■L. das Licht 光
日没間近の美しい黄昏時、鴎が飛びたつ季節。
海辺が見える人気の無い場所に停められたのは漆黒の車。
二人乗りの高級車ブガッティ・アトランティック・クーペから降り立ったのは、吸血鬼と見まごう様な恐ろしさと美しさを兼ね揃えた貴族の男。向かえの扉にゆったりと近づきドアを開けてやり手を差し伸べる。それに重ねられる手は、紅梅重ねのエキゾチックな衣装がよく似合う少女のもの。
「ご覧。陽の光は美しいだろう?」
そう言って男はもう殆ど癖になってしまっている、影の在る微笑みをした。
時折、何の気紛れか、男は少女を連れて外へ出る。外の光に憧れる心を格別持っている訳ではない少女でも、この時間は好きだった。
ゆっくりと沈んでゆく陽の何と美しいことか。長く尾を引く薄橙の光が目に眩しい。男は長く美しい手でそっと太陽を指した。
「お前の眼差しにあの天球は答えてくれよう。お前に光を注いでくれよう。」
「…そのわたくしのお隣に居る伯爵には、光が届かないと仰るのですか?」
「いつか話した通り。私の体はもはや人ではなく、心は私自身で錠をかけた。生の賜物も温かさも、ただ無残なものとしてしか受け取れないこの私の上に、あの気高い天球はもはや、光を注いではくれまい。」
男が言っていることはきっと間違いだが…彼の固定された価値観の中ではその色こそが真実なのだろう。
「……それは、あまりに哀しいと想いませんか。陽の光は等しくあるもの。どうして貴方だけを避けたりするでしょう?今の御自分が見えませんか?ならばわたくしが見たままをお話しましょう。」
エデは伯爵をまっすぐ見上げて、一つ息をついてから微笑んで話し始めた。
「伯爵。貴方は今、わたくしと共に陽の光の元に居ます。貴方は光に柔らかく彩られて、肌の冷たさは和らぎその影は山吹、髪は蘇芳。過去の貴方の色でしょうか、とてもよくお似合いで…。それは間違いなく、陽の贈り物です。」
ふ、と目が少し見開き、口が動く。自虐にも似た哀しい笑みだ。
「面白い。一時だけでも、人間に戻れたかのような錯覚を覚えるな。」
「心の錠を開けてくださいませ。後は、貴方の御心次第…。」
男の顔が淡く歪んだ。エデは哀しい顔を一瞬浮かべて、すぐに仄かな笑みを作る。解っているのだ、お互いを縛る鎖は、心に絡んで喰い込み血を流していることを。抱えた闇は底へ底へと沈んで、もうどうにもならなくなっていることくらい。好んでこの世界に居るんじゃない。ただ、何を見てもこの世界に還ってしまうだけなのだ。暗く冷たい牢獄に、復讐という業火の海に。
「でも…」
独りは淋しいから。全て、最後は独りになるとしても、今は共に。
貴方がわたくしを想い陽の元に連れて来て下さるなら、貴方と共に光を浴びましょう。
貴方が復讐という業火の海に身を投げ入れるなら、貴方と共に罰を甘受しましょう。
少女は彼の本当の心が、痛みが、苦しみが、痛いほど同調してしまうものだから。
だから彼を咎めることも光をあてようとも思わず、また思う資格が無いと感じてしまう。
けれど、この痛みが解るから、彼と共に在れることが赦される気がした、そしてそれだけが望みだった。
「どこに在っても、わたくしの心は永遠に貴方と共に。」
16/03/2006.makure
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■K.das Kind 子ども
伯爵の手記より
○月×日。
フェルナン・モンデゴの犠牲になった、ジャニナの王女を買った。名をエデ、年のころは4つ。共に売られた母親は絶望と憎悪の果てに死んだとのことだ。
「生き証人」として、復讐の時まで記憶が鮮明か否かの不安はあるが仕方がない。却って幼い子供の方がより残酷に相手を攻撃できるかもしれない。だが復讐はまだ時期ではない、情報も準備も足りない。フェルナンは王妃と王女を売った金と、戦役の英雄として、また何か行動を起こすはずだ。友から教えられた智恵と、目の当たりにしたあの戦乱で、フェルナンの行動はこれで終わらないと思った。奴がここまで全てを利用して、何を始めようというのか。
