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うろほろぞ
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01 沈む静けさ




見上げた天井。
敷き詰められた碁盤状の石。
きらきら光る、獣の影。

差し込む夜の灯り。
灯籠の灯り。
月は出ていない。

炎の紅に照らされた褐色の肌。
所々に小さな傷が残る、男の身体。
鍛えられた逞しい腕が、闇の中で私を攫った。

触れた先から伝わる熱。熱。熱。
堪らずに男の背に腕を伸ばそうとするけれど、いつも躊躇ってしまう。
行方の定まらない腕は、敷布を掴んだ。
やがて訪れるその時を感じて、強く掴んだ。

吐く息は途切れ途切れに。
凭れ掛かる男は、少しだけ苦しそう。
小さなくちづけを繰り返して、私の胸に顔を埋めた。

身体の芯へと浸み渡る微熱。
二人を抱えて沈む、寝台の音。
それが、世界の全て。



飾り気の無い指が汗の滲んだ額に纏わる銀糸を掻き分けた。
それが私の示す、確かな証し。
ぎこちなく動く指を見て、男は笑った。
男が笑ったのを見て、私も笑った。

それからようやく、男の背に腕を伸ばした。
広い背中を抱き締めて、静かに目を閉じた。





(06.06.15.update)
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 全ては一瞬の出来事だった。

 いや、一瞬の内に終わってしまったと、後になってから気付いた。
 
















 腕を上げるだけでも鉛を纏ったかのように重い。
 凝固した血液が剥がれた皮膚に感覚というものは既に無く、冬の外気に晒されひび割れている。
 とりあえず動くことを確認するために手近な砂利を握り締めた。それだけの動作なのに、逐一細かい痛さが付き纏った。掴んだ土は指の隙間から空しく零れ落ちた。


 ―――確かに自分はこの高みを掴んだと思ったのに。


 朦朧とした意識の中で、生き長らえた自分に嗚咽を上げていた。
 裏をかくつもりが逆に噛み付かれ、何もかもを奪われてしまった。
 連れていた部下はどうしただろう。
 軍は、朝廷は。
 今だこの命があるということはあの幼い台輔はまだ無事だろうが、その雲行きは怪しい。


 そして。
















「では留守を頼んだ」
 眼前にかしずく女は常時よりもなお恭しく頭を垂れた。まだ夜が明けきってない部屋には蝋燭の灯火が一つ、とうとうと揺れている。
 叩頭する女の肩から流れ落ちる髪を見つめていた。微かに痕の残るうなじから、夜着にしな垂れる赤茶の糸―――少しだけ癖のある、しっとりとした手触りのこの髪を指に絡め取るのが好きだった。女が躊躇無く叩頭したままだから床についてしまう髪が惜しくて、顔を上げるように促した。
 おもむろに身体を起こした女と視線が絡み合う。凛と佇む蘇芳の瞳が美しい。
 女にしては猛々しく、軍人にしてはたおやかな、自分の側近の一人。
 偏った寵など、組織にとっていらぬ波乱の契機になる恐れもあるが、この女だけは手元に置いておきたかった。
 何故そう思ったのかは今でも分からない。
 彼女の見せる気安い雰囲気が良かったのか、何者にも媚び諂うことのない清廉潔白な性格が良かったのか。…いや、案外勇ましい皮甲姿からは想像も付かない情熱的な肢体に心奪われてしまったのかもしれない。
 ともかく今この時期に王宮、――いや、女の側から離れることがひどく躊躇われているのは事実だった。
 いっそ今回の文州遠征へ従軍するように手配することも出来たが、そうなれば王宮に一人残すことになる幼い台輔を守る者が欠けてしまう。他に信用出来る者が居ない訳ではないが、剣の腕も、忠誠心も、そして何より台輔自身の心情を察しても、殊に信頼出来るのはこの女を差し置いて他に見当たらなかった。
 勿論女自身も彼奴の息に罹患している可能性は皆無とは言い切れないが、その時は自分に見る目がなかったと、王の器ではなかったと、腹を括る時なのだろう。
 先ほどの余韻をかみ締めたくて、そのふくよかな唇に指の腹を押し当てた。女は何も言わずにこちらを見つめていたが、視線を絡めると恥ずかしそうに長い睫毛を伏せた。
 灯火に照らされて端整な顔に影が落ちる。そんな表情がいつになく愛らしくて、攫うように抱き寄せ、熱を孕んだ膨らみに自分のものを重ねた。
 整えた皮甲が擦れて硬い音が響く。唇だけでは飽きたらず、抱きすくめてやると女は少しだけ苦しそうな声を漏らした。
 見つめる瞳はただ、自分だけを映している。僅かに潤んで見える自分に苦笑し、ほんのり湿り気を帯びた髪を撫でた。
「そんな顔をしてくれるな」
 これが最後、と、もう一度、唇を落とした。
「蒿里を、頼んだ」
 御意、と短く答えた女は名残惜しそうに私の胸に預けた身体を放して、深く、深く、頭を垂れた。髪が地につくことなど、一向に構うこともなく。
 だから、それでは髪が、折角の綺麗な髪が汚れてしまうというのに。
 苦虫を呑みこんで女の礼を受け取ると、全身に残る余韻を断ち切って振り返ることなく部屋を後にした。
 全てが終れば、あの髪に似合う簪の一つでも見繕ってやろうと思いながら。

















