ドタドタ…という、研究棟に似つかわしくない足音がするのを呉は意識の遠い処で聞いていた。
彼は集中すると、完全に他所事の一切を遮断してしまうという癖がある。なので、その足音の主がけたたましい音を立ててドアを開け、あまつさえ自分の方へ勇んで歩いてきても、全く無視していたのだ。
「学究!お菓子の作り方を教えてくれ!」
がしぃっ!と後ろからしがみ付かれ、含んでいた紅茶を勢い良く噴き出してしまうという醜態を演じるまで。
「エマニュエル…藪から棒になんだい?」
質問の内容に対する言葉ではあるが、実は非常識な行動に対する注意でもある。
尤もはっきりと直接云わない限りはエマニュエルに伝わりっこ無いのだが。
「ええと…」
案の定と云うべきか、エマニュエルは行動に対する詫びを入れるどころか『学究は慌て者だなぁ』等とピントのずれた注意をし、よっこいしょと椅子を持ってくると呉の横に据えて、座り込んだ。
一見冷静を装いながら、呉もゆっくりと椅子ごと乱入者に向き直る。
机の上のレポートが何枚か紅茶によって死亡していたが、それを今介抱するのは憚られた。
何せ、エマニュエルは我侭なところが多々ある。
彼を無視してレポートの救助を行なったところで、通常の3倍ほどの時間が取られる事は目に見えているのだから。
レポートの10枚や20枚がなんだ。筐体にかからなかっただけ、まだ良いではないか。
自分で自分を慰める、悲しい呉であった。
「何?」
勢い良く飛び込んできたものの、もじもじするだけで一向に話し始める気配の無いエマニュエルを促すように――寧ろ『早くしろ』と突っ込むように――柔らかに小首を傾げると、うん、と一つ咳払いをして親友は重い口を漸く開く。
「ファルメールに、作ってやりたいんだ」
照れたような表情に、まぁそんなところだろうなと呉は小さく苦笑した。
この面倒臭がり大王に何か始めよう等という気を起こさせる要因は、大事な父親か妹以外には無いだろう。
「しかし、どうしてまた急に?」
「ああ…今日、ちょっと申請書類の関係で、ファルメールの学校に行ったんだ」
云って、エマニュエルが天井を見上げる。
彼の見た光景を一生懸命思い出し、より正確に呉に伝え様とするかのように。
学校に行ったらね、丁度ファルメール達がP・E(Physical Education:体育)を終えたところだったみたいで。
クラスメイト達と一緒にグラウンドの端で休憩してたんだ。
ほら、学究も知ってると思うけど、P・Eの後ってお腹が空くだろう?
皆でお菓子を持ち寄って、楽しそうにしてたんだ。
でもね、何だかファルメールの笑顔がいつもより硬く見えて。
どうしてだろう、って考えてながら遠目に見てるとね。
皆、手作りのお菓子を持ってきてたんだよ。
多分――お母さんが作ってくれたんだろうな。
別に仲間外れにされてるんじゃない。
ファルメールだって手ぶらで居たんじゃなくて、自分で買ったんだろうな、お菓子を持って行ってた。
周りの皆と交換したりして、『有難う』って笑ってたりしてたけど。
――途轍も無く、淋しそうな顔を、してたんだよ。
なるほどね、と呉はエマニュエルの話を聞いて、頷いた。
エマニュエルも就学年齢ではあるのだが、彼は研究所内の学習機関にて学んでいるし、一般社会から隔絶されている部分が多々あるのでそういった感情に囚われる事は少ないのだろう。
年もファルメールより10も上で、そういう部分では一応『大人』なのだし。
第一呉が一緒なのでそんな淋しさを感じる場面もないのだろうが。
『外』の学校に『一人』で通っているファルメールはそうはいかない。
ならばせめて、妹が肩身の狭い想いをしないよう――引け目を感じないよう、取り計らってやりたいと云うのだろう。
何とも妹想いな、良い話ではないか。
ふふ、と笑って呉は目を細め、照れながら俯いているエマニュエルの頭をぽん、と撫でた。
「優しいお兄さんだね、エマニュエル」
「……揶揄うなよ」
赤くなりながらぶっきらぼうに云い、ぽすっ!と殴り返してくるエマニュエルの手をやんわりと受け流して呉は、立ち上がるとえーと、と考え込む。
さて、何にしよう。
持ち運びに苦労せず(よってクリームを使ったのは却下だ)。
保存がある程度きいて(ゼリーなんかはちょっと拙いかも)。
一見するとちょっと豪華で(だからクッキーはちょっと避けたい)。
但し、不器用で短気なエマニュエルにも作れる範囲の(スポンジケーキは止めた方が無難かな)。
何より『手作り』感の強い物。(溶かして固めただけのチョコレートは以ての外)。
とすると。
と己の脳内に管理してあるレシピをぱらぱらと開き、呉は漸く一つの菓子に辿りついてにっこり、エマニュエルに微笑みかけた。
「良いよ…丁度手も空いてるしね。レシピは『タルトタタン』なんて、どうかな」
「本当かっ学究!何だか良く解らないけど、それにしよう!有難うっ」
がしぃっ!と今度は正面から感謝一杯に抱き竦められて、若干辟易しつつもあははと呉は笑った。
本当は『手も空いてる』ではなく、『手を空けさせられた』が正しいだなんて、口が裂けても云えない。
何せあのレポートが無事だったならば後3時間はかかりっきりでいただろうから。
「じゃあ、じゃあ早速っ!」
「うん。そうだ、それならちょっと多めに作って、博士達のお茶にもお出ししようか」
「名案だな♪――と、勿論学究も…」
「手伝うよ」
彼一人に任せておける程、呉の神経は太くない。
それに、どうせしっちゃかめっちゃかなキッチンを後で片付けるのは自分だろうから。
「有難うっ!学究」
「お易い御用だよ」
エマニュエルに尻尾があれば、きっと切れてしまいそうな程ぶんぶんと振られているに違いない。
自分の手を引っ張って、『早く』とキッチンに先導する親友の姿に苦笑を誘われながら
(でも、何だか――)
胸中に湧き上がる擽ったい、浮かれたような気分に呉は、エマニュエルに見られない様に口元を綻ばせた。
タルトタタン。
フランスはラモット・ブーヴロン発祥の焼き菓子。
土地柄が裕福でないので、落ちていたリンゴを活用するお菓子が作られ始めたのだという。
貧しいながらも、大事な人に、美味しい物を食べさせたいという優しい欲求。
愛情という感情を具現化したような経緯で作られた、甘いデセ-ル。
だから、溢れんばかりの愛情を込めて、作ろう。
大好きな『妹』の為、『家族』の為、『親友』の為。
フィリングをことことたいたらじっくり焼いて。
パータフォンセは丁寧に作ったら暫く寝かせて。
焼き上がったフィリングにフォンセをかぶせて。
そしてまた時間をかけて焼く。
これを見た『大事な人』の顔を想像していたら
時間が経つのはあっという間。
キッチンが漂う良い香りにくるまれたら、出来上がりだ。
「いーい匂い」
ふんふん、と鼻を鳴らしてエマニュエルがオーブンから菓子を取り出し、ぱかんと型から外した。
全体の焼き上がりをチェックして呉もうん、と頷く。
「初めてにしては上出来だよ、エマニュエル。きっとファルメールも喜ぶさ」
「学究が手伝ってくれたからだよ。本当に有難う」
えへへ、と二人で顔を見合わせて笑う。
エマニュエルの顔に書かれている文字は、きっと自分の表情にも浮かんでいるだろう。
そう、『幸せ』。
大事な人の事だけを考えて時間を過ごせる事。
それは何にも替え難い、幸せな時間だ。
「ただいまーっ!お兄様、学究兄様、何か作ってるの?とっても良い匂いがしてるんだけど」
と、そこへぱたぱた、と軽い足音を立ててファルメールが入ってきた。
「丁度良いところに帰って来たね、ファルメール。お帰り」
「待ってたぞ、ほら」
エマニュエルが示したテーブルの上のタルトを見て、少女の顔がみるみる綻ぶ。
――幸せが、伝染していく。
腕前も、手際も、色々あるけれど。
一番お菓子を美味しく作る秘訣は
目には見えないスパイスをたっぷり込める事。
スパイスは、愛情です。
■おわり■
バシュタール三兄妹。云い切ります、三兄妹。彼等が大好きでどうしようもありません。
当時、ファルメールちゃんがしっかり書けなくてリベンジしたいと云っていましたが、未だ為せていません。うぅん、残念無念。
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甲冑
その日黄信は外で昼食をとった。いつもなら、国際警察機構内で配給された食事を、黙々と食べる。仕事と仕事の合間なので仕方ないが、我知らずくつろいだ昼間になった。
安食堂に雑多な声がする。自分と同じように、仕事から仕事へ移る一時を過ごす人、いつまでもお茶をすすっていそうな人もいる。黄信は注文した料理が出てくる間、ある家族に目が行った。席は離れているので、家族と目は合う心配はない。高い子供の声がするので、食堂のなかでも目立っていた一行だが、それだけで黄信の目は引かなかった。まるで一家の団らんがそのまま食堂にやって来たようなにぎわいを見せる。黄信は子供が、箸で遊んでいるのを見ている。
「これがお父さんの箸。これがお母さん、これが僕。ほら、お前のだよ。」
少年は箸立てから4膳取り、父や母、妹の前に並べ満足そうにしていた。
他愛ない光景だが、黄信は長いこと見ていた。自分がお父さんと呼ばれていた頃が懐かしいのか、は黄信も判断つかない。
家族の話題は、菖蒲の節句のことらしい。鯉のぼり、柏餅、親戚のだれかれが家に見える・・そんな話が続く。黄信は頬杖をついて、ハタハタとなびく鯉やら餅の餡を想像した。だがある所で彼の平穏は破れた。お父さんは、息子に鎧兜を買ってやり、子供はそれを着るのを楽しみにしているらしい。どこかの国の平凡な習慣だが、黄信はなぜかゾッとした。
「ハーン。子供にそんなもん持たせるなか?」
「そう簡単に言うな。」
飯も済ませ、午後も花栄と働き出した。
「嫌な感じがする。子供にその兜を身につけて、何をしろと言うのだ。兜をつけてすることなど、ひとつしかあるまい。」
黄信は甚だ真面目だが、花栄はこういった。昔は家名を保ったり、仕官するには戦うのが手っ取り早かった。家を思うなら、この兜をつけて功名を上げよという古風な習慣である。まさか親がそんな残酷なことを現代になっていうだろうか、と。
「そうだ。それならいい。」
「なら構うことあるまい。」
「忘れたのか、我等には身に過ぎた最強兵器・ジャイアントロボがある。あれは、親父の草間博士が子供の大作に継がせた物だそうだ。」
自分がお父さんと呼ばれていた頃、僕もお父さんみたいになるんだ、と父の刀の鞘で遊んでいた我が子が黄信の胸をよぎった。
「草間博士はあくまで研究職であったと言う。我等のような現業ではないだろう。」
黄信はここから先は、花栄に話すというより気持ちの整理のため言う。
「昼間見た親子のように、行事としての甲冑でもない。自分の子供が昔言ってくれた、実際父が振るっていた剣と甲冑への憧れでもない。あの草間大作は。天から降って来たような、怪物だ。あのロボットは・・・。何もかもいきなり。戴宗もうまい事を言う。」
花栄はいつもの黄信の述懐癖が始まったと、ちゃんと聞いてはいるが返答が求められていないのにも気がついていた。
「村雨も言い当てて妙だった。草間博士がロボを息子に継がせる所を、村雨は見たんだそうだ。それがどういうことなのか、わかっているのですかと聞いたが、博士はさっさと継がせてしまったそうだ。草間博士の行為を責めたくもないが・・・・・なんて厄介な息子とロボットを置いて死んだのだろう。それがどういうことなのか、は自分にもはっきりは言えない。いや、はっきり言えば国際警察機構から、ロボを摘み出してしまうかもしれん。自分は立場上できん。」
花栄は、たまに家族連れに遭遇した黄信が感傷に浸りたいのかと最初思ったが、そうでもないと見た。大作には、昼間の一家のような慣習にまみれた甲冑も、戦う父の背をみて憧れた甲冑もない。身に余る兵器、もてあますだろうと黄信は言う。みすみすBF団に返してしまうのも惜しいからいるだけの。
が、黄信は草間大作を見放すこともしない。ジャイアントロボを何故か対等の仲間とした。そう思わなければ大作の生きる場所すら奪ってしまうからである。平和そのものの家庭など、大作にも黄信にも過去のものである。なら、ここで生きてみないかと黄信は自分でも気がつかないくらい深いところで誓っていた。
「まあ何かロボと草間大作にあったら、我々が守ってやろう。な?」
黄信は、花栄にそうだなと言った。考えていても仕方ない、仲間たる少年と強いロボットは大事にしてやることであろう。
その日黄信は外で昼食をとった。いつもなら、国際警察機構内で配給された食事を、黙々と食べる。仕事と仕事の合間なので仕方ないが、我知らずくつろいだ昼間になった。
安食堂に雑多な声がする。自分と同じように、仕事から仕事へ移る一時を過ごす人、いつまでもお茶をすすっていそうな人もいる。黄信は注文した料理が出てくる間、ある家族に目が行った。席は離れているので、家族と目は合う心配はない。高い子供の声がするので、食堂のなかでも目立っていた一行だが、それだけで黄信の目は引かなかった。まるで一家の団らんがそのまま食堂にやって来たようなにぎわいを見せる。黄信は子供が、箸で遊んでいるのを見ている。
「これがお父さんの箸。これがお母さん、これが僕。ほら、お前のだよ。」
少年は箸立てから4膳取り、父や母、妹の前に並べ満足そうにしていた。
他愛ない光景だが、黄信は長いこと見ていた。自分がお父さんと呼ばれていた頃が懐かしいのか、は黄信も判断つかない。
家族の話題は、菖蒲の節句のことらしい。鯉のぼり、柏餅、親戚のだれかれが家に見える・・そんな話が続く。黄信は頬杖をついて、ハタハタとなびく鯉やら餅の餡を想像した。だがある所で彼の平穏は破れた。お父さんは、息子に鎧兜を買ってやり、子供はそれを着るのを楽しみにしているらしい。どこかの国の平凡な習慣だが、黄信はなぜかゾッとした。
「ハーン。子供にそんなもん持たせるなか?」
「そう簡単に言うな。」
飯も済ませ、午後も花栄と働き出した。
「嫌な感じがする。子供にその兜を身につけて、何をしろと言うのだ。兜をつけてすることなど、ひとつしかあるまい。」
黄信は甚だ真面目だが、花栄はこういった。昔は家名を保ったり、仕官するには戦うのが手っ取り早かった。家を思うなら、この兜をつけて功名を上げよという古風な習慣である。まさか親がそんな残酷なことを現代になっていうだろうか、と。
「そうだ。それならいい。」
「なら構うことあるまい。」
「忘れたのか、我等には身に過ぎた最強兵器・ジャイアントロボがある。あれは、親父の草間博士が子供の大作に継がせた物だそうだ。」
自分がお父さんと呼ばれていた頃、僕もお父さんみたいになるんだ、と父の刀の鞘で遊んでいた我が子が黄信の胸をよぎった。
「草間博士はあくまで研究職であったと言う。我等のような現業ではないだろう。」
黄信はここから先は、花栄に話すというより気持ちの整理のため言う。
「昼間見た親子のように、行事としての甲冑でもない。自分の子供が昔言ってくれた、実際父が振るっていた剣と甲冑への憧れでもない。あの草間大作は。天から降って来たような、怪物だ。あのロボットは・・・。何もかもいきなり。戴宗もうまい事を言う。」
花栄はいつもの黄信の述懐癖が始まったと、ちゃんと聞いてはいるが返答が求められていないのにも気がついていた。
「村雨も言い当てて妙だった。草間博士がロボを息子に継がせる所を、村雨は見たんだそうだ。それがどういうことなのか、わかっているのですかと聞いたが、博士はさっさと継がせてしまったそうだ。草間博士の行為を責めたくもないが・・・・・なんて厄介な息子とロボットを置いて死んだのだろう。それがどういうことなのか、は自分にもはっきりは言えない。いや、はっきり言えば国際警察機構から、ロボを摘み出してしまうかもしれん。自分は立場上できん。」
花栄は、たまに家族連れに遭遇した黄信が感傷に浸りたいのかと最初思ったが、そうでもないと見た。大作には、昼間の一家のような慣習にまみれた甲冑も、戦う父の背をみて憧れた甲冑もない。身に余る兵器、もてあますだろうと黄信は言う。みすみすBF団に返してしまうのも惜しいからいるだけの。
が、黄信は草間大作を見放すこともしない。ジャイアントロボを何故か対等の仲間とした。そう思わなければ大作の生きる場所すら奪ってしまうからである。平和そのものの家庭など、大作にも黄信にも過去のものである。なら、ここで生きてみないかと黄信は自分でも気がつかないくらい深いところで誓っていた。
「まあ何かロボと草間大作にあったら、我々が守ってやろう。な?」
黄信は、花栄にそうだなと言った。考えていても仕方ない、仲間たる少年と強いロボットは大事にしてやることであろう。
人間には得手不得手があって、中条静夫はどうやら人材を育てることが苦手そうだった。三十半ばで悟るにはいささか遅いが、ともかく現実そうに違いない。特に冷たいとか人嫌いとかいう訳ではないが、どうもこういった困難な状況に陥っている人間に対して、その人間に相応しい言葉が思いつかない。大体にして、中条自身も己の矛盾を解決しきっているとは言い難い。
つまり、明らかにエキスパートではないが、そうなろうとしている段階の、所謂微妙な年頃の青年に対して無口になったのは、或る意味中条の素質の問題であり、別段彼を嫌っている訳でも、逆に特別視している訳でもなかった。
もっとも、そんな判断も出来ない状況だった。
「何をしている」
暮れなずむ時間に、ここ梁山泊で。返答次第では、或いは次のリアクション次第では殺す、と暗に込めて。
ただし、ここを住処としていない中条の台詞だ、或る意味図々しい。
しかしそんな暗喩や矛盾にに気付く様子など、向こうにはまるで無かった。仮に敵であったとしても五秒は待っただろうと中条は後に語る程、可哀想な有様だったからだ。
目の前に居た青年は、中条の兄弟にしても若すぎる青年で、ようよう20を超えたばかりと見えた。それをいっそう若く見せたのは、ものを探して探して探して、探し疲れて途方に暮れている小動物の様な空気のせいだった……実はそうじゃあないんでしょうと何故か周囲は頑固に否定するのだが、中条は噂される様な一目惚れをしたとは思っていない。自分にも幾らか経験はあるのだが、ああいう感覚は確かに、訪れなかった。
ただ、ちょこんと存在している、へたり込んでいる青年、呉学人が酷く可哀想だと思った。なにしろ目の前の青年はすっかり煤けていて、髪はばさばさで、息がぜぇぜぇとあがりまくっていて、俯いた顔をあげると鋭くしてみせた目の周りは微かでなく赤くなっていた。鼻水だって出ている。そしてどれだけ走っていたのか、膝をついた足には微かな震えが来ていた。あの時点での呉でも、8割程度にはエキスパートになっていたのだから、相当走ったのだろうと赤の他人の中条にも知れた。
威嚇はしていないつもりだが、小動物はこちらの姿を見せただけでぴくりと震えた……呉が一目惚れだったでしょうと周囲に言われるたびに扇子で顔を隠してしまうのは、実は周囲の予想と全く違う感情を抱いていたからだ。
なにせ当時の呉は限界までヘトヘトになっていて、その上で滅多にない自棄っぱちになっていた。その上で、一部の師範には知れていたが、当時の呉を現世に繋いでいたのは一人の少女の存在だけだったので、酷く冷酷でもあった。なにせその少女がいなければ、とっくの昔に首をくくっていただろうと今でも思うぐらいだ。そんな彼女にしても頼れるのは呉だけで、彼等はお互いにお互いを支え合い、依存しあっていた。
そんな状況の呉が中条を見た途端に思った事は、前々より望んでいた通り、死ぬことだった……梁山泊も決して安全な土地ではないと聞いており、現に呉が梁山泊に入ってからも幾度か敵襲があった。自然の要塞であり我が庭でもある梁山泊という事で、国際警察機構はそれらを楯に何度も急場を凌いできたが、幾人もの命がその勝利の戦いに消えていった事も知っている。
つまり自分はおそらく、この戦いの最初の犠牲者の一人になる、そう悟った。
戦いはあらゆる意味で苦手だが、不思議と恐いという気持ちはごく薄く、呉はただ嗚呼と思った……そして思ったよりも素早く、この世に別れを告げた。小さくさようならと呟くと、ただ一つだけ持っていた鉄扇子を袖から取りだし、中腰に立ち上がるとぎゅうと握って出来る限り鋭角を相手に押しだした。最早、学んだり望んだりした通りに身を守る事など考えず、磨き抜かれた鋭い縁が、愚直なまでに中条に向かっている。鉄扇子を武器として選んだ時に言われた事など、当の昔に消えてしまっていた。
中条の方はこの反応に苦笑していた。中条は何度か梁山泊に足を運んだ事はあるが、彼の顔は見たことが無かった。つまり相手は新参者で、九大天王など見たことも無いに違いない。しかしこの珍しい武器やその真摯な様子に見とれてやられる訳にもいかないと、中条はゆっくりと手を挙げた。
「私は国警の者だ、ここに用事があって来たんだ。しかし君の顔は知らない」
「私だって貴方の顔を知りません」
もっともな理由だ、知らない人間においそれと梁山泊に踏み入らせる訳にはいかない。しかも正規の道ならともかく、ここは誰もが忘れかけた裏道の様な場所ときている。
しかし、これからどうするにしても青年が可哀想だった。今だって、生まれたてなのに必死に立ちあがろうとする子鹿の様に足が震えて、真剣さの余り泣き出しそうな顔をしている。しかも全体的な雰囲気から見るに、国警に入ったのも、荒くれ者が行き場所を失ってというのではなく、まっとうな人間がやむをえずと選んだといった様子がある。何よりもお互い、死合いは望んでいる事ではない。
結果、中条は妥当な線として、自分から折れようと決めた。元より相手は自分よりも随分と若そうだ、『大人の貫禄』も見せておきたい。
「ふむ。では、どうすれば信じて貰えるかな? もっとも、私には時間が幾らかはあるが、君はこんな所で油を売っている訳にもいくまい。その様子だと、余程の事があるのだろう?……そう、君さえよければ、私も手伝おう。これでも腕に多少の覚えはある、君よりも随分と老いてはいるがね」
そのままの言葉に青年は反撃の機会を失った。言葉を詰まらせて、それでも中条の言葉を疑っている。しかし確かに、事実だった……猫の手も借りたいというか、事情を知らずに手伝ってくれるなら敵の手だって借りたい。
「お願いします」
そう言って地面についた手は、中条が外見から考えていたよりもずっと華奢に見えた。
「女の子?」
この人は敵ではないんだろうな、と呉が思ったのはその動きのせいだった。梁山泊は天然の要塞で、決して人の受け入れが良いわけではなく、それは住んでいる人間にとっても言えた。なので普通に梁山泊を訪れたり出て行ったりする時にはヘリコプターを使うのが通常で、手練れであれば移動もさもありなんといったレベルだ。
その梁山泊を中条は素早く動いていく。慣れていたと思っていた呉の方が付いていくのが辛いぐらいだ。年齢をあげつらえたが、根本的な体力が違うのだろう。そもそもにして呉は、間違っても体力自慢武力自慢の輩ではない、勝負しても意外性程度のものだ。
にも関わらず呉を殺す所か、手伝おうと言ってきたのだ、敵ではないだろう。
「ええ、十歳ぐらいの女の子で、碧を含んだ黒色の髪で」
「青い瞳の、だね」
言った後で中条はしまったと思ったが、表面的には穏やかに笑う事で流した……呉の方はいっそ悲痛な顔をしており、視線をぐいと前のみに向けて全てを無視した。
件の人間の話は、九大天王としての中条の耳に入ってきた。おそらく中条がそういった身分でなければ入って来ることは無かっただろうし、入れさせる事も無かっただろう。
ある時、つまりあのバシュタールの惨劇からさして経っていない時、華僑の一人から紹介された二人の子供は、自ら国際警察機構に入りたいと申し出たらしい。勿論、無能で脆弱な、しかも何の取り柄も無さそうな子供に見えたので断った所、自分達が件の博士の縁者である事を告白し、保護を求めた。
かのフォーグラー博士の実子と、第一助手。
事態は一気に困窮を極めた……バシュタールの惨劇はあまりにも厳しい社会現象であり、いかな国際警察機構とはいえ、そういった前科者を置くのは問題在りと判断された。管理というなら、単なる凶状持ちの殺人鬼の方がいっそ気楽だ。きっと彼等は内部からも永劫にその責務を問われる事だろう……一時期は見殺しというまっとうな判断もあったが、彼等の立場と年齢が寛容さを与えた。
曰く、本当にその立場で、その年齢で、かの惨劇を阻止し得たか? 責務をと言われる立場なのか? 人殺しの親を持つ子は、永劫に人を殺したそのものと同じ誹りを受けなければいけないのか?