しかし、そんなことは問題ではない。機会を息を潜めて待っていよう。奴が最後の最後でという所で、何もかもを奪い去ってみせよう。私も、全てを利用して。
○月×日
早速問題が起こった。エデは私以外の者を見もしないというのだ。ただただ俯いているだけという。私にも、敬愛と悲しみの目を向けるだけで、声を出すことはしない。まだ、心の傷と折り合いがつかぬらしい。癒すことも乾くことも不可能であろうが、納得しないことには先に進めはしない。
○月×日
ベルッチオがエデに食事を持って行き続けているが、相変わらず食べないと言う。もう4日にもなる、そろそろ限界だろう。食事以前に、スパタ号にまだ慣れないのか、与えた部屋にも隅でうずくまり何もしない。そのまま塞ぎこまれては困るので、ジャニナの品を数点、部屋に置いてみる。宮殿の品であったという琴は手渡しでくれてやった。少女は目を見開き、琴を握り締め、そのまま、無表情のまま頬に涙を零し続けた。その姿は、実に痛々しい。私はまた静かな怒りを湛えた。
泣くことすら、素直にできぬというのか、4歳の少女が。子供から表情を消し去る行為に何の意味があるというのだフェルナン。お前には5つの息子がいるのだろう、その子供を通して何も感じないのか。お前は一体どこへ行ってしまったのか、もう私には解らない。いや…解りたくも無い。
○月×日
私にしか懐かぬのなら仕方がないので、食事と就寝の時は傍にいてやることにした。椅子に座っているだけで、彼女がこちらを向けば微笑むだけなのだが、それだけでも少女は十分らしい。食事もか細いものではあったがとるようになってきた。残った食事は厨房でバティスタンが全て平らげているという、相変わらずな男だ。だが、廃棄するよりは、エデもバティスタンも心持ちが楽であろうから、咎めることは止めておいた。常に食事の時に傍に居てやると、逆に私がいつ食事をとるか不安に思うらしい。こちらを伺うような目線を投げかけてくる。その度、私は持っている薬を取り出し、だから安心するがいいと努めて優しく言い聞かせた。それでも納得しなかったので、また仕方がなく彼女が食事を取っているときは私も一緒に薬を摂取するようになった。
こちらばかりが妥協していると思うのは気のせいか。
○月×日
エデが夜中にいきなり泣き出した。言葉は混乱して乱雑なため理解し難いが、ここ数日子供らしくない大人しさであった為、少し安心する。が、あまりに酷いのでなだめようと軽く頭を撫でてやる。こちらを驚いたように見詰めて、感情が抑えきれなくなったようでこちらに抱きついてきた…と思ったらそのまま固まってしまった。
見るとこの肌のあまりの冷たさに凍えたらしい。慌てて(勿論、眉一つ動かさなかったが)バティスタンに湯を持ってこさせたら熱湯を持ってきた。どうしてこの男はこうもピントが合わないのか。仕方がないので私が湯水の中に腕を突っ込んで程よく冷やし、布を暖めて看病してやる。自分の結晶肌をここまで切なく思ったのは初めてだ。血が通わない身体なので、許してもらいたい。
○月×日
少女を買ってから数ヶ月、今日は私らしくもなく嬉しい出来事があった。
エデは最近よく私の後ろをついて回るようになったのだが…私は復讐の計画を練ったり情報を整理したり、友と折り合いをつけているだけで、私の周りにいても楽しいものは何も無いはずなのだが、後ろにいるだけで良いらしい。まるで背後霊だが、不快な気持ちにはならなかった。
振り向いて眺めるとまっすぐにこちらの瞳を見つめてくる。薄く笑うと笑い返す。それが不思議だったのか、ふとエデの唇が動いた。
「…伯爵?」