 背中が熱を伴っている。
 少しでも傷を和らげようと、うつ伏せに投げ出した身体を傾けた。
 指の先ほど動かしただけでも全身を裂かれるような激痛が走る。苦悶の声を堪えて、ようやく地面から半身を離した時には、全身から冷たい汗が浮かんでいた。
 周囲を見渡してみたが、ただ闇があるばかりで、ここがどこなのかやはり検討もつかない。
 しばらくこの体勢のまま目を開け、閉じることを繰り返すこと幾時間、しばらくして右手から一寸の光が差し込んできた。悲鳴を上げる身体に鞭を打ち、腹這いに光の側に寄ると、その眩しさに思わず目が眩んだ。
 やがて光に慣れてくると、ここが洞窟のような場所だという事がわかった。光の先が曲がり角になっていて、そちらにある入り口から冷たい風が吹いてくる。よく見ると所々岩の隙間から小さな玉の原石が見えるから、どこかの鉱山の一部なのだろうか。
 わかったことは、だがそれだけだった。

 ここがどこなのか。
 意識を取り戻すまでにどのくらいの時間が流れたのか。
 残した軍はどういう状況で、他の者はどうなったのか。
 彼奴が自分を切りつけたのは何のためなのか。
 共謀者はいるのか。
 宮殿に残してきた者たちは無事なのか。
 民は、……戴はどうなるのか。

 これから何が起ころうというのか。

 すべてを闇に残したままで。






 幾ばくか助けを求めて叫んでみたが、返事はただ風を切る音のみ。
 諦念して足元の岩場に背を預けるとそのままぐったりと倒れこんだ。
 背中が熱い。
 もしかしたら傷が開いているのかもしれない。いくら仙骨を持つ身体とはいえ、この状態でどれほど生き長らえることができるのか分らなかった。
 ……それともその日を待たずとも、彼奴等に引き出されて命を絶たれるのだろうか。 
「…ふん」
 自然と込み上げてきたものは自嘲だった。
 それから大きく、ゆっくりと息を吐き、なるべく体力を消耗しないよう楽な姿勢に崩した。既に岩穴をこじ開ける体力も、叫ぶ気力も残っていない。
 重くて仕方のない瞼を閉じると、数日前に別れた女の夢ばかりが蘇ってくる。それも良かった日々のことだけだ。
 白くて張りのある頬、小さな傷跡が残っている肢体、情熱と慈愛に溢れた声、はにかみながら微笑む、真っ直ぐな眼差し。 
 全てがまだこの腕に、胸に、焼き付いているのに。