『……赦してやりたい、赦して欲しい』
誰がそう言ったかは分からない、しかし誰もが思っていたことでもあった……世紀の大罪人は、監視カメラにきっと気付いているのだろう。しかに何をすることもなく、ただ不安でぐずる少女を抱きしめて大丈夫だと言い続けていた。随分とやせこけて、しかし人間として大事なものを失わない瞳は、普通の人間の優しさで少女を見つめていた。
あの悲劇さえなければ、彼にあったのは栄光と平和だったろうに。そして彼女にあったのは幸せだったろうに。
「……銀鈴、といいます」
観念した様子で漏らした呉に、中条は苦笑を漏らした。ほんの少しの間で、別の言葉を思いつくことで、彼を慰めた。一片の哀れみかもしれないが、それも又真実だ。
「何、8歳で梁山泊に入る少女など、滅多にいないからね。おそらく、彼女が最年少じゃあないかな……いや、もう10歳だが、それでも彼女より若い子は滅多と居まいね」
呉は別の息を漏らしてしまったと呟いた。様子を見るに、いかにも生真面目で、逆にいうとそういった8歳の少女のあらゆる事に関しては鈍感だろう様子だ。中条が不意に笑いたくなったのは、滅多にそんなものを見ないからだ。
彼は、酷く純粋だ。
「……ええ」
「黄信にでもしごかれたのかね?」
黙り込んだ呉が正しいのかそうでないのか、ともかくあの男は余りにも真っ直ぐなものだから、差別はいけないと件の少女にも同じように接したらしい……10歳の少女には酷だったろう、まして覚悟もなにもないのだから。
「……ええ」
「黄信君は真面目だからな」
え、とおどろいた表情を浮かべた呉は、年齢よりも随分と若く見えた。
「黄信殿も黄信殿だ」
呉はそう言いながら、走っている。最早夕日は一片の線になっており、山奥の梁山泊は急激に冷えていく時間だ。子供には厳しい。
「あんなに酷く、銀鈴を叱咤せずとも」
「死んでは欲しくないからね」
真面目なのだよ、と中条はもう一度繰り返したが、つい先程その真面目さが招いた馬鹿馬鹿しさを実戦したばかりの呉には、あまり正しい言葉とは思えなかった……ともかく、銀鈴がいないと気付いたのは今日の明け方で、そう言えば昨日は鍛錬場で黄信に叱咤されて泣いていたと思いだした。銀鈴は悪くはないのだと宥めたものの、もうそろそろ銀鈴の中でも限界の様なものが近付いていたらしい。そうでなくともこの一ヶ月の間に女性専用の寮に移り、つまり呉と引き離された。呉としても何時までもべったりではいけないと分かっているが、急速に元気を無くしていく銀鈴を見ていると、果たしてこの判断は正しかったのかと訝る所だった。
そして挙げ句の果ての大脱走……銀鈴も心配だが、今後の周囲も心配だった。一端放り出そうとした子供を、周囲は受け入れてくれるだろうかという不安が付いてまわって仕方ない。虐められたりしたら、今度こそ銀鈴は立ち直れまい。
「ですが……」
呉の言葉はそこで止まった。酷使した膝が意図に反してかくんと笑って、地面を蹴った足元が頼りなく注に浮いて、そのまま飛び越そうとした穴に落ちかける……あ、と思った時には視界が幾分下がって、続いて頬が地面に撃たれて視界は更に一転し、自然落ちた視線の先で、自分の足元の遙か下に轟々と音を立てて流れていく川が見えた。
「随分と疲れているようだね? 何時から探しているんだい?」
今や全体重を預かっている左手の手首は随分と細いし、それから察せられるようにエキスパートとはいえ随分と体重も軽い。筋肉が付いていると分かっていても、軽い。件の呉学人が智のエキスパートを目指しているとはいえ、これはいささか軽過ぎやしないか、と顔をしかめながら、中条は青年の脇に腕を差し込んでえいと持ち上げた。
「少し休もう」
異論も何もなく、呉は頷いた。
俯いた呉はとても20歳には見えなかった。膝を抱えて俯いていると、中条の子供ほどに見える。中条は誰かに出会ったり遭難する予定は無かったので、こんな時に役立ちそうなものといえばライターぐらいなものだった。適当に木切れを集めて薪をすると、とうとう呉はしくしくと泣き始めた。
「どうしよう……銀鈴は……し、死んでいるかも、しれません」
この山には人食い虎だっているんです、と言った途端、自分で恐くなったのか、泣く気配が一層強くなった。どうにも泣いている人間を宥める術を知らない中条はいささか困ったものの、さりとて放り出す訳にもいかず、自然口調は何処か堅いものになった。
「銀鈴君を他に捜している者はいるのかい?」
呉は小さく頭を振って、今日一日は自分がただそうしていた事を思いだした。
「いません……銀鈴が、私がいなくなった事だって、知っているかどうか……」
「どうして周囲に相談しない?」
国際警察機構も非情ではない。受け入れると決めれば相応の礼は尽くすし、何より10歳の少女が行方不明になったと知れば、捜索隊の有志だって両手に余る数が出てくるだろう。辛い思いをしたからこそ、その気持ちが分かる連中は多い。
呉は黙り込んだ……中条は倣うでもなく黙って、パイプに火を付けようとして、刻み煙草を切らした事に気付いて顔をしかめた。おそらく、この短い探索の内に無くしてしまったのだろう。元よりこういった寄り道をする予定では無かった。
「どうして?」
幾分穏やかにした声に、鼻をすすり上げて顔をあげた呉の声はとても小さくて、中条はいっそ哀れだと思った。
だって、私達が生きていていいのかどうか、分からないんです。
生きていけと言うことも出来なければ、死んでしまえと言うことも出来ず、中条は長い息を吐き出して、顔をあげた。この周囲には自分達以外の生き物はいないと思っていたが、どうも違うらしい。先程呉が足を滑らせかけた崖の辺りから、寝息のようなものが聞こえている。
中条は正確にその跡を辿り始めた。普通の人間の目では見えない暗闇でも、エキスパートの目にははっきりと小さないきものが見えた……只の切り立った崖に思えた部分には幾らか、それなりの大きさの岩棚があり、その一つに、幾分薄汚れているが、虎などではなくれっきとした人間の子供で、件の少女に違いなかった。
おそらく足を滑らせて、その岩棚に落ちたのだろう。中条は一見絶壁に見える岩の間に、小さなとっかかりを探しながら、そろそろと岩棚に向かって降りていった。自分が足を置いた途端に砕けたらと一瞬嫌な想像をしたが、岩棚はきっちりと中条の体重を受け止めてくれた。
「あの……どうしたんですか?」
思ったよりも上の方から聞こえてくる声に、中条は返した。
「君の捜し物が見つかったよ」
灯りの元で見ると、少女は思ったほど傷ついておらず、寝息も安定していて悪いところは無さそうだった。ただ、右手に握った花は幾分しおれていて、あの場所にいた時間を教えてくれた。あのままだったら、凍死していたかもしれない。
「銀鈴、銀鈴……ファルメール」
涙で顔をくしゃくしゃにした呉が、中条を押しのけるように少女を抱きかかえた。馴染みの気配に気付いたのか、ぱちりと目を開けた少女は、小さく欠伸をした後で、まるで普通に小首をかしげた。
「呉先生、またないてたの?」
涙の跡が残っているのに気付いたのだろう。起きた途端の指摘に、絶句した呉に、銀鈴はへにゃりと笑いかけた。
「やっぱり」
「そ、そりゃ、銀鈴がいなくなるからだろう!」
自分勝手な行動に怒りを込めたものの、泣いて掠れた声では迫力に欠ける。逆に少女はそんな様子にやはり小首を傾げた。
「わたしは修行してたの。黄信のおじちゃんがおこるから」
黄信のアレを『怒る』で済むのが将来の大物振りを示しているようで、中条は思わず苦笑いを浮かべた。一方、勝手に居なくなったと想像していた呉にしてみれば、暢気な発言には足元を崩された気にもなってくる。結果、ああとかいささか間の抜けた返事を返した呉に、銀鈴は思い出したように花を突き付けた。
「はい、先生が元気がないから、これあげる」
綺麗でしょ、と笑った少女に、呉はついにへたれこんでその場に座り込み、中条は先程とは別の苦笑を浮かべた……どうやら銀鈴は事故で足を滑らせた訳ではなく、花があそこにあったので取りに行こうとして、降りたはいいが上れなくなってしまったらしい。それで焦るでもなく眠っているのだから、やはり期待の大物といったところか。
「だから、なかないでね、心配するもん」
矢張り、呉は泣きそうな顔をしていた。
安心したせいか一気に力が抜けたらしく、呉はその場で眠り始めた。銀鈴も安心したせいか再び眠り始めて、結局中条は軽いとはいえ人間二人を背負って梁山泊の本部まで歩く羽目になった。他のエキスパートだったら途中で放りだしていただろう道のりの果てにたどり着いた本部は、いささか緊迫した空気に包まれていた。夜中だというのに、大勢の人間が緊張した面持ちで歩き回り、指示が飛び交っている。
「中条、何をしていたんだ」
こんな時期に、と怒鳴る黄信の顔には汗が浮いている。一見飄々とした様にも見える中条に更に苛立ったのだろう、かまわんと言い掛けて背をむけかけた所に中条が声をかけた。
「何かあったのかね、黄信君」
「子供がいなくなった。10歳と、20歳と」
20歳の方は黄信と大して違わないのにそうと言いきる辺りが流石だと中条が奇妙に納得していると、大山狩りの様な雰囲気を漂わせた花栄が肩を鳴らしながらさてと言った。
「こいつが怒鳴ったのがこたえたのか、今朝方辺りに女の子の方がふらりと居なくなって、それを探すつもりか保護者の、呉学人って男もいなくなっちまって……まぁ帰ってくるだろうと思っていたら、この時間になってもちらりとも姿を見せやしない。韓信殿は必ず帰ってくると言ったものの、どうにも周囲が収まらないからな」
そういった花栄自身も、勿論黄信もその『収まりのつかない周囲』の一部だろう。
「では、ここには有志一同が集まっている訳かね」
「そうだな」
不満そうな黄信に、中条は滅多にない笑いを浮かべて、背負っていたものを黄信に手渡した。
「では、周囲を安心させてやってくれ」
その時に見せた黄信の顔は、その後暫くの噂になるぐらいの有様だった。
つまり、明らかにエキスパートではないが、そうなろうとしている段階の、所謂微妙な年頃の青年に対して無口になったのは、或る意味中条の素質の問題であり、別段彼を嫌っている訳でも、逆に特別視している訳でもなかった。
もっとも、そんな判断も出来ない状況だった。
「何をしている」
暮れなずむ時間に、ここ梁山泊で。返答次第では、或いは次のリアクション次第では殺す、と暗に込めて。
ただし、ここを住処としていない中条の台詞だ、或る意味図々しい。
しかしそんな暗喩や矛盾にに気付く様子など、向こうにはまるで無かった。仮に敵であったとしても五秒は待っただろうと中条は後に語る程、可哀想な有様だったからだ。
目の前に居た青年は、中条の兄弟にしても若すぎる青年で、ようよう20を超えたばかりと見えた。それをいっそう若く見せたのは、ものを探して探して探して、探し疲れて途方に暮れている小動物の様な空気のせいだった……実はそうじゃあないんでしょうと何故か周囲は頑固に否定するのだが、中条は噂される様な一目惚れをしたとは思っていない。自分にも幾らか経験はあるのだが、ああいう感覚は確かに、訪れなかった。
ただ、ちょこんと存在している、へたり込んでいる青年、呉学人が酷く可哀想だと思った。なにしろ目の前の青年はすっかり煤けていて、髪はばさばさで、息がぜぇぜぇとあがりまくっていて、俯いた顔をあげると鋭くしてみせた目の周りは微かでなく赤くなっていた。鼻水だって出ている。そしてどれだけ走っていたのか、膝をついた足には微かな震えが来ていた。あの時点での呉でも、8割程度にはエキスパートになっていたのだから、相当走ったのだろうと赤の他人の中条にも知れた。
威嚇はしていないつもりだが、小動物はこちらの姿を見せただけでぴくりと震えた……呉が一目惚れだったでしょうと周囲に言われるたびに扇子で顔を隠してしまうのは、実は周囲の予想と全く違う感情を抱いていたからだ。
なにせ当時の呉は限界までヘトヘトになっていて、その上で滅多にない自棄っぱちになっていた。その上で、一部の師範には知れていたが、当時の呉を現世に繋いでいたのは一人の少女の存在だけだったので、酷く冷酷でもあった。なにせその少女がいなければ、とっくの昔に首をくくっていただろうと今でも思うぐらいだ。そんな彼女にしても頼れるのは呉だけで、彼等はお互いにお互いを支え合い、依存しあっていた。
そんな状況の呉が中条を見た途端に思った事は、前々より望んでいた通り、死ぬことだった……梁山泊も決して安全な土地ではないと聞いており、現に呉が梁山泊に入ってからも幾度か敵襲があった。自然の要塞であり我が庭でもある梁山泊という事で、国際警察機構はそれらを楯に何度も急場を凌いできたが、幾人もの命がその勝利の戦いに消えていった事も知っている。
つまり自分はおそらく、この戦いの最初の犠牲者の一人になる、そう悟った。
戦いはあらゆる意味で苦手だが、不思議と恐いという気持ちはごく薄く、呉はただ嗚呼と思った……そして思ったよりも素早く、この世に別れを告げた。小さくさようならと呟くと、ただ一つだけ持っていた鉄扇子を袖から取りだし、中腰に立ち上がるとぎゅうと握って出来る限り鋭角を相手に押しだした。最早、学んだり望んだりした通りに身を守る事など考えず、磨き抜かれた鋭い縁が、愚直なまでに中条に向かっている。鉄扇子を武器として選んだ時に言われた事など、当の昔に消えてしまっていた。
中条の方はこの反応に苦笑していた。中条は何度か梁山泊に足を運んだ事はあるが、彼の顔は見たことが無かった。つまり相手は新参者で、九大天王など見たことも無いに違いない。しかしこの珍しい武器やその真摯な様子に見とれてやられる訳にもいかないと、中条はゆっくりと手を挙げた。
「私は国警の者だ、ここに用事があって来たんだ。しかし君の顔は知らない」
「私だって貴方の顔を知りません」
もっともな理由だ、知らない人間においそれと梁山泊に踏み入らせる訳にはいかない。しかも正規の道ならともかく、ここは誰もが忘れかけた裏道の様な場所ときている。
しかし、これからどうするにしても青年が可哀想だった。今だって、生まれたてなのに必死に立ちあがろうとする子鹿の様に足が震えて、真剣さの余り泣き出しそうな顔をしている。しかも全体的な雰囲気から見るに、国警に入ったのも、荒くれ者が行き場所を失ってというのではなく、まっとうな人間がやむをえずと選んだといった様子がある。何よりもお互い、死合いは望んでいる事ではない。
結果、中条は妥当な線として、自分から折れようと決めた。元より相手は自分よりも随分と若そうだ、『大人の貫禄』も見せておきたい。
「ふむ。では、どうすれば信じて貰えるかな? もっとも、私には時間が幾らかはあるが、君はこんな所で油を売っている訳にもいくまい。その様子だと、余程の事があるのだろう?……そう、君さえよければ、私も手伝おう。これでも腕に多少の覚えはある、君よりも随分と老いてはいるがね」
そのままの言葉に青年は反撃の機会を失った。言葉を詰まらせて、それでも中条の言葉を疑っている。しかし確かに、事実だった……猫の手も借りたいというか、事情を知らずに手伝ってくれるなら敵の手だって借りたい。
「お願いします」
そう言って地面についた手は、中条が外見から考えていたよりもずっと華奢に見えた。
「女の子?」
この人は敵ではないんだろうな、と呉が思ったのはその動きのせいだった。梁山泊は天然の要塞で、決して人の受け入れが良いわけではなく、それは住んでいる人間にとっても言えた。なので普通に梁山泊を訪れたり出て行ったりする時にはヘリコプターを使うのが通常で、手練れであれば移動もさもありなんといったレベルだ。
その梁山泊を中条は素早く動いていく。慣れていたと思っていた呉の方が付いていくのが辛いぐらいだ。年齢をあげつらえたが、根本的な体力が違うのだろう。そもそもにして呉は、間違っても体力自慢武力自慢の輩ではない、勝負しても意外性程度のものだ。
にも関わらず呉を殺す所か、手伝おうと言ってきたのだ、敵ではないだろう。
「ええ、十歳ぐらいの女の子で、碧を含んだ黒色の髪で」
「青い瞳の、だね」
言った後で中条はしまったと思ったが、表面的には穏やかに笑う事で流した……呉の方はいっそ悲痛な顔をしており、視線をぐいと前のみに向けて全てを無視した。
件の人間の話は、九大天王としての中条の耳に入ってきた。おそらく中条がそういった身分でなければ入って来ることは無かっただろうし、入れさせる事も無かっただろう。
ある時、つまりあのバシュタールの惨劇からさして経っていない時、華僑の一人から紹介された二人の子供は、自ら国際警察機構に入りたいと申し出たらしい。勿論、無能で脆弱な、しかも何の取り柄も無さそうな子供に見えたので断った所、自分達が件の博士の縁者である事を告白し、保護を求めた。
かのフォーグラー博士の実子と、第一助手。
事態は一気に困窮を極めた……バシュタールの惨劇はあまりにも厳しい社会現象であり、いかな国際警察機構とはいえ、そういった前科者を置くのは問題在りと判断された。管理というなら、単なる凶状持ちの殺人鬼の方がいっそ気楽だ。きっと彼等は内部からも永劫にその責務を問われる事だろう……一時期は見殺しというまっとうな判断もあったが、彼等の立場と年齢が寛容さを与えた。
曰く、本当にその立場で、その年齢で、かの惨劇を阻止し得たか? 責務をと言われる立場なのか? 人殺しの親を持つ子は、永劫に人を殺したそのものと同じ誹りを受けなければいけないのか?
