君の花顔は蒼天の如し
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全ては一瞬の出来事だった。
いや、一瞬の内に終わってしまったと、後になってから気付いた。
腕を上げるだけでも鉛を纏ったかのように重い。
凝固した血液が剥がれた皮膚に感覚というものは既に無く、冬の外気に晒されひび割れている。
とりあえず動くことを確認するために手近な砂利を握り締めた。それだけの動作なのに、逐一細かい痛さが付き纏った。掴んだ土は指の隙間から空しく零れ落ちた。
―――確かに自分はこの高みを掴んだと思ったのに。
朦朧とした意識の中で、生き長らえた自分に嗚咽を上げていた。
裏をかくつもりが逆に噛み付かれ、何もかもを奪われてしまった。
連れていた部下はどうしただろう。
軍は、朝廷は。
今だこの命があるということはあの幼い台輔はまだ無事だろうが、その雲行きは怪しい。
そして。
「では留守を頼んだ」
眼前にかしずく女は常時よりもなお恭しく頭を垂れた。まだ夜が明けきってない部屋には蝋燭の灯火が一つ、とうとうと揺れている。
叩頭する女の肩から流れ落ちる髪を見つめていた。微かに痕の残るうなじから、夜着にしな垂れる赤茶の糸―――少しだけ癖のある、しっとりとした手触りのこの髪を指に絡め取るのが好きだった。女が躊躇無く叩頭したままだから床についてしまう髪が惜しくて、顔を上げるように促した。
おもむろに身体を起こした女と視線が絡み合う。凛と佇む蘇芳の瞳が美しい。
女にしては猛々しく、軍人にしてはたおやかな、自分の側近の一人。
偏った寵など、組織にとっていらぬ波乱の契機になる恐れもあるが、この女だけは手元に置いておきたかった。
何故そう思ったのかは今でも分からない。
彼女の見せる気安い雰囲気が良かったのか、何者にも媚び諂うことのない清廉潔白な性格が良かったのか。…いや、案外勇ましい皮甲姿からは想像も付かない情熱的な肢体に心奪われてしまったのかもしれない。
ともかく今この時期に王宮、――いや、女の側から離れることがひどく躊躇われているのは事実だった。
いっそ今回の文州遠征へ従軍するように手配することも出来たが、そうなれば王宮に一人残すことになる幼い台輔を守る者が欠けてしまう。他に信用出来る者が居ない訳ではないが、剣の腕も、忠誠心も、そして何より台輔自身の心情を察しても、殊に信頼出来るのはこの女を差し置いて他に見当たらなかった。
勿論女自身も彼奴の息に罹患している可能性は皆無とは言い切れないが、その時は自分に見る目がなかったと、王の器ではなかったと、腹を括る時なのだろう。
先ほどの余韻をかみ締めたくて、そのふくよかな唇に指の腹を押し当てた。女は何も言わずにこちらを見つめていたが、視線を絡めると恥ずかしそうに長い睫毛を伏せた。
灯火に照らされて端整な顔に影が落ちる。そんな表情がいつになく愛らしくて、攫うように抱き寄せ、熱を孕んだ膨らみに自分のものを重ねた。
整えた皮甲が擦れて硬い音が響く。唇だけでは飽きたらず、抱きすくめてやると女は少しだけ苦しそうな声を漏らした。
見つめる瞳はただ、自分だけを映している。僅かに潤んで見える自分に苦笑し、ほんのり湿り気を帯びた髪を撫でた。
「そんな顔をしてくれるな」
これが最後、と、もう一度、唇を落とした。
「蒿里を、頼んだ」
御意、と短く答えた女は名残惜しそうに私の胸に預けた身体を放して、深く、深く、頭を垂れた。髪が地につくことなど、一向に構うこともなく。
だから、それでは髪が、折角の綺麗な髪が汚れてしまうというのに。
苦虫を呑みこんで女の礼を受け取ると、全身に残る余韻を断ち切って振り返ることなく部屋を後にした。
全てが終れば、あの髪に似合う簪の一つでも見繕ってやろうと思いながら。
背中が熱を伴っている。
少しでも傷を和らげようと、うつ伏せに投げ出した身体を傾けた。
指の先ほど動かしただけでも全身を裂かれるような激痛が走る。苦悶の声を堪えて、ようやく地面から半身を離した時には、全身から冷たい汗が浮かんでいた。
周囲を見渡してみたが、ただ闇があるばかりで、ここがどこなのかやはり検討もつかない。
しばらくこの体勢のまま目を開け、閉じることを繰り返すこと幾時間、しばらくして右手から一寸の光が差し込んできた。悲鳴を上げる身体に鞭を打ち、腹這いに光の側に寄ると、その眩しさに思わず目が眩んだ。
やがて光に慣れてくると、ここが洞窟のような場所だという事がわかった。光の先が曲がり角になっていて、そちらにある入り口から冷たい風が吹いてくる。よく見ると所々岩の隙間から小さな玉の原石が見えるから、どこかの鉱山の一部なのだろうか。
わかったことは、だがそれだけだった。
ここがどこなのか。
意識を取り戻すまでにどのくらいの時間が流れたのか。
残した軍はどういう状況で、他の者はどうなったのか。
彼奴が自分を切りつけたのは何のためなのか。
共謀者はいるのか。
宮殿に残してきた者たちは無事なのか。
民は、……戴はどうなるのか。
これから何が起ころうというのか。
すべてを闇に残したままで。
幾ばくか助けを求めて叫んでみたが、返事はただ風を切る音のみ。
諦念して足元の岩場に背を預けるとそのままぐったりと倒れこんだ。
背中が熱い。
もしかしたら傷が開いているのかもしれない。いくら仙骨を持つ身体とはいえ、この状態でどれほど生き長らえることができるのか分らなかった。
……それともその日を待たずとも、彼奴等に引き出されて命を絶たれるのだろうか。
「…ふん」
自然と込み上げてきたものは自嘲だった。
それから大きく、ゆっくりと息を吐き、なるべく体力を消耗しないよう楽な姿勢に崩した。既に岩穴をこじ開ける体力も、叫ぶ気力も残っていない。
重くて仕方のない瞼を閉じると、数日前に別れた女の夢ばかりが蘇ってくる。それも良かった日々のことだけだ。
白くて張りのある頬、小さな傷跡が残っている肢体、情熱と慈愛に溢れた声、はにかみながら微笑む、真っ直ぐな眼差し。
全てがまだこの腕に、胸に、焼き付いているのに。
「李斎」
ただ、女の名前を繰り返していた。
あれは…、彼女は、無事なのだろうか。
あの柔らかい笑みを、再び目にすることがあるのだろうか。
「李斎、李斎、…私は」
いくら繰り返しても届く事はない。その時初めて自分が犯した罪の重さに気付いた。
差し込む光は徐々に赤く染まり、やがて消えていく。
その先には星の明かりすら差さなかった。
<END>
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救いがなくてすみません。ていうかようやくアップしたSSがこれって…(comicとのテンションの違いに自分がビックリ)。
驍宗さまの行方に関しては想像すればする程悪い方向へ向かっていくので、最近は何だかんだ言っても生きて再会できるさと楽観的に考えています。もちろん李斎、蒿里の三人共無事な状態で、ですよ。早く無事な姿を拝ませて欲しいです(主に小野主上への願い)。
まあ何と言うか、早く帰って来てね、驍宗さま、と祈りをこめて。
06.01.29.
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