「李斎」 
 ただ、女の名前を繰り返していた。
 あれは…、彼女は、無事なのだろうか。
 あの柔らかい笑みを、再び目にすることがあるのだろうか。
「李斎、李斎、…私は」
 いくら繰り返しても届く事はない。その時初めて自分が犯した罪の重さに気付いた。









 差し込む光は徐々に赤く染まり、やがて消えていく。
 その先には星の明かりすら差さなかった。






<END>




「承州師の、…劉将軍ですか」
 すでに決めたことだ、と何やら嬉しそうに太い笑みを浮べた顔で、今や泰王となった上司は答えた。相変わらずの専行振りに溜息を吐きながら、正頼は手持ちぶたさにすっかり伸びきった白髭を撫でつけた。
  承州師の劉将軍といえば武官ではない自分自身もその名声を何度か耳にしたことはある。確か精錬潔白で温情に厚い智将、その上将軍職にありながら一般の兵卒から州候城の女官達にまで慕われているそうで…。
 ここまで聞けば大抵の者は余程の名将なのだろう、素晴らしい人物なのだろうと、未見の女将軍について各々の勝手な美人画を付け加えて思い浮かべるが、人の裏を見知った朝廷で長年生活をしている自分には、それらの情報は得てして危険信号になってしまう。そんなに上手い話があるものか―――そんなに全てを兼ね備えた人間が居るものか、と。
 いや、何も劉将軍とやらの人格や力量を疑っているのではない。ただ、この手の話に軽軽しく首を突っ込むほど青くはないし、もっともな理由をこじつけるとしたら、職務的な立場上、何か裏があるだろうと疑って掛るのが自分でも気が付かない内に癖になっていた。
 それに皆無というわけではないけれど、やはり武官、それも幹部ともなれば女は少ない。先王の時代にも六師は大概むさ苦しい野郎共が顔を連ねていたから、王師将軍に女が入るのはひどく珍しいことではあったのだ。
 とはいえそれなりの評判が上がっているのだからある程度有能な将なのだろう。人選に関して言えば、穴を空けた六師にこれほどの適任はいないのだろうが。
 まさかな。
 その時、劉将軍にはその名声とは別に、黒い噂があることを思い出した。もっともそれは注目されるべき人物だからこそ、卑しい輩の間で面白おかしく吹聴される類のものなのだが。
「何やら、思うところでもあるようだな」
 間髪入れずに突き刺さった男の眼光に、正頼は小さく舌打ちした。相変わらずこちらの思案など見透かされていたようで、どうしたものかと視線を宙に彷徨わせながら、この石頭が満足出来るような言い訳を考え始めた。自分とてさすがに蓬山で女にほだされたのかと言えるほど下衆ではない。
 よもやこの男に限って女に謀られるということもあるまい。元よりこの男の決めたことに文句を言うこともなかったのだ。なかったのだが。
「…ただ、気になる噂が一つ」
 ――――この男は劉将軍の噂話を知っているだろうか。
「噂?」
 我ながら、また余計なことを口走りそうになっていることに呆れてしまう。魔が差すとはこういうことを言うのだろう。勿論何を言ったところで自分の考えを曲げるような男ではないことは重々承知している。……いや、だからこそ沸き起こる悪戯心に火が灯ってしまったのだ。
 偶にはカマをかけてみるのも悪くはない。込み上げる笑いを押し込められた口は、なるべくこの男の関心を惹きつける様に、さも涼しげな調子で言葉を紡ぎ出していた。
「劉将軍にまつわるものです。おや、もしかして主上は、ご存知ない?」
 男は器用に片眉だけ動かすと、卓に顎を付き、興味深げに机に身体を乗り出してきた。どうやら撒き餌は効いたらしい。
「なんでも武人としての能力だけではなく、その容貌もなかなかのものとか」
「まあな」
 一瞬鷹揚に構える男の頬が緩んだのを見逃さなかった。男の方は悟られていないと思っているのか、いささか目尻が下がっている。
 ははん。
 どうやら自分の直感も捨てたものではないようだ。伊達に何十年もこの堅物に仕えてきたわけではない。これは話に少々尾鰭をつけて驚かしてみるのも面白いかもしれない。
 手際良く得物が釣れたものだから、舌の回りも嬉々として速くなる。こほん、と意味ありげに咳を払い、視線で早く話を続けろとせがむ男を制した。
「それ故か、彼女の周りでは不吉な噂が後を絶たないそうで」
 尾鰭どころか、いっそ嘘八百、その辺の民話でももじって、とんでもない出鱈目でも並べてみようか。