『……赦してやりたい、赦して欲しい』
誰がそう言ったかは分からない、しかし誰もが思っていたことでもあった……世紀の大罪人は、監視カメラにきっと気付いているのだろう。しかに何をすることもなく、ただ不安でぐずる少女を抱きしめて大丈夫だと言い続けていた。随分とやせこけて、しかし人間として大事なものを失わない瞳は、普通の人間の優しさで少女を見つめていた。
あの悲劇さえなければ、彼にあったのは栄光と平和だったろうに。そして彼女にあったのは幸せだったろうに。
「……銀鈴、といいます」
観念した様子で漏らした呉に、中条は苦笑を漏らした。ほんの少しの間で、別の言葉を思いつくことで、彼を慰めた。一片の哀れみかもしれないが、それも又真実だ。
「何、8歳で梁山泊に入る少女など、滅多にいないからね。おそらく、彼女が最年少じゃあないかな……いや、もう10歳だが、それでも彼女より若い子は滅多と居まいね」
呉は別の息を漏らしてしまったと呟いた。様子を見るに、いかにも生真面目で、逆にいうとそういった8歳の少女のあらゆる事に関しては鈍感だろう様子だ。中条が不意に笑いたくなったのは、滅多にそんなものを見ないからだ。
彼は、酷く純粋だ。
「……ええ」
「黄信にでもしごかれたのかね?」
黙り込んだ呉が正しいのかそうでないのか、ともかくあの男は余りにも真っ直ぐなものだから、差別はいけないと件の少女にも同じように接したらしい……10歳の少女には酷だったろう、まして覚悟もなにもないのだから。
「……ええ」
「黄信君は真面目だからな」
え、とおどろいた表情を浮かべた呉は、年齢よりも随分と若く見えた。
「黄信殿も黄信殿だ」
呉はそう言いながら、走っている。最早夕日は一片の線になっており、山奥の梁山泊は急激に冷えていく時間だ。子供には厳しい。
「あんなに酷く、銀鈴を叱咤せずとも」
「死んでは欲しくないからね」
真面目なのだよ、と中条はもう一度繰り返したが、つい先程その真面目さが招いた馬鹿馬鹿しさを実戦したばかりの呉には、あまり正しい言葉とは思えなかった……ともかく、銀鈴がいないと気付いたのは今日の明け方で、そう言えば昨日は鍛錬場で黄信に叱咤されて泣いていたと思いだした。銀鈴は悪くはないのだと宥めたものの、もうそろそろ銀鈴の中でも限界の様なものが近付いていたらしい。そうでなくともこの一ヶ月の間に女性専用の寮に移り、つまり呉と引き離された。呉としても何時までもべったりではいけないと分かっているが、急速に元気を無くしていく銀鈴を見ていると、果たしてこの判断は正しかったのかと訝る所だった。
そして挙げ句の果ての大脱走……銀鈴も心配だが、今後の周囲も心配だった。一端放り出そうとした子供を、周囲は受け入れてくれるだろうかという不安が付いてまわって仕方ない。虐められたりしたら、今度こそ銀鈴は立ち直れまい。
「ですが……」
呉の言葉はそこで止まった。酷使した膝が意図に反してかくんと笑って、地面を蹴った足元が頼りなく注に浮いて、そのまま飛び越そうとした穴に落ちかける……あ、と思った時には視界が幾分下がって、続いて頬が地面に撃たれて視界は更に一転し、自然落ちた視線の先で、自分の足元の遙か下に轟々と音を立てて流れていく川が見えた。
「随分と疲れているようだね? 何時から探しているんだい?」
今や全体重を預かっている左手の手首は随分と細いし、それから察せられるようにエキスパートとはいえ随分と体重も軽い。筋肉が付いていると分かっていても、軽い。件の呉学人が智のエキスパートを目指しているとはいえ、これはいささか軽過ぎやしないか、と顔をしかめながら、中条は青年の脇に腕を差し込んでえいと持ち上げた。
「少し休もう」
異論も何もなく、呉は頷いた。
俯いた呉はとても20歳には見えなかった。膝を抱えて俯いていると、中条の子供ほどに見える。中条は誰かに出会ったり遭難する予定は無かったので、こんな時に役立ちそうなものといえばライターぐらいなものだった。適当に木切れを集めて薪をすると、とうとう呉はしくしくと泣き始めた。
「どうしよう……銀鈴は……し、死んでいるかも、しれません」
この山には人食い虎だっているんです、と言った途端、自分で恐くなったのか、泣く気配が一層強くなった。どうにも泣いている人間を宥める術を知らない中条はいささか困ったものの、さりとて放り出す訳にもいかず、自然口調は何処か堅いものになった。
「銀鈴君を他に捜している者はいるのかい?」
呉は小さく頭を振って、今日一日は自分がただそうしていた事を思いだした。
「いません……銀鈴が、私がいなくなった事だって、知っているかどうか……」
「どうして周囲に相談しない?」
国際警察機構も非情ではない。受け入れると決めれば相応の礼は尽くすし、何より10歳の少女が行方不明になったと知れば、捜索隊の有志だって両手に余る数が出てくるだろう。辛い思いをしたからこそ、その気持ちが分かる連中は多い。
呉は黙り込んだ……中条は倣うでもなく黙って、パイプに火を付けようとして、刻み煙草を切らした事に気付いて顔をしかめた。おそらく、この短い探索の内に無くしてしまったのだろう。元よりこういった寄り道をする予定では無かった。
「どうして?」
幾分穏やかにした声に、鼻をすすり上げて顔をあげた呉の声はとても小さくて、中条はいっそ哀れだと思った。
だって、私達が生きていていいのかどうか、分からないんです。
生きていけと言うことも出来なければ、死んでしまえと言うことも出来ず、中条は長い息を吐き出して、顔をあげた。この周囲には自分達以外の生き物はいないと思っていたが、どうも違うらしい。先程呉が足を滑らせかけた崖の辺りから、寝息のようなものが聞こえている。
中条は正確にその跡を辿り始めた。普通の人間の目では見えない暗闇でも、エキスパートの目にははっきりと小さないきものが見えた……只の切り立った崖に思えた部分には幾らか、それなりの大きさの岩棚があり、その一つに、幾分薄汚れているが、虎などではなくれっきとした人間の子供で、件の少女に違いなかった。
おそらく足を滑らせて、その岩棚に落ちたのだろう。中条は一見絶壁に見える岩の間に、小さなとっかかりを探しながら、そろそろと岩棚に向かって降りていった。自分が足を置いた途端に砕けたらと一瞬嫌な想像をしたが、岩棚はきっちりと中条の体重を受け止めてくれた。
「あの……どうしたんですか?」
思ったよりも上の方から聞こえてくる声に、中条は返した。
「君の捜し物が見つかったよ」
灯りの元で見ると、少女は思ったほど傷ついておらず、寝息も安定していて悪いところは無さそうだった。ただ、右手に握った花は幾分しおれていて、あの場所にいた時間を教えてくれた。あのままだったら、凍死していたかもしれない。
「銀鈴、銀鈴……ファルメール」
涙で顔をくしゃくしゃにした呉が、中条を押しのけるように少女を抱きかかえた。馴染みの気配に気付いたのか、ぱちりと目を開けた少女は、小さく欠伸をした後で、まるで普通に小首をかしげた。
「呉先生、またないてたの?」
涙の跡が残っているのに気付いたのだろう。起きた途端の指摘に、絶句した呉に、銀鈴はへにゃりと笑いかけた。
「やっぱり」
「そ、そりゃ、銀鈴がいなくなるからだろう!」
自分勝手な行動に怒りを込めたものの、泣いて掠れた声では迫力に欠ける。逆に少女はそんな様子にやはり小首を傾げた。
「わたしは修行してたの。黄信のおじちゃんがおこるから」
黄信のアレを『怒る』で済むのが将来の大物振りを示しているようで、中条は思わず苦笑いを浮かべた。一方、勝手に居なくなったと想像していた呉にしてみれば、暢気な発言には足元を崩された気にもなってくる。結果、ああとかいささか間の抜けた返事を返した呉に、銀鈴は思い出したように花を突き付けた。
「はい、先生が元気がないから、これあげる」
綺麗でしょ、と笑った少女に、呉はついにへたれこんでその場に座り込み、中条は先程とは別の苦笑を浮かべた……どうやら銀鈴は事故で足を滑らせた訳ではなく、花があそこにあったので取りに行こうとして、降りたはいいが上れなくなってしまったらしい。それで焦るでもなく眠っているのだから、やはり期待の大物といったところか。
「だから、なかないでね、心配するもん」
矢張り、呉は泣きそうな顔をしていた。
安心したせいか一気に力が抜けたらしく、呉はその場で眠り始めた。銀鈴も安心したせいか再び眠り始めて、結局中条は軽いとはいえ人間二人を背負って梁山泊の本部まで歩く羽目になった。他のエキスパートだったら途中で放りだしていただろう道のりの果てにたどり着いた本部は、いささか緊迫した空気に包まれていた。夜中だというのに、大勢の人間が緊張した面持ちで歩き回り、指示が飛び交っている。
「中条、何をしていたんだ」
こんな時期に、と怒鳴る黄信の顔には汗が浮いている。一見飄々とした様にも見える中条に更に苛立ったのだろう、かまわんと言い掛けて背をむけかけた所に中条が声をかけた。
「何かあったのかね、黄信君」
「子供がいなくなった。10歳と、20歳と」
20歳の方は黄信と大して違わないのにそうと言いきる辺りが流石だと中条が奇妙に納得していると、大山狩りの様な雰囲気を漂わせた花栄が肩を鳴らしながらさてと言った。
「こいつが怒鳴ったのがこたえたのか、今朝方辺りに女の子の方がふらりと居なくなって、それを探すつもりか保護者の、呉学人って男もいなくなっちまって……まぁ帰ってくるだろうと思っていたら、この時間になってもちらりとも姿を見せやしない。韓信殿は必ず帰ってくると言ったものの、どうにも周囲が収まらないからな」
そういった花栄自身も、勿論黄信もその『収まりのつかない周囲』の一部だろう。
「では、ここには有志一同が集まっている訳かね」
「そうだな」
不満そうな黄信に、中条は滅多にない笑いを浮かべて、背負っていたものを黄信に手渡した。
「では、周囲を安心させてやってくれ」
その時に見せた黄信の顔は、その後暫くの噂になるぐらいの有様だった。
。
。
がんばれ村雨!!
「どうして……健二さんなんか好きになったんだろう」
サニーは大人の世界をかいま見ながら、ソーダ水を飲んでいる。その目の前で、殆どパジャマの様な格好をした銀鈴が、文字通り机に頭を付けて凹んでいる。楊志はその様子を見ながら、この店自慢のパフェを食べている。
そんな午後の昼下がりのカフェ、傍目にも恋愛相談と分かる奇妙な一行は、とりあえず銀鈴を見守ることから始めていた。
サニーにも、幾分かは現状が分かっていた。
サニー・ザ・マジシャン13歳。或いは樊瑞よりもその点では上手かもしれない。
エキスパートである楊志の耳には、ふいと居なくなったサニーを探す樊瑞の声が聞こえたそうだが、『取って喰うつもりじゃないんだから』と一蹴した。ちなみに万が一発見されたとしても、サニーはこう言っただろう。
『叔父様、少し席を外して下さいな』
……きっと樊瑞は激しく撃沈したに違いない。サニー、敵方の人間と茶をするとは何事だ、嗚呼一体全体何処で育て方を間違ったんだろう、と嘆きに嘆いただろう。多分、国警一の泣き虫のあの軍師とタメをはれるぐらいに。
十傑集のリーダーは時に酷く脆弱だ……樊瑞を殺すに刃物は要らぬ、『叔父様大嫌い』の一言あればいい……きっとBF団、国警の誰もが知っているが、余りにも哀れで使うことは控えている。使ったら最後、確実に再起不能の状態で恩師の元に、落胆した一清道人が引きずって帰ることになるからだ。
閑話休題。
ともかくサニーも恋愛の機微が少しは分かるようになってきたし、知りたいと思う。皆に言われている様に、大作が初恋の人ではないのだから、尚更に。
「どうして、銀鈴さんは悲しんでいるの?」
「あ~、そりゃあねぇ……」
楊志はもっともな反応に遠い目をした……大容量テレポーテーションの影響で一時期は死をも覚悟した銀鈴だが、何とか復帰して外出出来る迄になった、退院も目前だ……二ヶ月、いわば瀕死の重傷からの帰還といっていい。
その銀鈴に対して(鉄牛以外の)周囲が認める恋人・村雨健二は思ったよりも冷たい反応が多かった。仕事があるにしても滅多に会いに来るわけでもなく、殊更心配した素振りも見せない。勿論、村雨が件の体質のせいで三ひねり程度はある人間だから、まぁそこら辺は常とはいくまい、とある程度までは傍観していたのだが、銀鈴が怒り出したとあれば話は別になってくる。
銀鈴だって不安だ……人間として、或いは恋人を持つ身として。それでも健気に黙っていたのだが、村雨に疑惑が浮んだとあれば別だ。
「いいオンナと歩いていたからさ、しかも銀鈴を放ってね」
「あの女の人は誰?」
子供は苦手、というのが村雨健二の口癖だ。なのになんで九歳も年下の娘を好きになったのか? しかもつき合いだした頃ときたら銀鈴は十四なのだからもういっそ犯罪者だろうお前、と突っ込んだのは誰だったか……ともかくそれだけ長くつき合っていて、しかしそんな言葉が出てきたのは、実はコレが初めてだった。
健二さんは私を大事に思ってくれている。
銀鈴の口癖だ。だからといって、理想的なカップルのようにベタベタしているなど皆無。任務の合間に多くて月に一度顔を見せるか否かで、機密を理由に連絡も頻繁ではない。それでも嬉しそうな銀鈴の言葉を真実と知っているからこそ、保護者である呉学人も、見た目は飄々としてシニカルな、つまり保護者としては余り恋人に相応しくないと思われるこの男に全てを任せる事にしたのだ。
しかし呉も、決して恋愛経験が豊富な訳ではない……むしろ、恋愛は三度目と言っていいかもしれないぐらいだ。その内の二つも淡いもので、今現在は言わずもがな、こっそりと隣の部屋に引っ越したと言っていたが、どう考えても思い切り誘導された挙げ句、今では立派な同居にすり替わっている。暇を貰ったから逆に長官もやりたい放題だ、と言ったのは誰だったか。
まぁ、そんな男が保護者だから、自然被保護者もいくらかしっかりしようとしても、何処かでのほほんと抜けている……そこを突かれたとも言える。
病院の中でお洒落はしていない。グロスだって塗っていないし、パジャマだって戦闘チャイナ並のヘヴィーローテだ。しかし、身体が重たいのだし、誰もがまずは休みなさいと言うから思わず気を抜いてしまった。
で、発見してしまった。
「あの女の人、誰?」
誰だって十中九八、村雨とその女性の組み合わせはカップルだと思っただろう。事実、通りすがりのイワンは微かに眉をひそめていた……只の夫婦なら彼もそうすまいが、ともかくその雰囲気は、どう考えてもあまり健全でない男女の仲に見えた。村雨もさりげに腰に手を当てている。その腰が銀鈴よりもワンサイズ細くて、逆に胸はツーサイズ大きかった。
マリリン・モンローは好きじゃないが、実物を見ると別格だな。
そう言ったのは誰だったか? 当てつけの様に、村雨の帽子の縁の辺りを切った男だったと思う。ベンチに腰掛けて、ぱちんと鳴った指に、ふわりと切れた帽子の縁、しかし村雨は実に鷹揚に肩を竦めてみせただけだ。隣の女も不思議そうに切れた縁を見ていたが、村雨の態度にふわりと笑って腕を巻き付けた。
男なら、理想とする男女関係の一つだろう。ヒィッツカラルドもその意見には賛成だが、確か彼には可愛い娘が居た筈だ。こんな艶やかさはないが、可愛い、彼の命よりも随分と、随分と大事にしていた筈の娘が。
「伊達男、あのお嬢ちゃんはどうしたんだい?」
「あの女の人、誰?」
「健二さんに否定されたのよ」
銀鈴はそう言って机に突っ伏したままだった。
「『誰の事だい』ですって!」
無論、その衝撃発言に、伊達男ヒィッツカラルドが裏を取らない筈もない。そして何気なく、実にさりげなく聞いて判明したのは、ヒィッツカラルドが村雨を見かけたその日に、彼は銀鈴には会わなかったという驚愕の事実だった。幾ら棟が違うといっても同じ病院の中の事、まして村雨は滅多に北京に来ることもない、ならば入院している恋人の銀鈴に顔を合わせるぐらいはするべきだが、それすらしなかった。
ヒィッツカラルドは、聞いて、後悔したそうだ。
それが元で、銀鈴は村雨に詰め寄る事になった。銀鈴だって何人からか話は聞いていて、格別に目立つ美人と、その隣に佇む男の事を知っていた……だから口にしたのだ。
「あの女の人、誰?」
銀鈴はそれ以上、何も言わずに突っ伏していた。ぐずぐずと泣いているのが誰にでも分かる。
せっかく会えたのが一時間前だ。本当はデートをする予定で、余所行きの服も用意していた……ここに来る予定だった。呆れた様に『違う』と言ってくれたらと期待して、期待して、どうしようもない位期待していた。こんなに願ったのは初めてじゃないかと思うぐらい、名もないものにも神様にも願った。
「そう言ったら……『お前には関係ない』ですって……」
もう別れる寸前みたい、と銀鈴は不意に泣きやんで笑おうとした。今更ながら、流石に年下のサニーの前で泣くのは恥ずかしいと感じたらしいが、それでもはれぼったい、赤い目が治るわけでもない。サニーの心配そうな顔に、何とか奥歯を食いしばって、でも保護者譲りの涙腺はあっさり決壊してしまった。
「……やっぱり、消えちゃう女なんか、イヤなのかなぁ……」
だってあの時、胴体だって半分無かったし、皆凄く動揺していて、しごく普通だったのは呉先生ぐらいだもの、と袖の所で涙や鼻の辺りを拭う銀鈴に、ぽんぽんと楊志が頭を撫でてやる。
「アタシだったら、イヤだとは思わないね」
「私もです」
珍しくサニーが鋭い声をあげた。楊志や銀鈴が見るに、サニーは小さい頃に騒いだ事が無い子供独特の静けさを持っているのだが、今のサニーは本当に珍しく、熱っぽい声を出していた。
「好きだったら、絶対に探してくれますもの、どんな形でも」
楊志と銀鈴は顔を見合わせて、それから何故か笑いがこみ上げてきた。サニーの初恋の人はきっと、幼い彼女を何処かから捜してくれた人なのだろうと知れると、他人の事なのに酷く好ましく思えた。
「でもまぁ、酷いもんだよね」
楊志から見て、村雨は情を寄せれば普段通りの薄情とは言い難い人物だと思っていたのだが、まさか銀鈴にそういった言葉を投げかけるとは思わなかった。銀鈴はおそらく唯一、あの死ねない体質に心からの悲しみを覚えた女性だ。そんな得難い存在に対して、いささか酷い仕打ちじゃないかと思いながらも、楊志はにぃと笑って銀鈴の額を突いた。
「いっそ、あんな男なんか捨てて、初恋の人に鞍替えしちまうのもいいんじゃないかい」
悲しむばかりが能じゃないだろう、と笑うと、銀鈴は今度は顔を真っ赤にした。サニーも一瞬だけ『初恋の人』を思いだして、微かに頬に熱を感じた。サニーの方はともかくとして、銀鈴の方は大体の想像が付く。
「だって」
『あの人』ならきっと、全部丸ごと受けとってくれるさ、と笑う楊志に、銀鈴は微かに首を振った。目は真っ赤だし未だに気分はぐちゃぐちゃだが、それでも首はちゃんと横に振った。
「でも、私は健二さんが好きなの」
難しいなぁ、とサニーは頭の中で処理出来ないまま、話を聞いていた。
「で」
呉学人を侮ると痛い目にあう。
無論、村雨は痛い程知っている。石の様に黙り込んでしまった銀鈴の気持ちが想像に難くない様に。それでも『関わりのない』事だと言い切ったし、そもそもにして関わって貰っては困る。関わらなければいっそ、怒っても泣いても、自分を嫌ってすらいいのだが、この男に悟られるのだけは困る。
「どういう事なんでしょうか?」
理論的な事をしているのだと分かっても、本能的に村雨の背中に冷たい汗が流れた。無論、呉に何事かがあったら隣室からビッグバンパンチが飛んで来るという事も含めて色々だ。皆は大概ビッグバンパンチを怖がるが、村雨としては他称舅自身も結構恐い。なにせ少女一人の幸せの為に、人類的な秘密をひた隠しにしていた男だ。本人に自覚はないが、一端舅として考えるだすとともかく恐い。
「何、アンタも知っていての事だろうと思ってね」
村雨は冷や汗を隠しながら、出来るだけシニカルな表情を浮かべた。
「BF団はともかく、案外小さな組織共が、テレポート能力の持ち主を捜していてな」
呉はその言葉に顔色を失った……聖アーバーエーの件の詳細はひた隠しにされているが、詳細を知っている者は知っている。無論、アーバーエーの崩壊の大原因は大怪球なのだが、相応の筋では別の話も出ている。
曰く、何者かが山一つを移動させて、あの辺りを崩壊させた、と。その能力は、誰もが欲しがっているテレポてーションだとも察している。
「で、ついにここまでふらっと来たワケだ」
あの件は国警もしくはBF団に関係在り、と睨んだのだろう。エマニエルが又変な気をおこさないといいけれども、とぼんやり考える呉に、村雨は大きくため息をついた。
「でだ、スパイを見付けて、懇ろにお付き合いしていた訳だ」
今頃はすっかり記憶を失っている筈だぜ、と笑う村雨に、呉は何処か表情のない顔を向けた。
「……村雨君、何処なんですか?」
「何処?」
何の事だ、と村雨は首をかしげた。相手の組織については幾らか調べたが、国警であれば問題にならない程度の大きさだった。銀鈴の体調が戻れば、むざむざ捕まる相手でもない。しかし出来るならば杞憂は知らぬ方がいいに違いない。
「その組織は、何という名前ですか?」
呉はことんと首をかしげたが、何故かそこにはいつもと違い、一切の感情が見えなかった……何となく、最悪の状況を予想しながら、村雨は他人事の様に告げた。
「ああ、知ってるさ。しかし先生がどうするって言うんだい」
「健二さん」
今日は銀鈴がべったりと側にいる。相変わらず視線は合わせていないが、随分と幸せな事だ。わざわざ北京支部から仕事の関係で呼び出しがあって来たのだが、結局大した話でもなく、こうして銀鈴と、堂々と出会っている。ヘタに村雨がこちら側の人間と知れれば、銀鈴の身も危険だが、今回は特別だ。
なにせ件の犯罪組織はこの一週間で消滅した。おそらく、跡形無く、手法自体も相当厳しいものだ。あのフォーグラーの助手が何をしたか、さもありなん……『三大軍師には勝てませんが、私だって北京支部の軍師なのですから』とは良く言ったものだ、謙遜もいいところだ。
「今日は居てくれるの?」
「ああ」
抱きつく銀鈴に、何故か村雨は小さな息を吐いた。
。
がんばれ村雨!!