ささいなことだが全身が総毛立つような錯覚を覚えた。始めて私の名前(適当につけた爵位だが)をエデが呼んだのだ。淡いソプラノの声が美しい。前から慕っている素振りは見せていたが同時に恐れていたようであったので、声はか細く、こちらの名前を口にすることはなかったのだから感動して当然だろう。これはあれだろうか、始めて子供にパパと呼ばれるような感動だろうか。違うようにも感じるが一番近い感情はそこだろう。また凍えられたら大変なので抱き締めこそしなかったが、一人なら感動に身を任せるところだ。
可愛いと思う。実の娘を育てているような錯覚にも陥る。寡黙で表情が乏しいが(私にもアリにも言えるが)、素直で真面目で、美しい魂だ。…運命にもしもなどという言葉は通用しないが、もしも私がエドモンのままで生きていたのなら、メルセデスと共にこの様に子供のささいな行動に一喜一憂したのだろうか?あのままなら私は船長なのだから、滅多に妻と子には会えないだろう。子供は私を慕うか嫌うかどちらかになるだろう…あとは完璧に客扱いされるか、だ。帰ってくる度に未知の世界の話や、物珍しい品を見せながら話せば、子供が少年なら嬉々として慕ってくれるだろうか?と一通り空想してみる。だがこう考えても実におぼろげに霞むだけで何の感情も湧かない。想像以上にイフでの生活は、私から夢想や甘さを消し去っていたらしい。
「いかがなさいました?伯爵。」
不審に思ったらしいエデが尋ねてくる。ああ可愛い、もうどうでも良いとまで感じた。34歳(友を入れると約1000歳)にもなって何を考えているのだか馬鹿馬鹿しい。
○月×日
私はあまり温度を感じない体になったのだが、最近は解るようになってきた。エデが普段より私に近づいて来たなら今は暑い、逆に私から離れるなら寒いのだ。正直、解った途端に虚しくなった。子供はなんて素直で正直なのだろう、残酷だ。船内の温度を今までより平均2度上げることに決めた。
○月×日
必要に迫られて一家総出で宴に出ることになった。皆正装に着替える。エデは普段見慣れている私やベルッチオを物珍しくみた後、普段と全く変わらない姿でいるバティスタンの傍に寄り、じっとアリが出てくるのを待っていた。アリは私が買い取った辺境惑星の者で、人型をしているが人間ではない。それでスーツを着たらどうなるのだろうと少女なりに考えているのだろう…特に足が。アリの足は軟体のまま大きく弧を描いている、靴はどんなのだろうと考えると止まらない気持ちはよく解る。私も彼を死から救ったのは、彼の悲惨な人生を酌んだこともあるが、どちからと言えば気紛れで、更に言うとその姿に少し興味を覚えたからである。僕として甲斐甲斐しく働いている彼にこのことを言ったら流石に不躾というものであろう。
そう考えているうちにアリがやってきた。格別なんてことのない、普通の正装だった。靴は爪先が軽くめくれている程度である。彼は軟体なので、多少体を曲げたりしても何の不都合ないのだ。
エデが一瞬つまらなそうな顔をしたのを私は見逃さなかった。
最近エデはバティスタン達ともうまく行くようになったらしい、良いことだ。
○月×日
友は私に自由をくれた。智恵と力、それに時間。これで全てを利用し、傷つけ、彼奴らから何もかもを奪って、終わることの無い苦痛を与えるつもりだ。エデもまた、その道具に過ぎないはずなのだ。だが、どうしてだろうか?復讐にこの幼い少女を、私は贄として捧げることを、心の奥底で恐れている。
友は私の一番近い場所に在って、『私が私でなくなる時』まで、ただ見守ってくれると約束してくれた。モンテ・クリスト伯がモンテ・クリスト伯でなくなる時、それは復讐が完遂された時に他ならない。その時は心も身体も凍りついた魂も、全て友にくれてやろう。契約のままに。だが…
エデ、お前がこの気持ちに縛られることはない。
純粋で美しい魂よ、お前はお前の気持ち一つで羽を持てる、何にでもなれるのだ。
パリに着いたら、今一度問おう。自由を捨ててまで、私についてくるのかと。
それでも共に歩みたいと言うのなら、もう何も言いはしない。お前の望むようにすれば良い。
だが私は祈らずにはいられない。
お前の未来が希望に溢れることを、お前が幸せになれるようにと。
