならそう仰ってくれれば良いものを。主上もお人が悪うございます」
「それはこちらの台詞だ。第一、からかうならもっとまともなことが言えんのか」
「からかう気は御座いませんよ。ただ私は一応部下として忠告をしたまでで」
「忠告か?あれが」
「ええ、そりゃあもう。我々男から見れば女性は妖魔よりも恐ろしい存在ですからね。どんな善良そうな女性だって猫やら仮面やら一枚二枚、いや五枚位は被っておいでですから。私なんてこの歳になっても女性には頭が上がりませんよ」
実際に先王は女で国を潰している。次王が王――男ならば、派手な女関係は勘弁してもらいたい、というのが残された善良な官僚の願いだった。この男が先王の轍を踏むことは考えにくいが、人間何が切っ掛けで変わるか分らない。……いや、勿論これは何故あのような大法螺を吹いたのかと追求された場合の言い訳なのだが。
「お前の頭が上がらないのはどうせ琅燦位だろう?その分男連中には手厳しいと、英章がぼやいていた」
「ああ、男なんてものは多少手荒く扱っても構いやしないでしょう?私だって男ですから、どうせ愛でるなら巌趙よりは琅燦の方がまだましだというものです」
「まったく、その点に関しては同感だ」
むさ苦しい男の代表格でその名の通り巌の巨体の巌趙と、一見守ってやりたくなる様な麗しさと肝を底冷えさせる口の悪さを持った琅燦、というある意味滑稽な組み合わせを想像して、見合わせた顔はお互い大笑。この男がここまで笑うのも珍しいが、自分だってこんな下らないことで大笑いしたのも随分久しいような気がする。
ようやく笑いが収まったところで腹を抱えていた男が、茶を飲み、一息つくと、そういえば、と言葉を続けた。
「あの女、なかなか見所があるぞ。私自らが禁軍の椅子を薦めたが、考慮の上、私情を挟むことなく適任者を就任させれば良いと申しておった」
「ほぉ」
「だから決めた。他意などありはせぬ。そこは安心しておけ」
残った茶を一気に飲み干すと、男は席を立ち部屋を後にした。まさかとは思うがお前もかの女将軍の餌食にならぬよう気を付けよ、と言付けて。
既に男の居なくなった椅子をぼんやりと眺めながら、一人茶をすすった。
それにしてもあの主上の顔を緩ませ、幼い台輔に好かれる女将軍とはどんな人物なのか。そう思えば実に興味深い。
男の好みを考えれば正統派の美人といったところだろう。いや、将軍というのだから、京劇に出て来る様な腕輪や簪をしゃらんと鳴らせて剣を振る、華麗さと腕っ節を兼ね備えた強気で艶かしい雰囲気の女性かもしれない。性別の隔たりなく慕われるというのならむしろ下手な男よりも逞しく、さばさばした性格か。いやまて、あの台輔のお気に入りというのなら、活発というよりはむしろ穏やかで柔和な印象を与える女性だろうか。そうなれば「将軍」という言葉と絡みづらいが…、まあどんな女性にしろ、美人であることは間違いない。
近い内に見えるであろう「劉将軍」に想いを馳せながら、未見の女性を怪物扱いしたのは失礼であったな、と心の中で一人謝罪の言葉を述べた。
<END>
--------------------------------------------------------------------------------
SSでは初書き正頼。オリキャラ化してますが、この人書くの、かなり楽しい・笑。
正頼は自分の中では完全に爺やの姿に脳内変換されています。外見が若くても、実年齢が驍宗よりも上だと嬉しいかも。でもって琅燦や大人蒿里とタッグを組んで、進展しない驍宗と李斎をからかってくれると楽しい。
好物の梅しばには目がなくて、お茶は勿論玉露、湯呑みコレクションがちょっとした自慢で。
ついでに生きがいが人をおちょくることだと…って、それじゃあただの意地悪爺さんだ。
06.01.29.