「どうして……健二さんなんか好きになったんだろう」
サニーは大人の世界をかいま見ながら、ソーダ水を飲んでいる。その目の前で、殆どパジャマの様な格好をした銀鈴が、文字通り机に頭を付けて凹んでいる。楊志はその様子を見ながら、この店自慢のパフェを食べている。
そんな午後の昼下がりのカフェ、傍目にも恋愛相談と分かる奇妙な一行は、とりあえず銀鈴を見守ることから始めていた。
サニーにも、幾分かは現状が分かっていた。
サニー・ザ・マジシャン13歳。或いは樊瑞よりもその点では上手かもしれない。
エキスパートである楊志の耳には、ふいと居なくなったサニーを探す樊瑞の声が聞こえたそうだが、『取って喰うつもりじゃないんだから』と一蹴した。ちなみに万が一発見されたとしても、サニーはこう言っただろう。
『叔父様、少し席を外して下さいな』
……きっと樊瑞は激しく撃沈したに違いない。サニー、敵方の人間と茶をするとは何事だ、嗚呼一体全体何処で育て方を間違ったんだろう、と嘆きに嘆いただろう。多分、国警一の泣き虫のあの軍師とタメをはれるぐらいに。
十傑集のリーダーは時に酷く脆弱だ……樊瑞を殺すに刃物は要らぬ、『叔父様大嫌い』の一言あればいい……きっとBF団、国警の誰もが知っているが、余りにも哀れで使うことは控えている。使ったら最後、確実に再起不能の状態で恩師の元に、落胆した一清道人が引きずって帰ることになるからだ。
閑話休題。
ともかくサニーも恋愛の機微が少しは分かるようになってきたし、知りたいと思う。皆に言われている様に、大作が初恋の人ではないのだから、尚更に。
「どうして、銀鈴さんは悲しんでいるの?」
「あ~、そりゃあねぇ……」
楊志はもっともな反応に遠い目をした……大容量テレポーテーションの影響で一時期は死をも覚悟した銀鈴だが、何とか復帰して外出出来る迄になった、退院も目前だ……二ヶ月、いわば瀕死の重傷からの帰還といっていい。
その銀鈴に対して(鉄牛以外の)周囲が認める恋人・村雨健二は思ったよりも冷たい反応が多かった。仕事があるにしても滅多に会いに来るわけでもなく、殊更心配した素振りも見せない。勿論、村雨が件の体質のせいで三ひねり程度はある人間だから、まぁそこら辺は常とはいくまい、とある程度までは傍観していたのだが、銀鈴が怒り出したとあれば話は別になってくる。
銀鈴だって不安だ……人間として、或いは恋人を持つ身として。それでも健気に黙っていたのだが、村雨に疑惑が浮んだとあれば別だ。
「いいオンナと歩いていたからさ、しかも銀鈴を放ってね」
「あの女の人は誰?」
子供は苦手、というのが村雨健二の口癖だ。なのになんで九歳も年下の娘を好きになったのか? しかもつき合いだした頃ときたら銀鈴は十四なのだからもういっそ犯罪者だろうお前、と突っ込んだのは誰だったか……ともかくそれだけ長くつき合っていて、しかしそんな言葉が出てきたのは、実はコレが初めてだった。
健二さんは私を大事に思ってくれている。
銀鈴の口癖だ。だからといって、理想的なカップルのようにベタベタしているなど皆無。任務の合間に多くて月に一度顔を見せるか否かで、機密を理由に連絡も頻繁ではない。それでも嬉しそうな銀鈴の言葉を真実と知っているからこそ、保護者である呉学人も、見た目は飄々としてシニカルな、つまり保護者としては余り恋人に相応しくないと思われるこの男に全てを任せる事にしたのだ。
しかし呉も、決して恋愛経験が豊富な訳ではない……むしろ、恋愛は三度目と言っていいかもしれないぐらいだ。その内の二つも淡いもので、今現在は言わずもがな、こっそりと隣の部屋に引っ越したと言っていたが、どう考えても思い切り誘導された挙げ句、今では立派な同居にすり替わっている。暇を貰ったから逆に長官もやりたい放題だ、と言ったのは誰だったか。
まぁ、そんな男が保護者だから、自然被保護者もいくらかしっかりしようとしても、何処かでのほほんと抜けている……そこを突かれたとも言える。
病院の中でお洒落はしていない。グロスだって塗っていないし、パジャマだって戦闘チャイナ並のヘヴィーローテだ。しかし、身体が重たいのだし、誰もがまずは休みなさいと言うから思わず気を抜いてしまった。
で、発見してしまった。
「あの女の人、誰?」
誰だって十中九八、村雨とその女性の組み合わせはカップルだと思っただろう。事実、通りすがりのイワンは微かに眉をひそめていた……只の夫婦なら彼もそうすまいが、ともかくその雰囲気は、どう考えてもあまり健全でない男女の仲に見えた。村雨もさりげに腰に手を当てている。その腰が銀鈴よりもワンサイズ細くて、逆に胸はツーサイズ大きかった。
マリリン・モンローは好きじゃないが、実物を見ると別格だな。
そう言ったのは誰だったか? 当てつけの様に、村雨の帽子の縁の辺りを切った男だったと思う。ベンチに腰掛けて、ぱちんと鳴った指に、ふわりと切れた帽子の縁、しかし村雨は実に鷹揚に肩を竦めてみせただけだ。隣の女も不思議そうに切れた縁を見ていたが、村雨の態度にふわりと笑って腕を巻き付けた。
男なら、理想とする男女関係の一つだろう。ヒィッツカラルドもその意見には賛成だが、確か彼には可愛い娘が居た筈だ。こんな艶やかさはないが、可愛い、彼の命よりも随分と、随分と大事にしていた筈の娘が。
「伊達男、あのお嬢ちゃんはどうしたんだい?」
「あの女の人、誰?」
「健二さんに否定されたのよ」
銀鈴はそう言って机に突っ伏したままだった。
「『誰の事だい』ですって!」
無論、その衝撃発言に、伊達男ヒィッツカラルドが裏を取らない筈もない。そして何気なく、実にさりげなく聞いて判明したのは、ヒィッツカラルドが村雨を見かけたその日に、彼は銀鈴には会わなかったという驚愕の事実だった。幾ら棟が違うといっても同じ病院の中の事、まして村雨は滅多に北京に来ることもない、ならば入院している恋人の銀鈴に顔を合わせるぐらいはするべきだが、それすらしなかった。
ヒィッツカラルドは、聞いて、後悔したそうだ。
それが元で、銀鈴は村雨に詰め寄る事になった。銀鈴だって何人からか話は聞いていて、格別に目立つ美人と、その隣に佇む男の事を知っていた……だから口にしたのだ。
「あの女の人、誰?」
銀鈴はそれ以上、何も言わずに突っ伏していた。ぐずぐずと泣いているのが誰にでも分かる。
せっかく会えたのが一時間前だ。本当はデートをする予定で、余所行きの服も用意していた……ここに来る予定だった。呆れた様に『違う』と言ってくれたらと期待して、期待して、どうしようもない位期待していた。こんなに願ったのは初めてじゃないかと思うぐらい、名もないものにも神様にも願った。
「そう言ったら……『お前には関係ない』ですって……」
もう別れる寸前みたい、と銀鈴は不意に泣きやんで笑おうとした。今更ながら、流石に年下のサニーの前で泣くのは恥ずかしいと感じたらしいが、それでもはれぼったい、赤い目が治るわけでもない。サニーの心配そうな顔に、何とか奥歯を食いしばって、でも保護者譲りの涙腺はあっさり決壊してしまった。
「……やっぱり、消えちゃう女なんか、イヤなのかなぁ……」
だってあの時、胴体だって半分無かったし、皆凄く動揺していて、しごく普通だったのは呉先生ぐらいだもの、と袖の所で涙や鼻の辺りを拭う銀鈴に、ぽんぽんと楊志が頭を撫でてやる。
「アタシだったら、イヤだとは思わないね」
「私もです」
珍しくサニーが鋭い声をあげた。楊志や銀鈴が見るに、サニーは小さい頃に騒いだ事が無い子供独特の静けさを持っているのだが、今のサニーは本当に珍しく、熱っぽい声を出していた。
「好きだったら、絶対に探してくれますもの、どんな形でも」
楊志と銀鈴は顔を見合わせて、それから何故か笑いがこみ上げてきた。サニーの初恋の人はきっと、幼い彼女を何処かから捜してくれた人なのだろうと知れると、他人の事なのに酷く好ましく思えた。
「でもまぁ、酷いもんだよね」
楊志から見て、村雨は情を寄せれば普段通りの薄情とは言い難い人物だと思っていたのだが、まさか銀鈴にそういった言葉を投げかけるとは思わなかった。銀鈴はおそらく唯一、あの死ねない体質に心からの悲しみを覚えた女性だ。そんな得難い存在に対して、いささか酷い仕打ちじゃないかと思いながらも、楊志はにぃと笑って銀鈴の額を突いた。
「いっそ、あんな男なんか捨てて、初恋の人に鞍替えしちまうのもいいんじゃないかい」
悲しむばかりが能じゃないだろう、と笑うと、銀鈴は今度は顔を真っ赤にした。サニーも一瞬だけ『初恋の人』を思いだして、微かに頬に熱を感じた。サニーの方はともかくとして、銀鈴の方は大体の想像が付く。
「だって」
『あの人』ならきっと、全部丸ごと受けとってくれるさ、と笑う楊志に、銀鈴は微かに首を振った。目は真っ赤だし未だに気分はぐちゃぐちゃだが、それでも首はちゃんと横に振った。
「でも、私は健二さんが好きなの」
難しいなぁ、とサニーは頭の中で処理出来ないまま、話を聞いていた。
「で」
呉学人を侮ると痛い目にあう。
無論、村雨は痛い程知っている。石の様に黙り込んでしまった銀鈴の気持ちが想像に難くない様に。それでも『関わりのない』事だと言い切ったし、そもそもにして関わって貰っては困る。関わらなければいっそ、怒っても泣いても、自分を嫌ってすらいいのだが、この男に悟られるのだけは困る。
「どういう事なんでしょうか?」
理論的な事をしているのだと分かっても、本能的に村雨の背中に冷たい汗が流れた。無論、呉に何事かがあったら隣室からビッグバンパンチが飛んで来るという事も含めて色々だ。皆は大概ビッグバンパンチを怖がるが、村雨としては他称舅自身も結構恐い。なにせ少女一人の幸せの為に、人類的な秘密をひた隠しにしていた男だ。本人に自覚はないが、一端舅として考えるだすとともかく恐い。
「何、アンタも知っていての事だろうと思ってね」
村雨は冷や汗を隠しながら、出来るだけシニカルな表情を浮かべた。
「BF団はともかく、案外小さな組織共が、テレポート能力の持ち主を捜していてな」
呉はその言葉に顔色を失った……聖アーバーエーの件の詳細はひた隠しにされているが、詳細を知っている者は知っている。無論、アーバーエーの崩壊の大原因は大怪球なのだが、相応の筋では別の話も出ている。
曰く、何者かが山一つを移動させて、あの辺りを崩壊させた、と。その能力は、誰もが欲しがっているテレポてーションだとも察している。
「で、ついにここまでふらっと来たワケだ」
あの件は国警もしくはBF団に関係在り、と睨んだのだろう。エマニエルが又変な気をおこさないといいけれども、とぼんやり考える呉に、村雨は大きくため息をついた。
「でだ、スパイを見付けて、懇ろにお付き合いしていた訳だ」
今頃はすっかり記憶を失っている筈だぜ、と笑う村雨に、呉は何処か表情のない顔を向けた。
「……村雨君、何処なんですか?」
「何処?」
何の事だ、と村雨は首をかしげた。相手の組織については幾らか調べたが、国警であれば問題にならない程度の大きさだった。銀鈴の体調が戻れば、むざむざ捕まる相手でもない。しかし出来るならば杞憂は知らぬ方がいいに違いない。
「その組織は、何という名前ですか?」
呉はことんと首をかしげたが、何故かそこにはいつもと違い、一切の感情が見えなかった……何となく、最悪の状況を予想しながら、村雨は他人事の様に告げた。
「ああ、知ってるさ。しかし先生がどうするって言うんだい」
「健二さん」
今日は銀鈴がべったりと側にいる。相変わらず視線は合わせていないが、随分と幸せな事だ。わざわざ北京支部から仕事の関係で呼び出しがあって来たのだが、結局大した話でもなく、こうして銀鈴と、堂々と出会っている。ヘタに村雨がこちら側の人間と知れれば、銀鈴の身も危険だが、今回は特別だ。
なにせ件の犯罪組織はこの一週間で消滅した。おそらく、跡形無く、手法自体も相当厳しいものだ。あのフォーグラーの助手が何をしたか、さもありなん……『三大軍師には勝てませんが、私だって北京支部の軍師なのですから』とは良く言ったものだ、謙遜もいいところだ。
「今日は居てくれるの?」
「ああ」
抱きつく銀鈴に、何故か村雨は小さな息を吐いた。
イギリス、ロンドン。
ヨーロッパで尤も人口密度が高いと言われる都市は、それでも郊外へ行くにつれ人と家の密集率を下げていく。中心地から南下する事車でおよそ、三十分。点在する家屋敷の一つに、十八世紀中頃に建てられたと思しき貴族の館があった。普段は静かに佇む破風のある館は現在、多くの客の訪れにより賑やかな活気を得ている。客の半数は若者で、館の次期当主の友人達である。
「しかしアーサー、名うての遊び人も遂に年貢の納め時だな。噂では全てのガール・フレンドとの仲を清算したそうだが、本当かね?一人二人は残しているのではあるまいな」
「真逆!今の僕は本当にエリー一筋なんだぜ?過去は過去、これからはこれからって事で彼女も納得してくれている。だから要らぬ邪推で僕らの仲を引き裂こうとしても無駄だぞ、アンソニー」
「それはそれは……しかし、気になるのは君のハートを射止めた麗しのレディがご尊顔さ。ミス・ウォーレンの名前だけは予々聞いているが、誰も君の婚約者を直接知っている人間がいないからね。一体どれ程の美人なのか、早く僕らにも拝ませてくれ」
「冗談じゃない。君らの様な女たらしに紹介したら最後、折角の僕の愛しい人を奪われてしまうではないか……まあ、残念ながら、どちらにしてもお披露目は暫しお預けさ。トラブルに巻き込まれれたとかでね、到着が遅れると連絡があった。もう暫くは辛抱してもらうよ」
友人に囲まれて次期当主は、如何にも幸せそうな顔で祝辞を受けている。その様子をやや離れた場所から観察する影が、一つ。
客の殆どがタキシードでイギリス人である中、白いクフィーヤに金色のイガールを嵌めたアラブ風の男は、明らかな異彩を放っていた。にも関わらず、この場にいる事が当然といった態度で溶け込んでいる。
(これから始まる宴に、彼は一体どの様な顔をしてくれるだろうね)
『眩惑のセルバンテス』が表の顔において多少の関わり合いのあるイギリス貴族の、その息子の公約披露パーティは冗長で、退屈であった。欠伸を噛み殺しながらセルバンテスは、今回の任務における最後の仕事を決行する時刻を待つ。セルバンテスは薄い笑みを口の端に浮かべながら、パーティーの客達と談笑を交わし合う。
(どう転んでも、結果、この屋敷は一時間も待たず跡形も無く消え去る)
相手との会話を楽しんでいる風に見せ掛けながら、セルバンテスは窓の外をちらりと見遣る。
窓の外遠く、広がる緑豊かな公園の向こう。遠くに見えるテムズ川の水面は灰色の空を映しとり、沈んだ暗い色をしていた。
その半日前、霧が街を覆う朝。
ロンドン市内。
テムズ川の辺り、チャリング・クロス駅に程近い小道を貴族らしき男が供も連れず歩いている。紅玉色の双眸の、どことなくオリエンタルな雰囲気を纏う黒髪の男は、迷いの無い足取りで目的地へと向かっていった。
やがて男は、立ち並ぶ建物の中に隠れる様にして建っている、こじんまりとした教会の前で足を止める。
男は、『衝撃のアルベルト』は教会を見上げながら、懐から葉巻を取り出し銜える。
比較的新しい作りの-とはいえ十九世紀中頃の様式だー教会は、存在を強く主張するでなく背の高い建物と建物の間に埋もれていた。観光地化されていない、地元民の為の教会である。
白塗りの木製ドアのノブに手を掛け、開ける。
蝶番の軋む音を静寂に包まれた建物の中に響かせ、アルベルトは戸を閉める事もせずに真っ直ぐと中へ入っていく。照明が点いていない為、そして外の天候の悪さと立地の悪さも手伝ってか内部は殆ど日が射さず薄暗い。ただ、入り口から見て正面にはめ込まれたステンドグラスから、微かな光が照らしているだけである。聖母の姿を描いた、色とりどりのガラスから射し込む光を受けながら、祭壇に祈りを捧げる尼僧の姿がある。
「ここは神への祈りを捧げる場所。タバコは、お控えくださいませ」
葉巻の煙を漂わせながら近付いてくるアルベルトに、尼僧はそう告げた。ゆっくりとした仕草で立ち上がり振り返るも、目元は頭巾に隠れ見えない。両手で持ったクルスを胸に掲げ、尼僧は赤やオレンジの光を浴び、静かに淡い薔薇色の唇を微笑ませる。
「お見受けしました所、信者の方では無いご様子ですが……当教会には、どういった御用向きでしょうか?」
「メアリ・カーターだな?」
女の言葉を無視し、アルベルトは白煙を吐き出す。
「人民解放運動組織『小さな黒い羊』ロンドン支部実動部隊チーフ、『劫火のメアリ』に相違ないな」
「……何の、事でしょうか」
一瞬。尼僧、否、女の口元が強張る。
「どなたか、どなたか別の方とお間違えではございませんか?」
「儂と共に来てもらおう。無論、お前に拒否権は無い。質問も同様受け付けぬ」
「意味が……訳が、分かりません。私は、ただの無力な神の僕の一人にすぎません」
「つまり」
声を擦れさせ戸惑う尼僧姿を意に解する事も無く、アルベルトは葉巻をくわえたまま右手を女の背後にあるステンドグラスの下、壁にかけられた十字架へ向け突き出す。
「逆らうならば、こうだ」
アルベルトの言葉が終わるよりも早く、その掌から生じた衝撃波が教会の壁とキリストの首から上が粉微塵に砕く。砕かれた色鮮やかなガラス片が光の反射を微かに受けながら宙を舞い、十字架はT字型、ギリシア十字の形となり床に鈍い音を立て落下する。
アルベルトは重ね、宣告する。
「抵抗するだけ時間の無駄と知るが良い。そして儂は気が長く出来てはいない」
「何という……何という、神を恐れぬ行い……」
後ろを振り返った女は、それでもまだ尼僧めいた口調で十字を切る仕草をする。その、右手が銀色のクルスを握っている。
「貴方には、必ずや天罰が下りましょう……今、この時この場所で!」
アルベルトが動くのと同時に、女は手の中のクルスの、クルスに似た何かのスイッチを押す。
爆音の後、建物は原形を留めず崩れ落ちた。
正午よりも少し前。明かりの無い暗い廃屋の二階にて、窓辺に立つセルバンテスは見知った気配を感じ、視線を窓の外の景色から気配の方へと動かす。
「待たせたな」
「何、大して待っちゃいない。それよりも、その格好はどうしたんだアルベルト?折角の男前が台無しでは無いか」
暗がりの中から姿を現したアルベルトは、腕の中の荷をセルバンテスの足下へと転がし僅かに口の端を持ち上げ「少しな」と言った。
セルバンテスの言葉が示す通り、アルベルトの姿はあまり上等とは言い難い物がある。スーツはあちらこちらと破け汚れており、革製の靴もまた同じく擦り傷だらけ。常にきっちりとセットされている髪型も、数本が解れ額に掛かっている。
「真逆、衝撃のアルベルトともあろう者がテロリスト如きに後れをとった、などと言うのでは無かろうな」
「当たり前だ。この女、儂から逃げようと根城の教会を前もって仕込んであった火薬で爆破させたが、それだけだ。問題はその後、国際警察機構がしゃしゃり出て来た事よ……殆どが雑魚で儂の敵ではなかったが、中に多少骨のあるのがいてな。撒いて来た」
「成る程。矢張り連中も静観に徹しはしない、か」
「要らぬ荷さえ無ければ、撤退などせずに済んだのだがな」
「それは残念」
くくく、と低く笑いながらセルバンテスは足下に転がされた女の頭を鷲掴み、顔を無理矢理持ち上げる。意識を失っている女は、それに抗う事も出来ずされるがままになっている。煤に汚れた人形めいていた美しい顔に、軽くウェーブの掛かった乱れた長い黒髪が頭巾の中から零れはらりと落ちる。
「さて、爆破魔で放火魔の素敵なレディにおいで頂いた訳だが……本当に、孔明が言う通りこれが高名なる占い姫に繋がっているのかねえ」
「ふん。ならねば儂らの仕事にならん……そろそろ行くぞ。儂は、連中の目を引き付けておかねばならん」
「頼んだぞ、アルベルト……こちらの片が付き次第、迎えに行こう」
「抜かせ、セルバンテス。お前抜きでも連中を片を付けるは雑作も無い」