「不吉な、……と言うと?」
「…将軍の麗しい相貌に惹きつけられた男共は、ことごとく数日の内に行方を眩ましてしまうそうです。噂では彼女の剣の露となって消えたとか。勿論、昼間は普通の女性ですよ。と言っても将軍ですから多少勇ましいところがおありですが」
「…それで?何故彼女は男を喰らうんだ?」
 男は卓に付いた腕を組み直すと、謎解きの答えを探す子供のように首を傾け、話に聞き入っている。思いがけず入った合いの手に、気分良く二枚の舌を滑らせた。
「これが夜になると豹変するのです。特に月夜は用心下され。近付く獲物を軽々と手玉に取り、皮甲の下に隠された艶かしい肢体と甘い吐息にほだされれば堕ちたも同然、その後は精気を残らず吸い尽くして、挙句血と骨まで喰ってしまう怪女でございます。古来より人の血液は美容に効くと云われまして、毎夜彼等の血糊で洗われた御髪は、陽の光すら照らさないほど毒々しい…」
「見事な黒金の色、だろう?」
「そう、そうです。台輔の鋼の色もお美しいが、劉将軍のそれには女の魔力が加わって見る男見る男を片っ端から虜にしてしまうのです。その黒金の御髪が月の光を浴びた時だけうっすらと紅く光るのは、切り捨てられた獣共の未練と怨念が」
「はっ」
 刹那、目の前の男が高い声を放つと、その整った顔を大いに崩しながら腹を抱えて卓に突っ伏した。
 何十年も仕えてきたが、ここまで笑う男も珍しい。やおら叱責の一つでも喰らうかと思っていた賭博の最中だっただけに、こちらの方が驚かされてしまった。
「は、はは、あまり笑わせるな。…確かに、彼女の側に居ると喰われたがる輩が絶えん。昇山に付き合った連中の中にも数人居たが、見事にばっさばっさと斬り捨てられていたな。私も斬られるやもしれぬが、なに、同じ武人なら斬り返してやればよかろう。ついでに言うならあれの髪の色は赤みの強い桧皮色だ」
 豪快に笑い飛ばす男はにんまりと目を細めた。
 確かに途中からあまりにも化け物地味てしまったことは否めないが、化かすつもりが逆に化かされては何とも居心地が悪い。こういう時はおとなしく負けを認めて、陳謝の言葉を並べてしまおう。
 深く頭を垂れたのは主をからかおうとした詫びもあるが、何よりこの苦虫を噛み潰したような顔を隠したかったからだ。
「…なんだ、すっかりご存知ならそう仰ってくれれば良いものを。主上もお人が悪うございます」
「それはこちらの台詞だ。第一、からかうならもっとまともなことが言えんのか」
「からかう気は御座いませんよ。ただ私は一応部下として忠告をしたまでで」
「忠告か?あれが」
「ええ、そりゃあもう。我々男から見れば女性は妖魔よりも恐ろしい存在ですからね。どんな善良そうな女性だって猫やら仮面やら一枚二枚、いや五枚位は被っておいでですから。私なんてこの歳になっても女性には頭が上がりませんよ」
 実際に先王は女で国を潰している。次王が王――男ならば、派手な女関係は勘弁してもらいたい、というのが残された善良な官僚の願いだった。この男が先王の轍を踏むことは考えにくいが、人間何が切っ掛けで変わるか分らない。……いや、勿論これは何故あのような大法螺を吹いたのかと追求された場合の言い訳なのだが。
「お前の頭が上がらないのはどうせ琅燦位だろう?その分男連中には手厳しいと、英章がぼやいていた」
「ああ、男なんてものは多少手荒く扱っても構いやしないでしょう?私だって男ですから、どうせ愛でるなら巌趙よりは琅燦の方がまだましだというものです」
「まったく、その点に関しては同感だ」
 むさ苦しい男の代表格でその名の通り巌の巨体の巌趙と、一見守ってやりたくなる様な麗しさと肝を底冷えさせる口の悪さを持った琅燦、というある意味滑稽な組み合わせを想像して、見合わせた顔はお互い大笑。この男がここまで笑うのも珍しいが、自分だってこんな下らないことで大笑いしたのも随分久しいような気がする。
 ようやく笑いが収まったところで腹を抱えていた男が、茶を飲み、一息つくと、そういえば、と言葉を続けた。
「あの女、なかなか見所があるぞ。私自らが禁軍の椅子を薦めたが、考慮の上、私情を挟むことなく適任者を就任させれば良いと申しておった」
「ほぉ」
「だから決めた。他意などありはせぬ。そこは安心しておけ」
 残った茶を一気に飲み干すと、男は席を立ち部屋を後にした。まさかとは思うがお前もかの女将軍の餌食にならぬよう気を付けよ、と言付けて。




