まだ明けきらぬ雲海の上に月に照らされた二つの影が過ぎる。
先に行くは白色の獅子、もう一つは天馬がそれぞれの主を乗せて薄闇の中を翔けていた。
「疲れませんか?」
蒿里が後方に続く天馬を振り返ると、李斎は先刻よりも一層白くなった頬を微笑ませた。
「いえ、私は平気です。台輔の方こそお身体に障りませんか?まだこちらへ帰って来て間がないというのに」
「それは言わない約束です」
くすりと笑う――既に子供とは呼べなくなってしまったこの国の若き宰輔の表情には、一点の曇りも見られない。それとは対照的に天馬を操る女の方は片手で操縦することが難儀なのだろうか、今も荒い呼吸を吐きながら肩を上下させている。
蒿里は手綱を緩めて、延麒から借り受けた「とら」の足を止めた。
「やはり辛かったのではないですか。もっと早くに言ってくれれば良かったものを」
李斎はただ、いいえと首を横に振るだけだった。蒿里は彼女の額にじっとりと浮かぶ汗を自らの袖で拭ってやった。
思ったよりも顔色が悪い。右腕を失い、満身創痍で慶の金波宮へ駆け込んだというが、その時の傷がまだ癒えてないのだろうか。
「台輔、そんなことをなさらずに…。お着物が汚れてしまいます」
「良いんです。それよりも李斎、休んでください」
いくらかの間を置いて、李斎は申し訳なさそうに瞼を伏せると、飛燕の背にぐったりとうなだれた。
こんなことを言うのは今更なのかもしれないけれど、もしかしたら休息が必要なのは自分ではなく彼女の方だったのではないだろうか、と思う時がある。それは慶を発った直後に後悔したことの一つだった。
蓬莱から再び常世に連れ戻され、金波宮で療養させてもらっていた間、自分達の祖国で何が起こっていたのかを掻い摘んで聞いた。
阿選の暴虐によって、懐かしい人々が既に居ないということ。
国の気候は傾き、多くの人々が日々食べる物にも事欠く状況だということ。
国土に妖魔が溢れ、その数は年々増加しているということ。
そして、行方知れずの泰王は、まだ生きているかもしれないということ。
鳴触後の顛末と李斎自身が逃亡しながらも得た情報を涙ながらに語る様子は壮絶そのものだった。時に嗚咽に詰まり、言葉は途切れ途切れになる様がその悲惨さを物語っているようで、その度に蒿里は身体を抉られるような感覚に襲われた。
何よりも辛かったのは、そうして祖国の現状を語る李斎から昔の穏やかな面影が消え失せていたことだ。
頬の肉は削げ、艶やかだった紫紺の髪は細くなり、何よりも剣を振るうための利き腕が既に存在しなかった。今も右袖の袂は風に吹かれて虚しくたゆたっている。
それに涙脆くなった、と思う。
李斎の涙など見たことがなかった。いや、まだ蒿里自身が幼かった頃、なにかしらの祝いに花を贈った際にその瞳に光るものを見つけたが、それは彼に罪悪ではなくもっと別の感情を感じさせるものだった。
なのに今、李斎の涙を見ることはひどく辛い。
何故今まで行方を眩ませていたのか。
―――――何故戴を見捨てたのか。
―――――私たちがこんなにも苦しんでいる間、お前は何をしていたのか。
李斎の頬に一滴、二滴と零れる涙が線を画くたび、それが今も尚、無慈悲な真白の雪に埋もれてゆく民の叫びのような気がして――――――。
「……台輔?いかが、されましたか?」
蒿里が急に黙り込んだので、李斎は首を傾け、彼の顔を覗き込んだ。
気が付いたときには李斎の顔が随分近くにあって、蒿里は目を背けることも出来ずに、ぼんやりと朝焼けの光に染まる蘇芳の瞳に見惚れていた。
頬に落ちた長い睫毛の影が綺麗だと思った。
綺麗で、とてもか細い。
今にして思えば自分が彼女に守られていたのだということが信じられないことのようだった。
蒿里は彼のものよりも少しだけ小さくなった李斎の手を取った。記憶の中の彼女の指先は女にしては逞しく暖かかったが、慶の女官の配慮だろうか、きちんとやすりがかけられ、整えられている。触れた爪先に熱は無かった。
「台輔?」
しきりに不思議がる李斎ににっこりと微笑んで、何となく今まで胸に押し込めていた言葉を呟いていた。
「…よく、この七年間、生き延びてくれたね」
李斎の目が、一瞬大きく見開かれた。
「もしかしたら、僕は李斎にとても辛い思いをさせてしまったのかもしれない」
「台輔…、何を仰います。私は台輔の臣でございます。どうか、お気になさいますな」
「そして、これからも、辛い思いをさせてしまうのだろうね」
ゆっくり微笑む李斎の声は少しだけ動揺の色が入交じっていたように思う。
あの時、もう思い返すことさえ辛い、幸せだったあの頃、李斎や周りの大人達のこの笑みが嫌だったけれど、今はそんな気がしなかった。
蒿里は僅かに苦笑して、雲海の潮風にたなびく彼女の髪を撫でた。
「……どうかもう一度僕に力を貸して欲しい。きっと、全てが終ったら、李斎の望むものを差し上げられると思うから」
先ほどよりもずっと近くにある李斎の頬に、いつの間にか一つ、また一つ、温かいものが零れていた。蒿里は微笑みながらその雫を丁寧に拭った。
「……私は台輔と主上の御為なら、修羅の道といえども、喜んで御供致しますとも」
「うん。だから今度こそちゃんと、僕と、…主上の作る国を見届けて欲しいんです。主上だって、それを望んでいるはずです」
李斎はただ静かに涙した。消え入るような声で何度か述べられた謝罪の言葉は、青年の温かい笑顔に包まれた。
蒿里は何も言わずにそっと李斎の背中を抱きしめていた。
ただ、彼女にどんな言葉をかけてやれば良いのか分らなかったのを誤魔化したかっただけなのだけど、布越しに触れる熱が思った以上に暖かくて。
思わず目頭が熱くなったけど、彼は泣かなかった。
泣けなかった。
―――――泣いて良いのは李斎や、僕が救うはずの戴の民だけだ。
どんな状況にあろうとも、どんな苦難に喘ごうとも、僕と、――僕の選んだあの人だけは泣いてはいけない。
彼等のために涙を流す前に、僕にはやらなければならないことがあるのだから。
蒿里は抱き寄せる李斎の首筋に顔を埋めて瞼を閉じた。小さな傷が所々に打ち付けられた肌に唇を噛み締めながら。
―――――僕が守らなくてはいけないのだ。
例え麒麟としての能力が皆無だとしても、もしかしたら隻腕の将軍より剣の腕が劣るとしても。
李斎一人さえ守れない自分に、三百万の民を救うことが出来るだろうか、況や。
まもなく初冬を迎える祖国から身を切るような風が二人の間を吹き抜けた。
眼下に広がる雲の海は、曉色に染まり始めていた。
<END>
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