ニタリ、と笑うアルベルトに応え、「そうだろうさ」と目を細め笑い声を上げる。
セルバンテスが女から手を放し芝居じみた所作にて立ち上がれば、クフィーヤの裾が優雅に翻る。
「では……全ては我らのビック・ファイアの為」
「我らのビック・ファイアの為」
アルベルトが再び闇の向こうへ去る姿を見届け、セルバンテスは、女を担ぎ……闇夜に、紛れた。
重くたれ込める雲に遮られ未だ日が射し込まぬ、暗い午後。ロンドンの街は、深い霧に包まれたまま灰色の世界に沈んでいた。休日を楽しむ人々が多く街に集まるその時間、ハイド・パークの近くナイツブリッジ区の一角から爆音と共に煙が上がる。有り触れた日曜の午後を掻き乱す破壊を引き起こす張本人達は、僅かずつではあるがその破壊活動を南へと移動させていた。
破壊者の一人は、アルベルト。そして、残るは。
「その首、貰い受けるぞ十傑集!!!」
「ふん!貴様如きにくれてやる程、この首、安くは無いわ!」
霧の中より現れた、時代錯誤な鎧兜に身を包み剣を手に携えた男がアルベルトへと斬り掛かる。精悍な顔つきの男の名は、『鎮三山の黄信』。 国際警察機構に所属を連ねる者である。その黄信が矢継ぎ早に繰り出す一撃必殺の威力を持つ剣技を、アルベルトは全て紙一重に避けながら反撃のチャンスを窺う。が、アルベルトが攻撃を仕掛けようとする度、黄信の攻撃の隙間から幾筋もの矢が飛来しそれを阻む。
「衝撃の!貴様の得意は撃たせはせん!」
弓を構え、鏃を番え、射する男の姿があるはアルベルトの背後。弓矢と言う長距離向きの武器を用いながらも、両の後ろ髪の端をピンと立たせ男は、攻撃の手を休める事無くアルベルトに付かず離れず至近距離からアルベルトを狙う。黄信が相棒『小李広の花栄』の放つ矢が、アルベルトを狙い定め離さない。どちらか片方のみを相手にしていては、埒が明かない。
「小賢しいぞ、鎮三山に小李広!!」
避けきれぬのなら、両方を薙ぎ倒してしまえば良い。多少の攻撃をものともせず、アルベルトは両手に気合いを溜める。
「くらえッ!!!」
渾身の力を込めた衝撃波が、矢を吹き飛ばす。そして、衝撃波に怯む事無く剣を突き出す黄信の腕へアルベルトの蹴りが入る。
「なんの、これしき!!」
攻撃が効いていない事はあるまいが、黄信は剣を取り落とさずそのまま勢い良くアルベルトの脳天へと振り落とさんとした。瞬間、アルベルトは剣を避けようとした、のだが。
「花栄!」
「応よ!」
即座に、花栄の攻撃が黄信の頭部をギリギリ避け飛び来る。剣の切っ先が口に銜えた葉巻の先端を切り落とし、弧を描き飛来した矢が左上腕部に刺さる。と、同時にアルベルトの衝撃波が黄信を吹き飛ばし、後方の花栄にぶつかる。
「死ねい!!」
空かさずアルベルトは両手をもって更なる衝撃波を出さんとするが、左腕に受けた傷に一瞬気を取られた隙に指南が二人は左右に別れアルベルトを狙う。花栄が射かける矢の雨は、下段の構えからアルベルトへと斬り上げてくる黄信には一本たりとも当たらない。ただ、アルベルトのみを正確に狙い二人の攻撃は繰り出される。
気が付けば、アルベルトはテムズ川を背に立っていた。追いつめられた気は毛頭無い。しかし、その場に新たに現れた気配は、偶然とは思えぬタイミングで頭上から降って来た。
「済まぬ、遅れた」
「師匠!」
新手の男は、黄信花栄の前に降り立ち、先端に無数の刺がある鉄の塊を付けた棒を手に構える。元は白かったらしい、所々に綻びの見えるマントを翻し、男は仁王立ちにアルベルトを見据える。
対峙しただけで分かる。この男は、強い。アルベルトと互角に渡り合える程に。
火の消えた中途半端な長さの葉巻を口から勢い良く吐き飛ばす。そのアルベルトの口元に、知らず笑みが浮かぶ。
「十傑集、衝撃のアルベルト……覚悟せよ。そして今日という日が貴様が命日と知れ」
「その台詞、そっくりそのまま貴様に返すぞ。九大天王、霹靂火の秦明!」
次の瞬間、テムズの流れが真っ二つに割れた。
そして時間は、冒頭部へ繋がる。
セルバンテスはちらり、と時計を見遣れば針は六時十五分前を指している。
(そろそろ、か)
「少しばかり、失礼させて頂きますぞ」
会話の相手に断りを入れ、セルバンテスは場を辞す。部屋を立ち去り際、忘れずに婚約披露パーティの主役に一言耳打ちをする。
「……………………」
幸福だった筈の男の顔が色を無くし、硬直する。
見る間に様子を変えた次期当主に、群がる友人達が怪しみセルバンテスに不審の視線を送る。視線を背に受け、セルバンテスは部屋を出る。
歩く廊下の途中で、セルバンテスは『オイル・ダラー』から『眩惑のセルバンテス』へと自らを完全に切り替える。ゴーグルを掛け、不遜な顔を露にし自らに宛てがわれた客室の中へ足を踏み入れる。
ゴシック調に設えた部屋の中央の天蓋付きのベットの上には、黒いスパッツに白いシャツを纏った二十代後半頃の女が腰掛けていた。女は険のある目付きでセルバンテスを正面から睨みつけ、口を一文字に結んでいる。
「ミス・ウォーレン、お初にお目に掛かる……ご機嫌は如何かね?」
「最悪よ」
きっぱりと言い切り、女は肩に掛かったライトブラウンの長い髪を左手で払いながら立ち上がる。右手は、鎖によってベットの支柱の一つに繋がれており、鎖の長さが及ぶ範疇までしか女は移動する事は出来ない。その鎖の長さは、勿論、室内を自由に歩き回れる程もありはしない。
「こんな事をしなくても、私は逃げも隠れもしない」
「それは殊勝な心掛けだ。私は潔い女は嫌いじゃあない。しかし、だね。万が一という事もあったのでね、少々の我慢をして頂いた」
「一つだけ、聞かせて。貴方達、BF団はどこまでエレナの事を、私達の事を知っているのかしら?真逆、エレナの占いだけが貴方達の脅威になった訳では無いのでしょう?」
「さあて、ね。これから死に逝く者に、質問の答は不要だろう?私は、優しくは無いのでね。冥土の土産をくれてはやらぬのだよ……まあ、そんな事はどうでも良い。兎も角、占い姫に会わせてもらえないかね?それが私の仕事の一つなのだから。君がそれを拒否する事は無いとは思うがね、拒んだ時にどうなるかだけは一応言っておこう」
鎖が擦れる音が、室内に小さく響く。
「『ゴードン男爵別荘「三破風館」、テロの標的にあい倒壊。男爵と次期当主アーサーは共に死亡。犯人は、婚約者のエリザベス・ウォーレン』……という記事が明日、ロンドン中の新聞の一面を飾る、とね」
「陳腐な脅し文句だこと。とてもBF団、十傑集とは思えないわ」
「相手を脅すにはね、分かり易いまでに単純な方が効果的だ」
「そうでしょうね。でもね、私にその脅しは無意味よ。だって、あんな男の命なんてどうでもいいもの……彼との婚約は全てエレナの指示、私を囮に貴方達をおびき寄せる。エレナと私の接点、私とメアリの接点。僅かに匂わせたその情報に、BF団の策士は必ずエレナの正体を看破すると、そして必ず接触を計ってくるだろうと……策謀を張り巡らせるのは、貴方達だけの専売特許では無いのよ」
女は、挑戦的な眼差しでセルバンテスを見据える。チョコレート色の瞳に、暗い炎が灯る。
「そう。全てはBF団を葬る為。私、いえ、私達は世界の破壊者である貴方達を憎悪する者……復讐者の一人、よ」
「それはそれは。実に陳腐な、ありふれた理由だ」
「復讐の理由は、大方、分かり易いまでに単純なものだわ」
女の目の色が、喋っている間に変わって行く。明るい茶の色から黄色、黄金、そして最後に銀色に。髪の色もまた同様で、何時の間にか柔らかい光沢を放つ蜜色へと変じている。
「エレナに、会いなさい。貴方の望み通りにね」
顔立ちが、身体付きが。女のそれが見る間に別の者へと変化して行く。6フィート(180センチ前後)近くあった筈の女の身長は1フィートも縮み、魅惑的な身体特徴も今や凹凸をすっかりと無くしている。今や、セルバンテスの目の前にいるのは先程までの女とは別人の、十四五歳の少女であった。ビスク・ドールにも似た、愛らしい顔立ちに軽くウェブした髪、ローズ・ピンクのリボンと揃いの色のドレス。透き通りそうなまでに色の白い手に掛かっていた無骨な鉄製の手鎖は、大きさが合わなくなった故に音を立て床に滑り落ちる。
少女は転がした鈴に似た声を無感情に発する。
「お初にお目に掛かる」
「君が、占い姫……メアリ・カーター、エリザベス・ウォーレン、アン・クリスティの名を持つ者か。いやはや。幾つもの隠れ蓑の中に身を隠し、決して表に本体の姿を見せはしない。これでは、中々見付けられない筈だ。誰も所在を知らぬ希代の占い姫に、この様な変身能力があるとは、確かに誰も思いはすまい」
「イヴ・ハドソンが抜けている……が、確かに。我はその名で呼ばれし者。世に、占いの姫と知られし者。どこにも、存在しない者」
赤い靴が、一歩、また一歩とセルバンテスへと歩み近付く。
セルバンテスへ歩み寄る少女の、蜜色の髪がふわり、と舞い上がる。白銀色の瞳に強い意志の光を宿し、『占い姫』は凛とした態度でセルバンテスに対峙する。
ヨーロッパ、特にイギリスはロンドンにて高名の占い姫、エレナ。
素性、国籍、人となりの一切が含めて謎に包まれた、神秘の姫君。
BF団にとって、国際警察機構と手を組まれては一番厄介な人物。
『空ろの占い姫・エレナ』。
少女は、堂々たる態度で感情の浮かばぬ幼い顔をセルバンテスへと向けている。
「我が名はエレナ。BF団に全てを奪われた女達を身に抱えし者。復讐の代行者……眩惑のセルバンテス、まずは貴公が命、貰い受ける」
「おやおや。これではすっかりと立ち場が逆だ。しかし、君に何が出来るというのかね。私を葬る方法を、得意の占いで知ったとでも言うのかい」
くっ、と喉を鳴らし、セルバンテスは懐から拳銃を取り出す。1980年代後半に製造されたドイツ製の自動拳銃は、テロリストの女が所有していた物の一つだ。その銃口を、エレナの額に突き付ける。
「これも君の予測の範疇かい、占い姫」
突き付けられた拳銃に怯えもせず、エレナは無表情にセルバンテスを見上げている。
「現在」
エレナは淡々と、外見にそぐわぬ年寄りじみた物言いにて言葉を繋ぐ。
「貴公が盟友、衝撃のアルベルトは国際警察機構と交戦中なのは知っておろう」
「うん?それがどうしたのかね?」
「相手は国際警察機構が指南、鎮三山の黄信に小李広の花栄。十傑集ならば、後れをとる相手では無い。しかし、そこに九大天王が加わったならば、如何かな?」
「何?」
「昨日、メアリが衝撃のアルベルトに捕われる直前、我が名において梁山泊に情報を流した。韓信元帥へ直接に此度の貴公らの行動を予測も含め全て、な。丁度一人、九大天王がヨーロッパに来ていたらしい。今日の朝着でこちらへ遣わすと言うておった」
そこで、エレナは言葉を切りる。 セルバンテスもエレナも、微動だにする事も無く二人の間に沈黙が訪れる。
(成る程。今回のアルベルトと私の配置、孔明め九大天王が来ると分かっていた上での事か。まあいい。此度の作戦、どの様な裏を隠しているかは知らんが……ビック・ファイア様が為というならば、精々景気良く踊ってやろうじゃないか)
セルバンテスはそして、たっぷりの自信と共に言葉を紡ぐ。
「アルベルトは強い。指南だろうが九大天王だろうが、何人が束になってかかっても彼を止める事は出来んよ。そう、我らがビッグ・ファイア様でも無い限り……そして無論、この私とて女一人に容易く殺されはしない。さあ、占い姫。その細腕で、どうやって私を殺すかね?」
「選り取り見取り、幾らでも」
「冗談にしては気が利いている、とは言い兼ねるな。ほんの少しばかり未来が読める、姿を自在に変化させる程度の能力でこの私が倒せると言うのかね?確かに、私にはアルベルト程の攻撃力は無い。しかしだな、占い姫」
そこまで余裕と不敵の笑みを浮かべ続けていたセルバンテスが、顔から表情をふっと消し言葉を途中で止める。そして次の瞬間、セルバンテスの激昂がエレナへ向け放たれる。
「十傑集を、眩惑のセルバンテスを甘く見ないで頂こうか!!!」
「笑止」
動く、二人。
そして、火薬の炸裂する音が、館内に響き渡った。
同時刻、テムズ川はバターシ区側辺り。
「おのれ、霹靂火!!」
「衝撃、貴様をこの先へは行かせはせぬぞ!!」
アルベルトの攻撃を去なしながら、男、『霹靂火の秦明』が手に握った狼砕棒を繰り出す。棒の先端の刺がアルベルトの身体に一つ、二つ、傷を増やしていく。対するアルベルトの衝撃波は建物を破壊し地面を梳るも、秦明に致命傷どころか殆どといっていい程にダメージを与えるには至っていない。
(チィッ……)
九大天王。国際警察機構において十傑集と互角に闘える、唯一の存在。
それでも、僅かにアルベルトが押され気味なのはどうした事か。まるでアルベルトの手の内を知り尽くしているかの様に、攻撃を見透かされる。
それ故に、秦明の指示で占い姫の元へ向かう黄信花栄の二人をアルベルトは阻む事が出来無かった。斯くなる上は、目の前の敵を早々に打ち倒し二人の後を追わねばならない……のだが。拳と棒の応酬は、未だ終わる兆候を見せない。
秦明の腹部を、首を、そして頭をアルベルトの手刀及び拳が狙い、繰り出される。攻撃の幾つかは、当たっている。しかし、秦明が身体を僅かに反らしアルベルトの攻撃の勢いを殺す為、手応えは全く感じない。攻撃を先の先まで読めなければ、出来はしない芸当だ。
右の蹴りを難なく躱し、秦明はアルベルトの背後を取る。
「衝撃のアルベルト、何故は知らぬが貴様は我弟子の一人に闘い方が似ているな……お陰で非常に、遣り易い」
嘯く秦明の棒が、アルベルトの右肩を、左脇腹を、貫く。
「まあ、貴様と違い山の野猿も同然の男だが」
「この儂を、野猿と一緒にするかアッ!!!」
後方へ飛び退いて一端秦明から距離を取り、アルベルトが吼える。同時に、両手から渾身の力を込めた衝撃波を撃つ。秦明は向かい来る衝撃波に微動だにもせず、剣を構える。
「はァッ!!!」
大地に突き立てられた棒の先端から生じた雷光の一筋が、衝撃波を切り裂きながら走りアルベルトへと走り来る。
「させるか!!!」
アルベルトが右手を、雷に、衝撃波を集中させる。
アルベルトと秦明の間で衝撃と雷がぶつかり合い、火花が激しく散った。
「アハハハハッ!!!他愛無いわね、BF団!この程度でもう終わり!?」
爆風と粉塵の舞う室内、修道服を纏った黒髪の女が無反動砲の砲身を肩に担ぎ洪笑を響かせる。
「やれやれ。パンツァーファウストを担いで高笑いとは。随分、大したシスターだな……『劫火のメアリ』の名は伊達では無いと、そう言う事か」
「地獄へ堕ちなさい!!!」
セルバンテスに照準を合わせ、マッド・シスターは先程と同じに無反動砲の引き金を引く。響いた爆音は、発射砲から弾頭が飛び出した時が一つと、弾頭が部屋の壁に着弾し破裂した時の二つ。だが、その間隔の短さに間近にいた人間はその轟音の凄まじさ故、二つの区別を付ける事は出来なかっただろう。
「とんだじゃじゃ馬娘だな……アルベルト程じゃあ無いがね」
半壊した館の瓦礫の上に立ち、セルバンテスはクフィーヤの裾を大仰な仕草で翻す。女は、矢張り無傷で瓦礫の上に立っている。発射砲をぞんざいに投げ捨て、スカートの内側から取り出したサブ・マシンガンとハンドガンを両手に構える女に、セルバンテスは嘲笑を浴びせかける。
その時。
二つの影が現れ、セルバンテスを牽制する様に女の右に左に降り立った。
「お待たせ致した、占い姫殿」
「後は我らに任されよ……って、何だあ、こりゃ。ひっでえ有様だな」
二人の闖入者が、素っ頓狂な声を上げる。守るべき相手が率先して周囲を破壊し暴れているのだから、無理も無い。二人の男、黄信に花栄は辺りの状態を見回しながら困惑の表情を浮かべている。
「これは、あの男の所行ですかな。それとも、貴女の仕業か」
「それが何か」
黄信の詰問に、女は素っ気ない態度を取る。女の顔は不機嫌さに歪み、目には憎しみの色が滲んでいる。が、二人の一歩後ろにいる女の表情を黄信も花栄も見てはいなかった。だから、両手の獲物を女が自分に向けられている事に露程も気が付かず、花栄は呆れ混じりの声色で肩を竦める。
「聞いてた話と随分違う姫さんだな、アンタ。派手にぶっ放してよォ……これじゃまるでテロリストだァな」
「大当たりだよ、国際警察機構諸君。彼女は彼の悪名高き『劫火のメアリ』その人さ」
「嘘を申せ!貴様が世迷い言、耳を貸す我らと思うたか!!」
「全く……しかし、この状況的には灰色もいい所だ……なぁ、姫さん。どうなんだ?」
セルバンテスの言葉に、黄信が眉間に皺を寄せ花栄が目を剥き振り返る。しかしながら、時既に遅し。女がサブ・マシンガンのトリガーを引いた。国際警察機構も、真逆味方に攻撃されるとは思わなかったのだろう。背後からの攻撃に、なす術も無く崩れ落ちる。
「くっ……真逆」
「マジ……かよ」
「エレナは、貴方達が言う所の占い姫が言う事には、国際警察機構がいれば万が一にもしくじらず十傑集を倒せるだろう、って言ってたけど。悪いわね、私はBF団の次に国際警察機構は大嫌いなの。だから、暫くそこで大人しくしていてくれる?あのオジサンを始末したら、じっくり念入りに爆殺したげるから」
黄信の頭を兜越しに踏み付け、女は更に追加の鉛を数発両手両腕両足に満遍なくくれてやる。
「黄信!テメエ、よくも……クッ」
等しく、花栄にも同様に弾丸を打ち込み動きを奪い、女はサディスティックな笑みを満面に浮かべる。そして黄信を足蹴にしたままセルバンテスの方を向き直る。
「お待たせ。殺し合いを再開しましょうか?」
「ハーッハッハッハ!!こいつは愉快だ。連中も折角、アルベルトを振り切ってここまで来たというのに、守る相手に倒されていては世話が無いな、全く!……さて、レディ。女の相手は気が進まぬが、何、これもビック・ファイアの為だ。君の中身、次いでに足下も連中も全員、きっちりまとめて死んでもらおう」
空々しい口上を述べた後、セルバンテスは拳銃を構え女へ向け銃弾を撃ち込む。同時に、女の手の中の銃火器も一斉に火を噴かせる。雨に霰と降り注ぐ弾丸を、避ける必要も無しとばかりにセルバンテスは女へ向けて突っ込んで行く。
「ベス!!!」
黒髪の女が声を上げると、セルバンテスがその懐へ飛び込む寸前に姿はエリザベス・ウォーレンと呼ばれる女へと変じる。先程、セルバンテスがエレナに銃口を突き付けていた時と同じだ。あの時もエレナからメアリ・カーターへと瞬時に姿を変え、セルバンテスに反撃したのだ。
女は、キツい眼差しでセルバンテスを睨む。
「その手に、掴まりはしないわ」
ライトブラウンの長い髪が宙で跳ねた、と思うよりも速く、女の左手はセルバンテスの右手首を掴み捻り上げる。そしてそのまま一本背負いで勢い良く投げ飛ばす。セルバンテスは空中で身体を捻り、地面に着地しようとするが寸前にて女が背後に回り込み、背中に掌底を打ち込んだ。
セルバンテスは倒れ込みそうになる身体を押さえ踏ん張るも、左膝が、砕けたコンクリートの上に付く。
「エレナの言う通り、多少のイレギュラーはあったけれど貴方なら何とか私たちでも倒せそうね」
「……先程も言ったが、私を甘く見るな。十傑集を、少々齧った程度の武術、多少の火薬で簡単に降せると思うな」
「そうね。私も別に貴方を侮っている訳では無いわ。ただ、ね。幾ら貴方でも、一対六で闘って生き延びるのは難しいでしょう?」
クス、と背後の女の声が笑う、表情は分からない。セルバンテスは左膝を付いた姿勢のまま、緩慢と顔を上げ視線を前へと向け、威風堂々宣言する。
「君らの占い姫の真似では無いが、私はここに予告しよう。この手の拳銃、カートリッジに残された弾丸の残りは後、四発。その弾が尽きるまでの間に、君は死ぬ、とね」
「……挑発のつもりかしら」
「いいや。事実だ!!」
拳銃を右手に握ったまま、セルバンテスの肘が後方へ飛ぶ。セルバンテスの攻撃を軽く避け、女は左足を振り上げる。ハイヒールの尖った踵部分が、セルバンテスの右肩に食い込む。女の攻撃に怯まず、セルバンテスは左手で女の左足首を掴む。