 既に男の居なくなった椅子をぼんやりと眺めながら、一人茶をすすった。
 それにしてもあの主上の顔を緩ませ、幼い台輔に好かれる女将軍とはどんな人物なのか。そう思えば実に興味深い。
 男の好みを考えれば正統派の美人といったところだろう。いや、将軍というのだから、京劇に出て来る様な腕輪や簪をしゃらんと鳴らせて剣を振る、華麗さと腕っ節を兼ね備えた強気で艶かしい雰囲気の女性かもしれない。性別の隔たりなく慕われるというのならむしろ下手な男よりも逞しく、さばさばした性格か。いやまて、あの台輔のお気に入りというのなら、活発というよりはむしろ穏やかで柔和な印象を与える女性だろうか。そうなれば「将軍」という言葉と絡みづらいが…、まあどんな女性にしろ、美人であることは間違いない。
 近い内に見えるであろう「劉将軍」に想いを馳せながら、未見の女性を怪物扱いしたのは失礼であったな、と心の中で一人謝罪の言葉を述べた。



<END>

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 まだ明けきらぬ雲海の上に月に照らされた二つの影が過ぎる。
 先に行くは白色の獅子、もう一つは天馬がそれぞれの主を乗せて薄闇の中を翔けていた。



「疲れませんか?」
 蒿里が後方に続く天馬を振り返ると、李斎は先刻よりも一層白くなった頬を微笑ませた。
「いえ、私は平気です。台輔の方こそお身体に障りませんか?まだこちらへ帰って来て間がないというのに」
「それは言わない約束です」
 くすりと笑う――既に子供とは呼べなくなってしまったこの国の若き宰輔の表情には、一点の曇りも見られない。それとは対照的に天馬を操る女の方は片手で操縦することが難儀なのだろうか、今も荒い呼吸を吐きながら肩を上下させている。
 蒿里は手綱を緩めて、延麒から借り受けた「とら」の足を止めた。
「やはり辛かったのではないですか。もっと早くに言ってくれれば良かったものを」
 李斎はただ、いいえと首を横に振るだけだった。蒿里は彼女の額にじっとりと浮かぶ汗を自らの袖で拭ってやった。
 思ったよりも顔色が悪い。右腕を失い、満身創痍で慶の金波宮へ駆け込んだというが、その時の傷がまだ癒えてないのだろうか。
「台輔、そんなことをなさらずに…。お着物が汚れてしまいます」
「良いんです。それよりも李斎、休んでください」
 いくらかの間を置いて、李斎は申し訳なさそうに瞼を伏せると、飛燕の背にぐったりとうなだれた。