********************
伯爵はマメな男だと勝手に思っています。後、ロマンティストで詩人ですよね。
エデとは父娘で同士で、何よりお互い愛おしい存在であったら良いな…。しかし馬鹿馬鹿しい(笑)
■J.der Jungfrau 乙女
伯爵が仕事等の為に外出をする時、バティスタンは留守番を言いつけられる方が多かった。
まぁそっちの方が気楽ではある。
ベルッチオは伯爵の従者としては古参だし、強面ではあるが自分より百倍礼儀正しい奴だ。アリは正直何だか良く解らんがやはり古参だし、自分より千倍礼儀正しい奴だ(無口で憎めない顔つきだから、勝手にこちらがそう思っているだけかもしれないが)。その二人で事足りる。故に自分を連れて行くなど荒っぽい事がある時くらいか。
まぁ別にホント気楽なので構いはしないが。
「…。」
そんな訳で現在も留守番真っ最中だ。地下宮殿に咲き誇る花をボンヤリ見ながら暇を持て余している。
暇だ。ありえないくらい暇だ。
かといって今日は別に買出ししたい物はないし、家事をするなど冗談ではない。遊びに行っても構わないが…そこまで考えて、ちらと傍らに居る姫君を見やる。
花に囲まれ、白雪の肌に翡翠の髪をした気高さ溢れる少女。部屋に居ようが偽りの陽の元に居ようが、琴を片手に佇む姿は変わらない。
実年齢に不釣合いな大人しさに最初は戸惑ったりもしたが、交流を重ねてゆけば幼さや可愛らしさも確かに存在している事が解る。ただ、そうならない状況に置かれて来て、今も置かれているという事なのだろう。それを可哀想とか不幸だと言うつもりは無い。そんな意見は、優しさですら無いのだから。
「…。」
彼女は相変わらず穏やかに存在するばかり。作り物、人形と言われていた事を思い出す。
そんな事は無い、そんな事は無いのに…確かにこの様を見ると、そう考えられても仕方が無い。
無性にざわつくものを感じて、彼女に声をかける。
「…このコスモス綺麗っすねぇ、ひぃさま。」
凄い語りかけだ。
しかし微笑んでゆっくりとこちらを振り向いた姫君が突っこんだのはそこではなかった。
「バティスタン、これはコスモスではなく、マーガレットですよ。」
「げ。」
失策だ。ただの花と言っておけば良かった。そうすればこんなささやかな恥をかかずに済んだものを。
固まっているバティスタンに少し声を出して微笑みながら、さりげなくフォローを入れる。
「ここには季節がありませんから、間違えてしまうこともあるでしょう。」
そうなのだ。この地下宮殿には星図が巡り回ってはいるが、同じところを繰り返すだけで進まない。
故にこの世界は一番美しい姿のまま、時を淀めて存在する。花もまた同じ。
「じゃあこいつらずーっと飽きずに咲いてるんですね。」
地下宮殿が綺麗だとは思え、どこか恐ろしいと感じるのは、そのせいかもしれない。
ただ時折眺めていたら桃源郷のように美しい場所でも、そこでずっと暮らしてゆけば歪みばかりが目につき、優しい光にただ憐憫の情しか抱かず、やがては何も感じなくなってしまうのだろう。
「いつか、必ず枯れてしまいます。偽りでも生きているのなら。」
姫君はそう言って、沢山の花を茎の部分から手折る。そしてくるくると編み上げる。
「どんなに輝かしいものをそのままにしておきたくても、叶わないことは良く知っていますから」
出来上がったのは花冠。やがては枯れると解っていながら、ずっとこのままで在りそうな美しさで。
「だからこそ一生懸命に、こんなに美しく咲き誇っているのかもしれませんよ。」
姫君のささやかな遊び心だろう、それをおもむろにバティスタンに被せようとして手を伸ばした。
しかし身長差が災いして、頭の上に置くことが叶わず、ぽすりとリーゼントにかかる結果になった。
黒髪に黄色の花が目立ちまくり、何と言うかコメントに困る可愛らしさがある。お互いに固まってしまった。
「……ごめんなさい。」
少し目を泳がせて、俯く。手が申し訳なさそうに彷徨っているのが可愛らしい、声も少し震えている。