「ッァアッ!!!」
肉の、焼け焦げる臭いが辺りに立ちこめる。女の左足が僅かに宙に浮き、空かさず、セルバンテスの右手が女の心臓を狙いトリガーを引く。が、左足の激痛を堪え、女は刹那のタイミングで身を捩り弾丸を避け残る右足でセルバンテスの左腕を蹴り上げた。
「クッ……!」
「残り、三発」
両足を取られバランスを崩した女が、仰向けに倒れ込む。セルバンテスは無防備な女の右胸に、銃口を押し当てる。
「テメエが死ね!!」
ライトブラウンの長髪がボブ・カットの赤毛に変わり、新たな女が現れる。そして、赤毛女の投げたスローイング・ナイフが同じ軌道で二本ずつ、セルバンテスの眉間、喉、心臓を狙い飛来する。
「おっと、君はナイフ使いか。しかし、だね。レディがそんなはしたない口を利くものではない……品の無い女は、嫌いだな」
手の中の拳銃でナイフを弾き落とし、セルバンテスは悠然とした所作で立ち上がる。
地を転がりセルバンテスから距離を取る女の姿はキュロットにティーシャツとボーイッシュなもので、剥き出しの左足は何の跡も無く綺麗だ。先程セルバンテスがエリザベスと名乗る女に与えた火傷の跡は、微塵も残っていない。
新たな女は、不敵なまでに勝ち気な笑みを浮かべ、腰の後ろに装備していたナイフを抜き構える。途中で歪曲した形の刃渡7インチ程の、ククリと呼ばれるナイフだ。
「誰もテメエに好かれたいなんざ、思っちゃいないサ」
一発、二発。
セルバンテスの撃つ弾丸をナイフで弾き、赤毛の女はそのままセルバンテスに斬り掛かる。が、その動きに鋭さは無く、セルバンテスは余裕でその攻撃を躱しナイフを握る左手に手刀を入れる。ナイフは、重い音を立て瓦礫の上を転がり落ちる。
「止したまえ。君の腕では、私に擦り傷一つ付けられはしない……先程までの二人の方がまだ、多少の手応えがあった」
「それは光栄ね」
セルバンテスが女の手を掴むよりも速く、赤毛が、再びライトブラウンに変化する。そして一瞬の間に、女の両手がセルバンテスの首を掴み締め上げる。
「さよなら、眩惑のセルバンテス」
「それは、どう、かな」
女に首を絞められたまま、抵抗する素振りも見せずにセルバンテスはニタリと嗤う。
「チェック、メイトだ」
「この期に及んで何を言……う?」
セルバンテスの首を絞める女の手の力が緩み、その顔には驚愕の色が浮かぶ。女の脇腹は赤く染まり、背中側から突き抜けたナイフの刃先が僅かに覗いて見える。赤毛の女が使っていた、あのナイフだ。
女の背後には何時の間にか、蒼白い顔をしたタキシード姿の若い男が、へばりつく様にして立っていた。男の手の中には、今女の背に突き刺さっているナイフの柄が握られている。
「エリザベス……僕を裏切ったな、エリザベス」
「アー……サー……ッグ……な、ぜ」
「私とした事がすっかりと忘れていたよ。君の仮初めの婚約者を小道具の一つとして配しておいた、と君に告げておくのをね」
「眩惑、を」
「そう。それが私の名。忘れず、頭に刻み込んでおくが良い……どんな気分だい?偽りの婚約者に、刺し殺されるのは」
「嘘、吐き、ね」
セルバンテスの問い掛けには答えず、女は最後の力を振り絞って後ろの男を殴り倒し、血反吐を吐きながら非難の声を上げる。
「拳銃、の、弾で、私を……殺すの、ッ、では、無か、ったの……か、しら?」
「おやおや。君には文脈を読解する能力が無いのかね、エリザベス君。私は『この手の拳銃、カートリッジに残された弾丸の残りは後、四発。その弾が尽きるまでの間に、君は死ぬ』と言ったのだぞ?誰も、拳銃をもって君を殺すとは言っていない。そして、この中に弾丸はまだ残っていて、君は今まさに死なんとしている……何処にも間違いは無く、私の予告通りだろう?」
瓦礫の上に落ちている、先程弾き返したスローイング・ナイフの内の一本を拾い上げながら、セルバンテスは女の足に目を遣る。女の左足には、セルバンテスが掴んだ時の焼け爛れた跡があった。
(思った通り。中にいる他の女と変わったからと言って、怪我が治る訳では無い。一つの身体の中にありながら、全てを共有している訳でも無い。孔明が言っていた「肉体は容れ物に過ぎない」の言葉の意味が、漸く分かったよ)
口元が薄く、嗤う。
「さあ、他の女諸共に、死んで頂こうか」
「ッ……!!!卑怯、者……!!!」
大量の血を流しながら、それでも気力だけで立っている女の喉に、セルバンテスはナイフを突き立てる。女の姿が、見る間に別の女のものに変わって行く。黒髪で修道服の、テロリストの女に。
「私を倒そうと思うならば、耳は塞ぐべきだったな……私は眩惑のセルバンテス。言葉が、武器の一つなのだよ」
「お、のれェッ!!!」
そして、セルバンテスは女の背に刺さったままであったダガー・ナイフを力任せに抜き取り、女の首を再び掻き斬る。
姿が変わる度、三度。
女の流す血が、無機質なコンクリートを赤く、染めた。
「どうした、衝撃。手の内出し尽くしたか」
アルベルトと秦明の闘いは、小一時間程前から膠着状態に陥っていた。アルベルトの繰り出す衝撃波は秦明が雷撃に阻まれ、秦明が放つ雷撃もまた同様に衝撃波が打ち消す。その繰り返しが続き終わりを見せない為である。
「貴様に心配をされる程墜ちてはいないぞ、霹靂火」
口内に溜まった血を地面へ吐き飛ばし、アルベルトは胸ポケットのハンカチーフで口元を軽く拭く。
(キリが、無い……だが勝機は、ある)
考えながら、アルベルトは何度目になるか分からない攻撃を秦明に仕掛ける。幾度も幾度も仕掛けたアルベルトの攻撃は、徐々にではあるが秦明を押し始めている。その手応えを、アルベルトは感じていた。
秦明の攻撃はアルベルトと同じ、受け身に回らぬ積極的なもの。アルベルトの攻撃を、直線に直線を重ねた雷そのもののジグザグな動きで避け、棒をアルベルトへと打ってくる。秦明の狼砕棒による攻撃パターンは、突き、薙ぎ、そして打撃の三つ。棒という武器の性質上、初撃さえ崩せば脇に幾ばくかの隙が生まれる。そこが狙い目である事は、初めから解っていた。ただ、相手もそれを解っている故に中々狙えずにいただけの事。
(崩しに、行く)
「そろそろ、終わりにしよう」
「望む所よ」
勢いを付け、棒を片手で回転させながら秦明はジグザグの動きでアルベルトへ打ち込んでくる。その秦明の攻撃をギリギリの間合いで避け、アルベルトは棒の先端鉄の刺が付いた部分を躊躇いも無く握り掴む。棒を掴んだ血塗れの右手がその先端を砕き、左手が秦明の胴へと衝撃波をぶち込む。
「何のこれしき、怯むに足りず!!!」
短く、軽くなった棒を構え直し、秦明が傾きかけた形勢を押し戻さんと突きを乱打してくる。だが、若干の長さと重量、破壊力を欠いた狼砕棒は、本来の力を発揮しきれない。棒は、容易くアルベルトに蹴り上げられ、高く鈍色の空へと舞い上げられる。
「むうっ!?」
その舞上げられた棒を、霧の中から現れた白い影が宙で掴み、地に降りる。
新手を警戒し、秦明は飛び退きアルベルトから間合いを取る。
「貴様、眩惑か!!」
「ふふふ……迎えに来たぞ、アルベルト。遊び足りないだろうが、残念ながらそろそろ時間だ」
アルベルトの横に並び立ち、セルバンテスは薄く笑みを浮かべ手の中の棒をへし折り、捨てる。セルバンテスの姿を認めたアルベルトは、懐のケースから葉巻を取り出し、銜える。
「分かっておる……霹靂火、勝負は次までお預けだ」
火を点けた葉巻から紫煙が立ち上り、アルベルトの口から白煙が吐き出される。
「次が、あったならな」
「このまま逃がすと思うか、衝撃眩惑!!!」
「逃げる?違うな。目的を達し、この地にいる理由が無くなった為に帰還するのだよ。君は自分の部下の心配でもしているがいい。今頃、瓦礫の下で死にかけている筈だ」
セルバンテスの、クフィーヤの長い裾が翻ると同時に二人の姿が霧の中に溶け、その場から消えた。後には、強く奥歯を噛み締め険しい表情をした秦明だけが、残された。
ロンドンからの帰り、空の上にて。
セルバンテス所有のセスナ機は、ロンドンを出立し某所にあるBF団本拠地へと向かっていた。その機内、葉巻を吹かし一息吐くアルベルトの前に、セルバンテスは今回の仕事の成果を傍らから取り出し見せる。アルベルトはその品を見るなり瞳を数度瞬かせ、眉間に皺を寄せる。
「……この人形が、か?聞いていた話と違うな。今回の任務、占い姫の捕獲とその関係者の抹殺及び関連施設の破壊、では無かったのか」
「ああ。その通りだよ、アルベルト。正しく、もってその通り」
蜜色の長い髪に白銀の瞳、レースをたっぷりとに使用したローズ・ピンクのドレスを纏ったビスクドール。人形はあちらこちらと泥に埃にまみれ、顔には幾筋かのヒビが入っておりアンティーク・ドールとしての価値を下げている。しかしながらその姿は、先程までセルバンテスが相手にしていた占い姫のものそのままであった。
セルバンテスはクツクツと声を立て笑いながら、機内添乗員に飲み物を頼み不可解な物を見る目で人形を眺めるアルベルトに説明をする。
「これが、占い姫の正体。成れの果て、とも言えるがね……この中に四人の女が入っていたのさ。国際テロリスト、メアリ・カーター。上流貴族、エリザベス・ウォーレン。傭兵、アン・クリスティ。イギリス諜報部員、イヴ・ハドソン。いずれも、ここ数年の間にロンドンでBF団に始末された筈の女ばかりさ」
「回りくどい。説明をする気があるなら、簡潔かつ分かり易くしろ」
アルベルトの一睨みを軽く受け流し、セルバンテスは軽く肩をそびやかす。
「はいはい、分かった分かった……つまり、BF団に殺された恨み辛みの高じた女の幽霊が、この人形に取り憑いて復讐の機会を窺っていたって事さ。人形自体も、占い姫を名乗り自分の意志で動いて喋っていたが、あれは占いなんてものじゃない。あれはそう、どちらかと言えば情報の組み立てによる推理だな。私との会話の中でも、『らしい』、『だろう』と不確定な表現で先の予測を語っていた。彼女の先読みは全てが断言であり確定である、と謳われている占い姫がだぞ?怪訝いじゃないか」
「ふむ。それで、何だと言うのだ」
「だからね、人形はただ人形でしかなく人形以外に成り得ない、そう私は結論付けた。自分でまともにものを考える事の出来ない人形如き、妄執に囚われた亡霊に我らを振り回す事が出来る筈もない。黒幕はこれとは別にいる。そう、人形を操る、人形遣いがね……おっと、話が逸れたな、元に戻そう。黒幕たる人形は元々人の姿に似せて作られた物故古来から魂が宿り易い、と言われている。だからまあ、人形に取り憑いた幽霊が人の振りをするなんて事も、あるんだろうさ。おまけにこの人形本体も希少価値が付加しているアンティーク。それが自分の意志で動き喋る、ときた。今は、孔明から渡された樊瑞特製の札を貼っているからただの人形に見えるが、捕まえるまでの暴れぶりは中々見物だったぞ……そうそう、確か日本ではこういう物を、ツカ、いや、ツキ……違うな。そう、ツケモノカミ、と言うらしいな。随分前にレッドから聞いた事がある、気がする」
「ツケモノ?それは、野菜の発酵食品では無いか?」
「うん?……まあ、そんな事はどうでも良いじゃないか」
首を傾げるアルベルトの突っ込みを、セルバンテスは不確かな記憶を誤魔化す様に躱した。そして、添乗員の運んで来たブランデーのグラスを口に運び、僅か舌を潤した。
「しかし……幽霊、人形、人形遣い。非科学的な事この上無いもののオンパレードだな。幽霊などという存在、俄に信じる事は出来ん。第一、お前は人形が動いて喋ると言うが、それは人工知能を搭載したロボットだろう」
「そう言われても、事実なのだから仕方が無い。ほら、この通り。これには人工知能どころか、ロボットの部品は一つも詰まってはいない。精々言うなら、人間に成ろうとして誰にも成れなかった、人形だったモノの成れの果て、だな」
「む……」
もげかけていた人形の足に頭部をもぎ取り、セルバンテスはその中身をアルベルトへと曝してみせる。ビスクドールの身体には綿、陶器部分の割れ目から覗いて見える頭の中身は空洞だ。それを己の目で確認し、アルベルトは黙りこくる。
自分の手で壊した人形を、元に戻せはしないセルバンテスはあっさりと、傍らに置いてある先程まで人形を入れていた鉄製の手提げ箱の中に放り込む。重い音を立て箱が閉まる音を聞いた後、まだ納得しきれていない様子のアルベルトが再び口を開く。
「それで、お前は先程人形遣いがいる、と言ったが……それは結局誰だったのだ」
アルベルトの問いに、セルバンテスはそれまで饒舌に語っていた口を閉ざし、深く何かを考え込み始める。
(孔明の思惑通り、と言うのが気に食わないが……現時点において、利害は大きく外れてはいない。ならば、敢えて乗せられてやるのも一興か)
「セルバンテス」
再度、アルベルトの促す声に、セルバンテスは声のトーンをそれまでよりも僅かに落とし、言う。
「アルベルト。君は『ロンドンの名探偵』、『霧のファントム』の名で呼ばれる人物の噂を聞いた事があるかね?」
「ああ。イギリスにおけるBF団活動を阻む、正体不明の人物だろう……あのレッドが、暗殺どころか居場所も正体も掴めなかった、と聞いている」
「その通り。そしてだね、アルベルト。十中八九、この人形の遣い手は霧のファントムだろうと私は読んでいる。今回の任務はファントムの尻尾を掴む為のもので、孔明はファントムを狩る作戦の下準備の為に我らを配したのでは無いか。ならば」
セルバンテスは一度そこで言葉を切り、目を薄く細める。
「そうだとするのならば……私たちは遠く無い将来、再びロンドンの地へ来る事になるのだろうな」
「儂らに、そのファントムとやらを始末する任が下されるとは限るまい」
「いや、間違いなくこれは私たちの仕事だ。相手は知略に長けた人物、だが孔明はその能力上現場に出張る事は出来無い。ならば、全ての下準備が整った時必要とされるは『眩惑のセルバンテス』、心理攻撃に長けたこの私だ。そしてその私と組めるのは『衝撃のアルベルト』、君しかいないのだからね……これは必然、だろう?」
セルバンテスはそして、アルベルトの方へと顔を向ける。
その表情は、口の端をつり上げてはいても目を笑わせてはいない。アルベルトは短く「そうか」、と答える。
「それがビック・ファイアが為ならば、どうという話では無い。我らはただ、任務をこなすそれだけだ」
「ああ。その通りだ」
そこで、セルバンテスは派手な音を立て両手を一度、叩く。それと共に表情は既にいつもの掴み所の無い飄々としたものに戻り、先程までのシリアスさは微塵も残さず消えている。
「さあ、仕事の話はこれでお終い。本拠地へ戻り、これを届け報告が済んだら我らは晴れて楽しい休暇に突入だ。明日から三日間、私と君とサニーちゃんの三人で、ニースでのんびりとした時間を過ごすその計画の打ち合わせをしないとね」
セルバンテスの言に、アルベルトが飲みかけのブランデーをうっかりと気管に入れかけ、咳き込む。
「大丈夫かい、アルベルト?」
「なッ……ちょっと待てセルバンテス!サニーが来るなど、儂は聞いていないぞ!!」
「ああ、そりゃあ言ってないからね。先にそれを言ったら君は断るだろう?だから、今まで言わないでおいたのさ……おっと、今更キャンセルなんて言わせないよ?アルベルトの首に縄を掛けてでも連れて行くと、私はサニーちゃんに約束しているんでね。父親と過ごす誕生日、最高のプレゼントだろう?」
「うっ………………今回、だけだぞ」
長い沈黙の後、アルベルトは不承不承の顔と声で諾と答える。表に見せている程、アルベルトはサニーと過ごす休暇を嫌がっているのでは無い。ただアルベルトは、仕事が多忙が原因で滅多に会わぬ故、子どもの扱い方が分からぬ故にサニーへの接し方に困っているだけだ。十傑集、衝撃のアルベルトも、サニーに関してはやや不器用な父親になってしまう。
そのアルベルトを見遣り、セルバンテスは満足そうに笑う。
「了解、盟友殿」
先の事よりも、今は目の前の休暇。
セルバンテスが僅かに傾けたグラスの中で氷がぶつかり合い、小さな音を立てた。
終
ヨーロッパで尤も人口密度が高いと言われる都市は、それでも郊外へ行くにつれ人と家の密集率を下げていく。中心地から南下する事車でおよそ、三十分。点在する家屋敷の一つに、十八世紀中頃に建てられたと思しき貴族の館があった。普段は静かに佇む破風のある館は現在、多くの客の訪れにより賑やかな活気を得ている。客の半数は若者で、館の次期当主の友人達である。
「しかしアーサー、名うての遊び人も遂に年貢の納め時だな。噂では全てのガール・フレンドとの仲を清算したそうだが、本当かね?一人二人は残しているのではあるまいな」
「真逆!今の僕は本当にエリー一筋なんだぜ?過去は過去、これからはこれからって事で彼女も納得してくれている。だから要らぬ邪推で僕らの仲を引き裂こうとしても無駄だぞ、アンソニー」
「それはそれは……しかし、気になるのは君のハートを射止めた麗しのレディがご尊顔さ。ミス・ウォーレンの名前だけは予々聞いているが、誰も君の婚約者を直接知っている人間がいないからね。一体どれ程の美人なのか、早く僕らにも拝ませてくれ」
「冗談じゃない。君らの様な女たらしに紹介したら最後、折角の僕の愛しい人を奪われてしまうではないか……まあ、残念ながら、どちらにしてもお披露目は暫しお預けさ。トラブルに巻き込まれれたとかでね、到着が遅れると連絡があった。もう暫くは辛抱してもらうよ」
友人に囲まれて次期当主は、如何にも幸せそうな顔で祝辞を受けている。その様子をやや離れた場所から観察する影が、一つ。
客の殆どがタキシードでイギリス人である中、白いクフィーヤに金色のイガールを嵌めたアラブ風の男は、明らかな異彩を放っていた。にも関わらず、この場にいる事が当然といった態度で溶け込んでいる。
(これから始まる宴に、彼は一体どの様な顔をしてくれるだろうね)
『眩惑のセルバンテス』が表の顔において多少の関わり合いのあるイギリス貴族の、その息子の公約披露パーティは冗長で、退屈であった。欠伸を噛み殺しながらセルバンテスは、今回の任務における最後の仕事を決行する時刻を待つ。セルバンテスは薄い笑みを口の端に浮かべながら、パーティーの客達と談笑を交わし合う。
(どう転んでも、結果、この屋敷は一時間も待たず跡形も無く消え去る)
相手との会話を楽しんでいる風に見せ掛けながら、セルバンテスは窓の外をちらりと見遣る。
窓の外遠く、広がる緑豊かな公園の向こう。遠くに見えるテムズ川の水面は灰色の空を映しとり、沈んだ暗い色をしていた。
その半日前、霧が街を覆う朝。
ロンドン市内。
テムズ川の辺り、チャリング・クロス駅に程近い小道を貴族らしき男が供も連れず歩いている。紅玉色の双眸の、どことなくオリエンタルな雰囲気を纏う黒髪の男は、迷いの無い足取りで目的地へと向かっていった。
やがて男は、立ち並ぶ建物の中に隠れる様にして建っている、こじんまりとした教会の前で足を止める。
男は、『衝撃のアルベルト』は教会を見上げながら、懐から葉巻を取り出し銜える。
比較的新しい作りの-とはいえ十九世紀中頃の様式だー教会は、存在を強く主張するでなく背の高い建物と建物の間に埋もれていた。観光地化されていない、地元民の為の教会である。
白塗りの木製ドアのノブに手を掛け、開ける。
蝶番の軋む音を静寂に包まれた建物の中に響かせ、アルベルトは戸を閉める事もせずに真っ直ぐと中へ入っていく。照明が点いていない為、そして外の天候の悪さと立地の悪さも手伝ってか内部は殆ど日が射さず薄暗い。ただ、入り口から見て正面にはめ込まれたステンドグラスから、微かな光が照らしているだけである。聖母の姿を描いた、色とりどりのガラスから射し込む光を受けながら、祭壇に祈りを捧げる尼僧の姿がある。
「ここは神への祈りを捧げる場所。タバコは、お控えくださいませ」