 こんなことを言うのは今更なのかもしれないけれど、もしかしたら休息が必要なのは自分ではなく彼女の方だったのではないだろうか、と思う時がある。それは慶を発った直後に後悔したことの一つだった。
 蓬莱から再び常世に連れ戻され、金波宮で療養させてもらっていた間、自分達の祖国で何が起こっていたのかを掻い摘んで聞いた。
 阿選の暴虐によって、懐かしい人々が既に居ないということ。
 国の気候は傾き、多くの人々が日々食べる物にも事欠く状況だということ。
 国土に妖魔が溢れ、その数は年々増加しているということ。
 そして、行方知れずの泰王は、まだ生きているかもしれないということ。
 鳴触後の顛末と李斎自身が逃亡しながらも得た情報を涙ながらに語る様子は壮絶そのものだった。時に嗚咽に詰まり、言葉は途切れ途切れになる様がその悲惨さを物語っているようで、その度に蒿里は身体を抉られるような感覚に襲われた。
 何よりも辛かったのは、そうして祖国の現状を語る李斎から昔の穏やかな面影が消え失せていたことだ。
 頬の肉は削げ、艶やかだった紫紺の髪は細くなり、何よりも剣を振るうための利き腕が既に存在しなかった。今も右袖の袂は風に吹かれて虚しくたゆたっている。
 それに涙脆くなった、と思う。
 李斎の涙など見たことがなかった。いや、まだ蒿里自身が幼かった頃、なにかしらの祝いに花を贈った際にその瞳に光るものを見つけたが、それは彼に罪悪ではなくもっと別の感情を感じさせるものだった。
 なのに今、李斎の涙を見ることはひどく辛い。

 何故今まで行方を眩ませていたのか。
 ―――――何故戴を見捨てたのか。

 ―――――私たちがこんなにも苦しんでいる間、お前は何をしていたのか。


 李斎の頬に一滴、二滴と零れる涙が線を画くたび、それが今も尚、無慈悲な真白の雪に埋もれてゆく民の叫びのような気がして――――――。



「……台輔?いかが、されましたか?」
 蒿里が急に黙り込んだので、李斎は首を傾け、彼の顔を覗き込んだ。
 気が付いたときには李斎の顔が随分近くにあって、蒿里は目を背けることも出来ずに、ぼんやりと朝焼けの光に染まる蘇芳の瞳に見惚れていた。
 頬に落ちた長い睫毛の影が綺麗だと思った。
 綺麗で、とてもか細い。
 今にして思えば自分が彼女に守られていたのだということが信じられないことのようだった。
 蒿里は彼のものよりも少しだけ小さくなった李斎の手を取った。記憶の中の彼女の指先は女にしては逞しく暖かかったが、慶の女官の配慮だろうか、きちんとやすりがかけられ、整えられている。触れた爪先に熱は無かった。
「台輔?」
 しきりに不思議がる李斎ににっこりと微笑んで、何となく今まで胸に押し込めていた言葉を呟いていた。
「…よく、この七年間、生き延びてくれたね」
 李斎の目が、一瞬大きく見開かれた。
「もしかしたら、僕は李斎にとても辛い思いをさせてしまったのかもしれない」
「台輔…、何を仰います。私は台輔の臣でございます。どうか、お気になさいますな」
「そして、これからも、辛い思いをさせてしまうのだろうね」
 ゆっくり微笑む李斎の声は少しだけ動揺の色が入交じっていたように思う。
 あの時、もう思い返すことさえ辛い、幸せだったあの頃、李斎や周りの大人達のこの笑みが嫌だったけれど、今はそんな気がしなかった。
 蒿里は僅かに苦笑して、雲海の潮風にたなびく彼女の髪を撫でた。
「……どうかもう一度僕に力を貸して欲しい。きっと、全てが終ったら、李斎の望むものを差し上げられると思うから」
 先ほどよりもずっと近くにある李斎の頬に、いつの間にか一つ、また一つ、温かいものが零れていた。蒿里は微笑みながらその雫を丁寧に拭った。
「……私は台輔と主上の御為なら、修羅の道といえども、喜んで御供致しますとも」
「うん。だから今度こそちゃんと、僕と、…主上の作る国を見届けて欲しいんです。主上だって、それを望んでいるはずです」