「笑いたきゃ笑ってもいいんですぜ。」
とゆーか笑って頂きたい。このままでは自分が居た堪れない。
ほら、と言わんばかりに肩に手を置くと、姫君は驚いて反射的に相手を見上げる。
そしてその顔と頭を確認すると、困ったように、面白そうにクスクスと笑い出した。
それで構わない。あーどうもどうも、とバティスタンも笑い出す。
しかしあまりにも笑われるので、とうとうその花冠を自ら取り、姫君に被せてやった。
笑いながら花冠に白い手を添える姫君の姿は、とても可愛く、幸せそうなのに。
全てが有効期限付きだということが歯痒い。しかもその期限は、もうじき訪れる。
このままで居れたら良いのにな
でもそれはきっと出来ない
停滞を赦されない体、平穏を赦さない心をもった彼女の主人が良しとしないから
彼女の一番大切なかの人がそれを最も愛し、それを最も憎んでいるから
嗚呼、このどうしようもない歯痒さをどこにぶつければ良いものか
彼女?主人?それとも運命?または何も思いつかない自分自身か。
そこまで思考を回して止めた。元来インテリは苦手だし、答えなんてありやしない。
自分は復讐劇では裏方だし動機もない。故に時折、彼等が愚かしく見える事すらある
でも、だからこそこの家で復讐に縛られていない自分が出来ることをしようと思う
この痛ましい程に気高き姫君の為に
従者でも騎士でも道化師でも何でも構わない、彼女がその時一番求める立場で
彼女が深い哀しみに落ちて、涙が止まらなくなるであろうその日まで
少しでも多く笑っていられるようにと
*******************
バティさんはどっちかっつーと伯爵よりエデの為にあの家に居る気がしますTV版。
いや伯爵の事も大事でしょうが、復讐<アリ<伯爵<兄貴<ご飯<<<<<ひぃさまだよね?
やがては哀しみの先に存在する未来にも、視野を向けて頂くのが希望ですビバ捏造未来。
05/12/2006.makure
(子エデ、伯爵家です。)
■B. die Begegnung / 出会い、邂逅
「え…。」
伯爵は虚を突かれたという具合に呟いて、目の前の一手を眺めている。別に眺めた所で死んだ石が生きる訳ではないが…ぼやーと一通り眺めてから、白石を持ってまたぼやーと眺めている。碁盤に展開されている宇宙に全然ついて行っていないのが良く解る。
自分たちの横には様々な知的遊戯が転がっていた。トランプ、将棋、チェス、UNO、オセロ…尽く負けた伯爵が次に出してきたのが囲碁だった。オセロですら負けるのだ、囲碁なんて一番先読みの能力を試されるのだからやめた方が良いと心の中で思ったのだが、相手は主なので仕方がない。普段はサラサラっと勝つくせに、今日は長考が多くこちらの罠にもあっさりひっかかり何度も硬直する。からかっているのかと思いきやどうも本気らしい。原因を打ちながら考えて、出てきた答えは『ひょっとしたら巌窟王の智慧を借りずにやっているのではないか』だった。主が仮面をつけずにこちらに向かってきているのかと思うとどこか嬉しくもあったが、そうなると次は別の疑問が湧いてくる。何でこんなに拘るのだろうと。用事が沢山あるベルッチオを引き止めゲームを始めて大分経つ。あまり主人は無駄な事をしたがらない、無駄な事にすら理屈をつけるのに…打ちながらベルッチオは悩んでいた。ゲームの最中にそんな悩みを抱えられる程に伯爵は正直、弱かった。
「ベルッチオ。」
己の名を呼ばれた。伯爵が投了したのではなく、扉の向こうからアリと一緒に幼子が現れたのだ。翠玉色の髪をした美しい少女の名はエデという。一週間くらい前に、ここにやってきた姫君だ。
ベルッチオは我が耳を疑った。というのも、エデは普段伯爵にしか懐かず、己を見ても硬く微笑むだけだったから。
そのエデが心なしか嬉しそうにベルッチオの名を呼び、
ぱたぱたと駆けて来て、
たすっ、と、
「!!!???」
抱きついた。
「ベルッチオ、いつもありがとう。」
ぎゃあああああーッ!!??