葉巻の煙を漂わせながら近付いてくるアルベルトに、尼僧はそう告げた。ゆっくりとした仕草で立ち上がり振り返るも、目元は頭巾に隠れ見えない。両手で持ったクルスを胸に掲げ、尼僧は赤やオレンジの光を浴び、静かに淡い薔薇色の唇を微笑ませる。
「お見受けしました所、信者の方では無いご様子ですが……当教会には、どういった御用向きでしょうか?」
「メアリ・カーターだな?」
女の言葉を無視し、アルベルトは白煙を吐き出す。
「人民解放運動組織『小さな黒い羊』ロンドン支部実動部隊チーフ、『劫火のメアリ』に相違ないな」
「……何の、事でしょうか」
一瞬。尼僧、否、女の口元が強張る。
「どなたか、どなたか別の方とお間違えではございませんか?」
「儂と共に来てもらおう。無論、お前に拒否権は無い。質問も同様受け付けぬ」
「意味が……訳が、分かりません。私は、ただの無力な神の僕の一人にすぎません」
「つまり」
声を擦れさせ戸惑う尼僧姿を意に解する事も無く、アルベルトは葉巻をくわえたまま右手を女の背後にあるステンドグラスの下、壁にかけられた十字架へ向け突き出す。
「逆らうならば、こうだ」
アルベルトの言葉が終わるよりも早く、その掌から生じた衝撃波が教会の壁とキリストの首から上が粉微塵に砕く。砕かれた色鮮やかなガラス片が光の反射を微かに受けながら宙を舞い、十字架はT字型、ギリシア十字の形となり床に鈍い音を立て落下する。
アルベルトは重ね、宣告する。
「抵抗するだけ時間の無駄と知るが良い。そして儂は気が長く出来てはいない」
「何という……何という、神を恐れぬ行い……」
後ろを振り返った女は、それでもまだ尼僧めいた口調で十字を切る仕草をする。その、右手が銀色のクルスを握っている。
「貴方には、必ずや天罰が下りましょう……今、この時この場所で!」
アルベルトが動くのと同時に、女は手の中のクルスの、クルスに似た何かのスイッチを押す。
爆音の後、建物は原形を留めず崩れ落ちた。
正午よりも少し前。明かりの無い暗い廃屋の二階にて、窓辺に立つセルバンテスは見知った気配を感じ、視線を窓の外の景色から気配の方へと動かす。
「待たせたな」
「何、大して待っちゃいない。それよりも、その格好はどうしたんだアルベルト?折角の男前が台無しでは無いか」
暗がりの中から姿を現したアルベルトは、腕の中の荷をセルバンテスの足下へと転がし僅かに口の端を持ち上げ「少しな」と言った。
セルバンテスの言葉が示す通り、アルベルトの姿はあまり上等とは言い難い物がある。スーツはあちらこちらと破け汚れており、革製の靴もまた同じく擦り傷だらけ。常にきっちりとセットされている髪型も、数本が解れ額に掛かっている。
「真逆、衝撃のアルベルトともあろう者がテロリスト如きに後れをとった、などと言うのでは無かろうな」
「当たり前だ。この女、儂から逃げようと根城の教会を前もって仕込んであった火薬で爆破させたが、それだけだ。問題はその後、国際警察機構がしゃしゃり出て来た事よ……殆どが雑魚で儂の敵ではなかったが、中に多少骨のあるのがいてな。撒いて来た」
「成る程。矢張り連中も静観に徹しはしない、か」
「要らぬ荷さえ無ければ、撤退などせずに済んだのだがな」
「それは残念」
くくく、と低く笑いながらセルバンテスは足下に転がされた女の頭を鷲掴み、顔を無理矢理持ち上げる。意識を失っている女は、それに抗う事も出来ずされるがままになっている。煤に汚れた人形めいていた美しい顔に、軽くウェーブの掛かった乱れた長い黒髪が頭巾の中から零れはらりと落ちる。
「さて、爆破魔で放火魔の素敵なレディにおいで頂いた訳だが……本当に、孔明が言う通りこれが高名なる占い姫に繋がっているのかねえ」
「ふん。ならねば儂らの仕事にならん……そろそろ行くぞ。儂は、連中の目を引き付けておかねばならん」
「頼んだぞ、アルベルト……こちらの片が付き次第、迎えに行こう」
「抜かせ、セルバンテス。お前抜きでも連中を片を付けるは雑作も無い」
ニタリ、と笑うアルベルトに応え、「そうだろうさ」と目を細め笑い声を上げる。
セルバンテスが女から手を放し芝居じみた所作にて立ち上がれば、クフィーヤの裾が優雅に翻る。
「では……全ては我らのビック・ファイアの為」
「我らのビック・ファイアの為」
アルベルトが再び闇の向こうへ去る姿を見届け、セルバンテスは、女を担ぎ……闇夜に、紛れた。
重くたれ込める雲に遮られ未だ日が射し込まぬ、暗い午後。ロンドンの街は、深い霧に包まれたまま灰色の世界に沈んでいた。休日を楽しむ人々が多く街に集まるその時間、ハイド・パークの近くナイツブリッジ区の一角から爆音と共に煙が上がる。有り触れた日曜の午後を掻き乱す破壊を引き起こす張本人達は、僅かずつではあるがその破壊活動を南へと移動させていた。
破壊者の一人は、アルベルト。そして、残るは。
「その首、貰い受けるぞ十傑集!!!」
「ふん!貴様如きにくれてやる程、この首、安くは無いわ!」
霧の中より現れた、時代錯誤な鎧兜に身を包み剣を手に携えた男がアルベルトへと斬り掛かる。精悍な顔つきの男の名は、『鎮三山の黄信』。 国際警察機構に所属を連ねる者である。その黄信が矢継ぎ早に繰り出す一撃必殺の威力を持つ剣技を、アルベルトは全て紙一重に避けながら反撃のチャンスを窺う。が、アルベルトが攻撃を仕掛けようとする度、黄信の攻撃の隙間から幾筋もの矢が飛来しそれを阻む。
「衝撃の!貴様の得意は撃たせはせん!」
弓を構え、鏃を番え、射する男の姿があるはアルベルトの背後。弓矢と言う長距離向きの武器を用いながらも、両の後ろ髪の端をピンと立たせ男は、攻撃の手を休める事無くアルベルトに付かず離れず至近距離からアルベルトを狙う。黄信が相棒『小李広の花栄』の放つ矢が、アルベルトを狙い定め離さない。どちらか片方のみを相手にしていては、埒が明かない。
「小賢しいぞ、鎮三山に小李広!!」
避けきれぬのなら、両方を薙ぎ倒してしまえば良い。多少の攻撃をものともせず、アルベルトは両手に気合いを溜める。
「くらえッ!!!」
渾身の力を込めた衝撃波が、矢を吹き飛ばす。そして、衝撃波に怯む事無く剣を突き出す黄信の腕へアルベルトの蹴りが入る。
「なんの、これしき!!」
攻撃が効いていない事はあるまいが、黄信は剣を取り落とさずそのまま勢い良くアルベルトの脳天へと振り落とさんとした。瞬間、アルベルトは剣を避けようとした、のだが。
「花栄!」
「応よ!」
即座に、花栄の攻撃が黄信の頭部をギリギリ避け飛び来る。剣の切っ先が口に銜えた葉巻の先端を切り落とし、弧を描き飛来した矢が左上腕部に刺さる。と、同時にアルベルトの衝撃波が黄信を吹き飛ばし、後方の花栄にぶつかる。
「死ねい!!」
空かさずアルベルトは両手をもって更なる衝撃波を出さんとするが、左腕に受けた傷に一瞬気を取られた隙に指南が二人は左右に別れアルベルトを狙う。花栄が射かける矢の雨は、下段の構えからアルベルトへと斬り上げてくる黄信には一本たりとも当たらない。ただ、アルベルトのみを正確に狙い二人の攻撃は繰り出される。
気が付けば、アルベルトはテムズ川を背に立っていた。追いつめられた気は毛頭無い。しかし、その場に新たに現れた気配は、偶然とは思えぬタイミングで頭上から降って来た。
「済まぬ、遅れた」
「師匠!」
新手の男は、黄信花栄の前に降り立ち、先端に無数の刺がある鉄の塊を付けた棒を手に構える。元は白かったらしい、所々に綻びの見えるマントを翻し、男は仁王立ちにアルベルトを見据える。
対峙しただけで分かる。この男は、強い。アルベルトと互角に渡り合える程に。
火の消えた中途半端な長さの葉巻を口から勢い良く吐き飛ばす。そのアルベルトの口元に、知らず笑みが浮かぶ。
「十傑集、衝撃のアルベルト……覚悟せよ。そして今日という日が貴様が命日と知れ」
「その台詞、そっくりそのまま貴様に返すぞ。九大天王、霹靂火の秦明!」
次の瞬間、テムズの流れが真っ二つに割れた。
そして時間は、冒頭部へ繋がる。
セルバンテスはちらり、と時計を見遣れば針は六時十五分前を指している。
(そろそろ、か)
「少しばかり、失礼させて頂きますぞ」
会話の相手に断りを入れ、セルバンテスは場を辞す。部屋を立ち去り際、忘れずに婚約披露パーティの主役に一言耳打ちをする。
「……………………」
幸福だった筈の男の顔が色を無くし、硬直する。
見る間に様子を変えた次期当主に、群がる友人達が怪しみセルバンテスに不審の視線を送る。視線を背に受け、セルバンテスは部屋を出る。
歩く廊下の途中で、セルバンテスは『オイル・ダラー』から『眩惑のセルバンテス』へと自らを完全に切り替える。ゴーグルを掛け、不遜な顔を露にし自らに宛てがわれた客室の中へ足を踏み入れる。
ゴシック調に設えた部屋の中央の天蓋付きのベットの上には、黒いスパッツに白いシャツを纏った二十代後半頃の女が腰掛けていた。女は険のある目付きでセルバンテスを正面から睨みつけ、口を一文字に結んでいる。
「ミス・ウォーレン、お初にお目に掛かる……ご機嫌は如何かね?」
「最悪よ」
きっぱりと言い切り、女は肩に掛かったライトブラウンの長い髪を左手で払いながら立ち上がる。右手は、鎖によってベットの支柱の一つに繋がれており、鎖の長さが及ぶ範疇までしか女は移動する事は出来ない。その鎖の長さは、勿論、室内を自由に歩き回れる程もありはしない。
「こんな事をしなくても、私は逃げも隠れもしない」
「それは殊勝な心掛けだ。私は潔い女は嫌いじゃあない。しかし、だね。万が一という事もあったのでね、少々の我慢をして頂いた」
「一つだけ、聞かせて。貴方達、BF団はどこまでエレナの事を、私達の事を知っているのかしら?真逆、エレナの占いだけが貴方達の脅威になった訳では無いのでしょう?」
「さあて、ね。これから死に逝く者に、質問の答は不要だろう?私は、優しくは無いのでね。冥土の土産をくれてはやらぬのだよ……まあ、そんな事はどうでも良い。兎も角、占い姫に会わせてもらえないかね?それが私の仕事の一つなのだから。君がそれを拒否する事は無いとは思うがね、拒んだ時にどうなるかだけは一応言っておこう」
鎖が擦れる音が、室内に小さく響く。
「『ゴードン男爵別荘「三破風館」、テロの標的にあい倒壊。男爵と次期当主アーサーは共に死亡。犯人は、婚約者のエリザベス・ウォーレン』……という記事が明日、ロンドン中の新聞の一面を飾る、とね」
「陳腐な脅し文句だこと。とてもBF団、十傑集とは思えないわ」
「相手を脅すにはね、分かり易いまでに単純な方が効果的だ」
「そうでしょうね。でもね、私にその脅しは無意味よ。だって、あんな男の命なんてどうでもいいもの……彼との婚約は全てエレナの指示、私を囮に貴方達をおびき寄せる。エレナと私の接点、私とメアリの接点。僅かに匂わせたその情報に、BF団の策士は必ずエレナの正体を看破すると、そして必ず接触を計ってくるだろうと……策謀を張り巡らせるのは、貴方達だけの専売特許では無いのよ」
女は、挑戦的な眼差しでセルバンテスを見据える。チョコレート色の瞳に、暗い炎が灯る。
「そう。全てはBF団を葬る為。私、いえ、私達は世界の破壊者である貴方達を憎悪する者……復讐者の一人、よ」
「それはそれは。実に陳腐な、ありふれた理由だ」
「復讐の理由は、大方、分かり易いまでに単純なものだわ」
女の目の色が、喋っている間に変わって行く。明るい茶の色から黄色、黄金、そして最後に銀色に。髪の色もまた同様で、何時の間にか柔らかい光沢を放つ蜜色へと変じている。
「エレナに、会いなさい。貴方の望み通りにね」
顔立ちが、身体付きが。女のそれが見る間に別の者へと変化して行く。6フィート(180センチ前後)近くあった筈の女の身長は1フィートも縮み、魅惑的な身体特徴も今や凹凸をすっかりと無くしている。今や、セルバンテスの目の前にいるのは先程までの女とは別人の、十四五歳の少女であった。ビスク・ドールにも似た、愛らしい顔立ちに軽くウェブした髪、ローズ・ピンクのリボンと揃いの色のドレス。透き通りそうなまでに色の白い手に掛かっていた無骨な鉄製の手鎖は、大きさが合わなくなった故に音を立て床に滑り落ちる。
少女は転がした鈴に似た声を無感情に発する。
「お初にお目に掛かる」
「君が、占い姫……メアリ・カーター、エリザベス・ウォーレン、アン・クリスティの名を持つ者か。いやはや。幾つもの隠れ蓑の中に身を隠し、決して表に本体の姿を見せはしない。これでは、中々見付けられない筈だ。誰も所在を知らぬ希代の占い姫に、この様な変身能力があるとは、確かに誰も思いはすまい」
「イヴ・ハドソンが抜けている……が、確かに。我はその名で呼ばれし者。世に、占いの姫と知られし者。どこにも、存在しない者」
赤い靴が、一歩、また一歩とセルバンテスへと歩み近付く。
セルバンテスへ歩み寄る少女の、蜜色の髪がふわり、と舞い上がる。白銀色の瞳に強い意志の光を宿し、『占い姫』は凛とした態度でセルバンテスに対峙する。
ヨーロッパ、特にイギリスはロンドンにて高名の占い姫、エレナ。
素性、国籍、人となりの一切が含めて謎に包まれた、神秘の姫君。
BF団にとって、国際警察機構と手を組まれては一番厄介な人物。
『空ろの占い姫・エレナ』。
少女は、堂々たる態度で感情の浮かばぬ幼い顔をセルバンテスへと向けている。
「我が名はエレナ。BF団に全てを奪われた女達を身に抱えし者。復讐の代行者……眩惑のセルバンテス、まずは貴公が命、貰い受ける」
「おやおや。これではすっかりと立ち場が逆だ。しかし、君に何が出来るというのかね。私を葬る方法を、得意の占いで知ったとでも言うのかい」
くっ、と喉を鳴らし、セルバンテスは懐から拳銃を取り出す。1980年代後半に製造されたドイツ製の自動拳銃は、テロリストの女が所有していた物の一つだ。その銃口を、エレナの額に突き付ける。
「これも君の予測の範疇かい、占い姫」
突き付けられた拳銃に怯えもせず、エレナは無表情にセルバンテスを見上げている。
「現在」
エレナは淡々と、外見にそぐわぬ年寄りじみた物言いにて言葉を繋ぐ。
「貴公が盟友、衝撃のアルベルトは国際警察機構と交戦中なのは知っておろう」
「うん?それがどうしたのかね?」
「相手は国際警察機構が指南、鎮三山の黄信に小李広の花栄。十傑集ならば、後れをとる相手では無い。しかし、そこに九大天王が加わったならば、如何かな?」
「何?」
「昨日、メアリが衝撃のアルベルトに捕われる直前、我が名において梁山泊に情報を流した。韓信元帥へ直接に此度の貴公らの行動を予測も含め全て、な。丁度一人、九大天王がヨーロッパに来ていたらしい。今日の朝着でこちらへ遣わすと言うておった」
そこで、エレナは言葉を切りる。 セルバンテスもエレナも、微動だにする事も無く二人の間に沈黙が訪れる。
(成る程。今回のアルベルトと私の配置、孔明め九大天王が来ると分かっていた上での事か。まあいい。此度の作戦、どの様な裏を隠しているかは知らんが……ビック・ファイア様が為というならば、精々景気良く踊ってやろうじゃないか)
セルバンテスはそして、たっぷりの自信と共に言葉を紡ぐ。
「アルベルトは強い。指南だろうが九大天王だろうが、何人が束になってかかっても彼を止める事は出来んよ。そう、我らがビッグ・ファイア様でも無い限り……そして無論、この私とて女一人に容易く殺されはしない。さあ、占い姫。その細腕で、どうやって私を殺すかね?」
「選り取り見取り、幾らでも」
「冗談にしては気が利いている、とは言い兼ねるな。ほんの少しばかり未来が読める、姿を自在に変化させる程度の能力でこの私が倒せると言うのかね?確かに、私にはアルベルト程の攻撃力は無い。しかしだな、占い姫」
そこまで余裕と不敵の笑みを浮かべ続けていたセルバンテスが、顔から表情をふっと消し言葉を途中で止める。そして次の瞬間、セルバンテスの激昂がエレナへ向け放たれる。
「十傑集を、眩惑のセルバンテスを甘く見ないで頂こうか!!!」
「笑止」
動く、二人。
そして、火薬の炸裂する音が、館内に響き渡った。
同時刻、テムズ川はバターシ区側辺り。
「おのれ、霹靂火!!」
「衝撃、貴様をこの先へは行かせはせぬぞ!!」
アルベルトの攻撃を去なしながら、男、『霹靂火の秦明』が手に握った狼砕棒を繰り出す。棒の先端の刺がアルベルトの身体に一つ、二つ、傷を増やしていく。対するアルベルトの衝撃波は建物を破壊し地面を梳るも、秦明に致命傷どころか殆どといっていい程にダメージを与えるには至っていない。
(チィッ……)
九大天王。国際警察機構において十傑集と互角に闘える、唯一の存在。
それでも、僅かにアルベルトが押され気味なのはどうした事か。まるでアルベルトの手の内を知り尽くしているかの様に、攻撃を見透かされる。
それ故に、秦明の指示で占い姫の元へ向かう黄信花栄の二人をアルベルトは阻む事が出来無かった。斯くなる上は、目の前の敵を早々に打ち倒し二人の後を追わねばならない……のだが。拳と棒の応酬は、未だ終わる兆候を見せない。
秦明の腹部を、首を、そして頭をアルベルトの手刀及び拳が狙い、繰り出される。攻撃の幾つかは、当たっている。しかし、秦明が身体を僅かに反らしアルベルトの攻撃の勢いを殺す為、手応えは全く感じない。攻撃を先の先まで読めなければ、出来はしない芸当だ。
右の蹴りを難なく躱し、秦明はアルベルトの背後を取る。
「衝撃のアルベルト、何故は知らぬが貴様は我弟子の一人に闘い方が似ているな……お陰で非常に、遣り易い」
嘯く秦明の棒が、アルベルトの右肩を、左脇腹を、貫く。
「まあ、貴様と違い山の野猿も同然の男だが」
「この儂を、野猿と一緒にするかアッ!!!」
後方へ飛び退いて一端秦明から距離を取り、アルベルトが吼える。同時に、両手から渾身の力を込めた衝撃波を撃つ。秦明は向かい来る衝撃波に微動だにもせず、剣を構える。
「はァッ!!!」
大地に突き立てられた棒の先端から生じた雷光の一筋が、衝撃波を切り裂きながら走りアルベルトへと走り来る。
「させるか!!!」
アルベルトが右手を、雷に、衝撃波を集中させる。
アルベルトと秦明の間で衝撃と雷がぶつかり合い、火花が激しく散った。
「アハハハハッ!!!他愛無いわね、BF団!この程度でもう終わり!?」
爆風と粉塵の舞う室内、修道服を纏った黒髪の女が無反動砲の砲身を肩に担ぎ洪笑を響かせる。
「やれやれ。パンツァーファウストを担いで高笑いとは。随分、大したシスターだな……『劫火のメアリ』の名は伊達では無いと、そう言う事か」
「地獄へ堕ちなさい!!!」
セルバンテスに照準を合わせ、マッド・シスターは先程と同じに無反動砲の引き金を引く。響いた爆音は、発射砲から弾頭が飛び出した時が一つと、弾頭が部屋の壁に着弾し破裂した時の二つ。だが、その間隔の短さに間近にいた人間はその轟音の凄まじさ故、二つの区別を付ける事は出来なかっただろう。
「とんだじゃじゃ馬娘だな……アルベルト程じゃあ無いがね」
半壊した館の瓦礫の上に立ち、セルバンテスはクフィーヤの裾を大仰な仕草で翻す。女は、矢張り無傷で瓦礫の上に立っている。発射砲をぞんざいに投げ捨て、スカートの内側から取り出したサブ・マシンガンとハンドガンを両手に構える女に、セルバンテスは嘲笑を浴びせかける。
その時。
二つの影が現れ、セルバンテスを牽制する様に女の右に左に降り立った。
「お待たせ致した、占い姫殿」
「後は我らに任されよ……って、何だあ、こりゃ。ひっでえ有様だな」
二人の闖入者が、素っ頓狂な声を上げる。守るべき相手が率先して周囲を破壊し暴れているのだから、無理も無い。二人の男、黄信に花栄は辺りの状態を見回しながら困惑の表情を浮かべている。
「これは、あの男の所行ですかな。それとも、貴女の仕業か」
「それが何か」
黄信の詰問に、女は素っ気ない態度を取る。女の顔は不機嫌さに歪み、目には憎しみの色が滲んでいる。が、二人の一歩後ろにいる女の表情を黄信も花栄も見てはいなかった。だから、両手の獲物を女が自分に向けられている事に露程も気が付かず、花栄は呆れ混じりの声色で肩を竦める。