 李斎はただ静かに涙した。消え入るような声で何度か述べられた謝罪の言葉は、青年の温かい笑顔に包まれた。
 蒿里は何も言わずにそっと李斎の背中を抱きしめていた。
 ただ、彼女にどんな言葉をかけてやれば良いのか分らなかったのを誤魔化したかっただけなのだけど、布越しに触れる熱が思った以上に暖かくて。
 思わず目頭が熱くなったけど、彼は泣かなかった。
 泣けなかった。
 ―――――泣いて良いのは李斎や、僕が救うはずの戴の民だけだ。
 どんな状況にあろうとも、どんな苦難に喘ごうとも、僕と、――僕の選んだあの人だけは泣いてはいけない。
 彼等のために涙を流す前に、僕にはやらなければならないことがあるのだから。

 蒿里は抱き寄せる李斎の首筋に顔を埋めて瞼を閉じた。小さな傷が所々に打ち付けられた肌に唇を噛み締めながら。
 ―――――僕が守らなくてはいけないのだ。
 例え麒麟としての能力が皆無だとしても、もしかしたら隻腕の将軍より剣の腕が劣るとしても。

 李斎一人さえ守れない自分に、三百万の民を救うことが出来るだろうか、況や。
 









 まもなく初冬を迎える祖国から身を切るような風が二人の間を吹き抜けた。
 眼下に広がる雲の海は、曉色に染まり始めていた。






<END>



「意外と白いのだな」
 ぽつりと洩らした言葉は、意に反して相手へと聞こえてしまったようだった。静かな房室だからか、発した言葉は、思いがけもなく大きく響いたようだった。
「何がでございますか?」
 小首を傾げ、李斎は不思議そうに問い返してくる。
 夏というものは、暑いものだ。
 それは知識として知っている。
 戴の夏だって、暑いと感じる時があるし、黄海へと出れば、汗ばむ程の陽気の日だってあるからだ。
 だが、慶国の夏は今まで経験した事のないものだった。
 何もしていないのに、ぽたりぽたりと汗が流れ落ちるのが分かる。それが夏というものなのだ、と現在戴国の住人は実感しているのだ。
「いや、別になんでもない」
「何でもない、という事ではないでしょう」
 幾分、くだけた口調で李斎はそう言って、驍宗に冷茶の入った器を差し出した。そんな李斎の格好はといえば、戴国にいるよりも幾分、涼しげな格好だ。そして、普段結われていない髪が綺麗に纏め上げられている。鈴、という風変わりな名の女御が今朝早く、李斎の身支度を手伝った折に手早く纏め上げていったそうだ。その際、李斎に花釵だの、花だの、綺麗な布だので飾ろうとしたが、嫌がる素振りをすれば、早々に諦めた風情で溜め息を吐いたそうだ。
 李斎がこうして髪を結っているのを見るのは、あまりない。
 戴国の官邸に戻れば、世話をする者がちゃんといるだろうが、髪の手入れにそれほど熱心でない主にかまう奉公人はいないだろう。
 だが、ここには普段から身なりにそうかまわない女主がいて、日々交戦しているのだ。客人の李斎とて、それに巻き込まれても不思議はないし、李斎自身、鈴という女御に親しみを持っている所為か、あまり強く拒否出来ないようだった。
 その結果がこれだ。
 普段、見る事のない結い上げた姿というものは、冷静に直視出来ないものなのだと、今、初めて知った。
 肌があんなに白かっただなんて、初めて知った。
 知っていたつもりだったが、こんなに明るい所で、日焼けしていない肌を見た事がなかったのだ。

 今更だというのに、見惚れてしまいそうになった。








     ~了~


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