…と、こんな事今まで無かったのでベルッチオは心の中で叫ぶ。ハッと主の反応を恐れて様子を窺うが、伯爵は微笑んで二人を眺めていた。どうもこの展開を仕立てたらしい。だから、この部屋にずっと引き止めていたのか。…随分下手な引き止め方だったが。
「食事や、お世話や、いつもありがとう。」
出てきたのは覚えたてのフランス語。発音は決して流暢ではないが、暖かみがある美しい調べだった。
「プレゼントを用意したの。」
きゅー、と抱きしめてから顔を上げて微笑む。ああ可愛い。しかし手には何も持っていないし、プレゼントとは一体何だろうと思案する。そのベルッチオの表情を見てという訳ではないが、エデの表情も少し曇った。
「あ…ぁ…。」
戸惑い声を彷徨わせ、難しそうな顔をして暫く黙る。「ざんねん」と呟いて微笑み直してから、柔らかい旋律をLa la la…と歌いだした。ベルッチオはその唄に目を見開く。
それはとても懐かしい、故郷の子守唄だった。
「おやおや…。」
伯爵は困ったように指先を顎に当てて微笑む。何度か自分が枕元で歌ってやったのだが、どうも異国の言葉で全て歌うのは、少女には酷だったらしい。だがその懐かしいメロディーだけでも、ベルッチオには十分暖かすぎるプレゼントだったようで、少女を抱きとめている背中の雰囲気が何だか穏やかで、微笑ましい。
やがて2番に入り、段々声が小さくなったかと思うと、それも聴こえなくなった。
「どうした?」
「…自分で子守唄を歌い自分で眠りました。」
何だそれは。可笑しくてつい声を漏らして笑う。
「エデはお前を嫌ってなどいない。言葉の壁が厚く、上手くお前に気持ちを届けられないだけだ。」
多国の言語を扱える伯爵、言葉を必要としないアリとは接する事は出来ても、ベルッチオとは中々交流を持てなかった。
ジャニナとフランスでは言語が違う。環境ががらりと変わり、過去の傷も癒えない彼女には酷だっただろう。その中で気を使い、何かとジャニナの風習に従って、祖国風の料理を出してくれるベルッチオをどうして嫌うだろうか。
「私からフランス語を習う時、エデの最初の目標はお前に感謝の気持ちを示す事だった。可愛いだろう。だがお前の母国語がフランス語でなく今では絶滅しかかっているコルシカ語と解り残念そうにしていたよ。流石にコルシカ語までは手が回らず、お前の国の子守唄でせめてものお礼にしたかったそうだ。Nanna d'Aitoni、母国の子守唄を嫌いな人間など居ない。」
歌詞の意味は解っていないようだけれどな、と笑いながら言う。
ベルッチオはエデを膝の上に置き、愛し気に頭を撫でてやる。伯爵はのほほんとそんな二人を眺めていたが、やがて笑顔のまま絶対零度の声で釘を刺した。
「手を出したら許さんぞ。」
出す訳ないでしょうが。
…ベルッチオは強く、主の独占欲の木目細かさを再確認した。
***********
文字だと、いつもアリが微妙すぎる立場にあるんだ…。
ジャニナは元々ギリシャの国だけれど、宇宙なんだから何語なのかなーというか、あの世界の地球ヨーロッパ系しか存在しなさそうだけれど。
共通宇宙語でも楽しいかもですが、折角星を跨ぐのだったら、やっぱり言語の壁はしてみたいよね。
04/07/2006.makure
(13幕回想の伯爵とエデ出会いから派生です。)
エデは伯爵を嫌悪している感じではないのだが今ひとつ心落ち着かないという様子で、今自分の手を引いて歩く彼と口づけを受けた左手を交互に眺めて付き従ってゆく。人で溢れた市場を抜け、港に泊めてあったファラオン号に付くまで、二人は黙ったままだった。
■ri:理由の欠片をひとつ下さい