「聞いてた話と随分違う姫さんだな、アンタ。派手にぶっ放してよォ……これじゃまるでテロリストだァな」
「大当たりだよ、国際警察機構諸君。彼女は彼の悪名高き『劫火のメアリ』その人さ」
「嘘を申せ!貴様が世迷い言、耳を貸す我らと思うたか!!」
「全く……しかし、この状況的には灰色もいい所だ……なぁ、姫さん。どうなんだ?」
セルバンテスの言葉に、黄信が眉間に皺を寄せ花栄が目を剥き振り返る。しかしながら、時既に遅し。女がサブ・マシンガンのトリガーを引いた。国際警察機構も、真逆味方に攻撃されるとは思わなかったのだろう。背後からの攻撃に、なす術も無く崩れ落ちる。
「くっ……真逆」
「マジ……かよ」
「エレナは、貴方達が言う所の占い姫が言う事には、国際警察機構がいれば万が一にもしくじらず十傑集を倒せるだろう、って言ってたけど。悪いわね、私はBF団の次に国際警察機構は大嫌いなの。だから、暫くそこで大人しくしていてくれる?あのオジサンを始末したら、じっくり念入りに爆殺したげるから」
黄信の頭を兜越しに踏み付け、女は更に追加の鉛を数発両手両腕両足に満遍なくくれてやる。
「黄信!テメエ、よくも……クッ」
等しく、花栄にも同様に弾丸を打ち込み動きを奪い、女はサディスティックな笑みを満面に浮かべる。そして黄信を足蹴にしたままセルバンテスの方を向き直る。
「お待たせ。殺し合いを再開しましょうか?」
「ハーッハッハッハ!!こいつは愉快だ。連中も折角、アルベルトを振り切ってここまで来たというのに、守る相手に倒されていては世話が無いな、全く!……さて、レディ。女の相手は気が進まぬが、何、これもビック・ファイアの為だ。君の中身、次いでに足下も連中も全員、きっちりまとめて死んでもらおう」
空々しい口上を述べた後、セルバンテスは拳銃を構え女へ向け銃弾を撃ち込む。同時に、女の手の中の銃火器も一斉に火を噴かせる。雨に霰と降り注ぐ弾丸を、避ける必要も無しとばかりにセルバンテスは女へ向けて突っ込んで行く。
「ベス!!!」
黒髪の女が声を上げると、セルバンテスがその懐へ飛び込む寸前に姿はエリザベス・ウォーレンと呼ばれる女へと変じる。先程、セルバンテスがエレナに銃口を突き付けていた時と同じだ。あの時もエレナからメアリ・カーターへと瞬時に姿を変え、セルバンテスに反撃したのだ。
女は、キツい眼差しでセルバンテスを睨む。
「その手に、掴まりはしないわ」
ライトブラウンの長い髪が宙で跳ねた、と思うよりも速く、女の左手はセルバンテスの右手首を掴み捻り上げる。そしてそのまま一本背負いで勢い良く投げ飛ばす。セルバンテスは空中で身体を捻り、地面に着地しようとするが寸前にて女が背後に回り込み、背中に掌底を打ち込んだ。
セルバンテスは倒れ込みそうになる身体を押さえ踏ん張るも、左膝が、砕けたコンクリートの上に付く。
「エレナの言う通り、多少のイレギュラーはあったけれど貴方なら何とか私たちでも倒せそうね」
「……先程も言ったが、私を甘く見るな。十傑集を、少々齧った程度の武術、多少の火薬で簡単に降せると思うな」
「そうね。私も別に貴方を侮っている訳では無いわ。ただ、ね。幾ら貴方でも、一対六で闘って生き延びるのは難しいでしょう?」
クス、と背後の女の声が笑う、表情は分からない。セルバンテスは左膝を付いた姿勢のまま、緩慢と顔を上げ視線を前へと向け、威風堂々宣言する。
「君らの占い姫の真似では無いが、私はここに予告しよう。この手の拳銃、カートリッジに残された弾丸の残りは後、四発。その弾が尽きるまでの間に、君は死ぬ、とね」
「……挑発のつもりかしら」
「いいや。事実だ!!」
拳銃を右手に握ったまま、セルバンテスの肘が後方へ飛ぶ。セルバンテスの攻撃を軽く避け、女は左足を振り上げる。ハイヒールの尖った踵部分が、セルバンテスの右肩に食い込む。女の攻撃に怯まず、セルバンテスは左手で女の左足首を掴む。
「ッァアッ!!!」
肉の、焼け焦げる臭いが辺りに立ちこめる。女の左足が僅かに宙に浮き、空かさず、セルバンテスの右手が女の心臓を狙いトリガーを引く。が、左足の激痛を堪え、女は刹那のタイミングで身を捩り弾丸を避け残る右足でセルバンテスの左腕を蹴り上げた。
「クッ……!」
「残り、三発」
両足を取られバランスを崩した女が、仰向けに倒れ込む。セルバンテスは無防備な女の右胸に、銃口を押し当てる。
「テメエが死ね!!」
ライトブラウンの長髪がボブ・カットの赤毛に変わり、新たな女が現れる。そして、赤毛女の投げたスローイング・ナイフが同じ軌道で二本ずつ、セルバンテスの眉間、喉、心臓を狙い飛来する。
「おっと、君はナイフ使いか。しかし、だね。レディがそんなはしたない口を利くものではない……品の無い女は、嫌いだな」
手の中の拳銃でナイフを弾き落とし、セルバンテスは悠然とした所作で立ち上がる。
地を転がりセルバンテスから距離を取る女の姿はキュロットにティーシャツとボーイッシュなもので、剥き出しの左足は何の跡も無く綺麗だ。先程セルバンテスがエリザベスと名乗る女に与えた火傷の跡は、微塵も残っていない。
新たな女は、不敵なまでに勝ち気な笑みを浮かべ、腰の後ろに装備していたナイフを抜き構える。途中で歪曲した形の刃渡7インチ程の、ククリと呼ばれるナイフだ。
「誰もテメエに好かれたいなんざ、思っちゃいないサ」
一発、二発。
セルバンテスの撃つ弾丸をナイフで弾き、赤毛の女はそのままセルバンテスに斬り掛かる。が、その動きに鋭さは無く、セルバンテスは余裕でその攻撃を躱しナイフを握る左手に手刀を入れる。ナイフは、重い音を立て瓦礫の上を転がり落ちる。
「止したまえ。君の腕では、私に擦り傷一つ付けられはしない……先程までの二人の方がまだ、多少の手応えがあった」
「それは光栄ね」
セルバンテスが女の手を掴むよりも速く、赤毛が、再びライトブラウンに変化する。そして一瞬の間に、女の両手がセルバンテスの首を掴み締め上げる。
「さよなら、眩惑のセルバンテス」
「それは、どう、かな」
女に首を絞められたまま、抵抗する素振りも見せずにセルバンテスはニタリと嗤う。
「チェック、メイトだ」
「この期に及んで何を言……う?」
セルバンテスの首を絞める女の手の力が緩み、その顔には驚愕の色が浮かぶ。女の脇腹は赤く染まり、背中側から突き抜けたナイフの刃先が僅かに覗いて見える。赤毛の女が使っていた、あのナイフだ。
女の背後には何時の間にか、蒼白い顔をしたタキシード姿の若い男が、へばりつく様にして立っていた。男の手の中には、今女の背に突き刺さっているナイフの柄が握られている。
「エリザベス……僕を裏切ったな、エリザベス」
「アー……サー……ッグ……な、ぜ」
「私とした事がすっかりと忘れていたよ。君の仮初めの婚約者を小道具の一つとして配しておいた、と君に告げておくのをね」
「眩惑、を」
「そう。それが私の名。忘れず、頭に刻み込んでおくが良い……どんな気分だい?偽りの婚約者に、刺し殺されるのは」
「嘘、吐き、ね」
セルバンテスの問い掛けには答えず、女は最後の力を振り絞って後ろの男を殴り倒し、血反吐を吐きながら非難の声を上げる。
「拳銃、の、弾で、私を……殺すの、ッ、では、無か、ったの……か、しら?」
「おやおや。君には文脈を読解する能力が無いのかね、エリザベス君。私は『この手の拳銃、カートリッジに残された弾丸の残りは後、四発。その弾が尽きるまでの間に、君は死ぬ』と言ったのだぞ?誰も、拳銃をもって君を殺すとは言っていない。そして、この中に弾丸はまだ残っていて、君は今まさに死なんとしている……何処にも間違いは無く、私の予告通りだろう?」
瓦礫の上に落ちている、先程弾き返したスローイング・ナイフの内の一本を拾い上げながら、セルバンテスは女の足に目を遣る。女の左足には、セルバンテスが掴んだ時の焼け爛れた跡があった。
(思った通り。中にいる他の女と変わったからと言って、怪我が治る訳では無い。一つの身体の中にありながら、全てを共有している訳でも無い。孔明が言っていた「肉体は容れ物に過ぎない」の言葉の意味が、漸く分かったよ)
口元が薄く、嗤う。
「さあ、他の女諸共に、死んで頂こうか」
「ッ……!!!卑怯、者……!!!」
大量の血を流しながら、それでも気力だけで立っている女の喉に、セルバンテスはナイフを突き立てる。女の姿が、見る間に別の女のものに変わって行く。黒髪で修道服の、テロリストの女に。
「私を倒そうと思うならば、耳は塞ぐべきだったな……私は眩惑のセルバンテス。言葉が、武器の一つなのだよ」
「お、のれェッ!!!」
そして、セルバンテスは女の背に刺さったままであったダガー・ナイフを力任せに抜き取り、女の首を再び掻き斬る。
姿が変わる度、三度。
女の流す血が、無機質なコンクリートを赤く、染めた。
「どうした、衝撃。手の内出し尽くしたか」
アルベルトと秦明の闘いは、小一時間程前から膠着状態に陥っていた。アルベルトの繰り出す衝撃波は秦明が雷撃に阻まれ、秦明が放つ雷撃もまた同様に衝撃波が打ち消す。その繰り返しが続き終わりを見せない為である。
「貴様に心配をされる程墜ちてはいないぞ、霹靂火」
口内に溜まった血を地面へ吐き飛ばし、アルベルトは胸ポケットのハンカチーフで口元を軽く拭く。
(キリが、無い……だが勝機は、ある)
考えながら、アルベルトは何度目になるか分からない攻撃を秦明に仕掛ける。幾度も幾度も仕掛けたアルベルトの攻撃は、徐々にではあるが秦明を押し始めている。その手応えを、アルベルトは感じていた。
秦明の攻撃はアルベルトと同じ、受け身に回らぬ積極的なもの。アルベルトの攻撃を、直線に直線を重ねた雷そのもののジグザグな動きで避け、棒をアルベルトへと打ってくる。秦明の狼砕棒による攻撃パターンは、突き、薙ぎ、そして打撃の三つ。棒という武器の性質上、初撃さえ崩せば脇に幾ばくかの隙が生まれる。そこが狙い目である事は、初めから解っていた。ただ、相手もそれを解っている故に中々狙えずにいただけの事。
(崩しに、行く)
「そろそろ、終わりにしよう」
「望む所よ」
勢いを付け、棒を片手で回転させながら秦明はジグザグの動きでアルベルトへ打ち込んでくる。その秦明の攻撃をギリギリの間合いで避け、アルベルトは棒の先端鉄の刺が付いた部分を躊躇いも無く握り掴む。棒を掴んだ血塗れの右手がその先端を砕き、左手が秦明の胴へと衝撃波をぶち込む。
「何のこれしき、怯むに足りず!!!」
短く、軽くなった棒を構え直し、秦明が傾きかけた形勢を押し戻さんと突きを乱打してくる。だが、若干の長さと重量、破壊力を欠いた狼砕棒は、本来の力を発揮しきれない。棒は、容易くアルベルトに蹴り上げられ、高く鈍色の空へと舞い上げられる。
「むうっ!?」
その舞上げられた棒を、霧の中から現れた白い影が宙で掴み、地に降りる。
新手を警戒し、秦明は飛び退きアルベルトから間合いを取る。
「貴様、眩惑か!!」
「ふふふ……迎えに来たぞ、アルベルト。遊び足りないだろうが、残念ながらそろそろ時間だ」
アルベルトの横に並び立ち、セルバンテスは薄く笑みを浮かべ手の中の棒をへし折り、捨てる。セルバンテスの姿を認めたアルベルトは、懐のケースから葉巻を取り出し、銜える。
「分かっておる……霹靂火、勝負は次までお預けだ」
火を点けた葉巻から紫煙が立ち上り、アルベルトの口から白煙が吐き出される。
「次が、あったならな」
「このまま逃がすと思うか、衝撃眩惑!!!」
「逃げる?違うな。目的を達し、この地にいる理由が無くなった為に帰還するのだよ。君は自分の部下の心配でもしているがいい。今頃、瓦礫の下で死にかけている筈だ」
セルバンテスの、クフィーヤの長い裾が翻ると同時に二人の姿が霧の中に溶け、その場から消えた。後には、強く奥歯を噛み締め険しい表情をした秦明だけが、残された。
ロンドンからの帰り、空の上にて。
セルバンテス所有のセスナ機は、ロンドンを出立し某所にあるBF団本拠地へと向かっていた。その機内、葉巻を吹かし一息吐くアルベルトの前に、セルバンテスは今回の仕事の成果を傍らから取り出し見せる。アルベルトはその品を見るなり瞳を数度瞬かせ、眉間に皺を寄せる。
「……この人形が、か?聞いていた話と違うな。今回の任務、占い姫の捕獲とその関係者の抹殺及び関連施設の破壊、では無かったのか」
「ああ。その通りだよ、アルベルト。正しく、もってその通り」
蜜色の長い髪に白銀の瞳、レースをたっぷりとに使用したローズ・ピンクのドレスを纏ったビスクドール。人形はあちらこちらと泥に埃にまみれ、顔には幾筋かのヒビが入っておりアンティーク・ドールとしての価値を下げている。しかしながらその姿は、先程までセルバンテスが相手にしていた占い姫のものそのままであった。
セルバンテスはクツクツと声を立て笑いながら、機内添乗員に飲み物を頼み不可解な物を見る目で人形を眺めるアルベルトに説明をする。
「これが、占い姫の正体。成れの果て、とも言えるがね……この中に四人の女が入っていたのさ。国際テロリスト、メアリ・カーター。上流貴族、エリザベス・ウォーレン。傭兵、アン・クリスティ。イギリス諜報部員、イヴ・ハドソン。いずれも、ここ数年の間にロンドンでBF団に始末された筈の女ばかりさ」
「回りくどい。説明をする気があるなら、簡潔かつ分かり易くしろ」
アルベルトの一睨みを軽く受け流し、セルバンテスは軽く肩をそびやかす。
「はいはい、分かった分かった……つまり、BF団に殺された恨み辛みの高じた女の幽霊が、この人形に取り憑いて復讐の機会を窺っていたって事さ。人形自体も、占い姫を名乗り自分の意志で動いて喋っていたが、あれは占いなんてものじゃない。あれはそう、どちらかと言えば情報の組み立てによる推理だな。私との会話の中でも、『らしい』、『だろう』と不確定な表現で先の予測を語っていた。彼女の先読みは全てが断言であり確定である、と謳われている占い姫がだぞ?怪訝いじゃないか」
「ふむ。それで、何だと言うのだ」
「だからね、人形はただ人形でしかなく人形以外に成り得ない、そう私は結論付けた。自分でまともにものを考える事の出来ない人形如き、妄執に囚われた亡霊に我らを振り回す事が出来る筈もない。黒幕はこれとは別にいる。そう、人形を操る、人形遣いがね……おっと、話が逸れたな、元に戻そう。黒幕たる人形は元々人の姿に似せて作られた物故古来から魂が宿り易い、と言われている。だからまあ、人形に取り憑いた幽霊が人の振りをするなんて事も、あるんだろうさ。おまけにこの人形本体も希少価値が付加しているアンティーク。それが自分の意志で動き喋る、ときた。今は、孔明から渡された樊瑞特製の札を貼っているからただの人形に見えるが、捕まえるまでの暴れぶりは中々見物だったぞ……そうそう、確か日本ではこういう物を、ツカ、いや、ツキ……違うな。そう、ツケモノカミ、と言うらしいな。随分前にレッドから聞いた事がある、気がする」
「ツケモノ?それは、野菜の発酵食品では無いか?」
「うん?……まあ、そんな事はどうでも良いじゃないか」
首を傾げるアルベルトの突っ込みを、セルバンテスは不確かな記憶を誤魔化す様に躱した。そして、添乗員の運んで来たブランデーのグラスを口に運び、僅か舌を潤した。
「しかし……幽霊、人形、人形遣い。非科学的な事この上無いもののオンパレードだな。幽霊などという存在、俄に信じる事は出来ん。第一、お前は人形が動いて喋ると言うが、それは人工知能を搭載したロボットだろう」
「そう言われても、事実なのだから仕方が無い。ほら、この通り。これには人工知能どころか、ロボットの部品は一つも詰まってはいない。精々言うなら、人間に成ろうとして誰にも成れなかった、人形だったモノの成れの果て、だな」
「む……」
もげかけていた人形の足に頭部をもぎ取り、セルバンテスはその中身をアルベルトへと曝してみせる。ビスクドールの身体には綿、陶器部分の割れ目から覗いて見える頭の中身は空洞だ。それを己の目で確認し、アルベルトは黙りこくる。
自分の手で壊した人形を、元に戻せはしないセルバンテスはあっさりと、傍らに置いてある先程まで人形を入れていた鉄製の手提げ箱の中に放り込む。重い音を立て箱が閉まる音を聞いた後、まだ納得しきれていない様子のアルベルトが再び口を開く。
「それで、お前は先程人形遣いがいる、と言ったが……それは結局誰だったのだ」
アルベルトの問いに、セルバンテスはそれまで饒舌に語っていた口を閉ざし、深く何かを考え込み始める。
(孔明の思惑通り、と言うのが気に食わないが……現時点において、利害は大きく外れてはいない。ならば、敢えて乗せられてやるのも一興か)
「セルバンテス」
再度、アルベルトの促す声に、セルバンテスは声のトーンをそれまでよりも僅かに落とし、言う。
「アルベルト。君は『ロンドンの名探偵』、『霧のファントム』の名で呼ばれる人物の噂を聞いた事があるかね?」
「ああ。イギリスにおけるBF団活動を阻む、正体不明の人物だろう……あのレッドが、暗殺どころか居場所も正体も掴めなかった、と聞いている」
「その通り。そしてだね、アルベルト。十中八九、この人形の遣い手は霧のファントムだろうと私は読んでいる。今回の任務はファントムの尻尾を掴む為のもので、孔明はファントムを狩る作戦の下準備の為に我らを配したのでは無いか。ならば」
セルバンテスは一度そこで言葉を切り、目を薄く細める。
「そうだとするのならば……私たちは遠く無い将来、再びロンドンの地へ来る事になるのだろうな」
「儂らに、そのファントムとやらを始末する任が下されるとは限るまい」
「いや、間違いなくこれは私たちの仕事だ。相手は知略に長けた人物、だが孔明はその能力上現場に出張る事は出来無い。ならば、全ての下準備が整った時必要とされるは『眩惑のセルバンテス』、心理攻撃に長けたこの私だ。そしてその私と組めるのは『衝撃のアルベルト』、君しかいないのだからね……これは必然、だろう?」
セルバンテスはそして、アルベルトの方へと顔を向ける。
その表情は、口の端をつり上げてはいても目を笑わせてはいない。アルベルトは短く「そうか」、と答える。
「それがビック・ファイアが為ならば、どうという話では無い。我らはただ、任務をこなすそれだけだ」
「ああ。その通りだ」
そこで、セルバンテスは派手な音を立て両手を一度、叩く。それと共に表情は既にいつもの掴み所の無い飄々としたものに戻り、先程までのシリアスさは微塵も残さず消えている。
「さあ、仕事の話はこれでお終い。本拠地へ戻り、これを届け報告が済んだら我らは晴れて楽しい休暇に突入だ。明日から三日間、私と君とサニーちゃんの三人で、ニースでのんびりとした時間を過ごすその計画の打ち合わせをしないとね」
セルバンテスの言に、アルベルトが飲みかけのブランデーをうっかりと気管に入れかけ、咳き込む。
「大丈夫かい、アルベルト?」
「なッ……ちょっと待てセルバンテス!サニーが来るなど、儂は聞いていないぞ!!」
「ああ、そりゃあ言ってないからね。先にそれを言ったら君は断るだろう?だから、今まで言わないでおいたのさ……おっと、今更キャンセルなんて言わせないよ?アルベルトの首に縄を掛けてでも連れて行くと、私はサニーちゃんに約束しているんでね。父親と過ごす誕生日、最高のプレゼントだろう?」
「うっ………………今回、だけだぞ」
長い沈黙の後、アルベルトは不承不承の顔と声で諾と答える。表に見せている程、アルベルトはサニーと過ごす休暇を嫌がっているのでは無い。ただアルベルトは、仕事が多忙が原因で滅多に会わぬ故、子どもの扱い方が分からぬ故にサニーへの接し方に困っているだけだ。十傑集、衝撃のアルベルトも、サニーに関してはやや不器用な父親になってしまう。
そのアルベルトを見遣り、セルバンテスは満足そうに笑う。
「了解、盟友殿」
先の事よりも、今は目の前の休暇。
セルバンテスが僅かに傾けたグラスの中で氷がぶつかり合い、小さな音を立てた。
終