ファラオン号は宇宙船、という事になるのだろうが、少女は外装を見た時から驚いてしまった。かつての王宮での生活を振り返っても、ここまで豪奢で立派な船は無かった。中に入り廊下を進みながら回りを眺めていると、驚きは疑念にまで上り詰める。これは船なんてものではない。動く城だ、存在する芸術だ。あまりの非現実さ、夢の世界に少女は軽く身震いした。このまま天国に行くのではないだろうか。不安になり伯爵の手を知らず知らず強く握る。彼は少し振り返って、「驚いたのか?」と静かに笑った。
ついたのは客間の入り口、そこには不思議な印象を湛えた、緑色の従者が待っていた。二人を確認するとゆったりと礼をする。
「アリ。彼女がジャニナの姫君だ。湯浴みの場へ連れて行ってやれ。」
私は少し仕事の整理をしよう、と伯爵が付け加えると、急にエデがこちらにしがみついてきた。伯爵はようやくこちらに向かってきてくれたのかと少し安心した様子すら見せながら苦笑して、少女の頭を撫でながらゆっくりと話し出す。
「大丈夫だ、怖がることは無い。アリはとても穏やかで気のきく私の…家来だ。すまないなエデ、ここに女中は居ないのだ。私とアリ、そして今厨房に居るベルッチオという大柄な男だけでな。窮屈だろうが我慢しておくれ。一人で湯浴みは出来るか?それが終わったら昼食にしよう。」
エデは精一杯首を横に振る。心配しているのはそこではないと言うように。そして怪訝な様子の伯爵へ縋るように見上げて口を開いた。
「ご主人さま。」
ようやく聞けた姫君の言葉は、恐らく自分宛の呼称だろう。だか伯爵はそれが理解出来ず、凍てつく表情も隠そうとしなかった。少女も新しい主人の機嫌を損ねた事が解ったのか、脅えた様子ですぐさま訂正した。
「伯爵さま。」
そうして小さい手で自らの首輪をずらし、磁気インクの刻印を晒して訴える。
「わたくしのリレキの更新を。」
ああ。奴隷になった時に刻まれる磁気コード。そこの情報を更新しない事に奴隷としての恐れを抱いていたのか。今少女の主人は、少女ではないのだという事実をぼんやり思う。恐怖にしては弱々しく、媚びにしては切実な、本当に幼い少女のその態度。これ以上無い程に痛々しい微笑を浮かべて、やさしい声で伯爵は答えた。
「…エデ、私はお前をそういう風に扱おうとは思っていない。書面上の手続きは出来ているから安心して構わない。」
だがこの答えで少女は満足してくれなかった。
「いや…いや…それはイヤです。こわい…。」
「どうしてそう思う?脅えているだけでは私には解らない。」
「……。」
「エデ?」
必死に考えをまとめているようなので、はぐらかしもせず急かしもせず先を促す。必死に嫌われないような言葉を選んでいるのだろうか、それとも溢れてくる感情を何とか形にしようとしているのだろうか。伯爵の服の端を握りしめながら、暫くしてやっと、少女はぽつりと呟いた。
「…伯爵さまが来てくださって、うれしかった。」
絞り出すような小さい言葉。後は堰を切ったかのような勢いで続ける。
「ずっと一緒にいます。お仕えいたします、わたくしのご主人さまは伯爵さまなのです。なのに、伯爵さまはわたくしがいらないのですか?すぐに売るおつもりだからご主人さまにならないのですか?わたくしは何で伯爵さまのお傍にいるのですか?ここにくるまで、手を引いて下さったのが、とても幸せだったから…でも…ええと…ああ。伯爵さま。わからなくてグラグラするのです。わたくしは今度は何になれば良いのですか?雑用ごと…ご奉公…それともお人形ですか?なぜ優しくして下さるばかりなのかがこわいです。お傍にいさせてください、だからリレキの更新を、貴方さまの奴隷にご命令を…。嬉しくて、夢のようで…刻印がないと消えてしまいそうで…。」
最早ぐちゃぐちゃで、何を言わんとしているのか少女自身も解らなくなってきたのか最後になるにつれ段々声が小さくなった。伯爵は黙って全て聞き終えると、穏やかに目を閉じて頷いた。
「…此処に存在する理由が欲しいと…宜しい。」
そう呟くと膝を折って座り込み、エデと目線を合わせる。驚く少女に笑ってやった。
「良いかエデ。一度しか言わないからよく聞くが良い。私は金でお前を買った、お前は奴隷で私は主人だ。だが私はお前を奴隷として働かせたり可愛がったりするつもりはない。確かにお前は奴隷だ、だかジャニナの姫君でもあるし、まず第一にお前自身でもある。だからそんなに不安がらなくとも大丈夫だ。」
大きい目で一つ一つの言葉をしっかりを聞いてくる。この子は素直だ、そして賢い。
「お前が今此処にいる理由は二つある、一つは私の目的の為だ。お前の胸に巣喰う決意、私はそれを復讐と呼ぶが…お前と同じものを私も持っている。いつかその時が来たときお前の力を貸して欲しい。その為にも私は、お前への支援を惜しまないつもりだ。私は今までのお前のどの主人よりも辛い命を負わせる事になる。それでも構わないだろうか?」
少女はしっかりと頷いた。伯爵はそれを見て、宜しい、と満足そうに答える。
「もう一つは、その理由が終わった時に話そう。」
話せる時など無いと解っているくせにやさしい嘘をつく。もう一つの理由は私の我侭だ。その最初の理由が終わった時、私の終わりが来たときに、私の事を想いながら、お前がどこへでも羽ばたいていけるように。私が破滅しか生まなかった訳ではないと、強く生きて、その証明をしておくれ。
こっちの方が、手前勝手で辛い命令な気もするが。
「だから安心するが良い、花が己の存在を自覚し樹から放れる事があっても、樹は枯れる時まで花を離しはしないのだから。…それに明日や一年後にすぐ別れる筈もない、お互いに存在しているのだから。」
そうだろう?と微笑むと、伯爵が答えてくれたのが嬉しかったのか、少女もやっと穏やかに微笑んだ。
「…難しい話で頭が痛くなったか?」
「…少し。でも、大丈夫です。」
ありがとうございます。なんて、礼を言う少女が可愛くて。
「怖かっただろう?不安を教えてくれた優しい子。お前は静かな勇気を持っているのだな。私にはお前が必要だ、そしてお前が愛しいよ。」
ゆっくり頭を撫でて、そして抱きしめてやる。エデは最初緊張のせいか自分の胸の中で呼吸を止めてくれたため、慣れてくれるまで離してやらなかった。やがてケフっと息を吐き、ゆったりと落ち着いたのを確認してようやく開放してやる。何だか可笑しくて、自然に笑みが出てくるあたり、自分は世話のない奴なのかもしれない。
「さて。体が泥と油で辛いだろう、早く風呂に…」
「あ…。」
立ち上がった所、再びエデから服の端をつかまれた。
「どうしたエデ?」
不思議に思って訊ねてみたがまた少女は黙ってしまう。考えているからではなくて、言いたくても言いにくいのだというように、大きい目でこちらを見つめてくる。さて何だろう、今度は待っていても返事が来なさそうな様子だ。伯爵もそのままエデを見つめて黙り込んでいる。アリはそんな二人を黙って見守っている。
「……。」
「……。」
「……。」
客間入り口にヒト3人揃って突っ立ちながら黙りこくるという変な事態になってしまった。もしベルッチオがここを通ったなら、テレパシー交流会か時間凍結大会かとにかく怪しい何かの儀式と勘違いし、えらくビックリして料理を落とす事だろう。
「……ああ…ははっ、解った。」
その沈黙を破ったのは伯爵だった。可笑しそうに抑えて笑う。
「すまないアリ。風呂を強めに焚き直してはくれないか?それと私の着替えの用意も頼む。」
アリは頷くと奥へ消えた。エデが嬉しそうに不思議そうに伯爵を見やるので、伯爵は苦笑して付け加えた。
「私が共に入ると、おそらく湯船の温度が下がるからな。お前に風邪を引かれたら堪らない。そうだろう?」
03/04/2007.makure